閉じる


<<最初から読む

14 / 40ページ

異形 流堰迷子は天へと落ちていく四話01

「幸は世界で一番幸せな女の子だと思うよ」
幸は男の膝を枕に横になる、晩秋の小春日和、お昼前。
縁台に座る男の膝に頭を預け、広がる畑を眺めた。畑の向こうに時々白い影が動く、子山羊が三匹、草をはんでいるのだ。
秋野菜、緑色が広がる収穫前の一時。
「頑張って世話をしてたからね、幸は」
「ううん、今の幸せは、幸がお父さんにひざ枕をしてもらっているっていうこと、そして、お父さんも世界で一番幸せなお父さんなのです」
「父さんもか」
「そう、可愛い娘のひざ枕ができるなんて、こんな幸せなことはないよ」
男はくすぐったそうに笑った。
「幸、父さんを幸せにしてくれてありがとう」
「どういたしまして」
幸はにひひと子供っぽく笑うと、ぱたぱたと足を振る。
「幸はちっちゃな子供だな、あかねちゃんや恵子さんの前ではしっかりしているのに」
「今の幸が本当の幸なのです、だから、正直にお父さんに甘えるのです。そうだ。ね、お父さん、恵子さんには驚いたなぁ」
「ん・・・、あの人は頑張り屋さんだな」
あれからもう一年近くが経つ、男は右腕を無くした時のこと、鬼紙老の屋敷にあかねちゃんを送り届けたこと、坂村恵子にたまたま、情けをかけたこと、そんなことを思い出した。
「恵子さんはあと三十分くらいで来ます、それまで、ね。ひざ枕良いかな、それとも、今度は幸がひざ枕してあげようか」
「大事な娘だからさ、ひざ枕してあげるよ。それから、仕事再開だ」
「今日は恵子さんに畑任せて、幸、お父さんの仕事、手伝おうか」
「どうしたの、幸。この三日くらいかな、幸は父さんにとってもひっつき虫だ」
「なんだか、甘えたい、そんな気分」
「お風呂とお手洗い以外はずっと幸がひっついている」
「ね、お父さん」
「ん」
「お風呂、一緒に入ろうか。背中、流しっこしよう」
男は笑うと、こつんっと幸の頭を小突く。
「それはだめ。でも、そう言ってくれることは自体は嬉しいよ」
男は吐息を漏らすと、眼前に広がる畑を眺めた。
普通に歩いて五分くらいは畑だ、その向こうに梅林が連なる。
縁台から、梅林も見えるようにと、ちょうど、畑の切れ目、畦道が梅林へとつながる。
「援農、だったっけ」
男が呟いた。
「恵子さん、うちに二日間、それから外の田舎へも農業を三日間手伝いに行って、あとの二日をスーパーでレジ打っている」
「たくさん退職金、出たんじゃないのか」
「高校生の妹が大学に行くそのお金に退職金を使いたいって、恵子さん、その退職金には手をつけていない。大学四年間、五十回くらい繰り返せるくらいのお金だけど、使いかけるとずるずると使ってしまうかもしれないから、今は使わないって言ってた」
「しっかりしているね」
「恵子さん、いまは畑仕事が一番楽しいって、喜んでいてくれるよ」
「人が喜んでくれると嬉しいものだな」
「そうだね、ただ、問題はあかねちゃんだ」
幸が少し顔を曇らせ呟く。
「やっていることは正しいと思うけどね」
あかねはこの一月ほどここには来ていなかった。
矛盾を正したい、それが自分の使命なのではと語るあかねちゃんの真摯な表情に幸は何も言えなくなってしまったのだった。
「格差社会、貧富の差が開いて行くこの時代を変えて、誰もが慎ましやかに、そして幸せな日常を送ることが出来るようにしたい。確かにそうなんだけど」
「幸が心配なのはわかるけどね、今はあかねちゃんの思うようにさせてあげなさい。ただ、そうだな。あかねちゃんの武術の進歩は」
「かなりのものになったと思う」
「読心能力は」
「充分だと思う」
「護り髪は」
「しっかり・・・」
男は幸の頭を優しく撫でた。
「あかねちゃんは幸の大切な妹だ。それはかわらないよ、必要な時は助けてあげなさい」
「うん、そうする」
幸は静かにそう答えた。
「ね、お父さん」
「どうしました」
「お父さんはずっとずっと、幸と一緒にいてよ。絶対だよ」
幸は微かに震えていた。
男は幸の頭を軽くぽんぽんと叩く。
「お風呂とお手洗い以外は一緒にいるかな」
男が小さく笑う。
幸は急に起き上がると男にしがみついた。
「幸がお父さんを護るよ、どんな奴からもお父さんを護るからね」
「どうしました、ゆっくり話してごらん」
男は軽く幸の背中をなだめるように叩き、幸の言葉を待つ。
「お父さんがお父さんが死んじゃう」
呻くように幸は言葉を呟く。
「それは大変だな」
男は小さく笑った。
「お父さん、幸、夢をみたの。母さんちへお喋りに行って、帰ってきたら、部屋中、血で真っ赤で、お父さんが部屋の真ん中で、真ん中で・・・」
幸が苦しそうに咳き込む。男は幸の背中を柔らかく撫でる。少し幸が落ち着いたのを見て、男は話しだした。
「夢のようになるんじゃないか、予知夢じゃないかと幸は心配しているわけだ」
幸がそっとうなずいた。
「心配屋さんだ、幸は」
男はそっと笑みを浮かべる。
「父さん、とっても強いよ、幸のためならとっても強くなる。でも、上には上がいるからな、うわっ、ピンチかもって思ったら、幸に助けてって叫ぶことにするよ」
男はそっと笑みを浮かべる。
「それに、ここは何重もの結界で固めてある、だから、ここに入ることができるのは、あかねちゃんと恵子さん、瞳さんと佳奈さんだけかな。それに幸と父さんだけだ。恐い奴らは入れないよ」
男はそっと笑みを浮かべ、幸の頭を撫でる。
心配で一杯になっている、男は幸からこんなにも大切に思われていることを素直に嬉しいと思う。何度、ありがとうと言っても言い足りないくらいだと思う。いや、自分自身がそれほどに、思ってもらえる存在なのかとすら思ってしまうのだ。
ただ、男は幸がどうしてそんな夢を見たのだろうと思う。
声を押し殺して泣きじゃくる幸の姿、俺に気の利いた言葉の一つもあればと、そっと左手で幸の頭を撫でる。
「手があったか・・・」
一瞬、男は神経を研ぎ済ませた。違和感を探す、後方、なるほど・・・
「幸、顔をあげなさい」
男が呟くように言う。
泣き腫らした幸がそっと顔をあげた。
「人の心を読むというのは、自分と相手の心を繋げることだ。だから、人の心が見えてくる。そして、もう一つ、心を繋げば、その相手の心に感情を植え付けることができる」
「うん」
「試してみせようか、相手の心に不安や焦りをいっぱい植え付けてみよう」
男がにっと笑った。

「うぉぉぉっ」
家の中から、雄叫びが轟いた。
「幸、杖、右手」
「はいっ」
幸が空から取り出した杖の中ほどを男が左手に持つ、その下端を幸が右手で持った。
男の頭上に振り落とされた刃、杖で受けた一瞬、微かに幸が杖を手元に引く、刃筋が流れ、相手の姿勢が崩れる、男が杖の先端を大きな円を一部切り取ったように落とすと、刀を持ったまま相手が庭に投げ落とされた。

「なるほど、自分の右手を切り落として、元の私の腕を繋いだということか。肩のところに丸い輪っかが付いているね、それが血液型の違いなどを吸収しているようだ、神崎さんの仕業だな」
男は溜息を付くと、幸に杖を返した。
「君は確か一年前の人だったね、私が呪いを施して、一年、まっとうに働いたらやって来い、呪いを解いてやるといった」
黒服はゆっくりと立ち上がると、男に刃を向けた。
「人の数倍は体力を持つ君だ、引っ越し屋さんなんていいんじゃないかって言った記憶があるのだけどね、あんまり、そんな風には見えないな」
「俺の生きる道にそんな選択肢はない、それに、何よりもお前を殺さなければ俺のプライドはずたずたに引きちぎれたままだ」
「で、君はその右腕を鍵にしてこの結界の中に入り込んでいたわけだ、隙あらばとね。どうだい、その腕は、良い感じかい」
男は気楽に笑う。むっとしたように黒服は男を睨んだがふっと笑みを浮かべた。
「この一年、神崎のデーター収集に付き合って、かなりの魔を斬ってきた、俺は確実に強くなった、あんたの腕は最高だ」
「お褒めいただきありがとう」
幸が我慢ならないと杖を黒服に向けた。
「お父さん、こいつは幸にまかせて」
「いや、これは父さんの責任だ、幸はここで見ていなさい」
男は縁台を降り、つっかけを履き前に出る。黒服との距離が縮まった。
「私の呪いは既に解除されているようだね、神崎はしないだろう、まともに私を敵に回すことになるからな。なら、誰だ」
男が黒服の目を微かに睨む。
「あぁ、あの破戒坊主か、あいつは後先を考えないからな」
男は小さく呟くと口元に笑みを浮かべた。
男は一歩踏み出す、気圧されて黒服が退いた。
「君は後悔していないかい、だってさ、ここに来なければ、好きにできたわけだ、呪いも解除されているんだからさ」
男は笑みを浮かべたまま、ゆるやかに黒服に歩み寄る。
「どうしました、後ろに下がるだけでは君の立場は余計に悪くなるよ」
黒服は震えていた、
「あんたはどこまで強いんだ」
男は答えず、左手を黒服に向け、人差し指を上から下へと向ける。瞬間、黒服の右腕が引きちぎれた。燃える、右腕が灼熱の炎を吹き出し、燃え尽きた。
「その腕の輪が君の流血を抑えている。殺しはしないさ、それほど、私は親切じゃない」
男がそう言い終えた瞬間、黒服が消えた。
「結界に排除されたか。元の世界で彼なりに生きて行けば良いさ」

男が振り返ると、幸が茫然とした面持ちで男を見つめていた。
「ん、どうした」
「お父さん、ごめんなさい。幸がお父さんの腕を斬らなければ、お父さん、自分の腕を燃やさなくても良かったのに。幸は、幸はどんどん、お父さんを不幸にしてしまうよぉ」
男はそっと笑みを浮かべると、幸を左手でぎゅっと抱き締めた。
「幸、父さんを両手で抱き締めてくれないか」
幸が力一杯男を抱き締める。
「父さん、抱き締められるってことが、こんなにも幸せで暖かいことを幸に教えてもらって、とっても幸せになった」
「そして、幸」
「うん」
「幸は、父さんのこと、大切に思ってくれる、それがとても嬉しい。父さんはとっても、とってもね、幸せになった。今が、父さん、生まれて来てから、一番幸せなんだ。幸、ありがとう」
男は柔らかに笑みを浮かべる、
「父さんは幸を幸せにできているかな」
「幸も幸せです」
男は手を離すと、幸の横に座った。
男が少年のような幼い笑みを浮かべた。
「これからもずっとよろしく」
幸は男の左手を、両手でぎゅっと握り締め、泣き濡れたまま、男に微笑んだ。
男は長い間一人で生きて来たが、もう一人では生きて行けないなと思う。それは、なんて幸いなことだろうと強く思った。

「おはようございます」
玄関口から坂村恵子の声が響いた。
「幸、鍵をあけて来なさいな」
「はい」
幸は縁側から家に入ると、戸を開け恵子を招き入れた。
以前より血色も良く、朗らかになった恵子が男のところにやって来た。
「おはようございます」
「恵子さん、おはよう。ん、また、恵子さん、体格良くなってないかい」
「ひどいなぁ、私も年頃の女の子ですよ」
恵子が嬉しそうに笑う、
「そうだよ、お父さん、恵子さんに失礼だよ。ね、体重計出してくるから、変わってないの証明しょう」
「あはは・・・、それはちょっと・・・。ごめんなさい」
恵子は袋から瓶詰を取り出すと、幸に手渡した。
「大根で作った千枚漬けです、漬け汁にちょっと工夫ありです」
幸は受け取ると、蓋を取り、少し匂いを嗅ぐ。
「美味しそうだよ、お昼ごはんに食べてみよう」
「それも物産展の商品か」
男が尋ねた。庭の畑では幸が中心になって、野菜をつくっていたが、食べきれない分を佳奈を通じて、商店街の八百屋に卸していた。その縁で、前回、近所で開催された物産展に出展し、評判は上々、そして、二回目の参加となったのだった。
「加工した方が利益がいいのです。今度は、お父さんも来て」
「売り子しなくてもいいなら、見に行くよ」
幸がくすぐったそうに笑う。
「先に言われちゃった。それじゃ、お父さんは幸の頭を撫でる係、幸はお父さんに頭を撫でられるととても元気になるのです」
「あんまり撫でて、幸の頭が禿げたら大変だ」
「禿げるくらい撫でてほしいかも」
幸はくすぐったそうに笑みを浮かべると、テーブルに恵子が持って来た瓶詰を置いた。
「そうだ、お父さん、今晩は鍋にしよう。ね、恵子さん、今晩用事ある」
「私は大丈夫ですけど」
「お父さん、いいかな」
「いいよ」
幸はにっと笑うと恵子に言う。
「鍋、一緒に食べよう。あ、恵子さんのお母さんや物産展覗きに来てくれた妹の、礼子ちゃんはどうかな」
「妹は幸さんの大ファンですから、何があっても来ますよ」
幸がけげんな顔をした。
「幸は礼子ちゃんと挨拶しかしてないよ」
「妹は、幸さんが、脅しに来たやくざを殴り倒して、足で踏んでいるのを」
「あぁ、その話はもういいです。恵子さん、畑にどうぞ」
慌てて、幸は恵子を畑へと送り出した。
戻って来た幸がばつの悪そうな顔をして男を見る。
「父さん、初耳でした」
「ごめんなさい、だって」
「幸に怪我がなければいいよ」
仕方なさそうに男が笑う。
幸はほっと吐息を漏らすと男の後ろ、背中に被さるように体を預け、男の肩から顔を出す。
「幸はえらそうにしている奴や、むちゃを言う奴が嫌いなんだもの」
「父さん、幸にえらそうにしないよう気をつけなきゃ」
「お父さんは幸にえらそうにしてもいい人なのです」
「でも、倒れたところを踏まれるのはなぁ」
「お父さんにはそんなことしないよぉ。もぉ・・・」
幸はそっと男に頬を添えると囁いた。
「貴方は私との日々を楽しんでくださってますか」
「楽しんでいます、本当にありがとう。君はどうですか」
「寝てしまうのが惜しいくらい、朝になるのが待ち遠しいくらいに楽しんでいます、娘にしてくださってありがとう」
「君に言いたい」
「はい」
「父親にしてくれてありがとう」
そっと幸は、そのまま体を預け目を閉じる。
そして呟いた。
「幸せです」

ふっと幸が目を開ける。
「お父さん、次は喫茶店だ。ここで開店するよ」
「え、あぁ、忘れてた。ハーブティーの専門店とか話していたな」
「お父さんがマスターなんだからね」
「父さん、恥ずかしがり屋だからなぁ」
「ね、マスター、なんだか、あたし、疲れちゃった」
「お嬢さん、それなら、カモミールを中心にした当店オリジナルのハーブティーがお勧めですよ、リラックス効果抜群です、ゆっくりしてくださいな」
幸がにひひと笑う。
「お父さん、合格です」
「本当にこんな歯の浮くようなこと言うのか」
「そおだよぉ。ね、お父さんはどんな服が似合うかなぁ。少し固めの方がいいかな」
「まっ、それは考えておいてくれ。そうだ、父さん、午前中に仕事を済ましたら、ちょっと出掛けてくるよ」
「幸もついて行っていい」
「どうかなぁ、幸の教育に悪そうなやつだからな」
「なら、行かなきゃ。だって、幸はお父さんのボディガードだからね」
「うーん、まぁ、これもまた勉強かな。それじゃ、父さん、ピンチになったら、助けてって叫ぶことにするよ」
幸は満辺に笑みを浮かべると後ろから男をぎゅっと抱き締めた。
「お父さんは幸にとっても甘いです、あまあまですよ」
そして、唇で男の耳をくわえる。
「はぐはぐ」
「やめなさい、父さんは汚いから」
幸は口を離すと囁いた。
「汚くありません、それに、なんてお父さんは幸に甘いんだろ。そうだ、お父さんはお砂糖で出来ているのです、珈琲に入れたらきっと溶けてしまいます。もう、食べちゃうぞ」

「ええっと、幸さん、お取り込み中、申し訳ありませんが・・・」
困り切った顔をして恵子が二人の前に立っていた。
「ごめん、恵子さん、夢中になってた・・・」
男は立ち上がると幸の頭を撫でる。
「父さん、仕事に戻るよ」
「うん、お父さん。ね、お出掛け、一人で行っちゃ嫌だよ」
男は笑みを浮かべ、頷くと部屋へ戻った。

まだ、ぼぉっとしている幸の目の前で坂村が手を振る。
「まだ、余韻に浸ってますか」
幸は笑みを浮かべると、頭を振った。
「ごめん、恵子さん。えっとなんだっけ、まだ、頭が働かない」
「出荷の時間です」
「ああ、そうだった」
幸は縁台から降りると靴を履き、畑を歩く。長靴は絶対に拒否という姿勢だ。
鶏が雑草を食んでいる。
幸は秋茄子やホウレン草を見て回り、出荷に頃合いのものを竹で編んだ籠に入れて行く。
「一度聴いてみたいと思っていたんですけど」
坂村が幸に尋ねた。
「ん・・・」
「無造作に採っているようにしか見えないのに、ちょうど良い状態の野菜を選んでいますよね、どうやっているんですか」
「声を聴いているだけだよ」
幸が手を止めずに言う。
「幸ちゃん、幸ちゃん。ボク、食べ頃だよ、採って、採ってってね。野菜の声が聞こえてくるんだ」
「で、本当は」
坂村が促した。
「少なくてもこの一週間の状態を全部暗記している、何処にどれくらいのがあるかってね。それぞれ、時間軸を元に、変化を微分化して、その加速度を求める、それが主な判断材料かな。もちろんパラメーターは複数あるけどね。な、可愛くないだろう」
「可愛くありません」
「ボク食べ頃だよ、幸ちゃん。これの方が受けが良いよね」
幸は笑いながらも手を休めずに収穫して行く。
「恵子さんは勉強熱心だな。農家に嫁げ、引く手あまただぜ」
「それは、親戚の叔父さん的発想、散々言われてますよ」
幸は声を出して笑うと、籠を坂村に渡し、新しい籠に収穫を始めた。
「あれから一年、スーパーでのバイト以外はすっかり百姓だ。恵子さんはこれからどうしていきたいんだ」
手を休める間もなく、幸が坂村に尋ねた。
「そんな難しいこと、聞かないでくださいよ。ただ、なんだか、社会から一抜けたって言いたい気分です」
「以前、あかねちゃんがお父さんに言ってたんだ、大学を卒業したらここで暮らしたいってね。ここは、ある意味、シェルターみたいなものなのかもしれない」
「かも知れませんね、ここに来るとほっとします」
ふと、幸は手を止めた。
「あかねちゃん、どうなるんだろう。もろいところがあるからなぁ」
幸は溜息をつくと、満杯になった籠を置いた。
「次は恵子さんの番」
幸は新しい籠を坂村に渡すと、満杯になった籠二つを縁台にまで運ぶ。
「恵子さん、幸はお昼の用意をしてきます」
坂村に声をかける。
「お願いしまーす」
坂村が陽気に答えた。幸が家に戻って行くのを見終えると、収穫に戻る。坂村は本当に今が幸せだと思う。
坂村は手を止めると、秋の遠い空に向かって言う。
「幸せだぁ」
あまり大きな声では言わない、叫んでみても良いのだが、幸に聞かれて笑われでもしたらと思うと、声が小さくなってしまう。
「おぉい、恵子ちゃん」
振り返ると、縁側から、佳奈がやってきた。
「ごめんなさい、まだ、収穫が」
「いいよ、あたしも早く来たからさ、手伝うよ」
佳奈は恵子のところにやって来ると、言った。
「この辺のを採っていけばいいのかい」
「はい、あまり小さいの以外で」
佳奈も見よう見まねで採っては籠に入れる。
「恵子ちゃんも明るくなったねぇ」
坂村が初めて佳奈にあったのは、ここへ来てすぐのこと。随分と幸に脅かされていたのだった。
「そりゃ、幸さんからとっても恐い人だって聞いてましたもん」
「こんな優しいお姉さんを恐いだなんて、冗談にも程があるね」
佳奈が笑う。
「でも、読心能力、心を読まれてしまうって云うのにはびっくりしました」
「そうだね、意識を向ければね、目の前で喋っているみたいにさ、わかるよ。それって恐いかな」
「いまは全然。って言うか、言わなくてもわかってもらえるし、楽かもしれない。よくよく考えてみれば、私は考えていることと喋っていること同じですから」
「誰もがそんなふうに思ってくれるなら、あたしも嬉しいんだけどね。以前は悩んだ、自分は何者なんだって悩んだ」
ふと、坂村は笑みを浮かべると、佳奈を見つめた。
「佳奈姉さん、悩んでますね、それに少し怒っている」
「え、どうして」
「私は心を読む能力は無いけど、推理は出来ます。会話の内容、声質、誰か悩みを聞いてくれないかなぁって思っている」
「驚いた、その通りだ」
佳奈は素直に驚くと、恥ずかしそうに笑った。
「佳奈姉さん、私には解決出来る力はないけれど、聴くだけでもいいなら話してください」
「恵子さん、齢幾つだい」
「ええっと、もうすぐ二十五かも・・・」
「うちのガキと三歳違いか、しっかりしているなぁ」
佳奈は溜息をつくと、手を止める。
座って空を見上げた。
「どういう仕組みになってんだろうね、ここは」
今日の収穫は終わったと、坂村も手を止める。
「この畑を越えたらひたすら梅林です、でも、その向こうに川があって魚釣りが出来るとか、幸さん、言ってましたよ」
「おっかないよ、迷子になったら大変だ」
佳奈は笑う。落ち着いた笑みだ。
「あのさ」
「はい」
「親子喧嘩と夫婦喧嘩をして、ついでに亭主の親とも喧嘩してきた」
「四面楚歌、大変ですね」
坂村が笑う、つられてか、佳奈も笑った。
「あぁ、大変だ」

「どうぞ、座ってください」
幸がテーブルに料理を並べる。
幸が男の向かいに、佳奈と坂村がテーブルにつく。
焼き飯の、ご飯よりも野菜が多い。
「本で読んだんだ、ご飯よりも野菜が多い、野菜炒めご飯」
「ちょっと中華風かな」
佳奈が言う。
坂村が少し食べて言った。
「和風ですね、胡麻油が入っているんですよ」
「美味しいかな」
少し不安げに幸が佳奈に尋ねた。
「とっても美味しいよ」
幸が男の向かいに、ほっとしたように笑みを浮かべる。
「と、云うことで、佳奈姉さん、恵子さん」
幸がにっと笑った。
「幸はこれからお父さんとデートです。お昼からの出荷にはお手伝い出来ません。ごめんなさい」
幸が頭を深々と下げた。
「わかっているよ」
佳奈が笑った。
「もう、さっきから幸ちゃん、嬉しそうににやけているんだからさ。顔見ただけで見当つくさ」
「ほんと、佳奈さんの言う通り、機嫌いいし、そわそわしているし」
「申し訳ないね、暗くなるころには帰ってくるから。そうだ、佳奈さん、夜は無理かい」
男が言った。
「恵子さん達と鍋をしようって思うんだけどね」
「主婦ですけど、少しなら大丈夫ですよ」
「幸が美味しい鍋作るよ、恵子さんや、恵子さんの妹やお母さんも来るから賑やかだよ。楽しみだなぁ。あ、幸の母さんは来れないかな」
「礼子さん次第だね。帰って来るの、遅いからなぁ」
幸が男を見る、男が頷いた。
「それじゃ、学校まで、幸が迎えに行くよ。佳奈姉さん、母さんにそう伝えてください」
佳奈はうなづくと笑った。
「あぁ、わかった。デート、楽しんでおいで」
「うん」
幸が答えた。
後を二人に託し、男と幸が出掛ける。
「佳奈さん。幸さん、幸せそうでしたね」
部屋に戻ると坂村が言った。
「だねぇ、あれほど父親が好きな娘もいないだろうね」
「父親って言うより、まるで恋人ですよ。あたしは自分の父親にって、もう、随分会っていませんけど、あんなには甘えられないな」
「ご両親、離婚したとか言ってたね」
「子供の頃です、中学生でした。先生は別居中なんですか」
「ん・・・」
佳奈が怪訝な顔をしたが吹き出した。
「あぁ、違うよ洋品店の叔母さんを幸ちゃんが母さんって呼んでるだけさ」
「え、そうだったんですか。確かに顔が似てないって思ってましたけど」
坂村が苦笑いをした。
「あの叔母さんから、あんな絶世の美女が生まれるわけないって、なんて言ったら叔母さんに叱られるな」
佳奈は笑うと縁側に座った。
佳奈が縁側に座りながら、日差しを浴び、ほっと吐息を漏らす。
「もうすぐ三年になるのかなぁ、幸ちゃんに初めて会ってさ、話した時のことを思い出すよ」
「幸さんって、元気な女の子だったんでしょうね」
「いや・・・」
佳奈は硝子戸の端に背を預け、呟いた。
「臆病な女の子でさ、先生以外の人間を恐れていた」
「それって想像つかないですよ」
「だろうね、先生は、どうしてだか、自分がいつ殺されても仕方のない人間だと考えているんだ、だから、幸ちゃんが一人でも生きられるようにと、先生は必死にしっかりした女性に育てた、しっかり育て過ぎたかもしれないけどね」
佳奈は気持ちを入れ替えるように笑った。
坂村が佳奈の横に座った。
「先生、強く育て過ぎましたねぇ」
坂村も笑う。
「余程、先生は幸ちゃんが可愛くて、心配なんだろうね」
「でも、幸さんは真っすぐですよ。格好いいです。あたしも好きですよ」
「わかるよ、あたしも幸ちゃんのファンだからさ」
坂村は初めて会った時のサングラスを降ろし、にっと笑う幸の笑顔を思い出した。迎え入れてもらったように思えた、本当に嬉しかった。
「さて、佳奈さん、仕事再開、いいですか」
「よし、頑張ろう」
佳奈は立ちがると、思いっきり背伸びをした。


男とサングラスを掛けた幸は、二人、路線バスに揺られていた。電車でおよそ三十分、その後、駅からの路線バスに乗る。
乗客は十人程度、幸は二人掛けの座席、通路側、その横に男が座っていた。
「幸、窓側に座らないのか、景色がそっちからじゃ見ずらいだろう」
「だめだよ、幸はお父さんの右腕なんだからさ。悪い奴が右から襲って来た時には、幸がばしっとやっつけなきゃ」
男がくすぐったそうに笑った。
「父さんが悪い奴で正義の味方が退治に来たのならどうする」
「もちろん、ばしっとやっつける」
「なるほど、父さん、責任重大だ。悪いことしないようにしなきゃな」
男は寂しそうに笑みを浮かべると座席の背もたれに体を預けた。
「父さん、以前はとっても悪人でした。これから会おうというのはね、その頃の父さんを知っている悪人だ。友達じゃないけどね」
「どうして、そんな奴に会うの」
「あの忍者に施した呪を解いたのがそいつだ。呪を勝手に解くというのは敵対関係を選んだということだ、つまり、好んで父さんと敵対関係を選んだ奴の真意を知りたく、思ったんだ」
「知ってどうする」
「これからの生活にとくに問題がなければそそくさと帰る。問題があれば解消して帰る」
「幸的には、すかっと解消して帰りたい」
「困った娘です」
男がそっと笑う。
二人は終点のバス停で降りる、ほとんどの乗客も、途中のバス停では降りずに、終点のバス停で降りたが、燦々午後に姿を消して行った。
山の麓にある静かな山村だった、ふと幸は振り返りバス停を見る。
金魏護寺とある。
「そのお寺へ行く、もともと真言宗のお寺で現世利益の加持祈祷を主としている、もっとも今はどんなガイドブックにも載ってない」
幸は山の中腹を見上げた。
「お父さん、結界がある、こちらに関心を持つなという嫌意の結界だ」
「あぁ、誰もがなんとなく無視してしまいたくなる気分になる。あの寺は暗殺者養成所で、政治家や秘書が自殺した場合のほとんどはあの寺の仕業だ、そんな場所だから招いた奴以外は関心を持つなということなんだろう」
「なんだか、お父さん。大暴れできそうだね」
「それは勘弁してください」
幸はそっと笑みを浮かべる男の上着、右袖を両手で掴む。微かに唇を噛んだ。
男は左手で優しく幸の頭をなでる、
「お父さん、軽々しいことを言ってごめんなさい」
「幸は父さんにとって、とっても良い子だ、それはかわらないよ、どんな時もね」
そっと男は左腕で幸を抱き締めた。
「これからも幸が幸せでありますように」
男が小さく呟いた。


幸と男は簡単に結界を擦り抜け、境内へと入った。微かに霧が辺りに漂うが、視界には問題ない。
たっとうがいくつも並ぶ広大な寺院だ。
「この霧、核が金属の粉だよ」
「侵入者探査システムだ、密度変化による電位差を測定している」
「お父さん、部分的に気圧を操作して、姿を消そうか」
「いや、それほど警戒する必要はないよ、ただ、幸はか弱い女の子、いいね」
幸がそっと頷いた。

「これは珍しい、名無し様ではありませんか」
「館長直々とは恐れ多い、お久しぶりです」
霧の中から独りの僧が現れ、男に声を掛けた。この寺の護人、僧兵の管理者でもある。
「ここ数年来、一度、鬼紙老の元に現れた他は、全く、噂も何も伝わって来ず、いったい、どうされたのかと思っておりました」
「事務仕事とたまに畑作業の手伝いという日々を続けております」
男が静かに答えた。
「うんうん、人は静かに生きるのが一番、良い生活を送っておられますな」
「ところで愚円さんはどちらに」
「あれは六角堂におります。あの者ももう少し落ち着いてくれればと思うのですが」
「閉じ込めてあると」
僧は頷いた。
「食事を差し入れる以外は。しかし、名無し様にせっかくお越しいただいたのですから、扉は開けておきましょう」
男は一礼し、僧が指し示す方向へと歩きだそうと、
「おや、このお嬢様は」
「私の娘です」
不安げに幸は男の右袖をしっかり握ったまま、僧を見上げた。
「初めまして」
男は微かに笑みを浮かべた。
「長く別れて暮らしていたのですが、数年前に引き取りまして、今は一緒に暮らしております」
「なるほど、それが理由ですな。良いことです」
「それでは」
男は僧に会釈をすると、幸を連れ歩きだした。
しばらく歩き、男と幸は夢殿を模した六角堂の前にやって来た。話どおり、扉が一つ、開け放たれている。
「お父さん、あの建物だよね」
幸が囁いた。
「頑丈な建物だな」
「大丈夫、幸がお父さんを護ります」
「うーんl
男が微かに笑みを浮かべる。
「父親としては娘に対して、かっこ良くいたいな」
「娘と致しましては、案外やれるじゃないかとお父さんに認めてほしい」
ふと、男が目頭を押さえた。
「どうしたの」
「ちょっと感動、齢を取るとだめだな、涙腺が弱くなってしまう」
「幸はお父さんのそういう少年っぽいとこ、好きだな」
「幸・・・」
「ん・・・」
「これ以上、父さんを泣かさないでくれ」

二人が六角堂に入った途端、扉が勢いよく閉ざされた。二人は振り返ることもせず、中央を見る。僧が一人、座禅をした姿のまま、空中に浮かんでいた。ぼろぼろの衣に、生まれてから一度も風呂に入ったことがないのではないかと思えるような垢だらけの姿だ。
「愚円、最近、風呂に入ったのはいつだ」
男が呆れたように声をかけた。
「久方ぶりの親友の言葉がそれだとは寂しいものだな」
「大丈夫だ、俺はあんたと親友だった記憶はない」
僧は口元ににやりと笑みを浮かべると足を伸ばし、床へと着地した。
「ところで無よ、なにをしに来た」
「俺の呪を解いた理由を問いに来た」
僧はふと思い出そうと空を睨んだが思い当たったらしく男を見る。
「魔人に呪いをかけられた哀れな男を救うたことがあった。これもまた修行」
「で、本当の理由はなんだ」
男が重ねて言う。僧は仕方がないなと笑うと、そのまま、床にあぐらをかいた。
「館長からのお達しだ、こいつの呪を解けば、世の縁を切り、姿をくらました無をおびき出し、捕獲できるだろう、あいつは自信家だから、必ずやって来るってな。で、のこのこやって来たわけだ、それも女連れとは驚いた」
大声で愚円が笑った。
男は愚円を睨んだが、気を取り直し言った。
「それだけ聞けば充分だ、帰ることにするよ」
「それは無理な話だ。この六角堂からはさすがのお前さんでも力不足だ」
「あぁ、外からは入ることができても、中からは、簡単には出られない。面白い仕組みだな」
「ただひとつ、俺とお前さんが力を合わせれば出られないこともない」
愚円が男に語りかけた。
「どういうことだ」
「山を降り、世俗にまみれて楽しく暮らしたいってことだよ」
「残念だ、協力はできないよ、風呂に入って身奇麗にしていたら、考えなくもなかったがな」
「ゆっくり考えて結論を出してくれ、時間はたっぷりある。それに女もいる、楽しいぜ」
「奴らは何故、俺を捕獲する必要があるんだ」
「政権が変わったからさ。この寺は前政権と深い繋がりだ。だから、現政権が煙たがっている。そのうち、現政権側のやつらと戦うことになるだろう。手元にあんたがいれば利用価値は高い」
「それだけ教えてくれれば充分だ、帰るよ。俺は大事な娘を好色な目で見る奴を許せないんでな」
男は幸に笑みを浮かべると扉へ向かう、幸も男の後を追った。
男は扉を軽く叩く、外からの明かりに僧が二人立っている、その影が見える。
「用事は終わりました。扉を開けていただけませんか」
僧の一人が答えた。
「食事はこちらでご用意致しますので、御ゆるりと滞在くださいませ」
「今晩は約束があり、どうしても帰りたいのです」
「館長からの許しがないかぎり、ここを開けるわけには参りません」
いきなり男が扉を蹴り、その男の足が扉の中に吸い込まれるように消えた。
「反対側を見な」
愚円が後ろから男に声をかける。そのままの姿勢で、男が後ろを見ると、六角、反対の扉から男の足が生えたように突き出していた。
「ほんの数ミリで空間を変換しているのか、たいした法力だな」
「俺を閉じ込めるような奴だからな」
愚円が近づこうと立ち上がったが、男がそれを制した。ゆっくりと足を戻す。
「それ以上近づくな、俺は娘の近くに好色な男がいるのを好まないんだ」
「相当な親ばかだな」
一瞬、幸が愚円を睨みつけた。
「くそぼうず、だまってろ」
鋭く怒鳴りつけた幸の言葉に愚円が硬直した。
「うーん、ちょっとびっくり」
男がくすぐったそうに笑った。
「ごめんなさい、だって、お父さんを馬鹿にされるのって許せないんだもの」
「だな、ありがと、庇ってくれて」
幸が恥ずかしそうに笑みを浮かべる、
「父さんではここを破るのは無理だ、助けてくれるか」
幸がにっと笑う。
「お父さんの役に立つのは嬉しい」
そして、空中から刀を取り出すと、静かに構えた。刀を右手、後ろへと流れるように持つ。いや、落ちないように柔らかく支えているだけだ。
瞬間、幸が間合いを詰め、すくい上げるように横一文字に壁を切り裂く、男の目が捉えたのはそこまでだ、気が付けば、四方、人が通り抜けられる程の四角い穴が穿たれていた。
幸は刀を消すと、男から譲り受けた杖を取り出した。杖を左に持ち、右手で男の左手を握る。促すようにして外へ出た。

外では茫然と館長を先頭に僧兵の姿をした僧達数十人が二人を見つめていた。
幸は男の手をしっかりと握ったまま、館長の前へ出た。
「ここではあんたが一番偉いんだろう」
返事ができず、館長はただ頷いた。
「お父さんとあたしは静かに地味に暮らしている、それで充分幸せだからだ。政争も、切ったはったも嫌いだ」
「あ、あぁ」
「今後、お父さんとあたしの生活に一切かかわらないと約束しろ、そうすればこのまま帰ってやる。もしも、約束できないというなら、この山ひとつ、粉みじんにして平野にしてやる、すっきりするぜ。さあ、どうする」
館長は戸惑ったように男の顔を見た。
「いや、娘が心配で、悪い男に泣かされないよう強く育てたのですが、思っていたより随分と強く育ってしまいました」
男も困ったように笑った。
「そのように笑われても・・・。いや、お嬢さん、良く分かりました。一切、干渉致しません」
「ありがとう、その言葉、信じるよ」
幸は振り返ると男ににっと笑みを浮かべた。
「お父さん、帰りはお鍋の材料、買って帰ろう」
「そうだな」
男が笑った。
「なんだ、なんだ、お前ら、なににやけてんだ」
やっとのことで、愚円が六角堂から出てきた。
「愚円、出てきたのか。六角堂に戻っていなさい。出るのを許した覚えはないぞ」
「今出なきゃ、いつ、出られるかわからないからな」
「まあ、いい。なんだか、争うのがつまらなくなってしまった」
ふと、男が空の一角を睨んだ
「新手ですね」
なんらかの情報が入ったのだろう、ヘリコプターの爆音が近づいてきた。
「お父さん、あれは」
「ここの敵対組織だな。監視されてたのかな」
「人工衛星だ」
幸が天に指先を向けた。男と館長も幸の示す方向を睨む。
「さすがに見えないな、父さんには」
「破壊しておこうか。上から覗かれてるのは、なんかうっとおしいよ」
「・・・そうだな。でも、かなり高い」
「簡単だよ」
幸が指先を鳴らす、瞬間、小さな光が虚空に輝いた。
「粉微塵」
幸がにっと笑った。
館長は驚きのあまり、一歩退いたが、平静を装い、幸に頭を下げる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」

その間にもヘリコプターは近づき、プロペラの生み出す突風が樹木を揺らす。
「お父さん、攻撃してもいいかな」
「殺さない程度にね」
「わかった、遊んでくるよ」
幸の姿が消えた。
「才能を十二分に恵まれた人間が、生命をかけた修行を一生続けても、あれだけの能力は身につきません、いったいどういうことなのです」
館長が声を抑えて男に問う。
男は自分自身に語りかけるように呟いた。
「私はあのとき、あの子はもともと人であったと思っていたのですが、間違っていたのかもしれない、もともと、あの子は神だったのかもしれない」
「あのとき・・・」
男は寂しそうに笑みを浮かべると口をつぐんだ。

緑色の飛行船のようなヘリコプターが着地する。台風並の風が六角堂以外のたっちゅうを揺れざわめかせた。
幸はヘリコプターの手前に陣取り、仁王立ちに立つ、腕を組む、にぃぃぃっと唇を歪め笑みを浮かべた、長い髪が逆巻く。
僧兵達を後方に従え、自信に満ちたその姿はまさしく闘神。
ハッチが開き、完全武装を施した兵士だろう、十人駆け降り、幸と向かい合う。背中にはタンク、肩には大きな、火炎放射器だ。寺すべてを焼き払う予定でやってきたのだ。
ヘリコプターの回転翼の速度が次第に落ちる、それに合わせ風が収まり始めた。

「似たようなのが雁首揃えやがって、楽しいなぁ。なぁ、一等先に殺されたい奴、手ぇ挙げてくれ」
十人が一斉に炎をはらんだ銃口を幸に向けた。
「なんだよぉ、可愛い女の子を焼き肉にする気かよ。しょうがねえな、そんな悪い子はお仕置きだ」
ふと、真ん中の頭ひとつ抜きん出た兵士が片手で他を制した。そして、火炎放射器とタンクを降ろすとヘルメットを外す。
まさしく人間よりひ熊に近いのではないかと言いたくなる男だった。
男は、にたぁっと唇を歪めると、腰の後ろ、タガーナイフを抜き、幸に剣先を向けた。
「いいやつだなぁ、あんた」
幸は嗤うと、右足を微かに前へと出す。
「女を切り刻むのが楽しいってことは、女の敵だ。遊びがいがあるよ」
幸は左のつま先を真左に向けた。
「来な」
幸が低く呟く、一瞬でひ熊男がナイフを片手に飛び込んで来た。右手に刃が輝く。幸は微かに体を真左に揺らす、刃が幸の体をすれ違い、その瞬間、幸の右手が男の顎に在った。
「回れや」
幸が呟く。
男がのけぞるように後ろへ回転、そのまま、幸は男の頭を地面に叩きつけた。
「頑丈だなぁ、生きているじゃないか」
幸は地面に頭を突き立てままの男の右手をぐしゃっと踏み付ける。念のためにと、もう片方の手も踏み潰した。
一歩踏み出す、瞬間、幸の姿が沈んだ、回し蹴り、独楽のように回転し、男を僧兵のところまでけり飛ばした。
幸が僧兵達を睨みつける。
「お前ら、そいつを六角堂にほうり込んでおけ」
「はいっ、直ちに」
あたふたと僧兵達が男に駆け寄る。

「いったい、あやつらは誰の指示にしたがっているのか」
館長が溜息交じりに呟いた。
「まぁ、少々荒っぽいところもありますが、親思いの良い娘ですよ」
「少々ですか」
館長が溜息をつく。
「もし、お嬢さんに弱点があるとすれば、貴方自身ですね」
「ん、なるほど、そうかもしれませんね」
一瞬、館長の右手が消えた、男の首を針で刺す、しかし、男の手には小石が、石の先で男は針を受けていた。
「筒になっている針ですね、中に毒が仕込まれている」
「良くご存じですな」
「この世界、長いですからね」
ふっと館長が手を戻した。
「ここの責任者といたしまして、現政権の手土産になるかもと思ってしまいました。迷いに憑かれてしまいました、申し訳ありません、それでではありますが、なんとか、この刀、納めていただけませんでしょうか」
館長の額寸前のところに、幸の刀がその切っ先を向け、浮かんでいた。
「この霊刀も娘に与えてしまいまして、私にはどうしようも。しかし、見事な使いこなし。私が針を浮けていなければ、館長の額が風通し良くなっているところでした。娘を人殺しにせずに済んで良かった」

九つの炎が幸を捉えた。しかし、炎が届くよりも早く幸の姿が消えていた。次々と幸は杖で兵士たちの腕を折り、指を潰して行く。しかし、最後の兵士だけ、首筋を軽く打ちすえ、気絶させるに止めた。
「こいつら、手当して六角堂に閉じ込めておけ。あとは館長の指示に従え。いいな」
「はいっ」
僧兵達が勢いよく返事を返した。
幸は気絶させた兵士が体型から女であると判断していた。幸は兵士の手首を掴むと、引きずり男の元に戻った。

「お父さん、誰も殺していないよ」
「お疲れさま」
「えへへ、どういたしまして」
幸が照れたように笑う。
「お嬢さん、この刀、なんとかしていただけないでしょうか」
「ん」
幸は初めて気づいたように刀を突き付けられた館長の額を見つめた。
「なんだ、そのまま、押し込んで欲しいのか」
「と、とんでもない」
幸は笑みを浮かべると、その刀を消した。
「なぁ、館長。お父さんとあたしはふたりっきりの家族だ、どっちか一人欠けても家族じゃなくなってしまうんだよ。あんたも下の町に女房と息子を持つ身だ。息子が殺されたら嫌だろ、そこんとこ、考えてくれな」
一瞬、館長の顔が青ざめる。
「まだまだ、修行が足りないな」
ふっと幸が笑う、しかし、もう関心がなくなったと、引きずって来た兵士を、少々荒っぽく仰向けに寝かせた。
そして、ヘルメットを脱がす。女の顔が現れる。ふと、男はその女の顔を見つめた。
「何処かで見たな、その顔。あぁ、あの時のか」
「えぇっ、浮気はだめだよっ」
男はくすぐったそうに笑った。
「こんなおっさん、誰も相手してくれないよ。以前、鬼紙老宅からの帰りに拉致されてね、尋問して来たのが彼女だ」
「お父さん、拉致って、それ初めて聞いた」
「うん、父さんも初めて言ったかな」
「もぉ、お父さんったら。万が一のことがあったら」
「大丈夫だよ、這ってでも帰ってくるさ。大事な娘を心配させるわけにはいかないからね」
幸がふっと恥ずかしそうに俯いた。
「お父さんったら、もぉ」

「しかし、こんな荒事のできる身体能力は無かったはずだが」
男は女の顔を睨んだ。
「男、まさか・・・」
男は女をうつ伏せにした。
「首筋から、腰まで、切ってくれるか」
「は、はい」
幸は刀を取り出すと、素早く、撫でるように服を切り裂いた。
男が女の項から腰までを脱がす。少し、治りかけた傷が首筋から、腰まで続いていた。女の髪を上げ、後頭部をまさぐる。
「頭蓋骨を切断した跡があるな」
「これは・・・」
館長が呟いた。
「なにか思い当たることでも」
男が問いかけた。
「三十九番の字を持つ殺人鬼」
館長が答える。
「三十九が女の体を手に入れたと、ある組織に潜入している者から報告を得ました」
「なるほど」
男は呟くと、女の後頭部を見つめる。
「確かに頭の中は三十九だ、こんな形で再会するとは」
「医療技術と魔術の融合ですな」
館長も小さく呟いた。
「お父さん、元の女の人はどうなったんだろう」
「奴の記憶の中に少し残っている。実験用に保存されているらしい」
「助けに行こう」
「でも、これは三カ月前の奴の記憶だ。いまはどうなっているか、わからないよ」
「でもでも、お父さん。あたし、こういうの、本当に許せないんだ」
男は幸の真剣な眼差しを見て思った。すべての情報を遮断された脳、これは闇の牢獄に閉じ込められたのも同じだ。幸は自身の過去と重ねているのだろう。
男は空中から硝子の球を取り出した。そして、三十九の体の上に軽く浮かべる、硝子の球は大きくなり、人一人分の大きさになると三十九を飲み込んでしまった。そして、軽く男が指を振ると、滑るように硝子球が六角堂へと飛んで行った。
「捕虜をどう利用するかについては、私も娘も関わりません、御ずいに」
男は館長に呟いた。そして、幸の横に立つ。幸は両手で男の左手をしっかり握ると、少し微笑んだ。そして二人の姿が消える。
館長が一人呟いた。
「無の技は、嘘か真か、神を統べる技と聞いたことがある。ならば神が神を統べる技を得た時、その神は」
「絶対神、他の神は位落ち、あの娘が唯一の神になる」
いつの間にか、愚円が館長の横で呟いた。
「神も仏もあったもんじゃねえな」
愚円が嘯いた。
「愚円、お前、阻止できるか」
「たかだか、人間様の出来ることなんざ、しれているさ。金輪際、あの娘には近づきたくないな、それは、館長、あんたもだろう」
「あぁ、無には、世界平和のためにも仲の良い父娘でいてもらおう」
「館長、あんたから世界平和なんて言葉がでるとはな」
「愚円、つまらぬことを言っていると、六角堂にほうり込むぞ」
「いくらいい女でも頭の中が、がたいのでかい三十九ではやる気になれねぇよ。昔、奴が妙に流し目してきやがると、うっ、気持ち悪ぇ」
館長の苦虫を噛み潰した顔に、愚円はこれ以上喋っても、機嫌を損ねるだけだと、僧兵達のもとに戻った。

直径一メートルほどの円柱型水槽にそれは在った。
「お父さん、あれだ」
モノクロームの床がにび色にねめつける。少し光量を落とした研究室、幾人もの研究員が、それぞれの研究に没頭している。
脊髄を中心に神経の一つ一つには金属片、伝達される電気信号を増幅させるのだろう、いくつもの電子機器と繋がっている。
男は何げない動作で、一人、手持ち無沙汰に見える研究員に声をかけた。
「ここではどんな研究をしているのかな」
研究員はなんの戸惑いもなく答えた。
「これからは宇宙への進出です。ここでは、脳の基本データーの抽出を主にしています。ここのデーターを元に人間と機械の融合を促し、いずれは、宇宙服を必 要としない機械の体を持った人間の誕生です、その他、宇宙ステーションを建造するための機械になった人間が、製造作業に従事すれば、今の効率を遥かに超 え、精度の高い作業が可能になるでしょう。これは素晴らしいことですよ」
「なるほど、夢物語が現実になるということか、でも、実際はまだ先の話、私などが生きている間には見ることは出来ないのでしょうね」
「いいえ、五年先にはプロトタイプの完成がほぼ確実です」
「五年ですか・・・、それなら、まだ、生きていられそうだ。ところで、この脳は一体誰の」
「脳は健康なものでなければなりません、これは、このプロジェクトの意義に賛同した」
幸は研究員の解説を途中に、生理液に浮かぶ脳を見つめ、意識を探った。
意識は闇の中にいた。
無、貴方ならきっと助けてくれる、お願い、早く、早く
幸は闇の中に浮かぶ意識と同化し、言葉を繋いだ。
君の名前は
わからない、確かに覚えていたはずなんだけど、忘れちゃった
君は無を知っているの
とっても強い人、あの人なら私を助けることができるはずなんだ、ここから出してくれるんだ
貴方は無なの
私は無じゃないけれど、無に一番近い存在。安心していいよ、私には力がある、まずは君に光をあげよう
闇に白い小さな光が生まれた。光りは徐々に大きくなり、闇を白く染めた。
少女が丸く俯せになって、うずくまっていた。
幸は少女に近づくと、腰を下ろし、そっと少女の髪に触れた。
「目を開けてごらん」
「やだ、暗いのはもうやだ」
「大丈夫だよ」
「明るくしたからさ」
幸の言葉にそっと少女は顔を上げ幸を見つめた。
「ね、明るいでしょ。お姉ちゃんの顔、わかるかな」
「わかる、綺麗な人」
時間感覚が失われていく間に、退行現象が生じ、子供の意識になってしまったのだろう。
「お姉ちゃんがここから出して上げよう。お姉ちゃん、強いぞ、だって、無の娘だからね」
少女が安心したように笑みを浮かべた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
幸は少女の頭を優しく撫で、囁いた。
「今度、目を覚ます時は、青い空の下だ。楽しみに眠っていなさい」
少女は少しうなずくと目をつぶった。

研究室では歓声が上がっていた。
「活性化したぞ、脳が目覚めたんだ」
男の前にいた研究員が悲鳴のような雄叫びを上げた。
激しくモニターが明滅する。各部に取り付けられたセンサーの信号が、グラフとなりプリンターから弾き出される。

ふと、幸は水槽の下、小さな落書きを見つけた。
めぐみちゃん、ごめんね。
「どういうこと・・・」
幸が小さく呟いた。
「三十九という名の殺戮者の本名は誰も知らない。ただ、奴は女になりたがっていた、女そのものに。奴とここにいる彼らの組織と利害が一致したのだろうな、 奴は女の体を手に入れた、追い出された女の脳と心は水槽の中だ。落書きは三十九が、その時の気分で書いてみたものだろう、記念に」
幸は俯き声を振り絞った。
「そういうの・・・、許せない」
「うわあぁぁっ」
幸が悲鳴、いや、雄叫びを上げた。
まるで嵐だ、幸を中心に風が逆巻き、研究員達を壁に天井にと打ち付ける。男は硝子球を浮かび上がらせると、水槽に鋭く投げ付けた。割れるかと思いきや、硝子球は巨大化し、水槽もろとも脳を飲み込んでしまった。
「彼女の脳を破壊してしまったら本末転倒。さぁ、幸、帰ろう」
「許せない、許せない。閉じ込められるのがどれほど苦しいか。絶対に許せない」
男は自分を見失った幸を見た、百年以上に渡る自分自身の苦痛があの落書きをきっかけに顕在化したのだろう。
「幸、心を沈めなさい」
「うおぉぉ、許せない」
俺の声も聞こえないか・・・
男は左手で幸をしっかり抱き締めた。
「幸。どれほど苦しかったか、辛かったか。ごめん、父さんには全てはわからない。でもね、いま、幸には新しい生活があり、たくさんの友達も増えた。それを大事にしてほしいんだ」
幸の体から衝撃波が生まれ、男の内蔵をえぐる。喉から血が溢れる。
男はふと思った。誰にも殺されたくない、幸とずっと変わらぬ生活を続けたいと思った、でも、あぁ、幸になら殺されてもいいかなと思う。幸は泣くかな、泣いてくれるかな。
泣いたら可哀想だな、でも、たくさん、友達も出来たから立ち直ってくれるかな。
考えてみれば、幸と出会うまでは、俺も殺人が日常生活のような男だった。そんな男が真面目な振りして、幸せな生活を送ることが出来た、もう・・・、これ以上は望むべきじゃないな・・・
幸、ありがとう
男の力が抜け、そのまま俯せに倒れて入った。
天井が軋み出す、壁がひび割れた。風は幸を中心にいよいよ激しくなり、
「こらっ、しっかりしなさい」
幸の前に透けて後ろが見える、もう一人の幸がいた。
「もう一人のあたし・・・」
次第に風が収まり、静寂と化して行く。
「空気中の粒子の有り合わせで体を作ったけど、密度が粗いなぁ」
半透明の幸は自分の手のひらを見つめて呟いた。
「あたしが外にいる」
「幸という存在の構成は百のうち九九はあなた、私はひとつだけ。つまり、あなたがしっかりしなきゃいけないの。なのに、このざまはなんなの。もっと、自分の感情を操れるようになさい」
「ご、ごめんなさい・・・」
「ごめんなさいじゃありません。足元、ご覧なさい」
ふと、幸が足元を見る、俯せに、男が倒れていた。
「お、お父さん。うわあぁぁっ。お父さん、お父さん」
慌てて幸はしゃがみこむと男を抱き上げた。
「お父さん」
「大恩あるお父様を殺してしまったのですよ」
「うわあぁぁ」
涙に鼻水、ぼろぼろに泣く幸を、溜息交じりに半透明の幸は見つめていたが、ひざまずくと、幸の顔を覗き込んだ。
「泣くのはそれくらいにしなさい。私にはあなたを叱ることしかできません、この状況を変えることができるのはあなただけなのです」
「この状況を・・・」
半透明の幸は、幸を励ますように、にっと笑った。
「まだ、お父様の心臓が停まって四分。すぐに人工呼吸、神気を吹き込みなさい」
「は、はい」
幸は男を仰向けに寝かせると、口移しに息を男に吹き込む。
「同時に内蔵の修復。それが済んだら、直接、心臓を掴んでマッサージしなさい」
幸は男の背に左手を差し入れ、右手を腹部から中へと溶け込ませて行く。
半透明の幸は辺りを見渡した。倒れた人、コンピューターに挟まれた人、傾いだ機械、見上げた。天井自体が光っている、LEDが内蔵され、最小限の影響に止まったため、こうして明るさが残ったのか。
ゆっくりと見下ろす、幸が放心したように口を開け、宙を見つめていた。
微かに男の心臓が動くのがわかる。
「間に合ったようね」
「はい、なんとか」
半透明の幸は嬉しそうに微笑むと幸の頭をそっと撫でた。
「よくできました。でも、お父様にも困ったものです。執着がないというか、とても恐ろしい冷徹なお方なのに、娘には驚くほど甘い。ご自分の命さえ差し出してしまう、仕方がありませんね、お父様にもっと責任を担っていただきましょう、容易く死ねないように」
「責任を」
「そう、私達はお父様に娘にしていただいたけれど、実のところ、娘よりも妻になりたいのが本心、違いますか」
「もちろん、それは。でも、お父さんは」
「現状はたいしてかわらないでしょうけど、お父様には、妻になってくれと言っていただきます。ね、だから、邪魔しちゃだめよ」


14
最終更新日 : 2013-05-11 17:26:12

異形 流堰迷子は天へと落ちていく四話02

二人の幸は庭の梅林へと戻ってきた。そして、男を仰向けに寝かせ、脳の入った球を空に浮かせる。半透明の幸は、幸に溶け込むようにして消えた。
幸は男の横に膝をつくと、そっと、呼びかけた。
「お父さん、お父さん」
男がゆっくりと目を覚ました。
「あれ・・・、地獄じゃないな。梅林、うちに帰って来たのか」
「お父さん、何処か、痛くない」
「ん、幸。幸は怪我していないか」
「幸は大丈夫だよ」
「そっか」
男は笑みを浮かべると、左に体をずらし、上半身を起こす、慌てて、幸が背中を支えた。
そして囁く。
「ごめんなさい、幸はお父さんを殺してしまいました」
男は左手で自分のお腹に触ってみる。
「ちょっと腹囲が小さくなったかな、ちょっとだけ、かっこよくなったかもな。ありがとう」
「お父さん」
「ん・・・」
「お父さんは幸を叱らないね」
男は困ったように笑みを浮かべた。
「男親はだめだな、叱るという発想が希薄だ。今回のことも父さんがしっかり幸を育てていたらね、こんな、幸自身に辛い思いさせずに済んだのにな」
「お父さんはこのままでいてください。だって、こらぁってお父さんに怒鳴られたら、幸、泣いてしまうよ」
「それは大変だ」
「幸は失敗したら喉が涸れても、ごめんなさいって言い続けるから」
男は左手で幸の頭を撫でる。
「幸はどう行動すればいいか、自分で考えることができる。ただ、今回は昔のことと重なって感情に流されてしまった。でも、そのこと、経験したからね、次は大丈夫だよ。自分自身を信頼してあげなさい」
「お父さん」
幸がそっと顔をあげる。
「幸にはたくさんの友達ができた。それも幸の大きな支えになるよ、きっと」
男は笑顔を浮かべた。
ふと、男は浮かんだままの硝子球に入った脳を見た。
「彼女をなんとかしなきゃな」
幸は振り返ると、硝子球を見る。
「幸が彼女の体を創るよ」
「三位全てがなくなってしまっている、難しいぞ。といって元の体はたくさんの人を殺してしまって穢れてしまっているから使えない、脳まで穢れに侵されてしまう」
「うん、でも、今の幸なら出来そうな気がするんだ」
幸はゆっくりと立ち上がると、硝子球に近づく。
幸が両手を伸ばし、硝子球に向ける。ゆっくりと硝子球が月の白い輝きを放ち出した。
男は驚いてそれを見つめた。次第に白い輝きは人の形を取り出し、その光が消える頃、あの時の彼女をほんの少し幼くした女性が立っていた。
男は驚いたようによろけながら立ち上がった。呪的に構成された体じゃない。あれは、全く、普通の人間だ。
ゼロから体を創ったのか。
「お父さん、彼女の精神が子供に退行していたから、体も少し幼くしてみたよ」
幸が男にそう話しかけた瞬間、ふわっと幸の体が浮かんだ、目を閉じ、幸がゆっくりと浮かび上がって行く。
男は駆け出すと、飛び上がり、左手で幸を抱き締める、しかし、幸の体を男の手は擦り抜けてしまった。
男は茫然と空に浮かぶ幸をぎょしした、全てを理解した。
声にならない音を男は幸に叫んだ。
幸の真の名前。そして、唯一の願いを叫ぶ。
「帰って来てくれ、幸」
幸の目が開き、男をぐっと睨みつける、そのまま、急降下、落ちてくる幸を男は抱きとめ、仰向けに倒れた。
幸は男の上にのしかかったまま、低く男に語りかけた。
「神に戻るはずの私はあなたさまの我欲により、その機会を失ってしまいました。私はもはや神に戻ることは出来ませぬ、私はあなたさまの娘という、あやふやな立場に閉じ込められてしまいました」
「君には申し訳ない、どうしても幸と別れたくなかったんだ」
「それがあなたさまの我欲。今となってはどうしようもありませぬ。さぁ、あなたさまの責任の著しを言の葉になさいませ」
男は決意して言った。
「私の妻になってくれ」
幸はふっと笑みを浮かべた。
「あなたさまの我欲により私は留まります、やっと、幸も私もあなたさまの妻になることができたと嬉しくて仕方がありません。どうぞ、末長く、よろしくお願い致します」
言葉を終えると、幸が二人に別れた。薄い姿の幸が、男と幸の横に座る。
「幸、日中から、仰向けの殿方に馬乗りするとは、はしたないですよ」
薄い姿の幸が幸に笑った。

男は一つ溜息をつくと、二人の幸を前にして語り出した。
「幸はもともとは神様だったのだろうと思う。武術や呪術が父さんの能力を遥かに越えたのも、神と人との基礎能力が遥かに違うからだ。その幸が、彼女の体を 全くのゼロから創り出した。全くの無から有を産みだす、これこそが神の能力だ、この能力を使ったため、幸は自然に神へと、あまねく普遍の存在に変わって行 こうとした」
薄い姿の幸が笑みを浮かべた。
「真実の名前を叫んで、留めていただかなければ大変なことになるところでしたわ」
「あまねく普遍の存在、それは」
男の言葉を薄い姿の幸が繋いだ。
「空気みたいなもの、こうして、お喋りも出来ません」
幸も男と同じ溜息を一つつく。
「貴方は無茶だよ。もしも」
「無茶ではありませんよ。留めてくださると確信しておりましたから」
ふと、気づいたように薄い姿の幸は男を見つめた。
「貴方か・・・。私は幸の別人格ではありますが、こうして体外に出、空気中の粒子を集めて、薄いながらも形どることが出来るようになりました。おまえさ ま、私にも名前をつけてくださいませ。おまえさまが幸に甘い分、私は、たまに幸から出でて、叱り付けなければなりません。そうだ、幸と似たような名前が良 いですわ」
男は困ったが、あらがえずに言った。
「幸乃、にしましょう」
「ありがとうございます、素敵な名前ですわ」
幸乃は男に笑みを浮かべると、振り向き、幸に言った。
「疲れました、私は貴方の中に戻って当分の間、眠りますが、妻として、娘として、しっかり、お父様を支えるのですよ、わかりましたね」
「は、はいっ」
幸乃は、にっと笑うとそのまま、姿を消した。幸はそっと幸乃のいたところに、ふわふわと手を動かしてみる。
「うひぃ、大変だ」
緊張の解けた幸が叫んだ
「もう多重人格どころか、多重人間になってしまったよ」
「父さんの代わりに幸を叱ってくれる人が出来てしまったな」
男がくすぐったそうに笑った。足を投げ出し、幸も情けなさそうに笑う。
「あの人に、幸乃さんによろしいですねって言われると、反射的にはいっって答えてしまう」
「父さんは、以前から、少しずつだけどね、喋っていたけれど、淑やかな、控えめな人に思っていた」
「それは猫かぶっていただけ。幸乃さんは強いよ、幸があんな世界で百年以上、狂わずにいることができたのも、今の幸乃さんという人格と暮らしていたからかもしれない」
幸はごく自然に男を抱き締めると、耳元で囁いた。
「ね、お父さん、今晩、えっちしようか」
「うっ・・・」
男は幸の言葉に固まってしまった。顔が真っ赤にほてり出す。
「夫婦だもの、妻として不思議じゃないよ。幸、とっても気持ち良くしてあげるよ」
「いや、あの、うーん」
男が口ごもる。
「むしゃむしゃ、お父さんを食べちゃうぞ」
「いや、そうだ、確かに父さんは妻になってくれと言った。そうだ、確かにそう言った・・・」
男は自分に納得させようと呟く。
幸は笑いながら、体を離した。
「幸はね、お父さんに要求されたらすぐに受け入れる。だって、本当に愛しているもの。でも、なんていうかな、幸はお父さんにとって特別の存在でありたい。 そう思うと、えっちをしない方がいいのかななんて思う。お父さんにもっと近づきたい、服のその厚みすら邪魔だと思うくらいなんだけどなぁ」
「幸がこんなおっさんを愛していると言ってくれるのはとても嬉しい。ただ、父さんは暗殺者としてたくさんの人達を殺して来た過去がある。殺人鬼と忌み嫌われた時代もあった。すっかり穢れているんだ、父さんは」
幸はにっと笑うと男の左手を両手で包み込んだ。
「ならば、その穢れ。半分、幸が担いましょう」
「いや、大切な娘を汚すわけにはいかない」
「お父さんの頑固者」
「そうさ、父さんは頑固です」
「開き直ったな」
幸が楽しそうに笑った。
「お父さんは幸を妻にすると約束しました。ただ、幸も体を許してしまうと、夫は出来ても、お父さんがいなくなってしまうようでなんだか寂しい。ということ で、本来なら、幸のやりたい放題ですが、幸は優しい娘です、妥協してあげましょう。御風呂を大きくして大人二人が寛げるように明日から工事します。完成 後、裸のお付き合い、背中の流しっこもします。これ以上は譲れません。よろしいですか、よろしいですね」
「わ、わかった・・・」
幸は男に抱き着くと、くすぐったそうに笑った。
しかし、ふっと笑い声を止め、幸はぎゅっと男を強く抱き締めた。
「お父さんを殺してしまったって気づいた時、あぁもうだめだ、幸はなんてことをしてしまったんだって思った。そして、頭が真っ白になって何をどうしたらいいのかもわからなくなったんだ」
「父さんは幸が立ち直ってくれるかな、啓子さんやあかねちゃんたちとしっかり生きていって欲しいと思いながら死んだ、それだけが気掛かりだった」
「お父さんは優しすぎるよ」
幸が唇をかむ。
「それは仕方ない、幸が大切なのは変わらないからさ」
「幸乃さんが初めて幸の前に現れたんだ、叱られて、それから、人工呼吸やお父さんの内蔵を修復するようにって教えてくれた。お父さん、ほんとうにごめんなさい」
「これは、父さんも幸乃さんに頭が上がらないな」
男は少し笑う。
「ね、お父さん、新しい右腕、作ってあげようか。今の幸なら出来るよ」
思い詰めた顔で幸は男の目を見つめた。
「右腕は幸とこれからも一緒に暮らすためになくしたもの、だから、右腕はなくていいよ」
「幸はお父さんに右腕があってもずっとお父さんといるよ」
「ありがとう。でも、その時の思いに、今も誠実でありたいからさ。それとも、幸は、父さんに右腕がないの嫌か。辛いこと、思い出してしまうから嫌か」
「嫌じゃない。ただ、お父さんは幸にとっても甘いくせに、自分にはとっても厳しい」
「かっこつけているだけさ。だって、幸にかっこいい父親って思われたいからな」
男はそっと笑みを浮かべると、左手で幸の頭をなでた。
「今回のことで父さん、思った」
「何を」
「呪的な延命はしないけど、それでもね、長生きして幸とこれからも暮らし続けたいってね。死んだままにならなくて良かった」
「幸はこれからはね、負の感情に流されずにするよ。感情に溺れずにしっかりするよ」
男はくすぐったそうに笑った。
「よろしくお願いします。もう、父さんじゃ、幸の暴走を止められないからさ。さてと、幸。恵さんをなんとかしてくれ」
「うん」
幸はふと立ち上がると、眠ったままの恵を抱きかかえ、戻って来た。
「お父さん、ここで一緒に暮らすのがいいのかな」
「いずれは彼女も記憶が甦るだろう、それまでは心と体を養生させる必要があるだろうな。だから、彼女が戻りたいと思うまではここにいる方がいいだろう」
「そっか、そうだよね」
幸は恵を見つめると、彼女の耳元で声をかけた。
「おおい、目を覚ませ」
幸の呼びかけに恵がゆっくりと目を開ける。
「約束どおり、青空の下だ。見えるか」
「明るい、空が青いよぉ」
笑みを浮かべる恵の瞳が涙で潤む。
ふと、男は坂村が畑からこちらにやって来るのを見た。
「先生、そろそろ、鍋の準備しないと」
幸の膝に裸の女がいるのに気づく。
「まっ、大概のことには驚きませんけど」
坂村が恵の顔を覗き込んだ。
「あれ、恵だ」
幸は見上げると坂村に尋ねた。
「知り合いなの」
「大学の時の、一つ下の後輩です、クラブが一緒で」
幸は男を見つめた。
「そうだな、人を闇に追いやる一連の仕組みが、その大学にあるのかもしれない」
幸は溜息をついた。
「お父さんと静かな生活を送りたいのに」
「父さん、幸に付き合うよ。でも、今は鍋のこと、考えさせてくれ。こんなにお腹が減っているのは初めてだからさ」
幸は男の内蔵を再生させた時、老廃物をすべて消したことを思い出した。
「うわっ、すぐに用意するよ。恵子さん、恵さんをお願い」
幸は坂村に恵を預けると、慌てて、家へと戻った。
「先生、何があったんです」
「そうか、まだ、数時間しか経ってないんだな、お昼食べてから」
男は笑うと、坂村に言った。
「大冒険活劇。それに幸が二人になった」
「幸さんが二人、それって、姉妹喧嘩で世界が滅びますよ」
「その時はあきらめてくれ」
男が笑った、坂村も情けなさそうに笑う。
「坂村さん、彼女に服を着させてくれないかな。服は幸に選んでもらってください」
坂村は頷くと恵を抱きかかえ家へと戻った。

「こんなに賑やかになるとは思いもしませんでした」
男がふっと呟く。その男の横には幸乃が座っていた。半透明で後ろが透けて見える姿はまるで幽霊のようにも思える。
「ただ、女性ばかりですわね」
「幸乃さんはその方がいいのでしょう」
「ええ、おまえさま以外の男は嫌悪しています、幸も私も」
少し不機嫌そうに幸乃は答えた。
「男は性根が汚いのばかりです。一キロ以内に近づくなという気分」
「それは手厳しい」
「百数十年、男を食ってきた結論です」
ふっと幸乃は笑みを浮かべると男を見つめた。
「おまえさまは幸と情を交わされようとされませんね。御風呂で背中の流しっこ、まるで子供同士のよう。せっかく、背中を押して差し上げましたのに」
「多分、それは父と娘という関係を大切にしたいと考えているからかも知れません。何の計算も打算もなく、見返りも必要とせず、ただ、大切と思うことの出来る関係。この関係は現在進行で私を救ってくれています」
「そんな素直に返されてしまうとは・・・。でも約束は約束。おまえさま、浮気はご法度。幸と幸乃は娘でもあり、妻でもあること。お忘れなきように」
「ええ、大丈夫ですよ、幸乃さん」
幸乃はふと思案顔に俯いたが、すぐに顔を上げた。
「おまえさま、試しに幸乃と呼び捨てになさいまし」
「幸乃・・・、ですか」
幸乃は得心いったかのように笑みを浮かべた。
「私のことも幸乃と呼び捨てになさいまし。その方がうれしゅうございます」
ふっと顔を寄せると幸乃は男に囁いた。
「もぉ、幸乃だってお父さんの娘なんだよ。大事にしてくれなきゃ怒るぞ」
幸乃の笑顔が凍りつく、真っ赤な顔をして俯いた。
「あ、あの」
男が戸惑う。
「あぁ、だめだ。恥ずかしい、今のは無しにしてくださいまし」
幸乃は自分自身に呆れたかのように声を出して笑った。
「私はおまえさまのことを、父としてより、夫として見ているようです」
「大事に思ってますよ」
幸乃は照れ笑いを浮かべると、家を見やった。
「幸にたたき起こされました。おじやを作りながら、お父さんが死んじゃうと泣いて、私に見に行ってくれと。随分、しっかりしたくせに、おまえさまのこととなると、頼りない子供になってしまう。ほんに面白いこと」
「大事に思ってくれる人が居てくれるのは嬉しいことです。ただ、私自身があまり大切には育ててもらっていないので経験がない。このままでいいのかなと思います」
「いいのですよ。今のまま、幸と幸乃を大事に育ててください。この御恩は存在と笑顔でお返し致しますわ」
家の中から坂村の叫び声が聞こえた。
「ん、どうしたのかな」
「あぁ」
幸乃はいたずらげに笑った。
「物事に動じない坂村さんのこと、それならばと、あの方の目の前で、幸の背中から、蠢くようにおどろおどろしく登場致しました。硬直されていましたが、やっと意識を取り戻した様子」
男も仕方無さそうに笑う。
「考えて見れば、食卓がないと私は食べることができません、家に戻りましょう」
「そうですね、私も坂村さんとお喋り致しますわ」
男が歩く、幸乃もその横を歩いた。
男は思う、存在と笑顔、本当にそれだけで充分だ、願わくは、この関係が少しでも長く続きますようにと心から願った。
15
最終更新日 : 2013-05-11 17:27:45

異形 雨夜閑話一話

男は落ちつかずにいた。
幸が一週間かけて造った風呂場、いや、浴場だ。大人、五、六人はゆっくり入ることができる。男は足を伸ばし、ゆっくりと湯船につかってはいたのだが、それ でも、落ちつけずにいた。それは幸との約束、一緒に風呂に入って背中の流し合いをするという約束に、わかったと答えつつも戸惑いをかくせずにいたからだっ た。幸との約束は必ず守る、しかし・・・。
「お父さん、入っていい」
後ろ、曇り硝子の向うから、はしゃぐ幸の声が響いた。
「どうぞ」
戸惑いながらも、男は背中越しに返事をする。
硝子戸を開けた幸は白く透き通るような肌を惜し気もなくさらす、その姿はまさに人の領域を越えた神々しさすらある。
幸はいきなり駆け出すと飛び上がり、男の前に飛び込んだ。男の視界を水しぶきが遮り、それが、収まった時、幸が面と向かい、男の太ももに馬乗りになって笑顔を浮かべていた。
「お父さんと一緒だ」
「幸、降りなさい」
幸が目を瞑り小さく喘いだ。
「あん、お父さんのが・・・」
Γうわっ、幸、早く降りなさい」
幸はあやしげに笑みを浮かべ、男を見つめ囁いた,
「だめだよ」
幸は少し腰を浮かせると、男にしっかりと抱き着いた。幸が男に胸を押しつける,
吸い付くような肌。そして、男の耳元で囁いた。
「お父さんの、入れちゃおうか」
「幸、だめだ、それは」
ふと、幸は男の耳元で哀しげに囁いた。
「お父さん、幸を妻にしてくれるって言ったよ。言ってくれたよ」
男は幸と暮らす上で、一切、幸には嘘をつかないと決めていた。
「そうだったね、ごめん、父さん、確かにそう言った」
俺はいいのか、幸を汚してしまう、幸は後悔しないか。男である俺は父親という立場で、幸と生活をしている。幸は今後、苦しまないだろうか、恐れないだろうか。安寧に暮らすことができるだろうか。
「うっ」
幸が男の耳を噛んだ。
「お父さんはあまあまですなぁ。とっても、チョコレートです」
幸は笑みを浮かべ男から降りると、左に座り男の腕を両手で抱いた。
「ごめん、幸」
「お父さんは男だけど幸を本当にね、大切に思ってくれている、それがわかってるから、幸は大丈夫だよ」
幸は男の腕を両手で抱えたまま、目を瞑り、そっと呟いた。
「いつもありがとう、お父さん」

男は居間に設えた掘リ炬燵に足を入れ、勿論、春の暖かさに炬燵布団は外していたが、ばて切ったように仰向けに寝転がってしまった。
何事もなく洗い場で背中を流し合い、先に男が風呂からあがる。すっかりのぼせてしまっていたのだ。
妙なことにはならず、いや、一緒に風呂に入ることそのものが、妙ではあるのだが、風呂を終え、男はほっとしていた。
俺は幸の父親だ。
男は幸と始めて会った時のことから、暮し始めて、まだ、幸が不安定な頃のことを思いだす。
俺は幸を絶対に守ると決めた。そして、それこそが俺の生きる理由になったんだ、守るべき幸を俺が汚してどうする。

「お父さん」
幸が襖を開け、男を覗き込んでいた。男は体を起こすと、ちょっと照れたふうに笑った。
「ごめん、父さん、とってもかっこ悪かったな」
幸はかぶりを振ると、そっと男の前に正座した。
「ごめんなさい、幸、はしゃぎ過ぎて、とってもえっちになってた。服を着たら、なんだか落ちついて、そうしたら、お父さんにとっても迷惑をかけたのに気づいて。」
男は少し笑みを浮べ、幸の頭を撫でる。
「迷惑なんて思ってないよ、父さん、幸が大好きだからさ。ただ、父さんは、今、とっても臆病なんだ。この生活が、今の関係が壊れたらと思うとね、とっても、臆病になってしまう。かっこ悪いな」
「幸もお父さんが大好きだよ、この生活を絶対に守るよ」
「ありがとう。父さん、幸を束縛していないか、無理させていないか」
「お父さんは幸に生きていくためのもの、いっぱいくれたよ。だから、幸は一人でも生きて行けるかもしれないけど、幸は自分がいたいから、お父さんと一緒にいるんだよ」
「そっか、ありがとう、幸」
男は左手で幸をそっと抱き寄せると、自分に語りかけるように呟いた。
「父さん、心の中では嬉しくって、声を上げて泣いているよ。大人だからさ、大声で泣いたりしないけどね」
男は手を戻すと幸に、少し恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
「お父さんは少年みたいだ、幸の心をとろとろのスープにしてしまう」
「こんなおっさんが少年なわけないよ。さ、晩御飯を作ろう、お腹、空いていないか」
幸は、足を崩し、ばたんと仰向けに寝そべってしまった、
「うわぁ、お腹減ったよぉ。そうだ、とろとろのポタージュスープが食べたい」
「じゃがいもと玉葱、あったな。それじゃ、大事な幸が飢えてしまわないように作ってくるよ」
立ち上がった男に幸がしがみついた。
「幸も行きます、そして、味見をして差し上げましょう」
「幸は厳しいからなぁ、美味しくないって言われたら、父さん、今度は悲しくって泣くかも」
「大丈夫。幸はお父さんには甘いからね。ね、立つのが面倒、お父さん、台所まで引っ張ってください」
「そんなことしたら、脚が擦りむけてしまうぞ」
男は左腕で軽く幸を抱え上げた。

幸は晩御飯を堀炬燵の上に並べた後、硝子戸を細目に開け、夜の外を覗く。
雨音と共に、遠く、蛙の鳴声が聞こえた。
男は左腕でお茶の沸いたやかんを持ってくる。掘り炬燵に入ると、幸に話しかけた。
「雨が降り出したのか、雨蛙だな」
幸は硝子戸を閉め、振り返ると頷いた。
「多様化して面白いことになったな」
幸も掘り炬燵に入ると、少し困ったように笑みを浮べる。
「ごめんなさい、お父さん」
「謝ることはないよ、これが本来の姿だからね」
異界は異物の侵入に警戒するため、単純な生態にしていたのだが、畑を作ることでさまざまな動植物が増えてしまっていたのだった。
「幸の影響かな、父さんも農業に興味が出てきたよ」
「お父さん」
幸がそっと囁いた。
「ん、どうした」
「幸はたまにね、こう思うんだ。現実世界と異界との繋がりを閉ざしてしまって、お父さんと異界で二人っきりで生活してみたいってね」
「疲れたかな」
「そうじゃないんだけど、ちょっとね」
ふと、男は幸の背中から首筋へと手をやった。そして、首筋を包み込む。
「なんだか、暖かい、気持ち良くて体が浮かんでしまいそう」
「澱のように疲れが溜まっている、ちょっと頑張り過ぎだな、幸は。どうだ、軽くなったか」
幸は頷くとそっと笑みを浮かべた。
「お父さんは頼もしいなぁ」
「ありがと。な、幸」
「ん・・・」
「いずれは異界に生活の拠点を移動させる必要があるだろうと思う。それが多分、双方の幸せだ。それは父さんも思うよ」
幸はそっと頷いた。
それ以降は二人ともその話題には触れず、晩御飯を食べ始めた。
「お父さん、このポタージュスープ、美味しい、味見した時より美味しくなってる」
「工夫をひとつ足したからな。合格できたかな」
「合格です、お店にも出せるよ」
幸は、にひひと笑うと、嬉しそうにスープを飲む。
「最初はカウンターだけだったな」
「うん、基本は木目調、オークとかね、濃い目の色合いで統一。いい感じになると思うよ」
「楽しみだな」
幸は男の顔を見上げると眩しげに笑った。
「お父さんのお陰で幸はいろんなことができる、ありがとう」
「いや、幸が頑張りやさんだからさ、父さんはあたふた幸の後ろを追いかけているだけだよ。でもね、それがとても楽しい、ありがと」
幸は男の左手を両手でぎゅっと握る、そして、自分の額を重ねた。
「お父さん、幸を娘にしてくれてありがとうございます」
「父さんこそさ、幸が居てくれなかったら、悪人のままだった、救ってくれてありがとう」
不意に幸が顔を上げた。
「護り髪、礼子ちゃんだ」
「何かあったんだな、父さんも行くよ」
「幸、一人で行ってきなさいな」
「幸乃さん」
男は幸の横に、幸乃が座っているのに初めて気が付いた。
「いま、幸の体から出てきました。お父様には折り入ってお話ししたいこともあります。幸、一人で行ってきなさい」
「一人で行くのは大丈夫だけど、幸乃さん、お願いだから・・・」
幸乃がにいぃっと笑みを浮かべた。
「万事塞翁が馬、安心しなさい」
「あぁ、幸乃さんのそれが・・・、本当に変なことを言わないでください。幸は今の生活に満足していますから」
幸乃は笑みを浮かべたまま、幸を推す。
「早くしないと、礼子ちゃん、喰われてしまいますよ」
「お、お父さん」
「ん」
「幸は今の生活に満足しています、本当だからね」
「ありがと。そうだ、幸、これを持って行きなさい」
男は空から硝子球を取り出すと幸に手渡した。
幸の姿がかき消すように消えた。
「さてと」
幸乃は男を少し睨む。
「お前さまは幸の気持ちがわかっていません、たとえば、ほれ」
幸乃が男の右の肩口を指さした。
「これは・・・」
「お前さまにも理屈はございましょう、ようは、その御理屈と幸のどちらか大切か、天秤に掛けてごらんなさいませ」

幸は妙に人気のない、夜の街に一人立っていた。かなりの繁華街のはずであるのに、誰ひとりいない。
ブランドを並べた、個性豊かな、いくつもの店が煌々と軒先を照らしている、しかし、物音ひとつしない。すべての音が消えていた。
捕獲者には音が邪魔なのだろう。
幸は幸乃が言うであろうことを理解していた、願わくは、あいまいにそれとなく、言って欲しい、いや、言わずにいてくれればそれが一番なのだ。
幸は男に、これ以上負担をかけたくなかった。
「早く済まそう」
幸が小さく呟いた時、遠く、足音が響いた。
足音二つ、思いっきり駆けている。
啓子の妹、礼子だった、同じくらいの背丈の女の子の手を引っ張るように走ってくる。
「幸さん。どうしてここに」
礼子は息せききって幸に駆け寄った。
「早く逃げてください、鬼が追ってきます」
「わかってる、だから来た」
幸はふと礼子が手を握っている女の子を見つめると、片手でその顎をくっと上を向けた。
「中原理絵子、礼子ちゃんの親友か。自分の親友を危険に晒すなよな」
「幸さん、早く」
礼子が叫んだ。
「大丈夫、ここで鬼共を始末する」
幸は片手で理絵子の腹を押さえた。
「鬼をはらまされたか。落としておくか」
「あたしの赤ちゃん・・・」
「馬鹿野郎、お前の中にいるのはただの鬼だ」
幸の手が理絵子の腹に入り込み、その手を抜いたとき、青く光る、角のある赤ん坊が、その瞬間、幸の手の中で紅蓮の炎に燃え、消えてしまった。
「あ、あの人の赤ちゃんが・・・」
幸は理絵子を睨みつけると、ぐっと顔を寄せた。
「あの男のことは忘れな、もう人じゃない。なぁ、片思いでいいなら、既婚のあたしに惚れてみるか」
幸がにっと笑った。

「やっと見つけたよ、理絵子。急に走りだしてどうしたんだよ」
男が二人、やって来た。
「幸さん、あいつらが鬼です、今は人の姿をしているけれど。角が、牙が」
「礼子、理絵子を後ろから羽交い締めにしなさい」
「は、はい」
慌てて、礼子は理絵子の後ろに回ると両手でしっかり抱き締めた。幸が硝子球を二人の上に軽く放り投げる、硝子球は粉々になって二人の回りを回転しだした。
「礼子、動くなよ。その結界の中にさえいれば安全だ」
「は、はい」
男たちが近づいてくる、ほんの数メートルのところで、幸は男たちを制した。
「これ以上近づくな、あたしは男嫌いでね」
「うひゃあ、すげぇ美人さんだ。な、理絵子、紹介してくれよ」
幸は空から抜き身の刀を取り出した。
「早く鬼に変態しな。人の姿では太刀打ちできないぜ」
男は本性を現したかのように幸を睨み付けた。

「お前、ただの女じゃないな」
「ああ、ただの女じゃない、すげぇ美人さんだ」
幸はにぃと口を歪め笑みを浮かべると、右手で刀を持ち刃先を男に向けた。男たちは表情を変えた。軋むような音が男達の体から響きだし、巨大化して行く、ほんの数秒のうちに、青く燐光のように光る鬼が二体、立っていた。
「礼子」
「はいっ」
「姉妹そろって運が悪いな」
一瞬、幸の姿が消えた。いや、あまりの速さに礼子の目では幸の動きを追うことができなかった、それは、鬼にとっても同じだった。二体の鬼の首を同時に刎ねる、その血しぶき浴びるよりも早く、幸は鬼の背中に移動すると、その原をなぎ払った。

幸が再び、礼子の前に現れた時、その背後にはいくつもの青い肉塊が転がっているだけだった。
「燃やしておくかな」
幸の呟きに呼応するかのように肉塊が燃え上がり、黒い消し炭となって消えてしまった。
ふいに幸は少し離れた街路樹に向かって声をかけた。
「そこの魔術師、出てこい。まさか、無事に帰れるなんて思ってないだろうな」
黒いマントを羽織った男が姿を現した。
怯えきった表情で幸を見る。
「せっかくだ、あんたも斬っておくか」
「そ、それだけは勘弁してくれ」
幸が魔術師を睨んだ。
「なるほど、人狩り。鬼の遊び、あんたは、その連絡係ということか。なんだよ、鬼の使いぱっしりじゃねえか」
「均衡が崩れたんだ、鬼がどんどん強くなって来た」
「まさか、世情の乱れを責にするつもりじゃないだろうな」
幸は魔術師の言葉を冷たく返した。
「お前らが弱すぎるんだよ。ん、お前、あの暗殺寺の出身か」
幸はふと愉快そうに笑みを浮かべた。
「もう一度寺へ帰って修行をし直せや、絶世の美女にそう言われたって言えば、館長も受け入れてくれるぜ、もっとも、あんたが生きて寺へ辿りつけたらの話だけどな。早く行け」
魔術師はあたふたとうなづくと姿を消した。
「あれは鬼のところに戻るな」
幸は関心をなくしたように冷たく呟いた。
振り返ると幸は硝子の結界を消した。
「幸さん、ありがとうございます」
ほっとしたのか礼子はしゃがみこんでしまった。
「めったにない経験ができたわけだ、ただし、次は助けないぞ」
幸は怒ったように言うと、手を横に伸ばした、その手が消える、
「あ、うわぁっ、な、何」
啓子が幸の手に背中を引っ張られ現れた。左手にお茶碗、右手にお箸を持ったまま。
「幸さん、無茶ですよ。晩御飯食べていたのに」
「悪いな、礼子ちゃんが鬼に襲われた」
「え・・・」
啓子はしゃがみこんでいる礼子を見つけると、慌てて抱き締めた。
「礼子、大丈夫。怪我は」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん」
「あまり大丈夫じゃない」
幸が啓子の背中に話かけた。驚いたように、啓子が振り返る。
「礼子ちゃんと、その理絵子ちゃんは、一週間、預かる、ゆっくりと穢れを払ってやるよ」
「よろしくお願いします」
啓子が頭を下げた。

幸は三人を連れ帰ると、そっと玄関を開けた。
上がり口に笑みを浮かべた幸乃が立ち、四人を向かえていた。
「お疲れさま、御風呂わいていますわよ」
「幸乃さん、お父さんには・・・」
「迷った時は前進あるのみ。しっかりはっきり申し上げました、あとはよろしく」
幸乃は幸に近寄ると、すっと幸に溶け込んでしまった。
幸は留守にしていた間の幸乃の記憶を確認して慌てふためいた。
「啓子さん、二人を御風呂に入れてください。そして、徹底的に体を洗わせるように」
「は、はい」
啓子の返事を聞く間もなく、幸は男がいるであろう御風呂の竈へと駆け出した。
新しい御風呂は薪で焚くようになっており、外に竈が設えられていた、もちろん、中からでも追い炊きくらいはできるようになっている。
男が竈で薪をくべていた。
「おかえり、体冷えたんじゃないか、もう一度、幸、風呂に入るか」
「お父さん」
「ん」
幸は男に駆け寄ると、しゃがんでいる男の前で跪いた。
「ごめんなさい。幸乃さんの話したことは」
男がくすぐったそうに笑った。
「幸乃さんのこと、怒らないようにね」
「でも」
「幸乃さんにとって幸はとても大切な妹なんだろう、だから、幸の幸せを一番に考えている、たとえ、自分の存在が消えても、幸が幸せであればってね」
「その辺、父さんも同じように幸が大切だ。幸の幸せが父さんの幸せだからさ」
男は手を伸ばすと、そっと幸の頬に触れた。
「幸が幸せでありますように」
幸が男をぎゅっと抱き締めた。
「お父さん、幸乃さん、ありがとうございます。幸はとっても幸せです」
幸は男の心臓の鼓動を楽しむかのように男に身を寄せていたが、ゆっくりと顔をあげた。
「右腕、作らせてください」
「ありがとう」
ふと、幸が玄関口の方向を見つめた。
男はくすぐったそうに笑った。
「幸、啓子さんを攫って来たんだろう、恵さんと啓子さんのお母さんだ」
恵は実家には戻らず、啓子の家で居候をしていた。食事時、啓子が目の前で消えるのを見て、男の元に慌てて相談に来たのだった。
「お父さんと二人っきりの生活が・・・」
「なんだか、当分、賑やかになりそうだな。玄関口へ二人を迎えに行きなさい」
幸はうなずくと、玄関口へと走って行く。
男が風呂場へと声をかける。
「啓子さん、湯加減どうだい」
「ありがとうございます、ちょうどいいです」
中から、啓子の声が聞こえた。
「幸も御風呂にはいるだろう、中から追い炊きできるから後は任せるよ」
「ありがとうございます」
男が居間に戻ると、幸が二人に謝っていた。男はくすぐったそうに笑みを浮かべると、お茶を沸かしに台所へ向かった。
とたたっと幸が男の元にやって来た。
「お父さん、ごめんなさい、二人も今晩泊まることになっちゃったよ」
「いまから夜道を帰るのも危ないだろう、もう一度、御飯を炊かなきゃな。野菜は畑にあるだろうし、冷蔵庫はどうかな」
冷蔵庫を開け、しゃがむ男の後ろから、幸がその背中におぶさり、男と一緒に覗き込む。
「お父さん、これは鍋だね。かしわとお豆腐」
「そうだな、野菜で水増しして。冷御飯は雑炊用、これから炊く御飯はおむすびにしてしまおう」
「なんだか、お父さん。民宿の亭主と女将は大変だ」
「大丈夫だろう、うちの女将さんはしっかりしているからな」
幸がにっと笑った。
「うちの亭主は気配り上手だし」
男は急須と湯飲みを二つ用意する。
「持って行きなさい、もうすぐお湯も沸くからさ。それと、啓子さんに御風呂の沸かし方を教えてあげなさい」
「うん、わかった」
幸は急須と湯飲みを持って、二人のいる居間へと行く、男はそっと笑みを浮かべた。
賑やかなのはいいな、男は呟いた。

16
最終更新日 : 2013-05-11 17:31:14

異形 雨夜閑話二話

「眠れないのか」

幸は隣りの布団に眠る啓子に声をかけた。男は自室にて、一人眠り、幸は啓子と礼子と理恵子の四人で寝ていた。

そして、啓子の母親と恵は、別の部屋に寝ていたのだった。

礼子と理恵子のニ人は、喉が乾いたのか、ニ人して台所へと部屋を出、この部屋には幸と啓子のニ人だけだった。

「啓子さん、鬼の鱗粉が見えるようになったのか」

布団の中から幸が問いかけた。

啓子は薄暗がりの中、幸を見つめてうなずいた。

「都会に住むことができなくなりました。あちこちに青い燐光のような靄が、ふわふわ浮んでいるのが見えるんです」

「鬼の穢れ、つまりはそこに鬼がいるか、もしくは少し前までいた。人に着くこともある、なんらかの理由で鬼に接触した、その影響だ」

「礼子は両手に、理恵子ちゃんは体全体、特にお腹が青い光る粉を振りかけられたように光っていました。あれは・・・」

「啓子さんの思う通りのことさ、ただ、先までの賑やかな宴会で。まさか、啓子さんのお母さんがあんなにはしゃぐとは思わなかったけどな」

幸は少し笑うと言葉を続けた。

「賑やかな宴会で、随分、鱗粉が消えただろう」

「はい」

「ここの空気を吸い、ここの水を飲み、ここで出来た野菜を食べれば穢れが浄化して行く」

「不思議ですよ、ここにいれば何があっても安心だって自然に思えてきます」

幸はくすぐったそうに笑った。

「ここは避難場所なのかもしれないな。ん、理恵子ちゃんが幸のこと、喋っている」

「なんて言っているんですか」

幸が小さく笑った。

「秘密だな、これは」



台所のテーブルにつき、礼子と理恵子は薄暗がりの中、水を飲み、話をしていた。

「ショックだったよね、理恵子の彼氏。あんなふうになってしまって」

「それが・・・」

「どうしたの、理恵子」

「今は不思議なほど、悲しくないんだ、確かにびっくりはしたけど・・・。ね、幸さんって既婚って言ってたよね。ご主人ってどんな人」

礼子はしばらく考えて答えた。

「姉さんは、幸さんはとても奇麗で魅力的な人だけれど、あまり好きにならない方が良いって言ってた。あらゆる男がつまらなく見えてくるからって」

理恵子はひとつ吐息を漏らした。

「今、そんな気分。だって、とってもかっこよくって、それでいて、晩御飯の時には、とっても可愛くって。甲斐甲斐しく叔父さんの右手代わりにお世話しているのを見ると胸が熱くなって」

「恥ずかしそうに、幸さんのお父さん、自分で出来るからって困ってたね」

礼子がくすぐったそうに笑った。

「理恵子も幸さんにお世話されたいの」

少し理恵子が俯き呟いた。

「そんなんじゃないよ、ただ・・・、こういう娘がいるんだなぁって記憶の何処かに残していて欲しいっていうか、あの、えっと、なんだろう、なんて言ったらいいのかな」

理恵子が急に苦しそうにあえぎ出した。

「ど、どうしたの」

駆け寄ろうとする礼子を、飛び出してきた啓子が素早く押し止どめた。

「お姉ちゃん、放して」

抗議する妹を押さえ付けながら、青く光り出した理恵子の体を啓子は睨むように見つめていた。

幸は何事も無かったように冷蔵庫から堅く絞った冷やしタオルを理恵子の額に重ね、首の後ろを優しく撫でる。

「言祝ぎ申す。青き闇に蝕まれし、御身、御心、我が言葉の響きにて浄化せしめん」

幸が囁くように寿歌を呟くと、ゆっくりと青い光が消え、理恵子は力が抜けたように椅子の背もたれにもたれ掛かってしまった。

「脊髄にまで入り込んでいた鱗粉がかなり浄化出来たよ」

幸は笑みを浮かべると、軽くぽんぽんと理恵子の頭を叩いた。

「おい、気持ち、軽くなったか」

「は、はいっ」

理恵子が飛び上がるようにして答えた。

幸は小さく笑うと理恵子の両肩に手を置いた。

「もっと強くなれ、明日から、農作業で幸が鍛えてやるよ」

それから、幸は3人を部屋に戻し、男の部屋の前に立った。

「お父さん、いいかな」

「どうぞ」

襖の向から男が答えた。そっと、幸が襖を開けると男が布団の上で上半身を起こしていた。月明かりが微かに部屋の中を照らす。

幸は男の横に正座する。

「理恵子ちゃんは大丈夫だよ」

「うまく浄化出来たようだね」

男は笑みを浮かべると、立ち上がり、窓を細く開けた。涼しい風が微かに流れ込んで来る。

「上弦の月、真っ白な明かりだ」

「お父さん」

「ん・・・」

「啓子さんが鬼の鱗粉を見ることが出来るようになってしまったって」

「それは、父さんも気づかなかった。どうしたものかな」

男が幸の前に座る。

「昔の人にとって、鬼の気配を感じることは何も不思議なことじゃなかった。もちろん、視覚として見ることの出来る人は少なかったけど、嫌な匂いとして感じ たり、なんとなく嫌だってね、感じることが出来た。今はその能力を無くしてしまって鬼の犠牲になる人が増えている、それに合わせて鬼の力が大きくなってき たんだけどな」

「どうなんだろ、教えた方がいいのかな」

男はしばらくの間、考え、答えた。

「教えていいよ。鬼が啓子さんのことを知れば、必ず殺しに来るだろう、自分の身を守るすべは持っているほうがいい」

「うん、それじゃ、啓子さんが望めば教えるようにするよ」

男はうなずくと、そっと幸の頭を撫でる。

「いろんな縁が出来て、幸も大変だな」

「でも楽しいよ。ただ、お父さん」

「ん・・・」

「幸はお父さんと二人っきりでもいいんだ」

そっと幸は男を抱きしめ呟く。

「異界にふたりっきりで生活するのもありかなと思う。ね、お父さん、今夜はこのまま一緒に寝ようよ」

男はそっと笑みを浮かべた。

「それはとても嬉しいな、ただ、父さんはさ、この頃、ひとつ、欲が出来たんだ」

「欲って」

幸がそっと男の顔を見つめる。

「幸はとっても良い娘だ、真面目で気立てが良くて、父さんのことも大切に思ってくれる。幸がとっても良い娘だってことをさ、幸を知る人にもわかって欲しいって欲だ。理恵子さん、幸に憧れているだろう、まだ、少し心が不安定だ、だから、横に居てあげなさい」

幸は両腕を男の首に回すと、顔を近づけ、軽く男の耳を噛む。

「お父さんはずるいなぁ、でも、本当に幸のことを思ってそう言ってくれるから、やだって言えないよ」

「幸」

「ん・・・」

「ありがとうな、父さんのこと、思ってくれて」

「幸の方こそ、ありがとうございます」

男は幸の背中に左手をやると、小さく吐息を漏らす。

「幸が居てくれること、それはとっても父さんを幸せにしてくれる。幸の歩く音、お皿を置いたその音、どんな小さな音でさえ、あぁ、幸がここに居るんだと気づかせてくれる、父さんはとても幸せになる。ありがとう」

幸が静かに静かに泣く。

「もう少しだけ、お父さん、このままで居させてください」



幸がぼぉっとした表情で歩く、男の部屋から出、暗い廊下、元の部屋へ戻る途中、啓子が暗がりの中、台所でテーブルに着き、水を飲んでいた。

「幸さん、いいですか」

啓子の声に、ぼぉっとした表情のまま、幸が振り向いた。

「あぁ」

幸は頷くと、啓子の隣りに座った。

「啓子さん、ごめん、ちょっと待っててくれ」

幸はテーブルの上に上半身を投げ出すと、うふふっと笑い出す。

「どうしたんですか、怖いですよ」

「お父さん、優しくってさ、あぁ、もぉ、とっても可愛いんだ」

幸は上半身を起こすと、啓子の飲みかけのコップに入った水を飲む。

「少し、落ち着いた。で、啓子さん、どうしたんだ」

「お願いしたいことがあります」

啓子が幸に向き直った。

「なんだ、改まってどうしたんだ。幸のお父さんはあげないぞ」

「いらないです」

「即答されてしまった」

幸は楽しそうに笑うと、啓子をじっと見つめた。

「幸さん」

「ん」

「私、鬼と闘えるようになりたいんです」

幸は目をそらすと、背もたれにもたれ、天井を眺めた。

「啓子さんは鬼の鱗粉を見ることができるようになった。だったら、それを避けて生きて行けば大丈夫だ、鬼に出くわす可能性は他の奴より随分少ない」

「でも、あの青い燐光を見かける機会が随分増えています」

「礼子ちゃんを守りたいのか」

幸はふと視線を啓子に向け、呟いた。

「は、はい」

「お姉ちゃんは妹離れが出来ていないな、まっ、幸も人のこと言えないけどな」

「母が離婚したのが私が中学生、礼子は小学生になったばかりでした。母は朝から晩まで仕事、だから、私が礼子をしっかり育てなきゃって、そんなふうに生きてきました」

「礼子ちゃんは啓子さんに感謝しつつも、ちょっと煩わしく思っている、礼子ちゃんも、もう高校生だからな、彼女、しっかりしているぜ」

「ちょっと・・・、距離を置かれてしまっています」

仕方無さそうに啓子が笑った。

幸も困ったように笑みを浮かべ、啓子に向き直った。

「お父さんからは、啓子さんに武術を教えてもいいって承諾は貰っている、ただし」

「はい」

「幸の武術はお父さんからいただいたもの、お父さんや幸の意に沿わない使い方を啓子さんがした場合は、啓子さんを殺しに行く。まっ、端的に言えば、己が楽しむためや快楽追求のために武術を使うなってことだ、約束出来るか」

「はい、約束します」

啓子は幸をしっかりと見つめ答えた。

「今から教える、いいか」

「はい、お願いします」

「外に出よう」

幸は啓子を促すと、畑の道を歩き、梅林へと入った。月明かりに、辺りが微かに見える。立ち止まり、幸が啓子に話しかけた。

「この武術の名はなみゆい。それは動きの基本、波の動きと結ぶという所作から来ている。そして、首から下、膝から上、胴体の変化が腕や脚の動きを促す、それだけは頭にたたき込んでおいてくれ」

緊張した面持ちで啓子が頷いた。

「教えるのは基礎と方向性、後は自分で再発見して理解を進めること」

幸は啓子の前に立つと、右腕を啓子に向けた。なんの戸惑いもなく、啓子の右腕が幸に向かう。

「勝手に手が動きます」

「いま、幸が啓子さんの体を操作している。人の理想的な動き、人に対しだけでなく、様々な形態の魔物に対応したなみゆいという動き方を自分自身の体を通して経験し、しっかり記憶しなさい」

幸はにぃぃっと笑った。

「悲鳴上げるなよ」

二人の姿が消えた。いや、正確には目で追える速度を越えてしまった。風鳴りが響き、梅の枝が縦横無尽に揺れる。



朝、男が目を覚まし、台所へ入ると、幸がお味噌汁を作っていた。

「お父さん、おはようございます」

「おはよう、お味噌汁か、良い匂いだな」

「玉葱とワカメのお味噌汁。お味噌汁の基本です」

幸はにっと笑うと、小皿にお味噌汁を少し入れ男に手渡した。

「いつもと違うな」

「うん、啓子さんのお母さんに教えてもらった。最初に野菜を蒸す。これが大事なんだって、形がくずれなくて見た目もいいなぁ」

男は人の気配が減っていることに気づいた。

「ん、佳奈姉さんと母さんは店の準備があるからって帰ったし、啓子さんのお母さんはお仕事、早出なんだって」

「高校生二人はまだ寝ているのか」

「明け方までお喋りしていたみたい」

「いろいろあったろうからな」

男は冷蔵庫からお茶をとりだし、一口飲むと幸に言った。

「なにか手伝おう」

「ね、お父さん、恵さんを迎えに行って」

「恵さんを・・・」

男は呟き、振り返ると、向こう、梅林の方向を眺めた。

「迷子か」

「恵さん、気楽に歩いているけど、折角だから、みんなで朝ごはんを食べようと思って」

「啓子さんは」

幸がいたずらっぽく笑った。

「夕方までは死んだように眠っていると思う」

「早速、練習したのか。啓子さんはひたむきなところがある、良くも悪くもね。人はそれぞれ、個性があって面白いな。それじゃ、迎えに行ってくるよ」

「お父さん、浮気しちゃだめだよ」

幸が男に声をかける。

「幸は父さんが浮気をしたら泣くかな」

「もう、わんわん泣くよ」

「幸を泣かせるわけにはいかないから浮気はしないよ、って、父さんなんか誰も相手しないよ」

男は笑うと、恵を迎えに梅林へと向かった。



男は梅林の中ほどに恵を見つけ声をかけた。

「おーい、恵さん」

振り返り、恵は男に気づくとあたふた男の元に駆け寄って来た。

「先生、助かりました。これから、どうやって暮らそうか途方に暮れましたよ」

「そのわりにはあまり深刻そうじゃないですね」

男は少し笑った。

「不思議です、ここにいると落ち着くって言うか、ちょっと幸せな気分になります」

「害意、敵意というのがないからね、ここは。さぁ、戻りましょう」

男は恵を促すと帰路へとついた。道すがら、恵に尋ねる。

「恵さんは今も啓子さんと一緒に住んでいるんだね」

「啓子先輩に居候です。でも、そろそろ、社会復帰しなきゃって考えています、求人情報なんか読んでますけど、ただ、うーん」

「就職難ってやつかな」

「高望みしなければいろいろありますよ。ただ、先輩と同じで、変なとこにまた入り込みはしないか、それが怖いです」

「二人ともそういう運命なのかな」

「わっ、ひどいなぁ」

恵が気楽そうに笑う、

「実家には帰らないのかな」

「無理ですよ、いまは香港で働いていることになってます」

「御両親、心配しているんじゃないかな」

「電話は毎日のようにしてますから。ただ、姿が変わってしまったから」

「体を造る時、退行した精神状態に近づける方が良いからって、十代後半の体にしたんだったな」

「私を見たら、母なんかびっくりしますよ、娘が子供に戻ってしまった。また、育てるのに金がかかるってね」

「幸に言えば、もう少し齢を取らせることが出来るんじゃないかな。帰ったら、話してみようか」

「だめです」

恵が思いっきり顔を横に振った。

「二十代前半、といってもギリギリですけど、そんな女が十代後半の肌を手にいれたんです。吸い付くような肌、はじける水、なんとしても維持しなければっ」

「女性は大変ですね」

男が気楽そうに笑った。

木立の中から、幸乃が現れ、軽く手を振った。

「幸乃さん、どうしたのかな」

「おまえさま、ちょっと」

幸乃が男に耳打ちをした。

「恵さん、急用が出来ました。幸乃さんに送ってもらってください、一足先に帰ります」

男の姿が消えた。

「先生、どうされたんですか」

「世界平和維持活動ってことですわ」

幸乃が面白そうに笑みを浮かべた。

「幸、泣いているのか」

テーブルにつき、打ちひしがれていた幸が驚いて顔を上げた。

「お、お父さん、お帰りなさい」

男は何も言わず、ハンカチでそっと幸の目許を拭った。

男が笑みを浮かべ、囁く。

「幸乃さんがね、幸が泣いているって教えてくれた」

男は幸の隣に座ると、柔らかな笑みを浮かべる。

「父さんに幸が泣いた理由を教えてくれないか、気づかずに幸を傷つけていたなら、父さん、あらためなきゃならない」

「お父さんは悪くない、幸の心が汚いから・・・」

唇を噛み締め、幸が俯く。

「幸はとっても心が綺麗な女の子だよ」

男の言葉に幸が頭を振った。

「恵さんにお父さんをとられるんじゃないかって、なんだか、そう思うと、勝手に涙が出て来て」

「どうして、恵さんが」

「だって、恵さん、お父さんのこと、好きだもの」

「なるほど、送り出してみたものの、不安が大きくなってしまったということか」

男はそっと左手で幸の頬に触れると、じっと幸の眼を見つめた。

「父さんは幸が大好きです、幸だけが好きなのです。どうか、信じてください」

幸が涙を流したまま、笑みを浮かべた。

「幸と幸乃さんだよ」

男は笑みを浮かべると、そっと手を離した。

「そうだな、幸乃さんを忘れると、後で叱られてしまうな」

ふと、男が振り返った。

「二人、畑のところまで戻って来たな。朝御飯、高校生を起こしてこよう。いや、父さんが行くのはまずいか。幸、起こしてきてくれるか」

「うん、起こしてくる」

幸は安心したように笑った。



五人で朝食をとった後、男は部屋に戻り、友人の会計事務所から預かった資料を整理する。昼過ぎには終えて、書類を運ばねばならない。

幸は三人を連れて、畑作業をしていた。

男は部屋で書類を片付けながら、ふと自分も普通に朝御飯を食べるようになったんだと気づいた、以前までの珈琲が朝御飯だった頃に比べて、体調も良い。これも、幸のおかげかと思う。男は部屋を出ると、台所へ向かう。珈琲をいれよう、少しくらいならいいか。

ふっと男は啓子の寝ている部屋の前で屈んだ。

襖を蹴破り、男の頭の上を啓子の蹴り足が空を斬っていた。

「元気だねぇ」

男が呟くと同時に、眼を瞑ったままの啓子が襖を破り男を襲う。瞬間、男は啓子の隣に入り込むと、左手で啓子の顎に触れた。すとんと男が下に落ちる、同時に啓子の体が跳ね上がり頭から落ちる。

男は左腕で啓子の頭を抱え、床に啓子が激突するのを制した。

「お父さん」

駆けつけた幸が、どうしたらいいのか分からず、突っ立ったまま、呆然とした表情で呟いた。

「どうして・・・」

「たいしたことじゃないよ。啓子さんの中には、父さんへのさ、恐怖心が残っている。それが発動したんだろう、意識を取り戻せばいつもの啓子さんに戻るさ」

寝息をたてた啓子を幸が両手で抱きかかえる、そして、元の布団に寝かせつけた。

「ごめんなさい、幸がしっかり見ていれば」

「ん・・・、いや、人の心の奥底はなかなか難しいものだ、それだけのことだよ。襖紙、同じのが残っていたろう、他の人に見つかる前に張り替えておくかな」

男は襖紙を取り出してくる、慌てて、幸は糊や道具を揃えて持ってきた。

幸が器用に敗れた襖紙をはがして行く、男が糊を刷毛で塗る。

「幸、懐かしいな」

幸はにっと笑うとうなずいた。

「襖に硝子窓、棚まで随分壊してしまいました」

「こっちの端、持ってくれ」

「うん、これくらいで良いかな」

「ちょうど良いよ」

「父さんの記憶には壊されたことより、こうして一緒に直している時の方が印象深いんだ、親子してるなぁってね」

男は襖紙を張りながら、少し笑う。

「ありがとう、幸、一緒に居てくれて」

「こちらこそ、お父さん」

新しく貼り終える、男は満足そうに襖紙を眺めた。

「こんな単純なことなのに嬉しいなんて不思議だな」

「ね、お父さん、今度は何を潰そう」

男はコツンと指先で幸の額を叩く。

「当分は勘弁してください」

男がくすぐったそうに笑った。



幸はそのまま、部屋に入ると、啓子を寝かせつけ、その手を両手で握った。

男は畑に出、幸がしばらく部屋に戻って居ることを三人に伝え、その後、友人の会計事務所へと向かう。



「先生、かっこいいなぁ」

恵が呟いた。

「恵さんは中年が好きなの」

驚いたように礼子が尋ねた。

「いい人だとは思うけど、かっこいいって云うのはなぁ」

利恵子も口を揃えて言った。

「別に中年が好きってわけじゃないよ。ただ・・・、幸さんには大恩があるから先生に手を出さないけど、あ、でも、幸さんみたいに、先生が双子だったら、絶対、一人欲しいなぁ」

礼子と利恵子は呆れたように笑った。



幸は啓子の手を両手でしっかり握りながら、思い出せる過去を脳裏に甦らせていた。牢獄の日々、餌でしかない存在。それが今では友人の手をしっかりと握って いる。あかねちゃんを始め、佳奈姉さんや瞳さん、色んな顔が浮かんでくる。なんて幸せなのだろう、そしてとても大切な人がいる、とても大切に思ってくれる 人がいる、とても幸せだ。そして思う。この手の人も幸せであれ、幸せは分けるものではない、伝わって広がって行くものだ。



「幸さん」

啓子が呟いた。

「ん、起きたか」

「ずっと、手を握ってくれていたんですか」

「いや、さっきまで畑に居た」

啓子が苦笑した。

「そういう時は、心配でずっと手を握っていたって言ってくれなきゃ」

「あいにく、正直者なんだ、悪いな」

幸はにっと笑うと啓子の背中を支え、上半身を起こした。

「体の具合はどうだ」

「大丈夫です、なんだか、体も軽いしいくらでも動けそうですよ」

幸は笑みを浮かべ言った。

「たとえ一晩でも理想的な体の動かし方を啓子さんは経験した、そして、どう練習して行けばいいかも教えたはず。あとは精進してくれ。具体的に教えることはもうない」

啓子がそっと頷く。

「ありがとうございます、あとは自分で見つけて行きます」

幸はほっと吐息を漏らすと、啓子に囁いた。

「試しだ、この状態から幸のこめかみを蹴ってみろ」

「はい」

啓子が呟いた。

両手を布団の上に添える。途端、啓子の体が微かに浮き、独楽のように啓子の右脚が幸のこめかみをなぎ払った。激しい勢いで幸の頭が首から千切れ壁にぶつかる、首から、血が吹き出した。

「う、うわぁっ」

幸の血で真っ赤になった啓子が大声で。

一瞬の後、幸は何事もなかったように座っており、血の吹き出した様子もなかった。

「幻術だよ。ただ、普通の人間ならああなる。幸はね、啓子さん自身が、自分を、そして守りたいと思う人を守るために教えた。それを良く覚えておけよ」

幸は笑みを浮かべると部屋を出た。

そろそろ、晩ごはんのこと、考えよう。



夕刻、満員電車というほどでもない、男は友人の会計事務所からの帰り、電車の吊り革、左手で持ち、立っていた。競って椅子に座ることもない、立つことができるなら、立つべきだと考えているだけだ。

ただ、男は、高校生だろうか、一人の女の子が自分に近づこうとするのに気が付いていた。

そして、大学生だろうか、二人の男。

男は小さく吐息を漏らす。

一瞬、女の子が男の背中に、自分の背中を当てた。

女の子の喉が大声を出そうと緊張する、男は素早く女の子の喉に手を触れると、耳元に囁いた。

「君の声は出ない」

ゆっくりと電車が速度を落とし停車する、ドアが開いた。

男は何事もなかったように列車を出た。

「お父さぁん」

「あれ、幸」

男はホームで待っている幸を見つけた。男は幸に近づくと、ほっとしたように笑みを浮かべた。

男の後ろで、ドアが閉まり、列車が発車していく。

「お迎えに来たよ」

「ありがとう、でも、幸、ちゃんと入場券買って入ったか」

男が笑う。幸はひらひらと切符を揺らすと笑った。

「改札の手前で待っているつもりだったんだけど」

幸は自然と右手を男の左手に絡める。

「幸を育てるためにしっかりと働いて来ましたか」

「もう、へとへとになるくらい働いた」

「今晩は大鍋一杯のナポリタンと、温野菜のサラダです。しっかり食べて、明日も労働に勤しんでくださいませ」

にひひといたずらげに幸が笑った。

「お父さん、帰りはナポリタン用に振りかけるチーズを買って帰ってください、幸は一つ用事を済ましてから帰るよ」

男が振り返る、呆然と突っ立ったままの女の子が一人、ホームに佇んでいた。

「そうだな、父さん、女性は苦手だから頼むかな。ごめんね」

「あぁ、しょうがない、お父さんの頼みなら断れないよ。感謝していますか、お父さん」

「とっても感謝しています。幸、ありがとう」

幸は少し照れ笑いをすると、腕をほどく。

「そうだ、いつもの茶店で待ってくれていると、幸は途中からでもお父さんと一緒に帰ることができますので喜びます、でも、珈琲はあまり体に良くないのでお勧めしません」

「わかった、オレンジジュースを飲みながら、まだかなって待っているよ」

男は手を振ると、ホーム下へと階段を降りて行った。

お父さん、可愛いなぁ、幸は小さく呟くと、気持ちを切り替えるように頭を振り、背後へと振り返った。

女の子が一人、途方に暮れ、小さくうずくまっていた。

幸は女の子の前に立つと、少し屈み、指先で女の子の顎をくっと上げた。

「基本、あたしは女性には優しいんだ、男嫌いの反動かな。立ちな、そこのベンチに座ろう」

幸は女の子を促すと、並んで、反対車線のベンチに座った。

幸は片手でほおづえをつくと、女の子の顔をのぞき込む。動揺したように、女の子はぎゅっと目を瞑った。

「倉澤早紀。高校三年生、塾についていけず、親に黙って塾を辞めてしまうが、それを言い出せず、街中を彷徨う。塾が終わる時間まで。そんなことを続ける間に、男二人に弱みを握られ、美人局の片棒をかつがされた」

早紀は驚いて幸を見つめた。

「あんたの頭の中、言葉にしただけだ、たいしたことじゃない。あんたにとって運が良いのか、悪いのか。その第一号があたしの父さんなわけだ。殺されずにすんでよかったな。声も大事だろうけれど、死ぬよりかましだ」

幸はにぃぃっと引き込むように笑うと、ゆっくり顔を上げた。

「ほら、もうすぐ列車が来るぜ。男二人、一つ先の駅から引き返して来たようだ」

びくんと早紀の体が震える。浮足だった早紀の手を、幸は指を絡めてしっかりと握る。

「やさは知られてんだ、逃げても意味はない。さて、あたしは父さんに甘えることができて機嫌がすこぶる良い。これも何かの縁だ、助けてやるよ」



列車到着のアナウンス、程なくして各駅の列車が到着し、ドアが開く。たくさんの人たちが降りて来る中、先程の男二人が飛び出すと、目の前に早紀を見つけ睨みつけた。

「逃げずに待っていたとは殊勝だな」

体育会系を体で表現した厳つい男達だった。

「足がすくんで動けなかったんじゃねぇか。うん、なんだ、隣りの女は」

始めの男よりも頭一つ大柄な男、腰を曲げて幸をのぞき込んだ。

「うひょぉ、凄い美人だ」

幸はふっと顔を上げると、笑顔を浮かべた。

「なに改まって言ってんだよ、孝。幼なじみ相手にさ」

「えっ・・・」

幸が引き込むように笑みを浮かべた。

「いつも三人一緒だったの、忘れたの」

幸はもう一人の男を見上げると、柔らかく笑った。

「健史も相変わらず、上に横に成長しているなぁ」

幸が愉快に笑った。

「しばらく見ないうちにお前も美人になったもんだなぁ」

健史がなんの戸惑いもなく、言葉を返した。

「あたしが美人なのは昔からさ」

「そりゃそうだ」

孝がからかうように笑った。

「で、今日はどうしたんだ」

孝がふと真顔になって幸に尋ねた。

「あたし、結婚して上海に行く。旦那の転勤でね」

「お、おい。そんなの初耳だぞ」

健史が面食らったように大声を出した。

「一キロ先にいるんじゃなし、大声出さなくても聞こえるよ」

幸はふと寂しそうに笑みを浮かべ呟いた。

「かえってさ、言いづらいもんなんだよ。だからさ、お詫びに、教えて上げるよ」

「おい、俺達はお前が幸せになるんなら」

「ね、健史。あんた、孝を愛しているよね」

「お、お前。何言ってんだ」

「そして、孝は健史を愛している」

「え・・・」

健史は驚いたように孝を見つめた。

「お互い、相手を愛しているけど、うっかり告白なんかしたら、気色悪るがられるんじゃないか。そう思って言い出せなかったんでしょう。ごめん、それを言うと、あたしだけ、仲間外れになりそうで、わかってたけど、ずっと黙ってたんだ、本当にごめん」

「健史・・・」

孝は思わず呟いた。

「お前、本当に俺のこと」

「孝こそ、そうなのか」

健史が孝の目を見つめて呟いた。

幸が声を潜め囁く。

「人を愛するということに壁なんかないよ。ね、二人とも正直になろう。決して男同士が愛し合うことは悪いことじゃない。ただ、少数派だから、迫害されること、理解してもらえないこと、たくさんあるかもしれない、でも、真実の愛は何よりも強い、ね、健史、孝、そうでしょう」

「そうだ、俺達なら」

健史が孝の目をじっと見つめ囁く。

「俺、健史を大切にする」

「お、俺だって、孝を大事にするさ」

「さあ、遠慮はいらない、二人、しっかり抱き合いなよ」

幸が駄目押しにと二人に語りかける。二人がしっかりと抱きしめ合う。ここが駅のホームであることも忘れ男同士、強く、強く、抱きしめ合う、そして、自然と唇を重ねた。

幸は早紀を促すと、何事もなかったようにベンチを後にした。抱き合う男二人を残して。

「いや、実際、あんながたいの男同士は気味悪いだろう。暗示をかけたのはあたしだけどさ」

改札を出、幸は早紀に笑いかけた。

「もう、あんたのことなんか、頭にないぜ。今、二人で住む新居の壁紙をどんな模様にするか、そんなことで夢中になっているよ」

早紀はこの数分のことが充分理解できずにいた。ただ、あの二人の男から解放してもらったことだけは、感情が理解していた。

早紀はありがとうございますと言おうとして、自分の声が出ないことを思い出した。呻くような音が喉から漏れる。

「それがあったな」

幸は答えると、微かに笑みを浮かべた。

「十一時まで、家には帰れないんだろう。うちに来な、お父さんに呪を解いてくれるよう頼んでやるよ」



「お嬢さん、少しお時間、よろしいでしょうか」

早紀の手を握った幸の目の前に男がやって来た。二十台後半、いや、三十台始めか。皺のない背広を着、笑顔を浮かべている、メガネをかけ、それでいてかなりの美形だ。

「どなたさま」

幸は愛くるしい表情で答える。

「ぜひ、あなたをスカウトさせていただきたいと思いまして」

「うひゃ、早紀どうしよう。モデル、あたしにできるかなぁ」

幸はうれしそうに早紀に微笑んだ。

幸は男に振り返るとおずおずと話しかけた。

「あ、あの。私、お父さんに相談しないとお受けするのは」

「いいえ、あなたのような逸材はまたとありません、男二人の心を自在に操り、記憶まで手を加えてしまう、第一種精神作用者。心を読む感応者はいくらかおりますが、相手の心まで操れる者はまたとおりません」

「おっしゃっていること、わかんないですぅ。おじさまがホームの柱の陰でスカウター付けて能力測定していたことも全然知らないですし、駅や百貨店、人どおりの多いところでおじさまのような人達が超能力者をスカウトしてることも知りませんよぉ」

「それだけ御存じであれば充分です」

男が片手を上げる。通りすがりの会社員、学生、子供連れの主婦、二十人ほどが三人を囲むように円を描き、背中を向けた。

微妙な角度で重なり、中を外から覗けないようにしている。

「君のお父さん、という人にもぜひ会ってみたいものだ」

「だめですよ。お父さん、とっても恐い人ですよ。でも、あたしにはとっても優しいんです、えへへ」

幸が幸せそうに笑う。

「それじゃ、帰ります。お父さんと待ち合わせているんです。早く帰らないと、お父さん、心配しちゃいます」

「帰れると思っていらしゃるのですか」

呆れたように言う男の言葉に、そっと幸は男を見上げ微笑んだ。

「たっぱがあれば自分が優位であると思い込む、お父さん以外の男ってのはガキだなぁ」

幸の表情と言葉の差異に男は一瞬戸惑った。

「田中輝樹君、自分は訓練されているから、読心能力者にも心を読まれないとでも思っているのかい」

一瞬、男の表情に恐怖が現れた。

「俺の心が見えるのか」

幸はふふっと小さく笑うと、それには答えず、男のネクタイをぎゅっと力任せに締め上げた。男は咳き込んだまま、慌てて一歩引き下がり、ネクタイを緩める。

「まっとうな仕事を選んだ方がいいぜ。確かに給料一月手取り八十万円、スカウトに成功した場合は相手の能力につきボーナスが付く。読心能力者で百十万円。心を操れるほどの奴なら、三百万円か。笑いが止まらねぇな」

「お、俺は」

「あんたの会社はスカウトと言えば聞こえがいいが、やっていることは人身売買だ。超能力者をスパイや傭兵に仕立ててのさ」

男が叫んだ。

「捕獲せよ」

その言葉に、壁のように囲んでいた人達が一斉に振り返る。

「ほぉ、久しぶりに見たな。心のない、心臓を提供してしまった人形達か」

「一体何者だ。何処まで知っているんだ」

男は怖じけたように後ずさりをする。

「輝樹君の知っていること、その百倍は知っているよ、裏の裏までな」

幸は倉澤の手を握ったまま、一歩、進み出る。

「無駄だろうが、一応忠告しておいてやる。さっさとこの仕事辞めねぇと、あんたも人形になってしまうぜ」

言い終えた瞬間、幸と倉澤の姿が消えた。

「第一種精神作用者、テレポートまで。なんてこった・・・」

尻餅をついたまま、呟いた



喫茶店のドアを開ける、からんころんと音が鳴り、幸は入り口で男を探した、すぐに見つけると、倉澤の手を握ったまま、男の前の椅子に座った。

そして、隣りに倉澤を座らせる。

「幸、何を飲む、倉澤さんもどうぞ」

男はすっとメニュを倉澤に差しだした。

メニュを受け取った後、自分の名前を知っていることに驚いて倉澤が男を見つめた。

「お父さん、倉澤さん、とっても可愛そうなんだよ。誰か、幸の知らない人に声を出せなくされたんだから」

男は困ったように笑みを浮かべた。

「父さんはどうしたら良いのかな」

「きっと、お父さんなら、倉澤さんの声を取り戻せると思うんだ、どうかな、お父さん」

「うーん、倉澤さんに父さん、謝ったほうが良いのかな」

にっと笑みを浮かべ、幸が口を閉ざす。

「幸にはかなわないな」

男は笑みを浮かべると、すっと左手を倉澤の喉元にやり、埃を払うように指先を揺らめかせた。

「呪は解いたよ。倉澤さん、あー、って言ってごらん」

倉澤が声を出そうとする、息を吐き出す音が「あ」という音に変わった。

「もう、普通に喋れるよ」

「あ、ありがとうございます」

倉澤が男に言った。

「お父さんは頼りになるなぁ」

「どうぞ、頼りにしてください。頑張ります」

男は少し笑うと倉澤を見つめた。

「ごめんね、恐い目に会わせてしまった」

「いいえ、わ、私こそ・・・」

ウエイトレスがお冷やを持ってやってきた。

「ホット珈琲を願いします。倉澤さんは」

「え、あ、あの、えっと、同じで」
ウエイトレスが注文を復唱し戻った後、男は幸を軽くにらむ。
「ここの珈琲美味しいんだけどね。父さん、オレンジジュースを飲みましたけど」
「お父さんの、その素直にオレンジジュースを飲むのが、とっても可愛いなぁ。幸の、半分あげるよ」
「ありがと」
男は仕方なさそうに笑った。
ふと思い出したように幸が言った。
「さっき、スカウトされた」
「え、女優とかモデルとかのスカウトか。そ、そういうのは、きっと悪い奴だから、絶対に」
「ううん、超能力とか言ってた」
「まっ、それならって・・・、あぁ、そういえば反対車線のホームにいたな。幸、いじめたな」
「ちょっとね」
幸はちょっと舌を出して笑う、男がひとつ吐息を漏らす。
そして、男は窓から、外を行く人達を眺めた。
「科学が変な方向へと進んでいる、魔術と融合しようとしているようだな。そして、ほとんどの魔術は巨大な力を借りて発動する。借りれば返さなきゃならない、それに見合うもの。未来だ」
「いつか、この文明も廃墟になるのかな」
「多くの歴史がそれを教えている。未来を他者に差しだしてしまえば、自分の未来はなくなる、結果は廃墟だ」

ふと見ると、倉沢が泣いていた。

「どうしたの」

幸が倉沢の顔を覗き込んだ。
「変です、なんだか、急に悲しくなって」
男は小さく呟いた。
「幸、この娘は」
幸はそっと倉沢の頭をなでる。
「お父さんの感情に感化したんだ。お父さんと同じ質を持っているよ。こういうのも縁なのかな」
男は背もたれに凭れると呟いた。
「普通に暮らせるなら、普通に暮らすのが一番良い」
「大切なのは、自分の頭で考えて生きるってこと、お父さんの普通はそういう意味だけど、ほとんどの人の普通は流されて生きることだよ、それじゃ生きていないのとたいして変わらない」
「幸、頭を出しなさい」
素直に、幸が頭を差しだした、男が幸の頭をなでる。
「よくできました」
男はくすぐったそうに笑みを浮かべた。
珈琲が運ばれてくる。
「倉澤さん、砂糖はいくつ」
気軽に幸が倉澤に尋ねた。
「あの、二つで。・・・ご、ごめんなさい」
幸が面白そうに笑った。
「謝る理由はないよ、幸の前に砂糖があるんだからさ」
「お父さん、クリーム入れるよ」
「入れていいよ。なんだかね、インスタントに慣れてから、ブラックってこだわりがなくなってしまった」
「お父さん、それは良いことだよ。ブラックは胃腸に負担がかかるもの、なんたって、お父さんの肩には人類の未来がかかっているのです。大事にしてください」
「父さんの肩にか」
「そうだよ。お父さん、いなくなったら幸は狂って、人類大量虐殺してしまうかもしれないからさ」
「うーん、頑張って長生きします」

男は困ったように笑った。

「幸さん、お帰りなさぁい」
礼子がぱたぱたと玄関にて三人を迎えた。
「ただいま」
「そうだ、幸さん。お姉ちゃん、怒ってますよぉ」
礼子が悪戯げに笑みを浮かべた。男はすっと玄関を上がり、部屋へと向かう。
「刺激、強すぎたかなぁ、謝ってこよう。早紀ちゃん、上がって。みんなで晩ご飯食べよう」
「は、はい」
二人が玄関で靴を脱ぎ、中に上がった時、ふと、礼子が呟いた。
「あれ、おじさんは・・・」
幸が小さく呟いた
「お父さんの行動を把握できるのは幸だけだなぁ」
幸はにっと笑った。

「啓子さん、怒ってるのかなぁ」
あかりを点けず、向こうを向いたままの啓子にそっと幸が声をかけた。
一呼吸おいて、啓子が答えた。
「全然、怒っていませんから。ですから、ほっといてください」
「それ、怒ってるよ」
幸が啓子の服の裾をくっと引っ張る。
「ごめんなさい、言い訳はしない、本当に驚かしてごめんなさい」
啓子が振り返る。
「驚いた、幸さんがごめんなさいって言うの初めて聞いた」
幸はぎゅっと啓子の手を握り締め、啓子の耳元で囁く。
「ごめんなさい、啓子さん。許してください」
ふっと啓子の肩の力が抜けた。
「意地張ってた、ごめん、幸さん」
幸はほっと吐息を漏らすと、気持ちを入れ替えるように笑みを浮かべた。
「ナポリタン、食べよう、美味しいよ」

テーブル二つ繋いで、それぞれのテーブルにナポリタンの大皿を置く。幸が嬉しそうに人数分の皿を並べていく。
反対側から、恵がお箸を並べて行く。
「やっぱ、日本人はナポリタンもお箸だよね」
幸が笑った。
「たいていのものはお箸で事足りますよ」
ふっと中程まで来て、恵が幸をじっと見つめた。
「恵さん、どうしたの」
「幸さん、私を避けていますね」
「え、そんなことないよ」
「微妙に声が緊張していますよ」
幸が困ったように笑みを浮かべた。
「ごめん、嘘をつくのは得意じゃないんだ」
微かに吐息を漏らす。
恵はじっと幸を見つめたまま言った。
「私は幸さんに救っていただきました。体を引き剥がされていく恐怖、全くの闇、なにものにも触れずこともできず、音もなく、時間すらも意味のない全くの孤独から幸さんは私を救いだしてくださいました。大恩ある幸さんの好まないこと、私はしません」
「ありがと、なんていうのかな。ほっとした」
幸が本当にほっとして笑った。恵も安心したように笑う。
「でも、もしも、先生が幸さんみたいに二人になったら、一人ください」
「それはだめ、どっちも幸のだ」
幸がくすぐったそうに笑った。
17
最終更新日 : 2013-05-11 17:34:02

異形 雨夜閑話三話

「私、おじさんに罪を被せようとしました、大声で痴漢って叫ぼうとしました」
全員が硬直した、男や幸までも。

全員がテーブルにつき、晩御飯を食べようとした瞬間だった。倉澤は突っ立ったまま、ぼろぼろに涙を流していた。
「えっと・・・」
啓子が呟いた。
「ここは先生が倉澤さんを泣かしたということで収めればいいのではないかと」
「そう・・・、だね。お父さん、倉澤さんに謝ろう」
幸も呟く。
「ごめんね、倉澤さん。だから、もう泣かないでくれるかな・・・」
男はどうしたものかと戸惑っていた。取り合えずというのは嫌いだが謝ってこの場が収まるのならそれでいい。
「ごめんなさい、私、おじさんや皆さんにこんなに優しくして貰って、なんだか、とても自分が悪く思えて、ううん、とっても悪い人間だから・・・」
幸は立ち上がると倉澤をぎゅっと抱き締め、そっと彼女を座らせた。
「そのことは許すよ。倉澤さん、男二人に脅されてのことだよ、男はとっても恐い野生動物だからね、仕方ないよ」
男以外のここに居る全員が、あんたは違うでしょという突っ込みをぐっと抑える。
「お父さんも怒ってないし、幸も怒ってないよ」
男は既にナポリタンを食べだしていた。それを見て、啓子も食べ出す、おおよその予想がつく、父親以外の男が如何に邪悪な存在か、幸の演説が始まる、話が終えるころにはすっかりナポリタンも温野菜も冷めてしまうだろう、
「啓子さん、トマト、美味しいですよ」
「今までのトマトって、偽物だったんじゃないかって思うよね」
恵の言葉に啓子が頷いた。
「それ、言えてる。あたしもここのトマトなら食べられるもの」
礼子が嬉しそうに言った。
幸は出先を挫かれて、ううっと唸っていたが、肩を落とし言った。
「倉澤さんも早く食べよ、暖かいうちに」
幸が男の横に戻る、男は幸の頭を撫でた。
「ちょっと成長したね」
「お父さんが一番最初に食べ出したよ」
幸が拗ねたように男を見つめた。
「お腹減ってたからね」
男が少し笑う。
「お腹減っている人達にまだ食べるなと言っている自分を想像してごらん、孤独な独裁者になってしまう、独りぼっちになってしまうぞ」
男はくすぐったそうに笑うと、手を戻し、サラダを食べる。
「幸の育てたトマトは美味しい」
幸は溜息をつくと、ナポリタンを食べ出した。
「今日は啓子さんにも叱られたし、お父さんにも叱れたよ」
「つまりは今日だけで幸は随分と成長したわけだ。おめでとう」
「おめでとう、幸さん」
啓子が笑った。
「幸さん、おめでとうございます」
恵まで楽しそうに幸に声をかけた。
「あ、なんだか、嬉しい気分。あぁ、幸は単純すぎるよぉ」
幸が俯いて頭を抱えた。
「おめでとうございまーす」
礼子と理恵子が声を合わせて言った。
「あ、あの、えっと、おめでとうございます」
分からないなりに、倉澤まで幸に声をかけた。
「自分で一人喋るより、いっぱい、声をかけて貰う方が楽しいだろう」
幸はそっと顔をあげると呟いた。
「うん、ありがと・・・」
皆が声を出して楽しそうに笑う。
二時間近く、お喋りをしながらの晩御飯は、幸にとってとても楽しいものだった、それは倉澤も同じで、こんなふうに自分の今までと変わってしまうのが信じられないくらいだった。
男は食べ終えると、食器を洗おうと立ちかけたが、ふと思いつき、幸に声をかけた。
「幸、倉澤さんに数学を教えてあげてくれるかな、それに恵さんにも頼んでくれないか、彼女に英語を教えてくれるように」
幸は恵が高校の英語教師になるつもりだったのを思い出した、もっとも、非合法組織のスカウトにふらふら付いて行ってしまい、今に至るわけだが。
「それいいな、うん、頼んでみるよ」
男は頷くと、流しへと向かった。
恵はととっと幸の横に来ると、興味深そうに幸の顔を覗き込んだ。
「幸さん、何をすれば良いですか」
「倉澤さんに英語、教えてくれないかな、何カ所か勘違いしているところ、直したら一気に理解が進むと思うんだ」
「幸さんの仰せなら、例え火の中、水の中」
「つまり冬は暖い炬燵の中、夏は冷たいプールの中ってことだ」
啓子が笑った。
「穿ってるなぁ、啓子お姉ちゃんは」
「えっ・・・、お姉ちゃんって」
啓子が驚いて恵を見つめた。
恵は気にする風もなく、倉澤の隣りに座る。
「早紀お姉ちゃんって呼んでいい」
恵が屈託なく笑みを浮かべる。
「は、はい」
「私のことは恵って呼び捨てにしてください。これから早紀お姉ちゃんに英語を教えてあげます」
「恵ちゃんって、ひょっとして帰国子女なの」
恵は横に首を振ると、じっと倉澤を見つめた。
「ネイティブは自信ありません、でも、受験英語にはかなり自信有ります」

啓子が小声で囁いた。
「幸さん」
「ん・・・」
「恵・・・、ちゃん。のりのりだ・・・」
「凄いよね」
「おっきいお姉ちゃん達、なにか」
「いいえ、何も・・・」
幸と啓子の声が重なった。

男は部屋に戻ると、机に置いた茶封筒を掴んだ、珍しく郵便受けに入っていたものだ。ごみ箱にと思ったが、気を取り直して開封する。
白紙の便箋が一枚。
「今頃、本家がどの面下げて、ってな話だが、白澤のおばさんには義理がある」
男は吐息を漏らすと、椅子に座ったまま目を瞑った。
男は子供の頃の、みずち家に囚われていた記憶を蘇らせる、殺されずに抜け出せたのは、白澤妙子の機転と勇気によるものが大きい。
幸と本家に乗り込んだ時、無理にでも連れ帰れば良かったのだろうか。一緒に帰りましょう、恩返しをさせてくださいと言った言葉に偽りはない。
「お父さん、いい」
襖の向こうから幸が男に声をかけた。
「どうぞ」
幸は男の部屋に入るとにっと笑った。
「恵さん、凄いよ。教えるのが巧くて的確だ」
「そっか、人ってのは本当に面白いな」
「お父さん、一歩、引くといろんなものが見えて来るし、現れて来るね」
「幸 おいで、そしてね、父さんに背中向けなさい」
「こうかな」
幸は椅子に腰掛けた男の前に立つと、男に背中を向けた。
男が、左手を摩るように幸の首の後ろから、肩、背中へと触れていく。
「滞ってたのが、綺麗に流れている」
男が手を戻すと同時に幸が振り返る。
「お父さん、ありがとう」
「父さんはちょっと方向を指さしただけ、実行したのは幸だよ。でもさ、ありがとうって言われると、嬉しいな。幸、ありがとうって言ってくれて、ありがとう」
幸は男をぎゅっと抱き締める、ふと、手紙を見つけた。
「お父さん、これは」
「招待状だ。観月の宴。もっとも、ホテルの中なんだから、月を愛でるのは目的じゃない」
幸は男にしな垂れかかったまま、右手で便箋を男から受け取った。
「白澤さんからの御指名かぁ、幸は苦手だ、あのおばさん、喧嘩になっちゃう」
「向こうもそう思っているんじゃないか」
男が笑った。
「それに、お父さんを子供扱いするんだもの」
「まっ、年寄りは得てしてさ、そんなものだよ」
「あれ、お父さん、これ、今日だよ。もうすぐ、始まる」
「律義に最初から座っている必要はないさ」
「お父さんは行くつもり、それなら、幸がボディガードについて行くよ」
「それは安心。幸がいてくれれば百人力だ。でも、だめ。ここにいなさい」
「行く、行く、行くよ。幸にはお父さんを護る義務が有るもの」
「そんな義務はないよ」
男は笑みを浮かべると幸を立たせた。
「啓子さんも恵さんも言ってたけど、ここはシェルターみたいなものだ。そして、ここがその機能を果たすには、鍵である父さんか、畑を作って地に深く縁が出来始めた幸のどちらかがいないといけない、昼間ならともかく、夜、長く二人がここを空けるのは良くないんだ」
「うん、・・・わかった」
幸が素直に頷く。幸の心に皆を護ろうという意識が芽生えたこと、男は少し寂しくもあったが、それ以上に嬉しく思う。
「娘の成長を見守ること、これは父さんにとってとても嬉しいこと。随分と成長したね」
「だって、お父さんを信頼していますから。でも、ピンチだって思ったら、お父さん、必ず、幸を呼ぶこと、一瞬で駆けつけます、抜き身の刀、担いで、いいですね」
「思いっきり叫ぶことにするよ」
男が笑う、幸は安心したように笑みを浮かべると、自分の髪を一本、抜く。
「幸の体はすべてお父さんからいただいたもの、髪の毛、一本、お返しします」
幸が男の右肩、ほんの数センチ、残った腕の後に髪の毛を巻く。
そして、目を瞑り、微かに言葉を呟く。
やがて、うっすらと男の右腕が現れ、実体化した。
「幸の育てたお父さんの右腕です。どうぞ、使ってください」
男は久しぶりに見る右手、その指先を少し動かして見る。まったく違和感がない。
「父さんは、この右手で、お箸を持ったり、ボールペンを持ったりすると思う。いや、ひょっとしたら、敵を殴っているかもしれない。でも、最初の仕事は」
そっと、男は幸の頬を右手で触れた。
「この右手に、幸の優しさ、やわらかさを覚えさせることだな。ありがとう」
男は少し恥ずかしげに笑みを浮かべると、部屋を出た。
幸はしばらくの間、ぼぉっと余韻に浸っていたが、はっと気が付くと慌てて叫んだ。
「幸乃さん、幸乃さん」
「はぁい」
幸乃が幸の前に現れた。
「お願いです、お父さんの後を追ってください」
「お父様を信頼していますって、聞いた記憶があるけど」
「でもでも。お父さん、ピンチになっても幸を呼ばないよ」
幸乃はいたずらげに笑みを浮かべた。
「幸を危険な目に合わすことはできないってお考えになるでしょうねぇ」
「だから、幸乃さん」
幸が涙目になって幸乃に嘆願した。
「泣きなさんな。呼んだら、すぐに来るのですよ」
「はい、行きます」
幸乃は仕方無さそうに笑みを浮かべると、そっと幸の頭を撫でる。
「お父様以外のことでしたら、随分しっかりしましたのに。しょうのない子」
幸乃はそっと笑うと姿を消した。

「幸さーん」
啓子の呼ぶ声が聞こえた。
「ここです、お父さんの部屋、どうぞ」
幸が声をかける、ゆっくりと襖が開き、啓子がのぞき込んだ。
「幸さんに数学を。・・・泣いていたの」
幸の眼がまだ涙に濡れていた。
「お父さんが出掛けてしまって、なんだか寂しい」
微かな笑みを浮かべ呟く。
そして、先程の便箋を啓子に見せた。
「白紙ですけど・・・」
幸はゆっくりと立ち上がり、啓子の目頭を指先で触れる。
「あ・・・、書いてある。観月の宴。日付は今日だ」
「様々な呪術の組織が集まって、鬼への対策を協議するらしいよ。多分、警察や自衛隊からも参加がある、大きな集まりだね」
幸は啓子から便箋を受け取ると、封をし、机の上に置く。
「これで鬼が減れば暮らしやすくなりますね」
「人類と鬼達は表裏一体。ともに存在し続けるのが正常なのさ、でも、今は人の力が弱くなり過ぎて、吊り合わなくなってしまっている。それが問題の根本だ。ただ、お父さんは協力しないだろうなぁ」
「先生はどうして」
「希代の術師 無は鬼も嫌いだけど、呪術師も同じように嫌いだからね。さて、二人に数学を教えてくるかな」
部屋を出かけた幸に啓子が声をかけた。
「幸さん、言葉がおとなしくなった」
幸が振り返ってにっと笑った。
「日々学習、ありがと、啓子お姉ちゃん」

男はとある名の通ったホテルの前にいた。入り口の自動ドアで、正装したドアボーイが案内してくれるといったホテルだ、普段着では入りにくいホテルだが、意を決して中に入る。
「千尋ちゃん、こっちよ、こっち」
仕立ての良い着物を着たおばあさんが笑顔で男を手招いていた。
男の通り名を知っているのは幸と佳奈。それに、本家の年寄り連中だけだ。
「名前を呼ぶのは勘弁してください」
男が困り切ったように笑った。
「ごめんなさいね、だって、懐かしかったのだもの」
「しょうがないですね」
男は白澤に近寄ると会釈をした。
「白澤さんもお元気そうで何より」
「いいえ、あちらこちら、がたが来ていますわ。早くお迎えがこないかしら。おや、今日はあのこまっしゃくれたわるがきは付いて来てはいないようね」
「ええ、留守番をさせて」
「よお、ばあさん。無駄に元気そうだな」
幸乃が男のお腹から頭だけ出して、白澤に笑いかけた。
一瞬、白澤が笑みを浮かべたまま、硬直した。
「どうだ、びっくりして、その辺、お迎えが来てないかな」
幸乃は蠢くようにして、男のお腹から這い出ると、男と白澤の間に立つ。
「電話一本で、あたしが、お向かえ呼んでやるから、いつでも連絡くれよな」
男は驚いて、幸乃に声をかけた。
「どうしたの」
幸乃は振り返ると男に笑みを浮かべた。
「私はおまえ様の妻です。妻が夫の横にいて何の不思議がありましょう」
幸乃は男の右腕に自分の左腕をからめると、そっと男を見上げた。
「怒っていますか」
「相当、甘い父親のようで、逆にほっとしていますよ。あれ、腕が」
男は幸乃の左腕の柔らかな感触を感じた。
幸乃が初めて恥ずかしげに笑みを浮かべた。
「右腕だけですが・・・。妹のおかげです」
茫然としていた白澤は意識を取り戻すと呆れたように笑った。
「相変わらずね、貴方は」
「お褒めいただきありがとうございます」
幸乃は平然と答えると、辺りを見回した。
「ホテル全体が澱んでいますわね。上から澱が滴って来るようね」
「会場は八階、鳳凰の間ですわ。さあ、どうぞ」
男はふとエレベータを見たが、視線をそらすと、職員用階段を見つけ、そちらへ向かう。
幸乃が振り返り、白澤に言った。
「おばあさん、無理せずエレベータをお使いくださいね」
「エレベーターに食われるような、人生の終わり方はまっぴら」
嫌みたらたら白澤が答えた。

鳳凰の間の前では、記帳のための席が設えられ、対応のため、女性が二人、座っていた。
男はふと立ち止まり、幸乃に話しかけた。
「父さんの中に隠れていなさい、鬼も術師もたいした違いはない、部屋の中は障気で満ちているようだ」
幸乃はうなずくと、男の体に溶け込んだ。
「本当にお前の娘は人間ばなれしているねぇ」
白澤がほとほと感心したように言った。
「ちょっとした個性というものですよ」
男は笑うと、そのまま、何事もなかったように部屋へと入って行った。
「記帳もせずに扉を開けるお前もなかなかのものです」
ふと、白澤は男の若い頃、まるで刃のような気配を漂わせ人を否定していた頃と今の和やかになった男を思い比べ、これも娘のおかげかと納得した。

少なくとも鬼ではない、しかし人間と言い切るのは躊躇われる、立食パーティーの様を言葉にすると、そんな表現になる。
老若男女、様々な年齢の少しばかり、人間ばなれした異形のものたち、呪術の多くは神だとか、悪魔、魔物の力を借りて発動させる、言わば、人の体は力の流れ る通路のようなものだ、しかし流れるのは力だけでなく、呪術者の多くはその力借るモノたちに体も考え方も従属し始めてしまう。ふと足元に気配を感じる、見 下ろすと、芋虫のように体を波打たせながら、若い女が通り過ぎて行った。
「旧支配者の流れか・・・」
男は呟くと辺りを見渡した。いくつもの円形のテーブルが並び、そこかしこで談笑が交わされている。この談笑の影で、鬼対策の会議が開かれているのだろう。
美しい女が、笑顔を浮かべ、接待だろう、ワインを注いだグラスを男に差し出した。
「赤ワイン、それとも白ワインがよろしいでしょうか」
男は少し寂しそうに笑みを浮かべると、手でそっと制した。
「アルコールは苦手なのです。体が受け付けないので」
男はついっと女の持つグラスの載ったプレートを片手で支え、顔を寄せ囁いた。
「派遣会社からいらっしゃったのですね。君の名は田中さん、私の娘と同じくらいの年格好だ、ここは恐くないですか」
引きつったような声で女が呟いた。
「ごめんなさい・・・」
女が笑みを浮かべたまま、涙を流した。
「正直にどうぞ」
「恐くて仕方がありません」
男はプレートを受け取り、テーブルに置いた。
「エレベーターはいけません、喰われてしまいます。階段を思いっきり走りなさい、そして、このホテルから逃げ出しなさい。もしも、引き留められたときは・・・」
「引き留められたときは」
男が呟いた。
「我、無の眷属なり、我に触れるな。そう、叫びなさい」
男はふわっと女の後に廻ると背中に触れた。軽く押す。
「走れ」
男の言葉に女が駆けだした。

「こんなところに普通の人を入れるなんてな、餌にでもして楽しむ気か」
男は呟くと、もう興味をなくしたように辺りを見回す。
見つけた、あかねちゃんだ。
あかねがテーブルについていた、随分と顔色が悪い、疲れ切っているようで顔を上げているだけで精一杯のようだ。
男が駆け寄る、瞬間、二人の間を黒い影が遮った、ふわっと男は高跳びのように、身を翻し反転すると同時に影を蹴り上げる、影に当てる寸前、男は脚を止めた。
「女の子、猫か・・・」
三人の女の子が身を守るように腕で顔を守り、うずくまっていた。
男は背を向けると、あかねに向き直った。いつの間にか、白澤があかねの横に座っていた。
「困った子、攻撃の早さと速さは相変わらずね」
白澤が溜息を漏らす。
男はあかねの横に座り、その手首を見つめる。あかねの手首には呪府が幾重にも巻かれていた。
「迷惑をかけないようにと、そうしたのだろうけれど、だめだよ。でも、頑張ったね」
男はそっとあかねの頭をなでる。そして、あかね越しに白澤を見つめた。
「助けてくださったのですか」
「ええ、お前が蹴り飛ばそうとした、私の曾孫三匹がね」
呆れたように、白澤が笑った。
とたたたっと三人の女の子が駆け寄ってきた、普通の女の子、しかし、瞳だけが、まさしく猫の眼だった。
「せっかく、交渉しようとしたのに」
「そうだよ、予定外だよ」
「おっさん、器用すぎるぞ」
口々に言う、猫女。
「がきが何か、いいえ、お嬢様がたが何やら交渉とか、おっしゃってますが」
「ちょっと、お前にお願いしたいことがあってね」
「こら、おっさん」
「無視するなよ」
「あぁ、何様のつもりだ」
白澤がぎろっと猫女を睨み付けた。一瞬に三人とも小さく縮こまってしまう。
「お前の娘ほどではありませんが、どうも、今時の娘は口が悪すぎます」
「テレビの影響もあるのでしょうかね」
男がとぼけたように言う。
「ところで」
白澤は笑みを浮かべ男に言った。
「お前の娘が大層大事にしているこの子を囚われの身から解放しました。そのかわりにと言ってはなんですが、私の曾孫にそれぞれ一つずつ、お前の術を教えてやってくれませんか」
「本家の術が正当、私のは随分、我流が加わってしまってお教えするほどの価値はありませんよ。なにより、白澤さんなら、当主の義兄も嫌だとは言わないでしょう」
「もちろん、言わないでしょうけどねぇ・・・」
白澤は思案げに顔を曇らせたが、意を決したように男を見つめた。
「本家は独自に鬼と闘う体制を整える予定です、連合には入りません。そのためには確実に鬼を仕留める術が必要です」
男が仕方なさそうに笑みを浮かべた。
「白澤さんの本意が、本家を守ること、一点に集中していること、余程、初代は魅力的な男だったのでしょうね」
「例え、人の身ではない私でもね、丁度、お前と娘の関係のようなものですよ」
「上では、会議中、それぞれの派が警察と自衛隊の特殊部隊に、術と技を提供する方向で決まりつつあるようです、本家なら、指導的立場になれますよ」
「本家の術を流出させるわけにはいきません」
男は視線を戻し、俯き考える。やがて、顔を上げると、白澤に言った。
「一つだけ条件を呑んでください、そうすれば、教えましょう」
ほっとしたように白澤が笑った。
「条件とは」
「こいつら、三人とも避妊手術してありますか。猫も少しなら可愛いけれど、数か増えて、あちらこちらで、糞をされても困りますし、盛りがついて屋根で鳴かれたら眠れません」
「なにいってんだ、このやろう」
「人権蹂躙だ」
「顔洗って出直せや」
男が愉快そうに笑った。
「避妊手術はしておりませんが、猫又は猫とは体の仕組みも違いますから増えることはありませんわ」
白澤が愉快に言った。

男はあかねを背負い、猫娘三人を引き連れ、階段を駆け下りていく。飛ぶように降りていく。
「なんで、人間があたし等より速いんだよ」
「スピード違反だぞ」
「女を大事にしない男は最低だ」
男は無視して駆け下りていく、一階ロビーに到着すると、速度を緩めないまま、閉まりかけた自動ドア、すり抜けホテルから飛び出した。
ふと、男はホテルから少し離れたところに先ほどの女がうずくまっているのを見つけた。
ふわっと、男の横に幸乃が現れた。
「あの子、ホムンクルスですわ」
幸乃が男に言った。
「人造人間・・・、でも、まったくの人間だ」
「ええ、なんの力も無い普通の人間仕様です」
男は幸乃と一緒に、女に駆け寄ると声をかけた。
「大丈夫ですか」
女は男を見つけると、ほっとしたように笑みを浮かべた。
「先ほどは助けていただきありがとうございます」
「どうしたのです」
困惑したように女が言った。
「私は何処へ行けばいいのでしょうか、何も思い出せない」
幸乃がじっと女を見つめる。
「景品として作られた、食用、愛玩用ですわ。簡単な記憶を設定しただけの」
男が小さく呟いた。
「術師も鬼もたいした違いはないな」
「おまえさま、右手で彼女の額を抑えなさいまし、そして、名前を。でないと、彼女は消えてしまいますわ」
男はそっと女に囁いた。
「生きていたいですか」
女が戸惑いながらもうなずいた。
男は女の額にそっと右手を触れると、小さく囁いた。
「私が君に名前を付けます」
男が言葉にならない音を呟いた。一瞬、女が吹っ飛びかけたが、猫娘三人、慌てて、後から女を支えた。
男がそのまま座り込んでしまった。
「幸乃、どうしようか。幸はびっくりするたろうな」
「あかねちゃんはともかく、四人も女性が増えてしまいましたわね」
幸乃が気楽そうに言った。

「まっ・・・、この方はお父さんが名前をつけたわけですから、姉妹として歓迎します、事情は幸乃さんに教えていただきました。でも、この猫娘三人は白澤九尾猫を思い出してしまって、幸はいじめてしまうかもしれませんよぉ」
あかねを寝かせつけた後、幸は男に泣きついた。
猫娘三人、直立不動で緊張していた、幸に一睨みされ、震え上がってしまったのだ。
「本当にいるんだ・・・」
啓子が興味深そうに猫娘を見つめた。恵や礼子、理恵子に倉澤は、襖の向こうから顔だけ出して、興味深そうに覗き込んでいた。
「質問いいかな」
「な、なんだよ」
手前の猫娘が答えた。
「二股になった尻尾はないの」
「人型に化身して、尻尾だけ残すような愚かなことはしない」
「でも、瞳はまるっきり猫だよ」
「眼は難しいんだ、でも、普通の人間からは、猫の目には見えてないはずだ」
緊張したまま、答える。
啓子はうなずくと、襖の向こうを手招きする、待ってましたと恵達がやって来た。
「猫の目に見える人」
啓子が声をかけると、恵と倉澤が手を上げた。
「早紀ちゃん、見えるの」
礼子が驚いたように言った。
「うちで飼っていた、たま三号と同じ目ですよぉ」
倉澤が答える。幸乃は礼子と理恵子の後ろに立つと言った。
「人差し指を瞼の上に置いて、目を細くして、ちょっと睨むように見てごらんなさい」
言われたように、目許に力を入れ、じっと見つめる。
「わっ、凄い。見えた」
二人、同時に声を上げた。
幸乃は少し笑うと、男に助け舟を出した。
「幸、この子達にお礼を言いなさい、あかねちゃんを助け出してくれたのですよ」
幸はううっと唸りつつも、顔を上げ、ひきったような笑みを浮かべた。
「ありがとう、とっても感謝しています」
「ご、ごめんなさい」
「どうして謝るの」
「雰囲気が怒った時の白澤のばあさんにそっくりで・・・」
うっ・・・、幸が息を飲んだ、一番、言われたくないこと。
ふと、男が思いついた。
「幸が三人に教えてやってくれないかな、術を」
幸は大きく深呼吸をすると、気持ちを入れ替えるように頭を振った。
「お父さんの命により、幸はこの子達に術を一つずつ教えます。ただ、厳しい修行になりますので、ひょっとして幸がいじめているように見えることもあるかもしれません。でも、それは誤解でありますこと、ここにあらかじめ宣言します。さて、貴方達、名前を教えなさい」
「ま、まだ、ないんだ」
幸の言葉に恐れつつ、一人が答えた。
「なら、左から、白、黒、三毛。名前決定。幸は貴方達の名付け親です。決して、逆らうことを許しません」
一気に言うと、幸はぱんと両手を叩いた。猫娘が瞬間、三匹の猫に戻ってしまった。左から、白、黒、三毛猫。おおっと礼子や理恵子が感嘆の声を上げた。
「お風呂、直行」
幸が声を上げた。
「黒、もーらい」
啓子が黒を抱き上げ風呂場へ向かう。
「お姉ちゃんずるい」
礼子が白を抱きかかえた。
恵は三毛の横にしゃがむと、尻尾を手で持ち上げた。
「根元は一本で、後ろ、半分位から二本に分かれているんだ。面白いなぁ」
倉澤もしゃがむと、尻尾の断面を見る。
「分かれているところ、内側は平らですよ。本当に縦半分に割れた感じですねぇ」
「時間が経つと、その平が丸くなっていくかもしれない、それで、いつから猫又になったかが分かるかもしれないよ」
恵が立ち上がる。
「お姉ちゃん、どうぞ。恵はあんまり、猫、得意じゃないから」
三人、猫を風呂場へと連れていった。
「シャンプーとトリートメントで、毛が無くなるくらい、がしごし洗ってくださーい」
幸が三人に声をかけた。
幸乃は男に少し手を振り、笑みを浮かべると、幸の体に戻って行った。
「賑やかになりますねぇ」
恵が笑った。
幸は、ほっとして、畳に座り込むと、少し笑った。
「面白いよね。そうだ、お父さん」
「ん」
「倉澤さん、今晩は泊まることになったよ」
「合宿気分で楽しそうだな」
幸はにっと笑うと、所在なげにしている女の手を握った。
「普段の名前をつけて上げてください」
男は女の眼をじっと見つめる、そして、笑みを浮かべた。
「あさぎ。で、いかがですか。これから成長して行く植物の色。これからたくさんのことを覚えて行く君にちょうどいいかな」
「あ・・・、ありがとうございます」
「あさぎ姉さん、どうぞ、よろしく」
幸は笑みを浮かべると、しっかりとあさぎの手を握った。

皆が寝静まった後、男は起き出して、台所で水を飲む。テーブルにつき、ガラスコップにいれた水を眺める。
男はあかねのことを考えていた、詳しい状況は聞かない、でも、相当に苦しめられたことはわかる。酷な話だ。
男はふっと顔を上げると闇に声をかけた。
「シャンプーの香りが体中から発散してますよ」
男が笑みを浮かべると、闇の中から黒が現れた。
「どうぞ、座ってください」
男の言葉に、黒は警戒しながらも、テーブルの反対側に座った。
「眠れませんか」
「いや、人間のように夜に寝るという習慣がないだけだ、それに、啓子さんに押し潰されそうになって逃げてきた」
男が声をひそめて笑う。
「そこそこの鬼くらいだったら、啓子さんは素手で倒してしまいますよ。とばっちり受けないよう気をつけてください」
「あんたがあたしらに直接教えてくれないのは、術が惜しいからか」
黒は男を睨むようにして言う。
「白澤のばあさんの命令はあたしらには絶対だ。どんな強敵相手でも戦わなきゃならない。どうしても強くなりたいんだ」
男は困ったように笑みを浮かべた。
「私と幸では、遥かに幸が強く、また、教えるのもうまい。それに、幸は真直ぐですから、貴方方が真剣に学びたいと思えば、それに誠実に答えるでしょう。私は本家とのわだかまりがあります。誠実に教える自信に欠けるのですよ」
「娘の方が強いというのか」
「なんていうのでしょうね。大事な娘が男に泣かされては大変、しっかり強く育てなきゃと、ん・・・、強く育てすぎたかな」
男は小さく笑うと、黒に笑みを浮かべた。
「多分、白澤さんもあなた方のこと、思うばかりに、ある意味、敵対する私に自分の血族を委ねたのです。本家を名目だけでなく、実質的に再興させるためにという理由もありましょうけど、ともかく、私の術を身につければ、あなた方が殺されることはなかろうとね」
男は視線を少し上げる。
「幸、この子達は幸の娘でもあるわけだ。名付け親だからね」
黒の両肩に幸の手がそっと触れた。びくんと黒が震え、硬直する。
「親としては娘三人の行く末が心配だ」
幸は黒に顔を寄せると声をひそめ囁いた。
「いつまでここにいられる」
「八日間だ」
「短いなぁ、もっと楽しみたいのにな」
幸はふっと笑うと、黒の横に座った。
「黒が姉で、白と三毛は姉に従って、白澤のばあさんの言うことを聞いている、そんなとこだな。黒、八日間、寝ずに修行できるかな」
「で・・・、できる。もちろんだ」
「なら、今から修行、大丈夫、半日くらいは休まさせて上げるよ」
幸は男に向き直った。男が笑みを浮かべた。
「幸の仕事は、父さん、頑張るよ。啓子さんや恵さんもいるからさ、なんとかなるよ、それにあさぎもね。だから、しっかり教えなさい」
「ありがとう、お父さん」
幸はほっとしたように笑みを浮かべると、黒に向き直った。
「あなた達がどんなに大変な思いをして、危険の中、あかねちゃんを助けてくれたかということ、わかっている。本当にね、感謝しているよ」
幸は両手でしっかりと黒の手を握った。
「だから、覚悟してください。しっかり、教えます」

空は下弦の月、梅林の中、幸の前に三人の猫娘が立つ。
「あなた達の体は人の体よりも自在に動きます、でも、それでも遅い。ですから、全ての無駄を排した最速の形を教えます。最初は素手。そのあと、武器術を教えます。それが終われば、呪術を教えます。最後は武術と呪術の同時発動を教えます。いいですか」
「はい」
緊張した面もちで三人が答えた。
幸は微かに左足を半歩引いた。
合わせて三人の足が動く。
「勝手に足が動いた」
黒が呻いた。
「三人の体は幸が操作します。まずは逆らわずに受け入れなさい。そして、経験しなさい、最速という無限の瞬間を」
幸が動き出す。しかし、それは。
幸の両手がゆっくりと前へと繰り出されていく、一分、五分、十分、十五分、その動きは遅くこれだけの時間をかけても一センチと前に出ない。
道筋。最速最短の道筋を確実に身につけるため、その道筋を時間をかけて辿る。すべての勢いを否定し、すべての力みを消し、微かなバランスの変化だけで移動していく。
幸の左手が上がり、右手が下がっていく。同じように三人の体が動いていく。ゆっくりと右足が上がっていく。
体全体が、バランスを保ちつつ、常に変化する。
三人が苦しそうに喘ぎだした。黒はたったこれだけの動きですら、苦しむ自分を情けなく思う。しかし、同時に、まったく無駄のない軌道、ぶれのない正確さをはじめて経験した、それはまさしく歓喜だった。

男と恵はあかねの枕もとに座っていた。
幸とあかね、恵の三人が一緒に寝ていたのだが、いま、幸は猫娘の指導に梅林へと向かい、恵が硬い表情をしてあかねを見つめていた。
「先生、あかねちゃんは・・・」
「体の傷は癒える、でも、心の傷がね。それが難儀だな」
そっと男はあかねの額に触れる。
「そうだな・・・」
男が小さく呟いた。
男は恵を見つめた。
「恵さん、壁にもたれてでいいから、あかねちゃんをしっかり抱きしめてやってくれませんか」
「私でよければ」
男はあかねの体を起こすと、恵にその体を預けた。そして、男は一歩、離れるとけっかふざに座り、意識を統一し始めた。
「私があかねちゃんの心の中に入り込み、彼女を浄化します。彼女はすべての人を拒絶してしまっている、うまく入り込まなきゃならない、少し、時間がかかると思う」
「はい、しっかり抱きしめています」
男は微かに笑みを浮かべると、小さくうなづいた。
「お願いします」

啓子が布団から体を起こした。隣りには礼子と理恵子、倉澤とあさぎが安心しきったように寝ていた。
猫娘、三人とも戻ってこない、今頃、幸さんに稽古をつけてもらっているのだろう、そして先生は、あかねちゃんをあのままに寝ていられる人ではない。
啓子はぐっとお腹に力を入れた。しっかりしろと、自分に言う。
啓子は起き上がると家の玄関、上がり口に座り、陣を整えた。
この家を支えている二人が身動きできない以上、自分がこの家を、シェルターを守らなければ。

明け方近く、男は軽く啓子の肩を叩いた。
「啓子さん、ありがとう。お疲れさまだったね」
「先生」
啓子は振り返ると心配げに男を見る。
「悪い方向へは向かわないと思うよ、あとは諦めずに日数をかけて待つだけだね」
「先生はいい人ですね」
「本当はいい人じゃないんだけどね」
男は困ったように笑みを浮かべた。
「あかねちゃんは恵さんが抱いててくれる。啓子さんも一寝入りしなさいな」
「幸さんは・・・」
男は梅林の方角を眺めた。
「あれは、一つどころか、全部、教えようとしているな。私が幸に武術も呪術も教えたけど、再構成して、幸はすっかり自分のものに仕上げている。だから、幸が全部教えてしまおうというなら、それもいい。私がとやかく言うことじゃない。敵になればなったで、頑張って戦うさ」
「黒は真面目でいい子ですよ」
「真面目すぎるのさ。啓子さんも真面目すぎるな、少し、頭の中、柔らかくしなさいな」
男は啓子の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「それじゃ、私はしばらく寝るよ。啓子さんも布団に戻ってゆっくり寝なさい」
男は自分の部屋に戻っていった。
啓子は一つ、溜息をつき、男がくしゃくしゃにした髪を両手で押さえる。
「お父さんか・・・、いいなぁ」

朝、男はテーブル二つを繋げて、並べた。人数を数えてみる、あかねちゃんを入れて十一人だ。テーブルを二つ繋げばなんとかなるだろう。
椅子は事務所で使っていたのもある。
「先生、おはようございます」
「おはよう」
啓子が少し眠たげに起き出してきた。
「何か手伝うことありませんか」
「それじゃ、納戸から椅子をあるだけ出してくれるかな」
「わかりました」
勝手知ったる他人の家、啓子が納戸へ向かう。あさぎと倉澤が起きてくる。
既に倉澤は制服に着替えていた。
「倉澤さんは家に寄ってから学校へ行くのかな」
「そうします。教科書も必要だし」
「これから朝ごはんを作るから食べてから行きなさい。あさぎ、恵さんとあかねちゃんの様子見て来てくれるかな」
「は、はい。見て来ます」
「ありがと」
男がそっと笑った。

「お父さん、お父さん」
幸が猫娘三人を引き連れ、あたふた、駆け戻って来た。
「ごめんなさい、朝ごはんを作るよ」
「無理するな。徹夜したんだろう」
男は幸の頭を軽くぽんぽんと叩くと少し笑った。
そして、猫娘三人を見る。体はかなり疲弊しているが、精神状態は良好のようだ。
啓子と倉澤が椅子を並べはじめた。
「黒、白、三毛だったかな。椅子に座りなさい、一つおきにね。朝ごはんを食べよう」
「あたし達が同席してもいいのか」
「みんなで一緒に食べる方が楽しいだろう。ご飯は多めに炊いている、しっかり食っておかないと体がもたないぞ」

「おはようございます」
礼子と理恵子が起き出してきた。
「礼子、朝ごはんを作るよ」
啓子が声をかけた。
「はぁい。理恵子ちゃん、一緒に作ろう」
「うん」
三人が台所へと入って行く。
「お父さん、賑やかだね」
幸が改めて納得した。
「人が多いのも楽しいね」
「そうだな、こういうのもいいもんだな」
幸の表情が少し陰る。
「お父さん、あかねちゃんは・・・」
「あさぎと恵さんが肩を貸して連れて来てくれる、昨晩、あかねちゃんの心に入って来たよ」
「どうだった」
「日数をかければ、元のあかねちゃんに戻るよ。あきらめずに待ちなさい」
「お父さんがそう言ってくれるなら幸は安心だ」
幸は三毛の向かい、下座に座ると、台所に向かって声をかけた。
「啓子さぁん、幸はお腹ぺこぺこで一歩も動けませんよぉ」

全員、テーブルに着く。黒の隣りに啓子が座り、幸はあかねの隣りに座った。
ご飯にお味噌汁、漬物に卵焼き。
啓子が立ち上がった。
「ご飯、おかず、お味噌汁、お代わりはいっぱいあります。しっかり食べてください。それでは、いただきます」
口々にいただきますと言い、朝ごはんをいただく。
あかねは一切の表情が沈み、かろうじて目を開けているだけだったが、幸がお箸でご飯を少しずつ食べさせると、嚥下する。ほっとしたように幸は笑みを浮かべた。
啓子は興味深そうに黒を見た。
「黒は好き嫌いとかあるの」
「食べれるものはなんでも食べるさ。啓子さんだって食ってしまうぜ」
礼子が身を乗り出した。
「だめだよ、黒ちゃん。お姉ちゃんなんか食べたら、お腹こわすよ」
「なるほど、お腹、こわして苦しむのはいやだな。それに」
黒がご飯にお味噌汁を掛ける。
「これの方が百倍、美味い」
「かっこいいなぁ」
理恵子が言った。黒は照れたのか、顔を背ける、そして、味噌汁ご飯を一気に飲み干した。
「お姉ちゃん、お代わり、いいかなぁ」
自信無げに白が黒の顔を伺う。
黒が振り返り、礼子越しに白を睨みつけた。
しゅんとして、白が俯いてしまった。
「お代わりあるって言ってただろう」
黒が白に強く言う。
「ごめんなさい」
白が余計に俯いてしまった。
啓子が仕方無さそうにため息をつく。
「幸さん、どうしたものかなぁ」
啓子が幸に話しかけた。
「黒はさ、妹たちをしっかり守らなきゃって、思いが強くてね、それはいいんだけど。結果としてこういう態度になる」
「あ、あの。笑えばいいんじゃないでしょうか」
倉澤が思い切って声を上げた。
幸がうなずいた。
「それいいよね、うん」
幸はゆらっと立ち上がると、黒に笑い掛けた。
「黒、大声でさ、あははって笑ってごらん。楽しいよ」
「楽しくもないのに笑えるか」
「そうだよね。黒はそう言うだろうなぁ。啓子さん、右お願い。幸は左」
幸が叫ぶ、啓子は立ち上がると、素早く黒の右手を取り、幸は黒の左腕を抱えた。
二人で黒を羽交い締めにする。
「倉澤さん、黒の喉、ごろごろってこそばせて」
幸の声に、倉澤は立ち上がると、あたふた、倉澤は走り寄り黒の喉を飼い猫にしていた要領で、指先、なでるようにこそばせる。
「そ、そんな、ことで、わ、笑う、か」
息を上げ、黒が叫ぶ。
「大丈夫だよ、力を抜いて素直になろうね。ほうら、喉が鳴ってきたよぉ」
倉澤が黒をあやすように言う。
男は隣りに座っていたあさぎの肩をとんとんと叩く。
「はいっ」
驚いたようにあさぎが振り返った。
「あさぎ、あははって声を出して笑ってごらん。黒は恥ずかしがり屋だ、皆が声を出して笑ったら、安心して笑うと思うよ。あさぎにとっても声を出して笑うのはいいことだと思う」
男の言葉にあさぎは思い切って笑い出す。それを見て、礼子や理恵子も笑い出した。幸や啓子も黒を抑えながら笑う。いつの間にやら、猫娘 白も三毛も笑い出した。
黒はのけぞりながら目をつぶっていたが、いきなりふっ切れたように笑い出した。
「あはははっ」
幸と啓子が腕の力を抜くと、黒は床に倒れ、そのまま、笑い続ける。苦しそうに息をしながら笑い続ける。
やがて声が収まり、倒れたまま、黒が呟いた。
「なんだか、自分の中の支えていたものが消えてしまった」
「それはさ」
幸は黒の横に正座し、膝に黒の頭を載せた。
「それは黒を支えていたものじゃない、コンクリートや鉛みたいに、黒を重く固めていたものだ。これから、もっと良い動きができるようになるよ」
「お姉ちゃん、ごめんなさい」
白と三毛が不安げに黒に寄り添っていた。
黒は笑みを浮かべると二人の頭を優しくなでる。
「ありがとう、白と三毛がいてくれて、姉ちゃん、とても幸せだ。これからもよろしくな」

「うわっ、時間だ」
急に倉澤が叫んだ。
「ごめんなさい、学校行きます」
「いってらっしゃい」
幸が笑みを浮かべた。
「あの、また、帰って来て良いですか」
「いいよ、楽しみにしている。でも、泊まりはだめ、御両親、心配させてしまうからさ」
「はい、わかりました」
倉澤が元気に答えた。
八日目の朝、黒は男の前で頭を下げていた。
「先生、練習場所まで、私と付き合ってください」
男の部屋、書類の整理をしていた男は振り返り笑みを浮かべた。
「立ち方、歩き方からもわかるよ。幸にかなり仕込まれたようだな」
男は椅子から立ち上がると押し入れの中を引っ掻き回していたが、さらしで巻いた棒を一本取り出した。
「それじゃ、行くかな」
二人して、部屋を出、練習場所にしていた梅林へと向かう。
「黒はここに来て良かったか」
「はい、本当に良かったです。夢のような八日間でした」
「黒も白も三毛もね、幸の娘だからいつでもここに帰っておいで。というかさ、ここで暮らすつもりはないかい」
黒が驚いて顔を上げた。
男は笑った。
「いろいろあるのかもしれないけど、それも選択肢の一つに入れておいてくれ。幸も私もさ、大事な娘を戦場に送るような気がしてね、なんだか、辛いんだ」
唇をかみしめ、黒は俯いた。
三日前のことを、黒は思い出していた。
練習の後、必ず三十分の居眠りをする、脳に練習内容を強く焼き付けるためだ。木陰、幸が仰向けに寝転び、その両手をしっかりと白と三毛が握っている、黒は幸の頭辺りに寝転ぶ、いつのまにか、そう決まっていた。
「あの、母さん」
黒が幸に声をかける。
「ん、どうしたの」
幸は少し黒に顔を向け返事をする、幸は三人に母さんと呼ばせていたのだった。
「どうしてこんなに教えてくれるの、一つだけって約束だったのに」
「心配だから。黒達は鬼と戦うためにこうして学んでいる。親としては、あんまりね、行かしたくないんだ、鬼退治なんかにさ。でも、行かせなきゃならないのなら、万全の準備をさせて送り出してやりたい」
「たくさん教えてもらってとっても嬉しい、なんだか、本家で教わっていたのが遊びに思えてくる」
「それが、本家の今の実力だ。それを承知で白澤のばあさんは独自路線を選択した。厳しい話だな」
幸は二人を起こさないようにゆっくりと上半身を起こした。
背を向けたまま、黒に問う。
「ここで暮らすのは無理か。一緒に畑で野菜を作ったり、山羊や鶏を飼って。たまに、野菜の直売をやってみたり、もうすぐ始める喫茶店でお茶を運んでみたり、そんな、なんでもない日常を送りたくないか」
黒は幸の背中に額を押し付けて呟いた。
「白澤のおばあさんには生命を救ってもらった恩があるんだ、だから、戦わなきゃならないんだ」
幸は黒に背中を向けたまま呟いた。
「お父さんに猫又のこときいたよ。猫又には二種類ある。白澤のように長い年月を生きて生命の理というものに気づいた猫が猫又になる、もう一つが、そういった猫又に血を分けてもらった猫が猫又になる、黒達は後者だろうと話してくれた」
「気づいた時、私はゴミ袋の中にいた、いろんな変な匂いのするゴミと一緒に。青いゴミ袋の向こう、いくつもの家が並んでいて、女達が立ち話をしていた。体 を動かして逃げ出したいと思ったけど、とっても体が重くて、意識もうっすらとして来て、あれ、確かに母さんの横で寝ていたはずなのに、どうしてなんだ、上 を向けば、固く固く袋が結ばれていて・・・、声を上げることも動くこともできない、とっても、寂しかった、とっても恐かった。声が出ていないの、わかって いた、でも、何度も、何度も声を上げたよ、母さんって、母さんって。そんなとき・・・。白澤のおばあさんに会ったんだ。だから・・・」
「白澤のばあさんより、先に会えていたら良かったのにな。でも、今はね、幸が黒や白や三毛の母さんだよ。それは忘れないでほしい」

黒は足を止めた。
「ん、どうしたかな」
男は振り返ると黒の顔をのぞき込んだ。
「本家では汚いもの、忌むべきものとして扱われてきました。もちろん、白澤のおばあさんの手前、表立っては・・・」
男はくすぐったそうに笑った。
「最初、会った時、ごめんな、黒。悪く言って」
「いいえ。あぁやって言い合えたのは、なんていうんだろう、楽しかったんです」
「そっか、安心した。なぁ、黒、これも出会いだ、出会う縁があったわけだ。この縁、大切にしてほしい」
男はそっと黒の頭をなでた。

練習場所、間合いを充分に開け、男と黒は向かい合った。幸は白や三毛と一緒に、少し離れた場所で見守る。
「お父さん、よろしくお願いします」
幸が緊張した面持ちで男に頭を下げた
「卒業試験みたいなものだな。幸にかっこの悪いところ見せられないからさ、頑張るよ」
黒の求めに応じ、男は今までの黒達の練習の成果を見極めるため、立ち会うのだった。
男はさらしに巻いた棒を片手に黒に声を掛ける。
「まずは黒、自由に攻撃してきなさい。私を殺すつもりでね」
黒がぴくんと震えた。しかし、微かに背を落とすと、ふっと力を抜いた、その瞬間、間合いを一瞬に詰め、両手を上段から打ち下ろした、その両手には幸の使う長刀が握られていた。男は斜め半歩前に進み、剣先ぎりぎりを避けた。
黒が男から一歩離れ、中段から男の胴をなぎ払う。
男はその風圧に圧されるように退き、剣先が過ぎた瞬間、すいっと黒の背中に移動する。
「良い感じだ。大抵の鬼なら体が四つになっている」
一瞬、黒が沈んだ、次の瞬間、弾けるように剣が男の胸に突き出された。
男は柔らかくそれを擦り抜けると、黒の頭を軽くぽんぽんと叩いた。
「次は私も攻撃しよう」
「はいっ」
息を切らし、黒が答えた。男は無造作に、黒から離れると、さらしを解く。
四尺三寸、筒が現れた。断面が楕円形の筒だ。
男が筒を片手に振り返る。
「杖術はね、もともと、相手を傷つけずに制することを大事としている、だけど、これはね、攻撃のための杖だ。攻防の中で、使い方を良く見ておきなさい」
男は黒の間合いに入ると袈裟懸けに杖を打ちおろした、黒の剣とぶつかった瞬間、剣もろとも黒が吹き飛ばされた。黒は空中で姿勢を立て直し、唖然と男を見つめた。
「わかるか、黒。これが手の内だ、微かに緩めると掴むとで、相手の力を、そのままに跳ね返してしまう」
「はいっ」
黒が興奮したように声を上げた。
「お願いします」
男がうなずく。
今度は黒が肩の高さに水平に剣を構える。一歩踏み出し、男の脇を斬る、男は剣の進行方向に杖を合わせた。剣が杖の上を走る、瞬間、男が沈み込み、黒を杖で突き刺す。黒に突き刺さる寸前、男は杖を微かに引く。
「刺して捻れば肉がえぐれる、上手が斬れば、剣と同じようにも切れる。なかなか、便利だろう」
既に男は黒に背中にいた。
「合格だ、黒」
黒が男に向き直った。
「充分、複数の鬼とも戦えるよ。でも、今後の精進を忘れないようにね」
「先生、ありがとうございます」
「どう致しまして。呪術は黒の眼を見ればわかるよ、きっちり出来ている。もともと才能があるのかな」
「先生、本当にありがとう。母さん、ずっと大好きだ。白、三毛」
いきなり黒が叫んだ、白と三毛がしがみつくように幸の手を抑えた。
「どうしたの」
幸が声を上げた。
「ありがとうございました」
黒が刃先を自分の首に当てた。
「やめてくれ、黒」
幸が悲鳴を上げた。男の姿が揺らめいた、男は黒の背中に現れ、剣を弾き飛ばした。そして、左手で黒を支え、右手小指側を黒の口に差し入れた。
「舌を噛むなよ」
男は黒の耳元で低く囁いた。
「白澤のばあさんが俺の首を土産に持って帰れと言ったんだろう。代わりに自分の首を刎ねて、妹たちに持って帰らすつもりだった、ってとこだな。あの人も困った人だ」
黒の膝が崩れた。男が右手を離すと黒は倒れるように地面に手を着いた。白と三毛が黒に走りより、しっかりとしがみつく。
幸はどうしたら良いのかわからずに、涙を流したまま立ち尽くしていた。
「幸、抱き締めてあげなさい。それが一番だよ」
幸はよろよろと歩き寄ると、三人を抱き締めた。そして、幸が一番に大声で泣き出した、まるで、小さな子供のように。
「あの人も黒の真っすぐさが読み切れなかったようだな。お互い、ひねくれてしまっていると、真っすぐなのは眩しすぎる」
男は呟くと、杖をさらしで巻いた。そして、泣き声がようやく落ち着いたころ、幸と三人に声をかけた。
「黒と白と三毛は、これからもここで生活すること」
驚いて、幸が男に振り返った。
「黒は叔父さんと一緒にこれから、本家に出向いて、叔父さんのところで暮らしたいと言いなさい。そうしたら、本家が何と言っても、叔父さんは黒を連れ帰って三人、ここで暮らせるようにするからさ」
黒が惚けたように男を見つめた。しかし、生き返ったように笑みを浮かべると、強く頷いた。
男は思う、本家には武術を使える呪術師が百人以上いる。そんな大人たちがいるくせに、子供三人に頼るなんて、恥ずかしいと思う奴はいないのか。

見上げる、白鷺城を参考に造成しただけあり、その姿は白く美しい、堀はなく、その前に大きく横たわる湖が、侵入者を制するための水堀の代わりになっていた。もっとも、これは異界にあり、侵入しようにもこの湖の手前に来ることすら難しい。
「黒は水の上、歩けるか」
「御風呂場でなら歩けるのですが」
「どうした、黒」
「えっ」
黒が戸惑ったように男を見上げた。
「黒、かなり緊張しているな」
男は笑みを浮かべた。
この城が本家であり、その当主が男の義理の兄であった。
「湖の上、できるだけふわっと乗ってごらん」
黒は恐る恐る水の上に足を載せる。ゆっくりと両足が乗った。しかし、小波のせいで、かなり不安定だ。男も湖の上に軽く乗ると黒の手をぎゅっと握った。黒の足元が定かになる。
「他対一や、空中に浮かぶ奴らと戦う時には大事な歩法だ。ちょうどいい練習だな」
男は黒の手を握ったまま歩きだした。
「浮いた足の方に重心を載せる感じだよ」
「まだ難しいです」
「だろうな、でも八日間でこれだけ出来ればたいしたものだよ」
男は少し黒に顔を寄せると小さく笑った。
「あの、聞いていいですか」
「ん」
「先生と本家ってどういう関係があるのですか」
「そういえば、そういうのって話してなかったな。白澤さんは教えてくれなかったのか」
歩きながら、黒が頷いた。
「黒は本家の当主に会ったことがあるか」
「いいえ、でも遠くからは見たことがあります」
「当主は私の義理の兄だ。私は小さい頃、本家につれ去られて来て、そのまま、養子になったんだ」
「ごめんなさい」
黒が唇を噛んだ。
「今となってはどうでもいい話さ。本家には十年ちょっといたかな、先代の妻に、私にとっては義理の母親に殺されそうになってね、逃げ出した。先代と白澤さんはその逃亡を助けてくれたのさ」
エンジンの音が響き出した。
城から水上バイクが三台、飛び出してきたのだ。
「波がきついな、黒、背中に乗りなさい」
男は手を貸すと、黒を背中におぶった。
拡声器だ、声が響く。
「そこの侵入者、直ちに停止しなさい」
太い男の声が響く。
男は素直に立ち止まると、水上バイクが到着するまで待つ。やがて、三台の水上バイクが取り囲んだ。
対魔物用の装備をした男たちだ。
「白澤さんと当主に会いたいんだけどね、折角だし、それ、乗せてくれるかな」
「白沢老から、あんたを見つければ無条件に抹殺せよとの命を受けている」
二台の水上バイクが回り込み、一列になると一斉に機関放射、無数の銃弾が降り注いだ。
黒を背負ったまま、男はその光景を城側の岸で眺めていた。
「ここを叔父さんが出た頃はさ、ほとんどの奴が船を使わずに湖の上を歩くことが出来たんだけどね。劣化したなぁ。白澤さんもそうは思いませんか」
男が振り返る、白澤が苦り切った笑みを浮かべていた。
「便利になると体の使い方も術も落ちてしまうのよ。でも、彼らも兵として、武術呪術師として、この時代では上級の部類」
男も仕方無さそうに笑うと黒を下に降ろした。
「お前がここに居るということは、この子は失敗したようね。この子の両目に在った陰もすっかり消えて幸せそうな顔をしている。お前の娘の仕業ね」
「お願いです、母さんと一緒に暮らさせてください」
「母さん・・・」
男は笑った。
「娘が三人に自分を母さんと呼ばせているんです」
白澤がため息をついた。
「兵としては到底役に立たないわね。どうぞ、好きになさい」
白澤は黒に語りかけると、やおら、男を睨んだ。
「大切なひ孫と別れなければならない以上、私もこのまま、引き下がるわけにいかないわね。何かお出しなさい。見合うものを」
「困りましたね、今日は手土産もなく、手ぶらでやって来ましたよ」
白澤が悪戯げに笑った。
「お前の硝子球を寄越しなさい、あれは防御にも攻撃にも秀でたもの。あれが有れば、鬼とも対等に戦えるわ」
「使い方をしっかり理解すれば、対等どころか瞬時に倒すことが出来ますよ」
男は硝子球を取り出すと、白澤に手渡した。驚いて、白澤が男を見つめる。
「本当にくれるとはね」
「この子達には、なんというかな、私も情が移ってしまいましてね。そうだ、娘が名付けました、この子が黒。後の二人が白と三毛です」
「見たままということね、センスのない娘だこと」
「白澤さん、言葉にしていただけませんか、そうしていただければ、一週間、通いで硝子球の使い方を教えましょう」
すっと白澤の体に硝子球が溶け込んだ。
「これからのこともあるわね。わかりました、黒、白、三毛を千尋、お前に預けます。これから、お前とお前の娘の手元で暮らすことを認めます」
黒が自然と笑みを浮かべた。
男は黒の頭をなで、白澤に言った。
「たまには遊びに来てください、ひ孫の顔も見れますよ」
「そうね、お前の娘と戦争も出来るわね」
「その辺はお手柔らかに」
男は笑みを浮かべ、湖を振り返る。幻を相手に死闘が空しく繰り広げられていた。
「そろそろ気づかないかな」
「ほっておけばいいわ。そのうち、ばてて動けなくなるでしょう」
白澤は吐息を漏らすと、空を見上げた、青く抜けるような空だ。
「早くあのお方のところへ行きたいけれど、今の様子ではねぇ」
白澤は男を少し睨む。
「鬼と対等に闘える力を取り戻さなければ。千尋、精鋭十人を選んでおきます、硝子球の他にも教えなさい、そうだ、お前の得意にしていた筒があったでしょう」
男は緩やかに手を動かす、その手にさらしに巻いた杖が現れた。
白澤はそれも受け取ると、子供のようににっと笑った。
「他にはもうないかしら」
「これ以上は勘弁してください、身ぐるみはがされてしまいますよ」
男は笑うと、黒の手を握った。
「兄に会うつもりでしたが、また、明日にでもお目通りを願うことにしましょう、そろそろ、退散します」
「日が明けると同時に待っていますよ」
男は仕方なそうに笑みを浮かべると、軽く頭を下げる。そして、白澤に背を向けた。
「そうだ、まさか、あの中に明日の精鋭はいないでしょうね」
湖上の喧噪を眺め言う。
「彼らは不合格よ」
白澤の言葉に男は笑うと黒の手を握り、城を後にした。
ふと白澤が黒に声をかけた。
「黒」
驚いて、黒が振り返る。
「良い名前ね」
初めて、白澤は和やかに笑った。

異界を離れた後、二人は列車に乗り、最寄りの駅に着く。男と黒は帰り道を歩いていた。
「先生、ごめんなさい」
「ん、どうしたんだ」
「大事なもの、取られてしまいました」
「大事か・・・。でも、叔父さんはね、黒がいて、白や三毛がいて、幸がお母さんぶってえらそうにしているの面白いし、みんながさ、楽しく暮らしている。それの方がずっと、嬉しくて大事だからさ」
男はふと、商店街を少し離れた洋菓子店をのぞき込んだ。
「黒はケーキ、食べたことあるか」
「えっ、いいえまだ」
「それじゃ、食おう」
男と黒は洋菓子店に入ると、テーブルと椅子が設えてある、それに座った。
「あ、あの、いいんでしょうか」
「叔父さんは珈琲が飲みたいのです。幸は厳しいからさ」
男がいたずらげに笑った。
店員がメニュを持ってやって来た。
「私は珈琲で。黒、どのケーキにする」
「わかりません、なにがなんだか」
黒がメニュを睨んで困惑した。
「それじゃ、この子には苺のショートケーキをお願いします」
店員がメニュを抱え戻る、黒はほっと溜息をついた。
「緊張しているな」
「だって、奇麗で上品な音楽も流れているし、なんだか場違いなような」
「啓子さんは、黒は美人だって言ってたよ」
男が気楽に笑う。
「叔父さんは、美醜がわからないけれど、素敵な女性になるんじゃないかな」
男が他意なく気楽に言う。
「あ、あのっ」
「ん、どうしました」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
珈琲とケーキが運ばれてきた。黒の前に苺のショートケーキ、男の前には珈琲がある。
「一口目はそのままで、その後にクリームを入れよう」
男は呟くと、珈琲カップをつまみ上げる、
「黒、食べなさいな、美味しいよ」
「は、はいっ」
黒はしばらく、白と赤のコントラストを楽しんでいたが、ケーキの先をフォークで取ると、思い切って口に運んだ。
「美味しい、先生、美味しいです」
黒が飛び上がらんばかりに声を上げた。
「良かったな」
男が笑みを浮かべると、えへへっと黒が笑った。しかし、黒はもうケーキには手を付けず、フォークを置いた。
「どうした、黒」
黒が嬉しそうに笑った。
「白と三毛に持って帰ってあげます、三人で食べたらもっと嬉しい」
男は優しく笑みを浮かべると黒に言った。
「黒、そのケーキは食べなさい。同じケーキ、お土産に買って帰るからね、帰ったら、晩御飯の後、みんなで食べよう」
黒が笑顔で男を見つめた。
そして、くすぐったそうに笑うと、フォークを手にした。
お皿に残ったクリームまでしっかりと食べたことは・・・
18
最終更新日 : 2013-05-11 17:35:45


読者登録

朽身揺歯(くちみゆるは)さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について