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異形 漣 かぬか びびる

本来、術者は行くことができない、正確には術者がなんとなく避けてしまうよう、難しい術が一帯に施されている。避けられるかもしれない面倒ごとは、あらかじめ避けるのが賢明だ。
かぬかは駅の改札を降りて、ほっと吐息を漏らした。幸い、かぬかは無の術を少し教わっているため、結界が見逃してくれたのだろう。幸の手書きの地図を見な がら、ここまでやってきたのだ。しかし、駅からの地図はない。つまりは書いても無駄なのだ、駅前商店街魚弦の佳奈さんに案内してもらうようにとある。
かぬかはほっと息を漏らすと、少しずり落ちかけた大きなリュックを担ぎ直す。今から登山でもしようかといういで立ちだ、かぬかの財産一式だった。

「らっしゃい、らっしゃい」
威勢のいい声、前掛けに魚弦と書いた佳奈が元気に客を呼び込んでいた。かぬかは少し離れたところで、どう声をかけたものかと考える、魚を覗き込んでいる主 婦三人、この人たちが買い物を終えたら、思い切って声をかけてみようか。なんだか、裸電球の灯りのせいだろうか、まるで観客席でお芝居を見ているような気 分だ。
しばらく前まで、そう本家を出るまで、殺し殺される世界にいたことが嘘のようだ。
なんだか、肩の力が抜けて楽しい。
ふと、佳奈がかぬかを手まねいた、ちょっと見渡して見る、自分だ。
「かぬかちゃんだろう。おいで」
「は、はい」
かぬかが佳奈の前に立つと、にっと佳奈が笑みを浮かべた。
「幸ちゃんから電話があったよ。奥に座敷があるからさ、荷物降ろしてやすんでりゃいいよ。一時間もしたら、お客さん減るからさ、そしたら。先生んち、一緒に行こう」
「ありがとうございます、えっと」
「あたしは佳奈。幸ちゃんの友達で、姉みたいなもんだ」
「私は白澤かぬかです」
佳奈が満辺に笑みを浮かべた。
「しっかりした子だ。幸ちゃんが大事な友達って言うのわかるよ」
奥の座敷に背中の荷物を降ろした、ほっと一息漏らす。
かぬかは幸が自分を大事な友達と言ったことに驚いていた。幸は変わった奴だと思う。白澤様の敵でこの野郎と思うこともある。独善的で我こそ正義と思っているような奴だ、でも。
多分、本当は白澤かぬかである私は幸が真っ当で良い奴と思いたくないのだ、だから、これは私自身の問題である。案外、幸って良い奴だなぁなんて思いたくない、それだけのつまらない意地だ。ただ、どうしてだろう、ちょっと、幸といると楽しくはあるんだ。
いつの間にか俯いていた、見上げれば佳奈さんが声を上げてお客さんを呼び込んでいる。なんだか、手伝いたい。そうだ、手伝おう。
「佳奈さん。お手伝いします」

霧の中を歩く、佳奈の手をしっかり握る。この手だけが頼りだ。
結界が施されており、術師には辺り一面が深い霧の世界だ。佳奈が澱みなく歩く、佳奈には霧が見えておらず、普通の住宅街でしかないのだろう。かぬかは緊張した面持ちで佳奈の後ろを歩く。
余程の術師でなければ単独では歩けないだろう。
「かぬかちゃん、大丈夫かい。ふらついているけど、ちょっと休むかい」
「いいえ、大丈夫ですよ」
かぬかが霧の向こうに笑みを浮かべる、真っ白な世界だ。
次第に霧がはれてきた、青い空、日盛りも過ぎた三時頃のやわらかな空だ。
「ほら、あそこだよ」
佳奈が指さす先に、瀟洒な小さな喫茶店があった。
喫茶店の窓に珈琲を飲む男性が見える。名無し先生だとかぬかが心の中で叫んだ。
佳奈とかぬかが喫茶店に入ると、男が笑みを浮かべた。
「かぬかさん、お久しぶり。佳奈さん、ありがとうね」
男が右手で二人に座るよう促す。
「えっと」
男がカウンターに視線を向けた。
あさぎが笑みを浮かべるとすっと水を二人の前に置いた。
「佳奈さん、何にしますか」
「それじゃ、私は珈琲で」
あさぎはそっとかぬかを見つめると微笑んだ。
「初めまして。幸の姉、あさぎです、よろしく。かぬかさんは何にしますか」
すっとあさぎがメニューを差し出した。
「お勧めはハーブティーのケーキセットですよ」
「え、じゃ。あの、それで」
戸惑うようにかぬかが答えた。
「あさぎちゃん、無理やりだねぇ」
「だって、お父さんも佳奈さんも珈琲ばかりでつまんないです。せっかく、ハーブティーのブレンドを作ったのに」
「うーん。喫茶店でお茶飲んでもねぇ」
あさぎがくすぐったそうに笑った。
「困った佳奈さんです」

「おおい、珈琲を作ってくれ。台所ではインスタントじゃが、こっちならうまい珈琲が飲める」
カウンターの奥から、なよがやってきた。
「あぁ、なよ姉さん。こちらが幸から電話のあったかぬかさんです」
ふっとかぬかがなよの顔を見た、
「ひやぁ。か、かぐやのなよ竹の姫」
驚いて、かぬかが腰を浮かす、瞬間、視界が巨大化したなよの瞳で充満した。
「うまそうじゃのう」
瞳の奥から、なよの言葉が響き出す。
「ご、ごめんなさい」
「なにも謝る必要はない。その右腕、所望じゃ。うまそうじゃなぁ」
震えて、動けない。威圧されて、体が押し潰されてしまう。
「なにやってんですか、なよ母様」
すぱーんと良い音がして、小夜乃がなよの頭をスリッパで思いっきりはたいた。
「え・・・」
かぬかは目の前で起こったことが理解できなかった。

頭を抱えて、うずくまっているかぐやのなよ竹の姫、その隣りにスリッパを持った少女。
「母がいたずらをしてしまい申し訳ありません」
「母・・・」
かぬかがおうむ返しに答えた。男が少しいたずらげに笑みを浮かべた。
「なよの娘、小夜乃だよ」
「先生、それって」
「うちの次女のなよ、それと娘の小夜乃だ」
なよが頭をさすりながら立ち上がった。
「そういうことじゃ。長ったらしい名前は忘れろ、なよでよい」
ふと、なよが佳奈の持っている袋に目をやった。
「さばとイカのいいのが入って来たからね、持って来たよ」
嬉しそうに佳奈が袋を持ち上げる。
「気が利くのう、佳奈は。よし、炭火でイカを焼いて、焦がし醤油できゅっと。な、いいじゃろ、あさぎ」
あさぎが呆れたように笑った。
「ほどほどですよ、なよ姉さん」
嬉しそうにうなずき、なよは小夜乃に言った。
「小夜乃。七輪の用意じゃ」
三人が庭へと行き、落ち着いたのか、緊張が抜けて、肩を落としたかぬかの前にあさぎがケーキセットを置く。
「お疲れさま」
あさぎが楽しそうに笑った。そして、そのまま、男の隣り、かぬかの前に座った。
男が紹介する。
「この娘があさぎ、三女だよ」
「よろしくね、かぬかさん」
「白澤かぬかです。よろしくお願いします」
「白澤さん・・・」
すっとあさぎが男の顔を見た。
「白澤さん直属の弟子は白澤姓を名乗ることになっているんだよ」
男の言葉にあさぎがそっとうなずく。
綺麗な人だとかぬかは思った。
「かぬかさん、どうぞ、食べて」
「ありがとうございます」
かぬかが笑みを浮かべて頷いた。一口、ケーキを食べてみる、とっても美味しい。
かぬかが幸せそうな笑顔をふわっと浮かべた。
「とっても美味しいです、あさぎさん」

部屋に荷物を置き、広間に立った。
「お父さんは自室で寝るけど、みんなはここで寝ているんですよ」
あさぎがかぬかに説明をした。
「あの、あさぎさん。なよさんも一緒に」
あさぎが戸惑う素振りすら見せず、素直に頷くのを見て、心しか、かぬかは驚いた。元は一国の女王、それが、皆と雑魚寝なんて。
「あ、あのね。なよ姉さんは怖い時もあるんだけど、本当はね。でも、心はとっても思いやりがあって、大人としての分別もちゃんとあるし、えっとね、時々、可愛いなって思える時もあってね」
慌ててかばうあさぎを見て、かぬかは年上であろうあさぎをなんだか可愛く思った。
「あさぎさんがそうおっしゃるなら、そうなんだと思います」
照れながらもはっきりとかぬかがあさぎに言う、嬉しげにあさぎも頷いた。
かぬかが思い出す。
初めてこの家の主 無に出会ったのは、白澤様に精鋭の一人として無の術を教わりたいと申し出て、認めていただいた次の日だった。

「私は晩の九時には自宅に戻り晩御飯を食べるつもりです。ですから、教えたことは一度で理解してください。二度も三度も説明しなければならないようでは、時間もかかりますし、なんだか面倒臭くて教えるのが嫌になってしまいます」
男は十人の精鋭を前に言い放った。
「では、皆さん。まずは自然体で立ってください」
かぬかが慌てて、足を肩幅に広げ、姿勢を崩さない、ギリギリのところで、肩や上半身の力を抜く。
え・・・、思わずかぬかは声を上げそうになった。精鋭九人、驚くようなだらけた姿で立っている、いや、一人はしゃがんですらいる。男性六人、女性四人、女性が互いにお喋りを始めた。
「なるほど。見事な自然体ですね」
男が嬉しそうに笑った。
「あんた。本当に無なのか」
中央の二メートル近くはあるだろうか、がたいの大きい男が言った。
「さあね」
「ああ、なんだと」
「私は自分で無だなんて名乗ったことはないんですよ。他人は私のことをそう呼んでいるみたいだけどね。だってさ、無 とかさ、気取っているようで気恥ずかしいじゃないか」
男は平気な顔をして笑うと、見上げた。こめかみにひきったような血管を浮かび上がらせた顔が男を見下ろす。
「あれ。ひょっとして、私がお気に召さないとか」
「もっと、凄い奴がやって来ると思っていたのに、そこらに転がっているおっさんがやって来たとはな」
吐き捨てるように言う。他の八人もシラケた目で男を見る。
「それは白澤さんの説明不足だ。後で言っておくよ。中肉中背、最近、ダイエットした方がいいかなと悩んでいるおっさんだってね」
「あ。あの、皆さん。早く練習を始めましょう」
かぬかが思い切って声を上げた。
ふいと男はかぬかの後ろに立つと、自然体に立つかぬかの背中少し下辺りを軽く叩く。瞬間、かぬかの頭の中にきらめきのような衝撃が走った。
「体が真上に浮かぶようだろう、これが本来の立つということだよ。忘れないように十分間、この感覚を味わいなさい」

男は九人に振り返るとにぃぃと笑った。
「そこの大将を潰して、他の八人を恐怖で稽古をさせるという手もあるんだけどね、でもさ、弱い者いじめをするのもなぁ、なんだか、格好悪いからねぇ、どうしたものかなぁ」
「悩むことはないさ。俺がどれほどあんたが強いのかを判断してやるよ」
巨体がじわりと、男に向かって構えた。
「それは無理だよ。だってね、歩き方を覚えたばかりの小さな子供が武術のね、口はばったいけどさ、達人の動きを読めるかい。残念ながら、君に私の動きを判断するような実力は無いよ」
「つまりは俺がガキだと言いたいわけだ」
怒気を含んだ巨体の言葉が終わりきる前に彼の右回し蹴りが男の喉元を貫くように疾走する。
すいと男は上半身を微かに引き、大したことでもないようにその爪先に右手を添えると、ふわりと押し出した。
「うぉおおっ」
巨体が軽々と宙に飛び、背中から思いっきり落下した。
「申し訳ないね。受け身くらいしてくれると思ったんだけどね」
巨体は口を開けたまま、白目をむいていた。
男は八人の顔をゆっくり見渡すと、笑みを浮かべて言った。
「次は誰が遊んでくれるのかい。まだ、私は遊びありないんだけどね」

 

「みんな。頑張って練習してる」
白澤が気のよい老婦人姿でやって来た。
九人が見事に並んで、真面目に自在を振っていた。
「あら、びっくり。本当に練習しているわ」
男は白澤に気づくと、軽く会釈をした。
「皆さん。真面目な子達で楽をさせてもらっています」
ふっと白澤は歯を食いしばって真面目に自在を振る巨体を眺めた。
「刃向かうと思ったんだけどねぇ」
白澤がふと辺りを見渡した。離れたところで、かぬかが一人、自然体から幾分、腰を落とした姿勢で立ち続けていた。
白澤はかぬかに近づくと、かぬかの肩に手を乗せ、ぐっと下向きに力を込める。崩れないかぬかの姿勢に小さく頷いた。
「どうして、かぬかを一緒に練習させてくれないの」
「九人の中に入れば大怪我しますよ。大サービスでこの子には、この基本の後、一時間、補習してあげます」
男はあっさりと答えると、先程とは打って変わって熱心に練習をする精鋭達に近づいた。
一人が自在をすりあげ、相手の上段に構えた自在を打つ。それだけの単純な動きだ。九人が組になり、一人の構えた自在を、次々と八人が打ち下ろして行く。
小柄な女が、自在をすりあげた。男はすっと近づくと、打ち下ろすのに合わせて、女の肩を軽く押す。女の自在が目にもとまらない速さで走り、受け手が自在を 持ったまま押し潰され、ひっくり返ってしまった。ひっくりかえったまま、受け手をしていた二メートルはあろうか云う男は今の動きが信じられないかのように 呆然としていた。
「術というほどでもない。ちょっとしたこつでね、うまく体が連動すればこれくらいの芸当はできるのさ」
男が女に言う。
「今の感触をどうすれば再現できるか考えなさい。自分で、考えて見つければ、それは自分の動きになる。いいね」
「は、はいっ」
興奮覚めやらぬ思いで、女が叫ぶように返事をした。男は倒れた男を片手で引き上げてやると愉快に笑った。
「しっかり受け身の練習をしてくれ。でないと体がもたないよ」
「いまのは」
「私は彼女の肩を少し押して、力や方向のずれを直しただけだよ。それだけでも、随分変わるだろう。私は手取り足取りは教えない。ただ、手順と見本は見せてあげるよ。あとは自分の頭で考えなさい。自分で考えたことしか、身にはつかないんだからね」
巨漢はいきなり男に向かって土下座した。
「失礼の数々、申し訳ありません」
「顔をあげなさい」
恐る恐る上げた顔は涙に泣き濡れていた。
「どんなときでも、どんな相手にも自分の首の後ろを見せるな。これはこの世界の基本だ」
男はふっと笑うと、言葉を継いだ。
「面白い奴だなぁ、君は」
男はひとつ息を漏らすと、ぱんと手を叩いた。
「さて、九時だ。帰って飯食って風呂入って、しっかり寝なさい。寝ることで、今日練習したことが脳に刻み込まれる、徹夜で一人練習なんかするなよ。さぁ、解散、帰れ、帰れ」
男は九人を追い出すと、かぬかと白澤の前に立った。
「君。名前は」
「か・・・、かぬかです」
「かぬか。そうか、白澤さんの血で蘇ったというのは君か。道理で動きは素人なのに、才能が桁違いにあるというのは白澤さんの血の影響か」
白澤がにんまりと笑った。
「お前の娘がこの子を体二つに斬ったのよ。責任は取ってもらわなくちゃね」
「何、言ってんですか。白澤さんが幸の攻撃を素直に受けてその体、上下の二つになっていれば、この子は何事もなく助かっていたのですよ」
「まっ、なんてこというのでしょうね」

かぬかは冷や汗をかいていた。本家の実力者で当主に次ぐ立場にあり、様々な呪術を繰り出す白澤は畏敬の念と同時に恐怖の対象でもあったのだ。そんな白澤に悪態をつき、それを白澤が嬉しそうに受け止めている。

男はふぃっと少し短めの木の杖をかぬかに手渡した。
「君には丁寧に教えよう。それは枇杷の木で作った杖だ。元々は軽くて柔らかい木だけれど、術をかけて折れなくしてある。これが自由に扱えるようになれば、自在を教えよう」

「おおい、かぬかさん」
気づくと、あさぎが心配げにかぬかの顔をのぞき込んでいた。いつの間にか、かぬかは座り込み、ぼぉっと庭を眺めたまま、まろどんでいたのだ。
「え、どうして。私」
「敵意がないんですよ、この風景は。だから、厳しい修行をしてきた人は反動で最初はぼぉっとしてしまう、幸の受け売りですけど」
いきなり、ドタバタと足音が響いた、息せききって、三毛が学校から、全速力で走って帰ってきたのだ。
「お、お久しぶりです、かぬかさん」
息もたえだえに、しかし、顔を上げて嬉しそうに笑った。
「あ、白澤様の孫だった」
驚いて、かぬかが声を上げた。
「今はここの娘、三毛です」
三毛はかぬかに走り寄ると、ぎゅっとかぬかを抱き締めた。
「かぬかさん。毎晩、御飯を分けてくれたこと覚えています。なのに、急に姿を消してしまってごめんなさい」
「ううん、残り物をなんでも入れてさ、四人で鍋囲むの楽しかったよ」
小さな子供のように、声を上げて三毛が泣き出した。
「これからは一緒です、一緒ですよ」
三毛が嗚咽しながら、言うのを、あさぎは驚いて、見ていたが、やがて、笑みを浮かべた。
そして、ちょっと思う。鯖を焼くのは明日にして、今日はお鍋にしようと。

 


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最終更新日 : 2014-04-30 23:04:30

異形 月の糸一話

「幸はお父さんが好き。お父さんは幸が大好き」
男の部屋、事務椅子に座る男の背もたれに手を添え言った。
「あれ、父さん、幸が好きだったかなぁ」
「ええっ、お父さん。お父さんは幸が好きだよね、ねえったら」
「ちょっと待ってくれよ、父さん、思い出すからな。父さんは幸が好きだったかな、どうだったかなぁ」
「思いだせ、お父さん、思い出せっ」
幸が男の後ろでぴょんぴょん跳ねながら歌う。ふと、男が顔を上げた。
「父さん、優しい人が好きだけど、幸は優しかったかなぁ」
「優しい、とっても優しいよ」
「そうだ、父さん、言葉の綺麗な人が好きだけど、幸はどうだったなぁ」
「幸はとても言葉遣いが美しゅうございますわ」
男がくすぐったそうに笑った。
「父さん、思い出したよ。父さんは、幸が、大、大、大好きだったよ」
「やったぁ」
幸は万遍に笑みを浮かべると、後から男に抱きついた。
「幸も、お父さんが、大、大、大好きです」

「何やっとるんじゃ、この父娘は」
部屋に入ってきたなよが呆れ顔で言った。にひひと幸は笑うと、なよに言った。
「なよ姉さんもやる」
「わしがか」
ふいっと、なよは男に抱きついて、大好きと頬を寄せている自分の姿を思い浮かべた。慌ててぱたぱたと手を振る。
「勘弁してくれ。わしは、そんなガキではないわ」

「もったいないなぁ、なよ姉さんは」
ふと幸は柱時計をを見た。
「お父さん。そろそろ、畑に戻るよ」
男が頷くと、あっさり、幸は出て行った。
「繊細なのか、大胆なのか、見当のつかなぬ奴じゃ」
なよの言葉に男は笑うと、なよに椅子を勧めた。
なよが椅子に座ると、男が言った。
「相談があるんだろう、話してごらん」
「あのな。部屋が一つ欲しい」
「無駄に広い家だからね、空いている部屋、好きに使いなさい。そういえば、父さん以外、みんな、一つの部屋で寝ているし、不便なこともあるかもしれないね」
「いや、皆での雑魚寝は楽しい。というかのう、ふと目が覚めて、皆の寝息が聞こえるとほっとするのじゃ」
なよは幸せそうに少し笑うと、男に改めて言った。
「なんというかのう。実は機織りをやってみようかとな」
ふと男はなよがかぐやのなよ竹の姫と呼ばれていた頃、機織りの才に恵まれ、人気を博していたことを思い出した。刃帯儀も元は機織りから生まれた技だ。
「それはいいね。あ、でも道具とか揃えなきゃならないな」
「昔の屋敷の地下にある、先日、幸と確認したばかりじゃ」
「なら、黒達に運んでもらえばいいね。花魁道中の儀で」
「本来、高貴な者を運ぶ術が、すっかり引っ越しのトラックと同じになってしもうたわ」
なよが愉快に笑った。

かぬかは緊張していた。黒達は学校からまだ戻っていない。ならばと、なよはかぬかを連れて街へ向かったのだった。電車の長座席、隣同士になよと座る。一緒に生活をしてみて、なよへの恐怖心はいくらか薄れたが、いま、政府がかぐやのなよ竹の姫に掛けた懸賞金はうなぎ登りだ。懸賞金につられて、どんな賞金稼ぎが現れるかしれない。
なよといえば、OLが上司の命令で書類を届けに向かっていますというような、ありふれた単色のタイトスカートに白い飾り気のないシャツ、捲った袖口の高さが左右で違っている。姿はおしゃれなど気にもしない様子だが、その表情、ちょとした、手の仕草が、その高貴さを隠しえていない。
「かぬか。どうした、緊張しておるな。もっと、気楽に力を抜け」
「はい。ですが、周りの人達に賞金稼ぎが紛れ込んでいるかもしれないと思うと」
「ならばよい余興じゃ」
なよが微かに笑みを浮かべた。
「残念ながらこの車輛には乗っておらんようじゃの。久方ぶりに機織りをするからな。今の流行を調べに行く。呉服や貴金属、裏の世界に関わる奴もおろう、楽しいぞ」
「なよ姉さんは強い方ですが、好んでそのような場所に行かなくても」
なよが少し意地悪に笑みを浮かべた。
「ま、いろいろあるわい。それにな、何処の誰ともつかぬ奴のために我慢をするのは性に合わん。そんな人生はつまらんぞ。とにかく、終点まで行く。そして、繁華街をうろうろするのじゃ、なんといったかのう、ああ、ウィンドウショッピングじゃ」
なよは自分の言葉に得心したようにうなずいた。
列車が停車し、乗降する人、ふと、かぬかの視線が定まった。男性二人と女性の三人組。
微かな違和感、眼が違った。誰でも少なからず眼に表情がある、楽しいだとか哀しい、つまらない、何かに気を取られている、しかし、三人の眼は鏡面のようにその感情を、もちろん、それがあるならばだが、その内に隠していた。ゆらりとかぬかが腰を浮かす。
滑るように男二人が突進する、なよを取り押さえようとしたのだ。腰を落とした男達の顔面をかぬかの利き足が薙ぐ。
ふわりと男達がその蹴りの微かに下を潜り込んだ。瞬間、かぬかは軸足を浮かし、不安定になりながらも振り返る。
座席には穴が開き、男二人の頭が胸まで陥没していた。
なよ姉さん、いない、慌ててかぬかが車内を見渡すと、なよが女の首に腕を絡め、にぃぃとかぬかに笑い掛けていた。
「席がふさがってしもうた、こっちが三人分空いておる、来い」
かぬかは状況が把握し切れないまま、その女を間に三人で座る、乗客達は無関心を装って、関わりにならぬよう、俯いたり、あらぬ方向を眺めている。
「楽しいのう、道行きが三人になったわ」
「なよ姉さん、危険ですよ」
「寿司でいうところの、わしがとろで、お前がシャリ。こやつはワサビじゃな。とろとシャリの旨みを引き立ててくれるわい。面白い話を聞かせてくれるかもしれんぞ」
なよはにぃぃと笑みを浮かべると、女の肩に腕を回した。
「のう、智里。今日は一日わし等につきあえ」
「智里って」
「心を読まれぬよう術で心を隠しているようじゃが、わしには効かぬわ。かぬか、智里のうなじに触れてみい」
かぬかがそっと智里のうなじに触れてみる、じっとりと濡れている、汗だ。微かに震えている、緊張しているんだ。
なよが智里の耳元で囁いた。
「わしは古今東西の術を心得ておる。なぁ、智里。その面倒臭い術を解除してやろう。瓦解式、第四五三七八式」
なよは笑みを消すと、智里の耳元で囁く。意味不明の唸りだ。微かに漏れ聞こえるなよの声に、かぬかはこれが白澤様の言っていた中間言語による呪文の詠唱だと気づいた。
ふっと、智里の顔に恐怖が現れた。叫び出そうとする口をなよが手でふさいだ。
「どうした、智里。ん」
なよは笑みを浮かべると智里に囁いた。
「なんと、美味そうな首じゃなぁ、がぶりと食いちぎりたいのう。そうじゃ、昼飯代りに少しだけ食わせてくれ。な、いいじゃろう」
智里が涙を流しながら首を横に振ろうとする、しかし、なよの両腕に頭をしっかり固定され、動けず呻くだけだ。
「喉も渇いたわい、お前の血は何型じゃ、わしはA型が好みなのじゃが。ふむ、そうか、A型か。それは良いのう」
「なよ姉さん。それくらいにしてあげてください」
かぬかがたまらず声を上げた。
「ん、お前はわしを拉致しようとした奴に情けをかけるのか」
「で、でも。なよ姉さん、辛いです」
なよが声を上げて笑った。
「冷徹になりきれぬお人よしじゃな。ま、わしも幸も、お前のそういうところ、存外、気に入っておるがな」
なよがあっさりと両手を智里から放した。涙をだくだく流しながら、智里が荒く息を繰り返した、目の周りが真っ赤だ。
なよは、にぃっと笑みを浮かべる、そして言った。
「ま、可愛い・・・、ような気もする妹の言うことじゃ。智里、今日一日つき合え、そうすれば開放してやるわい、多分な」
いつの間にか、終着駅だ。なよは何事もなかったように立ち上がる、ドアが開くと同時に出た。かぬかがすぐに後を追う。驚いたことに、息の荒いまま、膝の震えるまま、智里が後をついて、列車を出た。
男二人を列車に残したまま。

何を考えているのだろうと、かぬかは驚いていた。智里という女、列車から下りずにいれば、プラットホームを反対に走れば逃げることもできるだろうに。なよ姉さんの後、一歩、引いて歩いている。少し、腰が引けて、怯えている。そんなに怯えているくせに。

駅を出て、ビジネス街を少し越えたところに老舗のデパートがある。
「よし、百貨店じゃ。入るぞ」
にかっと、なよがかぬかに笑みを浮かべた。

良く分からない、かぬかは呆気に取られていた。貴金属のフロア。手前にこそ、結婚指輪、数十万円の商品が並べられているが、一歩、踏み入れば、一千万円が基本の単位になっていて、億などざらだ。ただ、ガラスケースごしに眺めていても、かぬかには入り口の数十万の指輪との金額の違いがまったく理解できなかった。
「かぬか。どれが気に入った、というても、わしは無一文。買ってはやれぬがな」
気楽に言う、なよの顔を見る。なよ姉さんの顔、スーパーで夕飯の材料を買う時と同じだ。
「何がなんだか。どれも同じように見えるし、別世界に来たみたいで」
ふふんとなよが笑った。
「値札を見るなよ、値札ではこいつらの面白さはわからん。お前が良いと思えば、お前にとってそれは良いモノなのじゃ」
「は、はぁ」
ゆるやかな歩調で店員がやって来た。
「いらっしゃいませ」
にこやかな笑顔で店員が挨拶をする。
「わしらは無一文。眼の保養に来ただけじゃ。勝手に眺めておるから、いんで、金持ちの客を相手せい」
なよがあっさりと答える。一瞬、むっとした表情を店員は浮かべたが、すぐに笑みを浮かべ直すと、猫なで声で言った。
「こちらの商品は一般の方には少しお高いかと・・・」
「高いのう。ちぃぃと、掛け過ぎじゃな。適正価格の三倍はとっておるな」
「は・・・、それは」
店員が強い声を発しかけた瞬間、マネージャが様子に気づき、駆け込んで来た。
「あとは私が対応させていただくから、君は下がっていなさい」
マネージャーの叱責ともとれる言葉に店員はいぶかしく思いながらも、持ち場へと戻る。
「こ、これはかぐやのなよ竹の姫様。店の者が失礼を働き、申し訳ありません」
「かまわんわい。人を怒らせるのはわしの趣味じゃ」
にかっと笑うと、かぬかに声をかけた。
「かぬか、こいつが支配人、比奈垣じゃ。絶対友達になってはならん悪人じゃな」
「悪人って、そんな面と向かって」
「どんなに清らかな値を入れても、演算子が悪ではどうしようもない。こいつはな、善人のような顔をしておるから、余計に始末が悪い、覚えておけよ」
比奈垣が、ぱたぱたと手を振った。
「かぐやのなよ竹の姫様、いつものことながら、お口が悪い。私ほど、清らかな心の持ち主は居りません。このダイヤのように清らかで、透き通ってございます」
右手で指し示す、ティアラには、どれほどあると言えば良いのだろう、巨大なダイヤを中心に無数のダイヤがそれを囲み、夜の空を巡る星々を髣髴させる。
「ふん、たくさんの怨念が篭っているではないか。剣呑、剣呑」
意味ありげに比奈垣が口端を歪ませ、笑みを浮かべた。
「高値で売れますが、必ず、また、この店に戻って参ります、ただ、同然で。余程、ここが居心地よいようでございます」
「個人が持つようなものではないな」
なよが言い終わると同時に管内放送が流れた。
「お客様に申し上げます」
若い女の緊張した声だ。
「最上階のフロアに爆薬を仕掛けたという通報が」
アナウンスが終わる間もなく、ふいに、なよは両肩を上げ、そして下ろす。首を回し、準備体操をするように。
「なるほど。で、比奈垣。わしをいくらで売った」
「私どもでは到底姫様を捕獲することは不可能。ですが、結果に限らず通報するだけでもなかなかの小遣い稼ぎとなります。哀しいかな、私も雇われの身でございまして、大きなお金に目がくらんでしまいました」
笑みを浮かべたまま、比奈垣が答えた。
「しもたのう、先に着物を見ておけばよかった、大島紬の良い色があると聞いておったに。ほんに、比奈垣、お前は期待を裏切らぬ男じゃ。しょうがない。では、ぼちぼち、退散するかな」
なよが比奈垣に背を向けた。慌てて、比奈垣が叫んだ。
「ひ、姫様。私は裏切り者ですぞ、お仕置きを。お願いします、お仕置きを」
なよがつまらなそうに振り返る。
「お前の趣味につき合うのものう」
「し、しかし、大恩ある姫様を裏切りました、ぜひとも、折檻をお願いいたします」
なよは、比奈垣の前に立つと、ぐっと睨んだ。
「歯を食いしばれ」
「はいっ」
悲鳴にも似た叫び声で、比奈垣は直立不動に立つと、ぐっと歯を食いしばった、喜色に口元が綻びそうになるのを必死に歯を食いしばる。
なよが軽く比奈垣の頬を触れるかのように叩く。
「これで満足か」
「姫様、殺生でございます。そんな、生殺しのような」
比奈垣が最後の言葉を言い切る瞬間、なよの拳が空間を駆け、比奈垣の顎を打ち砕いた。まるで、独楽のように比奈垣が空を飛び、展示ケースの硝子を砕き、宝石を散らばせながら堕ちた。
「な、ないすでございます、姫様・・・」
呟くと同時に比奈垣は失神した、幸せな笑顔のままに。

「さて、智里」
なよの言葉に、気味悪げに比奈垣をのぞき込んでいた智里が飛び上がって顔を上げ、なよの足元にひれ伏した。
「顔を上げろ、話しづらい」
なよの言葉に弾けたように智里が顔を上げる。
「今日一日、苛め倒してから、解放してやろうと思ったが気が変わった。従業員の案内で溢れるように客が逃げていきおる。お前もそれに混ざればよい。追いかけずにいてやるわい」
なよはかぬかに視線を向けるといたずらげににっと笑った。
「これで満足じゃろう、ほんに庶民の妹は面倒臭いわ。少しばかり、こやつの首の骨を折っておけば、それですむものを」
なよの言葉に、かぬかはほっとしていた。うどん屋の店員が妙なことで、白澤様の精鋭になったのだけれど、人を殺すという行為に抵抗がある、まだ、そこのところが割り切れないでいる。
「いつか、その甘さがお前の災厄となるじゃろうが、わしがお前の姉である以上は、あまちゃんの妹を災厄から護ってやるわい」
「あ、あの」
智里が声を上げた。
「ん」
なよが振り向いた。
「かぐやのなよ竹の姫様。私を部下にしてください、お願い致します」
いきなり、智里が床に額をこすりつけた。
「ええっ」
思わず、かぬかが声を上げた。

二話
「いらん、いらん。鬼共に国を滅ぼされ、既に国を再興させる気も失せた。今はただの居候、部下など必要ないわ」
なよの言葉にかぬかも同調した。
「智里さん。なよ姉さんの部下になっても良いことなんて、一つもないよ。こき使われるだけだから」
むっとし、なよがかぬかの頭に拳をごつんと落とした。
「痛っ、たたっ」
「確かにその通りじゃが、口に出されると腹が立つわい」
なよは額を床に擦り付ける智里に怒鳴った。
「帰れ。出なければ、死体になって帰ることになるぞ」

「良いんじゃないかな。啓子さんが援農集団を作りたいって言ってたし、参加してもらおう、ちょうど良いよ」
幸はかぬかの後ろから両腕を回し、顎をちょこんとかぬかの肩に載せていた。
「うわっ、幸」
「にひひ。かぬか、後ろ取られるなよな」
「なにしに来た」
機嫌最悪のなよが言った。
「大好きななよ姉様がご立腹のご様子、旅先から、慌ててやって来た次第ですよ。面白いなぁ」
幸はふわっと智里の前にひざまずくと、清らかな声で智里に話しかけた。
「智里。顔をお上げなさい」
驚いて顔を上げる智里の視線に清らかな笑みを浮かべた幸がいた。
「女神様・・・」
幸は両手で智里の手を取ると、微かに俯き、そして顔を上げると、智里の目を見つめた。
「私はかぐやのなよ竹の姫の妹です。お前は何故、姉様の部下になりたいというのですか」
「高貴さと力強さに心を射貫かれました」
絞り出すように智里が呟いた。
幸は悠然と頷くと、強く智里の手を握り締めた。
「姉様は部下という言葉を好みません、哀しみが蘇り、その心を押さえ込んでしまうのです。智里、姉様はこれからもたくさんの苦難に対峙せねばなりません、姉様をお願いしますよ」
柔らかな笑顔を浮かべる幸に智里は強く頷いた。
「必ず、必ず、お護り申し上げます」
幸は頷くと、ふわりと浮き上がり、なよの横に浮かぶ。
「あとはよろしく」
「勝手なこと、ほざきおって」
幸は楽しそうに笑うと、かぬかに声をかけた。
「明日の晩、あかねちゃんと旅から帰るよ。いっぱいお土産買ってかえるからな、楽しみに待っていてくれ」
「お、おう」
「幸、地酒を忘れるな」
なよの言葉に頷くと、ふっと幸は姿を消した。

茫然としている智里になよが怒鳴った。
「立て、智里」
「はいっ」
跳ね上がるように智里が立ち上がり、直立不動の姿勢を取る。
「わしはこれから十分間、階上の呉服売り場で着物や帯を眺める。その十分間、ここから上には誰も通すな。十分後、かぬかとこの百貨店を抜け出せ。良いな」
「了解致しました」
智里が元気に答える。
「かぬか。茶店、築地で落ち合うぞ。智里を案内してやれ」
かぬかが頷くのを確認すると、その姿を消した。
智里は視線を外さないようしながら、かぬかに頭を下げた。
「かぬかさま。よろしくお願い致します」
「あ、あの。さまは勘弁してください」
焦りながら、かぬかが答えた。智里は頷くと、背中から一振りの刀を抜いた。直刀、刃渡りは四十センチあるかないかだ。
さてと、かぬかが考える、エレベーター、エスカレーター、階段、かぬかは走ると、五機あるエレベーターに駆け寄り、上下全てのボタンを押した。振り返ると、エスカレーターが止まっていた。智里がエスカレーターの横にある緊急停止ボタンを押したのだ。

足音、向かってくる足音、何重もの足音が重なり、地響きのようだ。
階段だ。
智里とかぬかが階段に駆け寄り、見下ろすと、盾をかざした機動隊が横並びに駆け登って来た。
目的は十分間、この階を持ちこたえること、そして、脱出すること。
かぬかは男の言葉を思い出していた。
杖は突けば槍と化す、特に筒はね、両端を刃のように鋭くしたものだ。筒をね、持ったまま、感覚的なことだけど、腕ごと最速で相手に飛ばしなさい、そうすれば必ず少し穴があくからさ、筒と体を繋いで、体当たりするように押し込みなさい。そうすれば大抵のものは貫くことが出来るよ。

「行きます」
かぬかが呟くと同時に階段を飛び降りた。先頭中央の盾だ。筒を打ち出す、盾に当たった瞬間、ほんの一ミリ、先端が盾に入り込んだ気がした。
「うおぉぉっっ」
雄叫びを上げ、かぬかが体ごと盾を打ち抜いた。列が崩れた透き間を智里が走る。一瞬、無防備になった機動隊を反撃する間を与えず、撫でるように切り裂いて行く。致命傷は与えない、深く斬れば刃毀れもあるし、時間もかかる。多を相手にする場合は神経戦だ、大量に血を流させることで、相手に動揺を与えるのだ。
かぬかは智里の動きを見た瞬間、電車での蹴り足を擦り抜けた男たちを思い出した。
なよ姉さんが異様に強いだけで、あの二人もかなりの使い手だ。でも智里さんはあの二人を遥かに越えている。
銃口、かぬかの目の前に黒く穿たれた穴が浮かんだ、催涙弾だ。
無茶だ。
爆音が聞こえた、そう思った瞬間、ふわりとかぬかは銃口の微かに下、潜り込んでいた。白い煙幕と刺激臭だ。
「かぬかさん。十分経ちました」
智里が叫んだ。
かぬかが智里の手をしっかり握った。
「白澤九尾猫様、お願い申し上げ奉る。我とこの者、いっとき、天翔る力をお与えくださいませ」
ふわっとかぬかの体が浮かんだ。


智里は驚いていた。隣りを歩き、喫茶築地へと案内してくれる女の子、十代後半くらいだろう。そんな女の子が白澤九尾猫、あの本家の大魔術師の力を借りることができる、それに、あの武器は噂に聞く「筒」だ。無という字を持つ伝説の術師が使っていたと聞く。
「ここですよ」
かぬかの声に、智里は顔を上げた。瀟洒で少し古風な喫茶店だ。先程の百貨店からもそう離れていない。
ドアを開ける、奥の席で、なよが珈琲を飲んでいた。そして、その向かい側と隣りには女の子が四人、おすましして座っている。
口元に珈琲カップを寄せたまま、なよが微かに視線を向ける、視線で頷いた。
すっと四人の女の子が立ち上がり、なよに近い席をかぬかと智里に譲った。
一番年嵩の女の子、黒がにっと笑ってかぬかに話しかけた。
「かぬかさん。なよ姉さんのお供、お疲れさまでした」
「どうして、黒達まで」
かぬかがそう言うと、黒は気恥ずかしげに笑みを浮かべた。
「ケーキセットでございます」
すっとウエイトレスが黒の前に紅茶と苺のショートケーキを並べた。
「かぬかさんと智里さんはどのケーキにしますか」
白がかぬかにメニュを手渡した。
「三毛はチーズケーキ。小夜乃ちゃんは黒姉ちゃんと同じ苺のショートケーキです。ちなみに白はチョコレートケーキですけど」
白は目の前に置かれたチョコレートケーキを幸せそうに見つめた。
「そんなわけでケーキにひかれて小夜乃ちゃんを花魁道中の儀で連れて来たんです」
三毛が言うとなよがにかっと笑った。
「本当は小夜乃だけで良かったんじゃがな」
「ごちそう様です。なよ姉様」
白がこくっとなよに頭を下げた。
肩に文鳥、額に絆創膏を貼った小夜乃は思い切って立ち上がると、智里に深くお辞儀をした。
「智里さん。母、かぐやのなよ竹の姫をお認めいただきありがとうございます」

 
33
最終更新日 : 2013-08-21 19:09:58

異形 月の糸二話

異形 月の糸 二話

「お父さん、かんてき、持って来たよ。炭もあるからね」
黒が七輪と炭を入れた袋を両手に満辺の笑みを浮かべていた。
「黒、口元。ほら、涎が出ているぞ」
男が笑った。慌てて、黒は荷物を降ろすと、袖元で口を拭った。
恥ずかしそうに黒が笑う。
「面白いな、黒は」
男も楽しそうに笑うと糸の先に視線を戻した。
梅林を越えたところにある小川、その辺で男は魚釣りをしていたのだ。
「黒。いっぱい食べろよ、父さん、大きいの釣るからな」
「うん。ピクニックみたいでわくわくするよ」
男は満足げに笑みを浮かべると、ふぃと視線を糸の先に向けた。くくっと浮きが沈む。すぃっと併せ、竿を上げる、銀にきらめく魚を釣り上げた。
黒が目を輝かせ、魚を受け取った。
「大きいよ、三十センチくらいある」
「皆が来るまで、ちょっと試食しようか」
「しよう、しよう」
黒は器用に魚を三枚に降ろし、酢を塗り、塩を振った。七輪に載せると、しばらくして香ばしいにおいがあたりに漂いだした。
「お酢をつけると香ばしくなるって、あさぎ姉さん言ってた」
「いいにおいだ。ん」
ふっと、男は視線を上げた。黒の後、黒も振り返ると、遠く、ぼぉっとした表情で歩く智里を見つけた。
「おおい、智里さーん、こっち、こっちだよ」
黒がぴょんぴょん飛び跳ねながら大きく手を振った。
焦点定まらないままに、智里は立ち止まり、ぼぉっと眺めていたが、意識を取り戻すと、足早に駆けてきた。

「申し訳ありません。先生、黒さん」
「謝る必要は何もないよ。ね、智里さん、具合はいかが」
心配げに黒が智里の顔を覗き込んだ。
「住まわせていただいて、三日になりますが、時々、足がふわっとなってしまって、気持ちも良い気分で、何も考えられなくなってしまいまして」
黒が不安そうに男を見つめた。
男は安心させるように笑った。
「一週間もすれば無事に生活できるようになるよ。智里さんはね、二十代半ばだけれど、人が身につけることのできる技量ぎりぎりのところまで格闘術を身につけた、酷い修行でね。その負荷が当たり前になっていたところから、不意に解放されて、感性が戸惑っているんだよ」
智里は不思議に思う、家の裏庭がこんな広大な土地になっていること、そして、この男性は一体何者なのだろう。皆からお父さんと呼ばれる、少しやつれた感じの中年男性、特に特徴も無く、町ですれ違っても、思い出せないほどの。
「智里さん、今日はなよも機織りに専念すると言っている、ゆっくりしたらいいよ」
男は黒に目をやり言った。
「魚が焼けたぞ。智里さんと分けなさい」
黒は嬉しそうに頷くと、半身を皿に載せ、お箸を添えた。
「どうぞ、智里さん」
「あ、ありがとうございます」
男も笑みを浮かべ頷くと、釣りを再開した。
「美味しい」
智里が呟いた。
黒も魚を食べる。にっと幸せそうに笑みを浮かべた。
「智里さん、いっぱい食べてください」
男が苦笑する。
「頑張って釣るよ」

三毛と白がそれぞれ長机を頭上、高く掲げ走ってきた。その後を小夜乃が折り畳み椅子を両手に二つ、走って来る。小夜乃も今はすっかり元気になっていた。

「お父さん、ここに机を置くよ」
三毛と白が机を並べる。そして、小夜乃が椅子を組み立て並べた。
「まだ、椅子が要りますわ。黒姉(ねえ)」
白が言った。
「わかった、取ってくる」
黒がすぃっと家に向かって駆け出した。白と三毛も後を追った。
「みんな、元気だなぁ。小夜乃もすっかり元気になったね」
男が笑みを浮かべた。
小夜乃もそっと笑うと頷いた。
「自由に動けるのは楽しいです」
そして、智里を見つめた。
「智里さん。今日はゆっくりしてください、昨日はなよ母様のお供で大変だったとか」
慌てて智里が頭を振った。
「お供させていただけるだけで、ありがたいと」
「なよは人望があるからなぁ」
男が笑った。
「お父様も人望がありますわ」
小夜乃が真っすぐに言う。
「え、私がかい」
「はい。みんなお父様のこと、大好きですもの」
「そうか。なら、頑張って魚を釣るよ。みんなを飢えさせたら申し訳ないからね」
男は笑うと釣り糸を川面に沈めた。
ふと、智里は餌を付けずに釣り針を沈めるのに気づいた。擬餌のルアーでもない、釣り針だけだ。男がすぅっと竿の先を走らせる、つうんと引き上げると魚がかかっていた。
魚の移動を読んで、引っ掻けているのだ。普通のどこにでもいる中年男、としか見えない。でも、考えてみれば、なよ様でさえ、一目を置いている様子。
「あの、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
智里は思い切って男に声を掛けた。
「ん、何かな」
川面に糸を垂らしたまま、男が返事をした。
「あの。貴方様は」
「私のことかい」
智里が戸惑いながらも頷いた。
「さて・・・。ま、この地の元管理者。この子達の父親みたいなものかな」
にっと男は小夜乃に笑みを浮かべた。
小夜乃も頷くと、微かに頭を下げお辞儀をする。
「お父様にはお世話になっております」
「いいえ、どう致しまして」
男はかしこまって答えると、くすぐったそうに笑った。
「智里さん」
「はい」
「君がこうして、ここにいるのも何かの縁だ。なよが君を受け入れたのも、君の中に何か思うところがあったんだろうと思うよ。君の体は無茶な練習で悲鳴をあげている、このままなら、後数年と生きられないだろう。ここで養生をしなさい。体が整えば、何十年か先、老衰で死ぬことができるからさ」

「先生」
かぬかが鍋を両手に走って来る。
「鍋。七輪に置いてもいいですか」
「いいよ。うどんはあつあつが美味しい」
「鍋焼きうどんです」
竿を置き、男が鍋をのぞき込む。
「これはいいね、楽しみだ、うどんはかぬかが打ったのかい」
かぬかが照れたように笑った。
「もともとうどん屋ですから」
ふと、かぬかは真顔になり、男に尋ねた。
「あの。幸はもうすぐ帰って来るのでしょうか」
「そうだね。お昼の準備が終わるころには戻って来ると思うよ」
「そう、ですか」
かぬかの顔に微かな緊張が走った。
男は困ったように笑みを浮かべると、かぬかに言った。
「こちらに背中を向けなさい」
「は、はいっ」
かぬかが男に背を向けた。
男はかぬかの頭に両手をやると、頭の埃を払うように両手を動かす、そして、首、肩、背中を払って行く。
「かぬか。同じように、胸、お腹、腰を両手で払って行きなさい」
かぬかは不思議に思った。手で払って行くにつれて、なんだか、緊張が体から落ちて行く。
「太もも、膝、臑、ふくらはぎ、足首に足の甲まで払うこと」
「はい」
素直にかぬかは体を払って行く、不思議に緊張が解け体が軽くなって行った。

「父さん、古式寿法か。扱える者がまだおったのじゃのう」
なよが自在を担いでいた。その自在には何個もの折り畳み椅子が差してある。
「地味な術は廃れやすいからね」
男はなよに笑いかけた。
「智里にも教えてやってくれ」
なよは自在を降ろすと、素直に頭を下げた。
「なんだか、なよが可愛くなった」
男が笑った。
「わしとて、多少の礼節は心得ておるわい」
照れたようになよは少し頬を赤らめた。

男は笑うと智里にも同じように、払ってやる、急に智里は体が軽くなって、つまずきそうになる、とんとんと足を踏み代える、なんて軽い。体が風船みたいに浮いてしまいそうだ。
「智里、覚えておけ。今のが古式寿法 払いじゃ。いまの状態が己の筋肉と体重の関係じゃ。軽いであろう、それが本来のものじゃ、忘れるなよ」
「はいっ」
智里が直立不動になり、元気に返事をする。
「堅苦しい奴じゃ」
ふと、なよが興味深そうに男を見つめた。
「いつぞやの話で父さんの頭の中には、先代、先々代と、先祖の記憶が残っているとか、いったい、父さんに頭の中にはどれほどの記憶が残っておる」
男はふっと考え、そして、答えた。
「あるお爺さんが一本の光る竹を切ると、そこから女の赤ん坊が現れたという、父さんの先祖はその様子を見ていた。おおっ、なんと可愛い赤子ぞと呟いたとか」
「あれは戯作者の作り話じゃ。くだらんことを言うでないわい」
なよの照れた言葉に、男が楽しそうに笑った。

あさぎがバスケットを抱えて走って来る。その隣りを黒が特大のおひつを両手に抱えてやってきた。
「おむすび、いっぱい作るよ」
うきうきと黒が叫んだ。
白と三毛もかんてきと、炭の入った箱を持ってきた。
「お父さん。幸母さんとあかねちゃん、もうすぐ帰って来るかなぁ」
三毛が男を見上げた。

男はすっと家の方角を眺めて言った。
「こっちに向かっているようだよ。もうすぐ帰って来るんじゃないかな」
三毛がほっとしたように微笑んだ。
「三毛は母さんが帰って来て嬉しいか」
三毛が特上の笑みで頷いた。
男は笑うと三毛の頭をなでる。
「みんな、一緒が良いな」

「ただいま、ただいま」
幸は家から飛び出すと、駆け出して来る、背中に大きな風呂敷包み、両手には大きな買い物袋。
「お父さぁん」
叫ぶと同時に両手を広げた途端、両手の荷物が宙に浮かんだ。
「酒が」
瞬間、呟いたなよと黒が姿を消した。幸は、ばふっと男に抱き着くと、顔を見上げた。
「ただいま、お父さん」
「お帰り。楽しかったか」
「うん」
幸は笑みを浮かべると、隣りにいる三毛に笑いかけた。
「三毛、いい子にしてたか」
「はい」
素直に三毛が返事する、
「白はどうだ」
「白はいつもいい子ですわ」
当然のように言う白に、幸がくすぐったそうに声を出して笑った。そして、ようやく、幸は男から手を離すと、小夜乃に声をかけた。
「小夜乃、元気にしていたか」
「はい」
ほっとしたように小夜乃が笑みを浮かべた。
「あさぎ姉さん、ただいま」
「お帰り、幸」
「かぬか。ただいま」
「お、おかえり」
戸惑いながらかぬかが答える。
「お。鍋焼きうどんだ。かぬかが作ってくれたのか」
「あ。あぁ」
緊張した面持ちでかぬかが答える。
いたずらげに幸は舌をだすと、智里に目をやった。
「智里さん」
「はい」
緊張した面持ちで智里が返事をした。
「智里さん。ここは智里さんの家だ、そして、私達は智里さんの家族だ。幸は智里さんを家族と認めた。それはどんな状況になっても変わらない」
強い幸の言葉に智里は気持ちが高ぶり声が出ず、ただただ頷いた。
「あれ。なよ姉さんと黒は」
なよと黒は途中、幸の手から離れたいくつもの紙袋を、地面に落ちる寸前、抱きとめたのだった。
なよが袋を前に地面に胡座をかく。
袋を覗き込むと何本もの一升瓶が入っていた。
「これは清酒霞桜ではないか。最上級品じゃ」
にやけたなよが袋から酒瓶を並べ出す。黒はというと、袋にあった箱詰めの御饅頭をさっそく取り出し、食べていたのだった。
「黒さん。お行儀が悪いですよ」
遅れて戻って来たあかねが、軽く黒をにらんだ。あかねも幸と同じく、風呂敷袋を背負い、両手にいくつもの紙袋を携えていた。
「え・・・」
初めて黒は自分が御饅頭を食べていることに気づいた。
「思うより早く体が動くこと、武術では大切ですけどね」
「あかねちゃん、ごめんなさい」
黒がしおらしくあかねに言う。くすぐったそうにあかねが笑った。
「背中の風呂敷には御饅頭や色んな特産品、なよ姉さんの酒の肴まで入っています、当分、おやつに不自由しませんよ」
「いやっほう」
黒が喚声をあげた。しかし、あかねが両手に荷物を持ったままなのを見て、慌てて言った。
「あ、持つよ、荷物。えっと、あの、勝手に食べないから」
あかねは笑うと、両手の荷物を黒に手渡した。
「みんな、待ってるよ」
黒が幸せそうに笑みを浮かべた。

あかねがなよに声をかけた。
「お酒は後です、お昼御飯ですよ」
「おおっ、そうじゃったな」
なよは酒瓶を袋に戻すと立ち上がった。
「良い妹たちに恵まれて、わしは果報者じゃ」
「正確には好物の霞桜をまとめ買いして来る良い妹たちにですよね」
あかねがなよの言葉を訂正した。
「あかねの生意気な口ぶりも、いまは可愛くてしかたがないのう」
「それはどうも」
あかねはなよの言葉を流すと、少し先、智里を見つめた。
「あれが智里さんですね。なるほど、面白いことになりそうです」
「幸は面倒ごとが好きじゃからな」
「幸姉さんは男を毛嫌いする分、女性には優しすぎるのですよ。でも、そのおかげであかねも妹にしていただいたのですから、そんなことを言ってはなりませんね」
不思議そうに首をかしげる黒に、あかねはそっと笑みを浮かべた。

 


34
最終更新日 : 2014-04-03 22:47:30

異形 月の糸三話

異形 月の糸 三話

男は静かに自室で本を読む。その足元で、幸は両手を広げ、仰向けに寝転がっていた。
「お父さんは充電器。幸は充電池。引っ付いていないと幸は充電不足になってしまうのですよ」
「そうだったのかい、初めて知ったよ」
男が気楽そうに笑った。
「旅から帰って来て、なんだか、幸が甘えん坊になった気がする」
「だって」
「どうしたんだい」
「寂しくて泣いてしまって、あかねちゃんに頭をなでてもらって、あぁ、お姉さんなのに格好悪いよぉ」
男は笑うと、幸に言った。
「なら、父さんに甘えるのをやめたらいいんじゃないか」
「ううん、幸は考えました。十二分にお父さんに甘えておくこと、充電するんだよ。お父さんの優しさを充電して貯めておくんだ」
不意に幸がばたばたと足を動かし始めた。
「大変です、足が攣ってしまいました。幸が溺れてしまいますよ」
「それは、大変だ。よし、父さんの手を掴め」
差し出す男の手を幸は両手で掴むと、ほっと息を漏らした。
「お父さんは幸の恩人です。ありがとう」
「どう致しまして。いつでも呼んでくれ、助けに行くよ」
幸はうふふと嬉しそうに笑うと、手を放し、男の足、ふくらはぎを両手で掴んだ。
「随分、筋肉がついて来たよ。前は幸の手首と同じくらいの太さだった」
「白が厳しいからね。リハビリは辛くってこそ効果があるって、歩いたり、階段上がったりさ。結果としてはそれが良かった、白には感謝だな」
幸がとても澄んだ笑みを浮かべた。
「なるほどね。幸はしっかり白のお母さんだ」
幸はやっと体を起こすと、男を見つめた。
「みんな、幸にとって本当の娘だし、こんな幸せな生活ができるのはお父さんのおかげだよ。ありがとう」
「幸の力だよ。父さんはちょっと手助けしただけだよ」
男は笑みを浮かべると、開いたままの本を閉じた。
「時間かな」
なよの声が襖の向こうから響いた。
「幸、はようせい。時間じゃ」
なよは襖をがらっと開け放った。
「はよう準備せい。奴らにも説明せねばならん」
幸は立ち上がると頷いた。
「お父さん。ちょっと用事を済ませてくるよ」
「そっか。父さん、あさぎのお店にいるよ。そうだな、なよ、かぬかは父さんが預かろう」
ふと、なよは考えたが、頷くと男に言った。
「気を使わせて悪いな」
「どう致しまして」
男が笑みを浮かべた。

梅林の修行場になよと幸。その二人の前に緊張した面持ちの智里が直立不動で立っていた。黒に白に三毛、小夜乃とあかねも三人を囲むように立っていた。
なよと幸も揃うと、幸は智里を見つめ、それから、なよに視線を向けた。
「智里」
なよが智里に声をかけた。
「はいっ」
「お前が所属していた赤炎会に坊主が来て、お前に術を掛けたのを覚えているか」
「能力を超えた力を発揮するという」
智里が赤炎会 総帥の横に立つ僧の姿を思い出した。今となってははるか昔の話のようだ。
「その僧は父さんの知り合いでのう、この地を壊滅せんと欲しておる。お前がこの地に来る可能性を読み、術を仕掛けたのじゃ」
智里は混乱していた。顔すらはっきり覚えていない。確かに力を与えてやると術を掛けられたのは覚えている。でも、なにか目の前で唱えていただけで。
「白は智里の左足。三毛は右足を押さえなさい」
幸が二人に指図した。
「あ、あの。それって」
白が戸惑いながら言った。
「あと五分で智里は理性を無くし暴れる。なよ姉さんが解呪法を唱える間、動けないように押さえなさいということだ。黒は右腕、あかねちゃんは左腕を押さえること」
「はい」
あかねはすっと智里の背後から寄るとその左腕に自分の体を押し付け、両手で包むように
包み込んだ。
「え。あ、あの」
黒が戸惑うのを、すいっと目を細め、あかねが黒に言った。
「右は智里さんの利き腕です。黒さん、気を抜かずしっかりとなさい」
「は、はい」
黒も智里の右腕を体で押さえ込んだ。
「智里さん、ごめんなさい。ちょっとだけ、我慢してください」
黒が戸惑いながら言った。

男はテーブルにつくと窓から外を眺める。昼間のはずなのに、奇妙に薄暗い。
かぬかは男の前に座ると、緊張した面持ちで男を見つめた。
「先生。なにが起こるのでしょうか」
男はゆっくりとかぬかに顔を向けると、そっと笑みを浮かべた。
「鬼が攻めて来るのさ」
「え・・・」
驚いてかぬかは目を凝らし、窓の外を睨んだ。じわりと巨大な影が浮かび上がり、道向こう、二階建の高さは充分にある鬼の姿が浮かび上がった。憤怒にこちらを睨みつけている。
「あと四つ」
男が他人事のように呟く。まるでその言葉に呼応したかのように、あと四体の鬼が現れた。後ろ、二階建の家が鬼の姿に隠れた。
「戦闘術をしっかりと身につけた鬼だ」
「先生、大変ですよ。どうしたら」
男がにっといたずらげに笑みを浮かべた。
「かぬか、頑張れ。応援してるぞ」
「せ、先生」
思わず、かぬかが立ち上がった。
「む、無理ですよ。先生」
「落ち着きなさいな、かぬか」
いつの間にか、かぬかの横に幸乃が座っていた。
「為せば、成るです」
「そ、そんなぁ・・・」


「希代の魔術師 無がここに居ると聞いた、案内願いたい」
重低音の鬼の声が響いた。男とかぬかは、ほぉっと下から鬼の顔を見上げていたが、納得したように顔を見合わせた。
「先生。奴ら、先生の顔知らないようです」
「面が割れてないのなら」
男は顔を上げ叫んだ。
「うちにはそういう人はいません。多分、おっしゃっているのはお隣のむ・とうさんだと思います、趣味のマジックをよく子供たちに見せていましたから。ただ、先程、急に引っ越しをなさって、今はいらっしゃいません」
男の全く戸惑いのない声に、かぬかが驚いた。
「我らに臆して逃げ出したか」
二人の頭の上で嗤うように、鬼の声が低く響いた。
「先生、それ、ありですか」
ひそひそとかぬかが男に言った。
「面倒臭いじゃないか。それとも、折角の実践の場だ、かぬか、頑張ってみるかい」
「用事も終わりましたから、戻りましょう」
即効、かぬかは答えた瞬間、
「何言ってやがる、無よ」
甲高い声が響いた。鬼の足元、じわりと僧形の男が現れた、深く編み笠をし、顔が見えない。
「やぁ、愚円。その額はお若い人のお洒落かい」
編み笠を降ろした愚円の額には角が一本、生えていた。
「鬼はいいぞ。力は湧き上る、術の威力も全く違う。寿命も人の二倍だ」
微かに狂気を宿した眼で愚円が嗤った。
「長生きしてもたいしていいことはないぞ。それより、赤炎会の女の子に術をかけたろう」
「あぁ。上手く行けばと思ったが、失敗だったようだな、お前がここで戯れ言を騙っているということは」
「町中で発動すれば大量殺人になっていたぞ」
「いいじゃないか。俺は何も困らないよ」
男は微かに吐息を漏らすと呟いた。
「とりあえず、愚円。君は退場だ」
その瞬間、愚円を硝子球が包み込み、愚円共々飛び去った。
「自力で脱出するころには海の向こうだな」
鬼達が男を注視していた。
「かぬか。これは言い逃れできそうにないな」
かぬかが思い切ったように頷いた。
「頑張ります」

「いいなぁ、お父さんと一緒に戦えて」
幸が店の窓に額を押し付けたまま呟いた。
智里の件が済むと同時に幸は店へと走り、男と鬼のやり取りを見つめていたのだった。
「あの位置関係だと、かぬかさんの補佐ということでしょうか」
いつの間にか、あかねも幸の隣りで二人を見つめていた。
「実質、お父さんがかぬかを動かすことになる、でも、それによって、かぬかは強くなるよ」
「いいですねぇ、かぬかさん」
あかねが呟いた。
「もう、何処に行ったかと思ったら」
黒があたふたとやって来た。白も三毛もだ。
「幸お母さん。どうしたんですか」
白が文句を言いかけた時、鬼と対峙する男とかぬかの姿を見つけた。
「三人も早く来い。お父さんの戦う姿、滅多に見られないぞ」
幸が緊張した面持ちで呟いた。
「始まったか」
なよが小夜乃と智里を両脇に抱え、走ってきた。
「なよ姉さん、これからです」
視線を二人に向けたまま、幸が答えた。
なよはほっとして、二人を降ろすと言った。
「二人ともしっかりと見ておけ。滅多に見れるものではないぞ。術師 無の戦いなど」

「見学者も揃ったことだし、そろそろ頑張るかな」
男は呟くと、かぬかの後ろに立った。
「まずは左」
すっとかぬかの腰に男の右手が触れる。一瞬で足も動かさず、二人の体が左へ移動した。瞬間、もといた場所を鬼の拳が地面を穿った。
「あわわ、なんですか。今の」
「足を動かさない歩法だ。身体操作と寿法の合成だよ。本家の術師も江戸時代の始めくらいまでは使えて当たり前だった」
男がすっとかぬかの腰の後ろに触れた。一瞬で、前方に移動する。大振りの剣が空気を切り裂いた。
かぬかが上を向く、牙をむいた五つの鬼の顔が空を埋め尽くしている。しかし、不思議なほど心が落ち着いて恐怖心が現れない。それは、鬼の顔に恐怖が現れたからだ。
つっと二人が浮かび上がり、鬼の眼の高さに止まった。鬼が手出しできずにいる。
「かぬか、思い浮かべなさい。自分が鬼と同じ大きさになっている、そして向かい合っているのだと」
「はい・・・」
かぬかが心を沈め、巨大化した自分の姿を思い浮かべた。
「実体のかぬかは虚像の掌だ。その掌で前の鬼を投げてみなさい」
「撃つのではなく、崩す」
「そうだ。いま、かぬかの思うように移動できる。やってみなさい」
かぬかが大きく息を吸った。
「行きます」
ぐっとかぬかが目の前にいた鬼を睨みつけた。かぬかと鬼の視線が重なる。視線を繋いだまま、鬼の足元に急降下する、鬼の姿勢が微かに前のめりになった瞬間、かなかは翻り、鬼の肩へと一瞬で飛び上がる、その肩を鬼の踵微かに後ろを目指して全身で押し出した。滑るように鬼が前のめりに落ちた。
かぬかが涙を流しながら、強く息喘いだ。
「ちょうど良い方向と長さだ」
男は頷くと、驚いて退いた四体の鬼に語りかけた。
「確か君は銀髪烈鬼というのじゃなかったかな。なら、君達は鬼王を警護する者達だ。違うかい」
「そうだ」
鬼が重々しく答える。
「多分、さっきの小鬼に上手く言われたんだろう、無を倒すのは貴方方しかいませんとかさ」
鬼が無言で答えた。
「鬼王の警護がこれで甘くなる、小鬼は何か策略があったんじゃないかなぁ」
明らかに鬼達の顔に動揺が走った。
「何事にも優先順位がある。早く王の安否を確認するのが本来の君達の役目かもしれないね」
銀髪烈鬼が他の鬼に目配せをする。倒れた鬼も含めて四体の姿が消えた。
「最後に訊ねたい、お前はどうして己自身が戦おうとしない」
男は少し考え、あっさりと答えた。
「だって、弱い者いじめは格好悪いじゃないか」
瞬間、鬼が牙を剥き出しに男を睨んだ、鉛のような鬼の重い気が男を襲う、男は片手でそれを払うと、笑みを浮かべた。
「いつか、君がこの娘に勝てたら、その時は相手をしてあげよう。でも、この娘は強くなるよ君達が束になっても敵わないくらいにね」
鬼の姿が消えた、二人が地面に降り立つ。
「せ、先生」
「ん」
「は、ハードル上げ過ぎです」
緊張が解けたのか、膝から崩れるようにかぬかがしゃがみこむ、地面に尻餅をつきそうになる瞬間、男がかぬかを抱き上げた。
「白澤さんなら、余裕で勝てる相手だよ」
男が楽しそうに笑った。

「いいなぁ、かぬか。お姫様だっこ、いいなぁ」
幸が額を硝子窓に押し付け、男とかぬかを見つめていたが、はっと気が付くと、硝子窓から離れた。
「黒。お風呂の用意だ」
幸がお風呂の竈へと走った。


男はかぬかを椅子に座らせると、白に言った。
「かぬかの首の後ろ手を当てて暖めて上げなさい、もう片方の手で頭も支えるようにね」
「はい」
白は返事をすると、かぬかの後ろに立つ。
「小夜乃と三毛はかぬかの足をさすってやってくれ。あさぎはハーブティ、少し甘めのを用意してくれるかな」
四人は男の指示に素早く従う。男はほっと息を漏らすと、少し離れた椅子に腰掛けた。
なよも男の前に座った。
「鬼の世界でも派閥争いが活発になっているのかな」
「鬼の王もそれなりの歳じゃ、賑やかにもなろうて」
「なよの元亭主殿も、それだけ歳をとったんだね。あ、痛ったた」
ぎゅっとなよが男の頬をつねっていた。
「つまらぬことを言うでないわい」
なよは手を戻すと、呆れた顔をして、溜息をついた。
「要らぬことを父さんは知っておるのう。ま、今の奴のことなど、わしの知ったことではない。奴が権勢に溺れてしもうたのが、この成り行きのおおもとじゃ。わしとしては、民を殺された恨みは簡単には消えぬ。鬼の王がどうなろうと知らぬわい」
男は右手を伸ばすと、そっとなよの頭をなでた。
「なよに幸いがもたらされますように」
男はそっと笑みを浮かべると、小夜乃に声をかけた。
「小夜乃。かぬかと智里を連れて、なよとお風呂に入りなさい。沸いたようだ」
小夜乃は頷くとかぬかを立たせ、肩で支える、慌てて、智里も反対から支えた。
「なよ母様。お風呂、いただきましょう」
なよは、くっと顔を上げると、振り返った。
「ゆっくり風呂に入るとしよう」
男が見送る、白と三毛が男の前に座った。
「お父さん、どうしたらいいんでしょう」
深刻な顔をして、白が男に訊ねた。
「それは難しい質問だ。だってね」
言いかけて、男は言うのをやめた。
あさぎの注いでくれたハーブティを一口、飲み、白の眼をじっと見つめる。
「今まで通りの日常を送ること、それが大事だよ。そしてね、そのためにはどうすればいいのか。自分の持っている札、これから持つだろう札を考えて道筋を見いだして進むこと。学校や商店街、白を向かえてくれる場所は増えたと思う、白なりの道筋を考えてみなさい」
白は吸い込むように男の眼を大きく見つめ、そしてしっかりと頷いた。
「さぁ、白もお風呂に入りなさい。まだ、ちょっと肩が固まっているぞ」
男が片手で白の肩を払う、ほっと白は笑みを浮かべると、立ち上がった。
「お父さんも一緒に入っていいんですよ」
「はは。それは勘弁してくれ、父さん、恥ずかしがり屋だからね。最後、お風呂を洗いながら入るよ」

白を見送ると待っていたように三毛が男の前に座った。
「千客万来だなぁ」
「あ、あのね、お父さん」
「どうしたんだい、三毛」
「三毛も強くなりたいんです」
三毛がじっと男の眼を見つめた。
「実践経験は少ないけど、三毛は強いよ」
「でも、あんな大きな鬼となんて、どう戦えばいいかわからないです」
男は眼を閉ざすと、微かに俯く。
そのまま、呟いた。
「多分、幸は娘が鬼と戦うのを避けたいんだろうな、鬼と出くわしても大丈夫なように、その場を逃げることができるような方向で教えているようだ」
男は眼を開くと三毛に言った。
「黒はね、妹二人を守りたいから強くなりたいと言った。白は、強くなるのはもう充分だと思っているようだ、三毛は何故、強くなりたいのかな」
「それは・・・、強くなることが楽しいから」
三毛が困ったように答えた。
「人はね、自分が何かを得たら、それを他人に評価して欲しいと思う、基本的な欲求だ。それが、ごくたわいないものならいいんだけど、そうじゃない場合は大変なことになる。新しい力を手にいれたり、武器を手に入れると、使いたくなる。こんなに凄いんだよってね。そして、次はそれを所有する正当性を妄想し始める。三毛、それは良く覚えておきなさい」
「ごめんなさい」
三毛がぎゅっと目を瞑って俯いた。
男は深く溜息をつくと、柔らかな笑みを浮かべた。
「三毛、立ちなさい」
「は、はい」
慌てて、三毛が立ち上がった。
「幸の教えたなみゆい。舞にも似た動きだけれど、幸の使う武術の要諦が詰まっている。前半の途中、自然体から、両手を前に出して、右足を半歩出す一連の動きがあるだろう。それを、そこの広いところでやってみなさい」
言われた通りに三毛が動く。ほんの一分ほどの、とても滑らかで、一切の角を廃した舞だ。
「相当、練習しているんだな。しっかりと整っているよ」
「ありがとう、お父さん」
「どういたしまして。次はね、上半身の動きと下半身の動き、ちょっとだけずらしなさい。上半身をほんの少しだけ、先にする」
三毛は頷くと、もう一度、同じ動作を繰り返そうとしたが、すぐに足を滑らせ、尻餅をついてしまった。
「それが本来の浮脚だ。アイススケートってのは、氷とエッヂの間に解けた水があるんだけどね。つまりは浮いているからこそ、あれだけ速く移動できるんだ。今の三毛は初めてスケート靴を履いた子供だね」
尻餅をついたまま、三毛はぼぉっと男の言葉を聞いていたが、はっと気が付くと、男の顔を見つめた。
「お父さん」
「ま、ほどほどに頑張れ」
「うん。お父さん、ありがとう」
「どういたしまして。三毛も風呂に入って来なさい」
三毛も頷くと白の後を追った。
男がふっと吐息を漏らす。
「当分は頑張って生きるか」
男が呟いて、顔を上げると、あかねが笑みを浮かべて男の前に座っていた。
「三毛さんのことは、あかねが引き受けます。命にかけても、我を見失った三毛さんを引きずり戻します」
「まっ、そうならないことをまずは期待するよ。必ずそうなるわけじゃないからね。そうだ、あかねちゃん、さっきの、ちょっとは勉強になったかい」
「勉強になりました、自分より巨大なものとの戦い方が分かりました。空を移動する術も見ることができましたし、あとはできるように練習するだけです」
「あかねちゃんなら、すぐに出来るようになるだろう」
男は笑うと少し冷めたハーブティを少し口に含む。
「ところで、お父さん」
「ん」
男が顔を上げた。
「あかねのお願いも聴いてください」
「どんなお願いかな」
「お父さんはあかねちゃんと呼んでくれますけど、ちゃんを無しにして、あかねって呼んでください」

男が思い出すように言った。
「最初、うちに来た時、あかねちゃんと呼んで、それ以来だったね。いいよ、それじゃ、あかね」
「はい。あはは、家族になった気がします」
「言葉は難しいなぁ。ただ、あかねのお父さんやお母さんのことをないがしろにしちゃだめだよ」
ふと、あかねは眉を曇らせ俯いた。
「私は父や母にとっても酷いことをしました。私は娘失格なのですよ。たとえ、笑顔を浮かべてくれていても、本心は恐怖を抱いている、私が両親をそんなふうにしてしまったのですから、自業自得です。幸い、弟が生まれ、いま、妹が母のお腹の中です。私がいない方がいいんです」
「多分、両親は苦しんでいるだろう、素直に娘を抱き締めることができない自分自身にね」
「なら、苦しまないように離れてあげるのも親孝行です。鬼紙家にはたまに御祖父様の顔を見に行きますし、現当主の護衛役もすることがあります。御祖父様がいらしてくださる間は鬼紙家にも参りますが」
あかねは一層に俯くと、拳をぎゅっと握った。
「あかね。左手を出しなさい」
あかねが不安げに顔を上げ、左手をそっと差し出した。男は右手で握手をすると、左手で、あかねの手を包み込む。
「一つの拳よりも、手を二つ、繋いだ方が暖かいだろう」
「はいっ」
あかねが目を輝かせた。
「あかねにはたくさんの家族がいる。それをいつも心に留めなさい」
男は振り返ると、カウンターの裏にしゃがみこんで隠れているあさぎに声をかけた。
「あさぎ。出ておいで」
「えっと、いいでしょうか」
あさぎが恐る恐る顔を出した。
「話が深刻になって、ちょっと居ずらくて」
男がくすぐったそうに笑った。
「あさぎもあかねの手をぎゅってね、握ってくれ」
あさぎは柔らかな笑みを浮かべ、差し出されたあかねの手をしっかりと握った。
「あかね。これからいっぱい、お喋りをしよう」
「あさぎ姉さん、ありがとう」
あかねは手を離すと、じっと自分の手を見つめた。
「あかねは発見しました」
「何を発見したの」
あさぎがあかねの隣りに座り、訊ねた。
「あかねは案外単純で、とっても幸せなんだって」
あさぎはあかねに体を寄せると、ぎゅっと抱き締めた。
「ありがとう、あかね」
あさぎが呟いた。
男は笑うと、あさぎに言った。
「あさぎは、何か、悩み事はないかい」
あさぎは顔を上げると、男に笑みを浮かべた。
「ありましたけど、いまはなくなりました」
笑顔であさぎが答えた。

なよとかぬかが風呂から上がったらしく、あさぎとあかねも風呂へ入りに行った。
男はほっと息を漏らすと、少し冷めたハーブティを一口飲む。
「幸乃。血の繋がった家族じゃない、思いの繋がった家族は、たまに手を繋がないとならないのかも知れないね」
ゆらりと幸乃は男の体から出ると、隣りに座った。
「お前様。幸乃とも握手です」
にっと笑って、男が幸乃と右手で握手をした。
「幸乃、ありがとう」
「ありがとうとは」
「父さんの横にこうして居てくれることへの感謝、ということかな」
幸乃の頬が朱に染まった。
「まぁ。お前様は、ほんに女たらしですわ」
男は笑みを浮かべると、手を離し、目を瞑った。
「泣いたり、笑ったり、怒ったり、色んな声が聞こえる、とっても賑やかで楽しいんだよ」
「怒るのは主になよですけど」
幸乃が笑みを浮かべた。
「確かにそうだ、なよはカルシウムが足りないのかなぁ」
男はいたずらげにそう呟くと、目を開け、ハーブティを飲み干した。
「あさぎのハーブティも美味しい、これはあさぎの才能だな」

 ちょっとお休みして、蛇足を一つかいています。


35
最終更新日 : 2014-04-04 21:46:36

異形月の糸 あかね

「お給料、三桁ですよ。あなた、頑張ってくださいね。壮介のために」
恵美子が万遍の笑みを浮かべて言う。
「いや、お前。そうはいうけど、親父の家ってのはさ」
言い終えるすべもなく、妻の笑みが光の速さですべてを飲み込んでいく、俺は押しつぶされ、息が出来ず、喉を詰まらせ、自分の呻き声で目を覚ます。毎朝、こんな夢を見るのだ。そして、少し人間不信になる。

啓介は、布団から、体を起こした。二十畳の日本間。羽毛布団が心地よい。障子は純白、朝の明かりを淡く呼び込み、この部屋全体ををやわらかく照らしだしている。山一つを覆うように造られた邸宅だ。遠くに山鳩の声、近くに囀るのは雀の声か。
「叔父様。お目覚めなさいましたか」
少しあどけない、しかし、芯のしっかりした声が襖の向こうから聞こえた。
「ありがとう、起きたところだよ」
ゆっくりと襖が開き、入ってきたのはあかねだった。
「叔父様、着替えでございます。もうすぐ、朝餉の用意が出来ますから、どうぞ、お顔を洗って居間にお越しくださいませ」
笑顔で、あかねが言った。
「世話をかけて申し訳ないね」
あかねはかぶりを振ると、悪戯げに笑みを浮かべて答えた。
「鬼神家現当主の叔父様でございます。どうぞ、ふんぞり返って偉そうにしてくださいませ」
「柄じゃないよ。まさか、僕に順番が回ってくるとは思わなかったんだから」
啓介は、小さく溜息を漏らし、少し肩を落とす。そして、あかねに顔をそむけ、障子の向こう、朝の空を思い浮かべた。
「今日は良い天気のようだね」
「はい。鬼退治には絶好の日和です」
「ほんと、そうだ」
啓介が戸惑うように小さく呟いた。
「叔父様。ご心配なく、お供も居ります」
「お供って」
それには答えず、あかねはにぃっと唇の両端を引くように笑みを浮かべると、顔を隠すように頷いた。

まさしく城だ。啓介は着替え終え、廊下を歩いていた。廊下と言っても、小さな車くらいなら走れるのじゃないか。雨戸が開け放たれ、硝子戸から朝日が差し込む。朝の光に、少し気持ちが落ち着く。立ち止まり、啓介は窓から外を眺めてみた。一つの山を覆うように作られた城、いや、鬼紙家の邸宅だ。見下ろせば、渓谷が見える、谷が深すぎて、底までは光は届かない、そうだ、あの闇の中では光を嫌うモノ達が、今も蠢いているのだろうか。
ふと啓介は子供の頃を思い出した。鬼紙家は八百年続く旧家であり、その血統を絶やさぬため、意識的に男子を産み育てる。つまりは長男が不慮の事故や病気で亡くなっても、家が存続するためだ。ただ、啓介は七番目であり、加えて、正妻の子ではなかったので、この本邸には子供の頃に二度来たことがあるだけだ。
しかし、と思う。まさか長男が鬼にとり憑かれて兄達を殺してしまうとは。

「こんちわ。・・・あ、いえ、おはようございます」
振り返れば、少女。絵に描いたような令嬢だ、黒のジャージと少し日に焼けているのを除けば、午後の昼下がりにテラスで紅茶を飲むに相応しい、美少女。
「やぁ、おはよう。君は」
「初めまして、黒です。あかねちゃんに呼んでいただきました」
にっと楽しげに浮かべる少女。笑みを浮かべると深窓の令嬢から、一瞬にして近所のお姉ちゃんのような朗らかな笑顔になる。向き合う者を自然と笑み浮かべさせる、そんな笑顔だ。
「ええっと、黒さんか。あかねの友達だね、叔父さんはね」
「現当主でしょう、御老よりも偉い人だ」
「偉くはないよ。偉そうな顔をするのが仕事なだけさ」
啓介は不思議に思う。何故、こんな返事をしたのだろう。中学、いや、高校生くらいの女の子に。どうしてだか、不思議に安心するのだ。ほっと啓介は吐息を漏らすと、黒に笑いかけた。
「ありがとう」
「ありがとうって」
「はは、どうしてだろうね。自然にありがとうって言ってしまった」
「それじゃ、黒も言います。叔父さん、ありがとう」
黒もにっと笑顔を浮かべると、啓介を促した。
「朝御飯ですよ。大金持ちの朝御飯です。楽しみ」

時代劇に出てくる武家屋敷のように、居間に箱膳が並べられ、上座に啓介と御老が正座する。
「おはようございます」
頭を下げ、啓介が御老に挨拶をする。御老は鷹揚にうなずくと、顔を上げた。
「だめです、おじい様」
末席に座るあかねが柳眉を曇らせ、御老に言葉を掛けた。
「おじい様。おはようには、おはようで返すのが礼儀です」
「ふん。あの女と住むから、お前はそのような生意気な女になるのだ、困ったものよ」
むっとした顔をしながらも、御老は啓介に顔を向けると、おはようという。
啓介が本邸に来てから、一週間になる、毎度の朝の行事だ。
初めは御老がぼけたのかと思ったのだが、なるほどと合点がいった。東京本社勤務から出張という形で、初めて本邸に一ヶ月間住む込む。東京本社とは鬼紙家の財産管理会社だ。しかし、実際は広範な、つまり、合法違法問わず情報収集と操作をその主な職務としている。一ヶ月この屋敷に住むにあたって、集めた情報の何処かに御老が孫のあかねに特に目を掛けているとあったが、それは正確ではなかった。
溺愛している、つまりは孫のあかねと話をしたいがためだけに、この朝の行事は続けられているのだ。
しかし、考えてみればそれも仕方がない。
あかねは利発で美しい女の子だ。それに、まるで心を読むかのように、その応対は見事だ。場を読み、過不足なく対応する。情報にはその他にも、あかねは優れた格闘技の持ち主であるとあったが、それは訂正しなければならないだろう、あの華奢な腕では、おひつを両手で運ぶのすら。あれは・・・。
あかねは両手でおひつを抱え、黒の後に置いた。
「黒さん、おひつは後ろに置いておきます。お変わり自由です、調理のものに言いましたから、おかずも三人分、用意しますよ」
黒はあかねに向き直るとあかねの手をしっかり両手で握った。
「ありがとう、呼んでくれて。あかねちゃん、大好き」
「もう、黒さんは。御飯を前にすると子供になるんだから」
「だって、このアジの干物もとっても良い仕事だよ。お味噌汁の出しは昆布、それも羅臼昆布と利尻昆布をぴったりの按配にしてだしがとってある。とっても、贅沢だよ」
柔らかな笑みを浮かべる二人に啓介は何かほっとした気分を抱いた。本邸へ来てからの、居こごちの悪さ、得体の知れない気配のようなものが、この黒という名の女の子の笑顔ですっきりと払われた気がする。
ふと、啓介は黒の隣に誰かが居るような気がした。考えてみれば、黒の隣が不自然に一人分、空いている。啓介は目を凝らして、その空間を見つめみてた、誰か居る。誰か居るようなのだが、どうも妙だ、見えてこない。
「これは失礼いたしました」
空間から小さく声が流れた。
やがて、黒の隣に、これは、ベトナムのアオザイだろうか、薄茶色の民族衣装を身に纏った少女が現れた。漆黒の黒髪を肩の辺りでぱっつりと切った、一重の涼しい瞳をした女の子だ。
「普段から陰形を心がけております故、ご不審の念を抱かせてしまいました、申し訳ありません」
ついと、少女は啓介を見つめると、微かに頭を下げた。
「あ、いや。いいんだ、そういうのも慣れたよ」
黒があわてて、啓介に言った。
「漣ちゃんはとっても良い子なんです。ちょっと人見知りなだけで」
御老が珍しく、黒の言葉を継いだ。
「啓介」
「はい」
「本来ならば、漣様が上座に座らなければならん、鍾馗の姫様だからな。その隣は黒、ホンケ白澤の孫じゃ」
御老の言葉に啓介は目を丸くした。
鍾馗と言えば、鬼にその領土を征服され、難民となっていたが、その後、ホンケの力添えにより、鬼との連戦に勝利し続け、ほぼ、もとの領地を取り戻しつつあるという、それを考えるなら、黒さんと姫君の仲がよいのも不思議ではない。あかねはこの二人とも友人なのだろうか、情報にはなかったことだ。
ふと、啓介はあかねの姿が消えていることに気がついた。
あぁ、姉さんか。
長女、礼子夫婦がやってくると、あかねは姿を消すのだ。

「おはようございます」
鬼紙家長女、礼子が大きいお腹を抱えるようにやってきた。その後を赤ん坊を抱いた夫がやってくる。二人は黒の向かいに座ると、礼子が黒に話しかけた。
「お久しぶり。先生はお元気」
「はい、元気です。今頃は母さんと畑仕事をしていると思います。あの・・・、お腹は」
「もう、予定日まで一ヶ月もないの、大変」
黒は如才なく笑みを浮かべると、礼子に言った。
「男の子、それとも女の子ですか」
「えへへ。女の子、上の子が男の子でしょう。男の子はつまらないわ。女の子だったら、一緒にお買い物もできるようになるだろうし、楽しみ」
どう返事をすればいいのかわからず、黒は曖昧に笑みを浮かべたまま、頷いた。
礼子の夫、一郎が改まった顔をし、啓介に言った。
「当主、おはようございます」
「おはよう」
「今日は鬼退治でございます。本来、この行事は当主の儀礼的なもので、鬼に見立てた者を刀で斬るまねをするだけのものなのですが、今回に限り、実際の鬼を」
「大丈夫ですわ、啓介さん」
夫の言葉を遮り、意地悪く、礼子が笑った。
「鬼紙家の当主として啓介さんが後れをとることなどありえません。それに黒さんもついていらっしゃいますものね」
いつのまにかご飯を頬張っていた黒は、声を出せずうなずき、お茶を飲む。
「任せてください、頑張ります」
あきれた顔をして、礼子は黒を見つめたが、ほっと溜息をつくと、いただきましょうと言い、お箸を持つ、いただきますの言葉もなしに食事が始まった。

鬼神排儀式と称される行事が鬼紙家にはある。本邸にある能舞台で開催される。荒れ狂う鬼を当主が刀で成敗していく動きを舞に仕立てたものであり、年に一度、この季節に行われる。ただ、実際に鬼がこの国に明らかな影響を与え、国民の多くが鬼の存在を認めたいま、このように様式上の鬼退治で良いのか、それが礼子により発せられ、当主が実際に鬼と戦うということになったのだ。
たぶんに礼子の現当主への嫌がらせである、下位の者が当主に収まったことが余程腹に据えかねたのだろう。ただ、礼子なりの計算では、この提案は御老によって却下され、それが現当主啓介に対して礼子自身の立場を強いものとし、いずれは自分の息子に当主を禅譲させようという考えがあったのだろう、御老の承諾に、礼子が俯き唇を噛むのを啓介は見ていた。
啓介自身も当主であることへの強い思いはなかった、だから、代わってくれと礼子がうまく言ってくれさえすれば、すぐにでも降りて逃げ帰りたくあるのだ。中堅の商社に経理で勤める会社員がいきなり、鬼だの術師だのわけのわからない連中の中に放り込まれたのだ、逃げ出して何処に不思議があるというのだ。
啓介は少し息をもらして顔を上げた。嬉しそうに御飯を頬張る黒という女の子、隣に居るはずの目を凝らさないと見えてこない引きこもり系の女の子、この二人を供に鬼退治をせよということなのか。桃太郎に倣うのなら、お供は三人。まさか、あかねが供についてくれるというのか。この人選、御老はいったい何を考えているのだろう。

個々食べ終え、席を立つ。やがて、喉に食事が通らない啓介と、丼茶碗になみなみとお茶を入れがふがふ飲む黒、多分、隣には姫様もいるのだろう。
ふと、黒は漣の膳を見た。
「漣ちゃん、食べていないの」
「はい、私は自分の作ったものしかいただかないことにしています。ごめんなさい、早くに言えば、黒さんに食べていただけたのに、冷めてしまいました」
「毒とか入ってないよ」
「ええ、そう思います。ですが、いま、私が死にますと、折角の進撃が止まってしまいます。そのため、例外なく他人が作ったものはいただかないことにしているのです」
「ね、漣ちゃん、用事が終わったら時間あるかなぁ」
「と、言いますと」
「うちでいっぱい御飯を食べよう。うちなら大丈夫だよ」
ふと、俯き、漣は考えたが、笑みを浮かべると頷いた。
「ありがとうございます、楽しみです。ですから、どうぞ、私の分も食べてくださいな」
黒はくすぐったそうに笑みを浮かべると、小さく、ごめんなさいと呟いた。
黒は漣の分も食べると、満足そうにお腹をぽんぽんと叩いた。
「まぁ、黒さん。行儀が悪いですよ」
膳を片づけるのを手伝っていたあかねが笑った。

鬼紙家本邸にはおよそ百人の人間が居る。御老を筆頭に鬼紙家本家、その下には分家である鬼神十家から選ばれた者達がそれぞれ、食事の用意をする賄い方、屋敷の維持管理をする繕い方、鬼や妖を研究する計り方、鬼紙私兵、なお、鬼紙私兵は平時は森方として、植林をはじめ、農耕を主としている。

あかねは改まった表情で啓介の前に正座をすると、微かにお辞儀をする。
「今日の鬼神排儀式には、この三人がお供いたします」
あかねの振る舞いに啓介は息を飲んだ。可愛くてよく気のつく賢い姪、それだけではない触れるだけで斬られてしまいそうな鋭さ、鋭い刀が喉元に突きつけられた、そんな緊張感を味わう。
「そ、そうか・・・、よろしく」
「三人とも、希代の魔術師 無の弟子にございます。一人ででも鬼の軍隊を打破できる力量を持っております、どうぞ、ご安心くださいませ。なお」
啓介が息を飲んだ。
「このこと、東京本社にお伝えになられますと、速やかに叔父様を殺すことになります、奥様や壮介様の悲しむ顔を見たくございません。何卒、お忘れなきようお願いいたします」
あかねはゆっくりと頭を下げると、ふっと顔を上げた。
「と、いうことで、叔父様。お出かけのご準備をどうぞ」
今までの笑顔であかねは啓介を促すと、鬼紙私兵女方が二人、あかね両脇に正座し、啓介にお辞儀をする。
あかねは三人を見送ると、黒と漣に向き直った。
「さて、黒さん、漣さん、御準備の方は宜しいですか」
漣は微かに視線をあかねに向け囁いた。
「私にとって、鬼との戦いは日常の一つでしかありません。今回は姉弟子であるあかねさんからのお声をいただき参上した次第です。お声をいただいた瞬間から準備は出来ております」
「黒も。黒もご飯食べたから大丈夫、いっぱい、動くよ」
あかねは安心したように笑みを浮かべ立ち上がった。
「あかねは着替えがあります。お二人とも、玄関先にどうぞ。車を回しておきます」

玄関と言っても、鬼紙家のそれは、神社の拝殿のようにも見える。左右を狛犬が屋敷に背を向けた形で今にも飛びかからんとしている。
黒は興味深そうに狛犬の口を覗き込んでいたが、車の音に振り返った。
「変な車だ。とっても変」
黒が楽しそうに笑った。車から降りてきた運転手に黒は笑いかけた。
「変、とっても変な車。とっても胴長」
降りてきた運転手は困ったように額に手をやったが、諦めたように笑う。
「リムジンって言うんだ。変な車じゃないぞ」
「でも、胴長。背の低いバスみたい」
黒はリムジンに近寄ると窓を覗き込んだ。
「真っ黒だ」
ふと、運転手は真面目な顔になって、黒の背中越しに話しかけた。
「お前。強いのか、御当主様をお守りすることが出来るのか」
黒い車窓に運転手の真剣な顔が写る。
黒がそのままの姿で呟く。
「黒は強いよ、とっても強い。でも」
黒は振り返ると運転手に言った。
「おじさん程じゃないけどね」
運転手がたまらず大笑いした。
「こいつは参った。何処でそういう台詞を覚えるんだ、この頃のガキは」
黒は柔らかな笑みを浮かべると、運転手に尋ねた。
「ガキじゃないよ、黒だよ。ね、鬼紙家は、現当主派と礼子派に分かれている。圧倒的に礼子派のようだけど、おじさんはどちら派」
黒の言葉に運転手は驚いた。言葉の内容もそうだが、静かに語りかける言葉に先ほどまでのはしゃいだ子供っぽさは微塵もなく、柔らかな物腰と笑み、どれほどの修羅場をくぐれば、そんな表情を浮かべることができる。
「俺はどちら派でもねぇ。俺は鬼紙私兵、鬼紙家存続が唯一の大事だ」
ふいと黒が視線を運転手の隣にやった。
「合格です、平次さん」
いつの間にか、あかねが運転手の隣に佇んでいた。あかねは黒のカンフー服で運転手を見上げる。
「これは、あかねお嬢様」
あかねは淑やかな笑みを浮かべると、少し、恥ずかしげに俯いた。
「平次さんに運転をお願いしたのは正解でした。よろしくお願いしますよ、平次さん」
あかねは平次の右手をとると、しっかりと両手で包みこんだ。
「ま、まかせてください」
平次が緊張して叫ぶように答えた。
「何、緊張してんだ。この国の男は性的異常者が多いと聞いたが、さしずめ、お前はロリコンとかいう輩だな」
「なんだと、黒」
「ち、違うよ。黒じゃないよ。もぉ、漣ちゃんったら」
慌てて、黒は両手をぱたぱた振ると、視線を隣に移した。ゆっくりと、平次の目に、女の子の姿が浮かび上がってくる。
「なんだ、見えてなかったのか。修行が足りないな」
黒は溜息をつくと、漣に言った。
「漣ちゃん、性格が変わった」
「いいえ、師匠から男は危険な存在だから、やられる前にやれ、と教えていただいています」
「あぁ、母さんか。母さん、極端だものなぁ」
黒は溜息をつくと俯いた。
はっと平次はあかねの姿に気づき、声を上げた。
「まさか、あかねお嬢様がお供をされるのですか」
「はい、そのつもりですけど」
きょとんとした顔であかねが平次を見上げた。
「だ、だめです。情報では既に部隊は鬼の巣窟になっていると聞きますぞ。そんなところにあかねお嬢様をお連れすることなどできません。こいつらならばともかく」
横目で平次は黒と漣を睨んだ。

「平次。聴いてください」
あかねは哀しげな笑みを浮かべ、平次の目をじっと見つめた。
「御当主はまったくの素人。半年前までは普通の会社員。到底、鬼と戦うことなどできようはずはなく、こうやって助っ人をお願いいたしましたが、全て他家の者が助けたとあっては、鬼紙家の体面にも関わります」
あかねは瞳を潤ませ、強く平次を見つめた。
「こんな私でも鬼に立ち向かい、叔父様に助けていただいたと話をすれば、叔父様の体面、ひいては鬼紙家の体面を守ることが出来ます」
「ならば私がお供に参ります」
「それはだめです」
あかねはふっといたずらげに笑みを浮かべると、手を伸ばし、平次の鼻の頭を捻った。
「新婚三ヶ月さんにそんなことはさせられませんわ」

「なるほど、勉強になります」
二人を見ていた、漣が小さく呟いた。
「ん、どうしたの」
漣が黒を見上げた。
「あの、黒さん。漣は美人でしょうか」
「え。あ、うん。美人だと思うよ」
「ですか。なら、使えますね」
漣が一人うなずいた。
「あの、それって・・・」
黒が戸惑ったように漣に言った。
「黒さん。幸師匠の鋼鉄の正面突破力。なよ姉さんの蟻のはいでる隙もない全包囲力、これにあかねさんの王水のごとくの人心浸透力が加われば怖いものなしですよ。勉強になります」
「いや、あのね」
黒は漣の隣で溜息をついた。あぁ、純真な子供が大人の影響で汚れていくよぉ。

「なんだか、賑やかだね」
当主が着替え終え、やってきた。あかねは笑みを浮かべると、当主の前に立ち、ネクタイを整える。
「女の子が三人寄れば喧しいものですわ」


平次は戸惑っていた。当主達四人を陸上自衛隊第三基地一キロ手前で下ろし、あかねの指示通りにやってきたのが、この喫茶店の前だ。車を停め、運転席から辺りを見渡す。住宅地、何処にでもある普通の住宅地だ。
女の子が運転席の窓をこんこんと叩く。
「こんにちは。平次さんですね」

平次は用心深くドアを開け、車から出た。窓を開けるだけでは、かえって攻撃も防御もやりづらい。
「君は」
三毛は笑顔を浮かべ、平次を見上げた。
「三毛といいます。えっと、鬼紙家の人ですよね」
平次は視線を外さず、微かに頷いた。この世界、例え相手が子供でも油断は出来ない。
「昨日の晩、黒姉ちゃんがお邪魔したと思いますが、妹の三毛と申します」
「そうか、黒さんの妹か」
平次は少しほっとしたように息を吐くと、笑顔を浮かべた。
「俺は平次。鬼紙家の兵隊、鬼紙私兵だ。あかねお嬢さんからこちらに赴くように言われてな、やってきた」
「あかねちゃんから、連絡はいただいています。あ、車、通行の邪魔になりますよね。ちょっと片付けておきます。そうだ、出しておかなきゃならない荷物、ありますか」
「特にはないが、どこかに駐車場があるのか」
「はい」
三毛は頷くと、家に向かって声をかけた。
「幸母さん、力を貸してくださぁい」
よし、っと三毛は頷くと、車に向き直った。
「無術は呪を唱えません、ひたすら意念を用いるのみ」
三毛が小さく呟き、車を見つめる、微かに唇を震わせ、意念を補強する。色があせるように車が消えた。
三毛はほっとしたように肩の力を抜くと、平次に言った。
「さぁ、中へどうぞ」
平次は慌てて、車のあった辺りを手で探る。
「あ、大丈夫ですよ、壊していません。違う場所に移しただけですから」
あたふたと言い訳をする三毛を見て、なんだか、平次は笑ってしまった。驚きのあまり、感情が制御できなくなったのか、どう言えばいいのかわからない。そうだ、平たく言えば、こいつは参った、そういう気分だ。
「三毛さんは凄いんだな」
「いいえ。母さんの力を借りただけで、三毛だけでは無理ですよ」
三毛は笑みを浮かべると、喫茶店へと平次を案内した。
喫茶店は一枚板のテーブルが中央、その周りに椅子が置かれており、カウンター席もある。カウンター席には女が一人、四十代くらいだろうか、ケーキセットを前に店員と談笑している。もう一人、テーブル席に窓を背にして男が一人、珈琲を飲んでいる。
平次がテーブル席に着くと同時に、店員がやってきた。
「あさぎといいます。平次さんですね、あかねちゃんから聞いています」
平次はあさぎを見て、胸が高鳴る思いがした、綺麗な人だ。
「は、はい。あかねお嬢様からこちらで、まま、待つようにと」
美人に緊張してどもってしまう自分がふがいない。
あさぎは、ついっとメニューを取り出すと、平次に見せる。
「一番のお勧めは、ハーブティとケーキセットですけど、男の方には甘いものはどうかな」
「いっ、いえ。自分、甘いものは好物です」
あさぎは笑みを浮かべると頷いてカウンターへと戻る。平次は肩を下ろして、深く息を漏らした。ほんの少しだけ結婚したことを後悔、いや、後悔などしていない。
「平次さん、どうしたの」
三毛が怪訝そうにたずねた。
「いや、なんでもないよ。それより、この喫茶店は鬼紙家と何か関係があるのか」
「んと、わからないです。でも、鬼紙のおじいちゃん、時々、来てくれますよ」
「鬼紙のおじいちゃん」
「あ、ごめんなさい。鬼紙老がちゃんとした呼び名ですよね」
「いや、いいんだ」
平次はいつもの苦虫を噛み潰したような御老の顔と、おじいちゃんという言葉が上手く重ならなかった。ここでは愛想の良いじいさんをしているのか。
「なんじゃ、居ったのか」
三毛は眉間にしわを寄せると、鬼紙老の口真似をし、手を差し出す。
「食え。なんとかというケーキだ」
三毛は平次に笑いかけた。
「こんな感じです」

「よう、恵美子さん。どうした、機嫌良さそうじゃな」
なよはカウンターに座る常連の恵美子に声をかけた。
「なよさん。ありがとう、子供が勉強面白いってね、言っているのよ。なよさんのおかげよ」
「家庭教師という程でもない、ちと、勉強のやり方を教えただけじゃ」
なよは恵美子の隣に座ると言った。
「知らぬことを知るのは楽しい、それだけのことじゃな。子供はたまに背中を押してやらねばならん。気が向いたら、また教えに行ってやる」
ふと、なよが平次に気づいた。
面白そうに笑みを浮かべると、平次の隣に座った。
「三毛。こやつがあかねの言っていた男か」
「そうだよ。平次さん、これから一週間、修行するんだよ」
「よくもまぁ、幸が承諾したのう」
「あかねちゃんが、涙目でお姉ちゃんお願いって言ったら、だいたい通るもの」
「はは、確かにそうじゃな」
愉快になよは笑うと、平次を見てにたっと笑った。
「あの、なんのことか、わからないんだが。俺はここで時間をつぶして、連絡あり次第、迎えに行く予定なんだがな」
「その予定は無しじゃ。電車とバスと歩きで帰りおるわい」
平次は理解できず、天井を睨んだが、三毛が腕の裾をくっくっと引っ張るのに気づき、三毛に顔を向けた。
「あかねちゃんから頼まれました。平次さんに一週間、武術と呪術を教えてほしい。基礎はできているからって。鬼紙家の、現当主をしっかりと守ってくれる信頼置ける人が欲しい、平次さんなら信頼できるからって」
一瞬で平次は顔を赤くすると、大声で異議を叫ぼうとした、その瞬間、なよが平次の顎をかんと掌で打ち上げた。
「痛てて」
なよが嬉しそうに笑い、言った。
「上品な店じゃ、大声を出すでないわい」
「俺は鬼紙私兵の」
「なにが鬼紙じゃ。鬼紙など、まだまだひよっこ。随分と、わしも、鬼紙の始祖をいじめてやったが、思い出すと懐かしいのう」
驚いて平次はなよの顔を見つめた。一瞬で青ざめる。そして、小さく呟いた。
「まさか、かぐやのなよ竹の姫」
「いまはこの家の次女なよじゃ。よろしくな」


現当主啓介と三人は隊内の執務室に通された。
基地の中だ。来客用のソファに啓介が座る。ソファの後ろに三人が立つ。後ろはドアだ。
啓介の前には分隊長と補佐が座る。分隊長は小柄ででっぷりと太った姿、反して、補佐は実務上がりか、胸板の分厚い男だ。
ついと黒は制服を着た男の後ろに並ぶ五人に目をやった。五人の額、あれは角だ。
元は人間だろう、鬼神化兵計画のここは実験場だ。
黒は微かに息を吐く。
鬼神化兵、人間の一部と鬼の共同開発によって実現化された技術だ。鬼の遺伝子をウイルスによって人間の体に組み込み、人間の細胞を鬼の細胞に近似させる。筋力の強化と寿命もおよそ人間の二倍にはなる。ただ、問題は脳も鬼の特徴を備えるため、感情の起伏が激しくなることと、そして、人間を見下すようになる、そのため、指示系統の混乱が生じやすいなど、運用の問題があった、でも。黒は目の前の五人が適切に組織に従属しているのを見て取った。多分、脳が変化しないような方法を見つけたのだろうと思う。

啓介は腹に力を入れ、ぐっと分隊長を見つめた。
「鬼紙家当主 鬼紙啓介です。今回は当主就任の挨拶と視察のため、伺いました」
「これは恐縮ですな。鬼紙家御当主、直々のお越しとは」
余裕の笑顔で分隊長が答えた。啓介は分隊長が名刺を出し名乗るかと、間を置いたが、その様子はなく、それではと、言葉を繋いだ。
「実は、貴隊に鬼が存在するという情報を得て、確認のため、伺った次第です」
分隊長は大声で笑うと、ソファの背もたれに背中を預けた。
「参りましたな。そのようなデマを真に受けられましては」
「こちらに鬼は存在しないと、そういうことですか」
分隊長は大きく頷くと、身を乗り出した。
「おとぎ話、想像上の生物とされていた鬼が実在していた、これはもう否定しきれないでしょうな。我々は国民の生命財産を護るため、その鬼とも戦う所存でおります」
そう言いきり、笑うと、振り返り、角を生やした兵を順に見た。啓介もそれにならい、五人の兵を見る。
「おわかりいただけましたかな」
万遍の笑みを分隊長が浮かべた。
「鬼紙老にもよろしくお伝えください。さて、これで、よろしいかな」
不意に補佐が顔を上げ、呟くように低い声で啓介に言った。
「ここは、素人と女子供の来る場所ではない。早々にお引き取り願おう」
啓介は大きく息を吸い、吐き出した。
「鬼紙家も随分となめられたものですな。およそ、八百年、鬼の研究を通じて、この国を鬼から護ってきた、その鬼紙家を、たかが自衛隊如きが、見せびらかすようにずらりと並べた鬼を前にして帰れとは」
微かに足が震える。啓介はおもいっきり体に力を込め、震えを押さえる。
補佐がつまらないものを見るように啓介を眺めた。
「鬼紙家当主殿、雉も鳴かずばという言葉をご存じかな」
啓介の背中、あふれるように汗が吹き出した。
ついとあかねは啓介の隣に座ると、啓介に笑みを浮かべた。
「叔父様、立派です。叔父様を鬼紙家当主として尊敬いたします」
あかねは補佐に向き直ると笑顔のまま、話しかけた。
「鬼紙家の歴史から計れば、現政権もあんたら戦争屋もぽっとでの素人。素人くんだりが、わかったような顔をして鬼に関わるんじゃねぇ。そういうことです」
目の前の補佐のこめかみがどくどくと、ひきつった。
「面白いなぁ」
あかねは顔を上げると、五人の鬼神兵をじんわりと眺めた。
「やあ、兄さん達、鬼になって気分は最高かい。人間やめなきゃよかったかなぁとか悔いはしないかなぁ」
あかねの挑発に、鬼の足が微かに前方に擦り出され、睨みつける、臨戦状態だ。
補佐が低く呟いた。
「自ら、帰りの扉を閉ざされましたな。障害物排除せよ」
ソファの背に足をかけ、鬼神兵が飛び出した。
瞬間、あかねはふわりと浮かび上がると、独楽のように鬼の首を蹴る、首がちぎれ頭だけが飛んだ、黒はすばやく啓介の体を後ろから抱え、背後に飛び退いた。銃を用意していなかったのだろう、分厚いタガーがあかねの首をなぎ払う、それを緩やかに避けると、あかねは目にもとまらぬ速さで、鬼の剣掴む拳に両手を添え押し出す。すとんと鬼の頭が落ちた。
あわてて、三体の鬼があかねから間合いを置いた。啓介はあかねの豹変ぶりに足が震え、黒が後ろから支えていなければ、立ち続けることも出来なかったろう。
「間合いに意味はない」
あかねは呟くと微かに姿勢を落とした、瞬間、あかねの姿が消える。目が追えない、一人は顔面を壁へと踏みつぶされ、もう一人は胴体が半分にちぎれ、大音響とともに、最後の鬼は頭を床に押しつぶされていた。
あかねは埃を払うように両手を打つと、じわりと右足を上げ、補佐の胸を足で押し出す。額にあかねの足跡を残したまま、気絶した補佐がソファを転げ落ちた。
ゆっくりと足を戻すと、分隊長に向かって、にたぁっとあかねは笑いかけた。
「少し、身のあるお話をしましょう。邪魔もいなくなりましたことですし」
あかねはがくがくと震える分隊長の前に立つとじわりと前かがみになってその顔を睨みつけた。
「おい、聴いているのかよ。拝聴してくださっているのかって訊いてるんだ」
「は、はい。き、聴いております」
あかねはソファに座ると分隊長に言った。
「この分隊は鬼に征服されつつあったところを、鬼紙家の尽力で、鬼と戦う力を得、全
ての鬼を退治した。そういのでいいんじゃないか」
「え・・・」
「物わかりの悪いおっさんだな。そうすりゃ、八方うまく収まるじゃねえか」
「は、はい。その通りです」
あかねは分隊長の胸ぐらを右手で掴むと片手でぐいっと持ち上げた。
「お前、わかってんのか。二十代、三十代、これからの連中を己の欲で鬼にしちまったんだぞ。奴らにも家族があったんだ。妻や子供、これからを約束した恋人がいたかも知れねぇ。みんな、反古にしちまったんだ。鬼の計略にまんまとはまった年寄りの欲でな」
あかねは分隊長の顔をテーブルに擦りつけた。
ふっとあかねは柔らかな笑みを浮かべると、立ち上がり、黒と漣に振り返った。
「分隊長さんもご理解いただけたようです。お二人で鬼退治をお願いいたします」
漣が小さく手を挙げた。
「質問があります」
「はい、どうぞ」
「かなりの数、鬼の気配がする。ただ、鬼のようでもあり、人間のようでもある、そんな気配もあります。どう対処すれば良いでしょうか」
一瞬、あかねは後ろを向くと、分隊長の頭を殴りかけたが、歯ぎしりをしつつ、気持ちを落ち着かせ、深呼吸をする。そして、二人に向き直った。
あかねは嬉しそうに笑みをたたえると言い切った。
「人が鬼に変わるなどあり得ませんし、あってはならないことです。人は人として、人の世界に住み、鬼は鬼として鬼の世界に住めば良いだけのこと、きっと、それは人に擬態しようとする鬼に違いありません。迷うことなく退治してください」
漣がうなずき言った。
「了解した」
ゆっくりとドアを開け、外にでる。慌てて黒も漣のあとを追った。

二人、通路を歩く。
ふと漣が黒に言った。
「あかね先輩も漣も、居場所は師匠のところだけなのです。父は実は気弱な人です、立場上、強くは見せておりますが、漣を恐れています。漣は、この戦争が終わりましたら、師匠の元に参ります。黒さんの可愛い妹になります。どうぞ、お願いですから受け入れてください」
黒はとても柔らかな笑みを浮かべると、漣の手を握って歩く。
「約束。一緒にご飯を食べよう、一緒に働こう、一緒に笑って、一緒に泣こう、一緒に暮らそう。一緒にこうして歩こう」
ぎゅっと黒は握る手に力を込めた。
「漣ちゃんが妹になってくれて嬉しい」
漣はほっとしたように小さく笑みを浮かべたが、改めて表情を引き締めた。
「気がかりがなくなりました」
漣が走る。通路の向こう、幾つもの銃口が向けられていた。迷彩を纏った鬼達だ。
鼓膜をつんざく銃声が通路を充満する。漣が無数の銃弾をすり抜ける、音の数倍の速さだ。その風圧に鬼達の体が浮いた。
黒は自在で流れ弾を払い、壁を蹴る。セメントの壁に大穴が開いた、その向こうは中庭だ。黒は通路を飛び出し、通路と平行に走る。通路を抜けた向こうにある建物、そこに鬼の気配が集中していた。
壁が微塵に破裂する、漣が通路から飛び出した。
「漣ちゃん、鬼は」
「既に血肉の塊です」
こともなげに漣が答えた。
黒は思う、鬼ってなんなんだろう、人とどう違うのか。小夜乃ちゃんは角のある鬼だけれど、とても優しくて面倒見の良い女の子だ。角が伸びてくると幸母さん に切ってもらって、絆創膏を貼っている。洗面所でそっと絆創膏をはがして、伸びていないか、心配そうに鏡を覗くのを見たことがある。まだまだ、子供なの だ。
一際大きな建物、あれが研究棟だ。微かにうなるような機械音。嫌な予感がする。

「二人とも元気だなぁ」
幸は呟くと窓から二人の姿を眺めた。視界の向こう、異質の形をした円柱形の建造物、あれが鬼神化計画にて、人を鬼に変える研究施設だ。黒と漣が向かっている。
「幸お姉ちゃん」
驚いたようにあかねが声をかけた。幸は振り返ると、いたずらげに笑みを浮かべた。
「いきなり顔を出してごめん。二人の護り髪が反応してさ、やって来た」
あたふたとあかねは幸のそばによると、幸の指先の示す方向を見つめた。
「ロボット・・・」
あかねが呟いた。
「映画とかである、パワードスーツって奴だ。かなりの速さと力がある、人なら勢いに振り回されて気絶してしまうだろう、鬼の男は脳が筋肉でできているからな」
幸は笑うと部屋の中を眺めた。
「既に宴の後か」
いきなり分隊長が立ち上がると大声で笑った。
「形勢逆転だな、超強化型パワードスーツXZ?3型、すぐに先程の奴らを殺して、ここに来るぞ。内部絶対零度のアクチュエーター採用、抵抗0が生み出す高速は」
幸は笑みを浮かべると、分隊長に言った。
「うるさい。お前、気絶」
ばたっと、分隊長が白目を剥いて、まさしく落ちた。
あかねが興奮して、幸の服の袖を引っ張った。
「パワードスーツ、三体ですよ、2対3ですよ」
「あかねちゃん、行きたいの」
「はい」
新しいおもちゃを目にした子供のようにあかねが元気よく返事した。
「それじゃ、幸は当主とお喋りしているよ」
あかねは笑みを浮かべると、
姿を消した。
さて、と幸は呟くと、倒れた死体を避けて歩き、鬼紙家当主啓介の前に座った。
「初めまして。幸と申します」
啓介は困惑しどう答えたものかと、次の言葉を思い浮かべられずにいた。
いきなり現れた美少女。あかねと同じか、それとも少し年下。あまりにもこの風景とそぐわない。
「えっと、君も強いのかな・・・」
我ながら、なんて間の抜けたことを言ってしまったんだろう、啓介は頭を抱えた。幸はくすぐったそうに笑うと、啓介を興味深そうに見つめた。
「嗜み程度ですわ。ご安心ください」
幸はそう答えると、部屋を見渡す。壁を染め上げる血の色が黒ずみ始めている。
「鬼紙当主様、不遜なこととは存じますが、少し、込み入ったお話をさせていただいてよろしいでしょうか」
「ど、どうぞ」
幸は頷くと、緩やかに話し出した。
「御当主はあかねちゃんがいなければ、本邸に来てから、五回、死んでいます。二回は毒殺、三回は車中にて、運転手が暴漢となり襲う、すべてあかねちゃんがそうならないように、御当主を護っています」


「これは、御褒美ですよ」
鬼が長刀を振り降ろした。反転しつつ、ふわりとあかねが浮かび上がり、パワードスーツにくるまれた、鬼のこめかみを蹴る。その蹴りを擦り上げた長刀の腹で鬼が制した。
「攻撃を防御してくれるなんて、最高です」
パワードスーツは鬼よりも二周りほど大きい、鬼の姿は、胸から上だけが外に現れている。
「あかねちゃん、この人達、強いよ。どうしよう」
黒の言葉に鬼の攻撃をすり抜けながら、あかねが声を上げた。
「黒さん、実力の六割しか出ていませんよ。しっかりなさい」
あかねは一瞬の間を読み、鬼の刀の根元を両掌で挟み込んだ。超音波寸前の甲高い音が響き、根本で刀が折れる。あかねはそのまま刀を振り上げると、鬼の足の甲に深々と突き刺した。
「一体ずつ、潰していきますよ。黒さん、漣ちゃんに加勢して、まずは一つ、潰しなさい」
「はいっ」
あかねの剣幕にの黒は直立して返事をすると漣に向かって走った。
漣は攻撃しきれずにいた。三メートルはあるだろうか、長刀を振り回す、子供のような鬼の剣技だが、ヘリコプターのプロペラの如くの勢いに臆していたのだった。
走りながら黒が叫んだ。
「音と先端の速さに惑わされないで。それほど速くはないよ」
鬼が振り向いた瞬間、黒は姿勢を地面すれすれまで落とし、片手地面に両足で鬼の膝横を蹴り抜いた。鬼の体が泳ぐ。瞬間、漣が一点集中、自在、鬼の首を貫いた。白煙、抜いた自在の跡から、液体窒素が吹き出し、鬼がそのままの姿で凍り付いた。
黒が振り返ると、あかねは倒した鬼の上に立ち、研究棟を睨んでいた。もう一体は、と黒が素早く目で探す。
凍り付いた右腕が転がっていた。少し離れたところには首、胴体も三つになって、斜めに転がっていた。
あかねちゃんは幸母さんの初めての弟子で、必要以上に教えて過ぎてしまったかなと母さん、笑っていたことがある。
「黒さん、漣ちゃん。一体だけですけど、かなり強い鬼がいます。多分、原種の鬼でしょう」
研究棟を睨みつけたままのあかねの両手に二本の自在が現れた。いや、半分の長さだ。
「幸姉さんなら、素手で大量殺戮も出来ますが、あかねはまだまだその域に至っていませんので、久しぶりに武器を使います」

原種の鬼、黒があかねの言葉を繰り返した。
齢九百年と噂される鬼王と角のある鬼の女との間に生まれた鬼を原種の鬼と呼ぶ、純血種の鬼の上位に位置する強い能力を持った鬼。
黒もたくさんの鬼を見てきたが原種の鬼に対するのは初めてだ。

一瞬、体が反応した。黒は漣をだき抱え跳んだ。
漣の居た場所が黒く焦げ、異臭を放っていた。
研究棟に幾つもの煌めきが見える。
「無粋な」
あかねが研究棟を睨み呟いた。
「あかねちゃん、一度、退却しよう」
黒が叫んだ。
「レーザー励起には時間がかかります。照準が定まり、レーザーが射出されるまでに移動すれば特に問題はありません」
「でも、数が多いよ」

空中で硝子の割れる音がした。
「あれは」
漣が呟いた。
硝子球が割れ、細かな破片がいくつもいくつも重なり、研究棟と三人の間を壁になり渦巻く。
発射されたレーザーが擦り硝子を通して眺める花火のように、乱反射され消えていく。
「お姉ちゃん」
あかねが呟いた。
硝子の壁がそのまま研究棟へと移動していく。そして、研究棟の表面を削り取り、消えた。
ほっと吐息を漏らすと、あかねが呟いた。
「それでは参りましょうか」

幸は啓介に振り向くと、笑いかけた。
「あかねちゃん達、楽しんでますわ」
状況が読めず、啓介は曖昧な笑顔を浮かべるしかなかった。
「話は戻りますが」
啓介が言った。
「姉が狂いだしていると」
「はい。正妻の子である自分が女であるというだけで当主になれない、そのことで、不満や被害妄想に駆られています。正気に戻すには礼子の子を当主とし、後 見役を礼子にする。啓介さんは東京本社の代表取締役に専念し、礼子の息子が元服すると同時に退職する。かなりの給料と退職金は用意されるでしょうし、それ でいいのではと。もちろん、啓介さんが鬼紙家当主として頑張っていくという決意ならそれで結構ですけど」

幸のすべてを見透かすような柔らかな眼差しに、これはと啓介は理解した。分水嶺、返答如何によって、これからの人生が完全に変わる、啓介の手が汗ばんだ。
意地を、虚勢を張るか、それとも・・・、啓介は大きく溜息をついた。
こういうことは正直に言う方がいい。
「つい先程までなら、幸さん、君の言葉に渡りに船と従っていたに違いない」
啓介が思いきって顔を上げ、幸を見つめた。
「と、申しますと」
「困ったことに、あかねからね、鬼紙家当主として尊敬するなんてね、言われてしまったんだよ。だから、結果として、幸さんのいう形になるかもしれないけれど、それを前提にすることは、私には出来ないんだ」
表情を変えぬまま、幸が呟いた。
「男という存在にはあきれますわ」
幸は笑うと、肩の力を抜いて吐息を漏らした。
「せっかく、あかねちゃんの仕事を減らそうと思いましたのに」
幸は立ち上がると、窓辺により、研究棟を眺めた。三人は既に研究棟に乗り込んだようだ。
幸は啓介に向き直ると、窓に腰掛けた。
「せっかくの鬼退治。桃太郎がお喋りに興じているだけでは面白くありません。御当主、原種の鬼を見に行きましょうか」
啓介は深呼吸をし、唇を噛みしめると、立ち上がった。
ふと、幸は思いついたように、窓の桟に立つと、左手を前に出し、その手が消えた。
「わっ、うわっ。な、なんですか。幸母さん」
服の衿を幸の左手に掴まれた三毛が現れた。
キャベツを抱えたままの三毛が唖然として周りを見回した。
「な、なんですか、これ。血だらけですよ」
幸は三毛の前に立つと笑みを浮かべた。
「いい機会だ。原種の鬼を見ておけ」

研究棟地下、体育館ほどの広さ、煌々と灯りがともり、燕尾服にステッキとシルクハット、但し、その背は三メートルはあるだろう、鬼が宙に浮いた安楽椅子に腰掛けていた。
幸と三毛と啓介の三人は壁を抜けるように現れた。
三人の位置は、ちょうど鬼の背後になる。
「あれが原種の鬼」
三毛が呟いた。
その声に鬼が背を向けたまま嘲るように言った。
「鼠が三匹、迷い込んだようですな」
幸がここぞと鬼の態度にわめいた。
「どこぞの遊園地のかぶりモノじゃあるめいし、こんな可愛い女の子が鼠なわけねえだろう。こちとら、立派な人間様の御一行だ」
鬼の座る椅子がふわりと回り、鬼が正面を向く。
「これは元気なお嬢さんですな」
額に長い角を二本生やし、顔は赤ら顔。余裕があるのだろう、薄笑いを浮かべている。
幸が唇を歪め笑う。
「高間宮王子。お前は鬼王の器じゃないな」
「なんだと」
一瞬で鬼の顔が憤怒に赤く染まった。
三毛は気づいた。いま、幸母さんが勝った。戦いは既に始まっていたのだ。鬼の感情がぶれ、もう力を充分に発揮することは出来ない。
「鬼王もそう長くはない、お前は他の原種の鬼を出し抜くため、人の科学技術を得ようとした、その時点で鬼王失格なんだよ」
「お前、何者だ」
鬼の怒声に怯むことなく、幸が言い放つ。
「直近の部下に裏切られるような沸点の低さと、その上、人望の無さではしょうがねえな」
幸の狂言とはったりが効を奏した。鬼の両手が怒りに震える。
幸母さんのはったりに、いま、鬼の頭の中では裏切り者の部下を思い当てようと必死だ。
風切る音。
あかねが鬼の首を自在で切りつけた。

鬼がするりと避けた。
瞬間、黒と漣が凪ぐ。三人の刃と化した自在を、鬼は慌てるふうもなく、避けていく。
幸が悔しそうに額に手をやる。
「うひゃぁ、奇襲でも全然、かなわねぇ。ま、いい。これも勉強だ。三毛、行ってこい」
「はいっ」
三毛はキャベツを横にいた啓介に手渡すと、飛び出した。
「御当主、うちで穫れたキャベツだ。帰ったら食ってくれ。千切りにして大蒜醤油で食えば最高だ」
幸はそう言うと見上げた。
全く格が違う。四人の動きが逆に遅く見える。
「ただの筋肉馬鹿じゃねえってことか」
「これはピンチってことかなぁ」
啓介が思わず呟いた。
ふぃっと幸は見上げると、啓介に笑みを浮かべ言った。
「大丈夫ですわ。だって、私が居りますもの」
「なら、安心だ」
啓介が笑みを浮かべた。
「面白いおっさんだな。あかねちゃんが肩入れするわけだ」
幸は四人に声をかけた。
「撤退だ、戻ってこい」
幸の言葉が終わるよりも早く三毛は戻ってくると幸にしがみついた、怖かったのだろう、肩が震えている。黒とあかねも漣の手を引き戻ってきた。
三人とも激しく息をし、床に座り込んでしまった。
「黒、びびったか」
涙目で黒が頷いた。
「あかねに漣もお疲れさま」
幸は軽く三毛の肩を叩くと、前に出、鬼から五人を守るように立ちはだかった。
「おや、心地よい風が吹いていたのですが、止まってしまいましたな」
鬼が平気な顔をして言う。
「こら、赤鬼。とっとと鬼の世界に帰れ。ここは人の世界だ」
「なにを今更」
鬼はやっと幸に向き直ると笑いかけた。
「それは降参ということでしょうかな」
幸は一瞥をくれると、大声で鬼に言った。
「およそ千三百年前、人と鬼との約定により、お互い不可侵が成立したはず。その約定を違えるは許されない。ここは人の世界、直ちに鬼の世界に帰れ」
「ほほう、古い話をご存じですな。しかし、ここの責任者、なんと言いましたかな、小太りの男ですが、この棟を私に譲渡すると申しましたぞ、ならば、この棟 は鬼の世界の飛び地のようなもの、つまり、そちらが不法侵入者ということですな。確か、進入者は如何様にされても不服は出せないと約定にありましたな」
幸はにぃいっと唇を歪め笑う。
「残念だったな、ここは民主主義の国だ。どこぞのえらいさんが仰る言葉より、民意の方が優先されるんだよ。この場で民意はあたしだ。ここは人の世界、だから、とっとと帰れと言うんだ」
「無茶なお方だ」
鬼の方が幸の言葉にあきれる。一体、これほどの自信が何処から出てくるのか。鬼は不思議に思った。
幸はふっと肩の力を抜くと、優しく言う。
「なら、ゲームをしよう。それで決着を決めるのはどうだ」
「ゲーム、ほう、どんなゲームですかな」
幸はふと俯いたが、顔を上げると鬼に言った。
「サッカーをしよう。あたしが向こうの壁中央に蹴る、それをあんたが止めるって寸法だ」
「ふむ、しかし、ボールがありませんな」
幸が不思議なものを見るように言った。
「いや、あるだろう。あんたの首の上、すとんと落としてやるから、それをボールにしよう、中身、詰まってなさそうだから、よく弾むぜ」
鬼は一瞬、幸の言葉が理解できなかった。
「原種の鬼ってのは、生命力が強いらしいな。首切ってもしばらくなら生きていて、繋げば元通りになるってじゃないか。首のないお前さんがうろうろする、こりゃ見物だな」
鬼の顔が一気に充血した。
椅子から飛び降りると、幸の前に仁王立ちになる。。
「生意気な小娘が。先程からの無礼。どうしても私を怒らせたいようだな」
吠える鬼の怒声が床を震わせた。
「いや、怒るかどうかはあんた次第。つまりは己の器量ってもんがどれほどのもんか、ちぃぃっと見せてもらったわけだ、まっ、図体の割にはちんけな奴だってことだな」
平気な顔をして幸は笑うと、ふわりと右手に自在を取り出した。
鬼を睨みつけたまま、幸が声を上げる。
「三毛、俯くな、顔を上げろ。黒、いつまでも泣いてるんじゃない。あかね、しっかり見ていろ。漣、お前は修行のやり直しだ、もう一度、鍛えてやる」
はっとあかねが顔を上げると倖に駆け寄った。そして、二人の動きがよく見えるよう、少し離れ、正座する。

慌てて三人もあかねの隣に正座した。
「この小娘達は何をしている」
赤鬼、高間宮王子があかね達を睨んだ。
すいっと幸が自在を中程に持ち、自然体に構える。
「決まってんだろう。師匠の動きを一瞬たりとも見落とすまいと殊勝な弟子達だ。既にあの子達にお前への恐怖はない。さて、あんたには敬意を示してやろう、高間宮王子。遠慮するな、そのステッキは趣味人気取りの仕込み刀だ、気兼ねなく抜いてくれ」
赤鬼、高間宮王子は左手にステッキを持つと、こいぐちを切る。
間合いは、単純に背の高さから考えれば、高間宮王子の間合い、幸には遠すぎる。
ゆっくり幸は自在を頭の上にかざした。
「あたしの頭の上、この棒にそいつをおもいっきり打ちおろしてくれ」
「どういう意味だ」
「察しの悪い奴だな」
幸はにたっと笑うと言葉を続けた。
「約定に違反した高間宮王子をあたしは半死半生、ぼこぼこにしてやるつもりだ。ただ、どうせなら、死にものぐるいでかかってきてくれる方がこの子達の修行にはいい、あたしがどれほどのものか、まずは、単純な力比べをしょうってことだよ」
高間宮王子の顔色が赤色、幸の言葉に深紅に変わった。
「我が打ちおろさば、その姿、微塵となるぞ」
「しっかり、停めてやるさ。びびったんなら、袈裟でも、横に凪ぎ払ってもいい、斬ると見せて、蹴るのもありだ、もっとも、そんときは、あんたは高間宮王子って原種の鬼から、ただの、赤鬼一号に格下げだがな」
気楽に幸が笑った。
一瞬、高間宮王子の体が大きく広がった、広がった筋肉が降り上げ、直刀を激しく打ち降ろす、しかし、音がしない。
幸の自在と高間宮王子の直刀は確実にぶつかっている。じわりと力が引き込まれ、体全体が吸い込まれる感触に、高間宮王子は慌てて、退くと、幸との間合いを取る。
あかねは二つの棒の交差する瞬間を睨んでいた。あれこそ、力の含みと流しだ、あかねは理解した。高度な身体操作で相手の打撃を無力化する動きだ。
「あたしがどれほど使えるか、合点がいったかい。それじゃ始めるかな。黒、三毛、あかね、漣、ついてこい」
 

四人は素早く立ち上がると、幸の後ろに控える。幸はすたすたと歩くと、高間宮王子の右太股を自在で打つ。呻き声と共に高間宮王子が後ろに退いた。幸の上段が高間宮王子の太股の高さになる。
そのまま、幸は追うと、左の太股を打つ、たまらず、高間宮王子は膝をついた。
黒がその動きを目を見張って驚いた。
幸母さんは普通に歩いている、打つ速さもそれほどじゃない。どうして、あの鬼は打たれるままにいるんだろう。
幸はふわりと浮き上がると、自在を後ろ手に持ち、膝をついた高間宮王子の横面を打ち据えた。勢いに体ごと飛んだ。朦朧とした意識の中で、高間宮王子はいっ たい何が起こっているのか、理解しようとしたが、自身の膝辺りの背しかない女になぶられているこの状況がどうしても理解できなかった。
起こりがないんだ、黒が気づいた。母さんの動きに滞りがない、起こりもなくて、鬼は動きが読めないんだ、そういえば、鬼が母さんを探すように視線を巡らせている。
母さん、目の前にいるのに。
「落ち着け、高間宮王子」
倒れたままの、鬼の前で、幸が声をかけた。
「少し待ってやろう。倒れている奴を打てば、まるでいじめだ。教育にも悪いからな」
幸は自在を消すと、四人に向き直った。
「漣、久しぶりだ。元気にしてたか」
幸は柔らかに笑みを浮かべると、漣に尋ねた。
「はいっ、元気です」
ふっと、幸は漣の頬に触れる。
「無理しなくていいよ。当分、うちで暮らせ。長にはあたしから言っておく、どうしても手が必要というなら」
幸が黒と三毛を見た。
二人ともうなずく。
「ちょっと、泣き虫だけど、なんとかなるよ」
いきなり漣は幸にしがみつくと、幸の胸に顔を埋めた。
幸は笑顔を浮かべると、漣を抱きしめた。
「あかねは当分、鬼紙家か」
幸の後ろであかねが頷いた。ふと、あかねは当主を思いだした、慌てて辺りを見回す。あっけにとられた顔で、啓介は元いた場所、キャベツを抱いたまま、正座していた。
あかねは駆け寄ると、啓介に言った。
「叔父様、早くこちらへ」
「いや、それがね」
啓介が困りきって答えた。
「腰から下が浮いたような感じでね」
完全に啓介は腰を抜かしていた。
「失礼をお許しください」
あかねは言うと、啓介を後ろから抱え上げ、走る。
途中、高間宮王子の倒れている、その横を通り、一瞥をくれたが、気にする風もなく駆け抜けた。
高間宮王子はあかねのそれを見、怒りに震えた。自意識の高い高間宮王子にとって、それは幸に殴られる以上の侮蔑だったろう。
叫んだ。
「金角、銀角、右角、左角。来い」
声に呼応するように、黒い靄が天井からゆらゆらと降り立ち、形が定まって行く。やがて、高間宮王子の頭一つ分は上背のある赤鬼が四体、現れた。
振り向き、幸は新たな鬼を見つけると、驚いた表情で叫んだ。
「右角様、どうして」
幸は一瞬、しまったという表情で両手で口を隠した。
驚いて、高間宮王子は幸と呼び出した右角を見比べていたが、はっと気づくと、叫んだ。
「金角、銀角。右角を取り押さえろ」
一瞬、金角と銀角は戸惑ったが、右角を二人で取り押さえる。一番、戸惑い途方に暮れたのは右角だろう、呆然と開いた口がそれを物語っている。高間宮王子はなんとか起きあがると、一人、呟いた。
「まさか、右角が裏切っていたとは」
三毛は思う、幸母さんのはったりの続きで、一人の鬼の未来が潰えました、南無。多分、幸母さん、心の中では笑っていると思う。ただ、これで、四体がうまく連携することはなくなったのは事実。
「ごめんなさい、右角様」
しおらしく、しかし、聞こえよがしに幸が言う。
元気を取り戻した高間宮王子が左角に命じた。
「その女を殺せ」
左角が幸の前に立つ。
幸は顔を真上に向け、左角の顔を眺めた。
「無駄にでけえな」
幸が呟く。この地下のホール、かなり天井は高いが、それでも、少し飛び跳ねれば、頭をぶつけるかもしれない。額に角一本の赤鬼だ。
幸は右のつま先を軽く上げ、地面をとんと打つ。ふわりと浮かび上がり、左角と同じ目の高さになる。そして、静かに言った。
「お前さんの上司はあたしを殺せと言う。命令通り、あたしを殺すのかい」
「それが命令とあらば」
静かに左角が答えた。
「ここは人の世界。古の約定により、あたしは高間宮王子を打ち据えた。義はこちらにある。それでもあたしを殺すのか」
微かに左角の眼が泳いだ。
「左角。十年ほど前までは、鬼の世界も平和だった。それが、鬼王の力が弱まると同時に、原種の鬼達が跋扈しだし、お互いが次の鬼王になろうと争いだした」
師匠の騙りが始まった。漣が息を飲んだ。相手の記憶を読みながら、同時に状況判断、有利に対象を操る特殊操法。師匠は効率よく鬼の中に反乱分子を創りだそうとしているんだ。

「階級制も緩み、いくらかは自由なりだした社会が、原種の鬼の台頭によって、随分、息苦しくなったろう、原種の鬼同士が反目しあい、争いが増えた。階級社会が一気に復活した。そうなると、上が戦争を始めれば、下は追従するしかないわな」
幸が目を見開き、左角を見つめる、左角は、まるで、その目に吸い込まれていくように感じた。足が不安定になり、寄って立っていたはずの何かが、まるで幻のように思えてくる。
「お前には子供がいるだろう。高間宮王子の供で、なかなか、家族に会えない。そんな、お前が久しぶりに息子に会ったとき、お前、どう思った、子供の、その変貌ぶりだ」
「お、俺は・・・」
左角が言い淀む、左角が言葉にしたくないこと、言葉にすればそれを直視なければならなくなる。
左角の足が微かに震えるのに漣が気づいた。
高間宮王子が怒鳴った。
「何をしている、早く奴を殺せ」
漣にはわかっていた、既にあの左角という鬼には幸師匠の声以外、何も聞こえないことを。
あ、折れた、あかねが心の中で呟いた。左角が膝を曲げ、正座すると、幸に頭を下げたのだ。ここからでは、幸姉さんの顔は見えないけれど、慈愛に満ちた笑みを浮かべているのだとあかねは思う。幸は地面に降り立つと、左角をそのままに、黒達の元に戻ってきた。
「な。男なんてちょろいもんだろう」
にっと笑うと幸が小さく呟いた。
「母さんってば」
黒が呆れたように呟く。
漣が幸に走り寄った。
「幸師匠」
「漣」
雪は漣をしっかりと抱きしめ、耳元で囁いた。
「漣、全ての存在が幸せな世界は論理的に成り立たない、世界が加速度的に膨張しない限りはな。ただ、誰もが少しずつの不満を持ちながらでも生きていく、そ んな世界は可能だ。お前は母を殺した鬼を八つ裂きにしたいかもしれない、でも、それはお前自身の心を八つ裂きにしていくことでもあるのだよ」
幸は瞬きせず、漣を見つめ、もう一度、漣を大切に抱きしめた。
漣の頬が火照り、足に力が入らない。
「幸師匠のお考えのままに」
喘ぐように漣が呟く。
漣の力が抜けよろけそうになるのを、黒と三毛が走り寄って、漣を支えた。
幸は二人に漣を預けると、ようやく体を起こし、立ち上がりかけた高間宮王子の前に立った。
「よう、面白いことになったな」
幸は見上げると、高間宮王子の顔を見て笑った。
「お前、何をした」
「ん、ちょっとお話しただけさ」
幸はふわりと浮かび上がると、高間宮王子の目の前に浮かんだ。
「高間宮王子。お前、私の命令を聞け」
「なんだと。そんな女子供の言うことを、原種の鬼たる」
ぐいっと幸が自在の先端を高間宮王子の頬に押しつけた。
「な、何をする」
押されたまま、呻いた。
幸は呆れたように息を漏らすと言った。
「わかってんだろう、あたしに勝てないってことがさ。だから、この棒を振り払うこともせず、状況に甘んじているわけだ。面倒くさいな、男ってのはよ」
「お、おのれ。小娘が」
歯ぎしりをするのだが、手が出せない。

高間宮王子は心の奥底から蠢きはいあがってこようとする感情、この恐怖という感情に初めて遇し、すぐにでもこの場から逃げ出したいと思っていた。しかし、その自身の感情を認め、逃げ出すことは原種の鬼として出来ようことではなかったのだ。
「お前は俺に何をせよと言うのだ」
高間宮王子が微かに俯き言った。
凄い、母さん、三毛が息を飲んだ。あの鬼を手懐けてしまった。あんな強い鬼を。三毛は黒に声をかけようとして黒のジャージの裾をちょっと引っ張る。漣を支えながら黒も頷いた。
「幸母さん、どうするんだろう」
「多分、漣ちゃんがうちで暮らせるように展開させるんだと思う」
黒が囁いた。そして、あかねを見る。あかねも頷くと、幸に視線を戻した。
「まずはあたしの前に並べ」
そして、幸は振り返ると金角に言った。
「右角を離してやれ、首がしまって白目向いているぜ」
幸が笑った。
「左角も来い」
幸の言葉に左角は駆け出す。五体の鬼が幸を前にし、神妙に正座した。
「高間宮王子、お前は鬼王の器じゃない。お前はたくさんの鬼の信頼を集め、治世を行うというより、体制に対する反逆者、歌舞伎者だ。わかるか、高間宮王子」

「歌舞伎者・・・」
高間宮王子が言葉を繰り返した。
幸はすいっと視線を巡らせると言った。
「一族と共に鬼王から独立せよ。そして鍾馗と連携せよ」
驚きのあまり、五人の鬼は口を開け放ち、呆然とお互いの顔を見合わせた。
「出来るはずがない」
高間宮王子が叫んだ。
「鬼王と、その近衛兵が怖いか。多くの鬼を敵に回すことに竦みあがっちまったか」
幸が静かに言った。
「お前の領地は一部、鍾馗の国と接している。鍾馗の長と不可侵条約を結べ。鍾馗も戦で人口が減った。うまく交流すれば、お前の領地も今よりは豊かになり、誰もが少しずつの幸せを得ることが出来るだろう」
高間宮王子が俯き、ぐっと拳を握った。不安げに金角達が高間宮王子を横目で伺う。

黒があかねに囁いた。
「あかねちゃん、これって」
あかねは黒の横に寄ると呟いた。
「これは歴史的事件です。鍾馗と鬼は数千年、争ってきました。それが一部とはいえ、和解するかもしれない瞬間です。大変な歴史的転換ですよ」
あかねが高間宮王子を見つめた。
高間宮王子が顔を上げ、はっきりと言った。
「わかった。鬼王から独立しよう。そして、鍾馗との交流も努力しよう」
幸はふっと笑みを浮かべると、小さく頷いた。
「高間宮王子、お前を認めてやろう。ならば、二つ、餞別をやる」
ふわっと幸の手のひらに硝子球が浮かんだ。
「まずは結界だ。お前の領地を結界で包んでやる。中から外へは出られるが、外から中には入ることが出来ない。門は鍾馗の領地側に一つ用意してやろう」
すいっと硝子球が消えた。
「さて、もう一つは鍾馗のことだ、これは長を呼び出せば早いな」
すっと幸が右手を横に伸ばす、その手が消えた。
「図体がでけぇから重いな」
幸が勢いをつけて、右手を引き戻す。ぶわっと鍾馗の長がたたらを踏んで現れた。
長には天井が低く、前かがみで、長が辺りを見回す。
「何処だ、ここは」
鬼が呆然とした表情で鍾馗に見入っていた。
「やぁ、久しぶりだな、長」
声に長が振り返る、幸の姿を見つけた途端、怯むように体を後ろに引いた。
「なんだよ、可愛い女の子相手にさ。落ち込むじゃねぇか」
幸が嬉しそうに笑った。
「お前はどうして」
「御足労痛み入る。なに、たいした用事じゃない。原種の鬼 高間宮王子が鬼王から独立した。長よ、不可侵の条約を結べ。高間宮王子には話を通してある」
高間宮王子も左角も、いまの状況をどう判断すればよいか理解できなかった。鬼王とも比肩するという、鍾馗の長を呪も唱えず力ずくで呼び出し、いきなり命令をする。これは現実のことなのか、それとも長い夢なのか。
あかねは息を呑んだ。目の前で大変なことが起こっている。歴史的転換だ。
「これは、人の出る幕じゃないねぇ」
呆然と口を開けたまま、啓介が言った。あかねはすっかり啓介の存在を忘れていたが、そんなそぶりは見せず、啓介の言葉に頷いた。
「叔父様、僥倖です。人の身でこの場に居合わせるのは」
啓介が頷き、見上げる。
一つの場所に鬼と鍾馗が争うこともなく、お互いを眺めている。共に次の言葉が整理つかないのだろうと啓介は思う。
それにしてもと思う。この幸という、あかねよりも少し年かさの女の子はいったい何物だ。無という希代の魔術師がいるという、あかねがその弟子なら、この女 の子が無なのか。無についての情報は極端に少ないが、男性だったはずだ。なら、この女の子は無の娘と云うことか。しかし、たとえ、この子が無の娘としたに しても、遙かに人の域を越えている。
無とて人であるなら、その域は限れる。術も使わず鍾馗の長を呼び出すには、遙かに格が上でなければならない、人より上位の存在であるという鍾馗を呼び出すということは、この女の子は人ではないのか。
「叔父様」
あかねが啓介の上着の裾をそっと引く。俯いて考え込んでいた啓介が顔を上げたとき、信じられない光景が目の前に広がっていた。
鍾馗が片手、高間宮王子が両手で握手をしていた。
「叔父様、人は出遅れました」
「あぁ、だね。でも、良いんじゃないかな。人は混乱をもたらすよ」
あかねは目を見開き、啓介の目を見つめたが、ふっと笑みを浮かべると、小さくうなずいた。
幸は長を送り返し、高間宮王子に言った。
「対等な条約だ、物怖じするなよ。正式な締結には私も行く、邪魔が入らないようにな」
幸は笑みを浮かべると、言葉を続けた。
「善き心を育てよ」
高間宮王子一同、まるで幸の部下になったかのように深々と頭を下げる。幸は王子一同を送り返すと、ゆっくりと着地した。
「幸母さん、凄いです」
幸がにっと笑った。
「お父さん以外の男は単純だ、ま、これで、漣もうちで暮らし易くなる」
「それだけのために」
黒が驚いて言葉をついだ。
「あぁ、そうだ、それだけだ」
幸がはっきりと言い切った。
ふっと幸は啓介を見つけ言った。
「二日後に条約締結だ、鬼紙家も一枚かんどけ」
「それは人を牽制するためですか」
啓介が言った。
「察しが良いな。ただ、人のお偉方を敵に回すかもしれない、臆したのならかまわないぜ」
「貴方を敵に回すより、ずっと素敵だと思います」
啓介は本心からそう言った。
「案外、あんたは当主に向いているかもな」
幸はそう答えると、気持ちを切り替えるように大きく深呼吸する。
そして、少し緊張した面持ちで唇を横に引く。しかし、ふっと力を抜くと、頬に両手を添えて口角を上げ、極上の笑みを浮かべた。
まるでドアを開けるように、空間がドアの形に穿たれ、目の前には、畑を背にした、なよが幸を睨みつけていた。
「わぁ、なよ姉ちゃん、大好き」
ばふっとなよに抱き着くと、幸はなよの胸に顔を埋めた。
「なよ姉ちゃんはおひさまの匂いがするよ」
ふっと幸は笑みを浮かべたまま、顔を上げた。
「だめかな」
「知らぬうちに抜け出しおって。わしの性分は知っておろう。許すと思うか」
なよは引きつった笑みを浮かべた。
「頑張って収穫します」
幸は素早く答えると、畑と駆け出した。ふと、なよは黒達が呆然とその有り様を眺めているのに気が付いた。
「ぼぉっとするでないわ、もうすぐ運送業者がやって来おる、それまでに収穫を済ませねばならんぞ」
「はいっ」
あたふたと黒と三毛が畑へと走る、
「おや、漣ではないか、ちょうど良い、お前も手伝え」
「頑張ります」
あたふたと漣も畑へと走った。
「なんじゃ、あかね。そのおっさんは」
あかねも少し緊張しつつ、答える。
「あかねの叔父様です」
「ん、となると鬼紙家の当主か。なるほど、よう見れば、三代目とよう似ておる。初代と二代目までは野獣のような奴じゃったが、三代目はひ弱でのう。ま、鬼紙家の当主ならばこちら側の人じゃ。遠慮なく、収穫を手伝うてよいぞ」
「叔父様。なよ姉様の気が変わらぬ内にどうぞ」
訳の分からないまま、啓介もあかねの後を追った。
なよは切り取られた空間を覗き込み、地下の様子を眺めた。
「なるほど、高間宮か。あいつは阿呆じゃからな、扱い易いわい」
なよは撫でるようにして空間を綴じる、目の前には、いつものように裏庭に面した洗濯物が翻っていた。

「なよ母さま。後で、皆さんに謝ってください」
小夜乃がキャベツを幾つも抱え、なよに言った。
「小夜乃は厳しいのう」
頭を抱えるように、でも、何処か嬉しそうになよが答えた。
「なにやら、デパートなるものと、約束してフェアだとかいうものをするというから、このように慌しくなるのです。これでは、商店街に買いに来てくださるお客様の分がなくなります」
「悪い、悪い。今回だけじゃ、勘弁してくれ」
なよは、小夜乃の抱えていたキャベツを下から抱えあげた。
「ああ、忙しい、忙しい」
逃げるようになよが行く。
「もう。なよ母さまったら」
小夜乃が仕方なさげに呟いた。

(後半、面倒くさくなり、随分と端折ってしまいました。後日、文章を付け加えるかもしれません 2014.06.10)


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最終更新日 : 2014-06-21 00:21:48


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