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異形 月の糸三話

異形 月の糸 三話

男は静かに自室で本を読む。その足元で、幸は両手を広げ、仰向けに寝転がっていた。
「お父さんは充電器。幸は充電池。引っ付いていないと幸は充電不足になってしまうのですよ」
「そうだったのかい、初めて知ったよ」
男が気楽そうに笑った。
「旅から帰って来て、なんだか、幸が甘えん坊になった気がする」
「だって」
「どうしたんだい」
「寂しくて泣いてしまって、あかねちゃんに頭をなでてもらって、あぁ、お姉さんなのに格好悪いよぉ」
男は笑うと、幸に言った。
「なら、父さんに甘えるのをやめたらいいんじゃないか」
「ううん、幸は考えました。十二分にお父さんに甘えておくこと、充電するんだよ。お父さんの優しさを充電して貯めておくんだ」
不意に幸がばたばたと足を動かし始めた。
「大変です、足が攣ってしまいました。幸が溺れてしまいますよ」
「それは、大変だ。よし、父さんの手を掴め」
差し出す男の手を幸は両手で掴むと、ほっと息を漏らした。
「お父さんは幸の恩人です。ありがとう」
「どう致しまして。いつでも呼んでくれ、助けに行くよ」
幸はうふふと嬉しそうに笑うと、手を放し、男の足、ふくらはぎを両手で掴んだ。
「随分、筋肉がついて来たよ。前は幸の手首と同じくらいの太さだった」
「白が厳しいからね。リハビリは辛くってこそ効果があるって、歩いたり、階段上がったりさ。結果としてはそれが良かった、白には感謝だな」
幸がとても澄んだ笑みを浮かべた。
「なるほどね。幸はしっかり白のお母さんだ」
幸はやっと体を起こすと、男を見つめた。
「みんな、幸にとって本当の娘だし、こんな幸せな生活ができるのはお父さんのおかげだよ。ありがとう」
「幸の力だよ。父さんはちょっと手助けしただけだよ」
男は笑みを浮かべると、開いたままの本を閉じた。
「時間かな」
なよの声が襖の向こうから響いた。
「幸、はようせい。時間じゃ」
なよは襖をがらっと開け放った。
「はよう準備せい。奴らにも説明せねばならん」
幸は立ち上がると頷いた。
「お父さん。ちょっと用事を済ませてくるよ」
「そっか。父さん、あさぎのお店にいるよ。そうだな、なよ、かぬかは父さんが預かろう」
ふと、なよは考えたが、頷くと男に言った。
「気を使わせて悪いな」
「どう致しまして」
男が笑みを浮かべた。

梅林の修行場になよと幸。その二人の前に緊張した面持ちの智里が直立不動で立っていた。黒に白に三毛、小夜乃とあかねも三人を囲むように立っていた。
なよと幸も揃うと、幸は智里を見つめ、それから、なよに視線を向けた。
「智里」
なよが智里に声をかけた。
「はいっ」
「お前が所属していた赤炎会に坊主が来て、お前に術を掛けたのを覚えているか」
「能力を超えた力を発揮するという」
智里が赤炎会 総帥の横に立つ僧の姿を思い出した。今となってははるか昔の話のようだ。
「その僧は父さんの知り合いでのう、この地を壊滅せんと欲しておる。お前がこの地に来る可能性を読み、術を仕掛けたのじゃ」
智里は混乱していた。顔すらはっきり覚えていない。確かに力を与えてやると術を掛けられたのは覚えている。でも、なにか目の前で唱えていただけで。
「白は智里の左足。三毛は右足を押さえなさい」
幸が二人に指図した。
「あ、あの。それって」
白が戸惑いながら言った。
「あと五分で智里は理性を無くし暴れる。なよ姉さんが解呪法を唱える間、動けないように押さえなさいということだ。黒は右腕、あかねちゃんは左腕を押さえること」
「はい」
あかねはすっと智里の背後から寄るとその左腕に自分の体を押し付け、両手で包むように
包み込んだ。
「え。あ、あの」
黒が戸惑うのを、すいっと目を細め、あかねが黒に言った。
「右は智里さんの利き腕です。黒さん、気を抜かずしっかりとなさい」
「は、はい」
黒も智里の右腕を体で押さえ込んだ。
「智里さん、ごめんなさい。ちょっとだけ、我慢してください」
黒が戸惑いながら言った。

男はテーブルにつくと窓から外を眺める。昼間のはずなのに、奇妙に薄暗い。
かぬかは男の前に座ると、緊張した面持ちで男を見つめた。
「先生。なにが起こるのでしょうか」
男はゆっくりとかぬかに顔を向けると、そっと笑みを浮かべた。
「鬼が攻めて来るのさ」
「え・・・」
驚いてかぬかは目を凝らし、窓の外を睨んだ。じわりと巨大な影が浮かび上がり、道向こう、二階建の高さは充分にある鬼の姿が浮かび上がった。憤怒にこちらを睨みつけている。
「あと四つ」
男が他人事のように呟く。まるでその言葉に呼応したかのように、あと四体の鬼が現れた。後ろ、二階建の家が鬼の姿に隠れた。
「戦闘術をしっかりと身につけた鬼だ」
「先生、大変ですよ。どうしたら」
男がにっといたずらげに笑みを浮かべた。
「かぬか、頑張れ。応援してるぞ」
「せ、先生」
思わず、かぬかが立ち上がった。
「む、無理ですよ。先生」
「落ち着きなさいな、かぬか」
いつの間にか、かぬかの横に幸乃が座っていた。
「為せば、成るです」
「そ、そんなぁ・・・」


「希代の魔術師 無がここに居ると聞いた、案内願いたい」
重低音の鬼の声が響いた。男とかぬかは、ほぉっと下から鬼の顔を見上げていたが、納得したように顔を見合わせた。
「先生。奴ら、先生の顔知らないようです」
「面が割れてないのなら」
男は顔を上げ叫んだ。
「うちにはそういう人はいません。多分、おっしゃっているのはお隣のむ・とうさんだと思います、趣味のマジックをよく子供たちに見せていましたから。ただ、先程、急に引っ越しをなさって、今はいらっしゃいません」
男の全く戸惑いのない声に、かぬかが驚いた。
「我らに臆して逃げ出したか」
二人の頭の上で嗤うように、鬼の声が低く響いた。
「先生、それ、ありですか」
ひそひそとかぬかが男に言った。
「面倒臭いじゃないか。それとも、折角の実践の場だ、かぬか、頑張ってみるかい」
「用事も終わりましたから、戻りましょう」
即効、かぬかは答えた瞬間、
「何言ってやがる、無よ」
甲高い声が響いた。鬼の足元、じわりと僧形の男が現れた、深く編み笠をし、顔が見えない。
「やぁ、愚円。その額はお若い人のお洒落かい」
編み笠を降ろした愚円の額には角が一本、生えていた。
「鬼はいいぞ。力は湧き上る、術の威力も全く違う。寿命も人の二倍だ」
微かに狂気を宿した眼で愚円が嗤った。
「長生きしてもたいしていいことはないぞ。それより、赤炎会の女の子に術をかけたろう」
「あぁ。上手く行けばと思ったが、失敗だったようだな、お前がここで戯れ言を騙っているということは」
「町中で発動すれば大量殺人になっていたぞ」
「いいじゃないか。俺は何も困らないよ」
男は微かに吐息を漏らすと呟いた。
「とりあえず、愚円。君は退場だ」
その瞬間、愚円を硝子球が包み込み、愚円共々飛び去った。
「自力で脱出するころには海の向こうだな」
鬼達が男を注視していた。
「かぬか。これは言い逃れできそうにないな」
かぬかが思い切ったように頷いた。
「頑張ります」

「いいなぁ、お父さんと一緒に戦えて」
幸が店の窓に額を押し付けたまま呟いた。
智里の件が済むと同時に幸は店へと走り、男と鬼のやり取りを見つめていたのだった。
「あの位置関係だと、かぬかさんの補佐ということでしょうか」
いつの間にか、あかねも幸の隣りで二人を見つめていた。
「実質、お父さんがかぬかを動かすことになる、でも、それによって、かぬかは強くなるよ」
「いいですねぇ、かぬかさん」
あかねが呟いた。
「もう、何処に行ったかと思ったら」
黒があたふたとやって来た。白も三毛もだ。
「幸お母さん。どうしたんですか」
白が文句を言いかけた時、鬼と対峙する男とかぬかの姿を見つけた。
「三人も早く来い。お父さんの戦う姿、滅多に見られないぞ」
幸が緊張した面持ちで呟いた。
「始まったか」
なよが小夜乃と智里を両脇に抱え、走ってきた。
「なよ姉さん、これからです」
視線を二人に向けたまま、幸が答えた。
なよはほっとして、二人を降ろすと言った。
「二人ともしっかりと見ておけ。滅多に見れるものではないぞ。術師 無の戦いなど」

「見学者も揃ったことだし、そろそろ頑張るかな」
男は呟くと、かぬかの後ろに立った。
「まずは左」
すっとかぬかの腰に男の右手が触れる。一瞬で足も動かさず、二人の体が左へ移動した。瞬間、もといた場所を鬼の拳が地面を穿った。
「あわわ、なんですか。今の」
「足を動かさない歩法だ。身体操作と寿法の合成だよ。本家の術師も江戸時代の始めくらいまでは使えて当たり前だった」
男がすっとかぬかの腰の後ろに触れた。一瞬で、前方に移動する。大振りの剣が空気を切り裂いた。
かぬかが上を向く、牙をむいた五つの鬼の顔が空を埋め尽くしている。しかし、不思議なほど心が落ち着いて恐怖心が現れない。それは、鬼の顔に恐怖が現れたからだ。
つっと二人が浮かび上がり、鬼の眼の高さに止まった。鬼が手出しできずにいる。
「かぬか、思い浮かべなさい。自分が鬼と同じ大きさになっている、そして向かい合っているのだと」
「はい・・・」
かぬかが心を沈め、巨大化した自分の姿を思い浮かべた。
「実体のかぬかは虚像の掌だ。その掌で前の鬼を投げてみなさい」
「撃つのではなく、崩す」
「そうだ。いま、かぬかの思うように移動できる。やってみなさい」
かぬかが大きく息を吸った。
「行きます」
ぐっとかぬかが目の前にいた鬼を睨みつけた。かぬかと鬼の視線が重なる。視線を繋いだまま、鬼の足元に急降下する、鬼の姿勢が微かに前のめりになった瞬間、かなかは翻り、鬼の肩へと一瞬で飛び上がる、その肩を鬼の踵微かに後ろを目指して全身で押し出した。滑るように鬼が前のめりに落ちた。
かぬかが涙を流しながら、強く息喘いだ。
「ちょうど良い方向と長さだ」
男は頷くと、驚いて退いた四体の鬼に語りかけた。
「確か君は銀髪烈鬼というのじゃなかったかな。なら、君達は鬼王を警護する者達だ。違うかい」
「そうだ」
鬼が重々しく答える。
「多分、さっきの小鬼に上手く言われたんだろう、無を倒すのは貴方方しかいませんとかさ」
鬼が無言で答えた。
「鬼王の警護がこれで甘くなる、小鬼は何か策略があったんじゃないかなぁ」
明らかに鬼達の顔に動揺が走った。
「何事にも優先順位がある。早く王の安否を確認するのが本来の君達の役目かもしれないね」
銀髪烈鬼が他の鬼に目配せをする。倒れた鬼も含めて四体の姿が消えた。
「最後に訊ねたい、お前はどうして己自身が戦おうとしない」
男は少し考え、あっさりと答えた。
「だって、弱い者いじめは格好悪いじゃないか」
瞬間、鬼が牙を剥き出しに男を睨んだ、鉛のような鬼の重い気が男を襲う、男は片手でそれを払うと、笑みを浮かべた。
「いつか、君がこの娘に勝てたら、その時は相手をしてあげよう。でも、この娘は強くなるよ君達が束になっても敵わないくらいにね」
鬼の姿が消えた、二人が地面に降り立つ。
「せ、先生」
「ん」
「は、ハードル上げ過ぎです」
緊張が解けたのか、膝から崩れるようにかぬかがしゃがみこむ、地面に尻餅をつきそうになる瞬間、男がかぬかを抱き上げた。
「白澤さんなら、余裕で勝てる相手だよ」
男が楽しそうに笑った。

「いいなぁ、かぬか。お姫様だっこ、いいなぁ」
幸が額を硝子窓に押し付け、男とかぬかを見つめていたが、はっと気が付くと、硝子窓から離れた。
「黒。お風呂の用意だ」
幸がお風呂の竈へと走った。


男はかぬかを椅子に座らせると、白に言った。
「かぬかの首の後ろ手を当てて暖めて上げなさい、もう片方の手で頭も支えるようにね」
「はい」
白は返事をすると、かぬかの後ろに立つ。
「小夜乃と三毛はかぬかの足をさすってやってくれ。あさぎはハーブティ、少し甘めのを用意してくれるかな」
四人は男の指示に素早く従う。男はほっと息を漏らすと、少し離れた椅子に腰掛けた。
なよも男の前に座った。
「鬼の世界でも派閥争いが活発になっているのかな」
「鬼の王もそれなりの歳じゃ、賑やかにもなろうて」
「なよの元亭主殿も、それだけ歳をとったんだね。あ、痛ったた」
ぎゅっとなよが男の頬をつねっていた。
「つまらぬことを言うでないわい」
なよは手を戻すと、呆れた顔をして、溜息をついた。
「要らぬことを父さんは知っておるのう。ま、今の奴のことなど、わしの知ったことではない。奴が権勢に溺れてしもうたのが、この成り行きのおおもとじゃ。わしとしては、民を殺された恨みは簡単には消えぬ。鬼の王がどうなろうと知らぬわい」
男は右手を伸ばすと、そっとなよの頭をなでた。
「なよに幸いがもたらされますように」
男はそっと笑みを浮かべると、小夜乃に声をかけた。
「小夜乃。かぬかと智里を連れて、なよとお風呂に入りなさい。沸いたようだ」
小夜乃は頷くとかぬかを立たせ、肩で支える、慌てて、智里も反対から支えた。
「なよ母様。お風呂、いただきましょう」
なよは、くっと顔を上げると、振り返った。
「ゆっくり風呂に入るとしよう」
男が見送る、白と三毛が男の前に座った。
「お父さん、どうしたらいいんでしょう」
深刻な顔をして、白が男に訊ねた。
「それは難しい質問だ。だってね」
言いかけて、男は言うのをやめた。
あさぎの注いでくれたハーブティを一口、飲み、白の眼をじっと見つめる。
「今まで通りの日常を送ること、それが大事だよ。そしてね、そのためにはどうすればいいのか。自分の持っている札、これから持つだろう札を考えて道筋を見いだして進むこと。学校や商店街、白を向かえてくれる場所は増えたと思う、白なりの道筋を考えてみなさい」
白は吸い込むように男の眼を大きく見つめ、そしてしっかりと頷いた。
「さぁ、白もお風呂に入りなさい。まだ、ちょっと肩が固まっているぞ」
男が片手で白の肩を払う、ほっと白は笑みを浮かべると、立ち上がった。
「お父さんも一緒に入っていいんですよ」
「はは。それは勘弁してくれ、父さん、恥ずかしがり屋だからね。最後、お風呂を洗いながら入るよ」

白を見送ると待っていたように三毛が男の前に座った。
「千客万来だなぁ」
「あ、あのね、お父さん」
「どうしたんだい、三毛」
「三毛も強くなりたいんです」
三毛がじっと男の眼を見つめた。
「実践経験は少ないけど、三毛は強いよ」
「でも、あんな大きな鬼となんて、どう戦えばいいかわからないです」
男は眼を閉ざすと、微かに俯く。
そのまま、呟いた。
「多分、幸は娘が鬼と戦うのを避けたいんだろうな、鬼と出くわしても大丈夫なように、その場を逃げることができるような方向で教えているようだ」
男は眼を開くと三毛に言った。
「黒はね、妹二人を守りたいから強くなりたいと言った。白は、強くなるのはもう充分だと思っているようだ、三毛は何故、強くなりたいのかな」
「それは・・・、強くなることが楽しいから」
三毛が困ったように答えた。
「人はね、自分が何かを得たら、それを他人に評価して欲しいと思う、基本的な欲求だ。それが、ごくたわいないものならいいんだけど、そうじゃない場合は大変なことになる。新しい力を手にいれたり、武器を手に入れると、使いたくなる。こんなに凄いんだよってね。そして、次はそれを所有する正当性を妄想し始める。三毛、それは良く覚えておきなさい」
「ごめんなさい」
三毛がぎゅっと目を瞑って俯いた。
男は深く溜息をつくと、柔らかな笑みを浮かべた。
「三毛、立ちなさい」
「は、はい」
慌てて、三毛が立ち上がった。
「幸の教えたなみゆい。舞にも似た動きだけれど、幸の使う武術の要諦が詰まっている。前半の途中、自然体から、両手を前に出して、右足を半歩出す一連の動きがあるだろう。それを、そこの広いところでやってみなさい」
言われた通りに三毛が動く。ほんの一分ほどの、とても滑らかで、一切の角を廃した舞だ。
「相当、練習しているんだな。しっかりと整っているよ」
「ありがとう、お父さん」
「どういたしまして。次はね、上半身の動きと下半身の動き、ちょっとだけずらしなさい。上半身をほんの少しだけ、先にする」
三毛は頷くと、もう一度、同じ動作を繰り返そうとしたが、すぐに足を滑らせ、尻餅をついてしまった。
「それが本来の浮脚だ。アイススケートってのは、氷とエッヂの間に解けた水があるんだけどね。つまりは浮いているからこそ、あれだけ速く移動できるんだ。今の三毛は初めてスケート靴を履いた子供だね」
尻餅をついたまま、三毛はぼぉっと男の言葉を聞いていたが、はっと気が付くと、男の顔を見つめた。
「お父さん」
「ま、ほどほどに頑張れ」
「うん。お父さん、ありがとう」
「どういたしまして。三毛も風呂に入って来なさい」
三毛も頷くと白の後を追った。
男がふっと吐息を漏らす。
「当分は頑張って生きるか」
男が呟いて、顔を上げると、あかねが笑みを浮かべて男の前に座っていた。
「三毛さんのことは、あかねが引き受けます。命にかけても、我を見失った三毛さんを引きずり戻します」
「まっ、そうならないことをまずは期待するよ。必ずそうなるわけじゃないからね。そうだ、あかねちゃん、さっきの、ちょっとは勉強になったかい」
「勉強になりました、自分より巨大なものとの戦い方が分かりました。空を移動する術も見ることができましたし、あとはできるように練習するだけです」
「あかねちゃんなら、すぐに出来るようになるだろう」
男は笑うと少し冷めたハーブティを少し口に含む。
「ところで、お父さん」
「ん」
男が顔を上げた。
「あかねのお願いも聴いてください」
「どんなお願いかな」
「お父さんはあかねちゃんと呼んでくれますけど、ちゃんを無しにして、あかねって呼んでください」

男が思い出すように言った。
「最初、うちに来た時、あかねちゃんと呼んで、それ以来だったね。いいよ、それじゃ、あかね」
「はい。あはは、家族になった気がします」
「言葉は難しいなぁ。ただ、あかねのお父さんやお母さんのことをないがしろにしちゃだめだよ」
ふと、あかねは眉を曇らせ俯いた。
「私は父や母にとっても酷いことをしました。私は娘失格なのですよ。たとえ、笑顔を浮かべてくれていても、本心は恐怖を抱いている、私が両親をそんなふうにしてしまったのですから、自業自得です。幸い、弟が生まれ、いま、妹が母のお腹の中です。私がいない方がいいんです」
「多分、両親は苦しんでいるだろう、素直に娘を抱き締めることができない自分自身にね」
「なら、苦しまないように離れてあげるのも親孝行です。鬼紙家にはたまに御祖父様の顔を見に行きますし、現当主の護衛役もすることがあります。御祖父様がいらしてくださる間は鬼紙家にも参りますが」
あかねは一層に俯くと、拳をぎゅっと握った。
「あかね。左手を出しなさい」
あかねが不安げに顔を上げ、左手をそっと差し出した。男は右手で握手をすると、左手で、あかねの手を包み込む。
「一つの拳よりも、手を二つ、繋いだ方が暖かいだろう」
「はいっ」
あかねが目を輝かせた。
「あかねにはたくさんの家族がいる。それをいつも心に留めなさい」
男は振り返ると、カウンターの裏にしゃがみこんで隠れているあさぎに声をかけた。
「あさぎ。出ておいで」
「えっと、いいでしょうか」
あさぎが恐る恐る顔を出した。
「話が深刻になって、ちょっと居ずらくて」
男がくすぐったそうに笑った。
「あさぎもあかねの手をぎゅってね、握ってくれ」
あさぎは柔らかな笑みを浮かべ、差し出されたあかねの手をしっかりと握った。
「あかね。これからいっぱい、お喋りをしよう」
「あさぎ姉さん、ありがとう」
あかねは手を離すと、じっと自分の手を見つめた。
「あかねは発見しました」
「何を発見したの」
あさぎがあかねの隣りに座り、訊ねた。
「あかねは案外単純で、とっても幸せなんだって」
あさぎはあかねに体を寄せると、ぎゅっと抱き締めた。
「ありがとう、あかね」
あさぎが呟いた。
男は笑うと、あさぎに言った。
「あさぎは、何か、悩み事はないかい」
あさぎは顔を上げると、男に笑みを浮かべた。
「ありましたけど、いまはなくなりました」
笑顔であさぎが答えた。

なよとかぬかが風呂から上がったらしく、あさぎとあかねも風呂へ入りに行った。
男はほっと息を漏らすと、少し冷めたハーブティを一口飲む。
「幸乃。血の繋がった家族じゃない、思いの繋がった家族は、たまに手を繋がないとならないのかも知れないね」
ゆらりと幸乃は男の体から出ると、隣りに座った。
「お前様。幸乃とも握手です」
にっと笑って、男が幸乃と右手で握手をした。
「幸乃、ありがとう」
「ありがとうとは」
「父さんの横にこうして居てくれることへの感謝、ということかな」
幸乃の頬が朱に染まった。
「まぁ。お前様は、ほんに女たらしですわ」
男は笑みを浮かべると、手を離し、目を瞑った。
「泣いたり、笑ったり、怒ったり、色んな声が聞こえる、とっても賑やかで楽しいんだよ」
「怒るのは主になよですけど」
幸乃が笑みを浮かべた。
「確かにそうだ、なよはカルシウムが足りないのかなぁ」
男はいたずらげにそう呟くと、目を開け、ハーブティを飲み干した。
「あさぎのハーブティも美味しい、これはあさぎの才能だな」

 ちょっとお休みして、蛇足を一つかいています。


35
最終更新日 : 2014-04-04 21:46:36

異形月の糸 あかね

「お給料、三桁ですよ。あなた、頑張ってくださいね。壮介のために」
恵美子が万遍の笑みを浮かべて言う。
「いや、お前。そうはいうけど、親父の家ってのはさ」
言い終えるすべもなく、妻の笑みが光の速さですべてを飲み込んでいく、俺は押しつぶされ、息が出来ず、喉を詰まらせ、自分の呻き声で目を覚ます。毎朝、こんな夢を見るのだ。そして、少し人間不信になる。

啓介は、布団から、体を起こした。二十畳の日本間。羽毛布団が心地よい。障子は純白、朝の明かりを淡く呼び込み、この部屋全体ををやわらかく照らしだしている。山一つを覆うように造られた邸宅だ。遠くに山鳩の声、近くに囀るのは雀の声か。
「叔父様。お目覚めなさいましたか」
少しあどけない、しかし、芯のしっかりした声が襖の向こうから聞こえた。
「ありがとう、起きたところだよ」
ゆっくりと襖が開き、入ってきたのはあかねだった。
「叔父様、着替えでございます。もうすぐ、朝餉の用意が出来ますから、どうぞ、お顔を洗って居間にお越しくださいませ」
笑顔で、あかねが言った。
「世話をかけて申し訳ないね」
あかねはかぶりを振ると、悪戯げに笑みを浮かべて答えた。
「鬼神家現当主の叔父様でございます。どうぞ、ふんぞり返って偉そうにしてくださいませ」
「柄じゃないよ。まさか、僕に順番が回ってくるとは思わなかったんだから」
啓介は、小さく溜息を漏らし、少し肩を落とす。そして、あかねに顔をそむけ、障子の向こう、朝の空を思い浮かべた。
「今日は良い天気のようだね」
「はい。鬼退治には絶好の日和です」
「ほんと、そうだ」
啓介が戸惑うように小さく呟いた。
「叔父様。ご心配なく、お供も居ります」
「お供って」
それには答えず、あかねはにぃっと唇の両端を引くように笑みを浮かべると、顔を隠すように頷いた。

まさしく城だ。啓介は着替え終え、廊下を歩いていた。廊下と言っても、小さな車くらいなら走れるのじゃないか。雨戸が開け放たれ、硝子戸から朝日が差し込む。朝の光に、少し気持ちが落ち着く。立ち止まり、啓介は窓から外を眺めてみた。一つの山を覆うように作られた城、いや、鬼紙家の邸宅だ。見下ろせば、渓谷が見える、谷が深すぎて、底までは光は届かない、そうだ、あの闇の中では光を嫌うモノ達が、今も蠢いているのだろうか。
ふと啓介は子供の頃を思い出した。鬼紙家は八百年続く旧家であり、その血統を絶やさぬため、意識的に男子を産み育てる。つまりは長男が不慮の事故や病気で亡くなっても、家が存続するためだ。ただ、啓介は七番目であり、加えて、正妻の子ではなかったので、この本邸には子供の頃に二度来たことがあるだけだ。
しかし、と思う。まさか長男が鬼にとり憑かれて兄達を殺してしまうとは。

「こんちわ。・・・あ、いえ、おはようございます」
振り返れば、少女。絵に描いたような令嬢だ、黒のジャージと少し日に焼けているのを除けば、午後の昼下がりにテラスで紅茶を飲むに相応しい、美少女。
「やぁ、おはよう。君は」
「初めまして、黒です。あかねちゃんに呼んでいただきました」
にっと楽しげに浮かべる少女。笑みを浮かべると深窓の令嬢から、一瞬にして近所のお姉ちゃんのような朗らかな笑顔になる。向き合う者を自然と笑み浮かべさせる、そんな笑顔だ。
「ええっと、黒さんか。あかねの友達だね、叔父さんはね」
「現当主でしょう、御老よりも偉い人だ」
「偉くはないよ。偉そうな顔をするのが仕事なだけさ」
啓介は不思議に思う。何故、こんな返事をしたのだろう。中学、いや、高校生くらいの女の子に。どうしてだか、不思議に安心するのだ。ほっと啓介は吐息を漏らすと、黒に笑いかけた。
「ありがとう」
「ありがとうって」
「はは、どうしてだろうね。自然にありがとうって言ってしまった」
「それじゃ、黒も言います。叔父さん、ありがとう」
黒もにっと笑顔を浮かべると、啓介を促した。
「朝御飯ですよ。大金持ちの朝御飯です。楽しみ」

時代劇に出てくる武家屋敷のように、居間に箱膳が並べられ、上座に啓介と御老が正座する。
「おはようございます」
頭を下げ、啓介が御老に挨拶をする。御老は鷹揚にうなずくと、顔を上げた。
「だめです、おじい様」
末席に座るあかねが柳眉を曇らせ、御老に言葉を掛けた。
「おじい様。おはようには、おはようで返すのが礼儀です」
「ふん。あの女と住むから、お前はそのような生意気な女になるのだ、困ったものよ」
むっとした顔をしながらも、御老は啓介に顔を向けると、おはようという。
啓介が本邸に来てから、一週間になる、毎度の朝の行事だ。
初めは御老がぼけたのかと思ったのだが、なるほどと合点がいった。東京本社勤務から出張という形で、初めて本邸に一ヶ月間住む込む。東京本社とは鬼紙家の財産管理会社だ。しかし、実際は広範な、つまり、合法違法問わず情報収集と操作をその主な職務としている。一ヶ月この屋敷に住むにあたって、集めた情報の何処かに御老が孫のあかねに特に目を掛けているとあったが、それは正確ではなかった。
溺愛している、つまりは孫のあかねと話をしたいがためだけに、この朝の行事は続けられているのだ。
しかし、考えてみればそれも仕方がない。
あかねは利発で美しい女の子だ。それに、まるで心を読むかのように、その応対は見事だ。場を読み、過不足なく対応する。情報にはその他にも、あかねは優れた格闘技の持ち主であるとあったが、それは訂正しなければならないだろう、あの華奢な腕では、おひつを両手で運ぶのすら。あれは・・・。
あかねは両手でおひつを抱え、黒の後に置いた。
「黒さん、おひつは後ろに置いておきます。お変わり自由です、調理のものに言いましたから、おかずも三人分、用意しますよ」
黒はあかねに向き直るとあかねの手をしっかり両手で握った。
「ありがとう、呼んでくれて。あかねちゃん、大好き」
「もう、黒さんは。御飯を前にすると子供になるんだから」
「だって、このアジの干物もとっても良い仕事だよ。お味噌汁の出しは昆布、それも羅臼昆布と利尻昆布をぴったりの按配にしてだしがとってある。とっても、贅沢だよ」
柔らかな笑みを浮かべる二人に啓介は何かほっとした気分を抱いた。本邸へ来てからの、居こごちの悪さ、得体の知れない気配のようなものが、この黒という名の女の子の笑顔ですっきりと払われた気がする。
ふと、啓介は黒の隣に誰かが居るような気がした。考えてみれば、黒の隣が不自然に一人分、空いている。啓介は目を凝らして、その空間を見つめみてた、誰か居る。誰か居るようなのだが、どうも妙だ、見えてこない。
「これは失礼いたしました」
空間から小さく声が流れた。
やがて、黒の隣に、これは、ベトナムのアオザイだろうか、薄茶色の民族衣装を身に纏った少女が現れた。漆黒の黒髪を肩の辺りでぱっつりと切った、一重の涼しい瞳をした女の子だ。
「普段から陰形を心がけております故、ご不審の念を抱かせてしまいました、申し訳ありません」
ついと、少女は啓介を見つめると、微かに頭を下げた。
「あ、いや。いいんだ、そういうのも慣れたよ」
黒があわてて、啓介に言った。
「漣ちゃんはとっても良い子なんです。ちょっと人見知りなだけで」
御老が珍しく、黒の言葉を継いだ。
「啓介」
「はい」
「本来ならば、漣様が上座に座らなければならん、鍾馗の姫様だからな。その隣は黒、ホンケ白澤の孫じゃ」
御老の言葉に啓介は目を丸くした。
鍾馗と言えば、鬼にその領土を征服され、難民となっていたが、その後、ホンケの力添えにより、鬼との連戦に勝利し続け、ほぼ、もとの領地を取り戻しつつあるという、それを考えるなら、黒さんと姫君の仲がよいのも不思議ではない。あかねはこの二人とも友人なのだろうか、情報にはなかったことだ。
ふと、啓介はあかねの姿が消えていることに気がついた。
あぁ、姉さんか。
長女、礼子夫婦がやってくると、あかねは姿を消すのだ。

「おはようございます」
鬼紙家長女、礼子が大きいお腹を抱えるようにやってきた。その後を赤ん坊を抱いた夫がやってくる。二人は黒の向かいに座ると、礼子が黒に話しかけた。
「お久しぶり。先生はお元気」
「はい、元気です。今頃は母さんと畑仕事をしていると思います。あの・・・、お腹は」
「もう、予定日まで一ヶ月もないの、大変」
黒は如才なく笑みを浮かべると、礼子に言った。
「男の子、それとも女の子ですか」
「えへへ。女の子、上の子が男の子でしょう。男の子はつまらないわ。女の子だったら、一緒にお買い物もできるようになるだろうし、楽しみ」
どう返事をすればいいのかわからず、黒は曖昧に笑みを浮かべたまま、頷いた。
礼子の夫、一郎が改まった顔をし、啓介に言った。
「当主、おはようございます」
「おはよう」
「今日は鬼退治でございます。本来、この行事は当主の儀礼的なもので、鬼に見立てた者を刀で斬るまねをするだけのものなのですが、今回に限り、実際の鬼を」
「大丈夫ですわ、啓介さん」
夫の言葉を遮り、意地悪く、礼子が笑った。
「鬼紙家の当主として啓介さんが後れをとることなどありえません。それに黒さんもついていらっしゃいますものね」
いつのまにかご飯を頬張っていた黒は、声を出せずうなずき、お茶を飲む。
「任せてください、頑張ります」
あきれた顔をして、礼子は黒を見つめたが、ほっと溜息をつくと、いただきましょうと言い、お箸を持つ、いただきますの言葉もなしに食事が始まった。

鬼神排儀式と称される行事が鬼紙家にはある。本邸にある能舞台で開催される。荒れ狂う鬼を当主が刀で成敗していく動きを舞に仕立てたものであり、年に一度、この季節に行われる。ただ、実際に鬼がこの国に明らかな影響を与え、国民の多くが鬼の存在を認めたいま、このように様式上の鬼退治で良いのか、それが礼子により発せられ、当主が実際に鬼と戦うということになったのだ。
たぶんに礼子の現当主への嫌がらせである、下位の者が当主に収まったことが余程腹に据えかねたのだろう。ただ、礼子なりの計算では、この提案は御老によって却下され、それが現当主啓介に対して礼子自身の立場を強いものとし、いずれは自分の息子に当主を禅譲させようという考えがあったのだろう、御老の承諾に、礼子が俯き唇を噛むのを啓介は見ていた。
啓介自身も当主であることへの強い思いはなかった、だから、代わってくれと礼子がうまく言ってくれさえすれば、すぐにでも降りて逃げ帰りたくあるのだ。中堅の商社に経理で勤める会社員がいきなり、鬼だの術師だのわけのわからない連中の中に放り込まれたのだ、逃げ出して何処に不思議があるというのだ。
啓介は少し息をもらして顔を上げた。嬉しそうに御飯を頬張る黒という女の子、隣に居るはずの目を凝らさないと見えてこない引きこもり系の女の子、この二人を供に鬼退治をせよということなのか。桃太郎に倣うのなら、お供は三人。まさか、あかねが供についてくれるというのか。この人選、御老はいったい何を考えているのだろう。

個々食べ終え、席を立つ。やがて、喉に食事が通らない啓介と、丼茶碗になみなみとお茶を入れがふがふ飲む黒、多分、隣には姫様もいるのだろう。
ふと、黒は漣の膳を見た。
「漣ちゃん、食べていないの」
「はい、私は自分の作ったものしかいただかないことにしています。ごめんなさい、早くに言えば、黒さんに食べていただけたのに、冷めてしまいました」
「毒とか入ってないよ」
「ええ、そう思います。ですが、いま、私が死にますと、折角の進撃が止まってしまいます。そのため、例外なく他人が作ったものはいただかないことにしているのです」
「ね、漣ちゃん、用事が終わったら時間あるかなぁ」
「と、言いますと」
「うちでいっぱい御飯を食べよう。うちなら大丈夫だよ」
ふと、俯き、漣は考えたが、笑みを浮かべると頷いた。
「ありがとうございます、楽しみです。ですから、どうぞ、私の分も食べてくださいな」
黒はくすぐったそうに笑みを浮かべると、小さく、ごめんなさいと呟いた。
黒は漣の分も食べると、満足そうにお腹をぽんぽんと叩いた。
「まぁ、黒さん。行儀が悪いですよ」
膳を片づけるのを手伝っていたあかねが笑った。

鬼紙家本邸にはおよそ百人の人間が居る。御老を筆頭に鬼紙家本家、その下には分家である鬼神十家から選ばれた者達がそれぞれ、食事の用意をする賄い方、屋敷の維持管理をする繕い方、鬼や妖を研究する計り方、鬼紙私兵、なお、鬼紙私兵は平時は森方として、植林をはじめ、農耕を主としている。

あかねは改まった表情で啓介の前に正座をすると、微かにお辞儀をする。
「今日の鬼神排儀式には、この三人がお供いたします」
あかねの振る舞いに啓介は息を飲んだ。可愛くてよく気のつく賢い姪、それだけではない触れるだけで斬られてしまいそうな鋭さ、鋭い刀が喉元に突きつけられた、そんな緊張感を味わう。
「そ、そうか・・・、よろしく」
「三人とも、希代の魔術師 無の弟子にございます。一人ででも鬼の軍隊を打破できる力量を持っております、どうぞ、ご安心くださいませ。なお」
啓介が息を飲んだ。
「このこと、東京本社にお伝えになられますと、速やかに叔父様を殺すことになります、奥様や壮介様の悲しむ顔を見たくございません。何卒、お忘れなきようお願いいたします」
あかねはゆっくりと頭を下げると、ふっと顔を上げた。
「と、いうことで、叔父様。お出かけのご準備をどうぞ」
今までの笑顔であかねは啓介を促すと、鬼紙私兵女方が二人、あかね両脇に正座し、啓介にお辞儀をする。
あかねは三人を見送ると、黒と漣に向き直った。
「さて、黒さん、漣さん、御準備の方は宜しいですか」
漣は微かに視線をあかねに向け囁いた。
「私にとって、鬼との戦いは日常の一つでしかありません。今回は姉弟子であるあかねさんからのお声をいただき参上した次第です。お声をいただいた瞬間から準備は出来ております」
「黒も。黒もご飯食べたから大丈夫、いっぱい、動くよ」
あかねは安心したように笑みを浮かべ立ち上がった。
「あかねは着替えがあります。お二人とも、玄関先にどうぞ。車を回しておきます」

玄関と言っても、鬼紙家のそれは、神社の拝殿のようにも見える。左右を狛犬が屋敷に背を向けた形で今にも飛びかからんとしている。
黒は興味深そうに狛犬の口を覗き込んでいたが、車の音に振り返った。
「変な車だ。とっても変」
黒が楽しそうに笑った。車から降りてきた運転手に黒は笑いかけた。
「変、とっても変な車。とっても胴長」
降りてきた運転手は困ったように額に手をやったが、諦めたように笑う。
「リムジンって言うんだ。変な車じゃないぞ」
「でも、胴長。背の低いバスみたい」
黒はリムジンに近寄ると窓を覗き込んだ。
「真っ黒だ」
ふと、運転手は真面目な顔になって、黒の背中越しに話しかけた。
「お前。強いのか、御当主様をお守りすることが出来るのか」
黒い車窓に運転手の真剣な顔が写る。
黒がそのままの姿で呟く。
「黒は強いよ、とっても強い。でも」
黒は振り返ると運転手に言った。
「おじさん程じゃないけどね」
運転手がたまらず大笑いした。
「こいつは参った。何処でそういう台詞を覚えるんだ、この頃のガキは」
黒は柔らかな笑みを浮かべると、運転手に尋ねた。
「ガキじゃないよ、黒だよ。ね、鬼紙家は、現当主派と礼子派に分かれている。圧倒的に礼子派のようだけど、おじさんはどちら派」
黒の言葉に運転手は驚いた。言葉の内容もそうだが、静かに語りかける言葉に先ほどまでのはしゃいだ子供っぽさは微塵もなく、柔らかな物腰と笑み、どれほどの修羅場をくぐれば、そんな表情を浮かべることができる。
「俺はどちら派でもねぇ。俺は鬼紙私兵、鬼紙家存続が唯一の大事だ」
ふいと黒が視線を運転手の隣にやった。
「合格です、平次さん」
いつの間にか、あかねが運転手の隣に佇んでいた。あかねは黒のカンフー服で運転手を見上げる。
「これは、あかねお嬢様」
あかねは淑やかな笑みを浮かべると、少し、恥ずかしげに俯いた。
「平次さんに運転をお願いしたのは正解でした。よろしくお願いしますよ、平次さん」
あかねは平次の右手をとると、しっかりと両手で包みこんだ。
「ま、まかせてください」
平次が緊張して叫ぶように答えた。
「何、緊張してんだ。この国の男は性的異常者が多いと聞いたが、さしずめ、お前はロリコンとかいう輩だな」
「なんだと、黒」
「ち、違うよ。黒じゃないよ。もぉ、漣ちゃんったら」
慌てて、黒は両手をぱたぱた振ると、視線を隣に移した。ゆっくりと、平次の目に、女の子の姿が浮かび上がってくる。
「なんだ、見えてなかったのか。修行が足りないな」
黒は溜息をつくと、漣に言った。
「漣ちゃん、性格が変わった」
「いいえ、師匠から男は危険な存在だから、やられる前にやれ、と教えていただいています」
「あぁ、母さんか。母さん、極端だものなぁ」
黒は溜息をつくと俯いた。
はっと平次はあかねの姿に気づき、声を上げた。
「まさか、あかねお嬢様がお供をされるのですか」
「はい、そのつもりですけど」
きょとんとした顔であかねが平次を見上げた。
「だ、だめです。情報では既に部隊は鬼の巣窟になっていると聞きますぞ。そんなところにあかねお嬢様をお連れすることなどできません。こいつらならばともかく」
横目で平次は黒と漣を睨んだ。

「平次。聴いてください」
あかねは哀しげな笑みを浮かべ、平次の目をじっと見つめた。
「御当主はまったくの素人。半年前までは普通の会社員。到底、鬼と戦うことなどできようはずはなく、こうやって助っ人をお願いいたしましたが、全て他家の者が助けたとあっては、鬼紙家の体面にも関わります」
あかねは瞳を潤ませ、強く平次を見つめた。
「こんな私でも鬼に立ち向かい、叔父様に助けていただいたと話をすれば、叔父様の体面、ひいては鬼紙家の体面を守ることが出来ます」
「ならば私がお供に参ります」
「それはだめです」
あかねはふっといたずらげに笑みを浮かべると、手を伸ばし、平次の鼻の頭を捻った。
「新婚三ヶ月さんにそんなことはさせられませんわ」

「なるほど、勉強になります」
二人を見ていた、漣が小さく呟いた。
「ん、どうしたの」
漣が黒を見上げた。
「あの、黒さん。漣は美人でしょうか」
「え。あ、うん。美人だと思うよ」
「ですか。なら、使えますね」
漣が一人うなずいた。
「あの、それって・・・」
黒が戸惑ったように漣に言った。
「黒さん。幸師匠の鋼鉄の正面突破力。なよ姉さんの蟻のはいでる隙もない全包囲力、これにあかねさんの王水のごとくの人心浸透力が加われば怖いものなしですよ。勉強になります」
「いや、あのね」
黒は漣の隣で溜息をついた。あぁ、純真な子供が大人の影響で汚れていくよぉ。

「なんだか、賑やかだね」
当主が着替え終え、やってきた。あかねは笑みを浮かべると、当主の前に立ち、ネクタイを整える。
「女の子が三人寄れば喧しいものですわ」


平次は戸惑っていた。当主達四人を陸上自衛隊第三基地一キロ手前で下ろし、あかねの指示通りにやってきたのが、この喫茶店の前だ。車を停め、運転席から辺りを見渡す。住宅地、何処にでもある普通の住宅地だ。
女の子が運転席の窓をこんこんと叩く。
「こんにちは。平次さんですね」

平次は用心深くドアを開け、車から出た。窓を開けるだけでは、かえって攻撃も防御もやりづらい。
「君は」
三毛は笑顔を浮かべ、平次を見上げた。
「三毛といいます。えっと、鬼紙家の人ですよね」
平次は視線を外さず、微かに頷いた。この世界、例え相手が子供でも油断は出来ない。
「昨日の晩、黒姉ちゃんがお邪魔したと思いますが、妹の三毛と申します」
「そうか、黒さんの妹か」
平次は少しほっとしたように息を吐くと、笑顔を浮かべた。
「俺は平次。鬼紙家の兵隊、鬼紙私兵だ。あかねお嬢さんからこちらに赴くように言われてな、やってきた」
「あかねちゃんから、連絡はいただいています。あ、車、通行の邪魔になりますよね。ちょっと片付けておきます。そうだ、出しておかなきゃならない荷物、ありますか」
「特にはないが、どこかに駐車場があるのか」
「はい」
三毛は頷くと、家に向かって声をかけた。
「幸母さん、力を貸してくださぁい」
よし、っと三毛は頷くと、車に向き直った。
「無術は呪を唱えません、ひたすら意念を用いるのみ」
三毛が小さく呟き、車を見つめる、微かに唇を震わせ、意念を補強する。色があせるように車が消えた。
三毛はほっとしたように肩の力を抜くと、平次に言った。
「さぁ、中へどうぞ」
平次は慌てて、車のあった辺りを手で探る。
「あ、大丈夫ですよ、壊していません。違う場所に移しただけですから」
あたふたと言い訳をする三毛を見て、なんだか、平次は笑ってしまった。驚きのあまり、感情が制御できなくなったのか、どう言えばいいのかわからない。そうだ、平たく言えば、こいつは参った、そういう気分だ。
「三毛さんは凄いんだな」
「いいえ。母さんの力を借りただけで、三毛だけでは無理ですよ」
三毛は笑みを浮かべると、喫茶店へと平次を案内した。
喫茶店は一枚板のテーブルが中央、その周りに椅子が置かれており、カウンター席もある。カウンター席には女が一人、四十代くらいだろうか、ケーキセットを前に店員と談笑している。もう一人、テーブル席に窓を背にして男が一人、珈琲を飲んでいる。
平次がテーブル席に着くと同時に、店員がやってきた。
「あさぎといいます。平次さんですね、あかねちゃんから聞いています」
平次はあさぎを見て、胸が高鳴る思いがした、綺麗な人だ。
「は、はい。あかねお嬢様からこちらで、まま、待つようにと」
美人に緊張してどもってしまう自分がふがいない。
あさぎは、ついっとメニューを取り出すと、平次に見せる。
「一番のお勧めは、ハーブティとケーキセットですけど、男の方には甘いものはどうかな」
「いっ、いえ。自分、甘いものは好物です」
あさぎは笑みを浮かべると頷いてカウンターへと戻る。平次は肩を下ろして、深く息を漏らした。ほんの少しだけ結婚したことを後悔、いや、後悔などしていない。
「平次さん、どうしたの」
三毛が怪訝そうにたずねた。
「いや、なんでもないよ。それより、この喫茶店は鬼紙家と何か関係があるのか」
「んと、わからないです。でも、鬼紙のおじいちゃん、時々、来てくれますよ」
「鬼紙のおじいちゃん」
「あ、ごめんなさい。鬼紙老がちゃんとした呼び名ですよね」
「いや、いいんだ」
平次はいつもの苦虫を噛み潰したような御老の顔と、おじいちゃんという言葉が上手く重ならなかった。ここでは愛想の良いじいさんをしているのか。
「なんじゃ、居ったのか」
三毛は眉間にしわを寄せると、鬼紙老の口真似をし、手を差し出す。
「食え。なんとかというケーキだ」
三毛は平次に笑いかけた。
「こんな感じです」

「よう、恵美子さん。どうした、機嫌良さそうじゃな」
なよはカウンターに座る常連の恵美子に声をかけた。
「なよさん。ありがとう、子供が勉強面白いってね、言っているのよ。なよさんのおかげよ」
「家庭教師という程でもない、ちと、勉強のやり方を教えただけじゃ」
なよは恵美子の隣に座ると言った。
「知らぬことを知るのは楽しい、それだけのことじゃな。子供はたまに背中を押してやらねばならん。気が向いたら、また教えに行ってやる」
ふと、なよが平次に気づいた。
面白そうに笑みを浮かべると、平次の隣に座った。
「三毛。こやつがあかねの言っていた男か」
「そうだよ。平次さん、これから一週間、修行するんだよ」
「よくもまぁ、幸が承諾したのう」
「あかねちゃんが、涙目でお姉ちゃんお願いって言ったら、だいたい通るもの」
「はは、確かにそうじゃな」
愉快になよは笑うと、平次を見てにたっと笑った。
「あの、なんのことか、わからないんだが。俺はここで時間をつぶして、連絡あり次第、迎えに行く予定なんだがな」
「その予定は無しじゃ。電車とバスと歩きで帰りおるわい」
平次は理解できず、天井を睨んだが、三毛が腕の裾をくっくっと引っ張るのに気づき、三毛に顔を向けた。
「あかねちゃんから頼まれました。平次さんに一週間、武術と呪術を教えてほしい。基礎はできているからって。鬼紙家の、現当主をしっかりと守ってくれる信頼置ける人が欲しい、平次さんなら信頼できるからって」
一瞬で平次は顔を赤くすると、大声で異議を叫ぼうとした、その瞬間、なよが平次の顎をかんと掌で打ち上げた。
「痛てて」
なよが嬉しそうに笑い、言った。
「上品な店じゃ、大声を出すでないわい」
「俺は鬼紙私兵の」
「なにが鬼紙じゃ。鬼紙など、まだまだひよっこ。随分と、わしも、鬼紙の始祖をいじめてやったが、思い出すと懐かしいのう」
驚いて平次はなよの顔を見つめた。一瞬で青ざめる。そして、小さく呟いた。
「まさか、かぐやのなよ竹の姫」
「いまはこの家の次女なよじゃ。よろしくな」


現当主啓介と三人は隊内の執務室に通された。
基地の中だ。来客用のソファに啓介が座る。ソファの後ろに三人が立つ。後ろはドアだ。
啓介の前には分隊長と補佐が座る。分隊長は小柄ででっぷりと太った姿、反して、補佐は実務上がりか、胸板の分厚い男だ。
ついと黒は制服を着た男の後ろに並ぶ五人に目をやった。五人の額、あれは角だ。
元は人間だろう、鬼神化兵計画のここは実験場だ。
黒は微かに息を吐く。
鬼神化兵、人間の一部と鬼の共同開発によって実現化された技術だ。鬼の遺伝子をウイルスによって人間の体に組み込み、人間の細胞を鬼の細胞に近似させる。筋力の強化と寿命もおよそ人間の二倍にはなる。ただ、問題は脳も鬼の特徴を備えるため、感情の起伏が激しくなることと、そして、人間を見下すようになる、そのため、指示系統の混乱が生じやすいなど、運用の問題があった、でも。黒は目の前の五人が適切に組織に従属しているのを見て取った。多分、脳が変化しないような方法を見つけたのだろうと思う。

啓介は腹に力を入れ、ぐっと分隊長を見つめた。
「鬼紙家当主 鬼紙啓介です。今回は当主就任の挨拶と視察のため、伺いました」
「これは恐縮ですな。鬼紙家御当主、直々のお越しとは」
余裕の笑顔で分隊長が答えた。啓介は分隊長が名刺を出し名乗るかと、間を置いたが、その様子はなく、それではと、言葉を繋いだ。
「実は、貴隊に鬼が存在するという情報を得て、確認のため、伺った次第です」
分隊長は大声で笑うと、ソファの背もたれに背中を預けた。
「参りましたな。そのようなデマを真に受けられましては」
「こちらに鬼は存在しないと、そういうことですか」
分隊長は大きく頷くと、身を乗り出した。
「おとぎ話、想像上の生物とされていた鬼が実在していた、これはもう否定しきれないでしょうな。我々は国民の生命財産を護るため、その鬼とも戦う所存でおります」
そう言いきり、笑うと、振り返り、角を生やした兵を順に見た。啓介もそれにならい、五人の兵を見る。
「おわかりいただけましたかな」
万遍の笑みを分隊長が浮かべた。
「鬼紙老にもよろしくお伝えください。さて、これで、よろしいかな」
不意に補佐が顔を上げ、呟くように低い声で啓介に言った。
「ここは、素人と女子供の来る場所ではない。早々にお引き取り願おう」
啓介は大きく息を吸い、吐き出した。
「鬼紙家も随分となめられたものですな。およそ、八百年、鬼の研究を通じて、この国を鬼から護ってきた、その鬼紙家を、たかが自衛隊如きが、見せびらかすようにずらりと並べた鬼を前にして帰れとは」
微かに足が震える。啓介はおもいっきり体に力を込め、震えを押さえる。
補佐がつまらないものを見るように啓介を眺めた。
「鬼紙家当主殿、雉も鳴かずばという言葉をご存じかな」
啓介の背中、あふれるように汗が吹き出した。
ついとあかねは啓介の隣に座ると、啓介に笑みを浮かべた。
「叔父様、立派です。叔父様を鬼紙家当主として尊敬いたします」
あかねは補佐に向き直ると笑顔のまま、話しかけた。
「鬼紙家の歴史から計れば、現政権もあんたら戦争屋もぽっとでの素人。素人くんだりが、わかったような顔をして鬼に関わるんじゃねぇ。そういうことです」
目の前の補佐のこめかみがどくどくと、ひきつった。
「面白いなぁ」
あかねは顔を上げると、五人の鬼神兵をじんわりと眺めた。
「やあ、兄さん達、鬼になって気分は最高かい。人間やめなきゃよかったかなぁとか悔いはしないかなぁ」
あかねの挑発に、鬼の足が微かに前方に擦り出され、睨みつける、臨戦状態だ。
補佐が低く呟いた。
「自ら、帰りの扉を閉ざされましたな。障害物排除せよ」
ソファの背に足をかけ、鬼神兵が飛び出した。
瞬間、あかねはふわりと浮かび上がると、独楽のように鬼の首を蹴る、首がちぎれ頭だけが飛んだ、黒はすばやく啓介の体を後ろから抱え、背後に飛び退いた。銃を用意していなかったのだろう、分厚いタガーがあかねの首をなぎ払う、それを緩やかに避けると、あかねは目にもとまらぬ速さで、鬼の剣掴む拳に両手を添え押し出す。すとんと鬼の頭が落ちた。
あわてて、三体の鬼があかねから間合いを置いた。啓介はあかねの豹変ぶりに足が震え、黒が後ろから支えていなければ、立ち続けることも出来なかったろう。
「間合いに意味はない」
あかねは呟くと微かに姿勢を落とした、瞬間、あかねの姿が消える。目が追えない、一人は顔面を壁へと踏みつぶされ、もう一人は胴体が半分にちぎれ、大音響とともに、最後の鬼は頭を床に押しつぶされていた。
あかねは埃を払うように両手を打つと、じわりと右足を上げ、補佐の胸を足で押し出す。額にあかねの足跡を残したまま、気絶した補佐がソファを転げ落ちた。
ゆっくりと足を戻すと、分隊長に向かって、にたぁっとあかねは笑いかけた。
「少し、身のあるお話をしましょう。邪魔もいなくなりましたことですし」
あかねはがくがくと震える分隊長の前に立つとじわりと前かがみになってその顔を睨みつけた。
「おい、聴いているのかよ。拝聴してくださっているのかって訊いてるんだ」
「は、はい。き、聴いております」
あかねはソファに座ると分隊長に言った。
「この分隊は鬼に征服されつつあったところを、鬼紙家の尽力で、鬼と戦う力を得、全
ての鬼を退治した。そういのでいいんじゃないか」
「え・・・」
「物わかりの悪いおっさんだな。そうすりゃ、八方うまく収まるじゃねえか」
「は、はい。その通りです」
あかねは分隊長の胸ぐらを右手で掴むと片手でぐいっと持ち上げた。
「お前、わかってんのか。二十代、三十代、これからの連中を己の欲で鬼にしちまったんだぞ。奴らにも家族があったんだ。妻や子供、これからを約束した恋人がいたかも知れねぇ。みんな、反古にしちまったんだ。鬼の計略にまんまとはまった年寄りの欲でな」
あかねは分隊長の顔をテーブルに擦りつけた。
ふっとあかねは柔らかな笑みを浮かべると、立ち上がり、黒と漣に振り返った。
「分隊長さんもご理解いただけたようです。お二人で鬼退治をお願いいたします」
漣が小さく手を挙げた。
「質問があります」
「はい、どうぞ」
「かなりの数、鬼の気配がする。ただ、鬼のようでもあり、人間のようでもある、そんな気配もあります。どう対処すれば良いでしょうか」
一瞬、あかねは後ろを向くと、分隊長の頭を殴りかけたが、歯ぎしりをしつつ、気持ちを落ち着かせ、深呼吸をする。そして、二人に向き直った。
あかねは嬉しそうに笑みをたたえると言い切った。
「人が鬼に変わるなどあり得ませんし、あってはならないことです。人は人として、人の世界に住み、鬼は鬼として鬼の世界に住めば良いだけのこと、きっと、それは人に擬態しようとする鬼に違いありません。迷うことなく退治してください」
漣がうなずき言った。
「了解した」
ゆっくりとドアを開け、外にでる。慌てて黒も漣のあとを追った。

二人、通路を歩く。
ふと漣が黒に言った。
「あかね先輩も漣も、居場所は師匠のところだけなのです。父は実は気弱な人です、立場上、強くは見せておりますが、漣を恐れています。漣は、この戦争が終わりましたら、師匠の元に参ります。黒さんの可愛い妹になります。どうぞ、お願いですから受け入れてください」
黒はとても柔らかな笑みを浮かべると、漣の手を握って歩く。
「約束。一緒にご飯を食べよう、一緒に働こう、一緒に笑って、一緒に泣こう、一緒に暮らそう。一緒にこうして歩こう」
ぎゅっと黒は握る手に力を込めた。
「漣ちゃんが妹になってくれて嬉しい」
漣はほっとしたように小さく笑みを浮かべたが、改めて表情を引き締めた。
「気がかりがなくなりました」
漣が走る。通路の向こう、幾つもの銃口が向けられていた。迷彩を纏った鬼達だ。
鼓膜をつんざく銃声が通路を充満する。漣が無数の銃弾をすり抜ける、音の数倍の速さだ。その風圧に鬼達の体が浮いた。
黒は自在で流れ弾を払い、壁を蹴る。セメントの壁に大穴が開いた、その向こうは中庭だ。黒は通路を飛び出し、通路と平行に走る。通路を抜けた向こうにある建物、そこに鬼の気配が集中していた。
壁が微塵に破裂する、漣が通路から飛び出した。
「漣ちゃん、鬼は」
「既に血肉の塊です」
こともなげに漣が答えた。
黒は思う、鬼ってなんなんだろう、人とどう違うのか。小夜乃ちゃんは角のある鬼だけれど、とても優しくて面倒見の良い女の子だ。角が伸びてくると幸母さん に切ってもらって、絆創膏を貼っている。洗面所でそっと絆創膏をはがして、伸びていないか、心配そうに鏡を覗くのを見たことがある。まだまだ、子供なの だ。
一際大きな建物、あれが研究棟だ。微かにうなるような機械音。嫌な予感がする。

「二人とも元気だなぁ」
幸は呟くと窓から二人の姿を眺めた。視界の向こう、異質の形をした円柱形の建造物、あれが鬼神化計画にて、人を鬼に変える研究施設だ。黒と漣が向かっている。
「幸お姉ちゃん」
驚いたようにあかねが声をかけた。幸は振り返ると、いたずらげに笑みを浮かべた。
「いきなり顔を出してごめん。二人の護り髪が反応してさ、やって来た」
あたふたとあかねは幸のそばによると、幸の指先の示す方向を見つめた。
「ロボット・・・」
あかねが呟いた。
「映画とかである、パワードスーツって奴だ。かなりの速さと力がある、人なら勢いに振り回されて気絶してしまうだろう、鬼の男は脳が筋肉でできているからな」
幸は笑うと部屋の中を眺めた。
「既に宴の後か」
いきなり分隊長が立ち上がると大声で笑った。
「形勢逆転だな、超強化型パワードスーツXZ?3型、すぐに先程の奴らを殺して、ここに来るぞ。内部絶対零度のアクチュエーター採用、抵抗0が生み出す高速は」
幸は笑みを浮かべると、分隊長に言った。
「うるさい。お前、気絶」
ばたっと、分隊長が白目を剥いて、まさしく落ちた。
あかねが興奮して、幸の服の袖を引っ張った。
「パワードスーツ、三体ですよ、2対3ですよ」
「あかねちゃん、行きたいの」
「はい」
新しいおもちゃを目にした子供のようにあかねが元気よく返事した。
「それじゃ、幸は当主とお喋りしているよ」
あかねは笑みを浮かべると、
姿を消した。
さて、と幸は呟くと、倒れた死体を避けて歩き、鬼紙家当主啓介の前に座った。
「初めまして。幸と申します」
啓介は困惑しどう答えたものかと、次の言葉を思い浮かべられずにいた。
いきなり現れた美少女。あかねと同じか、それとも少し年下。あまりにもこの風景とそぐわない。
「えっと、君も強いのかな・・・」
我ながら、なんて間の抜けたことを言ってしまったんだろう、啓介は頭を抱えた。幸はくすぐったそうに笑うと、啓介を興味深そうに見つめた。
「嗜み程度ですわ。ご安心ください」
幸はそう答えると、部屋を見渡す。壁を染め上げる血の色が黒ずみ始めている。
「鬼紙当主様、不遜なこととは存じますが、少し、込み入ったお話をさせていただいてよろしいでしょうか」
「ど、どうぞ」
幸は頷くと、緩やかに話し出した。
「御当主はあかねちゃんがいなければ、本邸に来てから、五回、死んでいます。二回は毒殺、三回は車中にて、運転手が暴漢となり襲う、すべてあかねちゃんがそうならないように、御当主を護っています」


「これは、御褒美ですよ」
鬼が長刀を振り降ろした。反転しつつ、ふわりとあかねが浮かび上がり、パワードスーツにくるまれた、鬼のこめかみを蹴る。その蹴りを擦り上げた長刀の腹で鬼が制した。
「攻撃を防御してくれるなんて、最高です」
パワードスーツは鬼よりも二周りほど大きい、鬼の姿は、胸から上だけが外に現れている。
「あかねちゃん、この人達、強いよ。どうしよう」
黒の言葉に鬼の攻撃をすり抜けながら、あかねが声を上げた。
「黒さん、実力の六割しか出ていませんよ。しっかりなさい」
あかねは一瞬の間を読み、鬼の刀の根元を両掌で挟み込んだ。超音波寸前の甲高い音が響き、根本で刀が折れる。あかねはそのまま刀を振り上げると、鬼の足の甲に深々と突き刺した。
「一体ずつ、潰していきますよ。黒さん、漣ちゃんに加勢して、まずは一つ、潰しなさい」
「はいっ」
あかねの剣幕にの黒は直立して返事をすると漣に向かって走った。
漣は攻撃しきれずにいた。三メートルはあるだろうか、長刀を振り回す、子供のような鬼の剣技だが、ヘリコプターのプロペラの如くの勢いに臆していたのだった。
走りながら黒が叫んだ。
「音と先端の速さに惑わされないで。それほど速くはないよ」
鬼が振り向いた瞬間、黒は姿勢を地面すれすれまで落とし、片手地面に両足で鬼の膝横を蹴り抜いた。鬼の体が泳ぐ。瞬間、漣が一点集中、自在、鬼の首を貫いた。白煙、抜いた自在の跡から、液体窒素が吹き出し、鬼がそのままの姿で凍り付いた。
黒が振り返ると、あかねは倒した鬼の上に立ち、研究棟を睨んでいた。もう一体は、と黒が素早く目で探す。
凍り付いた右腕が転がっていた。少し離れたところには首、胴体も三つになって、斜めに転がっていた。
あかねちゃんは幸母さんの初めての弟子で、必要以上に教えて過ぎてしまったかなと母さん、笑っていたことがある。
「黒さん、漣ちゃん。一体だけですけど、かなり強い鬼がいます。多分、原種の鬼でしょう」
研究棟を睨みつけたままのあかねの両手に二本の自在が現れた。いや、半分の長さだ。
「幸姉さんなら、素手で大量殺戮も出来ますが、あかねはまだまだその域に至っていませんので、久しぶりに武器を使います」

原種の鬼、黒があかねの言葉を繰り返した。
齢九百年と噂される鬼王と角のある鬼の女との間に生まれた鬼を原種の鬼と呼ぶ、純血種の鬼の上位に位置する強い能力を持った鬼。
黒もたくさんの鬼を見てきたが原種の鬼に対するのは初めてだ。

一瞬、体が反応した。黒は漣をだき抱え跳んだ。
漣の居た場所が黒く焦げ、異臭を放っていた。
研究棟に幾つもの煌めきが見える。
「無粋な」
あかねが研究棟を睨み呟いた。
「あかねちゃん、一度、退却しよう」
黒が叫んだ。
「レーザー励起には時間がかかります。照準が定まり、レーザーが射出されるまでに移動すれば特に問題はありません」
「でも、数が多いよ」

空中で硝子の割れる音がした。
「あれは」
漣が呟いた。
硝子球が割れ、細かな破片がいくつもいくつも重なり、研究棟と三人の間を壁になり渦巻く。
発射されたレーザーが擦り硝子を通して眺める花火のように、乱反射され消えていく。
「お姉ちゃん」
あかねが呟いた。
硝子の壁がそのまま研究棟へと移動していく。そして、研究棟の表面を削り取り、消えた。
ほっと吐息を漏らすと、あかねが呟いた。
「それでは参りましょうか」

幸は啓介に振り向くと、笑いかけた。
「あかねちゃん達、楽しんでますわ」
状況が読めず、啓介は曖昧な笑顔を浮かべるしかなかった。
「話は戻りますが」
啓介が言った。
「姉が狂いだしていると」
「はい。正妻の子である自分が女であるというだけで当主になれない、そのことで、不満や被害妄想に駆られています。正気に戻すには礼子の子を当主とし、後 見役を礼子にする。啓介さんは東京本社の代表取締役に専念し、礼子の息子が元服すると同時に退職する。かなりの給料と退職金は用意されるでしょうし、それ でいいのではと。もちろん、啓介さんが鬼紙家当主として頑張っていくという決意ならそれで結構ですけど」

幸のすべてを見透かすような柔らかな眼差しに、これはと啓介は理解した。分水嶺、返答如何によって、これからの人生が完全に変わる、啓介の手が汗ばんだ。
意地を、虚勢を張るか、それとも・・・、啓介は大きく溜息をついた。
こういうことは正直に言う方がいい。
「つい先程までなら、幸さん、君の言葉に渡りに船と従っていたに違いない」
啓介が思いきって顔を上げ、幸を見つめた。
「と、申しますと」
「困ったことに、あかねからね、鬼紙家当主として尊敬するなんてね、言われてしまったんだよ。だから、結果として、幸さんのいう形になるかもしれないけれど、それを前提にすることは、私には出来ないんだ」
表情を変えぬまま、幸が呟いた。
「男という存在にはあきれますわ」
幸は笑うと、肩の力を抜いて吐息を漏らした。
「せっかく、あかねちゃんの仕事を減らそうと思いましたのに」
幸は立ち上がると、窓辺により、研究棟を眺めた。三人は既に研究棟に乗り込んだようだ。
幸は啓介に向き直ると、窓に腰掛けた。
「せっかくの鬼退治。桃太郎がお喋りに興じているだけでは面白くありません。御当主、原種の鬼を見に行きましょうか」
啓介は深呼吸をし、唇を噛みしめると、立ち上がった。
ふと、幸は思いついたように、窓の桟に立つと、左手を前に出し、その手が消えた。
「わっ、うわっ。な、なんですか。幸母さん」
服の衿を幸の左手に掴まれた三毛が現れた。
キャベツを抱えたままの三毛が唖然として周りを見回した。
「な、なんですか、これ。血だらけですよ」
幸は三毛の前に立つと笑みを浮かべた。
「いい機会だ。原種の鬼を見ておけ」

研究棟地下、体育館ほどの広さ、煌々と灯りがともり、燕尾服にステッキとシルクハット、但し、その背は三メートルはあるだろう、鬼が宙に浮いた安楽椅子に腰掛けていた。
幸と三毛と啓介の三人は壁を抜けるように現れた。
三人の位置は、ちょうど鬼の背後になる。
「あれが原種の鬼」
三毛が呟いた。
その声に鬼が背を向けたまま嘲るように言った。
「鼠が三匹、迷い込んだようですな」
幸がここぞと鬼の態度にわめいた。
「どこぞの遊園地のかぶりモノじゃあるめいし、こんな可愛い女の子が鼠なわけねえだろう。こちとら、立派な人間様の御一行だ」
鬼の座る椅子がふわりと回り、鬼が正面を向く。
「これは元気なお嬢さんですな」
額に長い角を二本生やし、顔は赤ら顔。余裕があるのだろう、薄笑いを浮かべている。
幸が唇を歪め笑う。
「高間宮王子。お前は鬼王の器じゃないな」
「なんだと」
一瞬で鬼の顔が憤怒に赤く染まった。
三毛は気づいた。いま、幸母さんが勝った。戦いは既に始まっていたのだ。鬼の感情がぶれ、もう力を充分に発揮することは出来ない。
「鬼王もそう長くはない、お前は他の原種の鬼を出し抜くため、人の科学技術を得ようとした、その時点で鬼王失格なんだよ」
「お前、何者だ」
鬼の怒声に怯むことなく、幸が言い放つ。
「直近の部下に裏切られるような沸点の低さと、その上、人望の無さではしょうがねえな」
幸の狂言とはったりが効を奏した。鬼の両手が怒りに震える。
幸母さんのはったりに、いま、鬼の頭の中では裏切り者の部下を思い当てようと必死だ。
風切る音。
あかねが鬼の首を自在で切りつけた。

鬼がするりと避けた。
瞬間、黒と漣が凪ぐ。三人の刃と化した自在を、鬼は慌てるふうもなく、避けていく。
幸が悔しそうに額に手をやる。
「うひゃぁ、奇襲でも全然、かなわねぇ。ま、いい。これも勉強だ。三毛、行ってこい」
「はいっ」
三毛はキャベツを横にいた啓介に手渡すと、飛び出した。
「御当主、うちで穫れたキャベツだ。帰ったら食ってくれ。千切りにして大蒜醤油で食えば最高だ」
幸はそう言うと見上げた。
全く格が違う。四人の動きが逆に遅く見える。
「ただの筋肉馬鹿じゃねえってことか」
「これはピンチってことかなぁ」
啓介が思わず呟いた。
ふぃっと幸は見上げると、啓介に笑みを浮かべ言った。
「大丈夫ですわ。だって、私が居りますもの」
「なら、安心だ」
啓介が笑みを浮かべた。
「面白いおっさんだな。あかねちゃんが肩入れするわけだ」
幸は四人に声をかけた。
「撤退だ、戻ってこい」
幸の言葉が終わるよりも早く三毛は戻ってくると幸にしがみついた、怖かったのだろう、肩が震えている。黒とあかねも漣の手を引き戻ってきた。
三人とも激しく息をし、床に座り込んでしまった。
「黒、びびったか」
涙目で黒が頷いた。
「あかねに漣もお疲れさま」
幸は軽く三毛の肩を叩くと、前に出、鬼から五人を守るように立ちはだかった。
「おや、心地よい風が吹いていたのですが、止まってしまいましたな」
鬼が平気な顔をして言う。
「こら、赤鬼。とっとと鬼の世界に帰れ。ここは人の世界だ」
「なにを今更」
鬼はやっと幸に向き直ると笑いかけた。
「それは降参ということでしょうかな」
幸は一瞥をくれると、大声で鬼に言った。
「およそ千三百年前、人と鬼との約定により、お互い不可侵が成立したはず。その約定を違えるは許されない。ここは人の世界、直ちに鬼の世界に帰れ」
「ほほう、古い話をご存じですな。しかし、ここの責任者、なんと言いましたかな、小太りの男ですが、この棟を私に譲渡すると申しましたぞ、ならば、この棟 は鬼の世界の飛び地のようなもの、つまり、そちらが不法侵入者ということですな。確か、進入者は如何様にされても不服は出せないと約定にありましたな」
幸はにぃいっと唇を歪め笑う。
「残念だったな、ここは民主主義の国だ。どこぞのえらいさんが仰る言葉より、民意の方が優先されるんだよ。この場で民意はあたしだ。ここは人の世界、だから、とっとと帰れと言うんだ」
「無茶なお方だ」
鬼の方が幸の言葉にあきれる。一体、これほどの自信が何処から出てくるのか。鬼は不思議に思った。
幸はふっと肩の力を抜くと、優しく言う。
「なら、ゲームをしよう。それで決着を決めるのはどうだ」
「ゲーム、ほう、どんなゲームですかな」
幸はふと俯いたが、顔を上げると鬼に言った。
「サッカーをしよう。あたしが向こうの壁中央に蹴る、それをあんたが止めるって寸法だ」
「ふむ、しかし、ボールがありませんな」
幸が不思議なものを見るように言った。
「いや、あるだろう。あんたの首の上、すとんと落としてやるから、それをボールにしよう、中身、詰まってなさそうだから、よく弾むぜ」
鬼は一瞬、幸の言葉が理解できなかった。
「原種の鬼ってのは、生命力が強いらしいな。首切ってもしばらくなら生きていて、繋げば元通りになるってじゃないか。首のないお前さんがうろうろする、こりゃ見物だな」
鬼の顔が一気に充血した。
椅子から飛び降りると、幸の前に仁王立ちになる。。
「生意気な小娘が。先程からの無礼。どうしても私を怒らせたいようだな」
吠える鬼の怒声が床を震わせた。
「いや、怒るかどうかはあんた次第。つまりは己の器量ってもんがどれほどのもんか、ちぃぃっと見せてもらったわけだ、まっ、図体の割にはちんけな奴だってことだな」
平気な顔をして幸は笑うと、ふわりと右手に自在を取り出した。
鬼を睨みつけたまま、幸が声を上げる。
「三毛、俯くな、顔を上げろ。黒、いつまでも泣いてるんじゃない。あかね、しっかり見ていろ。漣、お前は修行のやり直しだ、もう一度、鍛えてやる」
はっとあかねが顔を上げると倖に駆け寄った。そして、二人の動きがよく見えるよう、少し離れ、正座する。

慌てて三人もあかねの隣に正座した。
「この小娘達は何をしている」
赤鬼、高間宮王子があかね達を睨んだ。
すいっと幸が自在を中程に持ち、自然体に構える。
「決まってんだろう。師匠の動きを一瞬たりとも見落とすまいと殊勝な弟子達だ。既にあの子達にお前への恐怖はない。さて、あんたには敬意を示してやろう、高間宮王子。遠慮するな、そのステッキは趣味人気取りの仕込み刀だ、気兼ねなく抜いてくれ」
赤鬼、高間宮王子は左手にステッキを持つと、こいぐちを切る。
間合いは、単純に背の高さから考えれば、高間宮王子の間合い、幸には遠すぎる。
ゆっくり幸は自在を頭の上にかざした。
「あたしの頭の上、この棒にそいつをおもいっきり打ちおろしてくれ」
「どういう意味だ」
「察しの悪い奴だな」
幸はにたっと笑うと言葉を続けた。
「約定に違反した高間宮王子をあたしは半死半生、ぼこぼこにしてやるつもりだ。ただ、どうせなら、死にものぐるいでかかってきてくれる方がこの子達の修行にはいい、あたしがどれほどのものか、まずは、単純な力比べをしょうってことだよ」
高間宮王子の顔色が赤色、幸の言葉に深紅に変わった。
「我が打ちおろさば、その姿、微塵となるぞ」
「しっかり、停めてやるさ。びびったんなら、袈裟でも、横に凪ぎ払ってもいい、斬ると見せて、蹴るのもありだ、もっとも、そんときは、あんたは高間宮王子って原種の鬼から、ただの、赤鬼一号に格下げだがな」
気楽に幸が笑った。
一瞬、高間宮王子の体が大きく広がった、広がった筋肉が降り上げ、直刀を激しく打ち降ろす、しかし、音がしない。
幸の自在と高間宮王子の直刀は確実にぶつかっている。じわりと力が引き込まれ、体全体が吸い込まれる感触に、高間宮王子は慌てて、退くと、幸との間合いを取る。
あかねは二つの棒の交差する瞬間を睨んでいた。あれこそ、力の含みと流しだ、あかねは理解した。高度な身体操作で相手の打撃を無力化する動きだ。
「あたしがどれほど使えるか、合点がいったかい。それじゃ始めるかな。黒、三毛、あかね、漣、ついてこい」
 

四人は素早く立ち上がると、幸の後ろに控える。幸はすたすたと歩くと、高間宮王子の右太股を自在で打つ。呻き声と共に高間宮王子が後ろに退いた。幸の上段が高間宮王子の太股の高さになる。
そのまま、幸は追うと、左の太股を打つ、たまらず、高間宮王子は膝をついた。
黒がその動きを目を見張って驚いた。
幸母さんは普通に歩いている、打つ速さもそれほどじゃない。どうして、あの鬼は打たれるままにいるんだろう。
幸はふわりと浮き上がると、自在を後ろ手に持ち、膝をついた高間宮王子の横面を打ち据えた。勢いに体ごと飛んだ。朦朧とした意識の中で、高間宮王子はいっ たい何が起こっているのか、理解しようとしたが、自身の膝辺りの背しかない女になぶられているこの状況がどうしても理解できなかった。
起こりがないんだ、黒が気づいた。母さんの動きに滞りがない、起こりもなくて、鬼は動きが読めないんだ、そういえば、鬼が母さんを探すように視線を巡らせている。
母さん、目の前にいるのに。
「落ち着け、高間宮王子」
倒れたままの、鬼の前で、幸が声をかけた。
「少し待ってやろう。倒れている奴を打てば、まるでいじめだ。教育にも悪いからな」
幸は自在を消すと、四人に向き直った。
「漣、久しぶりだ。元気にしてたか」
幸は柔らかに笑みを浮かべると、漣に尋ねた。
「はいっ、元気です」
ふっと、幸は漣の頬に触れる。
「無理しなくていいよ。当分、うちで暮らせ。長にはあたしから言っておく、どうしても手が必要というなら」
幸が黒と三毛を見た。
二人ともうなずく。
「ちょっと、泣き虫だけど、なんとかなるよ」
いきなり漣は幸にしがみつくと、幸の胸に顔を埋めた。
幸は笑顔を浮かべると、漣を抱きしめた。
「あかねは当分、鬼紙家か」
幸の後ろであかねが頷いた。ふと、あかねは当主を思いだした、慌てて辺りを見回す。あっけにとられた顔で、啓介は元いた場所、キャベツを抱いたまま、正座していた。
あかねは駆け寄ると、啓介に言った。
「叔父様、早くこちらへ」
「いや、それがね」
啓介が困りきって答えた。
「腰から下が浮いたような感じでね」
完全に啓介は腰を抜かしていた。
「失礼をお許しください」
あかねは言うと、啓介を後ろから抱え上げ、走る。
途中、高間宮王子の倒れている、その横を通り、一瞥をくれたが、気にする風もなく駆け抜けた。
高間宮王子はあかねのそれを見、怒りに震えた。自意識の高い高間宮王子にとって、それは幸に殴られる以上の侮蔑だったろう。
叫んだ。
「金角、銀角、右角、左角。来い」
声に呼応するように、黒い靄が天井からゆらゆらと降り立ち、形が定まって行く。やがて、高間宮王子の頭一つ分は上背のある赤鬼が四体、現れた。
振り向き、幸は新たな鬼を見つけると、驚いた表情で叫んだ。
「右角様、どうして」
幸は一瞬、しまったという表情で両手で口を隠した。
驚いて、高間宮王子は幸と呼び出した右角を見比べていたが、はっと気づくと、叫んだ。
「金角、銀角。右角を取り押さえろ」
一瞬、金角と銀角は戸惑ったが、右角を二人で取り押さえる。一番、戸惑い途方に暮れたのは右角だろう、呆然と開いた口がそれを物語っている。高間宮王子はなんとか起きあがると、一人、呟いた。
「まさか、右角が裏切っていたとは」
三毛は思う、幸母さんのはったりの続きで、一人の鬼の未来が潰えました、南無。多分、幸母さん、心の中では笑っていると思う。ただ、これで、四体がうまく連携することはなくなったのは事実。
「ごめんなさい、右角様」
しおらしく、しかし、聞こえよがしに幸が言う。
元気を取り戻した高間宮王子が左角に命じた。
「その女を殺せ」
左角が幸の前に立つ。
幸は顔を真上に向け、左角の顔を眺めた。
「無駄にでけえな」
幸が呟く。この地下のホール、かなり天井は高いが、それでも、少し飛び跳ねれば、頭をぶつけるかもしれない。額に角一本の赤鬼だ。
幸は右のつま先を軽く上げ、地面をとんと打つ。ふわりと浮かび上がり、左角と同じ目の高さになる。そして、静かに言った。
「お前さんの上司はあたしを殺せと言う。命令通り、あたしを殺すのかい」
「それが命令とあらば」
静かに左角が答えた。
「ここは人の世界。古の約定により、あたしは高間宮王子を打ち据えた。義はこちらにある。それでもあたしを殺すのか」
微かに左角の眼が泳いだ。
「左角。十年ほど前までは、鬼の世界も平和だった。それが、鬼王の力が弱まると同時に、原種の鬼達が跋扈しだし、お互いが次の鬼王になろうと争いだした」
師匠の騙りが始まった。漣が息を飲んだ。相手の記憶を読みながら、同時に状況判断、有利に対象を操る特殊操法。師匠は効率よく鬼の中に反乱分子を創りだそうとしているんだ。

「階級制も緩み、いくらかは自由なりだした社会が、原種の鬼の台頭によって、随分、息苦しくなったろう、原種の鬼同士が反目しあい、争いが増えた。階級社会が一気に復活した。そうなると、上が戦争を始めれば、下は追従するしかないわな」
幸が目を見開き、左角を見つめる、左角は、まるで、その目に吸い込まれていくように感じた。足が不安定になり、寄って立っていたはずの何かが、まるで幻のように思えてくる。
「お前には子供がいるだろう。高間宮王子の供で、なかなか、家族に会えない。そんな、お前が久しぶりに息子に会ったとき、お前、どう思った、子供の、その変貌ぶりだ」
「お、俺は・・・」
左角が言い淀む、左角が言葉にしたくないこと、言葉にすればそれを直視なければならなくなる。
左角の足が微かに震えるのに漣が気づいた。
高間宮王子が怒鳴った。
「何をしている、早く奴を殺せ」
漣にはわかっていた、既にあの左角という鬼には幸師匠の声以外、何も聞こえないことを。
あ、折れた、あかねが心の中で呟いた。左角が膝を曲げ、正座すると、幸に頭を下げたのだ。ここからでは、幸姉さんの顔は見えないけれど、慈愛に満ちた笑みを浮かべているのだとあかねは思う。幸は地面に降り立つと、左角をそのままに、黒達の元に戻ってきた。
「な。男なんてちょろいもんだろう」
にっと笑うと幸が小さく呟いた。
「母さんってば」
黒が呆れたように呟く。
漣が幸に走り寄った。
「幸師匠」
「漣」
雪は漣をしっかりと抱きしめ、耳元で囁いた。
「漣、全ての存在が幸せな世界は論理的に成り立たない、世界が加速度的に膨張しない限りはな。ただ、誰もが少しずつの不満を持ちながらでも生きていく、そ んな世界は可能だ。お前は母を殺した鬼を八つ裂きにしたいかもしれない、でも、それはお前自身の心を八つ裂きにしていくことでもあるのだよ」
幸は瞬きせず、漣を見つめ、もう一度、漣を大切に抱きしめた。
漣の頬が火照り、足に力が入らない。
「幸師匠のお考えのままに」
喘ぐように漣が呟く。
漣の力が抜けよろけそうになるのを、黒と三毛が走り寄って、漣を支えた。
幸は二人に漣を預けると、ようやく体を起こし、立ち上がりかけた高間宮王子の前に立った。
「よう、面白いことになったな」
幸は見上げると、高間宮王子の顔を見て笑った。
「お前、何をした」
「ん、ちょっとお話しただけさ」
幸はふわりと浮かび上がると、高間宮王子の目の前に浮かんだ。
「高間宮王子。お前、私の命令を聞け」
「なんだと。そんな女子供の言うことを、原種の鬼たる」
ぐいっと幸が自在の先端を高間宮王子の頬に押しつけた。
「な、何をする」
押されたまま、呻いた。
幸は呆れたように息を漏らすと言った。
「わかってんだろう、あたしに勝てないってことがさ。だから、この棒を振り払うこともせず、状況に甘んじているわけだ。面倒くさいな、男ってのはよ」
「お、おのれ。小娘が」
歯ぎしりをするのだが、手が出せない。

高間宮王子は心の奥底から蠢きはいあがってこようとする感情、この恐怖という感情に初めて遇し、すぐにでもこの場から逃げ出したいと思っていた。しかし、その自身の感情を認め、逃げ出すことは原種の鬼として出来ようことではなかったのだ。
「お前は俺に何をせよと言うのだ」
高間宮王子が微かに俯き言った。
凄い、母さん、三毛が息を飲んだ。あの鬼を手懐けてしまった。あんな強い鬼を。三毛は黒に声をかけようとして黒のジャージの裾をちょっと引っ張る。漣を支えながら黒も頷いた。
「幸母さん、どうするんだろう」
「多分、漣ちゃんがうちで暮らせるように展開させるんだと思う」
黒が囁いた。そして、あかねを見る。あかねも頷くと、幸に視線を戻した。
「まずはあたしの前に並べ」
そして、幸は振り返ると金角に言った。
「右角を離してやれ、首がしまって白目向いているぜ」
幸が笑った。
「左角も来い」
幸の言葉に左角は駆け出す。五体の鬼が幸を前にし、神妙に正座した。
「高間宮王子、お前は鬼王の器じゃない。お前はたくさんの鬼の信頼を集め、治世を行うというより、体制に対する反逆者、歌舞伎者だ。わかるか、高間宮王子」

「歌舞伎者・・・」
高間宮王子が言葉を繰り返した。
幸はすいっと視線を巡らせると言った。
「一族と共に鬼王から独立せよ。そして鍾馗と連携せよ」
驚きのあまり、五人の鬼は口を開け放ち、呆然とお互いの顔を見合わせた。
「出来るはずがない」
高間宮王子が叫んだ。
「鬼王と、その近衛兵が怖いか。多くの鬼を敵に回すことに竦みあがっちまったか」
幸が静かに言った。
「お前の領地は一部、鍾馗の国と接している。鍾馗の長と不可侵条約を結べ。鍾馗も戦で人口が減った。うまく交流すれば、お前の領地も今よりは豊かになり、誰もが少しずつの幸せを得ることが出来るだろう」
高間宮王子が俯き、ぐっと拳を握った。不安げに金角達が高間宮王子を横目で伺う。

黒があかねに囁いた。
「あかねちゃん、これって」
あかねは黒の横に寄ると呟いた。
「これは歴史的事件です。鍾馗と鬼は数千年、争ってきました。それが一部とはいえ、和解するかもしれない瞬間です。大変な歴史的転換ですよ」
あかねが高間宮王子を見つめた。
高間宮王子が顔を上げ、はっきりと言った。
「わかった。鬼王から独立しよう。そして、鍾馗との交流も努力しよう」
幸はふっと笑みを浮かべると、小さく頷いた。
「高間宮王子、お前を認めてやろう。ならば、二つ、餞別をやる」
ふわっと幸の手のひらに硝子球が浮かんだ。
「まずは結界だ。お前の領地を結界で包んでやる。中から外へは出られるが、外から中には入ることが出来ない。門は鍾馗の領地側に一つ用意してやろう」
すいっと硝子球が消えた。
「さて、もう一つは鍾馗のことだ、これは長を呼び出せば早いな」
すっと幸が右手を横に伸ばす、その手が消えた。
「図体がでけぇから重いな」
幸が勢いをつけて、右手を引き戻す。ぶわっと鍾馗の長がたたらを踏んで現れた。
長には天井が低く、前かがみで、長が辺りを見回す。
「何処だ、ここは」
鬼が呆然とした表情で鍾馗に見入っていた。
「やぁ、久しぶりだな、長」
声に長が振り返る、幸の姿を見つけた途端、怯むように体を後ろに引いた。
「なんだよ、可愛い女の子相手にさ。落ち込むじゃねぇか」
幸が嬉しそうに笑った。
「お前はどうして」
「御足労痛み入る。なに、たいした用事じゃない。原種の鬼 高間宮王子が鬼王から独立した。長よ、不可侵の条約を結べ。高間宮王子には話を通してある」
高間宮王子も左角も、いまの状況をどう判断すればよいか理解できなかった。鬼王とも比肩するという、鍾馗の長を呪も唱えず力ずくで呼び出し、いきなり命令をする。これは現実のことなのか、それとも長い夢なのか。
あかねは息を呑んだ。目の前で大変なことが起こっている。歴史的転換だ。
「これは、人の出る幕じゃないねぇ」
呆然と口を開けたまま、啓介が言った。あかねはすっかり啓介の存在を忘れていたが、そんなそぶりは見せず、啓介の言葉に頷いた。
「叔父様、僥倖です。人の身でこの場に居合わせるのは」
啓介が頷き、見上げる。
一つの場所に鬼と鍾馗が争うこともなく、お互いを眺めている。共に次の言葉が整理つかないのだろうと啓介は思う。
それにしてもと思う。この幸という、あかねよりも少し年かさの女の子はいったい何物だ。無という希代の魔術師がいるという、あかねがその弟子なら、この女 の子が無なのか。無についての情報は極端に少ないが、男性だったはずだ。なら、この女の子は無の娘と云うことか。しかし、たとえ、この子が無の娘としたに しても、遙かに人の域を越えている。
無とて人であるなら、その域は限れる。術も使わず鍾馗の長を呼び出すには、遙かに格が上でなければならない、人より上位の存在であるという鍾馗を呼び出すということは、この女の子は人ではないのか。
「叔父様」
あかねが啓介の上着の裾をそっと引く。俯いて考え込んでいた啓介が顔を上げたとき、信じられない光景が目の前に広がっていた。
鍾馗が片手、高間宮王子が両手で握手をしていた。
「叔父様、人は出遅れました」
「あぁ、だね。でも、良いんじゃないかな。人は混乱をもたらすよ」
あかねは目を見開き、啓介の目を見つめたが、ふっと笑みを浮かべると、小さくうなずいた。
幸は長を送り返し、高間宮王子に言った。
「対等な条約だ、物怖じするなよ。正式な締結には私も行く、邪魔が入らないようにな」
幸は笑みを浮かべると、言葉を続けた。
「善き心を育てよ」
高間宮王子一同、まるで幸の部下になったかのように深々と頭を下げる。幸は王子一同を送り返すと、ゆっくりと着地した。
「幸母さん、凄いです」
幸がにっと笑った。
「お父さん以外の男は単純だ、ま、これで、漣もうちで暮らし易くなる」
「それだけのために」
黒が驚いて言葉をついだ。
「あぁ、そうだ、それだけだ」
幸がはっきりと言い切った。
ふっと幸は啓介を見つけ言った。
「二日後に条約締結だ、鬼紙家も一枚かんどけ」
「それは人を牽制するためですか」
啓介が言った。
「察しが良いな。ただ、人のお偉方を敵に回すかもしれない、臆したのならかまわないぜ」
「貴方を敵に回すより、ずっと素敵だと思います」
啓介は本心からそう言った。
「案外、あんたは当主に向いているかもな」
幸はそう答えると、気持ちを切り替えるように大きく深呼吸する。
そして、少し緊張した面持ちで唇を横に引く。しかし、ふっと力を抜くと、頬に両手を添えて口角を上げ、極上の笑みを浮かべた。
まるでドアを開けるように、空間がドアの形に穿たれ、目の前には、畑を背にした、なよが幸を睨みつけていた。
「わぁ、なよ姉ちゃん、大好き」
ばふっとなよに抱き着くと、幸はなよの胸に顔を埋めた。
「なよ姉ちゃんはおひさまの匂いがするよ」
ふっと幸は笑みを浮かべたまま、顔を上げた。
「だめかな」
「知らぬうちに抜け出しおって。わしの性分は知っておろう。許すと思うか」
なよは引きつった笑みを浮かべた。
「頑張って収穫します」
幸は素早く答えると、畑と駆け出した。ふと、なよは黒達が呆然とその有り様を眺めているのに気が付いた。
「ぼぉっとするでないわ、もうすぐ運送業者がやって来おる、それまでに収穫を済ませねばならんぞ」
「はいっ」
あたふたと黒と三毛が畑へと走る、
「おや、漣ではないか、ちょうど良い、お前も手伝え」
「頑張ります」
あたふたと漣も畑へと走った。
「なんじゃ、あかね。そのおっさんは」
あかねも少し緊張しつつ、答える。
「あかねの叔父様です」
「ん、となると鬼紙家の当主か。なるほど、よう見れば、三代目とよう似ておる。初代と二代目までは野獣のような奴じゃったが、三代目はひ弱でのう。ま、鬼紙家の当主ならばこちら側の人じゃ。遠慮なく、収穫を手伝うてよいぞ」
「叔父様。なよ姉様の気が変わらぬ内にどうぞ」
訳の分からないまま、啓介もあかねの後を追った。
なよは切り取られた空間を覗き込み、地下の様子を眺めた。
「なるほど、高間宮か。あいつは阿呆じゃからな、扱い易いわい」
なよは撫でるようにして空間を綴じる、目の前には、いつものように裏庭に面した洗濯物が翻っていた。

「なよ母さま。後で、皆さんに謝ってください」
小夜乃がキャベツを幾つも抱え、なよに言った。
「小夜乃は厳しいのう」
頭を抱えるように、でも、何処か嬉しそうになよが答えた。
「なにやら、デパートなるものと、約束してフェアだとかいうものをするというから、このように慌しくなるのです。これでは、商店街に買いに来てくださるお客様の分がなくなります」
「悪い、悪い。今回だけじゃ、勘弁してくれ」
なよは、小夜乃の抱えていたキャベツを下から抱えあげた。
「ああ、忙しい、忙しい」
逃げるようになよが行く。
「もう。なよ母さまったら」
小夜乃が仕方なさげに呟いた。

(後半、面倒くさくなり、随分と端折ってしまいました。後日、文章を付け加えるかもしれません 2014.06.10)


36
最終更新日 : 2014-06-21 00:21:48

異形 月の糸四話

「あのね。お父さん、いいかなぁ」
夜、襖の向こうで黒の小さな声がした。
男は椅子に座ったまま、視線を襖の向こう、黒、白、三毛の姿を捉えていた。
「どうぞ、お入り」
男が声をかけると、三人が俯き入って来た。
「どうしたんだ、暗いなぁ」
突っ立ったままの、三人に笑いかけた。
「布団の上に、お座り。いいから」
男が促すと、おとなしく、三人、布団の上に正座をする。
「何か悩み事かな」
我慢しきれなくなったのか、俯いたまま、黒がぼろぼろと涙をこぼす。
男は椅子から離れると、三人の前に座った。
「なんだか、大問題のようだな。よし、父さんが解決してやるぞ。だからね、何があったのか話しなさい」
それでも、黒はしばらくの間、声に出せず俯いていた。
「黒は、役立たずです」
消え入るような声で、黒が言う。
男は静かに黒を眺め、その頬に右手を添えた。
「父さんも幸もね。黒が役に立つかどうかなんてね、考えていない。ただ、自分達の娘が幸せに楽しく生きていきますようにってね、願っている。まずは、それを忘れないでくれ」
男はそっと手を戻すと、笑いかけた。
「昨日、たくさんの鬼と戦ったらしいね、最後には高間宮の原種の鬼まで出て来たそうじゃないか、大変だったな」
「お父さん、あのね」
黒が顔を上げ、思い切ったように男を見つめた。
「黒は一体も鬼を殺せませんでした。漣ちゃんはいっぱい鬼を殺すことができたのに、黒は殺すのが恐くて、気絶させるのが精一杯で役に立たなかったんです」
「戦いの中で、技術的には、殺すよりも、無傷で気絶させるのが方が難しいんだけどな」
男は立ち上がると、椅子に座り直した。
「それで黒はどうしたいんだ」
黒は顔を上げ、男の目を見つめた。
「鬼を殺せるようになりたい。ためらわずに殺せるように」
男は天井を眺め、しばらく考えたが、黒を見つめると、静かに言った。
「それはだめ。だって、自分の可愛い娘が、鬼であろうとさ、命を奪うのをね、求めることなんかできないよ」
困ったなぁと、男は呟くと、ほお杖をつき、うーんと唸る。
ふと、男は黒をじっと見つめると、優しくささやいた。
「ひょっとして、鬼は悪い奴って、黒は考えていないかい、白や三毛は、鬼をどう思っている」
三人とも驚いて、目を見開いた。男が何を言おうとするのか、全く想像できなかったのだ。
男が呟くように語りだす。
「歴史の話をしょう。今から、一千年と少し、昔のことだ、人と鬼との百年戦争があった。すべての史書からその存在は抹殺されている、それほどの忌むべき戦 争だった。なよは、月からやってきた戦争の調停者だ。なよを中心とした人と鬼の有志により、戦争は終わったのだけれど、お互いの恨みや怒りはそう簡単には 消えない。そこで、人と鬼の不可侵の条約が結ばれたんだ。人と鬼は一切関わらず、その存在を互いのお伽話の中に封じ込めたわけだ」
男は三毛に笑みを浮かべた。
「三毛は桃太郎のお伽話を知っているだろう」
「は、はい」
戸惑いながら、三毛が答えた。
「鬼の世界でのお伽話にも、桃太郎というお伽話がある。悪い人間を退治するってね。つまりは悪い人間がいると同様、悪い鬼がいて、そういうのがこちら側に干渉し、人の前に現れる。つまり、黒も白も三毛も、ある特定の鬼しか見ていないから、鬼全体が悪と思ってしまうわけだ」
「でも、鬼は、角のある鬼は」
白が反論しようとして、はっと気が付いた。
「小夜乃は角のある鬼だけど、白の大切な家族だろう」
白は小夜乃の笑顔を思い出した。白姉様と笑顔を浮かべる、とても大切な妹だ。
「小夜乃は、なよが無茶を言ったり、怒ったりすると、身を呈してなよを勇めようとする。それは母親のなよがとっても大切で、なよがみんなに嫌われてしまわないように願っているからだろうね」

ごく少ない機会だが、小夜乃を連れ、町に出ることがある、三毛は思う。少し、不安げにぎゅっと手を繋ぐ小夜乃、その手が不安を伝えている。でも、にっと笑みを浮かべるのだ、そして言う、三毛姉様、ありがとうって。
男は言葉を続けた。
「一千年以上の時を経て、人と鬼を分け隔てる仕組みが機能しなくなったし、それに乗じて、暗躍する人も鬼も増えた。出会わない方が幸せなこともあるのだけれどね」
男は柔らかな笑みを浮かべると、順に三人を見つめた。
「戦うって言ってもさ、戦い方は無数にあって、直接的に相手に危害を加える戦い方は、その一つにしか過ぎないってことを忘れないでくれよ」
男は黒の頭に右掌を載せ言う。
「黒が幸せでありますように」
同じように白と三毛にも祝の言葉を言う。
「お父さん、ありがとう」
黒がほっとしたように言った。男は笑うと言葉を続けた。
「鬼も婚姻により子を成す。金角には息子が一人、銀角は一男一女、右角は娘が一人、左角は息子が一人。子供をもつ親でもあるということだ」
三人は納得した、一面からしか、世界を見ていなかったことに。
「さて。お悩み相談は終了でいいかい。父さん、眠いよ」
男を残し、黒と白と三毛は、しっかりとお辞儀をし部屋を出る。
声が出せないほど、価値観の変化に興奮していたからだった。
男はふっと力を抜くと、壁に背中を預けた。
「散々、人も鬼も殺してきて、こんなことを言うなんて、茶番もいいところだな。幸乃、父さん、なんだか、三人に申し訳ないよ」
始めからいたように幸乃は男の隣りに、壁に背を預け現れる、そして、男の頭に手を載せる。
「幸い、幸い」
幸乃がそっと笑みを浮かべた。
「幸と幸乃は、常におまえ様を肯定しております。お忘れなさいませぬよう」
 


「十分休憩」
そう智里は、冷たく平次に言い残すと、なよの元へと戻る。梅林での早朝の習練に平次はぐったりしていた。
「お疲れさん、赤光の殺し屋と言われた智里さんだ、さすがに良い動きをするなぁ」
気楽そうに啓子は平次に笑いかけた。
「あんた、誰だ」
平次は啓子の気配に全く気づかなかったのだった。いつから隣りにいたんだ。
「二十分くらいは二人の格闘を見ていたよ、ここで。しかし、平次さん、手加減してもらえてよかった、よかった」
気楽そうな啓子の言葉に、悪態の一つも返したかったが、平次は黙り込む。ここの奴らは、己と強さの質が違い過ぎる。
「あんたら、なんで、そんなに強いんだ」
「いやいや、あたしはそんな強くない」
ぱたぱたと啓子は手を振った。
「あたしは並です。あぁ、あたし、啓子。名前、名乗ってなかったよね」
「俺は・・・、あぁ、知っているんだったな」
啓子は面白そうに笑った。
「鬼紙平次。あかねちゃんの策にまんまと引っ掛かった、優しくて生真面目な兄さんだ」
「策なんて言うな。あかねお嬢様は御当主の守り人に俺をお選びになった、そして、俺はあかねお嬢様のご期待に答えるよう努力する、それだけのことだ」
女で苦労する口だなと、啓子は思ったがおくびにも出さず、笑みを浮かべた。
「あかねちゃんの目は確かだと思うし、しっかり励んでください、では」
鍬を携え、啓子は平次を後にした。
ぱたぱたと白と小夜乃が駆け寄ってきた。白は丸めた銀色のマットを抱えている。
「平次さん、おはようございます」
白が声をかける、平次は軽くうなずくと言った。
「おはよう。白と小夜乃だったかな」
「はいっ」
元気に二人は返事をすると、平次の足元にマットを広げた。
「次の練習のために、平次さんの体を整えます。仰向けに寝てください」
白はそそくさと、平次を仰向けに寝かせつける、そして、マッサージを始めた。
「小夜乃ちゃんは平次さんの首回りをお願い」
「わかりました」
平次にはいま何が起こっているのか、理解できなかった。白の手が肩に触れたと思った途端、仰向けに転がっていた。ここの女達は一体、何者なんだ。まるで、俺は木偶の坊だ。
ほぼ、年齢と同じだけの年数を修行に費やしてきたはずだ、命を賭した戦いを繰り返した、なのに、なんだ、この無力感は。
「なに、ガキが深刻な顔をしておる、見事に似合わんぞ」
なよがにぃいと笑い、平次の顔をのぞき込んでいた。
一瞬、頭で考えるより早く体が動こうとする、体が動かない。
「だめですよ、平次さん。施術中です」
気楽に白が笑った。
「お前はまな板の鯉と同じじゃ、じっとしとれ」

どうとでもなれと、平次はぎゅっと眼を瞑った。
「緊張はだめですよ、力を抜いてください」
白が声をかける。なよが笑った。
「緊張するななどと、白は難題を言いおるな。間抜け面を拝みたいが、畑に啓子が来ておる。ちと、邪魔しに行くかな」

啓子はというと、鍬で畑の畝たてをしていた。崩れた畝を修正する作業だ。
「熱心じゃな、啓子」
「やぁ、なよちゃん」
「なにが、なよちゃんじゃ。調子の狂う奴じゃな。人の姿でわし程、長生きしている奴はそうそうおらんぞ」
なよは落ち着いた笑みを浮かべ、ふわりと空中から鍬を取り出すと、啓子の反対側を作業しだした。
ほぉと、啓子が声を上げた。
「いつも、思うんだけど、どうやっているの、空中から簡単に物を取り出すの。父さんや幸ちゃんも簡単に棚から取り出すようにするけれど」
「たいしたことはないわい。昔の術師なら大抵の者が使うておった。旅するに便利じゃからな。もっとも、ここで使えるのは他にはあかねくらいか。黒も使えんようじゃしな。いや、黒は妹達が危機に陥った時は使いおるのう」

ふと、なよがいたずらげに笑みを浮かべた。
「それより、お前、平次に会ったであろう。鬼紙にはひどい目にあったお前じゃ。意趣返しに、稽古と称して苛めてはどうじゃ」
なよの言葉に啓子が笑った。
「なよちゃんは悪いこと言うなぁ。大学出て、入った会社が実は鬼紙家の財産管理会社、洗脳されて、有象無象の戦闘員、全身タイツに仮面被って。子供向けのテレビドラマかってなもんだけど、まっ、幸ちゃんに出会えたので、ちゃら、ううん、おつりが返ってくるよ」
啓子は手を止めると、ふっと家の方を眺めた。
「結婚は出来なくなったけどね」
「なんじゃ。農家に出入りして、引く手あまたであろうに」
「うちの嫁に来てくれ。言われるけどね、幸ちゃんを思うと、どんな男も頼りなくてガキに見えてしまう。どんな、いい男を前にしても、尊敬出来ないっていうのかなぁ」
「それは重症じゃな。どんな医者でも治せんわい」
なよが呆れて笑い出す、啓子も少し恥ずかしそうに笑った。

「戸惑うな。術で蹴り足は折れないようにしているはずだ。気合入れて、蹴り出せ」
智里が小声だが鋭く声を発した。
智里が右手を前に差し出し、平次がそれを蹴り上げる。あまりにも単純、簡単なことのはずだ、なのに。
まるで鋼鉄の塊を蹴ったような感触だ、足に術をかけていなければ確実にこの足が折れていただろう。
たかが手の平、それも女の小さな手だ。それがどうして鋼鉄の塊を蹴るような衝撃が返ってくるんだ。
最初は自由に組み手をしていたのが、単純な単式練習になる。これでは習い始めのガキではないか。
その様子を見ていた白が思いついたように黒と三毛を呼んだ。
「黒姉ちゃん、三毛」
三毛がエプロンをしたまま駆けてくる、かぬかにうどんの打ち方を教わっていたのだ、黒も御煎餅をくわえながら、
「また、黒姉ちゃん、つまみ食いして」
白が睨むのを恥ずかしそうに黒が笑った。
「黒姉ちゃん、三毛。平次さんを動かします」
白が声をかけると、二人も平次の後ろに回った。
「智里さん。自由組み手をお願いします、平次さんを三人で動かしますから」
白の声に、智里は瞬時に状況を理解し、正面から平次の顔面を右拳、打ち込んだ。同時に黒が平次の左手を掴み、その手を智里の腕に添える、白が平次の右腰を 蹴り、左半身に開かせる、三毛が平次の腰を両手で前方に押し出した。黒が平次の左手の平を智里の肘、肩へと流し、智里の顎の下へ、三毛が平次の右太ももを 両手で掴み、右足を智里の背中側に引っ張る、白は飛び上がると、平次の両肩を上から落とし、姿勢を落とす。上反りになった智里の横、三毛は浮かび上がる と、平次の右手を逆手に持ち、智里の胸の間、急所に肘を落とす。
当たる瞬間、智里は腰の力を抜き姿勢を落とそうとしたが、平次の右足に当たり、落とせない。三毛は瞬間、手を引き戻す。三人がばっと平次から離れた。
「平次さん。経験です、一度、速い動きを経験すれば、上達が早まります」
白が言うと、黒がすっと平次の背後に立ち、右肩を押す、三毛が姿勢が崩れないように、平次の腰を支える。
なんて、練習だ。智里はひたすら防戦に回りながら三人の連携に驚いていた。
茫然と小夜乃はその様子を見つめていたが、はっと気づくと智里の後ろに回った。
「智里さん。がんばれ」

三毛の帰りが遅いとかぬかもやって来た。小夜乃が懸命に智里を応援しているのを見て、とにかく判官びいきのかぬかも、小夜乃の横に立って叫んだ。
「しっかり、智里さん」
智里は驚いていた、自分が声援されている。
こんなことは初めてだ。常に影の存在で戦う姿を見られることもなく、修行時代、いままでの師匠達からも罵声しか浴びたことがなかった。欠点を挙げつられ、否定されることしかなかったのに。

「面白いことをやっておるな」
小夜乃の声を聞きつけ、やってきたなよと啓子は二人の様子を興味深そうに眺める。
「智里が見るからに劣勢じゃのう」
「そりゃ、そうですよ」
多分、平次がいなければ、そく3人は智里を制していただろうなと啓子は思うが、それをいうと平次がかわいそうだなとも思う。言わぬが情けというやつか。
不意になよが啓子の腰、後ろに手をやった。
「啓子。お前も参加してこい」
ぐわっと啓子の体が浮いた。なよが右手だけで、啓子を智里に向けて投げ飛ばしたのだ。

高さ三メートルは充分、足から着地した瞬間、前転、空中で受け身を取り、勢いを抑えると、啓子は智里の後ろに潜込んだ。低い姿勢から、智里の両肩の中央に右の掌を添える。
すいっと啓子が右掌を右の肩に流す、スイッチを押されたように、智里の右手が伸びる、平次は流しきれず、両手で智里の    掌打を搦め捕ろうとする、まるで蛇だ。
智里の腕がまるで蛇のように平次の防御を擦り抜ける、すぃっと啓子が智里の左肩を右に押す。
弾かれた、平次の腕の中で、何かが爆発した、素早く黒が平次を後ろに引き、間合いを開ける。
「今のって」
知里が呟いた。
「虚実の掌打。虚から実に変化することで、全方位に衝撃を与える」
啓子は簡単に解説すると、言葉を続けた。
「次は蹴りでやってみよう」
開いた間合いに、智里の左の蹴りが走った。

「若い人は元気だ」
男がなよの横で呆れたように言う。
「二人とも強くなるぞ」
なよが男に言った。
「まぁ、平次君には一週間しかないからさ。でも、そろそろかな」
男の言葉になよが頷いた。
「双方やめい。そこまでじゃ」
なよの言葉に二人と四人、瞬時に固まった。
「黒白三毛、平次の筋肉を解せ。特に白、血流を調整じゃ」
なよは言うと、知里に歩み寄った。
「知里、勉強になったか」
「は、はい」
「よし」
なよは小夜乃に向き直った。
「知里の筋肉を解せ。それから、かぬか。お前は風呂をわかして来い」
「わかりました」
かぬかが家へ向かって走る。小夜乃が知里を座らせるのを確認した後、なよはにっと啓子に笑いかけた。
「啓子。いつの間にやら、随分、強くなったではないか」

「え・・・」
微かに啓子の顔が引きつる。
「何をびびっておる、単純に褒めただけじゃ」
呆れたようになよが笑った。
「えへへ。頑張りました」
「虚実は刃帯儀の基本じゃ。ついでに教えてやろう」
「いいの。これからは、なよ師匠と呼ばせていただきます」
啓子が目を輝かせた。
「いらぬわ。今まで通りで・・・、いや、ふむ。普通になよ姉さんと呼べ。そうじゃ、啓子は知里に虚実を教えろ。いずれは知里にも刃帯儀を教えてやるつもりじゃが、基礎の基礎から教えるのは面倒じゃ。わかったな」

ふっとなよが家の方を見る。
「風呂が沸きだしたようじゃ。啓子、知里をおぶって風呂にほうり込んで来い。小夜乃も行け」
「わかりました、なよ姉さん」
啓子は元気に返事をすると、軽々と知里を背負った。
「啓子さんは嘘つきですよ」
小さく、知里は呟くと恨めしげに睨む。
「えぇっ、そんなことないよ」
「啓子さん、自分は農業要員で格闘技なんて全然、っておっしゃっていました」
啓子が楽しそうに笑った。
「ごめん、確かにそう言った。だってさ、面倒臭いもの」
啓子は正直に言うと、ごめん、ごめんと言葉を重ねた。

三人を見送り、なよは平次の顔を覗き込んだ。
「少しは息が整ってきたようじゃな。父さんも絶妙なところで止めおるのう」
既に、男は姿を消していた。
「あの啓子という女」
平次が呟いた。
「俺にも自分は並だと言っていた」
愉快になよが笑った。
「それは本当じゃ、ここでは並の腕前じゃ」


幸はあさぎの隣りに立つと、見上げてにっと笑った。
喫茶店、モーニングの客が帰り、ほっと一息つく時間。
「あさぎ姉さん、お疲れさま」
「幸こそ、手伝ってくれてありがとう」
幸は少し恥ずかしげに微笑むとカウンター、目の前の客に笑いかけた。
「まだ、お客さんが一人残ってんだけどね。しっかり終わった感で喋られるのはなぁ」
佳奈がちょっと拗ねたように言う。
「しょうがないよ。佳奈さんは身内だもの。幸のお姉さんだからさ、手伝ってくれてもいいくらいだよ」
「接客は魚屋で勘弁してよ、たまには私も客でいたいんだから」
幸は笑うと、佳奈の隣りに腰掛けた。
「どうしたの、佳奈姉さん、落ち込んでる」
佳奈は俯き溜息を漏らすと、呟くように言った。
「私、おばあちゃんになるかもしれない」
「えっと、それは」
幸がそっと笑みを浮かべた。
「健君が十八歳、恵美ちゃんが十六歳だったよね。どっち」
俯いた佳奈が呟いた。
「恵美が妊娠していた」
「ということは」
幸が言葉をつないだ。
「相手の男から、慰謝料ふんだくった上で、殴りつけてボコボコにして、簀巻きにしてどぶ川にほうり込めばいいんだよね」
幸は椅子から降りると、にっと笑った。
「女の敵は許さない」
慌てて、佳奈が手を振った。
「いや、あの、そこまでは」
「馬鹿者」
なよが裏口から店に飛び込んでくると、幸の頭をはたいた。
「ものには加減というものがあるわ。それに、佳奈、幸の極端な男嫌いは知っておろうに。こやつに相談すればどうなるか考えろ」
「だって、なよ姉さん」
拗ねるように言う幸をなよがぎゅっと抱き締めた。
「その男に母親が居れば、お前を憎み続けるじゃろう、それが恨みの連鎖になる。たとえ、居らずとも、お前の行為による禍根はあちらにもこちらにも穿たれることを忘れるな」
なよは力を緩め、幸に言った。
「カウンターを見てみい」
あさぎがカウンターの向こうで震えながらしゃがみこんでいた。
「あさぎ姉さん」
幸が呟いた。
「姉をびびらせるのではないわい」
なよは振り返ると、あさぎに声をかけた。
「いつまで、狼狽えておる、顔を出せ、あさぎ」
「は、はいっ」
あさぎは立ち上がると、はにかみながら幸に言った。
「頼りない姉でごめんね」
幸が大きくかぶりを振り、小さくごめんなさいと呟いた。
なよは大きく息を吐き出すと、カウンターに腰掛けた。
「片手間に、鬼と鍾馗の条約を締結させたと思えば、この有り様、釣り合いが悪いのう。ま、それも、幸、お前の個性じゃ」
なよは笑みを浮かべると言った。
「あとはわしに任せろ。父さんに泣きついてこい」
なよが幸の背中を押す、唇を噛んで幸は、自分が泣き出すまでに男にしがみつきたいと走った。
なよは小さく吐息を漏らし言った。
「さて。恵美はどうしたいと考えておる、いや、佳奈、何故、恵美が妊娠していると気づいた。恵美が言うたのか、それとも頭の中、覗いたのか」

幸は川で釣りをしている男の背中にしがみついた。男はすっと顔を上げる、それと同時に二人を水の結界が包み込んだ。
「どうしたんだ。泣いてさ」
「幸は悪い娘です」
「ん、幸は善い娘じゃなかったのかい」
「だって・・・」
男は少し笑うと、竿を横に置き、幸に振り返った。
「なるほど、あさぎを恐がらせてしまったか」
男は人差し指で幸の涙を拭った。

 


37
最終更新日 : 2015-02-11 00:13:19

異形 月の糸 蛇足 佳奈のこと

異形 月の糸 蛇足 佳奈のこと

異形 月の糸 蛇足 佳奈のこと

佳奈はカウンターの椅子に腰をかけると、小さく吐息を漏らした。
「どうしたの、佳奈姉さん」
幸は隣に座ると、心配そうに佳奈の顔を覗き込んだ。

「幸に話してご覧、悩みを共有するだけでも、ちょっとくらいほっとするよ」
幸がやわらかな笑みを浮かべた。
佳奈は大きく溜息をつくと、顔を上げた。
「15の娘に赤ちゃんが出来て、たくさん言いたいこともあるけれど、それは主に不平不満だけれど、良くはないけど、まっ、いい、堪える、我慢する。もう、 気持ちいっぱいいっぱいだけど、堪える。そう思っていたのに、今度は兄貴の隆志が、彼女を連れてきたんだよ。生まれて初めての彼女を」
「ふうん、良かったんじゃない、隆志君って、目立たないし、地味だし、ぼぉっとしているし、彼女ができるなんてお祝いしなきゃならないくらいだよ」
佳奈はより大きな溜息をつくと言った。
「一応、あんなんでも一人息子なんで、言葉には気をつけてください」
幸はいたずらけに笑うと、ごめんなさいと付け加えた。
「つまりは、可愛い息子を何処の馬の骨ともわからん女に盗られて、佳奈姉さんはいらいらしているわけだ」
やっと、佳奈は幸に向かい合うと、ぽつりと言った。
「あんなんじゃ、一生独身かと思っていたから、彼女の一人も出来て、ちょっと安心したんだけど、その、彼女がさ」
「なるほど、彼女さんの心を読んだってこと」
幸の言葉に、佳奈が頷いた。
「個人情報を遵守しろってなもんだけどさ。でも、気になるよ、凄い美人さんでさ、なんでこんな子がうちの隆志と付き合うんだ、もっと良いのがいるだろうにって思うよ」

幸がそっと微笑んだ。
「幸はお父さん以外の男は滅べばいいくらいに思っているからさ、隆志君は佳奈姉さんの子供って認識しかないんだ。ただ、佳奈姉さん自身が隆志君をもっと認めてあげる方がいいとは思うよ」
「ありがと、幸ちゃん」
「気が晴れたって顔じゃないなぁ。で、彼女さんは何を考えて隆志君と付き合っているの」
初めて、佳奈は幸の目をじっと見つめ言った。
「壁みたいなものが間にあって何も読めなかった。そして」
佳奈が言いよどんだ。しかし、思い切ったように言葉を続けた。
「ぎろって睨まれた」
幸が新しいおもちゃを手に入れた子供のように、笑顔を浮かべた。
「それは、一度会って、じっくりとお話してみたいなぁ。心を読まれないように障壁を作る技術は、きちっと、そのように訓練しなきゃならないんだ。何処で教わったんだろう」
ふと、幸は慌てたように居間の方角を見つめた。
「ごめん、佳奈姉さん。急用だ、ちょっと行ってくる。なよ姉さんに来てくれるように頼むから」
幸が佳奈の返事を待つ間もなく、奥に駆け込んだ、途中、段差に躓きそうになる、かなり慌てた様子だ。
「えっと、幸ちゃん」
「幸は急用じゃ」
なよが奥からにたにたと笑いながらやってきた。
カウンター越しに佳奈の前に立つ。
本当は男が箒で居間の掃き掃除を始めたのを察して、慌てて、ちりとりを片手に参じたという、幸が嬉々として、ちりとり片手に男の掃除を手伝っている様子を、なよもまさか、正直に言うわけにもいかず、つい、顔が笑ってしまったのだった。
「ま、命に別状のある話ではない。さて、内容は把握しておる、その彼女とやらに、わしも会うてみたいが、どうすれは会える」
「あ、あの。もうすぐ、ここに来ることになっていて」
「なんと、重畳。手回しの良いことじゃ」
ふと、なよが店の向こうを俯瞰するように眺めた。
「二人歩いて来おる、角を曲がった」
なよが目を見開き、嬉しそうにうなった。
「面白いことになるぞ。さてな、黒達は珍しく学校。小夜乃には灰汁が強すぎる。智里には荷が重いが、これも経験か。ならば、今後、ホンケを支えることになるやもしれん、かぬかにも見せてやらねばなるまいな。智里、かぬか、来い」
なよが呟いた。
間を置いて、二人がなよの元に駆けつけた。
「なよ様、参じました」
智里が呟いた。

「智里、かぬか。気配を消せ、魚が餌をつついておるぞ」

喜色万遍、なよはカウンターに陣取っていた。
佳奈以外の客は返し、あさぎも奥へと避難させる。店には、テーブルの椅子に座る佳奈と、佳奈をはさむように座る智里とかぬか。
「隆志、隣りの娘を紹介せい。まさか、俺の彼女などとは言わぬじゃろうな」
隆志がはにかむような戸惑うような、笑顔で視線を隣に移す。
隆志にとって、なよは家庭教師でもある、自分が大学には入れたのも、素直に認めたくはないが、なよのおかげだと思っている。
真面目な顔をして隆志が答えた。
「利藤さん、利藤夕子さん、俺の彼女です」
「なんとな、お前に彼女か」
なよは芝居じみた大袈裟な様子で驚くと、呵呵と笑った。
「ガキじゃ、ガキじゃと思うっておったのに、いつの間にやら、彼女を連れてくるような男になっておったとはな、成長したものじゃなぁ」
なよは隣りの利藤に目をやると言った。
「何処が気に入ったかはしらんが、わしはこいつの叔母のような者じゃ。ちと、こいつは面白みに欠けてはおるが、人の出来としては良いほうじゃ。仲良くしてやってくれ」
利藤夕子と紹介された女は、無表情のまま、なよを微かに見上げた。
「まさか、かぐやのなよ竹の姫がいるとは思いもしなかった」

ついと、なよが視線を智里に向けた。智里は一瞬にして、隆志の背後に立つと首の付け根に手を触れる、かくっと隆志が意識を失い、智里は軽々と引き上げると、隆志を抱えたまま、家の奥へと駆け込んだ。すいっと、かぬかが、佳奈をかばうように立ち上がる。
「困った奴じゃのう、甥っ子が傷つくではないか。自分が道案内に使われただけなどと知れば」
「町全体に広範囲の術がかけてあるのは知っていた。術を使う者には、街が霧に深く覆われ、一寸先も見えない」
利藤は答えると、振り返り、佳奈に言った。
「ご子息に危害を加えるつもりはなかった、ただ、心を傷つけたことは申し訳ないと思う」
表情を変えぬまま、利藤が佳奈に頭を下げた。

智里が店に戻ってきた、ちりとりを片手に幸が智里の後ろを歩く、智里はまったく、いや、気づいたのはなよだけだ。幸は利藤の背中に腕を溶け込ませると、なにやら小さな機械を取り出し、カウンターの上に置く、そのまま、佳奈の手をとると、奥へと戻った。
なよは、興味深そうに3センチほどの小さな機械をつまみ上げると、じっくり覘きこんだ。
「神経の中途で、情報を伝送するようになっておる」
利藤が振り返り、なよが興味深そうに機械を見ているに気づき、驚きに目を見開いた。
「なるほど、お前の見たもの、聴いたことが、そのまま、中継されるということか。少し、言うてくれれば、紅の一つも引いたものを。気が利かぬのう」
なよが、親指と人差し指で、その機械を押しつぶす。
にかっとなよが笑った。
「耶蘇教の天使よ。神に地上へと蹴落とされ、政府の雑用係に転職したか」
「お前に語る必要はない」
天使が呟いた。智里が動く、天使の後頭部に鋭い蹴りをまさしく突き刺す、微かに天使が首を振った、弾かれ、智里が天井に激突する、寸前、かぬかが飛び上がり、智里を抱きしめ着地した。
「智里、かぬかよ。まぁ、一年待て。さすれば対等に戦えるくらいの力をつけてやろう。こやつは、天使の中でも、神が他宗教の者達を邪悪として制するための、剣を携えた武装天使じゃ、剣呑、剣呑」
なよは楽しそうに笑った後、天使の目を静かに眺めた。
「お前はなるほど強そうじゃが、わしの敵ではない。ただ、まさしくこの国の政府がわし等を滅しようと送り込んだのが、お前じゃ。お前の記憶にそうある」
一瞬、天使がうろたえた。
「わしに記憶領域の障壁は意味無いぞ、お前の頭の中なんぞ、硝子張りじゃ。しかしのう、わしはお前より強いし、わしより強い者がこの家にはおる。役不足のお前をなんで送りこんだのじゃろうな」
「役不足かどうか、お前のその眼で判断すればいい」
天使は一歩、退くと呪を唱える。
「天使が呪文を唱えるか」
なよが笑う。そのなよの前に突き立てるように刃の先端が空中から突出した、剣の幅が二メートルはある、突き刺すだけで、なよの体がまっ二つになるような大振りだ。
しかし、その剣は微動だにしない。天使の呪に力が入る。
ほんの一センチ幅の刃帯儀がその剣先を押し返していたのだった。
「わざわざ、呪を唱えてその程度とはのう、神の軍勢もたいしたことないのう。うん、そうか、軍勢か」
なよが天井を見上げた。
「見つけた。対鬼用に構成した政府の呪術集団が押し寄せてくるわい、なるほど、呪術者はこの町には入れん、お前は奴らの道案内役か」
なよは振り返ると奥に声をかけた。
「幸、来い」
「はい、はぁい」
男と掃除が出来て機嫌の良い幸が顔を出した。
「幸、奴らに観光をさせてやれ」
「何処がいい」
「折角じゃ。人が多くて賑やかなところが良いのう」
「それじゃ、ニューヨーク、ブロードウェイに送るよ。大評判の催し物になるかもしれない」
「これはテレビが楽しみじゃのう、そうしてくれ」
幸は頷くと、何事も無かったように家の中へと戻った。

なよは、停止したままの剣の先端を摘むとぐっと力を入れる。そして、剣を押し戻し、剣そのものを消し去ってしまった。
「敵を騙すにはまず味方からというが、本来の説明もされず、鉄砲玉のようにここにやってきて、挙句の果ての醜態。なにやら、哀しいのう、もらい泣きしてしまうわい」
呵呵となよが大笑いをする。
「いや、すまん。せめて涙の一つも流してやろうと思ったが、つい笑ってしもうた」
天使は呆然とし、力が抜けたように、床にしゃがみこんでしまった。
「あ、あの。天使さん、うまくいかないときもありますよ、あまり、落ち込まないで」
あたふたとかぬかが天使に言った。ぎっと天使はかぬかを睨みつける、その頬に涙が一筋流れた。
「おいおい、かぬか。天使様は耶蘇教の神様の御使いぞ、わし等、下々のものがそのような口を利けば失礼に当たるぞ」
嬉しくてたまらないと、なよの言葉尻が、笑いを堪えるように震えた。
「うわぁぁん」
大声で天使が泣き出した。ぼろぼろに涙を流し嗚咽する。

ふっとなよは寂しそうな表情を浮かべたが、すぐにその表情を消すと、カウンターを出て、大泣きしている天使の後ろに立つ。右手で天使の背中に触れ、 すぃっと左右に手を払う。ぶわっと天使の羽根が左右に広がった。店の幅いっぱいにありそうな、しかし、それは純白の羽根ではなく、灰色に斑になっていた。
「聞け、かぬか、知里。天使は神が自分の手足の代わりにと創りだした生命じゃ。お前達も思うじゃろう。自分の手足が自我を持ち、泣いたり、笑ったりしだし たら、異様に思うであろうし、なんとか自我を消そうとするであろう。神も同じじゃ、純粋無垢、己に従うだけの存在が自我に目覚めれば、その天使を潰し、漂 白して、それを材料に新しい天使を創る。しかし、どうしようもない者は地上に放逐する。落ちた天使はそのまま消えてしまうか、堕天使、悪魔という存在にな る、神は同時に成敗する対象を作りだすわけじゃ、マッチポンプというやつじゃな。こやつは戦闘の前線で強い自我を生み出したのじゃろう。神がわずらわしく 思うくらいのな。よし、かぬか、わしの矢立てを持ってきてくれ」
かぬかは茫然とした表情でなよの話を聞いていたが、急いでなよの矢立てを取りに走る。

「知里よ。お前はわしの手足ではない。小夜乃同様、大切なわしの娘じゃ。わしはそう思うておる、そのこと、忘れるなよ」
なよの言葉に智里は胸が一杯になり、声を発することも出来ず、ただただ頷いた。
戻ってきたかぬかがなよに矢立を渡す。なよは受け取ると、嗚咽している天使の羽に文字を書く。
「なよ姉さん、これってなんて」
「わしの名前をラテン語で書いただけじゃ。こやつに手を出すということは、わしと一戦交えることを覚悟せよということじゃな」
いたずらげになよが笑った。
「泣くな」
なよが天使の頭を軽く叩く。天使が肩を震わせながらも、ぐっと口を閉ざした。

なよは天使の前に立つと、そのまま正座し天使の目をひたと見つめた。
「お前が、地上に落とされてからの、様々の災厄、悲しみ、絶望、迫害、忘れろとは言わん、ただ、それに引きずられるな、溺れるな。大望があるなら、ここでわしの妹として生きろ。しっかりと望みが叶えられるだけの力をつけてやるわい。わかったか」
天使が唇を噛締め、しっかりと頷いた。
いつの間にか、幸がカウンターにいた。
「夕子お姉ちゃん。なよ姉さんの妹、幸です。よろしく」
にっと幸が笑みを浮かべる。天使が泣きぬれた瞳のまま、そっと笑みを浮かべた。
幸も笑みを返す、しかし、ふと、奥に視線をやった。
「おっと・・・。目を覚ましたみたいだよ」

隆志が、ばたばたと奥から店に駆け込んできた。
「夕子さん」
なよと天使は隣り合ってテーブルの椅子に座っていた。
「なよ先生にいじめられなかった」
「なんという言い草じゃ。お前、わしに感謝の言葉はなしか」
隆志はうっかり口走ってしまったことに慌てながら、心の中ででもでもと呟く。
「気を失ってしもうたお前が居らぬ間、彼女が帰ってしまわぬよう、場を取り持っておったというに、感謝もせんとおるとは、つまらん生徒を持ってしもうたものじゃ」
なよが特大の溜息をつく。
「ご、ごめんなさい」
「まぁ、良いわい。しかし、一度、病院で精密検査を受けておけ、そうそう、倒れてはいかんぞ」
にかっと、いたずらが成功した子供のような笑みをなよが浮かべた。
天使が、いや、夕子がなよに囁く。テーブルになよが指で文字を書く。夕子が頷いた。
「ありがとう、隆志君。素敵なお店を紹介してくれて」
夕子は隆志の名前すら覚えていなかったのだが、如才なく微笑んだ。

「あのさ、幸ちゃん」
台所のテーブルに避難した佳奈は幸に声をかけた。
「夕子さん、隆志と付き合ってくれるかなぁ」
佳奈の言葉に幸は驚いた。
「夕子さんって天使だよ、人間じゃないんだよ」
「それは、わかっているけどさぁ」
あさぎが佳奈の前に珈琲を置く。
「ありがと、あさぎちゃん」
「どういたしまして」
佳奈があさぎの入れた珈琲を少しすする。
「冷静に考えて、隆志と付き合ってくれる女の子なんて、もう現れないと思う」
「それを母親が言っちゃだめだよ」
幸が困ったように笑みを浮かべた。
「夕子さんには大望がある、神に落とされた天使達の生活する場を作りたいと思っているんだ。いまはそのことで頭がいっぱいみたいだよ」
幸の言葉に、向かいに座っていた小夜乃が顔を上げた。
「もしも、なよ母さまさえ良いとおっしゃるのなら」
「それは、夕子さんとこれから暮らしていく中で、なよ姉さんが決めればいいかもしれないね」
幸は小夜乃の思いついたことをすぐに理解し答えた。結界を張り巡らしたかぐやのなよ竹の姫の領地、それを天使に提供しようということだった。
「まっ、佳奈姉さん。夕子さんはここで一緒に暮らすからさ、あとは隆志君の頑張り次第だ」
にっと、幸が笑った。


遥の花 藍の天蓋 一話

秋野菜の種を蒔く季節だ、見上げれば、視線が空が突き抜ける、このまま、目を凝らせば、瞬く星ですら見えるかもしれない。
ふと、夕子は手を止めると、空を見上げた。夏の終わりの季節、秋野菜を育てるための準備に畑を耕す。
ここへ来て三日が経つ。戦うつもりでやって来たのが、今はここの家族の一人として、畑を耕している自分がいる。
慣れない作業でくたくただ、でも、不思議と楽しい、それに自分を受け入れてくれた御恩を返すためにも、頑張らなきゃと思うのだ。

台所のテーブルに幸となよがいた。二人して隣同士に座り、お茶をいただく。
「どうするな、幸」
「幸としては、やさしいお姉さんが増えて嬉しい。なよ姉さんが二人みたいにならなくてよかった。かなりきついもの。幸、泣いちゃう」
「何をぬかすか」
なよは溜息をつくと、軽く幸の頭を叩いた。
幸は笑うと、なよの湯飲みにお茶を注いだ。
「この国の政府はわしだけでなく、皆を標的にしたかもしれんぞ」
「その程度のこと、たいしたことじゃない。いつも通りの生活を続ける。それだけのことだよ」
幸は椅子の背もたれに体を預けると目をつぶった。
「お父さんの持っている記憶が幸にもある、千年以上昔、人は鬼からの独立を目指して、鬼との百年戦争が始まった。それまでこの国の人達は鬼の支配下にあったわけだ。ほぼ、完全な独立を果たした、それから、およそ、江戸時代の終わり、明治の始め辺りまで、その独立が続いた。でも、それ以降は、主の変更はあっても、ほぼ傀儡政権だ、幸は必要とあれば、主の首も傀儡の首もすとんと落とすよ」
「恐ろしい奴じゃのう、お前は」
呆れたようになよが答えた。
「人の世界にそれほど興味はない、この国を潰せば、幸が治世をしなければならなくなる、それは願い下げ、つまりはあちらから関わって来なければいいだけの話だ」
幸は目を開けると、寂しげに笑みを浮かべた。
「そんなことよりも、智里さん、小夜乃ちゃんと笑っていたね。初めて見たよ、智里さんの笑うのを」
なよは小さく吐息を漏らすと言った。
「智里も少しずつ心が柔らかくなって来ておる。今日は啓子と援農じゃ、あやつも啓子とも話すようになったわい。善きことじゃ」
幸はそっと笑みを浮かべると、立ち上がった。
「そろそろ夕子姉さん、限界だ。小夜乃と白に頼んでくる」

日差しの中、夕子は麦藁帽子を被ってはいたが、それでも体が熱をおびて、頭に熱が集中していくのがわかる、でも、もう少しだけと、鍬をふるった。
「おおぃ、夕子姉さん」
声に夕子が顔を上げると、白と小夜乃が大きく手を振っていた。
「いま、行きます」
二人は畑の向こうから駆けてくる。白はいつもの銀色のマット、小夜乃は大きめの日傘を抱えていた。
二人は夕子の前まで来ると、畦にマットを敷く。そして、ふゎっと白は夕子を後ろから抱きかかえると、マットに足を投げ出し座らせた。小夜乃が日傘を広げ、夕子に影を作る。
ほんの数秒の出来事だ。
「あ、あの、えっと」
「夕子姉さん、無理し過ぎですよ」
白が笑った。
「夕子姉さん、これを」
小夜乃が水筒からお茶を汲むと、コップを夕子に手渡した。
「あ、ありがとうございます」
そっとコップに口を付ける、少し甘いお茶。
「美味しい」
小夜乃が嬉しそうに笑った。
「ステビア、甘いハーブのお茶です」

「お父さん」
幸は男の部屋の前に立つと小さく呟く。そして、そっと襖を開けた。
「どうした、幸。なんだか、お悩み中だな」
椅子に座ったままの男は安心させるように笑みを浮かべた。幸は男に駆け寄ると男にしがみついた。怯えたように幸の体が震える。そっと、男が幸の頭を撫でた。
「人を簡単に殺すことが出来ると言いました」
「なるほど、自分の言葉に怯えたか」
「術師集団を送り込もうとしてきた人たちを許せなくて」
男は幸の頭を軽く叩くと、幸を目の前に立たせた。
「本来、お互い、不干渉がいいのだけれどね。ところが、ここが、この国の支配者層にとっては、目の上のたんこぶになってきた、好き勝手が出来なくなって、ここの存在がわずらわしくなってきたんだろう」
「楽しく暮らしているだけなのに」
幸が思いつめたように囁いた。
「ま、そのことは父さんに任せなさい。幸はこの異界の管理者だ。みんなの幸せをゆっくりと考えなさい。争うことなく静かに暮らせば良いと思うよ」
「ありがとう、お父さん」
泣き濡れた瞳のまま、幸は微笑んだ。
「幸。白と小夜乃が困っているようだ。天使の体はちょっと違うからな」
「うん、行ってくる」
幸は頷くと部屋を出た。
ちょろいな・・・、ふと幸の言葉が唇から漏れる。
「あっ」
廊下の向こう、なよが目を見開き、幸を見つめていた。
「なよ姉さん。ちょっと、夕子さんのとこ、行ってくるよ」
幸がなよの隣りをすり抜けた。
「まて、幸」
なよが声をあげた。びくんと幸が固まる。
「父さんの能力は、いくら体力を取り戻しつつあるというても、全盛期の半分、いや、三分の一やもしれん。わかっておるのか」
幸が振り返り、にっと笑った。
「かまわないよ。だって、お父さん、男だもの」
幸が背を向け、外へと向かった。

ずかずかとなよは男の部屋に入ると、椅子に座ったままの男を睨みつけた。
「いやぁ、三分の一は言いすぎだよ、まいったなぁ」
男が気楽に笑った。
「幸が父さんから離れてしまったこと、受け入れるのか」
「いずれはそうなると思っていたし、そうなる方がいいよ。ま、突然だったから驚きはしたけどね」
男は椅子の背もたれに背中を預け、目を瞑る、平次君や当主殿が居て、幸も随分いらいらしていたからなぁと、その時の様子を思い出して、笑いそうになる。
「自分が死ぬことで、幸が狂って、世界を滅ぼすということは避けることができた、それだけで良しとするよ」
男は目を開けると、なよに笑いかけた。
「父さんはお手軽に世界を守った勇者ということでいいんじゃなかな」
「父さん、辛くはないのか」
なよが男を睨みつける。
「いい年こいたおっさんが哀しいとか、辛いとかいうのは、みっともないだけだよ」
男は気分を変えるように、深呼吸をした。
「二、三日留守をするから、後はよろしく頼むよ」

そして、男が呟いた。
「幸乃、父さんから出なさい。幸乃には留守番を頼むよ」
瞬間、男の胸から仰向けに幸乃の上半身が現れた。
「嫌です、例え幸がどのように考えても、幸乃はお前さまの妻です」
幸乃が感情を露わに叫んだ。
「夫婦は一心同体、幸乃は何処までもお供いたします」
幸乃は一途にしがみつくと、男の体に潜り込んでしまった。

「守るものが出来たから、励みになるかな」
男はなよに目をやると、少し恥ずかしそうに笑った。
「なよ。何も今生の別れを言うわけじゃない、帰ったらゆっくりするよ」
立ち上がりかけた男をなよが引き止めた。
「待て、わしが護髪をしてやる」
なよは男の前に正座をすると、くっと見上げた。
「父さんの右腕は幸の作った義手、左手には幸の護髪が入っておる。ならば、わしは父さんの右足に護髪をしてやろう」
なよが髪を一本抜き、男の右足に結ぶ。
「初めて見たよ」
「何を見た」
「上からなよのつむじを見下ろした。三つある」
「つむじくらい、帰ってきたらいつでも見せてやるわい」
見上げたなよの瞳が濡れていた。
なよは辺りを見渡した、
「よし、あかねが帰ってきおった。あかね、来い」
風が突き抜けた、と感じた瞬間、開いた襖に手を掛け、あかねが息を弾ませていた。
「力関係上、仕方なくは走って来ますけどね、用事がある時は」
あかねが顔を上げ、絶句した。なよ姉さんが泣いている。
「急ぎじゃ、父さんの左足にお前の護髪をしてくれ」

あかねは素早く男の前に正座すると、後で留めていた髪を解し、髪を一本、男の左足に結んだ。
「詳しい事情は知りません。ただ、お父さんは御自分が思われる以上に必要な人で」
くっと、あかねが男を見上げた。
「あかねにとっても、とても大切な人です」

男は笑みを浮かべるとそっと指先であかねの頬に触れた。
「ありがとう。とっても嬉しいよ」
男は手を戻すと、よしと呟いて立ち上がった。
「それじゃ、出かけてくるよ」
「まて、父さん。一つ聞かせてくれ」
なよの声が震えた。
「どうしたんだい」
なよが深呼吸をし、きっと男を見つめた。
「父さん、本当は己の出自をわかっているのであろう。しばらく前に、思い出した。父さんはホンケの初代にそっくりじゃ」
男は襖に手をかけたが、ふと、手を戻し、背を向けたまま言った。
「幸にも伝えていない記憶だよ。先々代が初代の細胞から作り出した赤ん坊が父さんだ。ま、誰にも言わないでくれ、特に白澤さんには秘密だぞ。子供の頃かな、白澤さんに初代ってどんな人だったって聞いたことがあるんだ。映画俳優のブロマイド、少女のような表情で、このお方にそっくりってね。白澤さんの乙女心を傷つけたら大変だ」
男はくすぐったそうに笑うと部屋を出た。
慌てて、あかねが部屋を飛び出す。男の姿は既になかった。
「なよ姉さん。これは、いったいどういうことですか」
「わし自身がこの状況を戸惑うておる」
なよはそう呟くと俯いた。

三毛は山羊小屋の中で男と同じ、やわらかな笑みを浮かべた。数日の間、男と山羊小屋を作っていたのだ。十畳は充分ある、天井も高くて普通に歩くことも出来る。
そして、三毛は男と一緒に山羊小屋を作ったのが嬉しくて、なんだか誇らしくて、つい笑ってしまうのだ。のこぎりで板をまっすぐに切ることも出来るようになったし、金槌で釘をまっすぐ打つようできるようになった。お父さんと一緒に山羊小屋を作ったからだ。単純なことだけど、なんだか、とっても嬉しい。なにより、お父さんと一緒に一つのものを作ったということが嬉しくて仕方がないのだ。

「おーい、三毛」
黒が扉を開け、小屋に入って来た。
「黒姉ちゃん」
「晩御飯の用意をしよう」
しかし、黒は三毛の隣にすっと座ると、柔らかに笑みを浮かべた。
「いいの、できたね」
「うん」
三毛がとびきりの笑顔で頷いた。
黒は小屋を二人が作っている時、手伝おうとしたのだが、男と作業をする三毛の楽しそうな顔を見て、遠慮したのだ。末っ子でもあり、三毛は何かにつけて、遠慮する。それが習慣になってしまっているのだろう、だから、父さんと生き生きと笑顔で作業をする三毛の邪魔をしたくなかったのだ。
「あのね。黒姉ちゃん、三毛はここにいるととっても楽しい。じっとしていても楽しいんだ」

「ここは三毛の宝物だな」
黒の言葉に、そっと三毛は頷いた。
二人が家に戻ると皆が、いつものように晩御飯の用意をしている。黒と三毛も椅子やテーブルを運ぶのを手伝い始めたが、ふと気になって黒は白にたずねた。
「お父さんは」
「わからない、誰も知らないみたい」
困惑したように白が尋ねた。
「幸母さんも知らないの」
黒の問いに、白が頷いた。三毛が気づいた。
「あれ、なよ姉さんも」
小夜乃がお皿を両手に頷いた。
「なよ母さまは用事があるとのことでホンケに伺いました」
天使の夕子姉さんが増えた以外、いつもの風景。でも、何か違うと三毛は確信した。


あかねは六十絡みの男の背後に立つと、男の喉に軽く短刀の先を当てる。
深夜、とある政治家の寝室だ。
「な、何者だ」
無言であかねは短刀を持つ手に力を加える。つぅっと男の喉仏から、赤い血が流れた。
「質問は認めません。なお、警備の者はおりませんし、警備会社から警備員も来ることはありません。貴方は、一人きりです」
「ま、待ってくれ。俺は何も悪いことなどしていない」
あかねの手にくっと力が入る。
「助けて、助けてくれ」
「何も悪いことはしていないなんて、笑えない冗談」
あかねは政治家の耳元に口を寄せ、囁いた。
「お尋ねします。とある男から呪術集団の最近の行動について、抑制するよう依頼がありましたか」
あかねの言葉を聞いた途端、足の力が抜けたように、しゃがみこんでしまった。
「俺じゃない、俺じゃないんだ。俺はそんな大それたことを」
すっとあかねが政治家の頭に手を載せる。
政治家が気を失いつんのめるように倒れた。

お父さん、仕事が早い。なかなか、追いつけない。
あかねが唇を噛んだ。
幸お姉ちゃんがお父さんを嫌うようになったのは、私のせいだ。平次を住まわせたことで、おかしくなったんだ。幸お姉ちゃん、男の存在だけで、くたくたになってた。それが・・・、お父さん、ごめんなさい。

深夜、黒は男の部屋、灯りも点けず、いつも男が座っていた椅子に座る、窓からの白い月明かりが険しい表情を浮かべた黒の横顔を映していた。

「おおい、黒。眠れないのか」
幸が襖の向こうで黒に声を掛けた。そっと、襖を開けた幸に黒は視線を向けると静かに言った。
「幸母さん、教えて欲しいことがあります」
黒は椅子に座ったまま、幸に向き直ると、両膝をそろえた。
そして、幸の目をじっと見据えた。
「幸母さん、お父さんがいません。晩御飯の時に幸母さんはお父さんが何処に行ったかわからないと言いました。でも、それはおかしいです。幸母さんがわからないはずがありません。ひょっとして、幸母さんが意図的のお父さんは追いやったのではありませんか」
静かな黒の眼差しに幸は戸惑いながらも答えた。
「ほら、呪術士集団がここを襲おうとしてさ、今後、そういうことが起こらないように父さんに頼んで」
ゆっくりと黒が立ち上がった。
「それはこの国を影から動かしているモノ達と戦うことになるかもしれない。今のお父さんには厳しい。それは、黒よりも幸母さんの方が分かっているのではありませんか」
「いや、だって。父さん、男だし。男は、あの」
言い繕うとする幸にそっと、黒が笑みを浮かべた。
「幸母さん。もう遅いので寝ます、お休みなさい」
黒はすっと幸の横を擦り抜けると、寝間に向かった。
次の日の朝、黒と白と三毛の三人は姿を消していた。

「よぉ、白澤。ちと、用事があって来たぞ」
ホンケ、城内、二の丸に居た白澤に、後ろからなよが声を掛けた。白澤の隣には、多分、小学生くらいの年齢だろう、上質な着物を着つけてもらった男の子が、不思議そうになよを見ていた。
「警備のものをどうした」
白澤が叫んだ。
「わけを話したらどうぞと言うてくれた。教育が行き届いておるのう」
「そんなわけがあるか」
なよは愉快に笑うと、ふと、気づいたように男の子を見た。
「新しい御当主様か」
白澤が気持ちを落ち着かせ答えた。
「まだ、教育中だ。いずれ、ホンケを統べる方となる」
「叔母さんはどなた」
男の子が尋ねた。
ひくっとなよの頬が引きつった。
「叔母さんはのう、お前の父親の兄の、その娘。つまりはお前の従姉じゃ」
なよはやわらかな笑みを浮かべ、男の子に近づくと、ぎゅっと頬をつねった。
「従姉弟同士じゃ。わしのことは、なよお姉さんと呼んでくれ」
白澤があわてて、なよの手を払いのけると、男の子を後ろに庇った。

「妙なトラウマを御当主に与えるな」
下の階から次々と警備の者達が駆け上がって来た。手に手に薙刀、刺股等、武器を携えている。
「御当主、お怪我はありませんか」
先頭に陣取った警護長が叫んだ。
白澤は疲れたように首を振ると、警護長に言った。
「慌てるでない。御当主は大丈夫だ」
白澤はなよに目をやり言った。
「かぐやのなよ竹の姫。何用で参ったのだ」
「本家の敷地内に家を所望する。なに、贅沢は言わん。あばら家で良い、それなりにこちらで普請はする。ただ、そうじゃのう、城から離れている方が気楽じゃな」
「さては、あの女に追い出されでもしたか」
「いや、仲の良い姉妹じゃ、邪推せんでくれ。ま、なんというかな。ちと、別荘というところかのう」
白澤はなよの意図が全く判らなかったが、ここで男との接点を残しておく方が賢明と考えた。
「西の向こう、山の麓に朽ち掛けた屋敷がある、それをやろう。部屋で月見もできるぞ」
なよは笑うと、それで良いと頷いた。
「さて。次はと」
なよが呟いた時。
「なよ姉さん」
黒の声が警護隊の向こうから聞こえた。黒と白と三毛、跳ぶように駆けてくる。
息を切らせながら、三人がなよの前に飛び出して来た。
「ひどいですわ」
白が息せきながらなよに言った。
「私達だって」
白澤が白を睨んだ。
「白。いったい、何があった」
うわっと白が黒の背中に隠れた。
黒は怯えながらも首を左右に振る。三毛はというと、なよの後ろに隠れていた。
なよは面白そうに声を上げて笑うと、白澤に言った。
「わしの可愛い妹たちに、白澤よ。あんまり睨まないでくれ」
さてと、なよは呟くと辺りを見渡した。
さすがに無と呼ばれた父さんじゃ、遠見でも、姿を見せん、護髪は父さんが危険にさらされんと発動せんが
離れていると駆けつけるに時間がかかる、まずはあかねと合流するか
「黒白三毛。花魁道中の儀、あかねと合流するぞ」
「はいっ」
三人が大声で返事をした。
「それでは白澤。これで失礼する。見習い御当主殿。お前は痛みを失ってしもうておる。それでは人の上に立つことはできんぞ。ま、これからはわしがしっかりいじめてやるから安心せい」
黒が大声でしゃんと叫んだ。白に三毛、次々と叫ぶ、それにつれ、四人の姿が薄れ消えた。

「警護長」
白澤が声を上げた。
「はっ」
「城に残る精鋭をここに呼び寄せよ」
「今すぐに」
警護長が緊張した面持ちで返答した。

あさまだき、朝日が昇る前の沈黙の時間、高級住宅街を男は歩いていた。個人宅の壁が百メートル、二百メートル、そんな邸宅が立ち並ぶ住宅街だ。
徹夜は堪えるなぁ、男は呟くと、とある屋敷の塀の途中、立ち止まった。ふわりと男は飛び上がると、塀の向こうへ消えた。

小夜乃は昨晩のなよの言葉を思い起こしていた。
ここを出て行くことになるかも知れないと。
幸母さんがお父さんを嫌いになった。お父さんという歯止めがなくなれば、幸母さんの暴走が始まるかもしれない、もしも、始まれば誰も止めることはできない。
そうなる前に。
小夜乃は自分ができることは何か。それを考える、この楽しい生活をこれからも続けたいと願う、そのために自分のできる精一杯のことをしなきゃならない、そう思うのだ。

塀の中では人だかりがしていた。男がその後ろで
中を覗き込む。最前列の十人が消音器付きの銃を二人に突き付けた。流れ弾に当たらぬよう、慌てて、人だかりが変形する。
男と女、ホンケの精鋭が銃を突き付けられていたのだ。
「この程度の障害を抜け切れないなんて、修行のやり直しだなぁ」
男は呟くと、最後尾の男に尋ねた。
「彼らは何者だい」
声を掛けられた男はなんの警戒もなく答えた。
「それをこれからお教えいただこうというんだ、忍び込んだはいいが、警戒態勢随一の屋敷だ、すぐにあぶり出してやったわけさ」
自慢げに言う、
「親方様はいないようだね」
「この頃は朝帰りだ。帰ってこられるまでに白状させないとこっちが危ない」
「親方様は優しい方だと聞いているよ」
「昔はそうだったんだが。ん、あんた、誰だ」
「私かい。君達の敵だよ」
男は笑みを浮かべると、すっと右手を最後尾の男の額に手をそえた。かくんと膝がくずれ重力のままに倒れる。
男は人込みをかき分け、精鋭二人の前にやって来た。背中に銃口を向けた形だが、男は気にする様子もなかった。
「久しぶりだな。ちゃんと修行はつづけているかい」
「先生・・・」
女の方が呟いた。
「ついでだ、助けてあげるよ」
男はなんの気負いもなく言うと、銃口に向き直った。
「何者だ、お前は」
銃を向けた中央の男が叫んだ。
男はそれに答えるように笑みを浮かべた。
「敵」
一言呟いた途端、男の姿が消えた。大声で叫んだ男が仰向けに倒れる。次々とドミノを倒すように男達が倒れて行く、血を流すこともなく、気絶して行くのだ。
二人の精鋭は思い出した、男が真面目に動いた時は、その動きが速すぎて、全く目で追えなかったことを。
「ま、こんなところだ」
二人が慌てて振り返った。男が後ろで笑っていた。
「あ、ありがとうございます」
二人が言うと、男は一瞬、照れたように俯く、感謝されるのは得意ではない。
「君達は何しにこの屋敷に忍び込んだのかな」
「それは、白澤様から、この屋敷の主を探れと」
女がなんの躊躇いもなく答える。精鋭の男も頷いた。
「人ではなくなったかも知れないとのことです」
男は精鋭達を完全に掌握していた。
男は呪術集団の指揮者が鬼であるかもしれないと思う。なら、呪術集団が襲ってくるのも頷ける。
「一度、会ってみるかな。朝帰りというなら、もうすぐ帰って来るだろう」

かすかなエンジン音、太陽が昇る前の薄い紫色の時間。塀に設えた車用の自動門扉が横に開いて行く、黒塗りのリムジンがゆるやかに屋敷の中を進む。程中、不意に車が停まり、ドアが開いた。
羽織り袴の老人が一人、その後ろを運転手が付き従う。男はその二人を静かに眺めていたが、微かに眉をひそめた。
「二体はきついかな」
男は呟くと、精鋭二人に言った。
「二人とも原種の鬼だ。君達は私が戦っている隙に逃げなさい」
二人の顔色が青ざめた。
「先生」
「以前ならさ、どうということなかったんだけど、私も弱くなってしまってね。隙を見て二人とも逃げろよ」
男は呟くと、数歩、足を進める。
そして、お互いが立ち止まった。
男が言う。
「鬼王の末っ子 荒貘王子と瓜神王子。原種の鬼で唯一、その名に神を持つ鬼だったかな」
老人が両目を細めるようにして笑った。
「何者かね。人にしては、やけに鬼のことに詳しいじゃないか」
「ここの主を食った上で人に化けたということか。原種の鬼は誇り高いと聞くけれど、例外もあるんだね」
「何者かと尋ねておる」
いらついたように老人が言った。
「老人が荒貘王子、運転手が瓜神王子。格上の瓜神が運転手役ということは、荒漠よ。あんた、瓜神の手のひらでダンスをする役だな。うまく煽てられ、瓜神の手のひらで気分よく踊っている訳だ」
「何者かと尋ねているのだ」
男がにぃぃっと笑った。
「瓜神を見てごらん。余裕でにやけているよ」

顔を引きつらせ、老人が後ろを振り返った瞬間、男の姿が消えた。男は老人、荒貘王子の頭上急降下、自在を両手に王子の脳天を、瞬間、男の右腕が消えた。幸の作った義手が消えたのだ。
男は姿勢を変えると自在を左足で踏み込んだ。荒貘王子が文字どおり真二つになる、    しかし、力んだ左足の動きが遅れた。瓜神王子が抜き払った剣が男の左足を太ももから切り落とした。男は自在で地面を打ち、勢いで後ろに跳びはね、間合いを開けた。
男は右足で着地すると、左を力む。左の太ももから吹き出した血の流れが止まる。
「その武器。お前が無だな」
瓜神王子が剣を構えたまま言った。
男が笑みを浮かべ言う。
「鬼王には上がつかえて、なれそうにもない。なら、単純な荒貘王子を隠れみのに、人の世に君臨してやろう。おおかた、そんなところじゃないかい」
「ああ、その通りだ。人は欲の塊だ。面白いほど餌になびく」
ゆっくりと瓜神王子が剣を振りかざす。
「無を倒したとあれば随分と箔が付く、ありがたいことだ」

「いや、私を倒すのは無理だよ。だって、私の娘たちは強いからさ」
男が言い終えた瞬間、刃帯儀が飛ぶ、瓜神王子の腕を足を首に巻き付き捕らえて行く。
「すまん、遅くなった」
なよがいきなり男の隣に現れた。瓜神王子が空中に張り付けになる。
「久いな、瓜神。お得意のつまらぬ策を弄しておったか」
「お前はかぐやのなよ竹の姫、どうしてここに」
「父親の危機に子が助けに来る、さほど、不思議ではあるまい」
なよが男に振り返る。男の様子になよは息を飲んだ。
「黒、白、三毛、あかね」
なよが大声で怒鳴る、瞬間、四人が瓜神王子の間合いに現れた。一瞬で四人が瓜神王子を粉微塵に切り裂いた。四人は着地すると緊張が解けて、座り込みそうになったが、男の様子に驚いて駆けつけた。
「お父さん」
黒が叫んだ。
右腕がなくなり、左足も太ももから断ち切られた男の姿を見たのだ。
「格好悪いとこ見せてしまったなぁ」
男は照れたように笑うと、自在を器用に使い、歩く、そして、自分の左足を、よっと声だし、左腕で抱きかかえた。
ぼっと炎を放ち、左足が燃える。そして、灰になり消えた。冷たい、氷のような炎だった。
「あとは白澤さんに片付けてもらうかな」
黒が男にしがみつく、そして左から男を支えた。
「無理しないで」
黒が思い詰めたように男に言った。
白も三毛もあかねも男に寄り添い、心配そうに男を見上げた。
「心配掛けてごめん」
男は素直に言うと、力が抜けたように地面に座り込んだ。
なよが刃帯儀に使う絹の端切れを白に渡した。
「それで父さんの足を止血せい」
白が慌てて、絹で男の足、その切り口を包む。
なよは振り返ると、精鋭二人を手まねいた。あたふたと二人がなよのもとにやって来る。

「白澤に連絡しておけ。原種の鬼。荒貘と瓜神、二体、古の約定により抹殺したとな」
ふっと男は二人を見上げると笑った。
「優喜君、綾さん、うちの娘たちは強いだろう。私はこんなんだから、もう君たちに教えることはできないけれど、うちの娘たちに教わって、もうちょっと強くなりなさい」
男は楽しそうに笑みを浮かべ、目を閉じた。
「お父さん」
三毛が叫んだ。黒も白も慌てて、男の顔を覗く。
「気絶中じゃ。そのうち目を覚ますわい」
なよの言葉にあかねもほっと息を吐く、あかねだけが、三人の後ろで正座していたのだ。
「あかね。いらぬことを考えるな」
なよはあかねに言うと、自在を二本取り出し、絹で担架を作る。
「三毛、たまにはお前が先頭を行け、黒は後ろ。あかねと白は横から支えろ」
なよの指図に四人は男を急拵えの担架に寝かせる。
精鋭、二人がなよに報告した。
「あと五分で白澤様一行がこちらに参ります」
その報告に、ぎろっとなよが睨みつけた。
「お前達は白澤の部下じゃから、白澤に向けて、様付けするのは不思議ではない。しかし、他家の者に言う時には白澤一行と言え。様をつけるな」
二人はなよに目に竦み上がり、唯々うなずいた。
「も、申し訳ありません」
青い顔をしながら答える。なよはにかっと笑った。
「とはいえ、白澤には別荘をもらった。なにやら、西の外れ、部屋で月見のできる屋敷と言っておったが、お前達、案内できるか」
「は、はい。もちろん」
「ならば、道案内をせい。あとは別荘をわしにくれた御白澤様に任せておけばよいわ」
なよに言葉に白が慌てた。
「なよ姉さん。家には帰らないの」
「大事な娘たちの気持ちを奪った男を、幸が許すと思うか」
三毛が泣きそうになって言った。
「それじゃ、お父さんと暮らせなくなるよ」
なよはその言葉に少し俯いたが、顔を上げ言った。
「小夜乃がなんとかするじゃろう」

小夜乃は機のある部屋で正座をし、目をつぶっていた。小夜乃はなよが機を織る、その音を聴くのが好きだった。
小夜乃は自分が角の鬼であることを知った夜、男にこのまま、ここにいさせて欲しいと願い出た時のことを思い出していた。
「小夜乃がいなくなると、みんな、寂しいし、叔父さんも泣いてしまうかも知れない。小夜乃、何処に行ったんだろうって、みんな、ご飯も食べずに探して回るだろう。だから、小夜乃、ここに居てください。小夜乃、君は自分で思っている以上に大切な人なんだよ」
男はいたずらげに笑った。
「ありがとう、ございます」
「それに叔父さんは幸で手一杯だ」
「え」
「幸は国を潰してしまうだけの力を持っている、叔父さんは幸にそんなことをさせないようにしなきゃならない。なよもね、それだけの力は持っている。さすがに、叔父さんも二人は無理だ。なよは小夜乃に任せるよ」
「はい、頑張ります」
小夜乃が元気に答えた。男が楽しそうに笑った。

今がその時だと思う。小夜乃は閉じていた目を開けた。そして、立ち上がると襖を開けた。

小夜乃は台所のテーブルでお茶を飲んでいる幸を見つけ、テーブルを挟んで幸の前に座った。
「どうしたの、小夜乃。そんな難しい顔をしてさ」
幸は湯飲みをテーブルに置き、笑った。
「幸母さん、お尋ねしたいことがあります」
「ん」
「お父さんを何処にやりましたか」
「お父さんにお願いしたんだ。ここに攻め込もうとした呪術者達が二度と来ないようにして欲しいって」
幸がたいしたことでもないというように、あっさりと答える。
「それはとても危険なことです。お父さんは力が弱くなっています、なよ母さんからそう教えていただきました。もし、お父さんが敵にやられたらどうするんですか」
幸はたいしたことではないと笑みを浮かべた。
「敵は未知数だ、厳しいかもしれないな。でも、お父さんは男だし」
小夜乃は幸を睨みつけると、テーブルを両手で激しく叩いた。
「どうしてなんですか。お父さんはみんなを大切に思ってくれています。中でも幸母さんをとっても大切に思っていてくれています。そんな、お父さんにどうしてそんなことが言えるんですか」
小夜乃は思わず、立ち上がると、ぎゅっと幸を瞬きもせず見つめる。
「な、なんだよ」
幸は小夜乃の激高に思わず言葉を詰まらせた。
「だ、だって、お父さんは男だ。男はとっても悪い存在なんだ、邪悪なんだ。だから、いなくなった方がいいんだよ」
幸の言葉に、ぎゅっと小夜乃は幸の目をまっすぐ見つめる。
「そ、そんな、見据えるなよ」
幸が少し身を引き呟く。
小夜乃が強く幸の両手を握った。
「幸母さん。男とか女とか関係ありません。お父さんはお父さんです。お父さんなんですよ」
ふっと力が抜け、幸はテーブルに俯せてしまった。
「お父さんの右腕を斬ってしまった時、二度とこんなことはしないようにって誓ったのに」
幸が力無く呟いた。

「こら、精鋭。御殿医を引っ張って来い。足の治療をさせるぞ」
「はいっ」
なよの言葉に精鋭の優喜が駆け出した。
西の屋敷、といっても、誰も住まなくなって十年以上は経つだろう。広い屋敷だが、壁は崩れ、屋根の崩落した箇所も多い。
「なよ姉さん、大丈夫かな、ここ」
黒が心配げになよを見た。
なよが屋敷の端から、端まで眺める。
「配膳所回りがましのようじゃ。右端じゃ、営繕できるか見て来い」
黒がなよの言葉に駆け出した。
「そこの精鋭、来い」
綾が慌てて走ってくる、なよの自走式刃帯儀、かぐやの竹の姫は文人であり、政治家であると聞いていた、とんでもない話だ、白澤様ともひけをとらない技術と絶対的な自信を持っている。
「布団一組と、しばらくここで暮らすに必要な生活必需品を買い集めて来い」
なよは分厚い財布を綾に手渡した。
「私が」
驚いて綾が顔を上げた。
「私でよろしいのでしょうか」
「お前ではならん理由がない」
あっさりなよは答えると、三毛を呼んだ。
「三毛。白は父さんの看病。お前は荷物運びじゃ」
「お父さん、大丈夫かなぁ」
心配そうに三毛がなよを見つめる。
「大丈夫、心配するでないわ」
にかっとなよが笑った。元気づけられるように、三毛は安心の吐息を漏らすと、綾と買い出しに向かった。
黒が戻ってきた。
「大丈夫、壁も柱もしっかりしているよ」
なよが黒の言葉にうなずいた。
優喜も医者を背負い走ってきた。
「うわっ。かぐやの」
思わず御殿医が叫んだ。
「わしの父さんが大怪我じゃ。しっかり治療せよ。もしも」
言いかけて、なよが凄みのある笑みを浮かべた。
黒とあかねが男の乗った担架を持ち上げた。

綾は戸惑っていた。
隣りを歩く三毛、沈んだ顔で歩く。
「あの、三毛さん」
綾の声に三毛は笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、考え事をしていました」
「財布、私が持っていていいのでしょうか」
「え、いいですよ。なよ姉さんが綾さんを認めたのですから。えっと、お布団は後にしましょう、かさ張りますから。まずはお鍋とか炊事道具かな」
三毛がそっと笑みを浮かべた。

ホンケ、それは一つの呪術集団であると同時に白鷺城を模した城を中心にした城下町であり、およそ一万人が生活する都市でもある。呪術者はその内、千人、もちろん、その頂点には当主と白澤がいる。
綾と三毛は城の西側にある市にいた。
城の西側の通りに商業施設が並ぶ。城の方針により、鉄骨やセメントの利用を極端に制限されていることもあり、全ての商店が木造平屋から、高くても三階に留まっていた。行き交う買い物客も多い、自動車は許されず、大きくても大八車だが、誰もがごく簡単な呪術なら使うこともでき、思うほどの不自由はない。
「うひゃ、にぎやかですよ、綾さん」
人波を書き分け、三毛が綾を見上げた。
綾がはにかむように笑みを浮かべた。

なんて可愛い妹だろう。
綾は素直にそう思う。先生の娘、特に三姉妹の連携攻撃、先程の鬼を斬る滑らかさは相当な使い手だ。でも、少し見上げて、えへへと笑う女の子。可愛くて、御人形のようで、ぎゅっと抱き締めそうになる、何考えてんだ、私。
「どうしましたか、綾さん」
「え、あの。なんでもないです」
「それじゃ、まず、箒ですとか掃除道具から買いましょう」
あちらこちらの店を覗き、二人が買い物をする。掃除道具の他、鍋や炊事道具、布団は綾が纏めたものを背中に背負った。
三毛は箒を担ぎ、それに鍋だとかを差す。
「綾さん。あんまり、おしゃれじゃないですね」
お互いの姿に二人は顔を合わせて笑った。
綾を先頭に西の屋敷へと帰る、たくさんの人だ。
すれ違う人達、ふっと綾の小さな鞄に誰かの手が入る、財布が抜き取られた瞬間、三毛はふっと手の力を抜き、箒を手放す、姿勢を落とし、その財布を掴むと、ぐっと捻った。一秒にも満たない瞬間、財布を片手に三毛は箒を背負い、何もなかったように歩く。
財布の両側面には薄いチタンの金属板が入っている、すった女がその手首を押さえた。あまりの速さに関節が対応できなかったのだ。
「綾さん、財布を落としましたよ」
三毛が綾に声をかけた。
振り向き、綾が焦る。
「ありがとう。怒られるところだった」
焦りながら、綾が鞄に財布を入れ直す。
「大丈夫ですよ、なよ姉さんはそういうのはあまり怒りません。それに、その財布、呪いの財布ですから。すぐになよ姉さんの元に戻ってきます」

えっと綾が驚いた瞬間、後ろから手拭で誰かが口を塞いだ。同じように三毛も口を塞がれる、クロロフォルムだと気づく。三毛には耐性があったが、逆らわずに目を瞑った。
二人が運ばれて行ったのは、荒れ果てた神社の境内だ。
無造作に三毛は立ち上がると辺りを見渡す。男が八人、女が三人。全員が驚いて、三毛を見つめた。三毛は手首に包帯を巻いた女に目をやった。
「お父さんならこう言います。お金が欲しいのならば、まっとうに働きなさいと。あなた、これを機会に足を洗いませんか」

呆気に取られたように女は口を明けたまま、三毛を凝視した。綾が首を振りながら、やっと目を覚ました。綾が素早く回りを見渡す。
十一人、五人までなら、なんとか闘える。十一人は無理だけれど、時間くらいは稼げるか。
すっと三毛が綾の肩に手を置いた。
「なんだか、知らねぇけど、分厚い財布を置いて、少しばかり殴られてくれれば解放してやるぜ」
一番がたいのいい男が言い放った。
「財布は姉からの預かり物ですから渡すことはできません。貴方達こそ怪我をしないうちに去りなさい」
三毛が毅然とした姿で言う。
何処の社会でも荒くれた人間は居る。特に白澤は城内のことと、当主の世話に関心が集中し、城外のことにはあまり関心を持たないため、こういう荒々しい派がいくつか存在する。
三毛の言葉に男達が大笑いをした。
「あんまり鼻っつらがでかいと後で泣きを見ることになるぜ」
三毛は大笑いする男達の肩越しに、背を向けている男の姿を見つけた。
「そこの黒い背広の人。貴方は彼らの用心棒ですね。彼らとは全く気配が違います。技量も彼らとはかなり違うようですね」
ゆっくりと男が振り返る。右腕のない、隻腕の男だ。
すいっと三毛が目を細めた。
「面白そうな女だな」
隻腕の男が呟く。
「初めまして」
三毛が答えた。
「その片腕と黒い服と、なにより、その気配。叔父さん、お父さんを、無をご存じですね」
不意に隻腕の男が目を見開いた。
「お前、無の娘か」
「以前、無断でいらっしゃった方ですね。まだ、この世界から足を洗っていらっしゃらなかったのですか」
隻腕の男は前に出ると、左腕で刀を抜いた。
「先生。いや、俺達、そこまでは」
慌てて、がたいのいい男が叫んだ。さすがに刃傷沙汰になると、城からの追求を免れられない。
三毛も真っすぐ立つ。およそ五メートル、間合いはお互い届いていない。
三毛は左足を大きく引き、極端に平たい半身をとる。そして、姿勢を大きく下げた。
隻腕の男が気づいた。姿勢を下げることで、三毛の間合いが伸び、既に自分が三毛の間合いに入ってしまったことを。
綾も感じていた、いま、この時点で三毛が勝ったことを。隻腕の男は唸り声を上げたが、思うように動けない。三毛は既に闘う気でいた。お父さんの名を貶めた奴を許すわけにはいかない。
ぎゅっと男を睨みつける。
誰も動けない。三毛の気配に脅えたのだ。
「あんた。何してるのよぉ」
いきなり女が飛び込んできた。隻腕の男にしがみつく。
「もう、危ないことはしないって約束してくれたじゃないの」
膝を崩し、男の腰に両手でしがみつく。
「どけ、邪魔だ」
「いいえ。離さない、離すもんか。こんな刀は捨てて、一緒になってくれるって言ったろう」
女が叫び、涙ながらに男を責める。
ふっと、三毛は腰を上げると、降ろした荷物を持ち上げた。
「帰りましょう」
三毛は笑みを浮かべると、綾を促した。
「はっ、はいっ」
綾は緊張に吃りながらも立ち上がると、立ち去る三毛の後を追った。
緊張が抜けたように、隻腕の男は大きく息をついた、そして、力が抜けたように、地面にしりもちをつく。女が大声で泣きながら男を強く抱き締めた。
「泣くな。二度と刀は持たない」
男があきらめたように言った。
「約束ですよ、叔父さん」
黒が笑みを浮かべ、二人の横にしゃがんでいた。
「誰だ、お前」
「さっきの子の姉です」
黒があっさりと答えた。
「このお方があたしにあんたが危ないって教えてくださったんだよぉ」
女が何度も黒に頭を下げる。
「無事に済んで良かったですね」
女に言うと、黒は隻腕の男を軽く睨んだ。
「おかみさんのお腹には新しい命があります。その子を片親にするような愚かなことは謹みなさい」
驚いて、男が女を見つめた。
黒は立ち上がると、がたいのいい男の前に立った。
男達はあっけにとられ、茫然と立ちすくんでいた。
「貴方達。もしも、私や妹に不満があるならば、西に朽ちかけた屋敷、西の幽霊屋敷と呼ばれているらしいですね。当分、その屋敷にいますから来なさい。少しばかりこわい目に合わせてあげましょう」
にぃいと黒が目を細めた。男が地面にしゃがんだ、腰を抜かしたのだ。かまわず、黒は包帯を手首に巻いた女の前に立った。
「ご、ごめんなさい。二度と、二度とスリはしません」
黒は答えずに包帯の巻かれた手首を両手で包み込む。
そして、手を放すと、女に笑みを浮かべた。
「痛みはどうですか」
驚いて、女は自分の手首を見た。完全に痛みが消えていた。
「それでは」
黒が呟く、ふっと黒の姿が消えた。

心配そうにあかねと白は御殿医の治療を見つめていた。包帯を巻き直し、医師がほっとしたように軽く息を吐く。
「一週間は安静。動いてはならんぞ」
男は少し笑った。
「善処致します」
「他人事のように言うでないわ。で、白澤殿にはここに千尋がいるのを言うなということだな」
「面倒臭いので、できるだけ、その方向でお願いします」
「強く問われれば言うぞ、わしも命は惜しい」
男は、横になったままうなずく。
「ま、新当主の教育で白澤さんも忙しいでしょう」
男は呟くと、体を起こそうとした。
「言うそばから、何をしている。静かに横になっていなさい。血も減っているのに、輸血ができない体とは」
医師が困り切ったように言う。
白は正座をすると、枕代りに、両膝に男の頭をそっと載せる。
「お父さん。もうすぐ三毛が布団を一式用意して来ますから、それまで、じっとしていてください」
「後で薬を取りに来るように」
医師が立ち上がったのを見て、優喜が素早く、医師の履物を用意し、外へと送り出した。
「なよはどうしたのかな」
あかねが男に寄り、答えた。
「なよ姉さんは竈が一つ使えるようだからと、倒れた柱ですとかを、薪代りに集めています。あかねも手伝って来ます」
立ち上がりかけたあかねを、男が呼び止めた。
「待ちなさい、あかね」
「はい」
あかねは男の横に正座し、少しうつむく。
「あかねが自分を責めていること。心を読まなくてもわかるよ。あかね、聴きなさい」
「はい」
あかねが力無く、呟く。
「二つのこと、これはね、関係は無い。あえて言うなら、間が悪くて、関係あるように見えるだけのことだよ。そして、幸が男全体を恨むのは仕方がないんだ、父さんだけさ、別扱いにしてくれていたけれど、本当は、そういうの、とても不安定で、幸も頑張ったと思う。右腕の時から、随分経つからね」
男はあかねに笑ってみせた。
「お互い、親離れ、子離れする時期が来ていたんだろう。今回、父さんはさ、娘に頼まれて、ちょっと良いかっこしようとして、失敗して、他の娘たちに心配を掛けてしまった、格好悪い父親なんだよ」
男は左手であかねの手を握ると、笑った。
「格好悪い父さんでごめんね」
あかねは両手で包み込むように男の手を取ると、ぎゅっと自分の額に押し当てた。
「うわぁ、ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい」
堰を切ったようにあかねの感情が溢れた。
普段のあかねからは全く想像できないほど、泣きわめくその姿に、男は右手であかねの頭をなでてやろうとしたが、改めて、その腕がないことに気づかされた。

黒は両手に紙袋を持って戻って来たが、その様子に靴を脱ぐのも忘れ、男に駆け寄った。
「大丈夫。まだ、父さん、死んでないよ」
男が静かに言う。ほっとして、黒は腰が抜けたように床に座り込んでしまった。
「黒姉、靴を脱いでください」
白も気を落ち着かせると、黒に言った。
黒も両手の荷物を降ろし、ほっとした表情を見せると、靴を脱ぎ、土間の上がり間口に置いた。
やっと、あかねは泣き止むと、なよ姉さんの手伝いを
してきますと呟き、部屋を出た。
しばらくして、三毛と綾が戻って来た。
「ただいま。いっぱい、買ったよ」
三毛がこの場の空気を変えるかのように、元気に言った。



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