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異形 流堰迷子は天へと落ちていく四話02

二人の幸は庭の梅林へと戻ってきた。そして、男を仰向けに寝かせ、脳の入った球を空に浮かせる。半透明の幸は、幸に溶け込むようにして消えた。
幸は男の横に膝をつくと、そっと、呼びかけた。
「お父さん、お父さん」
男がゆっくりと目を覚ました。
「あれ・・・、地獄じゃないな。梅林、うちに帰って来たのか」
「お父さん、何処か、痛くない」
「ん、幸。幸は怪我していないか」
「幸は大丈夫だよ」
「そっか」
男は笑みを浮かべると、左に体をずらし、上半身を起こす、慌てて、幸が背中を支えた。
そして囁く。
「ごめんなさい、幸はお父さんを殺してしまいました」
男は左手で自分のお腹に触ってみる。
「ちょっと腹囲が小さくなったかな、ちょっとだけ、かっこよくなったかもな。ありがとう」
「お父さん」
「ん・・・」
「お父さんは幸を叱らないね」
男は困ったように笑みを浮かべた。
「男親はだめだな、叱るという発想が希薄だ。今回のことも父さんがしっかり幸を育てていたらね、こんな、幸自身に辛い思いさせずに済んだのにな」
「お父さんはこのままでいてください。だって、こらぁってお父さんに怒鳴られたら、幸、泣いてしまうよ」
「それは大変だ」
「幸は失敗したら喉が涸れても、ごめんなさいって言い続けるから」
男は左手で幸の頭を撫でる。
「幸はどう行動すればいいか、自分で考えることができる。ただ、今回は昔のことと重なって感情に流されてしまった。でも、そのこと、経験したからね、次は大丈夫だよ。自分自身を信頼してあげなさい」
「お父さん」
幸がそっと顔をあげる。
「幸にはたくさんの友達ができた。それも幸の大きな支えになるよ、きっと」
男は笑顔を浮かべた。
ふと、男は浮かんだままの硝子球に入った脳を見た。
「彼女をなんとかしなきゃな」
幸は振り返ると、硝子球を見る。
「幸が彼女の体を創るよ」
「三位全てがなくなってしまっている、難しいぞ。といって元の体はたくさんの人を殺してしまって穢れてしまっているから使えない、脳まで穢れに侵されてしまう」
「うん、でも、今の幸なら出来そうな気がするんだ」
幸はゆっくりと立ち上がると、硝子球に近づく。
幸が両手を伸ばし、硝子球に向ける。ゆっくりと硝子球が月の白い輝きを放ち出した。
男は驚いてそれを見つめた。次第に白い輝きは人の形を取り出し、その光が消える頃、あの時の彼女をほんの少し幼くした女性が立っていた。
男は驚いたようによろけながら立ち上がった。呪的に構成された体じゃない。あれは、全く、普通の人間だ。
ゼロから体を創ったのか。
「お父さん、彼女の精神が子供に退行していたから、体も少し幼くしてみたよ」
幸が男にそう話しかけた瞬間、ふわっと幸の体が浮かんだ、目を閉じ、幸がゆっくりと浮かび上がって行く。
男は駆け出すと、飛び上がり、左手で幸を抱き締める、しかし、幸の体を男の手は擦り抜けてしまった。
男は茫然と空に浮かぶ幸をぎょしした、全てを理解した。
声にならない音を男は幸に叫んだ。
幸の真の名前。そして、唯一の願いを叫ぶ。
「帰って来てくれ、幸」
幸の目が開き、男をぐっと睨みつける、そのまま、急降下、落ちてくる幸を男は抱きとめ、仰向けに倒れた。
幸は男の上にのしかかったまま、低く男に語りかけた。
「神に戻るはずの私はあなたさまの我欲により、その機会を失ってしまいました。私はもはや神に戻ることは出来ませぬ、私はあなたさまの娘という、あやふやな立場に閉じ込められてしまいました」
「君には申し訳ない、どうしても幸と別れたくなかったんだ」
「それがあなたさまの我欲。今となってはどうしようもありませぬ。さぁ、あなたさまの責任の著しを言の葉になさいませ」
男は決意して言った。
「私の妻になってくれ」
幸はふっと笑みを浮かべた。
「あなたさまの我欲により私は留まります、やっと、幸も私もあなたさまの妻になることができたと嬉しくて仕方がありません。どうぞ、末長く、よろしくお願い致します」
言葉を終えると、幸が二人に別れた。薄い姿の幸が、男と幸の横に座る。
「幸、日中から、仰向けの殿方に馬乗りするとは、はしたないですよ」
薄い姿の幸が幸に笑った。

男は一つ溜息をつくと、二人の幸を前にして語り出した。
「幸はもともとは神様だったのだろうと思う。武術や呪術が父さんの能力を遥かに越えたのも、神と人との基礎能力が遥かに違うからだ。その幸が、彼女の体を 全くのゼロから創り出した。全くの無から有を産みだす、これこそが神の能力だ、この能力を使ったため、幸は自然に神へと、あまねく普遍の存在に変わって行 こうとした」
薄い姿の幸が笑みを浮かべた。
「真実の名前を叫んで、留めていただかなければ大変なことになるところでしたわ」
「あまねく普遍の存在、それは」
男の言葉を薄い姿の幸が繋いだ。
「空気みたいなもの、こうして、お喋りも出来ません」
幸も男と同じ溜息を一つつく。
「貴方は無茶だよ。もしも」
「無茶ではありませんよ。留めてくださると確信しておりましたから」
ふと、気づいたように薄い姿の幸は男を見つめた。
「貴方か・・・。私は幸の別人格ではありますが、こうして体外に出、空気中の粒子を集めて、薄いながらも形どることが出来るようになりました。おまえさ ま、私にも名前をつけてくださいませ。おまえさまが幸に甘い分、私は、たまに幸から出でて、叱り付けなければなりません。そうだ、幸と似たような名前が良 いですわ」
男は困ったが、あらがえずに言った。
「幸乃、にしましょう」
「ありがとうございます、素敵な名前ですわ」
幸乃は男に笑みを浮かべると、振り向き、幸に言った。
「疲れました、私は貴方の中に戻って当分の間、眠りますが、妻として、娘として、しっかり、お父様を支えるのですよ、わかりましたね」
「は、はいっ」
幸乃は、にっと笑うとそのまま、姿を消した。幸はそっと幸乃のいたところに、ふわふわと手を動かしてみる。
「うひぃ、大変だ」
緊張の解けた幸が叫んだ
「もう多重人格どころか、多重人間になってしまったよ」
「父さんの代わりに幸を叱ってくれる人が出来てしまったな」
男がくすぐったそうに笑った。足を投げ出し、幸も情けなさそうに笑う。
「あの人に、幸乃さんによろしいですねって言われると、反射的にはいっって答えてしまう」
「父さんは、以前から、少しずつだけどね、喋っていたけれど、淑やかな、控えめな人に思っていた」
「それは猫かぶっていただけ。幸乃さんは強いよ、幸があんな世界で百年以上、狂わずにいることができたのも、今の幸乃さんという人格と暮らしていたからかもしれない」
幸はごく自然に男を抱き締めると、耳元で囁いた。
「ね、お父さん、今晩、えっちしようか」
「うっ・・・」
男は幸の言葉に固まってしまった。顔が真っ赤にほてり出す。
「夫婦だもの、妻として不思議じゃないよ。幸、とっても気持ち良くしてあげるよ」
「いや、あの、うーん」
男が口ごもる。
「むしゃむしゃ、お父さんを食べちゃうぞ」
「いや、そうだ、確かに父さんは妻になってくれと言った。そうだ、確かにそう言った・・・」
男は自分に納得させようと呟く。
幸は笑いながら、体を離した。
「幸はね、お父さんに要求されたらすぐに受け入れる。だって、本当に愛しているもの。でも、なんていうかな、幸はお父さんにとって特別の存在でありたい。 そう思うと、えっちをしない方がいいのかななんて思う。お父さんにもっと近づきたい、服のその厚みすら邪魔だと思うくらいなんだけどなぁ」
「幸がこんなおっさんを愛していると言ってくれるのはとても嬉しい。ただ、父さんは暗殺者としてたくさんの人達を殺して来た過去がある。殺人鬼と忌み嫌われた時代もあった。すっかり穢れているんだ、父さんは」
幸はにっと笑うと男の左手を両手で包み込んだ。
「ならば、その穢れ。半分、幸が担いましょう」
「いや、大切な娘を汚すわけにはいかない」
「お父さんの頑固者」
「そうさ、父さんは頑固です」
「開き直ったな」
幸が楽しそうに笑った。
「お父さんは幸を妻にすると約束しました。ただ、幸も体を許してしまうと、夫は出来ても、お父さんがいなくなってしまうようでなんだか寂しい。ということ で、本来なら、幸のやりたい放題ですが、幸は優しい娘です、妥協してあげましょう。御風呂を大きくして大人二人が寛げるように明日から工事します。完成 後、裸のお付き合い、背中の流しっこもします。これ以上は譲れません。よろしいですか、よろしいですね」
「わ、わかった・・・」
幸は男に抱き着くと、くすぐったそうに笑った。
しかし、ふっと笑い声を止め、幸はぎゅっと男を強く抱き締めた。
「お父さんを殺してしまったって気づいた時、あぁもうだめだ、幸はなんてことをしてしまったんだって思った。そして、頭が真っ白になって何をどうしたらいいのかもわからなくなったんだ」
「父さんは幸が立ち直ってくれるかな、啓子さんやあかねちゃんたちとしっかり生きていって欲しいと思いながら死んだ、それだけが気掛かりだった」
「お父さんは優しすぎるよ」
幸が唇をかむ。
「それは仕方ない、幸が大切なのは変わらないからさ」
「幸乃さんが初めて幸の前に現れたんだ、叱られて、それから、人工呼吸やお父さんの内蔵を修復するようにって教えてくれた。お父さん、ほんとうにごめんなさい」
「これは、父さんも幸乃さんに頭が上がらないな」
男は少し笑う。
「ね、お父さん、新しい右腕、作ってあげようか。今の幸なら出来るよ」
思い詰めた顔で幸は男の目を見つめた。
「右腕は幸とこれからも一緒に暮らすためになくしたもの、だから、右腕はなくていいよ」
「幸はお父さんに右腕があってもずっとお父さんといるよ」
「ありがとう。でも、その時の思いに、今も誠実でありたいからさ。それとも、幸は、父さんに右腕がないの嫌か。辛いこと、思い出してしまうから嫌か」
「嫌じゃない。ただ、お父さんは幸にとっても甘いくせに、自分にはとっても厳しい」
「かっこつけているだけさ。だって、幸にかっこいい父親って思われたいからな」
男はそっと笑みを浮かべると、左手で幸の頭をなでた。
「今回のことで父さん、思った」
「何を」
「呪的な延命はしないけど、それでもね、長生きして幸とこれからも暮らし続けたいってね。死んだままにならなくて良かった」
「幸はこれからはね、負の感情に流されずにするよ。感情に溺れずにしっかりするよ」
男はくすぐったそうに笑った。
「よろしくお願いします。もう、父さんじゃ、幸の暴走を止められないからさ。さてと、幸。恵さんをなんとかしてくれ」
「うん」
幸はふと立ち上がると、眠ったままの恵を抱きかかえ、戻って来た。
「お父さん、ここで一緒に暮らすのがいいのかな」
「いずれは彼女も記憶が甦るだろう、それまでは心と体を養生させる必要があるだろうな。だから、彼女が戻りたいと思うまではここにいる方がいいだろう」
「そっか、そうだよね」
幸は恵を見つめると、彼女の耳元で声をかけた。
「おおい、目を覚ませ」
幸の呼びかけに恵がゆっくりと目を開ける。
「約束どおり、青空の下だ。見えるか」
「明るい、空が青いよぉ」
笑みを浮かべる恵の瞳が涙で潤む。
ふと、男は坂村が畑からこちらにやって来るのを見た。
「先生、そろそろ、鍋の準備しないと」
幸の膝に裸の女がいるのに気づく。
「まっ、大概のことには驚きませんけど」
坂村が恵の顔を覗き込んだ。
「あれ、恵だ」
幸は見上げると坂村に尋ねた。
「知り合いなの」
「大学の時の、一つ下の後輩です、クラブが一緒で」
幸は男を見つめた。
「そうだな、人を闇に追いやる一連の仕組みが、その大学にあるのかもしれない」
幸は溜息をついた。
「お父さんと静かな生活を送りたいのに」
「父さん、幸に付き合うよ。でも、今は鍋のこと、考えさせてくれ。こんなにお腹が減っているのは初めてだからさ」
幸は男の内蔵を再生させた時、老廃物をすべて消したことを思い出した。
「うわっ、すぐに用意するよ。恵子さん、恵さんをお願い」
幸は坂村に恵を預けると、慌てて、家へと戻った。
「先生、何があったんです」
「そうか、まだ、数時間しか経ってないんだな、お昼食べてから」
男は笑うと、坂村に言った。
「大冒険活劇。それに幸が二人になった」
「幸さんが二人、それって、姉妹喧嘩で世界が滅びますよ」
「その時はあきらめてくれ」
男が笑った、坂村も情けなさそうに笑う。
「坂村さん、彼女に服を着させてくれないかな。服は幸に選んでもらってください」
坂村は頷くと恵を抱きかかえ家へと戻った。

「こんなに賑やかになるとは思いもしませんでした」
男がふっと呟く。その男の横には幸乃が座っていた。半透明で後ろが透けて見える姿はまるで幽霊のようにも思える。
「ただ、女性ばかりですわね」
「幸乃さんはその方がいいのでしょう」
「ええ、おまえさま以外の男は嫌悪しています、幸も私も」
少し不機嫌そうに幸乃は答えた。
「男は性根が汚いのばかりです。一キロ以内に近づくなという気分」
「それは手厳しい」
「百数十年、男を食ってきた結論です」
ふっと幸乃は笑みを浮かべると男を見つめた。
「おまえさまは幸と情を交わされようとされませんね。御風呂で背中の流しっこ、まるで子供同士のよう。せっかく、背中を押して差し上げましたのに」
「多分、それは父と娘という関係を大切にしたいと考えているからかも知れません。何の計算も打算もなく、見返りも必要とせず、ただ、大切と思うことの出来る関係。この関係は現在進行で私を救ってくれています」
「そんな素直に返されてしまうとは・・・。でも約束は約束。おまえさま、浮気はご法度。幸と幸乃は娘でもあり、妻でもあること。お忘れなきように」
「ええ、大丈夫ですよ、幸乃さん」
幸乃はふと思案顔に俯いたが、すぐに顔を上げた。
「おまえさま、試しに幸乃と呼び捨てになさいまし」
「幸乃・・・、ですか」
幸乃は得心いったかのように笑みを浮かべた。
「私のことも幸乃と呼び捨てになさいまし。その方がうれしゅうございます」
ふっと顔を寄せると幸乃は男に囁いた。
「もぉ、幸乃だってお父さんの娘なんだよ。大事にしてくれなきゃ怒るぞ」
幸乃の笑顔が凍りつく、真っ赤な顔をして俯いた。
「あ、あの」
男が戸惑う。
「あぁ、だめだ。恥ずかしい、今のは無しにしてくださいまし」
幸乃は自分自身に呆れたかのように声を出して笑った。
「私はおまえさまのことを、父としてより、夫として見ているようです」
「大事に思ってますよ」
幸乃は照れ笑いを浮かべると、家を見やった。
「幸にたたき起こされました。おじやを作りながら、お父さんが死んじゃうと泣いて、私に見に行ってくれと。随分、しっかりしたくせに、おまえさまのこととなると、頼りない子供になってしまう。ほんに面白いこと」
「大事に思ってくれる人が居てくれるのは嬉しいことです。ただ、私自身があまり大切には育ててもらっていないので経験がない。このままでいいのかなと思います」
「いいのですよ。今のまま、幸と幸乃を大事に育ててください。この御恩は存在と笑顔でお返し致しますわ」
家の中から坂村の叫び声が聞こえた。
「ん、どうしたのかな」
「あぁ」
幸乃はいたずらげに笑った。
「物事に動じない坂村さんのこと、それならばと、あの方の目の前で、幸の背中から、蠢くようにおどろおどろしく登場致しました。硬直されていましたが、やっと意識を取り戻した様子」
男も仕方無さそうに笑う。
「考えて見れば、食卓がないと私は食べることができません、家に戻りましょう」
「そうですね、私も坂村さんとお喋り致しますわ」
男が歩く、幸乃もその横を歩いた。
男は思う、存在と笑顔、本当にそれだけで充分だ、願わくは、この関係が少しでも長く続きますようにと心から願った。
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最終更新日 : 2013-05-11 17:27:45

異形 雨夜閑話一話

男は落ちつかずにいた。
幸が一週間かけて造った風呂場、いや、浴場だ。大人、五、六人はゆっくり入ることができる。男は足を伸ばし、ゆっくりと湯船につかってはいたのだが、それ でも、落ちつけずにいた。それは幸との約束、一緒に風呂に入って背中の流し合いをするという約束に、わかったと答えつつも戸惑いをかくせずにいたからだっ た。幸との約束は必ず守る、しかし・・・。
「お父さん、入っていい」
後ろ、曇り硝子の向うから、はしゃぐ幸の声が響いた。
「どうぞ」
戸惑いながらも、男は背中越しに返事をする。
硝子戸を開けた幸は白く透き通るような肌を惜し気もなくさらす、その姿はまさに人の領域を越えた神々しさすらある。
幸はいきなり駆け出すと飛び上がり、男の前に飛び込んだ。男の視界を水しぶきが遮り、それが、収まった時、幸が面と向かい、男の太ももに馬乗りになって笑顔を浮かべていた。
「お父さんと一緒だ」
「幸、降りなさい」
幸が目を瞑り小さく喘いだ。
「あん、お父さんのが・・・」
Γうわっ、幸、早く降りなさい」
幸はあやしげに笑みを浮かべ、男を見つめ囁いた,
「だめだよ」
幸は少し腰を浮かせると、男にしっかりと抱き着いた。幸が男に胸を押しつける,
吸い付くような肌。そして、男の耳元で囁いた。
「お父さんの、入れちゃおうか」
「幸、だめだ、それは」
ふと、幸は男の耳元で哀しげに囁いた。
「お父さん、幸を妻にしてくれるって言ったよ。言ってくれたよ」
男は幸と暮らす上で、一切、幸には嘘をつかないと決めていた。
「そうだったね、ごめん、父さん、確かにそう言った」
俺はいいのか、幸を汚してしまう、幸は後悔しないか。男である俺は父親という立場で、幸と生活をしている。幸は今後、苦しまないだろうか、恐れないだろうか。安寧に暮らすことができるだろうか。
「うっ」
幸が男の耳を噛んだ。
「お父さんはあまあまですなぁ。とっても、チョコレートです」
幸は笑みを浮かべ男から降りると、左に座り男の腕を両手で抱いた。
「ごめん、幸」
「お父さんは男だけど幸を本当にね、大切に思ってくれている、それがわかってるから、幸は大丈夫だよ」
幸は男の腕を両手で抱えたまま、目を瞑り、そっと呟いた。
「いつもありがとう、お父さん」

男は居間に設えた掘リ炬燵に足を入れ、勿論、春の暖かさに炬燵布団は外していたが、ばて切ったように仰向けに寝転がってしまった。
何事もなく洗い場で背中を流し合い、先に男が風呂からあがる。すっかりのぼせてしまっていたのだ。
妙なことにはならず、いや、一緒に風呂に入ることそのものが、妙ではあるのだが、風呂を終え、男はほっとしていた。
俺は幸の父親だ。
男は幸と始めて会った時のことから、暮し始めて、まだ、幸が不安定な頃のことを思いだす。
俺は幸を絶対に守ると決めた。そして、それこそが俺の生きる理由になったんだ、守るべき幸を俺が汚してどうする。

「お父さん」
幸が襖を開け、男を覗き込んでいた。男は体を起こすと、ちょっと照れたふうに笑った。
「ごめん、父さん、とってもかっこ悪かったな」
幸はかぶりを振ると、そっと男の前に正座した。
「ごめんなさい、幸、はしゃぎ過ぎて、とってもえっちになってた。服を着たら、なんだか落ちついて、そうしたら、お父さんにとっても迷惑をかけたのに気づいて。」
男は少し笑みを浮べ、幸の頭を撫でる。
「迷惑なんて思ってないよ、父さん、幸が大好きだからさ。ただ、父さんは、今、とっても臆病なんだ。この生活が、今の関係が壊れたらと思うとね、とっても、臆病になってしまう。かっこ悪いな」
「幸もお父さんが大好きだよ、この生活を絶対に守るよ」
「ありがとう。父さん、幸を束縛していないか、無理させていないか」
「お父さんは幸に生きていくためのもの、いっぱいくれたよ。だから、幸は一人でも生きて行けるかもしれないけど、幸は自分がいたいから、お父さんと一緒にいるんだよ」
「そっか、ありがとう、幸」
男は左手で幸をそっと抱き寄せると、自分に語りかけるように呟いた。
「父さん、心の中では嬉しくって、声を上げて泣いているよ。大人だからさ、大声で泣いたりしないけどね」
男は手を戻すと幸に、少し恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
「お父さんは少年みたいだ、幸の心をとろとろのスープにしてしまう」
「こんなおっさんが少年なわけないよ。さ、晩御飯を作ろう、お腹、空いていないか」
幸は、足を崩し、ばたんと仰向けに寝そべってしまった、
「うわぁ、お腹減ったよぉ。そうだ、とろとろのポタージュスープが食べたい」
「じゃがいもと玉葱、あったな。それじゃ、大事な幸が飢えてしまわないように作ってくるよ」
立ち上がった男に幸がしがみついた。
「幸も行きます、そして、味見をして差し上げましょう」
「幸は厳しいからなぁ、美味しくないって言われたら、父さん、今度は悲しくって泣くかも」
「大丈夫。幸はお父さんには甘いからね。ね、立つのが面倒、お父さん、台所まで引っ張ってください」
「そんなことしたら、脚が擦りむけてしまうぞ」
男は左腕で軽く幸を抱え上げた。

幸は晩御飯を堀炬燵の上に並べた後、硝子戸を細目に開け、夜の外を覗く。
雨音と共に、遠く、蛙の鳴声が聞こえた。
男は左腕でお茶の沸いたやかんを持ってくる。掘り炬燵に入ると、幸に話しかけた。
「雨が降り出したのか、雨蛙だな」
幸は硝子戸を閉め、振り返ると頷いた。
「多様化して面白いことになったな」
幸も掘り炬燵に入ると、少し困ったように笑みを浮べる。
「ごめんなさい、お父さん」
「謝ることはないよ、これが本来の姿だからね」
異界は異物の侵入に警戒するため、単純な生態にしていたのだが、畑を作ることでさまざまな動植物が増えてしまっていたのだった。
「幸の影響かな、父さんも農業に興味が出てきたよ」
「お父さん」
幸がそっと囁いた。
「ん、どうした」
「幸はたまにね、こう思うんだ。現実世界と異界との繋がりを閉ざしてしまって、お父さんと異界で二人っきりで生活してみたいってね」
「疲れたかな」
「そうじゃないんだけど、ちょっとね」
ふと、男は幸の背中から首筋へと手をやった。そして、首筋を包み込む。
「なんだか、暖かい、気持ち良くて体が浮かんでしまいそう」
「澱のように疲れが溜まっている、ちょっと頑張り過ぎだな、幸は。どうだ、軽くなったか」
幸は頷くとそっと笑みを浮かべた。
「お父さんは頼もしいなぁ」
「ありがと。な、幸」
「ん・・・」
「いずれは異界に生活の拠点を移動させる必要があるだろうと思う。それが多分、双方の幸せだ。それは父さんも思うよ」
幸はそっと頷いた。
それ以降は二人ともその話題には触れず、晩御飯を食べ始めた。
「お父さん、このポタージュスープ、美味しい、味見した時より美味しくなってる」
「工夫をひとつ足したからな。合格できたかな」
「合格です、お店にも出せるよ」
幸は、にひひと笑うと、嬉しそうにスープを飲む。
「最初はカウンターだけだったな」
「うん、基本は木目調、オークとかね、濃い目の色合いで統一。いい感じになると思うよ」
「楽しみだな」
幸は男の顔を見上げると眩しげに笑った。
「お父さんのお陰で幸はいろんなことができる、ありがとう」
「いや、幸が頑張りやさんだからさ、父さんはあたふた幸の後ろを追いかけているだけだよ。でもね、それがとても楽しい、ありがと」
幸は男の左手を両手でぎゅっと握る、そして、自分の額を重ねた。
「お父さん、幸を娘にしてくれてありがとうございます」
「父さんこそさ、幸が居てくれなかったら、悪人のままだった、救ってくれてありがとう」
不意に幸が顔を上げた。
「護り髪、礼子ちゃんだ」
「何かあったんだな、父さんも行くよ」
「幸、一人で行ってきなさいな」
「幸乃さん」
男は幸の横に、幸乃が座っているのに初めて気が付いた。
「いま、幸の体から出てきました。お父様には折り入ってお話ししたいこともあります。幸、一人で行ってきなさい」
「一人で行くのは大丈夫だけど、幸乃さん、お願いだから・・・」
幸乃がにいぃっと笑みを浮かべた。
「万事塞翁が馬、安心しなさい」
「あぁ、幸乃さんのそれが・・・、本当に変なことを言わないでください。幸は今の生活に満足していますから」
幸乃は笑みを浮かべたまま、幸を推す。
「早くしないと、礼子ちゃん、喰われてしまいますよ」
「お、お父さん」
「ん」
「幸は今の生活に満足しています、本当だからね」
「ありがと。そうだ、幸、これを持って行きなさい」
男は空から硝子球を取り出すと幸に手渡した。
幸の姿がかき消すように消えた。
「さてと」
幸乃は男を少し睨む。
「お前さまは幸の気持ちがわかっていません、たとえば、ほれ」
幸乃が男の右の肩口を指さした。
「これは・・・」
「お前さまにも理屈はございましょう、ようは、その御理屈と幸のどちらか大切か、天秤に掛けてごらんなさいませ」

幸は妙に人気のない、夜の街に一人立っていた。かなりの繁華街のはずであるのに、誰ひとりいない。
ブランドを並べた、個性豊かな、いくつもの店が煌々と軒先を照らしている、しかし、物音ひとつしない。すべての音が消えていた。
捕獲者には音が邪魔なのだろう。
幸は幸乃が言うであろうことを理解していた、願わくは、あいまいにそれとなく、言って欲しい、いや、言わずにいてくれればそれが一番なのだ。
幸は男に、これ以上負担をかけたくなかった。
「早く済まそう」
幸が小さく呟いた時、遠く、足音が響いた。
足音二つ、思いっきり駆けている。
啓子の妹、礼子だった、同じくらいの背丈の女の子の手を引っ張るように走ってくる。
「幸さん。どうしてここに」
礼子は息せききって幸に駆け寄った。
「早く逃げてください、鬼が追ってきます」
「わかってる、だから来た」
幸はふと礼子が手を握っている女の子を見つめると、片手でその顎をくっと上を向けた。
「中原理絵子、礼子ちゃんの親友か。自分の親友を危険に晒すなよな」
「幸さん、早く」
礼子が叫んだ。
「大丈夫、ここで鬼共を始末する」
幸は片手で理絵子の腹を押さえた。
「鬼をはらまされたか。落としておくか」
「あたしの赤ちゃん・・・」
「馬鹿野郎、お前の中にいるのはただの鬼だ」
幸の手が理絵子の腹に入り込み、その手を抜いたとき、青く光る、角のある赤ん坊が、その瞬間、幸の手の中で紅蓮の炎に燃え、消えてしまった。
「あ、あの人の赤ちゃんが・・・」
幸は理絵子を睨みつけると、ぐっと顔を寄せた。
「あの男のことは忘れな、もう人じゃない。なぁ、片思いでいいなら、既婚のあたしに惚れてみるか」
幸がにっと笑った。

「やっと見つけたよ、理絵子。急に走りだしてどうしたんだよ」
男が二人、やって来た。
「幸さん、あいつらが鬼です、今は人の姿をしているけれど。角が、牙が」
「礼子、理絵子を後ろから羽交い締めにしなさい」
「は、はい」
慌てて、礼子は理絵子の後ろに回ると両手でしっかり抱き締めた。幸が硝子球を二人の上に軽く放り投げる、硝子球は粉々になって二人の回りを回転しだした。
「礼子、動くなよ。その結界の中にさえいれば安全だ」
「は、はい」
男たちが近づいてくる、ほんの数メートルのところで、幸は男たちを制した。
「これ以上近づくな、あたしは男嫌いでね」
「うひゃあ、すげぇ美人さんだ。な、理絵子、紹介してくれよ」
幸は空から抜き身の刀を取り出した。
「早く鬼に変態しな。人の姿では太刀打ちできないぜ」
男は本性を現したかのように幸を睨み付けた。

「お前、ただの女じゃないな」
「ああ、ただの女じゃない、すげぇ美人さんだ」
幸はにぃと口を歪め笑みを浮かべると、右手で刀を持ち刃先を男に向けた。男たちは表情を変えた。軋むような音が男達の体から響きだし、巨大化して行く、ほんの数秒のうちに、青く燐光のように光る鬼が二体、立っていた。
「礼子」
「はいっ」
「姉妹そろって運が悪いな」
一瞬、幸の姿が消えた。いや、あまりの速さに礼子の目では幸の動きを追うことができなかった、それは、鬼にとっても同じだった。二体の鬼の首を同時に刎ねる、その血しぶき浴びるよりも早く、幸は鬼の背中に移動すると、その原をなぎ払った。

幸が再び、礼子の前に現れた時、その背後にはいくつもの青い肉塊が転がっているだけだった。
「燃やしておくかな」
幸の呟きに呼応するかのように肉塊が燃え上がり、黒い消し炭となって消えてしまった。
ふいに幸は少し離れた街路樹に向かって声をかけた。
「そこの魔術師、出てこい。まさか、無事に帰れるなんて思ってないだろうな」
黒いマントを羽織った男が姿を現した。
怯えきった表情で幸を見る。
「せっかくだ、あんたも斬っておくか」
「そ、それだけは勘弁してくれ」
幸が魔術師を睨んだ。
「なるほど、人狩り。鬼の遊び、あんたは、その連絡係ということか。なんだよ、鬼の使いぱっしりじゃねえか」
「均衡が崩れたんだ、鬼がどんどん強くなって来た」
「まさか、世情の乱れを責にするつもりじゃないだろうな」
幸は魔術師の言葉を冷たく返した。
「お前らが弱すぎるんだよ。ん、お前、あの暗殺寺の出身か」
幸はふと愉快そうに笑みを浮かべた。
「もう一度寺へ帰って修行をし直せや、絶世の美女にそう言われたって言えば、館長も受け入れてくれるぜ、もっとも、あんたが生きて寺へ辿りつけたらの話だけどな。早く行け」
魔術師はあたふたとうなづくと姿を消した。
「あれは鬼のところに戻るな」
幸は関心をなくしたように冷たく呟いた。
振り返ると幸は硝子の結界を消した。
「幸さん、ありがとうございます」
ほっとしたのか礼子はしゃがみこんでしまった。
「めったにない経験ができたわけだ、ただし、次は助けないぞ」
幸は怒ったように言うと、手を横に伸ばした、その手が消える、
「あ、うわぁっ、な、何」
啓子が幸の手に背中を引っ張られ現れた。左手にお茶碗、右手にお箸を持ったまま。
「幸さん、無茶ですよ。晩御飯食べていたのに」
「悪いな、礼子ちゃんが鬼に襲われた」
「え・・・」
啓子はしゃがみこんでいる礼子を見つけると、慌てて抱き締めた。
「礼子、大丈夫。怪我は」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん」
「あまり大丈夫じゃない」
幸が啓子の背中に話かけた。驚いたように、啓子が振り返る。
「礼子ちゃんと、その理絵子ちゃんは、一週間、預かる、ゆっくりと穢れを払ってやるよ」
「よろしくお願いします」
啓子が頭を下げた。

幸は三人を連れ帰ると、そっと玄関を開けた。
上がり口に笑みを浮かべた幸乃が立ち、四人を向かえていた。
「お疲れさま、御風呂わいていますわよ」
「幸乃さん、お父さんには・・・」
「迷った時は前進あるのみ。しっかりはっきり申し上げました、あとはよろしく」
幸乃は幸に近寄ると、すっと幸に溶け込んでしまった。
幸は留守にしていた間の幸乃の記憶を確認して慌てふためいた。
「啓子さん、二人を御風呂に入れてください。そして、徹底的に体を洗わせるように」
「は、はい」
啓子の返事を聞く間もなく、幸は男がいるであろう御風呂の竈へと駆け出した。
新しい御風呂は薪で焚くようになっており、外に竈が設えられていた、もちろん、中からでも追い炊きくらいはできるようになっている。
男が竈で薪をくべていた。
「おかえり、体冷えたんじゃないか、もう一度、幸、風呂に入るか」
「お父さん」
「ん」
幸は男に駆け寄ると、しゃがんでいる男の前で跪いた。
「ごめんなさい。幸乃さんの話したことは」
男がくすぐったそうに笑った。
「幸乃さんのこと、怒らないようにね」
「でも」
「幸乃さんにとって幸はとても大切な妹なんだろう、だから、幸の幸せを一番に考えている、たとえ、自分の存在が消えても、幸が幸せであればってね」
「その辺、父さんも同じように幸が大切だ。幸の幸せが父さんの幸せだからさ」
男は手を伸ばすと、そっと幸の頬に触れた。
「幸が幸せでありますように」
幸が男をぎゅっと抱き締めた。
「お父さん、幸乃さん、ありがとうございます。幸はとっても幸せです」
幸は男の心臓の鼓動を楽しむかのように男に身を寄せていたが、ゆっくりと顔をあげた。
「右腕、作らせてください」
「ありがとう」
ふと、幸が玄関口の方向を見つめた。
男はくすぐったそうに笑った。
「幸、啓子さんを攫って来たんだろう、恵さんと啓子さんのお母さんだ」
恵は実家には戻らず、啓子の家で居候をしていた。食事時、啓子が目の前で消えるのを見て、男の元に慌てて相談に来たのだった。
「お父さんと二人っきりの生活が・・・」
「なんだか、当分、賑やかになりそうだな。玄関口へ二人を迎えに行きなさい」
幸はうなずくと、玄関口へと走って行く。
男が風呂場へと声をかける。
「啓子さん、湯加減どうだい」
「ありがとうございます、ちょうどいいです」
中から、啓子の声が聞こえた。
「幸も御風呂にはいるだろう、中から追い炊きできるから後は任せるよ」
「ありがとうございます」
男が居間に戻ると、幸が二人に謝っていた。男はくすぐったそうに笑みを浮かべると、お茶を沸かしに台所へ向かった。
とたたっと幸が男の元にやって来た。
「お父さん、ごめんなさい、二人も今晩泊まることになっちゃったよ」
「いまから夜道を帰るのも危ないだろう、もう一度、御飯を炊かなきゃな。野菜は畑にあるだろうし、冷蔵庫はどうかな」
冷蔵庫を開け、しゃがむ男の後ろから、幸がその背中におぶさり、男と一緒に覗き込む。
「お父さん、これは鍋だね。かしわとお豆腐」
「そうだな、野菜で水増しして。冷御飯は雑炊用、これから炊く御飯はおむすびにしてしまおう」
「なんだか、お父さん。民宿の亭主と女将は大変だ」
「大丈夫だろう、うちの女将さんはしっかりしているからな」
幸がにっと笑った。
「うちの亭主は気配り上手だし」
男は急須と湯飲みを二つ用意する。
「持って行きなさい、もうすぐお湯も沸くからさ。それと、啓子さんに御風呂の沸かし方を教えてあげなさい」
「うん、わかった」
幸は急須と湯飲みを持って、二人のいる居間へと行く、男はそっと笑みを浮かべた。
賑やかなのはいいな、男は呟いた。

16
最終更新日 : 2013-05-11 17:31:14

異形 雨夜閑話二話

「眠れないのか」

幸は隣りの布団に眠る啓子に声をかけた。男は自室にて、一人眠り、幸は啓子と礼子と理恵子の四人で寝ていた。

そして、啓子の母親と恵は、別の部屋に寝ていたのだった。

礼子と理恵子のニ人は、喉が乾いたのか、ニ人して台所へと部屋を出、この部屋には幸と啓子のニ人だけだった。

「啓子さん、鬼の鱗粉が見えるようになったのか」

布団の中から幸が問いかけた。

啓子は薄暗がりの中、幸を見つめてうなずいた。

「都会に住むことができなくなりました。あちこちに青い燐光のような靄が、ふわふわ浮んでいるのが見えるんです」

「鬼の穢れ、つまりはそこに鬼がいるか、もしくは少し前までいた。人に着くこともある、なんらかの理由で鬼に接触した、その影響だ」

「礼子は両手に、理恵子ちゃんは体全体、特にお腹が青い光る粉を振りかけられたように光っていました。あれは・・・」

「啓子さんの思う通りのことさ、ただ、先までの賑やかな宴会で。まさか、啓子さんのお母さんがあんなにはしゃぐとは思わなかったけどな」

幸は少し笑うと言葉を続けた。

「賑やかな宴会で、随分、鱗粉が消えただろう」

「はい」

「ここの空気を吸い、ここの水を飲み、ここで出来た野菜を食べれば穢れが浄化して行く」

「不思議ですよ、ここにいれば何があっても安心だって自然に思えてきます」

幸はくすぐったそうに笑った。

「ここは避難場所なのかもしれないな。ん、理恵子ちゃんが幸のこと、喋っている」

「なんて言っているんですか」

幸が小さく笑った。

「秘密だな、これは」



台所のテーブルにつき、礼子と理恵子は薄暗がりの中、水を飲み、話をしていた。

「ショックだったよね、理恵子の彼氏。あんなふうになってしまって」

「それが・・・」

「どうしたの、理恵子」

「今は不思議なほど、悲しくないんだ、確かにびっくりはしたけど・・・。ね、幸さんって既婚って言ってたよね。ご主人ってどんな人」

礼子はしばらく考えて答えた。

「姉さんは、幸さんはとても奇麗で魅力的な人だけれど、あまり好きにならない方が良いって言ってた。あらゆる男がつまらなく見えてくるからって」

理恵子はひとつ吐息を漏らした。

「今、そんな気分。だって、とってもかっこよくって、それでいて、晩御飯の時には、とっても可愛くって。甲斐甲斐しく叔父さんの右手代わりにお世話しているのを見ると胸が熱くなって」

「恥ずかしそうに、幸さんのお父さん、自分で出来るからって困ってたね」

礼子がくすぐったそうに笑った。

「理恵子も幸さんにお世話されたいの」

少し理恵子が俯き呟いた。

「そんなんじゃないよ、ただ・・・、こういう娘がいるんだなぁって記憶の何処かに残していて欲しいっていうか、あの、えっと、なんだろう、なんて言ったらいいのかな」

理恵子が急に苦しそうにあえぎ出した。

「ど、どうしたの」

駆け寄ろうとする礼子を、飛び出してきた啓子が素早く押し止どめた。

「お姉ちゃん、放して」

抗議する妹を押さえ付けながら、青く光り出した理恵子の体を啓子は睨むように見つめていた。

幸は何事も無かったように冷蔵庫から堅く絞った冷やしタオルを理恵子の額に重ね、首の後ろを優しく撫でる。

「言祝ぎ申す。青き闇に蝕まれし、御身、御心、我が言葉の響きにて浄化せしめん」

幸が囁くように寿歌を呟くと、ゆっくりと青い光が消え、理恵子は力が抜けたように椅子の背もたれにもたれ掛かってしまった。

「脊髄にまで入り込んでいた鱗粉がかなり浄化出来たよ」

幸は笑みを浮かべると、軽くぽんぽんと理恵子の頭を叩いた。

「おい、気持ち、軽くなったか」

「は、はいっ」

理恵子が飛び上がるようにして答えた。

幸は小さく笑うと理恵子の両肩に手を置いた。

「もっと強くなれ、明日から、農作業で幸が鍛えてやるよ」

それから、幸は3人を部屋に戻し、男の部屋の前に立った。

「お父さん、いいかな」

「どうぞ」

襖の向から男が答えた。そっと、幸が襖を開けると男が布団の上で上半身を起こしていた。月明かりが微かに部屋の中を照らす。

幸は男の横に正座する。

「理恵子ちゃんは大丈夫だよ」

「うまく浄化出来たようだね」

男は笑みを浮かべると、立ち上がり、窓を細く開けた。涼しい風が微かに流れ込んで来る。

「上弦の月、真っ白な明かりだ」

「お父さん」

「ん・・・」

「啓子さんが鬼の鱗粉を見ることが出来るようになってしまったって」

「それは、父さんも気づかなかった。どうしたものかな」

男が幸の前に座る。

「昔の人にとって、鬼の気配を感じることは何も不思議なことじゃなかった。もちろん、視覚として見ることの出来る人は少なかったけど、嫌な匂いとして感じ たり、なんとなく嫌だってね、感じることが出来た。今はその能力を無くしてしまって鬼の犠牲になる人が増えている、それに合わせて鬼の力が大きくなってき たんだけどな」

「どうなんだろ、教えた方がいいのかな」

男はしばらくの間、考え、答えた。

「教えていいよ。鬼が啓子さんのことを知れば、必ず殺しに来るだろう、自分の身を守るすべは持っているほうがいい」

「うん、それじゃ、啓子さんが望めば教えるようにするよ」

男はうなずくと、そっと幸の頭を撫でる。

「いろんな縁が出来て、幸も大変だな」

「でも楽しいよ。ただ、お父さん」

「ん・・・」

「幸はお父さんと二人っきりでもいいんだ」

そっと幸は男を抱きしめ呟く。

「異界にふたりっきりで生活するのもありかなと思う。ね、お父さん、今夜はこのまま一緒に寝ようよ」

男はそっと笑みを浮かべた。

「それはとても嬉しいな、ただ、父さんはさ、この頃、ひとつ、欲が出来たんだ」

「欲って」

幸がそっと男の顔を見つめる。

「幸はとっても良い娘だ、真面目で気立てが良くて、父さんのことも大切に思ってくれる。幸がとっても良い娘だってことをさ、幸を知る人にもわかって欲しいって欲だ。理恵子さん、幸に憧れているだろう、まだ、少し心が不安定だ、だから、横に居てあげなさい」

幸は両腕を男の首に回すと、顔を近づけ、軽く男の耳を噛む。

「お父さんはずるいなぁ、でも、本当に幸のことを思ってそう言ってくれるから、やだって言えないよ」

「幸」

「ん・・・」

「ありがとうな、父さんのこと、思ってくれて」

「幸の方こそ、ありがとうございます」

男は幸の背中に左手をやると、小さく吐息を漏らす。

「幸が居てくれること、それはとっても父さんを幸せにしてくれる。幸の歩く音、お皿を置いたその音、どんな小さな音でさえ、あぁ、幸がここに居るんだと気づかせてくれる、父さんはとても幸せになる。ありがとう」

幸が静かに静かに泣く。

「もう少しだけ、お父さん、このままで居させてください」



幸がぼぉっとした表情で歩く、男の部屋から出、暗い廊下、元の部屋へ戻る途中、啓子が暗がりの中、台所でテーブルに着き、水を飲んでいた。

「幸さん、いいですか」

啓子の声に、ぼぉっとした表情のまま、幸が振り向いた。

「あぁ」

幸は頷くと、啓子の隣りに座った。

「啓子さん、ごめん、ちょっと待っててくれ」

幸はテーブルの上に上半身を投げ出すと、うふふっと笑い出す。

「どうしたんですか、怖いですよ」

「お父さん、優しくってさ、あぁ、もぉ、とっても可愛いんだ」

幸は上半身を起こすと、啓子の飲みかけのコップに入った水を飲む。

「少し、落ち着いた。で、啓子さん、どうしたんだ」

「お願いしたいことがあります」

啓子が幸に向き直った。

「なんだ、改まってどうしたんだ。幸のお父さんはあげないぞ」

「いらないです」

「即答されてしまった」

幸は楽しそうに笑うと、啓子をじっと見つめた。

「幸さん」

「ん」

「私、鬼と闘えるようになりたいんです」

幸は目をそらすと、背もたれにもたれ、天井を眺めた。

「啓子さんは鬼の鱗粉を見ることができるようになった。だったら、それを避けて生きて行けば大丈夫だ、鬼に出くわす可能性は他の奴より随分少ない」

「でも、あの青い燐光を見かける機会が随分増えています」

「礼子ちゃんを守りたいのか」

幸はふと視線を啓子に向け、呟いた。

「は、はい」

「お姉ちゃんは妹離れが出来ていないな、まっ、幸も人のこと言えないけどな」

「母が離婚したのが私が中学生、礼子は小学生になったばかりでした。母は朝から晩まで仕事、だから、私が礼子をしっかり育てなきゃって、そんなふうに生きてきました」

「礼子ちゃんは啓子さんに感謝しつつも、ちょっと煩わしく思っている、礼子ちゃんも、もう高校生だからな、彼女、しっかりしているぜ」

「ちょっと・・・、距離を置かれてしまっています」

仕方無さそうに啓子が笑った。

幸も困ったように笑みを浮かべ、啓子に向き直った。

「お父さんからは、啓子さんに武術を教えてもいいって承諾は貰っている、ただし」

「はい」

「幸の武術はお父さんからいただいたもの、お父さんや幸の意に沿わない使い方を啓子さんがした場合は、啓子さんを殺しに行く。まっ、端的に言えば、己が楽しむためや快楽追求のために武術を使うなってことだ、約束出来るか」

「はい、約束します」

啓子は幸をしっかりと見つめ答えた。

「今から教える、いいか」

「はい、お願いします」

「外に出よう」

幸は啓子を促すと、畑の道を歩き、梅林へと入った。月明かりに、辺りが微かに見える。立ち止まり、幸が啓子に話しかけた。

「この武術の名はなみゆい。それは動きの基本、波の動きと結ぶという所作から来ている。そして、首から下、膝から上、胴体の変化が腕や脚の動きを促す、それだけは頭にたたき込んでおいてくれ」

緊張した面持ちで啓子が頷いた。

「教えるのは基礎と方向性、後は自分で再発見して理解を進めること」

幸は啓子の前に立つと、右腕を啓子に向けた。なんの戸惑いもなく、啓子の右腕が幸に向かう。

「勝手に手が動きます」

「いま、幸が啓子さんの体を操作している。人の理想的な動き、人に対しだけでなく、様々な形態の魔物に対応したなみゆいという動き方を自分自身の体を通して経験し、しっかり記憶しなさい」

幸はにぃぃっと笑った。

「悲鳴上げるなよ」

二人の姿が消えた。いや、正確には目で追える速度を越えてしまった。風鳴りが響き、梅の枝が縦横無尽に揺れる。



朝、男が目を覚まし、台所へ入ると、幸がお味噌汁を作っていた。

「お父さん、おはようございます」

「おはよう、お味噌汁か、良い匂いだな」

「玉葱とワカメのお味噌汁。お味噌汁の基本です」

幸はにっと笑うと、小皿にお味噌汁を少し入れ男に手渡した。

「いつもと違うな」

「うん、啓子さんのお母さんに教えてもらった。最初に野菜を蒸す。これが大事なんだって、形がくずれなくて見た目もいいなぁ」

男は人の気配が減っていることに気づいた。

「ん、佳奈姉さんと母さんは店の準備があるからって帰ったし、啓子さんのお母さんはお仕事、早出なんだって」

「高校生二人はまだ寝ているのか」

「明け方までお喋りしていたみたい」

「いろいろあったろうからな」

男は冷蔵庫からお茶をとりだし、一口飲むと幸に言った。

「なにか手伝おう」

「ね、お父さん、恵さんを迎えに行って」

「恵さんを・・・」

男は呟き、振り返ると、向こう、梅林の方向を眺めた。

「迷子か」

「恵さん、気楽に歩いているけど、折角だから、みんなで朝ごはんを食べようと思って」

「啓子さんは」

幸がいたずらっぽく笑った。

「夕方までは死んだように眠っていると思う」

「早速、練習したのか。啓子さんはひたむきなところがある、良くも悪くもね。人はそれぞれ、個性があって面白いな。それじゃ、迎えに行ってくるよ」

「お父さん、浮気しちゃだめだよ」

幸が男に声をかける。

「幸は父さんが浮気をしたら泣くかな」

「もう、わんわん泣くよ」

「幸を泣かせるわけにはいかないから浮気はしないよ、って、父さんなんか誰も相手しないよ」

男は笑うと、恵を迎えに梅林へと向かった。



男は梅林の中ほどに恵を見つけ声をかけた。

「おーい、恵さん」

振り返り、恵は男に気づくとあたふた男の元に駆け寄って来た。

「先生、助かりました。これから、どうやって暮らそうか途方に暮れましたよ」

「そのわりにはあまり深刻そうじゃないですね」

男は少し笑った。

「不思議です、ここにいると落ち着くって言うか、ちょっと幸せな気分になります」

「害意、敵意というのがないからね、ここは。さぁ、戻りましょう」

男は恵を促すと帰路へとついた。道すがら、恵に尋ねる。

「恵さんは今も啓子さんと一緒に住んでいるんだね」

「啓子先輩に居候です。でも、そろそろ、社会復帰しなきゃって考えています、求人情報なんか読んでますけど、ただ、うーん」

「就職難ってやつかな」

「高望みしなければいろいろありますよ。ただ、先輩と同じで、変なとこにまた入り込みはしないか、それが怖いです」

「二人ともそういう運命なのかな」

「わっ、ひどいなぁ」

恵が気楽そうに笑う、

「実家には帰らないのかな」

「無理ですよ、いまは香港で働いていることになってます」

「御両親、心配しているんじゃないかな」

「電話は毎日のようにしてますから。ただ、姿が変わってしまったから」

「体を造る時、退行した精神状態に近づける方が良いからって、十代後半の体にしたんだったな」

「私を見たら、母なんかびっくりしますよ、娘が子供に戻ってしまった。また、育てるのに金がかかるってね」

「幸に言えば、もう少し齢を取らせることが出来るんじゃないかな。帰ったら、話してみようか」

「だめです」

恵が思いっきり顔を横に振った。

「二十代前半、といってもギリギリですけど、そんな女が十代後半の肌を手にいれたんです。吸い付くような肌、はじける水、なんとしても維持しなければっ」

「女性は大変ですね」

男が気楽そうに笑った。

木立の中から、幸乃が現れ、軽く手を振った。

「幸乃さん、どうしたのかな」

「おまえさま、ちょっと」

幸乃が男に耳打ちをした。

「恵さん、急用が出来ました。幸乃さんに送ってもらってください、一足先に帰ります」

男の姿が消えた。

「先生、どうされたんですか」

「世界平和維持活動ってことですわ」

幸乃が面白そうに笑みを浮かべた。

「幸、泣いているのか」

テーブルにつき、打ちひしがれていた幸が驚いて顔を上げた。

「お、お父さん、お帰りなさい」

男は何も言わず、ハンカチでそっと幸の目許を拭った。

男が笑みを浮かべ、囁く。

「幸乃さんがね、幸が泣いているって教えてくれた」

男は幸の隣に座ると、柔らかな笑みを浮かべる。

「父さんに幸が泣いた理由を教えてくれないか、気づかずに幸を傷つけていたなら、父さん、あらためなきゃならない」

「お父さんは悪くない、幸の心が汚いから・・・」

唇を噛み締め、幸が俯く。

「幸はとっても心が綺麗な女の子だよ」

男の言葉に幸が頭を振った。

「恵さんにお父さんをとられるんじゃないかって、なんだか、そう思うと、勝手に涙が出て来て」

「どうして、恵さんが」

「だって、恵さん、お父さんのこと、好きだもの」

「なるほど、送り出してみたものの、不安が大きくなってしまったということか」

男はそっと左手で幸の頬に触れると、じっと幸の眼を見つめた。

「父さんは幸が大好きです、幸だけが好きなのです。どうか、信じてください」

幸が涙を流したまま、笑みを浮かべた。

「幸と幸乃さんだよ」

男は笑みを浮かべると、そっと手を離した。

「そうだな、幸乃さんを忘れると、後で叱られてしまうな」

ふと、男が振り返った。

「二人、畑のところまで戻って来たな。朝御飯、高校生を起こしてこよう。いや、父さんが行くのはまずいか。幸、起こしてきてくれるか」

「うん、起こしてくる」

幸は安心したように笑った。



五人で朝食をとった後、男は部屋に戻り、友人の会計事務所から預かった資料を整理する。昼過ぎには終えて、書類を運ばねばならない。

幸は三人を連れて、畑作業をしていた。

男は部屋で書類を片付けながら、ふと自分も普通に朝御飯を食べるようになったんだと気づいた、以前までの珈琲が朝御飯だった頃に比べて、体調も良い。これも、幸のおかげかと思う。男は部屋を出ると、台所へ向かう。珈琲をいれよう、少しくらいならいいか。

ふっと男は啓子の寝ている部屋の前で屈んだ。

襖を蹴破り、男の頭の上を啓子の蹴り足が空を斬っていた。

「元気だねぇ」

男が呟くと同時に、眼を瞑ったままの啓子が襖を破り男を襲う。瞬間、男は啓子の隣に入り込むと、左手で啓子の顎に触れた。すとんと男が下に落ちる、同時に啓子の体が跳ね上がり頭から落ちる。

男は左腕で啓子の頭を抱え、床に啓子が激突するのを制した。

「お父さん」

駆けつけた幸が、どうしたらいいのか分からず、突っ立ったまま、呆然とした表情で呟いた。

「どうして・・・」

「たいしたことじゃないよ。啓子さんの中には、父さんへのさ、恐怖心が残っている。それが発動したんだろう、意識を取り戻せばいつもの啓子さんに戻るさ」

寝息をたてた啓子を幸が両手で抱きかかえる、そして、元の布団に寝かせつけた。

「ごめんなさい、幸がしっかり見ていれば」

「ん・・・、いや、人の心の奥底はなかなか難しいものだ、それだけのことだよ。襖紙、同じのが残っていたろう、他の人に見つかる前に張り替えておくかな」

男は襖紙を取り出してくる、慌てて、幸は糊や道具を揃えて持ってきた。

幸が器用に敗れた襖紙をはがして行く、男が糊を刷毛で塗る。

「幸、懐かしいな」

幸はにっと笑うとうなずいた。

「襖に硝子窓、棚まで随分壊してしまいました」

「こっちの端、持ってくれ」

「うん、これくらいで良いかな」

「ちょうど良いよ」

「父さんの記憶には壊されたことより、こうして一緒に直している時の方が印象深いんだ、親子してるなぁってね」

男は襖紙を張りながら、少し笑う。

「ありがとう、幸、一緒に居てくれて」

「こちらこそ、お父さん」

新しく貼り終える、男は満足そうに襖紙を眺めた。

「こんな単純なことなのに嬉しいなんて不思議だな」

「ね、お父さん、今度は何を潰そう」

男はコツンと指先で幸の額を叩く。

「当分は勘弁してください」

男がくすぐったそうに笑った。



幸はそのまま、部屋に入ると、啓子を寝かせつけ、その手を両手で握った。

男は畑に出、幸がしばらく部屋に戻って居ることを三人に伝え、その後、友人の会計事務所へと向かう。



「先生、かっこいいなぁ」

恵が呟いた。

「恵さんは中年が好きなの」

驚いたように礼子が尋ねた。

「いい人だとは思うけど、かっこいいって云うのはなぁ」

利恵子も口を揃えて言った。

「別に中年が好きってわけじゃないよ。ただ・・・、幸さんには大恩があるから先生に手を出さないけど、あ、でも、幸さんみたいに、先生が双子だったら、絶対、一人欲しいなぁ」

礼子と利恵子は呆れたように笑った。



幸は啓子の手を両手でしっかり握りながら、思い出せる過去を脳裏に甦らせていた。牢獄の日々、餌でしかない存在。それが今では友人の手をしっかりと握って いる。あかねちゃんを始め、佳奈姉さんや瞳さん、色んな顔が浮かんでくる。なんて幸せなのだろう、そしてとても大切な人がいる、とても大切に思ってくれる 人がいる、とても幸せだ。そして思う。この手の人も幸せであれ、幸せは分けるものではない、伝わって広がって行くものだ。



「幸さん」

啓子が呟いた。

「ん、起きたか」

「ずっと、手を握ってくれていたんですか」

「いや、さっきまで畑に居た」

啓子が苦笑した。

「そういう時は、心配でずっと手を握っていたって言ってくれなきゃ」

「あいにく、正直者なんだ、悪いな」

幸はにっと笑うと啓子の背中を支え、上半身を起こした。

「体の具合はどうだ」

「大丈夫です、なんだか、体も軽いしいくらでも動けそうですよ」

幸は笑みを浮かべ言った。

「たとえ一晩でも理想的な体の動かし方を啓子さんは経験した、そして、どう練習して行けばいいかも教えたはず。あとは精進してくれ。具体的に教えることはもうない」

啓子がそっと頷く。

「ありがとうございます、あとは自分で見つけて行きます」

幸はほっと吐息を漏らすと、啓子に囁いた。

「試しだ、この状態から幸のこめかみを蹴ってみろ」

「はい」

啓子が呟いた。

両手を布団の上に添える。途端、啓子の体が微かに浮き、独楽のように啓子の右脚が幸のこめかみをなぎ払った。激しい勢いで幸の頭が首から千切れ壁にぶつかる、首から、血が吹き出した。

「う、うわぁっ」

幸の血で真っ赤になった啓子が大声で。

一瞬の後、幸は何事もなかったように座っており、血の吹き出した様子もなかった。

「幻術だよ。ただ、普通の人間ならああなる。幸はね、啓子さん自身が、自分を、そして守りたいと思う人を守るために教えた。それを良く覚えておけよ」

幸は笑みを浮かべると部屋を出た。

そろそろ、晩ごはんのこと、考えよう。



夕刻、満員電車というほどでもない、男は友人の会計事務所からの帰り、電車の吊り革、左手で持ち、立っていた。競って椅子に座ることもない、立つことができるなら、立つべきだと考えているだけだ。

ただ、男は、高校生だろうか、一人の女の子が自分に近づこうとするのに気が付いていた。

そして、大学生だろうか、二人の男。

男は小さく吐息を漏らす。

一瞬、女の子が男の背中に、自分の背中を当てた。

女の子の喉が大声を出そうと緊張する、男は素早く女の子の喉に手を触れると、耳元に囁いた。

「君の声は出ない」

ゆっくりと電車が速度を落とし停車する、ドアが開いた。

男は何事もなかったように列車を出た。

「お父さぁん」

「あれ、幸」

男はホームで待っている幸を見つけた。男は幸に近づくと、ほっとしたように笑みを浮かべた。

男の後ろで、ドアが閉まり、列車が発車していく。

「お迎えに来たよ」

「ありがとう、でも、幸、ちゃんと入場券買って入ったか」

男が笑う。幸はひらひらと切符を揺らすと笑った。

「改札の手前で待っているつもりだったんだけど」

幸は自然と右手を男の左手に絡める。

「幸を育てるためにしっかりと働いて来ましたか」

「もう、へとへとになるくらい働いた」

「今晩は大鍋一杯のナポリタンと、温野菜のサラダです。しっかり食べて、明日も労働に勤しんでくださいませ」

にひひといたずらげに幸が笑った。

「お父さん、帰りはナポリタン用に振りかけるチーズを買って帰ってください、幸は一つ用事を済ましてから帰るよ」

男が振り返る、呆然と突っ立ったままの女の子が一人、ホームに佇んでいた。

「そうだな、父さん、女性は苦手だから頼むかな。ごめんね」

「あぁ、しょうがない、お父さんの頼みなら断れないよ。感謝していますか、お父さん」

「とっても感謝しています。幸、ありがとう」

幸は少し照れ笑いをすると、腕をほどく。

「そうだ、いつもの茶店で待ってくれていると、幸は途中からでもお父さんと一緒に帰ることができますので喜びます、でも、珈琲はあまり体に良くないのでお勧めしません」

「わかった、オレンジジュースを飲みながら、まだかなって待っているよ」

男は手を振ると、ホーム下へと階段を降りて行った。

お父さん、可愛いなぁ、幸は小さく呟くと、気持ちを切り替えるように頭を振り、背後へと振り返った。

女の子が一人、途方に暮れ、小さくうずくまっていた。

幸は女の子の前に立つと、少し屈み、指先で女の子の顎をくっと上げた。

「基本、あたしは女性には優しいんだ、男嫌いの反動かな。立ちな、そこのベンチに座ろう」

幸は女の子を促すと、並んで、反対車線のベンチに座った。

幸は片手でほおづえをつくと、女の子の顔をのぞき込む。動揺したように、女の子はぎゅっと目を瞑った。

「倉澤早紀。高校三年生、塾についていけず、親に黙って塾を辞めてしまうが、それを言い出せず、街中を彷徨う。塾が終わる時間まで。そんなことを続ける間に、男二人に弱みを握られ、美人局の片棒をかつがされた」

早紀は驚いて幸を見つめた。

「あんたの頭の中、言葉にしただけだ、たいしたことじゃない。あんたにとって運が良いのか、悪いのか。その第一号があたしの父さんなわけだ。殺されずにすんでよかったな。声も大事だろうけれど、死ぬよりかましだ」

幸はにぃぃっと引き込むように笑うと、ゆっくり顔を上げた。

「ほら、もうすぐ列車が来るぜ。男二人、一つ先の駅から引き返して来たようだ」

びくんと早紀の体が震える。浮足だった早紀の手を、幸は指を絡めてしっかりと握る。

「やさは知られてんだ、逃げても意味はない。さて、あたしは父さんに甘えることができて機嫌がすこぶる良い。これも何かの縁だ、助けてやるよ」



列車到着のアナウンス、程なくして各駅の列車が到着し、ドアが開く。たくさんの人たちが降りて来る中、先程の男二人が飛び出すと、目の前に早紀を見つけ睨みつけた。

「逃げずに待っていたとは殊勝だな」

体育会系を体で表現した厳つい男達だった。

「足がすくんで動けなかったんじゃねぇか。うん、なんだ、隣りの女は」

始めの男よりも頭一つ大柄な男、腰を曲げて幸をのぞき込んだ。

「うひょぉ、凄い美人だ」

幸はふっと顔を上げると、笑顔を浮かべた。

「なに改まって言ってんだよ、孝。幼なじみ相手にさ」

「えっ・・・」

幸が引き込むように笑みを浮かべた。

「いつも三人一緒だったの、忘れたの」

幸はもう一人の男を見上げると、柔らかく笑った。

「健史も相変わらず、上に横に成長しているなぁ」

幸が愉快に笑った。

「しばらく見ないうちにお前も美人になったもんだなぁ」

健史がなんの戸惑いもなく、言葉を返した。

「あたしが美人なのは昔からさ」

「そりゃそうだ」

孝がからかうように笑った。

「で、今日はどうしたんだ」

孝がふと真顔になって幸に尋ねた。

「あたし、結婚して上海に行く。旦那の転勤でね」

「お、おい。そんなの初耳だぞ」

健史が面食らったように大声を出した。

「一キロ先にいるんじゃなし、大声出さなくても聞こえるよ」

幸はふと寂しそうに笑みを浮かべ呟いた。

「かえってさ、言いづらいもんなんだよ。だからさ、お詫びに、教えて上げるよ」

「おい、俺達はお前が幸せになるんなら」

「ね、健史。あんた、孝を愛しているよね」

「お、お前。何言ってんだ」

「そして、孝は健史を愛している」

「え・・・」

健史は驚いたように孝を見つめた。

「お互い、相手を愛しているけど、うっかり告白なんかしたら、気色悪るがられるんじゃないか。そう思って言い出せなかったんでしょう。ごめん、それを言うと、あたしだけ、仲間外れになりそうで、わかってたけど、ずっと黙ってたんだ、本当にごめん」

「健史・・・」

孝は思わず呟いた。

「お前、本当に俺のこと」

「孝こそ、そうなのか」

健史が孝の目を見つめて呟いた。

幸が声を潜め囁く。

「人を愛するということに壁なんかないよ。ね、二人とも正直になろう。決して男同士が愛し合うことは悪いことじゃない。ただ、少数派だから、迫害されること、理解してもらえないこと、たくさんあるかもしれない、でも、真実の愛は何よりも強い、ね、健史、孝、そうでしょう」

「そうだ、俺達なら」

健史が孝の目をじっと見つめ囁く。

「俺、健史を大切にする」

「お、俺だって、孝を大事にするさ」

「さあ、遠慮はいらない、二人、しっかり抱き合いなよ」

幸が駄目押しにと二人に語りかける。二人がしっかりと抱きしめ合う。ここが駅のホームであることも忘れ男同士、強く、強く、抱きしめ合う、そして、自然と唇を重ねた。

幸は早紀を促すと、何事もなかったようにベンチを後にした。抱き合う男二人を残して。

「いや、実際、あんながたいの男同士は気味悪いだろう。暗示をかけたのはあたしだけどさ」

改札を出、幸は早紀に笑いかけた。

「もう、あんたのことなんか、頭にないぜ。今、二人で住む新居の壁紙をどんな模様にするか、そんなことで夢中になっているよ」

早紀はこの数分のことが充分理解できずにいた。ただ、あの二人の男から解放してもらったことだけは、感情が理解していた。

早紀はありがとうございますと言おうとして、自分の声が出ないことを思い出した。呻くような音が喉から漏れる。

「それがあったな」

幸は答えると、微かに笑みを浮かべた。

「十一時まで、家には帰れないんだろう。うちに来な、お父さんに呪を解いてくれるよう頼んでやるよ」



「お嬢さん、少しお時間、よろしいでしょうか」

早紀の手を握った幸の目の前に男がやって来た。二十台後半、いや、三十台始めか。皺のない背広を着、笑顔を浮かべている、メガネをかけ、それでいてかなりの美形だ。

「どなたさま」

幸は愛くるしい表情で答える。

「ぜひ、あなたをスカウトさせていただきたいと思いまして」

「うひゃ、早紀どうしよう。モデル、あたしにできるかなぁ」

幸はうれしそうに早紀に微笑んだ。

幸は男に振り返るとおずおずと話しかけた。

「あ、あの。私、お父さんに相談しないとお受けするのは」

「いいえ、あなたのような逸材はまたとありません、男二人の心を自在に操り、記憶まで手を加えてしまう、第一種精神作用者。心を読む感応者はいくらかおりますが、相手の心まで操れる者はまたとおりません」

「おっしゃっていること、わかんないですぅ。おじさまがホームの柱の陰でスカウター付けて能力測定していたことも全然知らないですし、駅や百貨店、人どおりの多いところでおじさまのような人達が超能力者をスカウトしてることも知りませんよぉ」

「それだけ御存じであれば充分です」

男が片手を上げる。通りすがりの会社員、学生、子供連れの主婦、二十人ほどが三人を囲むように円を描き、背中を向けた。

微妙な角度で重なり、中を外から覗けないようにしている。

「君のお父さん、という人にもぜひ会ってみたいものだ」

「だめですよ。お父さん、とっても恐い人ですよ。でも、あたしにはとっても優しいんです、えへへ」

幸が幸せそうに笑う。

「それじゃ、帰ります。お父さんと待ち合わせているんです。早く帰らないと、お父さん、心配しちゃいます」

「帰れると思っていらしゃるのですか」

呆れたように言う男の言葉に、そっと幸は男を見上げ微笑んだ。

「たっぱがあれば自分が優位であると思い込む、お父さん以外の男ってのはガキだなぁ」

幸の表情と言葉の差異に男は一瞬戸惑った。

「田中輝樹君、自分は訓練されているから、読心能力者にも心を読まれないとでも思っているのかい」

一瞬、男の表情に恐怖が現れた。

「俺の心が見えるのか」

幸はふふっと小さく笑うと、それには答えず、男のネクタイをぎゅっと力任せに締め上げた。男は咳き込んだまま、慌てて一歩引き下がり、ネクタイを緩める。

「まっとうな仕事を選んだ方がいいぜ。確かに給料一月手取り八十万円、スカウトに成功した場合は相手の能力につきボーナスが付く。読心能力者で百十万円。心を操れるほどの奴なら、三百万円か。笑いが止まらねぇな」

「お、俺は」

「あんたの会社はスカウトと言えば聞こえがいいが、やっていることは人身売買だ。超能力者をスパイや傭兵に仕立ててのさ」

男が叫んだ。

「捕獲せよ」

その言葉に、壁のように囲んでいた人達が一斉に振り返る。

「ほぉ、久しぶりに見たな。心のない、心臓を提供してしまった人形達か」

「一体何者だ。何処まで知っているんだ」

男は怖じけたように後ずさりをする。

「輝樹君の知っていること、その百倍は知っているよ、裏の裏までな」

幸は倉澤の手を握ったまま、一歩、進み出る。

「無駄だろうが、一応忠告しておいてやる。さっさとこの仕事辞めねぇと、あんたも人形になってしまうぜ」

言い終えた瞬間、幸と倉澤の姿が消えた。

「第一種精神作用者、テレポートまで。なんてこった・・・」

尻餅をついたまま、呟いた



喫茶店のドアを開ける、からんころんと音が鳴り、幸は入り口で男を探した、すぐに見つけると、倉澤の手を握ったまま、男の前の椅子に座った。

そして、隣りに倉澤を座らせる。

「幸、何を飲む、倉澤さんもどうぞ」

男はすっとメニュを倉澤に差しだした。

メニュを受け取った後、自分の名前を知っていることに驚いて倉澤が男を見つめた。

「お父さん、倉澤さん、とっても可愛そうなんだよ。誰か、幸の知らない人に声を出せなくされたんだから」

男は困ったように笑みを浮かべた。

「父さんはどうしたら良いのかな」

「きっと、お父さんなら、倉澤さんの声を取り戻せると思うんだ、どうかな、お父さん」

「うーん、倉澤さんに父さん、謝ったほうが良いのかな」

にっと笑みを浮かべ、幸が口を閉ざす。

「幸にはかなわないな」

男は笑みを浮かべると、すっと左手を倉澤の喉元にやり、埃を払うように指先を揺らめかせた。

「呪は解いたよ。倉澤さん、あー、って言ってごらん」

倉澤が声を出そうとする、息を吐き出す音が「あ」という音に変わった。

「もう、普通に喋れるよ」

「あ、ありがとうございます」

倉澤が男に言った。

「お父さんは頼りになるなぁ」

「どうぞ、頼りにしてください。頑張ります」

男は少し笑うと倉澤を見つめた。

「ごめんね、恐い目に会わせてしまった」

「いいえ、わ、私こそ・・・」

ウエイトレスがお冷やを持ってやってきた。

「ホット珈琲を願いします。倉澤さんは」

「え、あ、あの、えっと、同じで」
ウエイトレスが注文を復唱し戻った後、男は幸を軽くにらむ。
「ここの珈琲美味しいんだけどね。父さん、オレンジジュースを飲みましたけど」
「お父さんの、その素直にオレンジジュースを飲むのが、とっても可愛いなぁ。幸の、半分あげるよ」
「ありがと」
男は仕方なさそうに笑った。
ふと思い出したように幸が言った。
「さっき、スカウトされた」
「え、女優とかモデルとかのスカウトか。そ、そういうのは、きっと悪い奴だから、絶対に」
「ううん、超能力とか言ってた」
「まっ、それならって・・・、あぁ、そういえば反対車線のホームにいたな。幸、いじめたな」
「ちょっとね」
幸はちょっと舌を出して笑う、男がひとつ吐息を漏らす。
そして、男は窓から、外を行く人達を眺めた。
「科学が変な方向へと進んでいる、魔術と融合しようとしているようだな。そして、ほとんどの魔術は巨大な力を借りて発動する。借りれば返さなきゃならない、それに見合うもの。未来だ」
「いつか、この文明も廃墟になるのかな」
「多くの歴史がそれを教えている。未来を他者に差しだしてしまえば、自分の未来はなくなる、結果は廃墟だ」

ふと見ると、倉沢が泣いていた。

「どうしたの」

幸が倉沢の顔を覗き込んだ。
「変です、なんだか、急に悲しくなって」
男は小さく呟いた。
「幸、この娘は」
幸はそっと倉沢の頭をなでる。
「お父さんの感情に感化したんだ。お父さんと同じ質を持っているよ。こういうのも縁なのかな」
男は背もたれに凭れると呟いた。
「普通に暮らせるなら、普通に暮らすのが一番良い」
「大切なのは、自分の頭で考えて生きるってこと、お父さんの普通はそういう意味だけど、ほとんどの人の普通は流されて生きることだよ、それじゃ生きていないのとたいして変わらない」
「幸、頭を出しなさい」
素直に、幸が頭を差しだした、男が幸の頭をなでる。
「よくできました」
男はくすぐったそうに笑みを浮かべた。
珈琲が運ばれてくる。
「倉澤さん、砂糖はいくつ」
気軽に幸が倉澤に尋ねた。
「あの、二つで。・・・ご、ごめんなさい」
幸が面白そうに笑った。
「謝る理由はないよ、幸の前に砂糖があるんだからさ」
「お父さん、クリーム入れるよ」
「入れていいよ。なんだかね、インスタントに慣れてから、ブラックってこだわりがなくなってしまった」
「お父さん、それは良いことだよ。ブラックは胃腸に負担がかかるもの、なんたって、お父さんの肩には人類の未来がかかっているのです。大事にしてください」
「父さんの肩にか」
「そうだよ。お父さん、いなくなったら幸は狂って、人類大量虐殺してしまうかもしれないからさ」
「うーん、頑張って長生きします」

男は困ったように笑った。

「幸さん、お帰りなさぁい」
礼子がぱたぱたと玄関にて三人を迎えた。
「ただいま」
「そうだ、幸さん。お姉ちゃん、怒ってますよぉ」
礼子が悪戯げに笑みを浮かべた。男はすっと玄関を上がり、部屋へと向かう。
「刺激、強すぎたかなぁ、謝ってこよう。早紀ちゃん、上がって。みんなで晩ご飯食べよう」
「は、はい」
二人が玄関で靴を脱ぎ、中に上がった時、ふと、礼子が呟いた。
「あれ、おじさんは・・・」
幸が小さく呟いた
「お父さんの行動を把握できるのは幸だけだなぁ」
幸はにっと笑った。

「啓子さん、怒ってるのかなぁ」
あかりを点けず、向こうを向いたままの啓子にそっと幸が声をかけた。
一呼吸おいて、啓子が答えた。
「全然、怒っていませんから。ですから、ほっといてください」
「それ、怒ってるよ」
幸が啓子の服の裾をくっと引っ張る。
「ごめんなさい、言い訳はしない、本当に驚かしてごめんなさい」
啓子が振り返る。
「驚いた、幸さんがごめんなさいって言うの初めて聞いた」
幸はぎゅっと啓子の手を握り締め、啓子の耳元で囁く。
「ごめんなさい、啓子さん。許してください」
ふっと啓子の肩の力が抜けた。
「意地張ってた、ごめん、幸さん」
幸はほっと吐息を漏らすと、気持ちを入れ替えるように笑みを浮かべた。
「ナポリタン、食べよう、美味しいよ」

テーブル二つ繋いで、それぞれのテーブルにナポリタンの大皿を置く。幸が嬉しそうに人数分の皿を並べていく。
反対側から、恵がお箸を並べて行く。
「やっぱ、日本人はナポリタンもお箸だよね」
幸が笑った。
「たいていのものはお箸で事足りますよ」
ふっと中程まで来て、恵が幸をじっと見つめた。
「恵さん、どうしたの」
「幸さん、私を避けていますね」
「え、そんなことないよ」
「微妙に声が緊張していますよ」
幸が困ったように笑みを浮かべた。
「ごめん、嘘をつくのは得意じゃないんだ」
微かに吐息を漏らす。
恵はじっと幸を見つめたまま言った。
「私は幸さんに救っていただきました。体を引き剥がされていく恐怖、全くの闇、なにものにも触れずこともできず、音もなく、時間すらも意味のない全くの孤独から幸さんは私を救いだしてくださいました。大恩ある幸さんの好まないこと、私はしません」
「ありがと、なんていうのかな。ほっとした」
幸が本当にほっとして笑った。恵も安心したように笑う。
「でも、もしも、先生が幸さんみたいに二人になったら、一人ください」
「それはだめ、どっちも幸のだ」
幸がくすぐったそうに笑った。
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最終更新日 : 2013-05-11 17:34:02

異形 雨夜閑話三話

「私、おじさんに罪を被せようとしました、大声で痴漢って叫ぼうとしました」
全員が硬直した、男や幸までも。

全員がテーブルにつき、晩御飯を食べようとした瞬間だった。倉澤は突っ立ったまま、ぼろぼろに涙を流していた。
「えっと・・・」
啓子が呟いた。
「ここは先生が倉澤さんを泣かしたということで収めればいいのではないかと」
「そう・・・、だね。お父さん、倉澤さんに謝ろう」
幸も呟く。
「ごめんね、倉澤さん。だから、もう泣かないでくれるかな・・・」
男はどうしたものかと戸惑っていた。取り合えずというのは嫌いだが謝ってこの場が収まるのならそれでいい。
「ごめんなさい、私、おじさんや皆さんにこんなに優しくして貰って、なんだか、とても自分が悪く思えて、ううん、とっても悪い人間だから・・・」
幸は立ち上がると倉澤をぎゅっと抱き締め、そっと彼女を座らせた。
「そのことは許すよ。倉澤さん、男二人に脅されてのことだよ、男はとっても恐い野生動物だからね、仕方ないよ」
男以外のここに居る全員が、あんたは違うでしょという突っ込みをぐっと抑える。
「お父さんも怒ってないし、幸も怒ってないよ」
男は既にナポリタンを食べだしていた。それを見て、啓子も食べ出す、おおよその予想がつく、父親以外の男が如何に邪悪な存在か、幸の演説が始まる、話が終えるころにはすっかりナポリタンも温野菜も冷めてしまうだろう、
「啓子さん、トマト、美味しいですよ」
「今までのトマトって、偽物だったんじゃないかって思うよね」
恵の言葉に啓子が頷いた。
「それ、言えてる。あたしもここのトマトなら食べられるもの」
礼子が嬉しそうに言った。
幸は出先を挫かれて、ううっと唸っていたが、肩を落とし言った。
「倉澤さんも早く食べよ、暖かいうちに」
幸が男の横に戻る、男は幸の頭を撫でた。
「ちょっと成長したね」
「お父さんが一番最初に食べ出したよ」
幸が拗ねたように男を見つめた。
「お腹減ってたからね」
男が少し笑う。
「お腹減っている人達にまだ食べるなと言っている自分を想像してごらん、孤独な独裁者になってしまう、独りぼっちになってしまうぞ」
男はくすぐったそうに笑うと、手を戻し、サラダを食べる。
「幸の育てたトマトは美味しい」
幸は溜息をつくと、ナポリタンを食べ出した。
「今日は啓子さんにも叱られたし、お父さんにも叱れたよ」
「つまりは今日だけで幸は随分と成長したわけだ。おめでとう」
「おめでとう、幸さん」
啓子が笑った。
「幸さん、おめでとうございます」
恵まで楽しそうに幸に声をかけた。
「あ、なんだか、嬉しい気分。あぁ、幸は単純すぎるよぉ」
幸が俯いて頭を抱えた。
「おめでとうございまーす」
礼子と理恵子が声を合わせて言った。
「あ、あの、えっと、おめでとうございます」
分からないなりに、倉澤まで幸に声をかけた。
「自分で一人喋るより、いっぱい、声をかけて貰う方が楽しいだろう」
幸はそっと顔をあげると呟いた。
「うん、ありがと・・・」
皆が声を出して楽しそうに笑う。
二時間近く、お喋りをしながらの晩御飯は、幸にとってとても楽しいものだった、それは倉澤も同じで、こんなふうに自分の今までと変わってしまうのが信じられないくらいだった。
男は食べ終えると、食器を洗おうと立ちかけたが、ふと思いつき、幸に声をかけた。
「幸、倉澤さんに数学を教えてあげてくれるかな、それに恵さんにも頼んでくれないか、彼女に英語を教えてくれるように」
幸は恵が高校の英語教師になるつもりだったのを思い出した、もっとも、非合法組織のスカウトにふらふら付いて行ってしまい、今に至るわけだが。
「それいいな、うん、頼んでみるよ」
男は頷くと、流しへと向かった。
恵はととっと幸の横に来ると、興味深そうに幸の顔を覗き込んだ。
「幸さん、何をすれば良いですか」
「倉澤さんに英語、教えてくれないかな、何カ所か勘違いしているところ、直したら一気に理解が進むと思うんだ」
「幸さんの仰せなら、例え火の中、水の中」
「つまり冬は暖い炬燵の中、夏は冷たいプールの中ってことだ」
啓子が笑った。
「穿ってるなぁ、啓子お姉ちゃんは」
「えっ・・・、お姉ちゃんって」
啓子が驚いて恵を見つめた。
恵は気にする風もなく、倉澤の隣りに座る。
「早紀お姉ちゃんって呼んでいい」
恵が屈託なく笑みを浮かべる。
「は、はい」
「私のことは恵って呼び捨てにしてください。これから早紀お姉ちゃんに英語を教えてあげます」
「恵ちゃんって、ひょっとして帰国子女なの」
恵は横に首を振ると、じっと倉澤を見つめた。
「ネイティブは自信ありません、でも、受験英語にはかなり自信有ります」

啓子が小声で囁いた。
「幸さん」
「ん・・・」
「恵・・・、ちゃん。のりのりだ・・・」
「凄いよね」
「おっきいお姉ちゃん達、なにか」
「いいえ、何も・・・」
幸と啓子の声が重なった。

男は部屋に戻ると、机に置いた茶封筒を掴んだ、珍しく郵便受けに入っていたものだ。ごみ箱にと思ったが、気を取り直して開封する。
白紙の便箋が一枚。
「今頃、本家がどの面下げて、ってな話だが、白澤のおばさんには義理がある」
男は吐息を漏らすと、椅子に座ったまま目を瞑った。
男は子供の頃の、みずち家に囚われていた記憶を蘇らせる、殺されずに抜け出せたのは、白澤妙子の機転と勇気によるものが大きい。
幸と本家に乗り込んだ時、無理にでも連れ帰れば良かったのだろうか。一緒に帰りましょう、恩返しをさせてくださいと言った言葉に偽りはない。
「お父さん、いい」
襖の向こうから幸が男に声をかけた。
「どうぞ」
幸は男の部屋に入るとにっと笑った。
「恵さん、凄いよ。教えるのが巧くて的確だ」
「そっか、人ってのは本当に面白いな」
「お父さん、一歩、引くといろんなものが見えて来るし、現れて来るね」
「幸 おいで、そしてね、父さんに背中向けなさい」
「こうかな」
幸は椅子に腰掛けた男の前に立つと、男に背中を向けた。
男が、左手を摩るように幸の首の後ろから、肩、背中へと触れていく。
「滞ってたのが、綺麗に流れている」
男が手を戻すと同時に幸が振り返る。
「お父さん、ありがとう」
「父さんはちょっと方向を指さしただけ、実行したのは幸だよ。でもさ、ありがとうって言われると、嬉しいな。幸、ありがとうって言ってくれて、ありがとう」
幸は男をぎゅっと抱き締める、ふと、手紙を見つけた。
「お父さん、これは」
「招待状だ。観月の宴。もっとも、ホテルの中なんだから、月を愛でるのは目的じゃない」
幸は男にしな垂れかかったまま、右手で便箋を男から受け取った。
「白澤さんからの御指名かぁ、幸は苦手だ、あのおばさん、喧嘩になっちゃう」
「向こうもそう思っているんじゃないか」
男が笑った。
「それに、お父さんを子供扱いするんだもの」
「まっ、年寄りは得てしてさ、そんなものだよ」
「あれ、お父さん、これ、今日だよ。もうすぐ、始まる」
「律義に最初から座っている必要はないさ」
「お父さんは行くつもり、それなら、幸がボディガードについて行くよ」
「それは安心。幸がいてくれれば百人力だ。でも、だめ。ここにいなさい」
「行く、行く、行くよ。幸にはお父さんを護る義務が有るもの」
「そんな義務はないよ」
男は笑みを浮かべると幸を立たせた。
「啓子さんも恵さんも言ってたけど、ここはシェルターみたいなものだ。そして、ここがその機能を果たすには、鍵である父さんか、畑を作って地に深く縁が出来始めた幸のどちらかがいないといけない、昼間ならともかく、夜、長く二人がここを空けるのは良くないんだ」
「うん、・・・わかった」
幸が素直に頷く。幸の心に皆を護ろうという意識が芽生えたこと、男は少し寂しくもあったが、それ以上に嬉しく思う。
「娘の成長を見守ること、これは父さんにとってとても嬉しいこと。随分と成長したね」
「だって、お父さんを信頼していますから。でも、ピンチだって思ったら、お父さん、必ず、幸を呼ぶこと、一瞬で駆けつけます、抜き身の刀、担いで、いいですね」
「思いっきり叫ぶことにするよ」
男が笑う、幸は安心したように笑みを浮かべると、自分の髪を一本、抜く。
「幸の体はすべてお父さんからいただいたもの、髪の毛、一本、お返しします」
幸が男の右肩、ほんの数センチ、残った腕の後に髪の毛を巻く。
そして、目を瞑り、微かに言葉を呟く。
やがて、うっすらと男の右腕が現れ、実体化した。
「幸の育てたお父さんの右腕です。どうぞ、使ってください」
男は久しぶりに見る右手、その指先を少し動かして見る。まったく違和感がない。
「父さんは、この右手で、お箸を持ったり、ボールペンを持ったりすると思う。いや、ひょっとしたら、敵を殴っているかもしれない。でも、最初の仕事は」
そっと、男は幸の頬を右手で触れた。
「この右手に、幸の優しさ、やわらかさを覚えさせることだな。ありがとう」
男は少し恥ずかしげに笑みを浮かべると、部屋を出た。
幸はしばらくの間、ぼぉっと余韻に浸っていたが、はっと気が付くと慌てて叫んだ。
「幸乃さん、幸乃さん」
「はぁい」
幸乃が幸の前に現れた。
「お願いです、お父さんの後を追ってください」
「お父様を信頼していますって、聞いた記憶があるけど」
「でもでも。お父さん、ピンチになっても幸を呼ばないよ」
幸乃はいたずらげに笑みを浮かべた。
「幸を危険な目に合わすことはできないってお考えになるでしょうねぇ」
「だから、幸乃さん」
幸が涙目になって幸乃に嘆願した。
「泣きなさんな。呼んだら、すぐに来るのですよ」
「はい、行きます」
幸乃は仕方無さそうに笑みを浮かべると、そっと幸の頭を撫でる。
「お父様以外のことでしたら、随分しっかりしましたのに。しょうのない子」
幸乃はそっと笑うと姿を消した。

「幸さーん」
啓子の呼ぶ声が聞こえた。
「ここです、お父さんの部屋、どうぞ」
幸が声をかける、ゆっくりと襖が開き、啓子がのぞき込んだ。
「幸さんに数学を。・・・泣いていたの」
幸の眼がまだ涙に濡れていた。
「お父さんが出掛けてしまって、なんだか寂しい」
微かな笑みを浮かべ呟く。
そして、先程の便箋を啓子に見せた。
「白紙ですけど・・・」
幸はゆっくりと立ち上がり、啓子の目頭を指先で触れる。
「あ・・・、書いてある。観月の宴。日付は今日だ」
「様々な呪術の組織が集まって、鬼への対策を協議するらしいよ。多分、警察や自衛隊からも参加がある、大きな集まりだね」
幸は啓子から便箋を受け取ると、封をし、机の上に置く。
「これで鬼が減れば暮らしやすくなりますね」
「人類と鬼達は表裏一体。ともに存在し続けるのが正常なのさ、でも、今は人の力が弱くなり過ぎて、吊り合わなくなってしまっている。それが問題の根本だ。ただ、お父さんは協力しないだろうなぁ」
「先生はどうして」
「希代の術師 無は鬼も嫌いだけど、呪術師も同じように嫌いだからね。さて、二人に数学を教えてくるかな」
部屋を出かけた幸に啓子が声をかけた。
「幸さん、言葉がおとなしくなった」
幸が振り返ってにっと笑った。
「日々学習、ありがと、啓子お姉ちゃん」

男はとある名の通ったホテルの前にいた。入り口の自動ドアで、正装したドアボーイが案内してくれるといったホテルだ、普段着では入りにくいホテルだが、意を決して中に入る。
「千尋ちゃん、こっちよ、こっち」
仕立ての良い着物を着たおばあさんが笑顔で男を手招いていた。
男の通り名を知っているのは幸と佳奈。それに、本家の年寄り連中だけだ。
「名前を呼ぶのは勘弁してください」
男が困り切ったように笑った。
「ごめんなさいね、だって、懐かしかったのだもの」
「しょうがないですね」
男は白澤に近寄ると会釈をした。
「白澤さんもお元気そうで何より」
「いいえ、あちらこちら、がたが来ていますわ。早くお迎えがこないかしら。おや、今日はあのこまっしゃくれたわるがきは付いて来てはいないようね」
「ええ、留守番をさせて」
「よお、ばあさん。無駄に元気そうだな」
幸乃が男のお腹から頭だけ出して、白澤に笑いかけた。
一瞬、白澤が笑みを浮かべたまま、硬直した。
「どうだ、びっくりして、その辺、お迎えが来てないかな」
幸乃は蠢くようにして、男のお腹から這い出ると、男と白澤の間に立つ。
「電話一本で、あたしが、お向かえ呼んでやるから、いつでも連絡くれよな」
男は驚いて、幸乃に声をかけた。
「どうしたの」
幸乃は振り返ると男に笑みを浮かべた。
「私はおまえ様の妻です。妻が夫の横にいて何の不思議がありましょう」
幸乃は男の右腕に自分の左腕をからめると、そっと男を見上げた。
「怒っていますか」
「相当、甘い父親のようで、逆にほっとしていますよ。あれ、腕が」
男は幸乃の左腕の柔らかな感触を感じた。
幸乃が初めて恥ずかしげに笑みを浮かべた。
「右腕だけですが・・・。妹のおかげです」
茫然としていた白澤は意識を取り戻すと呆れたように笑った。
「相変わらずね、貴方は」
「お褒めいただきありがとうございます」
幸乃は平然と答えると、辺りを見回した。
「ホテル全体が澱んでいますわね。上から澱が滴って来るようね」
「会場は八階、鳳凰の間ですわ。さあ、どうぞ」
男はふとエレベータを見たが、視線をそらすと、職員用階段を見つけ、そちらへ向かう。
幸乃が振り返り、白澤に言った。
「おばあさん、無理せずエレベータをお使いくださいね」
「エレベーターに食われるような、人生の終わり方はまっぴら」
嫌みたらたら白澤が答えた。

鳳凰の間の前では、記帳のための席が設えられ、対応のため、女性が二人、座っていた。
男はふと立ち止まり、幸乃に話しかけた。
「父さんの中に隠れていなさい、鬼も術師もたいした違いはない、部屋の中は障気で満ちているようだ」
幸乃はうなずくと、男の体に溶け込んだ。
「本当にお前の娘は人間ばなれしているねぇ」
白澤がほとほと感心したように言った。
「ちょっとした個性というものですよ」
男は笑うと、そのまま、何事もなかったように部屋へと入って行った。
「記帳もせずに扉を開けるお前もなかなかのものです」
ふと、白澤は男の若い頃、まるで刃のような気配を漂わせ人を否定していた頃と今の和やかになった男を思い比べ、これも娘のおかげかと納得した。

少なくとも鬼ではない、しかし人間と言い切るのは躊躇われる、立食パーティーの様を言葉にすると、そんな表現になる。
老若男女、様々な年齢の少しばかり、人間ばなれした異形のものたち、呪術の多くは神だとか、悪魔、魔物の力を借りて発動させる、言わば、人の体は力の流れ る通路のようなものだ、しかし流れるのは力だけでなく、呪術者の多くはその力借るモノたちに体も考え方も従属し始めてしまう。ふと足元に気配を感じる、見 下ろすと、芋虫のように体を波打たせながら、若い女が通り過ぎて行った。
「旧支配者の流れか・・・」
男は呟くと辺りを見渡した。いくつもの円形のテーブルが並び、そこかしこで談笑が交わされている。この談笑の影で、鬼対策の会議が開かれているのだろう。
美しい女が、笑顔を浮かべ、接待だろう、ワインを注いだグラスを男に差し出した。
「赤ワイン、それとも白ワインがよろしいでしょうか」
男は少し寂しそうに笑みを浮かべると、手でそっと制した。
「アルコールは苦手なのです。体が受け付けないので」
男はついっと女の持つグラスの載ったプレートを片手で支え、顔を寄せ囁いた。
「派遣会社からいらっしゃったのですね。君の名は田中さん、私の娘と同じくらいの年格好だ、ここは恐くないですか」
引きつったような声で女が呟いた。
「ごめんなさい・・・」
女が笑みを浮かべたまま、涙を流した。
「正直にどうぞ」
「恐くて仕方がありません」
男はプレートを受け取り、テーブルに置いた。
「エレベーターはいけません、喰われてしまいます。階段を思いっきり走りなさい、そして、このホテルから逃げ出しなさい。もしも、引き留められたときは・・・」
「引き留められたときは」
男が呟いた。
「我、無の眷属なり、我に触れるな。そう、叫びなさい」
男はふわっと女の後に廻ると背中に触れた。軽く押す。
「走れ」
男の言葉に女が駆けだした。

「こんなところに普通の人を入れるなんてな、餌にでもして楽しむ気か」
男は呟くと、もう興味をなくしたように辺りを見回す。
見つけた、あかねちゃんだ。
あかねがテーブルについていた、随分と顔色が悪い、疲れ切っているようで顔を上げているだけで精一杯のようだ。
男が駆け寄る、瞬間、二人の間を黒い影が遮った、ふわっと男は高跳びのように、身を翻し反転すると同時に影を蹴り上げる、影に当てる寸前、男は脚を止めた。
「女の子、猫か・・・」
三人の女の子が身を守るように腕で顔を守り、うずくまっていた。
男は背を向けると、あかねに向き直った。いつの間にか、白澤があかねの横に座っていた。
「困った子、攻撃の早さと速さは相変わらずね」
白澤が溜息を漏らす。
男はあかねの横に座り、その手首を見つめる。あかねの手首には呪府が幾重にも巻かれていた。
「迷惑をかけないようにと、そうしたのだろうけれど、だめだよ。でも、頑張ったね」
男はそっとあかねの頭をなでる。そして、あかね越しに白澤を見つめた。
「助けてくださったのですか」
「ええ、お前が蹴り飛ばそうとした、私の曾孫三匹がね」
呆れたように、白澤が笑った。
とたたたっと三人の女の子が駆け寄ってきた、普通の女の子、しかし、瞳だけが、まさしく猫の眼だった。
「せっかく、交渉しようとしたのに」
「そうだよ、予定外だよ」
「おっさん、器用すぎるぞ」
口々に言う、猫女。
「がきが何か、いいえ、お嬢様がたが何やら交渉とか、おっしゃってますが」
「ちょっと、お前にお願いしたいことがあってね」
「こら、おっさん」
「無視するなよ」
「あぁ、何様のつもりだ」
白澤がぎろっと猫女を睨み付けた。一瞬に三人とも小さく縮こまってしまう。
「お前の娘ほどではありませんが、どうも、今時の娘は口が悪すぎます」
「テレビの影響もあるのでしょうかね」
男がとぼけたように言う。
「ところで」
白澤は笑みを浮かべ男に言った。
「お前の娘が大層大事にしているこの子を囚われの身から解放しました。そのかわりにと言ってはなんですが、私の曾孫にそれぞれ一つずつ、お前の術を教えてやってくれませんか」
「本家の術が正当、私のは随分、我流が加わってしまってお教えするほどの価値はありませんよ。なにより、白澤さんなら、当主の義兄も嫌だとは言わないでしょう」
「もちろん、言わないでしょうけどねぇ・・・」
白澤は思案げに顔を曇らせたが、意を決したように男を見つめた。
「本家は独自に鬼と闘う体制を整える予定です、連合には入りません。そのためには確実に鬼を仕留める術が必要です」
男が仕方なさそうに笑みを浮かべた。
「白澤さんの本意が、本家を守ること、一点に集中していること、余程、初代は魅力的な男だったのでしょうね」
「例え、人の身ではない私でもね、丁度、お前と娘の関係のようなものですよ」
「上では、会議中、それぞれの派が警察と自衛隊の特殊部隊に、術と技を提供する方向で決まりつつあるようです、本家なら、指導的立場になれますよ」
「本家の術を流出させるわけにはいきません」
男は視線を戻し、俯き考える。やがて、顔を上げると、白澤に言った。
「一つだけ条件を呑んでください、そうすれば、教えましょう」
ほっとしたように白澤が笑った。
「条件とは」
「こいつら、三人とも避妊手術してありますか。猫も少しなら可愛いけれど、数か増えて、あちらこちらで、糞をされても困りますし、盛りがついて屋根で鳴かれたら眠れません」
「なにいってんだ、このやろう」
「人権蹂躙だ」
「顔洗って出直せや」
男が愉快そうに笑った。
「避妊手術はしておりませんが、猫又は猫とは体の仕組みも違いますから増えることはありませんわ」
白澤が愉快に言った。

男はあかねを背負い、猫娘三人を引き連れ、階段を駆け下りていく。飛ぶように降りていく。
「なんで、人間があたし等より速いんだよ」
「スピード違反だぞ」
「女を大事にしない男は最低だ」
男は無視して駆け下りていく、一階ロビーに到着すると、速度を緩めないまま、閉まりかけた自動ドア、すり抜けホテルから飛び出した。
ふと、男はホテルから少し離れたところに先ほどの女がうずくまっているのを見つけた。
ふわっと、男の横に幸乃が現れた。
「あの子、ホムンクルスですわ」
幸乃が男に言った。
「人造人間・・・、でも、まったくの人間だ」
「ええ、なんの力も無い普通の人間仕様です」
男は幸乃と一緒に、女に駆け寄ると声をかけた。
「大丈夫ですか」
女は男を見つけると、ほっとしたように笑みを浮かべた。
「先ほどは助けていただきありがとうございます」
「どうしたのです」
困惑したように女が言った。
「私は何処へ行けばいいのでしょうか、何も思い出せない」
幸乃がじっと女を見つめる。
「景品として作られた、食用、愛玩用ですわ。簡単な記憶を設定しただけの」
男が小さく呟いた。
「術師も鬼もたいした違いはないな」
「おまえさま、右手で彼女の額を抑えなさいまし、そして、名前を。でないと、彼女は消えてしまいますわ」
男はそっと女に囁いた。
「生きていたいですか」
女が戸惑いながらもうなずいた。
男は女の額にそっと右手を触れると、小さく囁いた。
「私が君に名前を付けます」
男が言葉にならない音を呟いた。一瞬、女が吹っ飛びかけたが、猫娘三人、慌てて、後から女を支えた。
男がそのまま座り込んでしまった。
「幸乃、どうしようか。幸はびっくりするたろうな」
「あかねちゃんはともかく、四人も女性が増えてしまいましたわね」
幸乃が気楽そうに言った。

「まっ・・・、この方はお父さんが名前をつけたわけですから、姉妹として歓迎します、事情は幸乃さんに教えていただきました。でも、この猫娘三人は白澤九尾猫を思い出してしまって、幸はいじめてしまうかもしれませんよぉ」
あかねを寝かせつけた後、幸は男に泣きついた。
猫娘三人、直立不動で緊張していた、幸に一睨みされ、震え上がってしまったのだ。
「本当にいるんだ・・・」
啓子が興味深そうに猫娘を見つめた。恵や礼子、理恵子に倉澤は、襖の向こうから顔だけ出して、興味深そうに覗き込んでいた。
「質問いいかな」
「な、なんだよ」
手前の猫娘が答えた。
「二股になった尻尾はないの」
「人型に化身して、尻尾だけ残すような愚かなことはしない」
「でも、瞳はまるっきり猫だよ」
「眼は難しいんだ、でも、普通の人間からは、猫の目には見えてないはずだ」
緊張したまま、答える。
啓子はうなずくと、襖の向こうを手招きする、待ってましたと恵達がやって来た。
「猫の目に見える人」
啓子が声をかけると、恵と倉澤が手を上げた。
「早紀ちゃん、見えるの」
礼子が驚いたように言った。
「うちで飼っていた、たま三号と同じ目ですよぉ」
倉澤が答える。幸乃は礼子と理恵子の後ろに立つと言った。
「人差し指を瞼の上に置いて、目を細くして、ちょっと睨むように見てごらんなさい」
言われたように、目許に力を入れ、じっと見つめる。
「わっ、凄い。見えた」
二人、同時に声を上げた。
幸乃は少し笑うと、男に助け舟を出した。
「幸、この子達にお礼を言いなさい、あかねちゃんを助け出してくれたのですよ」
幸はううっと唸りつつも、顔を上げ、ひきったような笑みを浮かべた。
「ありがとう、とっても感謝しています」
「ご、ごめんなさい」
「どうして謝るの」
「雰囲気が怒った時の白澤のばあさんにそっくりで・・・」
うっ・・・、幸が息を飲んだ、一番、言われたくないこと。
ふと、男が思いついた。
「幸が三人に教えてやってくれないかな、術を」
幸は大きく深呼吸をすると、気持ちを入れ替えるように頭を振った。
「お父さんの命により、幸はこの子達に術を一つずつ教えます。ただ、厳しい修行になりますので、ひょっとして幸がいじめているように見えることもあるかもしれません。でも、それは誤解でありますこと、ここにあらかじめ宣言します。さて、貴方達、名前を教えなさい」
「ま、まだ、ないんだ」
幸の言葉に恐れつつ、一人が答えた。
「なら、左から、白、黒、三毛。名前決定。幸は貴方達の名付け親です。決して、逆らうことを許しません」
一気に言うと、幸はぱんと両手を叩いた。猫娘が瞬間、三匹の猫に戻ってしまった。左から、白、黒、三毛猫。おおっと礼子や理恵子が感嘆の声を上げた。
「お風呂、直行」
幸が声を上げた。
「黒、もーらい」
啓子が黒を抱き上げ風呂場へ向かう。
「お姉ちゃんずるい」
礼子が白を抱きかかえた。
恵は三毛の横にしゃがむと、尻尾を手で持ち上げた。
「根元は一本で、後ろ、半分位から二本に分かれているんだ。面白いなぁ」
倉澤もしゃがむと、尻尾の断面を見る。
「分かれているところ、内側は平らですよ。本当に縦半分に割れた感じですねぇ」
「時間が経つと、その平が丸くなっていくかもしれない、それで、いつから猫又になったかが分かるかもしれないよ」
恵が立ち上がる。
「お姉ちゃん、どうぞ。恵はあんまり、猫、得意じゃないから」
三人、猫を風呂場へと連れていった。
「シャンプーとトリートメントで、毛が無くなるくらい、がしごし洗ってくださーい」
幸が三人に声をかけた。
幸乃は男に少し手を振り、笑みを浮かべると、幸の体に戻って行った。
「賑やかになりますねぇ」
恵が笑った。
幸は、ほっとして、畳に座り込むと、少し笑った。
「面白いよね。そうだ、お父さん」
「ん」
「倉澤さん、今晩は泊まることになったよ」
「合宿気分で楽しそうだな」
幸はにっと笑うと、所在なげにしている女の手を握った。
「普段の名前をつけて上げてください」
男は女の眼をじっと見つめる、そして、笑みを浮かべた。
「あさぎ。で、いかがですか。これから成長して行く植物の色。これからたくさんのことを覚えて行く君にちょうどいいかな」
「あ・・・、ありがとうございます」
「あさぎ姉さん、どうぞ、よろしく」
幸は笑みを浮かべると、しっかりとあさぎの手を握った。

皆が寝静まった後、男は起き出して、台所で水を飲む。テーブルにつき、ガラスコップにいれた水を眺める。
男はあかねのことを考えていた、詳しい状況は聞かない、でも、相当に苦しめられたことはわかる。酷な話だ。
男はふっと顔を上げると闇に声をかけた。
「シャンプーの香りが体中から発散してますよ」
男が笑みを浮かべると、闇の中から黒が現れた。
「どうぞ、座ってください」
男の言葉に、黒は警戒しながらも、テーブルの反対側に座った。
「眠れませんか」
「いや、人間のように夜に寝るという習慣がないだけだ、それに、啓子さんに押し潰されそうになって逃げてきた」
男が声をひそめて笑う。
「そこそこの鬼くらいだったら、啓子さんは素手で倒してしまいますよ。とばっちり受けないよう気をつけてください」
「あんたがあたしらに直接教えてくれないのは、術が惜しいからか」
黒は男を睨むようにして言う。
「白澤のばあさんの命令はあたしらには絶対だ。どんな強敵相手でも戦わなきゃならない。どうしても強くなりたいんだ」
男は困ったように笑みを浮かべた。
「私と幸では、遥かに幸が強く、また、教えるのもうまい。それに、幸は真直ぐですから、貴方方が真剣に学びたいと思えば、それに誠実に答えるでしょう。私は本家とのわだかまりがあります。誠実に教える自信に欠けるのですよ」
「娘の方が強いというのか」
「なんていうのでしょうね。大事な娘が男に泣かされては大変、しっかり強く育てなきゃと、ん・・・、強く育てすぎたかな」
男は小さく笑うと、黒に笑みを浮かべた。
「多分、白澤さんもあなた方のこと、思うばかりに、ある意味、敵対する私に自分の血族を委ねたのです。本家を名目だけでなく、実質的に再興させるためにという理由もありましょうけど、ともかく、私の術を身につければ、あなた方が殺されることはなかろうとね」
男は視線を少し上げる。
「幸、この子達は幸の娘でもあるわけだ。名付け親だからね」
黒の両肩に幸の手がそっと触れた。びくんと黒が震え、硬直する。
「親としては娘三人の行く末が心配だ」
幸は黒に顔を寄せると声をひそめ囁いた。
「いつまでここにいられる」
「八日間だ」
「短いなぁ、もっと楽しみたいのにな」
幸はふっと笑うと、黒の横に座った。
「黒が姉で、白と三毛は姉に従って、白澤のばあさんの言うことを聞いている、そんなとこだな。黒、八日間、寝ずに修行できるかな」
「で・・・、できる。もちろんだ」
「なら、今から修行、大丈夫、半日くらいは休まさせて上げるよ」
幸は男に向き直った。男が笑みを浮かべた。
「幸の仕事は、父さん、頑張るよ。啓子さんや恵さんもいるからさ、なんとかなるよ、それにあさぎもね。だから、しっかり教えなさい」
「ありがとう、お父さん」
幸はほっとしたように笑みを浮かべると、黒に向き直った。
「あなた達がどんなに大変な思いをして、危険の中、あかねちゃんを助けてくれたかということ、わかっている。本当にね、感謝しているよ」
幸は両手でしっかりと黒の手を握った。
「だから、覚悟してください。しっかり、教えます」

空は下弦の月、梅林の中、幸の前に三人の猫娘が立つ。
「あなた達の体は人の体よりも自在に動きます、でも、それでも遅い。ですから、全ての無駄を排した最速の形を教えます。最初は素手。そのあと、武器術を教えます。それが終われば、呪術を教えます。最後は武術と呪術の同時発動を教えます。いいですか」
「はい」
緊張した面もちで三人が答えた。
幸は微かに左足を半歩引いた。
合わせて三人の足が動く。
「勝手に足が動いた」
黒が呻いた。
「三人の体は幸が操作します。まずは逆らわずに受け入れなさい。そして、経験しなさい、最速という無限の瞬間を」
幸が動き出す。しかし、それは。
幸の両手がゆっくりと前へと繰り出されていく、一分、五分、十分、十五分、その動きは遅くこれだけの時間をかけても一センチと前に出ない。
道筋。最速最短の道筋を確実に身につけるため、その道筋を時間をかけて辿る。すべての勢いを否定し、すべての力みを消し、微かなバランスの変化だけで移動していく。
幸の左手が上がり、右手が下がっていく。同じように三人の体が動いていく。ゆっくりと右足が上がっていく。
体全体が、バランスを保ちつつ、常に変化する。
三人が苦しそうに喘ぎだした。黒はたったこれだけの動きですら、苦しむ自分を情けなく思う。しかし、同時に、まったく無駄のない軌道、ぶれのない正確さをはじめて経験した、それはまさしく歓喜だった。

男と恵はあかねの枕もとに座っていた。
幸とあかね、恵の三人が一緒に寝ていたのだが、いま、幸は猫娘の指導に梅林へと向かい、恵が硬い表情をしてあかねを見つめていた。
「先生、あかねちゃんは・・・」
「体の傷は癒える、でも、心の傷がね。それが難儀だな」
そっと男はあかねの額に触れる。
「そうだな・・・」
男が小さく呟いた。
男は恵を見つめた。
「恵さん、壁にもたれてでいいから、あかねちゃんをしっかり抱きしめてやってくれませんか」
「私でよければ」
男はあかねの体を起こすと、恵にその体を預けた。そして、男は一歩、離れるとけっかふざに座り、意識を統一し始めた。
「私があかねちゃんの心の中に入り込み、彼女を浄化します。彼女はすべての人を拒絶してしまっている、うまく入り込まなきゃならない、少し、時間がかかると思う」
「はい、しっかり抱きしめています」
男は微かに笑みを浮かべると、小さくうなづいた。
「お願いします」

啓子が布団から体を起こした。隣りには礼子と理恵子、倉澤とあさぎが安心しきったように寝ていた。
猫娘、三人とも戻ってこない、今頃、幸さんに稽古をつけてもらっているのだろう、そして先生は、あかねちゃんをあのままに寝ていられる人ではない。
啓子はぐっとお腹に力を入れた。しっかりしろと、自分に言う。
啓子は起き上がると家の玄関、上がり口に座り、陣を整えた。
この家を支えている二人が身動きできない以上、自分がこの家を、シェルターを守らなければ。

明け方近く、男は軽く啓子の肩を叩いた。
「啓子さん、ありがとう。お疲れさまだったね」
「先生」
啓子は振り返ると心配げに男を見る。
「悪い方向へは向かわないと思うよ、あとは諦めずに日数をかけて待つだけだね」
「先生はいい人ですね」
「本当はいい人じゃないんだけどね」
男は困ったように笑みを浮かべた。
「あかねちゃんは恵さんが抱いててくれる。啓子さんも一寝入りしなさいな」
「幸さんは・・・」
男は梅林の方角を眺めた。
「あれは、一つどころか、全部、教えようとしているな。私が幸に武術も呪術も教えたけど、再構成して、幸はすっかり自分のものに仕上げている。だから、幸が全部教えてしまおうというなら、それもいい。私がとやかく言うことじゃない。敵になればなったで、頑張って戦うさ」
「黒は真面目でいい子ですよ」
「真面目すぎるのさ。啓子さんも真面目すぎるな、少し、頭の中、柔らかくしなさいな」
男は啓子の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「それじゃ、私はしばらく寝るよ。啓子さんも布団に戻ってゆっくり寝なさい」
男は自分の部屋に戻っていった。
啓子は一つ、溜息をつき、男がくしゃくしゃにした髪を両手で押さえる。
「お父さんか・・・、いいなぁ」

朝、男はテーブル二つを繋げて、並べた。人数を数えてみる、あかねちゃんを入れて十一人だ。テーブルを二つ繋げばなんとかなるだろう。
椅子は事務所で使っていたのもある。
「先生、おはようございます」
「おはよう」
啓子が少し眠たげに起き出してきた。
「何か手伝うことありませんか」
「それじゃ、納戸から椅子をあるだけ出してくれるかな」
「わかりました」
勝手知ったる他人の家、啓子が納戸へ向かう。あさぎと倉澤が起きてくる。
既に倉澤は制服に着替えていた。
「倉澤さんは家に寄ってから学校へ行くのかな」
「そうします。教科書も必要だし」
「これから朝ごはんを作るから食べてから行きなさい。あさぎ、恵さんとあかねちゃんの様子見て来てくれるかな」
「は、はい。見て来ます」
「ありがと」
男がそっと笑った。

「お父さん、お父さん」
幸が猫娘三人を引き連れ、あたふた、駆け戻って来た。
「ごめんなさい、朝ごはんを作るよ」
「無理するな。徹夜したんだろう」
男は幸の頭を軽くぽんぽんと叩くと少し笑った。
そして、猫娘三人を見る。体はかなり疲弊しているが、精神状態は良好のようだ。
啓子と倉澤が椅子を並べはじめた。
「黒、白、三毛だったかな。椅子に座りなさい、一つおきにね。朝ごはんを食べよう」
「あたし達が同席してもいいのか」
「みんなで一緒に食べる方が楽しいだろう。ご飯は多めに炊いている、しっかり食っておかないと体がもたないぞ」

「おはようございます」
礼子と理恵子が起き出してきた。
「礼子、朝ごはんを作るよ」
啓子が声をかけた。
「はぁい。理恵子ちゃん、一緒に作ろう」
「うん」
三人が台所へと入って行く。
「お父さん、賑やかだね」
幸が改めて納得した。
「人が多いのも楽しいね」
「そうだな、こういうのもいいもんだな」
幸の表情が少し陰る。
「お父さん、あかねちゃんは・・・」
「あさぎと恵さんが肩を貸して連れて来てくれる、昨晩、あかねちゃんの心に入って来たよ」
「どうだった」
「日数をかければ、元のあかねちゃんに戻るよ。あきらめずに待ちなさい」
「お父さんがそう言ってくれるなら幸は安心だ」
幸は三毛の向かい、下座に座ると、台所に向かって声をかけた。
「啓子さぁん、幸はお腹ぺこぺこで一歩も動けませんよぉ」

全員、テーブルに着く。黒の隣りに啓子が座り、幸はあかねの隣りに座った。
ご飯にお味噌汁、漬物に卵焼き。
啓子が立ち上がった。
「ご飯、おかず、お味噌汁、お代わりはいっぱいあります。しっかり食べてください。それでは、いただきます」
口々にいただきますと言い、朝ごはんをいただく。
あかねは一切の表情が沈み、かろうじて目を開けているだけだったが、幸がお箸でご飯を少しずつ食べさせると、嚥下する。ほっとしたように幸は笑みを浮かべた。
啓子は興味深そうに黒を見た。
「黒は好き嫌いとかあるの」
「食べれるものはなんでも食べるさ。啓子さんだって食ってしまうぜ」
礼子が身を乗り出した。
「だめだよ、黒ちゃん。お姉ちゃんなんか食べたら、お腹こわすよ」
「なるほど、お腹、こわして苦しむのはいやだな。それに」
黒がご飯にお味噌汁を掛ける。
「これの方が百倍、美味い」
「かっこいいなぁ」
理恵子が言った。黒は照れたのか、顔を背ける、そして、味噌汁ご飯を一気に飲み干した。
「お姉ちゃん、お代わり、いいかなぁ」
自信無げに白が黒の顔を伺う。
黒が振り返り、礼子越しに白を睨みつけた。
しゅんとして、白が俯いてしまった。
「お代わりあるって言ってただろう」
黒が白に強く言う。
「ごめんなさい」
白が余計に俯いてしまった。
啓子が仕方無さそうにため息をつく。
「幸さん、どうしたものかなぁ」
啓子が幸に話しかけた。
「黒はさ、妹たちをしっかり守らなきゃって、思いが強くてね、それはいいんだけど。結果としてこういう態度になる」
「あ、あの。笑えばいいんじゃないでしょうか」
倉澤が思い切って声を上げた。
幸がうなずいた。
「それいいよね、うん」
幸はゆらっと立ち上がると、黒に笑い掛けた。
「黒、大声でさ、あははって笑ってごらん。楽しいよ」
「楽しくもないのに笑えるか」
「そうだよね。黒はそう言うだろうなぁ。啓子さん、右お願い。幸は左」
幸が叫ぶ、啓子は立ち上がると、素早く黒の右手を取り、幸は黒の左腕を抱えた。
二人で黒を羽交い締めにする。
「倉澤さん、黒の喉、ごろごろってこそばせて」
幸の声に、倉澤は立ち上がると、あたふた、倉澤は走り寄り黒の喉を飼い猫にしていた要領で、指先、なでるようにこそばせる。
「そ、そんな、ことで、わ、笑う、か」
息を上げ、黒が叫ぶ。
「大丈夫だよ、力を抜いて素直になろうね。ほうら、喉が鳴ってきたよぉ」
倉澤が黒をあやすように言う。
男は隣りに座っていたあさぎの肩をとんとんと叩く。
「はいっ」
驚いたようにあさぎが振り返った。
「あさぎ、あははって声を出して笑ってごらん。黒は恥ずかしがり屋だ、皆が声を出して笑ったら、安心して笑うと思うよ。あさぎにとっても声を出して笑うのはいいことだと思う」
男の言葉にあさぎは思い切って笑い出す。それを見て、礼子や理恵子も笑い出した。幸や啓子も黒を抑えながら笑う。いつの間にやら、猫娘 白も三毛も笑い出した。
黒はのけぞりながら目をつぶっていたが、いきなりふっ切れたように笑い出した。
「あはははっ」
幸と啓子が腕の力を抜くと、黒は床に倒れ、そのまま、笑い続ける。苦しそうに息をしながら笑い続ける。
やがて声が収まり、倒れたまま、黒が呟いた。
「なんだか、自分の中の支えていたものが消えてしまった」
「それはさ」
幸は黒の横に正座し、膝に黒の頭を載せた。
「それは黒を支えていたものじゃない、コンクリートや鉛みたいに、黒を重く固めていたものだ。これから、もっと良い動きができるようになるよ」
「お姉ちゃん、ごめんなさい」
白と三毛が不安げに黒に寄り添っていた。
黒は笑みを浮かべると二人の頭を優しくなでる。
「ありがとう、白と三毛がいてくれて、姉ちゃん、とても幸せだ。これからもよろしくな」

「うわっ、時間だ」
急に倉澤が叫んだ。
「ごめんなさい、学校行きます」
「いってらっしゃい」
幸が笑みを浮かべた。
「あの、また、帰って来て良いですか」
「いいよ、楽しみにしている。でも、泊まりはだめ、御両親、心配させてしまうからさ」
「はい、わかりました」
倉澤が元気に答えた。
八日目の朝、黒は男の前で頭を下げていた。
「先生、練習場所まで、私と付き合ってください」
男の部屋、書類の整理をしていた男は振り返り笑みを浮かべた。
「立ち方、歩き方からもわかるよ。幸にかなり仕込まれたようだな」
男は椅子から立ち上がると押し入れの中を引っ掻き回していたが、さらしで巻いた棒を一本取り出した。
「それじゃ、行くかな」
二人して、部屋を出、練習場所にしていた梅林へと向かう。
「黒はここに来て良かったか」
「はい、本当に良かったです。夢のような八日間でした」
「黒も白も三毛もね、幸の娘だからいつでもここに帰っておいで。というかさ、ここで暮らすつもりはないかい」
黒が驚いて顔を上げた。
男は笑った。
「いろいろあるのかもしれないけど、それも選択肢の一つに入れておいてくれ。幸も私もさ、大事な娘を戦場に送るような気がしてね、なんだか、辛いんだ」
唇をかみしめ、黒は俯いた。
三日前のことを、黒は思い出していた。
練習の後、必ず三十分の居眠りをする、脳に練習内容を強く焼き付けるためだ。木陰、幸が仰向けに寝転び、その両手をしっかりと白と三毛が握っている、黒は幸の頭辺りに寝転ぶ、いつのまにか、そう決まっていた。
「あの、母さん」
黒が幸に声をかける。
「ん、どうしたの」
幸は少し黒に顔を向け返事をする、幸は三人に母さんと呼ばせていたのだった。
「どうしてこんなに教えてくれるの、一つだけって約束だったのに」
「心配だから。黒達は鬼と戦うためにこうして学んでいる。親としては、あんまりね、行かしたくないんだ、鬼退治なんかにさ。でも、行かせなきゃならないのなら、万全の準備をさせて送り出してやりたい」
「たくさん教えてもらってとっても嬉しい、なんだか、本家で教わっていたのが遊びに思えてくる」
「それが、本家の今の実力だ。それを承知で白澤のばあさんは独自路線を選択した。厳しい話だな」
幸は二人を起こさないようにゆっくりと上半身を起こした。
背を向けたまま、黒に問う。
「ここで暮らすのは無理か。一緒に畑で野菜を作ったり、山羊や鶏を飼って。たまに、野菜の直売をやってみたり、もうすぐ始める喫茶店でお茶を運んでみたり、そんな、なんでもない日常を送りたくないか」
黒は幸の背中に額を押し付けて呟いた。
「白澤のおばあさんには生命を救ってもらった恩があるんだ、だから、戦わなきゃならないんだ」
幸は黒に背中を向けたまま呟いた。
「お父さんに猫又のこときいたよ。猫又には二種類ある。白澤のように長い年月を生きて生命の理というものに気づいた猫が猫又になる、もう一つが、そういった猫又に血を分けてもらった猫が猫又になる、黒達は後者だろうと話してくれた」
「気づいた時、私はゴミ袋の中にいた、いろんな変な匂いのするゴミと一緒に。青いゴミ袋の向こう、いくつもの家が並んでいて、女達が立ち話をしていた。体 を動かして逃げ出したいと思ったけど、とっても体が重くて、意識もうっすらとして来て、あれ、確かに母さんの横で寝ていたはずなのに、どうしてなんだ、上 を向けば、固く固く袋が結ばれていて・・・、声を上げることも動くこともできない、とっても、寂しかった、とっても恐かった。声が出ていないの、わかって いた、でも、何度も、何度も声を上げたよ、母さんって、母さんって。そんなとき・・・。白澤のおばあさんに会ったんだ。だから・・・」
「白澤のばあさんより、先に会えていたら良かったのにな。でも、今はね、幸が黒や白や三毛の母さんだよ。それは忘れないでほしい」

黒は足を止めた。
「ん、どうしたかな」
男は振り返ると黒の顔をのぞき込んだ。
「本家では汚いもの、忌むべきものとして扱われてきました。もちろん、白澤のおばあさんの手前、表立っては・・・」
男はくすぐったそうに笑った。
「最初、会った時、ごめんな、黒。悪く言って」
「いいえ。あぁやって言い合えたのは、なんていうんだろう、楽しかったんです」
「そっか、安心した。なぁ、黒、これも出会いだ、出会う縁があったわけだ。この縁、大切にしてほしい」
男はそっと黒の頭をなでた。

練習場所、間合いを充分に開け、男と黒は向かい合った。幸は白や三毛と一緒に、少し離れた場所で見守る。
「お父さん、よろしくお願いします」
幸が緊張した面持ちで男に頭を下げた
「卒業試験みたいなものだな。幸にかっこの悪いところ見せられないからさ、頑張るよ」
黒の求めに応じ、男は今までの黒達の練習の成果を見極めるため、立ち会うのだった。
男はさらしに巻いた棒を片手に黒に声を掛ける。
「まずは黒、自由に攻撃してきなさい。私を殺すつもりでね」
黒がぴくんと震えた。しかし、微かに背を落とすと、ふっと力を抜いた、その瞬間、間合いを一瞬に詰め、両手を上段から打ち下ろした、その両手には幸の使う長刀が握られていた。男は斜め半歩前に進み、剣先ぎりぎりを避けた。
黒が男から一歩離れ、中段から男の胴をなぎ払う。
男はその風圧に圧されるように退き、剣先が過ぎた瞬間、すいっと黒の背中に移動する。
「良い感じだ。大抵の鬼なら体が四つになっている」
一瞬、黒が沈んだ、次の瞬間、弾けるように剣が男の胸に突き出された。
男は柔らかくそれを擦り抜けると、黒の頭を軽くぽんぽんと叩いた。
「次は私も攻撃しよう」
「はいっ」
息を切らし、黒が答えた。男は無造作に、黒から離れると、さらしを解く。
四尺三寸、筒が現れた。断面が楕円形の筒だ。
男が筒を片手に振り返る。
「杖術はね、もともと、相手を傷つけずに制することを大事としている、だけど、これはね、攻撃のための杖だ。攻防の中で、使い方を良く見ておきなさい」
男は黒の間合いに入ると袈裟懸けに杖を打ちおろした、黒の剣とぶつかった瞬間、剣もろとも黒が吹き飛ばされた。黒は空中で姿勢を立て直し、唖然と男を見つめた。
「わかるか、黒。これが手の内だ、微かに緩めると掴むとで、相手の力を、そのままに跳ね返してしまう」
「はいっ」
黒が興奮したように声を上げた。
「お願いします」
男がうなずく。
今度は黒が肩の高さに水平に剣を構える。一歩踏み出し、男の脇を斬る、男は剣の進行方向に杖を合わせた。剣が杖の上を走る、瞬間、男が沈み込み、黒を杖で突き刺す。黒に突き刺さる寸前、男は杖を微かに引く。
「刺して捻れば肉がえぐれる、上手が斬れば、剣と同じようにも切れる。なかなか、便利だろう」
既に男は黒に背中にいた。
「合格だ、黒」
黒が男に向き直った。
「充分、複数の鬼とも戦えるよ。でも、今後の精進を忘れないようにね」
「先生、ありがとうございます」
「どう致しまして。呪術は黒の眼を見ればわかるよ、きっちり出来ている。もともと才能があるのかな」
「先生、本当にありがとう。母さん、ずっと大好きだ。白、三毛」
いきなり黒が叫んだ、白と三毛がしがみつくように幸の手を抑えた。
「どうしたの」
幸が声を上げた。
「ありがとうございました」
黒が刃先を自分の首に当てた。
「やめてくれ、黒」
幸が悲鳴を上げた。男の姿が揺らめいた、男は黒の背中に現れ、剣を弾き飛ばした。そして、左手で黒を支え、右手小指側を黒の口に差し入れた。
「舌を噛むなよ」
男は黒の耳元で低く囁いた。
「白澤のばあさんが俺の首を土産に持って帰れと言ったんだろう。代わりに自分の首を刎ねて、妹たちに持って帰らすつもりだった、ってとこだな。あの人も困った人だ」
黒の膝が崩れた。男が右手を離すと黒は倒れるように地面に手を着いた。白と三毛が黒に走りより、しっかりとしがみつく。
幸はどうしたら良いのかわからずに、涙を流したまま立ち尽くしていた。
「幸、抱き締めてあげなさい。それが一番だよ」
幸はよろよろと歩き寄ると、三人を抱き締めた。そして、幸が一番に大声で泣き出した、まるで、小さな子供のように。
「あの人も黒の真っすぐさが読み切れなかったようだな。お互い、ひねくれてしまっていると、真っすぐなのは眩しすぎる」
男は呟くと、杖をさらしで巻いた。そして、泣き声がようやく落ち着いたころ、幸と三人に声をかけた。
「黒と白と三毛は、これからもここで生活すること」
驚いて、幸が男に振り返った。
「黒は叔父さんと一緒にこれから、本家に出向いて、叔父さんのところで暮らしたいと言いなさい。そうしたら、本家が何と言っても、叔父さんは黒を連れ帰って三人、ここで暮らせるようにするからさ」
黒が惚けたように男を見つめた。しかし、生き返ったように笑みを浮かべると、強く頷いた。
男は思う、本家には武術を使える呪術師が百人以上いる。そんな大人たちがいるくせに、子供三人に頼るなんて、恥ずかしいと思う奴はいないのか。

見上げる、白鷺城を参考に造成しただけあり、その姿は白く美しい、堀はなく、その前に大きく横たわる湖が、侵入者を制するための水堀の代わりになっていた。もっとも、これは異界にあり、侵入しようにもこの湖の手前に来ることすら難しい。
「黒は水の上、歩けるか」
「御風呂場でなら歩けるのですが」
「どうした、黒」
「えっ」
黒が戸惑ったように男を見上げた。
「黒、かなり緊張しているな」
男は笑みを浮かべた。
この城が本家であり、その当主が男の義理の兄であった。
「湖の上、できるだけふわっと乗ってごらん」
黒は恐る恐る水の上に足を載せる。ゆっくりと両足が乗った。しかし、小波のせいで、かなり不安定だ。男も湖の上に軽く乗ると黒の手をぎゅっと握った。黒の足元が定かになる。
「他対一や、空中に浮かぶ奴らと戦う時には大事な歩法だ。ちょうどいい練習だな」
男は黒の手を握ったまま歩きだした。
「浮いた足の方に重心を載せる感じだよ」
「まだ難しいです」
「だろうな、でも八日間でこれだけ出来ればたいしたものだよ」
男は少し黒に顔を寄せると小さく笑った。
「あの、聞いていいですか」
「ん」
「先生と本家ってどういう関係があるのですか」
「そういえば、そういうのって話してなかったな。白澤さんは教えてくれなかったのか」
歩きながら、黒が頷いた。
「黒は本家の当主に会ったことがあるか」
「いいえ、でも遠くからは見たことがあります」
「当主は私の義理の兄だ。私は小さい頃、本家につれ去られて来て、そのまま、養子になったんだ」
「ごめんなさい」
黒が唇を噛んだ。
「今となってはどうでもいい話さ。本家には十年ちょっといたかな、先代の妻に、私にとっては義理の母親に殺されそうになってね、逃げ出した。先代と白澤さんはその逃亡を助けてくれたのさ」
エンジンの音が響き出した。
城から水上バイクが三台、飛び出してきたのだ。
「波がきついな、黒、背中に乗りなさい」
男は手を貸すと、黒を背中におぶった。
拡声器だ、声が響く。
「そこの侵入者、直ちに停止しなさい」
太い男の声が響く。
男は素直に立ち止まると、水上バイクが到着するまで待つ。やがて、三台の水上バイクが取り囲んだ。
対魔物用の装備をした男たちだ。
「白澤さんと当主に会いたいんだけどね、折角だし、それ、乗せてくれるかな」
「白沢老から、あんたを見つければ無条件に抹殺せよとの命を受けている」
二台の水上バイクが回り込み、一列になると一斉に機関放射、無数の銃弾が降り注いだ。
黒を背負ったまま、男はその光景を城側の岸で眺めていた。
「ここを叔父さんが出た頃はさ、ほとんどの奴が船を使わずに湖の上を歩くことが出来たんだけどね。劣化したなぁ。白澤さんもそうは思いませんか」
男が振り返る、白澤が苦り切った笑みを浮かべていた。
「便利になると体の使い方も術も落ちてしまうのよ。でも、彼らも兵として、武術呪術師として、この時代では上級の部類」
男も仕方無さそうに笑うと黒を下に降ろした。
「お前がここに居るということは、この子は失敗したようね。この子の両目に在った陰もすっかり消えて幸せそうな顔をしている。お前の娘の仕業ね」
「お願いです、母さんと一緒に暮らさせてください」
「母さん・・・」
男は笑った。
「娘が三人に自分を母さんと呼ばせているんです」
白澤がため息をついた。
「兵としては到底役に立たないわね。どうぞ、好きになさい」
白澤は黒に語りかけると、やおら、男を睨んだ。
「大切なひ孫と別れなければならない以上、私もこのまま、引き下がるわけにいかないわね。何かお出しなさい。見合うものを」
「困りましたね、今日は手土産もなく、手ぶらでやって来ましたよ」
白澤が悪戯げに笑った。
「お前の硝子球を寄越しなさい、あれは防御にも攻撃にも秀でたもの。あれが有れば、鬼とも対等に戦えるわ」
「使い方をしっかり理解すれば、対等どころか瞬時に倒すことが出来ますよ」
男は硝子球を取り出すと、白澤に手渡した。驚いて、白澤が男を見つめる。
「本当にくれるとはね」
「この子達には、なんというかな、私も情が移ってしまいましてね。そうだ、娘が名付けました、この子が黒。後の二人が白と三毛です」
「見たままということね、センスのない娘だこと」
「白澤さん、言葉にしていただけませんか、そうしていただければ、一週間、通いで硝子球の使い方を教えましょう」
すっと白澤の体に硝子球が溶け込んだ。
「これからのこともあるわね。わかりました、黒、白、三毛を千尋、お前に預けます。これから、お前とお前の娘の手元で暮らすことを認めます」
黒が自然と笑みを浮かべた。
男は黒の頭をなで、白澤に言った。
「たまには遊びに来てください、ひ孫の顔も見れますよ」
「そうね、お前の娘と戦争も出来るわね」
「その辺はお手柔らかに」
男は笑みを浮かべ、湖を振り返る。幻を相手に死闘が空しく繰り広げられていた。
「そろそろ気づかないかな」
「ほっておけばいいわ。そのうち、ばてて動けなくなるでしょう」
白澤は吐息を漏らすと、空を見上げた、青く抜けるような空だ。
「早くあのお方のところへ行きたいけれど、今の様子ではねぇ」
白澤は男を少し睨む。
「鬼と対等に闘える力を取り戻さなければ。千尋、精鋭十人を選んでおきます、硝子球の他にも教えなさい、そうだ、お前の得意にしていた筒があったでしょう」
男は緩やかに手を動かす、その手にさらしに巻いた杖が現れた。
白澤はそれも受け取ると、子供のようににっと笑った。
「他にはもうないかしら」
「これ以上は勘弁してください、身ぐるみはがされてしまいますよ」
男は笑うと、黒の手を握った。
「兄に会うつもりでしたが、また、明日にでもお目通りを願うことにしましょう、そろそろ、退散します」
「日が明けると同時に待っていますよ」
男は仕方なそうに笑みを浮かべると、軽く頭を下げる。そして、白澤に背を向けた。
「そうだ、まさか、あの中に明日の精鋭はいないでしょうね」
湖上の喧噪を眺め言う。
「彼らは不合格よ」
白澤の言葉に男は笑うと黒の手を握り、城を後にした。
ふと白澤が黒に声をかけた。
「黒」
驚いて、黒が振り返る。
「良い名前ね」
初めて、白澤は和やかに笑った。

異界を離れた後、二人は列車に乗り、最寄りの駅に着く。男と黒は帰り道を歩いていた。
「先生、ごめんなさい」
「ん、どうしたんだ」
「大事なもの、取られてしまいました」
「大事か・・・。でも、叔父さんはね、黒がいて、白や三毛がいて、幸がお母さんぶってえらそうにしているの面白いし、みんながさ、楽しく暮らしている。それの方がずっと、嬉しくて大事だからさ」
男はふと、商店街を少し離れた洋菓子店をのぞき込んだ。
「黒はケーキ、食べたことあるか」
「えっ、いいえまだ」
「それじゃ、食おう」
男と黒は洋菓子店に入ると、テーブルと椅子が設えてある、それに座った。
「あ、あの、いいんでしょうか」
「叔父さんは珈琲が飲みたいのです。幸は厳しいからさ」
男がいたずらげに笑った。
店員がメニュを持ってやって来た。
「私は珈琲で。黒、どのケーキにする」
「わかりません、なにがなんだか」
黒がメニュを睨んで困惑した。
「それじゃ、この子には苺のショートケーキをお願いします」
店員がメニュを抱え戻る、黒はほっと溜息をついた。
「緊張しているな」
「だって、奇麗で上品な音楽も流れているし、なんだか場違いなような」
「啓子さんは、黒は美人だって言ってたよ」
男が気楽に笑う。
「叔父さんは、美醜がわからないけれど、素敵な女性になるんじゃないかな」
男が他意なく気楽に言う。
「あ、あのっ」
「ん、どうしました」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
珈琲とケーキが運ばれてきた。黒の前に苺のショートケーキ、男の前には珈琲がある。
「一口目はそのままで、その後にクリームを入れよう」
男は呟くと、珈琲カップをつまみ上げる、
「黒、食べなさいな、美味しいよ」
「は、はいっ」
黒はしばらく、白と赤のコントラストを楽しんでいたが、ケーキの先をフォークで取ると、思い切って口に運んだ。
「美味しい、先生、美味しいです」
黒が飛び上がらんばかりに声を上げた。
「良かったな」
男が笑みを浮かべると、えへへっと黒が笑った。しかし、黒はもうケーキには手を付けず、フォークを置いた。
「どうした、黒」
黒が嬉しそうに笑った。
「白と三毛に持って帰ってあげます、三人で食べたらもっと嬉しい」
男は優しく笑みを浮かべると黒に言った。
「黒、そのケーキは食べなさい。同じケーキ、お土産に買って帰るからね、帰ったら、晩御飯の後、みんなで食べよう」
黒が笑顔で男を見つめた。
そして、くすぐったそうに笑うと、フォークを手にした。
お皿に残ったクリームまでしっかりと食べたことは・・・
18
最終更新日 : 2013-05-11 17:35:45

異形 雨夜閑話四話

「先生、たーっち」
いきなり黒は男の背中を叩くと、あははっと笑って駆け出して行った。
「な、なんだ・・・」
男は居間で読んでいた書類を手から落とし呟いた。
本家への出張も終え、やっと落ち着いた次の日の朝のことだった。
「姉さん流の愛情表現ですよ」
白があかねを座らせた座椅子の横に座り、じっとあかねの手を両手で握っていた。
「実害はないので、どうぞ、よろしくお願いします」
白は笑うと、また、あかねを見つめ、その両手に力を入れる。
「なるほどねぇ、まっ、好かれるというのはありがたいことだ、嫌われるよりずっといい」
「本家では大変だったみたいですね」
「そうだな、小学生に複素数解析を教える方が楽かもしれないな」
男は呟くと、書類を食卓に載せる、随分と書類が溜まっていた、一週間の予定が十日かかり、予定が狂ってしまったのだった。
幸はあさぎと三毛を連れ、商店街の洋品店へ出掛けていた。普段着を用意するためだ。
「白は随分と落ち着いたな」
「うーん、お姉ちゃんがあの通りですから。でも、怒鳴られずにすむし、相談もしてくれるから、今が一番楽しい。先生、ここに住まわせていただだいて、本当にありがとうございます」
「私的に云えば、住んでくれてありがとうという気分だな、賑やかだし、幸も楽しそうだ。あとはあかねちゃんのことだな」
白は頷くと、男を見つめた。
「夢を見ました、あかねさんが窓硝子を叩いている、こちらに向かって気づいてくれと必死に窓を叩いている。なんとか窓を開けに行こうとするんだけど体がどうしても動かなくて」
「やっと気が満ちて来たかな」
男は呟くと、あかねの横に座った。
「白、あかねちゃんの手のひら、とんとんと指先で叩いてごらん。何度もね」
「はい」
素直に白はあかねの手首を支え、右手の人差し指でとんとんと叩き出す。
「ドアを叩く感じでしょうか」
「そう、気持ちが届きますようにってね」
男がそっと笑みを浮かべる。

幸は洋品店の叔母さんと向かい合って座っていた、いつものテーブル、今日は初めてあさぎと三毛もやって来、テーブルについていた。
「で、ちょっと、待ちなよ。幸ちゃんのお姉さんがあさぎちゃんで、娘がこの三毛ちゃんにあと二人、娘、がいるわけだ、こりゃ、賑やかだ」
「母さん、驚いた」
「なんていうかねぇ、幸ちゃんが幸乃さんと一緒に来た時ほどじゃないけどさ」
店主は笑うと、マグカップを四つ食器棚から取り出し、いつものインスタント珈琲をいれる。
「幸乃さんが妹がお世話になっていますって言った時にはさ、腰抜かしたけどね」
店主はあさぎと三毛に珈琲をすすめる、気負いも何もなく、古い知人のように扱った。
「幸ちゃんの姉ならあたしの娘みたいなもんだ、遠慮は無用だよ」
あさぎは安心したように笑みを浮かべると、微かに頭を下げた。
店主は笑みを浮かべると、三毛の珈琲に砂糖とクリームをたっぷり入れる。
「で、三毛ちゃんは娘。って、幸ちゃんが産んだわけないよね。本当に産んだってなら、あたしゃ、先生に小言の一つも言わなきゃならないよ」
「血の繋がりはないけど、気持ちは繋がっているし、うん、いっぱい、繋がっている、だから、大切な娘です」
幸はそっと三毛の頭を撫でた。
ふと、三毛が幸を見上げた。
「お母さんの母さんなら、おばあちゃんって呼べばいいのかなぁ」
「だめだめ」
店主があわてて否定した。
「まだまだ、誰にもおばあちゃんなんて言わせないよ。そうだね・・・、服屋のかあさんて呼びな」
「呼びにくいよぉ」
「いいや、最初が肝心。それ以外は受け付けないよ、わかったね」
「はぁい」
三毛が頷いた、店主は愉快に笑う、その目は孫を慈しむ祖母の目にも近かった。
「幸ちゃん、家族が増えて賑やかになったねぇ」
幸が幸せそうに頷いた。
幸の笑顔を見て、ふと、あさぎは昨晩のことを思い出した。
誰もが寝静まった頃、幸はあさぎの枕元に座ると、そっとあさぎを起こした。
「あさぎ姉さん、ちょっと、来て欲しい」
緊張しながらも、あさぎは頷くと、幸の後に従った。
家の外に出る、畑の手前、長椅子に二人座った。白く満月が輝き、辺りを白く染め上げていた。
幸は右手であさぎの左手をしっかり握り、笑みを向けた。
「あさぎ姉さんにはあたしのこと、知って欲しい。いいかな」
あさぎは幸が自身のことをあたしと呼ぶことに微かな驚きを感じたが、そっと、幸の言葉に頷いた。
「ここに来て、お父さんの娘になってもうすぐ四年になる。あたしは人を食う魔物に取込まれていた、救い出してくれたのが、お父さん、あの人だった。あたし は助けてもらったけど、もう親も知り合いもいない、たった独りだった。あの人はここで暮らしなさいと言ってくれた、年齢的に、父と娘でいいでしょうって 言ったんだ。いま、あの時のことを思い出すと、なんて、お父さんは簡単にあたしを受け入れてくれたんだろうって、呆れてしまうよ」
幸はそっと笑みを浮かべたが、そのまま、俯いてしまった。
「人の肉を食い、その血を飲んで喉の渇きを癒していた女だ、あたしは。お父さんはそれも承知で娘にしてくれたんだ。ここへ来てからも大変だった。時々、ど うしようもなくなって、不安や恐怖でおかしくなってね、お父さんに椅子を投げ付けたり、包丁を投げたこともあった、窓硝子もいっぱい割ったよ。でも、お父 さんは怒らずに、抱き締めてくれて、泣いてくれるんだ、一緒に泣いてくれるんだ」
あさぎがぎゅっと幸の手を握り締めた。
そっと幸が顔を上げ、あさぎを見つめた。
「あさぎ姉さんはいまとっても不安だと思う。孤独にさいなまされているかもしれない、でも、忘れないで欲しい、ここにあさぎ姉さんの妹が居て、あさぎ姉さんのことを大切に思っているってことをね」
あさぎが呟いた。
「ホテルの階段を転びそうになりながら駆け降りました。歩道に出て、すぐに家に帰ろうと思った時、家が何処にあるのか思い出せなかった、ううん、思い出せないんじゃなくて、全然、記憶がなかった、その内、自分の名前も思い出せなくなって・・・」
幸は両手でしっかりとあさぎの手を握った。
「ここがあさぎ姉さんの家だ。妹と父親がいて、妹には娘が三人もいて、とっても賑やかだ。一番下の妹はあかねちゃんで、いまは意識不明だけれど必ず目を覚ます。啓子さんや恵さんは家族同然の人で、商店街の佳奈姉さんや母さんはとっても頼りになる素敵な人達だ」
あさぎは涙をこぼし、幸を抱き締めた。
「ありがとう」

「先生、もうすぐかな」
黒が男の後、肩の辺りから顔を出して、目を開けたまま眠っているあかねをのぞき込んだ。白は無心にあかねの手のひらを人差し指で叩いていた。
「白の頑張りで薄皮一枚のところまで意識が浮かび上がっている。あと、もう少しなんだけどな」
「もう少しなんだけど、届かない。指先が届きそうなのに」
白が呟いた。
「あとは母さんが帰って来てからかな」
男が呟く。
黒が男の横で笑った。
「だめだよ、先生が母さんって呼んじゃ」
「ん、叔父さん、そう言ったか」
「言ったよ」
「幸には秘密だぞ」
男が笑った。
「先生には世話になっているから黙っててあげるよ。白も喋っちゃだめだぞ」
「家庭円満のためにも黙ってますよ。あ、話は変わりますけど、ケーキ、とっても美味しかったです」
にっと白が男を見上げた。
男が困ったように笑った。
「あかねちゃんが目を覚ましたら、ケーキパーティでもするかな」
「うわーい」
黒が飛び上がって喚声をあげた。
「ケーキ、ケーキ」
黒が阿波踊りのように踊りだす。びっくりしたように白は黒を見つめたが、笑みを浮かべると、和やかに黒を見つめる。
「怒ってばかりの姉さんより、こっちの方がいい。その分、私が頑張ってしっかりします」
「それぞれ個性があっていいな」
ふと、白は指先を止め、呟いた。
「産まれたところも捨てられたところも違いますが、それでも私達は姉妹で三人で一人なんです。それがとっても嬉しいんです」
白が穏やかに一人頷いた。

「あ、母さんだ」
黒は叫ぶと、ばたばたと玄関口へ走りだした。
「ただいま」
幸を先頭にあさぎと三毛が帰って来た。
黒はばふっと幸の腰にしがみつき、見上げた。
「母さん、お帰り」
「ただいま、黒。賢くしてたかな」
「してた、とってもしてた」
幸が黒の頭を撫でる。
「幸、あかねちゃんを呼んでくれ」
男が幸に声をかけた。黒はすっと幸の体を離すと、あさぎを護るように手を握った。
「あさぎ姉さん、危ないと思ったらうずくまって」
黒が鋭くあさぎに囁いた。
幸はあかねに駆け寄ると、大声で叫んだ。
「あかねちゃん、目を覚ませ」
一瞬、あかねの視線が一点に定まった。
「うわぁぁっ」
あかねが浮かび上がり、悲鳴を上げる、爆風。
まるで台風のようにあかねを中心に風が発生し、椅子もテーブルも何もかもを吹き飛ばす。
あさぎが慌てて廊下にうずくまった。
幸が叫んだ。
「黒、白、三毛」
「はいっ」
三毛があかねの脚を、白がお腹、黒があかねの肩を取り押さえた。
狂ったようにあかねが大声で叫ぶ。
幸はしっかりと歩きだし、両手であかねを強く抱き締めた。
「あかねちゃん、幸はここにいるよ。もう、大丈夫だ」
不意にあかねの力が抜けた。
「お姉ちゃん」
「お帰り、あかねちゃん」
黒達三人は手を離すと、床に座り込んでしまった。男も掴んだテーブルと椅子を床に降ろしあさぎに声をかけた。
「起きて大丈夫だよ、あさぎ」
あさぎはぺたんと床に座り込むと呟いた。
「竜巻が発生しました」
男がくすぐったそうに笑った。

あさぎと三毛が少し遅めの昼御飯の用意、幸はあかねを抱きかかえて居間に行き、あかねを座椅子に座らせた。
「はい、どうぞ」
三毛がストローを差した黄色いジュースを幸に手渡した。
「あさぎ姉さんが作ってくれたよ、バナナジュース、消化しやすくって栄養があるからって」
「ありがとう」
笑みを浮かべ、幸は受け取ると、ストローの先をあかねに咥えさせた。

そのころ、男は黒と白を連れ、洋菓子店へと歩いていた。
「先生、何個買う、何個買う」
黒が男の裾を引っ張る。
「一人何個、食べるかだな」
「いっぱい食べるよ。食べ過ぎて、動けなくなって、あぁ、幸せって言うくらい」
「お姉ちゃん、それじゃわかりませんよ」
男はふと立ち止まると、にっと笑って言った。
「まずは苺のショートケーキ」
黒が頷いた。
「そうだ、黒はチョコレートは食べたことあるかな」
「ある、非常食で食べた」
白もチョコレートの甘さを思い出したのか、舌なめずりをする。
「チョコレートでも色々あるぞ、中でもとっても美味しいベルギーチョコレート、とっても甘くて、でも、ほんのり苦い大人の味」
「大人の味」
白が繰り返した。
「そうだ、白。子供はまだ食べちゃいけません、大人だけのチョコレート、これがふわんとケーキを包み込んでいる、フォークを差すと、チョコレートがぱりん と割れて、ふんわり現れるちょっと茶色のスポンジ、ふんわりしたスポンジケーキにチョコレートが混ざっている、大人の味だ、チョコレートケーキだ」
「絶対、絶対、食べます」
白が答えた。
「よし。次はなんと言ってもチーズケーキ。この前のショートケーキのスポンジ、とっても柔らかかっただろう」
二人がうんうんと頷いた。
「チーズケーキはもっとすごいぞ。とってもなめらかできめ細やか。口の中ですうっと溶けてしまうくらいにさわさわって感じだ。口の中でケーキが行方不明になっちゃう」
「さわさわ、さわさわ」
二人が叫んだ。
「そうだ、タルトもいいな。黒と白はビスケット食べたことあるか」
黒と白、男の裾を握ってうんうんと頷いた。
「タルトの作り方を知りたいか」
「知りたい、教えて、教えて」
「まずは、たくさんのビスケットを小さく砕きます。そして三十センチくらいの円筒形の型に厚さ一センチくらいに詰め込みます。黒、白、詰め込みましたか」
「詰め込んだ、詰め込んだよ」
「さて、その上にどさっと白い生クリーム、とっても甘い生クリームを載せて、木のへらで平らにします、そして薄く切った果物を載せていきましょう」
「苺を載せる」
黒が叫んだ。
「蜜柑も、蜜柑も」
白が目を輝かせて叫んだ。
男は柑橘系は大丈夫なのかと思いながら、
「もう、いっぱぁい果物を載せて、その上に甘いシロップふわぁっと、こう回すようにして掛けていくのです、まんべんなくね」
黒と白、興奮して口からはぁはぁ息をしていた。
「しばらく冷やした後、さぁ、タルトを切りましょう。すぅぅっ、さくっ。このさくっってのは、固まったビスケットが切れる音だ」
「すぅぅっ、さくっ。すぅぅっ、さくっ」
黒と白が嬉しそうに言葉を重ねる。
二人が男の手を握って駆け出した。
「先生、早く買いに行こう」
二人が男を引っ張り走りる、風を切って駆ける。

鈴の音がした。
りーんと不思議なほど長く音が伸びる。
黒と白が恐怖に硬直した。そして、辺りを見回す。
「これは珍しい」
男は呟くと、二人に声を掛けた。
「これくらいのことで怖がっていたら幸に笑われるぞ。黒、白、三毛は幸の娘でもあり、正式な弟子でもある。この程度の奴らにびびってどうする」
男は笑うと、前方を眺める。行列が現れた。時代劇にある花魁道中のような行列だ。男はしっかりと二人の手を握り、二人を背中に隠した。
花魁道中は男を横切り、中ほどの花魁役の女がふと男を認め、声を掛けた。すっと、動きが止まった。
「この辺りにあかねという子は居りませぬかえ」
「さぁ、よくある名前ではありますが、私にはどうも」
男は笑みを浮かべると、首を横に傾げた。
ふと、女は男の背中で震えている黒と白を見つめた。
「はて、何処かで見かけたお子の様」
「これは私の娘です、多分、人違いでありましょう」
「そう・・・」
女は関心を無くしたかのように前を向く。再び、行列は動き出し、視界を去って行った。
「黒と白と三毛がうまく連携すれば勝てる相手だよ。そんなにびびってたら、勝てる奴にも勝てないぞ」
男が面白そうに笑った。
「だって、とってもおっかない奴だよ」
黒が震えながら言った。
「かぐやのなよ竹の姫、鬼の格ではかなり上だな」
「先生、帰りましょう。きっと、襲ってきます」
「だろうね、あかねちゃんが覚醒したことで場所の見当がついたんだろう。でも、これからケーキを買いに行きます」
「先生」
白が非難の声を上げた。
「叔父さんはケーキがとても好きというわけじゃない。でも、黒や白や三毛がさ、美味しそうに食べている姿を見るのは大好きなのさ。ケーキ屋さんまで、瞬間移動、二人とも叔父さんの手をしっかり握っていろよ」

門前、幸が腕を組み、仁王立ちのようにがしっと立っていた。
男と黒と白がその隣りに現れる、二人、山のようにケーキの箱を抱えていた。
「冷蔵庫と、入らない分は涼しそうなところに置いてくれ」
「はいっ」
二人は返事をすると家の中に駆け込んだ。
「お父さん、今の全部ケーキなの」
「あれもこれもと選んでいたら、ああなった」
「もぉ」
ふっと幸が笑みを浮かべた。
「お父さんは以外と三人に甘いなぁ」
「なんだかね、幸の小さな子供の頃を、どんなだったんだろうなと、あの子達を通して考える、それを楽しんでいるのかもな」
「だめだ、お父さんと喋っていると楽しくなってしまう」
幸は表情を堅くすると、道の先を睨んだ。
「迎撃つのか」
「もちろん」
「あかねちゃんをあんなにしたのを許せないということだな」
男はそう言うと、幸の肩を軽く叩く。
「父さんに任せなさい、今の幸はかなり怒っている、幸がまともにやったら、この辺りが焦土になってしまうぞ」
「でも」
「冷静になりなさい。あかねちゃんは鬼の住みかに潜入した、自分の意志でね。幸もあかねちゃんの心を読んだろう」
「うん」
「そして、その結果だ、今のあかねちゃんはね。一方的に相手を非難できるほどでもない。幸、愛情はとても大切だ、でも感情の揺れの言い訳にはするな」
幸がうなずく、そして、男を抱き締めた。

鈴の音が辺りの空気を震わせる。
花魁道中の先頭が現れた。道中の先頭が二人の手前で止まり、女が列を離れ、二人に近づいてきた。先程の鬼の姫だった。
「こちらに、あかねという女の子が居るはず」
ふいに幸は顔を上げ、鬼姫を睨みつけた。その気迫に鬼姫が一瞬、身を引いた。
幸は何も言わず、家の中へ走り込んだ。
「あれは私の妻ですが、あかねちゃんを妹のように大切にしておりまして、あのような無礼を致しました、どうぞ、察してくださいませ」
「驚きました、あのような人間が居りましょうとは」
鬼姫は憮然としたが、表情をしまうと男に言った。
「さて、あかねという娘をいただくことは、この国の支配者層の人間共も認めて居ります。早くお出しなさいませ」
すぅぅっと鬼姫は目を細めた。
「それはだめです、妻が嘆き悲しみます」
「そなたが死ねば、それ以上に、先程の女は嘆きましょうに」
鬼姫が引き込むように唇を歪め笑みを浮かべた。
「貴方も物語のように月へお帰りになればよろしかったのに」
「ほぉ、私のことを知った、その上で渡さないと」
「はい、渡せません」
鬼姫が笑った。
「先程の女といい、数百年ぶりに面白い人間と出会いました。今日は楽しい日になりそうですわ」
鬼姫の纏う気配がざわっとうねりだした。
鋭く車のエンジン音が響いた。一台の高級車が飛び込んできた。
「おや、あれは」
寸前で車が停止すると鬼紙老が飛び出した。
「孫の仇、覚悟せい」
上下白裃、腰の刀に微かに手を添え、地面を低く滑るように突進する。
「馬庭念流の居合とは珍しい」
男が呟いた。
無音で抜き打ち、下段から鬼姫を斬り上げた。鬼姫の首に刀が食い込む、しかし、鬼姫は平気な顔をして、刀身の根元を掴むと、鬼紙老諸共放り投げた。
男は飛び上がると、鬼紙老を受け止め、着地した。
ふと、鬼姫は寂しそうな顔を向けて。
「気が逸れました。今日は帰りましょう、しかし、あきらめたわけではありません。また、お目にかかることになりましょうぞ」
鬼姫は背を向けると去って行った。

男は鬼紙老を座らせると、気楽に笑った。
「御老、あかねちゃんはお預かりしていますよ、元気ですとは言い難いですけど」
「な、なにっ」
「本家の白澤さんの孫娘三人が救い出して、こちらで預かっています」
「あの九尾猫か」
鬼紙老は慌てて立ち上がり掛けたが、うっと唸ると座り込んでしまった。
「無理するからです」
「くぅっ、若ければあんな鬼など一刀両断にしたものを」
男は肩を貸すと、鬼紙老を家へと連れて入った。

「ごめんなさい、おじいさま」
あかねは立ち上がり掛けたが、足の力が弱まり、立ち上がることができなかった。
「なんだ、いたのか。儂は偶然、ここに来ただけだ、すぐに帰る」
「はい・・・」
あかねが呟いた。
「で、どうなんだ、体は」
鬼紙老が背を向けて言った。
「しばらくすれば」
「無理するな、ここで養生させてもらえ。だが、幸とかいったな、あんな女とは口をきくな。お前はあんなガラの悪い女になってはいかん」
あかねがくすぐったそうに笑った。
「偉そうに言うなよ、じいさん」
ふと、幸がお茶を持って来て言った。
「孫の仇って聞こえてたぜ、で、放り投げられてよ、大笑いするところだったよ」
「この女、減らず口を」
「まっ、命をかけてやって来たってのは認めてやるよ」
幸は湯飲みをテーブルに置くと、ばんと鬼紙老の腰を叩いた。
「それで普通に歩けるだろう、世話のかかるじいさんだ」

「おーい、先生、来たよ」
啓子が恵とやって来た。勝手知ったる他人の家、普段どおりに上がると居間へとやって来た。
「私も来ました、啓子の付き人ですから」
恵は笑うと、ふと、鬼紙老を見た。うわっ、恵が啓子の背中を叩く。
「どうしたの」
恵が必死に指を差す。
「最近の若い者は礼儀がなっておらん」
「うわっ、鬼紙のじいさん」
「なんだと」
「ご、ごめんなさい」
慌てて、二人は幸の後ろに隠れた。
「大丈夫だよ、啓子さんも恵さんも。ちゃんと、噛まないように仕付けてあるからさ」
にぃと幸が鬼紙老に笑った。
「なんという無礼な女だ」
鬼沢老が怒って立ち上がりかける、
「こんにちわ」
どたどたと礼子に理英子、倉澤がやって来た。
「あかねちゃん回復ケーキパーティ、差し入れにジュースとお茶、買って来ました。ついでにチューハイとビールも」
礼子が元気に笑う、ふと、鬼紙老を見た。
「うわっ、幽霊」
「ばっかもーん」
男がこらえながらも笑った。
「御老、確かに白装束で、これでは幽霊ですよ」
「れ、礼子。こっち来い」
啓子が幸の後ろで必死に手招きした。
「どうしたの、お姉ちゃん」
「いいから、早く」
幸は笑うと、仕方なそうに言った。
「あかねちゃんのおじいさんだよ。ついでに言うと、啓子さんが以前勤めていた会社の社長の父親で、とっても気難しいおじいさん。でも、さびしがり屋の大金持ちだから、愛想しておいたら、別荘に招待してくれるかも」
「それじゃ、今日は仲良くなって、夏休みは別荘で避暑三昧」
三人が楽しそうに笑った。
ふうっと啓子がしゃがんでしまった。
「我が妹ながら知らないってのは強いなぁ」
ふと、黒が玄関口を見た、気づいて白も三毛も玄関口を見つめる。
「千尋、千尋、招いてちょうだい。結界が強すぎて入れないわ」
門前からだろう、声が響いた。
幸が玄関口に向き直った。
「留守です、誰もいません、お引き取りくださぁい」
黒が申し訳無さそうに幸の裾を引っ張る。
「もう、しょうがないな」
幸は玄関を開け、外に出た。
門の前に白澤がにこやかに笑みを浮かべ立っていた。
「ええっと、どちらさま、今日は留守で誰もいませんけど」
「まっ、小憎たらしい娘だこと。それより入れてちょうだい」
よほどに機嫌がいいのか、白澤は怒りもせずに言った。
「本日、一回限り、例え、忘れ物をしても、二度とこの家に入れません、一度だけお入りください」
むすっとした幸の言葉にも気にせず、白澤は家に入ると、玄関口に正座している孫娘に笑いかけた。
「元気そうね」
「はい、おかげさまで・・・」
代表し、黒が答えたが、かなりの緊張をしているようすだった。
とんとんと白澤は家に入ると、男のところへと向かった。
緊張がほどけたのか、黒を白も三毛も足を投げ出して、ほぉっと溜息をついた、幸がその様子を見て、仕方無さそうに笑う。
「あら、鬼紙さん、こちらにいたのね。国のお偉方はかんかんよ。なよ竹姫から、今回の和平は延期と連絡があったって。鬼の中でも一大勢力のなよ竹姫を取り込みそこねたって、貴方の息子も怒っていたわ」
「大事な孫娘を鬼にくれてやるわけにはいかん」
白澤は気楽に笑う。
「稼ぎどきが続くから、私もその方がいいんだけどね。で、千尋、お願いがあるのだけれど」
ふいに白澤が男に振り向いた。
「新たに精鋭を十人集めました。また、指導してちょうだい」
「ええっ」
「評判がいいのよ、それで、新たに増やそうということになって、私がお願いに上がったということ」
「白澤さん、そちらでなんとかしてくださいよ。私は人に教えるなんて柄ではないですから」
「何とかしようって思ったんだけどねぇ、以前の精鋭はあちらこちらに派遣してね、教える時間がないのよ」
「それは単純に派遣されるのを控えて、指導に時間を割けばいいのではと思いますよ」
「まっ、冷たい。お願い、今回だけ、ね」
白澤が大袈裟に男を拝む。
「二回目の精鋭と言うことは、言い換えれば精鋭未満ということ」
幸は優しく笑みを浮かべると、白澤の前に正座した。
「それなら、おばあさま御自身が後進の指導を為されればいかか。無理を無さってぎっくり腰にならないよう、お気をつけあそばせ」
白澤のこめかみがひく付いたが、勤めて笑顔を浮かべる。
「どうやら、鬼紙老のお孫さんの回復祝いの様子。また、このお話は改めましょう」
幸は話は終わったと、立ち上がった。
「えー、皆さん。頭抱えたくなるほどのケーキがあります。最低、一人五個がノルマです。遠慮なく食べてくださいませ。ただ、今後、ここで喫茶店を始めます 都合、それぞれのケーキについての感想をお願いいたします。順位三位までのケーキは、あさぎと幸が、そのケーキを参考に作り、お店に出す予定でございます ので、しっかり、お食べくださいませ」
「ケーキ出してくるよ」
黒が冷蔵庫へ駆けだした。
「チョコレートケーキは私が一番最初に食べます」
白があたふた、黒の後を追う。
三毛は幸の背中に飛びつくと、幸の肩で囁いた。
「食い意地の張った姉さん達だなぁ」
皆の笑い声が広がった、男は本当に幸せだと思った。?
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最終更新日 : 2013-05-11 17:36:59


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