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異形 雨夜閑話三話

「私、おじさんに罪を被せようとしました、大声で痴漢って叫ぼうとしました」
全員が硬直した、男や幸までも。

全員がテーブルにつき、晩御飯を食べようとした瞬間だった。倉澤は突っ立ったまま、ぼろぼろに涙を流していた。
「えっと・・・」
啓子が呟いた。
「ここは先生が倉澤さんを泣かしたということで収めればいいのではないかと」
「そう・・・、だね。お父さん、倉澤さんに謝ろう」
幸も呟く。
「ごめんね、倉澤さん。だから、もう泣かないでくれるかな・・・」
男はどうしたものかと戸惑っていた。取り合えずというのは嫌いだが謝ってこの場が収まるのならそれでいい。
「ごめんなさい、私、おじさんや皆さんにこんなに優しくして貰って、なんだか、とても自分が悪く思えて、ううん、とっても悪い人間だから・・・」
幸は立ち上がると倉澤をぎゅっと抱き締め、そっと彼女を座らせた。
「そのことは許すよ。倉澤さん、男二人に脅されてのことだよ、男はとっても恐い野生動物だからね、仕方ないよ」
男以外のここに居る全員が、あんたは違うでしょという突っ込みをぐっと抑える。
「お父さんも怒ってないし、幸も怒ってないよ」
男は既にナポリタンを食べだしていた。それを見て、啓子も食べ出す、おおよその予想がつく、父親以外の男が如何に邪悪な存在か、幸の演説が始まる、話が終えるころにはすっかりナポリタンも温野菜も冷めてしまうだろう、
「啓子さん、トマト、美味しいですよ」
「今までのトマトって、偽物だったんじゃないかって思うよね」
恵の言葉に啓子が頷いた。
「それ、言えてる。あたしもここのトマトなら食べられるもの」
礼子が嬉しそうに言った。
幸は出先を挫かれて、ううっと唸っていたが、肩を落とし言った。
「倉澤さんも早く食べよ、暖かいうちに」
幸が男の横に戻る、男は幸の頭を撫でた。
「ちょっと成長したね」
「お父さんが一番最初に食べ出したよ」
幸が拗ねたように男を見つめた。
「お腹減ってたからね」
男が少し笑う。
「お腹減っている人達にまだ食べるなと言っている自分を想像してごらん、孤独な独裁者になってしまう、独りぼっちになってしまうぞ」
男はくすぐったそうに笑うと、手を戻し、サラダを食べる。
「幸の育てたトマトは美味しい」
幸は溜息をつくと、ナポリタンを食べ出した。
「今日は啓子さんにも叱られたし、お父さんにも叱れたよ」
「つまりは今日だけで幸は随分と成長したわけだ。おめでとう」
「おめでとう、幸さん」
啓子が笑った。
「幸さん、おめでとうございます」
恵まで楽しそうに幸に声をかけた。
「あ、なんだか、嬉しい気分。あぁ、幸は単純すぎるよぉ」
幸が俯いて頭を抱えた。
「おめでとうございまーす」
礼子と理恵子が声を合わせて言った。
「あ、あの、えっと、おめでとうございます」
分からないなりに、倉澤まで幸に声をかけた。
「自分で一人喋るより、いっぱい、声をかけて貰う方が楽しいだろう」
幸はそっと顔をあげると呟いた。
「うん、ありがと・・・」
皆が声を出して楽しそうに笑う。
二時間近く、お喋りをしながらの晩御飯は、幸にとってとても楽しいものだった、それは倉澤も同じで、こんなふうに自分の今までと変わってしまうのが信じられないくらいだった。
男は食べ終えると、食器を洗おうと立ちかけたが、ふと思いつき、幸に声をかけた。
「幸、倉澤さんに数学を教えてあげてくれるかな、それに恵さんにも頼んでくれないか、彼女に英語を教えてくれるように」
幸は恵が高校の英語教師になるつもりだったのを思い出した、もっとも、非合法組織のスカウトにふらふら付いて行ってしまい、今に至るわけだが。
「それいいな、うん、頼んでみるよ」
男は頷くと、流しへと向かった。
恵はととっと幸の横に来ると、興味深そうに幸の顔を覗き込んだ。
「幸さん、何をすれば良いですか」
「倉澤さんに英語、教えてくれないかな、何カ所か勘違いしているところ、直したら一気に理解が進むと思うんだ」
「幸さんの仰せなら、例え火の中、水の中」
「つまり冬は暖い炬燵の中、夏は冷たいプールの中ってことだ」
啓子が笑った。
「穿ってるなぁ、啓子お姉ちゃんは」
「えっ・・・、お姉ちゃんって」
啓子が驚いて恵を見つめた。
恵は気にする風もなく、倉澤の隣りに座る。
「早紀お姉ちゃんって呼んでいい」
恵が屈託なく笑みを浮かべる。
「は、はい」
「私のことは恵って呼び捨てにしてください。これから早紀お姉ちゃんに英語を教えてあげます」
「恵ちゃんって、ひょっとして帰国子女なの」
恵は横に首を振ると、じっと倉澤を見つめた。
「ネイティブは自信ありません、でも、受験英語にはかなり自信有ります」

啓子が小声で囁いた。
「幸さん」
「ん・・・」
「恵・・・、ちゃん。のりのりだ・・・」
「凄いよね」
「おっきいお姉ちゃん達、なにか」
「いいえ、何も・・・」
幸と啓子の声が重なった。

男は部屋に戻ると、机に置いた茶封筒を掴んだ、珍しく郵便受けに入っていたものだ。ごみ箱にと思ったが、気を取り直して開封する。
白紙の便箋が一枚。
「今頃、本家がどの面下げて、ってな話だが、白澤のおばさんには義理がある」
男は吐息を漏らすと、椅子に座ったまま目を瞑った。
男は子供の頃の、みずち家に囚われていた記憶を蘇らせる、殺されずに抜け出せたのは、白澤妙子の機転と勇気によるものが大きい。
幸と本家に乗り込んだ時、無理にでも連れ帰れば良かったのだろうか。一緒に帰りましょう、恩返しをさせてくださいと言った言葉に偽りはない。
「お父さん、いい」
襖の向こうから幸が男に声をかけた。
「どうぞ」
幸は男の部屋に入るとにっと笑った。
「恵さん、凄いよ。教えるのが巧くて的確だ」
「そっか、人ってのは本当に面白いな」
「お父さん、一歩、引くといろんなものが見えて来るし、現れて来るね」
「幸 おいで、そしてね、父さんに背中向けなさい」
「こうかな」
幸は椅子に腰掛けた男の前に立つと、男に背中を向けた。
男が、左手を摩るように幸の首の後ろから、肩、背中へと触れていく。
「滞ってたのが、綺麗に流れている」
男が手を戻すと同時に幸が振り返る。
「お父さん、ありがとう」
「父さんはちょっと方向を指さしただけ、実行したのは幸だよ。でもさ、ありがとうって言われると、嬉しいな。幸、ありがとうって言ってくれて、ありがとう」
幸は男をぎゅっと抱き締める、ふと、手紙を見つけた。
「お父さん、これは」
「招待状だ。観月の宴。もっとも、ホテルの中なんだから、月を愛でるのは目的じゃない」
幸は男にしな垂れかかったまま、右手で便箋を男から受け取った。
「白澤さんからの御指名かぁ、幸は苦手だ、あのおばさん、喧嘩になっちゃう」
「向こうもそう思っているんじゃないか」
男が笑った。
「それに、お父さんを子供扱いするんだもの」
「まっ、年寄りは得てしてさ、そんなものだよ」
「あれ、お父さん、これ、今日だよ。もうすぐ、始まる」
「律義に最初から座っている必要はないさ」
「お父さんは行くつもり、それなら、幸がボディガードについて行くよ」
「それは安心。幸がいてくれれば百人力だ。でも、だめ。ここにいなさい」
「行く、行く、行くよ。幸にはお父さんを護る義務が有るもの」
「そんな義務はないよ」
男は笑みを浮かべると幸を立たせた。
「啓子さんも恵さんも言ってたけど、ここはシェルターみたいなものだ。そして、ここがその機能を果たすには、鍵である父さんか、畑を作って地に深く縁が出来始めた幸のどちらかがいないといけない、昼間ならともかく、夜、長く二人がここを空けるのは良くないんだ」
「うん、・・・わかった」
幸が素直に頷く。幸の心に皆を護ろうという意識が芽生えたこと、男は少し寂しくもあったが、それ以上に嬉しく思う。
「娘の成長を見守ること、これは父さんにとってとても嬉しいこと。随分と成長したね」
「だって、お父さんを信頼していますから。でも、ピンチだって思ったら、お父さん、必ず、幸を呼ぶこと、一瞬で駆けつけます、抜き身の刀、担いで、いいですね」
「思いっきり叫ぶことにするよ」
男が笑う、幸は安心したように笑みを浮かべると、自分の髪を一本、抜く。
「幸の体はすべてお父さんからいただいたもの、髪の毛、一本、お返しします」
幸が男の右肩、ほんの数センチ、残った腕の後に髪の毛を巻く。
そして、目を瞑り、微かに言葉を呟く。
やがて、うっすらと男の右腕が現れ、実体化した。
「幸の育てたお父さんの右腕です。どうぞ、使ってください」
男は久しぶりに見る右手、その指先を少し動かして見る。まったく違和感がない。
「父さんは、この右手で、お箸を持ったり、ボールペンを持ったりすると思う。いや、ひょっとしたら、敵を殴っているかもしれない。でも、最初の仕事は」
そっと、男は幸の頬を右手で触れた。
「この右手に、幸の優しさ、やわらかさを覚えさせることだな。ありがとう」
男は少し恥ずかしげに笑みを浮かべると、部屋を出た。
幸はしばらくの間、ぼぉっと余韻に浸っていたが、はっと気が付くと慌てて叫んだ。
「幸乃さん、幸乃さん」
「はぁい」
幸乃が幸の前に現れた。
「お願いです、お父さんの後を追ってください」
「お父様を信頼していますって、聞いた記憶があるけど」
「でもでも。お父さん、ピンチになっても幸を呼ばないよ」
幸乃はいたずらげに笑みを浮かべた。
「幸を危険な目に合わすことはできないってお考えになるでしょうねぇ」
「だから、幸乃さん」
幸が涙目になって幸乃に嘆願した。
「泣きなさんな。呼んだら、すぐに来るのですよ」
「はい、行きます」
幸乃は仕方無さそうに笑みを浮かべると、そっと幸の頭を撫でる。
「お父様以外のことでしたら、随分しっかりしましたのに。しょうのない子」
幸乃はそっと笑うと姿を消した。

「幸さーん」
啓子の呼ぶ声が聞こえた。
「ここです、お父さんの部屋、どうぞ」
幸が声をかける、ゆっくりと襖が開き、啓子がのぞき込んだ。
「幸さんに数学を。・・・泣いていたの」
幸の眼がまだ涙に濡れていた。
「お父さんが出掛けてしまって、なんだか寂しい」
微かな笑みを浮かべ呟く。
そして、先程の便箋を啓子に見せた。
「白紙ですけど・・・」
幸はゆっくりと立ち上がり、啓子の目頭を指先で触れる。
「あ・・・、書いてある。観月の宴。日付は今日だ」
「様々な呪術の組織が集まって、鬼への対策を協議するらしいよ。多分、警察や自衛隊からも参加がある、大きな集まりだね」
幸は啓子から便箋を受け取ると、封をし、机の上に置く。
「これで鬼が減れば暮らしやすくなりますね」
「人類と鬼達は表裏一体。ともに存在し続けるのが正常なのさ、でも、今は人の力が弱くなり過ぎて、吊り合わなくなってしまっている。それが問題の根本だ。ただ、お父さんは協力しないだろうなぁ」
「先生はどうして」
「希代の術師 無は鬼も嫌いだけど、呪術師も同じように嫌いだからね。さて、二人に数学を教えてくるかな」
部屋を出かけた幸に啓子が声をかけた。
「幸さん、言葉がおとなしくなった」
幸が振り返ってにっと笑った。
「日々学習、ありがと、啓子お姉ちゃん」

男はとある名の通ったホテルの前にいた。入り口の自動ドアで、正装したドアボーイが案内してくれるといったホテルだ、普段着では入りにくいホテルだが、意を決して中に入る。
「千尋ちゃん、こっちよ、こっち」
仕立ての良い着物を着たおばあさんが笑顔で男を手招いていた。
男の通り名を知っているのは幸と佳奈。それに、本家の年寄り連中だけだ。
「名前を呼ぶのは勘弁してください」
男が困り切ったように笑った。
「ごめんなさいね、だって、懐かしかったのだもの」
「しょうがないですね」
男は白澤に近寄ると会釈をした。
「白澤さんもお元気そうで何より」
「いいえ、あちらこちら、がたが来ていますわ。早くお迎えがこないかしら。おや、今日はあのこまっしゃくれたわるがきは付いて来てはいないようね」
「ええ、留守番をさせて」
「よお、ばあさん。無駄に元気そうだな」
幸乃が男のお腹から頭だけ出して、白澤に笑いかけた。
一瞬、白澤が笑みを浮かべたまま、硬直した。
「どうだ、びっくりして、その辺、お迎えが来てないかな」
幸乃は蠢くようにして、男のお腹から這い出ると、男と白澤の間に立つ。
「電話一本で、あたしが、お向かえ呼んでやるから、いつでも連絡くれよな」
男は驚いて、幸乃に声をかけた。
「どうしたの」
幸乃は振り返ると男に笑みを浮かべた。
「私はおまえ様の妻です。妻が夫の横にいて何の不思議がありましょう」
幸乃は男の右腕に自分の左腕をからめると、そっと男を見上げた。
「怒っていますか」
「相当、甘い父親のようで、逆にほっとしていますよ。あれ、腕が」
男は幸乃の左腕の柔らかな感触を感じた。
幸乃が初めて恥ずかしげに笑みを浮かべた。
「右腕だけですが・・・。妹のおかげです」
茫然としていた白澤は意識を取り戻すと呆れたように笑った。
「相変わらずね、貴方は」
「お褒めいただきありがとうございます」
幸乃は平然と答えると、辺りを見回した。
「ホテル全体が澱んでいますわね。上から澱が滴って来るようね」
「会場は八階、鳳凰の間ですわ。さあ、どうぞ」
男はふとエレベータを見たが、視線をそらすと、職員用階段を見つけ、そちらへ向かう。
幸乃が振り返り、白澤に言った。
「おばあさん、無理せずエレベータをお使いくださいね」
「エレベーターに食われるような、人生の終わり方はまっぴら」
嫌みたらたら白澤が答えた。

鳳凰の間の前では、記帳のための席が設えられ、対応のため、女性が二人、座っていた。
男はふと立ち止まり、幸乃に話しかけた。
「父さんの中に隠れていなさい、鬼も術師もたいした違いはない、部屋の中は障気で満ちているようだ」
幸乃はうなずくと、男の体に溶け込んだ。
「本当にお前の娘は人間ばなれしているねぇ」
白澤がほとほと感心したように言った。
「ちょっとした個性というものですよ」
男は笑うと、そのまま、何事もなかったように部屋へと入って行った。
「記帳もせずに扉を開けるお前もなかなかのものです」
ふと、白澤は男の若い頃、まるで刃のような気配を漂わせ人を否定していた頃と今の和やかになった男を思い比べ、これも娘のおかげかと納得した。

少なくとも鬼ではない、しかし人間と言い切るのは躊躇われる、立食パーティーの様を言葉にすると、そんな表現になる。
老若男女、様々な年齢の少しばかり、人間ばなれした異形のものたち、呪術の多くは神だとか、悪魔、魔物の力を借りて発動させる、言わば、人の体は力の流れ る通路のようなものだ、しかし流れるのは力だけでなく、呪術者の多くはその力借るモノたちに体も考え方も従属し始めてしまう。ふと足元に気配を感じる、見 下ろすと、芋虫のように体を波打たせながら、若い女が通り過ぎて行った。
「旧支配者の流れか・・・」
男は呟くと辺りを見渡した。いくつもの円形のテーブルが並び、そこかしこで談笑が交わされている。この談笑の影で、鬼対策の会議が開かれているのだろう。
美しい女が、笑顔を浮かべ、接待だろう、ワインを注いだグラスを男に差し出した。
「赤ワイン、それとも白ワインがよろしいでしょうか」
男は少し寂しそうに笑みを浮かべると、手でそっと制した。
「アルコールは苦手なのです。体が受け付けないので」
男はついっと女の持つグラスの載ったプレートを片手で支え、顔を寄せ囁いた。
「派遣会社からいらっしゃったのですね。君の名は田中さん、私の娘と同じくらいの年格好だ、ここは恐くないですか」
引きつったような声で女が呟いた。
「ごめんなさい・・・」
女が笑みを浮かべたまま、涙を流した。
「正直にどうぞ」
「恐くて仕方がありません」
男はプレートを受け取り、テーブルに置いた。
「エレベーターはいけません、喰われてしまいます。階段を思いっきり走りなさい、そして、このホテルから逃げ出しなさい。もしも、引き留められたときは・・・」
「引き留められたときは」
男が呟いた。
「我、無の眷属なり、我に触れるな。そう、叫びなさい」
男はふわっと女の後に廻ると背中に触れた。軽く押す。
「走れ」
男の言葉に女が駆けだした。

「こんなところに普通の人を入れるなんてな、餌にでもして楽しむ気か」
男は呟くと、もう興味をなくしたように辺りを見回す。
見つけた、あかねちゃんだ。
あかねがテーブルについていた、随分と顔色が悪い、疲れ切っているようで顔を上げているだけで精一杯のようだ。
男が駆け寄る、瞬間、二人の間を黒い影が遮った、ふわっと男は高跳びのように、身を翻し反転すると同時に影を蹴り上げる、影に当てる寸前、男は脚を止めた。
「女の子、猫か・・・」
三人の女の子が身を守るように腕で顔を守り、うずくまっていた。
男は背を向けると、あかねに向き直った。いつの間にか、白澤があかねの横に座っていた。
「困った子、攻撃の早さと速さは相変わらずね」
白澤が溜息を漏らす。
男はあかねの横に座り、その手首を見つめる。あかねの手首には呪府が幾重にも巻かれていた。
「迷惑をかけないようにと、そうしたのだろうけれど、だめだよ。でも、頑張ったね」
男はそっとあかねの頭をなでる。そして、あかね越しに白澤を見つめた。
「助けてくださったのですか」
「ええ、お前が蹴り飛ばそうとした、私の曾孫三匹がね」
呆れたように、白澤が笑った。
とたたたっと三人の女の子が駆け寄ってきた、普通の女の子、しかし、瞳だけが、まさしく猫の眼だった。
「せっかく、交渉しようとしたのに」
「そうだよ、予定外だよ」
「おっさん、器用すぎるぞ」
口々に言う、猫女。
「がきが何か、いいえ、お嬢様がたが何やら交渉とか、おっしゃってますが」
「ちょっと、お前にお願いしたいことがあってね」
「こら、おっさん」
「無視するなよ」
「あぁ、何様のつもりだ」
白澤がぎろっと猫女を睨み付けた。一瞬に三人とも小さく縮こまってしまう。
「お前の娘ほどではありませんが、どうも、今時の娘は口が悪すぎます」
「テレビの影響もあるのでしょうかね」
男がとぼけたように言う。
「ところで」
白澤は笑みを浮かべ男に言った。
「お前の娘が大層大事にしているこの子を囚われの身から解放しました。そのかわりにと言ってはなんですが、私の曾孫にそれぞれ一つずつ、お前の術を教えてやってくれませんか」
「本家の術が正当、私のは随分、我流が加わってしまってお教えするほどの価値はありませんよ。なにより、白澤さんなら、当主の義兄も嫌だとは言わないでしょう」
「もちろん、言わないでしょうけどねぇ・・・」
白澤は思案げに顔を曇らせたが、意を決したように男を見つめた。
「本家は独自に鬼と闘う体制を整える予定です、連合には入りません。そのためには確実に鬼を仕留める術が必要です」
男が仕方なさそうに笑みを浮かべた。
「白澤さんの本意が、本家を守ること、一点に集中していること、余程、初代は魅力的な男だったのでしょうね」
「例え、人の身ではない私でもね、丁度、お前と娘の関係のようなものですよ」
「上では、会議中、それぞれの派が警察と自衛隊の特殊部隊に、術と技を提供する方向で決まりつつあるようです、本家なら、指導的立場になれますよ」
「本家の術を流出させるわけにはいきません」
男は視線を戻し、俯き考える。やがて、顔を上げると、白澤に言った。
「一つだけ条件を呑んでください、そうすれば、教えましょう」
ほっとしたように白澤が笑った。
「条件とは」
「こいつら、三人とも避妊手術してありますか。猫も少しなら可愛いけれど、数か増えて、あちらこちらで、糞をされても困りますし、盛りがついて屋根で鳴かれたら眠れません」
「なにいってんだ、このやろう」
「人権蹂躙だ」
「顔洗って出直せや」
男が愉快そうに笑った。
「避妊手術はしておりませんが、猫又は猫とは体の仕組みも違いますから増えることはありませんわ」
白澤が愉快に言った。

男はあかねを背負い、猫娘三人を引き連れ、階段を駆け下りていく。飛ぶように降りていく。
「なんで、人間があたし等より速いんだよ」
「スピード違反だぞ」
「女を大事にしない男は最低だ」
男は無視して駆け下りていく、一階ロビーに到着すると、速度を緩めないまま、閉まりかけた自動ドア、すり抜けホテルから飛び出した。
ふと、男はホテルから少し離れたところに先ほどの女がうずくまっているのを見つけた。
ふわっと、男の横に幸乃が現れた。
「あの子、ホムンクルスですわ」
幸乃が男に言った。
「人造人間・・・、でも、まったくの人間だ」
「ええ、なんの力も無い普通の人間仕様です」
男は幸乃と一緒に、女に駆け寄ると声をかけた。
「大丈夫ですか」
女は男を見つけると、ほっとしたように笑みを浮かべた。
「先ほどは助けていただきありがとうございます」
「どうしたのです」
困惑したように女が言った。
「私は何処へ行けばいいのでしょうか、何も思い出せない」
幸乃がじっと女を見つめる。
「景品として作られた、食用、愛玩用ですわ。簡単な記憶を設定しただけの」
男が小さく呟いた。
「術師も鬼もたいした違いはないな」
「おまえさま、右手で彼女の額を抑えなさいまし、そして、名前を。でないと、彼女は消えてしまいますわ」
男はそっと女に囁いた。
「生きていたいですか」
女が戸惑いながらもうなずいた。
男は女の額にそっと右手を触れると、小さく囁いた。
「私が君に名前を付けます」
男が言葉にならない音を呟いた。一瞬、女が吹っ飛びかけたが、猫娘三人、慌てて、後から女を支えた。
男がそのまま座り込んでしまった。
「幸乃、どうしようか。幸はびっくりするたろうな」
「あかねちゃんはともかく、四人も女性が増えてしまいましたわね」
幸乃が気楽そうに言った。

「まっ・・・、この方はお父さんが名前をつけたわけですから、姉妹として歓迎します、事情は幸乃さんに教えていただきました。でも、この猫娘三人は白澤九尾猫を思い出してしまって、幸はいじめてしまうかもしれませんよぉ」
あかねを寝かせつけた後、幸は男に泣きついた。
猫娘三人、直立不動で緊張していた、幸に一睨みされ、震え上がってしまったのだ。
「本当にいるんだ・・・」
啓子が興味深そうに猫娘を見つめた。恵や礼子、理恵子に倉澤は、襖の向こうから顔だけ出して、興味深そうに覗き込んでいた。
「質問いいかな」
「な、なんだよ」
手前の猫娘が答えた。
「二股になった尻尾はないの」
「人型に化身して、尻尾だけ残すような愚かなことはしない」
「でも、瞳はまるっきり猫だよ」
「眼は難しいんだ、でも、普通の人間からは、猫の目には見えてないはずだ」
緊張したまま、答える。
啓子はうなずくと、襖の向こうを手招きする、待ってましたと恵達がやって来た。
「猫の目に見える人」
啓子が声をかけると、恵と倉澤が手を上げた。
「早紀ちゃん、見えるの」
礼子が驚いたように言った。
「うちで飼っていた、たま三号と同じ目ですよぉ」
倉澤が答える。幸乃は礼子と理恵子の後ろに立つと言った。
「人差し指を瞼の上に置いて、目を細くして、ちょっと睨むように見てごらんなさい」
言われたように、目許に力を入れ、じっと見つめる。
「わっ、凄い。見えた」
二人、同時に声を上げた。
幸乃は少し笑うと、男に助け舟を出した。
「幸、この子達にお礼を言いなさい、あかねちゃんを助け出してくれたのですよ」
幸はううっと唸りつつも、顔を上げ、ひきったような笑みを浮かべた。
「ありがとう、とっても感謝しています」
「ご、ごめんなさい」
「どうして謝るの」
「雰囲気が怒った時の白澤のばあさんにそっくりで・・・」
うっ・・・、幸が息を飲んだ、一番、言われたくないこと。
ふと、男が思いついた。
「幸が三人に教えてやってくれないかな、術を」
幸は大きく深呼吸をすると、気持ちを入れ替えるように頭を振った。
「お父さんの命により、幸はこの子達に術を一つずつ教えます。ただ、厳しい修行になりますので、ひょっとして幸がいじめているように見えることもあるかもしれません。でも、それは誤解でありますこと、ここにあらかじめ宣言します。さて、貴方達、名前を教えなさい」
「ま、まだ、ないんだ」
幸の言葉に恐れつつ、一人が答えた。
「なら、左から、白、黒、三毛。名前決定。幸は貴方達の名付け親です。決して、逆らうことを許しません」
一気に言うと、幸はぱんと両手を叩いた。猫娘が瞬間、三匹の猫に戻ってしまった。左から、白、黒、三毛猫。おおっと礼子や理恵子が感嘆の声を上げた。
「お風呂、直行」
幸が声を上げた。
「黒、もーらい」
啓子が黒を抱き上げ風呂場へ向かう。
「お姉ちゃんずるい」
礼子が白を抱きかかえた。
恵は三毛の横にしゃがむと、尻尾を手で持ち上げた。
「根元は一本で、後ろ、半分位から二本に分かれているんだ。面白いなぁ」
倉澤もしゃがむと、尻尾の断面を見る。
「分かれているところ、内側は平らですよ。本当に縦半分に割れた感じですねぇ」
「時間が経つと、その平が丸くなっていくかもしれない、それで、いつから猫又になったかが分かるかもしれないよ」
恵が立ち上がる。
「お姉ちゃん、どうぞ。恵はあんまり、猫、得意じゃないから」
三人、猫を風呂場へと連れていった。
「シャンプーとトリートメントで、毛が無くなるくらい、がしごし洗ってくださーい」
幸が三人に声をかけた。
幸乃は男に少し手を振り、笑みを浮かべると、幸の体に戻って行った。
「賑やかになりますねぇ」
恵が笑った。
幸は、ほっとして、畳に座り込むと、少し笑った。
「面白いよね。そうだ、お父さん」
「ん」
「倉澤さん、今晩は泊まることになったよ」
「合宿気分で楽しそうだな」
幸はにっと笑うと、所在なげにしている女の手を握った。
「普段の名前をつけて上げてください」
男は女の眼をじっと見つめる、そして、笑みを浮かべた。
「あさぎ。で、いかがですか。これから成長して行く植物の色。これからたくさんのことを覚えて行く君にちょうどいいかな」
「あ・・・、ありがとうございます」
「あさぎ姉さん、どうぞ、よろしく」
幸は笑みを浮かべると、しっかりとあさぎの手を握った。

皆が寝静まった後、男は起き出して、台所で水を飲む。テーブルにつき、ガラスコップにいれた水を眺める。
男はあかねのことを考えていた、詳しい状況は聞かない、でも、相当に苦しめられたことはわかる。酷な話だ。
男はふっと顔を上げると闇に声をかけた。
「シャンプーの香りが体中から発散してますよ」
男が笑みを浮かべると、闇の中から黒が現れた。
「どうぞ、座ってください」
男の言葉に、黒は警戒しながらも、テーブルの反対側に座った。
「眠れませんか」
「いや、人間のように夜に寝るという習慣がないだけだ、それに、啓子さんに押し潰されそうになって逃げてきた」
男が声をひそめて笑う。
「そこそこの鬼くらいだったら、啓子さんは素手で倒してしまいますよ。とばっちり受けないよう気をつけてください」
「あんたがあたしらに直接教えてくれないのは、術が惜しいからか」
黒は男を睨むようにして言う。
「白澤のばあさんの命令はあたしらには絶対だ。どんな強敵相手でも戦わなきゃならない。どうしても強くなりたいんだ」
男は困ったように笑みを浮かべた。
「私と幸では、遥かに幸が強く、また、教えるのもうまい。それに、幸は真直ぐですから、貴方方が真剣に学びたいと思えば、それに誠実に答えるでしょう。私は本家とのわだかまりがあります。誠実に教える自信に欠けるのですよ」
「娘の方が強いというのか」
「なんていうのでしょうね。大事な娘が男に泣かされては大変、しっかり強く育てなきゃと、ん・・・、強く育てすぎたかな」
男は小さく笑うと、黒に笑みを浮かべた。
「多分、白澤さんもあなた方のこと、思うばかりに、ある意味、敵対する私に自分の血族を委ねたのです。本家を名目だけでなく、実質的に再興させるためにという理由もありましょうけど、ともかく、私の術を身につければ、あなた方が殺されることはなかろうとね」
男は視線を少し上げる。
「幸、この子達は幸の娘でもあるわけだ。名付け親だからね」
黒の両肩に幸の手がそっと触れた。びくんと黒が震え、硬直する。
「親としては娘三人の行く末が心配だ」
幸は黒に顔を寄せると声をひそめ囁いた。
「いつまでここにいられる」
「八日間だ」
「短いなぁ、もっと楽しみたいのにな」
幸はふっと笑うと、黒の横に座った。
「黒が姉で、白と三毛は姉に従って、白澤のばあさんの言うことを聞いている、そんなとこだな。黒、八日間、寝ずに修行できるかな」
「で・・・、できる。もちろんだ」
「なら、今から修行、大丈夫、半日くらいは休まさせて上げるよ」
幸は男に向き直った。男が笑みを浮かべた。
「幸の仕事は、父さん、頑張るよ。啓子さんや恵さんもいるからさ、なんとかなるよ、それにあさぎもね。だから、しっかり教えなさい」
「ありがとう、お父さん」
幸はほっとしたように笑みを浮かべると、黒に向き直った。
「あなた達がどんなに大変な思いをして、危険の中、あかねちゃんを助けてくれたかということ、わかっている。本当にね、感謝しているよ」
幸は両手でしっかりと黒の手を握った。
「だから、覚悟してください。しっかり、教えます」

空は下弦の月、梅林の中、幸の前に三人の猫娘が立つ。
「あなた達の体は人の体よりも自在に動きます、でも、それでも遅い。ですから、全ての無駄を排した最速の形を教えます。最初は素手。そのあと、武器術を教えます。それが終われば、呪術を教えます。最後は武術と呪術の同時発動を教えます。いいですか」
「はい」
緊張した面もちで三人が答えた。
幸は微かに左足を半歩引いた。
合わせて三人の足が動く。
「勝手に足が動いた」
黒が呻いた。
「三人の体は幸が操作します。まずは逆らわずに受け入れなさい。そして、経験しなさい、最速という無限の瞬間を」
幸が動き出す。しかし、それは。
幸の両手がゆっくりと前へと繰り出されていく、一分、五分、十分、十五分、その動きは遅くこれだけの時間をかけても一センチと前に出ない。
道筋。最速最短の道筋を確実に身につけるため、その道筋を時間をかけて辿る。すべての勢いを否定し、すべての力みを消し、微かなバランスの変化だけで移動していく。
幸の左手が上がり、右手が下がっていく。同じように三人の体が動いていく。ゆっくりと右足が上がっていく。
体全体が、バランスを保ちつつ、常に変化する。
三人が苦しそうに喘ぎだした。黒はたったこれだけの動きですら、苦しむ自分を情けなく思う。しかし、同時に、まったく無駄のない軌道、ぶれのない正確さをはじめて経験した、それはまさしく歓喜だった。

男と恵はあかねの枕もとに座っていた。
幸とあかね、恵の三人が一緒に寝ていたのだが、いま、幸は猫娘の指導に梅林へと向かい、恵が硬い表情をしてあかねを見つめていた。
「先生、あかねちゃんは・・・」
「体の傷は癒える、でも、心の傷がね。それが難儀だな」
そっと男はあかねの額に触れる。
「そうだな・・・」
男が小さく呟いた。
男は恵を見つめた。
「恵さん、壁にもたれてでいいから、あかねちゃんをしっかり抱きしめてやってくれませんか」
「私でよければ」
男はあかねの体を起こすと、恵にその体を預けた。そして、男は一歩、離れるとけっかふざに座り、意識を統一し始めた。
「私があかねちゃんの心の中に入り込み、彼女を浄化します。彼女はすべての人を拒絶してしまっている、うまく入り込まなきゃならない、少し、時間がかかると思う」
「はい、しっかり抱きしめています」
男は微かに笑みを浮かべると、小さくうなづいた。
「お願いします」

啓子が布団から体を起こした。隣りには礼子と理恵子、倉澤とあさぎが安心しきったように寝ていた。
猫娘、三人とも戻ってこない、今頃、幸さんに稽古をつけてもらっているのだろう、そして先生は、あかねちゃんをあのままに寝ていられる人ではない。
啓子はぐっとお腹に力を入れた。しっかりしろと、自分に言う。
啓子は起き上がると家の玄関、上がり口に座り、陣を整えた。
この家を支えている二人が身動きできない以上、自分がこの家を、シェルターを守らなければ。

明け方近く、男は軽く啓子の肩を叩いた。
「啓子さん、ありがとう。お疲れさまだったね」
「先生」
啓子は振り返ると心配げに男を見る。
「悪い方向へは向かわないと思うよ、あとは諦めずに日数をかけて待つだけだね」
「先生はいい人ですね」
「本当はいい人じゃないんだけどね」
男は困ったように笑みを浮かべた。
「あかねちゃんは恵さんが抱いててくれる。啓子さんも一寝入りしなさいな」
「幸さんは・・・」
男は梅林の方角を眺めた。
「あれは、一つどころか、全部、教えようとしているな。私が幸に武術も呪術も教えたけど、再構成して、幸はすっかり自分のものに仕上げている。だから、幸が全部教えてしまおうというなら、それもいい。私がとやかく言うことじゃない。敵になればなったで、頑張って戦うさ」
「黒は真面目でいい子ですよ」
「真面目すぎるのさ。啓子さんも真面目すぎるな、少し、頭の中、柔らかくしなさいな」
男は啓子の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「それじゃ、私はしばらく寝るよ。啓子さんも布団に戻ってゆっくり寝なさい」
男は自分の部屋に戻っていった。
啓子は一つ、溜息をつき、男がくしゃくしゃにした髪を両手で押さえる。
「お父さんか・・・、いいなぁ」

朝、男はテーブル二つを繋げて、並べた。人数を数えてみる、あかねちゃんを入れて十一人だ。テーブルを二つ繋げばなんとかなるだろう。
椅子は事務所で使っていたのもある。
「先生、おはようございます」
「おはよう」
啓子が少し眠たげに起き出してきた。
「何か手伝うことありませんか」
「それじゃ、納戸から椅子をあるだけ出してくれるかな」
「わかりました」
勝手知ったる他人の家、啓子が納戸へ向かう。あさぎと倉澤が起きてくる。
既に倉澤は制服に着替えていた。
「倉澤さんは家に寄ってから学校へ行くのかな」
「そうします。教科書も必要だし」
「これから朝ごはんを作るから食べてから行きなさい。あさぎ、恵さんとあかねちゃんの様子見て来てくれるかな」
「は、はい。見て来ます」
「ありがと」
男がそっと笑った。

「お父さん、お父さん」
幸が猫娘三人を引き連れ、あたふた、駆け戻って来た。
「ごめんなさい、朝ごはんを作るよ」
「無理するな。徹夜したんだろう」
男は幸の頭を軽くぽんぽんと叩くと少し笑った。
そして、猫娘三人を見る。体はかなり疲弊しているが、精神状態は良好のようだ。
啓子と倉澤が椅子を並べはじめた。
「黒、白、三毛だったかな。椅子に座りなさい、一つおきにね。朝ごはんを食べよう」
「あたし達が同席してもいいのか」
「みんなで一緒に食べる方が楽しいだろう。ご飯は多めに炊いている、しっかり食っておかないと体がもたないぞ」

「おはようございます」
礼子と理恵子が起き出してきた。
「礼子、朝ごはんを作るよ」
啓子が声をかけた。
「はぁい。理恵子ちゃん、一緒に作ろう」
「うん」
三人が台所へと入って行く。
「お父さん、賑やかだね」
幸が改めて納得した。
「人が多いのも楽しいね」
「そうだな、こういうのもいいもんだな」
幸の表情が少し陰る。
「お父さん、あかねちゃんは・・・」
「あさぎと恵さんが肩を貸して連れて来てくれる、昨晩、あかねちゃんの心に入って来たよ」
「どうだった」
「日数をかければ、元のあかねちゃんに戻るよ。あきらめずに待ちなさい」
「お父さんがそう言ってくれるなら幸は安心だ」
幸は三毛の向かい、下座に座ると、台所に向かって声をかけた。
「啓子さぁん、幸はお腹ぺこぺこで一歩も動けませんよぉ」

全員、テーブルに着く。黒の隣りに啓子が座り、幸はあかねの隣りに座った。
ご飯にお味噌汁、漬物に卵焼き。
啓子が立ち上がった。
「ご飯、おかず、お味噌汁、お代わりはいっぱいあります。しっかり食べてください。それでは、いただきます」
口々にいただきますと言い、朝ごはんをいただく。
あかねは一切の表情が沈み、かろうじて目を開けているだけだったが、幸がお箸でご飯を少しずつ食べさせると、嚥下する。ほっとしたように幸は笑みを浮かべた。
啓子は興味深そうに黒を見た。
「黒は好き嫌いとかあるの」
「食べれるものはなんでも食べるさ。啓子さんだって食ってしまうぜ」
礼子が身を乗り出した。
「だめだよ、黒ちゃん。お姉ちゃんなんか食べたら、お腹こわすよ」
「なるほど、お腹、こわして苦しむのはいやだな。それに」
黒がご飯にお味噌汁を掛ける。
「これの方が百倍、美味い」
「かっこいいなぁ」
理恵子が言った。黒は照れたのか、顔を背ける、そして、味噌汁ご飯を一気に飲み干した。
「お姉ちゃん、お代わり、いいかなぁ」
自信無げに白が黒の顔を伺う。
黒が振り返り、礼子越しに白を睨みつけた。
しゅんとして、白が俯いてしまった。
「お代わりあるって言ってただろう」
黒が白に強く言う。
「ごめんなさい」
白が余計に俯いてしまった。
啓子が仕方無さそうにため息をつく。
「幸さん、どうしたものかなぁ」
啓子が幸に話しかけた。
「黒はさ、妹たちをしっかり守らなきゃって、思いが強くてね、それはいいんだけど。結果としてこういう態度になる」
「あ、あの。笑えばいいんじゃないでしょうか」
倉澤が思い切って声を上げた。
幸がうなずいた。
「それいいよね、うん」
幸はゆらっと立ち上がると、黒に笑い掛けた。
「黒、大声でさ、あははって笑ってごらん。楽しいよ」
「楽しくもないのに笑えるか」
「そうだよね。黒はそう言うだろうなぁ。啓子さん、右お願い。幸は左」
幸が叫ぶ、啓子は立ち上がると、素早く黒の右手を取り、幸は黒の左腕を抱えた。
二人で黒を羽交い締めにする。
「倉澤さん、黒の喉、ごろごろってこそばせて」
幸の声に、倉澤は立ち上がると、あたふた、倉澤は走り寄り黒の喉を飼い猫にしていた要領で、指先、なでるようにこそばせる。
「そ、そんな、ことで、わ、笑う、か」
息を上げ、黒が叫ぶ。
「大丈夫だよ、力を抜いて素直になろうね。ほうら、喉が鳴ってきたよぉ」
倉澤が黒をあやすように言う。
男は隣りに座っていたあさぎの肩をとんとんと叩く。
「はいっ」
驚いたようにあさぎが振り返った。
「あさぎ、あははって声を出して笑ってごらん。黒は恥ずかしがり屋だ、皆が声を出して笑ったら、安心して笑うと思うよ。あさぎにとっても声を出して笑うのはいいことだと思う」
男の言葉にあさぎは思い切って笑い出す。それを見て、礼子や理恵子も笑い出した。幸や啓子も黒を抑えながら笑う。いつの間にやら、猫娘 白も三毛も笑い出した。
黒はのけぞりながら目をつぶっていたが、いきなりふっ切れたように笑い出した。
「あはははっ」
幸と啓子が腕の力を抜くと、黒は床に倒れ、そのまま、笑い続ける。苦しそうに息をしながら笑い続ける。
やがて声が収まり、倒れたまま、黒が呟いた。
「なんだか、自分の中の支えていたものが消えてしまった」
「それはさ」
幸は黒の横に正座し、膝に黒の頭を載せた。
「それは黒を支えていたものじゃない、コンクリートや鉛みたいに、黒を重く固めていたものだ。これから、もっと良い動きができるようになるよ」
「お姉ちゃん、ごめんなさい」
白と三毛が不安げに黒に寄り添っていた。
黒は笑みを浮かべると二人の頭を優しくなでる。
「ありがとう、白と三毛がいてくれて、姉ちゃん、とても幸せだ。これからもよろしくな」

「うわっ、時間だ」
急に倉澤が叫んだ。
「ごめんなさい、学校行きます」
「いってらっしゃい」
幸が笑みを浮かべた。
「あの、また、帰って来て良いですか」
「いいよ、楽しみにしている。でも、泊まりはだめ、御両親、心配させてしまうからさ」
「はい、わかりました」
倉澤が元気に答えた。
八日目の朝、黒は男の前で頭を下げていた。
「先生、練習場所まで、私と付き合ってください」
男の部屋、書類の整理をしていた男は振り返り笑みを浮かべた。
「立ち方、歩き方からもわかるよ。幸にかなり仕込まれたようだな」
男は椅子から立ち上がると押し入れの中を引っ掻き回していたが、さらしで巻いた棒を一本取り出した。
「それじゃ、行くかな」
二人して、部屋を出、練習場所にしていた梅林へと向かう。
「黒はここに来て良かったか」
「はい、本当に良かったです。夢のような八日間でした」
「黒も白も三毛もね、幸の娘だからいつでもここに帰っておいで。というかさ、ここで暮らすつもりはないかい」
黒が驚いて顔を上げた。
男は笑った。
「いろいろあるのかもしれないけど、それも選択肢の一つに入れておいてくれ。幸も私もさ、大事な娘を戦場に送るような気がしてね、なんだか、辛いんだ」
唇をかみしめ、黒は俯いた。
三日前のことを、黒は思い出していた。
練習の後、必ず三十分の居眠りをする、脳に練習内容を強く焼き付けるためだ。木陰、幸が仰向けに寝転び、その両手をしっかりと白と三毛が握っている、黒は幸の頭辺りに寝転ぶ、いつのまにか、そう決まっていた。
「あの、母さん」
黒が幸に声をかける。
「ん、どうしたの」
幸は少し黒に顔を向け返事をする、幸は三人に母さんと呼ばせていたのだった。
「どうしてこんなに教えてくれるの、一つだけって約束だったのに」
「心配だから。黒達は鬼と戦うためにこうして学んでいる。親としては、あんまりね、行かしたくないんだ、鬼退治なんかにさ。でも、行かせなきゃならないのなら、万全の準備をさせて送り出してやりたい」
「たくさん教えてもらってとっても嬉しい、なんだか、本家で教わっていたのが遊びに思えてくる」
「それが、本家の今の実力だ。それを承知で白澤のばあさんは独自路線を選択した。厳しい話だな」
幸は二人を起こさないようにゆっくりと上半身を起こした。
背を向けたまま、黒に問う。
「ここで暮らすのは無理か。一緒に畑で野菜を作ったり、山羊や鶏を飼って。たまに、野菜の直売をやってみたり、もうすぐ始める喫茶店でお茶を運んでみたり、そんな、なんでもない日常を送りたくないか」
黒は幸の背中に額を押し付けて呟いた。
「白澤のおばあさんには生命を救ってもらった恩があるんだ、だから、戦わなきゃならないんだ」
幸は黒に背中を向けたまま呟いた。
「お父さんに猫又のこときいたよ。猫又には二種類ある。白澤のように長い年月を生きて生命の理というものに気づいた猫が猫又になる、もう一つが、そういった猫又に血を分けてもらった猫が猫又になる、黒達は後者だろうと話してくれた」
「気づいた時、私はゴミ袋の中にいた、いろんな変な匂いのするゴミと一緒に。青いゴミ袋の向こう、いくつもの家が並んでいて、女達が立ち話をしていた。体 を動かして逃げ出したいと思ったけど、とっても体が重くて、意識もうっすらとして来て、あれ、確かに母さんの横で寝ていたはずなのに、どうしてなんだ、上 を向けば、固く固く袋が結ばれていて・・・、声を上げることも動くこともできない、とっても、寂しかった、とっても恐かった。声が出ていないの、わかって いた、でも、何度も、何度も声を上げたよ、母さんって、母さんって。そんなとき・・・。白澤のおばあさんに会ったんだ。だから・・・」
「白澤のばあさんより、先に会えていたら良かったのにな。でも、今はね、幸が黒や白や三毛の母さんだよ。それは忘れないでほしい」

黒は足を止めた。
「ん、どうしたかな」
男は振り返ると黒の顔をのぞき込んだ。
「本家では汚いもの、忌むべきものとして扱われてきました。もちろん、白澤のおばあさんの手前、表立っては・・・」
男はくすぐったそうに笑った。
「最初、会った時、ごめんな、黒。悪く言って」
「いいえ。あぁやって言い合えたのは、なんていうんだろう、楽しかったんです」
「そっか、安心した。なぁ、黒、これも出会いだ、出会う縁があったわけだ。この縁、大切にしてほしい」
男はそっと黒の頭をなでた。

練習場所、間合いを充分に開け、男と黒は向かい合った。幸は白や三毛と一緒に、少し離れた場所で見守る。
「お父さん、よろしくお願いします」
幸が緊張した面持ちで男に頭を下げた
「卒業試験みたいなものだな。幸にかっこの悪いところ見せられないからさ、頑張るよ」
黒の求めに応じ、男は今までの黒達の練習の成果を見極めるため、立ち会うのだった。
男はさらしに巻いた棒を片手に黒に声を掛ける。
「まずは黒、自由に攻撃してきなさい。私を殺すつもりでね」
黒がぴくんと震えた。しかし、微かに背を落とすと、ふっと力を抜いた、その瞬間、間合いを一瞬に詰め、両手を上段から打ち下ろした、その両手には幸の使う長刀が握られていた。男は斜め半歩前に進み、剣先ぎりぎりを避けた。
黒が男から一歩離れ、中段から男の胴をなぎ払う。
男はその風圧に圧されるように退き、剣先が過ぎた瞬間、すいっと黒の背中に移動する。
「良い感じだ。大抵の鬼なら体が四つになっている」
一瞬、黒が沈んだ、次の瞬間、弾けるように剣が男の胸に突き出された。
男は柔らかくそれを擦り抜けると、黒の頭を軽くぽんぽんと叩いた。
「次は私も攻撃しよう」
「はいっ」
息を切らし、黒が答えた。男は無造作に、黒から離れると、さらしを解く。
四尺三寸、筒が現れた。断面が楕円形の筒だ。
男が筒を片手に振り返る。
「杖術はね、もともと、相手を傷つけずに制することを大事としている、だけど、これはね、攻撃のための杖だ。攻防の中で、使い方を良く見ておきなさい」
男は黒の間合いに入ると袈裟懸けに杖を打ちおろした、黒の剣とぶつかった瞬間、剣もろとも黒が吹き飛ばされた。黒は空中で姿勢を立て直し、唖然と男を見つめた。
「わかるか、黒。これが手の内だ、微かに緩めると掴むとで、相手の力を、そのままに跳ね返してしまう」
「はいっ」
黒が興奮したように声を上げた。
「お願いします」
男がうなずく。
今度は黒が肩の高さに水平に剣を構える。一歩踏み出し、男の脇を斬る、男は剣の進行方向に杖を合わせた。剣が杖の上を走る、瞬間、男が沈み込み、黒を杖で突き刺す。黒に突き刺さる寸前、男は杖を微かに引く。
「刺して捻れば肉がえぐれる、上手が斬れば、剣と同じようにも切れる。なかなか、便利だろう」
既に男は黒に背中にいた。
「合格だ、黒」
黒が男に向き直った。
「充分、複数の鬼とも戦えるよ。でも、今後の精進を忘れないようにね」
「先生、ありがとうございます」
「どう致しまして。呪術は黒の眼を見ればわかるよ、きっちり出来ている。もともと才能があるのかな」
「先生、本当にありがとう。母さん、ずっと大好きだ。白、三毛」
いきなり黒が叫んだ、白と三毛がしがみつくように幸の手を抑えた。
「どうしたの」
幸が声を上げた。
「ありがとうございました」
黒が刃先を自分の首に当てた。
「やめてくれ、黒」
幸が悲鳴を上げた。男の姿が揺らめいた、男は黒の背中に現れ、剣を弾き飛ばした。そして、左手で黒を支え、右手小指側を黒の口に差し入れた。
「舌を噛むなよ」
男は黒の耳元で低く囁いた。
「白澤のばあさんが俺の首を土産に持って帰れと言ったんだろう。代わりに自分の首を刎ねて、妹たちに持って帰らすつもりだった、ってとこだな。あの人も困った人だ」
黒の膝が崩れた。男が右手を離すと黒は倒れるように地面に手を着いた。白と三毛が黒に走りより、しっかりとしがみつく。
幸はどうしたら良いのかわからずに、涙を流したまま立ち尽くしていた。
「幸、抱き締めてあげなさい。それが一番だよ」
幸はよろよろと歩き寄ると、三人を抱き締めた。そして、幸が一番に大声で泣き出した、まるで、小さな子供のように。
「あの人も黒の真っすぐさが読み切れなかったようだな。お互い、ひねくれてしまっていると、真っすぐなのは眩しすぎる」
男は呟くと、杖をさらしで巻いた。そして、泣き声がようやく落ち着いたころ、幸と三人に声をかけた。
「黒と白と三毛は、これからもここで生活すること」
驚いて、幸が男に振り返った。
「黒は叔父さんと一緒にこれから、本家に出向いて、叔父さんのところで暮らしたいと言いなさい。そうしたら、本家が何と言っても、叔父さんは黒を連れ帰って三人、ここで暮らせるようにするからさ」
黒が惚けたように男を見つめた。しかし、生き返ったように笑みを浮かべると、強く頷いた。
男は思う、本家には武術を使える呪術師が百人以上いる。そんな大人たちがいるくせに、子供三人に頼るなんて、恥ずかしいと思う奴はいないのか。

見上げる、白鷺城を参考に造成しただけあり、その姿は白く美しい、堀はなく、その前に大きく横たわる湖が、侵入者を制するための水堀の代わりになっていた。もっとも、これは異界にあり、侵入しようにもこの湖の手前に来ることすら難しい。
「黒は水の上、歩けるか」
「御風呂場でなら歩けるのですが」
「どうした、黒」
「えっ」
黒が戸惑ったように男を見上げた。
「黒、かなり緊張しているな」
男は笑みを浮かべた。
この城が本家であり、その当主が男の義理の兄であった。
「湖の上、できるだけふわっと乗ってごらん」
黒は恐る恐る水の上に足を載せる。ゆっくりと両足が乗った。しかし、小波のせいで、かなり不安定だ。男も湖の上に軽く乗ると黒の手をぎゅっと握った。黒の足元が定かになる。
「他対一や、空中に浮かぶ奴らと戦う時には大事な歩法だ。ちょうどいい練習だな」
男は黒の手を握ったまま歩きだした。
「浮いた足の方に重心を載せる感じだよ」
「まだ難しいです」
「だろうな、でも八日間でこれだけ出来ればたいしたものだよ」
男は少し黒に顔を寄せると小さく笑った。
「あの、聞いていいですか」
「ん」
「先生と本家ってどういう関係があるのですか」
「そういえば、そういうのって話してなかったな。白澤さんは教えてくれなかったのか」
歩きながら、黒が頷いた。
「黒は本家の当主に会ったことがあるか」
「いいえ、でも遠くからは見たことがあります」
「当主は私の義理の兄だ。私は小さい頃、本家につれ去られて来て、そのまま、養子になったんだ」
「ごめんなさい」
黒が唇を噛んだ。
「今となってはどうでもいい話さ。本家には十年ちょっといたかな、先代の妻に、私にとっては義理の母親に殺されそうになってね、逃げ出した。先代と白澤さんはその逃亡を助けてくれたのさ」
エンジンの音が響き出した。
城から水上バイクが三台、飛び出してきたのだ。
「波がきついな、黒、背中に乗りなさい」
男は手を貸すと、黒を背中におぶった。
拡声器だ、声が響く。
「そこの侵入者、直ちに停止しなさい」
太い男の声が響く。
男は素直に立ち止まると、水上バイクが到着するまで待つ。やがて、三台の水上バイクが取り囲んだ。
対魔物用の装備をした男たちだ。
「白澤さんと当主に会いたいんだけどね、折角だし、それ、乗せてくれるかな」
「白沢老から、あんたを見つければ無条件に抹殺せよとの命を受けている」
二台の水上バイクが回り込み、一列になると一斉に機関放射、無数の銃弾が降り注いだ。
黒を背負ったまま、男はその光景を城側の岸で眺めていた。
「ここを叔父さんが出た頃はさ、ほとんどの奴が船を使わずに湖の上を歩くことが出来たんだけどね。劣化したなぁ。白澤さんもそうは思いませんか」
男が振り返る、白澤が苦り切った笑みを浮かべていた。
「便利になると体の使い方も術も落ちてしまうのよ。でも、彼らも兵として、武術呪術師として、この時代では上級の部類」
男も仕方無さそうに笑うと黒を下に降ろした。
「お前がここに居るということは、この子は失敗したようね。この子の両目に在った陰もすっかり消えて幸せそうな顔をしている。お前の娘の仕業ね」
「お願いです、母さんと一緒に暮らさせてください」
「母さん・・・」
男は笑った。
「娘が三人に自分を母さんと呼ばせているんです」
白澤がため息をついた。
「兵としては到底役に立たないわね。どうぞ、好きになさい」
白澤は黒に語りかけると、やおら、男を睨んだ。
「大切なひ孫と別れなければならない以上、私もこのまま、引き下がるわけにいかないわね。何かお出しなさい。見合うものを」
「困りましたね、今日は手土産もなく、手ぶらでやって来ましたよ」
白澤が悪戯げに笑った。
「お前の硝子球を寄越しなさい、あれは防御にも攻撃にも秀でたもの。あれが有れば、鬼とも対等に戦えるわ」
「使い方をしっかり理解すれば、対等どころか瞬時に倒すことが出来ますよ」
男は硝子球を取り出すと、白澤に手渡した。驚いて、白澤が男を見つめる。
「本当にくれるとはね」
「この子達には、なんというかな、私も情が移ってしまいましてね。そうだ、娘が名付けました、この子が黒。後の二人が白と三毛です」
「見たままということね、センスのない娘だこと」
「白澤さん、言葉にしていただけませんか、そうしていただければ、一週間、通いで硝子球の使い方を教えましょう」
すっと白澤の体に硝子球が溶け込んだ。
「これからのこともあるわね。わかりました、黒、白、三毛を千尋、お前に預けます。これから、お前とお前の娘の手元で暮らすことを認めます」
黒が自然と笑みを浮かべた。
男は黒の頭をなで、白澤に言った。
「たまには遊びに来てください、ひ孫の顔も見れますよ」
「そうね、お前の娘と戦争も出来るわね」
「その辺はお手柔らかに」
男は笑みを浮かべ、湖を振り返る。幻を相手に死闘が空しく繰り広げられていた。
「そろそろ気づかないかな」
「ほっておけばいいわ。そのうち、ばてて動けなくなるでしょう」
白澤は吐息を漏らすと、空を見上げた、青く抜けるような空だ。
「早くあのお方のところへ行きたいけれど、今の様子ではねぇ」
白澤は男を少し睨む。
「鬼と対等に闘える力を取り戻さなければ。千尋、精鋭十人を選んでおきます、硝子球の他にも教えなさい、そうだ、お前の得意にしていた筒があったでしょう」
男は緩やかに手を動かす、その手にさらしに巻いた杖が現れた。
白澤はそれも受け取ると、子供のようににっと笑った。
「他にはもうないかしら」
「これ以上は勘弁してください、身ぐるみはがされてしまいますよ」
男は笑うと、黒の手を握った。
「兄に会うつもりでしたが、また、明日にでもお目通りを願うことにしましょう、そろそろ、退散します」
「日が明けると同時に待っていますよ」
男は仕方なそうに笑みを浮かべると、軽く頭を下げる。そして、白澤に背を向けた。
「そうだ、まさか、あの中に明日の精鋭はいないでしょうね」
湖上の喧噪を眺め言う。
「彼らは不合格よ」
白澤の言葉に男は笑うと黒の手を握り、城を後にした。
ふと白澤が黒に声をかけた。
「黒」
驚いて、黒が振り返る。
「良い名前ね」
初めて、白澤は和やかに笑った。

異界を離れた後、二人は列車に乗り、最寄りの駅に着く。男と黒は帰り道を歩いていた。
「先生、ごめんなさい」
「ん、どうしたんだ」
「大事なもの、取られてしまいました」
「大事か・・・。でも、叔父さんはね、黒がいて、白や三毛がいて、幸がお母さんぶってえらそうにしているの面白いし、みんながさ、楽しく暮らしている。それの方がずっと、嬉しくて大事だからさ」
男はふと、商店街を少し離れた洋菓子店をのぞき込んだ。
「黒はケーキ、食べたことあるか」
「えっ、いいえまだ」
「それじゃ、食おう」
男と黒は洋菓子店に入ると、テーブルと椅子が設えてある、それに座った。
「あ、あの、いいんでしょうか」
「叔父さんは珈琲が飲みたいのです。幸は厳しいからさ」
男がいたずらげに笑った。
店員がメニュを持ってやって来た。
「私は珈琲で。黒、どのケーキにする」
「わかりません、なにがなんだか」
黒がメニュを睨んで困惑した。
「それじゃ、この子には苺のショートケーキをお願いします」
店員がメニュを抱え戻る、黒はほっと溜息をついた。
「緊張しているな」
「だって、奇麗で上品な音楽も流れているし、なんだか場違いなような」
「啓子さんは、黒は美人だって言ってたよ」
男が気楽に笑う。
「叔父さんは、美醜がわからないけれど、素敵な女性になるんじゃないかな」
男が他意なく気楽に言う。
「あ、あのっ」
「ん、どうしました」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
珈琲とケーキが運ばれてきた。黒の前に苺のショートケーキ、男の前には珈琲がある。
「一口目はそのままで、その後にクリームを入れよう」
男は呟くと、珈琲カップをつまみ上げる、
「黒、食べなさいな、美味しいよ」
「は、はいっ」
黒はしばらく、白と赤のコントラストを楽しんでいたが、ケーキの先をフォークで取ると、思い切って口に運んだ。
「美味しい、先生、美味しいです」
黒が飛び上がらんばかりに声を上げた。
「良かったな」
男が笑みを浮かべると、えへへっと黒が笑った。しかし、黒はもうケーキには手を付けず、フォークを置いた。
「どうした、黒」
黒が嬉しそうに笑った。
「白と三毛に持って帰ってあげます、三人で食べたらもっと嬉しい」
男は優しく笑みを浮かべると黒に言った。
「黒、そのケーキは食べなさい。同じケーキ、お土産に買って帰るからね、帰ったら、晩御飯の後、みんなで食べよう」
黒が笑顔で男を見つめた。
そして、くすぐったそうに笑うと、フォークを手にした。
お皿に残ったクリームまでしっかりと食べたことは・・・
18
最終更新日 : 2013-05-11 17:35:45

異形 雨夜閑話四話

「先生、たーっち」
いきなり黒は男の背中を叩くと、あははっと笑って駆け出して行った。
「な、なんだ・・・」
男は居間で読んでいた書類を手から落とし呟いた。
本家への出張も終え、やっと落ち着いた次の日の朝のことだった。
「姉さん流の愛情表現ですよ」
白があかねを座らせた座椅子の横に座り、じっとあかねの手を両手で握っていた。
「実害はないので、どうぞ、よろしくお願いします」
白は笑うと、また、あかねを見つめ、その両手に力を入れる。
「なるほどねぇ、まっ、好かれるというのはありがたいことだ、嫌われるよりずっといい」
「本家では大変だったみたいですね」
「そうだな、小学生に複素数解析を教える方が楽かもしれないな」
男は呟くと、書類を食卓に載せる、随分と書類が溜まっていた、一週間の予定が十日かかり、予定が狂ってしまったのだった。
幸はあさぎと三毛を連れ、商店街の洋品店へ出掛けていた。普段着を用意するためだ。
「白は随分と落ち着いたな」
「うーん、お姉ちゃんがあの通りですから。でも、怒鳴られずにすむし、相談もしてくれるから、今が一番楽しい。先生、ここに住まわせていただだいて、本当にありがとうございます」
「私的に云えば、住んでくれてありがとうという気分だな、賑やかだし、幸も楽しそうだ。あとはあかねちゃんのことだな」
白は頷くと、男を見つめた。
「夢を見ました、あかねさんが窓硝子を叩いている、こちらに向かって気づいてくれと必死に窓を叩いている。なんとか窓を開けに行こうとするんだけど体がどうしても動かなくて」
「やっと気が満ちて来たかな」
男は呟くと、あかねの横に座った。
「白、あかねちゃんの手のひら、とんとんと指先で叩いてごらん。何度もね」
「はい」
素直に白はあかねの手首を支え、右手の人差し指でとんとんと叩き出す。
「ドアを叩く感じでしょうか」
「そう、気持ちが届きますようにってね」
男がそっと笑みを浮かべる。

幸は洋品店の叔母さんと向かい合って座っていた、いつものテーブル、今日は初めてあさぎと三毛もやって来、テーブルについていた。
「で、ちょっと、待ちなよ。幸ちゃんのお姉さんがあさぎちゃんで、娘がこの三毛ちゃんにあと二人、娘、がいるわけだ、こりゃ、賑やかだ」
「母さん、驚いた」
「なんていうかねぇ、幸ちゃんが幸乃さんと一緒に来た時ほどじゃないけどさ」
店主は笑うと、マグカップを四つ食器棚から取り出し、いつものインスタント珈琲をいれる。
「幸乃さんが妹がお世話になっていますって言った時にはさ、腰抜かしたけどね」
店主はあさぎと三毛に珈琲をすすめる、気負いも何もなく、古い知人のように扱った。
「幸ちゃんの姉ならあたしの娘みたいなもんだ、遠慮は無用だよ」
あさぎは安心したように笑みを浮かべると、微かに頭を下げた。
店主は笑みを浮かべると、三毛の珈琲に砂糖とクリームをたっぷり入れる。
「で、三毛ちゃんは娘。って、幸ちゃんが産んだわけないよね。本当に産んだってなら、あたしゃ、先生に小言の一つも言わなきゃならないよ」
「血の繋がりはないけど、気持ちは繋がっているし、うん、いっぱい、繋がっている、だから、大切な娘です」
幸はそっと三毛の頭を撫でた。
ふと、三毛が幸を見上げた。
「お母さんの母さんなら、おばあちゃんって呼べばいいのかなぁ」
「だめだめ」
店主があわてて否定した。
「まだまだ、誰にもおばあちゃんなんて言わせないよ。そうだね・・・、服屋のかあさんて呼びな」
「呼びにくいよぉ」
「いいや、最初が肝心。それ以外は受け付けないよ、わかったね」
「はぁい」
三毛が頷いた、店主は愉快に笑う、その目は孫を慈しむ祖母の目にも近かった。
「幸ちゃん、家族が増えて賑やかになったねぇ」
幸が幸せそうに頷いた。
幸の笑顔を見て、ふと、あさぎは昨晩のことを思い出した。
誰もが寝静まった頃、幸はあさぎの枕元に座ると、そっとあさぎを起こした。
「あさぎ姉さん、ちょっと、来て欲しい」
緊張しながらも、あさぎは頷くと、幸の後に従った。
家の外に出る、畑の手前、長椅子に二人座った。白く満月が輝き、辺りを白く染め上げていた。
幸は右手であさぎの左手をしっかり握り、笑みを向けた。
「あさぎ姉さんにはあたしのこと、知って欲しい。いいかな」
あさぎは幸が自身のことをあたしと呼ぶことに微かな驚きを感じたが、そっと、幸の言葉に頷いた。
「ここに来て、お父さんの娘になってもうすぐ四年になる。あたしは人を食う魔物に取込まれていた、救い出してくれたのが、お父さん、あの人だった。あたし は助けてもらったけど、もう親も知り合いもいない、たった独りだった。あの人はここで暮らしなさいと言ってくれた、年齢的に、父と娘でいいでしょうって 言ったんだ。いま、あの時のことを思い出すと、なんて、お父さんは簡単にあたしを受け入れてくれたんだろうって、呆れてしまうよ」
幸はそっと笑みを浮かべたが、そのまま、俯いてしまった。
「人の肉を食い、その血を飲んで喉の渇きを癒していた女だ、あたしは。お父さんはそれも承知で娘にしてくれたんだ。ここへ来てからも大変だった。時々、ど うしようもなくなって、不安や恐怖でおかしくなってね、お父さんに椅子を投げ付けたり、包丁を投げたこともあった、窓硝子もいっぱい割ったよ。でも、お父 さんは怒らずに、抱き締めてくれて、泣いてくれるんだ、一緒に泣いてくれるんだ」
あさぎがぎゅっと幸の手を握り締めた。
そっと幸が顔を上げ、あさぎを見つめた。
「あさぎ姉さんはいまとっても不安だと思う。孤独にさいなまされているかもしれない、でも、忘れないで欲しい、ここにあさぎ姉さんの妹が居て、あさぎ姉さんのことを大切に思っているってことをね」
あさぎが呟いた。
「ホテルの階段を転びそうになりながら駆け降りました。歩道に出て、すぐに家に帰ろうと思った時、家が何処にあるのか思い出せなかった、ううん、思い出せないんじゃなくて、全然、記憶がなかった、その内、自分の名前も思い出せなくなって・・・」
幸は両手でしっかりとあさぎの手を握った。
「ここがあさぎ姉さんの家だ。妹と父親がいて、妹には娘が三人もいて、とっても賑やかだ。一番下の妹はあかねちゃんで、いまは意識不明だけれど必ず目を覚ます。啓子さんや恵さんは家族同然の人で、商店街の佳奈姉さんや母さんはとっても頼りになる素敵な人達だ」
あさぎは涙をこぼし、幸を抱き締めた。
「ありがとう」

「先生、もうすぐかな」
黒が男の後、肩の辺りから顔を出して、目を開けたまま眠っているあかねをのぞき込んだ。白は無心にあかねの手のひらを人差し指で叩いていた。
「白の頑張りで薄皮一枚のところまで意識が浮かび上がっている。あと、もう少しなんだけどな」
「もう少しなんだけど、届かない。指先が届きそうなのに」
白が呟いた。
「あとは母さんが帰って来てからかな」
男が呟く。
黒が男の横で笑った。
「だめだよ、先生が母さんって呼んじゃ」
「ん、叔父さん、そう言ったか」
「言ったよ」
「幸には秘密だぞ」
男が笑った。
「先生には世話になっているから黙っててあげるよ。白も喋っちゃだめだぞ」
「家庭円満のためにも黙ってますよ。あ、話は変わりますけど、ケーキ、とっても美味しかったです」
にっと白が男を見上げた。
男が困ったように笑った。
「あかねちゃんが目を覚ましたら、ケーキパーティでもするかな」
「うわーい」
黒が飛び上がって喚声をあげた。
「ケーキ、ケーキ」
黒が阿波踊りのように踊りだす。びっくりしたように白は黒を見つめたが、笑みを浮かべると、和やかに黒を見つめる。
「怒ってばかりの姉さんより、こっちの方がいい。その分、私が頑張ってしっかりします」
「それぞれ個性があっていいな」
ふと、白は指先を止め、呟いた。
「産まれたところも捨てられたところも違いますが、それでも私達は姉妹で三人で一人なんです。それがとっても嬉しいんです」
白が穏やかに一人頷いた。

「あ、母さんだ」
黒は叫ぶと、ばたばたと玄関口へ走りだした。
「ただいま」
幸を先頭にあさぎと三毛が帰って来た。
黒はばふっと幸の腰にしがみつき、見上げた。
「母さん、お帰り」
「ただいま、黒。賢くしてたかな」
「してた、とってもしてた」
幸が黒の頭を撫でる。
「幸、あかねちゃんを呼んでくれ」
男が幸に声をかけた。黒はすっと幸の体を離すと、あさぎを護るように手を握った。
「あさぎ姉さん、危ないと思ったらうずくまって」
黒が鋭くあさぎに囁いた。
幸はあかねに駆け寄ると、大声で叫んだ。
「あかねちゃん、目を覚ませ」
一瞬、あかねの視線が一点に定まった。
「うわぁぁっ」
あかねが浮かび上がり、悲鳴を上げる、爆風。
まるで台風のようにあかねを中心に風が発生し、椅子もテーブルも何もかもを吹き飛ばす。
あさぎが慌てて廊下にうずくまった。
幸が叫んだ。
「黒、白、三毛」
「はいっ」
三毛があかねの脚を、白がお腹、黒があかねの肩を取り押さえた。
狂ったようにあかねが大声で叫ぶ。
幸はしっかりと歩きだし、両手であかねを強く抱き締めた。
「あかねちゃん、幸はここにいるよ。もう、大丈夫だ」
不意にあかねの力が抜けた。
「お姉ちゃん」
「お帰り、あかねちゃん」
黒達三人は手を離すと、床に座り込んでしまった。男も掴んだテーブルと椅子を床に降ろしあさぎに声をかけた。
「起きて大丈夫だよ、あさぎ」
あさぎはぺたんと床に座り込むと呟いた。
「竜巻が発生しました」
男がくすぐったそうに笑った。

あさぎと三毛が少し遅めの昼御飯の用意、幸はあかねを抱きかかえて居間に行き、あかねを座椅子に座らせた。
「はい、どうぞ」
三毛がストローを差した黄色いジュースを幸に手渡した。
「あさぎ姉さんが作ってくれたよ、バナナジュース、消化しやすくって栄養があるからって」
「ありがとう」
笑みを浮かべ、幸は受け取ると、ストローの先をあかねに咥えさせた。

そのころ、男は黒と白を連れ、洋菓子店へと歩いていた。
「先生、何個買う、何個買う」
黒が男の裾を引っ張る。
「一人何個、食べるかだな」
「いっぱい食べるよ。食べ過ぎて、動けなくなって、あぁ、幸せって言うくらい」
「お姉ちゃん、それじゃわかりませんよ」
男はふと立ち止まると、にっと笑って言った。
「まずは苺のショートケーキ」
黒が頷いた。
「そうだ、黒はチョコレートは食べたことあるかな」
「ある、非常食で食べた」
白もチョコレートの甘さを思い出したのか、舌なめずりをする。
「チョコレートでも色々あるぞ、中でもとっても美味しいベルギーチョコレート、とっても甘くて、でも、ほんのり苦い大人の味」
「大人の味」
白が繰り返した。
「そうだ、白。子供はまだ食べちゃいけません、大人だけのチョコレート、これがふわんとケーキを包み込んでいる、フォークを差すと、チョコレートがぱりん と割れて、ふんわり現れるちょっと茶色のスポンジ、ふんわりしたスポンジケーキにチョコレートが混ざっている、大人の味だ、チョコレートケーキだ」
「絶対、絶対、食べます」
白が答えた。
「よし。次はなんと言ってもチーズケーキ。この前のショートケーキのスポンジ、とっても柔らかかっただろう」
二人がうんうんと頷いた。
「チーズケーキはもっとすごいぞ。とってもなめらかできめ細やか。口の中ですうっと溶けてしまうくらいにさわさわって感じだ。口の中でケーキが行方不明になっちゃう」
「さわさわ、さわさわ」
二人が叫んだ。
「そうだ、タルトもいいな。黒と白はビスケット食べたことあるか」
黒と白、男の裾を握ってうんうんと頷いた。
「タルトの作り方を知りたいか」
「知りたい、教えて、教えて」
「まずは、たくさんのビスケットを小さく砕きます。そして三十センチくらいの円筒形の型に厚さ一センチくらいに詰め込みます。黒、白、詰め込みましたか」
「詰め込んだ、詰め込んだよ」
「さて、その上にどさっと白い生クリーム、とっても甘い生クリームを載せて、木のへらで平らにします、そして薄く切った果物を載せていきましょう」
「苺を載せる」
黒が叫んだ。
「蜜柑も、蜜柑も」
白が目を輝かせて叫んだ。
男は柑橘系は大丈夫なのかと思いながら、
「もう、いっぱぁい果物を載せて、その上に甘いシロップふわぁっと、こう回すようにして掛けていくのです、まんべんなくね」
黒と白、興奮して口からはぁはぁ息をしていた。
「しばらく冷やした後、さぁ、タルトを切りましょう。すぅぅっ、さくっ。このさくっってのは、固まったビスケットが切れる音だ」
「すぅぅっ、さくっ。すぅぅっ、さくっ」
黒と白が嬉しそうに言葉を重ねる。
二人が男の手を握って駆け出した。
「先生、早く買いに行こう」
二人が男を引っ張り走りる、風を切って駆ける。

鈴の音がした。
りーんと不思議なほど長く音が伸びる。
黒と白が恐怖に硬直した。そして、辺りを見回す。
「これは珍しい」
男は呟くと、二人に声を掛けた。
「これくらいのことで怖がっていたら幸に笑われるぞ。黒、白、三毛は幸の娘でもあり、正式な弟子でもある。この程度の奴らにびびってどうする」
男は笑うと、前方を眺める。行列が現れた。時代劇にある花魁道中のような行列だ。男はしっかりと二人の手を握り、二人を背中に隠した。
花魁道中は男を横切り、中ほどの花魁役の女がふと男を認め、声を掛けた。すっと、動きが止まった。
「この辺りにあかねという子は居りませぬかえ」
「さぁ、よくある名前ではありますが、私にはどうも」
男は笑みを浮かべると、首を横に傾げた。
ふと、女は男の背中で震えている黒と白を見つめた。
「はて、何処かで見かけたお子の様」
「これは私の娘です、多分、人違いでありましょう」
「そう・・・」
女は関心を無くしたかのように前を向く。再び、行列は動き出し、視界を去って行った。
「黒と白と三毛がうまく連携すれば勝てる相手だよ。そんなにびびってたら、勝てる奴にも勝てないぞ」
男が面白そうに笑った。
「だって、とってもおっかない奴だよ」
黒が震えながら言った。
「かぐやのなよ竹の姫、鬼の格ではかなり上だな」
「先生、帰りましょう。きっと、襲ってきます」
「だろうね、あかねちゃんが覚醒したことで場所の見当がついたんだろう。でも、これからケーキを買いに行きます」
「先生」
白が非難の声を上げた。
「叔父さんはケーキがとても好きというわけじゃない。でも、黒や白や三毛がさ、美味しそうに食べている姿を見るのは大好きなのさ。ケーキ屋さんまで、瞬間移動、二人とも叔父さんの手をしっかり握っていろよ」

門前、幸が腕を組み、仁王立ちのようにがしっと立っていた。
男と黒と白がその隣りに現れる、二人、山のようにケーキの箱を抱えていた。
「冷蔵庫と、入らない分は涼しそうなところに置いてくれ」
「はいっ」
二人は返事をすると家の中に駆け込んだ。
「お父さん、今の全部ケーキなの」
「あれもこれもと選んでいたら、ああなった」
「もぉ」
ふっと幸が笑みを浮かべた。
「お父さんは以外と三人に甘いなぁ」
「なんだかね、幸の小さな子供の頃を、どんなだったんだろうなと、あの子達を通して考える、それを楽しんでいるのかもな」
「だめだ、お父さんと喋っていると楽しくなってしまう」
幸は表情を堅くすると、道の先を睨んだ。
「迎撃つのか」
「もちろん」
「あかねちゃんをあんなにしたのを許せないということだな」
男はそう言うと、幸の肩を軽く叩く。
「父さんに任せなさい、今の幸はかなり怒っている、幸がまともにやったら、この辺りが焦土になってしまうぞ」
「でも」
「冷静になりなさい。あかねちゃんは鬼の住みかに潜入した、自分の意志でね。幸もあかねちゃんの心を読んだろう」
「うん」
「そして、その結果だ、今のあかねちゃんはね。一方的に相手を非難できるほどでもない。幸、愛情はとても大切だ、でも感情の揺れの言い訳にはするな」
幸がうなずく、そして、男を抱き締めた。

鈴の音が辺りの空気を震わせる。
花魁道中の先頭が現れた。道中の先頭が二人の手前で止まり、女が列を離れ、二人に近づいてきた。先程の鬼の姫だった。
「こちらに、あかねという女の子が居るはず」
ふいに幸は顔を上げ、鬼姫を睨みつけた。その気迫に鬼姫が一瞬、身を引いた。
幸は何も言わず、家の中へ走り込んだ。
「あれは私の妻ですが、あかねちゃんを妹のように大切にしておりまして、あのような無礼を致しました、どうぞ、察してくださいませ」
「驚きました、あのような人間が居りましょうとは」
鬼姫は憮然としたが、表情をしまうと男に言った。
「さて、あかねという娘をいただくことは、この国の支配者層の人間共も認めて居ります。早くお出しなさいませ」
すぅぅっと鬼姫は目を細めた。
「それはだめです、妻が嘆き悲しみます」
「そなたが死ねば、それ以上に、先程の女は嘆きましょうに」
鬼姫が引き込むように唇を歪め笑みを浮かべた。
「貴方も物語のように月へお帰りになればよろしかったのに」
「ほぉ、私のことを知った、その上で渡さないと」
「はい、渡せません」
鬼姫が笑った。
「先程の女といい、数百年ぶりに面白い人間と出会いました。今日は楽しい日になりそうですわ」
鬼姫の纏う気配がざわっとうねりだした。
鋭く車のエンジン音が響いた。一台の高級車が飛び込んできた。
「おや、あれは」
寸前で車が停止すると鬼紙老が飛び出した。
「孫の仇、覚悟せい」
上下白裃、腰の刀に微かに手を添え、地面を低く滑るように突進する。
「馬庭念流の居合とは珍しい」
男が呟いた。
無音で抜き打ち、下段から鬼姫を斬り上げた。鬼姫の首に刀が食い込む、しかし、鬼姫は平気な顔をして、刀身の根元を掴むと、鬼紙老諸共放り投げた。
男は飛び上がると、鬼紙老を受け止め、着地した。
ふと、鬼姫は寂しそうな顔を向けて。
「気が逸れました。今日は帰りましょう、しかし、あきらめたわけではありません。また、お目にかかることになりましょうぞ」
鬼姫は背を向けると去って行った。

男は鬼紙老を座らせると、気楽に笑った。
「御老、あかねちゃんはお預かりしていますよ、元気ですとは言い難いですけど」
「な、なにっ」
「本家の白澤さんの孫娘三人が救い出して、こちらで預かっています」
「あの九尾猫か」
鬼紙老は慌てて立ち上がり掛けたが、うっと唸ると座り込んでしまった。
「無理するからです」
「くぅっ、若ければあんな鬼など一刀両断にしたものを」
男は肩を貸すと、鬼紙老を家へと連れて入った。

「ごめんなさい、おじいさま」
あかねは立ち上がり掛けたが、足の力が弱まり、立ち上がることができなかった。
「なんだ、いたのか。儂は偶然、ここに来ただけだ、すぐに帰る」
「はい・・・」
あかねが呟いた。
「で、どうなんだ、体は」
鬼紙老が背を向けて言った。
「しばらくすれば」
「無理するな、ここで養生させてもらえ。だが、幸とかいったな、あんな女とは口をきくな。お前はあんなガラの悪い女になってはいかん」
あかねがくすぐったそうに笑った。
「偉そうに言うなよ、じいさん」
ふと、幸がお茶を持って来て言った。
「孫の仇って聞こえてたぜ、で、放り投げられてよ、大笑いするところだったよ」
「この女、減らず口を」
「まっ、命をかけてやって来たってのは認めてやるよ」
幸は湯飲みをテーブルに置くと、ばんと鬼紙老の腰を叩いた。
「それで普通に歩けるだろう、世話のかかるじいさんだ」

「おーい、先生、来たよ」
啓子が恵とやって来た。勝手知ったる他人の家、普段どおりに上がると居間へとやって来た。
「私も来ました、啓子の付き人ですから」
恵は笑うと、ふと、鬼紙老を見た。うわっ、恵が啓子の背中を叩く。
「どうしたの」
恵が必死に指を差す。
「最近の若い者は礼儀がなっておらん」
「うわっ、鬼紙のじいさん」
「なんだと」
「ご、ごめんなさい」
慌てて、二人は幸の後ろに隠れた。
「大丈夫だよ、啓子さんも恵さんも。ちゃんと、噛まないように仕付けてあるからさ」
にぃと幸が鬼紙老に笑った。
「なんという無礼な女だ」
鬼沢老が怒って立ち上がりかける、
「こんにちわ」
どたどたと礼子に理英子、倉澤がやって来た。
「あかねちゃん回復ケーキパーティ、差し入れにジュースとお茶、買って来ました。ついでにチューハイとビールも」
礼子が元気に笑う、ふと、鬼紙老を見た。
「うわっ、幽霊」
「ばっかもーん」
男がこらえながらも笑った。
「御老、確かに白装束で、これでは幽霊ですよ」
「れ、礼子。こっち来い」
啓子が幸の後ろで必死に手招きした。
「どうしたの、お姉ちゃん」
「いいから、早く」
幸は笑うと、仕方なそうに言った。
「あかねちゃんのおじいさんだよ。ついでに言うと、啓子さんが以前勤めていた会社の社長の父親で、とっても気難しいおじいさん。でも、さびしがり屋の大金持ちだから、愛想しておいたら、別荘に招待してくれるかも」
「それじゃ、今日は仲良くなって、夏休みは別荘で避暑三昧」
三人が楽しそうに笑った。
ふうっと啓子がしゃがんでしまった。
「我が妹ながら知らないってのは強いなぁ」
ふと、黒が玄関口を見た、気づいて白も三毛も玄関口を見つめる。
「千尋、千尋、招いてちょうだい。結界が強すぎて入れないわ」
門前からだろう、声が響いた。
幸が玄関口に向き直った。
「留守です、誰もいません、お引き取りくださぁい」
黒が申し訳無さそうに幸の裾を引っ張る。
「もう、しょうがないな」
幸は玄関を開け、外に出た。
門の前に白澤がにこやかに笑みを浮かべ立っていた。
「ええっと、どちらさま、今日は留守で誰もいませんけど」
「まっ、小憎たらしい娘だこと。それより入れてちょうだい」
よほどに機嫌がいいのか、白澤は怒りもせずに言った。
「本日、一回限り、例え、忘れ物をしても、二度とこの家に入れません、一度だけお入りください」
むすっとした幸の言葉にも気にせず、白澤は家に入ると、玄関口に正座している孫娘に笑いかけた。
「元気そうね」
「はい、おかげさまで・・・」
代表し、黒が答えたが、かなりの緊張をしているようすだった。
とんとんと白澤は家に入ると、男のところへと向かった。
緊張がほどけたのか、黒を白も三毛も足を投げ出して、ほぉっと溜息をついた、幸がその様子を見て、仕方無さそうに笑う。
「あら、鬼紙さん、こちらにいたのね。国のお偉方はかんかんよ。なよ竹姫から、今回の和平は延期と連絡があったって。鬼の中でも一大勢力のなよ竹姫を取り込みそこねたって、貴方の息子も怒っていたわ」
「大事な孫娘を鬼にくれてやるわけにはいかん」
白澤は気楽に笑う。
「稼ぎどきが続くから、私もその方がいいんだけどね。で、千尋、お願いがあるのだけれど」
ふいに白澤が男に振り向いた。
「新たに精鋭を十人集めました。また、指導してちょうだい」
「ええっ」
「評判がいいのよ、それで、新たに増やそうということになって、私がお願いに上がったということ」
「白澤さん、そちらでなんとかしてくださいよ。私は人に教えるなんて柄ではないですから」
「何とかしようって思ったんだけどねぇ、以前の精鋭はあちらこちらに派遣してね、教える時間がないのよ」
「それは単純に派遣されるのを控えて、指導に時間を割けばいいのではと思いますよ」
「まっ、冷たい。お願い、今回だけ、ね」
白澤が大袈裟に男を拝む。
「二回目の精鋭と言うことは、言い換えれば精鋭未満ということ」
幸は優しく笑みを浮かべると、白澤の前に正座した。
「それなら、おばあさま御自身が後進の指導を為されればいかか。無理を無さってぎっくり腰にならないよう、お気をつけあそばせ」
白澤のこめかみがひく付いたが、勤めて笑顔を浮かべる。
「どうやら、鬼紙老のお孫さんの回復祝いの様子。また、このお話は改めましょう」
幸は話は終わったと、立ち上がった。
「えー、皆さん。頭抱えたくなるほどのケーキがあります。最低、一人五個がノルマです。遠慮なく食べてくださいませ。ただ、今後、ここで喫茶店を始めます 都合、それぞれのケーキについての感想をお願いいたします。順位三位までのケーキは、あさぎと幸が、そのケーキを参考に作り、お店に出す予定でございます ので、しっかり、お食べくださいませ」
「ケーキ出してくるよ」
黒が冷蔵庫へ駆けだした。
「チョコレートケーキは私が一番最初に食べます」
白があたふた、黒の後を追う。
三毛は幸の背中に飛びつくと、幸の肩で囁いた。
「食い意地の張った姉さん達だなぁ」
皆の笑い声が広がった、男は本当に幸せだと思った。?
19
最終更新日 : 2013-05-11 17:36:59

異形 月の竹 眠るモノ 一話

「あさぎ姉さん、お腹減ったよ」
黒がばたばたとあさぎのいる台所にやってきた。
「もうすぐ晩御飯だよ」
「お腹が減って待てないよぉ」
「しょうがないなぁ」
あさぎが何げなく黒のお腹をとんと右手で押す。
「このお腹の柔らかさは脂肪ではありませんでしょうか。太り過ぎはだめだぞ」
「だ、大丈夫だよ。しっかり練習するよ。おもいっきり動くよ」
あさぎは笑うと、戸棚を開けてみた、御煎餅があったはずだけれど。
「あれ、ないなぁ、お煎餅」
「ごめんなさい、昨日食べちゃった」
黒が申し訳なさそうに言う、呆れたようにあさぎは笑みを浮かべたが、ふと、思い出して、床のバスケットを覗き込んだ。
「黒、幸が買い物のついでにこんなの、買って来てくれたよ」
あさぎが箱を取り出す。
「わっ、ホットケーキの素だ」
「ホットケーキを食べたい人」
「はい、はーいっ」
黒が元気よく手を上げる。
「それじゃ、一枚だけ焼こうか」
「うん」
黒は思いっきりの笑顔で頷くと戸棚からお皿、冷蔵庫からメイプルシロップを取り出した。あさぎはノートを取り出すと、ホットケーキのページを繰り、粉と水の量を確認する、そして電子秤を取り出した。
あさぎは自分の作った料理をすべて控え、量や加熱の時間なども細かく記していた。
正確に粉の量を計る。
横で、黒がその様子を覗き込んだ。
「あさぎ姉さんはきっちりしているね」
「ん、だって、いつも美味しいのを食べて欲しいもの」
あさぎが黒に笑みを浮かべる。
「美味しいのを作りたい。折角、父さんや幸に御飯作るの任せてもらったんだから」
「でも、大変だね」
「そんなことないよ、料理を考えるのはとっても楽しいし、洗い物はみんなでやってくれるんだから」
あさぎは片側焼けたホットケーキをフライパンの中で引っ繰り返した。
「もうすぐだよ」
あさぎの言葉に、慌てて、黒はお皿を差しだした。
「はい、出来上がり」
あさぎはホットケーキをすくい上げると、黒のお皿に置いた。
「ありがとう、あさぎ姉さん」
黒はテーブルにつくと、たっぷりとメープルシロップをホットケーキに掛け、食べ出した。
「美味しいよ、あさぎ姉さん」
「どういたしまして」
あさぎは笑みを浮かべると、夕食の準備を始めた。
鼻歌を歌いながらホットケーキを食べ終えると、黒があさぎの横でお皿を洗う。
「それじゃ晩御飯まで練習して来るよ」
「頑張ってね」
「はーい」
黒が元気よく返事し、駆け出して行った。

「そっか、お煎餅食べたの、黒だったのか。今度から、袋に名前を書いておかなきゃ」
幸が笑みを浮かべ、テーブルについていた。
「幸、黒を叱らないでね」
「うん、食べ盛りだ、しょうがないよ。でも、黒は力み過ぎで無駄な力を出すから、余計にお腹が減るのかもしれない。そろそろ、力を抜いて動くことを教えようかな」
ふと、幸はあさぎを見つめた。
「あさぎ姉さん、頭痛や立ちくらみ、どうかな」
「大丈夫、幸の教えてくれた体操を練習するようになってから、とっても元気、嘘みたいに頭痛も消えちゃった」
「安心した。それじゃ、幸にもホットケーキを焼いてください。晩御飯まで待てないよ」
「幸もなんだか子供だ」
「母さん、ホットケーキを焼いてください」
「ホットケーキを焼くから、母さんは勘弁してください」
あさぎが幸せそうに笑った。
あさぎが幸のためにホットケーキを焼く、ふと、幸は白と三毛、二人の気配を感じた。
「はぁい、出来たよ」
あさぎがお皿にホットケーキを載せ、お箸を添える。幸はスープ以外は箸を使っていた。
「あさぎ姉さんのホットケーキは特に美味しいよ」
照れ臭そうにあさぎが笑った。

「美味しそうな匂いがしますねぇ」
ふっと、白が硝子戸を少し開け、中を覗き込んだ。
「母さん、ずるいよぉ」
三毛も同じく顔を突き出す。
「ん、うわっ、な、何を言うかな。これは白と三毛のためにあさぎ姉さんに焼いてもらったんだよ」
「ほんと、ですかぁ」
白が笑いながら言った。
「もちろん。えっと、あさぎ姉さん、さっき言ったように、二人に取り分けるためのナイフをください」
「随分と説明的な台詞だ」
「何を言うかなぁ、白、素直さは大切だよ。二人ともおいで」
二人はぱたぱたと台所にやってくると、ホットケーキを切る幸の手元を見つめた。
「母さん、ピザみたいに、六等分してください」
白はそう言い、幸の切った後からメイプルシロップをホットケーキにかける。
そして、そのうちの一つを摘まんで、
「母さん、あーん、して」
はぐっと一切れを幸が食べた。
「食べ物の恨みは怖いですから、特に母さんは」
白がにっと笑った。
「それじゃ、三毛はあさぎ姉さんにあげるよ」
慌てて、三毛は皿ごとあさぎに差し出した。
「それじゃ、ひとつ、いただきます」
あさぎがひとつ、摘まみ食べる。そして、笑みを浮かべた。
三毛もほっと笑みを浮かべると、お皿を白に差し出した。
「白姉ちゃん、どうぞ」
白もひとつ、取ると、三毛に言った。
「三毛もあーん、ってして」
三毛が素直に口を開ける、白が三毛に食べさせる。
「白姉ちゃん、美味しい」
三毛もひとつ取ると、白に差し出した。白もそれをくわえ食べる。
「こうして食べると美味しくて楽しい」
白が笑みを浮かべた。
幸はそんな二人の姿を慈しむように眺めている。そして、そっと笑った。
ふと、幸は宙を見つめた。
「ん・・・、お父さん、電車に乗った。あさぎ姉さん、幸、駅までお父さんを迎えに行ってくるよ」
「帰って来る頃には晩御飯できてるよ」
「ありがとう、晩御飯、楽しみだ」
「あ、あのね。母さん」
思い詰めたように、三毛が幸に声をかけた。
「ね、一緒に行くの、だめ」
幸はその言葉に、三毛をじっと見つめた。いま、幸と男が二人でいられるのは、この男を迎えに行く時間くらいのものであり、その間は二人っきりにいてもらおうと暗黙の了解を得ていた。
幸はにっと笑うと右手を差しだした。
「今日だけだぞ」
「うん」
幸は立ち上がり、白に言った。
「白はあさぎ姉さんのお手伝い、それと、黒には御風呂の準備をするように伝えて」
「はい、わかりました」
白が立ち上がる。
「黒姉さんに声をかけて来ます」
白を見送ると、幸は三毛の手を取った。
「あさぎ姉さん、あとはお願いします」
「うん、ゆっくりしてきていいよ」

幸は三毛の手を握り、駅前、改札口で男を待っていた。
「この時間、男が多いな。こいつら全員、抹殺できたら気分いいだろうなぁ、すっきりするぜ」
「母さん、だめだよ、他人に聞かれちゃうよ」
慌てる三毛を幸が愉快に見下ろした。
「末っ子の気遣い。姉さん、二人は個性が強くて大変だからな」
「でも、いまはとっても優しいよ」
「本当の姉妹になったってことだよ、それは、とっても素敵なことだ」
幸の言葉に三毛が頷いた。
男が改札から出て来た。
「お父さん、ここだよ、お父さん」
声が一瞬にして可愛く高くなり、幸が手を振って跳びはねた。男は笑みを浮かべると幸のところにやって来た。
「ありがとう。三毛も迎えに来てくれたんだ、ありがとう」
男が三毛に笑みを浮かべた。
「あ、あの、先生、朝はありがとうございます、まだ、ちゃんとお礼を言ってなかったから」
男は三毛の頭をなで、笑った。
「叔父さんはちょっとさ、三毛の背中を押しただけだよ」
そして男は幸を見て、小さく呟いた。
「いつもありがとうな、幸。父さん、とても幸せだ」
幸は思わずぎゅっと男の腕に自分の腕を絡めると、横に並んで肩を寄せた。
もう片方の手で、男は三毛の手を握ると歩きだす。
「そうだ、ケーキ屋さんに寄るよ。黒にケーキを頼まれたからさ」
「お父さんも甘いなぁ」
「しょうがないよ。買って来てくれるに間違いないって、確信の眼差しで見つめられたら、太るからだめって言いづらい」
男は少し声を出して笑った。
「最初の時の黒が、今では想像つかないな」
「いまはね、本当に楽しそうだよ」
「黒お姉ちゃんはとっても優しくて大切にしてくれます」
ふぃと男は三毛から手を放すと、三毛の腰の後ろに手を添え、すくい上げるようにして、右肩に載せた。
「わっ、空気が違います」
三毛が楽しそうに呟いた。
「風が吹いていたんだ」
三毛の視界が広がり、夜へと移り変わる寸前の空が三毛の前に広がっていた。
「お父さんも」
「ん」
「家族してるね」
「そうだね、幸せだと思うよ。幸のおかげだな」
「雲、飛行機雲です」
二人が三毛の指さす方向を眺める。紫色の空を一条の筋が駆けて行く。
「空に一筆書きをしたようだな」
男がそっと呟いた。
幸が三毛に話しかけた。
「三毛、幸せか」
「とっても、幸せです」
男の肩に揺られながら三毛が答える。
「母さんもとっても幸せだ」
照れ臭そうに幸が笑った。
「こんなふうに静かに楽しく暮らし続けたいな」
幸が思いを込め呟いた。
「そうだな。本当にそうだ」
男がそっと頷いた。

「瞳さんが襲われている、護髪が反応した」
不意に幸が声をあげた。
「お父さん、行って来るよ」
「場所は何処だ」
「瞳さん宅の前」
「なら、父さんが行こう。幸は家に戻りなさい」
「でも」
「幸、父さんの今日の記憶を読みなさい」
「いいの」
男が頷いた。
幸が男をじっと見つめる。そして、頷いた。
「お父さん、お願いします」
すっと幸の姿が消えた。
「母さんが消えた・・・」
「先に帰ったのさ。三毛、叔父さんの頭にしっかりと掴まっていなさい」
「は、はいっ」
男と三毛の姿も消えた。

「うひゃひゃゃゃぁっ」
三毛が大声で叫ぶ。
「左脇腹、打撃」
「はいっ」
男の声に三毛は着地すると、すっと黒い服を着た男の脇腹に右手を添えた。一瞬、三毛の全身が写真のピンぼけのようにぶれる。黒服がすとっと真下に落ちた。
瞳を拉致しようとした黒服は三人。一人は瞳自身が倒したが、後二人に瞳は苦戦していたのだった。
「顎、回し蹴り」
すっと息を飲むと、三毛はふわりと浮かび上がり、瞬間高速回転、左脚で相手の顎を蹴る。棒立ちになり、そのまま、もう一人の黒服が崩れ落ちてしまった。
ほぉっと三毛が息を吐いた。
「初めてでこれだけ動ければ充分。お疲れさま」
三毛はしゃがみ込むと、そのまま、足を投げ出してアスファルトの上に座り込んでしまった。
「先生、ひどいですよ」
「ん、どうした」
「まさか、ここに現れた途端、相手に向かって、先生に投げ飛ばされるとは思いませんでした」
「ごめん、ごめん」
男が楽しそうに謝った。
「ただ・・・」
「ん」
「母さんなら、もっと強く投げ飛ばして、三毛は向こうの壁にぶつかっていたかもしれません。それを思うと先生で良かったと思います」
男がくすぐったそうに笑った。
「否定・・・、できないな」

男は、道路の端に座り込んだままの瞳に向き直った。
「瞳さん、お疲れさま。少し、打ち身があるようだね、とんだ災難だったな」
「先生、ありがとうございます。でも、何がなんだか・・・」
「神崎さん、データーを盗まれたらしい。政権が変わって、この世界も新旧の勢力が随分と賑やかなことをしている。彼の対抗組織が個人情報を入手して、個別攻撃をし始めた、神崎さんも現役を守るのに手一杯らしいよ」
「そんな・・・」
瞳は俯き、唇を噛んだ。
「さて、三毛。どうだ、落ち着いたか」
「はい、大丈夫です」
「悪いけど、瞳さん宅で待っていてくれ」
「先生は」
「二度とこういうことが出来ないように、ぎゅぅっとしてくるよ」
「先生、怒ってますね」
「うーん、ちょっとね」
男が普通に歩きだす、ふわりと闇に姿を消した。
三毛は立ち上がると、お尻の土を手でぱたぱたと払い、瞳の前に立った。
「初めまして、瞳さん。母さんから瞳さんのこと、伺っています」
「えっと、母さんって」
「私は先生の娘、幸の娘で三毛と申します」
一瞬、瞳が息を飲み込んだ。
「え、幸さんの」
「あ、母さんの名誉のために言いますが、貰われて来ました、えっと、養女です」
三毛は困ったように笑みを浮かべたが、少し離れたところに転がっている、瞳のだろう、スーパーの袋を拾い上げると、うれしそうに笑った。
「奇跡ですよ、瞳さん。たまご十個パック、一つも割れていません」

幸は家の道向かい、電信柱の天辺に腰掛けていた。
「戦争時の不発弾が見つかったということで、地域封鎖。警察や消防署も動いている。相手の後ろ盾は大きい方が楽しいねぇ」
幸は呟くと、足元を見下ろした。
およそ五十人の黒い姿をした奴らが門扉に向かって構えていた。門扉の内側には白、数歩出て、黒が杖を構え、相手を睨みつけている。しかし、息が荒い。
倒れた男たちが十人はいるだろう、黒の体力も消耗が激しく、お互い、膠着状態だ。
「黒姉さん」
白が叫んだ。
「大丈夫だ、白。母さんや先生が帰って来るまで家を守り抜くんだ」
微かに黒の杖の先が震えている、緊張と体力の低下だ。男達は手に手にナイフや刀を持っていた。銃を使わないのは隠密行動のためか。
いきなり男達の後ろから悲鳴が上がった。次々と雪崩のように男達が倒れて行く。ふぃと、幸が黒と睨み合っていた男の隣りに立つ。
「黒、白、お疲れさま」
幸はにいぃっと笑うと、横に立つ男の脇腹に手を差し込んだ。男が恐怖に満ちた眼差しで、自分の脇腹を眺める。
「殺さない方が良い、自分の魂に傷がついてしまう。だから、殺すな。殺すと、母さんみたいになってしまうぞ。ただな、倒れた奴が起き上がって来たら面倒だろう。だから、半殺しにはしておけ」
幸が手を捻った、瞬間、男が叫び声をあげてのたうちまわった。幸は、男のあばら辺りの皮膚と骨の折れたのを無造作に投げ捨てると、倒れていた男の上着で手を拭く。
「白」
「はいっ」
「あさぎ姉さんが大変だ、介抱してきなさい」
「わ、わかりました」
あたふたと白が家に飛び込んだ。
「黒」
「は、はい」
「びびったか」
にぃっと幸が笑う。
「母さんにびびった」
呟くように黒が答えた。
「この野郎、正直すぎるぞ」
幸は黒の頭を撫でようとしたが、両手がまだ血で赤く染まっているのに気づいた。
「手を洗って来るよ、黒も家に戻って休みなさい」
「か、母さん、この人達は」
「人達ってか、ま、そこが黒の良いところかもしれないな。連絡係が一人いた、そいつには手を出していないからさ。回収に来るだろう、一時間も経たないうちに何事もなかったようになっているさ」
幸は気にすることもなく、庭へ回り込み、洗い場へと手を洗いに行く。
「母さんみたいに強くなりたい。しっかりと妹達を守りたい」
幸の後ろ姿を見送りながら、黒が小さく呟いた。

幸は外で手を洗うと台所へ向かう。白が倒れたあさぎを抱き抱えていた。
「あさぎ姉さん、あさぎ姉さん」
耳元で白が囁いていた。幸は白の向かいに座ると、あさぎの手を両手でしっかり握った。そして、あさぎの耳元で語り出した。
「あさぎ姉さん。妹の幸です、あさぎ姉さんは幸の真ん中のお姉さんです。一番上のお姉さんは幸乃さん、ちょっと怖いお姉さんで幸は逆らうことが出来ませ ん、あさぎ姉さんは次女、とっても優しいお姉さんです。声をかけていたのは白、幸の娘です。幸には三人の娘がいます。長女は黒、真ん中が白、末っ子が三毛 です。お父さんがいます、お父さんはとっても優しい人です、思い出しましたか、あさぎ姉さん」
ゆっくりとあさぎが目を開いた。
「ごめんなさい、幸さん。なんだか、急に自分が誰だかわからなくなって、頼りなくて、不安になってしまって、生きているのかどうかもわからなくなってしまって・・・」
「それは、時間が解決してくれるよ。ね、あさぎ姉さん」
そっとあさぎが微笑んだ。
「ありがとう、幸。ごめんね」
あさぎは白に顔を向けると笑みを浮かべた。
「ありがとう、白。白の声が聴こえて、切れかけていた何かが繋がった気がしたよ。白、ありがとう」
「どういたしまして」
囁くように陰りのある笑顔で白が答えた。

「うわっ、どうしたの。あさぎ姉さん」
黒が驚いて声を上げた。
幸が微かに笑みを浮かべた。
「黒の食べ過ぎを心配して倒れたのかも」
「え、あっ。だ、大丈夫だよ。あさぎ姉さん、黒、太ってないよ。歯も磨いてるよ」
あさぎがくすぐったそうに微笑んだ。
「それなら、安心だね」
玄関の戸が開く音。
「ただいま」
男の声が玄関口でした。
「黒姉ちゃん、お土産だよぉ」
三毛がぱたぱたと部屋に戻って来た。
「黒姉ちゃん、先生がケーキ買ってくれたよ」
三毛が黒に両腕に一杯に抱えたケーキの箱を差し出した。
「いやっほぉー」
黒が喜色満辺に喚声をあげた。
「黒の単純さは救いでもあり、毒でもあるな」
幸が笑った。
黒のケーキ踊りを眺めながら、白がくすぐったそうに笑う。
「黒姉さんはとっても真面目です。嘘やごまかしができないから、却って、感情に針が大きく振れてしまう。でも、それが、ちょっと、うらやましい」
「そういうのは一人で充分、勘弁してくれ」
幸も楽しそうに笑った。

「ケーキ踊りもなんだか定着したなぁ」
男が黒と三毛、ケーキ踊りをする二人を眺めた。
「お父さん、お疲れさま」
幸が可愛らしく男に声をかけた。
「ん、ただいま」
「どうなった」
「無事済んだかな」
男がそっと笑みを浮かべた。
「あさぎ、どうかな」
「ごめんなさい、お父さん。なんだか、急に。でも、皆が戻って来てくれて、今は元気。さっきまでが嘘のようです」
「そっか、良かったね。ん・・・、白」
ふいと男は白を見つめた。
「はい・・・」
「極度の緊張が残っているな」
男は白に寄ると、その後ろ首筋に手のひらを何か払うように動かした。
「どうだ」
「体が暖かくなりました、どうしたんだろう」
「筋肉がぎゅっとしてしまって、流れが滞っていたのさ、指先や足先の冷たいのも、すぐに暖かくなるだろう。黒は・・・、あれは大丈夫か。あれだけはしゃいでいるなら」
ふと、あさぎが呟いた。
「なんだか、とっても嬉しい」
「ほんと、そうだよ」
幸がしっかりと頷いた。

ここ最近の習慣、男が自室で一人で眠り、あさぎと幸、黒達五人が広間で寝る。あさぎと幸は両端で、その間を、三人がそれぞれ、好きなところで寝ていた。
「ね、母さん」
白が少し不安げに言った。
「母さんの横で、寝て良い」
「いいよ、白。おいで」
灯りを消し、眠りにつく。
白がぎゅっと幸の腕を抱き締め、小さく幸に囁いた。
「母さん、白は怖くて動けませんでした、あんなに教えていただいたのに。白は役立たずです、ごめんなさい、ごめんなさい、母さん」
幸は少し身を起こすと、もう片方の腕で白をしっかりと抱き締めた。
「心配することはないんだ、白は大切な母さんの娘だよ」

夜中、男は襖の向こうの気配に目を覚ました。
「いいよ、幸。入りなさい」
男が体を起こすと同時に襖が開く。幸が泣き出しそうな顔をして立っていた。
「おいで、幸」
幸は男の部屋に入ると、後ろ手に襖を閉める。
そして男の横にひざまづくと、何も言わず男にしがみついた。
「白がごめんなさい、っていうの」
男はそっと幸の頭を撫でた。
「なるほどね。白も不甲斐ない自分自身に戸惑っていたんだな。それだけ、三人とも、しっかりと成長しているというわけだ」
「お父さん、どうしたらいいんだろう。どうしたら白に自信を持たせることができるのかな」
「そうだね」
男は笑みを浮かべると、軽く幸の肩をたたく。そっと幸が顔を上げた。
「今まで幸はね、三人の指導者として、これを覚えなさい、身につけなさいと教えて来た、つまり、一歩先から三人を引っ張って来たわけだ。ただ、彼女たちも 成長して、個性というかな、人格がはっきりしていくようになってね、画一的なやり方が合わなくなったのかもしれないな。幸、白にはね、一度、同じ位置で寄 り添ってみたらどうかな」
「寄り添う」
幸が男の言葉を重ねた。
「白がね、自信を持てるようにさ」
幸はそっと笑みを浮かべると、小さく頷いた。
「さあ、幸。白の横に戻ってあげなさい。幸がいないのに気づいたら、白があわてるぞ」
幸はそっと男に口づけすると、笑顔を浮かべた。
「お父さん、起してごめんなさい」
「どう致しまして。幸の泣いたの、久しぶりに見たよ」
「もぉ・・・、お父さんったら」

「嫌です、白は何処にも行きません」
朝、白の大きな声に男が部屋を覗き込むと、白が部屋の柱にしがみついていた。黒と三毛はおろおろとしているし、幸は困り果てた顔をして座り込んでいる。
あさぎは、白の大きな声に頭痛だろう、うずくまっていた。
男はあさぎが普通に生活できるようになるまで、まだ、数カ月かかるだろうなと冷静に判断をする。
男は白の横に座ると、にっと笑みを浮かべた。
「白は幸の娘で、大切な家族だ。だから、何処にも行っちゃだめだぞ」
「え・・・」
白が驚いたように男を見つめた。
「幸が一緒に旅に出ようって言ったのかな」
「は、はい」
「で、捨てられると思ったか」
白はその言葉が口に出せず、ただ、頷いた。
「白も黒も三毛もさ、随分成長した。それは、叔父さんも見ていて思うよ、しっかりしたなぁってね。ただ、それぞれね、個性がはっきりしてきて、今までと同 じ教え方ではだめだと幸は思ったんだろう。だから、幸は白と何日かさ、二人っきりで過ごすことで、何かを見いだしたいって思ってね、旅をしようって言った と思うよ。もっとも、旅っていっても、二、三日のことだろうけどね」
ゆっくりと、白が柱から手を離した。
「しばらく幸をお願いするよ。幸はさびしがり屋だからな、泣き出したら叔父さんの代わりになぐさめてやってくれ」
男は白の頭を軽く撫でると、ふと思いついて言った。
「白、髪の毛、一本、くれるかな」
「はい・・・」
白は髪の毛、一本を抜くと、男に手渡した。男はその髪を鴨居に結び付ける、溶け込むように髪の毛が消えた。
「白がどんなに迷子になっても、時と距離を越えて、白にこの家への道筋を教えてくれるよ」
初めて、白は安心したように笑みを浮かべた。
「幸、準備をしなさい」
「はい」
幸があわてて返事をした。
「白、せっかくだ、美味しいもの、たくさん、食べてきなさい」
急に黒が叫んだ。
「美味しいもの。ずるいよ、黒も美味しいもの食べたい」
男が笑った。
「あさぎの作ってくれるご飯、黒は美味しくないのか」
「もちろん、美味しいよ」
「なら、黒も毎日、美味しいものを食べているじゃないか」
「え。あ、そうか・・・」
一瞬、黒は納得しかけたが、あわてて声をあげた。
「その美味しいじゃないよ」
「うーん、黒もしっかりしたなぁ、ごまかしが効かなくなってきた」
男は嬉しそうに笑うと、黒に言った。
「今から叔父さんが一から十まで数えます。黒は叔父さんが十まで数える間に、ちょっと贅沢で普段は食べないような晩御飯を言いなさい。一、二、三、四」
黒があたふた、考えを巡らせる、
「えっと、あの」
「早くしないと、普通の晩御飯になってしまうぞ、五、六」
「ぴ、ピザ、ピザが食べたい、空揚げやソーセージや、いっぱい載っているピザ」
男は頷くと、あさぎを見る、ほっとしたように、あさぎは顔を上げていた。男と黒の会話が空気を和ませ、あさぎの頭痛を取り除いたのだろう。
「あさぎ、ピザ、いいかな」
「はい、頑張って作ります」
あさぎがほっとしたように笑った。男がついとカレンダーを見る。カレンダーには印があった。
「啓子さんとあかねちゃんが来るのか。なら、黒」
「はい」
「ピザに載せるもの買いに、啓子さんと一緒に買い物に行ってきなさい。それと、ピザの生地をこねるの大変だから、あさぎの手伝いをすること、いいかな」
黒が満辺の笑みを浮かべて頷いた。
「さてと、三毛にはまだ聞いていなかったな、何が食べたい」
「三毛は特には何も。ピザも大好きだし」
「三毛は控えめだな。でも、妹があまり控目だと、黒姉ちゃんは妹に気遣って、ピザいらないです、大根のお漬物だけでいいですっていうかもしれないぞ」
にっと男が黒に笑いかけた。
黒が必死の顔をして、頭を横に振る。
「ないない、そんなことない」
緊張した声で黒が答えた。
慌てて、三毛が言った。
「手巻き寿司が食べたいです」
男は頷くと、黒に笑いかけた。
「今晩はピザ、明日の晩は手巻き寿司、良かったな。黒」
「もう、先生は意地悪だ」
黒がほっと安心して、足を投げ出して座った。
男が愉快に笑みを浮かべた。
「お父さん、それじゃ出掛けます」
幸の声に男が振り返ると、幸は黒のカンフー服、白はそれだけは嫌だと拒絶したのだろう。茶系統のチェックのワンピース。
「幸は相変わらずだな」
男が呆れて言った。
「白にも勧めたんだけどね、絶対嫌だって」
「母さんの趣向は理解できません。そんな格好でうろうろしたら、警官に職務質問されてしまいますよ」
「大丈夫だ、白。その警官は話の途中で意識を失い、倒れてしまうだろう」
にぃっと幸が笑みを浮かべる。
「白、幸を頼んだよ」
男は仕方なく笑った。

幸と白は列車、二人掛けの座席を隣り合って座っていた。白が窓際で流れる風景を眺めている。
幸は通路をじっと見つめていた、
「来たっ」
車両のドアが開き、カーゴを押して売り子がやって来る。
「白、弁当を買おう、それにお菓子とお茶も」
「母さん、朝ごはんを食べてから一時間と経っていませんよ」
呆れたように、白が言った。
「何言うかな。法律で売り子さんが来たら弁当を買わなきゃならないって決まったの知らないかなぁ」
「なるほど知りませんでした、日本以外の、何処の国で決まった法律ですか」
「幸王国、憲法八条三項にちゃんと書いてある」
幸は嬉しそうに笑うと、売り子を呼び止めた。
「お弁当とお茶、二つずつお願いします、それと、そのお煎餅も」
幸は両手で受け取ると、弁当一つを白の膝に置き、二人の前の座席の背中にあるテーブルを倒して、それぞれにお茶を置いた。
「なんだか、一気に旅気分、いいなぁ」
「あの、母さん」
「ん」
「まだ教えてもらっていません、目的地とか」
幸はお弁当の紙包みを広げながら、思い出した。
「そういえば、旅に行こうってそれだけだったよね」
「先生は何か伝えようとする時、順を追って分かりやすく説明してくれます。母さんは大事な話を省略してしまいます」
「柱にしがみついている白、どうしようかって悩んだよ」
「恥ずかしいこと思い出させないでください、本当にあさぎ姉さんにも迷惑を掛けてしまいました」
「ごめんな、白。反省してる」
幸はふと手を止めると目をつぶった。
幸はふと手を止めると、俯き目をつぶった。白がふっと幸の手に自分の手を重ねる。
「ごめんなさい、白は黒姉さんみたいに陽気でもないし、三毛みたいに素直にもなれないんです。でも、母さんが大好き、とっても」
不意に幸は片腕を白の肩にまわすとぐっと引き寄せた。
「ありがとう、白」

啓子は家続きの元事務所、事務机などは取り去られ、広々とした中で、うーんと唸りながら、立て掛けた、原木を縦に切ったままの分厚い板を見つめていた。
喫茶店のテーブルにする予定の板である。おおよその、乾燥は済んでいた。
啓子の隣りではあかねがしゃがんだまま、ぼぉっとそれを眺めていた。
「思っていたより幅がありますね」
あかねが顔を上げ、啓子に言った。
啓子は頷くと、メジャーで横幅を測る。
「並んだ四人が、向かい合って、うん、八人ってとこだ」
「おじいさまも、もう少し小さいものを送ってくだされば」
板は鬼紙老が、孫が世話になっているからと送って寄越したたものだった。
「他の調度品を工夫すれば、大丈夫だよ。案外、名物になるよ、これだけの物を使っている店ってそうはないからね」
そう言って部屋を見渡す。
「あとは、壁をどうするか、和風にしてしまうのもありだし、無国籍風もいいかな」
「あさぎさんの希望が一番でしょうね」
あかねは笑みを浮かべると、ゆっくり立ち上がった。
「あさぎさんが料理を作って、あの娘達がウエイトレス。なんだか、私達も、忙しい時のアルバイト要員として数に入っているらしいですよ」
あかねが楽しそうに笑った。
「先生がウエイターって当初の計画よりかはずっといいよ」
「お客さん、怖がってしまうでしょうか」
「うーん、ってより」
啓子はふと言葉を止めて考えた。
「多分ね、先生の存在に誰も気づかないと思う、そして、いきなり耳元で、囁くような、いらっしゃいませって声が響いて、お客さん、飛び上がって驚くという」
「それって、啓子さん、話をおもしろくしようとしていませんか」
「ちょっとね」
いたずらげに啓子が笑った。

「啓子さん、あかねちゃん」
ぱたぱたと三毛が走り寄って来た。
「よう、三毛助、どうした」
啓子が嬉しそうに笑った。
「その呼び方はやめてください、もぉ」
「あはは、ごめん」
「啓子さんはすぐからかうんだから」
啓子は嬉しくてたまらないと、三毛を抱き上げた。
「三毛は可愛いな。そうだ、三毛、ウエイトレスはエプロンドレスで、猫耳と尻尾を出してって、それいいよ、受けるぞ」
暴れるように三毛は啓子から脱出すると、ため息をひとつついて、座り込んだ。
「それはもう既に母さんに散々、試させられました。啓子さんは母さんと一緒ですよ」
「で、結果は」
「耳も尻尾もリアルすぎるという結論で、不採用」
あかねも笑みを浮かべると、そっと三毛の頭を撫でた。
「お疲れさま、三毛ちゃん」
「はい」
三毛が疲れたように頷いた。
「メイドにしてしまうと、男性客ばっかりになってしまうよね、考えてみれば」
ふと気づいたように啓子が言う。
「母さんも同じこと、言っていました、ゲロゲロだぁって」

「おおい、早く来てよ。お腹減ったよ」
黒があたふたやって来た。
あっと三毛が二人を呼びに来た用事を思い出した。
「啓子さん、あかねちゃん。ごめんなさい、おやつです、あさぎお姉さん作ったケーキ。お店のと同じですよ。とっても美味しいです」


「ここは」
白が小さく呟いた。
山の頂上近く、いくつもの墓石が並んでいた。青く抜ける空の下、来る人もないのだろう、背の高い墓石もつる草や雑木に埋もれかけている。
「限界集落と呼ばれている、もっとも、最後の住人が山を下りて1ヶ月ってとこだ、だから、正確には元集落だな」
幸は墓に背を向け、見下ろす。いくつもの山が重なり、その向こうには、青色、ほんの少しだけ海が見える。
そして振り返ると、一つの墓石の前に立ち、ぐいっと絡まった蔓草を引きちぎる。
「草生えたままにしておくと、お父さんに叱られてしまう」
「母さん、それじゃ、ここは」
「母さんが生まれたところ、全ての始まりの場所だった」
白が慌てて、幸を真似、草を抜いていく。
現れた墓石は風化が進み、角が欠け、彫られた文字も読みにくい。
「読んだってしょうがないよ、母さんは捨てられたんだからさ」
文字を覗き込む白に、幸がそっと笑みを浮かべた。
振り向く白に、青空を背景にした幸が笑みを浮かべる、白には幸が人を越えた、神や天女に見えた。
「まぁしかし、それでお父さんとこうして暮らすことが出来て、それに良い娘も出来た。そういう意味では幸いだったのかもしれないな」
「母さん、綺麗・・・」
ふともらした白の言葉に、にっと幸が笑った。
「娘に褒めてもらえるのは嬉しいものだ」
幸は、麓で買ったペットボトルの栓を取ると、水は墓石に掛けた。
「また、一年したら来るさ。さて、白、準備は良いか」
幸はペットボトルの栓をすると、墓石の横に置いた。
白は大きく深呼吸をすると、幸にうなずいた。
「何人いるか、わかるか」
「四人」
「離れている奴を合わせれば六人だな。ここへは単純に墓参りだけのつもりで来たんだけど、なかなか、楽しいことになった」
幸は空中から杖を取り出し、白に手渡した。
「襲われる理由はわからないけど、折角だ、練習相手になってもらおう」
「はい」
「相手の間合いは半歩前進で崩せ、以上」
幸がふわっと後ろに下がる、白は右半身上段に杖を構えた。雑木や墓石にその姿は見えないが、前に三人、後ろに一人。
ふぃっと白が横目で、背後を眺めた。
黒装束、まるで映画から抜け出したような忍者が飛び込んで来る、片手に忍者刀、直刃の凶刃が背中から白の胸を貫く、白は反転し、杖で刃を流しつつ、相手の首に杖の先を差し出した、瞬間、身を沈め、敵の顎に杖の先を絡めつつ、その上半身を後頭部から地面に叩きつける。
白の眼の端で影が移動した。
影に杖を突き出す、三人の内、一人の太ももを貫いた。
「ごめんなさい」
白が思わず呟いた。残った二人の刃が頭上にきらめく。瞬間、白は二人の忍者に身を寄せた。なみゆいの特徴は接近戦にある、白は相手の胸に突き放った肘をそ のまますりあげる、前のめりに一人が倒れた、すっと白が姿勢を落とすと同時に、独楽のように回転し、蹴り足が相手の膝を粉砕した。
「お疲れさま」
幸がぎゅっと白の手首を握った、白の腕が微かに震えていた。
「母さん、白はなんだかとても怖いです」
幸がしっかりと白を抱き締めた。
「大丈夫だよ、白」
幸はゆっくりと体を離すと、笑みを浮かべた。
「今晩は温泉でゆっくりしよう、行きたいところがあるんだ」
「あ、あの、この人たちは」
幸は無造作に杖を相手の太ももから引き抜く、そして杖を消した。
「うーん。ただのさ、歴史や廃墟のマニアってのかな。白や母さんがそんなだったら、こっちが地面に倒れている側だ。それはわかるな」
「はい・・・」
「なら、このままほっといてもいいんじゃないか」
「たしかにそうなんだろうけど、でも」
戸惑う白に、幸は困ったように笑った。
「黒も似たようなこと、母さんに言ったよ。白と黒は甘いなぁ、あんまり甘いこと言っていると寝首をかかれるぞ」
幸は呻いている忍者の太ももに触れた、見る間に流れていた血が止まる。
「そっちは首がずれたか、むちうちだな」
幸が足先でその忍者の背中をとんと軽く蹴る。
「あとの二人はほっといても眼を覚ますだろう。さて、指導役の二人もとうに逃げ出した。いくぞ、白」
「はい」
「なんだか白が急に元気になったな」


黒は一抱えもあるピザの生地を力いっぱい、こねていた。
「黒、大きいよ。三つくらいに分けた方がやりやすいよ」
あさぎが心配そうに言ったが、黒はにっと笑う。
「武術の練習にもなるから、大丈夫だよ。ね、あさぎ姉さん、おっきなピザ、できるかな」
「五十センチのピザが五枚は焼ける予定」
黒が心の底からの笑顔を浮かべた。
「本当に黒は食べることが好きだね」
「なんか、食べるものがあるっていうだけで安心してしまうんだ。ここで暮らすようになってから、とても幸せで、安心でいられる。自分が居てもいいところがあるっていうのがとっても素敵なんだ」
あさぎはふと手を止め呟いた。
「本当にそうだね」
「あさぎ姉さん、泣いてるの」
心配そうに、黒があさぎの顔を覗き込む、あさぎは手の甲で涙を拭うと笑みを浮かべた。
「助けてもらわなかったら、道でそのまま消えていたんだなって思うと、なんだかね」
「良かったね」
黒がにっと笑った。
「とっても良かった」
あさぎも笑った。

「黒姉ちゃん、あさぎ姉さん」
三毛が台所にやって来た。
「啓子さんが石釜に火をいれたよ。これから釜を温めて、一時間くらいでピザが焼けるようにするって」
「それじゃ、海老や帆立も下ごしらえしなきゃね」
あさぎが鍋を取り出す。三毛が買い物袋を覗き込んだ。
「黒姉ちゃん、いっぱい買ったね」
「おう、三毛もいっぱい食べろよ」
「うん」
嬉しそうに三毛が笑みを浮かべた。
「啓子さんもあかねちゃんもいっぱい食べるって」
「みんなが、お腹いっぱい食べるって楽しいなぁ」
黒が心から嬉しそうに笑った。

釜の火を見つめながら啓子が言った。
「面白いなぁってつくづく思うよ」
あかねは啓子の隣りでしゃがんでいる、少し、日が陰りだし、二人の顔を釜の火が赤く照らしていた。
「何がですか」
「人生」
啓子はそう言い切ると、少し恥ずかしげに笑った。
「啓子さん、人生を語るにはまだまだ早いですよ」
あかねも楽しそうに笑った。
「でもさ、大学出て、就職したはいいけど、その就職先が悪の組織だよ、それも、下っ端の戦闘員だぜ、覆面に全身タイツ。それが、襲う相手の先生に投げ飛ば されて、今じゃ、農業の手伝いして回って、こうやってさ、先生宅でピザを焼こうとしているんだから、面白いっていうか、不思議だ」
「縁があったのでしょうね」
「運命論者じゃないけど、そうだね。偶然が単純に重なっただけって思うより、縁が在ったと思う方が嬉しいな」
そっとあかねが笑みを浮かべた。
「どうしたの、あかねちゃん」
「啓子さんって可愛いなって思いました」
啓子は気恥ずかしそうに笑うと、釜に薪をほうり込んだ。
「参った、中学生に負けた気分だ。あかねちゃんがまだ中学生っての、なんか反則だよ」
あかねが声を出して笑ったが、ふと、振り返った。
「先生、駅に着きました、幸さんの代わりに迎えに行ってきます」
「なら、黒か三毛と一緒に行った方がいいよ」
「ええ、頼んでみます」

男が紙袋を片手に、駅近くの商店街前を通り過ぎた時、あかねと黒があたふたと走り寄ってきた。
「おじさん、ごめんなさい。迎えに来るの、遅くなってしまいました」
あかねが息をはずませ言った。
「あかねちゃんに黒も、わるかったね。迎えに来てくれたのか」
「先生、ちゃんと手伝ったよ。帰ったら、ピザ、いっぱい食べよう」
「そっか、それは楽しみだな。なら、今日はケーキ屋さんに寄らなくてもいいかな」
「え・・・」
一瞬、黒が硬直した。
「そうだ、ケーキ。ケーキ忘れてた。ピザの後はみんなでケーキ」
「おじさん、余計なことを言ってしまいましたね」
あかねが笑った。
「ほんとだな。でも、黒の幸せいっぱいにケーキをほお張っている姿を見るのも楽しいからさ」
三人は駅前の洋菓子店へ。店内には椅子とテーブルがあり、男は持ち帰り用にケーキを注文した後、テーブルについた、向かい側にあかね、その隣りに黒が座った。
「珈琲だけ飲ませてくれ」
男は笑みを浮かべると、珈琲を注文し、二人にはジュースを注文した。
「先生、それなに。おやつ」
黒の言葉に男は笑みを浮かべると、袋から箱を出した。
「食べないでくれよ。カメラ、デジカメだ」
「おじさんがデジカメを」
「まあね。今日、取引先の会社へ書類を届けてね、ふと、その会社の社長の机に家族の写真が写真立てに入っているのを見てさ。たまらなく、家族写真が取りたくなった。で、あたふたと電気屋さんでデジカメと小さな三脚を買って来たわけだよ」
「おじさんの写っている写真って貴重ですよ。その筋に売れば、ちょっとした家の一軒くらい建ちますよ、土地付きで」
男がくすぐったそうに笑った。
「悪いことをし過ぎたと、反省の日々だよ。まっ、幸と白が帰って来たら早速、写そう。あかねちゃんも入ってくれるかい」
「もちろんです」
あかねが笑みを浮かべた。
「先生、母さんと白は元気にしているかな」
「まだ、大丈夫じゃないかな」
男がそっと笑みを浮かべた。

「すごいホテルですよ」
白はぼぉっとロビーを見渡した。高級老舗ホテルのカウンターでチェックイン。幸はサインをすると白に笑いかけた。
「な、だろう。前にお父さんと泊まった時は中の上だ。部屋に露天風呂まであったんだ、もっとも、今回は予算の都合で一番安い部屋だけどな」
白は幸に駆け寄ると、幸の服の裾をつつと引っ張った。
「ん」
「母さん、お金、ほんとに大丈夫」
「大丈夫、お父さんがいっぱい出してくれたんだ」
「相変わらず、先生は母さんに甘いですね」
「だって、可愛い愛娘ですもの、ふふ」
慌てて仲居が一人、カウンターへと小走りにやって来た。
幸と目があった瞬間、立ち止まり、仲居が呟いた。
「幸ちゃん」
幸がにっと笑うと大きく手を振った。
「お母さん、久し振りです」
幸の声に走り寄ると、仲居がぎゅっと幸の手を握った。(異形六話御参照ください)
「わぁ、本当に幸ちゃんだ。なんか、ちょっと大人っぽくなったよ」
「だって、三年ですよ、幸も少しは成長しますよ」
幸がくすぐったそうに笑う。
「気にしていたんだよ。だって、住所もわからないし、急に用事ができたって帰ってしまうしさ」
「あはは、ごめんなさい」
「瞳さんも元気にしているかい」
「しっかり主婦してますよ」
「お母さんこそ、手紙出した、お嬢さんに」
「もちろん。返事ももらったよ、出して良かったよ」
「気にしてたんだ、なんだか、安心した」
ほっとしたように幸は笑みを浮かべると、戸惑っている白を見つめた。
「母さんのお母さんだ、挨拶して」
「えっ、あ、あの。白と言います。えっと、娘です」
仲居が目を見張って驚いた。
「幸ちゃんにこんな大きな子が」
「いえ、あの、養女ですから。決して、母さんから産まれたわけじゃ」
「白は母さんの娘だ、誰から産まれようと関係ないよ」
幸は笑うと、仲居に言った。
「娘と旅行中なんです」
「いいねぇ、そうかい。あ、あたしとしたことが、カウンター前で立ち話なんて。部屋まで案内しなきゃね」
「母さん、ゆかた、着ないの」
「あぁ、男の眼が煩わしいからさ」
仲居が部屋を後にし、白はゆかたを前に、思案していた。
「白だけ、着るの、変かなぁ」
幸は立ち上がると、白にゆかたを羽織らせ、正面に立つ。
「いい感じだ、可愛いよ」
はにかんだように、白が笑みを浮かべた。
「服脱いで、ゆかたを着な。風呂に行こう、それから、晩御飯だ」
「うん」
白が素直に返事する。
幸は白の、普段は見せない一面を見た気がした。
「なぁ、白」
「はい」
「母さんが白や黒、三毛にさ、武術や呪術を教え続けたのは、自分自身の身を守ることが出来るようにというためだ。そして教えられることはほぼ教えたはずだ、後は教わったことを磨いて、再発見をすればいい」
白がそっとうなずく。
「白、活法を学んでみるか。怪我や病気を治す技だ」
すっと白の顔に表情が消え、じっと幸の眼を見つめた。
「お願いします、お母さん」

本来、夕食は階下での宴会場となるのだが、特別に同じ部屋での食事となった。幸がそうしたいと、仲居に頼んだからだ。
「お母さん、幸も料理、運ぶよ」
「だめだめ、幸ちゃんはお客さんなんだから」
仲居は笑みを浮かべると、てきぱきと食事の準備をして行く。
白は幸の仲居への優しい眼差しに、少し言葉を変えるだけで、こんなにも他人と良い関係になれるのだと学んだ、自分自身の今までの言葉を思い出し、反省しな きゃと思うが、母さんだって反省しなきゃなと思う。他人によって言葉遣いを変えるよりも、誰に対しても優しくありたい、少なくともあきらかな敵以外は。ふ と、敵という言葉が浮かんだ時、黒姉の戦う姿を思い出した、黒姉さんに三毛、今頃、ピザをほおばっているだろうか。
「白、御飯食べよう」
幸の声に白が顔を上げた。
「いただきます」
白はお膳につくと、幸と向かい合う。
「なんだか、変な感じ」
白が笑った。
「お膳を前に向かい合って食べるって、ちょっと、緊張するな」
幸は笑うと先付けを食べる。
「うん、美味しい。お母さん、これ、美味しいですよ」
振り返り、幸が仲居に笑いかけた。
「嬉しいね。ありがとう」
白はふと、今ならと思った。
「ね、母さん」
「うん」
幸が白に笑みを浮かべた。
「あ、あの。今まで、生意気なこと、いっぱい言ってごめんなさい。白はいい子になります」
「え」
幸は唖然と白を見つめたが、箸を落とすと、飛び上がり、白を抱き締めた。
「母さん、息が苦しいですよ」
「ごめん、ごめん」
幸は体を離すと、少し照れくさげに笑った。
「母さんも綺麗な言葉を使ってください」
「対象女性限定なら」
「一歩前進ですね」
白がくすぐったそうに笑った。
幸は不意に仲居に振り返ると声をかけた。
「お母さん、マッサージしてあげます」
急な展開に、戸惑う仲居をあっさり幸は俯せに寝かせつけてしまった。
「座布団をこう抱えるようにしてね」
幸は座布団を二つに折り、中井の胸元と畳の間に差し込む、そして、白を手まねいた。
「は、はい」
白があたふと幸に近づくと、幸は白を仲居の横に座らせた。
幸は右手で白の右手を甲から掴むと、白の人差し指を仲居の首の後ろに添わせた。
そして、ゆっくりと背骨に沿って指先を移動させる。
「背骨が歪んでいるのがわかるかな、違和感みたいなものが見えたかな。手を重ねることで、母さんの見ているものが見えて来たと思う」
白が少し興奮してうなずいた。
「活法の基本だよ」
幸は白の右手を自分の右手で、同じように白の左手を自分の左手で掴むと、仲居の腰の左右に沿えた。
「しっかり見なさい」
幸は囁くと、ほんの一センチほど両手を左へ動かす。白はブロックがぴたっとはまり込んだように思えた。
「お母さん、どう」
「どうしたんだろう、急に体が軽くなった気がする」
「お母さんは立ち仕事が多いし、荷物も運ばなきゃで、体が傷んでいる。白にマッサージを教えがてら、治してあげますよ」
幸が幸せそうに笑った。
「お嬢さんの代わりに親孝行します」

(旅館に勤める女性全員、女将も含む、全員の整体を二人は済ますことになる。書くのが面倒臭いので、気が向いた時に書く 2011.03.02)

「母さん、白はだめです、くたくたです」
白は座布団を枕に俯せに臥せってしまった。
「気安く引き受けていたら、凄い特訓になった。全員だもんね」
幸は気楽に笑うと、女将手ずから握ったおむすびを一口食べる。
白は顔だけを幸に向け、言った。
「どうして、母さんは元気なんですか。同じだけ動いていたはずなのに」
「二つ理由がある」
幸はお茶を飲むと、白に言った。
「一つは無駄な動きをしない、必要充分なだけの動きで済ます。これは、この旅の間に、お父さんが黒に教えてくれると思う。もう一つが月の光を体に蓄える内観法。これは白に教えるつもり」
幸は両手の手のひらを互いに向け合う、幸の手が白くひかりだし、手と手の間に、白い光球が現れた。幸はふわっとそれを浮かび上がらせると、軽く白にほうり上げる。
光球はそのまま、ふわりと浮かび、白の元へ、そして、白の体に入ってしまった。
ゆっくりと白が起き上がる。
「えっ、疲れがなくなった。ううん、いつもより調子が良いくらいです」
「白、今のうちにしっかり食べておきなさい、今晩は忙しくなるから」
「忙しいって」
「昼間の関係者がこちらに向かっているのさ」
幸は皿に残っていたお造りを食べる。
「白、このマグロの赤み、美味しいよ。こっちの魚はなんていうんだろ」
「母さん、昼間の人達のこと、知っているんですか」
「ん、すぐに調べた。山を降りる途中の集落、人がいなくなったのを幸いに、国が借り上げて、黒服の育成施設にしているようだ、政権が妙になったからかな、やたらと増えているようだよ、まっ、そんなのの一つだ。そして、来るのはその提携している、この近場の奴ら」
「それなら、母さん。わけを話せば」
「え」
意外なことを聞いたとばかりに白を見つめた。
「白。わけを話した上で、お父さんの話をすれば、奴ら逃げ帰るだろう。ただ、それには大きな問題があるんだ」
「問題って。先生に迷惑がかかるとか」
「いや」
幸がにぃと笑った。
「単純に暴れたいじゃないか」
ふぅうっと、白が脱力し大きく溜息をついた。
そして、仰向けになり、幸に言った。
「母さんの場合は単なるいじめです。母さん、強すぎるもの」
「なるほど、いじめか・・・。子供の教育に悪いな。白が不良になったら大変だ」
冗談とも本気ともいえないような口調で幸は答えたが、良いことを思いついたと笑みを浮かべた。
「やつら、随分、ホテルに近づいて来た。並が二十人、並の上が三人、特上が一人。並と並の上は母さん、手加減して潰すから、白、活法の練習をしなさい。その間、母さん、特上を楽しむよ」
幸はふわりと立ち上がると、窓を開け放ち、階下を見下ろした、五階、視界の端に海が少し見える、
「来た来た。あれで隠密行動とっているつもりか」
幸の嬉しそうな声に、白はあきらめて、ゆかたから、朝の服に着替えなおした。
汚れなきゃ良いけど。
幸の隣りから同じように見下ろす。
「気配を消し切れていません。母さん、本当に殺したりしないでください。そういうの、辛いから・・・」
「良い子に育ったなぁ。育て方、正解だったかな」
「母さんの言動を見て、色々、考えたんです」
「娘の言うことが一つ一つ嬉しい。成長したなぁ」
ふぃっと幸は白を右腕に抱えると、窓を飛び出た。
「行くぞ」
「うひやぁぁ。白はまだ飛べませーん」
白の悲鳴が闇へ消えて行った。

「あ、白が」
不意に黒は目を開けたが、食べ過ぎて動けず仰向けに寝転がったままになっていた。
黒と啓子、部屋で大の字になって寝転がっている、ピザの早食い競争を二人でやった結果だ。
「どうした、黒」
男はしょうがないなと少し笑う。
「先生、白の悲鳴が聞こえたような気がしたんだ」
「なるほど。でも、そんなんじゃ、白も、それに三毛になにかあっても、助けに行けないぞ。啓子さんも黒も、本当に負けず嫌いだな」
男は視線を戻すとあかねを見つめた。
あかねの口が動いた、おはやいおかえりを。
男は立ち上がると、おろおろしているあさぎに言った。
「二人は自業自得。あさぎ、ほっとけばいいよ」
男は笑いをこらえるように言った。
「先生」
啓子が仰向けのまま、男を見上げた。
「黒に勝ちました。なかなかのもんでしょ」
「お疲れさま、でも、あんまり無理しないようにね。年頃の女の子なんだから」
「ほーい」
男は静かに部屋を出た。
三毛は団扇を見つけて来ると黒の隣りに座り、扇いでやる。
「黒姉ちゃん、大丈夫」
「あんまり大丈夫じゃない」
黒が嬉しそうに笑った。
「反省してないね、体、壊すよ」
あかねも溜息をついて言った。
「啓子さんって、本当に子供っぽいなぁ。普通、年下の黒ちゃんに勝ちを譲るでしょうに。むきになるんだから」
啓子はまんべんの笑みを浮かべ、黒の手を握った。
「なぁ、黒。勝負は正々堂々としなきゃな」
「そうだよ、手加減なんかいらないよ。今度は黒が勝つよ。あしたは手巻き寿司だ」
「うっ、今は食べ物のこと、考えたくない」
啓子は苦しそうに言うと、大きく深呼吸をした。
「あさぎさん、お水ください」
「確かに筋肉が肥大して、心臓の動きを押さえようとしているんだけど」
白は幸が次々と、まるでドミノ倒しのように倒して行った、その最後の一人を、ひざまずき、顔を寄せて見ていた。仰向けになり、息が荒く、それでいて、心臓 の鼓動が鈍い。母さんはと、顔を上げると、幸の後ろ姿、特上と称した、年配の男に、間合いを開け、あれは、にぃぃっと笑みを浮かべているに違いない。
白が呟くように言った。
「早くしないと、この人、死んじゃいますよぉ。母さん」
「白、この人を俯せにしなさい」
男は倒れている黒服を見下ろし、白に声をかけた。
「は、はい」
慌てて、白は黒服の肩と腰に手を差し込み、そっと俯せにする。
「心臓の下、裏側の、ほら、ちょっと下に痣が出来ているだろう」
「はい」
「これを緩めればいいよ」
白が慌てて、痣に両手を合わせ摩る。黒服の息が穏やかになった。
「あ、先生、どうしてここに」
「ん・・・、黒がね、白の悲鳴が聞こえたっていうもんだからさ」
男は吐息を一つ漏らすと、幸を眺めた。
「幸がいじめられていたら、どんな相手であろうと、叔父さんは立ち向かって行くけれど、逆の場合はどうしたらいいんだろうって思うよ」
「あの、母さんは」
男はそっと笑みを浮かべると、少し寂しげに白に言った。
「幸には叔父さんの血が流れている、叔父さん、とっても、悪い奴だからさ、今の幸を見ていると、若かった頃の乱暴だった自分を思い出すよ。幸をああいう性格にしてしまったのは叔父さんの責任なんだよ」
「叔父さん・・・」
白は男の哀しい眼差しに口ごもってしまった。
「叔父さんは、あと数年しか生きていられない、その時は、白、幸を頼むよ」
男は立ち上がると、ゆっくり二人に向かって歩きだした。
幸の前に立つ黒服の総領は、幸の後ろに、一瞬、笑みを浮かべる男の姿を見た。
総領が驚いて言った。
「お前は無の縁者か」
「ん・・・。あぁ、娘だ」
「そうか・・・」
総領は諦めたとでもいうように、両手を上にあげた。
「随分、昔の話だ。無と二度だけ、仕事をしたことがある。あいつには儂が束になって掛かって行っても、歯が立たない。全面降伏だ。ただ、すぐには殺さないでくれ、やり残した仕事があるんだ」
「殺すつもりはないよ」
感情を抑えて言う。
「後ろの娘に叱られてしまうからさ」
幸は背を向け、後ろの状況を確認した。
「全員、娘が助けたようだ」
幸はもう一度、総領に向き直り、言った。
「あんたに依頼した奴らにも伝えてくれ。あんたらに加担するつもりもなければ、鬼に味方するつもりもないってな。ましてや、国がどうなろうと一切、関わるつもりはないってな、ようはそういうことだろう」
「そうだ」
「なら、話は終わった。帰ってくれ、親子水入らずの旅の途中なんだ」
「委細、承知した」
総領の姿が消えた。
幸が振り返ると、倒れていた連中の姿も消えていた。
幸が背を向け、白を見る。白は立ち上がり、瞬きもせず、幸を見つめていた。
「お疲れさま、白。一つ、難しいのがあったけはずだけど、なんとかなったようだな」
幸がそっと笑みを浮かべる。
「先生が来てくださいました、背中の筋肉を緩めればいいって教えてくださいました」
「え、お父さん、何処」
白が泣きそうになりながら叫んだ。
「先生は、幸が乱暴になってしまうのは、自分の責任だ。幸に申し訳ないっておっしゃいました」
幸は惚けたように、口を開け、膝から崩れた。
「お父さん・・・」
そして微かに呟く。
「ごめんなさい」
白は幸にかけよると、大声で泣いた。

「あの、先生、いいかな」
襖の向こうで、黒が男に声をかけた。
「どうぞ」
男が声をかけると、襖が開き、黒が男の部屋に入ってきた。
男は書いていた書類をまとめ、ファイルに綴じる。そして、棚に戻すと、椅子を回し、振り返った。
「お腹、大丈夫か。そうだ、体重を測っておけばよかったな」
男は笑みを浮かべたが、黒は真剣な眼差しで男を見つめていた。
「なんだ、しょうがないなぁ。特別だぞ」
男は引き出しから即席麺を出す。
「あさぎに叱られないよう、隠れて食おう」
黒が目を輝かせた。
「いやっほう。先生、お湯を用意してくるよ」
黒は嬉しそうに声をあげたが、はっと気づいたように男に言った。
「そうじゃないよ、先生」
「え、違うのか」
男は黒に椅子を勧めると向かいあって座る。
「あの、先生・・・」
「言ってごらん、どうぞ」
黒はごくっと息を飲み込んだ。
「先生の武術を教えてください」
「うーん、黒はもう充分に強いぞ。この家を襲ってきた奴ら、十人くらい、黒が倒したんだろう。倒れているのを見たけど、かなり強そうな奴らだったよ」
「でも、母さんは五十人くらい、息も切らずに倒した、まるでドミノ倒しの波が来たみたいに敵が、次々と倒れて行ったんだ」
黒が男を見つめた。
「十人くらいで息を切らしていたらだめなんだ」
男は溜息を漏らすと、黒に言った。
「幸に聞いたか、どうやって五十人を倒したのかって」
「母さんは手を振って歩いていただけだって言った」
男は笑みを浮かべた。
「幸らしい言い方だな。感覚的にはそうなんだけどね」
男はしばらく黒を見つめていたが、やがて口を開いた。
「幸が旅に出る前、叔父さんにね、黒に教えてやって欲しいと言ったんだ、ある動きをさ。でもね、教えるには黒に約束をしてもらわなきゃならない」
「約束・・・」
「誰にも教えないということ、もちろん、白澤さんや白に三毛にもだ。約束を破ったら叔父さんは黒を殺すし、そうなれば、幸は苦しんで自分自身を殺すだろう。三毛も白も、みんなばらばらになってしまう。それでも、叔父さんは黒を殺すし、動きを知った者も殺しに行くよ」
黒は表情をなくし、男の眼をじっと見つめた。
「すぐに返事をしなくても良いよ、じっくり考えなさい」
男は笑みを浮かべた。
黒はしばらくの間、俯いていたが、すっと顔をあげ、笑みを浮かべた。
「黒は誰にも言わないって先生に約束します。だから、教えてください」
男は黒の笑みに、並ならぬ決意を見た。改めて、男は黒や白に三毛が、ここに来るまで、どんな生き方をして来たのか、どれほど、今を大切にしているかを思う。
男は深く溜息をついた。
「黒は叔父さんが無くしてしまったものを、しっかりと持っているのかもしれないな」
男は呟くと、左手を黒の額に添えた。一瞬、黒がうっと声を漏らす。しばらくして男は黒の額から手を戻して言った。
「最初から覚えようとしたら、十年は掛かる。だから、叔父さんが修行して来た分の記憶を黒に転写した。そして、記憶に障壁を作って、外からは見えないようにした」
「わかるかい、黒」
「わかります」
「なら、明日から練習しよう。記憶と体の動きを擦り合わせていかなきゃならない。今晩はもう寝なさい。発熱してしまうかもしれないからさ」
黒は頷くと、初めて、黒は自分から男の手を握った。
「ここで暮らすことができて、本当に幸せです。先生、ありがとう」
一瞬、男は驚いたが、すぐに笑みを浮かべ頷いた。
「こちらこそ、ありがとう。毎日がとっても楽しいよ」
黒はぎゅっと男の手を握り締め、そして、手を離す。
「お休み、黒」
「先生、お休みなさい」
「即席ラーメンはちゃんと、机の引き出しに残しておくよ」
黒がにっと嬉しそうに笑った。

「待ってよ、白」
幸が白の袖を引っ張る。
朝まだき、人影のないこの時間。この角を曲がれば家が見える。幸は、必死になって白を止めていた。
「母さん、一週間ですよ、家を出て。早く家に帰って、白はくつろぎたいです」
「でも、でもさ」
幸はまだ、ホテルでの男に見られた自分の後ろ姿を気にしていた。
「気持ちの整理がな。だって、お父さんに見られてさ、きっと、悪い娘になってしまった、って思っているよ」
「なら、ごめんなさいと言えばいいと思います」
「うわぁ、白、冷たいよ」
白が長い吐息を漏らす。
「本当に母さんは、先生のことになると、とっても子供なんだから」
「まっ、とにかく家に入りなさい。こんなところで騒いでいないでさ」
男はよいしょっと幸を両手で抱きかかえた。
「うひゃぁ、お父さん」
「幸は面白い娘だ」
男が笑った。
「白、お疲れさま。うん、ちょっと表情が大人っぽくなったな。活法が性にあったようだね」
「はい、ありがとうございます」
「黒や三毛も心配していたよ」
白がそっと嬉しそうに笑みを浮かべた。
三人は家に戻ると、男は幸を降ろした。
「うひゃぁ、家だ」
幸が寝転がってばたばたと泳ぎ出す、そして、仰向けになると大の字になって寝転がってしまった。
「母さんはなぁ・・・」
白が溜息をついた。
「白姉ちゃん」
三毛があたふたやってくると、白に抱きついた。
「お帰り、白姉ちゃん」
「ただいま、元気にしてた」
「うん」
三毛が笑顔でうなずいた。
「黒姉ちゃんは梅林で修行。啓子さんとあさぎ姉さんとあかねちゃんは、畑で収穫しているよ」
男はデジカメと三脚を持ってくると、幸に声をかけた。
「幸、起きなさい。写真を撮ろう」
「え、写真」
「あぁ、家族写真だ、もうすぐ、佳奈さんと洋品店のおばさんも来るよ」
幸は跳ね上がって起きあがると、満辺の笑みを浮かべた。
「びっくりした。いいの、お父さん」
「いいよ」
男がうなずいた。
「なんか、嬉しいなぁ」
少し、幸が涙ぐんだ。
「ありがとう、お父さん」
「こちらこそ、ありがとう」
男は静かに笑みを浮かべた。
そして、思う。少しでもこの幸せが長く続きますようにと。
20
最終更新日 : 2013-05-11 17:40:22

異形 月の竹 眠るモノ 二話

朝まだき、空気がしんと静まり返っている。
男と黒は、朝の空気の中を梅林の奥深く、ゆっくりと歩いていた。男の片手には、新しいコピー用紙の束がある。

「黒、この辺でいいだろう」
男が立ち止まると、左手を上げ、手のひらを空に向ける。男の手の上に、水球が現れた、その水球はゆっくりと上昇しだし、弾けた。
「水の結界を張った。誰も近づけないようにね」
黒が驚いたように声を出した。
「先生も母さんも呪文唱えずにどうして出来るの」
「幸は説明してなかったかな」
黒が頷いた。
「呪文には二種類ある。幸が清めで詠う寿ぎ歌のように、特定の音の響きとリズム、それ自体が力を持つ呪文。もう一つは神とかのね、力を貸してくださいと依頼するための呪文だ」
「本家の術師達も普通に呪文を唱えていたよ」
「昔は本家にも呪文を唱えない術師がいたんだけどね」
男は地面にあぐらをかくと、紙の束を隣りに置いた。
「力を借りるのでもない、神に憑依されるのでもない、瞬間的に、自分が神様そのものになってしまえば、呪文を唱える必要がない。ただ、問題は人間の体には負担がかかりすぎるってことくらいだな」
「白が言ってた、先生は長く生きられないって言ってたって」
「若い頃、無茶し過ぎたのさ。さて」
男はコピー用紙を一枚取ると、右の手のひらに載せた。
「黒の頭の中には入っているはずだ」
男が黒に笑みを浮かべると同時に、その手のひらに載せた紙が半分に切れ、男の手のひらから落ちて行った。次に男は紙を頭に載せた。滑り落ちるように紙が二枚に別れ落ちて行った。
「呪術ではない、純粋に体術、体の微細な動かし方で、斬るという働きを生みだす。わかるだろう、誰もがこんなことできるようになったら大変だ、うっかり握手も出来ない」
男は笑うと、黒に紙を一枚手渡した。
黒は神妙に紙を受け取ると、そっと、手のひらに載せた。男は立ち上がると、その紙を上からのぞき込んだ。
「なかなかね、理屈はわかっていても難しいものだ」
「先生」
「ん・・・」
「先生、死なないでください。母さんが悲しみます、黒も悲しい、みんな、泣いてしまいます」
男がふっと笑みを浮かべた。
「ありがと。黒に泣かれたら大変だ、おじさん、頑張るよ」


幸は白を部屋の真ん中に立たせると、じっと見つめながら白の回りを廻る。三毛も隣りで不思議そうに幸を眺めていた。
「母さん、何ですか。急に」
あかねがふとそんな様子に気づき、部屋に入って来た。
「あぁ、ちょうどいいや。あかねちゃん、白は何年生に見える」
「え、白さんですか」
「うん、あかねちゃんと同じくらいかな」
「ですね。背丈、顔付き。白さんくらいの子、多いですよ」
「なら、中学二年生にしよう」
幸はぼぉっと眺めていた三毛に近寄ると、
「三毛は小学六年。なら、黒は中学三年ってことにするかな」
「どうしたんですか、幸さん」
あかねが不思議そうに尋ねた。
「武術も一通り教えたし、次は学校へ通わせようかってね、思ったんだ。それで、見た目の年齢に合わせて日本国籍を取らせようって思う、真っ当な方法じゃないけど」
幸はいたずらっぽく白に笑いかけた。
「白、大学の医学部に入って医者になってみるか」
「え・・・」
茫然とした表情で白は幸を見つめた。
「本当にいいの」
幸が柔らかく笑みを浮かべる。
「武術や呪術の練習は欠かしてはだめ、自分の身は自分で守れるようじゃないとね。その上で、勉強をして、生命を救う仕事をしたいというなら、それは有りだ」
幸は突っ立ったままの白の前で足を崩して座ると、顔を上げ、真っすぐに白を見つめた。
「武術や呪術を教えたのは、身を守るためだ。白や黒や三毛を、使って何かをしようなんてことは全く考えていない。家族だから、一緒に暮らしている、大切だから、こうして、一緒に生きているんだ。わかるかな、白」
白は言葉が出ず、ただただ、うなずいた。幸は笑みを浮かべると、今度は三毛を見つめた。
「三毛はどうする」
「そんなの、思いつかないよ、母さん」
「思いつかない、それも有りだよ」
幸は立ち上がると、梅林の方向に目を向ける。
「黒はどうするのかなぁ」

「先生、切れた、切れたよ」
黒が驚いた声で男に言った。
「なかなか優秀だな」
男は切れた紙の断面を睨んだ。
「少しざらついているけれど、でも、奇麗に切れている」
黒が嬉しそうに笑った。
次に男は小脇にコピー用紙の束を抱え、黒から三メートルほど離れた。
「紙を黒に向けて飛ばすからね、しっかり、切るように」
「はい」
黒が元気良く答えた。
男が紙を一枚取り出す、それをふわっと地面と平行に浮かせた。そして、とんと紙の後ろを指先で押す。すいっと紙が空を滑って行く。黒がそれに合わせて、右半身に構えた。右手で上段、左手で中段を守る。すっと紙が黒の右手の寸前で二つに切れ地面に落ちた。
「要領は飲み込めたようだね。なら、連続して攻撃するよ」
黒が頷くのを確認して、男は次々と、白い紙を繰り出す。そして、黒の寸前で、幾つもの裁断された紙が渦を成して行く。
黒に目に見える動きはない。しかし、黒の微細な動きに呼応して空気が小刻みに震える。
男は手元に残った紙が十枚、確認すると、まるで空中に書類棚があるかのように、すっすっと紙を上から下へと並べて行く。
「十枚同時に行くぞ」
「はいっ」
黒が鋭く答えた。
男が紙の後ろを手のひらで押した。
ぶわっと十枚の紙が黒の頭の上から、足元まで斬り込むように飛んで来る。黒がうっと声を漏らした。
紙が一枚、黒の目の前、一ミリにも満たない距離で停まっている。男が紙の後ろを摘まんで笑っていた。
男は紙を手に戻して言った。
「九割がた大丈夫。あとは移動しながらでも使えるようになれればいいな。もともと、多人数相手のものだからね」
「先生・・・」
黒が呟くように言った。
男がいたずらげに笑った。
「頭、斬られたら生きてないよな」
黒がそっと頷いた。
男は結界を解くと、涼しい風が流れ込んで来た。
「さてと」
男は呟くと、辺りに散らばった紙切れを拾い始めた。慌てて、黒も従う。
「あかねちゃんはね、真面目すぎるというか、潔癖症のところがあるからな。散らかっていたら叱られてしまうぞ」
「あかねちゃんが」
黒が男に聞き返した。
「あかねちゃんの気配が近づいているってことだよ」
男が笑った。
おおよそ、紙切れを二人がまとめ終わった頃、あかねが大きな紙袋を持ってやってきた。
「おじさん、黒さん。お昼ですよ」
あかねが男に紙袋を手渡した。
「幸お姉ちゃんからです」
「ありがとう」
男は紙袋を受け取ると、紙切れを仕舞い込んだ。
「当分、メモ用紙には不自由しないな」
あかねは笑みを浮かべると、黒に声をかけた。
「黒さん、強くなりましたか」
「え・・・」
黒は一瞬、質問の意図が掴めず、きょとんとしてしまった。
男は、腰を落とすと、あかねに話しかけた。
「黒に教えてくれないかな、含みと流し。おじさんでは身長が違いすぎて教えづらいんだ」
「いいですよ」
あかねはあっさりと答えると、黒の正面に立った。
「あかねちゃん、武術できるの」
黒が不思議そうに呟いた。あかねが楽しそうに、しかし、少し意地悪に笑みを浮かべた。
「黒さんたちには、鬼から助けていただいた恩があります。だから」
あかねが右足を数ミリ、前に送る。
「できるだけ手加減してあげます」

体中草だらけになる、息も絶え絶えとはこういうことを指すのか、黒は激しく息をし、ぎゅっとあかねを見つめた。
「黒さん、いい眼ですよ」
あかねはふらっと突っ立っているだけだ。
黒は一気に間合いをせまめると、一閃、あかねの左側頭部に右回し蹴りをいれた、最短距離を疾る突きのような蹴りだ。一瞬、黒はにっと笑うあかねの顔が視界一杯に見えた気がした。
青い空、あかねの右手のひらが柔らかく黒の顎を捉え、黒が背中から落ちた、後頭部を打たないよう、あかねの左手は黒の首筋を支えている。
「これが流しです。そして、さっきの黒さんの突きを溶かしたのが含みです」
あかねは黒の手を取ると、すっと立ち上がらせた。
「黒さんの筋肉、随分、参ってますね。これくらいにしましょう」
「ま、まだ、大丈夫」
男が後ろからすっと黒を抱え上げた。
「気持ちが折れてなければ良し。あさぎに遅いって叱られるぞ」
「で、でも」
「黒はあかねちゃんの動きをしっかり見ただろう、あとは、どうすれば同じ動きができるかしっかり自分で考えなさい。おじさんの教えた動きとあかねちゃんのを合わせれば、どんな動きになるかわかるか」
黒がごくっと息を呑んだ。
「わ、わかるよ。かあさんと同じ動きになる」
男が笑みを浮かべた。
あかねが黒の顔を覗き込んだ
「黒さん、しっかりね」
「う、うん。あかねさん」
あかねがくすぐったそうに笑った。
「ちゃんでいいですよ」?
21
最終更新日 : 2013-05-11 17:41:26

異形 月の竹 眠るモノ 三話

「先生、見回りに行こうよ」
黒が夕食後、男に言った。
「でも、寒いし。行くのやだなぁ」
男がくすぐったそうに笑う。
「もぉ。そんなことじゃ、町を守れないよ」
怒りだす黒が面白くて仕方ないと男が笑った。黒達三人がここに住むようになって一年が過ぎた。裏社会での術師と鬼の戦いは既に鬼の優勢となり、一般の人達 には知らされていないが、術師の目を擦り抜けては鬼達が暗躍し、人々をさらってその血肉を食らっていた。ようやく、この頃になると、一般の人達も鬼を目撃 することとなり、嘘か真かと戸惑いながらも、夜間の外出を控え、また、昼間でも一人で歩くことを避けるようになっていた。
男が台所を覗くと、白があさぎを手伝って洗い物をしている。幸はあかねに数学を教え、それを三毛が覗き込んでいた。
「本当にありがたいことだな」
男は小さく呟くと立ち上がった。
「よし、行くか、黒」
「うん、先生」
「黒姉ちゃん、三毛も行くよ」
三毛は立ち上がると、ぱたぱたと黒の元へ走って来た。
「おとうさん、危ないことしちゃだめだよ」
幸が心配げに立ち上がったが、男は手で制すると笑みを浮かべた。
「大丈夫さ。黒と三毛が居てくれたら安心だ」

夜九時を少し回った頃、以前ならたくさんの車が行き交い騒がしかった表通りも、まばらに車が通るだけとなり、人や自転車は皆無だ。
「黒。駅前の商店街まで行こうか」
「うん。先生は黒が守ってあげるよ」
「それは心強いな」
「先生、三毛も先生を守ります」
「そうか。三毛も強くなったものな」
「ええ、呪術も使えるようになりました」
「一人前だな」
男が三毛の頭を撫でると、嬉しそうに三毛が喉を鳴らした。
冬手前の夜風は冷たい。黒と三毛は男の両脇に並び、ぎゅっと両手で男の腕を抱えるように歩いて行く。
男は初めて気が付いた。
「なんだ、二人とも随分と背が伸びたなぁ」
「三毛は一五〇センチ、黒は一六〇あるよ。白はね、ちょうど間の一五五センチ」
「そうか。初めて会った時はおじさんの腰くらいだったのになぁ」
「成長の度合いが人とは違うみたいです」
三毛が男の顔を見上げた。
「そうか、なら、来年は三メートルくらいになっているかもな」
男が笑うと、黒も一緒になって笑った。

ふと、角を曲がった先に男は人影を見つけた。
微かな街灯の明りにOL姿、会社帰りの女性だということくらいはわかる。
「これは珍しいこともあるもんだ」
「先生。一人歩きは危ないから、声をかけてくるよ」
黒がそう言って走りだそうとする、それを男が止めた。
「黒、送って行きますとか絶対言っちゃだめだぞ。まずは、こんばんは、どうして一人で歩いているのですかって尋ねること。いいかい、わかったかな」
「先生がそう言うなら、そうするよ」
男の笑みを確認し、黒が女に向かって走りだした。
「先生、どうして、黒姉ちゃんに念を押したの」
「ん・・・。すぐにわかるよ」
いたずらげに、男は笑った。
「三毛、すべての存在はそれ固有の振動数を持っている。それを読み解くことができれば、顔を見なくても誰だか、簡単に解るのさ。つまりは送って行くには遠すぎるよ」

「うわぁぁっ」
一瞬の悲鳴が聞こえた。
女の顔を見た黒は、悲鳴をあげた後、脚を震わせ今にも倒れそうになっている。
「しっかり。ぐっとお腹に力を入れなさい」
男は歩きながら、黒に声をかけた。
「左足、半歩前、相手の目の下辺りをぎゅっと睨みつける、気持ちで勝ちなさい」
三毛は何が起こったのかわからす、黒へと走り出しかけたが、それを男が止めた。
黒は歯を食いしばると、女を睨みつけた。
男は黒のすぐ隣りまで来ると、嬉しそうににっと笑った。
「かっこ良かったそ、黒。さっ、おじさんの後ろに隠れな」
まさしく、脱兎の如く、黒は男の背中に隠れると息喘いだ。

「かぐやのなよたけの姫。鬼族の国は三つに分かれていると聞きますが、そのひとつの女王が何ゆえ、こちらに」
男がさしてかしこまった風もなく、女に声をかけた。
「何処かで会ったかな」
「ええ、一度」
男は自分の首の前で、人差し指をすっと横に切った。
「まだ、少し、傷が残っているようですね」
いきなりなよたけの姫は男を睨みつけると、間合いを開け、数歩下がる、そして右腕を鋭く振った。空気が裂ける。刃、銀色の輝きが男の顔を貫く。
「先生」
黒が叫んだ。
男は左手の甲で刃が貫くのを制していた。
「斬る動作は同時に防御にもなる。黒、便利だろう」
男は笑うと、ぎゅっと目を瞑って縮こまっている三毛に声をかけた。
「三毛。おじさんの頑張っているところを見ておいてくれ」
はっと気づいたように三毛が顔を上げた。
長細い帯のような刃が、なよたけの姫の手を離れ、男の手を貫こうとしていた。
「自走式刃帯儀、元はただの絹の帯だ。こんな由緒ある技に出会うのは久しぶりだな」
いきなり、帯の反対側が繰り出し、螺旋に男の首へと、いや、ほんの数ミリ逸れ、夜陰を引き裂いた。
「黒、三毛。良く覚えておきなさい。全ての存在は特定の振動を持つ。その振動をフーリエ解析により、サイン波に分解する。それを利用して、擬似振動数を作 るんだ、そうすれば対象を共鳴させ、こちらが充分強ければ、そいつを操ることが出来る。でも、弱ければ逆転されてしまうけどね」
なよたけの姫が目を見開いた。雑音、意味不明の音がなよたけの姫の口から発せられる。
「これは中間言語による呪文の詠唱。人の言葉での呪文の詠唱は、どんなに頑張っても、本来の効果の七割程。でも、中間言語なら九割は期待出来る。今夜は良い勉強になるなぁ」
男の解説に黒と三毛の二人は、恐怖も忘れ、耳を傾けた。
「でも、この辺りが焦土になっては大変だな」
ふっと男の姿が前方に倒れかけた瞬間、男はなよたけの姫の懐に入り、右手で首と頭の狭間を抑える、一瞬、なよたけの姫が気絶したところを、その膝の裏を払い、なよたけの姫に尻餅をつかせた。

「わしの負けだ、殺すなら殺せ」
すぐに意識を取り戻したなよたけの姫が男に悪態をついた。
「私は勝ったから殺す、負けたから殺されるというような、難儀な世界には生きておりませんので、困ったな」
その瞬間、ぐぅぅっとなよたけの姫のお腹が鳴った。恥じ入るように俯く。
「高貴な人は大変だ」
男はふっと商店街の方角を見つめ、そして黒と三毛の二人に声をかけた。
「いま、佳奈さんに連絡をとったよ。商店街の中華屋さんが、まだ、開いているらしい。ラーメンでも食おう」
「ほんと、いいの」
「餃子もいいですか」
「いいよ。でも、幸やあさぎには内緒だぞ」
「やっほぉ、ラーメン、ラーメン」
「と、言うことで、黒、三毛、二人でなよたけさんに肩を貸してやってくれ」
「ええっ」
踊っていた二人が硬直した。

極度に緊張した黒と三毛が、なよたけの姫に肩を貸し、左右並んで歩く。その後ろを男が歩いていた。
肩を預けたまま、なよたけの姫がにぃぃと黒に笑いかけた。
「美味そうな子猫だのぉ。頭を半分に割って、脳みそを匙ですくうて食せば、どれほど美味かろう。滋養もあるであろうなぁ」
「先生」
半泣きになりながら、黒が叫んだ。
「頑張れ、黒。根性を見せてみろ」
男は楽しそうに答えた。
「そちらの三毛猫は、腕と足を網で焼いてたれをつければ絶品じゃ。肉も柔らかそうじゃ」
三毛が息を飲んだ。
「妹はだめ」
黒が叫んだ。

商店街に入り、中華店の前、佳奈が心配そうに三人を待っていた。
「先生、なんだよ。急にさ」
「悪いね、おもしろい人と会ってさ、一緒にご飯を食べようって話になってね」
佳奈は、二人に支えられているなよたけの姫に気づくと、男に言った。
「どうしたんだい、この人。具合悪いなら、うちの車で病院、連れて行こうか」
「腹一杯食えば元気になるさ」
男は笑った。
五人は連れだって中華店に入ると、テーブルについた。
「佳奈さん、この期時世だ、帰らないと、家の人、心配するだろう」
「大丈夫さ、明りのあるアーケードの下だし、それに先生なら鬼だってやっけてしまうだろう」
「勘弁してくれよ、争いは苦手だよ。それより、すぐにできるものから頼もうかな」
「まずはビールじゃ」
いきなりなよたけの姫が浮き浮きと声を上げた。
「亭主。まずはビール二本。それから、大至急、餃子を十人前、持って参れ」
「はーい」
このところの鬼騒動で客足がさっぱりだったのだろう、久しぶりの上客に、亭主は笑顔を浮かべた。
「黒、三毛。好きなの、頼みなさい」
「ラーメン定食とからあげ」
黒が嬉しげに声を上げた。
「な、三毛はどうする」
黒が楽しそうに笑った。食べ物を前に、それまでの恐怖をすっかり忘れてしまったようだ。
「それじゃ、天津飯をお願いします。先生はどうしますか」
「そうだな。晩御飯を食べた後だし、みんなでつまめるものがいいな」
ふと、男は入り口を眺めた。
「黒、任せたよ。適当に頼んでくれ。おじさん、ちょっと、外に出る、すぐに戻るからさ」

男が外に出ると、幸が少し俯いて立っていた。
「お父さん、お財布、持って来たよ」
「ごめん。小銭しか持ってなかったよ。父さん、だめだなぁ」
幸が少し顔を上げる、涙を流していた。
いきなり、幸は男にしがみつき、ぎゅっと顔を男の胸に押し当てた。
「お父さん、力を使わないで、命を削ってしまわないで。幸はずっと、ずっと、お父さんと一緒にいたいよ」
「ありがとう、幸」
男は幸をそっと抱き締めた。
「幸は泣いている顔も可愛いけれど、父さん、幸の笑顔が一番好きだ。だって、笑顔は幸が幸せだってことだからさ」
男は幸をぎゅっと力強く抱き締めた。
「だから、ごめんね、幸。泣かせてしまって」

しばらくして男が中華店に戻ると、既にテーブルの上はビール瓶一ダースと料理で一杯になっていた。
「おや、佳奈さんも飲んでいるのかい、亭主殿に叱られるよ」
ごくりとなよたけの姫がビールを飲み干し笑った。
「お前の娘たちは未成年だからな、佳奈に相手をしてもらっておる。酒は一人で飲んでおってもつまらん」
「なんだか、なよたけさん。すっかり馴染んでおられるようで」
男が困り顔で言った。
「佳奈は気風のいい、姐御肌のいい女じゃ」
「何言ってんですよ。なよたけさんだって。いい女ですよ」
酔っ払い二人がお互いを誉めあっている、男は溜息をつくと椅子に座った。
黒は食べてさえいれば幸せなのか、嬉々とラーメンを啜っていた。
「先生。黒姉ちゃんが先生の分で春巻きや春雨のサラダを頼んでいました」
「そうか。おじさんはあっさりしたのがいいから、ちょうどいいな。そうだ、お土産を持って帰らないと、白に叱られてしまうな」
「あとで持ち帰りを注文しましょう」
三毛はそう言うと、天津飯を美味しそうに食べ出した。しかし、ふと、男を見つめて小さく呟いた。
「ごめんなさい」
男は面白そうに、そっと笑みを浮かべた。
「三人とも、あかねちゃんを救い出すときに、なよたけの姫に散々脅されたようだな。まだ、鬼の中では、話のわかる人なんだけどね。なよたけの姫は角のない鬼だし」
「先生」
三毛が食べるのをやめて男に話しかけた。
「鬼っていったい何なんですか」
「それは難しい問題だな。人とは何なのか、人の定義と同じくらいめんどくさいな。ただ、昔話のように、鬼は人間と同じように二足歩行で、角があって、というのは、正確ではないし、また、鬼は一つの種でもない。あえて言うなら鬼の世界に住んでいる人達ってことかな」
三毛が頷いた。
「十メートルを超えるような大きな奴から、なよたけの姫のように人とまったく変わらない鬼もいる、あぁ、でも、共通して鬼は性格が悪いけどね」
「あぁ、何か言ったか」
なよたけの姫がビール瓶を片手に男に声をかけた。
「鬼の解説ですよ。なよたけの姫は性格が悪いと、この子に教えておきました」
「どうも、お前は正直すぎるな。そういう時は、言葉を濁しておけ」
男がくすぐったそうに笑った。
「性格が悪いのは否定なさらない」
「長く生きて、性格が良いままのわけあるか」
「月の人として、かぐや姫のまま、月にお帰りになればよかったのに。好いた相手が鬼であったとはね」
ふいに興味深そうに、なよたけの姫が男をじっと見据えた。
「ただのエキストラのような振りをしているが、お前、どこまで知っておる」
「わりと・・・」
にっといたずらけに男は笑った。
「ええっ、なよたけさんってかぐや姫なんですか」
いきなり、佳奈が声を上げた。
「そうじゃ。当時の帝もわしにぞっこんじゃった。懐かしいのぉ」
「なよたけさん、綺麗ですもんねぇ」
「いやいや、佳奈も美人じゃ。これだけの美人はそうはおらんぞ」
「いやですよ、美人のなよたけさんにそんなこと言われたら照れてしまいますよぉ」
男は三毛に呟いた。
「酒は飲んじゃだめだぞ。大人になってもね」
「はい。必ず」

中華店のドアが開いた。
「先生、手伝いに来たよ」
恵子が店に入って来た。
「やぁ、恵子さん。幸が頼んでくれたようだね」
恵子は三毛の隣に座った。
「酔っ払いと荷物で大変だろうからって」
「まっ、そうだね。佳奈さんは家に送って行って、なよたけさんにはうちに泊まってもらうかな」
「なよたけさん・・・」
えっと、息を飲み、恵子は酔っ払いの一人を見つめた。
「う、うわっ。あれ、かぐやのなよたけの姫じゃないですかっ」
椅子から飛び上がると、恵子は男の後ろに隠れた。
「特S級の鬼ですよ。どうして、ここに」
「さっき道であってさ、一緒に飯食いますかってことでね」
「先生」
「ん」
「友達は選んだ方がいいですよぉ」
男がくすぐったそうに笑った。
なよたけの姫は足元おぼつかなく立ち上がると、ゆらゆらと歩き、恵子に近寄って、その顔をのぞき込んだ。
「お前はわしのことを知っておるのか」
「は、はいっ」
「ふむ、その態度、確かにそうじゃろうな」
なよたけの姫はばしっとテーブルを叩くと男を睨みつけた。
「わしのことを知っておる人間は普通、こういう態度をとるものじゃ、恐れおののいて命乞いをする。お前はなんじゃ。あまりにも平気な顔をしておるから、わしも、己がそう云う存在であることを見失っておったわ」
男はいたずらげに笑みを浮かべた。
「威嚇したり、相手を押さえ付けようという関係よりも、この方が楽しいでしょう」
一瞬、なよたけの姫は呆れたように男を眺めたが、
「まぁ、そうではあるわな。しかし、調子が狂うのぉ」
小さく呟いた。

顔面蒼白の恵子の後ろを、両手に持ち帰りのギョウザや空揚げの袋をもち、浮き浮きと歩く黒。三毛は男の横を、その上着の裾を握って歩く。佳奈を自宅に送り届けた後、五人は夜道を家路へと歩いていた。
恵子が背負っているのはかぐやのなよたけの姫。決して重くはないのだが、大量の脂汗をかいていた。
「お前の肉は堅そうだのぉ」
「は、はい。食用には適しておりませんです」
「しかし、その耳たぶは柔らかくてうまそうじゃ」
なよたけの姫が意地悪く笑い、恵子に囁いた。
「どれ、ひとつ、食してやろうぞ」
「か、勘弁してくださいっ。先生」
恵子がたまらず叫んだ。
男は楽しそうに笑うと、少し歩を早め、なよたけの姫の後ろ頭を軽くこつんと叩いた。
「うちの大事な娘達に変なトラウマを刻まないでください」
なよたけの姫は頭に手をやると、小声で拗ねたように文句を言う。
「この一千年以上、頭を叩かれたのは初めてじゃ」

角を曲がり、家が見える。
幸と白が家の前で出迎えていた。
黒は駆け出すと白に声をかけた。
「白。お土産だよ。いっぱい、買ってもらったよ」
「お姉ちゃん、お帰り。あっ」
白が空を見上げた。
なよたけの姫が虚空に飛ぶ。標的は幸。幾十もの自走式刃帯儀が分厚い束になり闇を白くつんざいた。
待ち構えていたように、幸が唇の端を歪め笑う。
ふぃっと幸の全身の力が抜け体が前に倒れる、地面に倒れる瞬間、爆発したかのような勢いで刀を抜き、一閃、なよたけの姫が放つ全ての刃帯儀を粉微塵に切り裂いた。
幸の姿が消えた、着地したなよたけの姫の喉元に、既に幸は刃を重ねていた。
なよたけの姫がごくっと息を飲む。
「お客様、ご冗談はほどほどに」
嬉しくてたまらないと、幸はにぃぃっと笑った。
「わしの負けだ」
幸は笑みを浮かべたまま、ゆっくりと頭を横に振る。
「もっと可愛らしくどうぞ」
突き刺すように、なよたけの姫を見つめる。
「ご、ごめんなさい」
引き込むように、口元に幸は笑みを浮かべ、なよたけ姫の耳元に顔を近づけ囁いた。
「どういたしまして」

幸は刀を消すと、男に声をかけた。
「お父さん、お帰りなさい」
「ただいま。なんだ、幸はなよたけさんと案外気が合いそうだな」
ふんと鼻を鳴らすと、なよたけの姫は少し俯いた。
「やっかみ半分でお前の娘を攻撃したが、まさか、手も足も出んとは思わなかった」
「やっかみですか」
「お前の娘が幸なのだろう。あかねは、わしの後継ぎよりも、幸という女と暮らすのだと一歩も引かなかった」

「どうしたの、あかねちゃん」
あさぎが落ち着かずにいるあかねを心配して、声をかけた。
あかねには珍しく、狼狽して、台所と居間を行ったり来たりする。
「なんでもない・・・、というか、なんでもあるんですけど」
いきなり、あかねは納戸を開け入りかけたが、頭を振り、台所に戻ると、テーブルについた。
「はっきりさせなきゃ」
あかねは椅子に座ると大きく深呼吸した。
「はい、どうぞ」
あさぎはコップに水を入れ、あかねに差し出した。
「ありがとう、あさぎ姉さん」
「ただいま」
黒の元気な声が玄関口から響いた。たたっと走る音。黒が台所へと飛び込んで来、テーブルに包みを置いた。
「先生が買ってくれたよ。ギョウザ、シュウマイ、空揚げも」
あさぎは困ったように笑みを浮かべると、黒に言った。
「今晩は遅いからだめだよ。明日、食べよう」
「ええっ」
黒が泣きそうな顔であさぎを見上げる。
「ちょっとだけ、お願い」
「うーん」
「あさぎ姉さぁん」
甘えるように黒は囁くと、上目使いに、じっとあさぎを見つめた。食べ物がかかった、こういう時の黒は、必死で、それがとても可愛い。あさぎは溜息をひとつつくと、笑みを浮かべた。
「本当にちょっとだけだよ」
「うん、約束する」
黒が紙袋を開けていると、なよたけの姫が入って来た。
あかねは椅子から立ち上がると、じっとなよたけに姫を見つめた。
「あかねちゃん、なよたけさんと御飯食べたよ。とっても、恐いけど友達になったよ」
「こいつは、一緒に飯を囲めば打ち解けたと思いよる、単純な、しかし、羨ましい性格だな」
なよたけの姫はテーブルを挟んであかねの前に立つと静かに頭を下げた。
「無理強いをしたこと、悪かったと思う。迷惑かけたな。すまなかった」
「なよたけの姫・・・」
「それを言って置きたかっただけじゃ」
なよたけの姫は踵を返すと、部屋を出ようとした。
「なよたけさん、一緒に風呂に入ろう」
幸は着替えを両手に抱え、顔を出した。
「なんだ、黒。まだ、食うのか。太るぞ」
「ちょっとだけ」
「困った娘だな」
幸は笑うと、なよたけの姫に言った。
「まだ降ろしていない下着だからいいだろう。風呂、沸いてるからさ。アルコール、抜いておかないと二日酔いになるぜ」
「湯は有り難いが、用事があるからな。帰る」
幸は着替えを椅子の上に置くと、なよたけの姫に言った。
「短時間だったから、あまり調べられなかった。なよたけさんの国、攻め落とされたんだろう。なら、ここで暮らそう。一緒に飯食って、一緒に働こう」
「なるほど、確かに親子だな」
なよたけの姫は呆れたように笑みを浮かべると、美味しそうに空揚げを食べる黒を眺めた。たっぷりと空揚げにマヨネーズをかけている。
「こら、黒猫。本当に太るぞ」
なよたけの姫は軽く黒の頭をはたくと、ひとつ大きく溜息をついた。
「絶望、命からがら逃げ出して、何もやる気がなくなって、気づけば、あかねの居る町に来ていた。このまま、野垂れ死にもいいか、長く生き過ぎたなと思っていたところに、間抜けにもこいつが、声をかけて来おった」
なよたけの姫は黒の頭、はたいたところを撫でながら笑った。
「飯食って、酒飲んで、佳奈と喋り倒した。すっかり元気になってな、だから、これから敵討ちに行くことにしたんじゃ」
「敵討ちに・・・」
「あぁ、名前も知らぬ下女の仇を討たねばならん」
男が両手に反物を抱えてやって来た。
「幸。これをなよたけさんに渡していいかな」
「お父さん、それは」
「納戸の奥の柳行李に入れたままにしていた絹の反物だ。昔、本家から逃げ出した時、当座の費用にと、勝手にいただいたまま忘れていたんだよ」
「絹。あ、そうか・・・。お父さん、ありがとう」
幸は気づくと、男から反物を預かった。
「なよたけさん、剣の代りに、これ使って」
幸の手渡す自然さに、思わずなよたけの姫は受け取ったが、改めて男と幸を見つめた。
「わしはこれを使って、お前達の類や、人を殺めるやしれんぞ。いいのか」
幸がにっと笑った。
「しらふのなよたけさんと戦えるのは楽しみだ」
なよたけの姫は幸の自然な表情に思わず笑みを浮かべた。
「綺麗な色だ、ありがとうな」
まるで子供のような、なよたけの姫の笑顔。はっと気づき、慌てて、なよたけの姫は表情を消したが、目ざとく、にぃぃっと幸が引き込むように笑みを浮かべた。
「白、三毛。なよたけさんを笑わせるぞ」
「はいっ」
元気良く、白と三毛が返事した。

最終列車、どうもこの路線は揺れが大きい。
会社帰りの男、コンパ帰りの学生、酔客。吊り革につかまる乗客はなく、座席の三分の二は詰まっている。
なよたけの姫の隣りに白、その隣りには幸が座っていた。
「あの女、啓子とかいう、別れ際にわしの肩を叩きおった、それじゃ、またね。などとほざきおって」
白は必死になって笑いをこらえていた。
「これほどの恥辱は初めてじゃ」
白は気持ちを落ち着かせると、両手でなよたけの姫の手を握った。
「いままでとても恐い方だと思っていました。ごめんなさい」
なよたけの姫は手を引きかけたが、その力を抜くと、ふんと鼻を鳴らした。
「わしは恐ろしい鬼じゃ。ただ、今夜は少しばかり調子が狂っただけじゃ。まずはあの男がいかん。あいつが元凶じゃ」
「今頃、先生、くしゃみをしているかもしれません」
「そもそも、あの男は何者じゃ。わしの攻撃を素手で止めおった」
幸が少し笑った。
「あたしの大切なお父さんであり、夫でもある。それ以外の修飾する言葉はないよ」
「ある程度の実力を持った術者の一覧は既に把握しておる、お前にしても、お前の父親にしても一覧には無かった」
「一覧に載せてもらえないってことは、実力が無いってことだろうな」
幸は笑うと、辺りをゆっくり見渡した。
「電車に乗ったのは正解だったなぁ、余禄が付いてきた」
「花魁道中の儀が使えれば、方違えなどなしに、鬼の世界に戻れるが、もう供の者もおらんからな」
「なぁ、なよたけさん、白とあたしの他に、人はこの電車に乗っているのかな」
嬉しそうに幸が呟いた。
「この電車には人は乗っておらぬようだ。お前達を含めてな」
「何言ってんだよ。あたしも白も人だよ」
前方を眺めながら、幸が囁いた。
乗客全員だろう、次々に三人を取り囲んでくる。他の車両からも、乗客がこの車両に移り込んで来、幸達とは、ほんの一メートルほどの距離を開け、一つの巨大な壁にでもなろうかと、乗客達がにやけた表情を浮かべブロックのように隙間なく固まって行く。

「お前達を巻き込んでしまったな。わしが何とかしよう」
「いや、心臓が無いとはいっても、元は人間たちだ。あたしにさせてくれ。白の勉強材料にちょうど良い」
白は何も答えない。既に恐怖と緊張で叫び出す寸前だった。なよたけの姫の手をぎゅうっと握り締めている。なよたけの姫はなだめるようにもう片方の手を白の両手に載せた。
「良く見ておけ、白。こういう戦い方もある」
幸はゆっくりと立ち上がり、微かに俯いた。
そして、ゆっくり幸が顔を上げた時、まさしく、天女、マリア、観音菩薩、慈愛に満ちた笑顔を幸は浮かべていた。醜く引きつった無数の顔顔、顔の壁に、清らかな笑みを浮かべる。
「子供達よ。心穏やかになさい。もう、苦しまなくて良いのですよ」
幸は中央の顔に焦点を向けた。
「子供達、とても疲れているのですね。心にいくつもの、とげが刺さっているのですね、母はわかります」
ゆっくりと中央の顔の表情が消え、その両方の眼から涙がこぼれて行く、まさしく、母と出会えた幼子のように。
「母が降臨したいま、もう、子供達よ、辛いことはすべて消えました。何もかも忘れ、ゆっくりとお休みなさい。明日の朝日を夢見、ゆっくりとお休みなさい。すべては許されたのです」
幸が緩やかに両手を広げる、まるで、全ての者達を抱こうとするかのように。
ゆっくりと壁が崩れて行き、重なるようにして、眠る人達。どれも安らかな表情で寝息をたてている。
幸は振り返ると、にっと笑った。
「ま、明日がどうなのかなんて知らないんだけどな。はは、な、白、美人は得だろう。白も美人になるぞ」
唖然とする白となよたけの姫。
「さ、詐欺だ」
二人して叫んだ。

最終駅、列車はドアを開けたまま、明かりを消した。まるで、列車までが安らかに眠るように。
三人はホームに降りると、線路に下り、そのまま、線路を元来た方向へと歩き出した。
「このまま、二キロほど、この速さで戻れば、わしの国の入り口じゃ」
「なよたけさん、敵討ちって具体的に何をするつもりなんだ。大量殺戮、一気にかたをつけるかい」
幸がわくわくしたように言う。
「これでも、わしは鬼の側じゃ、そういうことを言うな。わしはお前の弱点もわかっておる。好き勝手にするなよ」
「あたしに弱点。んなもん、あるかよ」
幸はなよたけの姫に振り向くと、にぃいっと笑った。
なよたけの姫は溜息を付くと、白に言った。
「愉快な母親じゃのう」
白は困ったように笑みを浮かべた。
「いつもはとてもいい母さんなんです。でも、先生から離れると、ああいうふうに」
「己のことをあたしと言い出したら、叱ってやってくれとあった」
「え」
「反物に挟んであった手紙じゃ」
なよたけの姫は封筒をひとつ取り出すと、幸に言った。
「あやつは、真、お前を大切に想うておるようじゃのう。呆れるほど、お前の幸せだけを願っておる。お前が普通に楽しく幸せで生きられるよう、己が死んだ後も、お前が家族と共に普通の日常を送って行けるよう腐心しておる。ありがたいものだの」
「お父さん・・・」
すすり泣きだした幸に、なよたけの姫が言った。
「泣くな。泣けば、あやつの思いを涙で流してしまうぞ。すれば、また、この繰り返しじゃ。泣くのを堪えて心に刻み込め」
幸は俯いたまま、うなずくと歯を食いしばった。
「手紙、読むか」
「いい」
幸が俯いたまま答えた。
「帰ってから読む、父さんに心配し過ぎだよって笑って言うから」

闇の中、淡く光を放つ白い靄が見える。まるで壁のように、靄が闇の中に浮かび上がる。
「満月が戦乱の後の故郷を白く照らし出しておる」
なよたけの姫は深い吐息を漏らすと、二人に振り返った。
「わしにはもう、客人をもてなす力はない。つい、流れで同行してもらったが、敵は多いぞ。特に白、お前は戦には不向きじゃ。怪我では済まぬかも知れんぞ。 正直なことを言うと、お前が死ねば、幸は全てを、世界すら葬るかもしれん、出来れば避けたい。わしは、これでも、元は鬼の為政者だからな」
幸は真っすぐに、なよたけの姫を見つめた。
「なに言ってのかなぁ。なよ姉ちゃんは、もっと妹を信頼するべきだな。困った姉ちゃんだ」
にっと幸がなよたけの姫に笑いかけた。
なよたけの姫は不意に大声で笑うと苦しそうに息を吐いた。
「笑わせおる。なんと随分な妹ができたものじゃ」
ふと、なよたけの姫は真面目な顔になると呟いた。
「長く生きていると色々と思いもかけないことがあるものじゃなぁ」
なよたけの姫は気持ちを入れ替えるように、頭を振ると、二人に言った。
「よし。幸、白、ついて来い」


「うひゃぁ、軍隊だ」
幸が小さく呟いた。霧から脱出した、三人の目の前に一個中隊はあるだろう、重火器を構えた兵士達がその砲口を三人へと定めていた。
「白。戦車もこっち向いてるぜ」
「幸母さん、喜び過ぎです」
白が緊張を隠せず震える声で答えた。
なよたけの姫を先頭に幸と白がいる。
「あれ、なよ姉さん。こいつら、自衛隊じゃないか。ってことは人間か」
なよたけの姫は、振り返らず、前方を睨みつけたまま呟いた。
「人の支配者層は、己らの保身のため、既に見切りをつけた、国民を護ることにな」
「ふうん、鬼による事件が増えたのはその所為か」
幸がたいして関心なさそうに頷いた。
そして幸は夜空を見上げると、ひとつ、指を鳴らす。呼応するように、小さな星が四つ生まれ、流れ星のように帯を引き、落ちて行く。
幸は視線を戻すと、小さく呟いた。
「まさしく鬼司令官だな」
なよたけの姫に向き合うように、軍服を身につけた鬼が現れた。人の身長も横幅に対しても一.五倍はあるだろう。
「やはり戻って来たか。かぐやのなよたけの姫。どうだ、根こそぎ民を殺されたその感想は」
見渡すと、国というよりも、時代劇に出てくるような田舎の風景だ。
「開国を拒絶した報いだな」
鬼があざけるように嗤った。
なよたけの姫は、表情の消えた顔を上げ、目の前の鬼を眺めた。
「貧しいが、楽しく生きて来た。電気と化石燃料と貨幣経済を拒絶する生活は却って寄り添い、お互いを大切に生きることができた」
「貴様らがレアメタルの上で暢気に暮らしていたのが命取りとなった、そういうことだ」
なよたけの姫は、それ以上言葉を発することなく、ゆっくりと両手を肩の高さに広げた。
幸は察すると、白を片手に抱え、一瞬にして後方に退いた。
「下賎の鬼、わしを逃した、あの娘も殺したか」
鬼はにやっと笑うと、振り返る。直属の部下だろう、槍を鬼に手渡した。
鬼がかかげる槍の先に、血に赤く染まった少女の頭が、首から切り離され、突き刺さっていた。
「情に深い貴様のことだ、残しておいてやったよ。受け取れ」
鬼が槍を勢いよく振る。少女の首が飛んだ。
瞬間、幸は現れると、少女の首を抱え、手をその首に溶け込ませた。手を抜き、引っ張り出した黒い塊を戦車に向かって投げる。
爆風と轟音が辺りを震撼し、巨大な戦車を横転させた。
「なよ姉さん、あとはまかした」
幸が姿を消した。

「うおぉぉっ」
かぐやのなよたけの姫が咆哮が夜のしんとした空気を震わせる。幸は白を抱え、空に浮かんだ。
「本気のなよ姉さん、凄いな」
幸が呟いた。
無数の刃儀が鬼を兵士を切り裂いていく。
なよたけの姫は地面を飛ぶように移動すると、槍を持ったままの鬼を両断した。すべての砲撃を見事に躱し、武器も兵士も鬼も、迷うことなく細切れに切り裂く、次々と肉の破片が辺りを血の色と共に埋めて行く。
「まるで、ミンチ肉のように」
言いかけて、白が口をつぐんだ。自分の言葉が不謹慎に思えたからだ。
「パン粉と混ぜて、ハンバーグにしても、なんか、まずそうだな」
幸は平気な顔をして笑う。
「なよたけさん、こんなに強いのに」
「ん・・・」
「白、目を見開いて、向こうの血に染まってない地面を見てみろ。黒い線がいくつもあるだろう」
「あります。焦げたみたいな」
「さっき落としておいた、監視衛星と軍事衛星。レーザー光を発射して宇宙から人を焼いてしまう。エネルギーの巨大無駄遣いってやつだ。これは人の技術だ、妙なことになったな」

返り血で血まみれになり、なよたけの姫は、一人、茫然と立ち尽くしていた。
幸と白はなよたけの姫の前に降り立つと、幸は抱いていた少女の首をなよたけの姫に手渡した。
「幸。この娘の名前はなんというのだろうな。わしは身を呈してわしを逃してくれたこの娘の名も知らぬ阿呆じゃ」
なよたけの姫は両腕に少女の首を抱くと、くずれるようにひざまづいた。
「痛かったろうに、怖かったろうに。助けてやれずにすまない」
幸は睨むようになよたけの姫を見つめていたが、小さく息を吐くと、思い詰めたように白を見つめた。
「白。母さんが神になって何処かに行ってしまわないように。しっかりとしがみついていてくれ」
そう言うと、幸はなよたけの姫に優しく声をかけた。
「なよ姉さん。その娘を幸に渡してください」
顔を上げたなよたけの姫の両腕から、少女の首が浮かび上がり、幸は柔らかに少女の首を抱いた。
「幸・・・」
「この娘の魂魄はこの首にいまだ残り、なよ姉さんに逃げてくれと叫んでいます。この娘にもう一度、生命を与えましょう」
幸の両腕が白く輝き出した。
白は幸の体が不意に軽くなったような気がした。慌てて、白は強く幸を抱き締め、幸の背中に顔を埋めた。
「母さん、何処にも行かないで」
白が大声で叫ぶ、なよたけの姫が気づいた。
「幸。お前、神か」
はっと、なよたけの姫は状況を理解すると、幸の両脚をしっかりと抱えた。
少女の体が幸の両腕の中で再生され、実体化して行く。
「母さん、母さん、何処にも行かないで。お願い、一緒にいて」
白が涙声で叫ぶ。
光が消え、幸はそのまま、力をなくし、地面に倒れ込む。なよたけの姫が慌てて、その体を支えた。
「なよ姉さん。この娘が目を覚ましたら、名前を尋ねてやってくれ」
幸が疲れた表情で笑う。
娘が幸の両腕の中ですやすやと眠っていた。
幸はしがみついたまま固まってしまった白に言った。
「白。ありがと・・・」

「おぉい、母さぁん」
黒の声が遠くに聞こえた。
やがて、黒と三毛が走ってやって来た。
「黒姉ちゃん」
白が泣きながら叫んだ。
「大丈夫か、白」
「うん」
黒の後ろで、三毛は茫然と血まみれの地面を見つめた。
「母さん、これは」
「明日はハンバーグだ。美味いぞ」
三毛が大きくひとつ溜息をついて言う。
「だめです。一生、ハンバーグは食べられないかもしれません」
三毛が両手で口を覆った。

「ここがよくわかったな」
幸は笑うと、三毛の背中をさすりながら、辺りを見渡している黒に言った。
「走ってすぐだったよ。先生がぎゅっと白のこと、思って走ったらすぐだよって、教えてくれたんだ」
「そうか。鴨居に結んだ白の髪の毛で道が繋がったのか。帰りはその道を辿ろう」
幸は緩やかに笑みを浮かべると、なよたけの姫に言った。
「なよ姉さん、風呂で洗いっこしよう。姉さんの顔、血糊や涙や鼻水で大変だ」
慌てて、なよたけの姫は袖でごしごしと顔を拭いた。
「あぁ、そうしよう。遠慮はしないようにする」
幸はほっと安心して小さく笑うと、黒に言った。
「黒。なよたけ姉さんを背負ってくれ。三毛はその娘を頼むよ。体が馴染むまでまだ時間がかかるだろう」
「幸。この娘はわしが背負おう。そうしたいのだ」
幸はなよたけの姫の言葉に頷くと、ゆっくりと立ち上がった。
「黒、三毛。なよ姉さんが倒れそうになったら支えてくれ。白は先頭、道案内だ」


闇の中、男は一人、月明かりを頼りに台所で水を飲んでいた、家の中は、すっかり寝静まっている。
なよたけの姫まで、普通の女の子のように、大声で騒ぎながら、風呂を遊び場のように、幸達とはしゃぐ、その声が居間からでも聞こえていた、なよたけの姫の女の子っぽい笑い声にあかねが目を丸くして驚いていたのを男は思い起こす。
「千年の重荷を降ろしたということか」
ふと影が動いた。なよたけの姫だ。
なよたけの姫は、テーブルを挟み、男の前に座った。顔が影になり、細かな表情が伺えない。
「あ、あのな・・・」
なよたけの姫が言葉を選ぶように言う。
「どうぞ」
男が促した。
「幸が言うのだ。わしは幸の姉だ、だから、お前を・・・、お前を父さんと呼んで欲しいとな」
思いもしなかったなよたけの姫の言葉に、男は小声で愉快そうに笑った。
「驚きました」
「だ、だめか・・・」
「いいえ、光栄の至りです。こちらこそ、どうぞ、よろしく」
安心したように、なよたけの姫は息を漏らした。
「それなら、彼女はなよたけさんの娘ということでいいですか。なよたけさんの一番の気掛かりは彼女のこれからでしょう」
「もうひとつある」
「亡くなった人達のことですね」
男が呟くように言った。
「わしも、人の心が声に出して言っているようにわかる。だから聞こえるのだ。魂魄はあの地にそのまま残り、いまも悲鳴をあげ続けている。わしはその魂を鎮めてやらねばならん」
男は優しくなよたけの姫を見つめると、心配げに言った。
「なよ。父さんはお前の心と体が心配だよ。とても、疲れているのがわかるからね」
「でも、お父さん。なよは忘れることができないんだもの」
我慢し切れず、なよたけの姫が小さく笑った。
「我ながらつまらぬ小芝居を。、緊張感がだいなしじゃ」
なよたけの姫は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「ここはいいな。この家に繋がった異界は、和やかで、わしの気持ちも、落ち着く。なぁ、わしは深刻ぶって身を削ろうというのではない。国の責任者としてけじめをつける、ただ、当然のことをするだけじゃ」
足音がした。
幸は少し寝ぼけたふうに、なよたけの姫の隣に座った。
「幸も行くよ。じゃないとなよ姉さん、国に入れないもの」
「そう言えば、国を出る時、なにやら、結界を巡らしておったな」
「レアメタルは新たな戦争を引き起こす元になるから、簡単には入れないようにしたんだ」
そう言いながらも、眠いのだろう、幸がなよたけの姫の肩に体を預ける。
「疲れさせてしまったな。さあ、幸、寝に行こう。起こして悪かったな」
なよたけの姫は幸を支え、ゆっくりと立ち上がった。
「父さんも寝ろ。宵っぱりは体に毒じゃ」
「お休み。もうすぐ寝るよ」
男はなよたけの姫が幸に肩を貸し、寝間に行くのを見送る。
そう言えばと男は黒がはしゃいでいたのを思い出した。
かあさんとなよ姉さんの間に寝るのは、世界で一番安全なところで寝るのと同じだよだとか。
男はふと自分がいなくなった後も、なよたけの姫が居てくれれば安心だと思った。
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最終更新日 : 2013-05-11 17:42:42


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