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異形十話

花見と言っても、桜の花を愛でるというような風情はない。所狭しと屋台の並んだ先、公園を一歩入れば、満開の桜が青い空をその無数の花びらで見事に遮ってしまう。
しかし、一度、視線を落とせば、ビニールシートの青が辺り一面、賑やかな花見客が持参する小さな空にあちらこちらと埋め尽くされている、まるで、空にいるようなものだ。
男はビニールシートの端に座り、缶ビールを少しずつ飲んでいた。商店街の花見、幸がしばらく前から、週に一度、魚弦で1時間ほどだが、手伝うようになり、そのよしみで男も商店街の花見に参加したのだった。
「先生が来てくれるなんてびっくりだよ」
洋品店の女店主が男の前で笑った。しばらく前に膝を痛め、折り畳みの座椅子にすわっているのだが、それが正座する男の背の高さにあい、ちょうどいい話し相手になっていた。
「私も、こう賑やかなところは初めてですね」
男は笑顔を浮かべると、缶ビールを横に置いた。
「昼下がりの暖かな日です、見上げれば桜色の空」
「いいねぇ、贅沢だ」
女店主は笑うと重箱に詰めた巻き寿司を一つ食べる。柔らかな日差しが心地よい。
「幸ちゃんもすっかり元気になったねぇ」
「幸はしっかり働いていますか」
「佳奈ちゃんの横で声張り上げているよ」
「良かった」
「先生は幸ちゃんのことになると、ほんと、うぶな少年みたいな顔になるねぇ」
「この齢で少年と言われても褒められた気にはなりませんが」
「褒めちゃいないってことさ」
女店主は声を出して笑うと、重箱を男に差し出した。
「今年はあたしじゃなくて、娘が作ったからさ、少し甘すぎるけど食べてみなよ」
「ひとつ、いただきます」
男が一つ巻き寿司を食べる。
「美味しいですよ、娘さんというと、お姉さんの方ですか。確か、妹さんは、どちらでしたっけ、嫁ぎ先が遠かったような」
「妹の方は結婚して正月くらいに、ちょっと顔を見せるくらいさ。姉は結婚もせずぐずぐずしているからさ、巻き寿司でも作りなって言ってやったんだよ」
男は笑って頷くと、もう一ついただきますと巻き寿司を食べる。
「先生さ」
「はい」
「姉の方の涼子をさ、嫁にもらってくれないかねぇ」
男は笑いながら、首を横に振った。
「この齢で結婚は勘弁してください。もう元気もありませんし、幸との二人暮らしが板に付いてしまいました。今は二人でちょうどなんですよ」
「でも、幸ちゃんもずっと先生と一緒というわけにいかないだろう、その内、好きな男連れてくるじゃないかい」
「どうなんでしょうね、来たらどうしましょう。虚勢を張って物分かりのいい親父を演じるか、それとも、聞きたくないと逃げ出すかな」
男がほんの少し溜息を付く。
「先生、幸ちゃんに惚れてるんじゃないかい」
「そうかもしれませんね」
女主人が呆れて笑った。
「相思相愛だねぇ」
「え」
「昨日、幸ちゃんと珈琲飲みながらさ、言ってたよ。自分がお父さんのお嫁さんになるってさ」
「それは、なんて嬉しいこと」
男が笑う。女主人も釣られて笑った。

ふと女主人は真面目な顔になって男に言った。
「幸ちゃんからあの話は聴いたかい」
「あぁ、商店街のイメージガールとかいうのですよね」
男は笑みを消し、缶ビールを一口飲む。

「幸は絶対嫌だ」
女主人の肩を揉みながら、幸が言い切った。
「わっ、びっくりした。幸ちゃん、いつの間に」
幸はにっと笑うと、それには答えず男に言った。
「お父さんも嫌だよね」
「そうだな、あまり目立ち過ぎるのは良くない。週一でお店を手伝わせてもらうくらいでちょうどいい」
幸はほっと安堵の表情を浮かべる。
「母さん、幸にも色々とね、事情があるのさ」
幸は女主人に笑いかけると、今度は首の後ろ辺りを柔らかく揉み出した。
「母さん、気持ちいいかな」
「なんだか、背中が軽くなっていくようだねぇ」
「母さんは少し猫背、もっと胸を張ってえらそうにしてください。お喋りはとってもえらそうなんだから」
「はは、幸ちゃんに叱られた」
女主人が気持ち良さそうに笑う。
「ね、お父さん、デートしよう。せっかくの桜だもの、恋人同士は桜の下で愛を語らなきゃ」
「父さんは愛よりも食い気だな、屋台が気になってしょうがない」
男はすっと立ち上がるとブールシートから降り、靴を履く。
「母さん、行ってくるよ」
「あぁ、いっといで」
幸は女主人に笑顔を浮かべると、男を追って走りだした。

二人が出掛けた後、ふっと佳奈が女主人のところにやって来た、商店街の大所帯、人が多く、二つに別れて花見をしていた、男どもが騒いでいるのは一つ向こうのブルーシートだった。そして、佳奈は男共の酒の世話をしていたのだった。
「おつかれさん。なんだか、向こうは賑やかだねぇ」
佳奈はお茶を一口飲むとほっと一息ついた。
「男は女を召使いか何かぐらいにしか思っていないんですよ」
「男なんてそんなもんさ、昔、亭主もそうだったねぇ。大酒飲んで、女房こき使うのが、男の甲斐性のように言ってたもんだ」
佳奈は頷くと、一つ、巻き寿司を食べた。
「美味しいです」
「涼子に作らせたのさ。まあまあって感じだね」
「涼子ちゃん、もう随分、見ていないですよ。確か、学校の先生でしたよね」
「教師もこの頃は忙しいらしいよ。あたしですら、たまにしか顔を見ていないんだ」
女主人は一つ溜息を付き、ビールを開けた。
「さっき先生にね、涼子を嫁に貰ってくれって言った」
「うわっ、それで・・・」
「躊躇なく断られてしまった」
「そりゃそうですよ。先生、幸ちゃんに恋愛してますもん、で、先生、生真面目だから、そんな自分を許せないというか、感情を抑え込んでいますから」
女主人がにやっと笑った。
「純な男は少しばかり苛めたくなるねぇ」
「人が悪いなぁ。でも、面白いですけどね、そういのは」
「ただ、問題は親子だってことだ。最近は世の中が変になってか、親子ほどの齢の差の夫婦も珍しくはないけど、でも、本当の親子ではねぇ」
「大丈夫ですよ、だって、本当の親子じゃ・・・。うっ」
女主人が驚いたように目を見開いて佳奈を見つめた。
「それじゃ・・・、男共の様子を見て来ます」
立ち上がりかけた佳奈の裾を女主人がしっかりと捉えた。
「待ちな。そういう面白い話は最後までしておくれ」


「うわぁ、佳奈さん、喋っちゃった」
「どうしました」
男は隣りを歩く幸に話しかけた。
「あのね・・・、前にね、佳奈姉さんに買い物付き合って貰ったとき、ちょっと喋っちゃった」
「なんて」
「あの、あのね。お父さんは本当のお父さんじゃない、だから、幸はお父さんを一人の男として愛することができるって。・・・ごめんなさい」
「それを、いま、佳奈さんが洋品店の叔母さんに喋ってしまったってことか」
男はくすぐったそうに笑った。
「戻ったら、どんな顔して出迎えてくれるかな」
「お父さん、怒らない」
「どうして」
「だって」
男は少し笑うと立ち止まった。
「ちょっとビールでね、父さん、酔ってしまっているのかもしれない。だからかな、それが楽しく思える、不思議だな」
「お父さんは酔っ払いだ」
幸は笑って男の腕を抱きかかえた。

ただ、心配です、あなたのことが
私のことですか
はい、あなたの日常を崩してしまうやもしれません
私の日常は
私がいることで商店街の皆様とあなたの間に諍いが生じれば大変なことになります、ただ、私が皆様の希望をお受けすれば、きっと、たくさんの人達に私の存在が知られ、良くないモノ達が現れるようになります
さて、まず、何から申し上げましょうか
はい
私の日常、それは君が私の隣りに居てくれること、それが私の大切な日常なのです。それ以外の日常は私にはあり得ません。そして、君がたくさんの人達に祭り 上げられるのは、昔、君が人身御供になったことと、私には重なるのです。だから、私はどうしてもそれを認めることができないのです。
君が思う以上に、私には君が必要なのですよ、君がとても大切なのです。
あなたは本当に私を大切にしてくださいます、私はあなたにどれほどのものをお返しできるでしょうか。
もしも、かなうなら。
はい
いつまでも君の隣りにいさせてください。それだけが私の願いです。
わたしのようなもので良ければ、必ず。

「そうだ、お父さんにいわなきゃ、って思っていたことがあるんだ」
幸は見上げると、にっと笑った。
「何をです」
「幸は一杯勉強しているよ、昨日、DNAの本を読んだんだ」
「遺伝子とかだったかな」
「幸はお父さんから体をいただいた、つまり、お父さんと幸のDNAは同じってことだよ、一卵性双生児みたいに、普通の兄妹や親子よりも、ずっとずっと近い存在なんだ。これは幸にとって、とっても嬉しいことなんだ、お父さん、手を出してみて」
幸は男の左手を取ると、自分の掌の指紋と見比べる。
「あ・・・、指紋は違うなぁ」
「指紋まで一緒というなら同じ人になってしまうよ、幸は幸という個性なんだからね」
男は笑顔を浮かべると幸の手をそっと握った。
「幸の手は柔らかくて優しい感じがするよ」
男は手を離すと、自分自身の掌を見つめた。
「父さんの手はざらざらだ」
男は笑うと後ろ手に両手を組む。
「それがお父さんの個性なのです。幸は好きだよ」


「つまりはだよ、先生は幸ちゃんが商店街のイメージガールにならないほうがいいと言ってる、で、幸ちゃんも絶対嫌だと言っている」
「本当の親子じゃないってことは秘密ですよ、誰にも言わないでくださいよ」
「大丈夫さ、あたしゃ、佳奈ちゃんよりずっと口が堅いさ」
女主人は笑うと、腕組みをして考える。
「そうか、駆け落ちだな。これは」
「変なこと考えないでくださいよ」
「いやいや、つまりはだ。先生と幸ちゃんは相思相愛、惚れあっている。しかし、親子ほどの齢の差、幸ちゃんの本当の親が認めるはずがない、で、二人、駆け 落ちをした。しかし、ここで、商店街のイメージガールなんてことで盛大に顔を出したら・・・。うん、面白い、なんかわくわくするね。先生も人畜無害な顔し てるくせにやることはやるもんだ」
佳奈はどう収めれば良いのか、思い浮かばずうろたえていた。
「よし、あたしゃ、応援するよ。二人を添い遂げさせてやろうじゃないか。一肌も二肌も脱いでやるよ」
「あ、あの、おばさん」
「ん」
「あの、えっと、あの二人は、多分、ですけど、こういうどっちともつかずの状態を楽しんでいる、と思うんですよ」
「そりゃ、どういいことだい」
「恋愛中というか、そういう、なんていうのかなぁ、甘酸っぱい時代を楽しんでいるというか」
「しかし、先生もいい齢だよ、っていうか、いい齢なんかとっくに過ぎちまってるよ」
「でも、幸ちゃんにとっては、今のこの関係が」
女主人は、うーんと唸り考え込んだ。
「そうだねぇ、なにも女が男に合わせなきゃならないわけじゃない。幸ちゃんには、まだまだ、楽しむ時間が必要なのかもしれないね」
「そうですよ、幸ちゃんもあの齢で主婦やらせるのは可哀想ですよ」
「しょうがない、当分、見守ってやるだけにするかねぇ。うん、ほら、噂をすればだ」
佳奈が振り返るとタコ焼きの包みを両手に幸が駆け寄って来た。男はお好み焼きの袋を持っていた。
どうしよう・・・、佳奈は一人呟いた。
「母さん、佳奈姉さん、ただいま。タコ焼き、食べよう。お好み焼きもあるよ、リンゴ飴も」
男もブルーシートの荷物を置くと、
「それじゃ、ちょっと」
「あれ、先生、どこに」
「あちらで、ちょっとお喋りして来ます。佳奈さん、幸の相手してくれないかな」
「あ、あの。先生」
男はにっと佳奈に笑いかけると、もう一つの宴会場へと向かった。
「どうしたの、佳奈姉さん。顔色悪いよ」
けげんな顔をして、幸は佳奈に尋ねた。
「あ、あの・・・、喋っちゃった」
「なにを」
「えっと、あの」
幸は笑みを浮かべると、すっと人差し指で佳奈の唇に触れた。
「言わなくていいよ。幸は佳奈姉さんが好きなんだからさ」
手を離し、幸は女主人に話しかけた。
「母さんは歩くとき、膝を突き出すように歩く、だから膝を痛める」
幸は女主人の前に座ると、両手を女主人の膝に重ねた。
「母さん、膝全体が暖かくなってきたでしょう」
「なんか、膝の中が柔らかくなっていくようだ」
幸は手を離すと、立ち上がり、女主人の両脇に手を差し入れ立たせた。
「手を離すよ」
幸が手を離す、女主人は信じられないと自分の膝に触った。
「ぜんぜん痛くないよ、いや、以前より調子が良いくらいだ」
「でも、今までと同じ歩き方をしたら、また、膝を痛めることになる。ゆっくりとね、ちょっと、膝を伸ばし加減にして、足の裏、全体で地面に着くように歩くといいよ」
幸は笑うと、タコ焼きとお好み焼きの袋を開けた。
「いっぱい買ってきた、みんなで食べよう」


「大将、俺は感謝しているよ。幸が魚絃さんにお世話になってからさ、人見知りもなくなってね、本当にありがたいと思っている、でも、それだけは勘弁してくれないかな」
「先生、なにもたいしたことじゃなくてさ、商店街で作るポスターのまんなか、幸ちゃんに大きく笑顔で写ってくれればいいんだけなんだ」
男は困ったように笑顔を浮かべた。
「少しばかり事情があってね、幸を写真とかにね、写されたくないんだよ」
魚絃は腹を括ったように男を睨んだ。
「それは先生のエゴってもんじゃないかい」
「いや、事情があるんだよ、簡単に話せるような理由ならいいんだけど、詳しいこと、言うわけにいかないんだよ」
「みんな言ってるぜ」
「何をかな」
「先生が幸ちゃんを溺愛して、無理やり、そのなんだ、男と女の関係を作って、幸ちゃんを苦しめているってな」
「ん・・・、それは誤解だ。確かに大切な娘だからさ、愛しているって言っても間違いじゃないけどね。それは噂や妄想が一人歩きしているだけだよ。幸が働いていてさ、そんな陰があるかい、無理強いされてそうに見えるかな」
「それは・・・」
「頭下げるよ、今回の話はなかったことにしてくれよ。頼むからさ」
「こっちこそ頼むよ、先生。俺ら、もう決めたんだ、これで行こうってな」
いつの間にか、商店街の男たちが男と魚絃を中心に車座にすわっていた。
「息子が大学へ行くんだ」
魚絃の隣り、金物屋。
「大学のな、入学金がいるんだ、もうけなきゃならないんだよ。あの子が商店街に来てから売上があがってんだ。なんとか、ここでどんと儲けたいんだよ」
後ろからパン屋。
「近くにできたスーパーから客を取り戻すんだ、そのためにはポスター作って、幸ちゃんに商店街のテーマソングを歌ってもらうんだ」
男は小さく溜息をつく。
魚絃が駄目押しに、男に言った。
「商店街で先生に帳簿つけてもらっているのは、俺んちも含めて半分以上だ。それがなくなったら先生も辛いんじゃないかい」
男は寂しそうに笑うと立ち上がった。
「ここは引き下がらせてもらうよ」
男はブルーシートから出、靴を履いた。
「先生、わかってくれたのか」
魚絃が大声で言った。
「いや、明日にでもね、預かっていた書類、全部返すよ。俺は娘が最優先なんだ」
「馬鹿野郎」
罵声に、男は哀しそうな笑顔を浮かべ背を向けた。

「お父さん、どうだった」
幸が歯にアオノリを付けたまま、戻って来た男に話しかけた。
「予想どおりだった」
「そっか・・・。ごめんね、お父さん」
「あの、うちの亭主、先生に失礼なこと言ってなかったかな」
「ん、大丈夫だよ、佳奈さん。なんだかな、幸も佳奈さんも歯にアオノリがついている」
男はくすぐったそうに笑った。
「や、やだっ」
あわてて幸はお茶を飲んだ。
「先生、まぁ座りなよ」
「いえ、今日はこれでお暇します、急ぎの用事ができたものですから。幸、膝はどうだった」
「膝の半月板修正と軟骨の増強、母さん、普通に歩けるよ」
「それは上々」
男は笑うと背を向けた。幸はあたふたと靴を履き、男にしたがった。
「それじゃね、佳奈姉さん、後片付けお願い。母さんも気を付けてね」
幸はにっと笑いかけると、男を追って駆け出した。
二人の姿が人込みに紛れ消えて行く。
「先生って何者なんだい」
女主人が呟いた。
「え・・・」
「まるで普通の人間じゃないように見えた」
「へんなこと言わないでくださいよ」
「初めてだ、先生の後ろ姿が透けて見えたような気がしたんだ」
「そんなことあるわけないじゃないですか」
「そ、そうだね」
女主人は落ち着こうと、お茶を飲む。
「は、あれ、あたしゃ惚けちまったのかい」
女主人が叫んだ。
「佳奈ちゃん、先生の名前、名字はなんていったっけ」
「え、それは、それは・・・」
佳奈は自分も男の名が思い浮かばずにいるのに気が付いた。何だったろう、事務所の看板を思い出してみる、封筒に印刷された名前を思い出そうとする、下の会計事務所は思い出せるのに、どうしてだろう、始めから知らなかったかのように、男の名字が思い出せない。
「叔母さん、先生のとこ、行って来ます」
「なんだか変だ、頼んだよ」
「はいっ」
佳奈はあたふたと靴を履くと駆け出した。公園を飛び出す、公園の入り口には何件もの屋台が並んでいる。
辺りを見渡す、たくさんの人だ。
とにかく、先生ちへ行こう。
しかし、佳奈は立ちすくんでしまった。そして、力が抜けたように、膝をついて、しゃがみこんでしまったのだった。
「先生ち、何処だったろう」
呟いた。なんで、先生のとこ、思い出せないんだ、今まで、幸ちゃんと先生ちでお茶を飲んだり、それから書類の控えを持って行ったりしていた、道が分からないなんて、そんなことあるはずないのに。
佳奈は人目もはばからず叫んだ。
「先生、幸ちゃん」
「どうしたの、佳奈姉さん」
振り返ると、幸が両手に屋台で買ったお好み焼きの袋を持って立っていた。
「あ、あの、あのね」
「あ、姉さん、涙出てるよ、もう、しょうがないなぁ。お父さんは徹夜で書類を仕上げなきゃって帰っちゃったし、幸はさ、晩ごはん用にお好み焼き買ってたんだ。」
幸は少しかがむと、佳奈の目許を袖で拭った。
「佳奈姉さんは大人なのに迷子だ」
幸は笑顔を浮かべると、佳奈を立たせた。
「先生の家が分からなくなった」
「それはしょうがない。お父さんは幸を守るために、商店街の人達との十年間の縁とこれから先を切ってしまった、幸は、まだ佳奈姉さんや母さんと縁が繋がっているから、こうして会えるし、お喋りもできる」
幸は寂しそうに笑みを浮かべた。
「佳奈姉さん、お父さんの家を思い出そうとするのじゃなく、幸の家を、幸の家の場所を思い出そうとしてごらん」
佳奈がほっとした顔をする。
「思い出せたみたいだね。しばらくはあの家にいるから、佳奈姉さん、遊びに来て。楽しみにしているから」
幸が歩きだそうとするのを、佳奈は両手でしっかりと止どめた。
「お願い、幸ちゃん。これじゃ、納得できないよ」
「困った・・・」
幸は背を向けたまま呟いた。
「場所を替えよう」
そう幸が呟いた途端、人の姿がすべて消え、全くの無音となる。取り残されたように屋台だけが立ち並ぶ。
「ここは」
「違う次元の世界、この世界には佳奈姉さんと幸の二人っきりだ。誰も聞き耳を立てる奴はいないから安心なんだ」
幸は屋台に設えられた丸椅子に座る、両手の袋を屋台の軒先に置いた。
「佳奈姉さん、お喋りしよう、隣り、どうぞ」
幸が優しく笑みを浮かべる、佳奈はほっとしたように幸の隣りに座った。
「すべて話すかな、でも何から話せば良いのかな」
幸は少しうつむいた。
「そうだね、幸のこと、そして、幸とお父さんの関係から話ししてみるか」
「幸ちゃんのこと」
「うん、正直に話すよ」
「ありがと」
佳奈が呟いた。
「佳奈さんは人の心を聞く。例えばね、誰もいないのに、いないはずなのに声が聞こえたことはないかな」
「今はほとんど無いけど、子供の頃は多かった」
「手を見せてみて」
幸は囁くと、佳奈の手を取り、手首を見る。
「守髪(もりがみ)が入っている。これはお父さんの父親の髪だ、縁があるのかな」
幸は自分の髪を一本抜くと、佳奈の手首に巻く。その髪は手首の中に融けるようにして消えてしまった。
「覚えているかな、子供の頃、男の人にこんなふうに手首に髪を巻いてもらったこと」
「そうだ・・・、思い出した、小学生の頃、法螺貝持ったしゅけんじゃ。いきなり目の前にやって来て、自分の髪の毛を抜いて、あたしの手首に巻いた」
佳奈はそっと笑みを浮かべた。
「もう大丈夫だよって言って、そのまま去って行ったんだ」
「佳奈姉さん、良かったね。幸はさ、出会えなかったんだ、そういう人に」
幸は笑みを浮かべると、視線を外し少し俯いた。
「声の主は、妖怪、あやかし、魔物、或いは祟り神と呼ばれている奴らだ。声を聞いてしまえば引かれて食われてしまうよ」
「本当にいるの、そういうの」
「いる、でも、佳奈姉さんは大丈夫だ。幸の守髪はそんな奴らを微塵も寄せ付けない」
にっと笑うと幸は佳奈の手を握った。
「あたしのいたところは・・・、ううん、幸のいたところは迷信深いところでね、祟り神を畏れ敬っていた。幸は霊媒体質で、心の声も聞く、ついでに随分と美人だ、きっと神様もご満足いただけるだろうと人身御供、生け贄にされたんだ。」
「そんなことが今でも・・・」
「百年以上昔の話さ。あたしは祟り神の腹の中で百年、生きていた、つまりもう人間じゃなくなっていた。あたしは祟り神に使役されていた、男を女の魅力で引き込んで、そいつを祟り神に食わせる、餌みたいなものだ」
幸は佳奈から手を離すと、空をぎゅっと睨みつけた。
「そんなことが本当にあるの」
「現実を一歩踏み違えて、穴に落ち込んだら、そういう奴らが口を開けて待っているのさ」
幸はふっと息を漏らすと佳奈に笑いかけた。
「信じてくれる、佳奈姉さん」
「信じるよ、第一、こんなさっきまでたくさんの人達がいたはずの桜の公園が、本当に今、幸ちゃんと二人っきりになっているんだから」
「ありがと」
幸は小さくふふっと笑うと嬉しそうに言った。
「お父さんに会ったのは、およそ二年前。いつものように男を引き込み、体売って、祟り神に食わせる餌になって、そう、いつものように・・・」
「お父さん、違ったんだ。あたしが裸でベッドにいるんだぜ、どんな男でも理性なくしてむしゃぶりついてきた。でも、お父さんは世間話をするんだ。そして、祟り神が正体を現わした時、あっけないくらいあっさりと、奴を退治して、あたしを助け出してくれたんだ」
「でもね、あたしは既に人間じゃない、奴と一心同体みたいなものだった、だから、あたしも死んでいくしかなかったんだ」
「そのとき、お父さん、こう言ってくれたんだ。生きることを選びなさい、私の命を半分あげようってね」
幸は呟くように言うと、自分の手のひらを見つめた。
「この体も血も命も、お父さんに半分分けていただいたもの。この体にはお父さんと同じ血が流れているんだ」
「だから、幸ちゃんはお父さんが好きなの」
「それもある、でも、本当に女としてあの人に惚れたんだ。もう、あたしには親も姉弟もいなかった、救い出してもらっても行くところなんかなかった。あの人 はそれなら私のところに来なさい。年齢的にも親娘でいいでしょうって言ってくれた。あたし、今なら妻にしてくださいって言ってたかもしれない」
「一緒に暮らすようになってね、幸せになりなさいという思いを込めて、お父さんはあたしに幸という名前をくれたんだ」
「普段の先生からは想像がつかないよ」
「そうだよね、お父さん、もっとかっこいいとこ、外に出したらいいのに。地味で正直が一番楽って言ってるんだから」
幸は少し声を出して笑う、とても幸せそうな声だった。
「ただ、お父さんにはとても迷惑かけた。佳奈姉さんに初めて声をかけてもらった時」
「背中向けてうずくまってたね」
「大きな声がとても怖かったんだ、だから、佳奈姉さんに声をかけてもらってとても嬉しかった」
佳奈が照れ臭そうに笑う、まるで少女のような幼い笑みだった。
「お父さんのところに来た頃、いつもはね、人が怖くてね、おとなしくしているけど、たまに、なんだか不安で一杯になって、もうわけ分からなくなって、大声 あげて意味の分からないこと喚き出したり、障子やふすまを破ったり、硝子割ったりもした。もう、自分自身がどうしようもなくなるんだ、そして最後には部屋 の隅でうずくまってぶるぶる震える」
「お父さん、一度も怒ったことないんだ、抱き締めてくれて一緒に泣いてくれるんだ、もう大丈夫だよ、ここは幸の場所だ、安心していいんだよって、繰り返し 言ってくれる。そして、こんなこと言うんだよ。棚がつぶれたりして大変だなぁって思うけど、板買って来て、こう、鋸で切る、その時、幸が板の片方をしっか り押さえてくれているの見ると、親子っぽくっていいなぁなんて」
「そう、嬉しそうに言ってくれる、幸の心はとろとろになる。あぁ、もう、お父さん、大好きって思ってしまうんだ」

「ただ・・・」
幸は微かに視線を落とした。
「お父さんは自分が死んだ後のことを考える、幸が一人でも生きて行けるように考える、お父さんは凄い武術使いで、映画に出て来るような魔法使いだ。お父さ んは全ての術を幸に教えてくれた。どんな敵にも勝てるように。そして、たくさんの友達が出きるようにも考えてくれた、佳奈姉さんにこうしてお喋り出きるの もそうだし、いろんな友達や知り合いもできた、幸一人じゃ、到底できなかった」

幸はふっと顔を上げ佳奈に言った。
「幸はとても美人だろう、性格はともかく」
「うん、見れば見るほど完璧な美人だと思う、性格は・・・、だけど」
「微妙な言い回し、ありがと。でもね、結局は、美人ってのが問題なんだ。この美人ということで、神様が喜ぶだろうと生け贄にされた、そして、今は商店街の男達が売り上げ向上を狙って幸を御輿に載せようとする」
「亭主もその話になると眼の色変わっていた。何考えているんだ、こいつって思ったよ」
「幸は一度魔物にさらわれた身だ、魔物を引き込みやすい体質になってしまっている、その上、そんな思いが膨れあがっていくと、いろんな妖しい奴らが近づい てくる。いろんな面倒ごと、不可思議なことが増えていく、その内、みんな頭が固まってしまって、もう助かるにはこれしかないって幸は妙な神様に捧げられて しまうのさ」
幸は沈んだ表情になると少し猫背になり頬杖をつく。そして、ひたすら前方を見つめた。
「顔に傷をつければ、こんなことはなくなるだろう。ざっくりと頬にでも切り傷をつければいい」
佳奈は幸の沈んだ声に驚いた、幸の表情を長い髪が隠している。
「でも、この体はお父さんにいただいたもの、この体には絶対に傷をつけない」
ふっと幸は背伸びをすると大きく深呼吸をした。
幸は佳奈に笑顔を向けた。
「佳奈姉さんにはとっても大切にしてもらった、幸のこと、気にかけていただいた。だから、幸のこと正直に話したんだ」
「どう、答えればいいかわからないよ。話が重すぎて」
佳奈はひとつ溜息をつくと、幸を見つめた。
「お姉さん、幸ちゃんの頭、なでて上げるよ」
「うん、ありがと」
佳奈が幸の頭をなでる。
「幸ちゃんはえらいよ、がんばった」
「うふふ。頭、撫でられるの好き」
そして、幸は立ち上がると佳奈の後ろに立ち、そっと佳奈の頭を撫でる。
「気持ちいいでしょ」
「いいね、気持ち良い」
「佳奈姉さん、今回のことで、大将たち男を怒っちゃだめだよ」
「殴ってやろうかと思う」
「それはだめ。もともと男なんてガキで我が儘な種族なのさ」
「先生も」
「お父さんは別、だって、幸のお父さんだもの」
佳奈は愉快に笑った。
「あ、お父さん、引き返して来た。元の世界に戻るよ」
その一言で、二人の回りにはたくさんの人達が行き交う公園入り口の前に世界は姿を替えた。

「お父さーん」
幸が男に声をかける、男は笑顔で手を振った。
「遅いからどうしたのかと思った」
「幸が襲われたと思った、誘拐されたって思った」
「いや、幸が誰かを襲ってんじゃないかとひやひやした」
「わっ、ひどいな、それ。幸は優しい女の子なのにさ」
幸が佳奈に同意を求める。
「幸ちゃんはかわいい、かわいい」
「感情がこもってないよ」
佳奈が愉快に笑う。
「ほんと、良い子だ」
男がすまなそうに笑った。
「佳奈さんには迷惑かけて申し訳ない」
「本当に男ってのはどうしようもないバカタレだよ」
「はは、返す言葉がないよ」
「先生、聞きたいんだけどさ」
「なんだい」
「あたしらは友達かい」
「ああ、共通の特技を持つ友達だ」
「これからもかい」
男は柔らかく笑顔を浮かべた。
「もちろん、これからもね」
「安心した、これが一番の安心だよ。先生は嘘だけはつかないからさ」
男がくすぐったそうに笑う。
「いい人だよ、佳奈さんは」
男がそっと幸の頭に手をやる。
「佳奈さん。幸は佳奈さんを本当に自分の姉のように慕っている、これも縁というやつなのかな。我が儘なところもあるだろうけど、これからもよろしく頼むよ」
「ええっ、幸は我が儘じゃないよ。自分の意見を優先するだけさ」
「楽しい妹だ。飽きないねぇ」
「それじゃ、佳奈さん、帰るよ」
「母さんも一緒に来てね、仲間はずれにすると叱られちゃうよ」
「ああ、そうするよ」
佳奈は小さく溜息をつき笑顔を浮かべた。
男が少し会釈をする、背を向けようとしたとき、佳奈は思いだしたように言った。
「先生」
「ん・・・」
「あのさ、言いにくいんだけどさ・・・、怒らないでよ。先生の名字や名前なんだったけ」
「うわ、ひどいなぁ。十年以上のつきあいだよってね」
男はポケットから名刺入れを取り出し、ペンで名前を書き込んだ。
幸がその名刺を取ると、佳奈に手渡した。
「由緒のありそうな名字に名前だ、似合わないね」
「ああ、だから、誰にも教えなかったのさ。初めて人に教えたよ」
「えっ・・・」
佳奈が顔を上げた瞬間、男の姿がふいっと薄れそのまま消えてしまった。
「本当にお父さん、魔法使いでしょう。恥ずかしがり屋のね」
「うわぁ、面白いねぇ」
「それじゃあね、必ずだよ」
「ああ、明日にでも行くよ」
「楽しみにしてる」
幸は一瞬、寂しそうな表情を浮かべたが、にっと笑うと手を振り駆けだした。
幸の姿が人影に消えるまで佳奈はそのまま見送る。
ふいに佳奈はしゃがみこむと、小さく溜息を漏らした。
先生や幸ちゃんと行くのもありなのかなぁ、そんなふうにも思う。
でも、子供の顔を思い浮かべると、あいつらをしっかり育てなきゃって思うし、蹴っ飛ばしてやろうかという亭主だけど、あれでいいとこもある。
あ・・・、泣いているのかなぁ、涙出ていないのに。
「どうだったい、佳奈ちゃん」
「あ、おばさん」
女主人が駆け寄って来た。
「遅いからどうしたんだと思ってね」
佳奈は立ち上がると、少し笑った。
「幸ちゃんが明日、遊びに来てって言ってましたよ」
「そうか、会えたかい。良かった」
「本当に膝、大丈夫になったんですね」
「前より調子いいくらいさ。ん・・・」
女主人が佳奈の顔をのぞき込む。
「泣いてんのかい」
佳奈はなにも言わず、女主人にしがみつくと小さく小さく泣きだした。
おとうさん
ん、どうしました
幸はなんだか割り切れない複雑な気持ちだ、こんな変な気持ち初めてだよ
哀しいとか、楽しいとかね、人の気持ちってのは、そんな単純に表すことはできない
哀しくて楽しかったり、相反する気持ちがいろいろ混ざり合って人は苦しむ
つまりは、幸が一人の人として成長したってことだ
人になるっていいことばかりじゃないね
そうさ、でも・・・。本当に嬉しいなぁってこともあるからさ、たまにはね。
9
最終更新日 : 2013-05-11 21:27:11

異形 流堰迷子は天へと落ちていく一話

瀟洒なホテルのラウンジ、碧のドレスを見に纏った女が一人、カウンターにいた。深い海の色をしたカクテルを前に、物憂げに頬杖をついている。
若い男が一人、何げない仕草で女の隣に座った。
「君の瞳はどうして虚ろなんだい」
女はふっと顔を男に向けた。
赤くひいた唇が妖艶な気配を漂わせる美しい女だった。
「好きな男が席を外している、それだけのこと」
「君みたいな素敵な女の子を独りにしておくなんて信じられないな」
女は吐息を漏らすと、男を軽く睨んだ。
「そこさ、あたしの待ち人の席なんだ。外してくれないかな」
「どう、俺と夜を楽しまないかい」
女は初めてにっと笑った。
「我が儘な奴だなぁ」
「男は永遠に少年なのさ、欲しいものはどうしても欲しい」
女は引き込むように笑みを浮かべると囁いた。
「そんな我儘ばかり言ってると、君を食べちゃうぞ」
にいいぃっと、女は笑う、八重歯が白く輝いた。
瞬間、魂が抜けたように若い男が固まってしまった。

「少子化に拍車をかけてしまいました」
「いいのさ、お父さん。こういう女の敵は去勢しておかなきゃね」
幸は平気な顔して、戻ってきた男に笑いかけた。
男は幸の隣に座る若い男の頭を軽くぽんぽんと叩き、話しかけた。
「ここでのことはすべて忘れなさい。そして、ドアを開けて出て行きなさいな」
若い男は無表情のまま、操り人形のように立ち上がるとすたすたと歩いて出て行った。
「ふっ、命冥加な奴」
「何言ってんだか、思いっきり悪役の台詞だよ」

男は椅子に座ると、幸のカクテルを見つめた。
「素敵な色だね、海の奥底から空を見上げればこんな色なのかもしれないな」
「お父さんの気障は許してあげます、天然だから」
「思ったことを言っただけのこと」
幸はにっと笑うと顔を寄せた。
「何飲む」
「こういうところで烏龍茶とかいうと叱られるのかな」
「大丈夫じゃないかな」
幸はバーテンに声をかけた。
「烏龍茶をお願いします」
バーテンは表情を変える事なく、烏龍茶の小瓶を取り出すと、グラスに継ぎ、男の前に置いた。
男が一口飲む。
「お茶は美味しいな」
幸はくすぐったそうに笑うとカクテルを飲む。
「なんだか、幸はとても御機嫌だな」
「そりゃそうだよ。贅沢晩ご飯だよ、一カ月分の食費を一晩で食べるなんて信じられないよ」
「いいじゃないか、一年が13カ月あると思えば良いだけのこと」
「なるほど。今晩だけはその考え方に賛成します、でも、残りの30日はお水だけです、ふふっ。とにかく、旅の最後の晩、最後くらいは贅沢と思ったけど、男 の人の金銭感覚はだめだ、明日から幸がしっかり倹約を教えてあげるよ。このドレスだって、ハイヒールだって、値札一桁間違えているのかと思ったよ」
「でも、幸に似合っているよ。その唇もとても素敵だ」
幸が恥ずかしそうに笑う、まるで子供のようなあどけない笑みを浮かべる。
「冒険して思いっきり赤いのにしたんだ。ね、お父さん」
「ん」
「幸、この一年で背が伸びたよ。ハイヒール履いたら目の高さ、お父さんと同じだもの」
「そういえば、顔付きもちょっと大人びた感じがする」
「幸はいい女になりましたか」
「とってもいい女になりました」
幸は足をばたつかせながら、にひひっと笑う。
「そういうとこは子供だ」
「だって嬉しいんだもの」
男は笑うと、立ち上がり、支払いを済ませた。
「そろそろ行こうか」
「うん」
立ち上がった途端、幸はバランスを崩し男にしがみつく。
「酔ったかな」
「うん、足がなんだか軽い。でも、ハイヒールって初めてだからそれもあるよ」
男は笑うと、幸の腰に手を回し、そのまま、すっと2センチほど、腕全体をあげる。
「これでいいかな」
「えへへ。体が浮いて、楽ちんです」
男は少し笑うと、もう片方の手でドアを開けた。


男は夜の住宅街を幸を背負って歩いていた。慣れないハイヒールに幸が音を上げたからだった。
「ごめんなさい、お父さん」
「ん、いいよ。父さん、気づいてやれずにごめんな、足、痛かったろうに」
幸は両手を男の首に廻すと、そっと頬を寄せた。
「お父さんは幸のためにいっぱい頑張ってくれる、幸はそんなお父さんに一体どれほどのものを返せば良いんだろう」
「そうだなぁ、多分、父さんは幸が居てくれないと、何もせずにそのまま部屋の隅で衰弱死してミイラになってしまいます、だから、父さんを捨てないでください」
男はくすぐったそうに笑った。
「幸もお父さんが居なくなったら、狂ってしまうよ。そして全世界を破滅に導いてしまうと思う」
「世界平和のために一緒にいなきゃな」
「うん」
幸が幸せそうに笑った。
「お父さんは、酔うと子供みたいにかわいいくなるなぁ」
「そして、酔いが醒めると年甲斐もないことを喋ってしまったと考え込んでしまう」
男は言葉を繋ぐと少し息を漏らす。
「父さんの個性と思ってください。父さんさ、最初、頑張って幸をしっかり育てなきゃって思ったけど、あぁ、ちょっと違うんだって気づいたな」
「どう違うの」
「幸は事の善し悪しをしっかり自分で考えることができる。父さんが頑張って幸を立派な人間に育てようなんて思わなくても、ちゃんと育ってくれている、父さんが幸に育てられているくらいだ」
「それはお父さんがいてくれるからだよ」
「娘にそんなふうに言ってもらえるなんて、父さんは幸せだ。・・・ん、ちょっと饒舌になってる、まだ、食前酒が残っているのかな」
「酔ってるお父さんも好きだよ」
「ありがと」
男はそっと笑顔を浮かべた。
あの角を曲がれば、家が見えてくる。一年間、留守にした家だ。
「お父さん」
「ん」
「家なかったらどうしよう」
「それは困るな」
「ね、もう一度、旅に出ようか」
「タコ焼き屋さんとクレープやりながらか」
「うん。車の中はとっても狭かったけど、ぴたっとお父さんに引っ付いていて楽しかった」
「そうだな、車屋さんから、車を返してもらって、貸倉庫にいれた荷物を出して」
「今度は南へ行こうか、お父さん」
「次は日本を出てみたいな」
「何処行く」
「スペインに行ってみたいな、夕日に染まる宮殿を見てみたい」
「それじゃ、幸はスペイン語勉強するよ」
「楽しみだ。でも、本当は」
「ほんとは」
「居間で大の字になって寝そべりたい気分である」
幸は男の背中で笑うとぎゅっと頬を寄せた。
「その気持ち、とっても分かるよ、お父さん」

漆黒の闇の中、二人の家が一年ぶりの男と幸を出迎えていた。
「あったね、でも、他人の家みたいだ」
「家は生きている、いまは仮死状態みたいなものだよ」
男は幸を背負ったまま、門を入ると配電盤のブレーカーを戻す。門柱のあかりが灯った。
そして、幸が男の背中から手を伸ばし、鍵を解錠した、玄関の戸を開く。
一歩、足を踏み入れあかりを灯した。静かに家は息を吹き返し、二人はやっと自宅に戻って来たと感じることができた。
「降ろすよ」
「うん」
幸はやっと男の背中から降りると玄関の廊下に立った。廊下が一面、白い粉を被ったようになっていた。
「うひゃあ、埃だらけだよ」
「一年ってすごいな」
幸はぱたぱたと台所へ駆け込むと、絞ったぞうきんを持って来た。そして廊下を拭いて行く。
「お父さん、拭いたところを歩いて」
「ありがとう」
男が靴を脱ぎ、廊下を歩く。
「お父さん、今晩は廊下と居間だけでも掃除をするよ。お父さんは座ってて」
「大丈夫、箒で掃いて行くよ。それより、幸、ドレスは脱ぎなさい、碧が灰色になってしまうぞ」
「うわっ、大変だ」
幸は男に背を向ける、男は背中のチャックを降ろした。
「ありがと」
幸がその場でドレスを脱ぎ出す、その姿は少し大人びた、非のうちどころのない理想的な体型だった。
男が慌てて、目を瞑り背中を向けた。
「お父さん、意識した」
ドレスを脱ぎ、下着になった幸が笑う。
「ガーターに網タイツがとっても蠱惑的だよ、それにこの赤い唇、お父さんに赤い印をつけてあげよう。」
「早く何か着なさい」
男が背を向けたまま言う。
幸は男の背中に体を寄せると、耳元で囁く。
「お父様、幸、とっても体が熱いの、お父様の体で冷やして欲しいよ」
そっと幸が左手で男の胸を、右の手のひらで男の臍を服の上から押さえる。
「熱いのなら風邪薬を飲んで寝なさい」
「風邪薬じゃ、この体の火照りは収まらない、お父様が抱いてくれなきゃ」
幸の右手の爪先がそっと下へ向く。
「お父様だって、ほら、首筋汗が出て来ているよ、ね、お父様」
「ええっと。早く着替えてきなさいっ」
「はぁい」
幸が笑いながら、箪笥へ服を取りに行く、男は疲れたように、そのまま座り込んでしまった。
絶対の信頼を幸は俺に抱いてくれている、その信頼を損なうことは俺にはできない。
硝子戸を開ける、隣りの塀が視界を遮っていた。
しかし、外からの風が心地いい。

「お父さん・・・」
男が振り返ると、普段着に着替え、化粧を落とした幸が青い顔をして立ちすくしていた。
「それじゃ、箒で埃を外に、ん、どうしました」
「幸はえっちじゃないよ、えっちじゃない。ごめんなさい、お父さん」
「さっきのことか」
「洗面所で化粧を落としたら、恥ずかしくなったんだ、おとうさん、幸を嫌いにならないで」
男は柔らかに笑みを浮かべる。
「色んな幸がいて、父さんはどきどきしたり、わくわくしたり、あたまかかえたりで大変だ。でも、それはとっても楽しいこと。楽しいと思えるのは幸が大好きだからだよ」
男が手を差しだした。
幸が男の胸に飛び込んだ。
「ごほっ」
幸が咳き込む。男がそっと幸の背中をさすった。
「埃だらけのところに走りだすんだから」
「だって」
「さ、立ちなさい、この部屋、掃除しなきゃ寝るところがない」
男は幸を立たせると、箒を持って部屋を掃きだした。
「お父さん、庭がない」
幸が叫んだ。庭には幸が畑を作り、その向こうには梅林が続いていたはずが、すぐそこに隣りのブロック塀が見えていた。
「幸、気づくのが遅すぎるよ」
「まさか、思いもしなかったんだもの」
「一晩過ぎれば元に戻るさ。この家とあの空間は父さんの存在が鍵になって繋がっていた、一年の間にそれが切れてしまっただけ。戻って来たから、また、繋がるよ。幸の畑がどんなふうになっているかはわからないけどね」
「良かった・・・」
ほっとした顔で幸は、男の掃いた後から、固く絞った雑巾で畳を拭いて行く。
一通り部屋の掃除を済ませると箒を片付ける。幸はお茶を沸かしに台所へと行った。

久しぶりだな、親父。隣りの塀が見えるなんて。ここへ二人で来た頃のことを思い出すよ。
男が小さく呟く。十代半ばの頃のこと、男は目を瞑り思い出していた。
親父や祖父さんは幸の力をみずち家に取り込もうと捜していた。善意じゃない、幸と子供を為すことで、巨大な才能を持った後継者を得ようとしたからだ。でもさ、人の世にそんな力を持った存在はいらない、危険なだけだよ。
「お父さん、お茶入ったよ」
「ん、ありがとう」
男は湯飲みを取ると一口飲んだ。
「幸のお茶はとっても美味しいです」
「普通に入れているだけだよ」
幸が照れくさそうに笑った。
「ね、お父さん」
「ん」
「唐突だけどね」
「なにかな」
「鶏を飼おう、それと、山羊も。本当は牛だけど、なんだか大きくて大変そうだから山羊」
「いきなり・・・。さすがにびっくりした」
男は笑うと湯飲みをお盆に戻した
「新鮮な卵を食べることができそうだね」
「あのね、幸は自給自足がしたいんだ、旅の中でずっと思っていた。色んな人達と旅の中で関わって楽しかったけど。だけど・・・、ちょっと疲れた」
「自給自足か、そういうのもありかもしれないね」
「でも、仕事しなきゃだし、どうしよう。もう一度、会計事務所を始める」
「お客さん、譲ってしまったからね。譲った友人の会計事務所にアルバイトでって話はしていたけど、どうかな、一年も経つからさ」
「ね、ここでお総菜と喫茶店をやろう、事務所にテーブルと椅子をおいて。中古なら安くであるよ」
「でも、幸は人と会うのが」
「幸は牛乳と卵と野菜をお店に納品する業者さんになります。新鮮な卵や野菜を取り揃えてますよ」
男はくすぐったそうに笑った。
「楽しいだろうね。でも、それじゃ、父さんが喫茶店のオーナーになるのか。接客業できるかな」
「大丈夫だよ、この一年間でお父さん、随分、愛想笑いができるようになりました」
「ん・・・、父さん的には悩みどころだ。でも、面白いかもしれないな」

幸は立ち上がると、昨年のカレンダー、四月を切り取り、裏向けて畳の上に広げる、そして、俯せに寝転んだ。
「お父さん、横」
「え、あぁ、うん」
男も横に寝そべると、カレンダーの裏、白い紙を眺める。

「ここは、住宅街だからね、近所の人達をお客様にしなければなりません」
幸が鉛筆で「住宅街」と書き、丸で囲む。
「そしてこの辺りの人達は佳奈姉さんのいる商店街か、その隣りのスーパーへ買い物に行きます。幸い、ほとんどの人が自転車か歩いて行きます」
「そうだね、車で行く人は少ないな、大きな買い物をする時くらいかな」
「そう、だから、歩いて帰る人達に、ちょっと寄り道してもらえるようなお店にするのです」
幸はにっと笑うと、お店を正面から見た絵を書きだした。
「何を売ろうかな」
「商店街やスーパーに売っているのと同じものは買ってくれないだろうな」
「そうだよね、今はたいていのもの、売っているからなぁ」
男は真剣に考えている幸の表情が見ているだけで楽しく思えたがふと呟いた。
「専門店を考えたら」
「専門店、そうだ、オーガニックとか自然派とか、あんまりうさん臭くない程度で」
「そういえばハーブが随分育ったね」
「お父さん、ハーブティーを喫茶店で出そう、そして、ハーブティーのブレンドも販売する。」
「なら、お総菜も無農薬とかの路線かな」
「うん、幸、頑張って無農薬で野菜を作るよ。えっと、献立はどうしよう」
「たくさんの献立を毎回考えるのは大変だな」
「それじゃローテーション。季節ごとに」
「なら、半月で回転させる、つまり十五品、これと季節で、六十品目を回して行こうか、それくらいならなんとかなりそうだな。ただ、位置付けだな」
「位置づけって」
「いくつかあるおかずの一つになるか、これひとつでおかずになるか」
「うーん、値段帯をスーパーのと同じにするなら」
「お総菜は一種類だけ、量は一回の食事分、この住宅街はお年寄りの二人暮らしが多いからね、それを念頭に置く。売れ残ったら、それ食べなきゃならないから、あんまりたくさんは作れない」
「お総菜は三百円までにしよう、お父さん、パックとかさ、入れ物っていくらくらいするんだろう」
「まとめて買えば、随分安いと思うよ。ただ、自然派を言うなら、量り売り、蓋のできる容器か、深目のお皿持ってきてくださいかな、パックも販売はしますけど、って姿勢になると思うよ」
「うん、なんだか説得力があるよ、その方が」
幸は絵の横にお総菜三百円(量り売り)と書き、その下にハーブティーと書き添えた。
「喫茶メニューはどうしよう、ハーブティーも何種類か用意しようかな」
「ハーブティーは種類が必要だな。食事は軌道に乗ってからかな。そうだ、最初はハーブティーにスコーンとかビスケットとか添えるくらいでいいかもしれないね」
「お父さん」
「ん」
「もう、明日から喫茶店できそうだよ」
「はは、それはちょっとね。保健所とか、お手洗いの設備とか、もっと煮詰めなきゃな」
幸はごろんと仰向けになると嬉しそうに笑った。
「なんだか、とっても楽しいよ、わくわくする」
男はふっと顔をあげ、窓から外を眺めた。
「幸、外を見てみなさい」
「あ、塀が無くなった」
「幸の作った畑はどうだ」
「うわぁ、随分と草が生えているよ。そうだ、お父さん、あの草は鶏の餌にしよう」
「そうだね、そして、浅蜊のおすましをいただいた翌日は」
「貝殻も砕いて、鶏の餌にする」
「よくできました」
男は笑うと体を起こした。
「もう遅いな。布団出そう」
「うん」
幸は素早く立ち上がると押し入れから布団を取り出す。
大きなナイロン袋に圧縮した布団。
「掃除機で、空気吸い込んでさ、お布団が薄くなったけど、重さは一緒なんだよね、なんか、不思議だ」
幸が袋から布団を出して行く。
「そういえばね、体積が小さくなると、なんとなく軽くなったような気がするんだけどね」
幸が布団を取りだし、敷いていく、二組の布団を寄せて敷いて行く。
「幸、ちょっと引っ付け過ぎ、もう少し離しなさい」
「だめだよ、お父さん。布団は夢を渡る舟、離してしまえば、夜の闇に離れ離れになってしまうよ」
「幸、その台詞、ずっと考えていたな」
「うふふ、妙に説得力があるでしょう、お願い、今晩だけはさ」
「まっ、いいよ。少しお酒が残っているのかな、眠たくて仕方が無い」
男は隣の部屋で寝間着に着替えると、部屋に戻って布団にもぐりこむ。
幸は布団の上でパジャマに着替えた。
「お父さんは幸が着替えるとき、目を瞑ってしまいます、どうしてですか」
幸も布団に潜り込み、にっと笑って男の顔をのぞき込む。
「これが父さんの幸への礼儀。幸は父さんにとって、とっても大事な人だから、大切にする、そのための礼儀」
「お父さんが、そう言ってくれるの、とっても嬉しい。だから、何度も訊ねてしまう」
「今度から、テープに吹き込んでおくから、それを聴いてください」
男が少し笑う。幸も楽しそうに笑った。
「お父さん、あかり消すよ」
「あぁ、お休み」
「お休みなさい」
幸は明かりを消し、布団に戻る。
闇の中、幸は男の顔をじっと見つめている、その瞳に一筋の涙が流れた。
「お父さん、ありがとう」

明け方近く、男は目を覚ました。まだ、辺りは暗い。
男はぐっすりと幸が寝ているのを見て、硝子戸を開けた。
朝の冷たい風が流れ込む、男は素早く部屋を出ると、硝子戸を閉め、縁台に座る。
梅林の遥かに向こう、ほんの少し空が白み始めていた。

梅林の修行場が、畑になり、今度は鶏を飼うと言う。なぁ、親父、なんだか想像つかないな、命を削ったこの修行場が、とっても和やかになる。でもな、俺はそ れがとても嬉しいんだ。武術や呪術は本家が伝承を続けて行けばいい。こんな力は幸の代で最後になるよ、本家もその方がありがたいだろう。
朝から、大掃除、そして、鶏小屋を考えなきゃならない、俺にとっても、その作業はとても楽しいことだ。

ふと、幸が目を覚ました。布団に男がいないことに気づき、慌てて立ち上がりかけたが、硝子戸の向こうに男の姿を見つけ、ほっと吐息を漏らす。
足を崩し、幸は掛け布団を抱き締め、男の背中を通して、男と同じ方向を見る、それだけのことが幸にはとても嬉しいことだった。男が幸の視線に気づき振り返る。
「寝ていなさい、まだ、早いからさ」
幸は笑みを浮かべ、人差し指で自分を指さし、そして、男の横を指さした。
男が笑って頷くのを見ると、幸はかけ布団を抱き締め、外に出た。そして男の横に座ると、掛け布団の端を男にかけ、もう片方を自分の背中にかける、包まるようにして男に寄り添う。
「お父さん、おはよう。今日、これが一番最初の幸の言葉」
「おはよう、幸。起こしてしまったかな」
「ううん。ね、お父さん、こうしていると野宿しているみたいだね」
「そうだな。ん、ほら、空の端、随分白くなってきた」
「一日が始まるね。お父さん、今日は大掃除の一日だ」
「大掃除か、大変だ」
「大丈夫、幸が全部するからさ」
「父さんも頑張るよ、旅でもそうだったけど、幸はなんだか頑張り過ぎ、体を壊さないか心配だ」
「幸はお父さんにいっぱい迷惑をかけている、お父さんの仕事もだめにしてしまった、そして、こうしてさ、お父さんの独りの時間も潰してしまっている」
「そうじゃないよ」
男は幸の頭をそっと撫でる。
「父さんは自分が幸せな方を選んだだけ、それだけのこと」
空全体が闇から薄青く移り変わり、遠く連なる梅林もその姿を現し始めた。
「さて、急いで大掃除をして、それから、鶏小屋を作ろう、基本は放し飼いの方がいいだろうけど、あっちこちで卵を産んだら探すの大変だ」
「大きいのがいいな」
「そうだな、いいのを作ろう、そうだ、幸は佳奈さんに帰ってきたこと連絡しておきなさい」
「そうするよ、また、楽しい日が始まる気がする」
幸は柔らかに笑みを浮かべた。
10
最終更新日 : 2013-05-11 21:27:11

異形 流堰迷子は天へと落ちていく二話 01

「母さんにも困ったもんだなぁ」
幸は笑うと、洋品店の女主人を布団から助け起こした。
旅から帰ったことを佳奈に報告した、その時、幸は佳奈から洋品店の女主人が寝込んでいると聞き、シャッターの裏側、店の奥の寝室へ女主人を見舞いに来たのだった。
幸は女主人を布団に座らせると、頭からゆっくりとマッサージを始めた。
「母さん、ちょっと痩せたね。礼子さんに心配させちゃだめだよ」
「あの子も学校が忙しいからね、あたしのことなんざ、気にもかけちゃいないよ」
娘が二人、次女は結婚して家を出たが、長女の礼子は、未婚で、女主人と一緒に暮らしているのだった、しかし、勤めている高校が忙しく、ほとんど、家にいることができずにいた。
「なるほど、子の心、親知らずってやつだ」
幸が、肩から背中へと摩っていく。
「どう、母さん」
「不思議だねぇ、幸ちゃんの触ってくれるところから、なんだか、元気になっていくようだよ」
「母さんはとくに病気でもなんでもない、まっ、流行りの鬱から体を動かさなくなって、筋肉が衰えて、って悪循環を起こしている。幸がいなくなって寂しかったの」
「幸ちゃんの憎まれ口聞けないのは確かに寂しかったね」
女主人がやっと笑った。
「笑ったね」
「あぁ、笑った」
「笑うのが一番だよ」
幸はほっと笑みを浮かべると、女主人をうつ伏せに寝かせ腰に触れる。
「母さん」
「なんだい」
「明日から一時間、母さんの時間をちょうだい」
「え・・・」
「散歩をしよう、一週間も歩けば、一年前のようになる。商売もできるようになるよ。自営業者は死ぬまでずっと働くのさ。ふふっ」
「難儀だねぇ。奴隷みたいなもんだ」
「人間、働いてなんぼ、これ、母さんが幸に教えてくれたんだよ。幸、珈琲をいれてくるよ」
幸は女主人を座椅子に座らせ、勝手知ったる台所へと向かった。


男は佳奈からの電話を受けていた。
「そうですね。私自身は関わることはできないけれど、幸の意志は一番に尊重する、いま、私に言えるのはそこまでかな。ええ、それでは」
男は電話を切ると溜息一つをつく。
そして呟く。あまり、お勧めではないな、と。

幸は裏口から商店街を抜け出すと、ほっと吐息を漏らした。幸は佳奈と女主人以外にはできるだけ会いたくなかったのだ。
一年前の事件の責、これの一因に自身の存在があったことを幸は認識していた。

幸は下水の上に並べられたセメントの蓋の上をとんとんと小走りに進む。
・・・お姉ちゃん・・・
ふと、幸は誰かに呼ばれた気がして振り返った。
「え、あかねちゃん」
振り返ると、あかねが笑顔で幸の後ろに立っていた。
「お姉ちゃん、さよなら」
「えっ」
幸があかねに手を伸ばしかけた瞬間、その姿がかき消すように消えてしまった。
「なに、これって・・・。ま、まさか・・・。うわぁぁぁっ」
幸は叫び声を上げた、そして、空を睨みつけると、その姿を消した。
マンションの一室、あかねは血を流し倒れていた、そして、その前には、血まみれの、大きな硝子の灰皿を掴んだあかねの父親が息荒く立っていた。
「悪魔め」
そう呟くと硝子の灰皿を両手で掴み直し、振り上げた。
「滅びろ」
マンションのドアが轟音と共に破裂した、
「であぁぁぁっ」
幸が灰皿を蹴り上げる、空中でガラスが弾け粉微塵になった、一転し、あかねの元に駆け寄っる。
「なんてことを」
幸はひざまずくと、両手であかねの頭を抱えた。
「お姉ちゃんが助けてあげるよ」
幸の両手があかねの頭に溶け込んで行く。
「お前も悪魔だな、ここから出て行け」
あかねの父親が転がっていた金属バッドを拾い、振り上げた。
幸が叫んだ。
「お父さんっ」
「ん、ここにいるよ」
男はあかねの父親を床にうつ伏せに押し倒していた。
「目に見える距離の瞬間移動は何度かやったこともあるけど、電車で一時間の距離を一瞬で跳ぶのは初めてだ、結構、きついな」
「ごめんなさい、お父さん」
「それよりあかねちゃんは」
「なんとかする、死なせない」
男は頷くと、改めて部屋を見渡した。
壁も床も血で赤く染まっている、そして、ごみ箱、押し潰したカップラーメンが山になっている。洗濯物も散らかっている、女物は見あたない。
「お父さん、大丈夫、修復出来た」
「意識はありますか」

「あかねちゃん」
幸があかねに語りかける。
あかねは微かに笑みを浮かべると小さく呟いた。
「お姉ちゃん」
大切な宝物のように、幸があかねを抱き締めた。
男はその様子を確認すると、幸に声をかけた。
「あかねちゃんを連れて帰りなさい」
「お父さんは」
「ちょっとね、お喋りしてから帰るよ。あとは任せなさい」
幸は頷くと、あかねを抱きかかえ立ち上がった。
「お父さん、お願いします」
男は笑みを浮かべ、頷いた。幸とあかねの姿がふっと消えた。
男は手を離し、テーブルの椅子に腰掛ける。
「さて、君の言い分をお聞きしましょうか、ゆっくり聴いてやるよ」


「服を脱がせるよ」
幸はそっと笑みを浮かべると、あかねの服を脱がせ、布団に寝かせつけた。あかねの体は至る所で赤黒く内出血をしていた、足の骨も折れている。どんなに痛 かっただろう、辛かっただろうと思うと、大声で叫びたくなる、しかし、幸は笑みを浮かべたまま、両手をあかねの体の中へと踊らせて行く、骨を繋ぎ、切れた 筋肉や血管も繋いで行く。
しばらくして、幸は両手を戻すと、額の汗を拭い、ほっと溜息をついた。
「あかねちゃん、痛いところ、あるかな」
「ううん、お姉ちゃん、ありがとう」
幸は笑みを浮かべ、あかねの頬をそっと触れる、そして、幸はあかねの手首を両手でそっと掴んだ。手首には幸が紡いだ守り髪が間違いなくある、あかねが幸に 助けを呼べば、どんなに離れていても、幸に声が届くはずだった。あかねちゃんは助けを呼ばなかったのか、と幸はいぶかしる。
「だって、あかねは悪魔だから滅びた方がいいんだもの」
「え・・・。あかねちゃん、お姉ちゃんの考えたことが分かるの」
「うん。お父さんは私は悪魔になったから滅ばなければならないって言うから」
「何言ってるの、あかねちゃんは人間だよ、心を読むくらい、ちょっと特技がある、それだけのことなんだよ、他の友達より、勉強が出来たり、走るのが速かったり、そんなのと同じことなんだよ」
幸はあかねの手を両手でしっかりと握った。


「君の言い分を一通り聴かせていただいた上で言うなら、君はどんなことがあっても娘の側に立つべきだったということかな」
「あんたら、いったい、何者なんだよ」
「うーん、君には言いたくないな。それよりね、そこの流しにタオルがあったろう、それ水で洗ってさ、堅く絞って、今から拭き掃除だ。俺がしっかり見守っててやるよ。君がその手で傷つけた君の娘の血を、同じその手で拭き取れ。でなきゃ、俺は君を殺すぜ」
笑みを浮かべたままの男の言葉は、その表情とは裏腹に、怒りがはちきれそうになっていた。

辺りが薄暗くなったころ、男は改札を出、家路へとついた。ふと、商店街入り口のタコ焼き屋に目が向く。
買って帰れば喜ぶかなとのぞき込んだ。
「いらっしゃい、いくつにします」
「そうだ、タコ焼きより、回転焼きの方がいいかな、回転焼きを6個で」
「へい、お待ちを。あれ、お客さん、あんた・・・」
「なんです」
「いや・・・、よく知っている人のように思えたんだけどなぁ」
「なかなか、商売上手ですね、昨日、越して来たばかりですよ、楽しいおやじさんだ、また、買いに来ますよ」
店のおやじは照れ笑いをし、そそくさと回転焼きを箱に積めた。男はお金を支払い、回転焼きを受け取ると、歩きだす。
そして呟いた。
俺も随分丸くなってしまったな、と。

「お父さん、お帰り」
「ただいま」
玄関口で幸がにっと笑った。男は玄関口に腰をかけると、紙袋を置く。
「あかねちゃんの着替え」
「あかねちゃんのお父さん、出してくれたの」
「当分、お嬢さんは私が預かりますってね、出してくれたっていうより、出させたって感じかな」
「詳しいことは後で話すよ、とにかく、当分の間、あかねちゃんはここで暮らします、幸、あんまり、いじめないようにね」
「ん・・・、多分、大丈夫だよ。基本は幸、優しい女の子だからさ、ん、お父さん、これ何」
「回転焼き、商店街の入り口で買った」
男は幸に回転焼きの包みを渡した。
「六個入ってる、ということは、あかねちゃんは小さいから二つ、幸は四つだな」
「え、父さんの分は」
「しょうがないなぁ、それじゃ幸の、半分、お父さんにあげるよぉ。ちゃんちゃん」
男はくすぐったそうに笑みを浮かべると、幸の頭をなでる。
「ありがと」
男が居間に入ると、布団にあかねが横になって寝ていた。男は枕元に座ると、あかねの顔をじっと見つめた。
「体の傷は直したよ」
「そうか・・・。ぐっすり眠っている」
「安心したみたい」
「晩ご飯まで寝かせてあげよう」
男は立ち上がると、硝子戸を開け、庭を見る。少し薄暗い。
「お父さん、なんだか、一日があっという間だった。昨日まで旅を続けていたのが夢のようだよ」
男が振り返る。
「本当にそうだな。佳奈さんやおばさんは元気にしてたかな」
「佳奈姉さんは元気、でも、母さんが寝込んでた。ちょっと鬱になって、体動かさなかったみたい。それでね」
「ん」
「幸、一週間、毎日一時間ね、母さんと散歩しようと思う、そう約束したんだ」
「そうだね、それが良いと、父さんも思うよ、ただ、気をつけなさい。佳奈さんとおばさん以外には姿を見せないようにね」
幸が寂しそうに笑みを浮かべると、小さく吐息を漏らした。
「男はどうして侵略しようってするんだろう。少しでも多くを得ようと企むんだろう、これくらいで良いかなって謙虚さがないんだろう」
「さあね、ただ、男は行き着くところまで突き進んで、壁にぶつかるまで、考えたり、我が身を振り返ったりできないようにできあがってしまっているんだろうね」
「お父さんもそうだった」
「父さんは・・・」
男は少し考える。
「簡単に人を殺せる力を身につけた、それからは謙虚っていうかな、意識して強く自制するようになったかな。それまでは・・・、秘密」
「ん・・・、男がお父さんみたいに優しい人ばかりになれば、世界は平和になるのかな」
男はくすぐったそうに笑った。
「父さん、幸には優しいかもしれないけど、他の人にはかなり冷酷かも」
「幸は特別ってこと」
「愛している人にはただただ優しくなってしまう、それだけの単純なこと。さて、晩ご飯の用意をするかな」
「お父さん、お願い、もう一度言って」
「晩ご飯の用意を」
「その前だよ、もぉ」
「冷酷かも、だったかな」
「ううっ、お父さんってば」
「大声出すと、あかねちゃん、起こしてしまうぞ」
男は笑うと、台所へと向かった。

炬燵布団を外した掘り炬燵にオムライスを並べた。幸はそっとあかねを起こすと、掘り炬燵に座らせる。
そして、にっと笑みを浮かべると、あかねの横に座った。
「一緒に食べよう」
あかねはそっと笑みを浮かべると、小さく、うんと呟いて頷いた。

夕食を終え、男の先にお風呂に入りなさいという言葉に、幸はあかねと風呂へ入る。男は後片付けをしながら、結局、あかねちゃんは、ほとんど喋らなかったなと思いかえした。今も彼女自身、自身のことに対して随分戸惑っているのだろう。
また、明日、考えよう。


朝、久しぶりに男は一人の部屋で起き、着替えていた。幸は、目立たないよう朝の早いうちに女主人のところへ出掛けたのだが、あかねはここに居たいと留守番になったのだった。
男が着替えて、居間に入ると、あかねは掘り炬燵に座り、開け放った硝子戸から外の風景を眺めていた。
「あかねちゃん、朝ごはんは食べましたか」
あかねは振り返ると、笑顔で頷いた。
「そっか、おじさんはだめでね、朝は珈琲しか飲まない、幸には体に悪いと叱られているんだけどね。横、いいかな」
あかねが頷くのを見て、男はあかねの斜め向かいに座った。
「お喋りしていいかな。昨日のことやこれからのこと」
あかねが少し表情を引き締め頷いた。
「まず、あかねちゃんのお父さんとあれからお話した。そしてね、当分、お嬢さんは私が預かりますっておじさん言ったんだ。お父さんは随分落ち着いていた、 そして、後悔していたけど、自分自身がまた同じようなことしてしまうかも知れないと言ってた。自分を抑え切れないらしいね」
「お父さんは心の病気だと思う。おじさんの友達には、こういう病気のね、専門のお医者さんがいるから、頼んでおいたよ」
あかねが瞬きもせず、じっと男の目を見つめる。
「お母さんの連絡先はおじさん、今日、調べて連絡するよ」
男は父親の話で、あかねの母親が疾走したのを知った、半年前のことだったらしい、あかねがおかしく思えるようになったのはそれからすぐだったということらしい。

「そして、あかねちゃんのこと。あかねちゃん、ここで生活をしてください、幸にね、人との接し方を教わりなさい。そうすれば、戸惑うことなく生きていけるようになるよ」
「ありがとう」
初めて、あかねは小さく囁いた。そして、俯く。
男が言った。
「あかねちゃん、それとも、あかねさんって言った方が良いかな」
あかねが驚いて男を見つめた。
「精神年齢が急に上がって、戸惑っているんだろう、いつからかな」
あかねはぎゅっと俯いたが、やがて決心をし、男をしっかり見つめた。
「半年前です。いつも見ていたテレビアニメが急に子供っぽく思えて飽きてしまったのが最初でした」
まるで、十代後半、いや、二十代のしっかりとした物言いであかねが話始めた。
「小学校でも、どうして、私はこんな子供たちと生活をしているのだと疑問に思えて仕方がなかったのです、そのうち、ひきこもりと称して部屋から出るのをやめてしまいました」
男はなだめるようにそっと笑顔を浮かべる。
「他人の心が見えてきたのもその頃からですか」
「最初は母でした。母の前に立った時、母は何を独り言を喋っているんだろう、そう思ったのですが、母の口は動いていませんでした」
男はしばらく俯いて目をつぶる、そして、顔を上げるとあかねに言った。
「あかねさんのね、病気や怪我ならいくらでも直すことができる、でもこれは病気でも怪我でもない、君の変化なんだ。だから、元に戻すこともできないんだよ」
「はい・・・」
「あのときの外神との接触で、少しずつ、君の潜在能力が顕在化したのだろう」
男は一つ吐息を漏らしたが、励ますように笑顔を浮かべた。
「幸は、ある意味、君の大先輩だ、心を二つ持って気持ちのやり繰りをしている、あかねさん、幸と一緒に暮らしなさい、そして、幸を参考にゆっくりと落ち着き方を探して行きなさいな」
あかねがほっとしたように笑みを浮かべた。
「おじさん、優しい人ですね、幸さんが夢中になるの、わかります」
「面と向かって言われてしまうと、なんだか照れるな。ただ、あの子の笑顔を見るのが好きだからね。それは、ん、本当はあかねさんのお父さんも同じなんだよ、それだけは心のどこかに置いて、忘れないようにね」
「はい」
「いい返事です、そうだ、そろそろ、幸、帰って来るかな」

「ただいま」
玄関口で幸の声が聞こえた。
とたとたと幸は居間に入ると、男の向かいに座った。
「お帰り」
「幸お姉ちゃん、お帰りなさい」
「あかねちゃん、ただいま」

「なんだか、二回、ただいまって言うの新鮮だなぁ」
幸は笑うと、袋を男に見せた。
「鯵、かあさんが買ってくれた。あ、幸、一度は遠慮したよ」
男は笑うと袋を覗き込んだ。三匹の鯵が袋に入っていた。
「美味しそうだね」
「お父さん、鯵を二枚に開いて」
「ん、どうするの」
「天日干しにします。塩を振って干すのです、とっても美味しいと思う」
「なんだが、幸はどんどん自給自足へと向かって行くなぁ」
「いまはね、お父さんとあかねちゃんと佳奈姉さんと母さん。四人とだけ喋ることができれば良いんだ、幸はぷち引きこもりなのです」
「瞳さん、忘れてるよ」
「瞳さんか・・・。本当に普通の主婦になっているからさ、あまり、ちょっかいかけない方がいいと思うんだ」
「そういう生活が一番だろうね」
男は少し寂しそうに笑った。
「お父さん、昼からどうする」
「父さん、さ。会計事務所の友人のところと、それから、あかねちゃんのお母さんに会いに行ってみようと思うよ」
「居場所わかるの」
「実家の住所は確認した、まずはそこから当たってみるかな。幸はあかねちゃんと留守番、いいかな」
「ん・・・、それじゃ、留守番しているよ。あ、お父さん、庭に川は流れていないのかな」
「今度は釣りをする気ですか」
「これからは動物蛋白質も必要だ」
男は笑うと、立ち上がって袋を持ち上げた。
「練習場所と反対方向に行けば、川があるよ。昔、親父が魚を放流していた。どうなったかは知らないけれどね」
「それじゃ、あかねちゃんと冒険しているよ」
幸はにっといたずらっぽく笑った。
「ほどほどにね」
男は呟くと、背広に着替えるために部屋を出た。

男が出掛けた後、幸はあかねを連れて庭に出た。
「畑の隣りに鶏小屋を作ります。材料揃えなきゃな。でも、まずは設計図をつくらなきゃね」
あかねは俯き、じっと足元を見つめていた。
「どうしたの、あかねちゃん」
「なんでもない・・・」
「変だよ、あかねちゃん。そうか、お母さんが恋しいのかな。きっと見つかるよ。大丈夫だよ」
「幸お姉ちゃん」
あかねが泣き出しそうになりながら、幸を見上げた。
「怖い・・・」
「怖いって、大丈夫さ。お姉ちゃん、とっても強いぞ、あかねちゃん、どんな奴からでも護ってあげるさ」
「おじさんが、おじさんがとっても怖い」
「おじさんって、幸のお父さんのこと」
あかねが小さく頷いた。
「うーん、本当は、お父さん。とっても冷酷で鋭い人だったと思う、でも、今は優しいし、幸を大切に思ってくれる、あかねちゃんのことも、とっても心配しているよ」
あかねがじっと幸の目を見つめた。
「幸には絶対に言うな、裸になれって・・・。裸になったあたしの両足を掴んで、おじさんが・・・」
「そ、そんなこと、そんなことないよ。お父さんがそんなこと・・・」
幸は驚きのあまり、力が抜けたように座り込んでしまった。
肩を落とし、俯いたまま、幸が呟く。
「お父さんは、お父さんは・・・」
あかねがにぃっと笑みを浮かべた。
「幸お姉ちゃん、ごめんなさい。でも、もう、怖くて」
俯いたまま幸が、囁くようにあかねに話しかけた。
「あかねちゃん。それが本当なら」
「幸お姉ちゃん、ここから逃がして」

「あはは、あのね、あかねちゃん、幸はさ、あかねちゃんの大先輩なんだ、その意味、わかるかなぁ」
「えっ・・・」
幸がゆっくりと顔をあげる。
幸は愉快そうに笑みを浮かべていた。
「甘いなぁ、あかねちゃん、嘘はもっと巧くついてくれないと面白くないよ」
「幸お姉ちゃん」
「あかねちゃん、潰すのが楽しいんだろう、破壊することが、もう、ぞくぞくするくらい快感なんだろう」
不意にあかねは背後に気配を感じた。
幸が笑っていた。
「いいよね、楽しいよね。人が泣いたり苦しんだりしたら、もう、最高だよね」
「お姉ちゃんが二人」
「違うよ」
あかねの耳元で幸が囁いた。
三人目の幸があかねの耳をそっと噛む。
あかねが悲鳴をあげて飛びのいた。
4人、5人と次々と幸の数が増えて行く。
「楽しいね、あかねちゃん。わくわくするよね」
10人、11人、笑う幸が次々とあかねを取り囲んで行く。
あかねが尻餅をついたまま後ずさる。
「うふふ、あかねちゃん」
「うわぁぁっ」
あかねの腕に、幸の顔が浮かんでいた。
「ごめんなさい、幸お姉ちゃんごめんなさい」
「謝る必要なんてないんだよ」
あかねの頬に小さな幸の顔が浮かび上がる。
「そうだ、あかねちゃんに、ほんのちょっとだけお姉ちゃんの闇を見せてあげるよ」
目の前にいた幸がじわっとあかねの腕を掴む。
「楽しいぜ、でも、あんまり見ると、あかねちゃんが発狂してしまうから、ほんのちょっとだけにしておくよ」
「あ、ああっ、ご、ごめんなさい」
手を掴んだまま、幸の頭がぽろんと落ち、転がると、あかねの足元でにたっと笑った。
「楽しんでもらえると嬉しいなぁ」
無数の幸があかねを幾層にも覆い囲んで行く。
「あかねちゃん、特別だよ」
にたっと笑う幸の頭が、ぼとぼとと落ちて行く。幾つも幾つも、幸の頭が転げ落ち、あかねの足元に転がって行く。
「ごめんなさい。おじさんのこと、嘘です、ごめんなさい」
「怒ってないよ、全然、怒ってないよ」
ぼろぼろと幾つもの幸の頭が落ちてくる、あかねは茫然と目を見開き、喘いでいる。あかねが、幸の転がる頭に押し潰されていく。
「楽しいな、見せてあげるよ」
「みせてあげる、特別だよ」
「あはは、楽しいな、あかねちゃん、大好き」
ふっとあかねの力が抜け、そのまま、気絶し仰向けに倒れ込んでしまった。
すべての幸の姿が消えた。
そして、一人になった幸があかねの隣りに現れ、その顔を覗き込んだ。
「案外、もろいな」
幸は鋭い表情であかねを見つめると、そっと指先をあかねの額に沿えた。かすかに、指先があかねの額に潜り込む。
「戻ったな。親が最後まで愛していれば、こんなふうにはならなかったのに」
幸は笑顔を作ると、あかねの枕元に座り、声をかける。
「おおい、あかねちゃん。起きて、起きて」
幸の声にあかねは意識を取り戻し、ゆっくりと目を開けた。
「あかねちゃん、1年ぶり、大変だったね」
「ごめんなさい、お姉ちゃん、ごめんなさい」
幸がぎゅっとあかねを抱き締める。
「あかねちゃんの心の中には邪悪がある、でも、それもあかねちゃんなんだ。だから、消してしまうことはできない、押さえ込んだだけ。幸姉ちゃんは、ずっとあかねちゃんの味方だ、これからもずっと。だから、もう一人の自分の操り方、教えてあげるよ。もう、怖くないよ」
あかねは幸の腕の中で静かにすすり泣く。

男はとある田舎の築二百年以上は経つだろう、大きな屋敷にいた。座敷に案内され、向かいに座る老人を微かな笑顔を浮かべ見つめた。
この屋の主であり、あかねの母方の祖父にあたるこの老人はぐっと男を睨みつけていた。
「君が孫のあかねを預かっているというのは本当か」
「はい、ただ、勘違いしないでいただきたいのは、拉致だとか誘拐だとかそんな物騒なものではなく、単にあかねちゃんが私の娘の友達であること、そして、こ ちらのお嬢さんがあかねちゃんを残したまま放逐し、また、御亭主も精神科の医師にかからなければならない状況になりまして、結果、お預かりした次第。それ を、こちらのお嬢さん、つまり、あかねちゃんのお母さんにご連絡したく伺った次第です。お嬢さんはご在宅でしょうか。例えば私の後ろ、襖の向こうですと か」
「君は何者だ」
「と、申しますと」
「女がまるで君を何十年もの知古のように、座敷に招いた。本来ならば」
「名前も知らぬような男は玄関先で話を聴くものだとおっしゃりたい」
男は笑顔を浮かべたまま、主の言葉を継いだ。
主が目を逸らさずに頷く。
「私も名乗る前のちょっとした雑談だけで、ここに座らせていただき、自己紹介をする機会を逸しまして、少々戸惑っています」
男は笑顔を浮かべたまま答えた。
「ただ、思い出しました。随分、昔、依頼を受けた父親とこちらへ伺ったことがあります」
「なんだと」
「代変わりしました、名無し、無です」
主の顔が一瞬青ざめた。
「儂を殺しに来たのか」
「いいえ、そういう仕事からはすっかり足を洗っております。娘が出来たのを機にやめました。不思議な縁とでも申しましょうか、本当に先程申しました通り、あかねちゃんの件で伺ったのです」
主は男を値踏みするようにねめつけた。
「君のこの屋へ来た目的を説明してもらおう」
「貴方のお孫さん、あかねちゃんを元の普通の女の子に戻し、両親と暮らせるようにすること。私の娘がそれを強く望んでおりまして、娘の希望を叶えてやりたいと、こちらまで伺った次第、それのみです」
「それを信じろというわけだな」
「もちろん」
男は笑顔で答えた。
「なるほど、女共が君をすぐに屋敷に上げた理由が分かる。わかった、君を信じよう」
「ありがとうございます」
男は会釈をすると、出されていたお茶を飲む。
「薬物には耐性があります」
男は小さく呟いた。

「さて、貴方はこの国の、裏の大立者です。支配者階級と言ってもいい」
「昔の話だ。既に息子に跡目を譲り、儂は引退しておる」
主は表情も変えず答えた。
「その孫が外神に魅入られてしまったというのも、何かしらの因縁があるのやもしれませんね」
「外神だと・・・。あかねが外神に」
「外神のことはご存じのようですね」
「あぁ、知っている。見たことはないがな。邪悪の根源であり、無限の力を持つと聞いている」
「外神がこの世界に存在し続けるには依り代となる人間が必要です。あかねちゃんは素質があったのか、呼び出した組織に外神の依り代とされかかったのです。 幸い、それは寸前に防がれたのですが、あかねちゃんは外神の影響を受けてしまい、人の心を読む力と邪悪な心を内に増大させてしまった。それからは、貴方の お嬢さんにお聴きになる方が良いでしょう」
主は目を伏せ、急に意気地を無くしてしまったように肩を落とした。
「君はあかねを元の素直な子供に戻すことができるというのかね」
「先程、娘が元に戻したようです。ただ、邪悪な心を持つあかねちゃんも、また、あかねちゃんであり、完全に消し去ることはできません。ですから、あかねちゃんが自分の心を抑制できるように教育しなければならない。一週間、いただいたらこちらに連れて来ましょう」
「すまない」
「余程、あかねちゃんが可愛いようですね」
「跡を取った息子にも子供がいるが、娘の子、駆け落ちするような出来の悪い娘だが、その子供は利発で可愛いのだ」
男は、そういうことかと呟いた。
「それでは、用件も済みましたので帰ります、一週間後に、また、お邪魔致します」
「よろしく頼む」
男はうなずくと立ち上がり部屋を出る。何事も無く、玄関口で靴を履いた時、女が近寄り、男の声をかけた。
「あ、あの」
「あぁ、あかねちゃんのお母さんですね」
「は、はい。あかねは元に戻るのでしょうか。また、三人で暮らせるのでしょうか」
「あかねちゃんは大丈夫です。ご主人も私の友人の精神科医に診てもらっているのですが、大丈夫だと思いますよ」
男は笑みを浮かべ会釈をすると屋敷を辞した。

男は駅のプラットホームに居た。屋敷を辞し、半時間ほど歩いたところにある小さな駅だ。夕暮れ時、まだ、さほどは暗くない。
ベンチに座る、あと、30分は列車は来ない。ちょっとした時間つぶしくらいにはなるだろう。
男を取り囲むように黒い影が五体、影はゆっくりと黒服を着た男達の姿に変わる。
「乱破、時代劇でいう忍者の方々のようですね。私に何か御用ですか」
この時代になっても、セキュリティ要員として、昔のいう、忍者が、新たに組織化され重要人物の身辺擁護にあたっていた。
「貴様には死んで頂く」
「もう少し待っていただけませんか、少しばかり数十年程。例えば、私が百歳になる頃まで」
「笑止。貴様は己を無と名乗ったが、俺が噂に聴いた無とは随分違うな」
「噂は一人歩きをするものですし、私自身、娘が出来てから随分変わったなぁと思いますよ。ところで、貴方方を雇っているのは、あのお祖父さんの跡目を継いだ息子の方ですね」
「貴様に答えるいわれは無い」
「つまらない跡目騒動みたいなものですね。息子は、父親の溺愛する妹の孫が煩わしくて仕方がない。外神をちょうどいいと、その孫を依代に仕立て上げたのは、まっ、そこまで言うのは野暮というものか。皆さんの顔付きが変わりましたね。怖いなぁ」
「貴様の無駄な一言が確実な死をもたらしたようだな」
「万事休すということか」
男は呟くと微かに俯く。
「さて、どうしようかな」
男は顔を上げ、ゆっくりと立ち上がる。
「ひの、ふの、みと・・・、五人いらっしゃるようで。あまり目立つことはしたくないのですが、少しばかりストレス発散のため、運動してみましょうか」
男が右足を半歩出す。
黒服たちが一瞬、後ろへ引き間合いを開けた。
「あくまでもストレス発散なので、死なないように手加減してあげますよ」
黒服達が、男を瞬きせず睨みつける。
男の姿が消えた、その瞬間、男は正面にいた黒服の背後に立つ、その左手は既に黒服の顎を捕らえていた。
男は半歩下がり、同時に左を地面に落とす。
瞬間、男は宙を飛び上がり、隣にいた黒服の後頭部をなぎ払うように蹴る。数メートル先まで黒服は弾き飛ばされた。
黒服達はその間、全く動けなかった、全く異質の速さに対応出来なかったのだ。
「世の中、便利になると、人は体の動かし方を忘れてしまうのかもしれませんね」
男は立ちつくしたままの黒服の肩を軽く叩いた。
「君はそうは思いませんか」
「うっ、うわぁぁ。殺さないでくれ」
その叫び声を引き金に、残った二人が血相を変えて逃げ出した。
男は肩を叩いた黒服の首に腕を回すと、逃げられないよう押さえ込んだ。
「君には仕事があります。意識失ったこの二人を連れて帰りなさい。せっかく、手加減したのにこのままほって置いたら大変だからさ。わかりましたか」
「わ、わかりました」
「本当にわかったのかい。このまま、逃げ出したりしたら、君だけ殺すぜ。本当に二人を病院まで連れて行くかい」
男は黒服の耳元で囁いた。
黒服が息もたえだえにひたすら頷く。
「素直さは大切だ」
男が力を緩める、
黒服は転げるように前に進むと倒れ込んでしまった、男は倒れていた二人を軽く蹴る。二人とも意識を取り戻し目を開けた。
そして、男は何事もなかったようにベンチに座った。
しばらくして列車が来る、男はそのまま、立ち上がり列車に乗った。

幸とあかねは縁台に座り、ほおぉと梅林に沈む夕日を眺めていた。
「幸はさ、お父さんがいると真面目で気配りの出来る人になる、でも、いないとさ、だめ人間なんだよ。あぁ、早く帰って来ないかな。あ、でも、晩御飯の用意もしなきゃだし」
「幸さん」
「ん・・・」
「私にはとても目まぐるしい一日でした。いま、やっと落ち着いた気分でいます。だから、この時間がとてもいとおしく思えるんです」
幸はにっと笑うと、あかねの肩に腕を回し、頬を寄せた。
「もうしばらく、夕日を眺めていよう。沈んだら、晩御飯の用意をしよう。そうだ、あかねちゃん」
「はい」
「やっぱり、幸のこと、お姉ちゃんって呼んで欲しいな」
「お姉ちゃん」
「おお、我が妹よ」
幸は嬉しそうに笑った。

男は商店街入り口のタコ焼き屋の前にいた。
「回転焼き六個と、そうだな、八個入りのタコ焼き、三舟お願いします」
「はいよ」
店主が手際よく、タコ焼きをひっくりかえす。
「景気はどうです」
「ん、だめだ、参ったよ」
「まぁ、景気のいいところなんて、ほんの一握りですからね」
「この商店街も良かったんだけどさ、ほら、近くに業販スーパーや安売りの店が増えちまって、随分、客を取られちまってね」
「商売敵ってやつですか。ただ、商店街の良さをもっと前面に出した上で、協力して商品を組み合わせてみる、お客さんをもっと能動的に組み込んでみるのが一番かなと思いますよ」
「ほぉぉ、お客さん、ちょっと、詳しく聴かせてもらえないかい」
かんてき、いわゆる七輪である、を二つ。
一つにはご飯を炊き、もう一つは網を乗せ鯵を焼いていた。
「あかねちゃん、鍋の中でゴトゴト言い出したら、声かけてね」
「は、はいっ」
あかねは幸が鍋でご飯を炊くことに目を丸くしていた。幸はパタパタと団扇で空気を送り、鯵を焼いている。
「あの、お姉ちゃん、炊飯器あったけど」
「あるんだけどさ。これの方が美味しい。それにね、旅している間、ずっとこうやってご飯を炊いていたんだ」
幸がくすぐったそうに笑った。
「ここは梅の枯れ枝もたくさんあるし、落ち葉もね、濡れた新聞紙と混ぜて、ぎゅっと重しで押さえ込めば、いい感じの薪になる。そうだ、竹を植えよう、成長早いから薪にちょうどいいや」
「これって、すっかりアウトドアですよぉ」
あかねが呆れたように溜息をついた。
不意に幸が振り向いた。
「あ、お父さん、帰ってきた」
幸はまだ焼けていない鯵を皿に戻すとあかねに言った。
「あかねちゃん、音がしたらね、鍋を降ろして、そこの新聞紙の束でぎゅっと鍋を包んでくれる。保温調理になるからさ。幸はお父さん、迎えに行って来る」
幸はぱたぱたと庭を走り、玄関へと走って行った。
「ご飯炊けたら、お魚、焼き直そう。可愛いお姉ちゃんだ・・・」
あかねが幸せそうに笑みを浮かべた。

「お父さん、お父さん、お父さん、お帰りっ」
「ただいま」
「おおっ、お土産ありだ」
「タコ焼きと回転焼き。幸、タコ焼き食い飽きているのなら」
「食べる、食べるよ。タコ焼き飽きるなんて関西人にあるまじき所業だ」
「幸、関西人なの」
「タコ焼き食べている時は関西人なのです。さいでっか、ほな、おおきに」
にひひっと笑うと、幸は男の手を引っ張る、つられて男が上がり口に上がると、幸は脱いだ男の靴の向きを直した。
「幸はあかねちゃんを苛めてませんか」
幸は男からお土産を受け取ると、少しばつが悪そうに笑った。
「ちょっと苛めちゃった、こんな感じ」
ぽろっと幸の頭が落ちる。
うわぁっ、と、男が驚き、幸の頭を抱きとめた。
「幻術か・・・」
男の腕の中には何もなかった。
「親をびっくりさせるな」
「ね、お父さん。泣きそうになった」
「泣き過ぎて乾燥して、ミイラになるところだった」
「そしたら、幸がお父さんにホースでじゃぶじゃぶ、水をかけてあげるよ」
男は少し吐息を漏らすと、幸の頭を撫でる。そして、少し笑顔を浮かべる。
「居てくれるだけで嬉しい。ありがとう」
「どう致しまして、お父様」
ばふっと幸は男にしがみつく。
「お父さんも幸をぎゅっとして」
男は戸惑いながら、幸を抱きしめた。
そして、男はまるで子供のように顔を赤らめると少し笑った、そして手を離す。
「お父さん、今度は裸で抱き合おう」
「ごめん、それは無理」


男が着替える間、幸が庭へ戻ると、あかねが鯵を焼き直していた。
「ありがと、あかねちゃん」
「お姉ちゃん、美味しく焼けました」
「いい匂い。それに三人で晩御飯、なんか楽しいなぁ。あかねちゃん、テーブルにお皿並べてくれる、幸はおすましをつくるよ」

食卓にご飯、鍋からおひつに移し、焼き魚とおすまし、それに少しお漬け物。
三人はいただきますと手を合わせ、晩ご飯を食べる。
「鰺は、ちょうど塩味も効いていて美味しいね」
男が言うと、幸がにひひと笑った。
「少しコツがわかってきたよ。今度はイカも干してみるかな」
「するめとか作って、炙って食べたら美味しいだろうね」
「あ・・・、するめ食べ出したら、幸は一日中、何もしないでするめを囓っているかもしれない」
「お姉ちゃんなら、本当にそうしているかもしれません」
あかねが会話に入ろうと思い切って声を出す。
幸はそれを受けて、まんべんの笑みであかねの頭をなでた。
「安心して、あかねちゃんにも半分、分けてあげるよ。かんてきでするめ、炙りながらさ。日本酒があればもう最高だ」
「幸、あかねちゃんにお酒はだめだよ」
「それじゃ、濃いめの番茶かな。お父さんは珈琲、珈琲は無理があるなぁ」
「さすがに父さん、珈琲が好きでもするめとは一緒に飲まないよ」
男は少し笑うと、漬物をご飯に載せた。
ふと、思い出したように男は少し笑うとあかねに話しかけた。
「あかねちゃん、最初に言うべきだったけど、お母さんに会ったよ。元気そうでした」
「お母さん、おじいちゃんのとこに」
「そう、で、少し喋って来た。また、あかねちゃんとお父さんと三人で暮らしたいって話してくれた」
「お母さんが・・・」
急にあかねは俯くと涙を流した。
幸がそっとあかねの背中をさすった。
「お母さんにもお父さんにも、とっても酷いことをしました」
あかねはお茶碗を置くと、ぎゅっと拳を握り締めた。
「崩壊して行く家庭がとても嬉しかったんです」
男は小さく吐息を漏らした。
「あかねちゃんが悪いわけじゃない、あかねちゃんの心を悪くした奴が一番悪いってこと」
男がそっと笑みを浮かべた。
「一週間したら、お母さんの所へ行こう、それまでに、幸」
男は幸に向き直ると言った。
「あかねちゃんに線を一本、作ること。いいかな」
幸は男をじっと見つめ、そしてしっかりと頷いた。
「さぁ、あかねちゃん、食べよう。せっかくのおすましも冷めちゃうからね」
幸はあかねにそっと笑いかけた。

男が流しで洗い物をしている間、幸はあかねに数学を教えていた。今晩中に微積分の概念まで教え込むつもりらしい。テーブルに参考書を広げながら教える幸の言葉に男はあかねちゃんも大変だなと少し笑った。
ものの善し悪しを見極めるためには、まずは基準となる線を一本、作り出さなければならない、そして、その線は細くて鋭いほど、善し悪しを見極めることができるようになる。
数学をしっかり理解させることで、幸はあかねの判断能力を高めようと考えているのだろう。
幸も成長したなと、手を止め、男は振り返り幸を見る。ふと、幸は男の視線に気づくと、立ち上がり、男の前に頭を差し出した。
「え・・・」
「頭、撫でて」
男は少しと惑いながらも幸の頭を撫でる。
「幸は立派ですか」
「うん、立派、成長したなぁって感心した」
「えへへ」
幸はまんべんの笑顔を浮かべるとテーブルに戻った。

朝、男は目を覚ますと、着替えを済まし、居間に入った。
あかねがテーブルに一人、取り残され、ぼおっと外を眺めていた。男は幸が洋品店のおばさんの散歩に付き合っているのだなと気づいた。
「おはよう、ひょっとして、その姿、あかねちゃん、徹夜したのかな」
「どうしてお姉ちゃんはあんなに元気なんだろう」
ふと、あかねは男に気づき、慌てて笑顔を浮かべた。
「おじさん、おはようございます」
男は笑みを浮かべると、お湯を沸かす。
「お疲れさま、部屋で寝て来なさいな、カーテン締めたら、日差しも避けることができるから」
「でも、寝てしまうと詰め込んだものが消えてしまいそうで」
男はマグカップにインスタント珈琲をいれる。
「公式なんか忘れてもいいよ、忘れたら公式を自分で組み立てればいいだけのこと。それに寝る方が脳を休めることができるからね」
男は適当にお湯を入れかきまぜる。以前はしっかりと珈琲豆から準備していたのだが、旅の最中、手抜きのインスタント珈琲にすっかり慣れてしまっていたのだった。
男は立ったまま珈琲をすすると、いたずらっぽく笑った。
「幸と付き合うなら、休める時は休んでおきなさい。体がもたなくなるよ」
あかねは、昨晩の切れ間なく自分に教え込む幸の姿を思い出して、やはり寝ておこうと立ち上がった。しかし、あかねは一瞬、唇を噛むと、決心して男の前に立った。
緊張した面持ちで男を見つめる。
「ん、どうしました」
「ごめんなさい」
「え・・・」
「昨日、おじさんのこと、お姉ちゃんに悪く言いました」
「あの、足を、足を・・・」
男は珈琲を、一口、すすると少し笑った。
「知ってるよ。でも、その時のあかねちゃんと、今のあかねちゃんは別人だってことも知ってる。さあ、休みなさいな」
男は笑顔を浮かべたまま、あかねの頭をそっと撫でる。
あかねはほっとしたのか、笑みを浮かべた。

あかねが寝付いてしばらくした頃に、幸が戻って来た。
「ただいま、お父さん」
「おかえり、どうだった」
「歩くのはもう大丈夫だよ。歩きながら、ずっとかあさんの愚痴の聞き手になってた」
「それはお疲れさま」

男と幸はテーブルに着く、ふと、幸は辺りを見回した。
「おとうさん、あかねちゃんは」
「ついさっき寝たところ。一時間くらい寝かせてあげなさいな」
「そうだね、ちょっと張り切り過ぎた。今晩は復習と、複素数をちょっとだけ教えよう」
「幸は寝なくて大丈夫かな」
「あかねちゃん、起きるまで寝ていようかな、お父さんは」
「昨日、事務所から書類を預かって来たからさ、それを処理するよ」
「今日はお出掛けしなくてもいいの」
「そうだな、とくに出掛ける用事は無いな」
「お父さん、左手、いい」
「いいよ」
幸は男の左手をそっと握ると、横になり、もう片方の手を添え、枕にしようとしたが、高さが合わなかったのだろう、仰向けになり、お腹の上へ手を載せる。
「いま九時過ぎ。お父さん、十時になったら起こして」
「わかったよ。ぐっすり寝なさい」
「うん、お休みなさい」
「おやすみ」

男は右手だけで、器用に鞄から書類を取り出すと、テーブルに並べる。そして、書類の確認を始めた。
しばらくして、ふと、男は顔をあげると、玄関口の方向を見つめた。
「佳奈さんか」
ベルが鳴った、しかし、音が小さい、修理しなきゃなと男は・・・、幸が左手をしっかり握っていて動けない、男は玄関口に向かって声をかけた。
「佳奈さん、どうぞ、入ってください」
佳奈は遠慮がちに開き戸を開けると、中へと声をかける。
「いいかな、先生」
「動けないんだ、どうぞ、上がってください」
佳奈が部屋に入ると、
「なるほど、これは動けないやね」
男の左に幸が寝そべり、男の左手を両手で包み込んでいる。
「うーん、凄いえっちだ」
「え、父娘で手を握ってと言われると、あれだけどさ、でも単純に手を重ねているだけだよ」
佳奈は笑うと、幸の横に座った。
「先生は朴念仁だからしょうがないな。裸で抱き合うより凄いよ」
「え、そういうものなのか」
男は少し狼狽えたが、手を解くこともできずに顔を赤らめた。
「相変わらず、先生は幸ちゃんのことになると、少年になるねぇ」
「いい年こいたおっさんが少年と言われてもな、恥ずかしいだけだよ」
男は少し笑うと、テーブルの上の書類を一つに纏めた。
「先生はもう会計事務所、開かないのかい」
「幸とね、過ごす時間を増やしたい。まだまだ初心者家族だからね。自分で事業を始めるとなかなかそんな時間が作れないよ」
「これだけ美人の娘だもの、父親でもとち狂ってしまうのしょうがないな」
佳奈が笑った。
「幸はそんなに美人なのか。幸はぜんぜん、自分なんか美人じゃないってね、言ってるけど」
一瞬、佳奈は息を飲み、男の顔をまじまじと見つめた。
「幸せな人だ、先生は」
佳奈が溜息をついた。
「先生、イカの新しいの、入ったから持って来たよ。冷蔵庫に入れておくよ」
「佳奈さん、ありがと」
佳奈は立ち上がり、勝手知ったる台所の冷蔵庫へとイカを仕舞う。
ふと、視線を上げたとき、佳奈はあかねを見つけた。
「先生、悪いことしてないかい」
「テレビに出て来そうな可愛い女の子じゃないか」
あたふたと佳奈が戻って来た。
「幸の友達だよ、妹みたいなものかな。そうだ、佳奈さん、急いでいるかい」
「いや、いいけど」
「十時まであと五分、待っててくれるかな」
「いいよ、あたしも先生にお礼いわなきゃならないし」
「なんかしたっけ」
「タコ焼き屋の良さんに教えてくれたろう、商店街活性化の方法」
「あれね、いや、佳奈さん電話してくれたからさ、ちょっと考えていたんだ。タコ焼き買うついでに喋ったんだけど、まずかったかな」
「ありがたいけど、良さん、集まりでね、自分が考えたように言うんだ、あたしゃ、それに腹が立ってさ」
「アイデア料出せって言うなら、考えものだけど。彼もそうは言わないだろう」
「そりゃ、そうだけどさ。良さん、次の商店街の会長選挙、もう自分が会長になった気でいるよ」
男は幸を起こさないよう、でも、愉快そうに笑った。
「男は齢をとると名誉が欲しくなるもんだよ」
「そういう先生はどうなんだよ」
「私はそういうのとは無縁だ。それに今はね、幸にさ、恥ずかしい父親だと思われないようにするので一杯だな」
「ちゃんと髭も剃って身だしなみを気をつけていますってね」
佳奈がからかうように言う、男がくすぐったそうに笑った。
「本当にそうだよ。ん、十時だな」
男は幸を見つめ、声をかけた。
「幸、十時だよ、起きなさい」
幸が、うん・・・、と唸りながら、寝ぼけ眼で体を起こした。
「もう少し、寝るか」
「ううん、お昼まで、あかねちゃんと掃除しなきゃ」
幸はやっと男の手を離した、ふと、幸は佳奈がいることに気づいた。
「佳奈姉さん、おはよう」
「おはよう、洋品店のおばさんから幸ちゃん、イカが欲しいって聞いたから持ってきたよ、冷蔵庫の中」
幸は嬉しそうに笑うと、佳奈に向き直った。
「ありがと。そうだ、佳奈姉さん、あかねちゃんを紹介するよ、待ってて」
幸は立ち上がるとあかねを呼びに行った。
「そうだ、先生」
「ん」
「ほら、親戚の瞳さん、先生や幸ちゃんのこと心配していたよ、旅のこと、話してなかったのかい」
「話してなかったな。瞳さん、たまに買い物に来るのかい」
「瞳さんち、遠いけどさ、それでも月に一度くらいは買い物に来てくれるんだ」
「そうだね、後で連絡をいれておくよ」
瞳がここで生活していた頃、親戚ということで佳奈に紹介していたのを男は思い出した。
「佳奈姉さん」
幸はあかねの横で、にっと笑顔を浮かべた。
幸の声に佳奈が笑みを浮かべ向き直った瞬間、佳奈の頭の中に、初めまして、という声が響いた。
「これは・・・、驚いた」
佳奈はあかねに向けて、こんにちわと、言葉を送った。
あかねが、少し驚いたように目を見開いた。
「本当にお姉さん、心を読むことが出来るんですね」
あかねはぺたんと佳奈の前に正座をすると、恥ずかしそうに笑った。
「幸ちゃん、これはどういうことなんだい」
「あかねちゃん、半年前から、心を読むことが出来るようになってね、幸が普通に日常生活を送ることが出来るよう指導しているのです」
「ほぉ・・・、なんていうか、いや、もうびっくりだよ。幸ちゃんが指導しているなんて」
「ええっ、びっくりはそっちなの」
「だってさ、初めて幸ちゃんに会った時の」
「ああっ、だめ。それは秘密だよぉ」
「いいじゃないか、可愛かったよ」
佳奈はしょうがないなと笑う、
佳奈は、一年、見ないうちに幸がしっかりとしたのを驚きつつも、嬉しく見守っていた。不思議な出会いだとつくづく思う。

佳奈が帰った後、幸とあかねは家の掃除を始める。男も書類の整理、そして、事務仕事を始めた。時々、幸があかねに掃除の手順と要領を教える声が聞こえる。男は自分がなんて幸せなのだろうと思う。そして、願わくば、自身が死んだ後も、幸が幸せに暮らしてくれればと願う。

昼を過ぎ、男が瞳の話をすると、幸が眉を曇らせた。
「瞳さん、なんかあったのかなぁ」
「あとで、父さん、行ってみるよ」
幸は少し俯き考えていたが、男をじっと見つめた。
「ううん、幸が行くよ。おばさんにも会いたいし」
「瞳さんのお母さんだったかな」
「うん、幸は更生した親切な不良少女なのです」
そっと幸が笑みを浮かべた。
「幸はやさしいな」
「そりゃそうだよ」
「え」
「お父さんは幸にとてもやさしくしてくれる、だから、幸はやさしくされることがとっても嬉しいことを知ってる。そうするとね、なんだか、嬉しいなという気持ちを伝えたくなるんだ」
思わず、男は幸を抱き締めたが、慌てて手を離した。
「ごめん」
「どうして謝るの。お父さんに抱き締められるのは幸の一番嬉しいことなのにさ」
「いや、まっ・・・」
「うふふ、お父さんも随分成長しました。でも、もう少し積極的でないといけませんね」
男は照れて、恥ずかしそうに笑ったが、落ち着きを取り戻し言った。
「幸、あかねちゃんはどうする、連れて行くか」
「社会勉強にはいいけど、瞳さんとあかねちゃんはお互いを知らないから、ん・・・、あかねちゃんが瞳さんの素性を知ったらどうなるかな」
「瞳さんはあかねちゃんを見ればあの時の娘だってすぐにわかると思うよ。それに、あかねちゃんは聡いし心を読むこともできるからね、お互いが知ることになるかもしれない」
「そっか・・・、どうしよう」
「そうだな。あかねちゃんを連れていきなさい、そして、万が一の時は父さんを呼びな、駆けつけるからさ」
幸が笑みを浮かべる。
「お父さんが駆けつけてくれるなら、幸は元気一杯。もう、鬼の大軍にだって、勝負かけるよ」
「それはやめてください。幸が刀片手に大笑いしているのが目に浮かんでしまう」
男はくすぐったそう
に笑った。

幸は地味なTシャツにゆったりとした黒のカンフーズボン、それに帽子を目深にかぶっていた。
髪は後ろで柔らかく結わえている。
「お姉ちゃんはどうしてそんなかっこうするの、とっても綺麗なのに」
「これが一番動きやすい、それに、幸は美人すぎるからさ、男の視線が煩わしくてね。いや、お父さん以外の男には見られたくもないんだ。男は大嫌いだ」
「ね、おじさんがお姉ちゃんのこと、美人だっていったらどう答える」
「ううん、幸なんか、ぜんぜん、美人じゃないよ、普通だよぉ、ってね」
幸はにいっと笑うと、あかねの頭をぽんぽんと叩く。
「惚れた人には素直で無邪気な良い娘に思われたいのさ」
幸とあかねは家からしばらく離れたスーパーマーケットの前に立っていた。
「ここで友人と会う。腐れ縁という奴かな」

瞳は買い物カゴを持ったまま、スーパーの中を歩いていた。気になることがあるらしく、心ここにあらずの様子を見せていた。
でも、たまにはハンバーグくらい作ってやらないと・・・、ふと、ミンチ肉に瞳の手が伸びた。
「あと二分待ちな、店員が三割引のシールを貼ってくれるぜ」
真横で声が聞こえた。驚いて瞳が振り向いた。
「幸さん・・・」
「久しぶり。ん、元気そうじゃないな、どうした」
「あの、あの・・・」
何から喋れば良いのか、整理がつかず、瞳は苦しそうに蹲ってしまった。幸は仕方無さそうに笑みを帽子の影で浮かべると、そっと顔を近づけた。
「出来ないことは出来ない、でも、出来ることならしてやる」
幸の声に元気づけられたのか、瞳はやっとのことで立ち上がると、思い切って幸に言う。
「母を、お願いです、母を助けてください」
一瞬、幸の眼差しが鋭く瞳を貫いた。
「おばさん、どうかしたのか。場所を変えよう」
幸が瞳の手を取った。
あかねが慌てて、三割引のミンチ肉をカゴの中にいれた。
「あかねちゃん、これで清算して入り口で待ち合わせ、いいかな」
幸があかねに財布を渡す。
あかねは頷くとレジへと駆けて行った。

スーパーマーケットの出口近く、少し人どおりの少ない場所で瞳は幸につっかえながら話す。
「母は病気で、病気で、あと一カ月って・・・」
「瞳さん、あんたの心、読んで良いか」
「は、はい」
幸は瞳の顔をじっと見つめた。全身転移、がん、瞳はどうしてもこの言葉を口にできなかった。口にすることが恐怖で仕方なかったのだった。
「他の病院は当たってみたのか」
「はい、でも、何処も手遅れだと」
幸は瞳の頭の中に浮かぶ病院の数が五十を越えることを確認した。

幸は瞳が家族に溶け込みやすいよう、瞳の母親に会い、不登校の少女として話をしていた。思い出す、本当に、ただただ、良い人だった。子を心底心配し、孫を目に入れてもいたくないという、ごく普通の人であった、良い人だ。

「ここで返事はできない。行ってから考える、瞳さん、車で来たんだろう、病院まであたしとあかねちゃんを連れて行ってくれ」
「あかねちゃん・・・、あ、それは」
「余計なことは考えるな」
あかねが買い物袋と財布をもち駆け寄って来た。
「これ。たくさん、ドライアイスを入れてもらいました」
「そうだね、すぐに冷蔵庫に入れられそうにないからちょうど良いかな」
あかねが、幸に財布を返す。そして、買い物袋を瞳に差し出した。
「どうぞ」
「あ、ありがとう・・・、本当にごめんなさい」

瞳の運転で幸とあかねは病院へ向かった。

「なんだか変な気がします、落ち着かないような」
あかねが幸にそう呟いた。幸とあかねは後部座席に座っていた。
「ルームミラーから後ろの車を覗いてごらん」
幸の言葉にあかねは少し背を伸ばし、ルームミラーから後ろを覗く。黒い車が三台、後ろに張り付いていた。
「あれは」
「あかねちゃんが、外に出るのを待っていたんだろう。しかし、これは恣意行為、実力行使に出るつもりだな、なめられたもんだ」
「撒きます、しっかり掴まっててください」
瞳が鋭く囁いた。
幸があかねの肩をしっかり抱き寄せた。
交差点、赤、瞳はアクセルを踏み込む。何台もの車をすり抜けるように右へ曲がった。アクセルは戻さない。
怒号、クラクションのつんざめく音が遙か後方へと消えていく。ハンドルをいきなり切る、軋みがなり立てる車、車一台やっとの一方通行をアクセルべた踏みで駆け抜ける。
交差するとおりの向こうに病院の入り口が見える。
瞳はううっと低く唸ると、赤信号の交差点を飛び出した。

あかねの手を取り、幸は瞳に聞いた病室へと向かう。
がくがくとあかねの脚が震えてた。
「無茶です、あれは、あの運転は無茶です、違反ですっ」
「運が良いとしか言いようがないな、横から車が来ていたら終わりだ」
幸が平気な顔して笑った。
固まっている瞳を後から来いと幸は言い残して病室へ向かっていた。あれだ、327号室、一番の端の部屋だ。
一瞬、幸の脚が固まった、心電計の不規則な音が聞こえる。

幸は一つ深呼吸をすると、病室に入った。
個室だ、酸素吸入器が取り付けられ、はっきりと見えるのは目元だけだが、確かに瞳の母親だった。あかねの手を離し、幸は茫然とその姿を見る。窓からの青い空が、あまりにも不似合いで美しすぎる。
帽子を取り、幸はベットに駆け寄った。そして、母親の耳元に語りかける。
「幸です、憶えていてくれてますか、いっぱい、お喋りしましたね、遅くなってしまってごめんなさい」
微睡みかけた意識の中で、何かが繋がったのだろう、微かに顔を向け、そっと笑みを浮かべた。何か、話したげにしているのだが、声を出す力も残っていないようだ。幸は耳元で優しく囁いた。
「幸は言いましたね、本当のこというと、幸は神様なのです。瞳さんが帰ってきたのも幸のおかげです、そして、お母さんが、お母さんの病気が治って元気になるのも幸のおかげなのですよ」
哀しげに笑みを浮かべる。幸は瞳の母親の手をぎゅっと両手で握ると、額をそっとそっと重ねた。
「お父さん、ごめんなさい・・・」
ゆっくりと瞳の母親は目を閉じ、眠り込んだ。
幸は、顔を上げ、天井をにらみつける。
そして、振り返った。瞳が息を切らし、部屋に入ってきた。
「瞳さん」
「は、はいっ」
「一度だけだ、助けてやる。あんたの母親には世話になったからな。だけど、完全に腫瘍を取り除くことは出来ない、こいつらも、元はあんたの母親の体だから だ。普通に生活できるようになっても、再発するかもしれない。つまんねぇ鮫だとか、わけのわからない薬もどきを飲ませるなよ。もっとしっかりした病院で確 実な治療をさせろ、いいか、わかったな」
「はい、わかりました」
にらみ付ける幸に、瞳は弾かれたように答えた。
「あたしが良いと言うまで、ドアの外で待ってろ。しっかりドアを閉めて、誰も入れるな、医者や看護婦、一切の例外無しだ。わかったら、部屋を出ろ、ドアの前、踏ん張って誰も入れるな、いいな」
慌てて、瞳はうなずき、部屋を出るとドアの前、かばうように立つ。
幸は一つ、溜息をつくと、力無くあかねに笑いかけた。
「あかねちゃん」
「は、はい・・・」
「怪我ならさ、どんな酷い怪我でも直すことが出来る。でも、病気は別なんだよ。変質していく体も、また、その人自身なんだ。だから、あかねちゃんの怪我を治したようには行かない。ね、あかねちゃんはさ、幸がお父さんをあんなにも好きなのが不思議だろう」
「は、はい」
「幸はさ、とっくに死んでいたんだ。それを、お父さんが自分の生命を削って幸を生き返らせてくれたんだ。この体全て、髪の毛一本に至るまで、お父さんのおかげでここにある、それを少しでも傷つけるなんて、それを選ぶなんて、幸にとってそれは絶対に許せないことなんだ」
いきなり、幸は左手小指を噛み千切った。
あかねが息を呑み、蹲った。
幸は噛み千切った小指を右手で持つと、あかねに言った。
「しっかり、睨んで見ておきなさい」
あかねが幸の気迫に飛び上がるようにして立ち上がった。
幸は、瞳の母親のお臍に千切った小指を載せると、両手をそのまま母親の腹部へと溶け込ませていった。
「体力が無くなっている分、しっかり支えてあげるよ」
幸は涙を流しながら笑みを浮かべた。

ドア越しに瞳には幸の声が聞こえていた。
涙を流さないように歯を食いしばる。
看護婦が点滴を用意しやって来た、ごく日常の表情だ。
「お嬢さんですね、点滴の準備をしますから」
「ごめんなさい、いまは誰もお入れすることは出来ません」
「はい・・・。あの、おっしゃっている意味が分からないのですが」
「ごめんなさい、どうしても、このドアを開けることは出来ません」
「なにをおっしゃっているんですか、こんなことは初めてです」

「見つけたぞ」
男のわめき声が轟いた。
先程の車を運転していた男たちだ。三人、四人、五人だ、がなりたてながらやって来た。
「ここは病院です、静かにしてください」
看護婦が叫ぶ。
「邪魔だ」
先頭の黒服の男が看護婦を払いのけた。
「鬼紙家の孫娘はここだな。ドアを開けろ」
「だめです、絶対に開けません」
「なんだと」
黒服が瞳の胸倉を掴みかけた瞬間、飛び上がり、黒服の内蔵を鋭く、右足の爪先で突き刺した、くの字になって弾き飛ばされる黒服。これは以前、幸から教わった武術の動きだった。
四人の男たちが瞳に向かって一斉に拳銃の銃口を向けた。
「おもしろいことをやってくれるな。だが、ここまでだ。俺達は孫娘さえ、生きて連れ帰れば良い、他の奴らは死んでいてもいいのさ、跡処理屋にまかせておけば綺麗に片付けてくれるからな」

「いやいや、自分の始末は自分でつけなさい、大人なんだからね」
男は瞳の前に立つと、くすぐったそうに笑った。
「先生」
瞳が叫んだ。
「先生ってほどじゃない。俺は、いや、私は瞳さんには何も教えていないからね、ただ、幸の教えたあの蹴りは見事だ。練習、欠かさなかったようだね」
「どっから現れたんだ、こいつは」
黒服が脅え叫んだ。
「君の右手側、歩いて来たんだけど気づかなかったかい」
「なんだと」
「ほら、それが証拠にその拳銃持つ右手、妙に痛くはないか」
黒服が初めて気づいた。肩口から血があふれ出している。
「うわぁぁつ」
「ここが病院で良かった、早く繋いでもらいなさいな、皮一枚でつながっているその腕、落ちてしまうよ」
黒服たちが拳銃を持っていることも忘れ逃げ出した。

男はドアの横、壁に背を預けると一つ、吐息を漏らした。
「さて、どうしたものかな」
「申し訳ありません、大事な幸さんに大変なことを」
「いや、これは幸が選んだことだ。瞳さんが私にどうこう言う必要は何もない。ただ、私は新米の父親だからさ、幸を叱るべきか、それとも、褒めるべきなのか。判断かつかずにいる、なんだか、情けないよ」
半時間も経っただろうか、ドアが開き、あかねが顔を出す。
「入ってください」
瞳がおそるおそる部屋へと入る。
ベッドには酸素マスクを外した瞳の母親が、先程とは別人のように寝息をたて、気持ち良さそうに寝ていた。
しかし、ベッドの足元、幸が頭を抱え、震えながら蹲っていた。
「おじさん、お姉ちゃんがお父さんに申し訳ないって・・・」
男は哀しそうに笑みを浮かべ、あかねの頭を撫でると、病室に入る、そして、幸の横、病室の床に座った。そして、ポケットから包帯を取り出す。
「自分の体に傷つけるとは何事だと叱るべきかと考えた、それとも、身を犠牲にして人の生命を救った娘を褒めたたえるべきかと考えた。なんかね、ごめんね。父さんにはどっちも無理だ」
止血をし、男は幸の左手に包帯をしっかり巻いて行く。
「お父さん、ごめんなさい」
男は何も言わず幸を抱き締めた、そして、静かに静かに泣いた。
「何も言えずに泣くだけの父親ってかっこ悪いな。ごめんね、幸」
男はそう呟いて静かに泣き続ける。
そして、どれほど経ったろう、男は幸をだきかかえ、あかねを促し、静かに病室を出て行った。

家に帰ると、居間に幸を寝かせ、男はその枕元に座る。
「おじさん、お姉ちゃんは」
「回復力が随分と強い、夜には目を覚ますと思うよ」
「それじゃ、晩ご飯作ります」
「ありがとう」
あかねはほっとしたように笑みを浮かべると、台所へ向かった。
「幸、なんだかさ、お揃いになってしまったな」
男は幸の左手を両手で包み込む。
「痛かったか、苦しかったか、恐かったか。でもな、大きな決断を自分で決めたこと、父として、家族として、誇らしいよ。でも、ほんというと、父さん、こんなに狼狽えたのは初めてだ」
硝子戸からの外の景色、夕刻、西日が差し込み始めた。炭の焼ける匂い、あかねがご飯を炊き出したのだろう。
不思議なほど静かだ。
男は幸の左手を包み込んだまま、幸の寝顔を見つめる。
自分は本当に幸が大切なのだなと改めて思う。
こんなにも大切な人と、こうしてここに一緒に居ることができるということが、なんて幸せであるのかを、幸に感謝した。


11
最終更新日 : 2013-05-11 21:27:11

異形 流堰迷子は天へと落ちていく二話 02

どれほどの時間が経ったろう、日は沈みきり、外は仄暗く、辺りを闇が漂いだした。
「お父さん、ごめんなさい」
「ん、気が付いたか」
「お父さんにいただいた大切な体を傷つけてしまいました」
「父さんはさ、とてもつらいんだ。でもね、それは、幸がどんなに痛かっただろう、苦しかっただろう、それを代わってやれなかった自分が情けないなってね、それだけが、ただただ辛いんだ。でも、こうやって、幸とお喋りしてほっとしているよ」
「お父さん、ずっと手を握ってくれていたの」
「だってね、幸が何処かに行ってしまわないか、とっても、寂しかったからさ」
「幸はずっとここにいるよ、いてもいいよね」
「あぁ、いていいよ。ずっとね」
「お父さんもいるよね」
「あぁ、いるよ」
「うふふ」
幸が小さく笑った。
「なんだ、泣いていた女の子が、もう笑った」
「だって、嬉しいもの」
「幸が嬉しいなら、父さんはもっと嬉しいよ」

「あぁ、くんくん」
「どうしました」
「香ばしい匂いがする、これは」
「あかねちゃんがイカを焼いているんだろう、晩ご飯のおかずにね」
「おなか減ったよう、ぺこぺこだぁ」
「幸、起き上がれるか」
「ん・・・」
幸は男の首に右腕を回す、男は両腕で幸を抱き起こした。
そして男があかりをつける、幸は少しふらつきながら立ち上がった。
「大丈夫か」
「うん、大丈夫」
ふと、幸は自分の左手を見る。
「お父さんと一緒だ」
「困ったところばかり似るなぁ」
「えへへ、できの良い娘ですから」
「本当に良い娘です」
男はわしわしと幸の頭を撫でた。
「幸」
「ん・・・」
「父さん、人はさ、本当に愛することのできる人、そんな人と巡り会えるのはとても幸せなことだと思う、そして、その人が隣りにいてくれる、これ以上の幸せはないなと思うよ」
「お父さん、それ、幸のこと」
「そうかもな」
「お父さん、ありがとう」
「どういたしまして」


「うわぁぁっ」
幸が湯船の中で悲鳴を上げた。
夕食を終え、あかねと二人、御風呂に入っている最中だった。
洗い場で体を洗っていたあかねが驚いて振り返った。
「お姉ちゃん。左手大丈夫」
幸は左手をスーパーの買い物袋で包み込み、輪ゴムでしっかりと留めていた。
「失敗したよぉ」
幸が涙目になって呟いた。
「あのおばさんの治療ですか」
「ううん、さっきお父さんがさ」
幸はあかねに、起き上がった時の男の言葉を繰り返した。
「うわぁ、それでお姉ちゃん、どう返事したの」
「ありがと・・・」
あかねは溜息を漏らすとなだめるように笑顔を浮かべた。
「いつか、また、おじさん、告白してくれますよ、多分・・・。合掌」
そっとあかねが両手を合わせ合掌する。
「あかねちゃんの何もかも分かったような顔、むかつきますぅ」
「だって、いつものお姉ちゃんらしくないんだもの」
「だって、だって。本当にお腹が減ってたんだよう」
「食い気優先ですね、案外、お姉ちゃんっぽいかも」
「ううぅ」
幸は湯船で唸ると、いきなり立ち上がり、あかねを後ろから抱き締めた。
「あかねちゃんをいじめてやる」
「あ、あの。へんなとこ、触っちゃやだ」
「大丈夫だよ、とっても気持ちいいんだからさぁ。大人の秘め事をじっくり教えてあげるよ」
「あかねはまだ子供です、そんなの知らなくていいんです」
あかねが叫ぶ。幸は余計に面白がってあかねの首筋をじっとりと嘗めた。
「ひぃやぁぁ」
振り返ったあかねが幸の顔を引っ掻いた。

男は愉快に笑うと、二人を見た。
あかねが幸の顔に絆創膏を貼っていた。
「なんだか、本当に仲の良い姉妹だ」
「ちょっとした冗談だったのにさ」
幸が拗ねたように言う。
「身の危険を感じました」
あかねは怒りながらも、まるで保護者のように幸の頬に絆創膏を貼る。
お風呂上がり、男はそんな二人の姿を見て笑う。
本当に幸せな時間だと、そう思った。
「でも・・・、こういうの、初めてです」
ふと、あかねが呟いた。
「え、初めてって」
幸が問い返す。
「我慢せずに感情を出してしまうことが」
「そっか。それは楽しいかな」
「とても楽しいです、思いっきり深呼吸している気持ちです」
幸はにっと笑うとくしゃくしゃとあかねの頭を撫でる。
「あかねちゃんは幸の大切な妹だ」
「でも、幸。来週はあかねちゃん、お母さんのところに帰るんだから、寂しいって泣くなよ」
「あ・・・、泣くかも」
ふと、幸が溜息をついた。
「うわっ、本当に泣くかもしれない、どうしよ」
「私は泣かないけど、お姉ちゃんは泣くかもしれない」
あかねが幸を覗き込んで言う。
「なんだよぉ、一緒にわんわん泣こうよ」
男がくすぐったそうに笑う。
「あかねちゃんには自分の身を守るために武術を身につける方が良いかもしれない、幸、教えて上げなさいな」
「そしたら、一週間に一度くらいは会えるね。そういえば、車で追いかけて来た奴らって」
「忍者だ」
男はインスタント珈琲の蓋を開けながら事もなげに言う。
「映画で出てくるような」
「元はね。彼らは明治からこっち、政治家や財界人のボディガードから暗殺まで、主に裏の仕事に従事している。時代劇に出てくるような黒装束はしてないけどね」
適当にお湯を容れる。
「あかねちゃんの母方のおじいさんは大金持ちで、この国を実質支配している人達の一人なのさ。いや、元はと言う方が正確だ。跡目は長男に譲って隠居しているからね」
「そんなあかねちゃんがどうして」
「あかねちゃんのお母さんの兄、これが、随分な人だからね。多分、あかねちゃんに自分の立場が揺るがされるのではと脅えているのだろうな」
「でも、あかねちゃんって、まだ子供だよ」
「そうなんだけどね」
男はそっと笑みを浮かべると口をつぐんだ。

幸はそれ以上追求せず、あかねを促し、昨晩の続き、数学の復習を始めた。
男は台所で食器を洗う。
男は考えた、あかねの祖父宅にて、次に来る日を伝えていたその日より、一日早く行く方が良いかもしれない、護り髪は残しておいたが、用心に越したことはない。

朝、男が目を覚まし、居間に入ると、幸とあかねが、火のない堀炬燵に足を入れたまま、居眠りしていた。
時計を見る、少し早く起きすぎたのか。二人に掛け布を被せる。
気持ち良さそうに眠っている。
朝ごはんを作ってやるかなと男は台所へ向かった。

男は手早く、玉葱とワカメでお味噌汁を作る、お櫃を覗いて、ふと思いつき、おむすびを作った。あとは、玉子でも焼くかなと、
「お父さん、おはよ・・・」
「ん、おはよう。まだ早いから寝てなさい、遅くまで起きていたんだろう。無理するな」
「ん・・・、お腹減った」
幸は男に抱き着くと、そのまま手を伸ばし、お皿からおむすびをひとつ取る。
「お父さん、食べていい」
「いいよ」
笑顔を浮かべ食べる。
「お父さんのおむすびは美味しい、目が覚めた。これは梅干しだ」
「冷蔵庫の中、有り合わせだけどな」
「美味しいよ、あ、お味噌汁だ。うーん、食べたいけど、母さんの散歩に付き合ってからにするよ」
「そっか、気をつけな」
「うん、行って来る」
男は幸を見送った
卵焼きを焼く、そして、二つに分け、皿に盛った。
そして、男はお湯を沸かし、インスタント珈琲を作る。男の朝食だ。
居間に戻ると、男は硝子戸から外を眺める。鶏小屋を作るの、手伝うかな。いや、それは幸に任した方がいい。ふと、男は気づき、カーテンを締めた、眩しいだろう。
男が居間を出ようとした時、
「おじさん、おはようございます」
「ん、おはよう」
振り返り、男は笑みを浮かべた。
「もっと寝ておいた方が良いよ、無理し過ぎて体を壊しては意味がない」
あかねが柱時計を見て言った。
「三時間は寝ましたから、大丈夫です。それに、数学は分かり出すと、なんだか、わくわくして面白いんです」
「そうだね、数学は楽しくて美しい」
男は珈琲をすすると、少し笑った。
「数学と哲学は、自分が迷った時に助けてくれる大きな力になると思うよ。あまり時間がないから、哲学は教えられないかもしれないけどね」
「あの、おじさん」
あかねが思い切ったように言った。
「どうしました」
「私は叔父の地位には関心ありません」
「大金持ちになれるよ、欲しいものは手に入るし、人を自由に動かすこともできる」
「多分、私はそういうものに嫌悪しています」
「多分・・・」
「ごめんなさい、曖昧な言い方で」
「いや、はっきり言い切れる方が教条的で却って不安になる、正直な表現だと思いますよ」
男は笑みを浮かべ、珈琲を啜る。
「いまはどう考えますか、これからの人生を」
「勝手なことを言ってもいいでしょうか」
「どうぞ」
男は珈琲を堀炬燵の上に置き、あかねの向かい側に座った。
「高校までは行きたいと思っています」
「いま、あかねちゃんは小学四年生だったかな」
「はい、今後、クラスに馴染むことが出来るかどうかはわかりません、違和感はあります。でも、高校まで続けて、社会のことや人のことを知り、肯定できるかどうかは別にして、馴染んでおきたいと思います」
「あかねちゃんは人の心を読むことが出来る、ただ、今後は幸のように、いろんなね、力が使えてしまうようになるかもしれない。それは、この社会では却って 生きづらくなってしまう。幸は意識しているかどうかはわからないけれど、商店街の人を姉さん、母さんと呼ぶ、それは家族というものに憧れているのと同時 に、他人と馴染むことが出来るようにしたいという気持ちの表れだと思っているんだ。他人にない力をたくさん持ってしまうと、普通に生きていくことが難しく なる。でも、馴染む努力を捨てるのは間違いだと思う。だから、あかねちゃんの考え方でいいと思うよ」
「ありがとうございます。それで・・・」
あかねが少し言いよどんだ。
「いいよ、言いなさいな」
「一週間のうち、一晩だけでも、ここで生活をしたい。お姉ちゃんと一緒に畑を作ったり、鶏の世話をしたいんです。そして、高校を卒業したら、ここで生活したい」
男は、瞬きもせず言い切ったあかねの言葉を聞いて、少し視線をずらし、硝子戸から梅林を眺めた。梅の精が二人、ここで生活をしていくことになるということか、シェルター、この地は社会からの避難場所みたいなものかもしれない。俺はその時もこうして生きているかな。
男はやわらかく笑みを浮かべた。
「考えてもいなかったよ」
「ごめんなさい」
「あかねちゃん」
「はい」
「良い考えだと思うよ。もちろん、あかねちゃんのお母さんやお父さんの考え方がある、それは尊重する。また、幸もどう答えるかは私にはわからない。でも、私はあかねちゃんにとっても、幸にとっても、それは良い考えだと思うな」
男は珈琲を一口飲み、にっと笑った。
「幸がどんな反応をするか楽しみだ」
男は珈琲を飲み干すと、硝子戸から外を眺める。
「幸は、畑とたんぼまで作ってしまうかもしれないな。そして鶏を飼って、そういえば、山羊も飼いたいとか。多分、幸、一人では手が回らない、あかねちゃんが居てくれたら助かるだろうな」
「楽しいだろうなと思います」
「そうだね、梅の木が多いから、梅干しは作ることができるけれど、それだけでは寂しいかもしれない、桃とか、いろんな果樹を植えるのもいいな」
「頑張ります」
男はあかねの言葉に少し笑うと、うなずいた。
「幸をよろしく」

「お父さん、お父さんっ」
幸があたふたと戻ってくると、掘り炬燵に滑り込んだ。
「定位置に着陸」
「どうしました、お腹減ったか」
「見張っているやつらが居る、きっと忍者だ」
「うちをか」
幸が頷く。
「ね、忍び込んでくるかな」
「ごめんなさい、私のせいです」
あかねが脅えたように呟いた。
「うん、なんだか、わくわくするよ。あかねちゃんのおかげだ」
幸は笑うと、宙から刀を取り出す。かなりの長刀を右手で軽く水平に構える。
「あ、でも、掃除が大変だ。やっぱり、外で斬っておくかな」
男は呆れたように吐息を漏らした。
「家には結界が張ってあるから、招かれざる客は入ってこれない。幸、はっきりと相手が攻撃の意志を見せない限りは手を出さないようにね。父さん、幸が笑いながら人を斬って行くの想像したら、なんだか、幸の育て方、間違えたかなぁって悩んでしまうよ」
「大丈夫、幸はお父さんの思いどおりの娘に成長しているよ。自己申告だけど」
「わかった、とっても安心した」
男は仕方無さそうに笑みを浮かべ、立ち上がった。
「幸も、幸も行くよ」
幸は刀を消し、立ち上がったが、不意にあかねを背中から抱き締めると、耳元で囁いた。
「幸も楽しみにしているよ」

男は、風景に同化したとしか思えないほど、気配を消した黒服の忍者の横に立った。
「仲間は何人いますか」
その忍者は男の家を見つめながら答えた。
「八人、俺を入れて九人だ」
「何故、見張っているんです」
「鬼紙老の孫娘を奪取する。依頼を受けた」
「何方からの依頼ですか」
「鬼紙家当主直々だ」
「なるほど、伜の依頼ですか。なら、孫娘は無事にはすまなさそうですね」
「そんなことは俺の知ったことではない」
「それはそうでしょうね」
男は頷くとブロック塀にもたれ掛かった。
「どうして突入しないのです」
「名無しだ。あの家には名無しがいる。稀代の魔人 名無しがいるんだ」
「名無し、聞いたことあります」
「名無しとの接触は避けたい、奴が家を出て、奴の娘と鬼紙老の孫娘だけになるのを待つ」
「なるほどね。いま、名無しは家におりませんよ」
「なんだと」
忍者が驚いて男に振り返った。
「待てっ、俺は一体、誰とこんな話をしているんだ・・・」
男は何事もなかったように言った。
「私が貴方の前にこうして居ります以上、あの家には名無しは居りません」
刀を肩に、幸がふわっと宙から現れた。
「お父さん、八人でいいかな、一応、言われた通り、峰打ちで済ました、骨が欠けているかもしれないけど」
「九人ということだから、数は合ってるね」
「あぁ、でも、なんだか、峰打ちなんて欲求不満だよ。ね、あの首、すとんって、落としてもいいかな」
「どうしようかな。まだ、お喋りの途中だからね」
幸が忍者ににっと笑いかけた、その瞬間、彼の喉元に刀の切っ先が触れていた。刀を振う様子もなく、一瞬にしてその切っ先が喉元にあったのだった。
「おじさん、安心していいよ。苦しむ間もなく、頭、落ちるからね」
「だけど、頭が落ちる前に、君の知っていることをいくつか、話、してくれるかな」
「話せば助けてくれるのか」
喘ぎながら黒服が答えた。
「君を生かしておいて実害が無ければ、そういう選択も、ひょっとしたらありかもしれない。君は無害かい」
「あんたの恐ろしさは知っている、あんたには手を出すつもりは無い」
男は黒服を睨む。男の眼に、黒服は腰が抜け、地面に座り込んでしまった。
「そうか、あの時の残党か。思い出したよ」
男は幸にそっと笑顔を浮かべた。
「刀、戻しなさい」
幸が素直に刀を降ろした。そして、興味深そうに黒服を見る。
「五年前、何人か、生き残ったのは知っていたんだけどね、さて、どうするかな・・・。他の奴ら同様、一度くらいは機会を提供してみるのもいいかな」
男はしゃがむと黒服と同じ目の高さで話しかけた。
「この娘は私の娘だ、とても大切な娘でね。君の標的、孫娘ってのは、娘の友人なんだよ。いや、娘にとっては妹のようなものなんだ。だからさ、君らが任務を遂行すると、私の大切な娘が嘆くわけだよ。私は親として、嘆く娘にどう話しかければいいと思う」
「それは・・・」
黒服が口ごもる。
「難しいよね。それに頼りない父親だなんて思われたら辛いよ」
「放棄する、俺はこの依頼から降りる」
「いい提案だ。ただ、残念なことに、君の言葉が真実であり続けるか、私にはわからない。とりあえず、この急場をなんとかやり過ごそうってだけかもしれない」
「本当だ、約束する」
「言葉だけではなぁ、困ったねぇ。だって、君が一抜けたといってもさ、鬼紙家の伜は、はいそうですかとは、君を解放しないだろう、いろんなこと、君は知っているわけだからさ」
「五年前の事件に居合わせた者であんたに逆らえる奴はいない」
「娘の前でその話はするな」
冷たく男は黒服を睨んだ。

あかねは考えていた。二人が外に出、一人になった自分が何をすればいいのか、いま、この瞬間に自分がここに存在する理由は何なのか。
あかねは元気良く立ち上がると、台所にあった幸と自分の朝ごはんを居間の堀炬燵の上に並べる。
そして、もう一度、台所に戻ると、おひつを開け、中を覗く。まだ、ご飯が残っている。冷蔵庫を開けると鮭の切り身が残っていた。
「おじさんにおむすびを作ろう、朝ごはんは大切だし、三人で食べる方が楽しい」
慣れない手つきであかねがおむすびを二つ作り、皿に載せた時、幸が戻ってきた。男もすぐに戻ってき、玄関を施錠する。本当に朝刊を取りに行って戻って来ただけというほどのものだ。
「え、あかねちゃん、その大きいおむすびは」
「おじさんにって思って」
「ありがとう。お父さん、幸が作っても朝は食べないけど、あかねちゃんが作ったのなら気を使って食べるかもしれない」
にっと幸が笑う。振り向いて男に言った。
「三人で朝ごはんを食べよう」
「えっ、ああっと、父さんは」
幸がぐっとあかねの作ったおむすびを差し出す。
「健気な小学四年生が小さな手で握り締めたおむすび、一緒に食べようと結んだおむすび、まさか、食べないなんて言わないよね、お父さん」
「・・・ありがたくいただきます」
男は仕方なさそうに笑った。

掘り炬燵を囲んで朝ごはんを食べる。
「朝、食べるのは、ここに住んで初めてかもしれない」
「朝は食べる方がいいんだよ」
「そうなんだけどね。そういう和やかさとか、落ち着きみたいなもののと縁がない家だったからさ」
幸が興味深そうに男の顔をのぞき込んだ。
「ん、どうしました」
「お父さん、正直に言いなさい、五年前、何をしたんですか」
「えっとさ、ん・・・、あれ、思い出せないや、しょうがないな、もう、父さん、齢だからなぁ」
「五年前」
あかねが呟いた。
「見張っていた人、五年前に、お父さんに会ったことがあるらしくてね、お父さんのこと、随分と脅えていたんだ」
幸があかねに言う、しかし、これは男に聞こえよがしに言ったものだった。
「でも、おじさんはとってもいい人だから、相手の人がとっても悪い人だったのかもしれない」
「あ、ちょっと思い出した。彼はとっても悪い人だった、うん、そうだ、そうだった」
「お父さん。いまの、とっても苦しいです」
「ごめん」
男が少し俯く。
「父さん、以前は悪い人だったからさ、そういうの、幸に知られたくないんだ」
「合格、百点満点です」
幸が笑った。
「合格できましたか」
「はい、おめでとうございます」
「安心した」
「お父さんの過去は聞かないよ。今のお父さんが幸の大好きなお父さんだから。それに、幸の過去も人に言えるようなもんじゃないし」
「お姉ちゃんって」
「お父さんに助けてもらうまでは、最悪だったんだ」
幸は俯くとじっとテーブルを睨みつける。
涙がひとつ零れる。
「こうして安心して三食いただくことができる。暖かい布団にも寝ることができるし、お父さんはとても大切にしてくれる,、我が儘言っても怒らずにいてくれる」
幸の瞳からつらつらと涙が流れる。
「とっても、とっても、毎日が楽しい、楽しすぎるくらいなんだ。うわぁ、涙止まらない、顔、洗ってくる」
幸は立ち上がると、あたふた、洗面所へ走っていた。
「お姉ちゃん」
あかねが小さく呟いく、そして思い切ったように男に話しかけた。
「おじさん、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「おじさんはお姉ちゃんが美人だから好きなんですか」
「おじさんはね、美醜が良く分からないんだ。普通の生活を送ってなかったからね」
男は仕方なそうに笑う。
「そうだね、親が子供を大切に思うことに理由付をするのは案外難しい。ただ、敢えて言うなら、幸はおじさんのことをとっても大切に思ってくれている。大切に思ってくれている人を好きになることはたいして不思議じゃない、そうじゃないかな」
「それは恋人としてでしょうか」
「否定しづらいな。おじさんがもっと若くて、ずっと良い人間だったら・・・、親子じゃなく、夫婦を選んだかもしれない。あかねちゃん」
「はい」
「人はその場に存在するにはそれなりの理由がある。おじさんと幸が一緒に生活するのも、お互いの足らない分を補っているんだと思う。それは、いまの、あかねちゃんにも言えることだ」
「それが私のここにいる理由」
「そうだね、おじさんはあかねちゃんが尋ねることに素直に答えた。それは、そうするのがいいと思ったからだ」
「お姉ちゃん、見てきます」
あかねの言葉に男はそっと笑みを浮かべた。

あかねは立ちすくんでいた。洗面所の前、大の字になって、幸が仰向けになって寝転がっていた。顔には白いタオルを被せて。
「お姉ちゃん・・・、お姉ちゃん」
あかねが大声で叫んだ。
「もう大丈夫だよぉ」
タオルの下から、幸が答える。
あかねは幸の横にひざまずくと、そっとタオルを取り去った。涙を流したままの幸がいた。
「昔のことを思い出すと発作が起こるんだ、でも、前ほどじゃない」
「お姉ちゃん、涙が止まらないの」
「涙流せるってのはいいな。人に戻って良かった」
幸が小さく呟く。
「前はさ、もっとひどかったんだ、大暴れだよ。大声で喚きながら、硝子や雨戸は割るし、お父さんに椅子や包丁まで投げ付けたんだ。でも、お父さんは怒らないんだ。それに避けないんだよ、椅子も包丁もテーブルも。どうしてかわかるかな」
「わからないよ」
「こうやって投げてくるのも、それは幸の言葉だから、避けたりせずにちゃんと、受け入れるよ、なんて言うんだ。もう、参ったよ。そんなこと、言うなんてさ」
幸が右手をあかねに伸ばした、あかねはそれを両手でしっかり掴むと、ぐっと引っ張り上げた。
そのまま、幸は上半身を起こすと、あかねをしっかり抱き締める。
「幸はあかねちゃんのお母さんじゃないけど、そんな気分で抱き締めてあげよう。人のぬくもり、大事にしよう」

三人は朝ごはんを終えると、男は部屋に戻り仕事の続きを、幸とあかねは庭に出て、鶏小屋の相談を始めた。

ふと、黒服が目を覚ました。地面に座り込みブロック塀にもたれ掛かっている自分に気づく。
あまりの恐怖に意識を失ったのだった、五年前の惨劇が目の前によみがえる。黒服は男の言葉を思い出した。
慌てて、左腕の袖めくりあげる。「無」と一文字、痣が浮かんでいた。
一年過ぎた後、その痣はお前の体を蝕み腐らせて行くだろう。だから、ちょうど一年後、俺の目の前に現れろ。その時のお前次第で、痣を消すかどうか、考えてやる。

たんたんと金づちで釘を打つ音が聞こえる。
男は部屋で事務仕事をこなしながら、聞くともなしにその音を聞いていた。先程まで、止まり木を上から吊るすか、下から支えを用意するかで悩んでいたようだが、どちらかに決めたのだろう。
板を鋸で切る音がした、長すぎたのかな。
金網を買いに行かねばならないだろう、昼までに仕事を片付ければ買いに行くことができるなと、男は思う。
俺に足らないものはたくさんある、これを幸が補ってくれているのだなと、男はつくづく思った。

「お姉ちゃん、これ、大きすぎないかな」
あかねが戸惑いながら言った。
「設計図と随分違うけど」
幸は両腕を組み、うーん、と唸る。
「設計図は希望的観測、ただ半分くらいで良かったかな」
およそ、床は十畳、高さは二メートルはある。まだ、骨組みと筋交いだけで、これから壁や屋根を張ろうとしていた。
「予定より鶏を増やそう、そうだ、アイガモを一緒に飼おうかな、でも一緒だと喧嘩するかも」
幸は気楽に言うと嬉しくてたまらないと笑顔を浮かべた。
「ところであかねちゃん」
「はい」
「鶏って何処で売っているか知らないかな」
「え、調べて・・・」
「うん、まだ」
幸が笑顔で答える。
「調べておきます」
あかねは溜息ひとつ、つくと答えた。幸がにっと笑うとあかねの頭をなでる。
「ありがと。頼りになります」

あかねが祖父宅へと戻る朝、三人は掘り炬燵に座っていた。もちろん、冬ではないので炬燵布団は使っていない。
男があかねに説明をした。
「もうすぐ、あかねちゃん。お父さんがここに来る。そうしたら、四人でおじいさんの所へ行こう。向こうにお母さんが待っているから、しばらくは、おじいさん宅で三人暮らすことになるだろうと思う」
「お父さん、あかねちゃんのおじさんて奴、どうしよう、すぱっと斬っちゃおうか」
男は困ったように笑みを浮かべると、幸の頭をこつんっと小突く。
「さらっと、日常会話の中に斬るとか入れないように」
「はぁい」
男は幸の頭を軽く撫でる。
「あかねちゃんが高校を卒業したらって話はしたろう」
「うん、それ、楽しみなんだ」
「お姉ちゃん、ありがとう」
幸が、にひひと笑う。
「叔父さんがなくなったら、あかねちゃんにその跡をってなるから面倒なことになる。叔父さんには元気に生きていてもらう方がいいってこと」
「面倒臭い話だ」
幸が小さく溜息を漏らした。
男がふっと後ろを向く。
「通りを曲がって、あと三分ってとこだ」
男はあかねの父親がやって来るのを感じた。
「あかねちゃんのお父さんの後ろ、五人、お客様がいるよ。幸が挨拶に出てもいい」
「父さんも行くよ、あかねちゃんもこれからのことを考えると見ておいた方がいい」
「それじゃ、お父さんはあかねちゃんの護衛役」
「そういうことだな」
幸が引き込むようににぃいっと笑った。
「止めちゃだめだよ。ね、お父さん」
12
最終更新日 : 2013-05-11 17:22:08

異形 流堰迷子は天へと落ちていく三話

「お父さんは、あかねちゃんの父親を連れてきて。幸はちょっと遊んでくるよ」
門柱の手前に男と幸とあかねが立っていた。通りの向こうからやってくるのはあかねの父親、大きめの旅行鞄を転がしやって来る、治療が功を奏したのか、血色も良いようだ。
ただ、あかねの父親の後ろには。

「あれって、気づいていないのかなぁ」
幸が愉快で仕方ないと低く笑う。

「気づかないし、彼は先天的に影響を受けにくい人なんだよ」
百鬼夜行、あかねの父親の後ろを異形のモノたちがふわりふわりとやって来る。まさしくの鬼、首から上だけが人の犬。半魚人や、あれは蛇だろうか、それとも小竜だろうか、伝説の妖怪たちが百以上、ゆらゆらとやって来る。
「病院には結界を張っておいたから、この道中、待ち構えていたんだろうな」
「あれも叔父さんのせいでしょうか」
あかねが呟くように言った。
「取り殺そうというのだろうけれど、あんまり、本気ではないようだ。やっつけ仕事だな」
男が応える。
「そっか、あかねちゃんにも見えるのか。なら、幸の活躍をじっくり見ていてね」
にぃぃっと幸が笑う。
男は困ったように笑みを浮かべると、あかねに言った。
「多分ね、叔父さんの差し金だろう。数は多いけれど、骨のあるのは四体の鬼と四神を象った奴だけだな」
男は門柱の裏に立て掛けていた木の棒を取る。一メートルと少しの細長い棒だ。
「良い機会かもしれないな」
男はひとつ、吐息を漏らすと門柱の外、結界を出た。
幸がその後を追う。
男が何げなく歩く。しかし、その足取りは軽く、いや、ほんの数ミリ、男は地面から浮いていた。
「父さん、あかねちゃんのお父さんを結界の中に連れて行くよ」
「それじゃ、幸は後ろの奴ら、みんな斬っちゃう、なんだか、嬉しいなぁ」
「幸、理性を保て、幸は強すぎる」
「うるさい、しっかり楽しませてもらう」
男は溜息を小さくつく、その瞬間、男の姿が消えた。
男はあかねの父親の横に現れると、すぐ後ろに陣取っていた鬼を、中段、棒で突く。鬼が一瞬、倒れかけた。男はあかねの父親を片手に抱えると姿を消した。
一瞬の後、男はあかねの横に気絶した父親を寝かせる。
「移動の速さに耐えられなくて、ちょっと意識を失っているだけだからね。すぐに起きてくれるよ」
「ありがとうございます、でも、お姉ちゃんが」
男が振り返る。
二匹の鬼を両断した幸がの笑い声がここからでもはっきりと聞こえる。片手に長刀を軽々と持つ幸の姿は絶対的確信の元に勝利を示していた。
「狂気の壁を越えて、向こう側へ入り込んでしまったということだ」
「おじさん、それがわかっていて・・・」
「一度は向こう側に行かないとね、自身の力がどれほど強く恐ろしいものかはわからない。いまなら、おじさんの力でなんとか連れ戻すことができると思う。今、以上、幸が強くなったらおじさんでも無理。いい機会なのさ」
男が寂しそうに笑った。
「ごめんなさい、おじさん」
男はいたずらっぽくにっと笑う。
「幸には普通の平凡な生活を送って欲しい、親なら誰でも思うこと。ただ、ちょっとね、強すぎるんだ、幸は。もちろん、そう育てたのはおじさんなんだけどね、なんだかさ、反省しているよ」
男はあかねに言うと、立ち上がった。
「あかねちゃん、お父さんが意識を取り戻したら、居間にお通ししなさい」
「おじさんは」
「幸と後から戻る。ただ、幸だけが戻ってきたら」
「お姉ちゃんだけが」
「そのときはごめん、おじさんはもう死んでるから、無責任なこと言うけど、なんとか逃げてくれ」

幸が三匹目の鬼を片手袈裟掛けに斬る、瞬間、男は鬼を横から蹴り倒した。刀が空を斬る。
「邪魔をするなと言ったろうが」
幸が男を睨みつけた。
「幸、理性を取り戻しなさい。その刀は本当に、永劫、この世との繋がりを断ってしまう。それは、幸、自分自身の心を傷つけていくのと同じことだよ」
「わけのわからない説教に聞く耳は持たない。お前が殺されたくないのなら、ここから消えてしまえ」
男は仕方なそうに笑みを浮かべた。
「そうはいかない、これでも父親だからさ」
男は棒をおよそ三分の一の位置に、右手で持ち、先を幸に向ける。
「杖は相手の動きを制する武器、剣とは異なる性格を持つ武器だ。これで幸の動きを制してあげよう」
表情を変える事なく幸が男の首を凪いだ、一瞬、腰を落とした男が剣筋を避け、幸の首に杖の先端を添えた。
幸は杖の先端を嫌い、半歩下がったが、男がゆるやかに歩み寄る、先端は幸の目の前に移動した。
「絶対的速度は幸の方が遥かに上だな」
男が小さく呟く。
幸が姿勢を思いっきり落とし、剣を下から跳ね上げた。男はその動きを読んでいたように、左に半歩躱し、浮かび上がった幸の両腕を杖で下からすりあげる。円を描くように、幸の腕を押え込みかけたが、するりと幸は流れから逃れると、打突、剣を男の心臓に向けて突いた。
男は交差させるように剣に向かって突く、杖の厚み分、剣が逸れた。
「面白いなぁ、それ」
幸がにたりと笑う。
「変化が速い」
「それが杖の本質だ、よく見抜いたな」
男が答えた。
「剣はその構造上、平面の動きを連続させることで立体的な動きを作り出す。杖は最初から立体的な動きができる分、有利なのさ」
幸の姿が一瞬、後ろに流れ、入れ替わるように剣先が男の目の前に現れた。男が半歩前、杖で制しながら前に出る。
「早速、剣の動きに取り入れたか。ほれぼれする」
「もう、教えてもらえないのは寂しいな、それとも、まだ、引出し、何か残ってる」
「いや、引出しに残ってるのは、黴びた匂いと埃だけ」
「それじゃ、さよなら」
幸は笑みを消すと、手首を返す、横になぎ払う、膝を抜き、男が背を落とす。男の髪の上を剣が擦り抜けた。
とんとんと男は二歩下がると後ろ手に杖を構える、幸の位置からは杖が見えない。
「幸、これから父さんが壁の向こうから救い出して上げよう」
「こんな楽しいことはないよ、ここはとってもいこごちが良いんだ。ね、父さん」
「ん・・・」
「父さんより強い奴っているのかな」
「そうだな。人では、あんまりいないんじゃないかな。人外ではいるだろうけどね」
「そうか、なら、まだこれからも楽しめそうだ」
男は答えず、微かに身を落とした。
「行くよ」
「今までありがとう」
男の姿が幸の左に現れ、その脇を打つ、幸が剣をするりと下げ、その腹で杖を流した。そのまま、平面に回転させ、男の首を引き斬る。男は杖をかつぎ、半歩前に剣を避ける。
振り向き様に中段へ突き込んだ。
二人の動きはあまりにも美しく恐ろしいものだった。
幸は迷いなく男を殺そうとしていた、しかし、男は幸に杖の動きを教え込もうというかのように見える。

百鬼夜行の魑魅魍魎たちが消えて行く。
二人の動きに気圧され、恐怖が、操っているであろう術者の影響力を遥かに越え始めたからだ。

一瞬、間合いが広がった。男の使う杖の間合いは短く、剣の間合いは遠い。男はそれを意識して、間合いを詰めていたのだが、幸に絶対的な速さにて引き離されたのだった。

どうする、右腕一本、諦めるか・・・

振り下ろす幸の剣が、男の右手を斬り落とした。
その瞬間、幸に隙が生まれた。
男は間合いを詰めると、左手で幸の頭をこつんと小突く。
「え・・・」
幸の動きが止まった、剣を地面に落とす。
男は幸の頭をくしゃくしゃとなでた。
「幸、優しい娘に戻りなさい。こちらに帰ってきなさいな」
「え、お父さん・・・。お父さん、うわぁぁっ」
幸は男の右腕が斬り落とされ、血が吹き出しているのを見た。
「ん、大丈夫だ。意識で右腕への血管を収縮させるから」
幸は自分の服を引きちぎり、肩先を縛り付ける。
「お父さん、お父さん」
悲鳴のように男を呼ぶ。男は左手で、幸をしっかり抱き締めた。
「幸、日常と狂気の境目がわかったか」
幸が男の胸の中でこくこくと頷く。
「越えないようにな。常に日常にいること、いいね」
「わ、わかった・・・」
「幸はとってもいい娘だ」
男は手を離し、座り込む。
幸は呆然と突っ立ち男を見下ろしていた。
「幸」
「はい・・・」
「父さんもな、親父の腕を斬り落とした。力を持つとどうしようもない衝動が湧いてくる、衝動の後、それがどれだけの影響を与えてしまうかわからなくなる。だから、これでいいんだよ、そうじゃないと、本家みたいになってしまうぞ」
男は少し笑う。
「お父さん、嫌だよ、こんなの嫌だよ」
ぼろぼろと幸が泣きじゃくる。
「本当にね」
男は少し頷く。
「でも、幸と関わりを持って、一緒に暮らすのは、父さん、とっても楽しいんだ。幸は嫌かな」
「お父さん、幸が嫌だって言ったら、そうか、しょうがないなぁって言うでしょう」
にっと男が笑った。
「幸に約束するよ。言わないようにする、だって、父さん、幸と一緒が一番良いからな」
一瞬、黒い影が走った。あわてて幸が振り返る、男の切り離された腕を抱えた黒服が逃げ去って行く。
「追うな、幸」
「だって、あれは」
「あの片腕は、これからも幸と楽しく暮らせるようにと、その対価にした腕だ。だから、あの腕はもう父さんの腕じゃない」
男は小さく溜息をついた。
「せっかく、まっとうに生きられるようにしてやったのに」

空気が揺れた、神崎が空気の扉をかき分けるようにして現れた。
「やぁ、神崎さん。魍魎を操っていたのはあんたか、だろうな。鬼紙家息子の依頼か」
「先生に嘘を言うとこっちが危ない。おっしゃるとおりだ」
幸がぎろっと神崎を睨みつけた。
「おおっと、睨まないでくれ。竦み上がってしまう。当世の義理があってさ、断れないんだよ」
脅えながらも、にやけた笑いを浮かべる。
「ところで先生、あの腕はどうする」
「私がどうこうするって代物じゃない、私の腕じゃなくなったんだからね」
「そうか。めったにない宝物だ、ありがたくいただくよ」
「奴から奪うのか」
「あぁ、名無しの右腕だ。こんな研究材料はまたとない」
「私の知ったことではないけれど、奴と話す機会があるなら伝えてくれ」
「なんと伝えればいい」
「残念だったと」
「承知」
空気の中に溶け込むようにして、神崎の姿が消えた。

男はゆっくりと立ち上がった。
「お父さん」
「ん」
幸は男に添うと額を男の胸に重ねた。
「幸はごめんなさいとは言いません。ずっと、この気持ちを、気持ちを・・・」
幸は男にしがみつくと、大声で泣き出した。
「お父さん、ごめん、ごめんなさい。もう、悪いことしないよ、優しい良い子でいるよぉ。ごめんなさい」
男はゆっくりと左手で幸の頭をなでる。
「父さんは今の幸も大好きだし、とってもかっこいい幸も好きだ。台所できょろきょろとお菓子つまみ食いしている幸も好きだし、あかねちゃんのお姉さんに なっている幸も好きだし、にかっと満辺に笑顔を浮かべている幸も大好きだ。本当に幸と一緒にいて楽しい。これからもよろしく」
幸は息切れするように、ぜいぜいと息を弾ませいたが、ぐっと息を飲んで見上げる。
「お父さん、これからもよろしくお願いします」

あかねとその父親を居間に残し、あたふたと幸は男を風呂場へと連れて行く。
幸は男の上半身を脱がせるとシャワーで右肩を洗った。
肩と肘、ちょうど中間辺りに鋭い断面を見せていた。
「いいよ、あとは父さんがやるから」
「だめだよ、これは幸の仕事だ」
幸が斬り口に両手を添える。ほの白く、幸の掌が光を放つ、これは月の明かりだ。
そっと幸が手を放す、皮膚が広がり、傷口を包み込んでいた。

「お父さん、これからは幸がいつも横にいるよ。ご飯も幸が食べさせてあげるし、御風呂やお手洗いだって、幸が手伝うよ」
「いや、お願いだから勘弁してくれ、恥ずかしい」
「でも」
男は幸の真面目な表情に困り切ったように笑みを浮かべた。
「父さん、両利きだし、本当に必要と思ったら、義手をつくるよ、日常生活に不便のないくらいのをさ」
「お父さん」
「ん」
「本当にごめんなさい、幸はお父さんの仕事もだめにしちゃったし、片腕にもしてしまった」
「でもさ」
男はそっと笑みを浮かべた。
「幸が父さんの前に、こうしていてくれる。それはなにものにも代え難い父さんの幸せなのさ」
「お父さん・・・」
「幸が幸せになるようにって、名前を付けたけど、なんだか、父さんの方が幸せになったみたいだな」
男はそっと、左手で幸の頬に触れた。
「もっと、幸が幸せになりますように。幸が楽しい日々を送ることができますように」
男はふっと顔を寄せ、口づけしかけたが、思い止どまると、そっと笑った。
「なんか、父さん、上半身裸だと変になってしまう、セクハラだな。服、着てくるよ。幸も服破いてしまって、着替えて来なさいな。これから出掛けるからね」
男が立ち上がりかける、幸が男の左手を掴んだ。
「ん、どうした」
「責任取って」
幸が俯き呟いた。
「え」
幸は男を見上げると睨むようにして見つめた。
「幸はお父さんが好きです、一人の男性として愛しています。この気持ち、責任取ってください」
男は困ったように笑みを浮かべたが、少し、吐息を漏らすと、手首を返し、幸の指先をほどく。そっと、幸の頬に手を添えた。
少しぎこちない口づけを初めて男からする。
「ごめんね、いま、恥ずかしがり屋の父さんができるのは、これで精一杯なのです。ちょっとは責任、とれましたか」
「父さんからキスしてくれたのは初めて、初めてだ」
にひひっとほがらかに幸が笑った。
「泣いてた女の子がもう笑った」
「ありがと、お父さん」

二人は血のついた服を着替え、居間に戻った。
あかねが男の姿に何か言いたげだったが、口をつぐむ。
男は座ると、あかねの父に話しかけた。
「どうです、体の調子や気分は」
父親は落ち着いた笑顔を浮かべた。
「随分良くなりました、貴方のおかげです」
「それは良かった、これから当分、貴方とあかねちゃん、奥さんの三人、鬼紙家で暮らすことになるでしょう。鬼紙家のことはご存じでしょうね」
あかねの父親が頷く。
「駆け落ちをするまでは、私は議員の秘書をしておりました。鬼紙老と議員の連絡を取り持っておりました。ですから、表のことも裏のこともいくらかなりと存じております」
「なるほど。知っていて駆け落ちをするとは、豪気な人だ」
男は笑うと、立ち上がる。
「私と娘もご一緒致します。役に立つと思いますよ」


四人が鬼紙家近くの鄙びた駅に着いた頃には、辺りは薄暗くなっていた。
「駅の回りは森ばかり」
濃いサングラスをした幸が呆れたように呟いた。
「鬼紙家専用の駅みたいなものだな」
「森を通って半時間ほど歩くと大きな門がある。もっとも、この駅舎だって鬼紙家の敷地内だけどね」
「それって、大金持ちってこと」
「お金と土地と裏の権力を持っている」
「よくご存じですね」
あかねの父親の言葉に男は微かに笑みを浮かべた。
「随分、昔、親父が鬼紙家からの依頼を受け仕事をしました、私は見習いとして親父に従っていたのですよ」
「あかねちゃん」
幸が急にあかねに話しかけた。
「お金に目がくらんじゃだめだよ」
あかねがくすぐったそうに笑う。
「大丈夫です」
男が笑った。
「幸は大金持ちになったらどうする」
「うーん、お取り寄せとかの、カロリーが高くって、美味しいのを吐くくらい食べる。それくらいかなぁ、思いつくのは。そうだ、お父さんに車を買ってあげよう」
「車はいらないよ、電車やバスで充分」
「なら、電車とバスを買ってあげるよ」
「父さん、電車なんて運転出来ないぞ」
「なら、運転手を雇って」
「それなら、始めから乗車券買って乗るのと変わりないよ」
「それもそうだ。つまりは今で充分、お父さんも欲が無いなぁ」
「過ぎた欲は身を滅ぼす。父さんは幸と一緒に暮らしたいという欲がある、これでもう充分だ」
「もぉ、そういうことなら、平気で言えるくせに」
幸が照れたように小さく呟いた。

幸を先頭に歩く。舗装はされていないが、バスでも充分行き交うことの出来るような幅広い道だ。
男が、あかねと父親を挟むように、最後尾を歩く。
それでも、夕刻、両端をうっそうとした木々が生い茂るため、少し薄暗く、不思議と道幅が狭く感じられる。
「どうも、変なのですが」
あかねの父親が言う。
「どうしました」
男が答えた。
「先程から、どうも、見られているような、そんな気がしてならないのです」
あかねの父親の問いにどう答えるかなと男は考えた。
実のところ、両端の木立には偵察だろうか、何人もの人間が息を潜め、四人を監視している。
さて、これが鬼紙老の差し向けた者か、それとも、息子、現当主敬一郎の放った者かによって、対応は変わるのだが。
実際に、尋ねればいいかと、男は左の茂みに身を寄せると、左手を鋭く茂みに差し込んだ。男の腕がすっと下に落ちる、影が弾かれたように、一転し、男の前に落ちた。
狐の顔をした人間が仰向けに倒れ気絶していた。
「ん、これは息子の側だな」
幸は男に駆け寄ると、狐の顔をじっと見つめる。
「お父さん、以前と同じだ」
「狐人間・・・」
あかねの父親が唸った。
「なんなんですか、これは。これ、人ですよね」
幸はしゃがむと、狐の顔を掴む。
「幸、取れるかな」
「簡単だよ」
幸は少しひねりながら、狐の顔を剥ぎ取る、下から普通の女の顔が現れた。
「狐を模した精巧な面です、付けられた人間が自分の顔と間違うくらいですよ、前面に触覚センサーが取り付けられていて、それが脳に信号を送る。当人は自分の顔だと錯覚します」
男はあかねの父親に説明すると、女の頬を軽くたたく、女が気づいた。
「み、見るなぁ」
女が両手で顔を隠し背を丸める。
「どっちをです。狐の顔、それとも、あなた本来の顔ですか」
「え・・・」
女は惚けたように手を下ろした。
「あたしの顔」
「狐の面はこっち」
幸はそう言うと、女に面を見せる。
「お面だったの・・・」
男が女の目をじっと見つめる。
「まだ、人を殺してはいないようだね、それなら」
男は笑みを浮かべると、女に話しかけた。
「いま、君には二つの道がある。このままの生活を送るか、それとも、ごく普通の生活を送るか。君はまだ二十代半ば、やり直したいというなら、ここから救い出して上げよう、どうする」
女はぼぉっと男を見つめていたが、いきなり、足をそろえ正座すると、男に頭を下げた。
「お願いします、普通の生活がしたいんです」
「良い選択だと思いますよ、立ちなさい」
弾けるように、女が立ち上がった。
「君、鬼紙老は何処にいます」
「地下牢です、昨日から」
「ありがとう」
男がそっと笑った。

幸はにっと笑うと、狐面を引きちぎり、投げ捨てる。そして、自分の髪を一本、抜くと、女の手首に巻いた。
「坂村惠子、二十三歳。大学卒業後、鬼紙家の所有する持ち株管理会社に入社」
幸が濃いサングラス越しに女の目を見ながら呟いた。
「どうしてそれを」
「秘密だ。でも、惠子さん、少なくとも、ここを離れる一時間程の間、私達を完全に信じ切ってくれ。信じてくれさえすれば、元の世界に返してやる」
「は、はいっ」
幸の凜とした表情に圧倒され、女は声を上ずらせて返事した。
「あたしの名前は幸」
幸はサングラスを下に少しずらすと、鋭く坂村の眼を見つめた。そして、ほっと力を抜いたように笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ、よろしくな」
幸はサングラスを戻すと、歩きだす。

幸を先頭に五人は玄関のたたきに立っていた。
五人の周辺には二十数人の狐面が、あるものは仰向けに、またあるものは弾き飛ばされ、玄関の扉に突き刺さっていた。
ほんの一秒にも満たない一瞬に、攻撃しようとした狐面達を幸は打ち倒していた。
男以外には幸が動いたことすら見えなかっただろう。目の前に立つ、あかねの叔父、啓一郎ですら。
「あんた・・・、名前は」
幸が啓一郎にぶっきらぼうに尋ねた。
「私は・・・」
普段なら怒鳴りつけていただろう、しかし、目の前に立つ幸の気配に、畏怖を感じ、言葉を続けることができなかった。

男は器用に倒れている狐面達を踏まぬよう、幸の隣りへと出た。
そして、啓一郎の背広のボタンを一つ取ると後ろへ放り投げる。
「隠しカメラとそれから」
男は気楽に呟くと、左手で啓一郎の左のこめかみを軽く打つ。小さく、軋む音がした。
「本部から指示を得るための骨伝導イヤホンはこれで使いものにならない」
「お父さん、こいつ、本物じゃないの」
「東京の本部にいる啓一郎の影武者の一人だ、奴は危ないところに行くのが好きではない人なんだろう」
幸が啓一郎の影武者をじっとりと睨みつける。
「案内しな、地下牢へ」
「な、なんのことだか、わからないな」
上ずった声で答える。
幸はにいぃと口元を歪め、笑みを浮かべた。
「このまま、首の骨を折られて死ぬか、それとも、地下牢へ案内してから死ぬか、二つに一つだ。でも、地下牢を選べば、あたしの気分が途中で変わって、あんたは死なずに済む可能性もなくはない。いま、どちらを選ぶか、決めな」
啓一郎の影武者は膝を震わせ、尻餅をつく。口元が恐怖で震えていた。
「選べないなら、あたしの楽しい方、選んでやるぜ」

男は溜息をつくと、こつんと幸の頭を小突く。
「お父さん、痛いよぉ」
「幸、ほどほどにね」
「ごめんなさい」
男は笑みを浮かべて、幸の頭を撫でると、靴を脱ぎ、玄関を上がる。
「案内も何も、場所わかっているんだから行くよ」
「はぁい」
幸も靴を脱ぐと玄関を上がった、そして、振り返る。
「あかねちゃん、行くよ」
「は、はいっ」
あかねは坂村の背中を押し、言った。
「良かったですね、先におじさんに出会っていて」
「私もこうなっていたの・・・」
坂村が倒れている同僚を見渡す。
「はい。ただ、これでも、斬られて、体二つになっていないだけましです」
難無く隠し扉を開けた男の後ろを四人が追う、階下を降りると、時代劇で見るような太い木の格子で固められた牢屋が続く。
「あまり好きな匂いじゃない」
幸が小さく呟いた。
かすかな異臭は人のものではなく、また、獣の匂いでもない。
「鬼紙家は、その名のごとく鬼を研究していた。より、うまく使役するためにね。昔、父さんと親父がここに来た、それは支配を断ち切った鬼を制することだった。それ以降、ここには鬼はいなくなったんだ」
かすかに女のすすり泣く声が聞こえた。
「お母さん」
あかねが叫んだ。
あかねが走りだす、幸があわててそれを追った。

地下牢には鬼紙老と従者十人が正座をし、眼を瞑っていた。一人、あかねの母親が脚を崩し泣いていたのだった。

「おお、あかねか。ならば、あの男もいるのだな」
鬼紙老が静かに呟く。
幸はふぃっと格子を擦り抜け、十二人の体に触れる。幸の手には小さな機械が載っていた。ふっと息を吹きかけると、跡形もなく消えた、その瞬間、遠くに爆発音がこだました。
「動けば爆発。自分の親や妹にこういうことをするのか」
幸が小さく呟いた。
「狂っているんだろうね」
男は旧式の錠を左手でなんなく壊し、扉を開けた。
「牢屋に入る趣味はありません。どうぞ、出てくださいな」
深く息を吐き出すと、鬼紙老は目を開け、男に頭を下げた。
「助けてもらったな」
「どういたしまして」
あかねの父親が鬼紙老に肩を貸し外へ連れ出す。あかねと幸が、泣き崩れるあかねの母親をなだめ、外へ連れ出した。従者も十人、這うように出ると、ほっと息をつき、脚を延ばす。
やがて、脚の痺れも取れ、階上へと階段を上る。全員を先に上がらせ、男は地下への隠し扉を元に戻した。
ふと、男が玄関に向かって声をかけた。
「神崎さん、わざわざどうされました」
誰もいない玄関口、しかし、ふわっと杖を片手に一人の紳士が現れた。次の瞬間、幸が刀の先を神崎の喉元に向ける。
「お父さんの右手はどうした」
「先生の右腕は手に入れた、ただ今、分析中さ」
「この野郎・・・。ここで、いま、あんたをまっふたつに斬ってから、お父さんの腕、取りに行く」
「先生、なんとか言ってくれ」
想像以上の幸の怒りに神崎はまともに脅えた。表情に余裕が消えている。
「取りに行くことはありませんが、それは別として。随分と、神崎さん、お腹が豊かになられたようですし、ちょっと、幸に斬ってもらったらいかがです、お腹の辺り、上からすとんと」
「お願いだから冗談は止してくれ。先生の一言に私の命がかかっているんだ」
男は少し笑うと、幸に刀を収めさせた。
幸は戻ると、男の背中にぎゅっとしがみついた。
「ごめんなさい、お父さん」
「いいよ、ありがとう」

鬼紙老が気づき、部屋から玄関口に戻って来た。
「神崎君か、どうした」
「お久しぶりです、鬼紙老。残念ですが、悪いご報告を致さねばなりません」
「息子のことか」
「はい、啓一郎様が鬼と融合し、こちらへと向かわれております、あと、半時ほどで来襲なさるであろうと思われます」
「そうか・・・、あれには荷が重すぎたか」
力無く倒れそうになるのを、男が左手で支える。
そして、ゆっくりと鬼紙老を床に座らせた。あかねの父親がそれに気づき、あわてて、座椅子に鬼紙老を座らせた。
男は幸を連れ、部屋へと戻った。

「お父さん、どういうことなの」
「ん、さっきの話か」
「人が鬼を支配しようとして、逆に支配された、その結果、人の知識と思考能力を得た鬼がここへ攻めてくるという話だ。神崎さんの見せ場が始まるのさ」
男は興味無さそうに言うと部屋を見渡した。時代劇のお城にあるような大広間の一角、あかねが母親に寄り添っていた。
そして、坂村が一人ぽつんと所在無げに座り込んでいた。
男が坂村の前に正座する、幸がその横に座った。
「も、申し訳ありません。私、何をどうしたらいいか、整理がつかなくて」
「いえ、いいんですよ、こんな特殊な状況に対応できる方が不思議なんですから。さて一通り用事は済みました。このまま、貴方を連れて帰るつもりだったのですが、少し待ってもらえますか、一時間程」
「お父さん、鬼と闘うの」
「その必要はないだろう、なんて言ったって、折角の神崎さんの見せ場だ、今後のスポンサー拡充のためにも、彼にとってはちょうど良い機会。関わる気はないし、あんまり、目立つと幸と静かに暮らせなくなってしまう。それは大問題だからな」
男が笑みを浮かべた。
「お父さんったら、もぉ」
幸が照れたように俯く。
男は自然と幸の頭を撫でると、立ち上がった。
「他の人達の様子を見てくるよ、幸はここで三人を見ていなさい」
「お父さん」
「ん、どうしました」
「一人で危ないことしちゃ嫌だよ、だって、幸はお父さんの右腕なんだもの」
「大丈夫だよ、幸は心配屋さんだ」
男が部屋を出ると、幸はほぉっと呟いた。
「お父さん、可愛いなぁ・・・」
「優しい人ですね」
ふっと坂村が一人呟いた。
「嬉しいなぁ、わかるかい」
幸が坂村に話しかけた。
「は、はい」
「ほんとにさ、とっても良いお父さんなんだ、こんな、あたしなんかが、お父さんって呼ばせてもらえる・・・、あぁ、だめだ、泣いてしまいそうになる」
幸は俯くと、涙を一つ零した。
いつのまにか、あかねが幸のそばに来ていた。
「お姉ちゃん、おじさんの右腕は」
「あたしが斬った」
幸はゆっくり顔を上げる、凍りついた表情だ。
「お父さんはどんな奴が襲って来ても大丈夫なように、武術と呪術をあたしに教えてくれた」
「あたしは教えてもらったその術で本当にお父さんを殺そうとした、まっふたつに斬るつもりだった」
「そんなあたしに、優しい幸に戻れって頭撫でてくれるんだ。全然怒らずに、痛そうな顔一つせずに」
幸は俯き、歯を食いしばった。
あかねは両手をそっと幸の手に重ね囁いた。
「お姉ちゃん、幸お姉ちゃん、幸ちゃん。あたしじゃない、幸だよ」
幸は深く息を吐き出すと、ようやっと力を抜く。
「ありがと・・・」

男は調理場にて分けてもらった楊枝をいくつか手にし、屋敷を歩く。至る所に階段があるのは、山一つが屋敷になっているからだろう。まるで迷路にも思える。
男は時々立ち止まり、楊枝を角に刺していく、刺された楊枝はふっとその姿を消してしまう。
「先生、面白いことをやっているじゃないか」
いつの間にだろう、神崎が男の横を歩いていた。
「弱った結界に芯を刺して修繕しているのですよ」
「いいのかい、他所の者に己の技を見せても」
男は気にする風もなく歩く。
「いいんじゃないですか。一目見て悟られるような技ならたいして隠す値打ちもない。逆に仕組みが悟られないのなら、隠れてやろうが目の前でやろうが変わらないでしょう。それより、準備はできているのですか」
「あぁ、賑やかに花火を打ち上げるつもりだ」
「神崎さんも元気だ、引退されるおつもりはないんですか」
「死ぬまで現役さ」
「なるほど、下の者は随分と迷惑がっているでしょうに」
男は立ち止まると、くすぐったそうに笑った。
「先生こそ、闇の仕事はもうしないのかい」
「しませんよ、だって、娘に、お父さん怖い、なんて思われたら大変です」
「先生の価値観はすべて、娘を中心にしているということか。まさしく、傾城の美女ですな」
「えぇ、自分が大物政治家や大会社の社長でなくて良かったと思います」
男は答えると、最後の楊枝を角に刺した。
「これで、障壁は随分しっかりしました。さて、私は部屋に戻ります」
「先生、最後にひとつ、聞きたいことがある」
「なんですか」
「いつまでままごとをしているつもりだ」
語気を強めて神崎が言った。
男は寂しそうに言った。
「私を殺したいと思う者は多い、それは当然の報いとして受け入れる、私はいつか殺されるでしょう。ただ、死んでも、私はあの子の父親であり、父親でありたいのですよ」
瞬間、神崎が隠していた銃を男に向けて撃つ。男は何もかもわかっていたようにその弾道を避けていた。
「先生、あんた、あの女の剣を避けることができたのじゃないかい」
「あの子はまだ心が弱い、私は父親です。しっかり、心も育ててやらねばなりません、私がいなくなっても元気で生きて行けるようにね、そのためには、右腕一本、惜しくはない」

男が部屋に戻ると鬼紙老を前に、あかねの両親がかしこまって正座していた。あかねは坂村と幸の間に座り、ぎゅっと幸の手を握っていた。
男は静かに鬼紙老の隣りに座る。
「鬼紙老、随分と難しい顔されていますね。御子息のことについては、心からお察し致します」
「君には随分世話になった」
「いいえ、御老のお役に、少しでも立てれば望外の喜びです。では、最初の取り決めのように、落ち着くまで、家族三人、ここで生活するということでかまわないですね」
「そうするつもりだ。お前達、いいな」
少し脅えたようにあかねの父親が頷く。
「御老、つかぬことをお伺いしますが、跡目はどうされます」
「外に三人の息子がいる、どれかに継がせるつもりだ」
ふと、驚いたように鬼紙老は男を見た。
「君ほど危険な奴はいないな、まるっきり、警戒心が生まれん。いらぬお喋りをしてしまった」
男は静かに笑みを浮かべると、微かに頭を下げた。
あかねちゃん・・・、ふっと男が心の中で呟いた、不意にあかねが寄ってくると鬼紙老の前に座ったのだった。
「おじいさま、いっぱい、いっぱい、ごめんなさい」
必死になって涙をこらえている思い詰めた表情。これは・・・、微かに違和感を感じる、男はそっと幸に向き直ると、にっと笑みを浮かべる幸。
なるほど、演技指導済みということか。
戸惑うように鬼紙老の手が空を掴む。
あかねはしっかりと鬼紙老の手を両手で握ると、ぎゅっと力を加え、そのまま額を拳に重ねた。
「お父さんとお母さん、駆け落ちしたことを許してあげてください」
あざといが、覿面の効果があった。鬼紙老の、まさに鬼の目に涙だ。
「おじいさんと呼んでくれるのか」
あかねは顔を上げると、じっと鬼紙老の目を見つめた、そして柔らかく笑みを浮かべる。
「運動会にも来てくれたよね、学芸会も。ありがとう、おじいちゃん」
鬼紙老が嗚咽し、涙を流す姿、珍しいものを見たと男は思う、それにしても、そうか、あかねちゃんは鬼紙老の記憶の中に運動会や学芸会の記憶を見つけて、そう言ったのか。
男が振り返り、幸を見る。少し睨んでみる、幸はにっと笑みを浮かべると、ばつが悪そうに少し舌を出した。
丸く収まればそれでいいかと、男は立ち上がる、瞬間。
「幸、坂村さん連れてこちらに来なさい」
幸は坂村を抱えると、一瞬にして男の元に現れた。
「神崎、やはり芯を抜いたな」
男が呟く。
外から聞こえ出した爆発音、雷の音、一瞬、閃光に部屋が青く染まる。
男は左手を肩の高さに上げ、人差し指を横に走らせる。空間が切れる、水だ、溢れるような滝の流れが現れ、足元に届く寸前に消える、まるで、滝の流れを一部切り取ったようだ。どうしてだか、これだけの水量なのに音が聞こえない。
男が前方に鋭く左手を延ばす、一瞬にして、滝は透明な壁になり、部屋を二つに分断した。
「お父さん、来たよ」
幸が小さく呟いた。
轟音と共に水壁の向こうだけが地震のように崩れ、夜空を穿つ、屋根が吹っ飛び、独りの男が、闇の空からゆらりと落ちて来た。
「見せ場を作る気か、迷惑な」
男が呟く。

「社長」
顔を上げた男の顔を見て、坂村が叫んだ。
鬼と化した啓一郎だった。
啓一郎は坂村の言葉を無視し、鬼紙老を見つめる。
「親父、俺の異母兄弟は何処だ」
「なんのことだか、わからんな。しかし、情けない、鬼紙家の当主が鬼に征服されてしまうとは」
啓一郎はにたりと笑うと、鬼紙老に一歩近づく、慌てて、あかねが鬼紙老の前に、両手を広げ立ち塞がった。
「ほぉう、あかねか。しっかりしたもんだ。しかし、どうも、お前はかんに触る、どいてろ」
「どかない、おじいちゃんを守る」
啓一郎は大声で笑い出した。
「愉快だなぁ、お前が守ってくれるのか、親父をさ。異母兄弟も煩わしいが三人のうち二人は殺して来た。後一人、殺せば、俺の地位は安泰なんだが、どうも、あかねが憎たらしい。今のうちにこいつも殺しておくかな」
啓一郎が牙のある口を大きく開ける、いや、開けるどころか、顎の関節が外れ、下顎が真下に落ちた、炎だ、青い炎が啓一郎の口から大きく吹き出した。
ぎゅっとあかねが目をつぶる。
「あかね、逃げろ」
思わず、鬼紙老が叫んだ。
水の透明な壁が容易く炎を遮る。
「感動の場面、申し訳ないけど、私の水の結界はそんなやわじゃないんだよ」
男は少し寂しそうに笑みを浮かべた。
「随分、小物の鬼に体を取られてしまったんだね、啓一郎君。今更、言ってもしょうがないけれど、向いてなかったんだな」
男が闇夜を見上げた。
光が落ちて来た。
啓一郎の腕に鎖が絡まり、引きちぎれるほど、両端に引っ張られた。
神崎の部下が二人、両端で鎖を強く曳いていたのだった。
神崎が闇の中からするりと現れた。
「鬼紙老、申し訳ありません。鬼は千体を超え、一匹、こちらに取り逃してしまいました。鬼紙老とお孫様を危険に晒してしまったこと慚愧に耐えません」
「いや、神崎君、よくやってくれた。君に任せれば安心だな」
鬼紙老が答えた。
「ありがたいお言葉にございます、今より、本社に残った鬼共を一掃して参ります」
「うむ、頼むぞ」
「はっ」
慇懃に神崎が頭を下げる。

「おい、神崎」
幸が大声で喚いた。
「おや、先生のお嬢さん」
「あたしはお父さんをないがしろにされるのを許さない。お前、これからは安心して寝れねぇぞ。いつ、あたしがお前の首、落としに行くかわからねえからな。毎日、首、洗っとけ」
睨みつける幸に神崎はその恐ろしさを思い出し脅えたが、顔には出さず愛想笑いを浮かべた。
「同じ人間同士、話し合えばわかる、今度、先生と一緒に話し合おう、な、なっ」
すっと神崎が消える。部下と啓一郎も消えてしまった。

「なんというじゃじゃ馬娘だ、あかねがこんな女といたとは」
鬼紙老がため息をつき、呟いた。
幸が鬼紙老を睨みつける。
「じゃじゃ馬娘結構、じいさん、あかねちゃんはしっかり教育してやるよ。そのうち、じいさんに、なぁ、じじいよぉ、小遣いくれよ、今月ピンチなんだよぉって言えるようにさ」
「な、なっ」
鬼紙老が顔を真っ赤にした。
「あ、あの、大丈夫ですから。言いませんから」
あかねが困り切ったように鬼紙老に呟いた。
「じいさん、今度の土曜日、遊びに来るからな、御馳走用意して待ってろよ」
「ばっ、馬鹿もーん」
鬼紙老が大声で叫んだ。
幸は振り返ることもなく、すたすたと部屋を出て行った。
男は愉快そうに笑みを浮かべ、少し会釈をすると、坂村を促し、部屋を出た。

屋敷を出、駅へと歩く。
不意に幸は立ち止まり、男の裾を握って呟いた。
「お父さん、ごめんなさい」
「え、いいよ、面白かった。本当に幸はえらそうにしている人が嫌いだな」
「えらそうにしている奴と金持ちは嫌い」
「なるほど、両方を満たしているもんな」
男はくすぐったそうに笑った。
幸が坂村の顔を見る。
「あ、あの、私はお金持ちではないので」
坂村が慌てたように言った。
幸は笑みを浮かべると、顔を横に振った。
「これから、電車に乗って帰るには、その格好はちょっと厳しいなと思っただけ」
「あ・・・」
坂村が呟いた、首から下は黒の全身タイツだ。機動性は良いが、町中で着るものではない。
「幸、坂村さんと先に帰っていなさい。女性同士の方がいいだろう」
「それじゃ、お父さん。晩ごはんのおかずをお願いします」
「駅前のスーパーで買って帰るよ」
幸はポケットから財布を取り出すと二千円、男に渡した。
「今晩はお客様がいるから奮発。お父さん、鍋にするよ、お魚とお豆腐と野菜と卵は冷蔵庫にあるからね」
男はふと笑みを浮かべると幸の頭をなでる。
「えへへ、どうしたの。お父さん」
「なんだか、とっても、幸せな気分になった、ありがとう」
「どういたしまして」
幸は左手で坂村の右手をしっかりと握った。
ふっと二人の姿が消えた。
男は駅へと歩く。この時間だ、列車は空いているだろう、途中まではのんびりするかな。

幸と坂村は家の前にいた。
「ここは・・・」
「幸んち、家に着いた」
「さ、さっきまで、駅へ戻る途中で」
「幸にはあまり距離は関係ない、歩いたり、列車に乗るのは、人としての意識を失わないため」
ふぁさっと幸の右手に大きなシーツが現れた。
「家には幾重にも結界が張ってある。そのボディスーツは呪で筋力を増加する仕組みだ、それをぬがなきゃ家に入れない」
「ここでですか・・・」
「大丈夫、人通りはない、さぁ、なんなら、手伝おうか」
「え、あ、あの」
幸はにっと笑うと坂村のお腹に右の手のひらを添えた。
火花を散らしながら、一瞬でボディスーツが燃え尽きた。幸は持っていたシーツを坂村に被せると、家の中へと連れて入った。
幸は坂村の手を握ったまま、明かりを付ける、落ち着いたように息を漏らすと、坂村を掘り炬燵に座らせる。
「いま、お風呂の用意をするよ。下着は使ってないのがあるからそれを使ってくれ。服は幸のちょっとゆったりしたのを選ぶよ。仕方ないことだけど、坂村さん、腰回りも筋肉付き過ぎだからな」
平気な顔をして、幸は言うと、てきぱきとお風呂に水を入れ沸かす。途中、お米を研ぎ土鍋に入れ、水を張った。手慣れたふうに家事を続けた。
「十五分くらいで炊けるからお父さん、帰ってきてから火にかけよう」
呟き、湯船を覗く。もう少しだ、タンスから、袋に入ったままの新しい下着と、これでいいかなと、ベトナムの民族衣装、あおざいとセットになったパンツを取り出した。
「坂村さん、これで我慢して」
「あ、ありがとうございます」
坂村は受け取ると、ほっと吐息を漏らした。シーツだけでは頼りなかったろう。
「とにかく、しっかり、体を洗ってくれ。体中の傷や打ち身を擦り落とすくらいにさ」
「はい・・・」
坂村が裸になった一瞬、幸はその体が傷だらけなどを認めていた。
「鞭でできたようなみみず腫れもあったな、辛い扱い受けていたのか」
「事務で就職したはずが、こんなことに」
「穴に落ちてしまったのは不運としかいいようがない。これからのことを考えな。これも縁だ、助けてやれる範囲で助けてやるよ」
ぶっきらぼうな言い方だが、少し寂しくも聞こえる、幸は自身の経験を少し坂村の現状に重ねていたのかもしれない。

男は途中、数人の男に列車から連れ出され、駅舎の奥の一室へと監禁されていた。
テーブルを挟んで、男の前には一人の美女がにこやかに笑みを浮かべ座っていた。二人の回りを屈強な男たちが十人、囲むようにして立ってさえいなければ、案外、快適な環境と言えるかもしれない。
男はゆっくりと背もたれに背中を預け、少し俯く。静かな表情だ。
「貴方の数値が解析不能と表示されたため、こちらにお連れ致しました」
女が丁寧な口調で男に言った。
「数値と申しますと」
男が尋ねる。
「人はそれぞれ多少なりとも霊的能力、また、超能力と呼べるものを持っています。私達は監視カメラにとらえた人達の数値を測定し、一定以上の方達をスカウトしているのです」
男はゆっくりと顔を上げると微かに笑みを浮かべた。
「なんだか、SFの映画やドラマのお話のようですね。ただ、どちらかと云えば、子供向けかな」
女は一瞬、睨んだがすぐに笑みを浮かべた。
「ぜひ、貴方をスカウトしたいのですがいかがでしょう。もし、少しでも関心をいただけるなら」
「関心ありません、全くありません。ですから、解放していただけませんか。早く帰らないと娘が心配するのですよ」
「これは国家的プロジェクトです、貴方が秀れた能力を持つ以上、国民としてプロジェクトに参加する義務と権利があるのです」
「話の前後、少し矛盾していらっしゃいますが、権利は放棄、義務は税金だけで勘弁していただけませんかね」
男は背を預けたまま、俯き目を瞑る。
「ここで、映画とかなら、秘密を知った以上、ただでは帰れなくなったりするわけですが」
男は目を瞑ったまま呟いたが、ゆっくりと顔を上げた。
「今の今、すぐに解放していただけませんか、恵さん」
女が目を見張った。
「心が読めるの」
「高村恵、ご住所と電話、携帯電話の番号も申しましょうか。それに、ご両親のお名前やご住所も。そして、ご両親の娘に対する悩み。娘は一人住まい、商社に 就職したはずなのに、どうも最近、変だ、なにやら、怪しげな連中が出入りしているらしいと心配されていますよ。ついでに言うと、三日前が久しぶりの休日、 洗濯物をまとめてコインランドリーに行ったのがお昼過ぎ、隣りで洗濯物をしている男に少女のような気持ちでひかれる、なんだか、恥ずかしくて声がかけられ ない、そのまま、何事もなく別れたけれど、また、会えるかなと思っている、今度は思い切ってお茶に誘おう、でもでもと逡巡中」
「や、やめろ」
女が叫んだ。
「彼の名前は吉村慶樹。二十六歳、半年前に彼女と別れフリーです。ただ、ちょっと気になる女性がいる。それは三日前のコインランドリーでのこと、山のよう に洗濯物を抱えた女性がやってきた。随分と疲れている様子だ、手伝いましょうかと声をかけようとしたが、ここで何をどう手伝うというんだと考え直す、彼も また、声をかけたく思いながらも」
「た、頼むからやめてくれ」
男はくすぐったそうに笑った。
「ちょっと勇気を出せばいいんですよ」
女は唸るように言った。
「今すぐにでも帰ってもらいたいのが本心だ。でも、これだけの逸材を・・・」
「貴方の上司、中村にこう言いなさい、自らを無と名乗る男に遭遇したと」
男は立ち上がった。
「それでは」
端に立っていた屈強な男二人が立ち上がった男を羽交い締めにした。
「まだ、話は終わっていない」
「いいえ、話は終わりました」
一瞬、男が膝を曲げた、その瞬間、羽交い締めしていたはずの屈強な男が部屋の向こうへと弾け飛んだ。
男は何事もなかったようにドアを開け出て行った。

幸は坂村の下着と着替えを持ち、坂村を庭へと促す。風呂上がり、坂村の髪はまだ少し濡れていた。シーツを身に纏い、戸惑いながらも庭に出た。
「どうして」
虚空には満月、手前の畑の向こうには、限がないような梅林が続いていた。
「ここ町中ですよね、隣りの家もなにもない」
「そこに縁台があるだろう、シーツを敷いてうつ伏せに寝な」
「は、はい」
坂村が慌てて返事をすると、戸惑いながらも、シーツを縁台に敷き、そっと幸を振り返る。
「女同士、付いているものは同じだ、珍しくもないよ。さぁ、うつ伏せになりな」
言われるままに坂村は縁台の上、うつ伏せに寝転がった、不安に目を瞑る。
幸は縁台の前で、膝を地面につき、手のひらを月に向けた。幸の手のひらが白く輝いた。幸は手のひらを坂村に近づけ、頭から首筋、踵まで、月の光を当てて行く、たくさんの傷が消えて行き、柔らかな白い肌へと戻って行く。
「次は仰向けだ」
「は、はいっ」
坂村はぎゅっと目を瞑ったまま、仰向けに向き直る。
同じく、幸が月の光を照らしたところから、傷が消えて行った。
「目を開けな」
おそるおそる坂村が目を開ける。
幸は下着を坂村に渡した。坂村は起き上がると下着を、
「傷が無くなっている」
驚いて坂村が叫んだ。
「風邪ひくぞ、早く服を着なさい」
戸惑いながらも下着を着け、服を着た。
月光の下、二人、ベンチに座る。
「今晩は泊まってくれ、明日の朝、送って行く」
「ありがとうございます」
「ん、腹、減ったか」
「あ、いえ、あの・・・、ちょっと」
幸はくすぐったそうに声を出して笑った。
「お父さんは一仕事しなきゃだし、帰るのにまだかかりそうだ。なんか、軽いもの、おやつ代わりに作るよ」
幸はそう言うと立ち上がり家へと戻る、坂村はぼぉっと満月を眺める。
なんて、穏やかなんだ

男は坂村の家、その玄関口に立った。
母親と妹との三人暮らし。
窓からあかりが見える、二人は在宅中。男は空から、左手をやわらかく招くように動かす、その手には二つの、硝子の風鈴が現れた。男がふっと息を吹きかける、二つの風鈴は空中を滑るように流れて行き、ドアを擦り抜け消えてしまった。
「宣言しておくかな」
男は右手を出そうとしたが、その腕が無いことに気づく。
「気をつけないとな」
男は呟くと、左の人差し指で表札をなぞった。

関わるべからず 無

男は次に空中から硝子の球を取り出すと闇へと放り投げる。
屋根の上で硝子の球が音もなく弾けた、無数の硝子の粉がぶわっと広がり落ちて行く。
「間に合ったか」
男が小さく呟いた。
振り返る、七人の男たちが立っていた、軽い普段着だが、顔付きはプロの顔だった。
先頭の男が低く唸るように言った。
「誰だ、お前は」
彼がリーダーだろう、値踏みするように男を睨みつける。
「この家と住人を保護する者です。もしも、あなた方がなんらかの危害を加えることを目的でここにいらっしゃったのなら、排除します」
「排除してもらおうか、出来るなら」
先頭の男がにたりと笑う。
男は対して気にするふうもなく、気楽に言う。
「裏の世界を抜けようとすれば、どうなるか、その制裁ですね。ま、見せしめってやつですな。つまらん話だ」
男はゆっくりと極端な左半身をとる。
相手の男達がナイフを構えた。
「面倒臭いのでちゃっちゃっとかかってきてください」
何も言わず先頭の男が腰にナイフを構え、突っ込んできた。
男は寸前で、左に微かに避け、相手の首筋に手のひらを添える、瞬間、突っ込んだ男の脳天が地面に激突した。
「割れたかな、左は加減が難しい」
男が小さく呟く。
男は微かに笑みを浮かべたまま六人に向き直った。
「次は誰ですか、それとも全員でかかってきますか」
男達はお互いの顔を見合わせる、
「では、私から参りましょう」
男は微かに姿勢を落とす、そして歩きだす、全く左右にぶれる事なく、そして、微かに足裏が地面から浮かぶ。相手が満足に反応出来ないのは、男の動きに振れがなく、距離感が全くつかめなくなるからだ。
男は次々と打ち倒す。あっけないほど男たちが静かに倒れて行く。
「うわぁぁっ」
男の後ろで悲鳴が聞こえた。
振り返ると、男はにっと笑った。この笑い方は幸が時折、見せる笑いだ。
別動隊が家の反対側から侵入しようとしたのだ、硝子の無数の破片が渦巻き、侵入者達の体を引き裂いていた。

男は闇の中へ向かって声をかけた。
「出てきなさいな、今はまだ、君達に危害を加えるつもりはない」
男達が三人現れた。一人が術師、後の二人はボディガードだなと男は見抜く。
「この世界は早い者勝ち、それを引っ繰り返したいのなら力で返せ。それでよろしいですか」
男は愉快そうに言った。
「何者だ、お前は」
「縁あってこの家とその家族の保護者になりました」
「名はなんという」
「名前はありません、ただ、字は「無」」
術師が明らかに動揺した。
「あんたほどの者がどうしてここにいるんだ」
「私にとって、目に入れても痛くないほど可愛い娘の友人宅なのです、娘からどうして助けてくれなかったのなんて責められでもしたら家庭崩壊してしまう、父親は大変なのですよ」
男は引き込むように笑みを浮かべた。
そして呟く。
「どうします、やりますか・・・」
相手の術師は大袈裟なほど首を横に振る。
「帰るよ。あんたとやるなんて、命がいくつあっても足りない、依頼者もこの世界の人間だ、類が自分自身まで及ぶことくらいすぐにわかるさ」
術師はあっさりと背を向けると、姿を消した。
「賢明です」
しかし、術師を守っていたはずの男二人が残る。
「どうぞ、お帰りください」
男が軽く声をかける。
二人の男がゆっくりと近づいてきた。
「俺は、「無」という字を持ち、忌み嫌われるその男がどれほどの者か試してみたい」
「しょうがないガキだな、間違った選択をしてくれるとは」
男はくすぐったそうに笑う。
「しかし、せっかくだ、武術だけで相手させていただきましょう」
二人の男が変身した。狼男、まさしく、体が二倍は膨れ上がったろう、剛毛に身を覆われた狼の顔を持つ男が二人。
「なるほど、どこにそんな自信があるのかと思いましたが、とうに人間をやめていたということか、それは楽しいね」
いつの間にか男の左手には抜き身の小刀があった。
一気に間合いを詰める、つかみ掛かってきた狼男の腕を一瞬に斬り上げる。
間合いを開け、男が振り返ると、腕の切り口から肉が盛り上がり、見る間に腕が再生してしまった。
「狼男の特性は備えているようだ。早めに済ますかな」
男は普通に歩くように狼男へと歩いて行く。牽制するように二頭の狼男が唸りを上げた。
「発声器官が人のものとは随分変ってしまっているようだけど、君達は元の姿に戻ることが出来るのかな、いや、今から、息をしなくなるんだから、関係ないか。変身のためのエネルギーの核、それを潰してみよう」
一頭が背を落とし、四本足で飛んでくる、もう一頭は少し軌跡をそらし男に向かった。背を落とした方が両腕で男の膝をすくい上げ、男の脇を咬み千切ろうとし た、一瞬、男の動きが加速する。狼男の後頭部に拳を落とす、首の後ろが閃光を発し、その首が吹き飛ぶ。もう一頭が男の顔面へ右の回し蹴りを放った。
男はそれを左手の甲でなでるように流す、狼男が蹴り足を軸に一転し、地面に頭が激突した。
首が完全に九十度を超える。男が素早く、狼男の胸を差すように爪先で蹴る。閃光が走り、狼男が崩れた。
「雑な作りだな」
男は呟くと、もといた門柱に戻る。
・・・まだ、お客さんがあるかもしれない。もうしばらく、こうしているか・・・


「うまいか」
「は、はい。美味しいです、体も暖まります」
「そっか」
幸がにっと笑った。二人、炬燵に入り、坂村は幸が有り合わせで作ったじゃがいものお味噌汁を飲んでいた。
「なんか、なんだか・・・」
坂村が不意に泣きだした。
「良かった、生きてて良かったです」
幸は仕方なさそうに笑みを浮かべた。
「別に後に出てきたやつらも殺すまではしてないからな」
「あ、いえ、そういう意味では」
幸がくすぐったそうに笑った。
「これからは真っ当に生きて行けばいい、しなくてもいい経験をして、少し、時間を無駄にしたけどな。坂村さんはこれからどうするつもりだ」
「怖いです、人が怖い。出来るなら自分の部屋にずっと閉じこもっていたい」
お味噌汁を見つめながら、坂村が答えた。
幸は吐息を漏らすと、小さく呟いた。
「まっ、人のこと言えないけどな・・・」

「坂村さん、あんたにはかなりの退職金が、口止め料込みで入ってくる、ばあさんになるまで閉じこもっていられるよ。ただ、そういう生活はあまりお勧めじゃないし、かといって、また、変な会社に紛れ込んでしまったら大変だ」
幸は坂村の目をじっと見つめた。
「給料でないけど、週に一度、ここに来て働く気はないか」
「え・・・」
「庭でね、畑をつくっているんだ。いずれ、たんぼも作って、お米も作りたいなと思っている。坂村さんが次にしたいことを見つけるまでの間、手伝ってくれると嬉しい、給料は出せないけど、現物支給ならできるかなと思う」
坂村が目を輝かせた。炬燵から出ると、幸に向かって正座をする。
「やります、お願いします」
「そこまで反応されるとは思わなかったよ」
幸は少し当惑気に笑うと、ほんの少し小首をかしげる。
「ありがと、こちらこそ、よろしく」
ふと、幸は玄関口を見つめた。
「あ、お父さん、帰って来た。出迎えに行ってくる、これから鍋するからさ、思いっきり食ってくれ」

男は玄関の手前、門の前で考え込んでいた。幸が狂暴になったのは俺の血のせいだ、狼男を二人殺した、最初の奴らは殺すまではしていない、いや、硝子球の結界で一人殺した。殺すことになんの戸惑いもない。こんな俺は幸の父親失格ではないのか。
ばんと扉が開き、幸がとびだして来た。
「お父さん、お帰りなさい」
「あ、あぁ。ただいま」
「どうしたの、暗い表情だよ」
幸がそっと男の顔をのぞき込んだ。
「いや、大丈夫だよ」
男はそっと笑った。幸はいきなり、男に抱き着くと、ぎゅっと男を抱き締め、顔を上げる、じっと男の顔を見つめた。
「幸はなんでも出来るお父さんが好き。でも、どうしようって悩んでいるお父さんの方がもっと好き、だって、幸が助けてあげられるかもしれないもの」
「幸・・・」
幸がにっと笑う。
「だから今のお父さんはとっても好き」
幸は引き込むように笑みを浮かべると、囁いた。
「狼男は強かったですか」
男は仕方なく笑みを浮かべる。
「随分と弱かった、びっくりした」
ふふっ、と幸が小さく声を出して笑う。
「幸はお父さんの味方です。いついかなる時も、味方し、お父さんを肯定します。だから、力強く生きなさい」
「なんだか、結婚式の言葉みたいだ」
男が少し笑った。
「お父さん」
「ん・・・」
「とっても濃いキスしようか」
「父娘だからだめ」
男が久しぶりに少し声にして笑った。

坂村は緊張していた。幸に対しては、少し気持ちも柔らかくなったが、男にはいくばくかの恐怖を感じていた。炬燵から出て、正座して待つ。
幸が男の上着の裾、引っ張るようにして戻って来た。
「あれ、どうしたの。恵子さん、正座して」
先程と、話し方も声の高さも変っている幸に少し驚きながらも、
「改めてお礼とご挨拶を」
「いえ、そういうのは無しで」
男が笑顔で答えた。
「それは、あおざいですね、綺麗です、似合っていますよ。うっ・・・」
いきなり、幸が男の頬をつねった。
「お父さん、あかねちゃんは可愛いねと言っても許します、子供だから。でも、恵子さんはだめ、だって、幸、嫉妬してしまうもの」
男は頬さすりながら笑った。
「こんな、おっさんを好きだと思ってくれる変わり者は幸くらいだよ。さぁ、ご飯の用意をしよう、父さん、手を洗ってくるよ」
「私もお手伝いします」
慌てて、坂村が立ち上がった。
「恵子さん。それじゃ、冷蔵庫の中にお豆腐とか鍋の具が入っているから、切っておいてください。幸はお父さんと一緒に手を洗ってきますから」
「え、手くらい一人で洗えるよ」
「だめだよ、幸はお父さんの右手代わりなんだから」
男は幸に急き立たされ、洗面所に行く。
ふと、坂村は、十年になるだろうか、離婚した父親の顔を思い浮かべた。再婚したらしいけれど、元気にしているだろうか。

「ほら、お父さんの左手と幸の右手で、ちょうど一人分だよ」
幸は男の背中に左手を回し、右手で石鹸を擦る。そして、男の指を右手で洗って行く。
「や、やっぱり、父さん、自分で洗うよ」
「どうして」
「なんだかあれだ、恥ずかしいっていうか、なんか、とってもえっちだ、これは・・・」
幸はそっと男の頬に顔を寄せる、そして囁いた。
「幸はお父さんがとても大切です、愛しています。お父さんにはたくさん迷惑をかけたし、これからも、ごめんなさい、迷惑をかけてしまうと思います、でも、お願いです。どうか、幸を隣りにいさせてください」
「同じ言葉を返していいかな」
「え・・・」
「父さんは幸がとても大切で、愛しています。ただ、自分に自信がないから戸惑ったり、右往左往してしまう。でも、父さんを幸の隣りにいさせてください」
くすぐったそうに二人が笑った。
そして、二人、一緒に囁く。
「隣りにいること、許して上げます」
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最終更新日 : 2013-05-11 17:23:54


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