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異形 漣 四話

血だらけになった男を仰向けに寝かせ、幸は豊饒の歌を囁きながら、その体に両手を入れる、男の体は液体になったかのようにその両手を受け入れていく。
一心不乱になった幸の表情は深く沈み、窓からの月明かりだけが幸の横顔を照らす。
大丈夫だよ、お父さん。
「入っていいか」
襖の向こうからなよが声をかけた。
「どうぞ」
幸が呟くように答える。なよは静かに入ると、後ろ手に襖を閉める。
そのまま、男の椅子に腰掛けると男を見つめた。
「深く眠っているようじゃな」
「うん。今のうちに切れた体をすべて繋ぐよ」
「幸。お前のその手はいったいどうなっておるのか、わしにすらわからんわい」
幸は少し大人びた笑みを目許に浮かべ、しかし、すぐに表情を消すと、その動きに専念した。なよはふと暗がりの中、幸が成長しているのに気が付いた。黒、か、黒よりも少し年上の女の子に幸が成長していた。
「なんともはや、面白い妹じゃ」
なよは呟くと、窓から空を見上げた。少しふっくらした上弦の月。
「姉として、ちぃとは手伝うてやろう」
なよが両手を月に向け、搦め捕るように指を動かす。白く輝く糸、月の光は紡ぎ上げられ、一本の糸となって足元を巡っていく。
糸が伸び、幸と男を白く淡く光で包み込んで行く。
「父さん、少し楽そうだ。ありがとう、なよ姉さん」
「わしとて、元は月人。この程度の芸当はできるわい。そう言えば、父さんも月の光を治癒に使うておったな。いくらか月人の血が父さんにも流れているのかもしれんな」
「かもしれないね」
幸が手を休めないまま、答えた。
「本家の先々代につれ去られて来た赤ん坊が父さんだ。出生の秘密を知っている先々代は出生のこと、一つもあかさず亡くなってしまった」
「少しくらい話せば良いのにのう」
「何か理由があったんだろうな。でも、幸にはどうでもいいこと、父さんは父さんだもの」
なよは穏やかに笑みを浮かべ、立ち上がった。
「皆が心配して、父さんに元気になってくれと祈っておる。代表して、わしが覗きにきたわけじゃ」
「大丈夫と伝えてください」
「承知した」
なよは答えると、襖を開け、入って来た時のように静かに襖を閉めた。

「なよ姉さん、どうだった・・・」
黒が心配げに顔を上げた。黒は沈んで、今にも泣き出しそうになっている。他の者も俯き肩を落としていた。
なよは、黒を心配がらせて楽しもうと思っていたが、その黒の様子に軽口を噤んだ。
「大丈夫。幸がそう言っておった」
黒は笑みを浮かべると、腰が抜けたように仰向けに倒れてしまった。
「なんじゃ、どうした、黒」
「なんだか、力が抜けて」
仰向けになったまま、涙を流す。笑顔を浮かべたまま、黒が涙を流した。
「良かった」
なよは足先で黒の脇腹を小突くと、呆れたように笑った。
「黒。今晩はゆっくり眠れ、その間の抜けた顔のままな」
なよはあさぎに向き直ると声を掛けた。
「あさぎ。ご飯が残っておったろう、夜食じゃ、おむすびを作ってくれ。腹が減ったわい」
「はい。すぐに作って来ます」
あさぎも安心したのか元気に答えた。白と三毛も元気に立ち上がると、あさぎについて台所へ向かった。黒もばたばたと立ち上がる。
「食べる、黒も夜食食べるよ」
「黒。お前も手伝って来い」
「う、うん」
黒の走って行くのを小夜乃はほっとした笑顔で眺めた。
「なよ母様」
「どうした、小夜乃」
「今の母様は百点満点です」
「生意気言うでないわい」
なよがくすぐったそうに笑った。
「さて。あかね、漣」
「はい」
「徹夜になるぞ。交替で祈れば、幸の助けになるからな」
なよは漣を見て言った。
「漣は知らんじゃろうが、ま、師匠の親じゃ、一緒に祈ってくれ」


「みんな、寝ちゃったよ。なよ姉さんまでぐっすり」
幸は寝ている男の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「疲れたんだろうね」
男はまったく反応せず、目を閉ざしたままだった。口元に指先を近づけると、微かに呼吸をしているのがわかる。
「お父さんがいない間、鍾馗の一族のね、女の子を預かったよ」
反応のない男に幸はひたすら言葉を掛け続けていた。
「真っすぐな子だった。術を授けてやって欲しいってねことだった。だからね、教えているよ、もうすぐ黒に近づくと思う」
そっと幸は男の頬に手を添えた。
「お父さん、幸は元の姿までは戻れなかったけど、多分、お父さんと初めて会った時くらいまでには成長したよ。いままで、せっかく、育ててくれたのにまた小 さくなってごめんね。もう一度、幸を育ててね、でも、二回目だもの、幸は前よりしっかりしたよ。自分を見失って泣いたりしないよ」
幸は月明かりの中、男をじっと見つめた。
「お願いです、お父さん。目を覚ましてください」
幸の瞳から大粒の涙がこぼれた。
「もう一度、お父さんの声が聴きたいよ、一緒の笑いたいんだよ、お父さん」
幸が瞬きもせず、男の顔を見つめる。
微かに男の口元が動く。男が小さく幸と呟いた。
「お父さん」
男はゆっくりと目を開くと、幸を見つめて微かに笑みを浮かべた。
「幸、ありがとう」
男は一言発するだけでも体力を大きく消耗してしまうのだろう、目をつぶる、でも、微かに笑みを浮かべた。
幸は男の手を両手でしっかり握った。
「幸の手は小さくて華奢なのに、あったかくて、力強くて、なんだか安心してしまうよ」
男が目を瞑ったまま笑う。
「お父さん。お帰りなさい」
幸は涙で声にならない声をしゃくり上げる。
「ただいま」
男は小さな声でゆっくりと答えた。
白に車椅子を押され、男は漣に稽古をつける幸の姿を眺めていた。
この車椅子は元々佳奈のお祖母さんが使っていたらしい、黒が思い出して借りて来たのだった。
白はうっとりとこの現状を受け入れていた、父を看護するために医師となった私、父をひたすら支えながら、生きて行くことを選んだのだ。あぁ、なんて、健気なのであろう。
「なぁ、白。父さんね、車椅子は無しでいいよ」
「だめです」
「困ったねぇ」
男は少し笑うと、車椅子に背を預けた。
まだ、歩くには充分でないが、どうも、人が背中に居るのは落ち着かない。松葉杖なら歩けるだろう。
「幸母さんからも二日間は歩かせてはだめって言われています」
男の考えを察したように白が言う、仕方なさそうに男は笑みを浮かべた。
「厳しい主治医だなぁ」
男が帰って来た次の朝のことだった。

漣は無の話を子供の頃から聞かされていた、小さな子供の頃は、いたずらをすると無に連れ去られてしまうぞとか、頭からむしゃむしゃ食べられてしまう ぞと脅されたものだった。だから、いま、こうして車椅子に背を預け、笑みを浮かべている男がその無であるとが信じ切れずにいた。
でも、幸師匠の父なら凄い能力者なのかもしれない。
ふと男は漣の視線に気づくと、声を掛けた。
「君が漣だね。昔、鍾馗の国に行ったことがあるよ。ちょうど、君が生まれて、国はお祭り騒ぎだった」
「それじゃ、お父さん。漣ちゃんの本当の名前を知っているんですか」
驚いて、白が男に訊ねた。
「漣じゃないのかい。さんずい偏のさざなみという漢字だ」
驚いて、白が漣を見つめた。
「なよも知っているだろう。当時、なよたけの姫の特使もお祝いに駆けつけていたからね」
漣は戸惑いながら白に打ち明けた。
「始め、術師の方に名前を知られるのが怖くて名乗らなかったのですが」
「術師に本当の名前を知られるのは危険だし。でも、そういうことは」
白が男に振り返った。
「うひゃぁ。凄いですよ、お父さん」
「ん、どういうことだ」
「白は初めて漣ちゃんに会った時に、漣という呼び名を思いついたんです。あ、幸母さんも知っていたんですね」
幸は振り返るとにかっと笑った。
「知ってたよ」
「もう、幸母さんってば。早く教えてください」
白が興奮して、漣の手を握り締めた。
「漣ちゃんと白は縁があります。これからも友達です、いいえ、姉妹ですよ」
漣が照れたように笑みを浮かべた。
「これからもよろしく。白さん」
白はとびきり上等の笑顔を浮かべた。
「さて。そろそろ、漣を返してくれ。まだ、修行の途中だ」
「わかりました。お父さん、家に戻りますよ」
白が男の車椅子を押す。
「あ、あのね。お父さん」
幸が男に声をかけた。男が振り返ると、幸がそっと笑みを浮かべた。
「お父さん。二日間は無理しないで幸の言うこと、聴いてね。無理しちゃやだよ、ね」
男は頷くと、少しいたずらげに笑った。
「心配してくれてありがとう」
幸は思わず駆け出すと、男を抱き締めた。
「お父さん。帰ってきてくれてありがとう」
幸の声が震えていた。
「幸は柔らかくて、暖かいな」
男がそっと呟いた。

男が家に戻った後も、幸は男を見送っていたが、漣を思い出し、振り返った。
「悪いな、漣。漣が自分の父さんを思い出して悲しくならないようにと、お父さんに甘えるの我慢していたんだけどな。なんだかさ、お父さんでもう頭の中がいっぱいになってしまってさ」
「あ、あの。いいえ。私はまだいっぱい覚えなきゃならないことがありますし。それに、父さんのこと、好きですけど、それほどには」

漣が素直に困惑して答えた。

「どうじゃ。具合は」
なよはかじっていた煎餅を飲み込むと、男に訊ねた。台所、黒があさぎにタコ焼きのタネの作り方を教わっていた。
「随分、いいよ。優秀な先生が居てくれるからね」
男の言葉に白が満足げに笑顔を浮かべた。
なよも笑うと、テーブルの煎餅に手を伸ばす。
「ほんに女は大変じゃ。男の我儘に振り回されてあたふたせねばならん」
「みんなに迷惑かけたね」
「あかねの機転がなければ、父さんと幸とわしは地面に激突じゃ。いま、思うても足がすくむわい」
「幸に聴いたよ。ありがとうとしか言いようがないよ。あさぎ」
「はい」
あさぎが手を止め、振り向く。
「大声で呼んでくれたんだね。ありがとう」
あさぎが照れたようにくすぐったそうに笑った。
「黒と白と三毛は受け止めてくれて、小夜乃も大声で呼んでくれた。これは当分、頭が上がらないな」
「漣もあかねと一緒に布団を積み上げて大声を上げておったぞ」
なよが付け加えると、男は微かに視線を落とし、テーブルを見つめた。
「父さんも煎餅を食うか」
男はふっと笑みを浮かべると、顔を上げた。
「白先生が許してくれそうにないよ。それに、一人で手洗いに行けるようになるまではあまり食べたくないなぁ」
「なるほど、困った患者じゃ」
なよが笑った。
「白、お前も父さんの後ろに立たず、テーブルに座れ。後ろに立たれては、父さんも落ちつかんわい」
慌てて白も車椅子の横の椅子に座った。
「幸から、この一カ月のこと、聞いたか」
なよが男に訊ねた。
「テレビに出たことも聞いたよ」
「そうですよ、黒姉ちゃんだけ。白も出たかったのに御留守番だったんですよ」
男は笑うと白の頭をなでた。

「留守番は大事だよ。白まで出掛けたら結界が弱まってしまうからね。白は幸の娘なんだから」
白が満足そうに頷いた。
「あの一件で、この国が鬼の支配下に陥るのは、なしくずしにだが防げた、当分はな」
「あぁ、当分はね」
男は頷くと、思案げになよを見つめた。
「鬼の世界は、鬼と角の無い鬼と鍾馗の三者が互いに制することで安定していた。その安定が崩れたのは人が鬼と結託したからだろう」
「日本の支配者層の一部は古より鬼と深い交流があった。いや、鬼に隷従しておった。それを考えれば、いずれはこのような状況になったであろうな」
なよが煎餅の粉を払うように両手を振った。
「父さん、どうするな。このままじゃと、いずれはこの国、鬼の支配下になるぞ」
男は目を瞑ると微かに息を吐く。
「なんていうかな。父さん、若い頃、随分とね、鍾馗に悪さをしたんだ、なよも噂くらいは聞いただろう。だから、鍾馗には負い目がある。それにね、佳奈さんや皆が、普通にね、暮らせる社会の方がいいな」
男は目を開けると、柔らかに笑みを浮かべた。
「ま、そいうことだ」
男の言葉になよは満足げに頷いた。
「それでこそ、わしの父さんじゃ」
「認めてくれてありがとう」
男がいたずらげに笑った。

漣と三毛が闘っていた。お互いの攻防を紙一重で躱して行く。
三毛の蹴りが漣の顔面を薙ぎ払う。漣が蹴りに吸い込まれるように顔面で受ける、その寸前、漣が沈み、三毛の軸足を崩す。
三毛の軸足がふわりと浮かんだ、瞬間の体軸の変化だ。幸が漣の背後に回り、背中を軽く押す。弾かれたように漣が前進し、その左手が浮かぶ三毛の顎に触れた。
瞬間、あかねが三毛の足元に潜り込むと、三毛の膝の裏を軽く肩で押す。三毛の膝が緩み、上体が反ることで漣の左手から逃れた。

四人の攻防と補佐に、目を見張るように、小夜乃がその様子を見ていた。
「凄いね、実朝。小夜乃もあんなふうに動けたら外の世界で夕飯のお買い物も御手伝いできるのかなぁ」
小夜乃が肩に乗る実朝に話しかける。実朝が少し困ったかのように小首を傾げた。
小夜乃の隣、まるで始めからいたかのように幸乃が現れた。
幸乃が柔らかに笑みを浮かべる。
「幸乃様」

「小夜乃は強くなりたいの。実朝が助けてくれるから、強くなくても大丈夫でしょう」
「いいえ。助けてもらえることを当たり前に思うのは嫌いです」
幸乃は嬉しそうに微笑むと、四人の動きを眺めた。
「小夜乃はあの子達の動きが見えるのですね」
「はい」
幸乃が小夜乃に振り返り言った。
「小夜乃には眼の良さと勘の良さがあります。もう少し待ちなさいな」

あたふたと台所にあかねと三毛、小夜乃も戻ってきた。
「おう、どうした」
「なよ姉さん、幸母さんが家に戻ってなさいって」
三毛が答えた。
「幸姉さんは特別な稽古を漣につけるつもりなのでしょう」
あかねは空いた椅子に座ると、御煎餅を一枚取る。
「どんな稽古なんだろう」
三毛が好奇心旺盛に言う。
「お父さんは知っているの」
「知っているというか、わかってるよ」
「見たらだめかなぁ」
「だめだよ。本当は幸もその稽古はつけたくないんじゃないかな。でも、これからの漣には必要な稽古なんだ。とっても、辛い稽古なんだよ」
男は哀しげに笑みを浮かべると、白に言った。
「白、珈琲、だめかな。ちょっとだけ」
「はい、だめです」
にこやかに答える。
「白は厳しいなぁ」
「お父さん、あーんして」
あさぎの隣にいた黒が振り返り、男に声をかけた。瞬間、黒が投げた、男の口の中、
「お、珈琲飴か」
「お父さん、それで我慢してください」
黒が楽しそうに笑った。
「もう。黒姉ちゃんは甘いんだから」
「お父さんと姉ちゃんはインスタントラーメン仲間だからね、助け合うのさ」

梅林の中央、幸は漣の前に座ると、少し見上げた。
「随分強くなったのが自分でもわかるだろう」
連は慌てて、正座をすると額を地面にこすりつけた。
「ありがとうございます」
「顔を上げてくれ。幸は人に頭を下げるのは嫌いだけど、下げられるのはもっと嫌いなんだ」
連は跳ね上がるように頭を上げた。
幸はくすぐったそうに笑みを浮かべると、小さく吐息を漏らした。
「今の漣なら、大勢の鬼が向かってきても制することが出来るだろう、娘達に教えたのもここまでだ。ただ、漣にはもう一段階、教えておくべきかと思う」
「もう一段階」
「あぁ、ごく単純なことだ、向かってくる奴を殺すってことさ」
幸は立ち上がり、両手でお尻の砂を払う。
「立て。漣」
「はいっ」
幸の前に漣が直立不動になる。
「自在を出して、構えろ」
ふわっと、漣の右手に自在が現れ、幸に向かって、中段に構えた。隙を誘うのではなく、絶対的な防御の姿勢だ。
幸が右手を横に伸ばした、指の先にはもう一人、幸が立っていた。次々と幸が現れ、漣を大きく囲みだす。
唖然と漣は大きく眼を見開いてその様子を見つめていた。
「ちょうど、千人の幸が、漣、お前を囲んでいる。大サービス、一人ずつの攻撃だ、手加減もしてやるし、わかりやすい隙も作ってやろう。どういうことかわかるな」
「は、はい」
怯えたように漣が呟いた。
「二度は言わない、幸を殺せ」
一人の幸が漣に向かって駆け出す、悲鳴とともに、漣が自在の先を幸に向けた。
「漣、走れ。間合いを崩して、首を切れ」
漣が中段から、自在の下に潜りこむように姿勢を落とした。
「幸師匠、無理です」
もう一人の幸が漣の手の上から自在を握り、救い上げるように飛び込んできた幸の首を切り落とした。
「うわぁぁっ」
漣が悲鳴を上げた。首の落ちた体が二、三歩走り、地面に崩れた、首から血が噴出す。
「休んでいる暇はないぞ。次は心臓を打ちぬけ」
「はいっ」
悲鳴とも返事ともつかない声を漣が張り上げた。


「始まってしまったか」
男が小さく呟いた。
「きついことをするのう」
なよが俯く。
男が深く溜息をついた。

「命を奪っているんだ。そいつのこれからの未来というのを奪っている、それがどんなものであってもな」
「はいっ」
漣が返事をすると同時に、幸の眉間を割る。
骨の感触が腕から背中に伝わる、命を奪うというのは、これほど、おぞましいものなのか。
「恐怖や違和感を快感とするな、そのまま受け止めろ。傷を苦痛のまま受け入れろ」
「は、はいっ」
喘ぐ粋の中、漣が思いっきり返事をする、そうしなければ、気を失ってしまいそうになるのだ。
すいっと、最後の幸が漣の前に現れた。ぐっと、連は息を呑み、弾けるように幸の喉に自在を突き立てた、ふわっと幸はそれを流すと漣の後に回り込み、そのまま、連に尻餅をつかせた。
「本体は勘弁してくれ。まだまだ、お父さんに甘えたりないんだ」
にいぃっと幸が口元を歪ませ、笑みを浮かべた。
「どうだ、漣、楽しかったか」
漣が首を横に振った。
「辛いです、とても辛いです」
「それでいい。命を奪うってのは大罪だ」
幸は後ろから漣をしっかり抱きしめた、そして、頬を漣の頬に寄せる。
「漣、お前は鍾馗の救世主となり、その国と地位を取り戻すだろう。だか、平穏な時代になれば、漣、お前の居場所はそこにはない。強くなりすぎた」
微かに漣の体が震える。
「泣くな。ことが済むまで泣くな。泣けば決意が緩んでしまうぞ」
漣が歯を食いしばる。
「いつか、漣、ここに帰ってこい。幸の妹としてここで暮らせ。畑仕事をし、ヤギや鶏の世話をしよう。あさぎ姉さんの店でアルバイトをしよう。物産展で声張り上げて売り子をしよう」
漣がしっかりと幸の腕を握った。
「ありがとう、幸お姉ちゃん」
漣が眼を瞑ったまま、囁いた。

男が戻ってから三日が経ち、男はふらつくこともあるが、ゆっくりと今までの日常生活を取り戻しつつあった。
自分の部屋、事務椅子に座る、ふっと息が漏れた。一カ月のこと、男は一切語らず、記憶も沈め炊いた。
窓から外を眺める、放し飼いにした鶏が草を啄んでいた。
男はゆっくりと娘たちの顔を思い浮かべる。単純率直に面白いなと思う、まさか、こんなふうに賑やかになるなど、思いもしなかった。自分の半生を思い起こして、幸せすぎると思う。
「お父さん、いいですか」
襖の向こうから白の声が聞こえた。
「どうぞ」
白が襖を開け入る。
「お加減いかが」
「白のお陰だ、とってもいいよ」
白が嬉しそうに笑みを浮かべた。
男が椅子を指さす。
「ごめんね。まだ、ものを掴むのが難しいんだ」
白は承知したと男の前に椅子を置くと、足を揃えて座った。
「白はまじめに学校に行っているのかい」
「通ってます」
「楽しいかな」
白が笑みを浮かべ頷いた。
「でも、いま、ちょっと浮いてしまってますけど」
「どうしたんだい」
「学級崩壊ですよ。騒ぐから、先生の声が聞こえないんです」
「話には聞いたことがあるよ」
「だから、白は、先生の声が聞こえねえだろう、静かにしろって怒鳴ったんです」
「なんだか、幸みたいだなぁ」
男が笑った。
「それで向かって来た男の子たちを軽くピンタしたら吹っ飛んでしまって」
「白は確かに幸の娘だね」
「そして、お父さんの娘でもあります」
白が言葉を返した。
「なるほど。これは父さん、責任重大だ」
楽しそうに男が答えた。
白が幸せそうに柔らかな笑みを浮かべる。
「さて。お昼は畑に机を出しての、お外ご飯です。あさぎ姉さん渾身のお昼ごはんですよ」
「それは楽しみだ」
男の笑顔につられるように、白が声を出して笑った。
「お父さん」
「ん」
「帰って来てくれて、ありがとう」
「どう致しまして」
男も楽しそうに笑った。


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最終更新日 : 2013-05-11 17:57:04

異形漣 五話

各駅停車の電車、七人がけの椅子の中程に、漣、その両脇を幸とあかねが座った。
約束の日の一日前の朝、三人は本家へと向かっていた。
「幸姉さん。漣さんを返すのは明日なのに、どうして」
「明日じゃ、間に合わないからね」
幸は本家の方角を眺めると、にぃぃっと笑った。
「相変わらずの当主だなぁ」
恐縮したように漣が言った。
「幸師匠。こんなにしてまでいただき、申し訳ありません」
幸は気楽に笑うと背もたれに背を預けた。
「本家の不手際だ。幸はこれでも当主の姪だからな」
あかねが不思議そうな顔をした。
「あのおっさん。なにかしでかしたのですか」
「した」
幸は一言言うと、目を瞑った。
「奴に本家の当主は荷が重すぎる。庇って来た白澤も今度ばかりは決心しただろう」
「本家はどうなるのでしょう」
「大奥には当主の血を継いだ子供が何人かいる。どれかが新しい当主になるだろうな」
駅に着く、三人は降りると、ホームに立ち止まった。
「次を見送って、その次の列車に乗って、二つ先の駅、それを降りて歩けば、本家への道に繋がる」
あかねが列車の時刻表を見る。
「三十分ぐらいです」
幸は頷くと、漣を見つめた。
「漣。たくさんの術師が鬼からこの国を護っていた。大小合わせれば千の組織があるだろう。中でも本家は群を抜いた術師集団だった。そして、もう一つ。数年 前に結成された組織がある。政府主導で自衛官と警察官から選ばれ、結成した組織だ。奴らは最新のITと忍術、呪術を使う。こういった組織がこの国を鬼から 護ることになっているんだ。でも、この国の政治家や官僚が鬼に籠絡されたこともあり、うまく機能していない」
漣が目を見開いて頷いた。
「どうしますか、幸姉さん」
あかねが囁いた。
三人の前には十人の黒服が囲むように並んでいた。
幸は男達に柔らかな笑みを浮かべると、目の前の男に話しかけた。
「おじさま。何か御用事ですか」
「お嬢さん。鍾馗のお姫様に用事があるのです。少し、よろしいかな」
幸は淑やかに首を横に振った。
「私には無事、姫様をお連れする役目がございます。ですから、お連れする以外のこと、一切、受け入れることは出来ません。ごめんなさい、おじさま」
男がにこやかに笑った。
「それは困りましたな。私共も上から、鍾馗のお姫様を保護せよと命を受けておるのですよ」
幸が意を得たと、笑みを浮かべた。
「大丈夫です。私と妹がしっかり姫様を保護しております。鬼にだって、指一本、触れさせはしませんわ」
「はは、しっかりしたお嬢さんだ」
漣が気づいた。幸は術を使っているわけではない、笑顔と言葉だけで、目の前の男を籠絡している。
「おじさま、お名前、なんておっしゃるの」
「おじさんかい。田中、田中啓一郎っていうんだよ」
「た、隊長」
本当に本名を名乗ってしまった男に回りの男達がどよめいた。
「他の方たちは啓一郎様の部下なのですか」
「そうだよ。五木、長尾、斎藤。それから、大西、木村、清水、坂上、村田に、岡田」
なんの抵抗もなく、男が答えた。
「どうしたんですか。隊長、しっかりしてください」
幸はにぃぃと目を細めると、微かに漣に向かって頷いた。
「隊長、その女は危険です」
すっと、幸は言葉を荒げた男の目許を見つめ囁いた。
「五木さま、そんな怖い顔、なさらないでくださいな。もしも、失礼があったのなら、謝ります」
「いや、あ、あの、いいえ」
五木が幸の眼差しに、狼狽し口ごもった。
「あ、あの、僕は」
「五木さまは隊長の右腕として、この隊を支えていらっしゃる方、その御苦労、わかりますわ」
幸の言葉が触手のように、五木の心の中の、弱い部分に纏い付く。
五分も経たないうちに、十人共、まるで催眠術にでも掛ってしまったように、木偶の坊の如く突っ立っていた。
「皆様。これからもこの国を鬼から護ってくださいませね。皆様だけが頼りなのです。たとえ、回りの人達が鬼に与しても、皆様なら、きっと、この国を鬼から護ることができます」
幸が囁きかけると、男達が我勝ちに頷く。
一本目の電車が来る、ドアが開いた。
「おじさま、早くお乗りください。終点までゆっくりしてくださいませね」
十人の男達が何のためらいもなく、電車に乗り込んだ。ドアが閉まり、列車が動き出す。
淑やかに幸は腕を振り、列車を見送った。

「て、ことで。反乱の種を蒔いてみた。なんか、男は単純だな」
幸は気楽に笑うと、漣に言った。
「奴らは自衛隊の特殊部隊だ。ただ、自衛隊の一部は鬼の側に付いている。奴ら自身は知らないようだけれど、付いて行ったら鬼の巣窟直行だ。ま、その方が楽しいけれどな」
「凄いです、幸師匠」
憧れの眼差しで漣が幸を見つめた。
「考えてみたら、笑顔ほど凄い武器はないかもしれないな」
幸は笑うと漣にそう言った。
「さて、漣、あかねちゃん。次の電車を待とうかと思ったけど、方違えすっ飛ばして、本家へ直行だ」
幸は二人の手をしっかり握ると笑った。
「飛ばすぜ。手を離すなよ」

あかねが屈んで大きく息をついた。隣りで、漣も地面に尻餅をついて足を投げ出していた。
結界もなにもあったものじゃない。空間を強引に繋ぎ、本家まで突入したのだ。
本家の領域は入り口と白鷺城を模した城の間を湖が寝そべり、その城を越えた向こうが町となっていた。着ている服装は洋装だが、町並みは映画に出て来る時代劇の宿場町のようなものだ。これは先々代の考えにより、建物の建築に強い制限を施していたからだ。
三人は堀端の少し陰になって目立たないところに到着した。
「さてと。少し、時間に余裕ができたし、かのかに先に会うかな」
幸が二人を見下ろす。二人は座り込んで肩を揺らし、大きく息をしていた。
「鼻から吸って、口から息を出す。そうすれば、体に酸素が行き渡る」
「ゆ、幸姉さんはどうして平気なんですか」
少し、体が楽になったのか、あかねが尋ねた。
「うーん、お父さんへの愛かな」
「いえ。もう、そう云うの、いいですから」
あかねがぱたぱたと手を振り答えた。
「幸姉さんのお父さん話を聞いていたら、日が暮れます」
「日暮れどころか、徹夜で喋りつづけるよ」
幸は笑うと、辺りを見渡した。
「知り合いのうどん屋さんがあるんだ。そこで休もう」

暖簾をくぐる、テーブル四つに、カウンター席の小さな店だ。幸いにも先客はなく、三人はテーブルについた。
「なんにする」
幸が尋ねた。
「ハイカラ定食。でも、ご飯はきついでしょうか」
あかねが言った。
「鬼とこれから戦うことになるからね。お腹減って動けないのは哀しすぎるな」
幸が笑った。
「あ、あの。ここ、本家の城下町ですよね。鬼って」
漣が驚いて幸に言った。幸はにっと笑うと、漣に言った。
「本家の現当主はスカだ。今度は白澤も決心を固めただろう。漣は天ぷら定食、しっかり食え。幸はおぼろにするかな」
幸は調理場に向き直ると声をかけた。
「お願いします」
「ごめんなさい、いま、伺います」
奥からの店員の声が響いた。
「ごめんなさい。大将が出前に出ているものですから。うわっ、幸じゃねぇか」
その瞬間、店員の右手に自在が現れた。
「くらえ」
店員が両手で自在を構え、幸の喉元に突き立てた。幸は軽々と自在の先を掴むと、にぃぃっと笑みを浮かべた。
「かぬか。線がずれているぜ。精鋭の一人として父さんから、自在を学んだんだろう。父さんに恥をかかさないでくれよ」
「やっぱり、幸姉さんは恨まれていましたか」
あかねが溜息をついた。
「ちょっとした、親友同士の挨拶だよ」
幸は手を離すと、かぬかの後ろに回り、抱き締めた。
「かぬか。体調はどうかな。しっぽとか生えてないだろうね」
「さ、触るな」
幸の指先が、かぬかの首筋から背骨を通り、お尻に触れた途端、幸があっと呟いた。
幸はふっと何事もなかったようにテーブルに戻った。
「かぬか。ハイカラ定食に天ぷら定食、おぼろうどんをお願いね」
幸は真顔になって言葉を続けた。
「白澤の血は凄いな」
「白澤様を呼び捨てにするな」
「どうしたのですか」
怪訝そうな顔をして、あかねが尋ねた。
「前に白澤と戦った時、白澤の攻撃を避けたら、それがかぬかに当たって、お腹の辺りで真二つに切れた、白澤は守り神みたいなものだからな、慌てて、治療したんだけど、その時、自分の血を使ったんだ」
「死んだ猫でも生き返らせて、猫又に生まれ変わらせるという」
あかねが言葉を続けた。
「尾てい骨には尻尾の名残がある。一番、変化し易かったのかなぁ」
深刻な顔をして、幸が吐息を漏らした。
「な、なんだよ、幸」
「来い、かぬか」
幸の言葉に、恐る恐るかぬかが幸の隣りに立った。幸は無造作に立ち上がると、右手をかぬかの頭の中に入れた。

「脳下垂体が指令を出している。うーん、構成しなおしておくかな」
幸がかぬかの頭の中から手を抜き出した、全く血は付いていないし、傷口もなかった。
「かぬか、視界が変になってふらつくことがあっただろう」
「あぁ、あった」
「もう、大丈夫だ。普通に生活ができるよ」
「あ、あの・・・」
「ん」
「ありがとう」
「どう致しまして」
幸がにっと笑う。
「うどん、つくってくるよ」
かぬかが調理場へと戻った。
「白澤は悪い奴じゃないけど、優先順位がはっきりしているからなぁ」
「どういうことです」
あかねが尋ねた。
「かぬかは、ほっとけば、大きな猫になってしまうところだった。白澤はお家が大事で、かぬかのことはたいして気に留めてないってことだ。本当のところ、かぬかもそれを察していたんだろうけどな」
「やるせない話ですね」
幸は頷くと、視線を落とし俯いた。

「おや、お客さんかい。いらっしゃい」
外から、威勢の良い声が聞こえた。
「お母さん、お久しぶり」
ついと幸は顔を上げると、声の主に笑みを浮かべた。
「あれ、幸様。ひゃあ、ようこそお越しくださいました」
「様は勘弁してくださいよぉ」
「いやいや。御当主の姪御様に失礼があってはならないよ」
幸は女将に近寄ると、嬉しげに笑みを浮かべた。
「お母さんもお元気そうでなによりです」

小声で漣があかねに尋ねた。
「あの、お母さんって」
「幸姉さんはあの年頃の女性をお母さんと呼んで、甘え込む特技の持ち主です」
「うわぁ、なるほど。お母さん、めろめろですね」
漣が納得したと相槌を打つ。

「お母さん、皆さんはお元気」
「亭主はお城に上がって、週に一度しか帰ってこないけれど、息子も娘も面倒臭いくらい元気で生意気だよ」
「もうだめですよ。大事なお子さんをそんなに言っては」
幸は笑うと、ぎゅっと女の手を両手で握った。
「でも、ご亭主様があまりお帰りにならないのはお可哀想。通いになりますよう、叔父に進言致しましょうか」
「とんでもない」
女がぱたぱたと手を振った。
「亭主なんざ鬱陶しいよ、月に一日でいいくらいさ」
「ま、母さんたら」
幸はいたずらげに笑みを浮かべ、女に抱き着いた。
「母さんは言葉が悪いですよ。でも、幸は母さんの言葉にとっても優しさがあること、わかってます」
自然に女は幸の頭を優しく撫でると、吐息を漏らす。
「なんて良い娘なんだろうね」
「母さんの娘さんほどではありませんけど」
幸はにっと笑う。
「おまたせ」
かぬかが料理を運んで来た。
「ありがとう、かぬか」
幸は存分に笑顔を女に見せると、テーブルに戻った。
そして、女に聞こえよがしに、かぬかに言う。
「それで、かぬか。体の調子が悪いなら」
「え。あ、いや」
いきなりの幸の言葉に、かぬかが戸惑って答えた。
幸は女に振り返ると、哀しそうに言った。
「お母さん。かぬか、最近ね。疲れた様子や苦しそうな顔をしてなかったかなぁ」
「そういえば」
女はかぬかが調理場の腰掛けにぽつんと座って、泣いているのを思い出した。声をかけるのが躊躇われるような絶望感が漂っていた。
「そうだ、幸様は腕っ節はからっきしだけど、治療は得意だったね」
幸は力強く頷くと、女をじっと見つめた
「母さん、一カ月くらい、かぬかを幸に預けてください。きっと、元気に治すから」
「わかった。かぬかは白澤様からの預かり人だけど。白澤様には」
「大丈夫」
元気に幸が言った。
「白澤さんと幸はとっても仲良しだもの。幸から言っておきます」
あかねがうどんを啜りながら、思わず吹きかけた。
「うわぁー」
あかねが小さく呟く。
「凄いですね、幸師匠。自由自在です」
小声で漣もあかねに囁く。
「勉強になるなぁ」
あかねが呟いた。

城門の手前まで来た。
「幸、どうする気だ。おばさん達一般市民は単純にお前のことを当主の姪で人畜無害の美人と捉えているけど、警護の一部やあたしら精鋭はお前のことを最凶戦士だって知っている、白澤様と犬猿の仲だってこともな」
「なんだよ。面と向かって悪態を突き合う。お互い、信頼があればこそだよ」
幸は笑い飛ばすと、出入り門に立つ二人の兵に笑みを浮かべた。
「それじゃ、通りますね」
「待て」
慌てて二人の兵が四人を止めた。
「一切の例外なしに城には誰も入れぬようにとの厳命です。たとえ、姪御様でもお入りなることはできません」
幸はその言葉に驚いたようにうずくまってしまった。
「これは、驚かせて申し訳ありません、しかし、御当主様からの厳命により、何人たりと」
「いいえ。私こそ」
消え入るような声で、幸が囁いた。
「ごめんなさい。少し驚いてしまって」
あかねに助けられるように、幸は立ち上がると、申し訳無さそうに二人の兵を見つめた。
横から驚いてかぬかも声を上げた。
「それは白澤様の精鋭も入れないということか」
「はっ。今宵夕刻までは通すことならんと直々のお言葉であります」
「いったい、どうなっているんだ」
かぬかは何か嫌な予感を感じ、辺りを見渡す。
そっと、幸は両手を重ね、兵に向かって合掌すると、泣き濡れた瞳で兵を見つめた。
「どうか、お願いでございます。どうしても、叔父に会わねばならないのです」
「し、しかし」
兵が幸の瞳に動揺し、言葉を詰まらせた。
「う、上の者に問い合わせますゆえ、し、しばしお待ちくだ」
幸がすぃっと目を細め呟いた。
「あかねちゃん、三十分だ」
あかねの姿が消えた、その瞬間、二人の兵が白目を向き、膝が崩れ、まさしく落ちた。
「美人のお願いは即決だ。逡巡しないでくれよな」
幸は倒れた兵の後ろに立つあかねに笑いかけた。
「な、あかねちゃんもそう思うだろう」
「幸姉さん、まんま、たちの悪い悪役ですよ」

「お前、最悪だな」
かぬかも倒れた二人を引きずって端に寄せる。
「わくわくするなぁ」
幸が呟いた。
「それで幸姉さん、これからどうします」
「六階建の城。五階の本丸に十体の鬼が控えている、天守閣に鬼が一体。こいつの号令で動くのだろうな。四階には、津崎と弟子が二人、鬼と戦っている。城の者はほとんどが地下に押し込められている。かぬか、精鋭はどうした」
「私以外は出払っている」
「姑息だなぁ、当主は。かぬか、地下にほとんどの奴らは閉じ込められている。鬼は二体だけだ。かぬかとあかねちゃんは地下の鬼を倒して上へ来てくれ。幸と漣は四階の津崎を助ける」
「わかった」
かぬかが頷いた。
「それでは幸姉さん、後程」
あかねも頷くと、二人、城内へと駆け出した。
幸は二人を見送ると、漣に言った。
「漣の初めての戦いだ。気合入れて行け」
「はいっ」
「でも、鬼の血をかぶるなよ」
「え」
「ようやく会えた娘が血だらけとは、漣の親父、泡吹いて気絶するからな」
機嫌良さそうに幸は笑うと城内へと歩き出した。

「お手伝い致します」
瞬間、漣は鬼の両肩に後ろから飛び乗ると、両手で鬼の首をぐいっと天地百八十度回転させた。そして、倒れた鬼の左胸を足裏でぐっと押し込む、くぐもった風船の割れた音がする。心臓を押し潰したのだ。
間合いを読み、対峙していたはずの鬼の惨状を呆気に見る。津崎流薙刀術総帥津崎の目の前に小さな女の子がいた。はて、何処かで見たことがある。
「とりあえず、鬼を潰していきますね」
向かって来た鬼の両足を右の蹴りで払う。鬼の足が膝からあらぬ方向へ曲がり、ずとんと鬼が落ちた。
「津崎の叔母様、お久しぶりです」
幸がいつの間にか津崎の隣りで笑みを浮かべていた。
「お、お前は」
「娘たちがお孫さんにお世話になっています」
鬼が一体、幸に切りかかって来た、巨大な青竜刀を上段に構える。
「動くな」
振り返り、幸が低く呻いた途端、振り下ろそうとする鬼の動きが硬直した。術で止めたのではない、鬼が幸の言葉に恐怖を覚えたのだ。
「そのまま動くな。息もするな」
幸はそう言うと、津崎に笑いかけた。
「ひょっとして叔父からの伝書か何かでいらっしゃったのですか」
津崎は叔父という言葉に、当主の兄が無であり、幸がその娘であることを思い出した。
「至急の用事、子細は直接とあった」
「なるほど。術師の中でもあなた様は一番の頑固者。叔父はあなた様を最初に亡き者にしようとしたのでしょう」
津崎の弟子だろう、女が薙刀で下段からすくい上げるように鬼の正面を切り裂いた。その隣りで、漣が飛び上がり、鬼の顎に手を添え、頭から鬼を落とす。鬼の頭が粉砕した。


「わしを亡き者にとな」
「城の者が地下に押しやられ、鬼が跋扈しております。叔父には本家の当主を引退していただかねばなりませんね。私的には引退などと悠長なことは言わず、裏切り者を切り刻みたいところではありますけれど」
幸がにっといたずらげに笑う。後ろで鬼が一体、倒れた、窒息死だ。念のため、漣が頭を踏み潰す。
「師匠。もうこの階には生きた鬼は居りません」
漣が幸に報告をする。
「うん。良い出来だ」
「ありがとうございます」
漣が戸惑う事なく笑みを浮かべた。微かに幸が眉をひそめる。
「あっ。もしや、鍾馗の姫様ではありませんか」
津崎が驚いて言った。
漣が柔らかな笑みを浮かべた。
「お久しぶりでございます。私の方から御挨拶申し上げねばならなかったのですが、鬼をほふるのに忙しくしておりました」
「虫を殺すのすら躊躇いになる、あのお優しい姫様が」
津崎が声を震わせた。
「鬼の軍団に母は殺され、多くの民も殺されました、残った者たちも国を追いやられ、今は本家に身を寄せる有り様。姫と親しんでくれた者達に対して私は国を再興する役目がございます」
凜とした眼差しで津崎を見つめた。
津崎はあまりにものどうしようもなさに目を臥せる。
「責任は取るさ」
幸が小さく呟いた。
階下から、歓声が響いた。
すぐにあかねとかぬかがやって来た。
「地下は解放しました」
あかねが幸に報告する。
「ありがと。それじゃ上に行くかな」
「私はここで解放された皆と城の浄化を進めます」
あかねの言葉に幸が頷いた。
「なんと、鬼紙のお嬢様までこのような危険な場所に」
「お久しぶりです。でも、大丈夫ですよ。だって、精鋭のかぬかさんもいらっしゃいますもの。守ってくださいますから」
「なるほど、そなたが白澤の精鋭か」
津崎がかぬかに言った。
「はいっ」
「このお方は鬼紙老のお孫様じゃ、お優しく、間違っても荒事とは無縁のお方じゃ。どんなことがあっても怪我などさせてはならんぞ」
「は、はぁ」
かぬかは戸惑ったが、素直に頷いた。
自分の隣りでもう一体の鬼を片手で投げ飛ばし、天井に激突させた女だ、鬼がまるで自分から飛んで行き、天井にぶつかったようにも見える不思議な技だった。
「かぬかさんがいらっしゃれば、あかねは安全です」
あかねが津崎に向かって微笑んだ。

かぬかとあかね、津崎の弟子二人も浄化のためとどまった。
「お前、凄いな」
かぬかがあかねに言った。
「私がですか」
「ああ」
「かぬかさんの方が凄いですよ」
にっとあかねが笑みを浮かべた。
「え、あ。そ、そうかなぁ」
素直に照れるかぬかに、あかねは微笑んだ。

階下から、急な階段を上り、幸が本丸に頭を出した瞬間、大振りの刀が幸の首を薙ぐ。まさに首を払う寸前、一本の細い線が刃を階下から貫き、その動きを止めていた。
幸が放ったなよの術、刃帯儀だ。
幸が飛び上がり、本丸に着地すると、十体の鬼が幸に向かって睨みつけた。
「睨む前に攻撃する、そうすれば、勝てないまでも、ちっとはましな死に方ができたのになぁ」
幸は笑うと、呟いた。
「水の結界 五式全」
壁と天井に薄い水の幕が生じた、天井から水が流れ出し、壁を伝う、その水は壁と床の間で消えて行く。微かな瀬音。
「これで騒いでも上には聞こえない」
漣、津崎も登ってきた。
「さてと、この中で一番偉い奴はどれだ」
幸が鬼に向かって声をかけた。無言で睨みつける鬼達。鬼の囲みから、一歩、後ろに一体の鬼がいた。随分と、角が長い。
「ああ、後ろに、脅えて隠れているお前だな。少しばかり、話を聞きたい」
「なんだと。俺は隠れているわけではない」
鬼がむきになって、幸の前にやってきた。
「なに、簡単なことだ。何故、お前達は領土を広げようとする。鍾馗の国を滅ぼし、かぐやのなよ竹の姫の国も滅ぼし、また、この国も侵略しようとしている。 どうしてそんなことをしようとするんだ。お前達が侵略行動を起こすようになって、ほぼ五年。酒呑童子の一件より、お互い関わらずの取り決めを何故、反故に した」
考えたこともなかったのだろう、鬼は絶句した。他の鬼達も、その目に微かな戸惑いを見せた。
幸はついっと漣に目をやった。
「この子は鍾馗の娘だ、母親を鬼に殺された。私はこの子に、お前達程度なら瞬時に殺すだけの術と覚悟を与えた。どうする、お前達の返答次第では次の瞬間、血まみれになって横たわることになるぞ」
「わからない。上官の指令に従うのみだ」
「馬鹿野郎。その首から上についているのは頭だろう。ガキじゃあるめえし、その足りねえ頭で考えろ」
幸の一喝に、鬼達が腰を抜かし床にへたり込んでしまった。
「手前の命も、赤の他人の命も、同じ大切なものだ。鬼の国に返してやるから、よく考えろ」
瀬音が濁流の音に変わり、その音に飲み込まれるように鬼が消えた。水音が消えた時、鬼の姿も気配もなかった。
漣が小さく舌打ちをする。
「漣」
幸が低く呟いた。
「は、はい」
「お前はまだまだ未熟だ。命を奪うことを目的とするな。命を奪うことを喜びとするな。それをしっかり頭の中に刻み付けておけ」
漣は幸の言葉に気が付いた。もし、あの鬼達を殺していれば、きっと自分は殺人鬼になっていただろう、命を奪うということ自体が喜びとなっていただろう。
「師匠。申し訳ありません」


鍾馗の長と白澤が共に後ろ手に縛られていた。二人は木組みの牢に入れられ、天守閣、一段高みに当主と鬼が笑みを浮かべ座っていた。
「当主。情けない、鬼と手を握るなど、初代に申し訳ないと思いませぬか」
「怒るな、白澤」
当主が機嫌よく言った。
「流れは鬼の側へと向いておる。この国も、そう遠くない未来、鬼と友好条約を結ぶであろう、いや、あの女が邪魔をせずにおれば、とうに結んでおったのじゃ」
当主は幸の顔を思い出したのか、にくしげな表情を浮かべた。
「あの、わけのわからぬ強さ。一体何者だ、本当にわしの姪なのか。まぁ、よいわ。今日中にことを済ませば、すべては後の祭りじゃ」
そして、白澤の隣りに後ろ手に縛られている鍾馗を見て笑った。
「まぁ、長よ。そういうことじゃ。明日、娘が帰ってくれば会わせてやろう。一月振り、涙の再会じゃ」
「当主殿」
鬼が愉快に声をかける。
「どうも、当主殿は件の女と相性が悪いようですな。下の階には屈強の兵共がおりますぞ。そのような女子供など気にするにありませぬわ」
鬼が自信満々に笑った。

これ程嬉しいことはないと笑みを浮かべた幸が当主の背後にゆらりと現れた。白澤が息を飲んだ。その瞬間、当主の体が浮き、畳三畳は充分、飛ばされ転がる。幸が右の蹴り足をじわりと戻した。津崎が階下から飛び出し、素早く鬼に駆け寄ると、その首に刃を当てた。
「動かば斬る」
津崎が鬼を睨み言い放った。
「父上」
漣が転がるように長へ駆け寄り、座敷牢の閂を引き抜き、扉を開けた。
「漣。中には入るな、お前程度なら金縛りにあって動けなくなるぞ。長よ、それに白澤。自力で出てくれ」
幸が満足そうに両腕を組み、笑った。
出て来た白澤に幸は近寄ると言った。
「もういいだろう。血統を残したいのなら、あいつの子供が大奥に何人かいたはずだ、まともなのを一人選んで教育しなおせや」
ついと転がったままの当主を見る、気絶したままだ。
「腐っても当主だ。引退させて、蟄居させればいい」
白澤が絞り出すように言った。
「助かった。ありがとう、幸」
白澤の言葉に幸が驚いた。
「なんと返せばいいのかな。ま・・・、どういたしまして」
そして、幸は長に笑いかけた。
「あんたの希望は娘の安全なんだろう。ただ、娘はお前を支えたいと考えている。私は娘の思いを優先させた。それなりに術も心構えも教えたつもりだ」
幸が振り返ると津崎が鬼に猿轡を噛まし、繋がった紐を鬼の足指に結び付け、海老反りの姿に仕上げていた。
幸は鬼に近寄ると、その額に触れる、根元から、すっと角が落ちた。そして、その角を踏み潰す。
「こいつは白澤に任せよう。津崎さん、構わないかい」
「ここは本家だ。本家内のことは白澤さんに任せればいい。わしは何も見なかったし、わしの弟子も何も見なかった」
幸は頷くと、白澤に声をかけた。
「ま、そういうことだ。そうだ、白澤、かぬかを、当分、預かる、いいだろう、な」
「ああ、よろしく頼む」
幸がにっと笑った。
「漣。私を姉と思え。そして困った時は呼べ、助けてやる」
そのまま、何事もなかったように幸と津崎は天守閣を後にした。

四階に戻ると、たくさんの城人が雑巾や箒を手に掃除をしていた。あかねも柱を雑巾でしっかりと拭きあげていた。
「お帰りなさい、幸姉さん。いかがでしたか」
「無事済んだよ」
「なんと。あかねお嬢様、そんな、雑巾がけなど」
驚いて津崎が言った。
「私はなんのお役にも立てません。せめて、お掃除くらいはさせてくださいな」
あかねが柔らかに笑みを浮かべる。
「できたお嬢様です、感服致しましたぞ」
かぬかが幸に駆け寄って来た。
「精鋭を呼び戻した。すぐにここにもやってくる」
九人の精鋭、頭ひとつ分は確実に背の高い男女が幸を無視して駆け抜けた。
「あいつら・・・」
かぬかが呟いた。
「愛想された方が気色悪いや。漣と長には護髪を結んである、妙なことはさせないさ。そうだ、かぬか」
「ん」
「白澤とは話をつけた。よろしく頼むということだ。ということで、かぬかは今から幸の弟子。師匠を敬えよ」
「お前が師匠ってか」
かぬかが溜息をついた。
「師匠に似て、性格が悪くなってしまわないか、それが不安だ」
かぬかの言葉に嬉しそうに幸が笑った。
「幸とあかねちゃんは二人でしばらく旅に出るから、かぬか、これから荷物を纏めて、うちに向かってくれ。父さんもいるし、黒たちもいる」
「黒に白に三毛。懐かしいな。それは楽しみだ」
幸とあかねは城を出ると、湖の畔までやって来た。
「幸姉さん、旅って」
不思議そうに幸を見上げた。
「ん」
幸がふふと笑みを浮かべた。
「いまはとっても賑やかで楽しい。でも、なんて云うのかな、父さんが仕事に出掛けて、あかねちゃんと二人で留守番していた頃が、なんだか懐かしい。そう 思ったらね、あかねちゃんと二人で旅をするのっていいなぁってさ。一週間くらい、うろうろしよう。あかねちゃん、いいかな」
あかねが思い切って幸の手を握った、自然と幸がその手を握り返す。
「幸姉さん、楽しみです」
あかねが満辺の笑みを浮かべた。



31
最終更新日 : 2013-06-16 12:22:26

異形 漣 かぬか びびる

本来、術者は行くことができない、正確には術者がなんとなく避けてしまうよう、難しい術が一帯に施されている。避けられるかもしれない面倒ごとは、あらかじめ避けるのが賢明だ。
かぬかは駅の改札を降りて、ほっと吐息を漏らした。幸い、かぬかは無の術を少し教わっているため、結界が見逃してくれたのだろう。幸の手書きの地図を見な がら、ここまでやってきたのだ。しかし、駅からの地図はない。つまりは書いても無駄なのだ、駅前商店街魚弦の佳奈さんに案内してもらうようにとある。
かぬかはほっと息を漏らすと、少しずり落ちかけた大きなリュックを担ぎ直す。今から登山でもしようかといういで立ちだ、かぬかの財産一式だった。

「らっしゃい、らっしゃい」
威勢のいい声、前掛けに魚弦と書いた佳奈が元気に客を呼び込んでいた。かぬかは少し離れたところで、どう声をかけたものかと考える、魚を覗き込んでいる主 婦三人、この人たちが買い物を終えたら、思い切って声をかけてみようか。なんだか、裸電球の灯りのせいだろうか、まるで観客席でお芝居を見ているような気 分だ。
しばらく前まで、そう本家を出るまで、殺し殺される世界にいたことが嘘のようだ。
なんだか、肩の力が抜けて楽しい。
ふと、佳奈がかぬかを手まねいた、ちょっと見渡して見る、自分だ。
「かぬかちゃんだろう。おいで」
「は、はい」
かぬかが佳奈の前に立つと、にっと佳奈が笑みを浮かべた。
「幸ちゃんから電話があったよ。奥に座敷があるからさ、荷物降ろしてやすんでりゃいいよ。一時間もしたら、お客さん減るからさ、そしたら。先生んち、一緒に行こう」
「ありがとうございます、えっと」
「あたしは佳奈。幸ちゃんの友達で、姉みたいなもんだ」
「私は白澤かぬかです」
佳奈が満辺に笑みを浮かべた。
「しっかりした子だ。幸ちゃんが大事な友達って言うのわかるよ」
奥の座敷に背中の荷物を降ろした、ほっと一息漏らす。
かぬかは幸が自分を大事な友達と言ったことに驚いていた。幸は変わった奴だと思う。白澤様の敵でこの野郎と思うこともある。独善的で我こそ正義と思っているような奴だ、でも。
多分、本当は白澤かぬかである私は幸が真っ当で良い奴と思いたくないのだ、だから、これは私自身の問題である。案外、幸って良い奴だなぁなんて思いたくない、それだけのつまらない意地だ。ただ、どうしてだろう、ちょっと、幸といると楽しくはあるんだ。
いつの間にか俯いていた、見上げれば佳奈さんが声を上げてお客さんを呼び込んでいる。なんだか、手伝いたい。そうだ、手伝おう。
「佳奈さん。お手伝いします」

霧の中を歩く、佳奈の手をしっかり握る。この手だけが頼りだ。
結界が施されており、術師には辺り一面が深い霧の世界だ。佳奈が澱みなく歩く、佳奈には霧が見えておらず、普通の住宅街でしかないのだろう。かぬかは緊張した面持ちで佳奈の後ろを歩く。
余程の術師でなければ単独では歩けないだろう。
「かぬかちゃん、大丈夫かい。ふらついているけど、ちょっと休むかい」
「いいえ、大丈夫ですよ」
かぬかが霧の向こうに笑みを浮かべる、真っ白な世界だ。
次第に霧がはれてきた、青い空、日盛りも過ぎた三時頃のやわらかな空だ。
「ほら、あそこだよ」
佳奈が指さす先に、瀟洒な小さな喫茶店があった。
喫茶店の窓に珈琲を飲む男性が見える。名無し先生だとかぬかが心の中で叫んだ。
佳奈とかぬかが喫茶店に入ると、男が笑みを浮かべた。
「かぬかさん、お久しぶり。佳奈さん、ありがとうね」
男が右手で二人に座るよう促す。
「えっと」
男がカウンターに視線を向けた。
あさぎが笑みを浮かべるとすっと水を二人の前に置いた。
「佳奈さん、何にしますか」
「それじゃ、私は珈琲で」
あさぎはそっとかぬかを見つめると微笑んだ。
「初めまして。幸の姉、あさぎです、よろしく。かぬかさんは何にしますか」
すっとあさぎがメニューを差し出した。
「お勧めはハーブティーのケーキセットですよ」
「え、じゃ。あの、それで」
戸惑うようにかぬかが答えた。
「あさぎちゃん、無理やりだねぇ」
「だって、お父さんも佳奈さんも珈琲ばかりでつまんないです。せっかく、ハーブティーのブレンドを作ったのに」
「うーん。喫茶店でお茶飲んでもねぇ」
あさぎがくすぐったそうに笑った。
「困った佳奈さんです」

「おおい、珈琲を作ってくれ。台所ではインスタントじゃが、こっちならうまい珈琲が飲める」
カウンターの奥から、なよがやってきた。
「あぁ、なよ姉さん。こちらが幸から電話のあったかぬかさんです」
ふっとかぬかがなよの顔を見た、
「ひやぁ。か、かぐやのなよ竹の姫」
驚いて、かぬかが腰を浮かす、瞬間、視界が巨大化したなよの瞳で充満した。
「うまそうじゃのう」
瞳の奥から、なよの言葉が響き出す。
「ご、ごめんなさい」
「なにも謝る必要はない。その右腕、所望じゃ。うまそうじゃなぁ」
震えて、動けない。威圧されて、体が押し潰されてしまう。
「なにやってんですか、なよ母様」
すぱーんと良い音がして、小夜乃がなよの頭をスリッパで思いっきりはたいた。
「え・・・」
かぬかは目の前で起こったことが理解できなかった。

頭を抱えて、うずくまっているかぐやのなよ竹の姫、その隣りにスリッパを持った少女。
「母がいたずらをしてしまい申し訳ありません」
「母・・・」
かぬかがおうむ返しに答えた。男が少しいたずらげに笑みを浮かべた。
「なよの娘、小夜乃だよ」
「先生、それって」
「うちの次女のなよ、それと娘の小夜乃だ」
なよが頭をさすりながら立ち上がった。
「そういうことじゃ。長ったらしい名前は忘れろ、なよでよい」
ふと、なよが佳奈の持っている袋に目をやった。
「さばとイカのいいのが入って来たからね、持って来たよ」
嬉しそうに佳奈が袋を持ち上げる。
「気が利くのう、佳奈は。よし、炭火でイカを焼いて、焦がし醤油できゅっと。な、いいじゃろ、あさぎ」
あさぎが呆れたように笑った。
「ほどほどですよ、なよ姉さん」
嬉しそうにうなずき、なよは小夜乃に言った。
「小夜乃。七輪の用意じゃ」
三人が庭へと行き、落ち着いたのか、緊張が抜けて、肩を落としたかぬかの前にあさぎがケーキセットを置く。
「お疲れさま」
あさぎが楽しそうに笑った。そして、そのまま、男の隣り、かぬかの前に座った。
男が紹介する。
「この娘があさぎ、三女だよ」
「よろしくね、かぬかさん」
「白澤かぬかです。よろしくお願いします」
「白澤さん・・・」
すっとあさぎが男の顔を見た。
「白澤さん直属の弟子は白澤姓を名乗ることになっているんだよ」
男の言葉にあさぎがそっとうなずく。
綺麗な人だとかぬかは思った。
「かぬかさん、どうぞ、食べて」
「ありがとうございます」
かぬかが笑みを浮かべて頷いた。一口、ケーキを食べてみる、とっても美味しい。
かぬかが幸せそうな笑顔をふわっと浮かべた。
「とっても美味しいです、あさぎさん」

部屋に荷物を置き、広間に立った。
「お父さんは自室で寝るけど、みんなはここで寝ているんですよ」
あさぎがかぬかに説明をした。
「あの、あさぎさん。なよさんも一緒に」
あさぎが戸惑う素振りすら見せず、素直に頷くのを見て、心しか、かぬかは驚いた。元は一国の女王、それが、皆と雑魚寝なんて。
「あ、あのね。なよ姉さんは怖い時もあるんだけど、本当はね。でも、心はとっても思いやりがあって、大人としての分別もちゃんとあるし、えっとね、時々、可愛いなって思える時もあってね」
慌ててかばうあさぎを見て、かぬかは年上であろうあさぎをなんだか可愛く思った。
「あさぎさんがそうおっしゃるなら、そうなんだと思います」
照れながらもはっきりとかぬかがあさぎに言う、嬉しげにあさぎも頷いた。
かぬかが思い出す。
初めてこの家の主 無に出会ったのは、白澤様に精鋭の一人として無の術を教わりたいと申し出て、認めていただいた次の日だった。

「私は晩の九時には自宅に戻り晩御飯を食べるつもりです。ですから、教えたことは一度で理解してください。二度も三度も説明しなければならないようでは、時間もかかりますし、なんだか面倒臭くて教えるのが嫌になってしまいます」
男は十人の精鋭を前に言い放った。
「では、皆さん。まずは自然体で立ってください」
かぬかが慌てて、足を肩幅に広げ、姿勢を崩さない、ギリギリのところで、肩や上半身の力を抜く。
え・・・、思わずかぬかは声を上げそうになった。精鋭九人、驚くようなだらけた姿で立っている、いや、一人はしゃがんですらいる。男性六人、女性四人、女性が互いにお喋りを始めた。
「なるほど。見事な自然体ですね」
男が嬉しそうに笑った。
「あんた。本当に無なのか」
中央の二メートル近くはあるだろうか、がたいの大きい男が言った。
「さあね」
「ああ、なんだと」
「私は自分で無だなんて名乗ったことはないんですよ。他人は私のことをそう呼んでいるみたいだけどね。だってさ、無 とかさ、気取っているようで気恥ずかしいじゃないか」
男は平気な顔をして笑うと、見上げた。こめかみにひきったような血管を浮かび上がらせた顔が男を見下ろす。
「あれ。ひょっとして、私がお気に召さないとか」
「もっと、凄い奴がやって来ると思っていたのに、そこらに転がっているおっさんがやって来たとはな」
吐き捨てるように言う。他の八人もシラケた目で男を見る。
「それは白澤さんの説明不足だ。後で言っておくよ。中肉中背、最近、ダイエットした方がいいかなと悩んでいるおっさんだってね」
「あ。あの、皆さん。早く練習を始めましょう」
かぬかが思い切って声を上げた。
ふいと男はかぬかの後ろに立つと、自然体に立つかぬかの背中少し下辺りを軽く叩く。瞬間、かぬかの頭の中にきらめきのような衝撃が走った。
「体が真上に浮かぶようだろう、これが本来の立つということだよ。忘れないように十分間、この感覚を味わいなさい」

男は九人に振り返るとにぃぃと笑った。
「そこの大将を潰して、他の八人を恐怖で稽古をさせるという手もあるんだけどね、でもさ、弱い者いじめをするのもなぁ、なんだか、格好悪いからねぇ、どうしたものかなぁ」
「悩むことはないさ。俺がどれほどあんたが強いのかを判断してやるよ」
巨体がじわりと、男に向かって構えた。
「それは無理だよ。だってね、歩き方を覚えたばかりの小さな子供が武術のね、口はばったいけどさ、達人の動きを読めるかい。残念ながら、君に私の動きを判断するような実力は無いよ」
「つまりは俺がガキだと言いたいわけだ」
怒気を含んだ巨体の言葉が終わりきる前に彼の右回し蹴りが男の喉元を貫くように疾走する。
すいと男は上半身を微かに引き、大したことでもないようにその爪先に右手を添えると、ふわりと押し出した。
「うぉおおっ」
巨体が軽々と宙に飛び、背中から思いっきり落下した。
「申し訳ないね。受け身くらいしてくれると思ったんだけどね」
巨体は口を開けたまま、白目をむいていた。
男は八人の顔をゆっくり見渡すと、笑みを浮かべて言った。
「次は誰が遊んでくれるのかい。まだ、私は遊びありないんだけどね」

 

「みんな。頑張って練習してる」
白澤が気のよい老婦人姿でやって来た。
九人が見事に並んで、真面目に自在を振っていた。
「あら、びっくり。本当に練習しているわ」
男は白澤に気づくと、軽く会釈をした。
「皆さん。真面目な子達で楽をさせてもらっています」
ふっと白澤は歯を食いしばって真面目に自在を振る巨体を眺めた。
「刃向かうと思ったんだけどねぇ」
白澤がふと辺りを見渡した。離れたところで、かぬかが一人、自然体から幾分、腰を落とした姿勢で立ち続けていた。
白澤はかぬかに近づくと、かぬかの肩に手を乗せ、ぐっと下向きに力を込める。崩れないかぬかの姿勢に小さく頷いた。
「どうして、かぬかを一緒に練習させてくれないの」
「九人の中に入れば大怪我しますよ。大サービスでこの子には、この基本の後、一時間、補習してあげます」
男はあっさりと答えると、先程とは打って変わって熱心に練習をする精鋭達に近づいた。
一人が自在をすりあげ、相手の上段に構えた自在を打つ。それだけの単純な動きだ。九人が組になり、一人の構えた自在を、次々と八人が打ち下ろして行く。
小柄な女が、自在をすりあげた。男はすっと近づくと、打ち下ろすのに合わせて、女の肩を軽く押す。女の自在が目にもとまらない速さで走り、受け手が自在を 持ったまま押し潰され、ひっくり返ってしまった。ひっくりかえったまま、受け手をしていた二メートルはあろうか云う男は今の動きが信じられないかのように 呆然としていた。
「術というほどでもない。ちょっとしたこつでね、うまく体が連動すればこれくらいの芸当はできるのさ」
男が女に言う。
「今の感触をどうすれば再現できるか考えなさい。自分で、考えて見つければ、それは自分の動きになる。いいね」
「は、はいっ」
興奮覚めやらぬ思いで、女が叫ぶように返事をした。男は倒れた男を片手で引き上げてやると愉快に笑った。
「しっかり受け身の練習をしてくれ。でないと体がもたないよ」
「いまのは」
「私は彼女の肩を少し押して、力や方向のずれを直しただけだよ。それだけでも、随分変わるだろう。私は手取り足取りは教えない。ただ、手順と見本は見せてあげるよ。あとは自分の頭で考えなさい。自分で考えたことしか、身にはつかないんだからね」
巨漢はいきなり男に向かって土下座した。
「失礼の数々、申し訳ありません」
「顔をあげなさい」
恐る恐る上げた顔は涙に泣き濡れていた。
「どんなときでも、どんな相手にも自分の首の後ろを見せるな。これはこの世界の基本だ」
男はふっと笑うと、言葉を継いだ。
「面白い奴だなぁ、君は」
男はひとつ息を漏らすと、ぱんと手を叩いた。
「さて、九時だ。帰って飯食って風呂入って、しっかり寝なさい。寝ることで、今日練習したことが脳に刻み込まれる、徹夜で一人練習なんかするなよ。さぁ、解散、帰れ、帰れ」
男は九人を追い出すと、かぬかと白澤の前に立った。
「君。名前は」
「か・・・、かぬかです」
「かぬか。そうか、白澤さんの血で蘇ったというのは君か。道理で動きは素人なのに、才能が桁違いにあるというのは白澤さんの血の影響か」
白澤がにんまりと笑った。
「お前の娘がこの子を体二つに斬ったのよ。責任は取ってもらわなくちゃね」
「何、言ってんですか。白澤さんが幸の攻撃を素直に受けてその体、上下の二つになっていれば、この子は何事もなく助かっていたのですよ」
「まっ、なんてこというのでしょうね」

かぬかは冷や汗をかいていた。本家の実力者で当主に次ぐ立場にあり、様々な呪術を繰り出す白澤は畏敬の念と同時に恐怖の対象でもあったのだ。そんな白澤に悪態をつき、それを白澤が嬉しそうに受け止めている。

男はふぃっと少し短めの木の杖をかぬかに手渡した。
「君には丁寧に教えよう。それは枇杷の木で作った杖だ。元々は軽くて柔らかい木だけれど、術をかけて折れなくしてある。これが自由に扱えるようになれば、自在を教えよう」

「おおい、かぬかさん」
気づくと、あさぎが心配げにかぬかの顔をのぞき込んでいた。いつの間にか、かぬかは座り込み、ぼぉっと庭を眺めたまま、まろどんでいたのだ。
「え、どうして。私」
「敵意がないんですよ、この風景は。だから、厳しい修行をしてきた人は反動で最初はぼぉっとしてしまう、幸の受け売りですけど」
いきなり、ドタバタと足音が響いた、息せききって、三毛が学校から、全速力で走って帰ってきたのだ。
「お、お久しぶりです、かぬかさん」
息もたえだえに、しかし、顔を上げて嬉しそうに笑った。
「あ、白澤様の孫だった」
驚いて、かぬかが声を上げた。
「今はここの娘、三毛です」
三毛はかぬかに走り寄ると、ぎゅっとかぬかを抱き締めた。
「かぬかさん。毎晩、御飯を分けてくれたこと覚えています。なのに、急に姿を消してしまってごめんなさい」
「ううん、残り物をなんでも入れてさ、四人で鍋囲むの楽しかったよ」
小さな子供のように、声を上げて三毛が泣き出した。
「これからは一緒です、一緒ですよ」
三毛が嗚咽しながら、言うのを、あさぎは驚いて、見ていたが、やがて、笑みを浮かべた。
そして、ちょっと思う。鯖を焼くのは明日にして、今日はお鍋にしようと。

 


32
最終更新日 : 2014-04-30 23:04:30

異形 月の糸一話

「幸はお父さんが好き。お父さんは幸が大好き」
男の部屋、事務椅子に座る男の背もたれに手を添え言った。
「あれ、父さん、幸が好きだったかなぁ」
「ええっ、お父さん。お父さんは幸が好きだよね、ねえったら」
「ちょっと待ってくれよ、父さん、思い出すからな。父さんは幸が好きだったかな、どうだったかなぁ」
「思いだせ、お父さん、思い出せっ」
幸が男の後ろでぴょんぴょん跳ねながら歌う。ふと、男が顔を上げた。
「父さん、優しい人が好きだけど、幸は優しかったかなぁ」
「優しい、とっても優しいよ」
「そうだ、父さん、言葉の綺麗な人が好きだけど、幸はどうだったなぁ」
「幸はとても言葉遣いが美しゅうございますわ」
男がくすぐったそうに笑った。
「父さん、思い出したよ。父さんは、幸が、大、大、大好きだったよ」
「やったぁ」
幸は万遍に笑みを浮かべると、後から男に抱きついた。
「幸も、お父さんが、大、大、大好きです」

「何やっとるんじゃ、この父娘は」
部屋に入ってきたなよが呆れ顔で言った。にひひと幸は笑うと、なよに言った。
「なよ姉さんもやる」
「わしがか」
ふいっと、なよは男に抱きついて、大好きと頬を寄せている自分の姿を思い浮かべた。慌ててぱたぱたと手を振る。
「勘弁してくれ。わしは、そんなガキではないわ」

「もったいないなぁ、なよ姉さんは」
ふと幸は柱時計をを見た。
「お父さん。そろそろ、畑に戻るよ」
男が頷くと、あっさり、幸は出て行った。
「繊細なのか、大胆なのか、見当のつかなぬ奴じゃ」
なよの言葉に男は笑うと、なよに椅子を勧めた。
なよが椅子に座ると、男が言った。
「相談があるんだろう、話してごらん」
「あのな。部屋が一つ欲しい」
「無駄に広い家だからね、空いている部屋、好きに使いなさい。そういえば、父さん以外、みんな、一つの部屋で寝ているし、不便なこともあるかもしれないね」
「いや、皆での雑魚寝は楽しい。というかのう、ふと目が覚めて、皆の寝息が聞こえるとほっとするのじゃ」
なよは幸せそうに少し笑うと、男に改めて言った。
「なんというかのう。実は機織りをやってみようかとな」
ふと男はなよがかぐやのなよ竹の姫と呼ばれていた頃、機織りの才に恵まれ、人気を博していたことを思い出した。刃帯儀も元は機織りから生まれた技だ。
「それはいいね。あ、でも道具とか揃えなきゃならないな」
「昔の屋敷の地下にある、先日、幸と確認したばかりじゃ」
「なら、黒達に運んでもらえばいいね。花魁道中の儀で」
「本来、高貴な者を運ぶ術が、すっかり引っ越しのトラックと同じになってしもうたわ」
なよが愉快に笑った。

かぬかは緊張していた。黒達は学校からまだ戻っていない。ならばと、なよはかぬかを連れて街へ向かったのだった。電車の長座席、隣同士になよと座る。一緒に生活をしてみて、なよへの恐怖心はいくらか薄れたが、いま、政府がかぐやのなよ竹の姫に掛けた懸賞金はうなぎ登りだ。懸賞金につられて、どんな賞金稼ぎが現れるかしれない。
なよといえば、OLが上司の命令で書類を届けに向かっていますというような、ありふれた単色のタイトスカートに白い飾り気のないシャツ、捲った袖口の高さが左右で違っている。姿はおしゃれなど気にもしない様子だが、その表情、ちょとした、手の仕草が、その高貴さを隠しえていない。
「かぬか。どうした、緊張しておるな。もっと、気楽に力を抜け」
「はい。ですが、周りの人達に賞金稼ぎが紛れ込んでいるかもしれないと思うと」
「ならばよい余興じゃ」
なよが微かに笑みを浮かべた。
「残念ながらこの車輛には乗っておらんようじゃの。久方ぶりに機織りをするからな。今の流行を調べに行く。呉服や貴金属、裏の世界に関わる奴もおろう、楽しいぞ」
「なよ姉さんは強い方ですが、好んでそのような場所に行かなくても」
なよが少し意地悪に笑みを浮かべた。
「ま、いろいろあるわい。それにな、何処の誰ともつかぬ奴のために我慢をするのは性に合わん。そんな人生はつまらんぞ。とにかく、終点まで行く。そして、繁華街をうろうろするのじゃ、なんといったかのう、ああ、ウィンドウショッピングじゃ」
なよは自分の言葉に得心したようにうなずいた。
列車が停車し、乗降する人、ふと、かぬかの視線が定まった。男性二人と女性の三人組。
微かな違和感、眼が違った。誰でも少なからず眼に表情がある、楽しいだとか哀しい、つまらない、何かに気を取られている、しかし、三人の眼は鏡面のようにその感情を、もちろん、それがあるならばだが、その内に隠していた。ゆらりとかぬかが腰を浮かす。
滑るように男二人が突進する、なよを取り押さえようとしたのだ。腰を落とした男達の顔面をかぬかの利き足が薙ぐ。
ふわりと男達がその蹴りの微かに下を潜り込んだ。瞬間、かぬかは軸足を浮かし、不安定になりながらも振り返る。
座席には穴が開き、男二人の頭が胸まで陥没していた。
なよ姉さん、いない、慌ててかぬかが車内を見渡すと、なよが女の首に腕を絡め、にぃぃとかぬかに笑い掛けていた。
「席がふさがってしもうた、こっちが三人分空いておる、来い」
かぬかは状況が把握し切れないまま、その女を間に三人で座る、乗客達は無関心を装って、関わりにならぬよう、俯いたり、あらぬ方向を眺めている。
「楽しいのう、道行きが三人になったわ」
「なよ姉さん、危険ですよ」
「寿司でいうところの、わしがとろで、お前がシャリ。こやつはワサビじゃな。とろとシャリの旨みを引き立ててくれるわい。面白い話を聞かせてくれるかもしれんぞ」
なよはにぃぃと笑みを浮かべると、女の肩に腕を回した。
「のう、智里。今日は一日わし等につきあえ」
「智里って」
「心を読まれぬよう術で心を隠しているようじゃが、わしには効かぬわ。かぬか、智里のうなじに触れてみい」
かぬかがそっと智里のうなじに触れてみる、じっとりと濡れている、汗だ。微かに震えている、緊張しているんだ。
なよが智里の耳元で囁いた。
「わしは古今東西の術を心得ておる。なぁ、智里。その面倒臭い術を解除してやろう。瓦解式、第四五三七八式」
なよは笑みを消すと、智里の耳元で囁く。意味不明の唸りだ。微かに漏れ聞こえるなよの声に、かぬかはこれが白澤様の言っていた中間言語による呪文の詠唱だと気づいた。
ふっと、智里の顔に恐怖が現れた。叫び出そうとする口をなよが手でふさいだ。
「どうした、智里。ん」
なよは笑みを浮かべると智里に囁いた。
「なんと、美味そうな首じゃなぁ、がぶりと食いちぎりたいのう。そうじゃ、昼飯代りに少しだけ食わせてくれ。な、いいじゃろう」
智里が涙を流しながら首を横に振ろうとする、しかし、なよの両腕に頭をしっかり固定され、動けず呻くだけだ。
「喉も渇いたわい、お前の血は何型じゃ、わしはA型が好みなのじゃが。ふむ、そうか、A型か。それは良いのう」
「なよ姉さん。それくらいにしてあげてください」
かぬかがたまらず声を上げた。
「ん、お前はわしを拉致しようとした奴に情けをかけるのか」
「で、でも。なよ姉さん、辛いです」
なよが声を上げて笑った。
「冷徹になりきれぬお人よしじゃな。ま、わしも幸も、お前のそういうところ、存外、気に入っておるがな」
なよがあっさりと両手を智里から放した。涙をだくだく流しながら、智里が荒く息を繰り返した、目の周りが真っ赤だ。
なよは、にぃっと笑みを浮かべる、そして言った。
「ま、可愛い・・・、ような気もする妹の言うことじゃ。智里、今日一日つき合え、そうすれば開放してやるわい、多分な」
いつの間にか、終着駅だ。なよは何事もなかったように立ち上がる、ドアが開くと同時に出た。かぬかがすぐに後を追う。驚いたことに、息の荒いまま、膝の震えるまま、智里が後をついて、列車を出た。
男二人を列車に残したまま。

何を考えているのだろうと、かぬかは驚いていた。智里という女、列車から下りずにいれば、プラットホームを反対に走れば逃げることもできるだろうに。なよ姉さんの後、一歩、引いて歩いている。少し、腰が引けて、怯えている。そんなに怯えているくせに。

駅を出て、ビジネス街を少し越えたところに老舗のデパートがある。
「よし、百貨店じゃ。入るぞ」
にかっと、なよがかぬかに笑みを浮かべた。

良く分からない、かぬかは呆気に取られていた。貴金属のフロア。手前にこそ、結婚指輪、数十万円の商品が並べられているが、一歩、踏み入れば、一千万円が基本の単位になっていて、億などざらだ。ただ、ガラスケースごしに眺めていても、かぬかには入り口の数十万の指輪との金額の違いがまったく理解できなかった。
「かぬか。どれが気に入った、というても、わしは無一文。買ってはやれぬがな」
気楽に言う、なよの顔を見る。なよ姉さんの顔、スーパーで夕飯の材料を買う時と同じだ。
「何がなんだか。どれも同じように見えるし、別世界に来たみたいで」
ふふんとなよが笑った。
「値札を見るなよ、値札ではこいつらの面白さはわからん。お前が良いと思えば、お前にとってそれは良いモノなのじゃ」
「は、はぁ」
ゆるやかな歩調で店員がやって来た。
「いらっしゃいませ」
にこやかな笑顔で店員が挨拶をする。
「わしらは無一文。眼の保養に来ただけじゃ。勝手に眺めておるから、いんで、金持ちの客を相手せい」
なよがあっさりと答える。一瞬、むっとした表情を店員は浮かべたが、すぐに笑みを浮かべ直すと、猫なで声で言った。
「こちらの商品は一般の方には少しお高いかと・・・」
「高いのう。ちぃぃと、掛け過ぎじゃな。適正価格の三倍はとっておるな」
「は・・・、それは」
店員が強い声を発しかけた瞬間、マネージャが様子に気づき、駆け込んで来た。
「あとは私が対応させていただくから、君は下がっていなさい」
マネージャーの叱責ともとれる言葉に店員はいぶかしく思いながらも、持ち場へと戻る。
「こ、これはかぐやのなよ竹の姫様。店の者が失礼を働き、申し訳ありません」
「かまわんわい。人を怒らせるのはわしの趣味じゃ」
にかっと笑うと、かぬかに声をかけた。
「かぬか、こいつが支配人、比奈垣じゃ。絶対友達になってはならん悪人じゃな」
「悪人って、そんな面と向かって」
「どんなに清らかな値を入れても、演算子が悪ではどうしようもない。こいつはな、善人のような顔をしておるから、余計に始末が悪い、覚えておけよ」
比奈垣が、ぱたぱたと手を振った。
「かぐやのなよ竹の姫様、いつものことながら、お口が悪い。私ほど、清らかな心の持ち主は居りません。このダイヤのように清らかで、透き通ってございます」
右手で指し示す、ティアラには、どれほどあると言えば良いのだろう、巨大なダイヤを中心に無数のダイヤがそれを囲み、夜の空を巡る星々を髣髴させる。
「ふん、たくさんの怨念が篭っているではないか。剣呑、剣呑」
意味ありげに比奈垣が口端を歪ませ、笑みを浮かべた。
「高値で売れますが、必ず、また、この店に戻って参ります、ただ、同然で。余程、ここが居心地よいようでございます」
「個人が持つようなものではないな」
なよが言い終わると同時に管内放送が流れた。
「お客様に申し上げます」
若い女の緊張した声だ。
「最上階のフロアに爆薬を仕掛けたという通報が」
アナウンスが終わる間もなく、ふいに、なよは両肩を上げ、そして下ろす。首を回し、準備体操をするように。
「なるほど。で、比奈垣。わしをいくらで売った」
「私どもでは到底姫様を捕獲することは不可能。ですが、結果に限らず通報するだけでもなかなかの小遣い稼ぎとなります。哀しいかな、私も雇われの身でございまして、大きなお金に目がくらんでしまいました」
笑みを浮かべたまま、比奈垣が答えた。
「しもたのう、先に着物を見ておけばよかった、大島紬の良い色があると聞いておったに。ほんに、比奈垣、お前は期待を裏切らぬ男じゃ。しょうがない。では、ぼちぼち、退散するかな」
なよが比奈垣に背を向けた。慌てて、比奈垣が叫んだ。
「ひ、姫様。私は裏切り者ですぞ、お仕置きを。お願いします、お仕置きを」
なよがつまらなそうに振り返る。
「お前の趣味につき合うのものう」
「し、しかし、大恩ある姫様を裏切りました、ぜひとも、折檻をお願いいたします」
なよは、比奈垣の前に立つと、ぐっと睨んだ。
「歯を食いしばれ」
「はいっ」
悲鳴にも似た叫び声で、比奈垣は直立不動に立つと、ぐっと歯を食いしばった、喜色に口元が綻びそうになるのを必死に歯を食いしばる。
なよが軽く比奈垣の頬を触れるかのように叩く。
「これで満足か」
「姫様、殺生でございます。そんな、生殺しのような」
比奈垣が最後の言葉を言い切る瞬間、なよの拳が空間を駆け、比奈垣の顎を打ち砕いた。まるで、独楽のように比奈垣が空を飛び、展示ケースの硝子を砕き、宝石を散らばせながら堕ちた。
「な、ないすでございます、姫様・・・」
呟くと同時に比奈垣は失神した、幸せな笑顔のままに。

「さて、智里」
なよの言葉に、気味悪げに比奈垣をのぞき込んでいた智里が飛び上がって顔を上げ、なよの足元にひれ伏した。
「顔を上げろ、話しづらい」
なよの言葉に弾けたように智里が顔を上げる。
「今日一日、苛め倒してから、解放してやろうと思ったが気が変わった。従業員の案内で溢れるように客が逃げていきおる。お前もそれに混ざればよい。追いかけずにいてやるわい」
なよはかぬかに視線を向けるといたずらげににっと笑った。
「これで満足じゃろう、ほんに庶民の妹は面倒臭いわ。少しばかり、こやつの首の骨を折っておけば、それですむものを」
なよの言葉に、かぬかはほっとしていた。うどん屋の店員が妙なことで、白澤様の精鋭になったのだけれど、人を殺すという行為に抵抗がある、まだ、そこのところが割り切れないでいる。
「いつか、その甘さがお前の災厄となるじゃろうが、わしがお前の姉である以上は、あまちゃんの妹を災厄から護ってやるわい」
「あ、あの」
智里が声を上げた。
「ん」
なよが振り向いた。
「かぐやのなよ竹の姫様。私を部下にしてください、お願い致します」
いきなり、智里が床に額をこすりつけた。
「ええっ」
思わず、かぬかが声を上げた。

二話
「いらん、いらん。鬼共に国を滅ぼされ、既に国を再興させる気も失せた。今はただの居候、部下など必要ないわ」
なよの言葉にかぬかも同調した。
「智里さん。なよ姉さんの部下になっても良いことなんて、一つもないよ。こき使われるだけだから」
むっとし、なよがかぬかの頭に拳をごつんと落とした。
「痛っ、たたっ」
「確かにその通りじゃが、口に出されると腹が立つわい」
なよは額を床に擦り付ける智里に怒鳴った。
「帰れ。出なければ、死体になって帰ることになるぞ」

「良いんじゃないかな。啓子さんが援農集団を作りたいって言ってたし、参加してもらおう、ちょうど良いよ」
幸はかぬかの後ろから両腕を回し、顎をちょこんとかぬかの肩に載せていた。
「うわっ、幸」
「にひひ。かぬか、後ろ取られるなよな」
「なにしに来た」
機嫌最悪のなよが言った。
「大好きななよ姉様がご立腹のご様子、旅先から、慌ててやって来た次第ですよ。面白いなぁ」
幸はふわっと智里の前にひざまずくと、清らかな声で智里に話しかけた。
「智里。顔をお上げなさい」
驚いて顔を上げる智里の視線に清らかな笑みを浮かべた幸がいた。
「女神様・・・」
幸は両手で智里の手を取ると、微かに俯き、そして顔を上げると、智里の目を見つめた。
「私はかぐやのなよ竹の姫の妹です。お前は何故、姉様の部下になりたいというのですか」
「高貴さと力強さに心を射貫かれました」
絞り出すように智里が呟いた。
幸は悠然と頷くと、強く智里の手を握り締めた。
「姉様は部下という言葉を好みません、哀しみが蘇り、その心を押さえ込んでしまうのです。智里、姉様はこれからもたくさんの苦難に対峙せねばなりません、姉様をお願いしますよ」
柔らかな笑顔を浮かべる幸に智里は強く頷いた。
「必ず、必ず、お護り申し上げます」
幸は頷くと、ふわりと浮き上がり、なよの横に浮かぶ。
「あとはよろしく」
「勝手なこと、ほざきおって」
幸は楽しそうに笑うと、かぬかに声をかけた。
「明日の晩、あかねちゃんと旅から帰るよ。いっぱいお土産買ってかえるからな、楽しみに待っていてくれ」
「お、おう」
「幸、地酒を忘れるな」
なよの言葉に頷くと、ふっと幸は姿を消した。

茫然としている智里になよが怒鳴った。
「立て、智里」
「はいっ」
跳ね上がるように智里が立ち上がり、直立不動の姿勢を取る。
「わしはこれから十分間、階上の呉服売り場で着物や帯を眺める。その十分間、ここから上には誰も通すな。十分後、かぬかとこの百貨店を抜け出せ。良いな」
「了解致しました」
智里が元気に答える。
「かぬか。茶店、築地で落ち合うぞ。智里を案内してやれ」
かぬかが頷くのを確認すると、その姿を消した。
智里は視線を外さないようしながら、かぬかに頭を下げた。
「かぬかさま。よろしくお願い致します」
「あ、あの。さまは勘弁してください」
焦りながら、かぬかが答えた。智里は頷くと、背中から一振りの刀を抜いた。直刀、刃渡りは四十センチあるかないかだ。
さてと、かぬかが考える、エレベーター、エスカレーター、階段、かぬかは走ると、五機あるエレベーターに駆け寄り、上下全てのボタンを押した。振り返ると、エスカレーターが止まっていた。智里がエスカレーターの横にある緊急停止ボタンを押したのだ。

足音、向かってくる足音、何重もの足音が重なり、地響きのようだ。
階段だ。
智里とかぬかが階段に駆け寄り、見下ろすと、盾をかざした機動隊が横並びに駆け登って来た。
目的は十分間、この階を持ちこたえること、そして、脱出すること。
かぬかは男の言葉を思い出していた。
杖は突けば槍と化す、特に筒はね、両端を刃のように鋭くしたものだ。筒をね、持ったまま、感覚的なことだけど、腕ごと最速で相手に飛ばしなさい、そうすれば必ず少し穴があくからさ、筒と体を繋いで、体当たりするように押し込みなさい。そうすれば大抵のものは貫くことが出来るよ。

「行きます」
かぬかが呟くと同時に階段を飛び降りた。先頭中央の盾だ。筒を打ち出す、盾に当たった瞬間、ほんの一ミリ、先端が盾に入り込んだ気がした。
「うおぉぉっっ」
雄叫びを上げ、かぬかが体ごと盾を打ち抜いた。列が崩れた透き間を智里が走る。一瞬、無防備になった機動隊を反撃する間を与えず、撫でるように切り裂いて行く。致命傷は与えない、深く斬れば刃毀れもあるし、時間もかかる。多を相手にする場合は神経戦だ、大量に血を流させることで、相手に動揺を与えるのだ。
かぬかは智里の動きを見た瞬間、電車での蹴り足を擦り抜けた男たちを思い出した。
なよ姉さんが異様に強いだけで、あの二人もかなりの使い手だ。でも智里さんはあの二人を遥かに越えている。
銃口、かぬかの目の前に黒く穿たれた穴が浮かんだ、催涙弾だ。
無茶だ。
爆音が聞こえた、そう思った瞬間、ふわりとかぬかは銃口の微かに下、潜り込んでいた。白い煙幕と刺激臭だ。
「かぬかさん。十分経ちました」
智里が叫んだ。
かぬかが智里の手をしっかり握った。
「白澤九尾猫様、お願い申し上げ奉る。我とこの者、いっとき、天翔る力をお与えくださいませ」
ふわっとかぬかの体が浮かんだ。


智里は驚いていた。隣りを歩き、喫茶築地へと案内してくれる女の子、十代後半くらいだろう。そんな女の子が白澤九尾猫、あの本家の大魔術師の力を借りることができる、それに、あの武器は噂に聞く「筒」だ。無という字を持つ伝説の術師が使っていたと聞く。
「ここですよ」
かぬかの声に、智里は顔を上げた。瀟洒で少し古風な喫茶店だ。先程の百貨店からもそう離れていない。
ドアを開ける、奥の席で、なよが珈琲を飲んでいた。そして、その向かい側と隣りには女の子が四人、おすましして座っている。
口元に珈琲カップを寄せたまま、なよが微かに視線を向ける、視線で頷いた。
すっと四人の女の子が立ち上がり、なよに近い席をかぬかと智里に譲った。
一番年嵩の女の子、黒がにっと笑ってかぬかに話しかけた。
「かぬかさん。なよ姉さんのお供、お疲れさまでした」
「どうして、黒達まで」
かぬかがそう言うと、黒は気恥ずかしげに笑みを浮かべた。
「ケーキセットでございます」
すっとウエイトレスが黒の前に紅茶と苺のショートケーキを並べた。
「かぬかさんと智里さんはどのケーキにしますか」
白がかぬかにメニュを手渡した。
「三毛はチーズケーキ。小夜乃ちゃんは黒姉ちゃんと同じ苺のショートケーキです。ちなみに白はチョコレートケーキですけど」
白は目の前に置かれたチョコレートケーキを幸せそうに見つめた。
「そんなわけでケーキにひかれて小夜乃ちゃんを花魁道中の儀で連れて来たんです」
三毛が言うとなよがにかっと笑った。
「本当は小夜乃だけで良かったんじゃがな」
「ごちそう様です。なよ姉様」
白がこくっとなよに頭を下げた。
肩に文鳥、額に絆創膏を貼った小夜乃は思い切って立ち上がると、智里に深くお辞儀をした。
「智里さん。母、かぐやのなよ竹の姫をお認めいただきありがとうございます」

 
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最終更新日 : 2013-08-21 19:09:58

異形 月の糸二話

異形 月の糸 二話

「お父さん、かんてき、持って来たよ。炭もあるからね」
黒が七輪と炭を入れた袋を両手に満辺の笑みを浮かべていた。
「黒、口元。ほら、涎が出ているぞ」
男が笑った。慌てて、黒は荷物を降ろすと、袖元で口を拭った。
恥ずかしそうに黒が笑う。
「面白いな、黒は」
男も楽しそうに笑うと糸の先に視線を戻した。
梅林を越えたところにある小川、その辺で男は魚釣りをしていたのだ。
「黒。いっぱい食べろよ、父さん、大きいの釣るからな」
「うん。ピクニックみたいでわくわくするよ」
男は満足げに笑みを浮かべると、ふぃと視線を糸の先に向けた。くくっと浮きが沈む。すぃっと併せ、竿を上げる、銀にきらめく魚を釣り上げた。
黒が目を輝かせ、魚を受け取った。
「大きいよ、三十センチくらいある」
「皆が来るまで、ちょっと試食しようか」
「しよう、しよう」
黒は器用に魚を三枚に降ろし、酢を塗り、塩を振った。七輪に載せると、しばらくして香ばしいにおいがあたりに漂いだした。
「お酢をつけると香ばしくなるって、あさぎ姉さん言ってた」
「いいにおいだ。ん」
ふっと、男は視線を上げた。黒の後、黒も振り返ると、遠く、ぼぉっとした表情で歩く智里を見つけた。
「おおい、智里さーん、こっち、こっちだよ」
黒がぴょんぴょん飛び跳ねながら大きく手を振った。
焦点定まらないままに、智里は立ち止まり、ぼぉっと眺めていたが、意識を取り戻すと、足早に駆けてきた。

「申し訳ありません。先生、黒さん」
「謝る必要は何もないよ。ね、智里さん、具合はいかが」
心配げに黒が智里の顔を覗き込んだ。
「住まわせていただいて、三日になりますが、時々、足がふわっとなってしまって、気持ちも良い気分で、何も考えられなくなってしまいまして」
黒が不安そうに男を見つめた。
男は安心させるように笑った。
「一週間もすれば無事に生活できるようになるよ。智里さんはね、二十代半ばだけれど、人が身につけることのできる技量ぎりぎりのところまで格闘術を身につけた、酷い修行でね。その負荷が当たり前になっていたところから、不意に解放されて、感性が戸惑っているんだよ」
智里は不思議に思う、家の裏庭がこんな広大な土地になっていること、そして、この男性は一体何者なのだろう。皆からお父さんと呼ばれる、少しやつれた感じの中年男性、特に特徴も無く、町ですれ違っても、思い出せないほどの。
「智里さん、今日はなよも機織りに専念すると言っている、ゆっくりしたらいいよ」
男は黒に目をやり言った。
「魚が焼けたぞ。智里さんと分けなさい」
黒は嬉しそうに頷くと、半身を皿に載せ、お箸を添えた。
「どうぞ、智里さん」
「あ、ありがとうございます」
男も笑みを浮かべ頷くと、釣りを再開した。
「美味しい」
智里が呟いた。
黒も魚を食べる。にっと幸せそうに笑みを浮かべた。
「智里さん、いっぱい食べてください」
男が苦笑する。
「頑張って釣るよ」

三毛と白がそれぞれ長机を頭上、高く掲げ走ってきた。その後を小夜乃が折り畳み椅子を両手に二つ、走って来る。小夜乃も今はすっかり元気になっていた。

「お父さん、ここに机を置くよ」
三毛と白が机を並べる。そして、小夜乃が椅子を組み立て並べた。
「まだ、椅子が要りますわ。黒姉(ねえ)」
白が言った。
「わかった、取ってくる」
黒がすぃっと家に向かって駆け出した。白と三毛も後を追った。
「みんな、元気だなぁ。小夜乃もすっかり元気になったね」
男が笑みを浮かべた。
小夜乃もそっと笑うと頷いた。
「自由に動けるのは楽しいです」
そして、智里を見つめた。
「智里さん。今日はゆっくりしてください、昨日はなよ母様のお供で大変だったとか」
慌てて智里が頭を振った。
「お供させていただけるだけで、ありがたいと」
「なよは人望があるからなぁ」
男が笑った。
「お父様も人望がありますわ」
小夜乃が真っすぐに言う。
「え、私がかい」
「はい。みんなお父様のこと、大好きですもの」
「そうか。なら、頑張って魚を釣るよ。みんなを飢えさせたら申し訳ないからね」
男は笑うと釣り糸を川面に沈めた。
ふと、智里は餌を付けずに釣り針を沈めるのに気づいた。擬餌のルアーでもない、釣り針だけだ。男がすぅっと竿の先を走らせる、つうんと引き上げると魚がかかっていた。
魚の移動を読んで、引っ掻けているのだ。普通のどこにでもいる中年男、としか見えない。でも、考えてみれば、なよ様でさえ、一目を置いている様子。
「あの、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
智里は思い切って男に声を掛けた。
「ん、何かな」
川面に糸を垂らしたまま、男が返事をした。
「あの。貴方様は」
「私のことかい」
智里が戸惑いながらも頷いた。
「さて・・・。ま、この地の元管理者。この子達の父親みたいなものかな」
にっと男は小夜乃に笑みを浮かべた。
小夜乃も頷くと、微かに頭を下げお辞儀をする。
「お父様にはお世話になっております」
「いいえ、どう致しまして」
男はかしこまって答えると、くすぐったそうに笑った。
「智里さん」
「はい」
「君がこうして、ここにいるのも何かの縁だ。なよが君を受け入れたのも、君の中に何か思うところがあったんだろうと思うよ。君の体は無茶な練習で悲鳴をあげている、このままなら、後数年と生きられないだろう。ここで養生をしなさい。体が整えば、何十年か先、老衰で死ぬことができるからさ」

「先生」
かぬかが鍋を両手に走って来る。
「鍋。七輪に置いてもいいですか」
「いいよ。うどんはあつあつが美味しい」
「鍋焼きうどんです」
竿を置き、男が鍋をのぞき込む。
「これはいいね、楽しみだ、うどんはかぬかが打ったのかい」
かぬかが照れたように笑った。
「もともとうどん屋ですから」
ふと、かぬかは真顔になり、男に尋ねた。
「あの。幸はもうすぐ帰って来るのでしょうか」
「そうだね。お昼の準備が終わるころには戻って来ると思うよ」
「そう、ですか」
かぬかの顔に微かな緊張が走った。
男は困ったように笑みを浮かべると、かぬかに言った。
「こちらに背中を向けなさい」
「は、はいっ」
かぬかが男に背を向けた。
男はかぬかの頭に両手をやると、頭の埃を払うように両手を動かす、そして、首、肩、背中を払って行く。
「かぬか。同じように、胸、お腹、腰を両手で払って行きなさい」
かぬかは不思議に思った。手で払って行くにつれて、なんだか、緊張が体から落ちて行く。
「太もも、膝、臑、ふくらはぎ、足首に足の甲まで払うこと」
「はい」
素直にかぬかは体を払って行く、不思議に緊張が解け体が軽くなって行った。

「父さん、古式寿法か。扱える者がまだおったのじゃのう」
なよが自在を担いでいた。その自在には何個もの折り畳み椅子が差してある。
「地味な術は廃れやすいからね」
男はなよに笑いかけた。
「智里にも教えてやってくれ」
なよは自在を降ろすと、素直に頭を下げた。
「なんだか、なよが可愛くなった」
男が笑った。
「わしとて、多少の礼節は心得ておるわい」
照れたようになよは少し頬を赤らめた。

男は笑うと智里にも同じように、払ってやる、急に智里は体が軽くなって、つまずきそうになる、とんとんと足を踏み代える、なんて軽い。体が風船みたいに浮いてしまいそうだ。
「智里、覚えておけ。今のが古式寿法 払いじゃ。いまの状態が己の筋肉と体重の関係じゃ。軽いであろう、それが本来のものじゃ、忘れるなよ」
「はいっ」
智里が直立不動になり、元気に返事をする。
「堅苦しい奴じゃ」
ふと、なよが興味深そうに男を見つめた。
「いつぞやの話で父さんの頭の中には、先代、先々代と、先祖の記憶が残っているとか、いったい、父さんに頭の中にはどれほどの記憶が残っておる」
男はふっと考え、そして、答えた。
「あるお爺さんが一本の光る竹を切ると、そこから女の赤ん坊が現れたという、父さんの先祖はその様子を見ていた。おおっ、なんと可愛い赤子ぞと呟いたとか」
「あれは戯作者の作り話じゃ。くだらんことを言うでないわい」
なよの照れた言葉に、男が楽しそうに笑った。

あさぎがバスケットを抱えて走って来る。その隣りを黒が特大のおひつを両手に抱えてやってきた。
「おむすび、いっぱい作るよ」
うきうきと黒が叫んだ。
白と三毛もかんてきと、炭の入った箱を持ってきた。
「お父さん。幸母さんとあかねちゃん、もうすぐ帰って来るかなぁ」
三毛が男を見上げた。

男はすっと家の方角を眺めて言った。
「こっちに向かっているようだよ。もうすぐ帰って来るんじゃないかな」
三毛がほっとしたように微笑んだ。
「三毛は母さんが帰って来て嬉しいか」
三毛が特上の笑みで頷いた。
男は笑うと三毛の頭をなでる。
「みんな、一緒が良いな」

「ただいま、ただいま」
幸は家から飛び出すと、駆け出して来る、背中に大きな風呂敷包み、両手には大きな買い物袋。
「お父さぁん」
叫ぶと同時に両手を広げた途端、両手の荷物が宙に浮かんだ。
「酒が」
瞬間、呟いたなよと黒が姿を消した。幸は、ばふっと男に抱き着くと、顔を見上げた。
「ただいま、お父さん」
「お帰り。楽しかったか」
「うん」
幸は笑みを浮かべると、隣りにいる三毛に笑いかけた。
「三毛、いい子にしてたか」
「はい」
素直に三毛が返事する、
「白はどうだ」
「白はいつもいい子ですわ」
当然のように言う白に、幸がくすぐったそうに声を出して笑った。そして、ようやく、幸は男から手を離すと、小夜乃に声をかけた。
「小夜乃、元気にしていたか」
「はい」
ほっとしたように小夜乃が笑みを浮かべた。
「あさぎ姉さん、ただいま」
「お帰り、幸」
「かぬか。ただいま」
「お、おかえり」
戸惑いながらかぬかが答える。
「お。鍋焼きうどんだ。かぬかが作ってくれたのか」
「あ。あぁ」
緊張した面持ちでかぬかが答える。
いたずらげに幸は舌をだすと、智里に目をやった。
「智里さん」
「はい」
緊張した面持ちで智里が返事をした。
「智里さん。ここは智里さんの家だ、そして、私達は智里さんの家族だ。幸は智里さんを家族と認めた。それはどんな状況になっても変わらない」
強い幸の言葉に智里は気持ちが高ぶり声が出ず、ただただ頷いた。
「あれ。なよ姉さんと黒は」
なよと黒は途中、幸の手から離れたいくつもの紙袋を、地面に落ちる寸前、抱きとめたのだった。
なよが袋を前に地面に胡座をかく。
袋を覗き込むと何本もの一升瓶が入っていた。
「これは清酒霞桜ではないか。最上級品じゃ」
にやけたなよが袋から酒瓶を並べ出す。黒はというと、袋にあった箱詰めの御饅頭をさっそく取り出し、食べていたのだった。
「黒さん。お行儀が悪いですよ」
遅れて戻って来たあかねが、軽く黒をにらんだ。あかねも幸と同じく、風呂敷袋を背負い、両手にいくつもの紙袋を携えていた。
「え・・・」
初めて黒は自分が御饅頭を食べていることに気づいた。
「思うより早く体が動くこと、武術では大切ですけどね」
「あかねちゃん、ごめんなさい」
黒がしおらしくあかねに言う。くすぐったそうにあかねが笑った。
「背中の風呂敷には御饅頭や色んな特産品、なよ姉さんの酒の肴まで入っています、当分、おやつに不自由しませんよ」
「いやっほう」
黒が喚声をあげた。しかし、あかねが両手に荷物を持ったままなのを見て、慌てて言った。
「あ、持つよ、荷物。えっと、あの、勝手に食べないから」
あかねは笑うと、両手の荷物を黒に手渡した。
「みんな、待ってるよ」
黒が幸せそうに笑みを浮かべた。

あかねがなよに声をかけた。
「お酒は後です、お昼御飯ですよ」
「おおっ、そうじゃったな」
なよは酒瓶を袋に戻すと立ち上がった。
「良い妹たちに恵まれて、わしは果報者じゃ」
「正確には好物の霞桜をまとめ買いして来る良い妹たちにですよね」
あかねがなよの言葉を訂正した。
「あかねの生意気な口ぶりも、いまは可愛くてしかたがないのう」
「それはどうも」
あかねはなよの言葉を流すと、少し先、智里を見つめた。
「あれが智里さんですね。なるほど、面白いことになりそうです」
「幸は面倒ごとが好きじゃからな」
「幸姉さんは男を毛嫌いする分、女性には優しすぎるのですよ。でも、そのおかげであかねも妹にしていただいたのですから、そんなことを言ってはなりませんね」
不思議そうに首をかしげる黒に、あかねはそっと笑みを浮かべた。

 


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最終更新日 : 2014-04-03 22:47:30


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