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異形 月の竹 眠るモノ 二話

朝まだき、空気がしんと静まり返っている。
男と黒は、朝の空気の中を梅林の奥深く、ゆっくりと歩いていた。男の片手には、新しいコピー用紙の束がある。

「黒、この辺でいいだろう」
男が立ち止まると、左手を上げ、手のひらを空に向ける。男の手の上に、水球が現れた、その水球はゆっくりと上昇しだし、弾けた。
「水の結界を張った。誰も近づけないようにね」
黒が驚いたように声を出した。
「先生も母さんも呪文唱えずにどうして出来るの」
「幸は説明してなかったかな」
黒が頷いた。
「呪文には二種類ある。幸が清めで詠う寿ぎ歌のように、特定の音の響きとリズム、それ自体が力を持つ呪文。もう一つは神とかのね、力を貸してくださいと依頼するための呪文だ」
「本家の術師達も普通に呪文を唱えていたよ」
「昔は本家にも呪文を唱えない術師がいたんだけどね」
男は地面にあぐらをかくと、紙の束を隣りに置いた。
「力を借りるのでもない、神に憑依されるのでもない、瞬間的に、自分が神様そのものになってしまえば、呪文を唱える必要がない。ただ、問題は人間の体には負担がかかりすぎるってことくらいだな」
「白が言ってた、先生は長く生きられないって言ってたって」
「若い頃、無茶し過ぎたのさ。さて」
男はコピー用紙を一枚取ると、右の手のひらに載せた。
「黒の頭の中には入っているはずだ」
男が黒に笑みを浮かべると同時に、その手のひらに載せた紙が半分に切れ、男の手のひらから落ちて行った。次に男は紙を頭に載せた。滑り落ちるように紙が二枚に別れ落ちて行った。
「呪術ではない、純粋に体術、体の微細な動かし方で、斬るという働きを生みだす。わかるだろう、誰もがこんなことできるようになったら大変だ、うっかり握手も出来ない」
男は笑うと、黒に紙を一枚手渡した。
黒は神妙に紙を受け取ると、そっと、手のひらに載せた。男は立ち上がると、その紙を上からのぞき込んだ。
「なかなかね、理屈はわかっていても難しいものだ」
「先生」
「ん・・・」
「先生、死なないでください。母さんが悲しみます、黒も悲しい、みんな、泣いてしまいます」
男がふっと笑みを浮かべた。
「ありがと。黒に泣かれたら大変だ、おじさん、頑張るよ」


幸は白を部屋の真ん中に立たせると、じっと見つめながら白の回りを廻る。三毛も隣りで不思議そうに幸を眺めていた。
「母さん、何ですか。急に」
あかねがふとそんな様子に気づき、部屋に入って来た。
「あぁ、ちょうどいいや。あかねちゃん、白は何年生に見える」
「え、白さんですか」
「うん、あかねちゃんと同じくらいかな」
「ですね。背丈、顔付き。白さんくらいの子、多いですよ」
「なら、中学二年生にしよう」
幸はぼぉっと眺めていた三毛に近寄ると、
「三毛は小学六年。なら、黒は中学三年ってことにするかな」
「どうしたんですか、幸さん」
あかねが不思議そうに尋ねた。
「武術も一通り教えたし、次は学校へ通わせようかってね、思ったんだ。それで、見た目の年齢に合わせて日本国籍を取らせようって思う、真っ当な方法じゃないけど」
幸はいたずらっぽく白に笑いかけた。
「白、大学の医学部に入って医者になってみるか」
「え・・・」
茫然とした表情で白は幸を見つめた。
「本当にいいの」
幸が柔らかく笑みを浮かべる。
「武術や呪術の練習は欠かしてはだめ、自分の身は自分で守れるようじゃないとね。その上で、勉強をして、生命を救う仕事をしたいというなら、それは有りだ」
幸は突っ立ったままの白の前で足を崩して座ると、顔を上げ、真っすぐに白を見つめた。
「武術や呪術を教えたのは、身を守るためだ。白や黒や三毛を、使って何かをしようなんてことは全く考えていない。家族だから、一緒に暮らしている、大切だから、こうして、一緒に生きているんだ。わかるかな、白」
白は言葉が出ず、ただただ、うなずいた。幸は笑みを浮かべると、今度は三毛を見つめた。
「三毛はどうする」
「そんなの、思いつかないよ、母さん」
「思いつかない、それも有りだよ」
幸は立ち上がると、梅林の方向に目を向ける。
「黒はどうするのかなぁ」

「先生、切れた、切れたよ」
黒が驚いた声で男に言った。
「なかなか優秀だな」
男は切れた紙の断面を睨んだ。
「少しざらついているけれど、でも、奇麗に切れている」
黒が嬉しそうに笑った。
次に男は小脇にコピー用紙の束を抱え、黒から三メートルほど離れた。
「紙を黒に向けて飛ばすからね、しっかり、切るように」
「はい」
黒が元気良く答えた。
男が紙を一枚取り出す、それをふわっと地面と平行に浮かせた。そして、とんと紙の後ろを指先で押す。すいっと紙が空を滑って行く。黒がそれに合わせて、右半身に構えた。右手で上段、左手で中段を守る。すっと紙が黒の右手の寸前で二つに切れ地面に落ちた。
「要領は飲み込めたようだね。なら、連続して攻撃するよ」
黒が頷くのを確認して、男は次々と、白い紙を繰り出す。そして、黒の寸前で、幾つもの裁断された紙が渦を成して行く。
黒に目に見える動きはない。しかし、黒の微細な動きに呼応して空気が小刻みに震える。
男は手元に残った紙が十枚、確認すると、まるで空中に書類棚があるかのように、すっすっと紙を上から下へと並べて行く。
「十枚同時に行くぞ」
「はいっ」
黒が鋭く答えた。
男が紙の後ろを手のひらで押した。
ぶわっと十枚の紙が黒の頭の上から、足元まで斬り込むように飛んで来る。黒がうっと声を漏らした。
紙が一枚、黒の目の前、一ミリにも満たない距離で停まっている。男が紙の後ろを摘まんで笑っていた。
男は紙を手に戻して言った。
「九割がた大丈夫。あとは移動しながらでも使えるようになれればいいな。もともと、多人数相手のものだからね」
「先生・・・」
黒が呟くように言った。
男がいたずらげに笑った。
「頭、斬られたら生きてないよな」
黒がそっと頷いた。
男は結界を解くと、涼しい風が流れ込んで来た。
「さてと」
男は呟くと、辺りに散らばった紙切れを拾い始めた。慌てて、黒も従う。
「あかねちゃんはね、真面目すぎるというか、潔癖症のところがあるからな。散らかっていたら叱られてしまうぞ」
「あかねちゃんが」
黒が男に聞き返した。
「あかねちゃんの気配が近づいているってことだよ」
男が笑った。
おおよそ、紙切れを二人がまとめ終わった頃、あかねが大きな紙袋を持ってやってきた。
「おじさん、黒さん。お昼ですよ」
あかねが男に紙袋を手渡した。
「幸お姉ちゃんからです」
「ありがとう」
男は紙袋を受け取ると、紙切れを仕舞い込んだ。
「当分、メモ用紙には不自由しないな」
あかねは笑みを浮かべると、黒に声をかけた。
「黒さん、強くなりましたか」
「え・・・」
黒は一瞬、質問の意図が掴めず、きょとんとしてしまった。
男は、腰を落とすと、あかねに話しかけた。
「黒に教えてくれないかな、含みと流し。おじさんでは身長が違いすぎて教えづらいんだ」
「いいですよ」
あかねはあっさりと答えると、黒の正面に立った。
「あかねちゃん、武術できるの」
黒が不思議そうに呟いた。あかねが楽しそうに、しかし、少し意地悪に笑みを浮かべた。
「黒さんたちには、鬼から助けていただいた恩があります。だから」
あかねが右足を数ミリ、前に送る。
「できるだけ手加減してあげます」

体中草だらけになる、息も絶え絶えとはこういうことを指すのか、黒は激しく息をし、ぎゅっとあかねを見つめた。
「黒さん、いい眼ですよ」
あかねはふらっと突っ立っているだけだ。
黒は一気に間合いをせまめると、一閃、あかねの左側頭部に右回し蹴りをいれた、最短距離を疾る突きのような蹴りだ。一瞬、黒はにっと笑うあかねの顔が視界一杯に見えた気がした。
青い空、あかねの右手のひらが柔らかく黒の顎を捉え、黒が背中から落ちた、後頭部を打たないよう、あかねの左手は黒の首筋を支えている。
「これが流しです。そして、さっきの黒さんの突きを溶かしたのが含みです」
あかねは黒の手を取ると、すっと立ち上がらせた。
「黒さんの筋肉、随分、参ってますね。これくらいにしましょう」
「ま、まだ、大丈夫」
男が後ろからすっと黒を抱え上げた。
「気持ちが折れてなければ良し。あさぎに遅いって叱られるぞ」
「で、でも」
「黒はあかねちゃんの動きをしっかり見ただろう、あとは、どうすれば同じ動きができるかしっかり自分で考えなさい。おじさんの教えた動きとあかねちゃんのを合わせれば、どんな動きになるかわかるか」
黒がごくっと息を呑んだ。
「わ、わかるよ。かあさんと同じ動きになる」
男が笑みを浮かべた。
あかねが黒の顔を覗き込んだ
「黒さん、しっかりね」
「う、うん。あかねさん」
あかねがくすぐったそうに笑った。
「ちゃんでいいですよ」?
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最終更新日 : 2013-05-11 17:41:26

異形 月の竹 眠るモノ 三話

「先生、見回りに行こうよ」
黒が夕食後、男に言った。
「でも、寒いし。行くのやだなぁ」
男がくすぐったそうに笑う。
「もぉ。そんなことじゃ、町を守れないよ」
怒りだす黒が面白くて仕方ないと男が笑った。黒達三人がここに住むようになって一年が過ぎた。裏社会での術師と鬼の戦いは既に鬼の優勢となり、一般の人達 には知らされていないが、術師の目を擦り抜けては鬼達が暗躍し、人々をさらってその血肉を食らっていた。ようやく、この頃になると、一般の人達も鬼を目撃 することとなり、嘘か真かと戸惑いながらも、夜間の外出を控え、また、昼間でも一人で歩くことを避けるようになっていた。
男が台所を覗くと、白があさぎを手伝って洗い物をしている。幸はあかねに数学を教え、それを三毛が覗き込んでいた。
「本当にありがたいことだな」
男は小さく呟くと立ち上がった。
「よし、行くか、黒」
「うん、先生」
「黒姉ちゃん、三毛も行くよ」
三毛は立ち上がると、ぱたぱたと黒の元へ走って来た。
「おとうさん、危ないことしちゃだめだよ」
幸が心配げに立ち上がったが、男は手で制すると笑みを浮かべた。
「大丈夫さ。黒と三毛が居てくれたら安心だ」

夜九時を少し回った頃、以前ならたくさんの車が行き交い騒がしかった表通りも、まばらに車が通るだけとなり、人や自転車は皆無だ。
「黒。駅前の商店街まで行こうか」
「うん。先生は黒が守ってあげるよ」
「それは心強いな」
「先生、三毛も先生を守ります」
「そうか。三毛も強くなったものな」
「ええ、呪術も使えるようになりました」
「一人前だな」
男が三毛の頭を撫でると、嬉しそうに三毛が喉を鳴らした。
冬手前の夜風は冷たい。黒と三毛は男の両脇に並び、ぎゅっと両手で男の腕を抱えるように歩いて行く。
男は初めて気が付いた。
「なんだ、二人とも随分と背が伸びたなぁ」
「三毛は一五〇センチ、黒は一六〇あるよ。白はね、ちょうど間の一五五センチ」
「そうか。初めて会った時はおじさんの腰くらいだったのになぁ」
「成長の度合いが人とは違うみたいです」
三毛が男の顔を見上げた。
「そうか、なら、来年は三メートルくらいになっているかもな」
男が笑うと、黒も一緒になって笑った。

ふと、角を曲がった先に男は人影を見つけた。
微かな街灯の明りにOL姿、会社帰りの女性だということくらいはわかる。
「これは珍しいこともあるもんだ」
「先生。一人歩きは危ないから、声をかけてくるよ」
黒がそう言って走りだそうとする、それを男が止めた。
「黒、送って行きますとか絶対言っちゃだめだぞ。まずは、こんばんは、どうして一人で歩いているのですかって尋ねること。いいかい、わかったかな」
「先生がそう言うなら、そうするよ」
男の笑みを確認し、黒が女に向かって走りだした。
「先生、どうして、黒姉ちゃんに念を押したの」
「ん・・・。すぐにわかるよ」
いたずらげに、男は笑った。
「三毛、すべての存在はそれ固有の振動数を持っている。それを読み解くことができれば、顔を見なくても誰だか、簡単に解るのさ。つまりは送って行くには遠すぎるよ」

「うわぁぁっ」
一瞬の悲鳴が聞こえた。
女の顔を見た黒は、悲鳴をあげた後、脚を震わせ今にも倒れそうになっている。
「しっかり。ぐっとお腹に力を入れなさい」
男は歩きながら、黒に声をかけた。
「左足、半歩前、相手の目の下辺りをぎゅっと睨みつける、気持ちで勝ちなさい」
三毛は何が起こったのかわからす、黒へと走り出しかけたが、それを男が止めた。
黒は歯を食いしばると、女を睨みつけた。
男は黒のすぐ隣りまで来ると、嬉しそうににっと笑った。
「かっこ良かったそ、黒。さっ、おじさんの後ろに隠れな」
まさしく、脱兎の如く、黒は男の背中に隠れると息喘いだ。

「かぐやのなよたけの姫。鬼族の国は三つに分かれていると聞きますが、そのひとつの女王が何ゆえ、こちらに」
男がさしてかしこまった風もなく、女に声をかけた。
「何処かで会ったかな」
「ええ、一度」
男は自分の首の前で、人差し指をすっと横に切った。
「まだ、少し、傷が残っているようですね」
いきなりなよたけの姫は男を睨みつけると、間合いを開け、数歩下がる、そして右腕を鋭く振った。空気が裂ける。刃、銀色の輝きが男の顔を貫く。
「先生」
黒が叫んだ。
男は左手の甲で刃が貫くのを制していた。
「斬る動作は同時に防御にもなる。黒、便利だろう」
男は笑うと、ぎゅっと目を瞑って縮こまっている三毛に声をかけた。
「三毛。おじさんの頑張っているところを見ておいてくれ」
はっと気づいたように三毛が顔を上げた。
長細い帯のような刃が、なよたけの姫の手を離れ、男の手を貫こうとしていた。
「自走式刃帯儀、元はただの絹の帯だ。こんな由緒ある技に出会うのは久しぶりだな」
いきなり、帯の反対側が繰り出し、螺旋に男の首へと、いや、ほんの数ミリ逸れ、夜陰を引き裂いた。
「黒、三毛。良く覚えておきなさい。全ての存在は特定の振動を持つ。その振動をフーリエ解析により、サイン波に分解する。それを利用して、擬似振動数を作 るんだ、そうすれば対象を共鳴させ、こちらが充分強ければ、そいつを操ることが出来る。でも、弱ければ逆転されてしまうけどね」
なよたけの姫が目を見開いた。雑音、意味不明の音がなよたけの姫の口から発せられる。
「これは中間言語による呪文の詠唱。人の言葉での呪文の詠唱は、どんなに頑張っても、本来の効果の七割程。でも、中間言語なら九割は期待出来る。今夜は良い勉強になるなぁ」
男の解説に黒と三毛の二人は、恐怖も忘れ、耳を傾けた。
「でも、この辺りが焦土になっては大変だな」
ふっと男の姿が前方に倒れかけた瞬間、男はなよたけの姫の懐に入り、右手で首と頭の狭間を抑える、一瞬、なよたけの姫が気絶したところを、その膝の裏を払い、なよたけの姫に尻餅をつかせた。

「わしの負けだ、殺すなら殺せ」
すぐに意識を取り戻したなよたけの姫が男に悪態をついた。
「私は勝ったから殺す、負けたから殺されるというような、難儀な世界には生きておりませんので、困ったな」
その瞬間、ぐぅぅっとなよたけの姫のお腹が鳴った。恥じ入るように俯く。
「高貴な人は大変だ」
男はふっと商店街の方角を見つめ、そして黒と三毛の二人に声をかけた。
「いま、佳奈さんに連絡をとったよ。商店街の中華屋さんが、まだ、開いているらしい。ラーメンでも食おう」
「ほんと、いいの」
「餃子もいいですか」
「いいよ。でも、幸やあさぎには内緒だぞ」
「やっほぉ、ラーメン、ラーメン」
「と、言うことで、黒、三毛、二人でなよたけさんに肩を貸してやってくれ」
「ええっ」
踊っていた二人が硬直した。

極度に緊張した黒と三毛が、なよたけの姫に肩を貸し、左右並んで歩く。その後ろを男が歩いていた。
肩を預けたまま、なよたけの姫がにぃぃと黒に笑いかけた。
「美味そうな子猫だのぉ。頭を半分に割って、脳みそを匙ですくうて食せば、どれほど美味かろう。滋養もあるであろうなぁ」
「先生」
半泣きになりながら、黒が叫んだ。
「頑張れ、黒。根性を見せてみろ」
男は楽しそうに答えた。
「そちらの三毛猫は、腕と足を網で焼いてたれをつければ絶品じゃ。肉も柔らかそうじゃ」
三毛が息を飲んだ。
「妹はだめ」
黒が叫んだ。

商店街に入り、中華店の前、佳奈が心配そうに三人を待っていた。
「先生、なんだよ。急にさ」
「悪いね、おもしろい人と会ってさ、一緒にご飯を食べようって話になってね」
佳奈は、二人に支えられているなよたけの姫に気づくと、男に言った。
「どうしたんだい、この人。具合悪いなら、うちの車で病院、連れて行こうか」
「腹一杯食えば元気になるさ」
男は笑った。
五人は連れだって中華店に入ると、テーブルについた。
「佳奈さん、この期時世だ、帰らないと、家の人、心配するだろう」
「大丈夫さ、明りのあるアーケードの下だし、それに先生なら鬼だってやっけてしまうだろう」
「勘弁してくれよ、争いは苦手だよ。それより、すぐにできるものから頼もうかな」
「まずはビールじゃ」
いきなりなよたけの姫が浮き浮きと声を上げた。
「亭主。まずはビール二本。それから、大至急、餃子を十人前、持って参れ」
「はーい」
このところの鬼騒動で客足がさっぱりだったのだろう、久しぶりの上客に、亭主は笑顔を浮かべた。
「黒、三毛。好きなの、頼みなさい」
「ラーメン定食とからあげ」
黒が嬉しげに声を上げた。
「な、三毛はどうする」
黒が楽しそうに笑った。食べ物を前に、それまでの恐怖をすっかり忘れてしまったようだ。
「それじゃ、天津飯をお願いします。先生はどうしますか」
「そうだな。晩御飯を食べた後だし、みんなでつまめるものがいいな」
ふと、男は入り口を眺めた。
「黒、任せたよ。適当に頼んでくれ。おじさん、ちょっと、外に出る、すぐに戻るからさ」

男が外に出ると、幸が少し俯いて立っていた。
「お父さん、お財布、持って来たよ」
「ごめん。小銭しか持ってなかったよ。父さん、だめだなぁ」
幸が少し顔を上げる、涙を流していた。
いきなり、幸は男にしがみつき、ぎゅっと顔を男の胸に押し当てた。
「お父さん、力を使わないで、命を削ってしまわないで。幸はずっと、ずっと、お父さんと一緒にいたいよ」
「ありがとう、幸」
男は幸をそっと抱き締めた。
「幸は泣いている顔も可愛いけれど、父さん、幸の笑顔が一番好きだ。だって、笑顔は幸が幸せだってことだからさ」
男は幸をぎゅっと力強く抱き締めた。
「だから、ごめんね、幸。泣かせてしまって」

しばらくして男が中華店に戻ると、既にテーブルの上はビール瓶一ダースと料理で一杯になっていた。
「おや、佳奈さんも飲んでいるのかい、亭主殿に叱られるよ」
ごくりとなよたけの姫がビールを飲み干し笑った。
「お前の娘たちは未成年だからな、佳奈に相手をしてもらっておる。酒は一人で飲んでおってもつまらん」
「なんだか、なよたけさん。すっかり馴染んでおられるようで」
男が困り顔で言った。
「佳奈は気風のいい、姐御肌のいい女じゃ」
「何言ってんですよ。なよたけさんだって。いい女ですよ」
酔っ払い二人がお互いを誉めあっている、男は溜息をつくと椅子に座った。
黒は食べてさえいれば幸せなのか、嬉々とラーメンを啜っていた。
「先生。黒姉ちゃんが先生の分で春巻きや春雨のサラダを頼んでいました」
「そうか。おじさんはあっさりしたのがいいから、ちょうどいいな。そうだ、お土産を持って帰らないと、白に叱られてしまうな」
「あとで持ち帰りを注文しましょう」
三毛はそう言うと、天津飯を美味しそうに食べ出した。しかし、ふと、男を見つめて小さく呟いた。
「ごめんなさい」
男は面白そうに、そっと笑みを浮かべた。
「三人とも、あかねちゃんを救い出すときに、なよたけの姫に散々脅されたようだな。まだ、鬼の中では、話のわかる人なんだけどね。なよたけの姫は角のない鬼だし」
「先生」
三毛が食べるのをやめて男に話しかけた。
「鬼っていったい何なんですか」
「それは難しい問題だな。人とは何なのか、人の定義と同じくらいめんどくさいな。ただ、昔話のように、鬼は人間と同じように二足歩行で、角があって、というのは、正確ではないし、また、鬼は一つの種でもない。あえて言うなら鬼の世界に住んでいる人達ってことかな」
三毛が頷いた。
「十メートルを超えるような大きな奴から、なよたけの姫のように人とまったく変わらない鬼もいる、あぁ、でも、共通して鬼は性格が悪いけどね」
「あぁ、何か言ったか」
なよたけの姫がビール瓶を片手に男に声をかけた。
「鬼の解説ですよ。なよたけの姫は性格が悪いと、この子に教えておきました」
「どうも、お前は正直すぎるな。そういう時は、言葉を濁しておけ」
男がくすぐったそうに笑った。
「性格が悪いのは否定なさらない」
「長く生きて、性格が良いままのわけあるか」
「月の人として、かぐや姫のまま、月にお帰りになればよかったのに。好いた相手が鬼であったとはね」
ふいに興味深そうに、なよたけの姫が男をじっと見据えた。
「ただのエキストラのような振りをしているが、お前、どこまで知っておる」
「わりと・・・」
にっといたずらけに男は笑った。
「ええっ、なよたけさんってかぐや姫なんですか」
いきなり、佳奈が声を上げた。
「そうじゃ。当時の帝もわしにぞっこんじゃった。懐かしいのぉ」
「なよたけさん、綺麗ですもんねぇ」
「いやいや、佳奈も美人じゃ。これだけの美人はそうはおらんぞ」
「いやですよ、美人のなよたけさんにそんなこと言われたら照れてしまいますよぉ」
男は三毛に呟いた。
「酒は飲んじゃだめだぞ。大人になってもね」
「はい。必ず」

中華店のドアが開いた。
「先生、手伝いに来たよ」
恵子が店に入って来た。
「やぁ、恵子さん。幸が頼んでくれたようだね」
恵子は三毛の隣に座った。
「酔っ払いと荷物で大変だろうからって」
「まっ、そうだね。佳奈さんは家に送って行って、なよたけさんにはうちに泊まってもらうかな」
「なよたけさん・・・」
えっと、息を飲み、恵子は酔っ払いの一人を見つめた。
「う、うわっ。あれ、かぐやのなよたけの姫じゃないですかっ」
椅子から飛び上がると、恵子は男の後ろに隠れた。
「特S級の鬼ですよ。どうして、ここに」
「さっき道であってさ、一緒に飯食いますかってことでね」
「先生」
「ん」
「友達は選んだ方がいいですよぉ」
男がくすぐったそうに笑った。
なよたけの姫は足元おぼつかなく立ち上がると、ゆらゆらと歩き、恵子に近寄って、その顔をのぞき込んだ。
「お前はわしのことを知っておるのか」
「は、はいっ」
「ふむ、その態度、確かにそうじゃろうな」
なよたけの姫はばしっとテーブルを叩くと男を睨みつけた。
「わしのことを知っておる人間は普通、こういう態度をとるものじゃ、恐れおののいて命乞いをする。お前はなんじゃ。あまりにも平気な顔をしておるから、わしも、己がそう云う存在であることを見失っておったわ」
男はいたずらげに笑みを浮かべた。
「威嚇したり、相手を押さえ付けようという関係よりも、この方が楽しいでしょう」
一瞬、なよたけの姫は呆れたように男を眺めたが、
「まぁ、そうではあるわな。しかし、調子が狂うのぉ」
小さく呟いた。

顔面蒼白の恵子の後ろを、両手に持ち帰りのギョウザや空揚げの袋をもち、浮き浮きと歩く黒。三毛は男の横を、その上着の裾を握って歩く。佳奈を自宅に送り届けた後、五人は夜道を家路へと歩いていた。
恵子が背負っているのはかぐやのなよたけの姫。決して重くはないのだが、大量の脂汗をかいていた。
「お前の肉は堅そうだのぉ」
「は、はい。食用には適しておりませんです」
「しかし、その耳たぶは柔らかくてうまそうじゃ」
なよたけの姫が意地悪く笑い、恵子に囁いた。
「どれ、ひとつ、食してやろうぞ」
「か、勘弁してくださいっ。先生」
恵子がたまらず叫んだ。
男は楽しそうに笑うと、少し歩を早め、なよたけの姫の後ろ頭を軽くこつんと叩いた。
「うちの大事な娘達に変なトラウマを刻まないでください」
なよたけの姫は頭に手をやると、小声で拗ねたように文句を言う。
「この一千年以上、頭を叩かれたのは初めてじゃ」

角を曲がり、家が見える。
幸と白が家の前で出迎えていた。
黒は駆け出すと白に声をかけた。
「白。お土産だよ。いっぱい、買ってもらったよ」
「お姉ちゃん、お帰り。あっ」
白が空を見上げた。
なよたけの姫が虚空に飛ぶ。標的は幸。幾十もの自走式刃帯儀が分厚い束になり闇を白くつんざいた。
待ち構えていたように、幸が唇の端を歪め笑う。
ふぃっと幸の全身の力が抜け体が前に倒れる、地面に倒れる瞬間、爆発したかのような勢いで刀を抜き、一閃、なよたけの姫が放つ全ての刃帯儀を粉微塵に切り裂いた。
幸の姿が消えた、着地したなよたけの姫の喉元に、既に幸は刃を重ねていた。
なよたけの姫がごくっと息を飲む。
「お客様、ご冗談はほどほどに」
嬉しくてたまらないと、幸はにぃぃっと笑った。
「わしの負けだ」
幸は笑みを浮かべたまま、ゆっくりと頭を横に振る。
「もっと可愛らしくどうぞ」
突き刺すように、なよたけの姫を見つめる。
「ご、ごめんなさい」
引き込むように、口元に幸は笑みを浮かべ、なよたけ姫の耳元に顔を近づけ囁いた。
「どういたしまして」

幸は刀を消すと、男に声をかけた。
「お父さん、お帰りなさい」
「ただいま。なんだ、幸はなよたけさんと案外気が合いそうだな」
ふんと鼻を鳴らすと、なよたけの姫は少し俯いた。
「やっかみ半分でお前の娘を攻撃したが、まさか、手も足も出んとは思わなかった」
「やっかみですか」
「お前の娘が幸なのだろう。あかねは、わしの後継ぎよりも、幸という女と暮らすのだと一歩も引かなかった」

「どうしたの、あかねちゃん」
あさぎが落ち着かずにいるあかねを心配して、声をかけた。
あかねには珍しく、狼狽して、台所と居間を行ったり来たりする。
「なんでもない・・・、というか、なんでもあるんですけど」
いきなり、あかねは納戸を開け入りかけたが、頭を振り、台所に戻ると、テーブルについた。
「はっきりさせなきゃ」
あかねは椅子に座ると大きく深呼吸した。
「はい、どうぞ」
あさぎはコップに水を入れ、あかねに差し出した。
「ありがとう、あさぎ姉さん」
「ただいま」
黒の元気な声が玄関口から響いた。たたっと走る音。黒が台所へと飛び込んで来、テーブルに包みを置いた。
「先生が買ってくれたよ。ギョウザ、シュウマイ、空揚げも」
あさぎは困ったように笑みを浮かべると、黒に言った。
「今晩は遅いからだめだよ。明日、食べよう」
「ええっ」
黒が泣きそうな顔であさぎを見上げる。
「ちょっとだけ、お願い」
「うーん」
「あさぎ姉さぁん」
甘えるように黒は囁くと、上目使いに、じっとあさぎを見つめた。食べ物がかかった、こういう時の黒は、必死で、それがとても可愛い。あさぎは溜息をひとつつくと、笑みを浮かべた。
「本当にちょっとだけだよ」
「うん、約束する」
黒が紙袋を開けていると、なよたけの姫が入って来た。
あかねは椅子から立ち上がると、じっとなよたけに姫を見つめた。
「あかねちゃん、なよたけさんと御飯食べたよ。とっても、恐いけど友達になったよ」
「こいつは、一緒に飯を囲めば打ち解けたと思いよる、単純な、しかし、羨ましい性格だな」
なよたけの姫はテーブルを挟んであかねの前に立つと静かに頭を下げた。
「無理強いをしたこと、悪かったと思う。迷惑かけたな。すまなかった」
「なよたけの姫・・・」
「それを言って置きたかっただけじゃ」
なよたけの姫は踵を返すと、部屋を出ようとした。
「なよたけさん、一緒に風呂に入ろう」
幸は着替えを両手に抱え、顔を出した。
「なんだ、黒。まだ、食うのか。太るぞ」
「ちょっとだけ」
「困った娘だな」
幸は笑うと、なよたけの姫に言った。
「まだ降ろしていない下着だからいいだろう。風呂、沸いてるからさ。アルコール、抜いておかないと二日酔いになるぜ」
「湯は有り難いが、用事があるからな。帰る」
幸は着替えを椅子の上に置くと、なよたけの姫に言った。
「短時間だったから、あまり調べられなかった。なよたけさんの国、攻め落とされたんだろう。なら、ここで暮らそう。一緒に飯食って、一緒に働こう」
「なるほど、確かに親子だな」
なよたけの姫は呆れたように笑みを浮かべると、美味しそうに空揚げを食べる黒を眺めた。たっぷりと空揚げにマヨネーズをかけている。
「こら、黒猫。本当に太るぞ」
なよたけの姫は軽く黒の頭をはたくと、ひとつ大きく溜息をついた。
「絶望、命からがら逃げ出して、何もやる気がなくなって、気づけば、あかねの居る町に来ていた。このまま、野垂れ死にもいいか、長く生き過ぎたなと思っていたところに、間抜けにもこいつが、声をかけて来おった」
なよたけの姫は黒の頭、はたいたところを撫でながら笑った。
「飯食って、酒飲んで、佳奈と喋り倒した。すっかり元気になってな、だから、これから敵討ちに行くことにしたんじゃ」
「敵討ちに・・・」
「あぁ、名前も知らぬ下女の仇を討たねばならん」
男が両手に反物を抱えてやって来た。
「幸。これをなよたけさんに渡していいかな」
「お父さん、それは」
「納戸の奥の柳行李に入れたままにしていた絹の反物だ。昔、本家から逃げ出した時、当座の費用にと、勝手にいただいたまま忘れていたんだよ」
「絹。あ、そうか・・・。お父さん、ありがとう」
幸は気づくと、男から反物を預かった。
「なよたけさん、剣の代りに、これ使って」
幸の手渡す自然さに、思わずなよたけの姫は受け取ったが、改めて男と幸を見つめた。
「わしはこれを使って、お前達の類や、人を殺めるやしれんぞ。いいのか」
幸がにっと笑った。
「しらふのなよたけさんと戦えるのは楽しみだ」
なよたけの姫は幸の自然な表情に思わず笑みを浮かべた。
「綺麗な色だ、ありがとうな」
まるで子供のような、なよたけの姫の笑顔。はっと気づき、慌てて、なよたけの姫は表情を消したが、目ざとく、にぃぃっと幸が引き込むように笑みを浮かべた。
「白、三毛。なよたけさんを笑わせるぞ」
「はいっ」
元気良く、白と三毛が返事した。

最終列車、どうもこの路線は揺れが大きい。
会社帰りの男、コンパ帰りの学生、酔客。吊り革につかまる乗客はなく、座席の三分の二は詰まっている。
なよたけの姫の隣りに白、その隣りには幸が座っていた。
「あの女、啓子とかいう、別れ際にわしの肩を叩きおった、それじゃ、またね。などとほざきおって」
白は必死になって笑いをこらえていた。
「これほどの恥辱は初めてじゃ」
白は気持ちを落ち着かせると、両手でなよたけの姫の手を握った。
「いままでとても恐い方だと思っていました。ごめんなさい」
なよたけの姫は手を引きかけたが、その力を抜くと、ふんと鼻を鳴らした。
「わしは恐ろしい鬼じゃ。ただ、今夜は少しばかり調子が狂っただけじゃ。まずはあの男がいかん。あいつが元凶じゃ」
「今頃、先生、くしゃみをしているかもしれません」
「そもそも、あの男は何者じゃ。わしの攻撃を素手で止めおった」
幸が少し笑った。
「あたしの大切なお父さんであり、夫でもある。それ以外の修飾する言葉はないよ」
「ある程度の実力を持った術者の一覧は既に把握しておる、お前にしても、お前の父親にしても一覧には無かった」
「一覧に載せてもらえないってことは、実力が無いってことだろうな」
幸は笑うと、辺りをゆっくり見渡した。
「電車に乗ったのは正解だったなぁ、余禄が付いてきた」
「花魁道中の儀が使えれば、方違えなどなしに、鬼の世界に戻れるが、もう供の者もおらんからな」
「なぁ、なよたけさん、白とあたしの他に、人はこの電車に乗っているのかな」
嬉しそうに幸が呟いた。
「この電車には人は乗っておらぬようだ。お前達を含めてな」
「何言ってんだよ。あたしも白も人だよ」
前方を眺めながら、幸が囁いた。
乗客全員だろう、次々に三人を取り囲んでくる。他の車両からも、乗客がこの車両に移り込んで来、幸達とは、ほんの一メートルほどの距離を開け、一つの巨大な壁にでもなろうかと、乗客達がにやけた表情を浮かべブロックのように隙間なく固まって行く。

「お前達を巻き込んでしまったな。わしが何とかしよう」
「いや、心臓が無いとはいっても、元は人間たちだ。あたしにさせてくれ。白の勉強材料にちょうど良い」
白は何も答えない。既に恐怖と緊張で叫び出す寸前だった。なよたけの姫の手をぎゅうっと握り締めている。なよたけの姫はなだめるようにもう片方の手を白の両手に載せた。
「良く見ておけ、白。こういう戦い方もある」
幸はゆっくりと立ち上がり、微かに俯いた。
そして、ゆっくり幸が顔を上げた時、まさしく、天女、マリア、観音菩薩、慈愛に満ちた笑顔を幸は浮かべていた。醜く引きつった無数の顔顔、顔の壁に、清らかな笑みを浮かべる。
「子供達よ。心穏やかになさい。もう、苦しまなくて良いのですよ」
幸は中央の顔に焦点を向けた。
「子供達、とても疲れているのですね。心にいくつもの、とげが刺さっているのですね、母はわかります」
ゆっくりと中央の顔の表情が消え、その両方の眼から涙がこぼれて行く、まさしく、母と出会えた幼子のように。
「母が降臨したいま、もう、子供達よ、辛いことはすべて消えました。何もかも忘れ、ゆっくりとお休みなさい。明日の朝日を夢見、ゆっくりとお休みなさい。すべては許されたのです」
幸が緩やかに両手を広げる、まるで、全ての者達を抱こうとするかのように。
ゆっくりと壁が崩れて行き、重なるようにして、眠る人達。どれも安らかな表情で寝息をたてている。
幸は振り返ると、にっと笑った。
「ま、明日がどうなのかなんて知らないんだけどな。はは、な、白、美人は得だろう。白も美人になるぞ」
唖然とする白となよたけの姫。
「さ、詐欺だ」
二人して叫んだ。

最終駅、列車はドアを開けたまま、明かりを消した。まるで、列車までが安らかに眠るように。
三人はホームに降りると、線路に下り、そのまま、線路を元来た方向へと歩き出した。
「このまま、二キロほど、この速さで戻れば、わしの国の入り口じゃ」
「なよたけさん、敵討ちって具体的に何をするつもりなんだ。大量殺戮、一気にかたをつけるかい」
幸がわくわくしたように言う。
「これでも、わしは鬼の側じゃ、そういうことを言うな。わしはお前の弱点もわかっておる。好き勝手にするなよ」
「あたしに弱点。んなもん、あるかよ」
幸はなよたけの姫に振り向くと、にぃいっと笑った。
なよたけの姫は溜息を付くと、白に言った。
「愉快な母親じゃのう」
白は困ったように笑みを浮かべた。
「いつもはとてもいい母さんなんです。でも、先生から離れると、ああいうふうに」
「己のことをあたしと言い出したら、叱ってやってくれとあった」
「え」
「反物に挟んであった手紙じゃ」
なよたけの姫は封筒をひとつ取り出すと、幸に言った。
「あやつは、真、お前を大切に想うておるようじゃのう。呆れるほど、お前の幸せだけを願っておる。お前が普通に楽しく幸せで生きられるよう、己が死んだ後も、お前が家族と共に普通の日常を送って行けるよう腐心しておる。ありがたいものだの」
「お父さん・・・」
すすり泣きだした幸に、なよたけの姫が言った。
「泣くな。泣けば、あやつの思いを涙で流してしまうぞ。すれば、また、この繰り返しじゃ。泣くのを堪えて心に刻み込め」
幸は俯いたまま、うなずくと歯を食いしばった。
「手紙、読むか」
「いい」
幸が俯いたまま答えた。
「帰ってから読む、父さんに心配し過ぎだよって笑って言うから」

闇の中、淡く光を放つ白い靄が見える。まるで壁のように、靄が闇の中に浮かび上がる。
「満月が戦乱の後の故郷を白く照らし出しておる」
なよたけの姫は深い吐息を漏らすと、二人に振り返った。
「わしにはもう、客人をもてなす力はない。つい、流れで同行してもらったが、敵は多いぞ。特に白、お前は戦には不向きじゃ。怪我では済まぬかも知れんぞ。 正直なことを言うと、お前が死ねば、幸は全てを、世界すら葬るかもしれん、出来れば避けたい。わしは、これでも、元は鬼の為政者だからな」
幸は真っすぐに、なよたけの姫を見つめた。
「なに言ってのかなぁ。なよ姉ちゃんは、もっと妹を信頼するべきだな。困った姉ちゃんだ」
にっと幸がなよたけの姫に笑いかけた。
なよたけの姫は不意に大声で笑うと苦しそうに息を吐いた。
「笑わせおる。なんと随分な妹ができたものじゃ」
ふと、なよたけの姫は真面目な顔になると呟いた。
「長く生きていると色々と思いもかけないことがあるものじゃなぁ」
なよたけの姫は気持ちを入れ替えるように、頭を振ると、二人に言った。
「よし。幸、白、ついて来い」


「うひゃぁ、軍隊だ」
幸が小さく呟いた。霧から脱出した、三人の目の前に一個中隊はあるだろう、重火器を構えた兵士達がその砲口を三人へと定めていた。
「白。戦車もこっち向いてるぜ」
「幸母さん、喜び過ぎです」
白が緊張を隠せず震える声で答えた。
なよたけの姫を先頭に幸と白がいる。
「あれ、なよ姉さん。こいつら、自衛隊じゃないか。ってことは人間か」
なよたけの姫は、振り返らず、前方を睨みつけたまま呟いた。
「人の支配者層は、己らの保身のため、既に見切りをつけた、国民を護ることにな」
「ふうん、鬼による事件が増えたのはその所為か」
幸がたいして関心なさそうに頷いた。
そして幸は夜空を見上げると、ひとつ、指を鳴らす。呼応するように、小さな星が四つ生まれ、流れ星のように帯を引き、落ちて行く。
幸は視線を戻すと、小さく呟いた。
「まさしく鬼司令官だな」
なよたけの姫に向き合うように、軍服を身につけた鬼が現れた。人の身長も横幅に対しても一.五倍はあるだろう。
「やはり戻って来たか。かぐやのなよたけの姫。どうだ、根こそぎ民を殺されたその感想は」
見渡すと、国というよりも、時代劇に出てくるような田舎の風景だ。
「開国を拒絶した報いだな」
鬼があざけるように嗤った。
なよたけの姫は、表情の消えた顔を上げ、目の前の鬼を眺めた。
「貧しいが、楽しく生きて来た。電気と化石燃料と貨幣経済を拒絶する生活は却って寄り添い、お互いを大切に生きることができた」
「貴様らがレアメタルの上で暢気に暮らしていたのが命取りとなった、そういうことだ」
なよたけの姫は、それ以上言葉を発することなく、ゆっくりと両手を肩の高さに広げた。
幸は察すると、白を片手に抱え、一瞬にして後方に退いた。
「下賎の鬼、わしを逃した、あの娘も殺したか」
鬼はにやっと笑うと、振り返る。直属の部下だろう、槍を鬼に手渡した。
鬼がかかげる槍の先に、血に赤く染まった少女の頭が、首から切り離され、突き刺さっていた。
「情に深い貴様のことだ、残しておいてやったよ。受け取れ」
鬼が槍を勢いよく振る。少女の首が飛んだ。
瞬間、幸は現れると、少女の首を抱え、手をその首に溶け込ませた。手を抜き、引っ張り出した黒い塊を戦車に向かって投げる。
爆風と轟音が辺りを震撼し、巨大な戦車を横転させた。
「なよ姉さん、あとはまかした」
幸が姿を消した。

「うおぉぉっ」
かぐやのなよたけの姫が咆哮が夜のしんとした空気を震わせる。幸は白を抱え、空に浮かんだ。
「本気のなよ姉さん、凄いな」
幸が呟いた。
無数の刃儀が鬼を兵士を切り裂いていく。
なよたけの姫は地面を飛ぶように移動すると、槍を持ったままの鬼を両断した。すべての砲撃を見事に躱し、武器も兵士も鬼も、迷うことなく細切れに切り裂く、次々と肉の破片が辺りを血の色と共に埋めて行く。
「まるで、ミンチ肉のように」
言いかけて、白が口をつぐんだ。自分の言葉が不謹慎に思えたからだ。
「パン粉と混ぜて、ハンバーグにしても、なんか、まずそうだな」
幸は平気な顔をして笑う。
「なよたけさん、こんなに強いのに」
「ん・・・」
「白、目を見開いて、向こうの血に染まってない地面を見てみろ。黒い線がいくつもあるだろう」
「あります。焦げたみたいな」
「さっき落としておいた、監視衛星と軍事衛星。レーザー光を発射して宇宙から人を焼いてしまう。エネルギーの巨大無駄遣いってやつだ。これは人の技術だ、妙なことになったな」

返り血で血まみれになり、なよたけの姫は、一人、茫然と立ち尽くしていた。
幸と白はなよたけの姫の前に降り立つと、幸は抱いていた少女の首をなよたけの姫に手渡した。
「幸。この娘の名前はなんというのだろうな。わしは身を呈してわしを逃してくれたこの娘の名も知らぬ阿呆じゃ」
なよたけの姫は両腕に少女の首を抱くと、くずれるようにひざまづいた。
「痛かったろうに、怖かったろうに。助けてやれずにすまない」
幸は睨むようになよたけの姫を見つめていたが、小さく息を吐くと、思い詰めたように白を見つめた。
「白。母さんが神になって何処かに行ってしまわないように。しっかりとしがみついていてくれ」
そう言うと、幸はなよたけの姫に優しく声をかけた。
「なよ姉さん。その娘を幸に渡してください」
顔を上げたなよたけの姫の両腕から、少女の首が浮かび上がり、幸は柔らかに少女の首を抱いた。
「幸・・・」
「この娘の魂魄はこの首にいまだ残り、なよ姉さんに逃げてくれと叫んでいます。この娘にもう一度、生命を与えましょう」
幸の両腕が白く輝き出した。
白は幸の体が不意に軽くなったような気がした。慌てて、白は強く幸を抱き締め、幸の背中に顔を埋めた。
「母さん、何処にも行かないで」
白が大声で叫ぶ、なよたけの姫が気づいた。
「幸。お前、神か」
はっと、なよたけの姫は状況を理解すると、幸の両脚をしっかりと抱えた。
少女の体が幸の両腕の中で再生され、実体化して行く。
「母さん、母さん、何処にも行かないで。お願い、一緒にいて」
白が涙声で叫ぶ。
光が消え、幸はそのまま、力をなくし、地面に倒れ込む。なよたけの姫が慌てて、その体を支えた。
「なよ姉さん。この娘が目を覚ましたら、名前を尋ねてやってくれ」
幸が疲れた表情で笑う。
娘が幸の両腕の中ですやすやと眠っていた。
幸はしがみついたまま固まってしまった白に言った。
「白。ありがと・・・」

「おぉい、母さぁん」
黒の声が遠くに聞こえた。
やがて、黒と三毛が走ってやって来た。
「黒姉ちゃん」
白が泣きながら叫んだ。
「大丈夫か、白」
「うん」
黒の後ろで、三毛は茫然と血まみれの地面を見つめた。
「母さん、これは」
「明日はハンバーグだ。美味いぞ」
三毛が大きくひとつ溜息をついて言う。
「だめです。一生、ハンバーグは食べられないかもしれません」
三毛が両手で口を覆った。

「ここがよくわかったな」
幸は笑うと、三毛の背中をさすりながら、辺りを見渡している黒に言った。
「走ってすぐだったよ。先生がぎゅっと白のこと、思って走ったらすぐだよって、教えてくれたんだ」
「そうか。鴨居に結んだ白の髪の毛で道が繋がったのか。帰りはその道を辿ろう」
幸は緩やかに笑みを浮かべると、なよたけの姫に言った。
「なよ姉さん、風呂で洗いっこしよう。姉さんの顔、血糊や涙や鼻水で大変だ」
慌てて、なよたけの姫は袖でごしごしと顔を拭いた。
「あぁ、そうしよう。遠慮はしないようにする」
幸はほっと安心して小さく笑うと、黒に言った。
「黒。なよたけ姉さんを背負ってくれ。三毛はその娘を頼むよ。体が馴染むまでまだ時間がかかるだろう」
「幸。この娘はわしが背負おう。そうしたいのだ」
幸はなよたけの姫の言葉に頷くと、ゆっくりと立ち上がった。
「黒、三毛。なよ姉さんが倒れそうになったら支えてくれ。白は先頭、道案内だ」


闇の中、男は一人、月明かりを頼りに台所で水を飲んでいた、家の中は、すっかり寝静まっている。
なよたけの姫まで、普通の女の子のように、大声で騒ぎながら、風呂を遊び場のように、幸達とはしゃぐ、その声が居間からでも聞こえていた、なよたけの姫の女の子っぽい笑い声にあかねが目を丸くして驚いていたのを男は思い起こす。
「千年の重荷を降ろしたということか」
ふと影が動いた。なよたけの姫だ。
なよたけの姫は、テーブルを挟み、男の前に座った。顔が影になり、細かな表情が伺えない。
「あ、あのな・・・」
なよたけの姫が言葉を選ぶように言う。
「どうぞ」
男が促した。
「幸が言うのだ。わしは幸の姉だ、だから、お前を・・・、お前を父さんと呼んで欲しいとな」
思いもしなかったなよたけの姫の言葉に、男は小声で愉快そうに笑った。
「驚きました」
「だ、だめか・・・」
「いいえ、光栄の至りです。こちらこそ、どうぞ、よろしく」
安心したように、なよたけの姫は息を漏らした。
「それなら、彼女はなよたけさんの娘ということでいいですか。なよたけさんの一番の気掛かりは彼女のこれからでしょう」
「もうひとつある」
「亡くなった人達のことですね」
男が呟くように言った。
「わしも、人の心が声に出して言っているようにわかる。だから聞こえるのだ。魂魄はあの地にそのまま残り、いまも悲鳴をあげ続けている。わしはその魂を鎮めてやらねばならん」
男は優しくなよたけの姫を見つめると、心配げに言った。
「なよ。父さんはお前の心と体が心配だよ。とても、疲れているのがわかるからね」
「でも、お父さん。なよは忘れることができないんだもの」
我慢し切れず、なよたけの姫が小さく笑った。
「我ながらつまらぬ小芝居を。、緊張感がだいなしじゃ」
なよたけの姫は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「ここはいいな。この家に繋がった異界は、和やかで、わしの気持ちも、落ち着く。なぁ、わしは深刻ぶって身を削ろうというのではない。国の責任者としてけじめをつける、ただ、当然のことをするだけじゃ」
足音がした。
幸は少し寝ぼけたふうに、なよたけの姫の隣に座った。
「幸も行くよ。じゃないとなよ姉さん、国に入れないもの」
「そう言えば、国を出る時、なにやら、結界を巡らしておったな」
「レアメタルは新たな戦争を引き起こす元になるから、簡単には入れないようにしたんだ」
そう言いながらも、眠いのだろう、幸がなよたけの姫の肩に体を預ける。
「疲れさせてしまったな。さあ、幸、寝に行こう。起こして悪かったな」
なよたけの姫は幸を支え、ゆっくりと立ち上がった。
「父さんも寝ろ。宵っぱりは体に毒じゃ」
「お休み。もうすぐ寝るよ」
男はなよたけの姫が幸に肩を貸し、寝間に行くのを見送る。
そう言えばと男は黒がはしゃいでいたのを思い出した。
かあさんとなよ姉さんの間に寝るのは、世界で一番安全なところで寝るのと同じだよだとか。
男はふと自分がいなくなった後も、なよたけの姫が居てくれれば安心だと思った。
22
最終更新日 : 2013-05-11 17:42:42

異形 月の竹 眠るモノ 四話

男は、夕刻、茶店の窓際の席に座っていた。
珈琲をテーブルに戻し、行き交う人を眺める。
街中、まだ、日差しは残り、夕食の材料だろうか、買い物帰りらしい女性が多い。
男は会計事務所の勤めからの帰り、待ち合わせにと茶店に寄ったのだった。
幸せすぎて申し訳ない、思わず、男の口から小さく言葉が漏れた。

「よう、久しぶりだな。寺で閉じ込められて以来だ」
男がゆっくりと顔を上げた。
「どちら様でしょうか。お人違いではありませんか」
男が興味無さそうに言う。
愚円は男の前、斜すに座ると、テーブルに右肘を載せ笑った。(短編小説『異形流堰迷子は天へと落ちていく』四話より)
「冷たいなぁ、昔の仲間によ」
男は、溜息をつくと静かに言った。
「あんたとは仲間だった記憶はない。だが、仕事を邪魔された記憶ならある」
男は残った珈琲を飲むと言った。
「私は待ち合わせでね。ここで人を待っているんだ。邪魔しないでくれるかな」
「なんだ、儲け話か。なら、俺にも小遣い稼ぎさせてくれよ」
「いや、娘と待ち合わせだ」
一瞬、愚円の顔が引きつった。
「幸とか言ったな」
「あんたの口から、娘の名が出るのは、なんだか汚されたようでいやだな。まぁ、幸は四女で、これから来るのは次女だ」
愚円はほっと息を漏らしたが、おそるおそると尋ねた。
「同じばけものか」
「私の娘達をばけもの呼ばわりするな。みんな、可愛くて優しい女の子だ。さっきもね、思っていたんだ。・・・こんな私が、良い娘たちに恵まれてさ、申し訳ないくらいだってね」
「あの神殺しの魔術師とも言われた無がこんな冴えないおっさんになってしまうとはな」
男は小さく笑った。
「褒めてくれてありがとう」

男は初めて愚円の姿を直視した。
「仕立ての良いスーツ。こざっぱりとした様子じゃないか。ちょっとしたやり手のビジネスマンだな」
「垢だらけでは女にモテないからな。それに金もある、遊ばないという選択肢を選ぶ理由はないだろう」
「坊主を辞めたのか」
「いや、館長直々の命令だ。人探し、いや、鬼探しだ」
愚円は顔を寄せると、小声で囁いた。
「この辺りでかぐやのなよたけの姫を見たという情報がある。随分と前だがな」
「鬼の女王か。探しているのか」
「賞金が出ている。一生、遊んで暮らせる金額だ。だが、俺はそんな金には関心がない。それだけの金を出そうということ自体に関心がある。考えられないような金が裏で動いているはずだ」
「なるほど、敏腕のビジネスマンだ」
「あんたも一口乗らないか」
「冴えないおっさんだからな、遠慮しておくよ。私はそんなことよりも、今晩の晩御飯の方が関心あるんだ。だしの効いた茄子のつゆびだしが食いたいとかさ」
愚円が哀れむような顔で男を眺めた。
「ここまで落ちてしまうとはな、あの無が」

こんこんと硝子を叩く音がした。なよたけの姫と黒が笑みを浮かべ、手を振っている。男は入り口を指さすと、にっと笑みを返した。
「愚円。手を引け、怪我するだけだ」
いきなりの男の言葉に愚円は男の真意を計りかねた。

「父さん、待たせたな」
「たいして待っていないよ」
男が笑った。
「その男、誰じゃ」
「古い知り合い。とっても悪い奴だから、喋っちゃだめだよ。さぁ、帰ろうか。ん、黒がいないな」
「あそこじゃ」
なよたけの姫が指さす入り口、ショーウインドにケーキが売られており、ぼぉっと黒が幸せそうに見つめていた。
「アップルパイが欲しいらしい。なぁ、父さん、初めての給料は父さんのものを買うつもりじゃったが・・・、アップルパイ買っても良いかのう」
「なよが佳奈さんちでアルバイトしたお金だ、父さんのことよりも自分が買いたいことに使いなさい、ついでに言うと、父さんもアップルパイ、好きだからさ。みんなで食べたら楽しいな」
「ならば、そうしよう」
にかっとなよたけの姫は笑みを浮かべると、黒のところへと歩きだす。呼吸困難のように口をぱくぱくさせていた愚円がやっと意識を取り戻した。
「俺が館長から探索を仰せつかったのは、かぐやのなよたけの姫の顔を知っているのが俺と館長だけだったからだ。なんで、かぐやのなよたけの姫があんたの娘なんだ」
「うーん、他人の空似かな」
男が気楽そうに答えた。
「多分、お前の情報も、うちの娘を見間違えたんだろう、削除しておいてくれ」
男は明細を持ち、立ち上がるとレジへ向かった。

にこぉぉっと黒が満辺の笑みを浮かべる。
店の外、黒はしっかりとアップルパイ、ホールで二つ、箱を抱えていた。
「先生、ありがとう」
「ん、買ったのは、なよだよ」
「なよ姉さん、先生にお礼を言えって。先生の新しい財布がアップルパイになったんだからって」
「そうか、それは、どういたしまして」
男は笑うと、なよたけの姫に言った。
「さすがのなよも黒には甘いなぁ」
「性根が腐らん程度には甘やかしてやるわ、一応、こいつはわしの命の恩人じゃからな。それに、こいつが声をかけなんだら、小夜乃も生き返ることはできんかった」
ふっとなよたけの姫は笑みを消した。
男はなよたけの姫が小夜乃を連れ帰った次の朝、小夜乃を抱きかかえ、助けてくれてありがとうと真っすぐに言ったこと、そして、小夜乃に国の責任者として民を守れなかったのを謝ったことを思い出した。
小夜乃はなよたけに姫にしがみついて泣いていた、いつまでも。


「あ、黒。なよ姉さんにアップルパイを買ってもらった」
あさぎの横で、夕食にと茄子を切っていた幸が声を上げた。
「黒はなぁ、本当に」
幸は手を止めて、溜息をついた。
「ごめんなさい、母さん。黒姉ちゃん、悪気はないんです」
白が慌てて黒をかばった。
白は棚からお皿を出していたが、手を止めると、そっと幸に言った。
「ここに来るまで、本家では、食べるもの、あまりもらえなくて、黒姉ちゃんが、あたしたちに食べさせようと、いつも・・・」
幸は包丁を離すと、ぎゅっと白を抱き締めた。
「良い姉さんだな」
「うん」
白が堪えるように小さく呟いた。
あさぎが棚からティーカップを出す。
「夕食の後はアップルパイ、紅茶の用意、しておくね」
「あさぎ姉さん、しょうがないから、黒にはちょっと多めに取り分けてやろう」
「うん、しょうがない、しょうがない」
あさぎが楽しそうに笑みを浮かべる。
「あ、でも、そうしたら、黒は白や三毛に、自分の分も食べろっていうかもしれない」
ふと、あさぎが呟いた。
困ったように、白は笑みを浮かべると、首を横に振って言った。
「あさぎ姉さん。それは絶対ないと思う」
くすぐったそうにあさぎが笑った。
幸はもう一度、茄子を切り始めたが、思い出したように言った。
「そういえば、三毛はまだ戻らないのかな」
「小夜乃ちゃんと散歩するって、出たきりだね。あかねちゃんも一緒かな」
あさぎが答えた。
「あさぎ姉さん」
「ん」
「体操をね、小夜乃ちゃんに教えてやってほしいんだ。いいかな」
「うん、教えるよ」
「ね、そのうち、この体操はダイエットと美容の体操ですって売り出そうか。儲かるかもしれない」
「本が百万部突破、DVDもつくらなきゃね」
幸の言葉に、あさぎが笑った。

川上を夕日が沈んで行く。
三人がそれを静かに眺めていた。
並んで座る影、静寂を遮るようにあかねが言った。
「綺麗な色ですね」
「太陽は燃え尽きて死んでしまうけど、朝にはまた甦り、世界を照らす。だから、朝の太陽は生まれたばかりの元気な赤ん坊なんだよ」
小夜乃が小さく呟いた。
「それは」
三毛が小夜乃の言葉を促した。
「かぐやのなよたけの姫様の言葉です」
ふと、三毛は小夜乃の手を握ると呟いた。
「ごめんなさい、とっても恐い人だと思っていたんだ」
小夜乃はそっと笑みを浮かべた。
「とっても恐いけど、とってもとっても優しい人なんです」


くしゅん、なよたけの姫がくしゃみをした。
「なよ姉さん、それは噂くしゃみだよ」
両手にアップルパイの箱を抱え、黒が笑った。辺りは少しずつ、夜の気配を現し、三人は家路へと急ぐ。
「ならば、誰かが、わしを褒めてくれてるのだろう」
黒が楽しそうに笑った。
「きっと、良い人だっていっているんだ」
「さてな。わしはそんなには良い奴ではないからな」
なよたけの姫はふっと顔を曇らせたが、気持ちを切り替えるように笑った。
「黒。お前はわしが恐くないのか」
「怒鳴られたら泣いてしまうかもしれないけど、でも、恐くない。啓子さんも、なよ姉さん、恐くなくなったって言ってた。とっても可愛い女の子だって言ってたよ」
「あやつはなめておるのぉ。まぁ、良い、それもあやつの良いところじゃ」
「なにはともあれ」
なよたけの姫が顔をぐっと上げた。
「かしずかれるより、対等に喋るのは随分と楽しいものじゃな」


「無の野郎。何が娘だ」
ホテルの一室。愚円は女がシャワーを浴びている間、ベッドの上で歯噛みをしていた。
このまま、尻尾巻いて逃げ出せるはずがない、お宝が目の前に転がっているのに、手ぶらで帰れるか。
しかし・・・、流石にあの三人を相手に勝ち目はない。
そういや、なんで、かぐやのなよたけの姫にあんな賞金が付いているんだ、それに、いま、奴の国は結界が張ってあり、誰も入れない、もちろん、鬼の奴らもだ。そもそも、人と鬼の連合軍が、なんで、あんなど田舎の国を攻める必要がある。
このからくりの裏を解いて行く方が、儲けに近いかもしれん。どうせ、あいつら三人に勝てるような奴はいないからな。
出し抜かれる心配はないだろう。
不意に、シャワーの音が止まった。


「母さん。なよ姉さんにアップルパイ買ってもらったよ」
家の前で少しは叱ってやろうかと、黒を待ち構えていた幸だったが、黒のなんの戸惑いのない、その声に半分呆れ、笑みを浮かべた。
「良かったな、黒」
ぐりぐりと拳で黒の頭をなでる。
「もぉ、母さん、痛いよ」
「ごめん、ごめん。さぁ、アップルパイは冷蔵庫だ」
「うん」
黒がぱたぱたと家に駆け込んで行く。
「黒にはかなわないな」
男が笑った。
幸も笑うとなよたけの姫に言った。
「なよ姉さん、お疲れさま。折角の給料がアップルパイになってしまったね」
「給料は余禄じゃ。わしは佳奈のところへ遊びに行っているようなものじゃからな」
「でも、佳奈姉さん、喜んでいたよ。売上が上がったって」
なよたけの姫がにっと笑った。
「売り子は面白いのぉ。国を治めるのと似ておる」
「話はあとあと。さあ、家に入ろう」
男は二人を促すと家に入った。

「あ」
小夜乃は小さく呟くと、よろめきながら、なよたけの姫の元へ走り、その前で正座した。
「お帰りなさいませ、姫様」
「ただいま。しかし、ここではその姫様はやめてくれ。妙に照れるからな」
なよたけの姫は小夜乃の前に座ると、右手を差し出した。
「わしの手を両手でぎゅっと握ってみい」
「は、はい」
うぅっと唸りながら小夜乃が両手でなよたけの姫の右手を強く握る。
「よしよし。随分、力が戻ってきたな」
小夜乃は手を離すと、嬉しそうに笑った。
「さて、晩ご飯の用意もできておりそうじゃ。食卓を出すかな」
なよたけの姫が折り畳みのテーブルを廊下から運ぶ、あたふたと小夜乃がそれを手伝った。三毛とあかねがもう一つ、テーブルを出し、並べる。これで九人が座ることができる。
満辺の笑顔のまま、黒が折り畳みの椅子を運んで来た、白も折り畳み椅子を両手に運ぶ。
「黒さん、嬉しそう」
「小夜乃ちゃん、晩ご飯の後はアップルパイだよ」
黒は椅子を降ろし、小夜乃を抱き締めると、うふふっと笑う。
「黒姉ちゃん、涎が出てるよ」
白が見とがめて言った。
「黒姉ちゃんは幸母さんの御陽気なところばかり似ています」
白が大袈裟に溜息をついた。白は意識して幸を母さんと呼ばずに幸母さんと呼ぶようにしていた。
黒は笑うと、小夜乃から離れ、椅子を並べる。
「何を言われても怒らないよぉ。御陽気母さんに似ているって言われても」
黒が鼻歌交じりに答える。
「ジャガイモと茄子と玉葱のお味噌汁です」
三毛が鍋を抱えて台所からやって来た。よいしょっとテーブルに鍋を置く。
「やったー、いっぱい食べるよ」
「黒姉ちゃん、アップルパイを食べるなら、ちょっと、控えめの方がいいよ」
「えぇっ、三毛は厳しいなぁ。入るところが違うから大丈夫だよ」
「別腹ってやつですね。黒姉ちゃんは本当に胃が二つあるかもしれない。一度、母さんに診てもらったほうがいいよ。でも・・・、太るかもしれないけど、アップルパイは楽しみです」
三毛は笑うと黒に頷いた。
「黒さん、ほどほどですよ。黒さん、少し動きが鈍くなっています」
「は、はいっ」
あかねがおひつを抱え、直立不動になった黒を少し睨んだ。
三毛が不思議そうに二人を見る、あかねがちょっと舌を出して、三毛に笑いかけた。

「よいしょっと」
男が野菜炒めいっぱいの大皿を抱えて持って来た、やっとのことで、テーブルに置く。
「いろんなのが入っておるのぉ」
なよたけの姫が驚いて覗き込んだ。
「美味しいですよ」
あさぎがお茶の入ったやかんを片手に笑った。
「いま収穫できる野菜はもちろん、ハーブや食べられる草まで入っています。味付けはちょっと中華風です、自家製ベーコンも入っていて旨みは充分ですよ」
「なるほどのぉ、あさぎの作ってくれるものは旨くていい。早く食べよう」

食卓では必ず黒は真ん中に座る。両方の大皿からおかずを取るためだ。
頂きます、元気よく黒は言うと本当に嬉しくてたまらないと笑顔で晩ご飯を食べる。
あさぎが黒を見て、幸せそうに笑った。
「黒ちゃんは本当に嬉しそうに食べてくれるね、作りがいがあるよ」
「あさぎ姉さん、とっても美味しいよ」
「ありがと」
黒はにひひと幸のおどけた時とそっくりの笑みを浮かべた。幸はふと、立ち上がると、硝子戸を開け、代わりに網戸を閉める、涼しい風がそっと入ってくる。そして振り返る、
楽しいなと小さく呟いた。

深夜、男が部屋の明かりを消そうとした時、襖の向こうからなよたけの姫の声が聞こえた。
「入っても良いか」
「どうぞ」
男が答えると、襖が開き、なよたけの姫が入ってきた。
男は椅子に座ったまま、少し顔を上げ、笑みを浮かべた。
「どうしました、なよ」
なよたけの姫が緊張した面持ちで呟いた。
「わしはここを出て行く」
「夕方の、あの破壊坊主の頭の中、読んだんだね」
男は溜息をつくと、俯いた。
「小夜乃だけは、これからも、ここで暮らさせてもらえないか」
かすかに、なよたけの姫の言葉が震えた。
「小夜乃ちゃんは、なよがいないとだめになってしまうよ。それに」
ふっと、男が顔を上げた。
「大事な娘をほうりだすなんてことは、父親として出来ないな」
男は右手で、なよたけの姫の手を力強く握った。
「家族ってなんだろうと思うことがある。ここには、いわゆる血の繋がりという意味での親子は存在しない。でも、ここでは血の繋がりよりも強い、思いの繋がりで親子が成り立っている。父さんはなよを娘と認めた。だから、どんな奴からもなよを守るよ」
男はじっと、なよを見つめたが、ふと襖に目をやった。
あたふたと、幸が部屋に飛び込んできた。
「なよ姉ちゃん。幸も戦うよ、だから、ここで一緒に暮らそう」
なよたけの姫が小さく溜息をついた。
「似た者親子じゃなぁ」
なよたけの姫のもう片方の手を幸は両手でぎゅっと握ると、嬉しそうに笑った。
「なよ姉ちゃんも、随分と、お人好しだ。だから、似た者親子の似た者姉妹だよ」

「わかった」
なよたけの姫は呆れたように言うと、二人の手を解いた。

皆が寝静まった夜中、なよたけの姫は屋根の上に座り、月を眺めていた。
ゆっくりと雨戸が開く、あさぎがつっかけを履き、外へ出てきた。そして、辺りを見渡し、それから、空を見上げる。
やっと、なよたけの姫に気づいたのだろう、笑みを浮かべると、自分を指さし、そして、なよたけの姫の横を指さした。
なよたけの姫は絹の紐を飛ばし、釣り上げるように、あさぎを持ち上げ、自分の横に座らせた。
「ごめんなさい、なよ姉さんがいないし、雨戸が少し開いていたから気になって」
なよたけの姫は少し笑うとあさぎの頭をなでた。
「ただの月見じゃ、心配するな」
「なよ姉さん、悩みはうまく解決したようですね」
「ん、どうしてわかった」
「なよ姉さん、晩ご飯の時、ふっと暗い顔をしていたのが、今は表情が柔らかいから」
なよたけの姫は困ったように笑みを浮かべた。
「表情に出ておったか。心配かけたのぉ」
くすぐったそうに、あさぎも笑みを浮かべる。
「父さんに相談した、改めて、わしは、なんて言うかな、自分の居場所を見つけた気がする」
「それはあさぎも同じです」
あさぎはなよたけの姫に腕をからめ、かすかに俯いた。
「助けてもらえなかったら、消えてしまうところでした。今は皆がいてくれて、とても楽しい。もしも、消えていたらと思うと胸がぎゅっと苦しくなります」
「お互い良かったな」
なよたけの姫の言葉にあさぎはそっと頷いた。
なよたけの姫は永く思い出すことのなかった、幼少の頃をふと思い出した。
「そんな時代もあったな」
小さく呟く。あさぎはその声に顔を上げた。
なよたけの姫は笑みを浮かべるとあさぎに言った。
「もう寝よう。夏とはいえ、風邪をひいてしまうぞ」
23
最終更新日 : 2013-05-11 17:43:53

異形 撃 一話

「あれは」
男が小さく呟いた。
夕刻、中学校から帰る白の姿だ、友人だろう、同じ制服を着た女の子と公園のベンチでお喋りを楽しんでいる。
男は白の世界が少しずつ広がって行くのを感じた。
学校に通わせたのは正解だったかなと思う。
黒が中学三年、三毛は一年、白が二年と一年ずつずらしたのだが、黒と三毛は出席日数を計算し、出来るだけ学校に行かないようしている。同い年の人間が嫌いなようだ。白だけが、医者になるのを目指し、真面目に学校へと通っていたのだった。
男は少し笑みを浮かべると背を向けた。

歩きだし、しばらくして男は白の気配を後ろに感じた。
「お父さん、冷たいですよ。声をかけてくれなきゃ」
白は男の右腕を両腕でだきかかえると、嬉しそうに笑った。
「ごめん、ごめん」
男は笑うと、白の頭を左手で撫でる、嬉しそうに白が笑みを浮かべた。
「白のお友達です」
白は手を離すと、隣にいた女の子を男に紹介した。
「津崎椿さんです」
慌てて、その女の子は男にこんにちはと言い、会釈する。
「白の父です。白をよろしくね」
男は穏やかに笑みを浮かべたが、ふと振り返る。
「ケーキ店の前か。白、良いところで声をかけたなぁ」
「はい」
白がにっと笑みを浮かべた。
「父兄同伴なら買い食いもいいだろう。ケーキセットでいいかな」
「黒姉ちゃんたちもいいですか」
「もちろん」
男が笑みを浮かべた。

ケーキ店に設えたテーブルに着く。男の前に白、白の横に椿が座った。
「津崎さん、白は学校で楽しくしていますか」
「え、あ、はっ、はい」
男は笑うと、白に言った。
「良い友達が出来たね、白。最初はどうなるかなと不安だったけど。あとは、黒と三毛か」
白が少し困ったように笑みを浮かべる。男は軽く溜息一つをついた。
「まぁね、特に黒は頑ななところがある、三毛は黒に影響されているしさ。父さんの前では二人とも素直で可愛い女の子なんだけどね」
ふと、男は入り口を見た。はぁはぁと息を切り、走ってきたのだろう、黒が小夜野を背負って立っていた。後ろには三毛が小夜野が黒の背中から落ちないよう支えている。
「お父さん、音速で走ってきたよ」
黒はにっと、幸と同じ笑みを浮かべると、小夜野を背負ったまま、男のもとにやってきた。
「座って、ゆっくりしてくれ。お疲れ様」
三毛が座席を向こうから一つ、取ってきてテーブルに寄せる、黒がそれに小夜野を座らせた。
「なよ姉さんからの伝言です」
「三毛、なよは小夜野のこと、心配してなかったか」
「とっても、心配していた。でも、小夜野ちゃん、一時間なら外に出ていいって」
三毛が嬉しそうに笑った。
「なよは過保護だからな」
男が笑みを浮かべた。
目の前の座席に座ろうとする黒を見て、津崎はどぎまぎしていた。
突然、転校してきた美人三姉妹。特にいっこ上の黒と呼ばれる女の子は、端整な顔立ちと怜悧な表情で、私達の憧れの先輩だ。
黒と三毛も椅子に座る、ふと、黒は津崎を見てにっと笑った。

「椿ちゃん、白をありがとうね」
津崎は慌てふためいて、こくこく頷いた。
「こ、こちらこそ、あの、あっと、えっと、白さんと、な、仲良くさせていただいていますっ」
そっと、黒が目元に柔らかな笑みを浮かべると、少し頷いた。

「さて、ケーキを選んでくれ。お喋りばかりだと、お店の人に叱られてしまうぞ」
男は笑うと黒にメニュを手渡した。
「白は何にする」
黒が白に話しかけた。
「白は断然チョコレートケーキです」
「相変わらずだなぁ、椿ちゃんはどうする」
津崎は憧れの先輩の笑みにどう答えればと、慌てふためいた。
「あの、えっと、えっと・・・」
返事ができず、津崎が固まってしまった。
「椿ちゃん、大丈夫だよ。深呼吸なさい」
黒の言葉に津崎は大きく深呼吸をする。白も津崎の手をやわらかく握った。
「わ、私もチョコレートケーキでお願いします」
黒がにっと笑った。
「ここのチョコレートケーキは美味しいよ」
黒は小夜野に話しかけた。
「小夜野は何がいい」
「苺のケーキが食べたいです」
「黒と一緒だ、ケーキはやっぱり苺だよ。三毛は何にする」
「決まってます、チーズケーキです」
うふふと黒が笑った。山羊を飼い始めたのだ、三毛は山羊のミルクでチーズを作るのだと楽しみにしている。
「お父さん、どうする。一番のお勧めは苺のケーキだけど」
「そうだな、お勧めは父さんには甘すぎるかな、ショコラケーキを頼むよ。それと、珈琲で」
「珈琲は母さんに叱られるよ。だから、父さんが母さんに叱られたら黒も一緒に謝ってあげるよ」
「頼りになるなぁ、黒は。ありがとう」
男が嬉しそうに笑った。
黒が注文に行く間、ふと、三毛が言った。
「黒姉ちゃん、大人っぽくなった気がする」
「そうだね。お姉ちゃんとして頑張っているんだよ」

三人を中学に入れるにあたって、男は幸と相談し、自分を三人の父親ということにした。
それからだろう、三人は男を先生と呼ぶのを止め、お父さんと呼ぶようになった。
ただ、あかねや啓子も男をお父さんと面白がって呼ぶようになった、そういう意味では男の広い意味でのあだ名と捉えても良いかもしれない、とにかく、男は改めてそう呼ばれることが楽しいことだと感じていた。

「ね、お父さん」
三毛が身を乗り出して男に声をかけた。
「今日はお仕事、早く終わったの。まだ、明るいよ」
「うーん」
男は困ったように笑みを浮かべた。
「実は会社をくびになってね。公園でぼぉっとするかな、って時に白に見つかったのさ」
三毛が目を輝かせた。
「それなら、お父さん、ずっと家に居ることができるの」
「再就職も難しい時代だからな。困ったなぁ」
「大丈夫だよ。母さん、喜ぶよ。母さん、この頃、父さんの身体のことが気掛かりで、ぼぉっとしたり、泣いたりしてたんだよ」
「そうか・・・、辛い思いさせたんだな」
男は少し俯くと、小さく吐息を漏らした。
「幸と畑仕事するのも楽しいだろうな」
「そうだよ。母さん、とっても喜ぶよ。あさぎ姉さんのお店も順調だよ、心配ないよ。生活できるよ」
「そうだね、楽しそうだ」
「ね、三毛が山羊さんの世話を教えてあげるよ。山羊さんのチーズでチーズケーキを作ろうよ」
「わかった。それじゃ、三毛に教えてもらおう。三毛、よろしくお願いします」
三毛が幸せそうに笑った。

黒は話が終えたのを見計らって、戻ってきた。
「お父さん、頼んできたよ」
「そっか、ありがとう」
黒は椅子に座ると、男にそっと笑みを浮かべた。
「お父さん」
「ん」
「話聞いてたよ。お帰りなさい、お父さん」
男はくすぐったそうに笑うと、ただいまと呟いた。

食事を終わったのを見計らい、男が言った。
「少し薄暗くなったな。父さん、ちょっと、用事があるからね、みんなで津崎さんを家まで送っていきなさい」
「うん、その方がいいと思う。なんだか、どんどん、物騒になるもの」
「そうだな」
男は頷くと小さく呟いた。
「あと、半年でなんとかしなきゃな」
「え・・・」
「ん、なんでもないよ。さぁ、暗くならないうちにお帰り」

男は黒達を見送ると、深く溜息をついた。
詳しくはわからないが、鬼との協定で政府は、幾人かの人身御供を提供するよう決めたようだ。もちろん、テレビで報道されるわけではない。裏からの情報だ。 連れ去られた人間は、食われるか、慰み物になるか。鬼は人間を主食にしているわけでは決してない、つまりは遊びとデザート代りのようなものだ。
そして、連れ去られた人間は行方不明者として扱われる、何らかの理由で一年間に行方不明になる人間の数は案外多い、それに鬼の分が増えたとしても、さほど、目立たないだろうと政府は考えているらしい。
もちろん、その現場に遭遇すれば、角を生やした巨体がいくつもいるわけだ、騒ぎにならないはずはない。はずはないのだが、そうならないのは、多分、誰もが、この現状を気づきだしたのだろう、だから、直接、自分に被害が及ばない限りは見て見ない振りをするようだ。
それほど、人は高尚ではない。

「ん、幸はケーキ、どれにするかな」
男が顔を上げると、幸が目の前に立っていた。幸は口を閉ざしたまま、自然に口付けをする。
「ふむ。お父さんはショコラケーキだ。幸も同じのにするよ」
幸は笑みを浮かべると、店員にケーキを注文し、隣に座った。
「幸」
「ん」
「悪いことした、ごめんね」
「三毛はおしゃべりだなぁ」
「それは幸がとっても好きで、自分が何をすればいいのか、一所懸命考えたのさ」
「良い娘だ」
「一所懸命って良いな。ちょっと眩しい」
「ね、お父さん」
「ん」
「もっと近づいていいかな」
「いいよ、ありがとう」
幸は男の肩に頭を寄せると、両手で男の手を握った。
「お父さんにもっと近づきたいな」
「ありがとう、でも。ぶつかってしまうぞ」
「お父さん、幸はもっとお父さんに近づきたい。服の数ミリの幅でさえ、遠くに感じてしまうんだ」
「なんだか、凄い言葉だな」
「お父さん。幸もね、一所懸命なんだ。お父さん、本当にごめんなさい」


先頭を歩いていた黒が不意に立ち止まった。
囲まれてしまった、充分に気配を探っていたのに。囲まれる前に対応できなかったなんて。
相手、強いのか。
黒がすぅっと深呼吸をする。
「白、三毛。津崎さんと小夜乃を囲め。鬼に囲まれた」
黒の目の前に黒い影が浮かび上がる。高さ五メートルはあるだろう、その黒い影は次第に実体化し、額に角を生やした鬼の姿になる、戦争映画で見たような戦闘服を着ていた。
「黒姉ちゃん」
三毛が叫んだ。目の端で後ろを覗く。五人を囲むように鬼が円陣を組んでいた。

「黒猫。小夜乃というのはどれだ」
巨大な鬼が地鳴りのような声で黒に問いかけた。
「なんのことだか、わからないな」
鬼は面白そうに五人を見比べていたが、小夜乃を睨むと、にぃぃと笑った。
「猫と人間、簡単な消去法だ」
鬼が号令を掛けた。
「真ん中の白い服の女を連れて行け。後は形も残らぬよう切り刻め」

黒ががっと目を見開いた。
「自在」
黒が叫ぶと、両手に一本ずつ、男の使う、筒が現れた。
それを白と三毛に投げ渡す。
「白、三毛。姉ちゃん、一気に片付ける。少しの間、二人を守れ」
「なんだ、黒猫。腰でも抜かすかと思うたが、どうやら、楽しませてくれそうだな」
正面の巨大な鬼が地響きのような大笑いをする。
「警告する」
黒が声を発した。
「無の眷属、黒。命が惜しければ、すぐさま去れ。惜しくなければ、肉片と果てろ」
不意に鬼は関心を持ったのか、黒を睨みつけた。そして、顔を上げ、睥睨(へいげい)する。
「お前ら、手を出すな。にっくき魔術師 無の関係者らしい。一対一で楽しませてもらおう」
凄みのある笑みを鬼は方頬に浮かべ、黒に言った。
「踏み潰してやろう」
瞬間、黒が間合いを狭めた。飛び上がり、宙返り、鬼の顎を蹴り抜いた。
鬼は微かに安定を崩し、半歩、足を引いたが、さほどの衝撃を与えることは出来なかったらしい。
「首の太さを考えろ」
鬼は笑うと、反撃を開始した。
五メートルもの身長の二足動物がどうしてこんなにも動けるのか。容赦ない頭上からの打撃が黒を襲う。
必死になって黒は打撃を避けるが、何故か避けた方向へ打撃が飛んで来る。
瞬間、鬼が姿勢を落とした、まともに鬼の前蹴りが黒の腹部を蹴り上げ、黒がまるで紙切れのように飛ばされた。
鬼は笑うと、黒に言った。
「要らぬことを言ったな。無の名前がでなければ苦しむことなく死ねたものを」
黒が体を起こし、鬼を睨みつける。

「本当に黒さんは真面目なんだから」
あかねが鬼の右肩に立っていた。
あかねがにぃぃと意地悪に笑みを浮かべる。

「え、あかねちゃん。ま、まさか」
黒が驚いて目を見開いた。
同時に鬼が自分の右肩を驚愕の目で見た。あかねの髪が一瞬、揺れた。
うぉぉっ、鬼が倒れ呻いた。あかねはすっと着地すると、黒の前に立った。
「黒さん。まさか、の後の言葉、教えて欲しいな」
「はっ、いいえ、あの」
あかねが嬉しくてたまらないと笑みを浮かべた。
「人の困った顔を見るのは大好き。でも、あんまり、黒さんをいじめると幸姉さんに叱られてしまうね」
鬼ののたうちまわるその動きがまるで辺りを地震のように思わせる。
あかねは鬼を振り返ると呆れたように言った。
「体の割に打たれ弱いなぁ。根性が足りない、今まで自分が攻撃されるってことが少なかったんだろうな」
「あ、あかねちゃん。いったい」
「たいしたことはしてないよ。なよ姉さんが心配してね、迎えに行くようにって、頼まれて来ただけ。で、ついでに鬼の肩、ちょっと踏み抜いてみた」
黒が茫然としたようにあかねを見つめた。
「黒さん」
あかねが背を向けたまま、言った。
「幸姉さんはこんなもんじゃない、完全に鬼を踏み潰すよ。そして、黒さんはあかねより本当は強い。ただ、実践経験が少ないし、優しすぎる。やるときは徹底的にやる、一厘の憐憫の心、一切、必要無し。倒すんじゃない、潰せ。わかったか、黒さん」
「は、はい」
あかねが一歩、踏み出した。
「のたうちまわっている根性無しはあかねが潰します。後の鬼は背の高さも大人程度、黒さん、頭切り替えて潰して行きなさい。わかりましたか」
「はい、わかりました」
あかねが微かに笑った。
「しっかりね、黒さん」


「ただいま帰りました」
あかねは小夜乃と手をつなぎ、家へ戻った。
奥から、なよたけの姫が割烹着を身につけたまま、足早にやって来た。
「おおぅ、小夜乃は無事か」
なよたけの姫は言うと、あかねに頭を下げた。
「すまなかったな、あかね。助かった」
「いいえ、楽しめました」
あかねは笑うと、ふと、居間に炬燵の準備があるのに気づき、我先にと入り込む。
あかねは苦手だった。小夜乃がぎゅっとなよたけの姫にしがみつき、顔をその胸に押し付けている。
怖かったのだろうと思う、それはわかるのだが、人と距離を置かねば、却って落ち着かない自分には、見ていると重苦しくなるのだ、少し羨ましいな、小さくあかねが呟いた。
しばらくして、落ち着いたのか、小夜乃があかねの横に正座する。
「助けてくれてありがとうございます」
「どういたしまして」
あかねは笑みを浮かべると、炬燵の布団を少し上げる。小夜乃が斜め向かいに座った。
「もうすぐ黒さん達も帰って来るよ。あの女の子も送り届けたようだし」
「あかねさんは強いし、いろんなことがわかるんですね」
「そんなに強くはないよ。幸姉さんやお父さんには到底、及ばないし、それに心の強さは小夜乃が上だよ、あかねよりも」
あかねは笑うと、微かに俯いた。
「ただ、いま、ここにこうしているのがとても幸せだし、この幸せを護るためなら、いくらでも頑張ることが出来ると思う。あぁ、何言ってんだろう」
あかねは素直に照れ笑いをすると窓の外を眺めた。外も暗くなり、照れ笑いをする自分の顔が映る。
硝子の反射に蜜柑を載せた籠を持ったなよの姿が見える。
なよは小夜乃の隣りに座ると、蜜柑の籠を置いた。
「晩ご飯の用意をあさぎに頼んできた。あかね、蜜柑を食え」
あかねは笑うと、蜜柑をひとつ取った。
「まさか、かぐやのなよたけの姫と炬燵に入って蜜柑を食べるとは想像もしておりませんでした」
「その名を言うな。なよで良い。」
くすぐったそうにあかねは笑みを浮かべ、蜜柑の皮をむく。甘そうな蜜柑だ。
「なよ姉さん。あれは南面の鬼です。高園童子の流れを組む鬼ですね。この国の為政者達は最悪な選択をしました」
なよは黙ったまま、蜜柑をひとつ取る、
「あの時の自衛隊はまだ人間だった」
「いまは、自衛隊の一部に鬼化した自衛官だけを集めた部隊が編成されつつあります」
「神崎の動向は」
「神崎は放逐されました。ただ、彼はいずれ力をためて、反撃に出るでしょう。彼は徹底的に鬼を毛嫌いしていますから」
なよは剥いた蜜柑を半分に割り、その半分を小夜乃に手渡した。
「小夜乃、食え。美味いぞ」
なよは嬉しげに小夜乃に笑みを浮かべた。
「なよ姉さんは小夜乃に甘いなぁ」
「いうな、照れるわ。ただな、あかね。わしは小夜乃にしても、黒にしてもな、それから、世話になっている佳奈もじゃ。普通に暮らせるようにしてやりたい、いま、本当にそう思うのじゃ。多分、それは、わしがいま幸せなのじゃからであろうな」
あかねはいたずらげに笑みを浮かべると、蜜柑をほおばった。
「なよ姉さん、可愛いですね」
「千年以上生きて、可愛いと言われるとはな。わしもなめられたものじゃ」
なよがくすぐったそうに笑った。
不意になよが玄関口の方角を睨んだ。
「鬼が攻めてきた」
飛ぶように、なよは玄関口へ移動すると、外を睨んだ。
漆黒の雲、いや、見上げるほどの壁が向こう、こちらへと向かってくる。
その前を白が黒を背中に背負い、三毛がその背中を押し、駆けていた。
「遅い」
なよは呟く、爆発、風があかねを後ろへ追いやった。なよが最高速で飛び出した。一瞬にして、なよは三人を抱きかかえ、絹で縛ると、アスファルトを粉微塵に蹴り、玄関口へ飛び戻った。
「あさぎ」
なよが叫んだ。
なよの緊張した声に、あさぎが慌ててやってくる。小夜野も飛び出してきた。
「晩御飯の用意は後じゃ。鬼が攻めてきた。父さんと幸が戻ってくるまで持ちこたえるぞ」
「はいっ」
あさぎが叫んだ。
「あさぎ、そのまま、座れ。そして、この家を守りたいと強く願え。黒、白、三毛、お前達もじゃ。四人は、父さんと幸の術を学んでいる。この家の障壁と同調できる。小夜野もあさぎから、体操を学んだであろう。あれも、術のひとつじゃ。あさぎの隣りで強く願え」
「はい」
しっかりと、小夜野が答えた。
「よし。あかねはわしと来い」
二人は家の外に出ると、漆黒の壁を待ち構えた。
「あと十秒じゃな」
「角のある鬼は大勢がひとつに固まり、巨大化すると聞きましたが」
「やつらは、個であると同時に全体でもある。あかね、わしの背中に入れ、わしが押し返す」
「いやです」
「なにっ」
「それは、あかねが、かっこよくありません」
あかねが漆黒の壁を睨んだ。
「さすがに、なよ姉さんでも、一人では支えきれませんよ」
二人の前に漆黒の巨大な壁が迫る。
すごい圧力だ。陰の威圧が二人を飲み込もうとする。

・・・遅くなったね・・・

声がした。二人が天を見上げる、遥かな壁の上、その遥か上から男が自在片手に急降下、自在が光の筋になり、漆黒の壁を両断した。壁が霧散し、自在片手に男が鋭い眼光を輝かせていた。しかし、すぐに笑みを浮かべると、自在を消した。
「二人ともお疲れ様。ちょっとね、大変でね。帰るのが遅くなってしまった」
「父さん、お帰り・・・」
そう呟いて、なよは腰を抜かしたように地面に座り込んでしまった。
あかねも大きく息を吐き出すと、しゃがみ込んでしまう。
「父さん、遅いですよ」
あかねが息を吐きながら呟く。
「いや、なんというか。申し訳ない。実は幸がね」
不意に驚いたようにあかねが辺りを見渡した。
「お父さん。幸姉さんは」
男が困ったように笑みを浮かべる。
「あのね、間違いなく、背中の女の子が幸だと思うんだけどね。いったい、どうしたのか、父さんにもわからなくてさ」
男は小さな、小学生くらいだろうか、女の子を背負っていた。
24
最終更新日 : 2013-05-11 17:46:22

異形 撃 二話

あかねが背中の女の子をのぞき込む。すやすや眠っている、小学校二、三年か、ただ、幸の子供の頃は間違いなく、こんな美少女であったに違いないと思う。そう、幸姉さんにそっくりだ。
「どれどれ」
なよは疲れ果てたように呻くと、立ち上がり、男の背中をのぞき込んだ。
「あぁ、あ」
と、なよは思わず声に出す、そして、大きく溜息をつくと、いきなり、女の子の頭をすこんと右手ではたいた。
「狸寝入りするな、幸」
「ててっ、ごめん、なよ姉さぁん」
子供になってしまった幸は照れ笑いのような表情をなよに浮かべた。
「父さん、こやつは間違いなく幸じゃ。邪法を使い、失敗して子供にはなってしまったがな」
男は少し安心した表情を浮かべた。
「そうか。何処かで幸がはぐれて泣いてやしないかなんてね。まずは、ほっとしたよ」

部屋の中央に椅子を置き、幸を座らせる。
男を除いて全員が幸を困惑しつつ、見つめていた。正面の黒がおずおずと言う。
「えっと、母さん」
語尾が上がった疑問形、三毛よりも幼い女の子が目の前にいて、それが母さんだというのだ、根が真面目な黒は、何をどう言えばいいのか、戸惑い、ちょっと涙ぐむ。
「ごめん。母さん、子供になっちゃうって病気に罹ってしまって、ごほげほ」
「んなわけあるか」
なよが思いっきり突っ込む。
「父さんを子宮に入れ、赤ん坊にして延命させようという邪法じゃ。それに失敗して、おのれが若返ってしまったのであろう」
「うん、そう」
幸が微かに俯く。
不意に幸のお腹が蠢きだし、幸乃が外に転がり出た。
幸乃は自分の手や足を見、小さくなっていないのを確認した。
「幸。お前は大恩あるお父様になんということを」
幸乃は言いかけて、その時の様子を思い出したのか、顔を真っ赤にし俯いてしまった。
「まっ、その邪法を組んだのはわしじゃ。じゃから、あまり、幸のことは言えんがのう」
なよはどかっと胡座をかくと俯いた。
「わしの古い記憶を読んだのであろう、ならば、わしが失敗してしもうた記憶も読んでおけ」

声をかける間がなく、男は困り顔でその様子を見ていたが、少し場か静かになったのを見計らい、そっと、声をかけた。
「ま、そのくらいにして、晩ご飯にしようか」
じろっとなよが男を睨む。
「まぁ、なんていうかな。腹が減っては苛つくばかりでね」
男がおそるおそる笑みを浮かべた。
なよが大きく息を吐いて、思い切った眼差しで男を見つめた。
「なぁ、父さん」
「ん」
「父さんの命はあと半年くらいであろう」
「そんなもんだろうね」
皆が驚いたように男を見つめた。
「お、お父さん、本当に」
黒が驚きのあまり声を出せずに囁いた。
微かに男が頷く。
「やだょ。お父さん、死なないで」
黒が呻くように呟いた。
「なぁ、幸も止むに止まれず父さんを延命させようとしたのじゃろう。わしも父さんには生きていて欲しい。わしにとっても、こんなに楽しい日を過ごすことができてのう、やはり、父さんがいてくれんとな」
なよが恥ずかしそうに言う。
男は自分が死んだ後、幸を一人にしたくないと、家族が増えることを喜んでいたが、自分にとっても、それは家族なんだなと実感した。
「幸、おいで」
幸は顔を上げると、男の元に走りより、しがみついた。
「幸、これをあげよう。手を出しなさい」
男の手から、薄い緑の色をした小さな鍵が現れ、幸に手のひらに消えた。
「ここの鍵だ、現と異界を繋ぐものだよ」
幸が顔をあげ、目を見開いた。
「お父さん、死んじゃやだよ」
掠れた声で幸が呻いた。
「一カ月、旅をしたら帰ってくるよ」
男は幸の頭を軽くたたくと、幸せそうに笑みを浮かべた。
「さてと」
男は顔をあげた。
「なよが父さんのいない間は中心になってくれ。ただ、なよのわからないこともあるだろうから、幸乃」
「はい」
慌てて、幸乃が顔をあげた。
「なよをしっかり助けてやってくれ」
「わかりました」
幸乃は落ち着いた声で答えた。
「わしは新参者じゃぞ、それに鬼でもある、いいのか」
「なんの問題もないよ。それから、小夜乃」
「はい」
戸惑うように小夜乃が答えた。
「なよを支えてやってくれ。小夜乃は心が強いからな」
小夜乃が嬉しそうに笑みを浮かべた。
「黒」
「は、はい」
「黒はちょっと真面目過ぎだな。妹たちのことを考えてだろうけど、自分自身がまいってしまうぞ。もう少し、白や三毛に頼るようにしなさい」
黒がほっとしたように頷いた。
「白は医師になりたいんだろう」
「はい」
「しっかり勉強すること、ただ、自分の安全は自分で守れるようにすること。黒と三毛、いつも三人が意識を繋いでるようにね。これから、難しい時代になるからさ」
「三毛がもっと早くに気づくべきだったこと。それは黒よりは動けないけど、黒より頭の回転は早い、白よりは勉強苦手かもしれないけど、白より動けるということ。そう考えれば自分に何ができるか見えてくるだろう」
「お父さん、そういうことはもっと早くに教えてください」
男がくすぐったそうに笑った。
「あさぎは喫茶店、順調のようだ。たくさんの人達と言葉をかわしなさい。あと、近くへの買い物なら行くことができるだろう、一人ではだめだけれど、誰か、二人以上となら、外に出てもいいよ。じっくりと自分を組み立てていきなさい」
「ありがとう、お父さん」
あさぎがそっと笑った。
「あかねはとっても心配だなぁ」
男の言葉に俯いていたあかねが驚いて顔をあげた、自分には声がかからないだろうと思っていたのだ。
男は笑うとあかねに言った。
「鬼の勢力圏が広がりつつある。あかねは独自に潜入調査とかしてるけど、この一週間で二回は死んでいるよ。なよか、幸に、幸はこんなんになってしまったけど、手伝ってもらいなさい。どうやら、幸の能力そのものは変わっていないようだ」
「ありがと、お父さん。助けてくれて」
あかねが驚いて言った。
「どう致しまして」
男は笑うと、幸に言う。
「生きながらえることにするとさ、いろいろ、昔の済ましておかなければならないことがたくさんあってね。父さん、一カ月、一人で旅に出るよ。一カ月後の今日には帰って来るよ」
「ちゃんと、帰って来る」
幸が心配げに問う。
「頑張って帰って来るよ」
「それじゃ、待ってる」
男が幸の頭をなでた。
「なんだか頭、撫でやすくなったなぁ」
男が少し哀しげに笑った。
「そうだ、あさぎ」
「はい」
「一カ月後の今日の晩ご飯。ちょっと、贅沢なのがいいな」
「腕によりをかけて作ります」
「楽しみにしてるよ」
男は嬉しそうに笑うと、幸を前に立たせ、その両肩に手をそえた。
幸が懸命に笑みを浮かべた。
男が安心したように笑みを浮かべ、姿を消した。
しばらくして、なよが呟く。
「行ってしもうたか・・・」
なよは幸の元へ行くと、後ろから幸を抱きしめた。
「愛している人といつまでも一緒にいたい。その思いは真実じゃ。なかなか、どうして、難しいことじゃがな」
「なよ姉さんもそうだったの」
「何百年も昔のこと、忘れてしもうたわ。いまが、楽しすぎるからの」
幸がほんの少し、笑みを浮かべ、呟いた。
「幸もとても楽しいんだ。ありがとう、なよ姉さん」

「幸、うちのテレビ、見れないのかな」
朝、あさぎが店から、とたとたと台所に戻ってきた。幸がお煎餅片手にお茶をしていた。
「テレビか・・・。地デジだっけ、テレビ買い替えか、それとも何か買い足さないと見れなかったと思う」
幸が少し見上げる。幸は子供化したままだった。都合よく甘えられるので、案外、楽しんでいるようだ。
「そっか・・・」
落胆したように、溜息をつくと、幸の隣りにあさぎが座った。
「なにか、面白いのやっているの」
「うーん、さっき、お客さんがね。広報で明日、政見放送を必ず見るようにって連絡があったらしくてね」
「そういえば、役所の車が、スピーカーで何か言ってたよね」
たいして興味なさそうに幸が答えた。
「ラジオでも放送するかもしれない、お父さんの部屋に・・・」
いきなり、幸が涙ぐんだ。
「ごめん、ごめん。お父さんのこと思い出させてしまって」
「あさぎ姉さん、ごめんなさい。大丈夫だよ、あと、十日でお父さん、帰ってくるものね」
幸が大きく深呼吸した。

「おーい、幸ちゃん」
玄関口から、佳奈の声が響いた。
「佳奈さん、どうぞ。こっち、台所だよ」
幸が返事をした。
「幸、いいのか」
いつの間にか、煎餅を食べている、なよが心配げに言った。
「え」
「どう佳奈に説明するつもりじゃ、その姿」
「あ、うわっ。どうしよう」
幸が慌てて、腰を浮かしかけた時、佳奈が刺し身を片手にやって来た。
「お刺し身、いいの入ったからね。持って来たよ」
「佳奈さん。ありがとうございます」
如才なく、笑みを浮かべ、あさぎが佳奈から刺し身を受け取った。
「なぁ、あさぎ。刺し身を肴に、一本、いいかのぉ」
なよが目を輝かせる。
「小夜乃ちゃんが良いって言えばですね。本当になよ姉さんはお酒が好きなんだから」
「この家の唯一の欠点は酒を嗜むのがおらんということじゃよ。小夜乃にはわしから言っておく、やつはほんに心配症じゃ。なぁ、佳奈、少しばかりつきあわんか」
「いいですねぇ。最近は夜、外には出られないし、まだ、朝ですけど。ちょっとだけ」
あさぎが笑って言った。
「縁側に用意します。佳奈姉さん、ゆっくりしていってください」
「あさぎちゃん、悪いね。そうだ、幸ちゃんは何処行ったんだい。声は聞こえたんだけど」
ふと、佳奈は俯いている女の子に目をやった。
「おや、綺麗な子だねぇ、幸ちゃんの子供の頃はきっとこんな綺麗な女の子だったんだろうね。え、まさか、幸ちゃんの子供じゃないよね、似ているけど、計算合わないよね」
幸はゆっくり顔を上げると、困ったように笑みを浮かべた。
「えっと、幸です。本人です」
一瞬、目を見開いたが、佳奈は大きく深呼吸をすると、目を瞑って唱えた。
「ここは先生んち、先生ち。何が起こっても不思議じゃない。そういう場所、幸ちゃんが子供になっても、あ、そう。って言える場所」
佳奈はもう一度、深呼吸をすると、やっと目を開けた。
「びっくりさせてごめんなさい」
幸が申し訳なさそうに言う。佳奈はあははと大声で笑うと、ふぅっと息を出す。
「落ち着いた。うん、落ち着いた。なんだよ、幸ちゃん。心臓、止まるかと思ったよ」
佳奈は幸の頭をぐりぐり撫でると、心配そうに言った。
「元には戻れるのかい」
「十年くらいかければ戻れると思う」
佳奈は少し溜息をつくと、幸の前に立った。
「幸ちゃん、ちょっと立って」
幸が立ち上がると、佳奈がぎゅっと幸を抱きしめた。
「心配かけるねぇ、この子は」
「ごめんなさい」
佳奈は手を離すと、ちょっと笑う。
「息子二人で、つまらんなぁって思っていたけど、娘ができた」
佳奈は笑うと、幸の頭を軽くはたく。
「服屋の母さんにはそれとなく言っておくよ。それじゃ、なよさん」
「おう」
二人が連れ立って縁側へ行く。
「幸、良かったねぇ、流してくれて。ほっとしたよ」
あさぎがそっと笑った。
「いっぱい心配かけちゃったよ」
幸はあさぎにしがみついた。
「あさぎ姉さんもごめんね」
「どういたしまして」


「なよさん、鬼ってなんなんだい」
縁側で日本酒を交わしながら、佳奈が尋ねた。そういえばと、なよは今までの経緯を酒の肴にしゃべっていたなと思い出した。
「人の世界と同じように鬼の住む世界がある。その世界に住むもの、言葉を持つ生き物すべてを鬼と呼んでおる。じゃから、昔話に出てくるような、角を生やした鬼もおるし、わしのように角のない可愛い鬼もいるということじゃ」
「なよさんは、可愛いってより、美人、別嬪さんだよ。いやさ、昨日、鬼が店に来たんだ」
「鬼とどうしてわかる」
「角、五センチくらいかねぇ額に生やしていたんだ」
ふと、なよは俯いて考え込んだ。
「額に角か・・・」
「若い男と女でさ、このご時世、なんてものつけてんだいって、叱ったんだよ。で、男がにたにた笑うもんだからさ、二人の角、摘んで引っ張ってやったのさ」
「本物の角だったわけか」
なよが俯いたまま、呟いた。
「女の方は糊か何かで付いていただけで、簡単に取れたんだけど、男の方は、本当に骨が出っ張ったみたいでさ。あたしのびびった顔見て、大笑いで出て行ったんだ」
「さすがの佳奈もびびったか」
なよは少し笑うと顔を上げた。
「さてのう、どこまで話せば良いかのう」
ぐびっとなよは冷酒をひっかけると、盆に湯飲みを置いた。
「鬼と人間はまったく別の世界の生き物じゃ。ただ、昔話にもあるように、いくらかの接触はあった。ただ、それは例外的なもので大勢にはまったく影響がな かった。ま、お互い、それぞれ別の世界で平和かどうかはともかく生活しておったわけじゃ。ところがこのところ、生物としての人間の力が弱くなった、便利な 生活の中で生命力を失いつつある、鬼は好機と考えた。人間の世界を奪えるんじゃないか、領土を広げられるんじゃないかとな。それが、いまの情勢じゃ。もち ろん、ことはもっと複雑で鬼がそう思い立った後ろに、あくどい人間がいるとわしは見ておるがな」
「それじゃ、これからは、人間と鬼が共存していくってことですか」
「いや、知性のある種同士は共存できんよ、いずれは弱いほうが、つまりは人間が駆逐される、奴隷になるだろう。それにな、佳奈、角のある鬼は人を喰らう」

店の扉が開く。店に戻ったあさぎの前に老紳士が笑みを浮かべた。
「先生はご在宅かね」
「あの、お父さんは留守です」
老紳士があざけるような笑みを頬に浮かべた。
「ふん、ホム・・・」
「どっからわいてきた、爺さん」
一瞬で、幸はあさぎの前に立ちはだかると、神崎を睨みつけた。
「お前、あのじゃじゃ馬か」
「おうさ、ガキになっても力は変わらねぇ。棺おけ、両足突っ込みたくなければ、さっさと消えな」
「なにでそうなったかは知らんが、目上のものに敬意を払うことが出来ん頭にはその体が似合っとるな」
「目上の自覚あるなら、早く引退して、後進のものに場所譲ってやりな、後が腐ってるぜ」

「神崎さん」
外から戻って来たあかねが溜息交じりに声をかけた。
「相変わらず水と油ですねぇ」
「これは鬼紙老のお嬢様ではありませんか。こんな女のいるところに近づいてはなりません、汚れますぞ」
「あの、ここで暮らしていますから」
「なんと、嘆かわしい。私めに力がございましたら、あのような女、梱包して、ごみ捨て置き場にでも送ってやりますものを」
大袈裟に神崎が泣きまねをする。
「あの、そういうのいいですから。ご用件は」
「おおっ、そうでした。ぜひ、先生にお目通り願いたくまかりこしましたところ、あの女が・・・」
「その続きはいいです。先生は旅に出ていらっしゃいます、連絡も取れませんし、いつ、お戻りになるかもわかりませんが、かなり、長い旅になるとのことでした」
神崎はまともに落胆したように肩を落としたが、すぐに気持ちを切り替えたのか、顔を上げた。
その様子を見て、あかねが言った。
「白澤さんに相談なさるのは難しいですよ、本家当主より、座敷牢に幽閉されています」
神崎が老獪な笑みを浮かべた。
「それは蛇の道、本家の御坊は金勘定は得手でございますが、術は不案内でございますからな。いくらでも抜け穴がございます」
神崎はあかねに深々と頭を下げた。
「それでは、お嬢様。神崎はこれにて失礼いたします」
「無理なさいませぬように」
「なんとお優しい言葉。何処かのガキに聞かせてやりたいものですな。それでは」

神崎が姿を消す、ほっとあかねは吐息を漏らすと。幸に笑みを浮かべた。
「幸姉さん、あいかわらずだなぁ」
幸は、にひひと笑うと、お煎餅一枚取り出して、あかねに差しださした。あかねが顔を寄せ、お煎餅を半分かじる。
「大人の分別が足りないのはしょうがない。幸は子供ですもの」
残った半分を幸は食べると、にっと笑った。

なよは刺し身を一切れ取ると山葵を載せ口に運ぶ、っつ・・・、つんと香る芳香の余韻を楽しむ。
「旨いのぉ、最高じゃ。佳奈、ありがとう」
「面白い人だね、なよさんは」
「ん」
「嬉しい時は子供みたいに嬉しい顔をする」
「そうかのう、わしは大人の女として、影も色気もあるぞ」
「でも、なよさんは、なにか食べている時は子供ですよ。子供がお菓子をほお張っているのと、同じ顔だ」
なよは楽しそうに笑った。
「わしは一国の主として、小さいながら国を統治していた。楽しいことももちろんあったが、常に重責が肩にあった。いまは、一人の存在として家族や友と語らうことができる。それに、悩めば相談することも出来る、ほんにそれがありがたいのだ」
「でも、これから大変な時代が来るかも知れない」
「人が鬼を受け入れるかどうか、それが人のこれからを大きく左右する。特に人の男が大変なことになるであろうな」
なよは、ふと笑みを消すと、両腕を組む。
「どういうことです」
なよは微かに息を漏らす。そして視線を上げた。
「インドのカースト制と同じく、角のある鬼の身分階級は絶対じゃ。純潔の鬼、混じりものの鬼、どれほど混じっているかで変わるのだ」
「まじりもの」
「あぁ、親が両方、角のある鬼であるか、片方だけかによって変わって来る。ただ、角のある鬼の女は数がかなり少ない。鬼は領土と共に人の女を欲しておるのだろう」
「なよさん」
「ん」
「その理屈だと、人は最下層になってしまう。でも、あたしはね、鬼の顔色うかがって生きるのは嫌だし、自分の子供にも虐げられた辛い思いはさせたくないよ。さて、何をどうすればいいのかな」
佳奈が少し俯き考える。
なよは少し安心したように笑みを浮かべた。

「いらっしゃいませ」
三毛があたふたとコップに水をいれ、テーブルに置いた。近所に住む女性、篠石聖子、常連だ。
いま、お店はあさぎと三毛の二人。三毛は学校を休んでいた。
「おや、三毛ちゃん、学校いいのかい」
「出席日数は足りていますから、大丈夫です」
「困った子だねぇ、困った、困った」
くすぐったそうに笑う。
「まっ、三毛ちゃんが居てくれると楽しいんだけどね」
篠石聖子、四十代主婦、週に二回、自宅で小学生に算数と英語を教えている。
三毛は自然に篠石の隣りに座る。
「篠石さんは学校休んだことなかったの」
「そうだねぇ。三日くらい、風邪で休んだことがあったかな。学校、楽しかったからね」
「ふぅん。三毛はね、家にいる方が楽しいよ。あさぎ姉さんやなよ姉さんや小夜乃ちゃんとお喋りするの、とっても楽しいもの。それに、篠石さんのお喋りも楽しいんだ」
「はは、それはありがとう。そうだ、注文まだだった。いつものウインナー珈琲お願い」
「うん。あさぎ姉さんに言ってくる」
三毛は椅子から降りると、厨房へと走って行った。
篠石は、たまたま、立ち寄ったこの喫茶店が不思議なほど気に入っていた。あぁ、疲れたなと思った時、ふっと立ち寄る、防音がしっかりしているのだろう、戸 を閉めた途端、外からの音は消え、逃げ込んで来た、そんな気がする。そう、まるでシェルターに逃げ込んで来た、そんな安心感があるのだ。
三毛が笑みを満辺に浮かべて戻って来た。両手にケーキの載ったお皿を一皿ずつ持っている。
「篠石さん、ケーキ食べよう、あさぎ姉さんの試作ケーキ」
一センチ幅に切ったブロックケーキを七枚、斜めに寝かせて、これはメイプルシロップだろうか、浸した上に、細くクリームで文字が書いてある。そして、となりに苺が添えてある。
「本格的だねぇ、なんて書いてあるのかな。おいしいよって書いてある」
「あさぎ姉さんのケーキだもの、とっても美味しいよ」
あさぎがウィンナー珈琲を運んできた。
「いらっしゃいませ、篠石さん」
あさぎを珈琲をケーキの隣りに置くと、三毛のお皿の横にもディーカップを置いた。
「三毛ちゃんは紅茶。アールグレイ」
「ありがとう、あさぎ姉さん」

佳奈が帰った後、あかねは、なよに話しかけていた。
「報告は以上です」
「なんと、誰も止めることは出来なかったか」
なよは悲痛な顔で微かに俯いた。
「この国の男どもはひ弱すぎる。これ程の平和、奇跡であるのにのう」
「なよ姉さん、どうします」
なよは顔を上げると、呟いた。
「この国はこの国の者が育てていかねばならん、と言うて、傍観を決め込めば、先は見えておる。わしは佳奈が嘆くのを見とうない」
「なら、ちょっと賑やかなことしよう」
ふわっと幸が現れ、なよに笑みを浮かべた。
「幸、何をする気じゃ」
「ちょっとした遊びさ。そうだ、黒を連れて行こう、いろんなこと、あの子に経験させなきゃ。あかねちゃんもいいかな」
「はい、ついて行きます」
あかねが即答した。
ふと、なよが考え込む。
「幸とあかねと黒か。万が一、ここの護りはどうする。そうそうは攻めては来ぬだろうが」
幸は髪の毛を一本抜くと、なよの手首に巻き付けた。すっと、髪の毛がなよの手首に溶け込み消えた。
「これで、なよ姉さんもここを護ることができる。そうだ、なよ姉さん、刀帯儀、あれ教えてくれ。術を教えっこしよう」
「術をか」
「うん、お父さん、言ってた。幸の足りないのは術の繊細さかなって。あれ、細かいんだろう」
「幸、お前は天才じゃからな。細かいところを飛ばしても、形になる。じゃが、精密に組み立てれば、わしの想像できない刀帯儀ができるかもしれんな。幸は何をわしに教えるつもりじゃ」
幸はふと考えたが、顔を上げ、なよを瞬きせずに見つめた。
「いまさら、遅いかもだけど、遠見を教えよう」
幸は人差し指を天に向けた。
「人工衛星くらいなら、触れるくらい近くに見ることができる」
「いいな、教えてくれ」
なよがほんの少し、笑みを浮かべた。

小夜野は川のほとりでうずくまっていた。呆然とした表情でいる。自然と涙がこぼれてくる。なよ母さまになんと言おう、声を押し殺し泣く。
ケーキを食べた後、三毛が全速で川面を駆けていた。お父さんならもっと速く水の上を走る、もっと速く、もっと静かに。いったい、どう体を動かしているのだろう、もう少しでわかるような気がするんだ。
泣いている。
三毛は跳ね上がり、川の辺に急停止した。
「小夜野ちゃん、どうしたの」
三毛は小夜野の後ろに立つと、そっと話しかけた。
「なんでも・・・」
なんでもないと言いかけて、小夜野が口を閉ざした。そして、決心したように振り返る。
一瞬、三毛は目を見開いたが、ぐっと息を呑むと、平静を装う。
ぎゅっと目を瞑り、少し俯く小夜野の額には二センチほどの角が一本生えていた。
「小夜野はなよ母さまに嫌われます。ここも出て行かねばなりません」
閉じた両目からつらつらと涙がこぼれる。
三毛は力強く小夜野を抱きしめると頬を寄せた。
「大丈夫、信じて」
小夜野の膝が崩れ、三毛は小夜野を抱きしめたまま、膝をついた。
「幸母さんを呼ぶよ」
小夜野が微かにうなずいた。
三毛が悲鳴を上げる、
「母さぁん」
三毛の叫ぶ声が響いた。
一瞬で幸は三毛の横に現れる、
「どうした、三毛。小夜野ちゃん」
「母さん、小夜野ちゃんを助けて」
三毛が涙を流し叫んだ。
幸は瞬時に事情を把握した。小夜野の前に座ると、角に触れる。確かに額の骨から出ている。
「首から下を再生したとき、人と組成が少し違うと思ったんだけど、こういうことだったのか」
「三毛、ガーゼと消毒薬と紙テープだ」
「はいっ」
三毛が家へと駆ける。
幸がすっと人差し指で角を払う。すとんと角が根元から取れて、幸の手のひらに転がった。
戻ってきた三毛が、小夜野の額を消毒をし、ガーゼを当て、テープで留める。
幸は落ち着いた声で、小夜野に話しかけた。
「小夜野ちゃん、角の生成組織はただのカルシウムだ。爪や髪の毛が伸びれば切るのと同じように、切ればいい。もっとも、骨は硬いからさ、切りにくいけどな」
幸は背を伸ばし、小夜野を抱きしめると、耳元で囁いた。
「なよ姉さんは小夜野の母さんだ。なよ母さんを信じてやってくれ」
幸がそっと笑みを浮かべた。そして、手を離し振り返る。
なよがいたずらげににっと笑った。
「来い、小夜乃」
なよがゆっくりと歩きだす。小夜乃が泳ぐように駆け出した。ばふっと小夜乃がなよにしがみつく。
「なよ母様、ごめんなさい」
「謝る必要が何処にある、小夜乃はわしの大切な娘じゃ」
しっかりとなよは小夜乃を抱きしめた。

夜半、皆が寝静まった頃、幸はそっと起き出すと、男の部屋に入る、そして、明かりをつけないまま、男のいつも座っていた椅子に腰掛けた。月の明かりが窓から流れ込み、部屋の中を白く照らす。
「お父さん、ちゃんと帰ってくるよね、約束したもの、ね」
幸は呟くと、視線を落とす。
幸は毎晩、皆が寝静まった頃、男の部屋で少しの時間を過ごしていた。
ふと気配を感じ、幸は顔を上げると、袖で涙を拭った。
「いいよ、なよ姉さん」
幸が声をかけると、襖が開き、なよが部屋に入ってきた。なよは手に持っていた掛布を幸の背に被せる、
「風邪をひくぞ」
「ありがと、なよ姉さん」
「昼間はすまなかったな」
「どう致しまして」
幸は笑みを浮かべると、なよをもう一つ、椅子に座らせる。
「いい月じゃな」
窓から覗く月は大きく輝いていた。
「なよ姉さんは月に帰りたいと思ったことはないの」
「話してなかったな。わしは反乱を起こして、放逐された身じゃ。時間が経ち過ぎた、縁ある者も、もうおらんじゃろう。昔はともかく、今は眺めるだけで充分じゃな」
「なよ姉さんも変わった人生を送ってきた人だ」
「お互い様じゃ」
なよは呟くと、視線を幸に戻した。
「すまなかったな。小夜乃のこと、あらかじめ伝えてくれて。いきなり角のことを知ったら、わしはうまく言えなかったじゃろう。ほんに助かった」
幸は笑みを浮かべ、そっと俯く。
「幸せを護りたいから。なよ姉さんと小夜野ちゃんがいなくなったら、ここは幸せでなくなってしまうもの」
「ありがたいことじゃよ」
なよはそっと目を瞑り、背中を椅子の背もたれに預けた。
「初めてあった時、幸に恐ろしいほど睨まれたのを思い出す。しかし、まぁ、考えてみれば、今の状況、あかねを後継者にしたてようとしておったのが、今では末の妹になっておる。概ね、望んだようになったのかもしれん」
「思い出したよ。なよ姉さん、首の傷は大丈夫」
「あやうく、首を刎ねられるところじゃったな。鬼紙の刀に」
なよは声を殺して笑うと、首をさすった。
「死にはせんが、泣きそうになるほど痛かったのう。帰ってから大変じゃった。痛くても泣き顔ひとつ見せられん。為政者としてな、無敵を演じ続けるのは大変じゃった」
「一緒に暮らしていく中で、なよ姉さんの顔、随分、優しくなった」
「あぁ、少々腑抜けすぎたかもしれん」
なよは声を殺して笑うと、改めて、幸を見つめた。
「すまなかったな、その姿」
「ううん、幸がお父さんにしたことを考えれば、その代償として受け入れなければならないし、結果として、お父さん、生きることを選んでくれた。だから、嬉しいんだ」
ふと、幸は顔を上げ、襖を眺めた。
「いいよ、黒。入っておいで」
幸が声を掛けると、ゆっくりと黒が襖を開け、部屋に入ってきた。
「幸母さん。明日、大丈夫かなぁ」
少し心細げに黒が呟く。
「心配で、眠れないのか」
「うん」
「大丈夫だ。案外、上手くいくもんだよ」
黒は小さく吐息を漏らすと、幸の頭をそっと撫でる。
「母さん、三毛よりも小さくなって、妹みたいだもの。なんだかなぁ」
黒は椅子に座る幸の手前に正座した。そうすると、視線が重なる。
「母さん、元に戻れないの」
「十年で戻るよ、それまでの辛抱だ」
なよは小さく笑うと、黒に声を掛けた。
「黒。幸がこうなったのはわしのせいでもある。わしも幸を元に戻すことはできんが、お前の気分くらいは変えてやろう」
なよは黒の後ろに立つと、右手のひらを黒の首筋に当てた。
「どうじゃ、温かくなってきたろう」
「とっても暖かい」
「陰から陽への転換じゃ。黒、お前には力がある。明日は思いっきり働け。幸い、幸い、幸い」
なよは手を離すと、軽く黒の肩を払った。
「なよ姉さん、なんだか、楽しい気分になってきた」
「黒。良い夢を見て眠れ」
黒は安心したように笑みを浮かべると、立ち上がった。
「幸母さん、お休み。なよ姉さんもお休みなさい
黒は入ってきたときと別人のように、朗らかに部屋を出て行った。
「黒は単純だなぁ」
溜息混じりに幸が笑った。
「ただの暗示であれだけ元気になれば上等じゃ」
なよは襖に手を掛け振り向いた。
「わしも寝るよ。幸も早く寝ろ」
「うん、もうちょっとしたら寝るよ」
なよはうなずくと部屋を出て行った。幸が壁を見上げる、男と幸が真ん中に写る集合写真だ。
「お父さん、幸を幸せにしてくれてありがとう。これからは幸がお父さんを幸せにしてあげるよ。だって、お父さんが幸せなら、幸はとっても楽しいんだもの」


闇の中、スポットライトが照らす、中肉中背の一人の男。少々、貧相な顔立ちだが、身につけている背広は最高級品だ、彼こそはこの国の現在の首相である。
「国民の皆様、ほぼ、全員がこの番組を視聴してくださっていることでしょう」
首相はポケットからハンカチを取り出すと、額の汗を拭った。微かにもう片方の手が振るえている。極度の緊張状態に彼はあった。三台のテレビカメラの内、中 央のカメラが彼を捉えている。彼は泣いているとも笑っているともつかない複雑な表情を浮かべている。暗闇の中で、姿は見えないが主要な報道メディアが居並 んでいた。
首相は喉が渇いたのか、掠れた声でゆっくりとマイクに語りかけた。
「国民の皆様には、あまりにも突然のことで、ご理解いただくのに時間がかかるかも知れません。しかし、いま、これがこの国で起こった真実です」
秘書官の一人が、コップに水を入れ、届けた。首相は、ごくっと飲むと、意を決して声を上げた。
「ただいま、日本は鬼に占領され、植民地と化しました。日本国憲法、民主主義は完全停止いたしました」
一瞬にして、明かりがともり、白い光が煌々と辺りを照らしあげた。晩餐会、沢山のテーブルに贅をこらした料理が並べられ、シャンパングラスを手にした鬼達が百は下らないだろう、お互い笑いあい、乾杯の声を合図にグラスのシャンパンを飲み干した。
新聞社だろうか、カメラのフラッシュが眩く鬼達を照らし上げる。
ゆっくりと中央にいた、二メートルあるだろう、堂々とした鬼が一人、首相の元へ近づくと、その肩に手をやり、声を上げて笑った。
その身長差は、確実に人と鬼の力関係を明示していた。
額に二十センチはあるかという角を二本生やし、牙が少し覗く。身なりは人の背広をそのまま大きく仕立て上げたもので、首から下だけを見れば、背の高い紳士であった。
「日本国民の皆様、私が鬼の本国より遣わされました進駐軍最高責任者、高園童子です。皆様、突然のことに驚かれたのではありませんか」
かなりの美男である。高園童子にとっては、その角も牙も、却って、野生を思わせる逞しさと魅力を示すものとなっていた。テレビに向かう女性の多くが、魅惑されただろう。
「鬼は想像上の生物、昔話の中だけのもの。ほとんどの人たちがそのように思われていたことでしょう。しかし、違います、我々鬼は違う世界に住む人間です。 国同士が戦い、領土を広げるように我々はこの国を征服いたしました。幸いにも、彼、この国の首相を始め、政治家、官僚、経済人の多くの理解により、争うこ となく、統治権を禅譲していただいたこと、感謝いたします」
ぽんぽんと高園童子が首相の肩を叩いた。
ぎくっと首相の顔が一瞬、強張ったが、無理に笑みを浮かべると頷いた。
「我々、与党はもちろん、野党の方々も了承いたしまして・・・」
押し出されるように、与野党の歴々が高園童子と首相の後ろへと立つ。一斉にシャッター音と共にフラッシュが瞬いた。
ばつの悪そうな政治家の、テレビで見慣れた顔が並ぶ。
高園童子は一歩前に踏み出すと、マイクを片手に見渡した。
「我々、鬼族は君主制であるため、日本国の民主制を停止いたしました。しかし、考えてみてください、今までの社会が果たして、民主主義と言えたかどうか。 そして、こうは考えたことはありませんか。国民を大切に思う一人の王が社会を統治する方が暮らしが良くなるのではと。約束いたしましょう、国民皆様の生活 が大きく変わることはありません、単純に税金の納付先が変わるだけのこと、いや、民主主義では不可能であった、多くの無駄を排することで、より、快適な生 活を送ることができるようになります。
そういう意味では、我々は皆様を解放させるためにやってきた救世主とも云うことができるのかもしれません」
高園童子は一気にまくし立てると、万遍の笑みを浮かべた。
シャンパンを飲み干し、高園童子は背を向け後ろに戻ると、グラスをテーブルに置いた。それを合図に、鬼達の会食が和やかに始まった。首相をはじめとした政治家達は直立不動のままだ。
自衛隊の制服組だろう、一人、ファイルを片手に中央へ歩み寄ると、政治家達を無視したまま、中央に陣取った。
「まずは高園童子様、我が国の統治者となられましたこと、自衛隊の総意といたしまして、強く歓迎いたします」
自衛官は高園童子に向き直ると深く一礼した。高園童子が片手を軽く挙げ、鷹揚に頷く。
再び、向き直ると、自衛官はファイルを開き、言葉を発した。
「ここに重大な発表を行います。私達が鯨を食することを食文化とする、それと同様に、鬼の皆様に置かれましては、私達、人を食する文化があり、統治する上 で、これは避けて通れない道であります。しかし、高園童子様の御英断により、私達に危害を加えようとする一部の鬼様を厳罰に処することを快く決定していた だきました。ただ、諸般鑑みまして、国民の中から、毎月百人を選び出し、人身御供として、鬼様に提供させていただくことに政府は決定いたしました。これ は、鬼様の要求ではなく、私達、人の側からの統治していただく感謝の意味でご提案させていただきましたもので、高園童子様は辞退されましたが、再度の、私 達たっての希望を受け入れてくださり、ここにいたる所存にございます」
自衛官は再び、カメラに背を向けると、高園童子に深く一礼をした。
話はできているのだろう、高園童子はゆったりと前に歩み出ると、自衛官の隣りに立つ。
「この大きな理解に感謝し、我々はこの国を慈悲深く統治してまいりますことをお約束いたしましょう」
深々とお辞儀をする、それをきっかけに明かりが消える、スポットライトが、戸惑い、惚けたように口を開けた記者達を照らし出す、いや、その中から現れた 静々と歩く美少女だ。美しく深い蒼のドレスを身に纏った少女が両手に一杯の花束を抱え、そして、その後ろをまた、一人の美しい女性が歩く。
もう一つのスポットライトが高園童子を照らし出す。
「これはまた、にくい演出ですなぁ」
高園童子の声をマイクが拾う。
蒼の少女は高園童子の前にやってくると、典雅にお辞儀をし、花束を高園童子に差し出した。すべての照明が灯され、真昼の明るさになる。高園童子が腰を落とし、花束を受け取ろうとした瞬間、後ろの女性が少女を抱え上げた。
「お父さんを返せ」
少女は叫ぶと、花束を高園童子に思いっきり打ち下ろした。無数の花びらが舞い上がる。
「お母さんを返せ、お兄ちゃんを返せ。人殺し」
二度、三度、打ち振るう少女の顔がテレビに大きく映し出される。類まれな美少女の涙と叫びが画面いっぱいに映し出された。その後ろで、政治家達が腰を抜かし、おろおろとよろめきながら逃げ出す。
「なんだぁ、このガキは」
牙をむき出しにした高園童子が幸のドレス、その背中を掴み、軽々と持ち上げ、にたぁっと笑った。
「奴らの頼みで始めた面白半分の茶番もしまいだ。ほぉ、なんて、細くて白い、美味そうな首だ、喉元食いちぎって、その血も飲み干してやろう」
高園童子がカメラに向き直った。
「早い話はこうなんだよ。お前ら人間は俺達の食い物なのさ」
どすん、大きな破壊音が響いた。中央のカメラがひしゃげ粉々に粉砕されていた。腕を組み、にっと笑うあかねの姿があった。残った、二つのカメラも、一瞬であかねが打ち砕く。
自在、幸の後ろを歩いていた黒が呟く、その両手に銀の筒が現れた。
幸は掴まれたまま、残った花束を投げ離すと、高園童子の額を手のひらで撫でた。
「鬼さん、男前になったぜ。感謝してくれよ」
幸の右手のひらには高園童子の角が二本、幸は飛び降りると、その角を床に叩きつけ、踏み抜いた。角が粉々になる。
「な、なんだ、こいつは」
高園童子が幸を殴りつける、瞬間、幸はその拳に右手を触れ、回転する、高園童子が逆に投げ飛ばされ、大理石の床に激突した。
「黒、思いっきり動け」
「はい」
大挙して押し寄せる鬼、鬼、鬼。
黒は鬼に向かって飛び出した。
幸は倒れた高園童子の元に走り寄ると、その耳に囁き始めた。
あかねは満足そうに大きく息を吸うと、呟く。
「こういうの、楽しいなぁ。最高だ」
「何者だ、高園童子様に失礼を働くとは」
演説をした自衛官があかねに掴みかかった。
あかねは飛び上がり、自衛官の右頬に右手の甲を添えた。無造作ともいえるくらいの柔らかな動きでその手を下に落とす。自衛官が空中で一転し、背中から思いっきり落ちた。
「つまりは食物連鎖、二番目は嫌だ、それだけのこと」
あかねは囁くと、黒の元へ駆け寄った。
依然とは見違える黒の動きだった。次々と鬼が黒の自在になぎ払われていく。いや、黒には自在で相手を打つ、払うという気持ちはまったくなかった。空中の、ちょうどいい場所に自在を置いている、そうすると、勝手に鬼達が倒れていく、そんな気分で自在を動かしていく。
「黒さん、良い動きです。見事ですよ」
「あかねちゃん、ありがとう」
あかねはにっと笑うと、青龍刀のような長大な刀を横なぎに振るう鬼、二人が腰を落とす、頭の上を刃がかすめ抜ける、あかねは瞬間、その青龍刀を握る拳を角 度を変えて押す、刀を振るう鬼の首がすとんと落ちた。弾ける鬼の血、辺りは鬼の地で深紅になったが、二人はすばやく避け、一滴の血も付かずにやり過ごし た。
「あかねちゃん、ひどいよ」
「何言っているんですか。刀を振るう以上は己が斬られる覚悟はしなければなりません。さて、遊び足りなくはありますが、引き時ですかね」
あかねが平気な顔をして、出入り口を探した。
新たな一行がやってきた。
「あれは、白澤おばあさん」
黒が驚いて叫んだ。
幸は黒の横に現れると笑みを浮かべた。
「良い動きだった、黒。それじゃ、帰ろうか」
「幸母さん、白澤おばあさんが」
「いいよ。手柄は本家に譲るさ。ま、手柄と言い切れるかは、ばあさんと当主の喋りにかかっているけどな。ま、如才なくことをすませるだろう」
三人の姿がふっと消えた。

椿は思いっきり走っていた。
間違いない、あれは黒様だ。凄い綺麗な女の子の後ろにいた、あの涼しげな眼差し、絶対、憧れの黒様だ。
いてもたってもいられず、椿は覚えている白の家へと走った。
あの角を曲がれば、白さんの家だ。
「止まれ」
怒声が響いた。
椿が硬直する、警官の服装をした鬼が立ちはだかっていた。
「立ち入り禁止だ、戻れ」
「え、鬼・・・」
ぎゅっと椿は唇を結んだ。
「なんだ、美味そうな娘だな」
鬼の口元からたらたらと涎がこぼれた。
「少し腹ごしらえでもするか」
ふわっと、椿の頭の上を風が流れた。
「よっ、ごめんよ」
頭の上で、声が聞こえた気がした。
鋭い蹴りが鬼の顔面に突き刺さったのを見た。
倒れた鬼の上に着地する女、啓子だった。
振り返ると、啓子がにっと笑った。
「あんた、幸ちゃんちの知り合いかい」
「は、はい。白さんの同級生です」
「で、テレビを見てやってきたというわけだ」
こくこくと椿が頷く。
「私もだよ。ん、今更、一人で戻るのも危険だな。あんたの家まで送ってあげるよ」
椿が思いっきり顔を横に振った。
啓子は困ったように笑う。
「妙な奴ばかりが集まってくるんだなぁ。一緒に来るか」
椿は万遍の笑みを浮かべて、
「はいっ」
と答えた。

低級鬼、自我が少ないため、個であると同時に全体でもある。いわば、戦闘にのみ特化した鬼だ。
二人が角を曲がったとき、うっ・・・、椿が息を飲んだ。
死屍累々、見上げるほどの大きさだったはず、数え切れないほどの鬼が打ち据えられ、切り刻まれ、倒れていた。地面が見えないほどの数だ。そして、中央に浮かぶのは、なよ。
幾本もの刃帯儀が、ゆらゆらと蠢いていた。
「なよちゃん、お疲れ様」
「なんじゃ、啓子。来るならもっと早く来い。さすれば、お前にも働かせたものを」
「さすがに、これは勘弁してください」
素直に啓子が頭を下げる。なよは、近づくと、椿を見た。
「お前は}
「は、はいっ。あの、津崎椿です。白さんとは、な、仲良くさせていただきまして」
「わしは白の叔母じゃ、なよという。追い返すわけにも行くまい、来い」
「ありがとうございます」
椿はなよの威厳に怯えたが、決して悪い人ではないと感じた。
家に戻ると、白が驚いて椿を見つめた。
「ごめん、来ちゃった」
ばつが悪そうに椿が言いよどむ。
「あ、あの。ようこそ」
自分の友人が家に来るのは始めてである。白はどきまきしていた。緊張を解くようにあさぎが声をかける、
「ケーキと紅茶、用意したよ」
白はほっとすると、椿に微笑んだ。
啓子が辺りを見回して言った。
「ところで、幸ちゃん達は」
なよは視線を少し上げると、三人のいるだろう方向を見つめる。
「なにやら、中華料理店で持ち帰りを注文しておる。半時間ほどで戻るであろう、暢気な奴らじゃ」
なよはあきれたように言うと、ふと気が付いたように袖を匂う。
「血がつかんようにと思うておったが、匂いがあるな。風呂に入る、三毛、湯船に水を入れてくれ。わしは火を起こそう」
「うん、手伝うよ。小夜野ちゃん、手伝って」
「はい」
三毛と小夜野が風呂の用意をと部屋を出る。なよは元気になった小夜野を見て、そっと笑みを浮かべた。


「幸母さん」
「ん」
幸とあかねと黒、迎賓館近くの中華茶房にて、お持ち帰りの料理が出来上がるのを待っていた。かなりの名店である、幸が一度、こういう店の料理を食べてみようと言い出したのだ。
三人、テーブルについて、料理を待つ。
「ここ、お持ち帰りなんて出来ないお店じゃないかなぁ」
「受付の人、奥で訊いてくるって、一度、厨房に入りましたものね」
あかねが気楽そうに言った。
「結果として用意するって言うんだからいいんじゃないかな」
黒が不安げに回りを見渡す。客は幸達だけだ。
放送のため、開店休業状態だったのだ。
「仕入れたお肉や野菜を無駄にするのももったいないだろうし、ちょうど良い客じゃないのかな。それに、ほら、カンフー服、中華っぽくていいよな」
幸が笑った。
幸とあかねは黒のカンフー服である、黒だけがベージュの普段着を着ていた。
「あかねちゃんまで」
黒が溜息をつく。
「本当に動きやすいんですよ。街に放たれた鬼もまだ多いですからね、いつでも動けるようにしておかなきゃ。でも、見栄えは、黒さんのドレス姿での立ち回り 姿、良かったですよ。特にドレスの裾が少しはだけて、それをぎゅっと押さえた、恥じらう顔。テレビカメラを潰すの、早すぎましたね」
あかねが笑った。
「あかねちゃんはおっさんだよ」
黒が顔を赤らめて言った。
ドアの開く音。一人の女性が店に入って来た。三十代初めくらいの美しい女だ。
遠慮なく、女は幸達のテーブル、空いた椅子に座った。
パンツルック、足の長さが強調されていた。
「あれからどうなった」
幸がにっと笑った。
「鬼は一カ所に集め拘束した。近く、鬼の世界へ強制送還する。放たれた鬼共は、本家が中心になって捕捉、これも強制送還だ」
「殺さないのか、本家はやさしいな。で、道はどうする」
「閉ざす技術がない。当分は見張りを立てる」
「人と鬼の世界とを繋げる道が出来上がったことが、鬼の大量移入を可能にした。これは人の創りだしたものだよ」
幸は答えると、コップの水を少し口に含む。
「いろんな考えの奴がいるってことだ」
幸はそう呟くと、口を閉ざした。
「幸。お前、高園童子をどうした」
女が少し詰問口調になる。
「そういえば、幸母さん、倒した鬼の耳元で何か言っていたよね」
「何をしているのかなって、あかねも気になりましたけど」
幸が、子供の姿には不似合いすぎる不気味な笑みを浮かべる。
「悪口を言った」
「悪口くらいで、あんなふうになるか。石のように固まってしまって、植物人間、いや、植物鬼だ」
あかねが深く溜息をついた。幸に狂いそうになる幻覚を見せられたことを思い出したのだ。
黒がおずおずという。
「あのね、幸母さん。今更、聞きずらいんだけど・・・」
「なんだ、黒」
「この人、誰だっけ」
横目で申し訳なさそうに、女を見る。
「全ては固有の振動数を持つ、だからね、白澤のばあさんは、姿が変わっても母さんが幸だと認識した。・・・ってことだよ」
くすぐったそうに、幸が笑った。
「こらっ」
すこんと女が黒の頭を叩いた。
「わかってなかったのか、情けない」
「ごめんなさい」
あかねも実はわかっていなかったのだが、ここでそれをいうのは避けようと大人の判断をする。努めて平静を装った。
「黒。白澤九尾猫の本当の姿は、この姿に尻尾を九本生やした姿だ。能力全開すると、こういう姿になる。母さんもこの姿を見るのは以前、戦ったとき以来だよ」
「幸」
白澤が幸を睨む。
「もう一度、戦うか。まだ、勝負はついていなかったからな」
「お父さんに叱られるからやめておく」
幸があっさりと答えたとき、店員達が料理を入れた持ち帰り袋を抱えてやってきた。
三人、料理の袋を抱えて、立ち上がった。
「幸」
白澤が声をかける。
「支払いは本家がしてやる」
「それは口止め料と考えていいのか」
「そういうことだ」
「ありがとう、実は請求書を見てびびったんだ。黒、あかねちゃん、今回の鬼退治、活躍したのは本家だ。鬼に殺されそうになった幸は、本家に助けていただいた。いいね、そういうことで」
二人が頷く。
「白澤さん、助けてくれてありがとう」
幸はそういうと、二人をうながし店を出る。
白澤がぱんと手を叩く。慌てて、受け付けがとんで来た。
「酒のメニューを持ってこい」
怒気を孕んだ白澤の声に怯え、慌ててメニュを用意し手渡した。
歯軋りの音が聞こえるようだ。しかし、白澤は大きく吐息を漏らすと、二度三度と大きく息をする。
「なめやがって。酒でも飲んで帰るさ。今日は貸切だ」

幸は両手に中華持ち帰りの袋を持ったまま、立ち止まった。
「こっちだ」
幸が呟くと細い路地に入る。両側がビルの壁で、辺りに人目はない。
「黒、あかねちゃん。先に帰っていてくれ。母さん、ちょっとさ、用事を済ませて帰るよ」
一つずつ、黒とあかねに袋を預けると、幸は片手で大きく円を描く、空間が切れ、あさぎの居る店の中が目の前にあった。
「うわ、どうしたの。幸」
幸があさぎに、ちょっといたずらげに笑みを浮かべた。
「あさぎ姉さん、いっぱいの荷物なんだ。歩くの面倒だから、空間が繋いじゃった」

「母さん、早く帰ってこなきゃだめだよ」
振り返りながら、黒が心配そうに言った。
「大丈夫。すぐに帰るよ」
「幸姉さん、手伝うことはありますか」
「たいしたことじゃないよ。ただ、家から出ないように。それは絶対だよ」
幸は二人を円の中に送り、空間を閉ざした。

吐息を漏らす。
幸乃が幸の頭を優しく撫でていた。
「ね、幸乃さん」
「ん」
「お父さん、探しに行くの、だめかな」
幸乃は幸の前でしゃがむとそっと笑いかけた。
「それはお父様が望まないことです」
「でも、でも。お父さん、きっと寂しいよ。お腹も減っているよ、寒くて凍えているよ」
幸乃は幸をぎゅっと抱き締める。
「幸の言う通りかもしれない。でも、辛さに耐え我慢しなさい」
幸が小さく呟く。
「ありがと、幸乃さん」
「どう致しまして」
幸乃はいとおしそうに幸を見つめると、幸の中へと戻って行った。幸が顔を上げ、唇をかむ。

幸は家の前の道路に広がる鬼の切り刻まれた死体が埋め尽くすのを静かに眺めた。
「国もそれどころではないということだろう。国会議事堂の前にでも積んでおいてやるかな」
幸の呟きに呼応するように、埋め尽くされていた鬼の死体が消えて行く。跡形もなく消え去った後、一人の老婆がまっすぐに背を伸ばし、幸を睨んでいた。
片手に薙刀、巫女の姿だ。
幸は柔らかな笑みを浮かべると、歩きだし、老婆の手前、薙刀ぎりぎりの間合いに立つ。
「こんにちは。私はこの家の者ですけど、なにか、御用でしょうか」
「孫を返してもらいに来た」
老婆が汚れたモノを見るような目で幸を睨む。幸は気にするでもなく、家の方角を眺める。
「白の友達が来ているのか。確か椿ちゃんとか言ったな」
幸は老婆に向き直ると興味深そうに笑う。
「津崎椿ちゃんの御祖母様ですか」
老婆が薙刀を右下段に構えた。
「津神流薙刀術、津崎かなめ。猫又に孫をくれてやるわけにはいかん」
幸は興味深そうに笑みを浮かべると、無造作に半歩進んだ。
「対人だけでなく、鬼や魔物とも闘う薙刀術と聞いたことがあります。椿ちゃんはうちの白と随分気が合うようですけど、縁があるのかもしれませんね」
一瞬、津崎かなめは大きく一歩後退した。これ以上、幸に近づくのは危険と体が反応したのだ。
「確かに白は元は猫かも知れません。でも、人の姿に定着し、猫の姿には戻りません。これからも普通の人として生きていきますし、私も母としてあの子を良い子に育てて行きます」
幸は笑みを浮かべると、受け入れようとするように、両手を広げる。
「椿ちゃんとは、一緒に御飯を食べた後、責任を持ってお送りします。ですから、構えを解いていただけませんか」
老婆は逆に構えに力を込めた、幸の気配に体が恐怖を覚えたからだ。今まで闘ってきた相手とはまったく異質の畏怖感。
「邪魔くせぇな」
小さく、幸が呟いた。

「幸お姉ちゃん、待って。待ってください」
あかねと黒が慌てて飛び出してきた。
「だめだよ、母さん。落ち着いて」
黒が幸の右手を両手でしっかり握った。あかねも老婆との間を割って入る。
「なんだよ、黒。あかねちゃんも」
「白さんの初めてのお友達のおばあさんですよ。危害を加えてはいけません」
あかねが両手を広げて幸を制した。
「わかっているよ。ただ、・・・とかしたら、楽でいいかなぁってさ」
「口ではっきり言えないようなこと、だめだよ」
黒がぎゅっと幸の手を握り締めた。
「黒さんとドアの隙間から覗いていて正解でした。幸お姉ちゃん、あかねの御祖父さんを呼んでください」
あかねの言葉に、幸が左手を横に伸ばす。肘から先が消え、何かを掴もうとする造作。手を戻すと白い着物の一端が見え、白袴を身に纏った鬼紙老が現れた。
「なんじゃお前は。あのじゃじゃ馬女の仲間か」
あかねが驚いて鬼紙老を見つめた。
「おじいさま、そのお姿は」
鬼紙老は、あかねの顔を見て、一瞬、顔がほころびかけたが、居住まいを正し言った。
「鬼紙家は鬼を制し、人の世を護ることこそが、その存在意義。わしの時代に国が鬼に乗っ取られたなど、御先祖に申し訳ない。あとは、あかね、頼んだぞ」
「だめです、おじいさま」
あかねは鬼紙老にしがみつくと、その胸に顔を埋めた。
「あかねはおじいさまがいらっしゃらないと嫌です。離れて暮らしていても、あかねは大好きなおじいさまのことを忘れたこと、ありません」
あかねが涙に濡れた顔を上げ、じっと鬼紙老の眼を見つめる。
「あかね、なんと良い孫じゃ。わしは幸せ者じゃ」
ほろほろと感極まり鬼紙老が涙を流した。
「おや。お前は津神流ではないか」
「まさか、この場所に御老がいらっしゃいますとは」
老婆が態度を一変し、深くお辞儀をした。
幸が頃合いを見計らってあかねに声をかけた。
「お二人をお店に連れて行って、あさぎ姉さんにお茶と何か甘いものを出してもらってください」
「ありがとうございます」
一瞬、あかねは振り返ると、いたずらげに舌を少し出す。
一秒にも満たない瞬間、すぐにあかねはかいがいしく鬼紙老に肩を貸し、お店へと歩いていた。ドアに三人の姿が消えると、深く幸が溜息をついた。
「幸母さん、お疲れさま」
黒がくすぐったそうに笑う。
「あかねちゃん、凄いな」
溜息一つつき、幸が道路に座り込む。隣りに、黒が足を投げ出して座った。
「幸母さんには幸母さんの良いところがあるから、落ち込まないでください」
黒がなんだか楽しそうに笑う。
「別に落ち込んじゃいないよ。いや、こういう気分を落ち込むっていうのかな。なぁ、黒」
「ん」
「世の中には長い歴史をこらえてきたいくつもの仕組みというものがある。うまく、その仕組みを利用出来る人間は要領よくこなして行くことが出来る、母さん、そういうの、苦手っていうか、拒絶しているからな、あかねちゃんにそういうこなし方、教わってくれ」
「わかってないなぁ、幸母さんは」
黒が幸の頭をそっと撫でる。
「とっても撫でやすい高さになっちゃったね」
黒が笑った。
「黒はね、幸母さんみたいになりたいと思っている。だから、幸母さんの出来ることは黒も出来るようになりたいなぁって思う」
幸が顔を上げ、黒の眼を見た。
「そしてね、黒は、幸母さんの出来ないことは、黒も出来なくていいかなぁって思っているんだ」
「なんか、認めてくれているようで嬉しいけどさ、そんなこと、言っていると三毛に抜かされてしまうぞ」
「うん」
黒はふと真面目な顔になって幸を見つめた。
「それ、考えた。ただ、黒はね、白や三毛を護りたくて強くなりたいと思う、三毛に負けるのが嫌で強くなりたいんじゃないんだ」
幸がふっと笑みを浮かべた。
「お父さんが三人の内、黒にだけ、術を教えたのは、黒のそういうところを認めたからかもしれないな。野心があり過ぎると、身につけた術でその身を滅ぼしてしまう」
幸は立ち上がると両手でお尻をはたき、砂を払った。
「なぁ、黒」
「はい」
改まって黒は返事をすると、幸の横に立つ。幸が少し見上げた。
「破壊者にも勇者にもなる必要はない。この市井の一隅で、地味に、そして、ちょっと楽しく、みんなで助け合って生活して行ければさ、最高だと思わないか」
黒が笑みを浮かべて、言葉を繋いだ。
「あさぎ姉さんの喫茶店、これはなよ姉さんと小夜乃ちゃんが手伝う。幸母さんとあかねちゃんの畑。白がお医者さんになって隣りで開業して、三毛は看護士さん。黒は母さんの畑を手伝うよ」
「そうさ、お父さんは母さんと一緒に畑仕事してな。啓子さん達もちょくちょく遊びにきて、一緒に御飯食ったり。な、楽しいだろうな」
黒が心の底から幸せそうに笑みを浮かべた。
「殴ったり蹴ったり斬ったりするより、ずっと楽しいだろう」
「うん」
黒は満辺の笑みを浮かべ、幸を両腕で抱き上げた。
らら、らと歌いながら黒が舞う。
「こら、母さんを抱っこして良いのはお父さんだけだぞ」
「だって、幸母さん、小さくなって可愛いんだよ、喋らなければだけどね」
「それは余計だ」
幸が楽しそうに笑う。
「幸母さん」
「ん」
「黒って名前、とっても気に入っているんだ、娘にしてくれてありがとう」
「急にそんなこと言うなよ。なんか照れる」
「照れてください。これも親孝行だよ」
「黒は以外と甘え坊だな」
「長女は、ほんとはとっても甘えるのが好きなんだよ。お姉さんだから我慢してるけどさ」

がきっ、黒い気配が空気を固形化する。黒がステップを踏んだままの状態で固まってしまった。
まだ、明るかったはずの風景が闇になる。なにかとてつもなく重い気配がすべての重量を階級的に重く沈めてしまったようだ。
「幸母さん、これは」
「八割はったり、二割実力。本人は十割実力と考えている勘違い野郎の御登場だ」
幸は黒の腕の中で気楽に笑みを浮かべた。人の可聴域より低い音が響く。音、いや、言葉だ。
黒はその聴覚で、オンナと呼びかけるその音を認識した。
「幸母さん、呼んでる」
「ようだな。さて、選択肢は二つ。戦って勝つか、速効、家に戻って中華を食うか。フカヒレ、二万円、料理した奴、何考えてるんだ、もう拝ませていただきますって値段だな」
「幸母さん」
「ん」
「中華選んでも良いかなぁ」
心細げに黒が囁いた。
「奇遇だな、母さんも中華を選んびたいんだ。黒」
「はい」
「走れ」
幸が呟いた。
瞬間、家の扉が弾けたように開く。
一足飛びに黒が幸を抱きかかえたまま、飛び込んだ。背中で扉が唸りをあげて閉じる。
「お帰り、幸、黒」
なよがまったくの緊張感無しに声を掛ける。
「もうすぐ、あさぎの味見と分析が済むからな」
「え、分析」
黒が鸚鵡返しに尋ねる。
「あさぎが中華の料理を覚えてみろ。喫茶店で本格中華じゃ。それに晩飯も豪勢になるぞ」
ふぁあっと黒の顔がほころんだ。
「生きてるって幸せだ」
黒の笑顔に、なよが愉快に笑った。
「黒は面白いな」
幸が黒の腕の中で笑った。

「あ、黒様」
声に気づいた椿がやってき、玄関にいる三人を見つけた。
ふぃっと黒は表情を沈め、大人びた顔を椿に向けた。
「やぁ、椿ちゃん、来てたんだ」
「はい。あ、あの、テレビで。横顔がちょっとだけだったけど、絶対に黒様だって」
黒が静かに笑みを浮かべると、そっと、自分の唇に人差し指を当てる。
「それはね。秘密だよ」
目を輝かせ、椿がこくこくと頷いた。
25
最終更新日 : 2013-05-11 17:47:57


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