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異形 流堰迷子は天へと落ちていく三話

「お父さんは、あかねちゃんの父親を連れてきて。幸はちょっと遊んでくるよ」
門柱の手前に男と幸とあかねが立っていた。通りの向こうからやってくるのはあかねの父親、大きめの旅行鞄を転がしやって来る、治療が功を奏したのか、血色も良いようだ。
ただ、あかねの父親の後ろには。

「あれって、気づいていないのかなぁ」
幸が愉快で仕方ないと低く笑う。

「気づかないし、彼は先天的に影響を受けにくい人なんだよ」
百鬼夜行、あかねの父親の後ろを異形のモノたちがふわりふわりとやって来る。まさしくの鬼、首から上だけが人の犬。半魚人や、あれは蛇だろうか、それとも小竜だろうか、伝説の妖怪たちが百以上、ゆらゆらとやって来る。
「病院には結界を張っておいたから、この道中、待ち構えていたんだろうな」
「あれも叔父さんのせいでしょうか」
あかねが呟くように言った。
「取り殺そうというのだろうけれど、あんまり、本気ではないようだ。やっつけ仕事だな」
男が応える。
「そっか、あかねちゃんにも見えるのか。なら、幸の活躍をじっくり見ていてね」
にぃぃっと幸が笑う。
男は困ったように笑みを浮かべると、あかねに言った。
「多分ね、叔父さんの差し金だろう。数は多いけれど、骨のあるのは四体の鬼と四神を象った奴だけだな」
男は門柱の裏に立て掛けていた木の棒を取る。一メートルと少しの細長い棒だ。
「良い機会かもしれないな」
男はひとつ、吐息を漏らすと門柱の外、結界を出た。
幸がその後を追う。
男が何げなく歩く。しかし、その足取りは軽く、いや、ほんの数ミリ、男は地面から浮いていた。
「父さん、あかねちゃんのお父さんを結界の中に連れて行くよ」
「それじゃ、幸は後ろの奴ら、みんな斬っちゃう、なんだか、嬉しいなぁ」
「幸、理性を保て、幸は強すぎる」
「うるさい、しっかり楽しませてもらう」
男は溜息を小さくつく、その瞬間、男の姿が消えた。
男はあかねの父親の横に現れると、すぐ後ろに陣取っていた鬼を、中段、棒で突く。鬼が一瞬、倒れかけた。男はあかねの父親を片手に抱えると姿を消した。
一瞬の後、男はあかねの横に気絶した父親を寝かせる。
「移動の速さに耐えられなくて、ちょっと意識を失っているだけだからね。すぐに起きてくれるよ」
「ありがとうございます、でも、お姉ちゃんが」
男が振り返る。
二匹の鬼を両断した幸がの笑い声がここからでもはっきりと聞こえる。片手に長刀を軽々と持つ幸の姿は絶対的確信の元に勝利を示していた。
「狂気の壁を越えて、向こう側へ入り込んでしまったということだ」
「おじさん、それがわかっていて・・・」
「一度は向こう側に行かないとね、自身の力がどれほど強く恐ろしいものかはわからない。いまなら、おじさんの力でなんとか連れ戻すことができると思う。今、以上、幸が強くなったらおじさんでも無理。いい機会なのさ」
男が寂しそうに笑った。
「ごめんなさい、おじさん」
男はいたずらっぽくにっと笑う。
「幸には普通の平凡な生活を送って欲しい、親なら誰でも思うこと。ただ、ちょっとね、強すぎるんだ、幸は。もちろん、そう育てたのはおじさんなんだけどね、なんだかさ、反省しているよ」
男はあかねに言うと、立ち上がった。
「あかねちゃん、お父さんが意識を取り戻したら、居間にお通ししなさい」
「おじさんは」
「幸と後から戻る。ただ、幸だけが戻ってきたら」
「お姉ちゃんだけが」
「そのときはごめん、おじさんはもう死んでるから、無責任なこと言うけど、なんとか逃げてくれ」

幸が三匹目の鬼を片手袈裟掛けに斬る、瞬間、男は鬼を横から蹴り倒した。刀が空を斬る。
「邪魔をするなと言ったろうが」
幸が男を睨みつけた。
「幸、理性を取り戻しなさい。その刀は本当に、永劫、この世との繋がりを断ってしまう。それは、幸、自分自身の心を傷つけていくのと同じことだよ」
「わけのわからない説教に聞く耳は持たない。お前が殺されたくないのなら、ここから消えてしまえ」
男は仕方なそうに笑みを浮かべた。
「そうはいかない、これでも父親だからさ」
男は棒をおよそ三分の一の位置に、右手で持ち、先を幸に向ける。
「杖は相手の動きを制する武器、剣とは異なる性格を持つ武器だ。これで幸の動きを制してあげよう」
表情を変える事なく幸が男の首を凪いだ、一瞬、腰を落とした男が剣筋を避け、幸の首に杖の先端を添えた。
幸は杖の先端を嫌い、半歩下がったが、男がゆるやかに歩み寄る、先端は幸の目の前に移動した。
「絶対的速度は幸の方が遥かに上だな」
男が小さく呟く。
幸が姿勢を思いっきり落とし、剣を下から跳ね上げた。男はその動きを読んでいたように、左に半歩躱し、浮かび上がった幸の両腕を杖で下からすりあげる。円を描くように、幸の腕を押え込みかけたが、するりと幸は流れから逃れると、打突、剣を男の心臓に向けて突いた。
男は交差させるように剣に向かって突く、杖の厚み分、剣が逸れた。
「面白いなぁ、それ」
幸がにたりと笑う。
「変化が速い」
「それが杖の本質だ、よく見抜いたな」
男が答えた。
「剣はその構造上、平面の動きを連続させることで立体的な動きを作り出す。杖は最初から立体的な動きができる分、有利なのさ」
幸の姿が一瞬、後ろに流れ、入れ替わるように剣先が男の目の前に現れた。男が半歩前、杖で制しながら前に出る。
「早速、剣の動きに取り入れたか。ほれぼれする」
「もう、教えてもらえないのは寂しいな、それとも、まだ、引出し、何か残ってる」
「いや、引出しに残ってるのは、黴びた匂いと埃だけ」
「それじゃ、さよなら」
幸は笑みを消すと、手首を返す、横になぎ払う、膝を抜き、男が背を落とす。男の髪の上を剣が擦り抜けた。
とんとんと男は二歩下がると後ろ手に杖を構える、幸の位置からは杖が見えない。
「幸、これから父さんが壁の向こうから救い出して上げよう」
「こんな楽しいことはないよ、ここはとってもいこごちが良いんだ。ね、父さん」
「ん・・・」
「父さんより強い奴っているのかな」
「そうだな。人では、あんまりいないんじゃないかな。人外ではいるだろうけどね」
「そうか、なら、まだこれからも楽しめそうだ」
男は答えず、微かに身を落とした。
「行くよ」
「今までありがとう」
男の姿が幸の左に現れ、その脇を打つ、幸が剣をするりと下げ、その腹で杖を流した。そのまま、平面に回転させ、男の首を引き斬る。男は杖をかつぎ、半歩前に剣を避ける。
振り向き様に中段へ突き込んだ。
二人の動きはあまりにも美しく恐ろしいものだった。
幸は迷いなく男を殺そうとしていた、しかし、男は幸に杖の動きを教え込もうというかのように見える。

百鬼夜行の魑魅魍魎たちが消えて行く。
二人の動きに気圧され、恐怖が、操っているであろう術者の影響力を遥かに越え始めたからだ。

一瞬、間合いが広がった。男の使う杖の間合いは短く、剣の間合いは遠い。男はそれを意識して、間合いを詰めていたのだが、幸に絶対的な速さにて引き離されたのだった。

どうする、右腕一本、諦めるか・・・

振り下ろす幸の剣が、男の右手を斬り落とした。
その瞬間、幸に隙が生まれた。
男は間合いを詰めると、左手で幸の頭をこつんと小突く。
「え・・・」
幸の動きが止まった、剣を地面に落とす。
男は幸の頭をくしゃくしゃとなでた。
「幸、優しい娘に戻りなさい。こちらに帰ってきなさいな」
「え、お父さん・・・。お父さん、うわぁぁっ」
幸は男の右腕が斬り落とされ、血が吹き出しているのを見た。
「ん、大丈夫だ。意識で右腕への血管を収縮させるから」
幸は自分の服を引きちぎり、肩先を縛り付ける。
「お父さん、お父さん」
悲鳴のように男を呼ぶ。男は左手で、幸をしっかり抱き締めた。
「幸、日常と狂気の境目がわかったか」
幸が男の胸の中でこくこくと頷く。
「越えないようにな。常に日常にいること、いいね」
「わ、わかった・・・」
「幸はとってもいい娘だ」
男は手を離し、座り込む。
幸は呆然と突っ立ち男を見下ろしていた。
「幸」
「はい・・・」
「父さんもな、親父の腕を斬り落とした。力を持つとどうしようもない衝動が湧いてくる、衝動の後、それがどれだけの影響を与えてしまうかわからなくなる。だから、これでいいんだよ、そうじゃないと、本家みたいになってしまうぞ」
男は少し笑う。
「お父さん、嫌だよ、こんなの嫌だよ」
ぼろぼろと幸が泣きじゃくる。
「本当にね」
男は少し頷く。
「でも、幸と関わりを持って、一緒に暮らすのは、父さん、とっても楽しいんだ。幸は嫌かな」
「お父さん、幸が嫌だって言ったら、そうか、しょうがないなぁって言うでしょう」
にっと男が笑った。
「幸に約束するよ。言わないようにする、だって、父さん、幸と一緒が一番良いからな」
一瞬、黒い影が走った。あわてて幸が振り返る、男の切り離された腕を抱えた黒服が逃げ去って行く。
「追うな、幸」
「だって、あれは」
「あの片腕は、これからも幸と楽しく暮らせるようにと、その対価にした腕だ。だから、あの腕はもう父さんの腕じゃない」
男は小さく溜息をついた。
「せっかく、まっとうに生きられるようにしてやったのに」

空気が揺れた、神崎が空気の扉をかき分けるようにして現れた。
「やぁ、神崎さん。魍魎を操っていたのはあんたか、だろうな。鬼紙家息子の依頼か」
「先生に嘘を言うとこっちが危ない。おっしゃるとおりだ」
幸がぎろっと神崎を睨みつけた。
「おおっと、睨まないでくれ。竦み上がってしまう。当世の義理があってさ、断れないんだよ」
脅えながらも、にやけた笑いを浮かべる。
「ところで先生、あの腕はどうする」
「私がどうこうするって代物じゃない、私の腕じゃなくなったんだからね」
「そうか。めったにない宝物だ、ありがたくいただくよ」
「奴から奪うのか」
「あぁ、名無しの右腕だ。こんな研究材料はまたとない」
「私の知ったことではないけれど、奴と話す機会があるなら伝えてくれ」
「なんと伝えればいい」
「残念だったと」
「承知」
空気の中に溶け込むようにして、神崎の姿が消えた。

男はゆっくりと立ち上がった。
「お父さん」
「ん」
幸は男に添うと額を男の胸に重ねた。
「幸はごめんなさいとは言いません。ずっと、この気持ちを、気持ちを・・・」
幸は男にしがみつくと、大声で泣き出した。
「お父さん、ごめん、ごめんなさい。もう、悪いことしないよ、優しい良い子でいるよぉ。ごめんなさい」
男はゆっくりと左手で幸の頭をなでる。
「父さんは今の幸も大好きだし、とってもかっこいい幸も好きだ。台所できょろきょろとお菓子つまみ食いしている幸も好きだし、あかねちゃんのお姉さんに なっている幸も好きだし、にかっと満辺に笑顔を浮かべている幸も大好きだ。本当に幸と一緒にいて楽しい。これからもよろしく」
幸は息切れするように、ぜいぜいと息を弾ませいたが、ぐっと息を飲んで見上げる。
「お父さん、これからもよろしくお願いします」

あかねとその父親を居間に残し、あたふたと幸は男を風呂場へと連れて行く。
幸は男の上半身を脱がせるとシャワーで右肩を洗った。
肩と肘、ちょうど中間辺りに鋭い断面を見せていた。
「いいよ、あとは父さんがやるから」
「だめだよ、これは幸の仕事だ」
幸が斬り口に両手を添える。ほの白く、幸の掌が光を放つ、これは月の明かりだ。
そっと幸が手を放す、皮膚が広がり、傷口を包み込んでいた。

「お父さん、これからは幸がいつも横にいるよ。ご飯も幸が食べさせてあげるし、御風呂やお手洗いだって、幸が手伝うよ」
「いや、お願いだから勘弁してくれ、恥ずかしい」
「でも」
男は幸の真面目な表情に困り切ったように笑みを浮かべた。
「父さん、両利きだし、本当に必要と思ったら、義手をつくるよ、日常生活に不便のないくらいのをさ」
「お父さん」
「ん」
「本当にごめんなさい、幸はお父さんの仕事もだめにしちゃったし、片腕にもしてしまった」
「でもさ」
男はそっと笑みを浮かべた。
「幸が父さんの前に、こうしていてくれる。それはなにものにも代え難い父さんの幸せなのさ」
「お父さん・・・」
「幸が幸せになるようにって、名前を付けたけど、なんだか、父さんの方が幸せになったみたいだな」
男はそっと、左手で幸の頬に触れた。
「もっと、幸が幸せになりますように。幸が楽しい日々を送ることができますように」
男はふっと顔を寄せ、口づけしかけたが、思い止どまると、そっと笑った。
「なんか、父さん、上半身裸だと変になってしまう、セクハラだな。服、着てくるよ。幸も服破いてしまって、着替えて来なさいな。これから出掛けるからね」
男が立ち上がりかける、幸が男の左手を掴んだ。
「ん、どうした」
「責任取って」
幸が俯き呟いた。
「え」
幸は男を見上げると睨むようにして見つめた。
「幸はお父さんが好きです、一人の男性として愛しています。この気持ち、責任取ってください」
男は困ったように笑みを浮かべたが、少し、吐息を漏らすと、手首を返し、幸の指先をほどく。そっと、幸の頬に手を添えた。
少しぎこちない口づけを初めて男からする。
「ごめんね、いま、恥ずかしがり屋の父さんができるのは、これで精一杯なのです。ちょっとは責任、とれましたか」
「父さんからキスしてくれたのは初めて、初めてだ」
にひひっとほがらかに幸が笑った。
「泣いてた女の子がもう笑った」
「ありがと、お父さん」

二人は血のついた服を着替え、居間に戻った。
あかねが男の姿に何か言いたげだったが、口をつぐむ。
男は座ると、あかねの父に話しかけた。
「どうです、体の調子や気分は」
父親は落ち着いた笑顔を浮かべた。
「随分良くなりました、貴方のおかげです」
「それは良かった、これから当分、貴方とあかねちゃん、奥さんの三人、鬼紙家で暮らすことになるでしょう。鬼紙家のことはご存じでしょうね」
あかねの父親が頷く。
「駆け落ちをするまでは、私は議員の秘書をしておりました。鬼紙老と議員の連絡を取り持っておりました。ですから、表のことも裏のこともいくらかなりと存じております」
「なるほど。知っていて駆け落ちをするとは、豪気な人だ」
男は笑うと、立ち上がる。
「私と娘もご一緒致します。役に立つと思いますよ」


四人が鬼紙家近くの鄙びた駅に着いた頃には、辺りは薄暗くなっていた。
「駅の回りは森ばかり」
濃いサングラスをした幸が呆れたように呟いた。
「鬼紙家専用の駅みたいなものだな」
「森を通って半時間ほど歩くと大きな門がある。もっとも、この駅舎だって鬼紙家の敷地内だけどね」
「それって、大金持ちってこと」
「お金と土地と裏の権力を持っている」
「よくご存じですね」
あかねの父親の言葉に男は微かに笑みを浮かべた。
「随分、昔、親父が鬼紙家からの依頼を受け仕事をしました、私は見習いとして親父に従っていたのですよ」
「あかねちゃん」
幸が急にあかねに話しかけた。
「お金に目がくらんじゃだめだよ」
あかねがくすぐったそうに笑う。
「大丈夫です」
男が笑った。
「幸は大金持ちになったらどうする」
「うーん、お取り寄せとかの、カロリーが高くって、美味しいのを吐くくらい食べる。それくらいかなぁ、思いつくのは。そうだ、お父さんに車を買ってあげよう」
「車はいらないよ、電車やバスで充分」
「なら、電車とバスを買ってあげるよ」
「父さん、電車なんて運転出来ないぞ」
「なら、運転手を雇って」
「それなら、始めから乗車券買って乗るのと変わりないよ」
「それもそうだ。つまりは今で充分、お父さんも欲が無いなぁ」
「過ぎた欲は身を滅ぼす。父さんは幸と一緒に暮らしたいという欲がある、これでもう充分だ」
「もぉ、そういうことなら、平気で言えるくせに」
幸が照れたように小さく呟いた。

幸を先頭に歩く。舗装はされていないが、バスでも充分行き交うことの出来るような幅広い道だ。
男が、あかねと父親を挟むように、最後尾を歩く。
それでも、夕刻、両端をうっそうとした木々が生い茂るため、少し薄暗く、不思議と道幅が狭く感じられる。
「どうも、変なのですが」
あかねの父親が言う。
「どうしました」
男が答えた。
「先程から、どうも、見られているような、そんな気がしてならないのです」
あかねの父親の問いにどう答えるかなと男は考えた。
実のところ、両端の木立には偵察だろうか、何人もの人間が息を潜め、四人を監視している。
さて、これが鬼紙老の差し向けた者か、それとも、息子、現当主敬一郎の放った者かによって、対応は変わるのだが。
実際に、尋ねればいいかと、男は左の茂みに身を寄せると、左手を鋭く茂みに差し込んだ。男の腕がすっと下に落ちる、影が弾かれたように、一転し、男の前に落ちた。
狐の顔をした人間が仰向けに倒れ気絶していた。
「ん、これは息子の側だな」
幸は男に駆け寄ると、狐の顔をじっと見つめる。
「お父さん、以前と同じだ」
「狐人間・・・」
あかねの父親が唸った。
「なんなんですか、これは。これ、人ですよね」
幸はしゃがむと、狐の顔を掴む。
「幸、取れるかな」
「簡単だよ」
幸は少しひねりながら、狐の顔を剥ぎ取る、下から普通の女の顔が現れた。
「狐を模した精巧な面です、付けられた人間が自分の顔と間違うくらいですよ、前面に触覚センサーが取り付けられていて、それが脳に信号を送る。当人は自分の顔だと錯覚します」
男はあかねの父親に説明すると、女の頬を軽くたたく、女が気づいた。
「み、見るなぁ」
女が両手で顔を隠し背を丸める。
「どっちをです。狐の顔、それとも、あなた本来の顔ですか」
「え・・・」
女は惚けたように手を下ろした。
「あたしの顔」
「狐の面はこっち」
幸はそう言うと、女に面を見せる。
「お面だったの・・・」
男が女の目をじっと見つめる。
「まだ、人を殺してはいないようだね、それなら」
男は笑みを浮かべると、女に話しかけた。
「いま、君には二つの道がある。このままの生活を送るか、それとも、ごく普通の生活を送るか。君はまだ二十代半ば、やり直したいというなら、ここから救い出して上げよう、どうする」
女はぼぉっと男を見つめていたが、いきなり、足をそろえ正座すると、男に頭を下げた。
「お願いします、普通の生活がしたいんです」
「良い選択だと思いますよ、立ちなさい」
弾けるように、女が立ち上がった。
「君、鬼紙老は何処にいます」
「地下牢です、昨日から」
「ありがとう」
男がそっと笑った。

幸はにっと笑うと、狐面を引きちぎり、投げ捨てる。そして、自分の髪を一本、抜くと、女の手首に巻いた。
「坂村惠子、二十三歳。大学卒業後、鬼紙家の所有する持ち株管理会社に入社」
幸が濃いサングラス越しに女の目を見ながら呟いた。
「どうしてそれを」
「秘密だ。でも、惠子さん、少なくとも、ここを離れる一時間程の間、私達を完全に信じ切ってくれ。信じてくれさえすれば、元の世界に返してやる」
「は、はいっ」
幸の凜とした表情に圧倒され、女は声を上ずらせて返事した。
「あたしの名前は幸」
幸はサングラスを下に少しずらすと、鋭く坂村の眼を見つめた。そして、ほっと力を抜いたように笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ、よろしくな」
幸はサングラスを戻すと、歩きだす。

幸を先頭に五人は玄関のたたきに立っていた。
五人の周辺には二十数人の狐面が、あるものは仰向けに、またあるものは弾き飛ばされ、玄関の扉に突き刺さっていた。
ほんの一秒にも満たない一瞬に、攻撃しようとした狐面達を幸は打ち倒していた。
男以外には幸が動いたことすら見えなかっただろう。目の前に立つ、あかねの叔父、啓一郎ですら。
「あんた・・・、名前は」
幸が啓一郎にぶっきらぼうに尋ねた。
「私は・・・」
普段なら怒鳴りつけていただろう、しかし、目の前に立つ幸の気配に、畏怖を感じ、言葉を続けることができなかった。

男は器用に倒れている狐面達を踏まぬよう、幸の隣りへと出た。
そして、啓一郎の背広のボタンを一つ取ると後ろへ放り投げる。
「隠しカメラとそれから」
男は気楽に呟くと、左手で啓一郎の左のこめかみを軽く打つ。小さく、軋む音がした。
「本部から指示を得るための骨伝導イヤホンはこれで使いものにならない」
「お父さん、こいつ、本物じゃないの」
「東京の本部にいる啓一郎の影武者の一人だ、奴は危ないところに行くのが好きではない人なんだろう」
幸が啓一郎の影武者をじっとりと睨みつける。
「案内しな、地下牢へ」
「な、なんのことだか、わからないな」
上ずった声で答える。
幸はにいぃと口元を歪め、笑みを浮かべた。
「このまま、首の骨を折られて死ぬか、それとも、地下牢へ案内してから死ぬか、二つに一つだ。でも、地下牢を選べば、あたしの気分が途中で変わって、あんたは死なずに済む可能性もなくはない。いま、どちらを選ぶか、決めな」
啓一郎の影武者は膝を震わせ、尻餅をつく。口元が恐怖で震えていた。
「選べないなら、あたしの楽しい方、選んでやるぜ」

男は溜息をつくと、こつんと幸の頭を小突く。
「お父さん、痛いよぉ」
「幸、ほどほどにね」
「ごめんなさい」
男は笑みを浮かべて、幸の頭を撫でると、靴を脱ぎ、玄関を上がる。
「案内も何も、場所わかっているんだから行くよ」
「はぁい」
幸も靴を脱ぐと玄関を上がった、そして、振り返る。
「あかねちゃん、行くよ」
「は、はいっ」
あかねは坂村の背中を押し、言った。
「良かったですね、先におじさんに出会っていて」
「私もこうなっていたの・・・」
坂村が倒れている同僚を見渡す。
「はい。ただ、これでも、斬られて、体二つになっていないだけましです」
難無く隠し扉を開けた男の後ろを四人が追う、階下を降りると、時代劇で見るような太い木の格子で固められた牢屋が続く。
「あまり好きな匂いじゃない」
幸が小さく呟いた。
かすかな異臭は人のものではなく、また、獣の匂いでもない。
「鬼紙家は、その名のごとく鬼を研究していた。より、うまく使役するためにね。昔、父さんと親父がここに来た、それは支配を断ち切った鬼を制することだった。それ以降、ここには鬼はいなくなったんだ」
かすかに女のすすり泣く声が聞こえた。
「お母さん」
あかねが叫んだ。
あかねが走りだす、幸があわててそれを追った。

地下牢には鬼紙老と従者十人が正座をし、眼を瞑っていた。一人、あかねの母親が脚を崩し泣いていたのだった。

「おお、あかねか。ならば、あの男もいるのだな」
鬼紙老が静かに呟く。
幸はふぃっと格子を擦り抜け、十二人の体に触れる。幸の手には小さな機械が載っていた。ふっと息を吹きかけると、跡形もなく消えた、その瞬間、遠くに爆発音がこだました。
「動けば爆発。自分の親や妹にこういうことをするのか」
幸が小さく呟いた。
「狂っているんだろうね」
男は旧式の錠を左手でなんなく壊し、扉を開けた。
「牢屋に入る趣味はありません。どうぞ、出てくださいな」
深く息を吐き出すと、鬼紙老は目を開け、男に頭を下げた。
「助けてもらったな」
「どういたしまして」
あかねの父親が鬼紙老に肩を貸し外へ連れ出す。あかねと幸が、泣き崩れるあかねの母親をなだめ、外へ連れ出した。従者も十人、這うように出ると、ほっと息をつき、脚を延ばす。
やがて、脚の痺れも取れ、階上へと階段を上る。全員を先に上がらせ、男は地下への隠し扉を元に戻した。
ふと、男が玄関に向かって声をかけた。
「神崎さん、わざわざどうされました」
誰もいない玄関口、しかし、ふわっと杖を片手に一人の紳士が現れた。次の瞬間、幸が刀の先を神崎の喉元に向ける。
「お父さんの右手はどうした」
「先生の右腕は手に入れた、ただ今、分析中さ」
「この野郎・・・。ここで、いま、あんたをまっふたつに斬ってから、お父さんの腕、取りに行く」
「先生、なんとか言ってくれ」
想像以上の幸の怒りに神崎はまともに脅えた。表情に余裕が消えている。
「取りに行くことはありませんが、それは別として。随分と、神崎さん、お腹が豊かになられたようですし、ちょっと、幸に斬ってもらったらいかがです、お腹の辺り、上からすとんと」
「お願いだから冗談は止してくれ。先生の一言に私の命がかかっているんだ」
男は少し笑うと、幸に刀を収めさせた。
幸は戻ると、男の背中にぎゅっとしがみついた。
「ごめんなさい、お父さん」
「いいよ、ありがとう」

鬼紙老が気づき、部屋から玄関口に戻って来た。
「神崎君か、どうした」
「お久しぶりです、鬼紙老。残念ですが、悪いご報告を致さねばなりません」
「息子のことか」
「はい、啓一郎様が鬼と融合し、こちらへと向かわれております、あと、半時ほどで来襲なさるであろうと思われます」
「そうか・・・、あれには荷が重すぎたか」
力無く倒れそうになるのを、男が左手で支える。
そして、ゆっくりと鬼紙老を床に座らせた。あかねの父親がそれに気づき、あわてて、座椅子に鬼紙老を座らせた。
男は幸を連れ、部屋へと戻った。

「お父さん、どういうことなの」
「ん、さっきの話か」
「人が鬼を支配しようとして、逆に支配された、その結果、人の知識と思考能力を得た鬼がここへ攻めてくるという話だ。神崎さんの見せ場が始まるのさ」
男は興味無さそうに言うと部屋を見渡した。時代劇のお城にあるような大広間の一角、あかねが母親に寄り添っていた。
そして、坂村が一人ぽつんと所在無げに座り込んでいた。
男が坂村の前に正座する、幸がその横に座った。
「も、申し訳ありません。私、何をどうしたらいいか、整理がつかなくて」
「いえ、いいんですよ、こんな特殊な状況に対応できる方が不思議なんですから。さて一通り用事は済みました。このまま、貴方を連れて帰るつもりだったのですが、少し待ってもらえますか、一時間程」
「お父さん、鬼と闘うの」
「その必要はないだろう、なんて言ったって、折角の神崎さんの見せ場だ、今後のスポンサー拡充のためにも、彼にとってはちょうど良い機会。関わる気はないし、あんまり、目立つと幸と静かに暮らせなくなってしまう。それは大問題だからな」
男が笑みを浮かべた。
「お父さんったら、もぉ」
幸が照れたように俯く。
男は自然と幸の頭を撫でると、立ち上がった。
「他の人達の様子を見てくるよ、幸はここで三人を見ていなさい」
「お父さん」
「ん、どうしました」
「一人で危ないことしちゃ嫌だよ、だって、幸はお父さんの右腕なんだもの」
「大丈夫だよ、幸は心配屋さんだ」
男が部屋を出ると、幸はほぉっと呟いた。
「お父さん、可愛いなぁ・・・」
「優しい人ですね」
ふっと坂村が一人呟いた。
「嬉しいなぁ、わかるかい」
幸が坂村に話しかけた。
「は、はい」
「ほんとにさ、とっても良いお父さんなんだ、こんな、あたしなんかが、お父さんって呼ばせてもらえる・・・、あぁ、だめだ、泣いてしまいそうになる」
幸は俯くと、涙を一つ零した。
いつのまにか、あかねが幸のそばに来ていた。
「お姉ちゃん、おじさんの右腕は」
「あたしが斬った」
幸はゆっくり顔を上げる、凍りついた表情だ。
「お父さんはどんな奴が襲って来ても大丈夫なように、武術と呪術をあたしに教えてくれた」
「あたしは教えてもらったその術で本当にお父さんを殺そうとした、まっふたつに斬るつもりだった」
「そんなあたしに、優しい幸に戻れって頭撫でてくれるんだ。全然怒らずに、痛そうな顔一つせずに」
幸は俯き、歯を食いしばった。
あかねは両手をそっと幸の手に重ね囁いた。
「お姉ちゃん、幸お姉ちゃん、幸ちゃん。あたしじゃない、幸だよ」
幸は深く息を吐き出すと、ようやっと力を抜く。
「ありがと・・・」

男は調理場にて分けてもらった楊枝をいくつか手にし、屋敷を歩く。至る所に階段があるのは、山一つが屋敷になっているからだろう。まるで迷路にも思える。
男は時々立ち止まり、楊枝を角に刺していく、刺された楊枝はふっとその姿を消してしまう。
「先生、面白いことをやっているじゃないか」
いつの間にだろう、神崎が男の横を歩いていた。
「弱った結界に芯を刺して修繕しているのですよ」
「いいのかい、他所の者に己の技を見せても」
男は気にする風もなく歩く。
「いいんじゃないですか。一目見て悟られるような技ならたいして隠す値打ちもない。逆に仕組みが悟られないのなら、隠れてやろうが目の前でやろうが変わらないでしょう。それより、準備はできているのですか」
「あぁ、賑やかに花火を打ち上げるつもりだ」
「神崎さんも元気だ、引退されるおつもりはないんですか」
「死ぬまで現役さ」
「なるほど、下の者は随分と迷惑がっているでしょうに」
男は立ち止まると、くすぐったそうに笑った。
「先生こそ、闇の仕事はもうしないのかい」
「しませんよ、だって、娘に、お父さん怖い、なんて思われたら大変です」
「先生の価値観はすべて、娘を中心にしているということか。まさしく、傾城の美女ですな」
「えぇ、自分が大物政治家や大会社の社長でなくて良かったと思います」
男は答えると、最後の楊枝を角に刺した。
「これで、障壁は随分しっかりしました。さて、私は部屋に戻ります」
「先生、最後にひとつ、聞きたいことがある」
「なんですか」
「いつまでままごとをしているつもりだ」
語気を強めて神崎が言った。
男は寂しそうに言った。
「私を殺したいと思う者は多い、それは当然の報いとして受け入れる、私はいつか殺されるでしょう。ただ、死んでも、私はあの子の父親であり、父親でありたいのですよ」
瞬間、神崎が隠していた銃を男に向けて撃つ。男は何もかもわかっていたようにその弾道を避けていた。
「先生、あんた、あの女の剣を避けることができたのじゃないかい」
「あの子はまだ心が弱い、私は父親です。しっかり、心も育ててやらねばなりません、私がいなくなっても元気で生きて行けるようにね、そのためには、右腕一本、惜しくはない」

男が部屋に戻ると鬼紙老を前に、あかねの両親がかしこまって正座していた。あかねは坂村と幸の間に座り、ぎゅっと幸の手を握っていた。
男は静かに鬼紙老の隣りに座る。
「鬼紙老、随分と難しい顔されていますね。御子息のことについては、心からお察し致します」
「君には随分世話になった」
「いいえ、御老のお役に、少しでも立てれば望外の喜びです。では、最初の取り決めのように、落ち着くまで、家族三人、ここで生活するということでかまわないですね」
「そうするつもりだ。お前達、いいな」
少し脅えたようにあかねの父親が頷く。
「御老、つかぬことをお伺いしますが、跡目はどうされます」
「外に三人の息子がいる、どれかに継がせるつもりだ」
ふと、驚いたように鬼紙老は男を見た。
「君ほど危険な奴はいないな、まるっきり、警戒心が生まれん。いらぬお喋りをしてしまった」
男は静かに笑みを浮かべると、微かに頭を下げた。
あかねちゃん・・・、ふっと男が心の中で呟いた、不意にあかねが寄ってくると鬼紙老の前に座ったのだった。
「おじいさま、いっぱい、いっぱい、ごめんなさい」
必死になって涙をこらえている思い詰めた表情。これは・・・、微かに違和感を感じる、男はそっと幸に向き直ると、にっと笑みを浮かべる幸。
なるほど、演技指導済みということか。
戸惑うように鬼紙老の手が空を掴む。
あかねはしっかりと鬼紙老の手を両手で握ると、ぎゅっと力を加え、そのまま額を拳に重ねた。
「お父さんとお母さん、駆け落ちしたことを許してあげてください」
あざといが、覿面の効果があった。鬼紙老の、まさに鬼の目に涙だ。
「おじいさんと呼んでくれるのか」
あかねは顔を上げると、じっと鬼紙老の目を見つめた、そして柔らかく笑みを浮かべる。
「運動会にも来てくれたよね、学芸会も。ありがとう、おじいちゃん」
鬼紙老が嗚咽し、涙を流す姿、珍しいものを見たと男は思う、それにしても、そうか、あかねちゃんは鬼紙老の記憶の中に運動会や学芸会の記憶を見つけて、そう言ったのか。
男が振り返り、幸を見る。少し睨んでみる、幸はにっと笑みを浮かべると、ばつが悪そうに少し舌を出した。
丸く収まればそれでいいかと、男は立ち上がる、瞬間。
「幸、坂村さん連れてこちらに来なさい」
幸は坂村を抱えると、一瞬にして男の元に現れた。
「神崎、やはり芯を抜いたな」
男が呟く。
外から聞こえ出した爆発音、雷の音、一瞬、閃光に部屋が青く染まる。
男は左手を肩の高さに上げ、人差し指を横に走らせる。空間が切れる、水だ、溢れるような滝の流れが現れ、足元に届く寸前に消える、まるで、滝の流れを一部切り取ったようだ。どうしてだか、これだけの水量なのに音が聞こえない。
男が前方に鋭く左手を延ばす、一瞬にして、滝は透明な壁になり、部屋を二つに分断した。
「お父さん、来たよ」
幸が小さく呟いた。
轟音と共に水壁の向こうだけが地震のように崩れ、夜空を穿つ、屋根が吹っ飛び、独りの男が、闇の空からゆらりと落ちて来た。
「見せ場を作る気か、迷惑な」
男が呟く。

「社長」
顔を上げた男の顔を見て、坂村が叫んだ。
鬼と化した啓一郎だった。
啓一郎は坂村の言葉を無視し、鬼紙老を見つめる。
「親父、俺の異母兄弟は何処だ」
「なんのことだか、わからんな。しかし、情けない、鬼紙家の当主が鬼に征服されてしまうとは」
啓一郎はにたりと笑うと、鬼紙老に一歩近づく、慌てて、あかねが鬼紙老の前に、両手を広げ立ち塞がった。
「ほぉう、あかねか。しっかりしたもんだ。しかし、どうも、お前はかんに触る、どいてろ」
「どかない、おじいちゃんを守る」
啓一郎は大声で笑い出した。
「愉快だなぁ、お前が守ってくれるのか、親父をさ。異母兄弟も煩わしいが三人のうち二人は殺して来た。後一人、殺せば、俺の地位は安泰なんだが、どうも、あかねが憎たらしい。今のうちにこいつも殺しておくかな」
啓一郎が牙のある口を大きく開ける、いや、開けるどころか、顎の関節が外れ、下顎が真下に落ちた、炎だ、青い炎が啓一郎の口から大きく吹き出した。
ぎゅっとあかねが目をつぶる。
「あかね、逃げろ」
思わず、鬼紙老が叫んだ。
水の透明な壁が容易く炎を遮る。
「感動の場面、申し訳ないけど、私の水の結界はそんなやわじゃないんだよ」
男は少し寂しそうに笑みを浮かべた。
「随分、小物の鬼に体を取られてしまったんだね、啓一郎君。今更、言ってもしょうがないけれど、向いてなかったんだな」
男が闇夜を見上げた。
光が落ちて来た。
啓一郎の腕に鎖が絡まり、引きちぎれるほど、両端に引っ張られた。
神崎の部下が二人、両端で鎖を強く曳いていたのだった。
神崎が闇の中からするりと現れた。
「鬼紙老、申し訳ありません。鬼は千体を超え、一匹、こちらに取り逃してしまいました。鬼紙老とお孫様を危険に晒してしまったこと慚愧に耐えません」
「いや、神崎君、よくやってくれた。君に任せれば安心だな」
鬼紙老が答えた。
「ありがたいお言葉にございます、今より、本社に残った鬼共を一掃して参ります」
「うむ、頼むぞ」
「はっ」
慇懃に神崎が頭を下げる。

「おい、神崎」
幸が大声で喚いた。
「おや、先生のお嬢さん」
「あたしはお父さんをないがしろにされるのを許さない。お前、これからは安心して寝れねぇぞ。いつ、あたしがお前の首、落としに行くかわからねえからな。毎日、首、洗っとけ」
睨みつける幸に神崎はその恐ろしさを思い出し脅えたが、顔には出さず愛想笑いを浮かべた。
「同じ人間同士、話し合えばわかる、今度、先生と一緒に話し合おう、な、なっ」
すっと神崎が消える。部下と啓一郎も消えてしまった。

「なんというじゃじゃ馬娘だ、あかねがこんな女といたとは」
鬼紙老がため息をつき、呟いた。
幸が鬼紙老を睨みつける。
「じゃじゃ馬娘結構、じいさん、あかねちゃんはしっかり教育してやるよ。そのうち、じいさんに、なぁ、じじいよぉ、小遣いくれよ、今月ピンチなんだよぉって言えるようにさ」
「な、なっ」
鬼紙老が顔を真っ赤にした。
「あ、あの、大丈夫ですから。言いませんから」
あかねが困り切ったように鬼紙老に呟いた。
「じいさん、今度の土曜日、遊びに来るからな、御馳走用意して待ってろよ」
「ばっ、馬鹿もーん」
鬼紙老が大声で叫んだ。
幸は振り返ることもなく、すたすたと部屋を出て行った。
男は愉快そうに笑みを浮かべ、少し会釈をすると、坂村を促し、部屋を出た。

屋敷を出、駅へと歩く。
不意に幸は立ち止まり、男の裾を握って呟いた。
「お父さん、ごめんなさい」
「え、いいよ、面白かった。本当に幸はえらそうにしている人が嫌いだな」
「えらそうにしている奴と金持ちは嫌い」
「なるほど、両方を満たしているもんな」
男はくすぐったそうに笑った。
幸が坂村の顔を見る。
「あ、あの、私はお金持ちではないので」
坂村が慌てたように言った。
幸は笑みを浮かべると、顔を横に振った。
「これから、電車に乗って帰るには、その格好はちょっと厳しいなと思っただけ」
「あ・・・」
坂村が呟いた、首から下は黒の全身タイツだ。機動性は良いが、町中で着るものではない。
「幸、坂村さんと先に帰っていなさい。女性同士の方がいいだろう」
「それじゃ、お父さん。晩ごはんのおかずをお願いします」
「駅前のスーパーで買って帰るよ」
幸はポケットから財布を取り出すと二千円、男に渡した。
「今晩はお客様がいるから奮発。お父さん、鍋にするよ、お魚とお豆腐と野菜と卵は冷蔵庫にあるからね」
男はふと笑みを浮かべると幸の頭をなでる。
「えへへ、どうしたの。お父さん」
「なんだか、とっても、幸せな気分になった、ありがとう」
「どういたしまして」
幸は左手で坂村の右手をしっかりと握った。
ふっと二人の姿が消えた。
男は駅へと歩く。この時間だ、列車は空いているだろう、途中まではのんびりするかな。

幸と坂村は家の前にいた。
「ここは・・・」
「幸んち、家に着いた」
「さ、さっきまで、駅へ戻る途中で」
「幸にはあまり距離は関係ない、歩いたり、列車に乗るのは、人としての意識を失わないため」
ふぁさっと幸の右手に大きなシーツが現れた。
「家には幾重にも結界が張ってある。そのボディスーツは呪で筋力を増加する仕組みだ、それをぬがなきゃ家に入れない」
「ここでですか・・・」
「大丈夫、人通りはない、さぁ、なんなら、手伝おうか」
「え、あ、あの」
幸はにっと笑うと坂村のお腹に右の手のひらを添えた。
火花を散らしながら、一瞬でボディスーツが燃え尽きた。幸は持っていたシーツを坂村に被せると、家の中へと連れて入った。
幸は坂村の手を握ったまま、明かりを付ける、落ち着いたように息を漏らすと、坂村を掘り炬燵に座らせる。
「いま、お風呂の用意をするよ。下着は使ってないのがあるからそれを使ってくれ。服は幸のちょっとゆったりしたのを選ぶよ。仕方ないことだけど、坂村さん、腰回りも筋肉付き過ぎだからな」
平気な顔をして、幸は言うと、てきぱきとお風呂に水を入れ沸かす。途中、お米を研ぎ土鍋に入れ、水を張った。手慣れたふうに家事を続けた。
「十五分くらいで炊けるからお父さん、帰ってきてから火にかけよう」
呟き、湯船を覗く。もう少しだ、タンスから、袋に入ったままの新しい下着と、これでいいかなと、ベトナムの民族衣装、あおざいとセットになったパンツを取り出した。
「坂村さん、これで我慢して」
「あ、ありがとうございます」
坂村は受け取ると、ほっと吐息を漏らした。シーツだけでは頼りなかったろう。
「とにかく、しっかり、体を洗ってくれ。体中の傷や打ち身を擦り落とすくらいにさ」
「はい・・・」
坂村が裸になった一瞬、幸はその体が傷だらけなどを認めていた。
「鞭でできたようなみみず腫れもあったな、辛い扱い受けていたのか」
「事務で就職したはずが、こんなことに」
「穴に落ちてしまったのは不運としかいいようがない。これからのことを考えな。これも縁だ、助けてやれる範囲で助けてやるよ」
ぶっきらぼうな言い方だが、少し寂しくも聞こえる、幸は自身の経験を少し坂村の現状に重ねていたのかもしれない。

男は途中、数人の男に列車から連れ出され、駅舎の奥の一室へと監禁されていた。
テーブルを挟んで、男の前には一人の美女がにこやかに笑みを浮かべ座っていた。二人の回りを屈強な男たちが十人、囲むようにして立ってさえいなければ、案外、快適な環境と言えるかもしれない。
男はゆっくりと背もたれに背中を預け、少し俯く。静かな表情だ。
「貴方の数値が解析不能と表示されたため、こちらにお連れ致しました」
女が丁寧な口調で男に言った。
「数値と申しますと」
男が尋ねる。
「人はそれぞれ多少なりとも霊的能力、また、超能力と呼べるものを持っています。私達は監視カメラにとらえた人達の数値を測定し、一定以上の方達をスカウトしているのです」
男はゆっくりと顔を上げると微かに笑みを浮かべた。
「なんだか、SFの映画やドラマのお話のようですね。ただ、どちらかと云えば、子供向けかな」
女は一瞬、睨んだがすぐに笑みを浮かべた。
「ぜひ、貴方をスカウトしたいのですがいかがでしょう。もし、少しでも関心をいただけるなら」
「関心ありません、全くありません。ですから、解放していただけませんか。早く帰らないと娘が心配するのですよ」
「これは国家的プロジェクトです、貴方が秀れた能力を持つ以上、国民としてプロジェクトに参加する義務と権利があるのです」
「話の前後、少し矛盾していらっしゃいますが、権利は放棄、義務は税金だけで勘弁していただけませんかね」
男は背を預けたまま、俯き目を瞑る。
「ここで、映画とかなら、秘密を知った以上、ただでは帰れなくなったりするわけですが」
男は目を瞑ったまま呟いたが、ゆっくりと顔を上げた。
「今の今、すぐに解放していただけませんか、恵さん」
女が目を見張った。
「心が読めるの」
「高村恵、ご住所と電話、携帯電話の番号も申しましょうか。それに、ご両親のお名前やご住所も。そして、ご両親の娘に対する悩み。娘は一人住まい、商社に 就職したはずなのに、どうも最近、変だ、なにやら、怪しげな連中が出入りしているらしいと心配されていますよ。ついでに言うと、三日前が久しぶりの休日、 洗濯物をまとめてコインランドリーに行ったのがお昼過ぎ、隣りで洗濯物をしている男に少女のような気持ちでひかれる、なんだか、恥ずかしくて声がかけられ ない、そのまま、何事もなく別れたけれど、また、会えるかなと思っている、今度は思い切ってお茶に誘おう、でもでもと逡巡中」
「や、やめろ」
女が叫んだ。
「彼の名前は吉村慶樹。二十六歳、半年前に彼女と別れフリーです。ただ、ちょっと気になる女性がいる。それは三日前のコインランドリーでのこと、山のよう に洗濯物を抱えた女性がやってきた。随分と疲れている様子だ、手伝いましょうかと声をかけようとしたが、ここで何をどう手伝うというんだと考え直す、彼も また、声をかけたく思いながらも」
「た、頼むからやめてくれ」
男はくすぐったそうに笑った。
「ちょっと勇気を出せばいいんですよ」
女は唸るように言った。
「今すぐにでも帰ってもらいたいのが本心だ。でも、これだけの逸材を・・・」
「貴方の上司、中村にこう言いなさい、自らを無と名乗る男に遭遇したと」
男は立ち上がった。
「それでは」
端に立っていた屈強な男二人が立ち上がった男を羽交い締めにした。
「まだ、話は終わっていない」
「いいえ、話は終わりました」
一瞬、男が膝を曲げた、その瞬間、羽交い締めしていたはずの屈強な男が部屋の向こうへと弾け飛んだ。
男は何事もなかったようにドアを開け出て行った。

幸は坂村の下着と着替えを持ち、坂村を庭へと促す。風呂上がり、坂村の髪はまだ少し濡れていた。シーツを身に纏い、戸惑いながらも庭に出た。
「どうして」
虚空には満月、手前の畑の向こうには、限がないような梅林が続いていた。
「ここ町中ですよね、隣りの家もなにもない」
「そこに縁台があるだろう、シーツを敷いてうつ伏せに寝な」
「は、はい」
坂村が慌てて返事をすると、戸惑いながらも、シーツを縁台に敷き、そっと幸を振り返る。
「女同士、付いているものは同じだ、珍しくもないよ。さぁ、うつ伏せになりな」
言われるままに坂村は縁台の上、うつ伏せに寝転がった、不安に目を瞑る。
幸は縁台の前で、膝を地面につき、手のひらを月に向けた。幸の手のひらが白く輝いた。幸は手のひらを坂村に近づけ、頭から首筋、踵まで、月の光を当てて行く、たくさんの傷が消えて行き、柔らかな白い肌へと戻って行く。
「次は仰向けだ」
「は、はいっ」
坂村はぎゅっと目を瞑ったまま、仰向けに向き直る。
同じく、幸が月の光を照らしたところから、傷が消えて行った。
「目を開けな」
おそるおそる坂村が目を開ける。
幸は下着を坂村に渡した。坂村は起き上がると下着を、
「傷が無くなっている」
驚いて坂村が叫んだ。
「風邪ひくぞ、早く服を着なさい」
戸惑いながらも下着を着け、服を着た。
月光の下、二人、ベンチに座る。
「今晩は泊まってくれ、明日の朝、送って行く」
「ありがとうございます」
「ん、腹、減ったか」
「あ、いえ、あの・・・、ちょっと」
幸はくすぐったそうに声を出して笑った。
「お父さんは一仕事しなきゃだし、帰るのにまだかかりそうだ。なんか、軽いもの、おやつ代わりに作るよ」
幸はそう言うと立ち上がり家へと戻る、坂村はぼぉっと満月を眺める。
なんて、穏やかなんだ

男は坂村の家、その玄関口に立った。
母親と妹との三人暮らし。
窓からあかりが見える、二人は在宅中。男は空から、左手をやわらかく招くように動かす、その手には二つの、硝子の風鈴が現れた。男がふっと息を吹きかける、二つの風鈴は空中を滑るように流れて行き、ドアを擦り抜け消えてしまった。
「宣言しておくかな」
男は右手を出そうとしたが、その腕が無いことに気づく。
「気をつけないとな」
男は呟くと、左の人差し指で表札をなぞった。

関わるべからず 無

男は次に空中から硝子の球を取り出すと闇へと放り投げる。
屋根の上で硝子の球が音もなく弾けた、無数の硝子の粉がぶわっと広がり落ちて行く。
「間に合ったか」
男が小さく呟いた。
振り返る、七人の男たちが立っていた、軽い普段着だが、顔付きはプロの顔だった。
先頭の男が低く唸るように言った。
「誰だ、お前は」
彼がリーダーだろう、値踏みするように男を睨みつける。
「この家と住人を保護する者です。もしも、あなた方がなんらかの危害を加えることを目的でここにいらっしゃったのなら、排除します」
「排除してもらおうか、出来るなら」
先頭の男がにたりと笑う。
男は対して気にするふうもなく、気楽に言う。
「裏の世界を抜けようとすれば、どうなるか、その制裁ですね。ま、見せしめってやつですな。つまらん話だ」
男はゆっくりと極端な左半身をとる。
相手の男達がナイフを構えた。
「面倒臭いのでちゃっちゃっとかかってきてください」
何も言わず先頭の男が腰にナイフを構え、突っ込んできた。
男は寸前で、左に微かに避け、相手の首筋に手のひらを添える、瞬間、突っ込んだ男の脳天が地面に激突した。
「割れたかな、左は加減が難しい」
男が小さく呟く。
男は微かに笑みを浮かべたまま六人に向き直った。
「次は誰ですか、それとも全員でかかってきますか」
男達はお互いの顔を見合わせる、
「では、私から参りましょう」
男は微かに姿勢を落とす、そして歩きだす、全く左右にぶれる事なく、そして、微かに足裏が地面から浮かぶ。相手が満足に反応出来ないのは、男の動きに振れがなく、距離感が全くつかめなくなるからだ。
男は次々と打ち倒す。あっけないほど男たちが静かに倒れて行く。
「うわぁぁっ」
男の後ろで悲鳴が聞こえた。
振り返ると、男はにっと笑った。この笑い方は幸が時折、見せる笑いだ。
別動隊が家の反対側から侵入しようとしたのだ、硝子の無数の破片が渦巻き、侵入者達の体を引き裂いていた。

男は闇の中へ向かって声をかけた。
「出てきなさいな、今はまだ、君達に危害を加えるつもりはない」
男達が三人現れた。一人が術師、後の二人はボディガードだなと男は見抜く。
「この世界は早い者勝ち、それを引っ繰り返したいのなら力で返せ。それでよろしいですか」
男は愉快そうに言った。
「何者だ、お前は」
「縁あってこの家とその家族の保護者になりました」
「名はなんという」
「名前はありません、ただ、字は「無」」
術師が明らかに動揺した。
「あんたほどの者がどうしてここにいるんだ」
「私にとって、目に入れても痛くないほど可愛い娘の友人宅なのです、娘からどうして助けてくれなかったのなんて責められでもしたら家庭崩壊してしまう、父親は大変なのですよ」
男は引き込むように笑みを浮かべた。
そして呟く。
「どうします、やりますか・・・」
相手の術師は大袈裟なほど首を横に振る。
「帰るよ。あんたとやるなんて、命がいくつあっても足りない、依頼者もこの世界の人間だ、類が自分自身まで及ぶことくらいすぐにわかるさ」
術師はあっさりと背を向けると、姿を消した。
「賢明です」
しかし、術師を守っていたはずの男二人が残る。
「どうぞ、お帰りください」
男が軽く声をかける。
二人の男がゆっくりと近づいてきた。
「俺は、「無」という字を持ち、忌み嫌われるその男がどれほどの者か試してみたい」
「しょうがないガキだな、間違った選択をしてくれるとは」
男はくすぐったそうに笑う。
「しかし、せっかくだ、武術だけで相手させていただきましょう」
二人の男が変身した。狼男、まさしく、体が二倍は膨れ上がったろう、剛毛に身を覆われた狼の顔を持つ男が二人。
「なるほど、どこにそんな自信があるのかと思いましたが、とうに人間をやめていたということか、それは楽しいね」
いつの間にか男の左手には抜き身の小刀があった。
一気に間合いを詰める、つかみ掛かってきた狼男の腕を一瞬に斬り上げる。
間合いを開け、男が振り返ると、腕の切り口から肉が盛り上がり、見る間に腕が再生してしまった。
「狼男の特性は備えているようだ。早めに済ますかな」
男は普通に歩くように狼男へと歩いて行く。牽制するように二頭の狼男が唸りを上げた。
「発声器官が人のものとは随分変ってしまっているようだけど、君達は元の姿に戻ることが出来るのかな、いや、今から、息をしなくなるんだから、関係ないか。変身のためのエネルギーの核、それを潰してみよう」
一頭が背を落とし、四本足で飛んでくる、もう一頭は少し軌跡をそらし男に向かった。背を落とした方が両腕で男の膝をすくい上げ、男の脇を咬み千切ろうとし た、一瞬、男の動きが加速する。狼男の後頭部に拳を落とす、首の後ろが閃光を発し、その首が吹き飛ぶ。もう一頭が男の顔面へ右の回し蹴りを放った。
男はそれを左手の甲でなでるように流す、狼男が蹴り足を軸に一転し、地面に頭が激突した。
首が完全に九十度を超える。男が素早く、狼男の胸を差すように爪先で蹴る。閃光が走り、狼男が崩れた。
「雑な作りだな」
男は呟くと、もといた門柱に戻る。
・・・まだ、お客さんがあるかもしれない。もうしばらく、こうしているか・・・


「うまいか」
「は、はい。美味しいです、体も暖まります」
「そっか」
幸がにっと笑った。二人、炬燵に入り、坂村は幸が有り合わせで作ったじゃがいものお味噌汁を飲んでいた。
「なんか、なんだか・・・」
坂村が不意に泣きだした。
「良かった、生きてて良かったです」
幸は仕方なさそうに笑みを浮かべた。
「別に後に出てきたやつらも殺すまではしてないからな」
「あ、いえ、そういう意味では」
幸がくすぐったそうに笑った。
「これからは真っ当に生きて行けばいい、しなくてもいい経験をして、少し、時間を無駄にしたけどな。坂村さんはこれからどうするつもりだ」
「怖いです、人が怖い。出来るなら自分の部屋にずっと閉じこもっていたい」
お味噌汁を見つめながら、坂村が答えた。
幸は吐息を漏らすと、小さく呟いた。
「まっ、人のこと言えないけどな・・・」

「坂村さん、あんたにはかなりの退職金が、口止め料込みで入ってくる、ばあさんになるまで閉じこもっていられるよ。ただ、そういう生活はあまりお勧めじゃないし、かといって、また、変な会社に紛れ込んでしまったら大変だ」
幸は坂村の目をじっと見つめた。
「給料でないけど、週に一度、ここに来て働く気はないか」
「え・・・」
「庭でね、畑をつくっているんだ。いずれ、たんぼも作って、お米も作りたいなと思っている。坂村さんが次にしたいことを見つけるまでの間、手伝ってくれると嬉しい、給料は出せないけど、現物支給ならできるかなと思う」
坂村が目を輝かせた。炬燵から出ると、幸に向かって正座をする。
「やります、お願いします」
「そこまで反応されるとは思わなかったよ」
幸は少し当惑気に笑うと、ほんの少し小首をかしげる。
「ありがと、こちらこそ、よろしく」
ふと、幸は玄関口を見つめた。
「あ、お父さん、帰って来た。出迎えに行ってくる、これから鍋するからさ、思いっきり食ってくれ」

男は玄関の手前、門の前で考え込んでいた。幸が狂暴になったのは俺の血のせいだ、狼男を二人殺した、最初の奴らは殺すまではしていない、いや、硝子球の結界で一人殺した。殺すことになんの戸惑いもない。こんな俺は幸の父親失格ではないのか。
ばんと扉が開き、幸がとびだして来た。
「お父さん、お帰りなさい」
「あ、あぁ。ただいま」
「どうしたの、暗い表情だよ」
幸がそっと男の顔をのぞき込んだ。
「いや、大丈夫だよ」
男はそっと笑った。幸はいきなり、男に抱き着くと、ぎゅっと男を抱き締め、顔を上げる、じっと男の顔を見つめた。
「幸はなんでも出来るお父さんが好き。でも、どうしようって悩んでいるお父さんの方がもっと好き、だって、幸が助けてあげられるかもしれないもの」
「幸・・・」
幸がにっと笑う。
「だから今のお父さんはとっても好き」
幸は引き込むように笑みを浮かべると、囁いた。
「狼男は強かったですか」
男は仕方なく笑みを浮かべる。
「随分と弱かった、びっくりした」
ふふっ、と幸が小さく声を出して笑う。
「幸はお父さんの味方です。いついかなる時も、味方し、お父さんを肯定します。だから、力強く生きなさい」
「なんだか、結婚式の言葉みたいだ」
男が少し笑った。
「お父さん」
「ん・・・」
「とっても濃いキスしようか」
「父娘だからだめ」
男が久しぶりに少し声にして笑った。

坂村は緊張していた。幸に対しては、少し気持ちも柔らかくなったが、男にはいくばくかの恐怖を感じていた。炬燵から出て、正座して待つ。
幸が男の上着の裾、引っ張るようにして戻って来た。
「あれ、どうしたの。恵子さん、正座して」
先程と、話し方も声の高さも変っている幸に少し驚きながらも、
「改めてお礼とご挨拶を」
「いえ、そういうのは無しで」
男が笑顔で答えた。
「それは、あおざいですね、綺麗です、似合っていますよ。うっ・・・」
いきなり、幸が男の頬をつねった。
「お父さん、あかねちゃんは可愛いねと言っても許します、子供だから。でも、恵子さんはだめ、だって、幸、嫉妬してしまうもの」
男は頬さすりながら笑った。
「こんな、おっさんを好きだと思ってくれる変わり者は幸くらいだよ。さぁ、ご飯の用意をしよう、父さん、手を洗ってくるよ」
「私もお手伝いします」
慌てて、坂村が立ち上がった。
「恵子さん。それじゃ、冷蔵庫の中にお豆腐とか鍋の具が入っているから、切っておいてください。幸はお父さんと一緒に手を洗ってきますから」
「え、手くらい一人で洗えるよ」
「だめだよ、幸はお父さんの右手代わりなんだから」
男は幸に急き立たされ、洗面所に行く。
ふと、坂村は、十年になるだろうか、離婚した父親の顔を思い浮かべた。再婚したらしいけれど、元気にしているだろうか。

「ほら、お父さんの左手と幸の右手で、ちょうど一人分だよ」
幸は男の背中に左手を回し、右手で石鹸を擦る。そして、男の指を右手で洗って行く。
「や、やっぱり、父さん、自分で洗うよ」
「どうして」
「なんだかあれだ、恥ずかしいっていうか、なんか、とってもえっちだ、これは・・・」
幸はそっと男の頬に顔を寄せる、そして囁いた。
「幸はお父さんがとても大切です、愛しています。お父さんにはたくさん迷惑をかけたし、これからも、ごめんなさい、迷惑をかけてしまうと思います、でも、お願いです。どうか、幸を隣りにいさせてください」
「同じ言葉を返していいかな」
「え・・・」
「父さんは幸がとても大切で、愛しています。ただ、自分に自信がないから戸惑ったり、右往左往してしまう。でも、父さんを幸の隣りにいさせてください」
くすぐったそうに二人が笑った。
そして、二人、一緒に囁く。
「隣りにいること、許して上げます」
13
最終更新日 : 2013-05-11 17:23:54

異形 流堰迷子は天へと落ちていく四話01

「幸は世界で一番幸せな女の子だと思うよ」
幸は男の膝を枕に横になる、晩秋の小春日和、お昼前。
縁台に座る男の膝に頭を預け、広がる畑を眺めた。畑の向こうに時々白い影が動く、子山羊が三匹、草をはんでいるのだ。
秋野菜、緑色が広がる収穫前の一時。
「頑張って世話をしてたからね、幸は」
「ううん、今の幸せは、幸がお父さんにひざ枕をしてもらっているっていうこと、そして、お父さんも世界で一番幸せなお父さんなのです」
「父さんもか」
「そう、可愛い娘のひざ枕ができるなんて、こんな幸せなことはないよ」
男はくすぐったそうに笑った。
「幸、父さんを幸せにしてくれてありがとう」
「どういたしまして」
幸はにひひと子供っぽく笑うと、ぱたぱたと足を振る。
「幸はちっちゃな子供だな、あかねちゃんや恵子さんの前ではしっかりしているのに」
「今の幸が本当の幸なのです、だから、正直にお父さんに甘えるのです。そうだ。ね、お父さん、恵子さんには驚いたなぁ」
「ん・・・、あの人は頑張り屋さんだな」
あれからもう一年近くが経つ、男は右腕を無くした時のこと、鬼紙老の屋敷にあかねちゃんを送り届けたこと、坂村恵子にたまたま、情けをかけたこと、そんなことを思い出した。
「恵子さんはあと三十分くらいで来ます、それまで、ね。ひざ枕良いかな、それとも、今度は幸がひざ枕してあげようか」
「大事な娘だからさ、ひざ枕してあげるよ。それから、仕事再開だ」
「今日は恵子さんに畑任せて、幸、お父さんの仕事、手伝おうか」
「どうしたの、幸。この三日くらいかな、幸は父さんにとってもひっつき虫だ」
「なんだか、甘えたい、そんな気分」
「お風呂とお手洗い以外はずっと幸がひっついている」
「ね、お父さん」
「ん」
「お風呂、一緒に入ろうか。背中、流しっこしよう」
男は笑うと、こつんっと幸の頭を小突く。
「それはだめ。でも、そう言ってくれることは自体は嬉しいよ」
男は吐息を漏らすと、眼前に広がる畑を眺めた。
普通に歩いて五分くらいは畑だ、その向こうに梅林が連なる。
縁台から、梅林も見えるようにと、ちょうど、畑の切れ目、畦道が梅林へとつながる。
「援農、だったっけ」
男が呟いた。
「恵子さん、うちに二日間、それから外の田舎へも農業を三日間手伝いに行って、あとの二日をスーパーでレジ打っている」
「たくさん退職金、出たんじゃないのか」
「高校生の妹が大学に行くそのお金に退職金を使いたいって、恵子さん、その退職金には手をつけていない。大学四年間、五十回くらい繰り返せるくらいのお金だけど、使いかけるとずるずると使ってしまうかもしれないから、今は使わないって言ってた」
「しっかりしているね」
「恵子さん、いまは畑仕事が一番楽しいって、喜んでいてくれるよ」
「人が喜んでくれると嬉しいものだな」
「そうだね、ただ、問題はあかねちゃんだ」
幸が少し顔を曇らせ呟く。
「やっていることは正しいと思うけどね」
あかねはこの一月ほどここには来ていなかった。
矛盾を正したい、それが自分の使命なのではと語るあかねちゃんの真摯な表情に幸は何も言えなくなってしまったのだった。
「格差社会、貧富の差が開いて行くこの時代を変えて、誰もが慎ましやかに、そして幸せな日常を送ることが出来るようにしたい。確かにそうなんだけど」
「幸が心配なのはわかるけどね、今はあかねちゃんの思うようにさせてあげなさい。ただ、そうだな。あかねちゃんの武術の進歩は」
「かなりのものになったと思う」
「読心能力は」
「充分だと思う」
「護り髪は」
「しっかり・・・」
男は幸の頭を優しく撫でた。
「あかねちゃんは幸の大切な妹だ。それはかわらないよ、必要な時は助けてあげなさい」
「うん、そうする」
幸は静かにそう答えた。
「ね、お父さん」
「どうしました」
「お父さんはずっとずっと、幸と一緒にいてよ。絶対だよ」
幸は微かに震えていた。
男は幸の頭を軽くぽんぽんと叩く。
「お風呂とお手洗い以外は一緒にいるかな」
男が小さく笑う。
幸は急に起き上がると男にしがみついた。
「幸がお父さんを護るよ、どんな奴からもお父さんを護るからね」
「どうしました、ゆっくり話してごらん」
男は軽く幸の背中をなだめるように叩き、幸の言葉を待つ。
「お父さんがお父さんが死んじゃう」
呻くように幸は言葉を呟く。
「それは大変だな」
男は小さく笑った。
「お父さん、幸、夢をみたの。母さんちへお喋りに行って、帰ってきたら、部屋中、血で真っ赤で、お父さんが部屋の真ん中で、真ん中で・・・」
幸が苦しそうに咳き込む。男は幸の背中を柔らかく撫でる。少し幸が落ち着いたのを見て、男は話しだした。
「夢のようになるんじゃないか、予知夢じゃないかと幸は心配しているわけだ」
幸がそっとうなずいた。
「心配屋さんだ、幸は」
男はそっと笑みを浮かべる。
「父さん、とっても強いよ、幸のためならとっても強くなる。でも、上には上がいるからな、うわっ、ピンチかもって思ったら、幸に助けてって叫ぶことにするよ」
男はそっと笑みを浮かべる。
「それに、ここは何重もの結界で固めてある、だから、ここに入ることができるのは、あかねちゃんと恵子さん、瞳さんと佳奈さんだけかな。それに幸と父さんだけだ。恐い奴らは入れないよ」
男はそっと笑みを浮かべ、幸の頭を撫でる。
心配で一杯になっている、男は幸からこんなにも大切に思われていることを素直に嬉しいと思う。何度、ありがとうと言っても言い足りないくらいだと思う。いや、自分自身がそれほどに、思ってもらえる存在なのかとすら思ってしまうのだ。
ただ、男は幸がどうしてそんな夢を見たのだろうと思う。
声を押し殺して泣きじゃくる幸の姿、俺に気の利いた言葉の一つもあればと、そっと左手で幸の頭を撫でる。
「手があったか・・・」
一瞬、男は神経を研ぎ済ませた。違和感を探す、後方、なるほど・・・
「幸、顔をあげなさい」
男が呟くように言う。
泣き腫らした幸がそっと顔をあげた。
「人の心を読むというのは、自分と相手の心を繋げることだ。だから、人の心が見えてくる。そして、もう一つ、心を繋げば、その相手の心に感情を植え付けることができる」
「うん」
「試してみせようか、相手の心に不安や焦りをいっぱい植え付けてみよう」
男がにっと笑った。

「うぉぉぉっ」
家の中から、雄叫びが轟いた。
「幸、杖、右手」
「はいっ」
幸が空から取り出した杖の中ほどを男が左手に持つ、その下端を幸が右手で持った。
男の頭上に振り落とされた刃、杖で受けた一瞬、微かに幸が杖を手元に引く、刃筋が流れ、相手の姿勢が崩れる、男が杖の先端を大きな円を一部切り取ったように落とすと、刀を持ったまま相手が庭に投げ落とされた。

「なるほど、自分の右手を切り落として、元の私の腕を繋いだということか。肩のところに丸い輪っかが付いているね、それが血液型の違いなどを吸収しているようだ、神崎さんの仕業だな」
男は溜息を付くと、幸に杖を返した。
「君は確か一年前の人だったね、私が呪いを施して、一年、まっとうに働いたらやって来い、呪いを解いてやるといった」
黒服はゆっくりと立ち上がると、男に刃を向けた。
「人の数倍は体力を持つ君だ、引っ越し屋さんなんていいんじゃないかって言った記憶があるのだけどね、あんまり、そんな風には見えないな」
「俺の生きる道にそんな選択肢はない、それに、何よりもお前を殺さなければ俺のプライドはずたずたに引きちぎれたままだ」
「で、君はその右腕を鍵にしてこの結界の中に入り込んでいたわけだ、隙あらばとね。どうだい、その腕は、良い感じかい」
男は気楽に笑う。むっとしたように黒服は男を睨んだがふっと笑みを浮かべた。
「この一年、神崎のデーター収集に付き合って、かなりの魔を斬ってきた、俺は確実に強くなった、あんたの腕は最高だ」
「お褒めいただきありがとう」
幸が我慢ならないと杖を黒服に向けた。
「お父さん、こいつは幸にまかせて」
「いや、これは父さんの責任だ、幸はここで見ていなさい」
男は縁台を降り、つっかけを履き前に出る。黒服との距離が縮まった。
「私の呪いは既に解除されているようだね、神崎はしないだろう、まともに私を敵に回すことになるからな。なら、誰だ」
男が黒服の目を微かに睨む。
「あぁ、あの破戒坊主か、あいつは後先を考えないからな」
男は小さく呟くと口元に笑みを浮かべた。
男は一歩踏み出す、気圧されて黒服が退いた。
「君は後悔していないかい、だってさ、ここに来なければ、好きにできたわけだ、呪いも解除されているんだからさ」
男は笑みを浮かべたまま、ゆるやかに黒服に歩み寄る。
「どうしました、後ろに下がるだけでは君の立場は余計に悪くなるよ」
黒服は震えていた、
「あんたはどこまで強いんだ」
男は答えず、左手を黒服に向け、人差し指を上から下へと向ける。瞬間、黒服の右腕が引きちぎれた。燃える、右腕が灼熱の炎を吹き出し、燃え尽きた。
「その腕の輪が君の流血を抑えている。殺しはしないさ、それほど、私は親切じゃない」
男がそう言い終えた瞬間、黒服が消えた。
「結界に排除されたか。元の世界で彼なりに生きて行けば良いさ」

男が振り返ると、幸が茫然とした面持ちで男を見つめていた。
「ん、どうした」
「お父さん、ごめんなさい。幸がお父さんの腕を斬らなければ、お父さん、自分の腕を燃やさなくても良かったのに。幸は、幸はどんどん、お父さんを不幸にしてしまうよぉ」
男はそっと笑みを浮かべると、幸を左手でぎゅっと抱き締めた。
「幸、父さんを両手で抱き締めてくれないか」
幸が力一杯男を抱き締める。
「父さん、抱き締められるってことが、こんなにも幸せで暖かいことを幸に教えてもらって、とっても幸せになった」
「そして、幸」
「うん」
「幸は、父さんのこと、大切に思ってくれる、それがとても嬉しい。父さんはとっても、とってもね、幸せになった。今が、父さん、生まれて来てから、一番幸せなんだ。幸、ありがとう」
男は柔らかに笑みを浮かべる、
「父さんは幸を幸せにできているかな」
「幸も幸せです」
男は手を離すと、幸の横に座った。
男が少年のような幼い笑みを浮かべた。
「これからもずっとよろしく」
幸は男の左手を、両手でぎゅっと握り締め、泣き濡れたまま、男に微笑んだ。
男は長い間一人で生きて来たが、もう一人では生きて行けないなと思う。それは、なんて幸いなことだろうと強く思った。

「おはようございます」
玄関口から坂村恵子の声が響いた。
「幸、鍵をあけて来なさいな」
「はい」
幸は縁側から家に入ると、戸を開け恵子を招き入れた。
以前より血色も良く、朗らかになった恵子が男のところにやって来た。
「おはようございます」
「恵子さん、おはよう。ん、また、恵子さん、体格良くなってないかい」
「ひどいなぁ、私も年頃の女の子ですよ」
恵子が嬉しそうに笑う、
「そうだよ、お父さん、恵子さんに失礼だよ。ね、体重計出してくるから、変わってないの証明しょう」
「あはは・・・、それはちょっと・・・。ごめんなさい」
恵子は袋から瓶詰を取り出すと、幸に手渡した。
「大根で作った千枚漬けです、漬け汁にちょっと工夫ありです」
幸は受け取ると、蓋を取り、少し匂いを嗅ぐ。
「美味しそうだよ、お昼ごはんに食べてみよう」
「それも物産展の商品か」
男が尋ねた。庭の畑では幸が中心になって、野菜をつくっていたが、食べきれない分を佳奈を通じて、商店街の八百屋に卸していた。その縁で、前回、近所で開催された物産展に出展し、評判は上々、そして、二回目の参加となったのだった。
「加工した方が利益がいいのです。今度は、お父さんも来て」
「売り子しなくてもいいなら、見に行くよ」
幸がくすぐったそうに笑う。
「先に言われちゃった。それじゃ、お父さんは幸の頭を撫でる係、幸はお父さんに頭を撫でられるととても元気になるのです」
「あんまり撫でて、幸の頭が禿げたら大変だ」
「禿げるくらい撫でてほしいかも」
幸はくすぐったそうに笑みを浮かべると、テーブルに恵子が持って来た瓶詰を置いた。
「そうだ、お父さん、今晩は鍋にしよう。ね、恵子さん、今晩用事ある」
「私は大丈夫ですけど」
「お父さん、いいかな」
「いいよ」
幸はにっと笑うと恵子に言う。
「鍋、一緒に食べよう。あ、恵子さんのお母さんや物産展覗きに来てくれた妹の、礼子ちゃんはどうかな」
「妹は幸さんの大ファンですから、何があっても来ますよ」
幸がけげんな顔をした。
「幸は礼子ちゃんと挨拶しかしてないよ」
「妹は、幸さんが、脅しに来たやくざを殴り倒して、足で踏んでいるのを」
「あぁ、その話はもういいです。恵子さん、畑にどうぞ」
慌てて、幸は恵子を畑へと送り出した。
戻って来た幸がばつの悪そうな顔をして男を見る。
「父さん、初耳でした」
「ごめんなさい、だって」
「幸に怪我がなければいいよ」
仕方なさそうに男が笑う。
幸はほっと吐息を漏らすと男の後ろ、背中に被さるように体を預け、男の肩から顔を出す。
「幸はえらそうにしている奴や、むちゃを言う奴が嫌いなんだもの」
「父さん、幸にえらそうにしないよう気をつけなきゃ」
「お父さんは幸にえらそうにしてもいい人なのです」
「でも、倒れたところを踏まれるのはなぁ」
「お父さんにはそんなことしないよぉ。もぉ・・・」
幸はそっと男に頬を添えると囁いた。
「貴方は私との日々を楽しんでくださってますか」
「楽しんでいます、本当にありがとう。君はどうですか」
「寝てしまうのが惜しいくらい、朝になるのが待ち遠しいくらいに楽しんでいます、娘にしてくださってありがとう」
「君に言いたい」
「はい」
「父親にしてくれてありがとう」
そっと幸は、そのまま体を預け目を閉じる。
そして呟いた。
「幸せです」

ふっと幸が目を開ける。
「お父さん、次は喫茶店だ。ここで開店するよ」
「え、あぁ、忘れてた。ハーブティーの専門店とか話していたな」
「お父さんがマスターなんだからね」
「父さん、恥ずかしがり屋だからなぁ」
「ね、マスター、なんだか、あたし、疲れちゃった」
「お嬢さん、それなら、カモミールを中心にした当店オリジナルのハーブティーがお勧めですよ、リラックス効果抜群です、ゆっくりしてくださいな」
幸がにひひと笑う。
「お父さん、合格です」
「本当にこんな歯の浮くようなこと言うのか」
「そおだよぉ。ね、お父さんはどんな服が似合うかなぁ。少し固めの方がいいかな」
「まっ、それは考えておいてくれ。そうだ、父さん、午前中に仕事を済ましたら、ちょっと出掛けてくるよ」
「幸もついて行っていい」
「どうかなぁ、幸の教育に悪そうなやつだからな」
「なら、行かなきゃ。だって、幸はお父さんのボディガードだからね」
「うーん、まぁ、これもまた勉強かな。それじゃ、父さん、ピンチになったら、助けてって叫ぶことにするよ」
幸は満辺に笑みを浮かべると後ろから男をぎゅっと抱き締めた。
「お父さんは幸にとっても甘いです、あまあまですよ」
そして、唇で男の耳をくわえる。
「はぐはぐ」
「やめなさい、父さんは汚いから」
幸は口を離すと囁いた。
「汚くありません、それに、なんてお父さんは幸に甘いんだろ。そうだ、お父さんはお砂糖で出来ているのです、珈琲に入れたらきっと溶けてしまいます。もう、食べちゃうぞ」

「ええっと、幸さん、お取り込み中、申し訳ありませんが・・・」
困り切った顔をして恵子が二人の前に立っていた。
「ごめん、恵子さん、夢中になってた・・・」
男は立ち上がると幸の頭を撫でる。
「父さん、仕事に戻るよ」
「うん、お父さん。ね、お出掛け、一人で行っちゃ嫌だよ」
男は笑みを浮かべ、頷くと部屋へ戻った。

まだ、ぼぉっとしている幸の目の前で坂村が手を振る。
「まだ、余韻に浸ってますか」
幸は笑みを浮かべると、頭を振った。
「ごめん、恵子さん。えっとなんだっけ、まだ、頭が働かない」
「出荷の時間です」
「ああ、そうだった」
幸は縁台から降りると靴を履き、畑を歩く。長靴は絶対に拒否という姿勢だ。
鶏が雑草を食んでいる。
幸は秋茄子やホウレン草を見て回り、出荷に頃合いのものを竹で編んだ籠に入れて行く。
「一度聴いてみたいと思っていたんですけど」
坂村が幸に尋ねた。
「ん・・・」
「無造作に採っているようにしか見えないのに、ちょうど良い状態の野菜を選んでいますよね、どうやっているんですか」
「声を聴いているだけだよ」
幸が手を止めずに言う。
「幸ちゃん、幸ちゃん。ボク、食べ頃だよ、採って、採ってってね。野菜の声が聞こえてくるんだ」
「で、本当は」
坂村が促した。
「少なくてもこの一週間の状態を全部暗記している、何処にどれくらいのがあるかってね。それぞれ、時間軸を元に、変化を微分化して、その加速度を求める、それが主な判断材料かな。もちろんパラメーターは複数あるけどね。な、可愛くないだろう」
「可愛くありません」
「ボク食べ頃だよ、幸ちゃん。これの方が受けが良いよね」
幸は笑いながらも手を休めずに収穫して行く。
「恵子さんは勉強熱心だな。農家に嫁げ、引く手あまただぜ」
「それは、親戚の叔父さん的発想、散々言われてますよ」
幸は声を出して笑うと、籠を坂村に渡し、新しい籠に収穫を始めた。
「あれから一年、スーパーでのバイト以外はすっかり百姓だ。恵子さんはこれからどうしていきたいんだ」
手を休める間もなく、幸が坂村に尋ねた。
「そんな難しいこと、聞かないでくださいよ。ただ、なんだか、社会から一抜けたって言いたい気分です」
「以前、あかねちゃんがお父さんに言ってたんだ、大学を卒業したらここで暮らしたいってね。ここは、ある意味、シェルターみたいなものなのかもしれない」
「かも知れませんね、ここに来るとほっとします」
ふと、幸は手を止めた。
「あかねちゃん、どうなるんだろう。もろいところがあるからなぁ」
幸は溜息をつくと、満杯になった籠を置いた。
「次は恵子さんの番」
幸は新しい籠を坂村に渡すと、満杯になった籠二つを縁台にまで運ぶ。
「恵子さん、幸はお昼の用意をしてきます」
坂村に声をかける。
「お願いしまーす」
坂村が陽気に答えた。幸が家に戻って行くのを見終えると、収穫に戻る。坂村は本当に今が幸せだと思う。
坂村は手を止めると、秋の遠い空に向かって言う。
「幸せだぁ」
あまり大きな声では言わない、叫んでみても良いのだが、幸に聞かれて笑われでもしたらと思うと、声が小さくなってしまう。
「おぉい、恵子ちゃん」
振り返ると、縁側から、佳奈がやってきた。
「ごめんなさい、まだ、収穫が」
「いいよ、あたしも早く来たからさ、手伝うよ」
佳奈は恵子のところにやって来ると、言った。
「この辺のを採っていけばいいのかい」
「はい、あまり小さいの以外で」
佳奈も見よう見まねで採っては籠に入れる。
「恵子ちゃんも明るくなったねぇ」
坂村が初めて佳奈にあったのは、ここへ来てすぐのこと。随分と幸に脅かされていたのだった。
「そりゃ、幸さんからとっても恐い人だって聞いてましたもん」
「こんな優しいお姉さんを恐いだなんて、冗談にも程があるね」
佳奈が笑う。
「でも、読心能力、心を読まれてしまうって云うのにはびっくりしました」
「そうだね、意識を向ければね、目の前で喋っているみたいにさ、わかるよ。それって恐いかな」
「いまは全然。って言うか、言わなくてもわかってもらえるし、楽かもしれない。よくよく考えてみれば、私は考えていることと喋っていること同じですから」
「誰もがそんなふうに思ってくれるなら、あたしも嬉しいんだけどね。以前は悩んだ、自分は何者なんだって悩んだ」
ふと、坂村は笑みを浮かべると、佳奈を見つめた。
「佳奈姉さん、悩んでますね、それに少し怒っている」
「え、どうして」
「私は心を読む能力は無いけど、推理は出来ます。会話の内容、声質、誰か悩みを聞いてくれないかなぁって思っている」
「驚いた、その通りだ」
佳奈は素直に驚くと、恥ずかしそうに笑った。
「佳奈姉さん、私には解決出来る力はないけれど、聴くだけでもいいなら話してください」
「恵子さん、齢幾つだい」
「ええっと、もうすぐ二十五かも・・・」
「うちのガキと三歳違いか、しっかりしているなぁ」
佳奈は溜息をつくと、手を止める。
座って空を見上げた。
「どういう仕組みになってんだろうね、ここは」
今日の収穫は終わったと、坂村も手を止める。
「この畑を越えたらひたすら梅林です、でも、その向こうに川があって魚釣りが出来るとか、幸さん、言ってましたよ」
「おっかないよ、迷子になったら大変だ」
佳奈は笑う。落ち着いた笑みだ。
「あのさ」
「はい」
「親子喧嘩と夫婦喧嘩をして、ついでに亭主の親とも喧嘩してきた」
「四面楚歌、大変ですね」
坂村が笑う、つられてか、佳奈も笑った。
「あぁ、大変だ」

「どうぞ、座ってください」
幸がテーブルに料理を並べる。
幸が男の向かいに、佳奈と坂村がテーブルにつく。
焼き飯の、ご飯よりも野菜が多い。
「本で読んだんだ、ご飯よりも野菜が多い、野菜炒めご飯」
「ちょっと中華風かな」
佳奈が言う。
坂村が少し食べて言った。
「和風ですね、胡麻油が入っているんですよ」
「美味しいかな」
少し不安げに幸が佳奈に尋ねた。
「とっても美味しいよ」
幸が男の向かいに、ほっとしたように笑みを浮かべる。
「と、云うことで、佳奈姉さん、恵子さん」
幸がにっと笑った。
「幸はこれからお父さんとデートです。お昼からの出荷にはお手伝い出来ません。ごめんなさい」
幸が頭を深々と下げた。
「わかっているよ」
佳奈が笑った。
「もう、さっきから幸ちゃん、嬉しそうににやけているんだからさ。顔見ただけで見当つくさ」
「ほんと、佳奈さんの言う通り、機嫌いいし、そわそわしているし」
「申し訳ないね、暗くなるころには帰ってくるから。そうだ、佳奈さん、夜は無理かい」
男が言った。
「恵子さん達と鍋をしようって思うんだけどね」
「主婦ですけど、少しなら大丈夫ですよ」
「幸が美味しい鍋作るよ、恵子さんや、恵子さんの妹やお母さんも来るから賑やかだよ。楽しみだなぁ。あ、幸の母さんは来れないかな」
「礼子さん次第だね。帰って来るの、遅いからなぁ」
幸が男を見る、男が頷いた。
「それじゃ、学校まで、幸が迎えに行くよ。佳奈姉さん、母さんにそう伝えてください」
佳奈はうなづくと笑った。
「あぁ、わかった。デート、楽しんでおいで」
「うん」
幸が答えた。
後を二人に託し、男と幸が出掛ける。
「佳奈さん。幸さん、幸せそうでしたね」
部屋に戻ると坂村が言った。
「だねぇ、あれほど父親が好きな娘もいないだろうね」
「父親って言うより、まるで恋人ですよ。あたしは自分の父親にって、もう、随分会っていませんけど、あんなには甘えられないな」
「ご両親、離婚したとか言ってたね」
「子供の頃です、中学生でした。先生は別居中なんですか」
「ん・・・」
佳奈が怪訝な顔をしたが吹き出した。
「あぁ、違うよ洋品店の叔母さんを幸ちゃんが母さんって呼んでるだけさ」
「え、そうだったんですか。確かに顔が似てないって思ってましたけど」
坂村が苦笑いをした。
「あの叔母さんから、あんな絶世の美女が生まれるわけないって、なんて言ったら叔母さんに叱られるな」
佳奈は笑うと縁側に座った。
佳奈が縁側に座りながら、日差しを浴び、ほっと吐息を漏らす。
「もうすぐ三年になるのかなぁ、幸ちゃんに初めて会ってさ、話した時のことを思い出すよ」
「幸さんって、元気な女の子だったんでしょうね」
「いや・・・」
佳奈は硝子戸の端に背を預け、呟いた。
「臆病な女の子でさ、先生以外の人間を恐れていた」
「それって想像つかないですよ」
「だろうね、先生は、どうしてだか、自分がいつ殺されても仕方のない人間だと考えているんだ、だから、幸ちゃんが一人でも生きられるようにと、先生は必死にしっかりした女性に育てた、しっかり育て過ぎたかもしれないけどね」
佳奈は気持ちを入れ替えるように笑った。
坂村が佳奈の横に座った。
「先生、強く育て過ぎましたねぇ」
坂村も笑う。
「余程、先生は幸ちゃんが可愛くて、心配なんだろうね」
「でも、幸さんは真っすぐですよ。格好いいです。あたしも好きですよ」
「わかるよ、あたしも幸ちゃんのファンだからさ」
坂村は初めて会った時のサングラスを降ろし、にっと笑う幸の笑顔を思い出した。迎え入れてもらったように思えた、本当に嬉しかった。
「さて、佳奈さん、仕事再開、いいですか」
「よし、頑張ろう」
佳奈は立ちがると、思いっきり背伸びをした。


男とサングラスを掛けた幸は、二人、路線バスに揺られていた。電車でおよそ三十分、その後、駅からの路線バスに乗る。
乗客は十人程度、幸は二人掛けの座席、通路側、その横に男が座っていた。
「幸、窓側に座らないのか、景色がそっちからじゃ見ずらいだろう」
「だめだよ、幸はお父さんの右腕なんだからさ。悪い奴が右から襲って来た時には、幸がばしっとやっつけなきゃ」
男がくすぐったそうに笑った。
「父さんが悪い奴で正義の味方が退治に来たのならどうする」
「もちろん、ばしっとやっつける」
「なるほど、父さん、責任重大だ。悪いことしないようにしなきゃな」
男は寂しそうに笑みを浮かべると座席の背もたれに体を預けた。
「父さん、以前はとっても悪人でした。これから会おうというのはね、その頃の父さんを知っている悪人だ。友達じゃないけどね」
「どうして、そんな奴に会うの」
「あの忍者に施した呪を解いたのがそいつだ。呪を勝手に解くというのは敵対関係を選んだということだ、つまり、好んで父さんと敵対関係を選んだ奴の真意を知りたく、思ったんだ」
「知ってどうする」
「これからの生活にとくに問題がなければそそくさと帰る。問題があれば解消して帰る」
「幸的には、すかっと解消して帰りたい」
「困った娘です」
男がそっと笑う。
二人は終点のバス停で降りる、ほとんどの乗客も、途中のバス停では降りずに、終点のバス停で降りたが、燦々午後に姿を消して行った。
山の麓にある静かな山村だった、ふと幸は振り返りバス停を見る。
金魏護寺とある。
「そのお寺へ行く、もともと真言宗のお寺で現世利益の加持祈祷を主としている、もっとも今はどんなガイドブックにも載ってない」
幸は山の中腹を見上げた。
「お父さん、結界がある、こちらに関心を持つなという嫌意の結界だ」
「あぁ、誰もがなんとなく無視してしまいたくなる気分になる。あの寺は暗殺者養成所で、政治家や秘書が自殺した場合のほとんどはあの寺の仕業だ、そんな場所だから招いた奴以外は関心を持つなということなんだろう」
「なんだか、お父さん。大暴れできそうだね」
「それは勘弁してください」
幸はそっと笑みを浮かべる男の上着、右袖を両手で掴む。微かに唇を噛んだ。
男は左手で優しく幸の頭をなでる、
「お父さん、軽々しいことを言ってごめんなさい」
「幸は父さんにとって、とっても良い子だ、それはかわらないよ、どんな時もね」
そっと男は左腕で幸を抱き締めた。
「これからも幸が幸せでありますように」
男が小さく呟いた。


幸と男は簡単に結界を擦り抜け、境内へと入った。微かに霧が辺りに漂うが、視界には問題ない。
たっとうがいくつも並ぶ広大な寺院だ。
「この霧、核が金属の粉だよ」
「侵入者探査システムだ、密度変化による電位差を測定している」
「お父さん、部分的に気圧を操作して、姿を消そうか」
「いや、それほど警戒する必要はないよ、ただ、幸はか弱い女の子、いいね」
幸がそっと頷いた。

「これは珍しい、名無し様ではありませんか」
「館長直々とは恐れ多い、お久しぶりです」
霧の中から独りの僧が現れ、男に声を掛けた。この寺の護人、僧兵の管理者でもある。
「ここ数年来、一度、鬼紙老の元に現れた他は、全く、噂も何も伝わって来ず、いったい、どうされたのかと思っておりました」
「事務仕事とたまに畑作業の手伝いという日々を続けております」
男が静かに答えた。
「うんうん、人は静かに生きるのが一番、良い生活を送っておられますな」
「ところで愚円さんはどちらに」
「あれは六角堂におります。あの者ももう少し落ち着いてくれればと思うのですが」
「閉じ込めてあると」
僧は頷いた。
「食事を差し入れる以外は。しかし、名無し様にせっかくお越しいただいたのですから、扉は開けておきましょう」
男は一礼し、僧が指し示す方向へと歩きだそうと、
「おや、このお嬢様は」
「私の娘です」
不安げに幸は男の右袖をしっかり握ったまま、僧を見上げた。
「初めまして」
男は微かに笑みを浮かべた。
「長く別れて暮らしていたのですが、数年前に引き取りまして、今は一緒に暮らしております」
「なるほど、それが理由ですな。良いことです」
「それでは」
男は僧に会釈をすると、幸を連れ歩きだした。
しばらく歩き、男と幸は夢殿を模した六角堂の前にやって来た。話どおり、扉が一つ、開け放たれている。
「お父さん、あの建物だよね」
幸が囁いた。
「頑丈な建物だな」
「大丈夫、幸がお父さんを護ります」
「うーんl
男が微かに笑みを浮かべる。
「父親としては娘に対して、かっこ良くいたいな」
「娘と致しましては、案外やれるじゃないかとお父さんに認めてほしい」
ふと、男が目頭を押さえた。
「どうしたの」
「ちょっと感動、齢を取るとだめだな、涙腺が弱くなってしまう」
「幸はお父さんのそういう少年っぽいとこ、好きだな」
「幸・・・」
「ん・・・」
「これ以上、父さんを泣かさないでくれ」

二人が六角堂に入った途端、扉が勢いよく閉ざされた。二人は振り返ることもせず、中央を見る。僧が一人、座禅をした姿のまま、空中に浮かんでいた。ぼろぼろの衣に、生まれてから一度も風呂に入ったことがないのではないかと思えるような垢だらけの姿だ。
「愚円、最近、風呂に入ったのはいつだ」
男が呆れたように声をかけた。
「久方ぶりの親友の言葉がそれだとは寂しいものだな」
「大丈夫だ、俺はあんたと親友だった記憶はない」
僧は口元ににやりと笑みを浮かべると足を伸ばし、床へと着地した。
「ところで無よ、なにをしに来た」
「俺の呪を解いた理由を問いに来た」
僧はふと思い出そうと空を睨んだが思い当たったらしく男を見る。
「魔人に呪いをかけられた哀れな男を救うたことがあった。これもまた修行」
「で、本当の理由はなんだ」
男が重ねて言う。僧は仕方がないなと笑うと、そのまま、床にあぐらをかいた。
「館長からのお達しだ、こいつの呪を解けば、世の縁を切り、姿をくらました無をおびき出し、捕獲できるだろう、あいつは自信家だから、必ずやって来るってな。で、のこのこやって来たわけだ、それも女連れとは驚いた」
大声で愚円が笑った。
男は愚円を睨んだが、気を取り直し言った。
「それだけ聞けば充分だ、帰ることにするよ」
「それは無理な話だ。この六角堂からはさすがのお前さんでも力不足だ」
「あぁ、外からは入ることができても、中からは、簡単には出られない。面白い仕組みだな」
「ただひとつ、俺とお前さんが力を合わせれば出られないこともない」
愚円が男に語りかけた。
「どういうことだ」
「山を降り、世俗にまみれて楽しく暮らしたいってことだよ」
「残念だ、協力はできないよ、風呂に入って身奇麗にしていたら、考えなくもなかったがな」
「ゆっくり考えて結論を出してくれ、時間はたっぷりある。それに女もいる、楽しいぜ」
「奴らは何故、俺を捕獲する必要があるんだ」
「政権が変わったからさ。この寺は前政権と深い繋がりだ。だから、現政権が煙たがっている。そのうち、現政権側のやつらと戦うことになるだろう。手元にあんたがいれば利用価値は高い」
「それだけ教えてくれれば充分だ、帰るよ。俺は大事な娘を好色な目で見る奴を許せないんでな」
男は幸に笑みを浮かべると扉へ向かう、幸も男の後を追った。
男は扉を軽く叩く、外からの明かりに僧が二人立っている、その影が見える。
「用事は終わりました。扉を開けていただけませんか」
僧の一人が答えた。
「食事はこちらでご用意致しますので、御ゆるりと滞在くださいませ」
「今晩は約束があり、どうしても帰りたいのです」
「館長からの許しがないかぎり、ここを開けるわけには参りません」
いきなり男が扉を蹴り、その男の足が扉の中に吸い込まれるように消えた。
「反対側を見な」
愚円が後ろから男に声をかける。そのままの姿勢で、男が後ろを見ると、六角、反対の扉から男の足が生えたように突き出していた。
「ほんの数ミリで空間を変換しているのか、たいした法力だな」
「俺を閉じ込めるような奴だからな」
愚円が近づこうと立ち上がったが、男がそれを制した。ゆっくりと足を戻す。
「それ以上近づくな、俺は娘の近くに好色な男がいるのを好まないんだ」
「相当な親ばかだな」
一瞬、幸が愚円を睨みつけた。
「くそぼうず、だまってろ」
鋭く怒鳴りつけた幸の言葉に愚円が硬直した。
「うーん、ちょっとびっくり」
男がくすぐったそうに笑った。
「ごめんなさい、だって、お父さんを馬鹿にされるのって許せないんだもの」
「だな、ありがと、庇ってくれて」
幸が恥ずかしそうに笑みを浮かべる、
「父さんではここを破るのは無理だ、助けてくれるか」
幸がにっと笑う。
「お父さんの役に立つのは嬉しい」
そして、空中から刀を取り出すと、静かに構えた。刀を右手、後ろへと流れるように持つ。いや、落ちないように柔らかく支えているだけだ。
瞬間、幸が間合いを詰め、すくい上げるように横一文字に壁を切り裂く、男の目が捉えたのはそこまでだ、気が付けば、四方、人が通り抜けられる程の四角い穴が穿たれていた。
幸は刀を消すと、男から譲り受けた杖を取り出した。杖を左に持ち、右手で男の左手を握る。促すようにして外へ出た。

外では茫然と館長を先頭に僧兵の姿をした僧達数十人が二人を見つめていた。
幸は男の手をしっかりと握ったまま、館長の前へ出た。
「ここではあんたが一番偉いんだろう」
返事ができず、館長はただ頷いた。
「お父さんとあたしは静かに地味に暮らしている、それで充分幸せだからだ。政争も、切ったはったも嫌いだ」
「あ、あぁ」
「今後、お父さんとあたしの生活に一切かかわらないと約束しろ、そうすればこのまま帰ってやる。もしも、約束できないというなら、この山ひとつ、粉みじんにして平野にしてやる、すっきりするぜ。さあ、どうする」
館長は戸惑ったように男の顔を見た。
「いや、娘が心配で、悪い男に泣かされないよう強く育てたのですが、思っていたより随分と強く育ってしまいました」
男も困ったように笑った。
「そのように笑われても・・・。いや、お嬢さん、良く分かりました。一切、干渉致しません」
「ありがとう、その言葉、信じるよ」
幸は振り返ると男ににっと笑みを浮かべた。
「お父さん、帰りはお鍋の材料、買って帰ろう」
「そうだな」
男が笑った。
「なんだ、なんだ、お前ら、なににやけてんだ」
やっとのことで、愚円が六角堂から出てきた。
「愚円、出てきたのか。六角堂に戻っていなさい。出るのを許した覚えはないぞ」
「今出なきゃ、いつ、出られるかわからないからな」
「まあ、いい。なんだか、争うのがつまらなくなってしまった」
ふと、男が空の一角を睨んだ
「新手ですね」
なんらかの情報が入ったのだろう、ヘリコプターの爆音が近づいてきた。
「お父さん、あれは」
「ここの敵対組織だな。監視されてたのかな」
「人工衛星だ」
幸が天に指先を向けた。男と館長も幸の示す方向を睨む。
「さすがに見えないな、父さんには」
「破壊しておこうか。上から覗かれてるのは、なんかうっとおしいよ」
「・・・そうだな。でも、かなり高い」
「簡単だよ」
幸が指先を鳴らす、瞬間、小さな光が虚空に輝いた。
「粉微塵」
幸がにっと笑った。
館長は驚きのあまり、一歩退いたが、平静を装い、幸に頭を下げる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」

その間にもヘリコプターは近づき、プロペラの生み出す突風が樹木を揺らす。
「お父さん、攻撃してもいいかな」
「殺さない程度にね」
「わかった、遊んでくるよ」
幸の姿が消えた。
「才能を十二分に恵まれた人間が、生命をかけた修行を一生続けても、あれだけの能力は身につきません、いったいどういうことなのです」
館長が声を抑えて男に問う。
男は自分自身に語りかけるように呟いた。
「私はあのとき、あの子はもともと人であったと思っていたのですが、間違っていたのかもしれない、もともと、あの子は神だったのかもしれない」
「あのとき・・・」
男は寂しそうに笑みを浮かべると口をつぐんだ。

緑色の飛行船のようなヘリコプターが着地する。台風並の風が六角堂以外のたっちゅうを揺れざわめかせた。
幸はヘリコプターの手前に陣取り、仁王立ちに立つ、腕を組む、にぃぃぃっと唇を歪め笑みを浮かべた、長い髪が逆巻く。
僧兵達を後方に従え、自信に満ちたその姿はまさしく闘神。
ハッチが開き、完全武装を施した兵士だろう、十人駆け降り、幸と向かい合う。背中にはタンク、肩には大きな、火炎放射器だ。寺すべてを焼き払う予定でやってきたのだ。
ヘリコプターの回転翼の速度が次第に落ちる、それに合わせ風が収まり始めた。

「似たようなのが雁首揃えやがって、楽しいなぁ。なぁ、一等先に殺されたい奴、手ぇ挙げてくれ」
十人が一斉に炎をはらんだ銃口を幸に向けた。
「なんだよぉ、可愛い女の子を焼き肉にする気かよ。しょうがねえな、そんな悪い子はお仕置きだ」
ふと、真ん中の頭ひとつ抜きん出た兵士が片手で他を制した。そして、火炎放射器とタンクを降ろすとヘルメットを外す。
まさしく人間よりひ熊に近いのではないかと言いたくなる男だった。
男は、にたぁっと唇を歪めると、腰の後ろ、タガーナイフを抜き、幸に剣先を向けた。
「いいやつだなぁ、あんた」
幸は嗤うと、右足を微かに前へと出す。
「女を切り刻むのが楽しいってことは、女の敵だ。遊びがいがあるよ」
幸は左のつま先を真左に向けた。
「来な」
幸が低く呟く、一瞬でひ熊男がナイフを片手に飛び込んで来た。右手に刃が輝く。幸は微かに体を真左に揺らす、刃が幸の体をすれ違い、その瞬間、幸の右手が男の顎に在った。
「回れや」
幸が呟く。
男がのけぞるように後ろへ回転、そのまま、幸は男の頭を地面に叩きつけた。
「頑丈だなぁ、生きているじゃないか」
幸は地面に頭を突き立てままの男の右手をぐしゃっと踏み付ける。念のためにと、もう片方の手も踏み潰した。
一歩踏み出す、瞬間、幸の姿が沈んだ、回し蹴り、独楽のように回転し、男を僧兵のところまでけり飛ばした。
幸が僧兵達を睨みつける。
「お前ら、そいつを六角堂にほうり込んでおけ」
「はいっ、直ちに」
あたふたと僧兵達が男に駆け寄る。

「いったい、あやつらは誰の指示にしたがっているのか」
館長が溜息交じりに呟いた。
「まぁ、少々荒っぽいところもありますが、親思いの良い娘ですよ」
「少々ですか」
館長が溜息をつく。
「もし、お嬢さんに弱点があるとすれば、貴方自身ですね」
「ん、なるほど、そうかもしれませんね」
一瞬、館長の右手が消えた、男の首を針で刺す、しかし、男の手には小石が、石の先で男は針を受けていた。
「筒になっている針ですね、中に毒が仕込まれている」
「良くご存じですな」
「この世界、長いですからね」
ふっと館長が手を戻した。
「ここの責任者といたしまして、現政権の手土産になるかもと思ってしまいました。迷いに憑かれてしまいました、申し訳ありません、それでではありますが、なんとか、この刀、納めていただけませんでしょうか」
館長の額寸前のところに、幸の刀がその切っ先を向け、浮かんでいた。
「この霊刀も娘に与えてしまいまして、私にはどうしようも。しかし、見事な使いこなし。私が針を浮けていなければ、館長の額が風通し良くなっているところでした。娘を人殺しにせずに済んで良かった」

九つの炎が幸を捉えた。しかし、炎が届くよりも早く幸の姿が消えていた。次々と幸は杖で兵士たちの腕を折り、指を潰して行く。しかし、最後の兵士だけ、首筋を軽く打ちすえ、気絶させるに止めた。
「こいつら、手当して六角堂に閉じ込めておけ。あとは館長の指示に従え。いいな」
「はいっ」
僧兵達が勢いよく返事を返した。
幸は気絶させた兵士が体型から女であると判断していた。幸は兵士の手首を掴むと、引きずり男の元に戻った。

「お父さん、誰も殺していないよ」
「お疲れさま」
「えへへ、どういたしまして」
幸が照れたように笑う。
「お嬢さん、この刀、なんとかしていただけないでしょうか」
「ん」
幸は初めて気づいたように刀を突き付けられた館長の額を見つめた。
「なんだ、そのまま、押し込んで欲しいのか」
「と、とんでもない」
幸は笑みを浮かべると、その刀を消した。
「なぁ、館長。お父さんとあたしはふたりっきりの家族だ、どっちか一人欠けても家族じゃなくなってしまうんだよ。あんたも下の町に女房と息子を持つ身だ。息子が殺されたら嫌だろ、そこんとこ、考えてくれな」
一瞬、館長の顔が青ざめる。
「まだまだ、修行が足りないな」
ふっと幸が笑う、しかし、もう関心がなくなったと、引きずって来た兵士を、少々荒っぽく仰向けに寝かせた。
そして、ヘルメットを脱がす。女の顔が現れる。ふと、男はその女の顔を見つめた。
「何処かで見たな、その顔。あぁ、あの時のか」
「えぇっ、浮気はだめだよっ」
男はくすぐったそうに笑った。
「こんなおっさん、誰も相手してくれないよ。以前、鬼紙老宅からの帰りに拉致されてね、尋問して来たのが彼女だ」
「お父さん、拉致って、それ初めて聞いた」
「うん、父さんも初めて言ったかな」
「もぉ、お父さんったら。万が一のことがあったら」
「大丈夫だよ、這ってでも帰ってくるさ。大事な娘を心配させるわけにはいかないからね」
幸がふっと恥ずかしそうに俯いた。
「お父さんったら、もぉ」

「しかし、こんな荒事のできる身体能力は無かったはずだが」
男は女の顔を睨んだ。
「男、まさか・・・」
男は女をうつ伏せにした。
「首筋から、腰まで、切ってくれるか」
「は、はい」
幸は刀を取り出すと、素早く、撫でるように服を切り裂いた。
男が女の項から腰までを脱がす。少し、治りかけた傷が首筋から、腰まで続いていた。女の髪を上げ、後頭部をまさぐる。
「頭蓋骨を切断した跡があるな」
「これは・・・」
館長が呟いた。
「なにか思い当たることでも」
男が問いかけた。
「三十九番の字を持つ殺人鬼」
館長が答える。
「三十九が女の体を手に入れたと、ある組織に潜入している者から報告を得ました」
「なるほど」
男は呟くと、女の後頭部を見つめる。
「確かに頭の中は三十九だ、こんな形で再会するとは」
「医療技術と魔術の融合ですな」
館長も小さく呟いた。
「お父さん、元の女の人はどうなったんだろう」
「奴の記憶の中に少し残っている。実験用に保存されているらしい」
「助けに行こう」
「でも、これは三カ月前の奴の記憶だ。いまはどうなっているか、わからないよ」
「でもでも、お父さん。あたし、こういうの、本当に許せないんだ」
男は幸の真剣な眼差しを見て思った。すべての情報を遮断された脳、これは闇の牢獄に閉じ込められたのも同じだ。幸は自身の過去と重ねているのだろう。
男は空中から硝子の球を取り出した。そして、三十九の体の上に軽く浮かべる、硝子の球は大きくなり、人一人分の大きさになると三十九を飲み込んでしまった。そして、軽く男が指を振ると、滑るように硝子球が六角堂へと飛んで行った。
「捕虜をどう利用するかについては、私も娘も関わりません、御ずいに」
男は館長に呟いた。そして、幸の横に立つ。幸は両手で男の左手をしっかり握ると、少し微笑んだ。そして二人の姿が消える。
館長が一人呟いた。
「無の技は、嘘か真か、神を統べる技と聞いたことがある。ならば神が神を統べる技を得た時、その神は」
「絶対神、他の神は位落ち、あの娘が唯一の神になる」
いつの間にか、愚円が館長の横で呟いた。
「神も仏もあったもんじゃねえな」
愚円が嘯いた。
「愚円、お前、阻止できるか」
「たかだか、人間様の出来ることなんざ、しれているさ。金輪際、あの娘には近づきたくないな、それは、館長、あんたもだろう」
「あぁ、無には、世界平和のためにも仲の良い父娘でいてもらおう」
「館長、あんたから世界平和なんて言葉がでるとはな」
「愚円、つまらぬことを言っていると、六角堂にほうり込むぞ」
「いくらいい女でも頭の中が、がたいのでかい三十九ではやる気になれねぇよ。昔、奴が妙に流し目してきやがると、うっ、気持ち悪ぇ」
館長の苦虫を噛み潰した顔に、愚円はこれ以上喋っても、機嫌を損ねるだけだと、僧兵達のもとに戻った。

直径一メートルほどの円柱型水槽にそれは在った。
「お父さん、あれだ」
モノクロームの床がにび色にねめつける。少し光量を落とした研究室、幾人もの研究員が、それぞれの研究に没頭している。
脊髄を中心に神経の一つ一つには金属片、伝達される電気信号を増幅させるのだろう、いくつもの電子機器と繋がっている。
男は何げない動作で、一人、手持ち無沙汰に見える研究員に声をかけた。
「ここではどんな研究をしているのかな」
研究員はなんの戸惑いもなく答えた。
「これからは宇宙への進出です。ここでは、脳の基本データーの抽出を主にしています。ここのデーターを元に人間と機械の融合を促し、いずれは、宇宙服を必 要としない機械の体を持った人間の誕生です、その他、宇宙ステーションを建造するための機械になった人間が、製造作業に従事すれば、今の効率を遥かに超 え、精度の高い作業が可能になるでしょう。これは素晴らしいことですよ」
「なるほど、夢物語が現実になるということか、でも、実際はまだ先の話、私などが生きている間には見ることは出来ないのでしょうね」
「いいえ、五年先にはプロトタイプの完成がほぼ確実です」
「五年ですか・・・、それなら、まだ、生きていられそうだ。ところで、この脳は一体誰の」
「脳は健康なものでなければなりません、これは、このプロジェクトの意義に賛同した」
幸は研究員の解説を途中に、生理液に浮かぶ脳を見つめ、意識を探った。
意識は闇の中にいた。
無、貴方ならきっと助けてくれる、お願い、早く、早く
幸は闇の中に浮かぶ意識と同化し、言葉を繋いだ。
君の名前は
わからない、確かに覚えていたはずなんだけど、忘れちゃった
君は無を知っているの
とっても強い人、あの人なら私を助けることができるはずなんだ、ここから出してくれるんだ
貴方は無なの
私は無じゃないけれど、無に一番近い存在。安心していいよ、私には力がある、まずは君に光をあげよう
闇に白い小さな光が生まれた。光りは徐々に大きくなり、闇を白く染めた。
少女が丸く俯せになって、うずくまっていた。
幸は少女に近づくと、腰を下ろし、そっと少女の髪に触れた。
「目を開けてごらん」
「やだ、暗いのはもうやだ」
「大丈夫だよ」
「明るくしたからさ」
幸の言葉にそっと少女は顔を上げ幸を見つめた。
「ね、明るいでしょ。お姉ちゃんの顔、わかるかな」
「わかる、綺麗な人」
時間感覚が失われていく間に、退行現象が生じ、子供の意識になってしまったのだろう。
「お姉ちゃんがここから出して上げよう。お姉ちゃん、強いぞ、だって、無の娘だからね」
少女が安心したように笑みを浮かべた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
幸は少女の頭を優しく撫で、囁いた。
「今度、目を覚ます時は、青い空の下だ。楽しみに眠っていなさい」
少女は少しうなずくと目をつぶった。

研究室では歓声が上がっていた。
「活性化したぞ、脳が目覚めたんだ」
男の前にいた研究員が悲鳴のような雄叫びを上げた。
激しくモニターが明滅する。各部に取り付けられたセンサーの信号が、グラフとなりプリンターから弾き出される。

ふと、幸は水槽の下、小さな落書きを見つけた。
めぐみちゃん、ごめんね。
「どういうこと・・・」
幸が小さく呟いた。
「三十九という名の殺戮者の本名は誰も知らない。ただ、奴は女になりたがっていた、女そのものに。奴とここにいる彼らの組織と利害が一致したのだろうな、 奴は女の体を手に入れた、追い出された女の脳と心は水槽の中だ。落書きは三十九が、その時の気分で書いてみたものだろう、記念に」
幸は俯き声を振り絞った。
「そういうの・・・、許せない」
「うわあぁぁっ」
幸が悲鳴、いや、雄叫びを上げた。
まるで嵐だ、幸を中心に風が逆巻き、研究員達を壁に天井にと打ち付ける。男は硝子球を浮かび上がらせると、水槽に鋭く投げ付けた。割れるかと思いきや、硝子球は巨大化し、水槽もろとも脳を飲み込んでしまった。
「彼女の脳を破壊してしまったら本末転倒。さぁ、幸、帰ろう」
「許せない、許せない。閉じ込められるのがどれほど苦しいか。絶対に許せない」
男は自分を見失った幸を見た、百年以上に渡る自分自身の苦痛があの落書きをきっかけに顕在化したのだろう。
「幸、心を沈めなさい」
「うおぉぉ、許せない」
俺の声も聞こえないか・・・
男は左手で幸をしっかり抱き締めた。
「幸。どれほど苦しかったか、辛かったか。ごめん、父さんには全てはわからない。でもね、いま、幸には新しい生活があり、たくさんの友達も増えた。それを大事にしてほしいんだ」
幸の体から衝撃波が生まれ、男の内蔵をえぐる。喉から血が溢れる。
男はふと思った。誰にも殺されたくない、幸とずっと変わらぬ生活を続けたいと思った、でも、あぁ、幸になら殺されてもいいかなと思う。幸は泣くかな、泣いてくれるかな。
泣いたら可哀想だな、でも、たくさん、友達も出来たから立ち直ってくれるかな。
考えてみれば、幸と出会うまでは、俺も殺人が日常生活のような男だった。そんな男が真面目な振りして、幸せな生活を送ることが出来た、もう・・・、これ以上は望むべきじゃないな・・・
幸、ありがとう
男の力が抜け、そのまま俯せに倒れて入った。
天井が軋み出す、壁がひび割れた。風は幸を中心にいよいよ激しくなり、
「こらっ、しっかりしなさい」
幸の前に透けて後ろが見える、もう一人の幸がいた。
「もう一人のあたし・・・」
次第に風が収まり、静寂と化して行く。
「空気中の粒子の有り合わせで体を作ったけど、密度が粗いなぁ」
半透明の幸は自分の手のひらを見つめて呟いた。
「あたしが外にいる」
「幸という存在の構成は百のうち九九はあなた、私はひとつだけ。つまり、あなたがしっかりしなきゃいけないの。なのに、このざまはなんなの。もっと、自分の感情を操れるようになさい」
「ご、ごめんなさい・・・」
「ごめんなさいじゃありません。足元、ご覧なさい」
ふと、幸が足元を見る、俯せに、男が倒れていた。
「お、お父さん。うわあぁぁっ。お父さん、お父さん」
慌てて幸はしゃがみこむと男を抱き上げた。
「お父さん」
「大恩あるお父様を殺してしまったのですよ」
「うわあぁぁ」
涙に鼻水、ぼろぼろに泣く幸を、溜息交じりに半透明の幸は見つめていたが、ひざまずくと、幸の顔を覗き込んだ。
「泣くのはそれくらいにしなさい。私にはあなたを叱ることしかできません、この状況を変えることができるのはあなただけなのです」
「この状況を・・・」
半透明の幸は、幸を励ますように、にっと笑った。
「まだ、お父様の心臓が停まって四分。すぐに人工呼吸、神気を吹き込みなさい」
「は、はい」
幸は男を仰向けに寝かせると、口移しに息を男に吹き込む。
「同時に内蔵の修復。それが済んだら、直接、心臓を掴んでマッサージしなさい」
幸は男の背に左手を差し入れ、右手を腹部から中へと溶け込ませて行く。
半透明の幸は辺りを見渡した。倒れた人、コンピューターに挟まれた人、傾いだ機械、見上げた。天井自体が光っている、LEDが内蔵され、最小限の影響に止まったため、こうして明るさが残ったのか。
ゆっくりと見下ろす、幸が放心したように口を開け、宙を見つめていた。
微かに男の心臓が動くのがわかる。
「間に合ったようね」
「はい、なんとか」
半透明の幸は嬉しそうに微笑むと幸の頭をそっと撫でた。
「よくできました。でも、お父様にも困ったものです。執着がないというか、とても恐ろしい冷徹なお方なのに、娘には驚くほど甘い。ご自分の命さえ差し出してしまう、仕方がありませんね、お父様にもっと責任を担っていただきましょう、容易く死ねないように」
「責任を」
「そう、私達はお父様に娘にしていただいたけれど、実のところ、娘よりも妻になりたいのが本心、違いますか」
「もちろん、それは。でも、お父さんは」
「現状はたいしてかわらないでしょうけど、お父様には、妻になってくれと言っていただきます。ね、だから、邪魔しちゃだめよ」


14
最終更新日 : 2013-05-11 17:26:12

異形 流堰迷子は天へと落ちていく四話02

二人の幸は庭の梅林へと戻ってきた。そして、男を仰向けに寝かせ、脳の入った球を空に浮かせる。半透明の幸は、幸に溶け込むようにして消えた。
幸は男の横に膝をつくと、そっと、呼びかけた。
「お父さん、お父さん」
男がゆっくりと目を覚ました。
「あれ・・・、地獄じゃないな。梅林、うちに帰って来たのか」
「お父さん、何処か、痛くない」
「ん、幸。幸は怪我していないか」
「幸は大丈夫だよ」
「そっか」
男は笑みを浮かべると、左に体をずらし、上半身を起こす、慌てて、幸が背中を支えた。
そして囁く。
「ごめんなさい、幸はお父さんを殺してしまいました」
男は左手で自分のお腹に触ってみる。
「ちょっと腹囲が小さくなったかな、ちょっとだけ、かっこよくなったかもな。ありがとう」
「お父さん」
「ん・・・」
「お父さんは幸を叱らないね」
男は困ったように笑みを浮かべた。
「男親はだめだな、叱るという発想が希薄だ。今回のことも父さんがしっかり幸を育てていたらね、こんな、幸自身に辛い思いさせずに済んだのにな」
「お父さんはこのままでいてください。だって、こらぁってお父さんに怒鳴られたら、幸、泣いてしまうよ」
「それは大変だ」
「幸は失敗したら喉が涸れても、ごめんなさいって言い続けるから」
男は左手で幸の頭を撫でる。
「幸はどう行動すればいいか、自分で考えることができる。ただ、今回は昔のことと重なって感情に流されてしまった。でも、そのこと、経験したからね、次は大丈夫だよ。自分自身を信頼してあげなさい」
「お父さん」
幸がそっと顔をあげる。
「幸にはたくさんの友達ができた。それも幸の大きな支えになるよ、きっと」
男は笑顔を浮かべた。
ふと、男は浮かんだままの硝子球に入った脳を見た。
「彼女をなんとかしなきゃな」
幸は振り返ると、硝子球を見る。
「幸が彼女の体を創るよ」
「三位全てがなくなってしまっている、難しいぞ。といって元の体はたくさんの人を殺してしまって穢れてしまっているから使えない、脳まで穢れに侵されてしまう」
「うん、でも、今の幸なら出来そうな気がするんだ」
幸はゆっくりと立ち上がると、硝子球に近づく。
幸が両手を伸ばし、硝子球に向ける。ゆっくりと硝子球が月の白い輝きを放ち出した。
男は驚いてそれを見つめた。次第に白い輝きは人の形を取り出し、その光が消える頃、あの時の彼女をほんの少し幼くした女性が立っていた。
男は驚いたようによろけながら立ち上がった。呪的に構成された体じゃない。あれは、全く、普通の人間だ。
ゼロから体を創ったのか。
「お父さん、彼女の精神が子供に退行していたから、体も少し幼くしてみたよ」
幸が男にそう話しかけた瞬間、ふわっと幸の体が浮かんだ、目を閉じ、幸がゆっくりと浮かび上がって行く。
男は駆け出すと、飛び上がり、左手で幸を抱き締める、しかし、幸の体を男の手は擦り抜けてしまった。
男は茫然と空に浮かぶ幸をぎょしした、全てを理解した。
声にならない音を男は幸に叫んだ。
幸の真の名前。そして、唯一の願いを叫ぶ。
「帰って来てくれ、幸」
幸の目が開き、男をぐっと睨みつける、そのまま、急降下、落ちてくる幸を男は抱きとめ、仰向けに倒れた。
幸は男の上にのしかかったまま、低く男に語りかけた。
「神に戻るはずの私はあなたさまの我欲により、その機会を失ってしまいました。私はもはや神に戻ることは出来ませぬ、私はあなたさまの娘という、あやふやな立場に閉じ込められてしまいました」
「君には申し訳ない、どうしても幸と別れたくなかったんだ」
「それがあなたさまの我欲。今となってはどうしようもありませぬ。さぁ、あなたさまの責任の著しを言の葉になさいませ」
男は決意して言った。
「私の妻になってくれ」
幸はふっと笑みを浮かべた。
「あなたさまの我欲により私は留まります、やっと、幸も私もあなたさまの妻になることができたと嬉しくて仕方がありません。どうぞ、末長く、よろしくお願い致します」
言葉を終えると、幸が二人に別れた。薄い姿の幸が、男と幸の横に座る。
「幸、日中から、仰向けの殿方に馬乗りするとは、はしたないですよ」
薄い姿の幸が幸に笑った。

男は一つ溜息をつくと、二人の幸を前にして語り出した。
「幸はもともとは神様だったのだろうと思う。武術や呪術が父さんの能力を遥かに越えたのも、神と人との基礎能力が遥かに違うからだ。その幸が、彼女の体を 全くのゼロから創り出した。全くの無から有を産みだす、これこそが神の能力だ、この能力を使ったため、幸は自然に神へと、あまねく普遍の存在に変わって行 こうとした」
薄い姿の幸が笑みを浮かべた。
「真実の名前を叫んで、留めていただかなければ大変なことになるところでしたわ」
「あまねく普遍の存在、それは」
男の言葉を薄い姿の幸が繋いだ。
「空気みたいなもの、こうして、お喋りも出来ません」
幸も男と同じ溜息を一つつく。
「貴方は無茶だよ。もしも」
「無茶ではありませんよ。留めてくださると確信しておりましたから」
ふと、気づいたように薄い姿の幸は男を見つめた。
「貴方か・・・。私は幸の別人格ではありますが、こうして体外に出、空気中の粒子を集めて、薄いながらも形どることが出来るようになりました。おまえさ ま、私にも名前をつけてくださいませ。おまえさまが幸に甘い分、私は、たまに幸から出でて、叱り付けなければなりません。そうだ、幸と似たような名前が良 いですわ」
男は困ったが、あらがえずに言った。
「幸乃、にしましょう」
「ありがとうございます、素敵な名前ですわ」
幸乃は男に笑みを浮かべると、振り向き、幸に言った。
「疲れました、私は貴方の中に戻って当分の間、眠りますが、妻として、娘として、しっかり、お父様を支えるのですよ、わかりましたね」
「は、はいっ」
幸乃は、にっと笑うとそのまま、姿を消した。幸はそっと幸乃のいたところに、ふわふわと手を動かしてみる。
「うひぃ、大変だ」
緊張の解けた幸が叫んだ
「もう多重人格どころか、多重人間になってしまったよ」
「父さんの代わりに幸を叱ってくれる人が出来てしまったな」
男がくすぐったそうに笑った。足を投げ出し、幸も情けなさそうに笑う。
「あの人に、幸乃さんによろしいですねって言われると、反射的にはいっって答えてしまう」
「父さんは、以前から、少しずつだけどね、喋っていたけれど、淑やかな、控えめな人に思っていた」
「それは猫かぶっていただけ。幸乃さんは強いよ、幸があんな世界で百年以上、狂わずにいることができたのも、今の幸乃さんという人格と暮らしていたからかもしれない」
幸はごく自然に男を抱き締めると、耳元で囁いた。
「ね、お父さん、今晩、えっちしようか」
「うっ・・・」
男は幸の言葉に固まってしまった。顔が真っ赤にほてり出す。
「夫婦だもの、妻として不思議じゃないよ。幸、とっても気持ち良くしてあげるよ」
「いや、あの、うーん」
男が口ごもる。
「むしゃむしゃ、お父さんを食べちゃうぞ」
「いや、そうだ、確かに父さんは妻になってくれと言った。そうだ、確かにそう言った・・・」
男は自分に納得させようと呟く。
幸は笑いながら、体を離した。
「幸はね、お父さんに要求されたらすぐに受け入れる。だって、本当に愛しているもの。でも、なんていうかな、幸はお父さんにとって特別の存在でありたい。 そう思うと、えっちをしない方がいいのかななんて思う。お父さんにもっと近づきたい、服のその厚みすら邪魔だと思うくらいなんだけどなぁ」
「幸がこんなおっさんを愛していると言ってくれるのはとても嬉しい。ただ、父さんは暗殺者としてたくさんの人達を殺して来た過去がある。殺人鬼と忌み嫌われた時代もあった。すっかり穢れているんだ、父さんは」
幸はにっと笑うと男の左手を両手で包み込んだ。
「ならば、その穢れ。半分、幸が担いましょう」
「いや、大切な娘を汚すわけにはいかない」
「お父さんの頑固者」
「そうさ、父さんは頑固です」
「開き直ったな」
幸が楽しそうに笑った。
「お父さんは幸を妻にすると約束しました。ただ、幸も体を許してしまうと、夫は出来ても、お父さんがいなくなってしまうようでなんだか寂しい。ということ で、本来なら、幸のやりたい放題ですが、幸は優しい娘です、妥協してあげましょう。御風呂を大きくして大人二人が寛げるように明日から工事します。完成 後、裸のお付き合い、背中の流しっこもします。これ以上は譲れません。よろしいですか、よろしいですね」
「わ、わかった・・・」
幸は男に抱き着くと、くすぐったそうに笑った。
しかし、ふっと笑い声を止め、幸はぎゅっと男を強く抱き締めた。
「お父さんを殺してしまったって気づいた時、あぁもうだめだ、幸はなんてことをしてしまったんだって思った。そして、頭が真っ白になって何をどうしたらいいのかもわからなくなったんだ」
「父さんは幸が立ち直ってくれるかな、啓子さんやあかねちゃんたちとしっかり生きていって欲しいと思いながら死んだ、それだけが気掛かりだった」
「お父さんは優しすぎるよ」
幸が唇をかむ。
「それは仕方ない、幸が大切なのは変わらないからさ」
「幸乃さんが初めて幸の前に現れたんだ、叱られて、それから、人工呼吸やお父さんの内蔵を修復するようにって教えてくれた。お父さん、ほんとうにごめんなさい」
「これは、父さんも幸乃さんに頭が上がらないな」
男は少し笑う。
「ね、お父さん、新しい右腕、作ってあげようか。今の幸なら出来るよ」
思い詰めた顔で幸は男の目を見つめた。
「右腕は幸とこれからも一緒に暮らすためになくしたもの、だから、右腕はなくていいよ」
「幸はお父さんに右腕があってもずっとお父さんといるよ」
「ありがとう。でも、その時の思いに、今も誠実でありたいからさ。それとも、幸は、父さんに右腕がないの嫌か。辛いこと、思い出してしまうから嫌か」
「嫌じゃない。ただ、お父さんは幸にとっても甘いくせに、自分にはとっても厳しい」
「かっこつけているだけさ。だって、幸にかっこいい父親って思われたいからな」
男はそっと笑みを浮かべると、左手で幸の頭をなでた。
「今回のことで父さん、思った」
「何を」
「呪的な延命はしないけど、それでもね、長生きして幸とこれからも暮らし続けたいってね。死んだままにならなくて良かった」
「幸はこれからはね、負の感情に流されずにするよ。感情に溺れずにしっかりするよ」
男はくすぐったそうに笑った。
「よろしくお願いします。もう、父さんじゃ、幸の暴走を止められないからさ。さてと、幸。恵さんをなんとかしてくれ」
「うん」
幸はふと立ち上がると、眠ったままの恵を抱きかかえ、戻って来た。
「お父さん、ここで一緒に暮らすのがいいのかな」
「いずれは彼女も記憶が甦るだろう、それまでは心と体を養生させる必要があるだろうな。だから、彼女が戻りたいと思うまではここにいる方がいいだろう」
「そっか、そうだよね」
幸は恵を見つめると、彼女の耳元で声をかけた。
「おおい、目を覚ませ」
幸の呼びかけに恵がゆっくりと目を開ける。
「約束どおり、青空の下だ。見えるか」
「明るい、空が青いよぉ」
笑みを浮かべる恵の瞳が涙で潤む。
ふと、男は坂村が畑からこちらにやって来るのを見た。
「先生、そろそろ、鍋の準備しないと」
幸の膝に裸の女がいるのに気づく。
「まっ、大概のことには驚きませんけど」
坂村が恵の顔を覗き込んだ。
「あれ、恵だ」
幸は見上げると坂村に尋ねた。
「知り合いなの」
「大学の時の、一つ下の後輩です、クラブが一緒で」
幸は男を見つめた。
「そうだな、人を闇に追いやる一連の仕組みが、その大学にあるのかもしれない」
幸は溜息をついた。
「お父さんと静かな生活を送りたいのに」
「父さん、幸に付き合うよ。でも、今は鍋のこと、考えさせてくれ。こんなにお腹が減っているのは初めてだからさ」
幸は男の内蔵を再生させた時、老廃物をすべて消したことを思い出した。
「うわっ、すぐに用意するよ。恵子さん、恵さんをお願い」
幸は坂村に恵を預けると、慌てて、家へと戻った。
「先生、何があったんです」
「そうか、まだ、数時間しか経ってないんだな、お昼食べてから」
男は笑うと、坂村に言った。
「大冒険活劇。それに幸が二人になった」
「幸さんが二人、それって、姉妹喧嘩で世界が滅びますよ」
「その時はあきらめてくれ」
男が笑った、坂村も情けなさそうに笑う。
「坂村さん、彼女に服を着させてくれないかな。服は幸に選んでもらってください」
坂村は頷くと恵を抱きかかえ家へと戻った。

「こんなに賑やかになるとは思いもしませんでした」
男がふっと呟く。その男の横には幸乃が座っていた。半透明で後ろが透けて見える姿はまるで幽霊のようにも思える。
「ただ、女性ばかりですわね」
「幸乃さんはその方がいいのでしょう」
「ええ、おまえさま以外の男は嫌悪しています、幸も私も」
少し不機嫌そうに幸乃は答えた。
「男は性根が汚いのばかりです。一キロ以内に近づくなという気分」
「それは手厳しい」
「百数十年、男を食ってきた結論です」
ふっと幸乃は笑みを浮かべると男を見つめた。
「おまえさまは幸と情を交わされようとされませんね。御風呂で背中の流しっこ、まるで子供同士のよう。せっかく、背中を押して差し上げましたのに」
「多分、それは父と娘という関係を大切にしたいと考えているからかも知れません。何の計算も打算もなく、見返りも必要とせず、ただ、大切と思うことの出来る関係。この関係は現在進行で私を救ってくれています」
「そんな素直に返されてしまうとは・・・。でも約束は約束。おまえさま、浮気はご法度。幸と幸乃は娘でもあり、妻でもあること。お忘れなきように」
「ええ、大丈夫ですよ、幸乃さん」
幸乃はふと思案顔に俯いたが、すぐに顔を上げた。
「おまえさま、試しに幸乃と呼び捨てになさいまし」
「幸乃・・・、ですか」
幸乃は得心いったかのように笑みを浮かべた。
「私のことも幸乃と呼び捨てになさいまし。その方がうれしゅうございます」
ふっと顔を寄せると幸乃は男に囁いた。
「もぉ、幸乃だってお父さんの娘なんだよ。大事にしてくれなきゃ怒るぞ」
幸乃の笑顔が凍りつく、真っ赤な顔をして俯いた。
「あ、あの」
男が戸惑う。
「あぁ、だめだ。恥ずかしい、今のは無しにしてくださいまし」
幸乃は自分自身に呆れたかのように声を出して笑った。
「私はおまえさまのことを、父としてより、夫として見ているようです」
「大事に思ってますよ」
幸乃は照れ笑いを浮かべると、家を見やった。
「幸にたたき起こされました。おじやを作りながら、お父さんが死んじゃうと泣いて、私に見に行ってくれと。随分、しっかりしたくせに、おまえさまのこととなると、頼りない子供になってしまう。ほんに面白いこと」
「大事に思ってくれる人が居てくれるのは嬉しいことです。ただ、私自身があまり大切には育ててもらっていないので経験がない。このままでいいのかなと思います」
「いいのですよ。今のまま、幸と幸乃を大事に育ててください。この御恩は存在と笑顔でお返し致しますわ」
家の中から坂村の叫び声が聞こえた。
「ん、どうしたのかな」
「あぁ」
幸乃はいたずらげに笑った。
「物事に動じない坂村さんのこと、それならばと、あの方の目の前で、幸の背中から、蠢くようにおどろおどろしく登場致しました。硬直されていましたが、やっと意識を取り戻した様子」
男も仕方無さそうに笑う。
「考えて見れば、食卓がないと私は食べることができません、家に戻りましょう」
「そうですね、私も坂村さんとお喋り致しますわ」
男が歩く、幸乃もその横を歩いた。
男は思う、存在と笑顔、本当にそれだけで充分だ、願わくは、この関係が少しでも長く続きますようにと心から願った。
15
最終更新日 : 2013-05-11 17:27:45

異形 雨夜閑話一話

男は落ちつかずにいた。
幸が一週間かけて造った風呂場、いや、浴場だ。大人、五、六人はゆっくり入ることができる。男は足を伸ばし、ゆっくりと湯船につかってはいたのだが、それ でも、落ちつけずにいた。それは幸との約束、一緒に風呂に入って背中の流し合いをするという約束に、わかったと答えつつも戸惑いをかくせずにいたからだっ た。幸との約束は必ず守る、しかし・・・。
「お父さん、入っていい」
後ろ、曇り硝子の向うから、はしゃぐ幸の声が響いた。
「どうぞ」
戸惑いながらも、男は背中越しに返事をする。
硝子戸を開けた幸は白く透き通るような肌を惜し気もなくさらす、その姿はまさに人の領域を越えた神々しさすらある。
幸はいきなり駆け出すと飛び上がり、男の前に飛び込んだ。男の視界を水しぶきが遮り、それが、収まった時、幸が面と向かい、男の太ももに馬乗りになって笑顔を浮かべていた。
「お父さんと一緒だ」
「幸、降りなさい」
幸が目を瞑り小さく喘いだ。
「あん、お父さんのが・・・」
Γうわっ、幸、早く降りなさい」
幸はあやしげに笑みを浮かべ、男を見つめ囁いた,
「だめだよ」
幸は少し腰を浮かせると、男にしっかりと抱き着いた。幸が男に胸を押しつける,
吸い付くような肌。そして、男の耳元で囁いた。
「お父さんの、入れちゃおうか」
「幸、だめだ、それは」
ふと、幸は男の耳元で哀しげに囁いた。
「お父さん、幸を妻にしてくれるって言ったよ。言ってくれたよ」
男は幸と暮らす上で、一切、幸には嘘をつかないと決めていた。
「そうだったね、ごめん、父さん、確かにそう言った」
俺はいいのか、幸を汚してしまう、幸は後悔しないか。男である俺は父親という立場で、幸と生活をしている。幸は今後、苦しまないだろうか、恐れないだろうか。安寧に暮らすことができるだろうか。
「うっ」
幸が男の耳を噛んだ。
「お父さんはあまあまですなぁ。とっても、チョコレートです」
幸は笑みを浮かべ男から降りると、左に座り男の腕を両手で抱いた。
「ごめん、幸」
「お父さんは男だけど幸を本当にね、大切に思ってくれている、それがわかってるから、幸は大丈夫だよ」
幸は男の腕を両手で抱えたまま、目を瞑り、そっと呟いた。
「いつもありがとう、お父さん」

男は居間に設えた掘リ炬燵に足を入れ、勿論、春の暖かさに炬燵布団は外していたが、ばて切ったように仰向けに寝転がってしまった。
何事もなく洗い場で背中を流し合い、先に男が風呂からあがる。すっかりのぼせてしまっていたのだ。
妙なことにはならず、いや、一緒に風呂に入ることそのものが、妙ではあるのだが、風呂を終え、男はほっとしていた。
俺は幸の父親だ。
男は幸と始めて会った時のことから、暮し始めて、まだ、幸が不安定な頃のことを思いだす。
俺は幸を絶対に守ると決めた。そして、それこそが俺の生きる理由になったんだ、守るべき幸を俺が汚してどうする。

「お父さん」
幸が襖を開け、男を覗き込んでいた。男は体を起こすと、ちょっと照れたふうに笑った。
「ごめん、父さん、とってもかっこ悪かったな」
幸はかぶりを振ると、そっと男の前に正座した。
「ごめんなさい、幸、はしゃぎ過ぎて、とってもえっちになってた。服を着たら、なんだか落ちついて、そうしたら、お父さんにとっても迷惑をかけたのに気づいて。」
男は少し笑みを浮べ、幸の頭を撫でる。
「迷惑なんて思ってないよ、父さん、幸が大好きだからさ。ただ、父さんは、今、とっても臆病なんだ。この生活が、今の関係が壊れたらと思うとね、とっても、臆病になってしまう。かっこ悪いな」
「幸もお父さんが大好きだよ、この生活を絶対に守るよ」
「ありがとう。父さん、幸を束縛していないか、無理させていないか」
「お父さんは幸に生きていくためのもの、いっぱいくれたよ。だから、幸は一人でも生きて行けるかもしれないけど、幸は自分がいたいから、お父さんと一緒にいるんだよ」
「そっか、ありがとう、幸」
男は左手で幸をそっと抱き寄せると、自分に語りかけるように呟いた。
「父さん、心の中では嬉しくって、声を上げて泣いているよ。大人だからさ、大声で泣いたりしないけどね」
男は手を戻すと幸に、少し恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
「お父さんは少年みたいだ、幸の心をとろとろのスープにしてしまう」
「こんなおっさんが少年なわけないよ。さ、晩御飯を作ろう、お腹、空いていないか」
幸は、足を崩し、ばたんと仰向けに寝そべってしまった、
「うわぁ、お腹減ったよぉ。そうだ、とろとろのポタージュスープが食べたい」
「じゃがいもと玉葱、あったな。それじゃ、大事な幸が飢えてしまわないように作ってくるよ」
立ち上がった男に幸がしがみついた。
「幸も行きます、そして、味見をして差し上げましょう」
「幸は厳しいからなぁ、美味しくないって言われたら、父さん、今度は悲しくって泣くかも」
「大丈夫。幸はお父さんには甘いからね。ね、立つのが面倒、お父さん、台所まで引っ張ってください」
「そんなことしたら、脚が擦りむけてしまうぞ」
男は左腕で軽く幸を抱え上げた。

幸は晩御飯を堀炬燵の上に並べた後、硝子戸を細目に開け、夜の外を覗く。
雨音と共に、遠く、蛙の鳴声が聞こえた。
男は左腕でお茶の沸いたやかんを持ってくる。掘り炬燵に入ると、幸に話しかけた。
「雨が降り出したのか、雨蛙だな」
幸は硝子戸を閉め、振り返ると頷いた。
「多様化して面白いことになったな」
幸も掘り炬燵に入ると、少し困ったように笑みを浮べる。
「ごめんなさい、お父さん」
「謝ることはないよ、これが本来の姿だからね」
異界は異物の侵入に警戒するため、単純な生態にしていたのだが、畑を作ることでさまざまな動植物が増えてしまっていたのだった。
「幸の影響かな、父さんも農業に興味が出てきたよ」
「お父さん」
幸がそっと囁いた。
「ん、どうした」
「幸はたまにね、こう思うんだ。現実世界と異界との繋がりを閉ざしてしまって、お父さんと異界で二人っきりで生活してみたいってね」
「疲れたかな」
「そうじゃないんだけど、ちょっとね」
ふと、男は幸の背中から首筋へと手をやった。そして、首筋を包み込む。
「なんだか、暖かい、気持ち良くて体が浮かんでしまいそう」
「澱のように疲れが溜まっている、ちょっと頑張り過ぎだな、幸は。どうだ、軽くなったか」
幸は頷くとそっと笑みを浮かべた。
「お父さんは頼もしいなぁ」
「ありがと。な、幸」
「ん・・・」
「いずれは異界に生活の拠点を移動させる必要があるだろうと思う。それが多分、双方の幸せだ。それは父さんも思うよ」
幸はそっと頷いた。
それ以降は二人ともその話題には触れず、晩御飯を食べ始めた。
「お父さん、このポタージュスープ、美味しい、味見した時より美味しくなってる」
「工夫をひとつ足したからな。合格できたかな」
「合格です、お店にも出せるよ」
幸は、にひひと笑うと、嬉しそうにスープを飲む。
「最初はカウンターだけだったな」
「うん、基本は木目調、オークとかね、濃い目の色合いで統一。いい感じになると思うよ」
「楽しみだな」
幸は男の顔を見上げると眩しげに笑った。
「お父さんのお陰で幸はいろんなことができる、ありがとう」
「いや、幸が頑張りやさんだからさ、父さんはあたふた幸の後ろを追いかけているだけだよ。でもね、それがとても楽しい、ありがと」
幸は男の左手を両手でぎゅっと握る、そして、自分の額を重ねた。
「お父さん、幸を娘にしてくれてありがとうございます」
「父さんこそさ、幸が居てくれなかったら、悪人のままだった、救ってくれてありがとう」
不意に幸が顔を上げた。
「護り髪、礼子ちゃんだ」
「何かあったんだな、父さんも行くよ」
「幸、一人で行ってきなさいな」
「幸乃さん」
男は幸の横に、幸乃が座っているのに初めて気が付いた。
「いま、幸の体から出てきました。お父様には折り入ってお話ししたいこともあります。幸、一人で行ってきなさい」
「一人で行くのは大丈夫だけど、幸乃さん、お願いだから・・・」
幸乃がにいぃっと笑みを浮かべた。
「万事塞翁が馬、安心しなさい」
「あぁ、幸乃さんのそれが・・・、本当に変なことを言わないでください。幸は今の生活に満足していますから」
幸乃は笑みを浮かべたまま、幸を推す。
「早くしないと、礼子ちゃん、喰われてしまいますよ」
「お、お父さん」
「ん」
「幸は今の生活に満足しています、本当だからね」
「ありがと。そうだ、幸、これを持って行きなさい」
男は空から硝子球を取り出すと幸に手渡した。
幸の姿がかき消すように消えた。
「さてと」
幸乃は男を少し睨む。
「お前さまは幸の気持ちがわかっていません、たとえば、ほれ」
幸乃が男の右の肩口を指さした。
「これは・・・」
「お前さまにも理屈はございましょう、ようは、その御理屈と幸のどちらか大切か、天秤に掛けてごらんなさいませ」

幸は妙に人気のない、夜の街に一人立っていた。かなりの繁華街のはずであるのに、誰ひとりいない。
ブランドを並べた、個性豊かな、いくつもの店が煌々と軒先を照らしている、しかし、物音ひとつしない。すべての音が消えていた。
捕獲者には音が邪魔なのだろう。
幸は幸乃が言うであろうことを理解していた、願わくは、あいまいにそれとなく、言って欲しい、いや、言わずにいてくれればそれが一番なのだ。
幸は男に、これ以上負担をかけたくなかった。
「早く済まそう」
幸が小さく呟いた時、遠く、足音が響いた。
足音二つ、思いっきり駆けている。
啓子の妹、礼子だった、同じくらいの背丈の女の子の手を引っ張るように走ってくる。
「幸さん。どうしてここに」
礼子は息せききって幸に駆け寄った。
「早く逃げてください、鬼が追ってきます」
「わかってる、だから来た」
幸はふと礼子が手を握っている女の子を見つめると、片手でその顎をくっと上を向けた。
「中原理絵子、礼子ちゃんの親友か。自分の親友を危険に晒すなよな」
「幸さん、早く」
礼子が叫んだ。
「大丈夫、ここで鬼共を始末する」
幸は片手で理絵子の腹を押さえた。
「鬼をはらまされたか。落としておくか」
「あたしの赤ちゃん・・・」
「馬鹿野郎、お前の中にいるのはただの鬼だ」
幸の手が理絵子の腹に入り込み、その手を抜いたとき、青く光る、角のある赤ん坊が、その瞬間、幸の手の中で紅蓮の炎に燃え、消えてしまった。
「あ、あの人の赤ちゃんが・・・」
幸は理絵子を睨みつけると、ぐっと顔を寄せた。
「あの男のことは忘れな、もう人じゃない。なぁ、片思いでいいなら、既婚のあたしに惚れてみるか」
幸がにっと笑った。

「やっと見つけたよ、理絵子。急に走りだしてどうしたんだよ」
男が二人、やって来た。
「幸さん、あいつらが鬼です、今は人の姿をしているけれど。角が、牙が」
「礼子、理絵子を後ろから羽交い締めにしなさい」
「は、はい」
慌てて、礼子は理絵子の後ろに回ると両手でしっかり抱き締めた。幸が硝子球を二人の上に軽く放り投げる、硝子球は粉々になって二人の回りを回転しだした。
「礼子、動くなよ。その結界の中にさえいれば安全だ」
「は、はい」
男たちが近づいてくる、ほんの数メートルのところで、幸は男たちを制した。
「これ以上近づくな、あたしは男嫌いでね」
「うひゃあ、すげぇ美人さんだ。な、理絵子、紹介してくれよ」
幸は空から抜き身の刀を取り出した。
「早く鬼に変態しな。人の姿では太刀打ちできないぜ」
男は本性を現したかのように幸を睨み付けた。

「お前、ただの女じゃないな」
「ああ、ただの女じゃない、すげぇ美人さんだ」
幸はにぃと口を歪め笑みを浮かべると、右手で刀を持ち刃先を男に向けた。男たちは表情を変えた。軋むような音が男達の体から響きだし、巨大化して行く、ほんの数秒のうちに、青く燐光のように光る鬼が二体、立っていた。
「礼子」
「はいっ」
「姉妹そろって運が悪いな」
一瞬、幸の姿が消えた。いや、あまりの速さに礼子の目では幸の動きを追うことができなかった、それは、鬼にとっても同じだった。二体の鬼の首を同時に刎ねる、その血しぶき浴びるよりも早く、幸は鬼の背中に移動すると、その原をなぎ払った。

幸が再び、礼子の前に現れた時、その背後にはいくつもの青い肉塊が転がっているだけだった。
「燃やしておくかな」
幸の呟きに呼応するかのように肉塊が燃え上がり、黒い消し炭となって消えてしまった。
ふいに幸は少し離れた街路樹に向かって声をかけた。
「そこの魔術師、出てこい。まさか、無事に帰れるなんて思ってないだろうな」
黒いマントを羽織った男が姿を現した。
怯えきった表情で幸を見る。
「せっかくだ、あんたも斬っておくか」
「そ、それだけは勘弁してくれ」
幸が魔術師を睨んだ。
「なるほど、人狩り。鬼の遊び、あんたは、その連絡係ということか。なんだよ、鬼の使いぱっしりじゃねえか」
「均衡が崩れたんだ、鬼がどんどん強くなって来た」
「まさか、世情の乱れを責にするつもりじゃないだろうな」
幸は魔術師の言葉を冷たく返した。
「お前らが弱すぎるんだよ。ん、お前、あの暗殺寺の出身か」
幸はふと愉快そうに笑みを浮かべた。
「もう一度寺へ帰って修行をし直せや、絶世の美女にそう言われたって言えば、館長も受け入れてくれるぜ、もっとも、あんたが生きて寺へ辿りつけたらの話だけどな。早く行け」
魔術師はあたふたとうなづくと姿を消した。
「あれは鬼のところに戻るな」
幸は関心をなくしたように冷たく呟いた。
振り返ると幸は硝子の結界を消した。
「幸さん、ありがとうございます」
ほっとしたのか礼子はしゃがみこんでしまった。
「めったにない経験ができたわけだ、ただし、次は助けないぞ」
幸は怒ったように言うと、手を横に伸ばした、その手が消える、
「あ、うわぁっ、な、何」
啓子が幸の手に背中を引っ張られ現れた。左手にお茶碗、右手にお箸を持ったまま。
「幸さん、無茶ですよ。晩御飯食べていたのに」
「悪いな、礼子ちゃんが鬼に襲われた」
「え・・・」
啓子はしゃがみこんでいる礼子を見つけると、慌てて抱き締めた。
「礼子、大丈夫。怪我は」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん」
「あまり大丈夫じゃない」
幸が啓子の背中に話かけた。驚いたように、啓子が振り返る。
「礼子ちゃんと、その理絵子ちゃんは、一週間、預かる、ゆっくりと穢れを払ってやるよ」
「よろしくお願いします」
啓子が頭を下げた。

幸は三人を連れ帰ると、そっと玄関を開けた。
上がり口に笑みを浮かべた幸乃が立ち、四人を向かえていた。
「お疲れさま、御風呂わいていますわよ」
「幸乃さん、お父さんには・・・」
「迷った時は前進あるのみ。しっかりはっきり申し上げました、あとはよろしく」
幸乃は幸に近寄ると、すっと幸に溶け込んでしまった。
幸は留守にしていた間の幸乃の記憶を確認して慌てふためいた。
「啓子さん、二人を御風呂に入れてください。そして、徹底的に体を洗わせるように」
「は、はい」
啓子の返事を聞く間もなく、幸は男がいるであろう御風呂の竈へと駆け出した。
新しい御風呂は薪で焚くようになっており、外に竈が設えられていた、もちろん、中からでも追い炊きくらいはできるようになっている。
男が竈で薪をくべていた。
「おかえり、体冷えたんじゃないか、もう一度、幸、風呂に入るか」
「お父さん」
「ん」
幸は男に駆け寄ると、しゃがんでいる男の前で跪いた。
「ごめんなさい。幸乃さんの話したことは」
男がくすぐったそうに笑った。
「幸乃さんのこと、怒らないようにね」
「でも」
「幸乃さんにとって幸はとても大切な妹なんだろう、だから、幸の幸せを一番に考えている、たとえ、自分の存在が消えても、幸が幸せであればってね」
「その辺、父さんも同じように幸が大切だ。幸の幸せが父さんの幸せだからさ」
男は手を伸ばすと、そっと幸の頬に触れた。
「幸が幸せでありますように」
幸が男をぎゅっと抱き締めた。
「お父さん、幸乃さん、ありがとうございます。幸はとっても幸せです」
幸は男の心臓の鼓動を楽しむかのように男に身を寄せていたが、ゆっくりと顔をあげた。
「右腕、作らせてください」
「ありがとう」
ふと、幸が玄関口の方向を見つめた。
男はくすぐったそうに笑った。
「幸、啓子さんを攫って来たんだろう、恵さんと啓子さんのお母さんだ」
恵は実家には戻らず、啓子の家で居候をしていた。食事時、啓子が目の前で消えるのを見て、男の元に慌てて相談に来たのだった。
「お父さんと二人っきりの生活が・・・」
「なんだか、当分、賑やかになりそうだな。玄関口へ二人を迎えに行きなさい」
幸はうなずくと、玄関口へと走って行く。
男が風呂場へと声をかける。
「啓子さん、湯加減どうだい」
「ありがとうございます、ちょうどいいです」
中から、啓子の声が聞こえた。
「幸も御風呂にはいるだろう、中から追い炊きできるから後は任せるよ」
「ありがとうございます」
男が居間に戻ると、幸が二人に謝っていた。男はくすぐったそうに笑みを浮かべると、お茶を沸かしに台所へ向かった。
とたたっと幸が男の元にやって来た。
「お父さん、ごめんなさい、二人も今晩泊まることになっちゃったよ」
「いまから夜道を帰るのも危ないだろう、もう一度、御飯を炊かなきゃな。野菜は畑にあるだろうし、冷蔵庫はどうかな」
冷蔵庫を開け、しゃがむ男の後ろから、幸がその背中におぶさり、男と一緒に覗き込む。
「お父さん、これは鍋だね。かしわとお豆腐」
「そうだな、野菜で水増しして。冷御飯は雑炊用、これから炊く御飯はおむすびにしてしまおう」
「なんだか、お父さん。民宿の亭主と女将は大変だ」
「大丈夫だろう、うちの女将さんはしっかりしているからな」
幸がにっと笑った。
「うちの亭主は気配り上手だし」
男は急須と湯飲みを二つ用意する。
「持って行きなさい、もうすぐお湯も沸くからさ。それと、啓子さんに御風呂の沸かし方を教えてあげなさい」
「うん、わかった」
幸は急須と湯飲みを持って、二人のいる居間へと行く、男はそっと笑みを浮かべた。
賑やかなのはいいな、男は呟いた。

16
最終更新日 : 2013-05-11 17:31:14

異形 雨夜閑話二話

「眠れないのか」

幸は隣りの布団に眠る啓子に声をかけた。男は自室にて、一人眠り、幸は啓子と礼子と理恵子の四人で寝ていた。

そして、啓子の母親と恵は、別の部屋に寝ていたのだった。

礼子と理恵子のニ人は、喉が乾いたのか、ニ人して台所へと部屋を出、この部屋には幸と啓子のニ人だけだった。

「啓子さん、鬼の鱗粉が見えるようになったのか」

布団の中から幸が問いかけた。

啓子は薄暗がりの中、幸を見つめてうなずいた。

「都会に住むことができなくなりました。あちこちに青い燐光のような靄が、ふわふわ浮んでいるのが見えるんです」

「鬼の穢れ、つまりはそこに鬼がいるか、もしくは少し前までいた。人に着くこともある、なんらかの理由で鬼に接触した、その影響だ」

「礼子は両手に、理恵子ちゃんは体全体、特にお腹が青い光る粉を振りかけられたように光っていました。あれは・・・」

「啓子さんの思う通りのことさ、ただ、先までの賑やかな宴会で。まさか、啓子さんのお母さんがあんなにはしゃぐとは思わなかったけどな」

幸は少し笑うと言葉を続けた。

「賑やかな宴会で、随分、鱗粉が消えただろう」

「はい」

「ここの空気を吸い、ここの水を飲み、ここで出来た野菜を食べれば穢れが浄化して行く」

「不思議ですよ、ここにいれば何があっても安心だって自然に思えてきます」

幸はくすぐったそうに笑った。

「ここは避難場所なのかもしれないな。ん、理恵子ちゃんが幸のこと、喋っている」

「なんて言っているんですか」

幸が小さく笑った。

「秘密だな、これは」



台所のテーブルにつき、礼子と理恵子は薄暗がりの中、水を飲み、話をしていた。

「ショックだったよね、理恵子の彼氏。あんなふうになってしまって」

「それが・・・」

「どうしたの、理恵子」

「今は不思議なほど、悲しくないんだ、確かにびっくりはしたけど・・・。ね、幸さんって既婚って言ってたよね。ご主人ってどんな人」

礼子はしばらく考えて答えた。

「姉さんは、幸さんはとても奇麗で魅力的な人だけれど、あまり好きにならない方が良いって言ってた。あらゆる男がつまらなく見えてくるからって」

理恵子はひとつ吐息を漏らした。

「今、そんな気分。だって、とってもかっこよくって、それでいて、晩御飯の時には、とっても可愛くって。甲斐甲斐しく叔父さんの右手代わりにお世話しているのを見ると胸が熱くなって」

「恥ずかしそうに、幸さんのお父さん、自分で出来るからって困ってたね」

礼子がくすぐったそうに笑った。

「理恵子も幸さんにお世話されたいの」

少し理恵子が俯き呟いた。

「そんなんじゃないよ、ただ・・・、こういう娘がいるんだなぁって記憶の何処かに残していて欲しいっていうか、あの、えっと、なんだろう、なんて言ったらいいのかな」

理恵子が急に苦しそうにあえぎ出した。

「ど、どうしたの」

駆け寄ろうとする礼子を、飛び出してきた啓子が素早く押し止どめた。

「お姉ちゃん、放して」

抗議する妹を押さえ付けながら、青く光り出した理恵子の体を啓子は睨むように見つめていた。

幸は何事も無かったように冷蔵庫から堅く絞った冷やしタオルを理恵子の額に重ね、首の後ろを優しく撫でる。

「言祝ぎ申す。青き闇に蝕まれし、御身、御心、我が言葉の響きにて浄化せしめん」

幸が囁くように寿歌を呟くと、ゆっくりと青い光が消え、理恵子は力が抜けたように椅子の背もたれにもたれ掛かってしまった。

「脊髄にまで入り込んでいた鱗粉がかなり浄化出来たよ」

幸は笑みを浮かべると、軽くぽんぽんと理恵子の頭を叩いた。

「おい、気持ち、軽くなったか」

「は、はいっ」

理恵子が飛び上がるようにして答えた。

幸は小さく笑うと理恵子の両肩に手を置いた。

「もっと強くなれ、明日から、農作業で幸が鍛えてやるよ」

それから、幸は3人を部屋に戻し、男の部屋の前に立った。

「お父さん、いいかな」

「どうぞ」

襖の向から男が答えた。そっと、幸が襖を開けると男が布団の上で上半身を起こしていた。月明かりが微かに部屋の中を照らす。

幸は男の横に正座する。

「理恵子ちゃんは大丈夫だよ」

「うまく浄化出来たようだね」

男は笑みを浮かべると、立ち上がり、窓を細く開けた。涼しい風が微かに流れ込んで来る。

「上弦の月、真っ白な明かりだ」

「お父さん」

「ん・・・」

「啓子さんが鬼の鱗粉を見ることが出来るようになってしまったって」

「それは、父さんも気づかなかった。どうしたものかな」

男が幸の前に座る。

「昔の人にとって、鬼の気配を感じることは何も不思議なことじゃなかった。もちろん、視覚として見ることの出来る人は少なかったけど、嫌な匂いとして感じ たり、なんとなく嫌だってね、感じることが出来た。今はその能力を無くしてしまって鬼の犠牲になる人が増えている、それに合わせて鬼の力が大きくなってき たんだけどな」

「どうなんだろ、教えた方がいいのかな」

男はしばらくの間、考え、答えた。

「教えていいよ。鬼が啓子さんのことを知れば、必ず殺しに来るだろう、自分の身を守るすべは持っているほうがいい」

「うん、それじゃ、啓子さんが望めば教えるようにするよ」

男はうなずくと、そっと幸の頭を撫でる。

「いろんな縁が出来て、幸も大変だな」

「でも楽しいよ。ただ、お父さん」

「ん・・・」

「幸はお父さんと二人っきりでもいいんだ」

そっと幸は男を抱きしめ呟く。

「異界にふたりっきりで生活するのもありかなと思う。ね、お父さん、今夜はこのまま一緒に寝ようよ」

男はそっと笑みを浮かべた。

「それはとても嬉しいな、ただ、父さんはさ、この頃、ひとつ、欲が出来たんだ」

「欲って」

幸がそっと男の顔を見つめる。

「幸はとっても良い娘だ、真面目で気立てが良くて、父さんのことも大切に思ってくれる。幸がとっても良い娘だってことをさ、幸を知る人にもわかって欲しいって欲だ。理恵子さん、幸に憧れているだろう、まだ、少し心が不安定だ、だから、横に居てあげなさい」

幸は両腕を男の首に回すと、顔を近づけ、軽く男の耳を噛む。

「お父さんはずるいなぁ、でも、本当に幸のことを思ってそう言ってくれるから、やだって言えないよ」

「幸」

「ん・・・」

「ありがとうな、父さんのこと、思ってくれて」

「幸の方こそ、ありがとうございます」

男は幸の背中に左手をやると、小さく吐息を漏らす。

「幸が居てくれること、それはとっても父さんを幸せにしてくれる。幸の歩く音、お皿を置いたその音、どんな小さな音でさえ、あぁ、幸がここに居るんだと気づかせてくれる、父さんはとても幸せになる。ありがとう」

幸が静かに静かに泣く。

「もう少しだけ、お父さん、このままで居させてください」



幸がぼぉっとした表情で歩く、男の部屋から出、暗い廊下、元の部屋へ戻る途中、啓子が暗がりの中、台所でテーブルに着き、水を飲んでいた。

「幸さん、いいですか」

啓子の声に、ぼぉっとした表情のまま、幸が振り向いた。

「あぁ」

幸は頷くと、啓子の隣りに座った。

「啓子さん、ごめん、ちょっと待っててくれ」

幸はテーブルの上に上半身を投げ出すと、うふふっと笑い出す。

「どうしたんですか、怖いですよ」

「お父さん、優しくってさ、あぁ、もぉ、とっても可愛いんだ」

幸は上半身を起こすと、啓子の飲みかけのコップに入った水を飲む。

「少し、落ち着いた。で、啓子さん、どうしたんだ」

「お願いしたいことがあります」

啓子が幸に向き直った。

「なんだ、改まってどうしたんだ。幸のお父さんはあげないぞ」

「いらないです」

「即答されてしまった」

幸は楽しそうに笑うと、啓子をじっと見つめた。

「幸さん」

「ん」

「私、鬼と闘えるようになりたいんです」

幸は目をそらすと、背もたれにもたれ、天井を眺めた。

「啓子さんは鬼の鱗粉を見ることができるようになった。だったら、それを避けて生きて行けば大丈夫だ、鬼に出くわす可能性は他の奴より随分少ない」

「でも、あの青い燐光を見かける機会が随分増えています」

「礼子ちゃんを守りたいのか」

幸はふと視線を啓子に向け、呟いた。

「は、はい」

「お姉ちゃんは妹離れが出来ていないな、まっ、幸も人のこと言えないけどな」

「母が離婚したのが私が中学生、礼子は小学生になったばかりでした。母は朝から晩まで仕事、だから、私が礼子をしっかり育てなきゃって、そんなふうに生きてきました」

「礼子ちゃんは啓子さんに感謝しつつも、ちょっと煩わしく思っている、礼子ちゃんも、もう高校生だからな、彼女、しっかりしているぜ」

「ちょっと・・・、距離を置かれてしまっています」

仕方無さそうに啓子が笑った。

幸も困ったように笑みを浮かべ、啓子に向き直った。

「お父さんからは、啓子さんに武術を教えてもいいって承諾は貰っている、ただし」

「はい」

「幸の武術はお父さんからいただいたもの、お父さんや幸の意に沿わない使い方を啓子さんがした場合は、啓子さんを殺しに行く。まっ、端的に言えば、己が楽しむためや快楽追求のために武術を使うなってことだ、約束出来るか」

「はい、約束します」

啓子は幸をしっかりと見つめ答えた。

「今から教える、いいか」

「はい、お願いします」

「外に出よう」

幸は啓子を促すと、畑の道を歩き、梅林へと入った。月明かりに、辺りが微かに見える。立ち止まり、幸が啓子に話しかけた。

「この武術の名はなみゆい。それは動きの基本、波の動きと結ぶという所作から来ている。そして、首から下、膝から上、胴体の変化が腕や脚の動きを促す、それだけは頭にたたき込んでおいてくれ」

緊張した面持ちで啓子が頷いた。

「教えるのは基礎と方向性、後は自分で再発見して理解を進めること」

幸は啓子の前に立つと、右腕を啓子に向けた。なんの戸惑いもなく、啓子の右腕が幸に向かう。

「勝手に手が動きます」

「いま、幸が啓子さんの体を操作している。人の理想的な動き、人に対しだけでなく、様々な形態の魔物に対応したなみゆいという動き方を自分自身の体を通して経験し、しっかり記憶しなさい」

幸はにぃぃっと笑った。

「悲鳴上げるなよ」

二人の姿が消えた。いや、正確には目で追える速度を越えてしまった。風鳴りが響き、梅の枝が縦横無尽に揺れる。



朝、男が目を覚まし、台所へ入ると、幸がお味噌汁を作っていた。

「お父さん、おはようございます」

「おはよう、お味噌汁か、良い匂いだな」

「玉葱とワカメのお味噌汁。お味噌汁の基本です」

幸はにっと笑うと、小皿にお味噌汁を少し入れ男に手渡した。

「いつもと違うな」

「うん、啓子さんのお母さんに教えてもらった。最初に野菜を蒸す。これが大事なんだって、形がくずれなくて見た目もいいなぁ」

男は人の気配が減っていることに気づいた。

「ん、佳奈姉さんと母さんは店の準備があるからって帰ったし、啓子さんのお母さんはお仕事、早出なんだって」

「高校生二人はまだ寝ているのか」

「明け方までお喋りしていたみたい」

「いろいろあったろうからな」

男は冷蔵庫からお茶をとりだし、一口飲むと幸に言った。

「なにか手伝おう」

「ね、お父さん、恵さんを迎えに行って」

「恵さんを・・・」

男は呟き、振り返ると、向こう、梅林の方向を眺めた。

「迷子か」

「恵さん、気楽に歩いているけど、折角だから、みんなで朝ごはんを食べようと思って」

「啓子さんは」

幸がいたずらっぽく笑った。

「夕方までは死んだように眠っていると思う」

「早速、練習したのか。啓子さんはひたむきなところがある、良くも悪くもね。人はそれぞれ、個性があって面白いな。それじゃ、迎えに行ってくるよ」

「お父さん、浮気しちゃだめだよ」

幸が男に声をかける。

「幸は父さんが浮気をしたら泣くかな」

「もう、わんわん泣くよ」

「幸を泣かせるわけにはいかないから浮気はしないよ、って、父さんなんか誰も相手しないよ」

男は笑うと、恵を迎えに梅林へと向かった。



男は梅林の中ほどに恵を見つけ声をかけた。

「おーい、恵さん」

振り返り、恵は男に気づくとあたふた男の元に駆け寄って来た。

「先生、助かりました。これから、どうやって暮らそうか途方に暮れましたよ」

「そのわりにはあまり深刻そうじゃないですね」

男は少し笑った。

「不思議です、ここにいると落ち着くって言うか、ちょっと幸せな気分になります」

「害意、敵意というのがないからね、ここは。さぁ、戻りましょう」

男は恵を促すと帰路へとついた。道すがら、恵に尋ねる。

「恵さんは今も啓子さんと一緒に住んでいるんだね」

「啓子先輩に居候です。でも、そろそろ、社会復帰しなきゃって考えています、求人情報なんか読んでますけど、ただ、うーん」

「就職難ってやつかな」

「高望みしなければいろいろありますよ。ただ、先輩と同じで、変なとこにまた入り込みはしないか、それが怖いです」

「二人ともそういう運命なのかな」

「わっ、ひどいなぁ」

恵が気楽そうに笑う、

「実家には帰らないのかな」

「無理ですよ、いまは香港で働いていることになってます」

「御両親、心配しているんじゃないかな」

「電話は毎日のようにしてますから。ただ、姿が変わってしまったから」

「体を造る時、退行した精神状態に近づける方が良いからって、十代後半の体にしたんだったな」

「私を見たら、母なんかびっくりしますよ、娘が子供に戻ってしまった。また、育てるのに金がかかるってね」

「幸に言えば、もう少し齢を取らせることが出来るんじゃないかな。帰ったら、話してみようか」

「だめです」

恵が思いっきり顔を横に振った。

「二十代前半、といってもギリギリですけど、そんな女が十代後半の肌を手にいれたんです。吸い付くような肌、はじける水、なんとしても維持しなければっ」

「女性は大変ですね」

男が気楽そうに笑った。

木立の中から、幸乃が現れ、軽く手を振った。

「幸乃さん、どうしたのかな」

「おまえさま、ちょっと」

幸乃が男に耳打ちをした。

「恵さん、急用が出来ました。幸乃さんに送ってもらってください、一足先に帰ります」

男の姿が消えた。

「先生、どうされたんですか」

「世界平和維持活動ってことですわ」

幸乃が面白そうに笑みを浮かべた。

「幸、泣いているのか」

テーブルにつき、打ちひしがれていた幸が驚いて顔を上げた。

「お、お父さん、お帰りなさい」

男は何も言わず、ハンカチでそっと幸の目許を拭った。

男が笑みを浮かべ、囁く。

「幸乃さんがね、幸が泣いているって教えてくれた」

男は幸の隣に座ると、柔らかな笑みを浮かべる。

「父さんに幸が泣いた理由を教えてくれないか、気づかずに幸を傷つけていたなら、父さん、あらためなきゃならない」

「お父さんは悪くない、幸の心が汚いから・・・」

唇を噛み締め、幸が俯く。

「幸はとっても心が綺麗な女の子だよ」

男の言葉に幸が頭を振った。

「恵さんにお父さんをとられるんじゃないかって、なんだか、そう思うと、勝手に涙が出て来て」

「どうして、恵さんが」

「だって、恵さん、お父さんのこと、好きだもの」

「なるほど、送り出してみたものの、不安が大きくなってしまったということか」

男はそっと左手で幸の頬に触れると、じっと幸の眼を見つめた。

「父さんは幸が大好きです、幸だけが好きなのです。どうか、信じてください」

幸が涙を流したまま、笑みを浮かべた。

「幸と幸乃さんだよ」

男は笑みを浮かべると、そっと手を離した。

「そうだな、幸乃さんを忘れると、後で叱られてしまうな」

ふと、男が振り返った。

「二人、畑のところまで戻って来たな。朝御飯、高校生を起こしてこよう。いや、父さんが行くのはまずいか。幸、起こしてきてくれるか」

「うん、起こしてくる」

幸は安心したように笑った。



五人で朝食をとった後、男は部屋に戻り、友人の会計事務所から預かった資料を整理する。昼過ぎには終えて、書類を運ばねばならない。

幸は三人を連れて、畑作業をしていた。

男は部屋で書類を片付けながら、ふと自分も普通に朝御飯を食べるようになったんだと気づいた、以前までの珈琲が朝御飯だった頃に比べて、体調も良い。これも、幸のおかげかと思う。男は部屋を出ると、台所へ向かう。珈琲をいれよう、少しくらいならいいか。

ふっと男は啓子の寝ている部屋の前で屈んだ。

襖を蹴破り、男の頭の上を啓子の蹴り足が空を斬っていた。

「元気だねぇ」

男が呟くと同時に、眼を瞑ったままの啓子が襖を破り男を襲う。瞬間、男は啓子の隣に入り込むと、左手で啓子の顎に触れた。すとんと男が下に落ちる、同時に啓子の体が跳ね上がり頭から落ちる。

男は左腕で啓子の頭を抱え、床に啓子が激突するのを制した。

「お父さん」

駆けつけた幸が、どうしたらいいのか分からず、突っ立ったまま、呆然とした表情で呟いた。

「どうして・・・」

「たいしたことじゃないよ。啓子さんの中には、父さんへのさ、恐怖心が残っている。それが発動したんだろう、意識を取り戻せばいつもの啓子さんに戻るさ」

寝息をたてた啓子を幸が両手で抱きかかえる、そして、元の布団に寝かせつけた。

「ごめんなさい、幸がしっかり見ていれば」

「ん・・・、いや、人の心の奥底はなかなか難しいものだ、それだけのことだよ。襖紙、同じのが残っていたろう、他の人に見つかる前に張り替えておくかな」

男は襖紙を取り出してくる、慌てて、幸は糊や道具を揃えて持ってきた。

幸が器用に敗れた襖紙をはがして行く、男が糊を刷毛で塗る。

「幸、懐かしいな」

幸はにっと笑うとうなずいた。

「襖に硝子窓、棚まで随分壊してしまいました」

「こっちの端、持ってくれ」

「うん、これくらいで良いかな」

「ちょうど良いよ」

「父さんの記憶には壊されたことより、こうして一緒に直している時の方が印象深いんだ、親子してるなぁってね」

男は襖紙を張りながら、少し笑う。

「ありがとう、幸、一緒に居てくれて」

「こちらこそ、お父さん」

新しく貼り終える、男は満足そうに襖紙を眺めた。

「こんな単純なことなのに嬉しいなんて不思議だな」

「ね、お父さん、今度は何を潰そう」

男はコツンと指先で幸の額を叩く。

「当分は勘弁してください」

男がくすぐったそうに笑った。



幸はそのまま、部屋に入ると、啓子を寝かせつけ、その手を両手で握った。

男は畑に出、幸がしばらく部屋に戻って居ることを三人に伝え、その後、友人の会計事務所へと向かう。



「先生、かっこいいなぁ」

恵が呟いた。

「恵さんは中年が好きなの」

驚いたように礼子が尋ねた。

「いい人だとは思うけど、かっこいいって云うのはなぁ」

利恵子も口を揃えて言った。

「別に中年が好きってわけじゃないよ。ただ・・・、幸さんには大恩があるから先生に手を出さないけど、あ、でも、幸さんみたいに、先生が双子だったら、絶対、一人欲しいなぁ」

礼子と利恵子は呆れたように笑った。



幸は啓子の手を両手でしっかり握りながら、思い出せる過去を脳裏に甦らせていた。牢獄の日々、餌でしかない存在。それが今では友人の手をしっかりと握って いる。あかねちゃんを始め、佳奈姉さんや瞳さん、色んな顔が浮かんでくる。なんて幸せなのだろう、そしてとても大切な人がいる、とても大切に思ってくれる 人がいる、とても幸せだ。そして思う。この手の人も幸せであれ、幸せは分けるものではない、伝わって広がって行くものだ。



「幸さん」

啓子が呟いた。

「ん、起きたか」

「ずっと、手を握ってくれていたんですか」

「いや、さっきまで畑に居た」

啓子が苦笑した。

「そういう時は、心配でずっと手を握っていたって言ってくれなきゃ」

「あいにく、正直者なんだ、悪いな」

幸はにっと笑うと啓子の背中を支え、上半身を起こした。

「体の具合はどうだ」

「大丈夫です、なんだか、体も軽いしいくらでも動けそうですよ」

幸は笑みを浮かべ言った。

「たとえ一晩でも理想的な体の動かし方を啓子さんは経験した、そして、どう練習して行けばいいかも教えたはず。あとは精進してくれ。具体的に教えることはもうない」

啓子がそっと頷く。

「ありがとうございます、あとは自分で見つけて行きます」

幸はほっと吐息を漏らすと、啓子に囁いた。

「試しだ、この状態から幸のこめかみを蹴ってみろ」

「はい」

啓子が呟いた。

両手を布団の上に添える。途端、啓子の体が微かに浮き、独楽のように啓子の右脚が幸のこめかみをなぎ払った。激しい勢いで幸の頭が首から千切れ壁にぶつかる、首から、血が吹き出した。

「う、うわぁっ」

幸の血で真っ赤になった啓子が大声で。

一瞬の後、幸は何事もなかったように座っており、血の吹き出した様子もなかった。

「幻術だよ。ただ、普通の人間ならああなる。幸はね、啓子さん自身が、自分を、そして守りたいと思う人を守るために教えた。それを良く覚えておけよ」

幸は笑みを浮かべると部屋を出た。

そろそろ、晩ごはんのこと、考えよう。



夕刻、満員電車というほどでもない、男は友人の会計事務所からの帰り、電車の吊り革、左手で持ち、立っていた。競って椅子に座ることもない、立つことができるなら、立つべきだと考えているだけだ。

ただ、男は、高校生だろうか、一人の女の子が自分に近づこうとするのに気が付いていた。

そして、大学生だろうか、二人の男。

男は小さく吐息を漏らす。

一瞬、女の子が男の背中に、自分の背中を当てた。

女の子の喉が大声を出そうと緊張する、男は素早く女の子の喉に手を触れると、耳元に囁いた。

「君の声は出ない」

ゆっくりと電車が速度を落とし停車する、ドアが開いた。

男は何事もなかったように列車を出た。

「お父さぁん」

「あれ、幸」

男はホームで待っている幸を見つけた。男は幸に近づくと、ほっとしたように笑みを浮かべた。

男の後ろで、ドアが閉まり、列車が発車していく。

「お迎えに来たよ」

「ありがとう、でも、幸、ちゃんと入場券買って入ったか」

男が笑う。幸はひらひらと切符を揺らすと笑った。

「改札の手前で待っているつもりだったんだけど」

幸は自然と右手を男の左手に絡める。

「幸を育てるためにしっかりと働いて来ましたか」

「もう、へとへとになるくらい働いた」

「今晩は大鍋一杯のナポリタンと、温野菜のサラダです。しっかり食べて、明日も労働に勤しんでくださいませ」

にひひといたずらげに幸が笑った。

「お父さん、帰りはナポリタン用に振りかけるチーズを買って帰ってください、幸は一つ用事を済ましてから帰るよ」

男が振り返る、呆然と突っ立ったままの女の子が一人、ホームに佇んでいた。

「そうだな、父さん、女性は苦手だから頼むかな。ごめんね」

「あぁ、しょうがない、お父さんの頼みなら断れないよ。感謝していますか、お父さん」

「とっても感謝しています。幸、ありがとう」

幸は少し照れ笑いをすると、腕をほどく。

「そうだ、いつもの茶店で待ってくれていると、幸は途中からでもお父さんと一緒に帰ることができますので喜びます、でも、珈琲はあまり体に良くないのでお勧めしません」

「わかった、オレンジジュースを飲みながら、まだかなって待っているよ」

男は手を振ると、ホーム下へと階段を降りて行った。

お父さん、可愛いなぁ、幸は小さく呟くと、気持ちを切り替えるように頭を振り、背後へと振り返った。

女の子が一人、途方に暮れ、小さくうずくまっていた。

幸は女の子の前に立つと、少し屈み、指先で女の子の顎をくっと上げた。

「基本、あたしは女性には優しいんだ、男嫌いの反動かな。立ちな、そこのベンチに座ろう」

幸は女の子を促すと、並んで、反対車線のベンチに座った。

幸は片手でほおづえをつくと、女の子の顔をのぞき込む。動揺したように、女の子はぎゅっと目を瞑った。

「倉澤早紀。高校三年生、塾についていけず、親に黙って塾を辞めてしまうが、それを言い出せず、街中を彷徨う。塾が終わる時間まで。そんなことを続ける間に、男二人に弱みを握られ、美人局の片棒をかつがされた」

早紀は驚いて幸を見つめた。

「あんたの頭の中、言葉にしただけだ、たいしたことじゃない。あんたにとって運が良いのか、悪いのか。その第一号があたしの父さんなわけだ。殺されずにすんでよかったな。声も大事だろうけれど、死ぬよりかましだ」

幸はにぃぃっと引き込むように笑うと、ゆっくり顔を上げた。

「ほら、もうすぐ列車が来るぜ。男二人、一つ先の駅から引き返して来たようだ」

びくんと早紀の体が震える。浮足だった早紀の手を、幸は指を絡めてしっかりと握る。

「やさは知られてんだ、逃げても意味はない。さて、あたしは父さんに甘えることができて機嫌がすこぶる良い。これも何かの縁だ、助けてやるよ」



列車到着のアナウンス、程なくして各駅の列車が到着し、ドアが開く。たくさんの人たちが降りて来る中、先程の男二人が飛び出すと、目の前に早紀を見つけ睨みつけた。

「逃げずに待っていたとは殊勝だな」

体育会系を体で表現した厳つい男達だった。

「足がすくんで動けなかったんじゃねぇか。うん、なんだ、隣りの女は」

始めの男よりも頭一つ大柄な男、腰を曲げて幸をのぞき込んだ。

「うひょぉ、凄い美人だ」

幸はふっと顔を上げると、笑顔を浮かべた。

「なに改まって言ってんだよ、孝。幼なじみ相手にさ」

「えっ・・・」

幸が引き込むように笑みを浮かべた。

「いつも三人一緒だったの、忘れたの」

幸はもう一人の男を見上げると、柔らかく笑った。

「健史も相変わらず、上に横に成長しているなぁ」

幸が愉快に笑った。

「しばらく見ないうちにお前も美人になったもんだなぁ」

健史がなんの戸惑いもなく、言葉を返した。

「あたしが美人なのは昔からさ」

「そりゃそうだ」

孝がからかうように笑った。

「で、今日はどうしたんだ」

孝がふと真顔になって幸に尋ねた。

「あたし、結婚して上海に行く。旦那の転勤でね」

「お、おい。そんなの初耳だぞ」

健史が面食らったように大声を出した。

「一キロ先にいるんじゃなし、大声出さなくても聞こえるよ」

幸はふと寂しそうに笑みを浮かべ呟いた。

「かえってさ、言いづらいもんなんだよ。だからさ、お詫びに、教えて上げるよ」

「おい、俺達はお前が幸せになるんなら」

「ね、健史。あんた、孝を愛しているよね」

「お、お前。何言ってんだ」

「そして、孝は健史を愛している」

「え・・・」

健史は驚いたように孝を見つめた。

「お互い、相手を愛しているけど、うっかり告白なんかしたら、気色悪るがられるんじゃないか。そう思って言い出せなかったんでしょう。ごめん、それを言うと、あたしだけ、仲間外れになりそうで、わかってたけど、ずっと黙ってたんだ、本当にごめん」

「健史・・・」

孝は思わず呟いた。

「お前、本当に俺のこと」

「孝こそ、そうなのか」

健史が孝の目を見つめて呟いた。

幸が声を潜め囁く。

「人を愛するということに壁なんかないよ。ね、二人とも正直になろう。決して男同士が愛し合うことは悪いことじゃない。ただ、少数派だから、迫害されること、理解してもらえないこと、たくさんあるかもしれない、でも、真実の愛は何よりも強い、ね、健史、孝、そうでしょう」

「そうだ、俺達なら」

健史が孝の目をじっと見つめ囁く。

「俺、健史を大切にする」

「お、俺だって、孝を大事にするさ」

「さあ、遠慮はいらない、二人、しっかり抱き合いなよ」

幸が駄目押しにと二人に語りかける。二人がしっかりと抱きしめ合う。ここが駅のホームであることも忘れ男同士、強く、強く、抱きしめ合う、そして、自然と唇を重ねた。

幸は早紀を促すと、何事もなかったようにベンチを後にした。抱き合う男二人を残して。

「いや、実際、あんながたいの男同士は気味悪いだろう。暗示をかけたのはあたしだけどさ」

改札を出、幸は早紀に笑いかけた。

「もう、あんたのことなんか、頭にないぜ。今、二人で住む新居の壁紙をどんな模様にするか、そんなことで夢中になっているよ」

早紀はこの数分のことが充分理解できずにいた。ただ、あの二人の男から解放してもらったことだけは、感情が理解していた。

早紀はありがとうございますと言おうとして、自分の声が出ないことを思い出した。呻くような音が喉から漏れる。

「それがあったな」

幸は答えると、微かに笑みを浮かべた。

「十一時まで、家には帰れないんだろう。うちに来な、お父さんに呪を解いてくれるよう頼んでやるよ」



「お嬢さん、少しお時間、よろしいでしょうか」

早紀の手を握った幸の目の前に男がやって来た。二十台後半、いや、三十台始めか。皺のない背広を着、笑顔を浮かべている、メガネをかけ、それでいてかなりの美形だ。

「どなたさま」

幸は愛くるしい表情で答える。

「ぜひ、あなたをスカウトさせていただきたいと思いまして」

「うひゃ、早紀どうしよう。モデル、あたしにできるかなぁ」

幸はうれしそうに早紀に微笑んだ。

幸は男に振り返るとおずおずと話しかけた。

「あ、あの。私、お父さんに相談しないとお受けするのは」

「いいえ、あなたのような逸材はまたとありません、男二人の心を自在に操り、記憶まで手を加えてしまう、第一種精神作用者。心を読む感応者はいくらかおりますが、相手の心まで操れる者はまたとおりません」

「おっしゃっていること、わかんないですぅ。おじさまがホームの柱の陰でスカウター付けて能力測定していたことも全然知らないですし、駅や百貨店、人どおりの多いところでおじさまのような人達が超能力者をスカウトしてることも知りませんよぉ」

「それだけ御存じであれば充分です」

男が片手を上げる。通りすがりの会社員、学生、子供連れの主婦、二十人ほどが三人を囲むように円を描き、背中を向けた。

微妙な角度で重なり、中を外から覗けないようにしている。

「君のお父さん、という人にもぜひ会ってみたいものだ」

「だめですよ。お父さん、とっても恐い人ですよ。でも、あたしにはとっても優しいんです、えへへ」

幸が幸せそうに笑う。

「それじゃ、帰ります。お父さんと待ち合わせているんです。早く帰らないと、お父さん、心配しちゃいます」

「帰れると思っていらしゃるのですか」

呆れたように言う男の言葉に、そっと幸は男を見上げ微笑んだ。

「たっぱがあれば自分が優位であると思い込む、お父さん以外の男ってのはガキだなぁ」

幸の表情と言葉の差異に男は一瞬戸惑った。

「田中輝樹君、自分は訓練されているから、読心能力者にも心を読まれないとでも思っているのかい」

一瞬、男の表情に恐怖が現れた。

「俺の心が見えるのか」

幸はふふっと小さく笑うと、それには答えず、男のネクタイをぎゅっと力任せに締め上げた。男は咳き込んだまま、慌てて一歩引き下がり、ネクタイを緩める。

「まっとうな仕事を選んだ方がいいぜ。確かに給料一月手取り八十万円、スカウトに成功した場合は相手の能力につきボーナスが付く。読心能力者で百十万円。心を操れるほどの奴なら、三百万円か。笑いが止まらねぇな」

「お、俺は」

「あんたの会社はスカウトと言えば聞こえがいいが、やっていることは人身売買だ。超能力者をスパイや傭兵に仕立ててのさ」

男が叫んだ。

「捕獲せよ」

その言葉に、壁のように囲んでいた人達が一斉に振り返る。

「ほぉ、久しぶりに見たな。心のない、心臓を提供してしまった人形達か」

「一体何者だ。何処まで知っているんだ」

男は怖じけたように後ずさりをする。

「輝樹君の知っていること、その百倍は知っているよ、裏の裏までな」

幸は倉澤の手を握ったまま、一歩、進み出る。

「無駄だろうが、一応忠告しておいてやる。さっさとこの仕事辞めねぇと、あんたも人形になってしまうぜ」

言い終えた瞬間、幸と倉澤の姿が消えた。

「第一種精神作用者、テレポートまで。なんてこった・・・」

尻餅をついたまま、呟いた



喫茶店のドアを開ける、からんころんと音が鳴り、幸は入り口で男を探した、すぐに見つけると、倉澤の手を握ったまま、男の前の椅子に座った。

そして、隣りに倉澤を座らせる。

「幸、何を飲む、倉澤さんもどうぞ」

男はすっとメニュを倉澤に差しだした。

メニュを受け取った後、自分の名前を知っていることに驚いて倉澤が男を見つめた。

「お父さん、倉澤さん、とっても可愛そうなんだよ。誰か、幸の知らない人に声を出せなくされたんだから」

男は困ったように笑みを浮かべた。

「父さんはどうしたら良いのかな」

「きっと、お父さんなら、倉澤さんの声を取り戻せると思うんだ、どうかな、お父さん」

「うーん、倉澤さんに父さん、謝ったほうが良いのかな」

にっと笑みを浮かべ、幸が口を閉ざす。

「幸にはかなわないな」

男は笑みを浮かべると、すっと左手を倉澤の喉元にやり、埃を払うように指先を揺らめかせた。

「呪は解いたよ。倉澤さん、あー、って言ってごらん」

倉澤が声を出そうとする、息を吐き出す音が「あ」という音に変わった。

「もう、普通に喋れるよ」

「あ、ありがとうございます」

倉澤が男に言った。

「お父さんは頼りになるなぁ」

「どうぞ、頼りにしてください。頑張ります」

男は少し笑うと倉澤を見つめた。

「ごめんね、恐い目に会わせてしまった」

「いいえ、わ、私こそ・・・」

ウエイトレスがお冷やを持ってやってきた。

「ホット珈琲を願いします。倉澤さんは」

「え、あ、あの、えっと、同じで」
ウエイトレスが注文を復唱し戻った後、男は幸を軽くにらむ。
「ここの珈琲美味しいんだけどね。父さん、オレンジジュースを飲みましたけど」
「お父さんの、その素直にオレンジジュースを飲むのが、とっても可愛いなぁ。幸の、半分あげるよ」
「ありがと」
男は仕方なさそうに笑った。
ふと思い出したように幸が言った。
「さっき、スカウトされた」
「え、女優とかモデルとかのスカウトか。そ、そういうのは、きっと悪い奴だから、絶対に」
「ううん、超能力とか言ってた」
「まっ、それならって・・・、あぁ、そういえば反対車線のホームにいたな。幸、いじめたな」
「ちょっとね」
幸はちょっと舌を出して笑う、男がひとつ吐息を漏らす。
そして、男は窓から、外を行く人達を眺めた。
「科学が変な方向へと進んでいる、魔術と融合しようとしているようだな。そして、ほとんどの魔術は巨大な力を借りて発動する。借りれば返さなきゃならない、それに見合うもの。未来だ」
「いつか、この文明も廃墟になるのかな」
「多くの歴史がそれを教えている。未来を他者に差しだしてしまえば、自分の未来はなくなる、結果は廃墟だ」

ふと見ると、倉沢が泣いていた。

「どうしたの」

幸が倉沢の顔を覗き込んだ。
「変です、なんだか、急に悲しくなって」
男は小さく呟いた。
「幸、この娘は」
幸はそっと倉沢の頭をなでる。
「お父さんの感情に感化したんだ。お父さんと同じ質を持っているよ。こういうのも縁なのかな」
男は背もたれに凭れると呟いた。
「普通に暮らせるなら、普通に暮らすのが一番良い」
「大切なのは、自分の頭で考えて生きるってこと、お父さんの普通はそういう意味だけど、ほとんどの人の普通は流されて生きることだよ、それじゃ生きていないのとたいして変わらない」
「幸、頭を出しなさい」
素直に、幸が頭を差しだした、男が幸の頭をなでる。
「よくできました」
男はくすぐったそうに笑みを浮かべた。
珈琲が運ばれてくる。
「倉澤さん、砂糖はいくつ」
気軽に幸が倉澤に尋ねた。
「あの、二つで。・・・ご、ごめんなさい」
幸が面白そうに笑った。
「謝る理由はないよ、幸の前に砂糖があるんだからさ」
「お父さん、クリーム入れるよ」
「入れていいよ。なんだかね、インスタントに慣れてから、ブラックってこだわりがなくなってしまった」
「お父さん、それは良いことだよ。ブラックは胃腸に負担がかかるもの、なんたって、お父さんの肩には人類の未来がかかっているのです。大事にしてください」
「父さんの肩にか」
「そうだよ。お父さん、いなくなったら幸は狂って、人類大量虐殺してしまうかもしれないからさ」
「うーん、頑張って長生きします」

男は困ったように笑った。

「幸さん、お帰りなさぁい」
礼子がぱたぱたと玄関にて三人を迎えた。
「ただいま」
「そうだ、幸さん。お姉ちゃん、怒ってますよぉ」
礼子が悪戯げに笑みを浮かべた。男はすっと玄関を上がり、部屋へと向かう。
「刺激、強すぎたかなぁ、謝ってこよう。早紀ちゃん、上がって。みんなで晩ご飯食べよう」
「は、はい」
二人が玄関で靴を脱ぎ、中に上がった時、ふと、礼子が呟いた。
「あれ、おじさんは・・・」
幸が小さく呟いた
「お父さんの行動を把握できるのは幸だけだなぁ」
幸はにっと笑った。

「啓子さん、怒ってるのかなぁ」
あかりを点けず、向こうを向いたままの啓子にそっと幸が声をかけた。
一呼吸おいて、啓子が答えた。
「全然、怒っていませんから。ですから、ほっといてください」
「それ、怒ってるよ」
幸が啓子の服の裾をくっと引っ張る。
「ごめんなさい、言い訳はしない、本当に驚かしてごめんなさい」
啓子が振り返る。
「驚いた、幸さんがごめんなさいって言うの初めて聞いた」
幸はぎゅっと啓子の手を握り締め、啓子の耳元で囁く。
「ごめんなさい、啓子さん。許してください」
ふっと啓子の肩の力が抜けた。
「意地張ってた、ごめん、幸さん」
幸はほっと吐息を漏らすと、気持ちを入れ替えるように笑みを浮かべた。
「ナポリタン、食べよう、美味しいよ」

テーブル二つ繋いで、それぞれのテーブルにナポリタンの大皿を置く。幸が嬉しそうに人数分の皿を並べていく。
反対側から、恵がお箸を並べて行く。
「やっぱ、日本人はナポリタンもお箸だよね」
幸が笑った。
「たいていのものはお箸で事足りますよ」
ふっと中程まで来て、恵が幸をじっと見つめた。
「恵さん、どうしたの」
「幸さん、私を避けていますね」
「え、そんなことないよ」
「微妙に声が緊張していますよ」
幸が困ったように笑みを浮かべた。
「ごめん、嘘をつくのは得意じゃないんだ」
微かに吐息を漏らす。
恵はじっと幸を見つめたまま言った。
「私は幸さんに救っていただきました。体を引き剥がされていく恐怖、全くの闇、なにものにも触れずこともできず、音もなく、時間すらも意味のない全くの孤独から幸さんは私を救いだしてくださいました。大恩ある幸さんの好まないこと、私はしません」
「ありがと、なんていうのかな。ほっとした」
幸が本当にほっとして笑った。恵も安心したように笑う。
「でも、もしも、先生が幸さんみたいに二人になったら、一人ください」
「それはだめ、どっちも幸のだ」
幸がくすぐったそうに笑った。
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最終更新日 : 2013-05-11 17:34:02


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