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プロローグ

 目を細めても、凪いだ海面に照り返す夕日が網膜に刺さるのではないかと思うほど眩しかった。佐世保を出港して既に八時間になる。ここは沖縄海洋開発株式会社が有する、潜水艇司令母船デイゴの船上である。今回から、この民間企業の船が任務に就く。日本政府として民間企業を利用し、国家の関与の気配を消しておく意図が見え隠れする。
 
 一週間ばかり前まで、この船は長崎の佐世保のドックにいた。言うまでもない。海上自衛隊の護衛艦や潜水艦が多数係留される港である。事実、デイゴがメンテナンスを受けていた乾ドックの隣では、装備改変のための護衛艦が偽装工事を受けていたのである。
 一年前、この船は日本国から民間企業に払い下げられて、デイゴと船名を変え、搭載される深海潜航艇もまた、でっぷりと太った外形にも似合わず、カマンタ号というエイを意味する軽快な名前になった。その姿と名の矛盾を搭乗員に問えば、潜水艇の外形ではなく、海中を自由に泳ぐ心根を評価しろと要求したに違いない。
 およそ十ヶ月の慣熟訓練を兼ねた航海の後、再び佐世保に入港したのは、新たな任務前の定期メンテナンスのためである。二ヶ月をかけたメンテナンスの後、この船と搭乗員は本来予定されていた任務に就いたのである。

「命知らずな連中だわ」
 水平線の手前に一隻の漁船を見つけた陽子が、甲板で潮風に吹かれてそう言った。排水量は二十トンに満たない小型の船だが、陽子が言ったのは船の大きさではなく形である。遠洋を航海するための船ではなかった。
 内陸から流出する汚染物質で、渤海は既に死の海となっている。生育する海洋生物はほとんど無く、海底には汚染物質にまみれた泥と昔いた生き物の死骸が沈殿する。汚染の範囲は拡大し、今は黄海に及んでいる。
 最近、九州沖で数多く見かけるようになったあの種の漁船に乗る漁師は、もとはそういう波の静かな海域で漁業を営んでいた人々である。海洋汚染と共に海を捨てて廃業する人々の中で、それもかなわず身を危険にさらして自分や家族が生きる為の獲物を求めて生きている。
 
 内陸から海洋へと広がって、死の海を生み出す汚染が、世界各地で報告されていた。ヨーロッパでは黒海や、そこから通じる地中海沿岸部、世界で最も美しい海の一つ、カリブ海では汚染が広がるばかりではなく、汚染物質が強力なメキシコ湾流によってアメリカ東海岸を侵す被害を生じさせている。
 一言で汚染物質といってもその化学物質は多様で、人類が陸を汚染させた理由を挙げればきりがない。あえてあげれば、人口の爆発的増大があり、地球全体から見れば、人間の生活基盤を築くために様々なインフラを整備した各国の都市部で局所的にそれが起きた。人口を支えるための工場排水や生活排水は処理の限界を超えて排出され、大地や川を汚したばかりではなく、やがて海まで汚染させ続けたと言うことである。
 結局、人類は自らの首を絞めるように大地という生活の場を脅かし、夕日の海に哀しげに浮かぶあの人々を生んでいたのである。

 やがて日没を迎えた。先ほどまで閑散としていた左舷甲板に、当直を解放されている人々が集い、東の空を眺めていた。
 人々のため息ともつかぬ静かな喚声と共に、静かな夜の海に東の水平線が浮かび上がった。水平線の遙か向こう、種子島宇宙センターから打ち上げられたH3bロケット7号機が吐き出す炎が、海を照らし出したのである。デイゴ甲板から見える輝く炎は音もなく、人々の期待と共に上昇し、宇宙へと消えた。
 陽子はふと夕刻眺めた漁船を思い出した。ロケットが上昇する勇壮さと、そこに込められた科学技術の偉大さに比べれば、あの漁船に乗る人々の命のなんとはかないことか。

 H3bロケット7号機は、今までにない役割を持っていた。日本が打ち上げた初の火星探査の宇宙船である。日本の無人火星着陸船が火星の大地に降り立つと期待を集めていた。その目的もまた、惑星探査という消極的なものではない。やがて火星に都市を建設する際の地質や自然環境の調査、都市を築く為の素材の確認や選定などの積極的な目的を持っていたのである。火星探査という点では欧米やロシアに遅れを取っている日本の研究者たちも、火星に都市を築き、生命を維持するという研究成果では自信を覗かせていた。
 そして、日本に僅かな遅れを取った中国も、数日後には同じ目的の宇宙船を打ち上げるだろう。
 いつしか、人類のリーダーたちは夜空の彼方に赤い星を指さし、人類は自ら汚染させた地球から、遙か離れた惑星を希望の目で眺めるようになっていたのである。ただ、その夢が始まるのも数十年もさき、移住が本格化されるのは、はるか未来のことである
 明日、この船は那覇港に入港し、運搬する物資の搭載と共に、三名の客を迎える。彼らが向かうのは宇宙とは正反対。海面下千六百メートルの深海である。


1日目:4月9日

   1
 中天に上った太陽が水平線の彼方まで島影のない海面を照らしていた。昨夜、物資を乗せ終わり、新たな乗客を迎えたデイゴは、琉球海溝の上を越えてその東にいた。
「この辺りの海は、何度観ても感動するほど綺麗ね」
 新たな乗客の一人、ジョアンナが風に靡く髪を押さえ、ため息をつきながらそう言った。彼女は既にこの海域を何度か経験しており、住人といっても良いだろう。ただし、傍らの陽子が長身の彼女を見上げるように眺めた表情は、自信に満ちている。母国のフィリピンの海にはかなわないだろうとも考えているのだろう。ジョアンナの正確な日本語に、沖縄生まれの陽子が、何故か大阪訛りを交えて答えた。
「海は人のごたごたを持ち込まへんからね」
「その通りだわ。人の影響のない自然はなんて美しい」と、ジョアンナは頷いた。
 黒潮という強い海流で沿岸部と隔てられ、この辺りには人類が及ぼす汚染はまだ届いていない。人工物といえば高さ十五メートルばかりの大型ブイが一つ、その人類の形跡も広大な海上ではあまりに小さく、オレンジ色の姿を海の景色にとけ込ませていた。
「そうじゃない、人の感情のしこりの事よ」
「なるほど」
 平和に見える海だが、この海面下に位置するニライカナイ基地では、幾つかの国と人々の友好や協力の笑顔の裏で熾烈な争いが起きている。この海に人の気配がなければなんと美しいことか。しかし、陽子の意図は別にあるらしい。彼女は先の言葉を補った。
「夫婦関係の問題なんて、海の中では無関係さぁ」
 拳をぎゅっと握りしめて語る彼女の苦々しい表情から推し量るなら、何か夫婦関係に問題を抱えているらしい。海の仕事とプライベートは切り離すべく努力している様子だが、夫婦関係に触れられると機嫌が悪い。
 そんな彼女たちに一人の大男が近づいてきた。
「それにしてもポンコツだな。水漏れは大丈夫なのかい」
 新たな客の一人、張(チャン)が侮蔑を隠さずに評したのは、この船に搭載された貨物用潜航艇カマンタ号の事である。手入れは行き届いてはいる。なにしろ、先ほどまで陽子自身が仕事前の最後のメンテナンスをしていて、いまはその外観で異常の有無の最後の確認をしていたところである。ただ、旧式で扱いも難しいプロトタイプに属する。
 一千メートルを超える海底の探査基地建設に当たり、物資の運搬するという新たな任務に対応して建造され、運用実績の確認の後、沖縄海洋開発に母船ごと払い下げられていた深海潜航艇である。安全潜行深度二千メートルである。中国チームはそれを遙かに上回る潜行深度三千メートルの新型の深海潜航艇をニライカナイに持ち込んでいた。海底探査の技術習得の為に破格の予算を投下したと言うことか。ただ、その破格な予算も中国海軍から出ているのではないかという噂があった。

 物資を搭載することがあるという理由で、カマンタ号のコンテナのハッチは通常の潜水艇のそれより一回り大きい。
「おいおいっ、コレは鳥かごかい」
 体格の良いチャンもハッチの大きさを気にする様子もなく、そんな文句を言い残して球状の耐圧コンテナにするすると乗り込んだ。内径2.6メートルの球形の空間を厚さ20センチのチタン合金で包んだ鋼球である。内部には壁面に沿って、小さな窓とシートが4つ配置されていた。
 カマンタ号はこの球状の耐圧コンテナを、船体後部の下に二基搭載する。コンテナは運搬する物資によって変更し、今回はその一基は人員運搬用に生命維持装置を備えているのである。ジョアンナもハッチをくぐった。中にはチャンの他に先客のリー(李)の姿がある。ジョアンナは世間話程度の会話で、彼らが新たに操縦や通信の任務に就くことを知っていた。彼女は彼女の胸元をなめ回すリーの視線を振り払うように、コンテナのハッチを閉じてシートに着いた。外部の音を拾う圧電センサーがついているが、今は用はなかった。二千メートルの深海の水圧に耐える鋼球である。彼女たちは外部の騒音から遮断された。
 ぴんっぽんっ……
 歯切れの良い朗らかなチャイムと共に、居住コンテナの内部は、操縦室との通話回線が開かれ、操縦席にいる陽子と母船デイゴの潜航艇司令室との会話が聞こえ始めた。
「現在、着水作業の待機中です」
 陽子の報告に続いて、司令室の所員の声が届いた。
「着水作業開始します」
「着水作業、了解」
 陽子の言葉に続いて、コンテナ内部の人々は軽いショックと共に、ふわりと体が浮くような不安定な感覚に陥った。カマンタ号は巨大なクレーンでつり上げられて海面に降ろされるのである。
「着水完了」
 コンテナの四方にある窓ガラスから見える視界が水で覆われて水面下に没し、足下は波に揺られる感覚がした。コンテナに響いた振動の直後に感じた上下動の感覚は、カマンタ号がクレーンのフックから解放され、波間に浮かんでいるという状況である。
「潜行準備整いました」
「了解。潜航開始します」
 密閉された空間に、陽子の声が現在のニライカナイの共通語として使われる英語で響いた。
「こちらカマンタ号操縦室です。お客さんたち、聞こえる?」
「聞こえるわ」
「今から潜航を開始します」
「大丈夫か、このオンボロ船は? 女を抱く時より腰が揺れるぜ」
 チャンがそう聞いたのは、波に揺れて足下がおぼつかない不安を、この艇の外見の古さに例えてからかったのである。陽子は聞き流した。無視されたことが不満だったのか、彼は下品に腰を振って侮蔑的な言葉を加えた。
「旦那さんとの夜の生活が不満なら、おれが満足させてやってもいいぜ。オレも気の強い女を抱くのは嫌いじゃないんだ」
 チャンの言葉と同調するリーの笑い声に、陽子は答えなかったが、腹立たしさを隠さない沈黙だった。
「ジョアンナ。シートに座ってベルトを締めて。十秒以内に」
 突然に音声が日本語になって、乗客の中で唯一日本語を理解するジョアンナに、陽子の意図が伝わった。禁句に触れられた陽子の様子から、よからぬ前兆を察知したジョアンナはシートに深く座り直して安全ベルトを締め込んだ。
 カマンタ号は船首を下げた。通常の潜航角度ではない。水平線と六十度ぐらいの角度だが、乗客には垂直に落下しているような感覚になる。窓から入ってきていた光は急速に失われ、暗闇が広がった。伝わってくるモーターの振動で深海に向けて全力で加速していることが実感できた。深い闇に沈み込んで行く恐怖に、チャンとリーが発する悲鳴に近い驚きの声が響いた。闇の中でその恐怖の表情が見えないのが、ジョアンナには残念だった。
 操縦席の陽子はチャンとリーの声に復讐心を満足させたらしく、艇を水平に戻し、沈下速度を落とした。既に、日の光はほとんど届いては居ない。乗客がコンテナの中の照明と空調機のスイッチを入れていないのに気づいて、カマンタ号の操縦席から操作した。暖かい沖縄の海だが、この辺りの深度から水温がどんどん低下する。空調機がなければ、乗客は寒いに違いない。事実、ジョアンナが試しに触れたコンテナの内壁は思いもかけない冷たさをもっていた。チャンとリーが罵声を上げているのが聞こえているはずだが、陽子は無視して沈黙を保った。
 狭いコンテナの中で、女として聞くに堪えない罵声を喚く男たちがいる。ジョアンナはそれを冷たい目で観察して黙らせた。こう言う場合、五月蠅いと怒鳴りつけるより効果がある。
(男嫌いなのか、男性不信か)
 ジョアンナは陽子の性格を推し量った。南国生まれらしい大らかな性格のようだが、唯一、彼女の前では男女関係の話は禁句であるようだった。
 観光ガイドの口調の陽子の声が届いた。
「お客様。前方左手の方をご覧ください。ニライカナイの発電システムが見えます」
 窓から見える海中に紡錘形の物体がライトを点滅させて漂っている。その全体像は端にスクリューを思わせる羽があり、潜行艇を想像させるが、この上層部の海流を利用して発電を行い、ケーブルで千五百メートル下のニライカナイに伝える発電システムである。更に、この発電システムは上部にケーブルを伸ばして海上の通信ブイと結ばれて通信の中継をする役割も持っている。定期的に探信音を発する他、ライトを点滅させてその存在を誇示しているが、普段は黄色い光を放つライトが、今は赤い光を放っていた。メンテナンスモードに入っていると言うことである。この発電システムから海上の通信ブイに繋がる通信ケーブル伸ばしながら、発電システムの下の電力ケーブルをゆっくりと、数日をかけて基地で巻き取りながら点検し、基地に回収した発電システムそのものも点検する。潜航艇はその電力ケーブルに沿って降りれば間違いなく目的地のニライカナイに到着する。
 その後、陽子は初めての道のりを確認するように、通常通りの手順で、艇を水平にたもちながらゆっくりと深度を取っているようだった。窓の外は暗闇が続くのみで景色に変化はなかった。空調機が暖めた空気を吐き出す音が単調に響くことを除けば、互いの呼吸が聞こえるのではないかと思わせる静寂の世界だった。ただし、男どもの下卑たお喋りがなければという条件付きである。再び、操縦席にいる陽子の声が響いた。
「ただいま、深度千五百メートルを通過しました。海底にニライカナイの灯りが見えます」
 慣れたバスガイドのような口調だが、陽子がこの光景を見るのは初めてのはずだ。窓から漏れる光を繋いでみると、比較的小さな五つの建築物が五角形の角をなして、その辺を構成する通路で連結されている。その五角形の中央に、海底から太い柱に支えられて建設された巨大な建造物があるという全体構造だった。
「ちっぽけな光」
 ジョアンナはふとそう呟いた。周囲の暗闇の大きさに比べれば、周囲を広く照らしだすこともなく、その存在のみ弱々しく主張するだけの光に見えたのである。そして、そのちっぽけな光の数々が、利権や国の面子に振り回される人間たちの姿と重なった。
 ただ、操縦席の陽子は物思いにふける間もなく、入港準備に忙しい。
「カマンタ号より、ニライカナイへ。現在、三ノットで北東より降下接近中」
「こちら、ニライカナイ。メインエントリーポートに入港を許可します」
 ニライカナイは中央の建築物とその周囲を囲む建築物の一つに潜航艇が出入りする港を持っている。ニライカナイはその中央の建築物の港に入港せよと命じてきたのである。
「こちらカマンタ号、海底まで十メートル。これより水平移動でメインエントリーポートに接近します」
「ニライカナイより、カマンタ号へ。ポートの外壁開放完了。いつでも入港できます」
 基地の中は一気圧に保たれている。ポートには深海の圧力に抗する二重の扉があり、その外側の扉を開いたということである。陽子はサーチライトで照らされた井口へと潜航艇を導いた。
「カマンタ号。入港準備完了しました」
「了解。外壁閉鎖します」
 外壁が閉じられる単調な音に、人の音声がこだまのように混じって聞こえた。陽子は司令室と超音波で会話をしているのだが、その超音波がこの空間に反響しているということである。閉鎖された金魚鉢の中の金魚になった気がして、陽子はくすりと笑った。
 メインエントリーポートをニライカナイ基地の内部から眺めていると、内壁が開放された事を示す泡が巨大プールに浮かび上がったかと思うと、やがて水面が波立ち、カマンタ号が姿を現した。ウインチでプールの斜面からメインエントリーポートの床へと引き上げられて、カマンタ号が基地の人々に全貌を現した。
「ようこそ、カマンタ号。到着を歓迎する」
「ありがとう。しばらくお世話になるわ」
 陽子が左手首に確認したダイバーズウォッチは午後二時四十二分を指していた。長距離ランナーが駆ければ五分余りに換算できる距離だが、千六百メートルという垂直の距離は、潜航開始から一時間二十分余りの時間で、ニライカナイを人の住む世界から切り分けていたのである。

   2
「ついて来て、施設の中を案内するわ」
 この基地の先住民のジョアンナがいち早くコンテナから出て、操縦席から出てくる陽子を待ち受けてそう言った。これから一週間ばかりの間、古地磁気学者の彼女が属するトレント工科大学で、この潜航艇を操縦者ごと借り受けるのである。陽子が所属する沖縄海洋開発にしても、高価な深海潜航艇を母船内に飾っておくよりも、貸し出して有効活用する方がよいと言う当然の判断だった。
「まず、ここが基地中央のニライカナイ港。文字通り、船が停泊するところ。船の整備と港の管理機能はこの中央部にあるわ。ここは日本国内だから、陽子はパスポートが不要ね」
 陽子が見回せば、直径百メートルばかりの円形の床の中央に、巨大プールがあり、傍らに引き揚げられた二隻の潜航艇があった。陽子が搭乗するカマンタ号と中国政府が提供した伏龍である。天井に達する巨大なクレーンと、プールの斜面を利用して潜航艇を引き上げるウインチを始め、潜航艇の整備施設がそろっている。港というのは大げさすぎる表現だが、その機能を考えれば間違った表現ではない。ただ、その船はプールの下の二重の耐圧隔扉をくぐって出入りする。港の周囲の壁面から耐圧扉を備えた通路が五方向に伸びていた。ジョアンナは北向きの通路を選んで陽子を導いた。
「この通路が所長の名をとってモトキ・アベニュー。港とニライカナイの管理センターを結ぶ一番街よ」
「一番街?」
「誰がつけた名だか、基地のシステムを統合する管理センター区画と港を繋ぐ通路をそう呼んでるの」
 港を起点に広がるそれぞれの通路が、一番街から時計回りに五番街まで名付けられて、その先に様々な役割をもったエリアがあるという構造である。

「所員の人員管理と潜航艇の作業のスケジュール配分は君の責任のはずだ。ちゃんと責任を果たしてくれ」
 迫力のある怒鳴り声が響いてきて、管理センターに入ろうとするジョアンナの足を止めさせた。ジョアンナは部屋から顔を覗かせた黒人男に尋ねた。
「何があったの?」
 彼は肩をすくめて言った。
「いつものことさ、中国のチームが伏龍のスケジュールに割り込んだ」
 黒人男の言葉にジョアンナは頷いた。この基地を利用する六カ国が、資財や物資を供出しながら現在のニライカナイが運用されている。基地で利用する潜航艇は中国側が提供した。スケジュールに従って各国が共用するはずの潜航艇だが、提供者であるだけに無理が利きやすく、中国の研究チームが調整されたスケジュールを無視して割り込んだり、作業時間を延長したりして、他のチームの反感を買ってトラブルを起こしているのである。
 ジョアンナが黒人男を紹介した。
「こちらが、ニライカナイに巣くう大蝙蝠のモラドスくん」
「大蝙蝠?」
 陽子の疑問に、モラドスが両耳を引っ張って大きくして見せて、その説明に代えた。
「なるほど。音響探査のプロフェッショナルという事ね。私は金城陽子。陽子と呼んで」
「陽子。歓迎するよ」
 モラドスが差し伸べる手は温かく大きく、陽子の手は幼女の手のようにつつまれた。
 管理センターに入ってみると、怒鳴り声を上げていた男は、怒鳴り声にも反してけろりとして笑顔で陽子たちを迎えた。
「こちらが本木所長と彭(ポン)副所長」
 ジョアンナが紹介する名を、陽子は漁師の網元と田舎の引退間際の校長というイメージを重ねて覚えた。腕力や実績を背景に配下を従わせる男と、歳を重ねた経験で敬愛を集めてはいるが政治には素人と言うことである。
 ただ、どちらの人物も陽子を歓迎した。この基地に潜航艇一隻はいかにも少ない。チャンという操縦者を呼び寄せて、一日八時間二交代、残りはバッテリーの充電とメンテナンスに当てるという作業時間の延長を行うが、潜航艇そのものが増えるなら言うことはないのである。
(歓迎されているのは私? それとも、カマンタ号?)
 そんな疑問と共に肩をすくめた陽子は、ジョアンナの背を追って管理センターを辞した。港から放射状に伸びる通路の先にある五つ区画は、隣の区画とも直線の通路で結ばれていた。ニライカナイの外見を眺めた五角形の一辺である。
 ジョアンナは所員の食堂やトレーニングルームのある二番区画から、トイレやシャワー、就寝用ベッドを備えた三番区画、基地の電源や動力をまかなう四番区画をまわった。それぞれの区画や通路に、家族の写真や乳房が露わになった女性のポスター、アメリカンコミックや日本のアニメのフィギュアやら、所員の家族構成や趣味をうかがわせる個性豊かな展示物がある。ただ、この閉鎖社会にいる所員たちの間に、一種の規律も感じられるのは、本木所長、もしくはポン副所長の統率力なのか、国を代表してこの基地にいるという自負心のためだろうか。
 ジョアンナと陽子は最後の区画にやってきた。
「最後が五番区画。私が居る研究エリアと言えばいいけど、ここでは研究員は居候も同然なので、事実上の倉庫の片隅に研究室があるようなものね」
「研究員?」
「他の人たちは基地の維持管理、機器の試験や訓練が目的。学術的な研究員は古地磁気研究の私と、深海生物学のグレイス・ウィルソンだけ。メガマウスのグレイスと呼んでやればいい」
「メガマウス?」
 ジョアンナは口元に指を当てて広げて見せた。
「やたら口がでかい深海ザメよ」
「相変わらず、性格の悪い墨を吐きまくるダイオウイカさんね」
 そんな言葉で不満を露わに部屋から現れたのが本人らしい。陽子はちらりとジョアンナを眺めた。細身で長身。そんな姿がダイオウイカなのだろう。そして目の前の女は、確かに口の大きさが目立つ。ただ、その口元が人柄の良い笑顔を強調して彼女のチャームポイントの一つである。メガマウスにダイオウイカ。ユニークだが互いに悪意や敵意を込めた呼び名ではなさそうだった。
 彼女は陽子に握手の手を伸ばして名乗った。
「グレイスよ。メガマウスはつかないけどね」
 彼女はふと思いついたように握手の手を離さず、陽子を部屋に引き込んだ。得体の知れない深海生物の写真とサンプルで飾られた部屋である。
「貴女、暇でしょ。ちょっと協力なさい」
「何を?」
「貴女。この鈍いダイオウイカさんよりマシに見える」
 性格的な繊細さで、ジョアンナよりの陽子の方が適性があるという。過去に同じ経験があるジョアンナは肩をすくめて見せた。グレイスは陽子をパソコンの前に導いて座らせた。
「これは?」
「ちょっと話し相手をしてやって欲しいの」
 グレイスがキーを押すと、ディスプレイに質問が表示された。
【わたし、RISA。あなたは?】
 グレイスに促されるまま、陽子はキーボードで返事を入力した。
「私は、陽子」
【陽子、趣味は?】
「音楽かな」
【音楽……、何?】
「カーペンターズ」
【音楽はカーペンターズ?】
「良いこと言うわね」
【良いことはカーペンターズ?】
 ここで、グレイスが割り込んでメッセージを打ち込んだ。
「RISA。貴女は馬鹿ね」
【馬鹿? 陽子、酷い人】
 グレイスは身を引き、陽子に続く会話を任せた。
「ごめんなさい」
【ごめんなさいは、陽子?!】
「悪いのは、グレイス」
【グレイスは、カーペンターズ?】
 グレーズが割り込んでキーを押して、プログラムを停止させた。
「とりあえず、ここまで。陽子、貴女はRISAに対してどんなイメージを感じた?」
「幼い、五歳ぐらいの女の子の人工知能といったところかしら」
「人工知能じゃないの。種明かしをすれば、挨拶の後は、貴女が話した言葉を使って質問を作っているだけの単純なプログラムなの。陽子が発した「音楽」と言う言葉に対して「音楽って何?」って質問を返してるの。そうやって語彙を増やして、蓄えた言葉を組み合わせて、新たな質問を作ってるだけ」
「でも、途中で機嫌が悪くなったわ」
「馬鹿って入力した後、怒った感じになったのはね、感情のパラメーターで上機嫌、普通、不機嫌の状態を作って、メッセージの口調を変えてるだけ」
「馬鹿という言葉で、普通から不機嫌のモードに変わったのね」
「でも、面白いことに、会話の感じはするでしょ。ただ、本当の感情は感じ取れなかった」
「生物学者の暇つぶしにしては、変な趣味ね」
「そうでもないの。最近、基地のそばで変な音が聞こえるの」
「変な音?」
「似ているけど、鯨の求愛の歌じゃない」
「どうして?」
「鯨の求愛の歌はね、ただの音ではないの。『私と夫婦になってください』って相手を求める切ない感情が伝わってくるの」
「変な音にはその感情がないのね」
「それで、なんとなく言葉と感情がどう関わってくるのかなと疑問に思って」
「その暇つぶしで、この人工無脳を?」
「そう。単純な言葉遊びだけど人格っぽいものを感じるでしょ。でも、」
 以前、この試験につきあったジョアンナが口を挟んだ。
「陽子でも心に共感する感情は作れない」
「その通りね。それに、歌を歌うのはザトウクジラたち。この深海まで潜ってくるマッコウクジラが歌を歌ったって聴いたことはないわよ」
 首を傾げるグレイスを残して、ジョアンナと陽子はその場を立ち去った。ジョアンナの研究室はグレイスの部屋の隣である。中央の港の周りに配置された建物をぐるりと一周するのに三十分も要しなかった。そう言う小さな基地に国籍が異なる二十二人の所員が詰め込まれて暮らしているのである。
「これで中央と周囲五つの区画全てよ。大体分かった?」
「ここの連中が個性的だと言うことはね」
「他の所員は食事の時に紹介するわ」
「じゃあ、明後日の調査の準備をするから」
「働き者ね」
 港へと立ち去る陽子の後ろ姿をみて、ジョアンナは興味深く思った。侮辱の言葉がRISAの気分を害するなら、陽子の感情を逆撫でするのは男女関係の言葉かも知れない。ただ、その言葉にはじけるように反応するのは、不機嫌な様子の裏に彼女が無垢な少女の心を持ってのではないかと感じたのである。

   3
 港に引き上げられたカマンタ号は、港湾作業を担当する所員の手でコンテナを外されて身軽な姿を見せていた。貨物コンテナの物資も既に運び出されているだろう。見上げれば最大高さが三十メートルに達しようかという空間の天井近くに、レールに沿って水平に走るクレーンがあり。このクレーンの高さにあるガラス窓に人影が見える。
「何か用があれば言ってくれ」
 そんな声がスピーカーから港の中に響き渡たり、陽子は礼を返した。
「ありがとう……。私は陽子よ」
「アーサーだ。よろしく」
 港の一番区画へ伸びるモトキアベニューの上、十メートルほどの高さに、港湾管理室があった。ガラス張りの壁面から港を見渡すことが出来る。カマンタ号が入港する時に陽子が会話をした所員が陽子に気づいて声を掛けたのである。
 今日は、港の所員の手を借りる作業はない。カマンタ号の外観で異常の有無を目視確認し、操縦席で操縦システムの確認をするだけである。予定されている本格的な整備は明日からである。
 彼女の深海潜航艇。彼女は専従操縦者としてカマンタ号とそんな一体感を感じている。彼女は三時間ばかり掛けて愛するカマンタ号の状況の確認を終えた。満足げに艇の主電源を落とした時、開いたままのハッチから港のスピーカーに雑音が聞こえ、通話が開かれることを予感させた。
 ガンッ、ガンッ、ガンッ
「さぁ、腹を減らしたハイエナども。お待ちかね。ノビコフ様の食事タイムだ。今日のメニューは肉汁たっぷりのステーキに、付け合わせのマッシュポテトは食い放題。カロリーは保証付きだ。肥満とコレステロールが怖くねぇ奴は、さっさと飛んできな」

 娯楽に無縁なこの基地で、食事が娯楽の一つらしい。陽子が時間を確認すれば午後六時前である。港を通って食堂のある多目的区画へ行く所員たちの顔が明るい。陽子はカマンタ号の操縦席の中で、開けたままのハッチから侵入してきた物音と音声に笑った。ノビコフという、名前から推察すればロシア男の口上も愉快だが、口上の前に響いたチャイム代わりの金属音は、おそらくスリコギでフライパンを叩く音である。もし、この基地が初期の通り日本人だけなら、堅苦しい規律じみた雰囲気に支配されていたろうが、様々な国の個性溢れる所員で、興味深い喧噪が演出されていたのである。
 ジョアンナとグレイスが港に姿を見せ、陽子を二番区画の食堂に誘った。長いテーブルが二つ、当直で司令室に詰める五人の職員を除いて十数人の職員たちが思い思いに席について食事を始めていた。入り口に女性たちを待ち受けるようにいた大男は、エプロンを身につけ、フライパンとスリコギを手にしていたため、陽子はこのひげ面の男がノビコフ様だと理解した。
「注目ぅ」
 陽子の肩に手を掛けて食堂に招き入れたノビコフは、再びフライパンを叩いて、所員の注目を集め、言葉を継いだ。
「今日の新鮮な食材を届けてくれた人物に、感謝の拍手」
 響き渡る拍手を止めて、次を聴けと手振りをするノビコフは、更に言葉を継いだ。
「こちらのレディのお名前は……」
 そこまで言いかけて、ノビコフは声をひそめて陽子に尋ねた。
「ミス? ミセス?」
「ミスよ」
 陽子の言葉にグレイスはやや首を傾げた。陽子は伴侶を持たない立場だと言うが、その主張にどこか願望じみた雰囲気があって、子どもはなくても夫を持つ身特有の落ち着を感じさせる。ノビコフはそう言うことは気にならない質らしく、フライパンを叩いた。
「ミス・ヨーコ。我々にくそ忌々しいインスタント食品ではなく、とびきり新鮮な食材を提供する暗黒の行商人だぁ」
 暗黒というのがこの深海を指す形容詞だと陽子は察した。暗黒の行商人というのが、この基地の所員が、物資を届ける任務を請け負う陽子に与えた新たな呼び名らしい。事実、テーブルについた所員たちはスプーンで皿を叩き、フォークの柄でテーブルを叩いてその名で盛り上がっている。国や肌の色は違ってもこの種の馬鹿騒ぎが好きな人々なのである。この一体感は陽子も嫌いではない。
 ただし、ノビコフにはしっかりと言い聞かせておかなくてはならない。彼女は子どもを扱うように笑顔を浮かべてノビコフの頭を撫でて、ゆっくりと言い聞かせた。
「私、くだらない冗談は嫌いよ」
 そう言い聞かせつつ、陽子は眉を顰めて、未だ聞き分けのない悪童ノビコフの頬を平手で打ってお仕置きをした。ノビコフの右手が陽子の尻を撫でまわしたのである。
「いい? 私のお尻に触れていい男は一人だけ。貴方じゃないわ」
 悪童ノビコフはぺろりと舌を出して肩をすくめて、すまなかったと謝罪の意を表して去った。
「まったく……」
 呆れたような言葉を発した陽子だが、多様な人々をその個性までひっくるめて受け入れるようで、敵意を感じさせることはない。三人の配膳員が並んで、ステーキやマッシュポテトを列をなす人々の皿に盛りつけてくれるのだが、ノビコフが陽子の皿に盛ったマッシュポテトの量が普通では食べきれないほど多い。先ほどの謝罪のサービスか、平手打ちの復讐か、彼の人の良い笑顔から区別がつかなかった。

 食堂のディスプレイに映し出されるニュースに見入る者。冗談交じりのおしゃべりに興じる者など騒がしい。陽子はジョアンナやグレイスとともに席に着いた。
「この席は良いかな」
「どうぞ」
 陽子が許可したのは、大蝙蝠のモラドスである。長身で体格がよい。陽子は既に半分以上を食べてしまったマッシュポテトを、モラドスの皿と見比べて言った。
「ずいぶん小食ね」
「訳ありでね」
 肩をすくめるモラドスに深く詮索できる雰囲気はなかった。
「どうだい、ニライカナイの第一印象は?」
「一言で言えないわね」
「では、二言なら?」
「人類の多様性、人類の縮図? でも、この雰囲気は嫌いじゃないわよ」
 その陽子の言葉をモラドスは聞いていなかった。この瞬間に彼の目と心はディスプレイに流されたニュースに釘付けになっていた。骨が浮き上がるほど飢餓に見舞われた子どもたちは感情を持たない目でこちらを眺めていた。アフリカで長く続く飢餓や民族紛争のニュースである。難民保護、紛争の調停、国連もうち続く憎しみの連鎖に打つ手がないという状況である。陽子は言葉を継いだ。
「この憎しみは、この静かな世界に持ち込んで欲しくないわね」
 陽子の言葉に、モラドスが静かに答えた。
「俺が生まれた辺りでもそうだった。飢餓を経験すると胃袋が縮んでしまうんだ」
「そんなことがあったの」
「俺の場合は、もう二十年も前の話だが、あそこではまだ続いてるんだね」
「民族の対立と言うこと?」
「政治家や学者は、民族の対立や排斥だと説明するけどね。その根底はもっと哀しい」
 モラドスは突然に話題を変えた。
「アフリカの景色に関するイメージは?」
「地平線まで広がるサバンナに、ライオン、象やキリンがいる景色かしらね」
 グレイスのそんな想像をモラドスは否定した。
「実は、違う。人の住む地は少しでも水場があれば、小さく区切られた耕作地が隅々まで広がってるんだ」
「耕作地? たしかに、サバンナのイメージじゃないわね」
「人々は貧しく、自給自足せざるを得ない。しかし、爆発的に増えた人口で、一人辺りの耕作地は小さくなり、得られる食料だけでは生きられない」
 モラドスが語る話は深刻で、陽子たちが口を差し挟む余地はなかった。黙って耳を傾ける陽子たちにモラドスは話し続けた。
「自分や家族が生きるために、殺して他人の耕地を手に入れるしかない。加えて、耕作用の水を奪い合って殺し合うんだ。それが民族問題と絡んで拡大し、別の部族が憎いから殺すと動機を変質させる」
 話の深刻さに、陽子たちは沈黙を続けた。しかし、そんな悲惨な話をしているのも、人類の縮図となるニライカナイの食堂のほんの一部に過ぎない。真顔で家族や夢を語り合う者たちや、ばかげた冗談で盛り上がる者たちもいる。
 食堂の片隅に、先ほどのノビコフが三人の中国人たちと話す姿もあり、チャンが下品に腰を前後に振る様子から話題の推測がついた。
「まぁ、仲良くするのは悪い事じゃない」
 陽子はそう考えることにした。


2日目:4月10日

   1
 陽子は四番区画へ連なる通路から響いてきた喧噪で目を覚ました。ベッドの枕元のランプの弱々しい光を頼りに時間を確認すれば午前六時前。昨夜セットした目覚まし時計が鳴り出すまでにまだだいぶ間がある。日の出のない深海の世界だが、陽子の作業スケジュールでは、まだベッドの中にいるべき夜明け前の感覚である。
 とっくみあいをする物音に、男たちの罵声が混じっていて、喧嘩だろうと推測がついた。不愉快な目覚めの怒りでベッドルームから出てみると、喧嘩の主はリーとノビコフだと分かった。昨夜は親しげに会話をしていた二人がどんなきっかけで喧嘩に至ったものかは分からない。
 陽子の経験で言えば、こんな基地に流れてくる連中は陽気に見えても気が荒い。喧嘩など朝食前の軽いトレーニングのようなものである。ところが、取っ組み合っていた二人が僅かな距離を置いて睨み合った時、リーの視線が通路の壁に収納されていた、緊急用の手斧に注がれたのに気づいた。興奮が高じて危険な段階に進みつつある。
 陽子は傍らの消火器に手を伸ばした。騒ぎを聞きつけて向こうから駆けて来たポン副所長が陽子の意図を察して眉をひそめたが、陽子は躊躇しなかった。この男共にはドライアイスでも浴びせかけて、頭を冷やしてやればいいのである。
 ただ、陽子より先に消化器に手を伸ばした者が居た。元木所長は消火器のホースのラッパ状に広がったノズルをリーとノビコフに向け、遠慮無くレバーを握った。液化二酸化炭素が勢いよく吹き出し、急激に圧力から解放されて、微細な氷の粒となり、雪を吹き付けるように二人を包んだ。ノズルから液体ではなく雪が吹き出した意外さ、その雪が気化して空間に漂う水分を凝結させて突然に生じた濃い霧。彼らは大がかりな手品の舞台に出もいるような驚きで、怒りの気配を消した。
「私はシャワーを浴びて寝る。邪魔をするな」
 当直を終えて就寝時間だというのである。元木所長はそれだけ言って、居住エリア、三番区画の扉に姿を消した。喧嘩の仲裁など無駄なことをする気はないらしい。ポン副所長が笑った。
「地表のトラブルも、これほど簡単に片付いて欲しいものだね」
 陽子も肩をすくめて見せた。あの頑固で近寄りがたい雰囲気を漂わす元木所長が、陽子と同じ気質を持っていたようだった。

 朝食の席上、ノビコフとリーは互いに気まずさを漂わせてはいたが、互いの憎しみは消していた。喧嘩のきっかけを知れば、その理由はばかばかしいほど小さく単純である。
 人口増加はアフリカのみならず、現在のヨーロッパ諸国でも深刻な状況にある。中国の資産家がそこに目を付けて、中国の資本によって森林地帯や山岳地帯を大規模に切り開き、道路を整備して宅地開発を行った。それはいくつかの都市を造るほどの規模で、資産家は莫大な利益を得た。ただし、人が住まぬ故に保たれていた自然は破壊され、川の源流は汚染されて、被害は海に注ぐ河口まで及んだ。更に、歴史的に民族の利害に関わる場所だったことが、複数の民族や国家の対立と憎しみを生んだ。
 ノビコフはリーに、現代の地表のトラブルの原因が中国だと冗談を言ったのである。更に、中国国内の大気汚染や土壌汚染に加えて、それを解決しきれない中国政府の腐敗をやり玉に挙げて笑ったという。リーはそんなノビコフを腹に据えかねたと言うことだった。
 人口を支えきれない大地、人類の飽くなき欲望が生みだしたトラブルはこんな形で、千六百メートルの深海にまで持ち込んでいたのである。
 この時、リーが食堂のディスプレイに映し出された映像に拳を振り上げて喚声を上げ、他の中国籍の男たち、チャンとワンもディスプレイを指さして自慢げに叫んだ。興奮のあまり叫んでいた、彼らの中国語は分からなかったが、彼らが指さす映像でその意味が理解できた。
 力強い噴炎を吐き出しつつ上昇するロケットが映し出されていた。日本に僅かに遅れて、中国も火星探査の無人宇宙船の打ち上げに成功したのである。アメリカ、ロシア、EU、日本に続いて中国も加わった。人類の火星探査も、明確に移住を目的とした探査に替わりつつある。
「人類の希望。しかし、間に合うんだろうか」
 モラドスがパンを千切る手を止めて小さくそう言った。地表の現状を考えれば、地球を捨てて他の惑星への移住するというのは、夢もあり唯一の希望に見える。ただ計画がどれほど順調に進んでも、本格的な移住が始まるのは百年は先だろう。それまで、人類はこの地球で生き延びられるだろうかというのである。
「地球を捨てる選択肢しかないとでも?」
 陽子の言葉に、ジョアンナが疑問を呈した。
「ではどうすればいいの?」
 陽子は肩をすくめて呟いた
「わからないわ」

   2
 朝食後、陽子はカマンタ号の整備を始めた。
港の壁面の時計が、午前九時を示していた。陽子は時間を確認すると言う行為で、各区画に設置された時計と規則正しい食事時間が、この空間で一日の区切りをつけていることを知った。
 港には巨大なプールと呼んでも良い四角い海面があり、中国チームが持ち込んだ深海潜航艇伏龍が浮かんでいた。輸送用として利用されるカマンタ号に比べれば一回り小さい。しかし、その推進器の大きさと数から推測される性能は、確かに陽子の古い潜航艇の推進力を上回っているだろう。
 カマンタ号は、物資を下ろすためにウインチでプールの端の勾配を引き上げられていて岸壁の上にある。貨物用コンテナを外したカマンタ号は、重さと重心の位置が変わっている。彼女はカマンタ号のマニピュレーターにジョアンナが要求するセンサーを取り付けるほか、この船のバラストも調節しなくてはならないのである。
 港の中にブザーが響き渡って、潜航艇の出航準備を知らせた。港の天井に近い高さにある港の司令室の窓からプールを眺める人影がある。伏龍号が作業に出かけるに違いない。通路から姿を見せたチャンが陽子の姿を見つけて、下品に腰を振って嫌味な朝の挨拶を送って寄越した。
「男日照りで、こんな朝から潜航艇が相手かい」
「汚いパンツは履き替えたの?」
「何?」
「一昨日、ここに来た時に貴方の悲鳴が聞こえたわ。おしっこをちびったかと思ったのよ」
「なんだと」
 二人に割って入るように本木所長の怒鳴り声が響いた。第一区画の管理センターから港湾管理室港を経由して怒鳴っているのだが、スピーカーの声が港の空間の中で耳をつんざく。
「さあ、じゃれ合うのはそこまでだ。さっさと仕事を始めろ」
 現場上がりの男だけに言葉は荒っぽく威圧感がある。チャンとパートナーを組んで潜航艇に乗り組むワン(王)が、運んできた機器を顎で癪って示して、チャンに搭載を手伝えと指示した。陽子はやや疑問を感じて港の壁面に掲げられた潜航艇の運行スケジュール表に目をやった。伏龍の今日の任務は、海底の熱水鉱床をモニターするセンサーの試験の為の設置である。彼らは機器を伏龍の船首の籠に入れたが、多目的のセンサー群とそのデーターの送信機を備えて歪な形状のはずの機器が、単一目的の機器のようにシンプルだが頑丈な構造に見えたのである。
(音波発信器?)
 陽子はそう考えたが、それ以上、彼らの領域に足を踏み入れる気はなかった。ブザーと共に耐圧隔壁の下に沈む伏龍を見送ることもなく、陽子は整備に専念した。
「古いが、ていねいに整備してある」
 声の主はポン副所長である。昨日、本木所長に怒鳴りつけられた老人というイメージがあるのだが、間近で感じるその人柄は、馴染み薄いという警戒感を飲み込む包容力がある。
「少しは慣れたかね」
「人間関係、本木所長との関係が難しかもしれないわ。気むずかしそうな人ね」
「悪い人物じゃないが、彼は現場の潜水士上がりだ。命がけの仕事だから、気性が荒っぽいか、死の恐怖を吹き飛ばすくだらない冗談を飛ばすか、どちらかだね」
「くだらない冗談? それはよく分かるわ、ホントに」
 経験者のように最大限の賛同をする陽子に、ポン副所長は諭すように言った。
「この狭い空間に、四種類の言葉が飛び交っている。出身地で言えば六カ国の人間だ」
「生活習慣が違うから互いに馴染みにくいの?」
「人間関係の悪さの原因は、静寂の戦争だよ」
 静寂の戦争。最近、頻繁に語られるようになった言葉である。海洋資源の開発と同時に、東シナ海や南シナ海の海洋権益が周辺各国の利害対立を生み、外交的な謀略や軍事力を背景にした恫喝に結びつき、その対立の激しさは戦争にもたとえられているのである。
 現在の人類は汚染させた大地から海を眺め、資源争奪の場としか考えていない。既に各国で周辺海域の大陸棚での資源開発が行われているが、本格的な資源が眠るのはもっと深海である。その点、日本は各国に先駆けて半世紀以上も前から深海探査や深海作業のノウハウを蓄積していた。これから活発化する二千メートル級の海底の資源の本格的な採掘、更に、その後に控える四千メートル級の海底での採掘に、日本が一歩先んじていたと言うことである。
 このニライカナイ基地は二千メートル級の海底資源の発掘作業のための設備や機器開発や試験、作業訓練などを目的に設営されていた。今は本来の役割を終えかけているのだが、この分野での日本の独占を危惧する国々への技術協力という外交上の名目で、各国の人々の利用を許可しているのである。今は日本人スタッフは、陽子を加えても三名に過ぎない。ただ、グレイスやジョアンナのような学術的な例外を除けば、各国はこの深海に利権争いを持ち込んで、この場で熾烈な競争をしていると言っても良い。ポン副所長が興味深そうに陽子に聞いた。
「私の国籍を?」
「名前や顔立ちで推測すれば、中国の人ね」
「その通り、私と妻はね。だが、息子はアメリカ生まれでアメリカ人だよ」
「西太平洋の資源確保にアメリカまで加わってるの?」
「良い人選だろう? 中国人を副所長に据えるという中国への配慮。ただし、その人間は中国軍や中国政府の関与はないということさ。日本政府も知恵を絞ったもんだ」
「では、アメリカ政府の関与は?」
「彼らも資源には興味を持っていてね、さる情報筋が接触してきたよ」
「申し出は受けたの?」
「秘密だ」
 ポン副所長の言葉に陽子は笑った。もちろん、ポン副所長の冗談である。極秘事項ならこの場で言及はすまい。ポン副所長は言葉を続けた。
「この基地の本来の目的を理解して、地上のトラブルを持ち込まないようにしたいね」
「賛成だわ。争いは夫婦の揉め事だけで十分」
 ポン副所長はふと気づいたように陽子の作業を眺め、マニピュレーターの先を指さした
「それにしても、あの先につけているものは何だい?」
「最新型の地磁気のセンサーだって。ジョアンナのように繊細で感受性豊かだそうよ」
「ほぉ。そりゃ、取り扱いが難しそうだ」
 二人は笑い合った。明日、陽子はこのカマンタ号でジョアンナとともに彼女の指定の場所に行く。ニライカナイでの初仕事である。


3日目:4月11日

   1
「今日はお客さんじゃなく、仕事のパートナーということね」
 操縦席の隣の席についたジョアンナが、今日の彼女の立場をそう評した。ニライカナイを出港して既に二十分が過ぎていた。
「静かなものねぇ。間違いなく前進してるわよね?」
 以前、ジョアンナは伏龍で調査の下見に出かけたことがある。強力なモーターで推進器を回転させる力強い音が響き、壁面に指を付ければその振動を感じることが出来た。ところがカマンタ号の操縦席の中では、定期的に響くソナーの探信音以外の物音が聞こえず、操縦席の陽子の呼吸が聞こえるのではないかと思うほどの静けさだった。陽子が笑いながら言った。
「大丈夫。現場まで、あと四十分ほどかしら」
 陽子が指さす前面の窓に目をやれば、サーチライトに照らされる僅かな視界の中をマリンスノーが降り注ぐ。カマンタ号はその雪をかき分けて前進していく様子が見て取れた。ただ、降り注ぐという表現は大げさかも知れない。漂うように長い時間をかけて沈降する有機物の粒子である。変化のない暗闇と静寂。ジョアンナがシートから尻を浮かせて見たのは、シートの座面に尻が感じる地球の重力を確認したからである。重力が無ければ、この空間の中で上下や前後左右の包囲を失うだろうと思った。
 視界は制限され、闇と静寂に加えて、方位まで見失いがちになると、永遠の闇に沈み込まれるかのような恐怖に近い不安に包まれる。不安を振り払うために陽子に目をやると、彼女はシートに身を任せ、操縦桿に掛けた手にも力はなく、目を閉じていた。
「ねぇ、居眠り運転は止めてよ」
 視界の利かない闇の中である。いつ、目の前に巨大な山や得体の知れない巨大モンスターが現れないとも限らない。ジョアンナはそんな不安を訴えたのである。眠っていない証拠に、陽子は目を閉じたまま笑顔を浮かべてジョアンナを誘った。
「いいから、貴女もシートに身をまかせて、目を閉じてご覧なさい」
「巨大メガマウスに飲み込まれる暗黒の悪夢よ」
「もっと、安らぐ想像してみて」
「何を?」
「白い砂浜。振り返れば、私たちが長く歩いてきた足跡がついてるの。人生の足跡」
「突然にモンスターに襲われたら、足跡もそこでおしまいよ」
「目の前には真っ青に澄んだ海。海岸に白い波。見上げる空に白い雲」
「それが永遠に続くことを祈りたいわ」
「でも、私たちはそこで足を止めてしまうの。ねぇ、どうしてかしら?」
「冷たいのは嫌。濡れるのは嫌。何より溺れるのは嫌」
「現実的な人ね」
「ありがとう。私はまだ生きていたいから」
「でも、私は海が好き。波打ち際から一歩、二歩、足を進めて、水中に身を浸して思うの……」
 想像に身を任せた陽子は、言葉を途切れさせた。ジョアンナはそんな陽子をつついて言った。
「こらっ、仕事中に眠るんじゃないわよ」
「人類には希望と安らぎが必要だわ」
 そうやって急がすジョアンナをなだめながら、目的地に着いたのはニライカナイを出て一時間後である。琉球海溝の縁までは、更に一時間以上を要する。
「これが?」
 陽子の問いにジョアンナが頷いた。
「フィリピン海プレートが、太平洋プレートに沈み込んだり、ユーラシアプレートに乗り上げていたりするのね」
 敢えて生き物を表す体内という言葉を使うなら、地球はその体内にどろどろに熱く溶けたマントルを対流させている。そのマントルの一部が表面に吹き出して固体になる長いスポットがある。太平洋ではハワイ諸島近海にその吹き出し口が長く続いている。吹き上がり続けるマントルは、プレートと名を変えた固まった表面を東西に押し広げ続けるのである。ジョアンナが言うのは、この付近はそんな三つのプレートが複雑にぶつかり合う部分だというのである。彼女は言葉を継いだ。
「そのややこしい応力で、最近、太平洋プレートの端が南北に裂けたらしいの」
 サーチライトで照らされる僅かな光景をつなぎ合わせて、ジョアンナの控えめな表現を使えば、そう言う光景になる。
「最近? こんな割れ目が生じるほどの海底の地殻変動は聞いたことがないわよ」
「地球の年齢から見れば、六百年前なんてつい最近よ。ただ、発見されたのは三年ほど前なの」
「なるほど」
 ジョアンナの言葉に陽子は笑った。古地磁気学者というのは、陽子とは別の時間の流れを持っているらしい。陽子が割れ目と称したものは、琉球海溝の縁から東へ十五kmばかり伸びている。起伏に富んだこの地帯で、海上からの音響探査ではよほど注意しないと発見できないだろう。近くにニライカナイが建設され、この辺りの地形探査が進んで発見された亀裂である。ただし、その幅は深海潜水艇としては大型のカマンタ号がすっぽり入るほど広い。その大きさと予測できない深度に陽子は思わず念を押した。
「言っとくけど、この船の潜行深度は最大二千メートルよ」
「分かってる。裂け目の中へ」
「確かに、真新しい断層ね」
「白っぽい石灰岩の層の下、この横に黒く続いている玄武岩を主成分にする層は、地球が体内から吐き出し続けているものよ。この層の地磁気を時代に沿って調べたいの」
「地磁気って?」
「ポールシフトって知ってる?」
「南極と北極が入れ替わるのね」
「それが過去に何度も起きてるんだけど、一定方向にシフトし続けるするんじゃなくて、左右や上下に方向や強弱がぶれながら全体として極の位置が変わる方向にずれて行くの。私はその微妙な揺らぎに興味があるのよ」
「聞いたことがあるわ。地球が人間の精神を安定させる波長の磁気の変化をもってるって」
「それは地上や空の話よ。太陽など外的要因が地磁気に影響を与えるの。私が知りたいのは、地球そのものが地磁気に与えている影響について」
「だから、外部の影響を受けない海底の地層なのね」
「そういうこと。海底も表面は海面や海中から様々な物が降り積もった層よ。私が興味があるのはその下、地球が吐き出したマントルがそのまま固まった地層よ。いわば、地球が吐き出した言葉がそのまま記録されているのよ」
 陽子はカマンタ号のスラスターを操作しつつ、マニピュレーターの先のセンサーをジョアンナの指定する層に沿って移動させた。陽子には得られたデーターの内容は理解できないが、ジョアンナは満足している様子は理解できた。陽子はこの巨大なプレートが西へ動いていると言うことは知識として知っている。しかし、改めて尋ねてみると、陽子の生きてきた人生は、この岩盤の移動距離に換算すれば一メートル程度に過ぎないのである。そうやって、カマンタ号はその最高深度二千メートルばかりの深さを、約四十万年分を水平に移動した。陽子にとって信じられない時間だが、ジョアンナにとっては僅かな時間に過ぎないらしかった。
「マーカーを打っとくわよ」
 時間を確認すれば、ニライカナイを出航して五時間が過ぎていた。今日の作業は終了である。明日はこのマーカーから調査を再開するのである。

   2
 帰投した陽子とジョアンナがシャワーを浴び、ノビコフのフライパンの音に誘われて第二区画の食堂のテーブルにつくと、先客の三人の中国人たちがディスプレイを眺めて沸き立っていた。
 昨日打ち上げられたロケットが、無事に地球周回軌道に乗り、数日後に火星軌道へ投入されるというのである。中国寄りと噂のある国連事務総長も、打開しきれない地表の問題から目をそらすように、未来の人類の火星移住の夢を語り、この宇宙船がその夢の一歩になると好意的なコメントを発していた。
「おいっ。まだ観てるんだぞ」
 そんな怒りの声が上がったのは、リーがニュースのチャンネルを勝手に切り替えたからである。打ち上げ成功のニュースの後、打ち上げ基地や行政施設の周囲で激しいデモをする中国民衆の姿が映し出された。国家が宇宙開発に多額の予算を投じる中、大地や河川の汚染、温暖化による干ばつを原因とする多数の餓死者などの問題は解決されてはいない。リーにとって、他国の者に見せたくない情報だろう。ただし、これは中国に限ったことではなかった。
 人類の英知、人類の栄光、人類の将来。そういう象徴としての宇宙開発に巨額の予算が投じられる中、世界各地で、人々は数百年先の移住先より、一年後の食料を求めて声を上げているのである。

 しかし、移り変わって映し出された新たなニュースも、民族の姿はきな臭く血なまぐさい。パレスチナで大規模なテロ事件が続発しているという。幼い我が子の死体を抱いて泣き崩れる母親の姿に、グレイスは胸に十字を切って呟いた。
「神様どうしが争わせているとでも言うのかしら」
 モラドスが言った。
「人間は神に責任を押しつけるために、土地の問題から目を背けてるのさ」
「どういうこと?」
 グレイスの疑問にモラドスが言葉を継いで答えた。
「宗教の対立。民族の対立。そう言う図式で説明する方が簡単だからね」
「この歴史的な宗教対立が、そうじゃないというの」
「アフリカと同じかも知れないよ。人には生きるために土地がいる。作物を育てるために水が要る。彼らが奪い合う大地にはその余地がない」
「国家も、国連も、神様も、人間を救うには力不足だということ」
「神様が居るなら、新たな土地を創造して欲しいもんだね」
「神様ねぇ……」
 ジョアンナがそう呟いたのは、陽子が食事前の儀式のように、自然な仕草で手を合わせる姿が祈りのポーズに見えたからである。この女性が信仰を持っているなら、祈りを捧げるのはどんな神だろうと好奇心が湧いた。その好奇心から生じた疑問が、明くる朝に解決した。


4日目:4月12日

  1
「陽子。貴女、鯨を食べ尽くさなかった?」
 朝食の席上、グレイスの冗談じみた質問に、陽子は眉を顰め首を傾げるのみで、ジョアンナが替わってその意図を聞いた
「どういうこと?」
「以前話したじゃない。この辺りで鯨の求愛の歌が聞こえるって」
「それが?」
「昨日から、その声が途絶えてるの。だから、日本人が最後の一頭まで食べちゃったのかと」
 グレイスはそう言って笑った。この時代でも、日本は捕鯨で反対論者から非難を受けることがある。グレイスは捕鯨問題を絡めて冗談を言ったのである。陽子も笑って応じた。
「大丈夫。今朝の私はベジタリアンだから」
 事実、彼女の今朝の食事の皿には野菜と果物だけが盛られていた。長時間の潜航艇での活動で飲むべき水を控える習慣で、代わりに食事で水気の多い食材を摂取しているらしい。
「私たちの神は、きっとベジタリアンにも、日本人に鯨を殺さないようにさせろって命じると思うわよ」
 グレイスは胸の十字架を握って冗談を言い、陽子が答えた。
「私たちには、何かを命じる神はいないわ。祈る対象も違うのね」
「では、何に祈るの?」
「捕鯨反対論者が見れば笑うでしょうけど、日本人は鯨に手を合わせて祈るの。家畜や魚や草花にも。命を奪った謝罪、自分の命を支えてくれる命の犠牲に感謝にして」
「そんな感謝は、命を奪うことを正当化するだけじゃないの」
「そして、誓うの。犠牲にした命に見合う、もっとマシな生き方をしようって。日本の神、イコール自然かも知れないけど、貴方たちの神と違って、殺して良い生き物と殺してはいけない生き物を区別する知恵は授けてくれなかった。でも、自分たちがこの地球の調和の一部だって教えてくれた」
 グレイスと陽子の会話を興味深く聞いていたジョアンナだが、ふと時計に気づいて立ち上がった。
「さあ、さあっ、神はこの私にカマンタ号のレンタル料を払ってくれないの。早くっ、出発よっ」
 彼女が所属するトレント工科大学が彼女に支出する研究費は限られている。その研究費は有意義に使うために、カマンタ号と陽子を目一杯こき使う必要があった。

   2
 深海の深海の闇の中、昨日のマーカーから調査を開始して三時間が過ぎた。
「一休みして食事にしましょうか」
 ジョアンナの声に、スラスターとマニピュレーターの微妙な操作で疲労し、緊張から解放された陽子はほっとため息をついた。
「帰ろうとは言ってくれないのね」
「もちろんよ。今の貴女に与えられているのは、アップル味とグレープフルーツ味。どちらか一つの選択肢だけよ」
「じゃあ、グレープフルーツの方」
 ジョアンナはグレープフルーツが描かれたアルミパウチ容器の蓋を開けて陽子に渡し、自らはリンゴが描かれた容器の中のゼリーを絞り出して飲み込んだ。潜航作業中の一般的食事だった。
「あとたった四万年分の調査で海溝までたどり着けるの、帰ってられないでしょ」
 カマンタ号を衝撃が襲ったのはこの時である。海流のないこの深海で、船体に大きく響く振動など滅多にあるものではない。
「火山でも噴火したのかしら」
 陽子は他に挙げる理由も見つからずそう言って、ジョアンナに提案した。
「直ぐに帰った方が良いかもしれない」
「そうしましょう」
 恐ろしげな状況にジョアンナは陽子の提案を素直に受け入れた。強力なサーチライトで照らされているはずの前方の視界は悪いが、ソナーによれば、カマンタ号はプレートの裂け目を西に抜けて琉球海溝に出ているようだ。彼女はスラスターの推進力で艇を上昇させた。
「えっ、待って。左舷にぼんやりと、水中の濁りのようなものが見えるわ」
 見えると称したが、もちろん肉眼のことではなく、ソナーの反射音のことである。
「温度、3.2℃。水温の上昇はないわ。でも、海底から泥か何かが浮き上がっているよう。小規模な噴火かも知れないわ。行ってみる?」
「ええ」
 ジョアンナの返事を待つまでもなく、陽子はソナーでぼんやり輝く雲めがけて船首を向けていた。まもなく、窓から見える景色も海水が濁っているのが分るほど視界が遮られ、陽子はカマンタ号の速度を落とした。
「きゃっ」
 ジョアンナが漏らした小さな悲鳴の直後、カマンタ号はぐらりと揺れた。海中二ノットという僅かな速度だが、陽子は船尾のスラスターを逆回転させ、船首のスラスターを目一杯回転させて方向を転じたのである。船内の映像モニターに陽子が必死で避けた物が映し出されていた。直線や滑らかな曲線で構成された外観は、人工物に違いなかった。陽子は断定した。
「さっきの衝撃は、この潜水艦が海底に衝突して、泥を巻き上げたのね。大きさは二百トンぐらいかしら。カマンタ号や伏龍のような深海潜航艇じゃない。ずいぶん小型だけれど軍用の潜水艦に見えるわ」
 陽子はゆっくりとカマンタ号を潜水艦に接近させ、聴音機の感度を最大にしてマニピュレーターで潜水艦の外殻を叩いた。
カン……、カン……、カン……、カンッ、カンッ。
「何をしてるの?」
 ジョアンナの質問に、陽子は伸ばした人差し指を唇に当てて黙れと指示をして、耳を澄ませた。彼女はカマンタ号を潜水艦のやや後方に移動させて同じリズムで潜水艦の外殻を叩いた。生存者が艦内から叩き返す音の反応がない。そればかりではなく、陽子の耳は艦内に空気の空間があれば鈍く響くはずの音が、澄んで濁りがないことを聞き取っていた。潜水艦の艦内が水で満たされていると言うことである。周囲を回って眺めたが、海溝の縁からはみ出した艦首は酷く損傷していた。
「内殻も損傷しているわ。生存者は居ない」
 この深海の圧力から乗員を守る機能を失っているというのである。潜水艦の後半部は原型を留めているが、その内部は水浸しで乗員は生きては居まい。彼女はソナーのスイッチを入れてディスプレイの表示を確認した。海底の地形が見事に再現されているが、潜水艦の位置はぼんやりぼやけていた。サーチライトに照らされた潜水艦の船体が、この至近距離で発したソナーの音波をほとんど反射していないのである。
「性能の良い吸音タイルで船体を覆っているのね。ずいぶん小型だけれど、軍事用の潜水艦に間違いはないわ」
 船首が潰されていて魚雷発射管など兵装が確認しにくい。しかし、意図的に姿を隠そうとするなどの機能は、民間船ではあり得ないのである。
「日本の潜水艦なの?」
「いいえ。自衛隊でもアメリカ海軍でも見かけない形よ。それにこんな深い深度で活動できないわ」
 陽子がサーチライトで照らした潜水艦の船尾は二つに分かれ、その先に一つづつスクリューがついていた。その間に何やら見慣れない突起が伸びている。
「では、どの国の潜水艦なの?」
「中国かしら?」
「何故分かるの?」
「中国の潜水艦は賑やかなので有名なの。日本やアメリカの潜水艦の静けさに比べれば、太鼓を叩きながら航行しているようなものだって聞いたことがあるわ」
「それが見慣れない形とどう関係するの?」
「逆位相の波で音を消すって聞いたことがある。あの艦尾。エンジンやスクリューの騒音を下げることが出来なかった中国は、そんな装置を開発したのかもしれないわ。そして、見つからないように普通の潜水艦が航行する深度よりずっと深いところをやって来たのね。」
 無言のジョアンナに陽子が言い添えた。
「海自や米軍が知れば真っ青ね」
「どうして?」
「私たちがニライカナイに来た頃に、この潜水艦は日本の領海に侵入し始めていたはずよ。でも、海上は静かだったでしょ、海自も米軍もこの潜水艦が深海を侵入しているのに気づいていなかったのよ」
「これは海自に探知されないまま、こんな領海の奥深くに侵入しているという事ね」
「写真を撮ったから、基地に送信して調べてもらえばいい」
「寒くない?」
「さっきの衝撃で暖房が故障したようね。早く帰りましょう」
 陽子はカマンタ号の船首をニライカナイに向けて増速した。寒さのせいばかりではなく、不吉な予感が二人を包み、沈黙の中での帰還だった。

   3
 本木所長以下八名もの所員が殉職したという事実が、ニライカナイに帰還した陽子たちを待っていた。ニライカナイ港に入港する寸前の陽子たちも、基地の外側からその事故の跡を目撃していた。彼らが二番区画と呼んでいた居住区画は、その中にいた所員もろとも、巨大な水圧によって押しつぶされていたのである。その事故の形状から、外壁の一部が変形し、圧力を支えきれなくなった状況が推測できた。
 港から管理センターに戻った二人を、生き残っていた人々が沈痛な面持ちで迎えた。モラドスがディスプレイの前で、未だ不明な状況を二人に説明した。
「事故の直前に、奇妙な音源を捕らえたんで、パッシブソナーで追跡をしてみたんだ」
「もう一度、ゆっくり再生して」
 陽子はヘッドフォンを耳に当て、モラドスが再生した軌跡に沿って説明を加え始めた。
「最初に聞こえたのが潜水艦の衝突音。その音が響いてるわ。琉球海溝のなかに反響しているのね。崖の壁面にでもぶつかったんでしょう。その後で、貴方が追跡しているのは浸水音。必死で浮上しようとしたのね。その後、聞こえるのが、たぶん、魚雷発射管の開口音よ。浮上しつつ魚雷発射管を開ける深度に達したので、少しでも艦首を軽くするのに魚雷や機雷を投棄したんじゃないかしら」
(発射管の開口音ですって?)
 陽子の具体的な解説には納得がゆく。しかし傍らで様子を見守っていたグレイスはやや首を傾げた。彼女も鯨の求愛の歌を始め、海の音を良く聞く。しかし、潜水艦が魚雷発射管の扉を開けた音など識別する経験はない。陽子はそんな音を識別したと言うことである。陽子はそんなことを気にする様子もなく言葉を続けた。
「ただ、予想以上に浸水が酷くなって……。モラドス。貴方、良い勘してるわ。ここでアクティブソナーに切り替えたのね」
「ああ、正確に追跡したかったんだ」
 モラドスは潜水艦が発する音を追跡していたが、ニライカナイから探信音を発して対象物を捉える方法に切り替えたと言うことである。この方法なら対象物の方位ばかりではなく距離が正確に分かる。
「ソナーで捉えたターゲットの軌跡の映像は出る?」
 モラドスがスイッチを操作し、陽子が要求したデーターをディスプレイに表示させた。
「ソナーが落下している物体を捕らえてるわ。何本もの魚雷が投棄されて落ちてきている」
 落下物が接近するにつれて、ディスプレイにはその細長い形状が露わになった。そして、落下する十本ほどの魚雷の中、彼女が指さすその一つの真下にはニライカナイがあった。
「この魚雷の爆発で、本木所長たちが」
 ポン副所長の呟きを陽子は否定した。
「信管はセットされてない。爆発はしていないと思うわ。一トン近くもある魚雷が爆発していたら、ここも無事じゃすまなかったはず」
 ジョアンナは魚雷を投棄した潜水艦が描く軌跡を辿った。
「潜水艦は無事じゃすまなかったということね」
「そう言う事ね」
 浸水が激しくなったのか、浮上しかけていた潜水艦は再び沈下を始めた様子が見て取れる。ただ、陽子が首を傾げたのは、その潜水艦が沈降しつつその艦首を琉球海溝に向けて旋回したことである。
 陽子の説明で、陽子とジョアンナが目撃した物と、ニライカナイの状況がぴたりと重なった。生存者の中でチャンとワンが顔を見合わせた。その表情は他の生存者が漂わせる不安感のみではない。チャンがわき上がる罪悪感を振り払うようあざ笑った。
「日本かアメリカの間抜な潜水艦乗りが、俺たちをこんな目に遭わせて全滅したんだろ。自業自得じゃないか」
「違うわ。貴方の国の潜水艦よ。あの船で死んでいるのは、貴方の国の兵士たちでしょう」
 陽子の質問は的を得ていた。陽子とジョアンナが目撃した潜水艦が日本や同盟国の所属でないとしたら、海洋権益を争う中国の所属の可能性が高いのである。チャンは意図的な領海侵犯という点を否定した。
「位置を見失って、ここまで迷い込んだ馬鹿が、あわてて事故をおこしたんだろ」
「死者を侮辱にしないで。船体は後部を海溝の縁に乗せて残ってるけど、Uターンして海溝に戻ろうとしている。彼らが死を覚悟した時に、全ての証拠を海溝の底に葬ってしまおうとしたんじゃないかしら。領海侵犯はともかく、その忠誠心には敬意を払いたいわ」
「争いはよせ。所長が亡くなったいま、私が代わって指揮を執る。この基地は既に本来の機能を喪失している。我々はニライカナイを捨てて故郷に帰る。既に救助要請をした。明日の夕刻に自衛隊の潜水艦救難艦ちとせが到着して我々の救援を開始する。カマンタ号と伏龍でも人員の運搬を行う」
 ポン所長の言葉にチャンが驚きと怒りを発した。
「救助要請だって? 待ってくれ。では、事故の原因が中国の潜水艦だと伝えたのか?」
「中国かどうか、そもそも、事故を起こした潜水艦と、この基地の浸水の関係は推測に過ぎない。この緊急時に、断定されてもいない事を伝えて救援の判断を誤らせることはできない」
「では、潜水艦の件は、まだ他では知らないんだな」
 チャンの言葉にポン副所長は僅かに頷いただけで、命令を下した。
「陽子、チャン、潜航艇の整備をしておいてくれ」
 ポン副所長は基地に生き残った十四人を点検作業のため各部署に戻した。

 漆黒の世界にあるニライカナイだが、地表と同じ時間軸を流れていて、時計の針は午後六時を指している。ノビコフがフライパンを叩いていた時間だが、彼が仕事場の第二区画の浸水で亡くなって食事を作る者はいない。
 普段は閑散とした第五区画に、今は食事を取る所員たちがいた。ジョアンナとグレイスの研究室がある区画だが、本来は物資の貯蔵庫である。食料や水は残された所員に充分なほどある。所員たちが眺める空間が、広く空虚で、亡くなった者たちのことを思い起こさせた。



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