目次
大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討
【はじめに】
●第8稿第21章該当部分の全体の構成について
●再生産表式の「眼目」についての「誤解」もエンゲルスの編集のせいだろうか?
●大谷氏に、エンゲルスを〈「著者の拡大された視野」のかなめ〉の無理解で非難する資格があるだろうか?
●編集者の一人であるのに、どうして自身のことについて、編集の段階で訂正できなかったのであろうか?
●第1稿や第3稿にも「利用すべき諸個所」があった?
●「ノート I ~IVの執筆次期の推定」と若干の思いつき
●邦訳のある参考文献には、邦訳の頁数も併記すべきではないだろうか?
●第2稿における理論的前進のやや過大ともいえる評価
●流動資本と固定資本との区別は「価値増殖過程」だけの問題ではない
●「c 資本と資本との、資本と収入との、収入と収入との交換、という考え方の放棄」は果たして本当か?
●[a 第3章の課題についての新たな視点]なるものの説明も納得がいかない
●【第2稿第3章における二段構えの敍述方法による制約】なるものへの根本的な疑問
●〈第 I 部門の資本家と労働者とのあいだでの労働力の売買によって媒介される両部門間の相互補填〉は第II部門の〈第 I 部門からの生産手段の購買によって開始される〉というのは本当だろうか?
●「Ch.III)b.II.)(第2部第3章)」はどう理解したらよいのか?
●第4稿は第2稿より先に書かれたのにどうして「形式が完全」なのであろうか?
●「ノート」と「草稿」をことさら区別する意味
●第2稿が基礎に置かれなければならないというマルクス自身による指示は重要
●第1篇第1章の「書き出し」にどうしてマルクスは拘ったのか?
●【資本循環論における理論的前進】も今一つ納得がいかない
●[b 商品資本の循環の独自性の明確化]についても疑問がある
●「あとに置くべきものの先取り」とは?
●【スミスのドグマについての最終的な総括】に関して
●【「実体的諸条件」の解明から社会的総再生産過程の考察への課題の転換】についても疑問
●【社会的生産の二つの部門の呼び方の変更】について
●【二重の叙述方法の放棄と貨幣運動の全面的な組み入れ】も受け入れられない
●[a 可変資本の貨幣形態での前貸および還流の重要性の強調]について
●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]について(その1)
●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]について(その2)
●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]について(その3)
●[e 社会的総再生産過程における金生産の分析]も今一つハッキリしない
●5月号掲載分の論文の全体の見通し
●「II 蓄積または拡大された規模での生産」の冒頭にある「先取り」を如何に理解すべきか
●1で論じていることは、現実の拡大再生産の直接的な規定である
●3、4でマルクスは何を問題にしているのか
●《5)部門IIでの蓄積》はどこまで含まれるのか?
●何のための〈[a 「困難」の確認]〉なのか?
●同じような拡大再生産の表式の提示でも、その目的や役割、位置づけには決定的な相違がある
●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているか(その1)
●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているか(その2)
●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているか(その3)
●[d 二回目の試み――追加労働者の賃金支出についての新たな想定。「資本主義的生産の進行とは矛盾している」→中断]の検討
●単純再生産部分の転換を見落とす
●[g コメント―拡大再生産の展開についての総括] も混乱である
●[h これまでの考察からの帰結] における大変な勘違い
●[ i 「貨幣源泉」問題への最終的コメント]について
●第2部第2稿の執筆を中断した理由は何か?
●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?(その1)
●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?(その2)
●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その1)
●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その2)

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大谷禎之介著《『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――》(『経済』09年3・4・5月号掲載)の検討

《目次》

 

【はじめに】
●第8稿第21章該当部分の全体の構成について
●再生産表式の「眼目」についての「誤解」もエンゲルスの編集のせいだろうか?
●大谷氏に、エンゲルスを〈「著者の拡大された視野」のかなめ〉の無理解で非難する資格があるだろうか?
●編集者の一人であるのに、どうして自身のことについて、編集の段階で訂正できなかったのであろうか?
●第1稿や第3稿にも「利用すべき諸個所」があった?
●「ノート I ~IVの執筆次期の推定」と若干の思いつき
●邦訳のある参考文献には、邦訳の頁数も併記すべきではないだろうか?

●第2稿における理論的前進のやや過大ともいえる評価
●流動資本と固定資本との区別は「価値増殖過程」だけの問題ではない
●[b 償却ファンドを蓄積ファンドに流用することの可能性についての問題の解決]については分かりにくい。
●「c 資本と資本との、資本と収入との、収入と収入との交換、という考え方の放棄」は果たして本当か?
●[a 第3章の課題についての新たな視点]なるものの説明も納得がいかない
●【第2稿第3章における二段構えの敍述方法による制約】なるものへの根本的な疑問
●〈第 I 部門の資本家と労働者とのあいだでの労働力の売買によって媒介される両部門間の相互補填〉は第II部門の〈第 I 部門からの生産手段の購買によって開始される〉というのは本当だろうか?
●「Ch.III)b.II.)(第2部第3章)」はどう理解したらよいのか?
●第4稿は第2稿より先に書かれたのにどうして「形式が完全」なのであろうか?
●「ノート」と「草稿」をことさら区別する意味
●第2稿が基礎に置かれなければならないというマルクス自身による指示は重要
●第1篇第1章の「書き出し」にどうしてマルクスは拘ったのか?
●【資本循環論における理論的前進】も今一つ納得がいかない
●[b 商品資本の循環の独自性の明確化]についても疑問がある
●「あとに置くべきものの先取り」とは?
●【スミスのドグマについての最終的な総括】に関して
●【「実体的諸条件」の解明から社会的総再生産過程の考察への課題の転換】についても疑問
●【社会的生産の二つの部門の呼び方の変更】について
●【二重の叙述方法の放棄と貨幣運動の全面的な組み入れ】も受け入れられない
●[a 可変資本の貨幣形態での前貸および還流の重要性の強調]について
●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]について(その1)
●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]について(その2)
●[b 資本の前貸および還流と流通手段の前貸および還流との区別および関連の分析]について(その3)
●[e 社会的総再生産過程における金生産の分析]も今一つハッキリしない
●5月号掲載分の論文の全体の見通し
●「II 蓄積または拡大された規模での生産」の冒頭にある「先取り」を如何に理解すべきか
●1で論じていることは、現実の拡大再生産の直接的な規定である
●3、4でマルクスは何を問題にしているのか

●《5)部門IIでの蓄積》はどこまで含まれるのか?
●何のための〈[a「困難」の確認]〉なのか?
●同じような拡大再生産の表式の提示でも、その目的や役割、位置づけには決定的な相違がある

●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているか(その1)

●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているか
(その2)

●表式aは何のために提示されているのか、「一つの新しい問題」としてマルクスは何を論じようとしているか(その3)

●[d 二回目の試み――追加労働者の賃金支出についての新たな想定。「資本主義的生産の進行とは矛盾している」→中断]の検討
●単純再生産部分の転換を見落とす
●[g コメント―拡大再生産の展開についての総括] も混乱である

●[h これまでの考察からの帰結] における大変な勘違い
●[ i 「貨幣源泉」問題への最終的コメント]について
●第2部第2稿の執筆を中断した理由は何か?
●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?(その1)

●「第8稿における貨幣ベール観の最終的克服」とは何か?(その2)

●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その1)
●【第8稿におけるマルクスの厳しい自己批判】とは何か?(その2)


【はじめに】

 この論文は、大谷禎之介氏御自身が編集作業に携わったメガ第Ⅱ部門第11巻が昨年(2008年)3月に刊行されたことを踏まえて、書かれたものである。大谷氏は同巻の「アパラート(付属資料)の部」に「解題」の草案を執筆されたのであるが、どうやらそれは共同編集者の修正を受け、同氏の本意とするものとはやや異なるものになってしまったようである。そこでこの論文では、「解題」の内容にとらわれず、同氏の見解をそのまま展開されているもののようである。

 その意味では、本論文は、マルクスの『資本論』第2部の諸草稿をその現物にも当たって、丹念に研究された成果であり、その集大成ともいえるものであって、マルクスの『資本論』第2部の諸草稿に興味をもつ人たちにとっては、大きな関心を呼ぶものであろう。

 いうまでもなく、私もその一人であるが、この論文によって多くの新しい知見が得られたことを、まず指摘し、謝意を示しておきたい。

 しかし私は、この論考では、大胆にも、この大谷氏の論文を批判的に検討するという試みをやろうとしている。もちろん、私自身は、第2部の諸草稿については、大谷氏御自身によって邦訳されたものや、他の研究者(例えば市原健志氏や八柳良次郎氏、あるいは水谷・名和両氏等々)の諸研究以外には、目を通しておらず、メガ第Ⅱ部門第11巻もいまだ手に取っていない(これはこの部分を書いた時点の話ではあるが)。それでも私は大谷氏のこの論文を一読してさまざまな疑問を禁じえなかったのである。これまでにも、第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解読では(この解読は先に紹介した「マルクス研究会通信」に連載)、大谷氏の業績に依拠しながら、氏の諸説を批判してきたのであるが、この論文においても、やはり次々と疑問が生じるばかりであった。

 そこでここでは、主に、私がこの論文を読んでゆく過程で、引っ掛かった部分について、率直に、その疑問を提起するという形で、続けることにしたい。つまり大谷氏のこの論文の展開に沿って、その都度、湧いてくる疑問を披露し、それに対する自身の批判的見解を展開することにしたい。だから、あるいは読者の皆さんにとっては読みにくいかも知れないが、その点、ご容赦い願いたい。なお、読者の便宜を考慮して、それぞれの引っ掛かった部分については、適当な表題をつけておいた。


●第8稿第21章該当部分の全体の構成について

 大谷氏は『経済』3月号143頁下段で、エンゲルスの編集が実際のマルクス自身の展開をみえなくしていると批判して、次のように述べている。

 〈のちに見るように、マルクスが表式を利用しながら思考を重ねた「5 第II部門での蓄積」の部分を、エンゲルスは、「第2節 第II部門での蓄積」と「第3節 蓄積の表式的叙述」と「第4節 補遺」との三つの節に分けたが、これによって、マルクスがここで行なった研究の筋道がほとんど見えなくなっている。マルクスはこの「5」のなかで、エンゲルス版でそう見えるのとは違って、両部門間の過不足のない相互補填のもとで順調に進行する拡大再生産の過程を示すような表式を描こうと苦心惨憺したのではまったくなかった。マルクスは、浮上した困難を打開する道を探るために表式を利用しただけだった。〉(『経済』3月号143頁、以下、「上143頁」と略して記す)

 ここでは大谷氏は、マルクスが拡大再生産の表式を展開している部分(先に連載した段落ごとの解読で利用させてもらった『経済志林』の頁数によれば、下の21頁から始まる拡大再生産の表式の年次を重ねた展開部分)をも、〈「5 第II部門での蓄積」の部分〉と捉えていることが分かる。こうした捉え方は、伊藤武氏のものでもあるが、果たしてこうした捉え方は正しいのであろうか。つまりマルクスは「蓄積および拡大再生産」という草稿全体を「1)~5)」の番号をふって、全体を5つの部分にわけて展開していると考える捉え方である。しかも最後の「5)」の部分(ということはこの「5)」と番号が打たれたところから最後までの部分)は、マルクスが表題をつけたとおりに「第II部門での蓄積」が論じられているという捉え方である(この「1)」~「5)」のうちで表題がつけられているのはこの「5)」だけである)。しかしこれだと「5)」の部分の占める分量は、極めて大きなものになる。大谷氏が翻訳された頁数(しかしこれはドイツ語原文も含めた頁数になる)で計算してみると、次のようになる。

 1)=32~34[約3頁分]
 2)=35~40[約6頁分]
 3)=40~72[約33頁分]
 4)=72~77[約6頁分]
 5)「部門IIでの蓄積」=1~78[約78頁分]。
  a)=1~12[約12頁分]
  b)=12~78[約67頁分]

 つまり全体の頁数は125頁になるが、「5)」の部分は62%以上、つまり半分以上になるのである。おまけに「5)」の部分は、「a)」と「b)」に分けられているが、「b)」だけでも半分以上(約54%)になることになる。そして奇妙なことに、大谷氏らの捉え方では、そこでは「部門IIでの蓄積」、さらにそのうちの「b)」と項目が打たれた部分で提起されている問題、すなわち「貨幣源泉がIIのどこで湧き出るのか」という問題が論じられていると捉えるわけである。

 しかしこうした捉え方は、単に全体のアンバランスだけではなく、内容的にも納得のゆくものではない。確かにマルクスは「3)」と番号を打っているパラグラフの直前で次のように述べている。

 《われわれは、この外観上の困難をさらに詳しく解決するために、まず部門 I (生産手段の生産)での蓄積と部門II(消費手段の生産)での蓄積とを区別しなければならない。部門 I から始めよう。》(『経済志林』上40頁、以下「上40頁」と略す)

 そしてその次のパラグラフの冒頭に「3)」と番号が打たれているのである。だからエンゲルスもこのパラグラフの前に「第1節 部門 I における蓄積 1、蓄蔵貨幣」と表題をつけたわけである。

 しかし「5)」と番号が打たれている部分以降の内容を検討すると、「部門IIでの蓄積」が考察の対象になっていると考えられるのは、大谷訳の下の21頁の拡大再再生産の表式(いわゆるB式)が提示される前までの部分においてである。すでに述べたように、マルクスは「5)」を「a)」と「b)」にわけて論じているが、この「b)」の部分で論じているのが、いわゆる「新しい問題」であり、「貨幣源泉がIIのどこで湧き出るのか」という問題なのだが、しかしB式が提示された以降(下21頁以降)は、そうした問題が論じられているわけではない。伊藤武氏などは草稿の最後の「補論」(とエンゲルスが表題をつけた部分)においても、この同じ問題が、すなわちIIおける「貨幣源泉」の問題をマルクスは論じているのだから、だからマルクスは最後まで、この同じ問題を追究しているのだと捉えているのであるが、大谷氏が次のように書いているのは、恐らくこの伊藤武氏の見解を踏まえたものと考えることができる。

 〈マルクスはこの「5」のなかで、エンゲルス版でそう見えるのとは違って、両部門間の過不足のない相互補填のもとで順調に進行する拡大再生産の過程を示すような表式を描こうと苦心惨憺したのではまったくなかった。マルクスは、浮上した困難を打開する道を探るために表式を利用しただけだった。〉

 つまりここで〈浮上した困難を打開する道〉というのは、いわゆる「新しい問題」のことであり、「貨幣源泉がIIのどこで湧き出るのか」という問題のことであろう。つまり表式の年次を重ねて展開している部分でも、マルクスは部門IIにおける貨幣源泉を捜し続けているのだという立場に大谷氏も立っているわけである。しかしこれはとんでもない理解だと私には思える。私自身の捉え方をここでは詳述しないが(それはすでに第8稿の段落ごとの解読のなかで論じている)、こうした捉え方はマルクスの考察を極めて狭いものにしてしまうのではないかと思うのである。

 この問題を考える場合、次のような水谷謙治・名和隆央両氏の指摘が重要な気がする。両氏は《『資本論』第2部第2草稿(「第3章」)の未公開部分について--その概要と解説--》(『立教経済学研究』33巻1号s.54.7)のなかで、次のように指摘している。

 〈再生産表式の説明に続いて両部門の総体を対象とした考察がある。部門 I および部門IIに続いて両部門の総体を考察する方法は、第2稿の特徴といってよいだろう。(1863年、学説史ノート第22冊におけるマルクスの経済表では、これと同様の取り扱いであったことが想起できる。)また、貨幣流通による媒介を考慮した単純再生産の考察においても、部門 I 、部門II、および両部門の総体という順序で考察が進められている。〉(154頁)

 つまりマルクスが第8稿の拡大再生産のところで先に指摘したように、《われわれは、この外観上の困難をさらに詳しく解決するために、まず部門 I (生産手段の生産)での蓄積と部門II(消費手段の生産)での蓄積とを区別しなければならない。部門 I から始めよう》と述べているのは、だから明らかに、これまでのマルクスの考察の方法が踏襲されていると考えることができるのである(ただ注意が必要なのは、第2稿と第8稿では部門 I と部門IIが入れ代わっている。つまり第2稿では、消費手段の生産部門が部門 I となっている)。とするなら、マルクスはどこかで「両部門の総体」の考察に移っていると推測することも成り立つわけである。そして私はそれはすでに指摘したように、マルクスが拡大再生産の表式を単純再生産の表式と並べて提示して、拡大再生産の表式を年次を重ねて計算しているところから(下21頁以降)であると推測しているのである。ただマルクス自身は、そこには何の表題もつけていない。ただ横線を引いて、そこには区切りがあることを示しているだけである。しかし、明らかにそこからは問題が変わっていることは明らかなのである。 (なお、この第8稿全体の構成の問題については、今後も問題になることが予測できるので、今回はこの程度の問題提起で終えることにしたい)。


●再生産表式の「眼目」についての「誤解」もエンゲルスの編集のせいだろうか?

 次の一文は、先に紹介した文章に直接続く文章なのであるが、やはり大谷氏はエンゲルスの編集を批判する一環として次のように述べている。

 〈ところがエンゲルスは、そのマルクスの作業を、彼の作成した、過程の順調な進行を示す表式――第4節の「第1例」と「第2例」――と入れ替えることによって、マルクスの問題解決の過程をまったく見えないものにしてしまったのである。それによって、マルクスの「経済表」にとってかわった「再生産表式」の眼目が、貨幣的な契機を排除して商品資本の諸要素を表示する点にあるかのような、さらに、それが分析の手段であるよりも、あたかも分析の対象ででもあるかのような誤解が広まることになった。〉(上143-4頁)

 この部分で大谷氏は、エンゲルスがマルクスが表式を展開している部分を「第1例」「第2例」という形で編集したので、〈「再生産表式」の眼目が、貨幣的な契機を排除して商品資本の諸要素を表示する点にあるかのような〉誤解が広まったと主張されているのであるが、果たしてそれはエンゲルスの編集に対する批判として妥当なものであろうか。というのは、周知のように、エンゲルスは、その序文で次のように述べているからである。

 《第1篇の最も困難な部分は第5草稿で新たに書き改められた。第1篇の残りの部分と第2篇全体(第17章を除く)には、大した理論的困難はなかった。これに反して、第3篇、社会的資本の再生産と流通は、彼にはどうしても書き直しが必要だと思われた。というのは、第2草稿では再生産が、まずもって、それを媒介する貨幣流通を顧慮することなしに取り扱われ、次にもう一度、これを顧慮して取り扱われていたからである。このようなことは取り除かれ、またこの篇全体が一般に著者の拡大された視野に照応するように書き直されるべきであった。こうしてできあがったのが第8草稿で、これは四つ折り判でわずか70ページの一冊である。しかし、これだけのページにマルクスがどれだけ〔多く〕のものを凝縮することができたかは、印刷された第3篇から、第2草稿からの挿入部分を差し引いたものと右の草稿とを比較してみればわかる。》(全集版8-9頁)

 つまりエンゲルスは、《常に、現存する最後の改稿を以前のものと比較して基礎に据えるようにした》(同9頁)と述べているように、第3篇を、第8稿を《基礎に据え》て、欠けている部分を第2稿によって埋めるという形で編集しているのである。そして第8稿では最初から媒介する貨幣流通を顧慮して問題が取り扱われていたのである。だからエンゲルスは、この第8稿の敍述こそ、マルクスの《拡大された視野》にもとづくものだと判断したのである。つまり社会的総資本の再生産の敍述においては、第2稿で考えられていたような《まずもって、それを媒介する貨幣流通を顧慮することなしに取り扱われ、次にもう一度、これを顧慮して取り扱われ》るというような二段構えのプランは放棄されたと考えたのである。
 もちろん、エンゲルス自身は《拡大された視野》とは何かについては何も述べていない。しかしそれが第2稿のいわゆる「二段構えの敍述」プランを否定する内容であったと判断していることは確かである。エンゲルスは、同じ序文の少し前のところでは次のようにも述べている。

 《マルクスが第2部のために残した自筆の材料を数え上げるだけでも、彼がその偉大な経済学的諸発見を公表するまえに、いかに比類のない誠実さをもって、いかに厳格な自己批判をもって、それらの発見を最大限に完璧なものに仕上げようと努力したかが証明される。まさにこの自己批判のために、彼は、ただまれにしか、新たな研究によって絶えず拡大する彼の視野に内容的にも形式的にも叙述を適合させるにいたらなかったのである。ところで、この材料は次のものからなっている。》(同6頁)

 つまりマルクスが第2部に関する諸草稿を何度も書き直したのは、それ以前のものが不十分だとマルクス自身が判断したからであり、だからいわば後のものはそれ以前ものの《厳格な自己批判をもって、それらの発見を最大限に完璧なものに仕上げようと努力した》結果であること、だから後のものは当然《新たな研究によって絶えず拡大する彼の視野》にもとづくものだと判断しているのである。だから同じ観点から第2稿に対しても第8稿が存在しているのだと考えたことが容易に推測できる。つまり最初から貨幣流通による媒介を顧慮して敍述するということが、マルクスが《新たな研究によって》獲得した《拡大された視野》によるものだと考えたのである。

 こうしたエンゲルスの第8稿の評価の是非については、また別途検討する機会があると思うので、ここでは取り上げないが、しかし私が問題にしているのは、エンゲルス自身は、第3篇を彼が考える《拡大された視野》にもとづいて、最初から媒介する貨幣流通を顧慮して取り扱っているという事実である。だからそうした意図のもとに行なわれた編集が、どうして〈貨幣的な契機を排除して商品資本の諸要素を表示する点にあるかのような〉誤解を広めることに繋がったのかが理解できないのである。ここでは大谷氏自身はそれについて、具体的には何の説明もされていないのであるが、しかしエンゲルスのそうした編集方針を考えるなら、例え形式的に考えたとしても、こうした非難は当たらないのではないかと思わざるをえないのである。
 もちろん、他方で大谷氏はエンゲルスの編集によって、〈「再生産表式」の眼目が、……それが分析の手段であるよりも、あたかも分析の対象ででもあるかのような誤解が広まることになった〉とも述べており、この点では私も大きな異論はないのではあるが。

●大谷氏に、エンゲルスを〈「著者の拡大された視野」のかなめ〉の無理解で非難する資格があるだろうか?

 これも先の一文に直接続くものであるが、続けて大谷氏は次のように述べている。

 〈このような結果になったのは、エンゲルス自身が序文で書いた「著者の拡大された視野」(II/13, S. 8.15–16; MEW, Bd. 24, S. 12)のかなめがどういう点にあったのか、そして第8稿の「II 蓄積または拡大された規模の生産」でマルクスがなにを明らかにしようとして苦闘したのか、ということを、エンゲルスが十分に理解できなかったためであろう。〉(上144頁)

  大谷氏はここで、「著者の拡大された視野」とエンゲルスが書いた問題そのものは否定せずに、その内容の捉え方が違うと考えているようである。先に見たように、エンゲルス自身は「著者の拡大された視野」というのはどういうことなのかについては、何も具体的には論じていない。ただエンゲルスが言っているのは、マルクスが第8稿の時点で到達した「著者の拡大された視野」にもとづいて、第2稿の段階で考えていたいわゆる「二段構えのプラン」を放棄したのだということだけである。ところが、大谷氏は、そうしたエンゲルスの主張、つまり第8稿の段階では第2稿の段階での二段構えのプランを破棄したという判断そのものは肯定しながら、しかしエンゲルスのいう「著者の拡大された視野」の理解は不十分だというのである。しかしエンゲルス自身は「著者の拡大された視野」については何も具体的には述べていないのだから、どうしてそれが不十分と判断できるのであろうか。しかもエンゲルスがいう「著者の拡大された視野」にもとづいてマルクスは第8稿の段階では「二段構えのプラン」を放棄したのだ、という主張そのものは正しいとしながらでである。ここには明らかに論理的に整合しないものが存在している。
 もちろん、エンゲルスがいう「著者の拡大された視野」について、エンゲルス自身が何か具体的に論じているのなら、大谷氏の主張も成り立つのである。つまりエンゲルスはマルクスが第8稿の段階で獲得した「拡大された視野」にもとづいて、第二稿の段階で考えていた「二段構えのプラン」を放棄したのだというのだが、確かにそうしたエンゲルスの指摘は正しいが、しかしその根拠としてエンゲルスが上げている「著者の拡大された視野」の理解そのものは不十分なものである、とその具体的内容に即して論じることができるわけである。しかしエンゲルスは自身は「著者の拡大された視野」については、何一つ具体的には論じていないのだから、もしエンゲルスの「二段構えのプラン」放棄説が正しいとするなら、少なくともエンゲルスがその根拠として上げている「著者の拡大された視野」についても正しいとしなければならないはずではないだろうか。これは形式的に考える限りそうとしか考えられない。そしてここでは問題は形式的にしか成り立たないのである。というのは、エンゲルス自身は「著者の拡大された視野」の内容について何も述べていなのだから、もし「二段構えのプラン」放棄説が正しいとするなら、その根拠としてエンゲルスが上げている「著者の拡大された視野」も形式的には正しいとしなければ不合理だからである。だから「二段構えのプラン」放棄説の立場に立っている大谷氏には〈エンゲルス自身が序文で書いた「著者の拡大された視野」のかなめがどういう点にあったのか、……ということを、エンゲルスが十分に理解できなかった〉などと批判する資格はないのである。それもやはりこの限りでは、まったく根拠のないエンゲルス批判としかいいようがないのである。

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