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異形七話

窓からの月明かり、瞳はそっと幸の寝顔を見つめた。
幸と瞳はこの十日間、一つの部屋に布団を二つ並べ寝ていたのだ。
明日が、ちょうど、十日目、明日の昼には幸に付き添われ自宅へと戻る予定だった。

瞳は上半身を起こし、そっと幸の顔を覗き込む。
月明かりに照らされた幸の、なんて神々しく美しい、それは人の域を遥かに越えた美だった。

「キスはやめてくれよ。あたしは父さん、一途なんだからさ」
幸は目を開けるとにっと笑った。
「ごめんなさい、起こしてしまって」
「いいさ、こんな奇麗な月を見ずに寝るのはもったいない」
窓からの月は冴え冴えと部屋の中を照らし出す、充分な明るさだった。
幸は立ち上がると、瞳に待ってなと言い残し、台所へ。そして、お盆にマグカップを二つ載せ戻ってきた。
「カルアミルク。アルコール入っているから、その内、寝てしまうだろう」
瞳はありがとうございますと言い、一口、カルアミルクを飲む。
「瞳お姉ちゃん、ここでの生活、楽しめたかな」
幸があどけなく瞳に囁く。
瞳がくすぐったそうに笑った。
「どっちが本当なの」
「え、何が」
幸があどけなく笑みを浮かべる。
「伝法な啖呵口調と可愛い女の子的なそれと」
「どっちも本当だよ。でも、お父さんにはとってもとっても可愛い娘でいたいから、必ず可愛くお喋りする。お父さん以外はその時の気分かな、たまに使い分けてもいるけどね」
幸は笑顔を浮かべるとカルアミルクを一口飲む。
「面白ぇだろ、そういうのさ」
にぃぃっと幸が笑う。
「幸ちゃん、それ怖すぎる」
「ごめんなさい、瞳お姉ちゃん」
くすぐったそうに二人が笑う。
ほっと溜息をこぼすと、幸はマグカップをお盆に置いた。
「出会いって面白いもんだなぁって思うよ」
ふっと幸が呟いた。窓からの月がそんな幸の横顔を玲瓏と映しだす。
「敵だった私なのに、本当に幸ちゃんや先生には助けてもらって、ありがとうございます」
「別に親切や善意で助けたわけじゃない。そんな気持ちで人を助けようと思ったら、限がなくてさ、こっちが参ってしまう。だから、たまたま偶然、助けただけだと思うことにしている。だからさ、瞳姉さんも私やお父さんに感謝する必要はないんだ」
「難しいね」
「まぁね、世界を牛耳る力があっても、そういうのは大変だし、柄じゃない。だから、お父さんも私も、基本、引き籠もりくらいがちょうど良い」
窓から月を見る。普段よりもその月は大きく、まるでその鼻面のクレーターまで見せようとするかに思える。
「瞳姉さんはこれからどうするの。自衛隊も退職したんでしょう」
瞳は少し目を伏せ考える、やがて顔を上げた。
「専業主婦をすることにした。隆も母さんに、実の母さんにね、面倒見てもらいっぱなしだったし、随分と負担かけてしまった。贅沢しなければ、隆行さんの稼ぎで食べて行けるから。それでいいなと思う」
「なんだか、一年前からでは想像できないな」
幸がくすぐったそうに笑った。
「結果としては幸ちゃんにあれだけ脅されて良かったんだと思う。脳に設置されていた機械の周りが壊死していたっていうの、間違いなく幸ちゃんに脅された時に壊死したんだと思うよ」
瞳はそういうと少し笑った。
「駄目押しが効いたかな。あの時、お父さんが大変だったし、思いっきりかましとかなきゃ、反撃されると思ったから」
「それで私も正気に戻ったんだと思うよ。正気に戻ったら、私なんでこんなことやってんだろうと思ったけど、逃げ出す勇気がなかった。毎日、びくびくして暮らしていた」
「心臓が破裂したら終わりだものね」
瞳はただ頷いた、一瞬、その恐怖が蘇り、言葉を発することができなかったのだ、なんて異様な世界にいたのだと改めて思う。
「人の生命があまりにも安易に扱われている。他の生命がとても軽いものとして見られている、その観念はいまそこいら中に広まってきている。難儀だねぇと思うよ。いや、そうじゃないな、少なくともこの国の人間は、随分と昔から、他人の生命を軽く見積もってきた」
「幸ちゃんって、いったいなにものなの。まるで人ではない、妖精とか神様のように思えることがある。商店街のおばあさんは神棚に幸ちゃんの写真供えて拝んでいるし、私にまで、ありがたいありがたいって合掌された」
幸は小さく笑うと、困ったように俯いた。
「あれは失敗だったな、少しばかり脅し過ぎた」
「いたずら、したってこと」
「おばあさん、手相占いが趣味のようだけど、あんたはたやすく人を占っちゃいけないよってのを、少しね、低い声で言った」
「あ・・・、それ、おばあさんの気持ち、手に取るように分かる」
「あれは反省している。機会見つけてゆっくり話をしてみるよ」
瞳がくすぐったそうに笑った。
「ただ・・・」
瞳が少し不安げに呟いた。
「ん・・・」
「明日からうまくやって行けるのかって思うと不安になる」
幸は呆れたように瞳を見つめた。
「うまくいくわけないよ」
「そんなはっきりと・・・」
「瞳姉さんの意思はともかく、一年近く、姉さんは家庭を捨ててしまっていたんだよ。亭主はもう離婚してしまおうかと思いながらも、息子のこと、そして姉さ んの実の母親のさ、娘は必ず心を入れ替えて帰ってくるからって懇願でもってさ、なんとか、その日を過ごしているわけだ。亭主はともかく、母親は怒ってわめ きたてるぜ」
「そ、そんな・・・」
「地べた、頭擦り付けてもさ、謝りなよ。まったくの他人じゃない、追い出されはしないよ」
「はい・・・」
「追い出されなきゃさ、時間をかけて、努めて家族を四人で創っていけばいい。瞳姉さんなら大丈夫だよ」
幸はそっと笑顔を瞳に浮かべると、瞳の手を両手で握った。
「大丈夫だよ」
「やっぱり、幸ちゃんは神様ですよ。私も神棚に写真供えよう」
「それだけ言えれば大丈夫だよ、瞳姉さん」
幸はカルアミルクを飲み干しお盆に戻す。
「姉さんち、隆君の壁に描いたいたずら書きやたまったゴミで大変だ、母親もへたばっている。今なら居場所があるよ、ここで散々、掃除や日常の細々としたことやったろう、役に立つよ」
「箒で床を掃いたり、雑巾で柱を拭いたり、へとへとになったけど、あれは」
「別に予行練習のためにやったんじゃない、結果として役に立つだけのこと。穢れを落として行くには、転換させるには、なにもさ、特別な呪文もなにもいらないんだ。ただただ、一所懸命、掃除すれば勝手に落ちて行く、それだけのことだよ」
「そうだったの」
「潔癖症にはなっちゃいけない、ただ、掃除という形で、芥を払っていけば、それで良い」
「ありがとう、でも、なんだか」
「ん・・・」
「年下の幸ちゃんの方がずっと年上で経験豊富に思えてきた」
「私もお父さんの娘になるまで色々あったからさ」
「それはいま尋ねてもいいこと・・・」
「私的にはかまわないけど、姉さんはそれを問うたこと、悔いると思うよ」
「それは多分、尋ねてはならないことなんだろうね、それじゃ訊かない」
「ありがと。やっぱり、瞳姉さんは分別のある良い人だね。お父さんから瞳姉さんに武術だけは教えなさいって言われて、どうかなと思ったけど教えて間違いなかった」
「え」
「姉さんの性根が真っすぐだってこと」
「武術ってのは体と精神を一つにするための技術。精神が体に寄り添うための手法でもある。瞳姉さんはこれから、自分自身と家族を護らなきゃならない、これは抽象的な意味でもあるし、具象的でもある。そのためにはさ、挫けない強さが必要になる、武術はそれを教えてくれるよ」
「なんだか、どう言えばいいんだろう。一から体の動かし方、歩き方、お箸の持ち方まで覚え直した気がする」
「瞳姉さんに教えた武術は私がお父さんに教えてもらったものに加えて、女性の動きに適した工夫を加えている。役に立つよ。まだ、途中だから週一くらいで教えに行くかな」
「来てくれるの」
「行くよ。っていうか、もう何度かお邪魔しているけどね。そうじゃなきゃ、さすがにあたしでも瞳姉さんちのことわからないよ」
「え・・・」
「いじめが原因で不登校になった高校生、でも、しっかりしなきゃって、健気にも学校に行こうとしている女の子、ふと、重そうに荷物を運んでいるおばさんの鞄を持ってあげたことから心の交流が始まる。泣ける話さ」
「私のお母さんがそのおばさんなの」
「明日は先に私が瞳姉さんちに行くから、その後から来てくれればいい、少しは、敷居を下げておくよ」
ふと瞳が溜息をついた。
「とても私には恩返しできそうにないよ」
「そんなものは破片ほどもいらない。あたしはさ、父さんに初めて会った時、その父さんを殺そうとした。そんなあたしを父さんは娘として受け入れてくれて、 不自由なくここで一緒に暮らしてくれている。武術や呪術はもちろん、生活の中での立ち居振る舞い、日常生活、料理の仕方まで教えてくれた、料理失敗しても 美味しいって食べてくれる・・・、あたしはもう、父さんに申し訳ないやら、嬉しいやらで一杯だ・・・。だからさ、あたしは父さんにだけはとびきりの良い娘 でいたいし、瞳姉さんや、手を重ねた人には幸せになって欲しいと願っている。それだけのことさ」
幸は涙声になり、そのまま俯く。
「お父さん、幸はお父さんが好きです。とっても・・・、とっても、愛しています。とっても、大切です。いつまでも、いつまでも、一緒にいてください。お願いします。お父さん」
そのまま、ごろんと幸は横になってしまった。
「月の夜はだめだ、饒舌になってしまう。あぁ、お父さん・・・」
幸は小さく小さく泣き出した。
「幸ちゃん」
瞳はどう言えばいいのか分からず、布団にくるまってしまった幸に戸惑ってしまった。
幸がいきなり布団から立ち上がる。
「限界だ。ちょっとさ、お父さんの寝顔見て来る」
「え、あ・・・、うん」

男はふと目を覚まし、台所で明かりを消したまま、お茶を飲んでいた。月明かりが台所内を仄かに照らし、さほどの不自由はない。月見の季節ではないが、団子のひとつでも買っておけば良かったと思う。
「お父さん、ここにいたの」
「ん、幸、どうしました」
「だって、部屋にいないし、どうしたのかって」
「ちょっとね、2、3分かな、お茶飲んでいた。なんか、ありましたか」
「え、ううん、なんでもない」
「幸、おいで」
男は少し笑みを浮かべると幸を手まねいた。
男の隣りに座る。男は幸の目許を人差し指で拭った。
「泣いていたな、瞳さん、帰っちゃうの寂しいのか」
「そんなんじゃないよ。寝ぼけただけだよ」
「幸は泣き虫さんだ」
男が小さく笑う。
幸はそっと男の肩にもたれ掛かった。
そして、男の湯飲みを取ると一口飲む。
「ちょっと薄い」
「濃いとね、眠れなくなりそうだからさ」
「お父さんは寂しくない。明日、幸、夕方までいないよ」
「寂しいなぁ。でもね」
「ん」
「幸が計画したこと、それを頑張ろうとするのが、なんかね、嬉しくて、誇らしいからさ。父さん、寂しくても大丈夫さ。そうだ、写真、飾って、うまくいくようにって拝んでおくよ」
「そういうのはいいよ、もぉ。八百屋のおばあさんにもしっかり言わなくちゃ」
男はくすぐったそうに笑うと、幸の頭をなでる。
「さぁ、もう寝なさい、父さんももうすぐ寝るからね」
幸は立ち上がると男の後ろに立ち、男の頭をなでた。
「幸はお父さんに頭をなでられるのが好き、とっても気持ちがいい。お父さん、頭、なでられる感想は」
「初めて頭なでられた。なるほど、いい気分、なんか、気持ちが優しくなって来る」
幸はにっと笑うと、男の肩に体を寄せ、少し回り込んで口付けをする。
「おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
幸はそっと自分の部屋に戻った。
男は考える、もしも、二十代、せめて、半ばまでに見つけ出せていれば、俺は幸を娘としてではなく、妻として向かえることが出来たのではないか。いや、しかし、俺の二十代は、まさしく鬼と呼ばれた時代、何も考えず、幸ごと切り刻んでいたかもしれない、そう、なにもかも。
思うだけでも恐ろしいことだ、この歳で出会えて良かったのかもしれない。

「幸ちゃん、御機嫌」
「え、そうかな、そんなことないよ」
「顔が笑ってる」
「そうかなぁ、ふふっ」
「心配して損した」
瞳は嬉しそうに布団に潜り込む幸を見て楽しそうに笑った。
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最終更新日 : 2013-05-11 21:27:11

異形八話

「お父さん、好きな人ができたの。結婚を前提にお付き合いしていて・・・」
深刻な顔をした幸の唇から言葉がこぼれて行く。夢ではない、現実に俺の前に幸が立っている。
昼過ぎ、台所で珈琲を飲んだ後のことだ。椅子から立ち上がろうとしたところに、幸の告白。
いつの間に・・・、いや、いまはそんなことを考えている場合じゃない、俺はどう答えればいい。何か言わなきゃならない。なんて言うんだ。
まさか、こんな言葉が幸の口から出るなんて思いもしなかった。俺は、俺は・・・。
俺は幸の父親だ。そう、幸の父親なんだ。
「その相手の人は普通の人」
「え・・・、あ、うん」
「そっか、良かったね」
「お父さん、幸、いなくなってしまうよ、寂しくない」
男は努めて笑顔を浮かべ、優しく言った。
「とっても寂しくて哀しい。でもね、これは娘を持つ父親が通らなきゃならない道だ。それに幸は普通の道を歩いて行く方がいいんだよ、その方が幸せだよ」
男はふらつきそうになるのを堪え、立ち上がった。
「ごめん、ちょっとね、部屋に戻るよ」
「お父さん」
「心配しなくていい、ちょっとびっくりしただけだから。音楽でも聴けばね、すぐに落ち着くからさ」
男は少しふらつきながら、部屋へと戻った。

静かな音楽をかけ、仰向けに寝転がる。
結婚なんてだめだ、幸はずっと父さんと一緒にいるんだ、本当はそう言いたい。あぁ、なんて醜いことを俺は思うのだろう、情けない。
自分の手を見てみろ、冴えない中年男の手だ。こんな俺が幸に懸想してどうする。ましてや、自分の娘にだぞ。落ち着け、俺の一番大切なのは何だ、幸が一番大切だ。幸がこんな世界から抜け出すためにも、普通の人と普通に暮らして行くのが一番良いんだ。
そうだ、これが一番良いんだ。
男はうつ伏せになると、低く低く声を押し殺して泣く。蹲るようにして、泣き続けた。

少し辺りが薄暗くなったころ、幸が部屋の外から声をかけた。
「お父さん、晩ごはん作ろ、ね」
男は幸の声に気づくと、努めて落ち着いたように答えた。
「なんだか寝てたよ。すぐ行くからさ、台所で待っていてくれるか」
「うん・・・」
足音が離れて行く、男は部屋の灯りをつけ、窓に映った自分の顔を見つめた。目が腫れてる、泣き過ぎだ、みっともないな。男は襖を開け、洗面所に向かった。

晩ごはんを食べ終え、幸はそのまま編みかけのマフラーを取り出すと、俯いたまま編み始めた。今はもう春、1月には仕上がるはずだったのだが、模様を浮き出させるのが難しいらしい。作っては解き、手間を掛けている。
「良い色だね、柔らかいクリーム色だ」
「うん、でも、難しいよ」
「そうだな、根気がいるね」
俺はなんてつまらないことを言っているんだ。男は自身に絶望を感じつつ、ふと窓から外を見つめた。
白い月が虚空に輝いていた。
そうだ、教えておかないと大変なことになる。
「幸、庭にいいかな」
幸は手を止めると、マフラーを下ろした。
二人は裏庭に出た、梅の森だ。臘梅をはじめ、幾種類もの梅が無数に森を成し、競うようにその花を咲かせていた。裏庭は男とその父親が作り出した異界に繋がり、無限に広がる森を形成していたのだ。

見上げれば真っ白な月が天蓋に浮かぶ。
「幸、父さんの前に立ちなさい」
「はい」
男の前に幸が立つ。
「両方の手を上げて、その手のひらを月に向けなさい」
幸は男の言うままに両手を月に向けた。
「月の光を体に取り込む」
男は幸の後ろに立つと、幸の両肘を両手で支えた。男が静かに息を吸い込む、男の手が白く光り出した。それは月の光と同じ、ひそやかな色だった。
「光の通路を作るよ」
幸の腕が手のひらから肘まで、白く光り出した。
「どんな感じがする」
「腕の中をさらさらと水が流れていく」
男は頷くと、両手を放し、一歩、退いた。
「今度はその感覚を肩まで伸ばしなさい」
男の言葉に幸の腕全体が白く輝きだした。男は自分自身が半年近くかけて身につけたこの修法が一度で幸がこなしてしまったことに驚嘆を憶えた。
「自分の両手を見てごらん」
「なんだか、白く輝いて、腕が蛍光灯になった感じ」
「蛍光灯ですか・・・」
男は少し笑うと、幸の前に回り込んだ。
「両手を重ねて、お臍の上に置く、お腹の中に光が入っていくように」
指先を通して幸のお腹の中に光が入っていく、そして、光が消えた。
「それでいいよ。あのな、父さん、ね。外神、あかねちゃんの時のホテルでさ、幸にえっちなことした、謝ってなかった、ごめんな」
「あれは幸が・・・」
「父さん、とってもさ、えっちな気持ちになってたんだ。幸、体が千切れるように痛かっただろう」
「うん・・・」
「あれはね、父さんのえっちな気持ちが伝わって、意識外のところで幸が恐怖を感じたせいだ。長い間の苦痛がそうさせるんだろう」
幸は驚いて目を見開いた。
「幸、月の光は、少なくとも体だけはさ、その痛みや傷を防いでくれる、お腹の中に蓄えておきなさい。そうすれば、幸もお母さんになれるからね」
男は幸から離れると、梅の木に背を預けた。
「部屋に戻りなさい、まだ夜は寒い」
「お父さん、あの、あのね」
「ごめん、幸。今日の父さんはとってもだめな奴だ。でも、明日には普通に戻るから、それまでね、一人でいたいんだ、ごめんね」
「お父さん、幸はそんなつもりじゃなくて」
「大丈夫だよ、明日にはけろっとしているさ。それに幸が普通の女の子になったら、お父さんは忙しくなる、幸や幸の家族をこちら側からの干渉から守らなきゃな。父さん、とっても強いからな、安心しなさい」
幸はぼろぼろ泣きながら呟いた。
「字は「無」。その姿を捉えたもの、いまだなし。ただ、一陣の風止みし時、切り裂かれた魔物、地に落つる。それ、お父さんでしょう。幸、知ってるよ」

男は手を梅の幹に重ね、息を吐く。閃光が走り、月の光が爆発した、白い輝きが梅の森を駆け巡り、森が一瞬、真昼になる。
「あぁ、懐かしい名前だな。幸のためなら、父さんはとっても強くなるよ」
光が消え、森は夜に戻ったが、男が背を預けた梅の木だけが、やわらかな燐光を残り火のように放っていた。
「でも、今晩だけは怠けさせてくれ」
男はずるずると梅の木に背を預けたまま座り込んでしまった。
「明日になれば祝福するからさ」
幸はぼろぼろと涙を流しながら、男の元へ歩き寄る。
「お父さん、お願い、幸を捨てないで」
「何言ってんだか。幸が父さんのとってもね、大切な娘であることは変わらないさ」
「お父さん、あれ嘘だよぉ、幸の好きな人はお父さんだけだよ。結婚なんか、しちゃだめって言ってくれるかなぁって思っただけだよ。お父さん、幸から離れないでよ」
男はその言葉に目を見開いたまま、幸をじっと見つめた。
「そっか・・・、良かった」
「お父さん、ごめんなさい」
男はふっと笑顔を浮かべた。
「今からでも良いかな」
「え・・・」
「幸は結婚しちゃだめ。だって、父さん、幸と二人っきりで、ずっと一緒にいたいからさ」
男はふふっと笑うと、左手を幸に向けて伸ばした。
「おいで、幸」
幸は駆け寄ると、男に思いっきり抱きついた。
「痛ったた・・・。頭の後ろ、梅の幹にぶつけてしまったよ」
「えへへ、ごめんなさい」
「泣いた女の子が、もう笑った・・・。なんだか、幸は笑ってくれている方がいいな。泣いている幸も可愛いけどね」
「もう、幸、お父さんには嘘つかないよ」
「いいよ、嘘ついてもね。全て、信じてあげるさ」
男はふっと力を抜くと、梅の梢を見上げた。
「桜も良いんだけどね、はらはらと花びらが落ちていくのがね、少し寂しい。梅の方が好きだな。頑張ってさ、花を落とさずにいようとしてくれるからね」
男はそっと幸の頭をなでる。
「幸は華奢な女の子だけど、父さんの心の中の、ほとんどを占めているよ。あぁ、見上げればおぼろに光を放つ、満天の梅の花、父さんの心の中と同じだな」
「お父さん、もう少し、こうしていようよ」
「風邪ひくぞ」
「大丈夫だよ、お父さんはとっても暖かいから。とっても暖かいよ」
「父さんは幸専用の湯たんぽだな」
男は指に幸の髪を絡めると、ほっとしたように笑顔を浮かべた。
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最終更新日 : 2013-05-11 21:27:11

異形十話

花見と言っても、桜の花を愛でるというような風情はない。所狭しと屋台の並んだ先、公園を一歩入れば、満開の桜が青い空をその無数の花びらで見事に遮ってしまう。
しかし、一度、視線を落とせば、ビニールシートの青が辺り一面、賑やかな花見客が持参する小さな空にあちらこちらと埋め尽くされている、まるで、空にいるようなものだ。
男はビニールシートの端に座り、缶ビールを少しずつ飲んでいた。商店街の花見、幸がしばらく前から、週に一度、魚弦で1時間ほどだが、手伝うようになり、そのよしみで男も商店街の花見に参加したのだった。
「先生が来てくれるなんてびっくりだよ」
洋品店の女店主が男の前で笑った。しばらく前に膝を痛め、折り畳みの座椅子にすわっているのだが、それが正座する男の背の高さにあい、ちょうどいい話し相手になっていた。
「私も、こう賑やかなところは初めてですね」
男は笑顔を浮かべると、缶ビールを横に置いた。
「昼下がりの暖かな日です、見上げれば桜色の空」
「いいねぇ、贅沢だ」
女店主は笑うと重箱に詰めた巻き寿司を一つ食べる。柔らかな日差しが心地よい。
「幸ちゃんもすっかり元気になったねぇ」
「幸はしっかり働いていますか」
「佳奈ちゃんの横で声張り上げているよ」
「良かった」
「先生は幸ちゃんのことになると、ほんと、うぶな少年みたいな顔になるねぇ」
「この齢で少年と言われても褒められた気にはなりませんが」
「褒めちゃいないってことさ」
女店主は声を出して笑うと、重箱を男に差し出した。
「今年はあたしじゃなくて、娘が作ったからさ、少し甘すぎるけど食べてみなよ」
「ひとつ、いただきます」
男が一つ巻き寿司を食べる。
「美味しいですよ、娘さんというと、お姉さんの方ですか。確か、妹さんは、どちらでしたっけ、嫁ぎ先が遠かったような」
「妹の方は結婚して正月くらいに、ちょっと顔を見せるくらいさ。姉は結婚もせずぐずぐずしているからさ、巻き寿司でも作りなって言ってやったんだよ」
男は笑って頷くと、もう一ついただきますと巻き寿司を食べる。
「先生さ」
「はい」
「姉の方の涼子をさ、嫁にもらってくれないかねぇ」
男は笑いながら、首を横に振った。
「この齢で結婚は勘弁してください。もう元気もありませんし、幸との二人暮らしが板に付いてしまいました。今は二人でちょうどなんですよ」
「でも、幸ちゃんもずっと先生と一緒というわけにいかないだろう、その内、好きな男連れてくるじゃないかい」
「どうなんでしょうね、来たらどうしましょう。虚勢を張って物分かりのいい親父を演じるか、それとも、聞きたくないと逃げ出すかな」
男がほんの少し溜息を付く。
「先生、幸ちゃんに惚れてるんじゃないかい」
「そうかもしれませんね」
女主人が呆れて笑った。
「相思相愛だねぇ」
「え」
「昨日、幸ちゃんと珈琲飲みながらさ、言ってたよ。自分がお父さんのお嫁さんになるってさ」
「それは、なんて嬉しいこと」
男が笑う。女主人も釣られて笑った。

ふと女主人は真面目な顔になって男に言った。
「幸ちゃんからあの話は聴いたかい」
「あぁ、商店街のイメージガールとかいうのですよね」
男は笑みを消し、缶ビールを一口飲む。

「幸は絶対嫌だ」
女主人の肩を揉みながら、幸が言い切った。
「わっ、びっくりした。幸ちゃん、いつの間に」
幸はにっと笑うと、それには答えず男に言った。
「お父さんも嫌だよね」
「そうだな、あまり目立ち過ぎるのは良くない。週一でお店を手伝わせてもらうくらいでちょうどいい」
幸はほっと安堵の表情を浮かべる。
「母さん、幸にも色々とね、事情があるのさ」
幸は女主人に笑いかけると、今度は首の後ろ辺りを柔らかく揉み出した。
「母さん、気持ちいいかな」
「なんだか、背中が軽くなっていくようだねぇ」
「母さんは少し猫背、もっと胸を張ってえらそうにしてください。お喋りはとってもえらそうなんだから」
「はは、幸ちゃんに叱られた」
女主人が気持ち良さそうに笑う。
「ね、お父さん、デートしよう。せっかくの桜だもの、恋人同士は桜の下で愛を語らなきゃ」
「父さんは愛よりも食い気だな、屋台が気になってしょうがない」
男はすっと立ち上がるとブールシートから降り、靴を履く。
「母さん、行ってくるよ」
「あぁ、いっといで」
幸は女主人に笑顔を浮かべると、男を追って走りだした。

二人が出掛けた後、ふっと佳奈が女主人のところにやって来た、商店街の大所帯、人が多く、二つに別れて花見をしていた、男どもが騒いでいるのは一つ向こうのブルーシートだった。そして、佳奈は男共の酒の世話をしていたのだった。
「おつかれさん。なんだか、向こうは賑やかだねぇ」
佳奈はお茶を一口飲むとほっと一息ついた。
「男は女を召使いか何かぐらいにしか思っていないんですよ」
「男なんてそんなもんさ、昔、亭主もそうだったねぇ。大酒飲んで、女房こき使うのが、男の甲斐性のように言ってたもんだ」
佳奈は頷くと、一つ、巻き寿司を食べた。
「美味しいです」
「涼子に作らせたのさ。まあまあって感じだね」
「涼子ちゃん、もう随分、見ていないですよ。確か、学校の先生でしたよね」
「教師もこの頃は忙しいらしいよ。あたしですら、たまにしか顔を見ていないんだ」
女主人は一つ溜息を付き、ビールを開けた。
「さっき先生にね、涼子を嫁に貰ってくれって言った」
「うわっ、それで・・・」
「躊躇なく断られてしまった」
「そりゃそうですよ。先生、幸ちゃんに恋愛してますもん、で、先生、生真面目だから、そんな自分を許せないというか、感情を抑え込んでいますから」
女主人がにやっと笑った。
「純な男は少しばかり苛めたくなるねぇ」
「人が悪いなぁ。でも、面白いですけどね、そういのは」
「ただ、問題は親子だってことだ。最近は世の中が変になってか、親子ほどの齢の差の夫婦も珍しくはないけど、でも、本当の親子ではねぇ」
「大丈夫ですよ、だって、本当の親子じゃ・・・。うっ」
女主人が驚いたように目を見開いて佳奈を見つめた。
「それじゃ・・・、男共の様子を見て来ます」
立ち上がりかけた佳奈の裾を女主人がしっかりと捉えた。
「待ちな。そういう面白い話は最後までしておくれ」


「うわぁ、佳奈さん、喋っちゃった」
「どうしました」
男は隣りを歩く幸に話しかけた。
「あのね・・・、前にね、佳奈姉さんに買い物付き合って貰ったとき、ちょっと喋っちゃった」
「なんて」
「あの、あのね。お父さんは本当のお父さんじゃない、だから、幸はお父さんを一人の男として愛することができるって。・・・ごめんなさい」
「それを、いま、佳奈さんが洋品店の叔母さんに喋ってしまったってことか」
男はくすぐったそうに笑った。
「戻ったら、どんな顔して出迎えてくれるかな」
「お父さん、怒らない」
「どうして」
「だって」
男は少し笑うと立ち止まった。
「ちょっとビールでね、父さん、酔ってしまっているのかもしれない。だからかな、それが楽しく思える、不思議だな」
「お父さんは酔っ払いだ」
幸は笑って男の腕を抱きかかえた。

ただ、心配です、あなたのことが
私のことですか
はい、あなたの日常を崩してしまうやもしれません
私の日常は
私がいることで商店街の皆様とあなたの間に諍いが生じれば大変なことになります、ただ、私が皆様の希望をお受けすれば、きっと、たくさんの人達に私の存在が知られ、良くないモノ達が現れるようになります
さて、まず、何から申し上げましょうか
はい
私の日常、それは君が私の隣りに居てくれること、それが私の大切な日常なのです。それ以外の日常は私にはあり得ません。そして、君がたくさんの人達に祭り 上げられるのは、昔、君が人身御供になったことと、私には重なるのです。だから、私はどうしてもそれを認めることができないのです。
君が思う以上に、私には君が必要なのですよ、君がとても大切なのです。
あなたは本当に私を大切にしてくださいます、私はあなたにどれほどのものをお返しできるでしょうか。
もしも、かなうなら。
はい
いつまでも君の隣りにいさせてください。それだけが私の願いです。
わたしのようなもので良ければ、必ず。

「そうだ、お父さんにいわなきゃ、って思っていたことがあるんだ」
幸は見上げると、にっと笑った。
「何をです」
「幸は一杯勉強しているよ、昨日、DNAの本を読んだんだ」
「遺伝子とかだったかな」
「幸はお父さんから体をいただいた、つまり、お父さんと幸のDNAは同じってことだよ、一卵性双生児みたいに、普通の兄妹や親子よりも、ずっとずっと近い存在なんだ。これは幸にとって、とっても嬉しいことなんだ、お父さん、手を出してみて」
幸は男の左手を取ると、自分の掌の指紋と見比べる。
「あ・・・、指紋は違うなぁ」
「指紋まで一緒というなら同じ人になってしまうよ、幸は幸という個性なんだからね」
男は笑顔を浮かべると幸の手をそっと握った。
「幸の手は柔らかくて優しい感じがするよ」
男は手を離すと、自分自身の掌を見つめた。
「父さんの手はざらざらだ」
男は笑うと後ろ手に両手を組む。
「それがお父さんの個性なのです。幸は好きだよ」


「つまりはだよ、先生は幸ちゃんが商店街のイメージガールにならないほうがいいと言ってる、で、幸ちゃんも絶対嫌だと言っている」
「本当の親子じゃないってことは秘密ですよ、誰にも言わないでくださいよ」
「大丈夫さ、あたしゃ、佳奈ちゃんよりずっと口が堅いさ」
女主人は笑うと、腕組みをして考える。
「そうか、駆け落ちだな。これは」
「変なこと考えないでくださいよ」
「いやいや、つまりはだ。先生と幸ちゃんは相思相愛、惚れあっている。しかし、親子ほどの齢の差、幸ちゃんの本当の親が認めるはずがない、で、二人、駆け 落ちをした。しかし、ここで、商店街のイメージガールなんてことで盛大に顔を出したら・・・。うん、面白い、なんかわくわくするね。先生も人畜無害な顔し てるくせにやることはやるもんだ」
佳奈はどう収めれば良いのか、思い浮かばずうろたえていた。
「よし、あたしゃ、応援するよ。二人を添い遂げさせてやろうじゃないか。一肌も二肌も脱いでやるよ」
「あ、あの、おばさん」
「ん」
「あの、えっと、あの二人は、多分、ですけど、こういうどっちともつかずの状態を楽しんでいる、と思うんですよ」
「そりゃ、どういいことだい」
「恋愛中というか、そういう、なんていうのかなぁ、甘酸っぱい時代を楽しんでいるというか」
「しかし、先生もいい齢だよ、っていうか、いい齢なんかとっくに過ぎちまってるよ」
「でも、幸ちゃんにとっては、今のこの関係が」
女主人は、うーんと唸り考え込んだ。
「そうだねぇ、なにも女が男に合わせなきゃならないわけじゃない。幸ちゃんには、まだまだ、楽しむ時間が必要なのかもしれないね」
「そうですよ、幸ちゃんもあの齢で主婦やらせるのは可哀想ですよ」
「しょうがない、当分、見守ってやるだけにするかねぇ。うん、ほら、噂をすればだ」
佳奈が振り返るとタコ焼きの包みを両手に幸が駆け寄って来た。男はお好み焼きの袋を持っていた。
どうしよう・・・、佳奈は一人呟いた。
「母さん、佳奈姉さん、ただいま。タコ焼き、食べよう。お好み焼きもあるよ、リンゴ飴も」
男もブルーシートの荷物を置くと、
「それじゃ、ちょっと」
「あれ、先生、どこに」
「あちらで、ちょっとお喋りして来ます。佳奈さん、幸の相手してくれないかな」
「あ、あの。先生」
男はにっと佳奈に笑いかけると、もう一つの宴会場へと向かった。
「どうしたの、佳奈姉さん。顔色悪いよ」
けげんな顔をして、幸は佳奈に尋ねた。
「あ、あの・・・、喋っちゃった」
「なにを」
「えっと、あの」
幸は笑みを浮かべると、すっと人差し指で佳奈の唇に触れた。
「言わなくていいよ。幸は佳奈姉さんが好きなんだからさ」
手を離し、幸は女主人に話しかけた。
「母さんは歩くとき、膝を突き出すように歩く、だから膝を痛める」
幸は女主人の前に座ると、両手を女主人の膝に重ねた。
「母さん、膝全体が暖かくなってきたでしょう」
「なんか、膝の中が柔らかくなっていくようだ」
幸は手を離すと、立ち上がり、女主人の両脇に手を差し入れ立たせた。
「手を離すよ」
幸が手を離す、女主人は信じられないと自分の膝に触った。
「ぜんぜん痛くないよ、いや、以前より調子が良いくらいだ」
「でも、今までと同じ歩き方をしたら、また、膝を痛めることになる。ゆっくりとね、ちょっと、膝を伸ばし加減にして、足の裏、全体で地面に着くように歩くといいよ」
幸は笑うと、タコ焼きとお好み焼きの袋を開けた。
「いっぱい買ってきた、みんなで食べよう」


「大将、俺は感謝しているよ。幸が魚絃さんにお世話になってからさ、人見知りもなくなってね、本当にありがたいと思っている、でも、それだけは勘弁してくれないかな」
「先生、なにもたいしたことじゃなくてさ、商店街で作るポスターのまんなか、幸ちゃんに大きく笑顔で写ってくれればいいんだけなんだ」
男は困ったように笑顔を浮かべた。
「少しばかり事情があってね、幸を写真とかにね、写されたくないんだよ」
魚絃は腹を括ったように男を睨んだ。
「それは先生のエゴってもんじゃないかい」
「いや、事情があるんだよ、簡単に話せるような理由ならいいんだけど、詳しいこと、言うわけにいかないんだよ」
「みんな言ってるぜ」
「何をかな」
「先生が幸ちゃんを溺愛して、無理やり、そのなんだ、男と女の関係を作って、幸ちゃんを苦しめているってな」
「ん・・・、それは誤解だ。確かに大切な娘だからさ、愛しているって言っても間違いじゃないけどね。それは噂や妄想が一人歩きしているだけだよ。幸が働いていてさ、そんな陰があるかい、無理強いされてそうに見えるかな」
「それは・・・」
「頭下げるよ、今回の話はなかったことにしてくれよ。頼むからさ」
「こっちこそ頼むよ、先生。俺ら、もう決めたんだ、これで行こうってな」
いつの間にか、商店街の男たちが男と魚絃を中心に車座にすわっていた。
「息子が大学へ行くんだ」
魚絃の隣り、金物屋。
「大学のな、入学金がいるんだ、もうけなきゃならないんだよ。あの子が商店街に来てから売上があがってんだ。なんとか、ここでどんと儲けたいんだよ」
後ろからパン屋。
「近くにできたスーパーから客を取り戻すんだ、そのためにはポスター作って、幸ちゃんに商店街のテーマソングを歌ってもらうんだ」
男は小さく溜息をつく。
魚絃が駄目押しに、男に言った。
「商店街で先生に帳簿つけてもらっているのは、俺んちも含めて半分以上だ。それがなくなったら先生も辛いんじゃないかい」
男は寂しそうに笑うと立ち上がった。
「ここは引き下がらせてもらうよ」
男はブルーシートから出、靴を履いた。
「先生、わかってくれたのか」
魚絃が大声で言った。
「いや、明日にでもね、預かっていた書類、全部返すよ。俺は娘が最優先なんだ」
「馬鹿野郎」
罵声に、男は哀しそうな笑顔を浮かべ背を向けた。

「お父さん、どうだった」
幸が歯にアオノリを付けたまま、戻って来た男に話しかけた。
「予想どおりだった」
「そっか・・・。ごめんね、お父さん」
「あの、うちの亭主、先生に失礼なこと言ってなかったかな」
「ん、大丈夫だよ、佳奈さん。なんだかな、幸も佳奈さんも歯にアオノリがついている」
男はくすぐったそうに笑った。
「や、やだっ」
あわてて幸はお茶を飲んだ。
「先生、まぁ座りなよ」
「いえ、今日はこれでお暇します、急ぎの用事ができたものですから。幸、膝はどうだった」
「膝の半月板修正と軟骨の増強、母さん、普通に歩けるよ」
「それは上々」
男は笑うと背を向けた。幸はあたふたと靴を履き、男にしたがった。
「それじゃね、佳奈姉さん、後片付けお願い。母さんも気を付けてね」
幸はにっと笑いかけると、男を追って駆け出した。
二人の姿が人込みに紛れ消えて行く。
「先生って何者なんだい」
女主人が呟いた。
「え・・・」
「まるで普通の人間じゃないように見えた」
「へんなこと言わないでくださいよ」
「初めてだ、先生の後ろ姿が透けて見えたような気がしたんだ」
「そんなことあるわけないじゃないですか」
「そ、そうだね」
女主人は落ち着こうと、お茶を飲む。
「は、あれ、あたしゃ惚けちまったのかい」
女主人が叫んだ。
「佳奈ちゃん、先生の名前、名字はなんていったっけ」
「え、それは、それは・・・」
佳奈は自分も男の名が思い浮かばずにいるのに気が付いた。何だったろう、事務所の看板を思い出してみる、封筒に印刷された名前を思い出そうとする、下の会計事務所は思い出せるのに、どうしてだろう、始めから知らなかったかのように、男の名字が思い出せない。
「叔母さん、先生のとこ、行って来ます」
「なんだか変だ、頼んだよ」
「はいっ」
佳奈はあたふたと靴を履くと駆け出した。公園を飛び出す、公園の入り口には何件もの屋台が並んでいる。
辺りを見渡す、たくさんの人だ。
とにかく、先生ちへ行こう。
しかし、佳奈は立ちすくんでしまった。そして、力が抜けたように、膝をついて、しゃがみこんでしまったのだった。
「先生ち、何処だったろう」
呟いた。なんで、先生のとこ、思い出せないんだ、今まで、幸ちゃんと先生ちでお茶を飲んだり、それから書類の控えを持って行ったりしていた、道が分からないなんて、そんなことあるはずないのに。
佳奈は人目もはばからず叫んだ。
「先生、幸ちゃん」
「どうしたの、佳奈姉さん」
振り返ると、幸が両手に屋台で買ったお好み焼きの袋を持って立っていた。
「あ、あの、あのね」
「あ、姉さん、涙出てるよ、もう、しょうがないなぁ。お父さんは徹夜で書類を仕上げなきゃって帰っちゃったし、幸はさ、晩ごはん用にお好み焼き買ってたんだ。」
幸は少しかがむと、佳奈の目許を袖で拭った。
「佳奈姉さんは大人なのに迷子だ」
幸は笑顔を浮かべると、佳奈を立たせた。
「先生の家が分からなくなった」
「それはしょうがない。お父さんは幸を守るために、商店街の人達との十年間の縁とこれから先を切ってしまった、幸は、まだ佳奈姉さんや母さんと縁が繋がっているから、こうして会えるし、お喋りもできる」
幸は寂しそうに笑みを浮かべた。
「佳奈姉さん、お父さんの家を思い出そうとするのじゃなく、幸の家を、幸の家の場所を思い出そうとしてごらん」
佳奈がほっとした顔をする。
「思い出せたみたいだね。しばらくはあの家にいるから、佳奈姉さん、遊びに来て。楽しみにしているから」
幸が歩きだそうとするのを、佳奈は両手でしっかりと止どめた。
「お願い、幸ちゃん。これじゃ、納得できないよ」
「困った・・・」
幸は背を向けたまま呟いた。
「場所を替えよう」
そう幸が呟いた途端、人の姿がすべて消え、全くの無音となる。取り残されたように屋台だけが立ち並ぶ。
「ここは」
「違う次元の世界、この世界には佳奈姉さんと幸の二人っきりだ。誰も聞き耳を立てる奴はいないから安心なんだ」
幸は屋台に設えられた丸椅子に座る、両手の袋を屋台の軒先に置いた。
「佳奈姉さん、お喋りしよう、隣り、どうぞ」
幸が優しく笑みを浮かべる、佳奈はほっとしたように幸の隣りに座った。
「すべて話すかな、でも何から話せば良いのかな」
幸は少しうつむいた。
「そうだね、幸のこと、そして、幸とお父さんの関係から話ししてみるか」
「幸ちゃんのこと」
「うん、正直に話すよ」
「ありがと」
佳奈が呟いた。
「佳奈さんは人の心を聞く。例えばね、誰もいないのに、いないはずなのに声が聞こえたことはないかな」
「今はほとんど無いけど、子供の頃は多かった」
「手を見せてみて」
幸は囁くと、佳奈の手を取り、手首を見る。
「守髪(もりがみ)が入っている。これはお父さんの父親の髪だ、縁があるのかな」
幸は自分の髪を一本抜くと、佳奈の手首に巻く。その髪は手首の中に融けるようにして消えてしまった。
「覚えているかな、子供の頃、男の人にこんなふうに手首に髪を巻いてもらったこと」
「そうだ・・・、思い出した、小学生の頃、法螺貝持ったしゅけんじゃ。いきなり目の前にやって来て、自分の髪の毛を抜いて、あたしの手首に巻いた」
佳奈はそっと笑みを浮かべた。
「もう大丈夫だよって言って、そのまま去って行ったんだ」
「佳奈姉さん、良かったね。幸はさ、出会えなかったんだ、そういう人に」
幸は笑みを浮かべると、視線を外し少し俯いた。
「声の主は、妖怪、あやかし、魔物、或いは祟り神と呼ばれている奴らだ。声を聞いてしまえば引かれて食われてしまうよ」
「本当にいるの、そういうの」
「いる、でも、佳奈姉さんは大丈夫だ。幸の守髪はそんな奴らを微塵も寄せ付けない」
にっと笑うと幸は佳奈の手を握った。
「あたしのいたところは・・・、ううん、幸のいたところは迷信深いところでね、祟り神を畏れ敬っていた。幸は霊媒体質で、心の声も聞く、ついでに随分と美人だ、きっと神様もご満足いただけるだろうと人身御供、生け贄にされたんだ。」
「そんなことが今でも・・・」
「百年以上昔の話さ。あたしは祟り神の腹の中で百年、生きていた、つまりもう人間じゃなくなっていた。あたしは祟り神に使役されていた、男を女の魅力で引き込んで、そいつを祟り神に食わせる、餌みたいなものだ」
幸は佳奈から手を離すと、空をぎゅっと睨みつけた。
「そんなことが本当にあるの」
「現実を一歩踏み違えて、穴に落ち込んだら、そういう奴らが口を開けて待っているのさ」
幸はふっと息を漏らすと佳奈に笑いかけた。
「信じてくれる、佳奈姉さん」
「信じるよ、第一、こんなさっきまでたくさんの人達がいたはずの桜の公園が、本当に今、幸ちゃんと二人っきりになっているんだから」
「ありがと」
幸は小さくふふっと笑うと嬉しそうに言った。
「お父さんに会ったのは、およそ二年前。いつものように男を引き込み、体売って、祟り神に食わせる餌になって、そう、いつものように・・・」
「お父さん、違ったんだ。あたしが裸でベッドにいるんだぜ、どんな男でも理性なくしてむしゃぶりついてきた。でも、お父さんは世間話をするんだ。そして、祟り神が正体を現わした時、あっけないくらいあっさりと、奴を退治して、あたしを助け出してくれたんだ」
「でもね、あたしは既に人間じゃない、奴と一心同体みたいなものだった、だから、あたしも死んでいくしかなかったんだ」
「そのとき、お父さん、こう言ってくれたんだ。生きることを選びなさい、私の命を半分あげようってね」
幸は呟くように言うと、自分の手のひらを見つめた。
「この体も血も命も、お父さんに半分分けていただいたもの。この体にはお父さんと同じ血が流れているんだ」
「だから、幸ちゃんはお父さんが好きなの」
「それもある、でも、本当に女としてあの人に惚れたんだ。もう、あたしには親も姉弟もいなかった、救い出してもらっても行くところなんかなかった。あの人 はそれなら私のところに来なさい。年齢的にも親娘でいいでしょうって言ってくれた。あたし、今なら妻にしてくださいって言ってたかもしれない」
「一緒に暮らすようになってね、幸せになりなさいという思いを込めて、お父さんはあたしに幸という名前をくれたんだ」
「普段の先生からは想像がつかないよ」
「そうだよね、お父さん、もっとかっこいいとこ、外に出したらいいのに。地味で正直が一番楽って言ってるんだから」
幸は少し声を出して笑う、とても幸せそうな声だった。
「ただ、お父さんにはとても迷惑かけた。佳奈姉さんに初めて声をかけてもらった時」
「背中向けてうずくまってたね」
「大きな声がとても怖かったんだ、だから、佳奈姉さんに声をかけてもらってとても嬉しかった」
佳奈が照れ臭そうに笑う、まるで少女のような幼い笑みだった。
「お父さんのところに来た頃、いつもはね、人が怖くてね、おとなしくしているけど、たまに、なんだか不安で一杯になって、もうわけ分からなくなって、大声 あげて意味の分からないこと喚き出したり、障子やふすまを破ったり、硝子割ったりもした。もう、自分自身がどうしようもなくなるんだ、そして最後には部屋 の隅でうずくまってぶるぶる震える」
「お父さん、一度も怒ったことないんだ、抱き締めてくれて一緒に泣いてくれるんだ、もう大丈夫だよ、ここは幸の場所だ、安心していいんだよって、繰り返し 言ってくれる。そして、こんなこと言うんだよ。棚がつぶれたりして大変だなぁって思うけど、板買って来て、こう、鋸で切る、その時、幸が板の片方をしっか り押さえてくれているの見ると、親子っぽくっていいなぁなんて」
「そう、嬉しそうに言ってくれる、幸の心はとろとろになる。あぁ、もう、お父さん、大好きって思ってしまうんだ」

「ただ・・・」
幸は微かに視線を落とした。
「お父さんは自分が死んだ後のことを考える、幸が一人でも生きて行けるように考える、お父さんは凄い武術使いで、映画に出て来るような魔法使いだ。お父さ んは全ての術を幸に教えてくれた。どんな敵にも勝てるように。そして、たくさんの友達が出きるようにも考えてくれた、佳奈姉さんにこうしてお喋り出きるの もそうだし、いろんな友達や知り合いもできた、幸一人じゃ、到底できなかった」

幸はふっと顔を上げ佳奈に言った。
「幸はとても美人だろう、性格はともかく」
「うん、見れば見るほど完璧な美人だと思う、性格は・・・、だけど」
「微妙な言い回し、ありがと。でもね、結局は、美人ってのが問題なんだ。この美人ということで、神様が喜ぶだろうと生け贄にされた、そして、今は商店街の男達が売り上げ向上を狙って幸を御輿に載せようとする」
「亭主もその話になると眼の色変わっていた。何考えているんだ、こいつって思ったよ」
「幸は一度魔物にさらわれた身だ、魔物を引き込みやすい体質になってしまっている、その上、そんな思いが膨れあがっていくと、いろんな妖しい奴らが近づい てくる。いろんな面倒ごと、不可思議なことが増えていく、その内、みんな頭が固まってしまって、もう助かるにはこれしかないって幸は妙な神様に捧げられて しまうのさ」
幸は沈んだ表情になると少し猫背になり頬杖をつく。そして、ひたすら前方を見つめた。
「顔に傷をつければ、こんなことはなくなるだろう。ざっくりと頬にでも切り傷をつければいい」
佳奈は幸の沈んだ声に驚いた、幸の表情を長い髪が隠している。
「でも、この体はお父さんにいただいたもの、この体には絶対に傷をつけない」
ふっと幸は背伸びをすると大きく深呼吸をした。
幸は佳奈に笑顔を向けた。
「佳奈姉さんにはとっても大切にしてもらった、幸のこと、気にかけていただいた。だから、幸のこと正直に話したんだ」
「どう、答えればいいかわからないよ。話が重すぎて」
佳奈はひとつ溜息をつくと、幸を見つめた。
「お姉さん、幸ちゃんの頭、なでて上げるよ」
「うん、ありがと」
佳奈が幸の頭をなでる。
「幸ちゃんはえらいよ、がんばった」
「うふふ。頭、撫でられるの好き」
そして、幸は立ち上がると佳奈の後ろに立ち、そっと佳奈の頭を撫でる。
「気持ちいいでしょ」
「いいね、気持ち良い」
「佳奈姉さん、今回のことで、大将たち男を怒っちゃだめだよ」
「殴ってやろうかと思う」
「それはだめ。もともと男なんてガキで我が儘な種族なのさ」
「先生も」
「お父さんは別、だって、幸のお父さんだもの」
佳奈は愉快に笑った。
「あ、お父さん、引き返して来た。元の世界に戻るよ」
その一言で、二人の回りにはたくさんの人達が行き交う公園入り口の前に世界は姿を替えた。

「お父さーん」
幸が男に声をかける、男は笑顔で手を振った。
「遅いからどうしたのかと思った」
「幸が襲われたと思った、誘拐されたって思った」
「いや、幸が誰かを襲ってんじゃないかとひやひやした」
「わっ、ひどいな、それ。幸は優しい女の子なのにさ」
幸が佳奈に同意を求める。
「幸ちゃんはかわいい、かわいい」
「感情がこもってないよ」
佳奈が愉快に笑う。
「ほんと、良い子だ」
男がすまなそうに笑った。
「佳奈さんには迷惑かけて申し訳ない」
「本当に男ってのはどうしようもないバカタレだよ」
「はは、返す言葉がないよ」
「先生、聞きたいんだけどさ」
「なんだい」
「あたしらは友達かい」
「ああ、共通の特技を持つ友達だ」
「これからもかい」
男は柔らかく笑顔を浮かべた。
「もちろん、これからもね」
「安心した、これが一番の安心だよ。先生は嘘だけはつかないからさ」
男がくすぐったそうに笑う。
「いい人だよ、佳奈さんは」
男がそっと幸の頭に手をやる。
「佳奈さん。幸は佳奈さんを本当に自分の姉のように慕っている、これも縁というやつなのかな。我が儘なところもあるだろうけど、これからもよろしく頼むよ」
「ええっ、幸は我が儘じゃないよ。自分の意見を優先するだけさ」
「楽しい妹だ。飽きないねぇ」
「それじゃ、佳奈さん、帰るよ」
「母さんも一緒に来てね、仲間はずれにすると叱られちゃうよ」
「ああ、そうするよ」
佳奈は小さく溜息をつき笑顔を浮かべた。
男が少し会釈をする、背を向けようとしたとき、佳奈は思いだしたように言った。
「先生」
「ん・・・」
「あのさ、言いにくいんだけどさ・・・、怒らないでよ。先生の名字や名前なんだったけ」
「うわ、ひどいなぁ。十年以上のつきあいだよってね」
男はポケットから名刺入れを取り出し、ペンで名前を書き込んだ。
幸がその名刺を取ると、佳奈に手渡した。
「由緒のありそうな名字に名前だ、似合わないね」
「ああ、だから、誰にも教えなかったのさ。初めて人に教えたよ」
「えっ・・・」
佳奈が顔を上げた瞬間、男の姿がふいっと薄れそのまま消えてしまった。
「本当にお父さん、魔法使いでしょう。恥ずかしがり屋のね」
「うわぁ、面白いねぇ」
「それじゃあね、必ずだよ」
「ああ、明日にでも行くよ」
「楽しみにしてる」
幸は一瞬、寂しそうな表情を浮かべたが、にっと笑うと手を振り駆けだした。
幸の姿が人影に消えるまで佳奈はそのまま見送る。
ふいに佳奈はしゃがみこむと、小さく溜息を漏らした。
先生や幸ちゃんと行くのもありなのかなぁ、そんなふうにも思う。
でも、子供の顔を思い浮かべると、あいつらをしっかり育てなきゃって思うし、蹴っ飛ばしてやろうかという亭主だけど、あれでいいとこもある。
あ・・・、泣いているのかなぁ、涙出ていないのに。
「どうだったい、佳奈ちゃん」
「あ、おばさん」
女主人が駆け寄って来た。
「遅いからどうしたんだと思ってね」
佳奈は立ち上がると、少し笑った。
「幸ちゃんが明日、遊びに来てって言ってましたよ」
「そうか、会えたかい。良かった」
「本当に膝、大丈夫になったんですね」
「前より調子いいくらいさ。ん・・・」
女主人が佳奈の顔をのぞき込む。
「泣いてんのかい」
佳奈はなにも言わず、女主人にしがみつくと小さく小さく泣きだした。
おとうさん
ん、どうしました
幸はなんだか割り切れない複雑な気持ちだ、こんな変な気持ち初めてだよ
哀しいとか、楽しいとかね、人の気持ちってのは、そんな単純に表すことはできない
哀しくて楽しかったり、相反する気持ちがいろいろ混ざり合って人は苦しむ
つまりは、幸が一人の人として成長したってことだ
人になるっていいことばかりじゃないね
そうさ、でも・・・。本当に嬉しいなぁってこともあるからさ、たまにはね。
9
最終更新日 : 2013-05-11 21:27:11

異形 流堰迷子は天へと落ちていく一話

瀟洒なホテルのラウンジ、碧のドレスを見に纏った女が一人、カウンターにいた。深い海の色をしたカクテルを前に、物憂げに頬杖をついている。
若い男が一人、何げない仕草で女の隣に座った。
「君の瞳はどうして虚ろなんだい」
女はふっと顔を男に向けた。
赤くひいた唇が妖艶な気配を漂わせる美しい女だった。
「好きな男が席を外している、それだけのこと」
「君みたいな素敵な女の子を独りにしておくなんて信じられないな」
女は吐息を漏らすと、男を軽く睨んだ。
「そこさ、あたしの待ち人の席なんだ。外してくれないかな」
「どう、俺と夜を楽しまないかい」
女は初めてにっと笑った。
「我が儘な奴だなぁ」
「男は永遠に少年なのさ、欲しいものはどうしても欲しい」
女は引き込むように笑みを浮かべると囁いた。
「そんな我儘ばかり言ってると、君を食べちゃうぞ」
にいいぃっと、女は笑う、八重歯が白く輝いた。
瞬間、魂が抜けたように若い男が固まってしまった。

「少子化に拍車をかけてしまいました」
「いいのさ、お父さん。こういう女の敵は去勢しておかなきゃね」
幸は平気な顔して、戻ってきた男に笑いかけた。
男は幸の隣に座る若い男の頭を軽くぽんぽんと叩き、話しかけた。
「ここでのことはすべて忘れなさい。そして、ドアを開けて出て行きなさいな」
若い男は無表情のまま、操り人形のように立ち上がるとすたすたと歩いて出て行った。
「ふっ、命冥加な奴」
「何言ってんだか、思いっきり悪役の台詞だよ」

男は椅子に座ると、幸のカクテルを見つめた。
「素敵な色だね、海の奥底から空を見上げればこんな色なのかもしれないな」
「お父さんの気障は許してあげます、天然だから」
「思ったことを言っただけのこと」
幸はにっと笑うと顔を寄せた。
「何飲む」
「こういうところで烏龍茶とかいうと叱られるのかな」
「大丈夫じゃないかな」
幸はバーテンに声をかけた。
「烏龍茶をお願いします」
バーテンは表情を変える事なく、烏龍茶の小瓶を取り出すと、グラスに継ぎ、男の前に置いた。
男が一口飲む。
「お茶は美味しいな」
幸はくすぐったそうに笑うとカクテルを飲む。
「なんだか、幸はとても御機嫌だな」
「そりゃそうだよ。贅沢晩ご飯だよ、一カ月分の食費を一晩で食べるなんて信じられないよ」
「いいじゃないか、一年が13カ月あると思えば良いだけのこと」
「なるほど。今晩だけはその考え方に賛成します、でも、残りの30日はお水だけです、ふふっ。とにかく、旅の最後の晩、最後くらいは贅沢と思ったけど、男 の人の金銭感覚はだめだ、明日から幸がしっかり倹約を教えてあげるよ。このドレスだって、ハイヒールだって、値札一桁間違えているのかと思ったよ」
「でも、幸に似合っているよ。その唇もとても素敵だ」
幸が恥ずかしそうに笑う、まるで子供のようなあどけない笑みを浮かべる。
「冒険して思いっきり赤いのにしたんだ。ね、お父さん」
「ん」
「幸、この一年で背が伸びたよ。ハイヒール履いたら目の高さ、お父さんと同じだもの」
「そういえば、顔付きもちょっと大人びた感じがする」
「幸はいい女になりましたか」
「とってもいい女になりました」
幸は足をばたつかせながら、にひひっと笑う。
「そういうとこは子供だ」
「だって嬉しいんだもの」
男は笑うと、立ち上がり、支払いを済ませた。
「そろそろ行こうか」
「うん」
立ち上がった途端、幸はバランスを崩し男にしがみつく。
「酔ったかな」
「うん、足がなんだか軽い。でも、ハイヒールって初めてだからそれもあるよ」
男は笑うと、幸の腰に手を回し、そのまま、すっと2センチほど、腕全体をあげる。
「これでいいかな」
「えへへ。体が浮いて、楽ちんです」
男は少し笑うと、もう片方の手でドアを開けた。


男は夜の住宅街を幸を背負って歩いていた。慣れないハイヒールに幸が音を上げたからだった。
「ごめんなさい、お父さん」
「ん、いいよ。父さん、気づいてやれずにごめんな、足、痛かったろうに」
幸は両手を男の首に廻すと、そっと頬を寄せた。
「お父さんは幸のためにいっぱい頑張ってくれる、幸はそんなお父さんに一体どれほどのものを返せば良いんだろう」
「そうだなぁ、多分、父さんは幸が居てくれないと、何もせずにそのまま部屋の隅で衰弱死してミイラになってしまいます、だから、父さんを捨てないでください」
男はくすぐったそうに笑った。
「幸もお父さんが居なくなったら、狂ってしまうよ。そして全世界を破滅に導いてしまうと思う」
「世界平和のために一緒にいなきゃな」
「うん」
幸が幸せそうに笑った。
「お父さんは、酔うと子供みたいにかわいいくなるなぁ」
「そして、酔いが醒めると年甲斐もないことを喋ってしまったと考え込んでしまう」
男は言葉を繋ぐと少し息を漏らす。
「父さんの個性と思ってください。父さんさ、最初、頑張って幸をしっかり育てなきゃって思ったけど、あぁ、ちょっと違うんだって気づいたな」
「どう違うの」
「幸は事の善し悪しをしっかり自分で考えることができる。父さんが頑張って幸を立派な人間に育てようなんて思わなくても、ちゃんと育ってくれている、父さんが幸に育てられているくらいだ」
「それはお父さんがいてくれるからだよ」
「娘にそんなふうに言ってもらえるなんて、父さんは幸せだ。・・・ん、ちょっと饒舌になってる、まだ、食前酒が残っているのかな」
「酔ってるお父さんも好きだよ」
「ありがと」
男はそっと笑顔を浮かべた。
あの角を曲がれば、家が見えてくる。一年間、留守にした家だ。
「お父さん」
「ん」
「家なかったらどうしよう」
「それは困るな」
「ね、もう一度、旅に出ようか」
「タコ焼き屋さんとクレープやりながらか」
「うん。車の中はとっても狭かったけど、ぴたっとお父さんに引っ付いていて楽しかった」
「そうだな、車屋さんから、車を返してもらって、貸倉庫にいれた荷物を出して」
「今度は南へ行こうか、お父さん」
「次は日本を出てみたいな」
「何処行く」
「スペインに行ってみたいな、夕日に染まる宮殿を見てみたい」
「それじゃ、幸はスペイン語勉強するよ」
「楽しみだ。でも、本当は」
「ほんとは」
「居間で大の字になって寝そべりたい気分である」
幸は男の背中で笑うとぎゅっと頬を寄せた。
「その気持ち、とっても分かるよ、お父さん」

漆黒の闇の中、二人の家が一年ぶりの男と幸を出迎えていた。
「あったね、でも、他人の家みたいだ」
「家は生きている、いまは仮死状態みたいなものだよ」
男は幸を背負ったまま、門を入ると配電盤のブレーカーを戻す。門柱のあかりが灯った。
そして、幸が男の背中から手を伸ばし、鍵を解錠した、玄関の戸を開く。
一歩、足を踏み入れあかりを灯した。静かに家は息を吹き返し、二人はやっと自宅に戻って来たと感じることができた。
「降ろすよ」
「うん」
幸はやっと男の背中から降りると玄関の廊下に立った。廊下が一面、白い粉を被ったようになっていた。
「うひゃあ、埃だらけだよ」
「一年ってすごいな」
幸はぱたぱたと台所へ駆け込むと、絞ったぞうきんを持って来た。そして廊下を拭いて行く。
「お父さん、拭いたところを歩いて」
「ありがとう」
男が靴を脱ぎ、廊下を歩く。
「お父さん、今晩は廊下と居間だけでも掃除をするよ。お父さんは座ってて」
「大丈夫、箒で掃いて行くよ。それより、幸、ドレスは脱ぎなさい、碧が灰色になってしまうぞ」
「うわっ、大変だ」
幸は男に背を向ける、男は背中のチャックを降ろした。
「ありがと」
幸がその場でドレスを脱ぎ出す、その姿は少し大人びた、非のうちどころのない理想的な体型だった。
男が慌てて、目を瞑り背中を向けた。
「お父さん、意識した」
ドレスを脱ぎ、下着になった幸が笑う。
「ガーターに網タイツがとっても蠱惑的だよ、それにこの赤い唇、お父さんに赤い印をつけてあげよう。」
「早く何か着なさい」
男が背を向けたまま言う。
幸は男の背中に体を寄せると、耳元で囁く。
「お父様、幸、とっても体が熱いの、お父様の体で冷やして欲しいよ」
そっと幸が左手で男の胸を、右の手のひらで男の臍を服の上から押さえる。
「熱いのなら風邪薬を飲んで寝なさい」
「風邪薬じゃ、この体の火照りは収まらない、お父様が抱いてくれなきゃ」
幸の右手の爪先がそっと下へ向く。
「お父様だって、ほら、首筋汗が出て来ているよ、ね、お父様」
「ええっと。早く着替えてきなさいっ」
「はぁい」
幸が笑いながら、箪笥へ服を取りに行く、男は疲れたように、そのまま座り込んでしまった。
絶対の信頼を幸は俺に抱いてくれている、その信頼を損なうことは俺にはできない。
硝子戸を開ける、隣りの塀が視界を遮っていた。
しかし、外からの風が心地いい。

「お父さん・・・」
男が振り返ると、普段着に着替え、化粧を落とした幸が青い顔をして立ちすくしていた。
「それじゃ、箒で埃を外に、ん、どうしました」
「幸はえっちじゃないよ、えっちじゃない。ごめんなさい、お父さん」
「さっきのことか」
「洗面所で化粧を落としたら、恥ずかしくなったんだ、おとうさん、幸を嫌いにならないで」
男は柔らかに笑みを浮かべる。
「色んな幸がいて、父さんはどきどきしたり、わくわくしたり、あたまかかえたりで大変だ。でも、それはとっても楽しいこと。楽しいと思えるのは幸が大好きだからだよ」
男が手を差しだした。
幸が男の胸に飛び込んだ。
「ごほっ」
幸が咳き込む。男がそっと幸の背中をさすった。
「埃だらけのところに走りだすんだから」
「だって」
「さ、立ちなさい、この部屋、掃除しなきゃ寝るところがない」
男は幸を立たせると、箒を持って部屋を掃きだした。
「お父さん、庭がない」
幸が叫んだ。庭には幸が畑を作り、その向こうには梅林が続いていたはずが、すぐそこに隣りのブロック塀が見えていた。
「幸、気づくのが遅すぎるよ」
「まさか、思いもしなかったんだもの」
「一晩過ぎれば元に戻るさ。この家とあの空間は父さんの存在が鍵になって繋がっていた、一年の間にそれが切れてしまっただけ。戻って来たから、また、繋がるよ。幸の畑がどんなふうになっているかはわからないけどね」
「良かった・・・」
ほっとした顔で幸は、男の掃いた後から、固く絞った雑巾で畳を拭いて行く。
一通り部屋の掃除を済ませると箒を片付ける。幸はお茶を沸かしに台所へと行った。

久しぶりだな、親父。隣りの塀が見えるなんて。ここへ二人で来た頃のことを思い出すよ。
男が小さく呟く。十代半ばの頃のこと、男は目を瞑り思い出していた。
親父や祖父さんは幸の力をみずち家に取り込もうと捜していた。善意じゃない、幸と子供を為すことで、巨大な才能を持った後継者を得ようとしたからだ。でもさ、人の世にそんな力を持った存在はいらない、危険なだけだよ。
「お父さん、お茶入ったよ」
「ん、ありがとう」
男は湯飲みを取ると一口飲んだ。
「幸のお茶はとっても美味しいです」
「普通に入れているだけだよ」
幸が照れくさそうに笑った。
「ね、お父さん」
「ん」
「唐突だけどね」
「なにかな」
「鶏を飼おう、それと、山羊も。本当は牛だけど、なんだか大きくて大変そうだから山羊」
「いきなり・・・。さすがにびっくりした」
男は笑うと湯飲みをお盆に戻した
「新鮮な卵を食べることができそうだね」
「あのね、幸は自給自足がしたいんだ、旅の中でずっと思っていた。色んな人達と旅の中で関わって楽しかったけど。だけど・・・、ちょっと疲れた」
「自給自足か、そういうのもありかもしれないね」
「でも、仕事しなきゃだし、どうしよう。もう一度、会計事務所を始める」
「お客さん、譲ってしまったからね。譲った友人の会計事務所にアルバイトでって話はしていたけど、どうかな、一年も経つからさ」
「ね、ここでお総菜と喫茶店をやろう、事務所にテーブルと椅子をおいて。中古なら安くであるよ」
「でも、幸は人と会うのが」
「幸は牛乳と卵と野菜をお店に納品する業者さんになります。新鮮な卵や野菜を取り揃えてますよ」
男はくすぐったそうに笑った。
「楽しいだろうね。でも、それじゃ、父さんが喫茶店のオーナーになるのか。接客業できるかな」
「大丈夫だよ、この一年間でお父さん、随分、愛想笑いができるようになりました」
「ん・・・、父さん的には悩みどころだ。でも、面白いかもしれないな」

幸は立ち上がると、昨年のカレンダー、四月を切り取り、裏向けて畳の上に広げる、そして、俯せに寝転んだ。
「お父さん、横」
「え、あぁ、うん」
男も横に寝そべると、カレンダーの裏、白い紙を眺める。

「ここは、住宅街だからね、近所の人達をお客様にしなければなりません」
幸が鉛筆で「住宅街」と書き、丸で囲む。
「そしてこの辺りの人達は佳奈姉さんのいる商店街か、その隣りのスーパーへ買い物に行きます。幸い、ほとんどの人が自転車か歩いて行きます」
「そうだね、車で行く人は少ないな、大きな買い物をする時くらいかな」
「そう、だから、歩いて帰る人達に、ちょっと寄り道してもらえるようなお店にするのです」
幸はにっと笑うと、お店を正面から見た絵を書きだした。
「何を売ろうかな」
「商店街やスーパーに売っているのと同じものは買ってくれないだろうな」
「そうだよね、今はたいていのもの、売っているからなぁ」
男は真剣に考えている幸の表情が見ているだけで楽しく思えたがふと呟いた。
「専門店を考えたら」
「専門店、そうだ、オーガニックとか自然派とか、あんまりうさん臭くない程度で」
「そういえばハーブが随分育ったね」
「お父さん、ハーブティーを喫茶店で出そう、そして、ハーブティーのブレンドも販売する。」
「なら、お総菜も無農薬とかの路線かな」
「うん、幸、頑張って無農薬で野菜を作るよ。えっと、献立はどうしよう」
「たくさんの献立を毎回考えるのは大変だな」
「それじゃローテーション。季節ごとに」
「なら、半月で回転させる、つまり十五品、これと季節で、六十品目を回して行こうか、それくらいならなんとかなりそうだな。ただ、位置付けだな」
「位置づけって」
「いくつかあるおかずの一つになるか、これひとつでおかずになるか」
「うーん、値段帯をスーパーのと同じにするなら」
「お総菜は一種類だけ、量は一回の食事分、この住宅街はお年寄りの二人暮らしが多いからね、それを念頭に置く。売れ残ったら、それ食べなきゃならないから、あんまりたくさんは作れない」
「お総菜は三百円までにしよう、お父さん、パックとかさ、入れ物っていくらくらいするんだろう」
「まとめて買えば、随分安いと思うよ。ただ、自然派を言うなら、量り売り、蓋のできる容器か、深目のお皿持ってきてくださいかな、パックも販売はしますけど、って姿勢になると思うよ」
「うん、なんだか説得力があるよ、その方が」
幸は絵の横にお総菜三百円(量り売り)と書き、その下にハーブティーと書き添えた。
「喫茶メニューはどうしよう、ハーブティーも何種類か用意しようかな」
「ハーブティーは種類が必要だな。食事は軌道に乗ってからかな。そうだ、最初はハーブティーにスコーンとかビスケットとか添えるくらいでいいかもしれないね」
「お父さん」
「ん」
「もう、明日から喫茶店できそうだよ」
「はは、それはちょっとね。保健所とか、お手洗いの設備とか、もっと煮詰めなきゃな」
幸はごろんと仰向けになると嬉しそうに笑った。
「なんだか、とっても楽しいよ、わくわくする」
男はふっと顔をあげ、窓から外を眺めた。
「幸、外を見てみなさい」
「あ、塀が無くなった」
「幸の作った畑はどうだ」
「うわぁ、随分と草が生えているよ。そうだ、お父さん、あの草は鶏の餌にしよう」
「そうだね、そして、浅蜊のおすましをいただいた翌日は」
「貝殻も砕いて、鶏の餌にする」
「よくできました」
男は笑うと体を起こした。
「もう遅いな。布団出そう」
「うん」
幸は素早く立ち上がると押し入れから布団を取り出す。
大きなナイロン袋に圧縮した布団。
「掃除機で、空気吸い込んでさ、お布団が薄くなったけど、重さは一緒なんだよね、なんか、不思議だ」
幸が袋から布団を出して行く。
「そういえばね、体積が小さくなると、なんとなく軽くなったような気がするんだけどね」
幸が布団を取りだし、敷いていく、二組の布団を寄せて敷いて行く。
「幸、ちょっと引っ付け過ぎ、もう少し離しなさい」
「だめだよ、お父さん。布団は夢を渡る舟、離してしまえば、夜の闇に離れ離れになってしまうよ」
「幸、その台詞、ずっと考えていたな」
「うふふ、妙に説得力があるでしょう、お願い、今晩だけはさ」
「まっ、いいよ。少しお酒が残っているのかな、眠たくて仕方が無い」
男は隣の部屋で寝間着に着替えると、部屋に戻って布団にもぐりこむ。
幸は布団の上でパジャマに着替えた。
「お父さんは幸が着替えるとき、目を瞑ってしまいます、どうしてですか」
幸も布団に潜り込み、にっと笑って男の顔をのぞき込む。
「これが父さんの幸への礼儀。幸は父さんにとって、とっても大事な人だから、大切にする、そのための礼儀」
「お父さんが、そう言ってくれるの、とっても嬉しい。だから、何度も訊ねてしまう」
「今度から、テープに吹き込んでおくから、それを聴いてください」
男が少し笑う。幸も楽しそうに笑った。
「お父さん、あかり消すよ」
「あぁ、お休み」
「お休みなさい」
幸は明かりを消し、布団に戻る。
闇の中、幸は男の顔をじっと見つめている、その瞳に一筋の涙が流れた。
「お父さん、ありがとう」

明け方近く、男は目を覚ました。まだ、辺りは暗い。
男はぐっすりと幸が寝ているのを見て、硝子戸を開けた。
朝の冷たい風が流れ込む、男は素早く部屋を出ると、硝子戸を閉め、縁台に座る。
梅林の遥かに向こう、ほんの少し空が白み始めていた。

梅林の修行場が、畑になり、今度は鶏を飼うと言う。なぁ、親父、なんだか想像つかないな、命を削ったこの修行場が、とっても和やかになる。でもな、俺はそ れがとても嬉しいんだ。武術や呪術は本家が伝承を続けて行けばいい。こんな力は幸の代で最後になるよ、本家もその方がありがたいだろう。
朝から、大掃除、そして、鶏小屋を考えなきゃならない、俺にとっても、その作業はとても楽しいことだ。

ふと、幸が目を覚ました。布団に男がいないことに気づき、慌てて立ち上がりかけたが、硝子戸の向こうに男の姿を見つけ、ほっと吐息を漏らす。
足を崩し、幸は掛け布団を抱き締め、男の背中を通して、男と同じ方向を見る、それだけのことが幸にはとても嬉しいことだった。男が幸の視線に気づき振り返る。
「寝ていなさい、まだ、早いからさ」
幸は笑みを浮かべ、人差し指で自分を指さし、そして、男の横を指さした。
男が笑って頷くのを見ると、幸はかけ布団を抱き締め、外に出た。そして男の横に座ると、掛け布団の端を男にかけ、もう片方を自分の背中にかける、包まるようにして男に寄り添う。
「お父さん、おはよう。今日、これが一番最初の幸の言葉」
「おはよう、幸。起こしてしまったかな」
「ううん。ね、お父さん、こうしていると野宿しているみたいだね」
「そうだな。ん、ほら、空の端、随分白くなってきた」
「一日が始まるね。お父さん、今日は大掃除の一日だ」
「大掃除か、大変だ」
「大丈夫、幸が全部するからさ」
「父さんも頑張るよ、旅でもそうだったけど、幸はなんだか頑張り過ぎ、体を壊さないか心配だ」
「幸はお父さんにいっぱい迷惑をかけている、お父さんの仕事もだめにしてしまった、そして、こうしてさ、お父さんの独りの時間も潰してしまっている」
「そうじゃないよ」
男は幸の頭をそっと撫でる。
「父さんは自分が幸せな方を選んだだけ、それだけのこと」
空全体が闇から薄青く移り変わり、遠く連なる梅林もその姿を現し始めた。
「さて、急いで大掃除をして、それから、鶏小屋を作ろう、基本は放し飼いの方がいいだろうけど、あっちこちで卵を産んだら探すの大変だ」
「大きいのがいいな」
「そうだな、いいのを作ろう、そうだ、幸は佳奈さんに帰ってきたこと連絡しておきなさい」
「そうするよ、また、楽しい日が始まる気がする」
幸は柔らかに笑みを浮かべた。
10
最終更新日 : 2013-05-11 21:27:11

異形 流堰迷子は天へと落ちていく二話 01

「母さんにも困ったもんだなぁ」
幸は笑うと、洋品店の女主人を布団から助け起こした。
旅から帰ったことを佳奈に報告した、その時、幸は佳奈から洋品店の女主人が寝込んでいると聞き、シャッターの裏側、店の奥の寝室へ女主人を見舞いに来たのだった。
幸は女主人を布団に座らせると、頭からゆっくりとマッサージを始めた。
「母さん、ちょっと痩せたね。礼子さんに心配させちゃだめだよ」
「あの子も学校が忙しいからね、あたしのことなんざ、気にもかけちゃいないよ」
娘が二人、次女は結婚して家を出たが、長女の礼子は、未婚で、女主人と一緒に暮らしているのだった、しかし、勤めている高校が忙しく、ほとんど、家にいることができずにいた。
「なるほど、子の心、親知らずってやつだ」
幸が、肩から背中へと摩っていく。
「どう、母さん」
「不思議だねぇ、幸ちゃんの触ってくれるところから、なんだか、元気になっていくようだよ」
「母さんはとくに病気でもなんでもない、まっ、流行りの鬱から体を動かさなくなって、筋肉が衰えて、って悪循環を起こしている。幸がいなくなって寂しかったの」
「幸ちゃんの憎まれ口聞けないのは確かに寂しかったね」
女主人がやっと笑った。
「笑ったね」
「あぁ、笑った」
「笑うのが一番だよ」
幸はほっと笑みを浮かべると、女主人をうつ伏せに寝かせ腰に触れる。
「母さん」
「なんだい」
「明日から一時間、母さんの時間をちょうだい」
「え・・・」
「散歩をしよう、一週間も歩けば、一年前のようになる。商売もできるようになるよ。自営業者は死ぬまでずっと働くのさ。ふふっ」
「難儀だねぇ。奴隷みたいなもんだ」
「人間、働いてなんぼ、これ、母さんが幸に教えてくれたんだよ。幸、珈琲をいれてくるよ」
幸は女主人を座椅子に座らせ、勝手知ったる台所へと向かった。


男は佳奈からの電話を受けていた。
「そうですね。私自身は関わることはできないけれど、幸の意志は一番に尊重する、いま、私に言えるのはそこまでかな。ええ、それでは」
男は電話を切ると溜息一つをつく。
そして呟く。あまり、お勧めではないな、と。

幸は裏口から商店街を抜け出すと、ほっと吐息を漏らした。幸は佳奈と女主人以外にはできるだけ会いたくなかったのだ。
一年前の事件の責、これの一因に自身の存在があったことを幸は認識していた。

幸は下水の上に並べられたセメントの蓋の上をとんとんと小走りに進む。
・・・お姉ちゃん・・・
ふと、幸は誰かに呼ばれた気がして振り返った。
「え、あかねちゃん」
振り返ると、あかねが笑顔で幸の後ろに立っていた。
「お姉ちゃん、さよなら」
「えっ」
幸があかねに手を伸ばしかけた瞬間、その姿がかき消すように消えてしまった。
「なに、これって・・・。ま、まさか・・・。うわぁぁぁっ」
幸は叫び声を上げた、そして、空を睨みつけると、その姿を消した。
マンションの一室、あかねは血を流し倒れていた、そして、その前には、血まみれの、大きな硝子の灰皿を掴んだあかねの父親が息荒く立っていた。
「悪魔め」
そう呟くと硝子の灰皿を両手で掴み直し、振り上げた。
「滅びろ」
マンションのドアが轟音と共に破裂した、
「であぁぁぁっ」
幸が灰皿を蹴り上げる、空中でガラスが弾け粉微塵になった、一転し、あかねの元に駆け寄っる。
「なんてことを」
幸はひざまずくと、両手であかねの頭を抱えた。
「お姉ちゃんが助けてあげるよ」
幸の両手があかねの頭に溶け込んで行く。
「お前も悪魔だな、ここから出て行け」
あかねの父親が転がっていた金属バッドを拾い、振り上げた。
幸が叫んだ。
「お父さんっ」
「ん、ここにいるよ」
男はあかねの父親を床にうつ伏せに押し倒していた。
「目に見える距離の瞬間移動は何度かやったこともあるけど、電車で一時間の距離を一瞬で跳ぶのは初めてだ、結構、きついな」
「ごめんなさい、お父さん」
「それよりあかねちゃんは」
「なんとかする、死なせない」
男は頷くと、改めて部屋を見渡した。
壁も床も血で赤く染まっている、そして、ごみ箱、押し潰したカップラーメンが山になっている。洗濯物も散らかっている、女物は見あたない。
「お父さん、大丈夫、修復出来た」
「意識はありますか」

「あかねちゃん」
幸があかねに語りかける。
あかねは微かに笑みを浮かべると小さく呟いた。
「お姉ちゃん」
大切な宝物のように、幸があかねを抱き締めた。
男はその様子を確認すると、幸に声をかけた。
「あかねちゃんを連れて帰りなさい」
「お父さんは」
「ちょっとね、お喋りしてから帰るよ。あとは任せなさい」
幸は頷くと、あかねを抱きかかえ立ち上がった。
「お父さん、お願いします」
男は笑みを浮かべ、頷いた。幸とあかねの姿がふっと消えた。
男は手を離し、テーブルの椅子に腰掛ける。
「さて、君の言い分をお聞きしましょうか、ゆっくり聴いてやるよ」


「服を脱がせるよ」
幸はそっと笑みを浮かべると、あかねの服を脱がせ、布団に寝かせつけた。あかねの体は至る所で赤黒く内出血をしていた、足の骨も折れている。どんなに痛 かっただろう、辛かっただろうと思うと、大声で叫びたくなる、しかし、幸は笑みを浮かべたまま、両手をあかねの体の中へと踊らせて行く、骨を繋ぎ、切れた 筋肉や血管も繋いで行く。
しばらくして、幸は両手を戻すと、額の汗を拭い、ほっと溜息をついた。
「あかねちゃん、痛いところ、あるかな」
「ううん、お姉ちゃん、ありがとう」
幸は笑みを浮かべ、あかねの頬をそっと触れる、そして、幸はあかねの手首を両手でそっと掴んだ。手首には幸が紡いだ守り髪が間違いなくある、あかねが幸に 助けを呼べば、どんなに離れていても、幸に声が届くはずだった。あかねちゃんは助けを呼ばなかったのか、と幸はいぶかしる。
「だって、あかねは悪魔だから滅びた方がいいんだもの」
「え・・・。あかねちゃん、お姉ちゃんの考えたことが分かるの」
「うん。お父さんは私は悪魔になったから滅ばなければならないって言うから」
「何言ってるの、あかねちゃんは人間だよ、心を読むくらい、ちょっと特技がある、それだけのことなんだよ、他の友達より、勉強が出来たり、走るのが速かったり、そんなのと同じことなんだよ」
幸はあかねの手を両手でしっかりと握った。


「君の言い分を一通り聴かせていただいた上で言うなら、君はどんなことがあっても娘の側に立つべきだったということかな」
「あんたら、いったい、何者なんだよ」
「うーん、君には言いたくないな。それよりね、そこの流しにタオルがあったろう、それ水で洗ってさ、堅く絞って、今から拭き掃除だ。俺がしっかり見守っててやるよ。君がその手で傷つけた君の娘の血を、同じその手で拭き取れ。でなきゃ、俺は君を殺すぜ」
笑みを浮かべたままの男の言葉は、その表情とは裏腹に、怒りがはちきれそうになっていた。

辺りが薄暗くなったころ、男は改札を出、家路へとついた。ふと、商店街入り口のタコ焼き屋に目が向く。
買って帰れば喜ぶかなとのぞき込んだ。
「いらっしゃい、いくつにします」
「そうだ、タコ焼きより、回転焼きの方がいいかな、回転焼きを6個で」
「へい、お待ちを。あれ、お客さん、あんた・・・」
「なんです」
「いや・・・、よく知っている人のように思えたんだけどなぁ」
「なかなか、商売上手ですね、昨日、越して来たばかりですよ、楽しいおやじさんだ、また、買いに来ますよ」
店のおやじは照れ笑いをし、そそくさと回転焼きを箱に積めた。男はお金を支払い、回転焼きを受け取ると、歩きだす。
そして呟いた。
俺も随分丸くなってしまったな、と。

「お父さん、お帰り」
「ただいま」
玄関口で幸がにっと笑った。男は玄関口に腰をかけると、紙袋を置く。
「あかねちゃんの着替え」
「あかねちゃんのお父さん、出してくれたの」
「当分、お嬢さんは私が預かりますってね、出してくれたっていうより、出させたって感じかな」
「詳しいことは後で話すよ、とにかく、当分の間、あかねちゃんはここで暮らします、幸、あんまり、いじめないようにね」
「ん・・・、多分、大丈夫だよ。基本は幸、優しい女の子だからさ、ん、お父さん、これ何」
「回転焼き、商店街の入り口で買った」
男は幸に回転焼きの包みを渡した。
「六個入ってる、ということは、あかねちゃんは小さいから二つ、幸は四つだな」
「え、父さんの分は」
「しょうがないなぁ、それじゃ幸の、半分、お父さんにあげるよぉ。ちゃんちゃん」
男はくすぐったそうに笑みを浮かべると、幸の頭をなでる。
「ありがと」
男が居間に入ると、布団にあかねが横になって寝ていた。男は枕元に座ると、あかねの顔をじっと見つめた。
「体の傷は直したよ」
「そうか・・・。ぐっすり眠っている」
「安心したみたい」
「晩ご飯まで寝かせてあげよう」
男は立ち上がると、硝子戸を開け、庭を見る。少し薄暗い。
「お父さん、なんだか、一日があっという間だった。昨日まで旅を続けていたのが夢のようだよ」
男が振り返る。
「本当にそうだな。佳奈さんやおばさんは元気にしてたかな」
「佳奈姉さんは元気、でも、母さんが寝込んでた。ちょっと鬱になって、体動かさなかったみたい。それでね」
「ん」
「幸、一週間、毎日一時間ね、母さんと散歩しようと思う、そう約束したんだ」
「そうだね、それが良いと、父さんも思うよ、ただ、気をつけなさい。佳奈さんとおばさん以外には姿を見せないようにね」
幸が寂しそうに笑みを浮かべると、小さく吐息を漏らした。
「男はどうして侵略しようってするんだろう。少しでも多くを得ようと企むんだろう、これくらいで良いかなって謙虚さがないんだろう」
「さあね、ただ、男は行き着くところまで突き進んで、壁にぶつかるまで、考えたり、我が身を振り返ったりできないようにできあがってしまっているんだろうね」
「お父さんもそうだった」
「父さんは・・・」
男は少し考える。
「簡単に人を殺せる力を身につけた、それからは謙虚っていうかな、意識して強く自制するようになったかな。それまでは・・・、秘密」
「ん・・・、男がお父さんみたいに優しい人ばかりになれば、世界は平和になるのかな」
男はくすぐったそうに笑った。
「父さん、幸には優しいかもしれないけど、他の人にはかなり冷酷かも」
「幸は特別ってこと」
「愛している人にはただただ優しくなってしまう、それだけの単純なこと。さて、晩ご飯の用意をするかな」
「お父さん、お願い、もう一度言って」
「晩ご飯の用意を」
「その前だよ、もぉ」
「冷酷かも、だったかな」
「ううっ、お父さんってば」
「大声出すと、あかねちゃん、起こしてしまうぞ」
男は笑うと、台所へと向かった。

炬燵布団を外した掘り炬燵にオムライスを並べた。幸はそっとあかねを起こすと、掘り炬燵に座らせる。
そして、にっと笑みを浮かべると、あかねの横に座った。
「一緒に食べよう」
あかねはそっと笑みを浮かべると、小さく、うんと呟いて頷いた。

夕食を終え、男の先にお風呂に入りなさいという言葉に、幸はあかねと風呂へ入る。男は後片付けをしながら、結局、あかねちゃんは、ほとんど喋らなかったなと思いかえした。今も彼女自身、自身のことに対して随分戸惑っているのだろう。
また、明日、考えよう。


朝、久しぶりに男は一人の部屋で起き、着替えていた。幸は、目立たないよう朝の早いうちに女主人のところへ出掛けたのだが、あかねはここに居たいと留守番になったのだった。
男が着替えて、居間に入ると、あかねは掘り炬燵に座り、開け放った硝子戸から外の風景を眺めていた。
「あかねちゃん、朝ごはんは食べましたか」
あかねは振り返ると、笑顔で頷いた。
「そっか、おじさんはだめでね、朝は珈琲しか飲まない、幸には体に悪いと叱られているんだけどね。横、いいかな」
あかねが頷くのを見て、男はあかねの斜め向かいに座った。
「お喋りしていいかな。昨日のことやこれからのこと」
あかねが少し表情を引き締め頷いた。
「まず、あかねちゃんのお父さんとあれからお話した。そしてね、当分、お嬢さんは私が預かりますっておじさん言ったんだ。お父さんは随分落ち着いていた、 そして、後悔していたけど、自分自身がまた同じようなことしてしまうかも知れないと言ってた。自分を抑え切れないらしいね」
「お父さんは心の病気だと思う。おじさんの友達には、こういう病気のね、専門のお医者さんがいるから、頼んでおいたよ」
あかねが瞬きもせず、じっと男の目を見つめる。
「お母さんの連絡先はおじさん、今日、調べて連絡するよ」
男は父親の話で、あかねの母親が疾走したのを知った、半年前のことだったらしい、あかねがおかしく思えるようになったのはそれからすぐだったということらしい。

「そして、あかねちゃんのこと。あかねちゃん、ここで生活をしてください、幸にね、人との接し方を教わりなさい。そうすれば、戸惑うことなく生きていけるようになるよ」
「ありがとう」
初めて、あかねは小さく囁いた。そして、俯く。
男が言った。
「あかねちゃん、それとも、あかねさんって言った方が良いかな」
あかねが驚いて男を見つめた。
「精神年齢が急に上がって、戸惑っているんだろう、いつからかな」
あかねはぎゅっと俯いたが、やがて決心をし、男をしっかり見つめた。
「半年前です。いつも見ていたテレビアニメが急に子供っぽく思えて飽きてしまったのが最初でした」
まるで、十代後半、いや、二十代のしっかりとした物言いであかねが話始めた。
「小学校でも、どうして、私はこんな子供たちと生活をしているのだと疑問に思えて仕方がなかったのです、そのうち、ひきこもりと称して部屋から出るのをやめてしまいました」
男はなだめるようにそっと笑顔を浮かべる。
「他人の心が見えてきたのもその頃からですか」
「最初は母でした。母の前に立った時、母は何を独り言を喋っているんだろう、そう思ったのですが、母の口は動いていませんでした」
男はしばらく俯いて目をつぶる、そして、顔を上げるとあかねに言った。
「あかねさんのね、病気や怪我ならいくらでも直すことができる、でもこれは病気でも怪我でもない、君の変化なんだ。だから、元に戻すこともできないんだよ」
「はい・・・」
「あのときの外神との接触で、少しずつ、君の潜在能力が顕在化したのだろう」
男は一つ吐息を漏らしたが、励ますように笑顔を浮かべた。
「幸は、ある意味、君の大先輩だ、心を二つ持って気持ちのやり繰りをしている、あかねさん、幸と一緒に暮らしなさい、そして、幸を参考にゆっくりと落ち着き方を探して行きなさいな」
あかねがほっとしたように笑みを浮かべた。
「おじさん、優しい人ですね、幸さんが夢中になるの、わかります」
「面と向かって言われてしまうと、なんだか照れるな。ただ、あの子の笑顔を見るのが好きだからね。それは、ん、本当はあかねさんのお父さんも同じなんだよ、それだけは心のどこかに置いて、忘れないようにね」
「はい」
「いい返事です、そうだ、そろそろ、幸、帰って来るかな」

「ただいま」
玄関口で幸の声が聞こえた。
とたとたと幸は居間に入ると、男の向かいに座った。
「お帰り」
「幸お姉ちゃん、お帰りなさい」
「あかねちゃん、ただいま」

「なんだか、二回、ただいまって言うの新鮮だなぁ」
幸は笑うと、袋を男に見せた。
「鯵、かあさんが買ってくれた。あ、幸、一度は遠慮したよ」
男は笑うと袋を覗き込んだ。三匹の鯵が袋に入っていた。
「美味しそうだね」
「お父さん、鯵を二枚に開いて」
「ん、どうするの」
「天日干しにします。塩を振って干すのです、とっても美味しいと思う」
「なんだが、幸はどんどん自給自足へと向かって行くなぁ」
「いまはね、お父さんとあかねちゃんと佳奈姉さんと母さん。四人とだけ喋ることができれば良いんだ、幸はぷち引きこもりなのです」
「瞳さん、忘れてるよ」
「瞳さんか・・・。本当に普通の主婦になっているからさ、あまり、ちょっかいかけない方がいいと思うんだ」
「そういう生活が一番だろうね」
男は少し寂しそうに笑った。
「お父さん、昼からどうする」
「父さん、さ。会計事務所の友人のところと、それから、あかねちゃんのお母さんに会いに行ってみようと思うよ」
「居場所わかるの」
「実家の住所は確認した、まずはそこから当たってみるかな。幸はあかねちゃんと留守番、いいかな」
「ん・・・、それじゃ、留守番しているよ。あ、お父さん、庭に川は流れていないのかな」
「今度は釣りをする気ですか」
「これからは動物蛋白質も必要だ」
男は笑うと、立ち上がって袋を持ち上げた。
「練習場所と反対方向に行けば、川があるよ。昔、親父が魚を放流していた。どうなったかは知らないけれどね」
「それじゃ、あかねちゃんと冒険しているよ」
幸はにっといたずらっぽく笑った。
「ほどほどにね」
男は呟くと、背広に着替えるために部屋を出た。

男が出掛けた後、幸はあかねを連れて庭に出た。
「畑の隣りに鶏小屋を作ります。材料揃えなきゃな。でも、まずは設計図をつくらなきゃね」
あかねは俯き、じっと足元を見つめていた。
「どうしたの、あかねちゃん」
「なんでもない・・・」
「変だよ、あかねちゃん。そうか、お母さんが恋しいのかな。きっと見つかるよ。大丈夫だよ」
「幸お姉ちゃん」
あかねが泣き出しそうになりながら、幸を見上げた。
「怖い・・・」
「怖いって、大丈夫さ。お姉ちゃん、とっても強いぞ、あかねちゃん、どんな奴からでも護ってあげるさ」
「おじさんが、おじさんがとっても怖い」
「おじさんって、幸のお父さんのこと」
あかねが小さく頷いた。
「うーん、本当は、お父さん。とっても冷酷で鋭い人だったと思う、でも、今は優しいし、幸を大切に思ってくれる、あかねちゃんのことも、とっても心配しているよ」
あかねがじっと幸の目を見つめた。
「幸には絶対に言うな、裸になれって・・・。裸になったあたしの両足を掴んで、おじさんが・・・」
「そ、そんなこと、そんなことないよ。お父さんがそんなこと・・・」
幸は驚きのあまり、力が抜けたように座り込んでしまった。
肩を落とし、俯いたまま、幸が呟く。
「お父さんは、お父さんは・・・」
あかねがにぃっと笑みを浮かべた。
「幸お姉ちゃん、ごめんなさい。でも、もう、怖くて」
俯いたまま幸が、囁くようにあかねに話しかけた。
「あかねちゃん。それが本当なら」
「幸お姉ちゃん、ここから逃がして」

「あはは、あのね、あかねちゃん、幸はさ、あかねちゃんの大先輩なんだ、その意味、わかるかなぁ」
「えっ・・・」
幸がゆっくりと顔をあげる。
幸は愉快そうに笑みを浮かべていた。
「甘いなぁ、あかねちゃん、嘘はもっと巧くついてくれないと面白くないよ」
「幸お姉ちゃん」
「あかねちゃん、潰すのが楽しいんだろう、破壊することが、もう、ぞくぞくするくらい快感なんだろう」
不意にあかねは背後に気配を感じた。
幸が笑っていた。
「いいよね、楽しいよね。人が泣いたり苦しんだりしたら、もう、最高だよね」
「お姉ちゃんが二人」
「違うよ」
あかねの耳元で幸が囁いた。
三人目の幸があかねの耳をそっと噛む。
あかねが悲鳴をあげて飛びのいた。
4人、5人と次々と幸の数が増えて行く。
「楽しいね、あかねちゃん。わくわくするよね」
10人、11人、笑う幸が次々とあかねを取り囲んで行く。
あかねが尻餅をついたまま後ずさる。
「うふふ、あかねちゃん」
「うわぁぁっ」
あかねの腕に、幸の顔が浮かんでいた。
「ごめんなさい、幸お姉ちゃんごめんなさい」
「謝る必要なんてないんだよ」
あかねの頬に小さな幸の顔が浮かび上がる。
「そうだ、あかねちゃんに、ほんのちょっとだけお姉ちゃんの闇を見せてあげるよ」
目の前にいた幸がじわっとあかねの腕を掴む。
「楽しいぜ、でも、あんまり見ると、あかねちゃんが発狂してしまうから、ほんのちょっとだけにしておくよ」
「あ、ああっ、ご、ごめんなさい」
手を掴んだまま、幸の頭がぽろんと落ち、転がると、あかねの足元でにたっと笑った。
「楽しんでもらえると嬉しいなぁ」
無数の幸があかねを幾層にも覆い囲んで行く。
「あかねちゃん、特別だよ」
にたっと笑う幸の頭が、ぼとぼとと落ちて行く。幾つも幾つも、幸の頭が転げ落ち、あかねの足元に転がって行く。
「ごめんなさい。おじさんのこと、嘘です、ごめんなさい」
「怒ってないよ、全然、怒ってないよ」
ぼろぼろと幾つもの幸の頭が落ちてくる、あかねは茫然と目を見開き、喘いでいる。あかねが、幸の転がる頭に押し潰されていく。
「楽しいな、見せてあげるよ」
「みせてあげる、特別だよ」
「あはは、楽しいな、あかねちゃん、大好き」
ふっとあかねの力が抜け、そのまま、気絶し仰向けに倒れ込んでしまった。
すべての幸の姿が消えた。
そして、一人になった幸があかねの隣りに現れ、その顔を覗き込んだ。
「案外、もろいな」
幸は鋭い表情であかねを見つめると、そっと指先をあかねの額に沿えた。かすかに、指先があかねの額に潜り込む。
「戻ったな。親が最後まで愛していれば、こんなふうにはならなかったのに」
幸は笑顔を作ると、あかねの枕元に座り、声をかける。
「おおい、あかねちゃん。起きて、起きて」
幸の声にあかねは意識を取り戻し、ゆっくりと目を開けた。
「あかねちゃん、1年ぶり、大変だったね」
「ごめんなさい、お姉ちゃん、ごめんなさい」
幸がぎゅっとあかねを抱き締める。
「あかねちゃんの心の中には邪悪がある、でも、それもあかねちゃんなんだ。だから、消してしまうことはできない、押さえ込んだだけ。幸姉ちゃんは、ずっとあかねちゃんの味方だ、これからもずっと。だから、もう一人の自分の操り方、教えてあげるよ。もう、怖くないよ」
あかねは幸の腕の中で静かにすすり泣く。

男はとある田舎の築二百年以上は経つだろう、大きな屋敷にいた。座敷に案内され、向かいに座る老人を微かな笑顔を浮かべ見つめた。
この屋の主であり、あかねの母方の祖父にあたるこの老人はぐっと男を睨みつけていた。
「君が孫のあかねを預かっているというのは本当か」
「はい、ただ、勘違いしないでいただきたいのは、拉致だとか誘拐だとかそんな物騒なものではなく、単にあかねちゃんが私の娘の友達であること、そして、こ ちらのお嬢さんがあかねちゃんを残したまま放逐し、また、御亭主も精神科の医師にかからなければならない状況になりまして、結果、お預かりした次第。それ を、こちらのお嬢さん、つまり、あかねちゃんのお母さんにご連絡したく伺った次第です。お嬢さんはご在宅でしょうか。例えば私の後ろ、襖の向こうですと か」
「君は何者だ」
「と、申しますと」
「女がまるで君を何十年もの知古のように、座敷に招いた。本来ならば」
「名前も知らぬような男は玄関先で話を聴くものだとおっしゃりたい」
男は笑顔を浮かべたまま、主の言葉を継いだ。
主が目を逸らさずに頷く。
「私も名乗る前のちょっとした雑談だけで、ここに座らせていただき、自己紹介をする機会を逸しまして、少々戸惑っています」
男は笑顔を浮かべたまま答えた。
「ただ、思い出しました。随分、昔、依頼を受けた父親とこちらへ伺ったことがあります」
「なんだと」
「代変わりしました、名無し、無です」
主の顔が一瞬青ざめた。
「儂を殺しに来たのか」
「いいえ、そういう仕事からはすっかり足を洗っております。娘が出来たのを機にやめました。不思議な縁とでも申しましょうか、本当に先程申しました通り、あかねちゃんの件で伺ったのです」
主は男を値踏みするようにねめつけた。
「君のこの屋へ来た目的を説明してもらおう」
「貴方のお孫さん、あかねちゃんを元の普通の女の子に戻し、両親と暮らせるようにすること。私の娘がそれを強く望んでおりまして、娘の希望を叶えてやりたいと、こちらまで伺った次第、それのみです」
「それを信じろというわけだな」
「もちろん」
男は笑顔で答えた。
「なるほど、女共が君をすぐに屋敷に上げた理由が分かる。わかった、君を信じよう」
「ありがとうございます」
男は会釈をすると、出されていたお茶を飲む。
「薬物には耐性があります」
男は小さく呟いた。

「さて、貴方はこの国の、裏の大立者です。支配者階級と言ってもいい」
「昔の話だ。既に息子に跡目を譲り、儂は引退しておる」
主は表情も変えず答えた。
「その孫が外神に魅入られてしまったというのも、何かしらの因縁があるのやもしれませんね」
「外神だと・・・。あかねが外神に」
「外神のことはご存じのようですね」
「あぁ、知っている。見たことはないがな。邪悪の根源であり、無限の力を持つと聞いている」
「外神がこの世界に存在し続けるには依り代となる人間が必要です。あかねちゃんは素質があったのか、呼び出した組織に外神の依り代とされかかったのです。 幸い、それは寸前に防がれたのですが、あかねちゃんは外神の影響を受けてしまい、人の心を読む力と邪悪な心を内に増大させてしまった。それからは、貴方の お嬢さんにお聴きになる方が良いでしょう」
主は目を伏せ、急に意気地を無くしてしまったように肩を落とした。
「君はあかねを元の素直な子供に戻すことができるというのかね」
「先程、娘が元に戻したようです。ただ、邪悪な心を持つあかねちゃんも、また、あかねちゃんであり、完全に消し去ることはできません。ですから、あかねちゃんが自分の心を抑制できるように教育しなければならない。一週間、いただいたらこちらに連れて来ましょう」
「すまない」
「余程、あかねちゃんが可愛いようですね」
「跡を取った息子にも子供がいるが、娘の子、駆け落ちするような出来の悪い娘だが、その子供は利発で可愛いのだ」
男は、そういうことかと呟いた。
「それでは、用件も済みましたので帰ります、一週間後に、また、お邪魔致します」
「よろしく頼む」
男はうなずくと立ち上がり部屋を出る。何事も無く、玄関口で靴を履いた時、女が近寄り、男の声をかけた。
「あ、あの」
「あぁ、あかねちゃんのお母さんですね」
「は、はい。あかねは元に戻るのでしょうか。また、三人で暮らせるのでしょうか」
「あかねちゃんは大丈夫です。ご主人も私の友人の精神科医に診てもらっているのですが、大丈夫だと思いますよ」
男は笑みを浮かべ会釈をすると屋敷を辞した。

男は駅のプラットホームに居た。屋敷を辞し、半時間ほど歩いたところにある小さな駅だ。夕暮れ時、まだ、さほどは暗くない。
ベンチに座る、あと、30分は列車は来ない。ちょっとした時間つぶしくらいにはなるだろう。
男を取り囲むように黒い影が五体、影はゆっくりと黒服を着た男達の姿に変わる。
「乱破、時代劇でいう忍者の方々のようですね。私に何か御用ですか」
この時代になっても、セキュリティ要員として、昔のいう、忍者が、新たに組織化され重要人物の身辺擁護にあたっていた。
「貴様には死んで頂く」
「もう少し待っていただけませんか、少しばかり数十年程。例えば、私が百歳になる頃まで」
「笑止。貴様は己を無と名乗ったが、俺が噂に聴いた無とは随分違うな」
「噂は一人歩きをするものですし、私自身、娘が出来てから随分変わったなぁと思いますよ。ところで、貴方方を雇っているのは、あのお祖父さんの跡目を継いだ息子の方ですね」
「貴様に答えるいわれは無い」
「つまらない跡目騒動みたいなものですね。息子は、父親の溺愛する妹の孫が煩わしくて仕方がない。外神をちょうどいいと、その孫を依代に仕立て上げたのは、まっ、そこまで言うのは野暮というものか。皆さんの顔付きが変わりましたね。怖いなぁ」
「貴様の無駄な一言が確実な死をもたらしたようだな」
「万事休すということか」
男は呟くと微かに俯く。
「さて、どうしようかな」
男は顔を上げ、ゆっくりと立ち上がる。
「ひの、ふの、みと・・・、五人いらっしゃるようで。あまり目立つことはしたくないのですが、少しばかりストレス発散のため、運動してみましょうか」
男が右足を半歩出す。
黒服たちが一瞬、後ろへ引き間合いを開けた。
「あくまでもストレス発散なので、死なないように手加減してあげますよ」
黒服達が、男を瞬きせず睨みつける。
男の姿が消えた、その瞬間、男は正面にいた黒服の背後に立つ、その左手は既に黒服の顎を捕らえていた。
男は半歩下がり、同時に左を地面に落とす。
瞬間、男は宙を飛び上がり、隣にいた黒服の後頭部をなぎ払うように蹴る。数メートル先まで黒服は弾き飛ばされた。
黒服達はその間、全く動けなかった、全く異質の速さに対応出来なかったのだ。
「世の中、便利になると、人は体の動かし方を忘れてしまうのかもしれませんね」
男は立ちつくしたままの黒服の肩を軽く叩いた。
「君はそうは思いませんか」
「うっ、うわぁぁ。殺さないでくれ」
その叫び声を引き金に、残った二人が血相を変えて逃げ出した。
男は肩を叩いた黒服の首に腕を回すと、逃げられないよう押さえ込んだ。
「君には仕事があります。意識失ったこの二人を連れて帰りなさい。せっかく、手加減したのにこのままほって置いたら大変だからさ。わかりましたか」
「わ、わかりました」
「本当にわかったのかい。このまま、逃げ出したりしたら、君だけ殺すぜ。本当に二人を病院まで連れて行くかい」
男は黒服の耳元で囁いた。
黒服が息もたえだえにひたすら頷く。
「素直さは大切だ」
男が力を緩める、
黒服は転げるように前に進むと倒れ込んでしまった、男は倒れていた二人を軽く蹴る。二人とも意識を取り戻し目を開けた。
そして、男は何事もなかったようにベンチに座った。
しばらくして列車が来る、男はそのまま、立ち上がり列車に乗った。

幸とあかねは縁台に座り、ほおぉと梅林に沈む夕日を眺めていた。
「幸はさ、お父さんがいると真面目で気配りの出来る人になる、でも、いないとさ、だめ人間なんだよ。あぁ、早く帰って来ないかな。あ、でも、晩御飯の用意もしなきゃだし」
「幸さん」
「ん・・・」
「私にはとても目まぐるしい一日でした。いま、やっと落ち着いた気分でいます。だから、この時間がとてもいとおしく思えるんです」
幸はにっと笑うと、あかねの肩に腕を回し、頬を寄せた。
「もうしばらく、夕日を眺めていよう。沈んだら、晩御飯の用意をしよう。そうだ、あかねちゃん」
「はい」
「やっぱり、幸のこと、お姉ちゃんって呼んで欲しいな」
「お姉ちゃん」
「おお、我が妹よ」
幸は嬉しそうに笑った。

男は商店街入り口のタコ焼き屋の前にいた。
「回転焼き六個と、そうだな、八個入りのタコ焼き、三舟お願いします」
「はいよ」
店主が手際よく、タコ焼きをひっくりかえす。
「景気はどうです」
「ん、だめだ、参ったよ」
「まぁ、景気のいいところなんて、ほんの一握りですからね」
「この商店街も良かったんだけどさ、ほら、近くに業販スーパーや安売りの店が増えちまって、随分、客を取られちまってね」
「商売敵ってやつですか。ただ、商店街の良さをもっと前面に出した上で、協力して商品を組み合わせてみる、お客さんをもっと能動的に組み込んでみるのが一番かなと思いますよ」
「ほぉぉ、お客さん、ちょっと、詳しく聴かせてもらえないかい」
かんてき、いわゆる七輪である、を二つ。
一つにはご飯を炊き、もう一つは網を乗せ鯵を焼いていた。
「あかねちゃん、鍋の中でゴトゴト言い出したら、声かけてね」
「は、はいっ」
あかねは幸が鍋でご飯を炊くことに目を丸くしていた。幸はパタパタと団扇で空気を送り、鯵を焼いている。
「あの、お姉ちゃん、炊飯器あったけど」
「あるんだけどさ。これの方が美味しい。それにね、旅している間、ずっとこうやってご飯を炊いていたんだ」
幸がくすぐったそうに笑った。
「ここは梅の枯れ枝もたくさんあるし、落ち葉もね、濡れた新聞紙と混ぜて、ぎゅっと重しで押さえ込めば、いい感じの薪になる。そうだ、竹を植えよう、成長早いから薪にちょうどいいや」
「これって、すっかりアウトドアですよぉ」
あかねが呆れたように溜息をついた。
不意に幸が振り向いた。
「あ、お父さん、帰ってきた」
幸はまだ焼けていない鯵を皿に戻すとあかねに言った。
「あかねちゃん、音がしたらね、鍋を降ろして、そこの新聞紙の束でぎゅっと鍋を包んでくれる。保温調理になるからさ。幸はお父さん、迎えに行って来る」
幸はぱたぱたと庭を走り、玄関へと走って行った。
「ご飯炊けたら、お魚、焼き直そう。可愛いお姉ちゃんだ・・・」
あかねが幸せそうに笑みを浮かべた。

「お父さん、お父さん、お父さん、お帰りっ」
「ただいま」
「おおっ、お土産ありだ」
「タコ焼きと回転焼き。幸、タコ焼き食い飽きているのなら」
「食べる、食べるよ。タコ焼き飽きるなんて関西人にあるまじき所業だ」
「幸、関西人なの」
「タコ焼き食べている時は関西人なのです。さいでっか、ほな、おおきに」
にひひっと笑うと、幸は男の手を引っ張る、つられて男が上がり口に上がると、幸は脱いだ男の靴の向きを直した。
「幸はあかねちゃんを苛めてませんか」
幸は男からお土産を受け取ると、少しばつが悪そうに笑った。
「ちょっと苛めちゃった、こんな感じ」
ぽろっと幸の頭が落ちる。
うわぁっ、と、男が驚き、幸の頭を抱きとめた。
「幻術か・・・」
男の腕の中には何もなかった。
「親をびっくりさせるな」
「ね、お父さん。泣きそうになった」
「泣き過ぎて乾燥して、ミイラになるところだった」
「そしたら、幸がお父さんにホースでじゃぶじゃぶ、水をかけてあげるよ」
男は少し吐息を漏らすと、幸の頭を撫でる。そして、少し笑顔を浮かべる。
「居てくれるだけで嬉しい。ありがとう」
「どう致しまして、お父様」
ばふっと幸は男にしがみつく。
「お父さんも幸をぎゅっとして」
男は戸惑いながら、幸を抱きしめた。
そして、男はまるで子供のように顔を赤らめると少し笑った、そして手を離す。
「お父さん、今度は裸で抱き合おう」
「ごめん、それは無理」


男が着替える間、幸が庭へ戻ると、あかねが鯵を焼き直していた。
「ありがと、あかねちゃん」
「お姉ちゃん、美味しく焼けました」
「いい匂い。それに三人で晩御飯、なんか楽しいなぁ。あかねちゃん、テーブルにお皿並べてくれる、幸はおすましをつくるよ」

食卓にご飯、鍋からおひつに移し、焼き魚とおすまし、それに少しお漬け物。
三人はいただきますと手を合わせ、晩ご飯を食べる。
「鰺は、ちょうど塩味も効いていて美味しいね」
男が言うと、幸がにひひと笑った。
「少しコツがわかってきたよ。今度はイカも干してみるかな」
「するめとか作って、炙って食べたら美味しいだろうね」
「あ・・・、するめ食べ出したら、幸は一日中、何もしないでするめを囓っているかもしれない」
「お姉ちゃんなら、本当にそうしているかもしれません」
あかねが会話に入ろうと思い切って声を出す。
幸はそれを受けて、まんべんの笑みであかねの頭をなでた。
「安心して、あかねちゃんにも半分、分けてあげるよ。かんてきでするめ、炙りながらさ。日本酒があればもう最高だ」
「幸、あかねちゃんにお酒はだめだよ」
「それじゃ、濃いめの番茶かな。お父さんは珈琲、珈琲は無理があるなぁ」
「さすがに父さん、珈琲が好きでもするめとは一緒に飲まないよ」
男は少し笑うと、漬物をご飯に載せた。
ふと、思い出したように男は少し笑うとあかねに話しかけた。
「あかねちゃん、最初に言うべきだったけど、お母さんに会ったよ。元気そうでした」
「お母さん、おじいちゃんのとこに」
「そう、で、少し喋って来た。また、あかねちゃんとお父さんと三人で暮らしたいって話してくれた」
「お母さんが・・・」
急にあかねは俯くと涙を流した。
幸がそっとあかねの背中をさすった。
「お母さんにもお父さんにも、とっても酷いことをしました」
あかねはお茶碗を置くと、ぎゅっと拳を握り締めた。
「崩壊して行く家庭がとても嬉しかったんです」
男は小さく吐息を漏らした。
「あかねちゃんが悪いわけじゃない、あかねちゃんの心を悪くした奴が一番悪いってこと」
男がそっと笑みを浮かべた。
「一週間したら、お母さんの所へ行こう、それまでに、幸」
男は幸に向き直ると言った。
「あかねちゃんに線を一本、作ること。いいかな」
幸は男をじっと見つめ、そしてしっかりと頷いた。
「さぁ、あかねちゃん、食べよう。せっかくのおすましも冷めちゃうからね」
幸はあかねにそっと笑いかけた。

男が流しで洗い物をしている間、幸はあかねに数学を教えていた。今晩中に微積分の概念まで教え込むつもりらしい。テーブルに参考書を広げながら教える幸の言葉に男はあかねちゃんも大変だなと少し笑った。
ものの善し悪しを見極めるためには、まずは基準となる線を一本、作り出さなければならない、そして、その線は細くて鋭いほど、善し悪しを見極めることができるようになる。
数学をしっかり理解させることで、幸はあかねの判断能力を高めようと考えているのだろう。
幸も成長したなと、手を止め、男は振り返り幸を見る。ふと、幸は男の視線に気づくと、立ち上がり、男の前に頭を差し出した。
「え・・・」
「頭、撫でて」
男は少しと惑いながらも幸の頭を撫でる。
「幸は立派ですか」
「うん、立派、成長したなぁって感心した」
「えへへ」
幸はまんべんの笑顔を浮かべるとテーブルに戻った。

朝、男は目を覚ますと、着替えを済まし、居間に入った。
あかねがテーブルに一人、取り残され、ぼおっと外を眺めていた。男は幸が洋品店のおばさんの散歩に付き合っているのだなと気づいた。
「おはよう、ひょっとして、その姿、あかねちゃん、徹夜したのかな」
「どうしてお姉ちゃんはあんなに元気なんだろう」
ふと、あかねは男に気づき、慌てて笑顔を浮かべた。
「おじさん、おはようございます」
男は笑みを浮かべると、お湯を沸かす。
「お疲れさま、部屋で寝て来なさいな、カーテン締めたら、日差しも避けることができるから」
「でも、寝てしまうと詰め込んだものが消えてしまいそうで」
男はマグカップにインスタント珈琲をいれる。
「公式なんか忘れてもいいよ、忘れたら公式を自分で組み立てればいいだけのこと。それに寝る方が脳を休めることができるからね」
男は適当にお湯を入れかきまぜる。以前はしっかりと珈琲豆から準備していたのだが、旅の最中、手抜きのインスタント珈琲にすっかり慣れてしまっていたのだった。
男は立ったまま珈琲をすすると、いたずらっぽく笑った。
「幸と付き合うなら、休める時は休んでおきなさい。体がもたなくなるよ」
あかねは、昨晩の切れ間なく自分に教え込む幸の姿を思い出して、やはり寝ておこうと立ち上がった。しかし、あかねは一瞬、唇を噛むと、決心して男の前に立った。
緊張した面持ちで男を見つめる。
「ん、どうしました」
「ごめんなさい」
「え・・・」
「昨日、おじさんのこと、お姉ちゃんに悪く言いました」
「あの、足を、足を・・・」
男は珈琲を、一口、すすると少し笑った。
「知ってるよ。でも、その時のあかねちゃんと、今のあかねちゃんは別人だってことも知ってる。さあ、休みなさいな」
男は笑顔を浮かべたまま、あかねの頭をそっと撫でる。
あかねはほっとしたのか、笑みを浮かべた。

あかねが寝付いてしばらくした頃に、幸が戻って来た。
「ただいま、お父さん」
「おかえり、どうだった」
「歩くのはもう大丈夫だよ。歩きながら、ずっとかあさんの愚痴の聞き手になってた」
「それはお疲れさま」

男と幸はテーブルに着く、ふと、幸は辺りを見回した。
「おとうさん、あかねちゃんは」
「ついさっき寝たところ。一時間くらい寝かせてあげなさいな」
「そうだね、ちょっと張り切り過ぎた。今晩は復習と、複素数をちょっとだけ教えよう」
「幸は寝なくて大丈夫かな」
「あかねちゃん、起きるまで寝ていようかな、お父さんは」
「昨日、事務所から書類を預かって来たからさ、それを処理するよ」
「今日はお出掛けしなくてもいいの」
「そうだな、とくに出掛ける用事は無いな」
「お父さん、左手、いい」
「いいよ」
幸は男の左手をそっと握ると、横になり、もう片方の手を添え、枕にしようとしたが、高さが合わなかったのだろう、仰向けになり、お腹の上へ手を載せる。
「いま九時過ぎ。お父さん、十時になったら起こして」
「わかったよ。ぐっすり寝なさい」
「うん、お休みなさい」
「おやすみ」

男は右手だけで、器用に鞄から書類を取り出すと、テーブルに並べる。そして、書類の確認を始めた。
しばらくして、ふと、男は顔をあげると、玄関口の方向を見つめた。
「佳奈さんか」
ベルが鳴った、しかし、音が小さい、修理しなきゃなと男は・・・、幸が左手をしっかり握っていて動けない、男は玄関口に向かって声をかけた。
「佳奈さん、どうぞ、入ってください」
佳奈は遠慮がちに開き戸を開けると、中へと声をかける。
「いいかな、先生」
「動けないんだ、どうぞ、上がってください」
佳奈が部屋に入ると、
「なるほど、これは動けないやね」
男の左に幸が寝そべり、男の左手を両手で包み込んでいる。
「うーん、凄いえっちだ」
「え、父娘で手を握ってと言われると、あれだけどさ、でも単純に手を重ねているだけだよ」
佳奈は笑うと、幸の横に座った。
「先生は朴念仁だからしょうがないな。裸で抱き合うより凄いよ」
「え、そういうものなのか」
男は少し狼狽えたが、手を解くこともできずに顔を赤らめた。
「相変わらず、先生は幸ちゃんのことになると、少年になるねぇ」
「いい年こいたおっさんが少年と言われてもな、恥ずかしいだけだよ」
男は少し笑うと、テーブルの上の書類を一つに纏めた。
「先生はもう会計事務所、開かないのかい」
「幸とね、過ごす時間を増やしたい。まだまだ初心者家族だからね。自分で事業を始めるとなかなかそんな時間が作れないよ」
「これだけ美人の娘だもの、父親でもとち狂ってしまうのしょうがないな」
佳奈が笑った。
「幸はそんなに美人なのか。幸はぜんぜん、自分なんか美人じゃないってね、言ってるけど」
一瞬、佳奈は息を飲み、男の顔をまじまじと見つめた。
「幸せな人だ、先生は」
佳奈が溜息をついた。
「先生、イカの新しいの、入ったから持って来たよ。冷蔵庫に入れておくよ」
「佳奈さん、ありがと」
佳奈は立ち上がり、勝手知ったる台所の冷蔵庫へとイカを仕舞う。
ふと、視線を上げたとき、佳奈はあかねを見つけた。
「先生、悪いことしてないかい」
「テレビに出て来そうな可愛い女の子じゃないか」
あたふたと佳奈が戻って来た。
「幸の友達だよ、妹みたいなものかな。そうだ、佳奈さん、急いでいるかい」
「いや、いいけど」
「十時まであと五分、待っててくれるかな」
「いいよ、あたしも先生にお礼いわなきゃならないし」
「なんかしたっけ」
「タコ焼き屋の良さんに教えてくれたろう、商店街活性化の方法」
「あれね、いや、佳奈さん電話してくれたからさ、ちょっと考えていたんだ。タコ焼き買うついでに喋ったんだけど、まずかったかな」
「ありがたいけど、良さん、集まりでね、自分が考えたように言うんだ、あたしゃ、それに腹が立ってさ」
「アイデア料出せって言うなら、考えものだけど。彼もそうは言わないだろう」
「そりゃ、そうだけどさ。良さん、次の商店街の会長選挙、もう自分が会長になった気でいるよ」
男は幸を起こさないよう、でも、愉快そうに笑った。
「男は齢をとると名誉が欲しくなるもんだよ」
「そういう先生はどうなんだよ」
「私はそういうのとは無縁だ。それに今はね、幸にさ、恥ずかしい父親だと思われないようにするので一杯だな」
「ちゃんと髭も剃って身だしなみを気をつけていますってね」
佳奈がからかうように言う、男がくすぐったそうに笑った。
「本当にそうだよ。ん、十時だな」
男は幸を見つめ、声をかけた。
「幸、十時だよ、起きなさい」
幸が、うん・・・、と唸りながら、寝ぼけ眼で体を起こした。
「もう少し、寝るか」
「ううん、お昼まで、あかねちゃんと掃除しなきゃ」
幸はやっと男の手を離した、ふと、幸は佳奈がいることに気づいた。
「佳奈姉さん、おはよう」
「おはよう、洋品店のおばさんから幸ちゃん、イカが欲しいって聞いたから持ってきたよ、冷蔵庫の中」
幸は嬉しそうに笑うと、佳奈に向き直った。
「ありがと。そうだ、佳奈姉さん、あかねちゃんを紹介するよ、待ってて」
幸は立ち上がるとあかねを呼びに行った。
「そうだ、先生」
「ん」
「ほら、親戚の瞳さん、先生や幸ちゃんのこと心配していたよ、旅のこと、話してなかったのかい」
「話してなかったな。瞳さん、たまに買い物に来るのかい」
「瞳さんち、遠いけどさ、それでも月に一度くらいは買い物に来てくれるんだ」
「そうだね、後で連絡をいれておくよ」
瞳がここで生活していた頃、親戚ということで佳奈に紹介していたのを男は思い出した。
「佳奈姉さん」
幸はあかねの横で、にっと笑顔を浮かべた。
幸の声に佳奈が笑みを浮かべ向き直った瞬間、佳奈の頭の中に、初めまして、という声が響いた。
「これは・・・、驚いた」
佳奈はあかねに向けて、こんにちわと、言葉を送った。
あかねが、少し驚いたように目を見開いた。
「本当にお姉さん、心を読むことが出来るんですね」
あかねはぺたんと佳奈の前に正座をすると、恥ずかしそうに笑った。
「幸ちゃん、これはどういうことなんだい」
「あかねちゃん、半年前から、心を読むことが出来るようになってね、幸が普通に日常生活を送ることが出来るよう指導しているのです」
「ほぉ・・・、なんていうか、いや、もうびっくりだよ。幸ちゃんが指導しているなんて」
「ええっ、びっくりはそっちなの」
「だってさ、初めて幸ちゃんに会った時の」
「ああっ、だめ。それは秘密だよぉ」
「いいじゃないか、可愛かったよ」
佳奈はしょうがないなと笑う、
佳奈は、一年、見ないうちに幸がしっかりとしたのを驚きつつも、嬉しく見守っていた。不思議な出会いだとつくづく思う。

佳奈が帰った後、幸とあかねは家の掃除を始める。男も書類の整理、そして、事務仕事を始めた。時々、幸があかねに掃除の手順と要領を教える声が聞こえる。男は自分がなんて幸せなのだろうと思う。そして、願わくば、自身が死んだ後も、幸が幸せに暮らしてくれればと願う。

昼を過ぎ、男が瞳の話をすると、幸が眉を曇らせた。
「瞳さん、なんかあったのかなぁ」
「あとで、父さん、行ってみるよ」
幸は少し俯き考えていたが、男をじっと見つめた。
「ううん、幸が行くよ。おばさんにも会いたいし」
「瞳さんのお母さんだったかな」
「うん、幸は更生した親切な不良少女なのです」
そっと幸が笑みを浮かべた。
「幸はやさしいな」
「そりゃそうだよ」
「え」
「お父さんは幸にとてもやさしくしてくれる、だから、幸はやさしくされることがとっても嬉しいことを知ってる。そうするとね、なんだか、嬉しいなという気持ちを伝えたくなるんだ」
思わず、男は幸を抱き締めたが、慌てて手を離した。
「ごめん」
「どうして謝るの。お父さんに抱き締められるのは幸の一番嬉しいことなのにさ」
「いや、まっ・・・」
「うふふ、お父さんも随分成長しました。でも、もう少し積極的でないといけませんね」
男は照れて、恥ずかしそうに笑ったが、落ち着きを取り戻し言った。
「幸、あかねちゃんはどうする、連れて行くか」
「社会勉強にはいいけど、瞳さんとあかねちゃんはお互いを知らないから、ん・・・、あかねちゃんが瞳さんの素性を知ったらどうなるかな」
「瞳さんはあかねちゃんを見ればあの時の娘だってすぐにわかると思うよ。それに、あかねちゃんは聡いし心を読むこともできるからね、お互いが知ることになるかもしれない」
「そっか・・・、どうしよう」
「そうだな。あかねちゃんを連れていきなさい、そして、万が一の時は父さんを呼びな、駆けつけるからさ」
幸が笑みを浮かべる。
「お父さんが駆けつけてくれるなら、幸は元気一杯。もう、鬼の大軍にだって、勝負かけるよ」
「それはやめてください。幸が刀片手に大笑いしているのが目に浮かんでしまう」
男はくすぐったそう
に笑った。

幸は地味なTシャツにゆったりとした黒のカンフーズボン、それに帽子を目深にかぶっていた。
髪は後ろで柔らかく結わえている。
「お姉ちゃんはどうしてそんなかっこうするの、とっても綺麗なのに」
「これが一番動きやすい、それに、幸は美人すぎるからさ、男の視線が煩わしくてね。いや、お父さん以外の男には見られたくもないんだ。男は大嫌いだ」
「ね、おじさんがお姉ちゃんのこと、美人だっていったらどう答える」
「ううん、幸なんか、ぜんぜん、美人じゃないよ、普通だよぉ、ってね」
幸はにいっと笑うと、あかねの頭をぽんぽんと叩く。
「惚れた人には素直で無邪気な良い娘に思われたいのさ」
幸とあかねは家からしばらく離れたスーパーマーケットの前に立っていた。
「ここで友人と会う。腐れ縁という奴かな」

瞳は買い物カゴを持ったまま、スーパーの中を歩いていた。気になることがあるらしく、心ここにあらずの様子を見せていた。
でも、たまにはハンバーグくらい作ってやらないと・・・、ふと、ミンチ肉に瞳の手が伸びた。
「あと二分待ちな、店員が三割引のシールを貼ってくれるぜ」
真横で声が聞こえた。驚いて瞳が振り向いた。
「幸さん・・・」
「久しぶり。ん、元気そうじゃないな、どうした」
「あの、あの・・・」
何から喋れば良いのか、整理がつかず、瞳は苦しそうに蹲ってしまった。幸は仕方無さそうに笑みを帽子の影で浮かべると、そっと顔を近づけた。
「出来ないことは出来ない、でも、出来ることならしてやる」
幸の声に元気づけられたのか、瞳はやっとのことで立ち上がると、思い切って幸に言う。
「母を、お願いです、母を助けてください」
一瞬、幸の眼差しが鋭く瞳を貫いた。
「おばさん、どうかしたのか。場所を変えよう」
幸が瞳の手を取った。
あかねが慌てて、三割引のミンチ肉をカゴの中にいれた。
「あかねちゃん、これで清算して入り口で待ち合わせ、いいかな」
幸があかねに財布を渡す。
あかねは頷くとレジへと駆けて行った。

スーパーマーケットの出口近く、少し人どおりの少ない場所で瞳は幸につっかえながら話す。
「母は病気で、病気で、あと一カ月って・・・」
「瞳さん、あんたの心、読んで良いか」
「は、はい」
幸は瞳の顔をじっと見つめた。全身転移、がん、瞳はどうしてもこの言葉を口にできなかった。口にすることが恐怖で仕方なかったのだった。
「他の病院は当たってみたのか」
「はい、でも、何処も手遅れだと」
幸は瞳の頭の中に浮かぶ病院の数が五十を越えることを確認した。

幸は瞳が家族に溶け込みやすいよう、瞳の母親に会い、不登校の少女として話をしていた。思い出す、本当に、ただただ、良い人だった。子を心底心配し、孫を目に入れてもいたくないという、ごく普通の人であった、良い人だ。

「ここで返事はできない。行ってから考える、瞳さん、車で来たんだろう、病院まであたしとあかねちゃんを連れて行ってくれ」
「あかねちゃん・・・、あ、それは」
「余計なことは考えるな」
あかねが買い物袋と財布をもち駆け寄って来た。
「これ。たくさん、ドライアイスを入れてもらいました」
「そうだね、すぐに冷蔵庫に入れられそうにないからちょうど良いかな」
あかねが、幸に財布を返す。そして、買い物袋を瞳に差し出した。
「どうぞ」
「あ、ありがとう・・・、本当にごめんなさい」

瞳の運転で幸とあかねは病院へ向かった。

「なんだか変な気がします、落ち着かないような」
あかねが幸にそう呟いた。幸とあかねは後部座席に座っていた。
「ルームミラーから後ろの車を覗いてごらん」
幸の言葉にあかねは少し背を伸ばし、ルームミラーから後ろを覗く。黒い車が三台、後ろに張り付いていた。
「あれは」
「あかねちゃんが、外に出るのを待っていたんだろう。しかし、これは恣意行為、実力行使に出るつもりだな、なめられたもんだ」
「撒きます、しっかり掴まっててください」
瞳が鋭く囁いた。
幸があかねの肩をしっかり抱き寄せた。
交差点、赤、瞳はアクセルを踏み込む。何台もの車をすり抜けるように右へ曲がった。アクセルは戻さない。
怒号、クラクションのつんざめく音が遙か後方へと消えていく。ハンドルをいきなり切る、軋みがなり立てる車、車一台やっとの一方通行をアクセルべた踏みで駆け抜ける。
交差するとおりの向こうに病院の入り口が見える。
瞳はううっと低く唸ると、赤信号の交差点を飛び出した。

あかねの手を取り、幸は瞳に聞いた病室へと向かう。
がくがくとあかねの脚が震えてた。
「無茶です、あれは、あの運転は無茶です、違反ですっ」
「運が良いとしか言いようがないな、横から車が来ていたら終わりだ」
幸が平気な顔して笑った。
固まっている瞳を後から来いと幸は言い残して病室へ向かっていた。あれだ、327号室、一番の端の部屋だ。
一瞬、幸の脚が固まった、心電計の不規則な音が聞こえる。

幸は一つ深呼吸をすると、病室に入った。
個室だ、酸素吸入器が取り付けられ、はっきりと見えるのは目元だけだが、確かに瞳の母親だった。あかねの手を離し、幸は茫然とその姿を見る。窓からの青い空が、あまりにも不似合いで美しすぎる。
帽子を取り、幸はベットに駆け寄った。そして、母親の耳元に語りかける。
「幸です、憶えていてくれてますか、いっぱい、お喋りしましたね、遅くなってしまってごめんなさい」
微睡みかけた意識の中で、何かが繋がったのだろう、微かに顔を向け、そっと笑みを浮かべた。何か、話したげにしているのだが、声を出す力も残っていないようだ。幸は耳元で優しく囁いた。
「幸は言いましたね、本当のこというと、幸は神様なのです。瞳さんが帰ってきたのも幸のおかげです、そして、お母さんが、お母さんの病気が治って元気になるのも幸のおかげなのですよ」
哀しげに笑みを浮かべる。幸は瞳の母親の手をぎゅっと両手で握ると、額をそっとそっと重ねた。
「お父さん、ごめんなさい・・・」
ゆっくりと瞳の母親は目を閉じ、眠り込んだ。
幸は、顔を上げ、天井をにらみつける。
そして、振り返った。瞳が息を切らし、部屋に入ってきた。
「瞳さん」
「は、はいっ」
「一度だけだ、助けてやる。あんたの母親には世話になったからな。だけど、完全に腫瘍を取り除くことは出来ない、こいつらも、元はあんたの母親の体だから だ。普通に生活できるようになっても、再発するかもしれない。つまんねぇ鮫だとか、わけのわからない薬もどきを飲ませるなよ。もっとしっかりした病院で確 実な治療をさせろ、いいか、わかったな」
「はい、わかりました」
にらみ付ける幸に、瞳は弾かれたように答えた。
「あたしが良いと言うまで、ドアの外で待ってろ。しっかりドアを閉めて、誰も入れるな、医者や看護婦、一切の例外無しだ。わかったら、部屋を出ろ、ドアの前、踏ん張って誰も入れるな、いいな」
慌てて、瞳はうなずき、部屋を出るとドアの前、かばうように立つ。
幸は一つ、溜息をつくと、力無くあかねに笑いかけた。
「あかねちゃん」
「は、はい・・・」
「怪我ならさ、どんな酷い怪我でも直すことが出来る。でも、病気は別なんだよ。変質していく体も、また、その人自身なんだ。だから、あかねちゃんの怪我を治したようには行かない。ね、あかねちゃんはさ、幸がお父さんをあんなにも好きなのが不思議だろう」
「は、はい」
「幸はさ、とっくに死んでいたんだ。それを、お父さんが自分の生命を削って幸を生き返らせてくれたんだ。この体全て、髪の毛一本に至るまで、お父さんのおかげでここにある、それを少しでも傷つけるなんて、それを選ぶなんて、幸にとってそれは絶対に許せないことなんだ」
いきなり、幸は左手小指を噛み千切った。
あかねが息を呑み、蹲った。
幸は噛み千切った小指を右手で持つと、あかねに言った。
「しっかり、睨んで見ておきなさい」
あかねが幸の気迫に飛び上がるようにして立ち上がった。
幸は、瞳の母親のお臍に千切った小指を載せると、両手をそのまま母親の腹部へと溶け込ませていった。
「体力が無くなっている分、しっかり支えてあげるよ」
幸は涙を流しながら笑みを浮かべた。

ドア越しに瞳には幸の声が聞こえていた。
涙を流さないように歯を食いしばる。
看護婦が点滴を用意しやって来た、ごく日常の表情だ。
「お嬢さんですね、点滴の準備をしますから」
「ごめんなさい、いまは誰もお入れすることは出来ません」
「はい・・・。あの、おっしゃっている意味が分からないのですが」
「ごめんなさい、どうしても、このドアを開けることは出来ません」
「なにをおっしゃっているんですか、こんなことは初めてです」

「見つけたぞ」
男のわめき声が轟いた。
先程の車を運転していた男たちだ。三人、四人、五人だ、がなりたてながらやって来た。
「ここは病院です、静かにしてください」
看護婦が叫ぶ。
「邪魔だ」
先頭の黒服の男が看護婦を払いのけた。
「鬼紙家の孫娘はここだな。ドアを開けろ」
「だめです、絶対に開けません」
「なんだと」
黒服が瞳の胸倉を掴みかけた瞬間、飛び上がり、黒服の内蔵を鋭く、右足の爪先で突き刺した、くの字になって弾き飛ばされる黒服。これは以前、幸から教わった武術の動きだった。
四人の男たちが瞳に向かって一斉に拳銃の銃口を向けた。
「おもしろいことをやってくれるな。だが、ここまでだ。俺達は孫娘さえ、生きて連れ帰れば良い、他の奴らは死んでいてもいいのさ、跡処理屋にまかせておけば綺麗に片付けてくれるからな」

「いやいや、自分の始末は自分でつけなさい、大人なんだからね」
男は瞳の前に立つと、くすぐったそうに笑った。
「先生」
瞳が叫んだ。
「先生ってほどじゃない。俺は、いや、私は瞳さんには何も教えていないからね、ただ、幸の教えたあの蹴りは見事だ。練習、欠かさなかったようだね」
「どっから現れたんだ、こいつは」
黒服が脅え叫んだ。
「君の右手側、歩いて来たんだけど気づかなかったかい」
「なんだと」
「ほら、それが証拠にその拳銃持つ右手、妙に痛くはないか」
黒服が初めて気づいた。肩口から血があふれ出している。
「うわぁぁつ」
「ここが病院で良かった、早く繋いでもらいなさいな、皮一枚でつながっているその腕、落ちてしまうよ」
黒服たちが拳銃を持っていることも忘れ逃げ出した。

男はドアの横、壁に背を預けると一つ、吐息を漏らした。
「さて、どうしたものかな」
「申し訳ありません、大事な幸さんに大変なことを」
「いや、これは幸が選んだことだ。瞳さんが私にどうこう言う必要は何もない。ただ、私は新米の父親だからさ、幸を叱るべきか、それとも、褒めるべきなのか。判断かつかずにいる、なんだか、情けないよ」
半時間も経っただろうか、ドアが開き、あかねが顔を出す。
「入ってください」
瞳がおそるおそる部屋へと入る。
ベッドには酸素マスクを外した瞳の母親が、先程とは別人のように寝息をたて、気持ち良さそうに寝ていた。
しかし、ベッドの足元、幸が頭を抱え、震えながら蹲っていた。
「おじさん、お姉ちゃんがお父さんに申し訳ないって・・・」
男は哀しそうに笑みを浮かべ、あかねの頭を撫でると、病室に入る、そして、幸の横、病室の床に座った。そして、ポケットから包帯を取り出す。
「自分の体に傷つけるとは何事だと叱るべきかと考えた、それとも、身を犠牲にして人の生命を救った娘を褒めたたえるべきかと考えた。なんかね、ごめんね。父さんにはどっちも無理だ」
止血をし、男は幸の左手に包帯をしっかり巻いて行く。
「お父さん、ごめんなさい」
男は何も言わず幸を抱き締めた、そして、静かに静かに泣いた。
「何も言えずに泣くだけの父親ってかっこ悪いな。ごめんね、幸」
男はそう呟いて静かに泣き続ける。
そして、どれほど経ったろう、男は幸をだきかかえ、あかねを促し、静かに病室を出て行った。

家に帰ると、居間に幸を寝かせ、男はその枕元に座る。
「おじさん、お姉ちゃんは」
「回復力が随分と強い、夜には目を覚ますと思うよ」
「それじゃ、晩ご飯作ります」
「ありがとう」
あかねはほっとしたように笑みを浮かべると、台所へ向かった。
「幸、なんだかさ、お揃いになってしまったな」
男は幸の左手を両手で包み込む。
「痛かったか、苦しかったか、恐かったか。でもな、大きな決断を自分で決めたこと、父として、家族として、誇らしいよ。でも、ほんというと、父さん、こんなに狼狽えたのは初めてだ」
硝子戸からの外の景色、夕刻、西日が差し込み始めた。炭の焼ける匂い、あかねがご飯を炊き出したのだろう。
不思議なほど静かだ。
男は幸の左手を包み込んだまま、幸の寝顔を見つめる。
自分は本当に幸が大切なのだなと改めて思う。
こんなにも大切な人と、こうしてここに一緒に居ることができるということが、なんて幸せであるのかを、幸に感謝した。


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最終更新日 : 2013-05-11 21:27:11


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