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異形二話

「うわぁぁっ、お父さん、お父さん、お父さん」
女の悲鳴に男が駆けつけた。男の税理士事務所兼自宅の一室での出来事だった。
女はぶるぶると震え、部屋の片隅にうずくまっていた。
「大丈夫、もう大丈夫」
男は女を抱き締めた。
「お父さん、お父さん、お父さん、どこ」
「ここにいる、ここにいるよ」
女の荒い息が少しずつ収まり、震えが止まる。泣き濡れた眼差しで男を見上げた。
「ごめんなさい、また、私、おかしくなってしまって・・・」
「大丈夫、安心しなさい」
あれから、一カ月が経った。記憶の一部が流れ込んだせいもあるだろう、日常生活に当たり前のように対応する、いや、仕事まで手伝うことができるのだから、それは驚くほどだ。しかし、これで三度目だろうか、急に叫びだし、うずくまる。
百年以上の心の傷が、一カ月やそこらで癒えるはずはない、いや、完全に無くなることはないかもしれない、日曜日の朝に限ってこうなるのは、平日の人の出入りの慌ただしさに必死に自分を抑え込んで耐えているのかもしれない。
男は床に座ると女に笑い掛けた。
「ここは君の家です。ほら、ここからでいい、窓の外を眺めてごらん。秋、今日は少し暖かな小春日和。窓を開ければ、梢を通り抜けた穏やかな風が流れ込んでくる。これは、今までも、今も、これから先も、君のもの。ゆっくりと受け入れていきなさい、これを自分自身の宝物と認めていきなさい」
「お父さん、私なんかが、そんなに幸せになってもいいのかな」
「君は幸せになっていいんだ、そして、君が幸せになることが父さんの一番嬉しいことなんだからね」
男は女を仰向けにだきかかえ立ち上がった。女がぎゅっと男の首にしがみつく。
「お父さんと一緒にいると嬉しい」
「それは光栄なこと」
男はそのまま、窓により、外を見る、青い空、秋の遠い空だ。
「窓を開けてごらん」
女が、そっと手を伸ばし、窓を開ける。途端、やわらかな風が流れ込んできた。
「今日は暖かそうだね」
女がすうぅっと息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと吐く。
「少し甘い」
「これは老梅の香りだな。時ずらしの結界の所為で少し花の時期が狂ってしまうんだ」
男は少し笑うと、抱きかかえたまま、台所へ。女をテーブルにつかせると、冷蔵庫から牛乳を取り出した。

「マグカップ、二つ、戸棚から出してくれます」
「う、うん」
女が立ち上がり戸棚を開けている間に、小さな片手鍋を男は取り出した。
「これに牛乳、マグカップ二杯分とちょっとを入れて、火に掛けてくれる」
「わかった」
女がいそいそと小鍋に牛乳を入れ火に掛ける間に、男は紅茶の缶と砂糖とシナモンを取り出した。

テーブルに二人つき、チャイを飲む。日曜の朝一番、ほっと一息。
女は両手でマグカップを持ち、少し啜る。
「お父さん、こんな私のこと、嫌いにならない」
「ん、そんなことない、好きですよ」
「私もお父さんのこと大好き」
女はにっと笑顔を浮かべると、少し恥ずかしげに俯いた。
男はこういう状況になるとは想像していなかったが、生命を分けたあの瞬間、自分はこの子を守り続ける責任が生じたのかもしれないと考えた。これは親という者の気持ちに近いのかもしれない。長く一人で生きて来たこともあり、戸惑うこともあるが、確かに楽しい。しかしと男は考えた。
自分が何かで死んだ時、この子は一人で生きて行かねばならない。金銭的に困らせるようなことはしない、ただ、ああいった魔物は大勢いる、いつかは自分自身で対処して行く必要があるだろう。
「今日は出掛けましょう」
「うん、何処へ」
「今までのこと、お墓へ報告に。それで、ひとつ、けじめをつけましょう。それから、君に武術と呪術を教えていきましょう」
「武術と呪術」
女は表情を引き締めた、男の思いが伝わったのだろう。
「今度は私がお父さんを守りたい」
男は少し笑うと、女の頭をなでる。
「良い子に育ちました」

山の中程にある集落、その外れにある墓地、最初に出かけた墓は、女の両親や先祖の眠る墓だった、女は桶に入れた水を柄杓に取り、墓石に流しかける。そして小さなタワシで洗い始めた。
山の斜面に作られたこの墓地は、今の時間、ちょうど日差しが差して暖かい。見下ろせば遠くに町が見える。
明治の頃なら、本当にここは山奥の村だったのだろう。ここで君はどんな風景を見ていたんだ、そう心の中で問うてみる。それはなんて、罪な問いかけだろうか。
「足りるかな、水を汲んで来ましょうか」
「ううん、大丈夫」
女は振り返り、笑顔を浮かべた。
「それに一人になるのが怖い」
「そうだね」
掃除を済ませると、女は黙ったまま手を合わせる。
どれほどの思いが込められているのだろう、身じろぎひとつせず、両手を合わせている。
男も女の後ろで手を合わせた。
「お父さん」
女が振り向く。
「どうしました」
「教えて欲しいことがある」
「どんなこと」
「本当のこというと、私、何も思い出せない、誰も思い出せない。なんて、私、酷い奴なんだろう」
「君は」
「両親のことも兄妹のことも友達のことも何も思い出せないよ・・・」
女の手が震えていた。ぎゅっと唇をかみしめ涙の流れるのを抑え込もうと俯く。
男は女を抱き締めた。
「君が悪いわけじゃない、辛くて、哀しいことだけれど、それは決して君が悪いことではない。自分を責めないで」
男は女を座らせると、その横に座る、墓を背にし、青い空の下、遠く町並みが見える。
「思い出せないのは君の中で君自身が思い出させないようにしているからだろう」
「どうして」
「心が壊れてしまわないため」
男は女の手をしっかり握った。
「その時のこと、両親のこと、思い出せば君は正気を保てない」
「どうしてそう言い切れるの」
「それは父さんがその情景を見て、経験して苦しんだから」
「え・・・」
「あのとき、君の中に父さんの記憶が少し流れ込んだろう」
「うん」
「あれは予想外のことだったけど、血の継承で記憶をね、引き継ぐことができる。祖父が自分の代では君を見つけることができないと観念した時、父にね、君に関する記憶すべてを継承させた、そして、父さんはさ、父からその記憶を継承した、それはまさしく、自分自身が体験するようなものだった」
「お願い、教えて欲しい」
「今は無理、教えられない、君が一人の人間として自立できるようになるまで待って欲しい」
「お父さん、泣いているの」
男は唇をかみしめ、その眼から涙が流れだしていた。
「まさか、この齢になって泣いてしまうとはね、情けないな」
「ごめんなさい。私、自分のことばかり」
女は呟くと、努めて笑顔を浮かべた。
「私にはこうしてさ、大事なお父さんがいてくれるから、もうそれ以上は何もいらないよ」
男はそっと女を抱き締めた。
君は真実を知った時、本当に正気を保つことができるだろうか、もう一度、笑顔でこの地にやって来ることができるだろうか。

それから、二人は男の父親と祖父の眠る墓へと向かう。男はようやく女を見つけたこと、そして、彼女を娘にしたことを伝えるつもりだった。

二つの墓を回り、その帰り、街のオープンテラスのレストランで早目の昼食をとる。たくさんの行き交う人達、賑やかなひとときだ。
「お父さん、あのね」
「どうしました」
「私の名前だけど」
あ、と男は気づいた。男はいつも、女を「君」と呼んでいた。何やら、気恥ずかしく、どうしても、「君」と呼んでしまっているのだった。
「お父さん、私に名前を付けてほしい」
「名前を」
「私はまだ情けないくらい不安定だ。お父さんといる今も、こうしている今も、ひょっとして夢なんじゃないか、私はまだあそこにいて・・・、そう思うと胸の奥がきゅっと痛くなる、そして、息が出来なくなる」
「そうか・・・、気づいてやれずにごめんね」
「違う、違うよ。お父さんは悪くない、私が私が・・・。ごめんなさい」
「今日一日、ごめんなさいは禁止。いい」
「うん」
男は笑顔を浮かべると、一口、珈琲を飲む。
名前を付けるのは難しい、特に呪術の世界に片足突っ込んでいる人間にとって、名前を付ける、名前を告げるは危険と隣り合わせだ。しかし、名前を付けること、それは存在する証しともなり得るものだ。彼女には今、彼女自身が安寧でいるためにも名前を必要としているのかもしれない。
「わかりました。二つの名前をあげましょう」
「二つの」
「そう、一つは本当の名前、もう一つは普段の名前。こっちにおいで」
女は立ち上がると男の前に立った。男は椅子に座ったまま、女を見上げる。
「両手をこちらに」
男も両手を出すと、女の手首をしっかりと握った。
「少しかがんで、額を出して」
男は女の額に自分の額を重ねた。
「私達の技は呪を唱えません。ただ、強く意念を用いるのみ」
男が息を吐く、瞬間、女の体が吹き飛ばされるように浮かんだ。男が手を握っていなければ女は確実に飛ばされていただろう。
「いま、君の心の奥底に本当の名前を刻印した、わかるかな」
「うん、わかる、不思議な名前、名前そのものがなにか力を持っているような気がする」
「もちろん、持っていますよ。ただ、この名前は口にしてはいけません、これは絶対の約束、いいかな」
「約束する」
男は手を放し、ほっとしたように女に笑い掛けた。
「さてと。何か希望はあるかな、普段の名前」
「お父さんの付けてくれる名前が私の希望の名前だよ」
「ええっと、それは責任重大だ。うーん」
男は女を見上げ、呟くように言った。
「一番の願いは君が幸せであること、今様のかっこいい名前もいいのかしれないけれど、名前に、幸せであれと、この願いを託したい」
「お父さん」
「幸福の幸の字をいただいて幸子、ゆきこ。でいいかな。さちこって呼ぶとなんだか演歌の人みたいだし」
女が男に抱き着く。男の両手が戸惑ったように空を掴んだ。
「ありがとう、お父さん」
女は男の耳に口を寄せ囁いた。
「名前を付けてもらったこと、これでね、今日は、私が生まれた日になったんだと思う」
「そういう考え方も楽しいね」
「うん」
女は体をずらすと、自然なそぶりで男に口づけをした。
そして、口づけをしたまま、男をしっかりと抱き締めた。男はいきなりのことに戸惑いを隠せずにいたが、観念したように、目を閉じた。
「お父さんの唇、少し苦かった、珈琲、ブラック。私の唇はどんな味がした」
「甘い・・・」
「それはショートケーキだ、苺の」
女がくすぐったそうに笑った。
少々というか、いや、多々、回りの視線が突き刺さる。
女は男の横に椅子を据え、隣りに座った。
「私、お父さんと同じ時代に生きている、そして、同じ方向を見ている、それがとても嬉しい」
「そうだね、そう思うと普段の風景も違うように見えて来る」
「ね、お昼から用事あるの」
「特にはないよ」
「それじゃ、夕方まで、散歩しよう。同じものを見て回ろう」
「そういうのも面白いかもしれないね。財布渡すから、レジで会計してくれる、ちょっとね、レジへ行く勇気ない」
「なんだか、私、お父さんに頼まれたら元気百倍、なんでもできそうな気がする」
女は男の財布を受け取ってレジへ向かった。
ここがオープン・テラスで良かった、男は一人呟くと立ち上がった。世間体を気にするほどではないが、といってあまり人前で、いや、人前でなくても父娘では。
「お父さん、おいしそうなサンドイッチがあったからテイクアウト、お腹が減ったら一緒に公園で食べよう」
ふっと女は真顔になり男の目を見つめた。
「私はお父さんにとって必要な存在になれるかな」
男はそっと囁いた。
「自分を認めてくれる人の存在はとても大切。それは生きる理由と同義だ。幸が父さんをそう認めてくれているのはとても嬉しいし、父さんが生きている理由でもある。ありがとう」
女は男の胸に顔を埋め、静かに、静かに泣きだした。
「もっと肩の力を抜いていいよ。そして泣きなさい」
男は不思議に感じた。会って一カ月、それなのに、まるでこの子が生まれた時からずっと一緒に暮らして来たように思えてくる。
そして、そんな気持ちを正直に受け入れてしまおうと自然に思うことができる。
小指は約束の証。一生に一度だけの約束。
男はもう一度囁いた。   「ありがとう」

2
最終更新日 : 2013-05-11 21:27:11

異形三話

「お父さん、もう寝た」
そっと呟く。
枕を抱え、幸はそうろと、男の部屋の襖を開けた。もう一緒の部屋に寝るのは卒業しなさいと男は幸に隣りの部屋をあてがったのだった。
男は心配していた。幸は既に呪術についても、武術についても男の能力を超えていた。
男はそれを素直に喜んだのだが、一つの問題が残ったのだ。幸は変わらず、極度に父親への依存を残していた。慕ってくれる娘はとても可愛い、だが、考えるの は、あの魔物は幸を拘束し、自らの道具として扱った。自分自身はどうなのだ、幸を独立し自我を確立させた一人の人間として育てるべきではないか。今のまま では、俺はあの魔物と対して変わらぬ扱いを幸に為しているのではないか。

幸は男の布団に忍び寄ると、男の顔をそっとのぞき込んだ。さらさらと流れる髪を男の顔にかからぬようたくしあげる。
「お父さんが私のこと、しっかり一人でも生きて行くことができるようにと思ってくれているのはとっても嬉しい。でも、私、お父さんのこと、大好きだもの、 いつも、一緒にいたいんだもの」
女は寝間着を脱ぐと、下着も外し、男の布団にもぐりこんだ。男の左に横になり、両腕で男の左腕でを抱き抱えた。
「私はお父さんの左手の小指だよ、だから、ここが一番、私だけの場所なんだ」

朝方、男はいつもより早くに目覚めた。窓のカーテンを閉めたつもりだったが開いている、部屋の明るさに目覚めたようだ。男は上半身を布団から起こすと、時 計を見る。もう一寝入りするか、いや、それとも朝刊でも。
あぁ、左腕だ。いつ頃からだろうか、どうも朝、起きると左腕が重い。まさか、これが四十とか五十とかの名が付く肩こり。年齢を単に数として数えなきゃなら ないのは仕方がない、しかし、体の状態としてそれが現れるのは厳しい。

「お父さん、お父さん、朝だよ」
幸はばんっと襖を開けると、男の太ももの上にどんっと乗っかった。
「おはよう、お父さん」
幸は男の両肩に手をやり、男に口づけをする。そして、幸の両腕に力が入った。
男は瞬間、数センチ、下に擦り抜け、位置を替えると、幸の両太ももから体を抜き出し、跳ね起きた。
「朝から、運動させないように」
「ちょっとした、お目覚めのキスだよ」
「舌を入れるな」
「これは流れっていうか、勢いみたいものだね」
えへへっと幸は笑うと、ぱんぱんと布団を叩く。
「もう一度、ここ座って。お願い」
男は呆れたように、ひとつ、溜息をつくと、幸の前に座った。
「はい、チラシです。今日のカニ食いまくり一泊バスツアー、ついでに、ちょっとした観光もありますが、目的はカニです。カニ様ですっ」
「ええっと、今日は土曜日お仕事です、平日です」
「仕事は昨日のうちにすべて済ましておきました、月曜日、書類をそのまま鞄に入れてクライアントに持って行くことができます」
「どうして・・・」
「忘れたの、今日はお父さんの誕生日だよ。お祝いのカニ旅行さ」
そう言えばと、男は幸に誕生日を問われたことを思い出した。男は自分の誕生日を知らない、だから、あの日を誕生日代わりに答えていた。それで、印象が薄 かったのだろう。
「覚えていてくれたのか」
「忘れるわけないもの」
男はそっと右手で幸の頬を触れた。
「ありがとう、幸」
「・・・お父さん」
幸が微かに俯き、そして、瞳を閉ざしたまま、少し、顔を上げる。
「ありがとね」
男は立ち上がると押し入れを開けた。
「布団をしまわなきゃ」
「もぉっ、お父さん。言葉だけじゃだめ」
「お父さんは恥ずかしがり屋さんです、ていう以前に父娘でござんす。でも」
「え・・・」
「幸の表情や言葉、とても豊かになったね。それがとても嬉しい」
「あ、ありがと・・・、私が片付けるよ。お父さん、顔洗って来て」


観光を終え、やっとホテルの部屋にたどり着いた。
「ええっ、一緒じゃないんですか」
「はぁ、男湯は十一階、女湯は地下一階となっております」
幸は仲居の言葉に、そのまま宿のテーブルにうつ伏せた。
「お嬢様、大丈夫ですよ」
「え」
「お時間で男湯と女湯を交替致します、ですから両方の御風呂をお楽しみいただけますよ」
「そうじゃなくて、あっ、それじゃ、この家族風呂はどうですか」
「こちらはご予約制でございまして、フロントにてお承りいたしますが、ただ、ご家族の場合でもお子様は小学生までとさせていただいておりまして」
「え、あっ、私、妻です。ねぇ、あなた、そうでしょう。せっかくだし、一緒にお風呂入りましょうよ。背中、流してあげるわよ」
「娘が何か申してますけど、また、分からないことがありましたら、フロントに問い合わせしますので」
「そ、それでは」
そそくさと、ホテルの仲居が部屋を出て行った。
「ええっ、どうして。テレビの旅番組、混浴だったよ」
「そういうのは珍しい、普通は別々」
「そうだったんだ」
幸が溜息をつく。男はおかしくて笑った。
「幸、必死だった」
「だって」
男は湯飲みにお茶を入れると、幸に差し出した。
「だってさ」
男は少し笑うと、自分の湯飲みにお茶を注ぐ。
「幸はこんなおっさんを大切に思ってくれる、それは嬉しい」
「こんなじゃないもの、お父さん、世界で一番かっこいいよ」
「それは極々少数意見だな、多分、幸くらいだろう、そう思ってくれるのは。ありがとう」
「さて」
男は立ち上がるとホテルのタオルを取り出した。
「夕食まで御風呂入ってくるよ。幸もせっかくだ、御風呂に入って来なさい」
「うぅっ、うーん」
「さぁ、立って準備して」
「お父さん」
「ん」
「浮気しちゃだめだよ、絶対」
「男湯で浮気は困難だ。それに、父さん、幸のこと、大好きだから、浮気はしないよ」

ガラス戸を開ける、幸はこんな広い大浴場に入るのは初めてだった。
掛け湯をして入る、そして、タオルは頭の上、タオルで髪をまとめてみる。
うん、これで御風呂の作法は良いはずだ。
見渡してみる、大浴場、ドアの向こうは岩風呂らしいけれど、そこまで行くのは、なんだか恥ずかしい。
ここにいるのは十人くらいかなと何気なしに数えてみる。
小さな女の子が、母親にだろう、頭を洗ってもらっている、でも、あまり女の子は得意ではないようだ、ちょっと痛そうな顔をしている。
女の子は幸が自分を見ているのに気づき、にっと笑う。幸も少し手を振り、笑い返した。
ゆっくりと母親が女の子の頭からお湯を掛ける。
幸はなんて幸せな情景なのだろうと思った。
「子供か・・・。いいな、こういうの」
とにかく、と幸は考えた。
父娘というのは便宜上のものというか、見た目がそうだからってだけだ。幼な妻なんて言葉もある。お父さんは、とっても奥手なわけで、生真面目なわけで、私 がしっかり誘導してあげれば、きっとお父さんだって。
「幸、本当にいいのかい」
「うん、だって私・・・、お父さんのこと、愛しているもの」
「うわぁ、愛している。きゃー」
幸は妄想が声に出ているのに気づき、あたふた、お湯の中へ潜り込んでしまった。
恥ずかしい、誰かに聞かれたろうか、少し顔を出し辺りを眺めたがこちらを見ている人はいなかった。
そうだ、とにかく、夕食はビールを注いで、ほろ酔い気分にさせよう。
もう、しょうがないなぁ、飲み過ぎだよぉ、私が肩貸してあげるよ
えっと、そうなると私がお父さんの左側にこう立つわけだから、そうだ、ちょっとよろけて、すぐにたち直すんだけど、その時、お父さんの左手が私の胸に触れ て、私が小さく、「あっ」って叫んで、そうしたら、お父さんがごめんて言うから、ううん、お父さんなら、いいの、だって、私・・・、って言いながら、少し 顔を赤らめて見上げる。
よし、今日はしっかり体を洗って、私、頑張る。
湯船から幸が立ち上がった瞬間、幸は手を伸ばし、何か黒いものを掴んでいた。
すうっと鋭い目付きでそれを見る。それは小さな鼠だった。
なんでこんなところにいるんだ。
顔を寄せ、じっくりと鼠を見つめる。
この鼠、人の眼をしている、なんなんだ、これは。そうか、術者だ、術者が心をこいつに入れて偵察しているんだ。
幸はふっと鼠に息を吹きかけた。
「あんた、この鼠が死ぬまで、その中で鼠として暮らしな」
幸は鋭いまなざしのまま笑うと、鼠を軽く放り投げた、着地する前に鼠は消えてしまった。
でも、と幸は考えた。
どうしてこんなのがいるんだ、術者なんて数も少ないし、それが偵察をして何かをしようとしている。
まさか、お父さんを。そうだ、お父さん言っていた、呪文を唱えないこうした呪法は外法とさげすまされ忌み嫌われている、だから、普段は術者としての気配は 消しておきなさいって。
まさか、お父さんが危ない。ううん、大丈夫だ、お父さん、強いもの。どんな奴が束になって襲ってきても、お父さんならふふんって鼻歌唄いながら、けちらし てしまうもの。
でも・・・、お父さん、左腕がおかしいって言ってた、あれ、私のせいだ。毎晩、私が抱いていたせいだ。もしも、お父さんが怪我をしたら、私のせいだ。ごめ んなさい、ごめんなさい、お父さん。
お父さん、今、助けに行く。
幸の右手に刀が現れた、長物、ゆうに2メートルはある。
それを軽々と片手に持つ。
幸は体の後ろに刀を隠すよう構えると、入り口の扉を睨みつけた。弾かれたように扉が開く。
大丈夫だよ、お父さん。いま、行く。

「お風呂直すかなぁ」
男はつぶやき、悠々と足を伸ばす。なんといっても、足を伸ばしきれるのがいい。
思い切って、お風呂を大きく直そうか、しかし、財布の紐をしっかり幸に握られているいま、贅沢だと叱られるかもしれないな、まっ、こういうのも、たまにだ からいいのかもしれない。

・・・お父さん・・・
幸の声がしたような気がした、その瞬間、ばんっと扉が開き、怒涛の風が流れ込んだ、湯が洪水のように弾け飛ぶ。
「お父さん、大丈夫」
「あぁ、1秒前まではね」
男は回りを見渡す。桶が散乱しているのはもちろんのこと、辺りは水浸し、5人、倒れている、一人足りないな、逃げたか。
「みんな、意識を失っているだけだ、お父さんは大丈夫だよ」
幸はこの惨状に初めて気づき狼狽えた。
「お父さん、これ、どうしよう」
「まずは刀を消してくれる」
「は、はい」
かき消すように刀が消えた。
「何があったか、訊くのは後回しだな。脱衣所、入り口一番近くのかご、十一番が父さんの使っていたかごだから、浴衣と帯をして、女湯に戻りなさいな。その 間、誰にも会わないよう、誘導してあげるよ」
「ごめんなさい、お父さん。後で浴衣と帯を返すからね」
「それ、早く行け」
「はいっ」
幸が男湯を飛び出した。
男は目を瞑り、小さく小さく呟く。
「立派なモノをお持ちですな、羨ましい」
男が薄目を開ける、太った老人が男の前にいた。一人、足りないと男が判断した老人だった、まるで、大きな酒樽のような姿だ。
男は、かまわず、そのままの表情で呟き続ける、やがて、幸が女湯に辿り着いたのだろう。男は老人の目を睨め付けた。
「申しわけありませんが、下(しも)のお話は得意ではありませんので」
「いやいや、先ほどの人形(ひとがた)、護法童子のことです。あれほどのモノを作られるとは名のある術師とお見受けいたしましたが」
「あれは私の娘です。娘をモノに喩えられるのは不快です。次は命がありませんよ、後ろの方にも、そのようによろしくお伝えくださいな」
「何もかもお見通しのようで、あな恐ろしい」
老人は奇妙な笑い方をするとそのまま立ち去った。
まずは、気絶した人達を起こすか・・・。

「あぁ、もう最悪だよぉ」
テーブル式の宴会場、幸にとっては今回の最大の目的、カニ食べ放題の会場だった。
テーブル、幸は男の前の椅子に座り、皿一杯のカニを前にしても、ぶつぶつと繰り言を呟いていた。
「ごめんね、お父さん。変なツアーになってしまって」
「ん・・・、父さんは嬉しいけどね、だって、幸が計画してくれた旅行だからさ。どうしたら、父さんが喜ぶか、考えてくれたんだろう」
「うん、そうだけど」
「なら、こんな嬉しいことはないよ。良い娘を持ちました、たまに暴走するけどね」
「だって、あれは・・・」
「鼠を使う奴らは、そうだな、たまにはいる。確かに何かあるかもしれない。とにかく、判断材料が少ない今、考えても仕方がない。なら、喰いましょう、カニ 様を」
「私、食欲ないよ」
「ん、幸はカニは初めてだったかな」
男は器用に蟹の身を取ると幸のお皿に載せた。
「まずは、ささっ、喰うてみなさい」
「いいけど・・・」
渋々といったふうに幸は自分の口に蟹の身を運ぶ、そっと食べる。
「うわっ、美味しい。ええっ、どうして」
「それはカニさまだからです」
男は笑って、次々と蟹の身を取り出すと幸のお皿に載せていった。
「お父さんも、お父さんも食べて」
「こういうところで食べるカニは、スーパーとは違うな」
「お父さん、私、機嫌直った」
「それは良かった。カニ鍋に焼きカニ、豪勢なものだな」
「幸、その小さな七輪、網にカニの足を載せなさいな」
「うん、わっ、香ばしい匂いだ」

「御同席お願いできませんかな」
男の前、幸の後に風呂場での老人とその妻だろうか、品の良い女性が立っていた。
「他に席がないのでしたら、どうぞと申し上げますが、まだ、いくつも空いたテーブルがあります、そちらにお願いできませんか。親子団欒の最中ですので」
「もう、あなたったら。失礼ですわよ」
後の婦人に促され、二人は一つ置いたテーブルについた。
「お父さん」
幸は声をひそめ、男に話しかけた。
「背中が冷たかった」
「そうだろうな、あれ、空洞だからな」
「どういうこと」
「うーん、幸は間違いなく、お父さんよりも呪術も武術も上回ったけど、経験はもう少しだな。世の中、遍くいろんな存在がある。でも、あとでね、カニを食べ なきゃ」
ふと、幸はビールのことを思いだした。
「ね、ね、お父さん、たまにはビールとか、た、頼んだらどうかな。折角の旅行なんだし」
「どうしたの、いきなり。父さん、あまり、アルコールとか得意じゃないし」
「だだ、大丈夫だよ。少しくらい」
「なら、一本だけもらおうかな」
「それじゃ、私、もらってくる」
幸は立ち上がると、ウエイターに声を掛けに行った。

男は、一つ吐息をもらすと、辺りを見渡した。いくつか、そう、いくつかの人外ものがいる、密度が濃すぎる。これは縁というものなのか、しかし、幸には、こ んなのじゃなくて、本当に普通の、何処にでもあるような平凡な生活を送らせてやりたい。あの子はもっと幸せになるべきだ。
呪術を教えたことは間違いだったか、いや、特別な力がなければ、自身を守ることは出来ない、なんてことだろうな、矛盾した話だ。一度、足を踏み込んでしま うと、もう、抜け出せないのだろうか。
「お、お父さん、どうぞ」
幸は男の横に立ち、ビール瓶を差し出した。
「それじゃ、ちょっとだけ。半分、注いでくれればいいよ」
「は、はい」
「どうしたの、妙に緊張している」
「そ、そうかなぁ」
男は幸にビールを注いでもらうと、美味しそうに一口飲んだ。
「幸も、さぁ、食べなさい、残したらもったいない」
「そうだよね、もととらなきゃ」
「太り過ぎない程度にどうぞ」
「私は太らないよ、だって、お父さん、細身の女性が好きなんだもの」
「別にそういうわけでもないのだけど」
「ね、横に座ってもいいかな」
「どうぞ」
幸は男の横に座り、今度はカニ雑炊を食べ始めたが、ふと向こうのテーブルに気づいた。
「お父さん、あの女の子だ」
それは、幸が風呂場で手を振った女の子だった。
「バスは3台出ていたから他のバスに乗っていたんだろうな」
「お父さん、なんだか、おかしい。女の子、じっと座っているだけだ」
男は女の子の両親だろう、お互い視線を虚ろにしたままカニを食べている夫婦の姿に疑念を抱いた、どこかに操る奴がいる。
「おせっかいしますか」
「うん、気になる、何か悪いことが起こりそうな気がする」
男は自分の髪の毛を一本抜くと、女の子に向けてふっと吹き飛ばした。瞬間、幸の姿が薄くなったかと思うと、女の子を自分の膝に乗せていた。そして、女の子 は変わらず向こうのテーブルにもいた。
「髪の毛、一本だけど如才なく対応するでしょう」
男は呟くと、女の子を見つめた。
「ちょっとだけ時間いいかな、カニ、お姉ちゃんが一緒に食べようって」
女の子は驚いたふうに目を見張っていた、一瞬にして、知らない女性の膝に自分が座っているのだ。しかし、幸の自分を見つめるまなざしに、不思議なほどの安 堵感を覚えた。
「だめなの、あたし、水しか飲んじゃいけないの」
「それは、おっちゃんもお姉ちゃんもとっても哀しい」
「お母さんにそう言われたのかな」
幸は、そっと女の子に頬を寄せ語りかけた。
「今日は神様になる日だから」
「神様って・・・」
男は笑顔でそっと囁いた。
「そっか、でもね、お腹減ってたら、動けないし、哀しいし、そんな君を見たら、お母さんも哀しいかもしれない」
「お母さんが」
「そうだよ。ね、君の名前は」
幸が言葉を継ぐ。
「あかね」
「あかねちゃん、良い名前だね。お姉ちゃんは幸っていうの」
「幸お姉ちゃん」
「うん、そうだよ。今晩、あかねちゃんはとっても困ったり、哀しかったり、怖かったりするかもしれない。その時は幸お姉ちゃんの名前呼んでくれる」
「うん」
「お姉ちゃんは、ほんとはとっても凄い魔法使いなんだ。だから、呼んでくれたらすぐに助けにいくからね」
初めてその女の子は笑顔を浮かべた。いったい、どれほどの苦悩をその身に隠していたのだろう。
「ね、カニを食べよう」
「ううん、我慢する」
「そっか。それじゃ、お守りをあげよう」
幸は髪を一本抜くと、女の子の手首に括った。すぐに髪は手首の中に消えてしまった。
「幸お姉ちゃん」
「ん・・・」
「また、お母さんやお父さん、笑ってくれるかな」
「大丈夫だよ」
女の子が笑顔を浮かべた。
幸の姿が一瞬消え、再び現した時、膝に女の子の姿は見えず、一本の髪の毛だけを持っていた。
「幸、人はどうして学習しないんだろうな、また、愚かなことを繰り返そうとしている」
「お父さん、神様って」
「言葉どおりのことだよ、外神という異なる次元に住む神、邪悪な力の集合体だ」
「世代が代わり、不安定な時代が来ると、決まってあんなのにすがろうという奴らが現れる」

食事の後、二人はお土産コーナーを覗く、ある意味、どこにでもあるまんじゅうだとか、ちょっとした特産品が並ぶ。
「お父さん、羊羹の詰め合わせがあるよ、おいしそう、買っていいかな」
「そうだね」
男は少し沈んだように答えた。幸は、心配げに男の顔を見つめていたが、男の腕にしがみつくようにして、見上げた。
「部屋に戻ろう、ね、お父さん」

部屋に戻ると男は椅子に腰掛け、窓から夜の海を眺める、十階からの眺望だ、眼下には温泉街、車のヘッドライトだろうか、賑やかに明滅している。
そんな男を気にして、幸はぼぉっとテレビのニュースをつけたまま、俯いている。
男はひとつ吐息を漏らすと、ゆっくりと立ち上がった。
「テレビ、消してくれる」
「う、うん」
幸がテレビを消すと、男は入り口の横にある室内灯のスイッチを消した。
外からの明かりが辛うじて二人の姿を映す。
男が部屋の中央に座る、幸は自然と男の前に座った。
「あまり顔が見えないね」
「うん、うっすらとお父さんの顔が見えるだけ」
「父さんも幸の顔、はっきりと見えないな。でも、この方が話しやすい」
闇の中、男は見えない笑顔を浮かべた。
「幸、父さんは新米だ。何十年もお父さんをやっているわけじゃない。でも、幸のこと、一番大事に思っている、それだけは自信ある」
「ありがとう、お父さん、私もお父さんのこと、一番大事だよ」
「ありがとう。ただ、父さんはわからないんだ、幸には幸せになってほしい、でも、父さんは幸せというものが分からない。平凡に生きて欲しい、普通の、どこ にでもいる女の子のように生きて欲しいと思うこともある。いや、それが一番いいんだと信じたい。でも、父さんは術師であり、その血と肉と骨を幸に与えて、 幸まで、父さんと同じ世界に引き入れてしまった」
「違うよ、お父さん。私は普通の女の子じゃなかった、お父さんに会うまでからさ。だから、心を入れ替えました、これから普通に生きて行きますなんてなるわ けないよ」
幸はそっと笑顔を浮かべ、男に囁いた。
「ね、お父さん、本当は私、とても悪い人間なんだ、心も体も汚れていて、人の命くらい平気で奪うことができるんだ。でも、お父さんといると、お父さんのこ と考えていると、良い娘になりたい、優しくて思いやりのある、そんな、お父さんに好かれる娘になりたい、そう思えるんだ」
「ね、お父さん、お願いだよ。幸を良い娘のままいさせてよ、お父さん」
男は黙って幸を抱き締めた。
「愛している、お父さん」
「お父さんも幸を愛しているよ」
「お父さん、私の浴衣の帯を解いて。もっと、お父さんの近くに行きたい」
男は黙って幸の帯を解く、そして、幸の両肩に手を触れ、ゆっくりと浴衣を脱がした。
「お父さん、恥ずかしいよ」
そっと俯く。
「恥ずかしくなんかないよ、幸はとっても綺麗だ」
「・・・お父さん」
男はそっと幸の胸の膨らみに触れた。
「とってもやわらかい」
「なんだか恥ずかしいけど、嬉しい」
一瞬、幸の体が硬直した。
「うわぁぁぁっ、お父さん、体中が痛いよ、体がちぎれてしまいそうだよ」
闇の中、男は素早く幸を仰向けに寝かせ付け、幸の体に両手をかざした。
「幸、目を瞑ってなさい」
幸がぎゅっと唇を噛み、目を瞑る。
男の両手が薄青く光り出し、幸の体を照らし出した。
体中が乾いた土塊のようにひび割れだし、そのひび割れから血が滲みだしていた。少し押せばもろく崩れてしまいそうだ。
男はぐっとにらみつけると無言のまま、両掌を天へとかざし、手を下ろすと右手を幸の臍に置き、左手をその上に重ね、強く息を吐いた。
幸の体に清水が染み渡るように拡がり、ひび割れは消え、柔らかな体に戻る。
「目を開けてごらん、まだ、何処か痛いか」
「痛くない。お父さん、ありがとう・・・」
「どういたしまして」
男は笑顔を浮かべると、幸の背中を支え、体を起こした。
「浴衣、着なさいな」

・・・お姉ちゃん、幸お姉ちゃん・・・

「あかねちゃんだ・・・」

「幸、浴衣やめて服を着なさい」
男が鋭く言った。
「はい」
室内灯が点く、一瞬で二人は浴衣を脱ぎ、着替える、そして、男は腰の後ろに小刀を差した。
「幸は覚えていないだろう、幸もあかねちゃんと同じだったんだ、祖父は幸を助け切れなかった」
「ええっ、そ、そんなの聞いていないよ」
「父さん、いま、初めて言った」
「行くぞ、幸」
「は、はい、行きます」
部屋のドアを開け、二人は駆け出した。
「幸、位置を特定できるか」
二人、加速し、まるで、階段を落ちていくように駆け抜ける。
「この距離だと地下のお風呂場です」
「水を媒体にしたか」
階下に降りるほど、ホテルはまるで廃墟の様子を呈しだしていた。
「時間をずらして壁を作ろうとしている、新手だな」
「お父さん、地下への階段がない」
空気を劈き、二人も停止する。目の前、階段があるはずの場所は鉛の色をした壁になっていた。
「幸、刀を出しなさい」
「はい」
幸の右手に2メートルはあろう長刀が現れた。
「まやかしの呪符がある、中央を切り裂け」
「はいっ」
袈裟懸けにいっせん、溶けるように壁が消え、地下への階段が現れた。

・・・幸おねぇちゃん・・・

「聞こえる、あかねちゃんの声だ」
男は地下へと一気に飛び込んだ。
地下の大浴場、だった、はずだ。湖、鉛かと見まごうような凪いだ湖が広がる。バス3台分の人間達、浅瀬だろう、膝辺りまでびちゃびちゃと音を立て無表情に 踊っている。
「あれか」
緑色の小さな光球が空中に浮かび、二人の人間が光に捧げるようあかねを高く差し出していた。
よく見れば、光球の表面が時折脈動している、外神の本体が出現しようとしている。
「じいさん、あの時と同じだ。今度は失敗しないよ、憑依させてたまるか」
「呪は唱えない、この身この心、既に呪と化したモノ、強く意念を用いれば、それ、すなわち、呪なり」
「いやだー」
あかねの声が空気を切り裂いた、瞬間、男の姿が消え、あかねを抱いたまま、足下の人間を蹴り飛ばした。水面を駆け、陸地へ戻る。
「ああっ、おねえちゃんが」
男が振り返る、幸が光球を見つめ茫然と立ちつくしていた。
「うわぁぁぁっ」
幸の叫び声が空気を震わせる。
「みんな死んでしまえ、どうして、あたしだけが、あたしだけが」
2メートルもの長刀が空気を切り裂き、刃の殻と化す、
「死んでしまえ、なにもかも、消えてなくなれ」
「おっと、これは参ったな。思いだしてしまったか・・・」
男は茫然としていたが、あかねを地面に降ろし、幸と緑の光球を交互に見る。
「言霊にすらなり得ない喚き声には力はない、しかし、外神、押し返すの手伝って貰らうつもりだったけれど、これでは無理だ」
幸に近づこうとするあかねを男は押しとどめた。
「おねえちゃんに近づいたらだめ。遠くから見守ってやって」
男はそっと語りかけると、光球を見つめた。憑依する体を無くして、制限が効かなくなったのだろう、じわじわと大きくなっていく。
「個人零細自営業者、人を雇いたくても給料払えませんってやつでね、一人でなんとかしなきゃならない」
男は腰から小刀を抜くと、光球に対して半身に構え、刃先を光球に構えた。
「帰れ、闇の空間へ、光なき遠き宇宙へ」
男が静かに息を吐き出す、男の足が地面に食い込みだした。男と光球の間、空気が重く密度を増す、まるで鋼のように空気は固まり、じりじりと光球が後退しだ した。
男が呟く。
「親父、俺がまだ小さな頃、さらって来たんだってな、必ずしも実子が才能を受け継ぐとは限らない、才能があるとかで、俺にとっては、そんな勝手な理由で、 さらってきたんだったな。俺はその運命を受け入れた、小さな子供がどうやって、逃げ出すことが出来る。その反感か、俺はこの力を俺の代で終わらせるつもり だった。親父、爺さん、良かったな。間に合ったよ。しかし、次にこいつが来たときは知らないぜ。今日は俺がさらわれた記念日だ」
「闇に帰れ」
光球の後がじわりじわりと消えだした。半球となる、あがなおうとするのか、表面の脈動は大きくなり、それがまるで触手のように動き出す。
「帰れ」
光球がふっと消えた。
男は刀を構えたまま、消えたその先を睨み続けた。
踊っていた人間がばたばたと倒れていく、操り糸が切れてしまったように。
「まだ、一つ仕事が残っている、こっちの方がやっかいで、俺にとっては大切な仕事だ」
そっと振り返る。
状況は変わらず、いや、より酷くなっている。刀が見えない、目で追える動きを越えたということか。
「うわぁぁ、何もかも死んでしまえ」
男はほっと溜息を漏らし、小刀を腰に戻した。
「あかねちゃん、お姉ちゃんはね、友達がいなくてね、寂しがり屋なんだ。お姉ちゃんが正気に戻ったらさ、いい子にするよう言い聞かせるから、友達になって やってくれないかな」
「お姉ちゃんが優しいこと、私もう知っている、友達だよ」
「ありがと」
男はあかねの頭を軽くなでると、手を離し、幸に近づいた。
幸の動きにはまだ癖が多い。見えない以上、運を天に任し、感でと経験で動くしかないか。
男は呟くと、何事もないよう、普通に歩き出した。男の足跡が消えていく。体の重さが消える。
風を読め。
男はふわっと幸の後に現れると反転し、右腕で背中を押さえ、体を落とした。幸の体が地面に落ちる。長刀が柄の辺りまで地面を貫いていた。
「みんな死ね、消えてなくなれ」
涙を流しながら、幸は呻いた。
「あの頃の幸のこと、知っているよ。沢山の人に裏切られたこと、傷つけられたこと。人身御供にされたこともね」
「なら、どうして、どうして」
「許すのは無理だろう、ただ、幸、お父さんは本当に幸のこと、愛している。大切に思っている」
男は手を離すと、幸を抱き起こし、しっかりと抱きしめた。
「まずはお父さんを斬ってくれないか。お父さん、幸の怖い顔、見たくないんだ、怒った顔、見たくないんだ。だから、最初に殺してくれないか」
「いやだよぉ、お父さん、お父さん。うわぁぁっ、私、良い娘になるよ」
幸は男にしがみつくと、静かに静かに泣きだした。

踊っていた人間達を元の世界に戻し、正気を取り戻させることくらい、幸には容易いことだった。彼らを脱衣所に仰向けに寝かせ付ける。
「あかねちゃん、恥ずかしいとこ、見せちゃったね」
「でも、お姉ちゃん、来てくれた、嬉しかった」
「役に立たなかったけどね」
幸は恥ずかしそうに笑うと、男の後に隠れた。
「すぐに、みんな意識を取り戻すよ。あかねちゃんのお父さんもお母さんもね」
男は笑顔を浮かべるとあかねに話しかけた。
「みんな、2、3日、記憶を失っている。どうして、こんなところにいるんだと驚くと思う。あかねちゃんも同じように、わからないって言うこと。いいかな」
あかねは肯くと、両親の横に座った。
「幸お姉ちゃん、また、会えるかな」
「きっとね」
幸はあかねに笑いかけ、男と二人、脱衣所を出た。

「幸」
「え・・・」
「魔法使いは大変だ、守らなきゃならない人、一人出来てしまったな」
「二人守らなきゃ、お父さんも守らなきゃだし」
「そうだな、お父さん、へとへとだ。でもね、もう一つ、仕事が残っていた。ホテルの外」
「お父さん、私が片づけておくよ」
「ん・・・、お父さんが行く、幸、手加減できないからね」
「返す言葉ない」
男は笑うと、ホテルの一階に戻る。深夜のごく普通のホテルに戻っていた。位相をずらした奴らが外にいる。
男と幸は外に出た。
一歩出ると、外は薄闇の荒野と変わり果てていた。振り返るとホテルはない。

「残念でしたね、でも、外神などと付き合わない方が良い、喰われてしまいますよ」
あの酒樽のような男が薄闇の中から溶け出すように現れた。その婦人が、一歩、退いて控えている。
「他にもたくさんの人達がいらっしゃるようですね」
男の声に呼応するかのように、顔を隠したたくさんの男達が二人を囲んだ。
酒樽が言う。
「折角の外神、この腹に入れて世界を変える力を得るつもりだったのですが、とんだことでしたな。残念です」
「いや、その程度の防壁では無理です」
男がぎっとにらみつける。酒樽が粉々に弾け飛んだ。
「あらあら、また、作りなおさなきゃ」
酒樽の後にいた女が平気な顔をして呟いた。
「こういう人形を創りだすとは、かなり大きな組織のようで」
「いささか」
女は笑顔を浮かべたまま、一歩、踏み出した。
「労せず、外神を横から奪い去ろうという計画だったのでしょうね、たくさんの人達が迷惑を被った」
「あとでお詫び申し上げておきますわ」
男はふんと笑みを浮かべる。
「提案です。この件から手を引き、ここはひとつ、素直にお帰り願えませんか」
「で、こちらの益は」
「あなた方の命ということで。無事にお帰りいただけますよ、いまなら」
「夫が潰されたいま、しょうがございませんね。お暇いたします、では、これにて」
女の姿がかき消えた、同じく覆面の男達が次々と消えていく。
「あいつ、腹で何考えているかわからない奴だ」
「だろうな、正体すら見せようとしない。ただ、実はお父さん、立っているのがいっぱいでね。ホテル、帰って、一寝入りするよ」
幸は男をしっかりと支えた。
「ごめんなさい、お父さん」
「どういたしまして」

老女の仮面を剥ぎ取った女が、部下を怒鳴りつけていた。
「おい、あの規格外の奴らはいったい何者なんだ」
「不明です、ただ・・・」
「ただ、なんだ」
「本部から・・・」
「はっきり言え」
「あの二人には一切触れるべからず。直ちに帰投せよとの厳命です」
「何言っている、本部の腑抜け連中が。外神(そとかみ)を手中に出来なかったのは残念だが、その外神を追い返してしまうほどの術者がいるんだぞ。捕獲しな いでどうする」
女は周囲にいる部下の無事を確認すると、唇をゆがめ、笑った。
「楽しいなぁ、おい、わくわくしてこないか」

「そんなに楽しいかなぁ」
俯いた幸が肩が触れるほど女の横に体を寄せる。そして、落とした腕には長刀が握られており、その刃が女の首元に触れていた。
「ね、そこのおじさん、動くとあんたの上司の首、落ちてしまうよ。他の人達にもさ、動かないよう指示してくれないかな」
「わ、わかった。待機、待機せよ」
ざわついた空気が沈黙に変わる。
「ありがとね、おじさま」
つうぅっと刃先から赤い血が滴り落ちた。
「お姉さん。首、動かしちゃいけないぜ。ほら、浅く切れちゃったじゃないか」
「いったい、お前達は何者なんだ」
悲鳴にも似た叫び声を女が上げた。
「それは秘密さ。ただね、さっき約束したろう、帰るってさ。あれ、嘘だったのかい。ね、嘘じゃないだろう、本当だろう。本当だと言ってくれよ」
「ああ、本当だ。一切関わらない、約束する」
女は震える声で答えた
「あたしとお父さんはさ、普通に、平凡にさ、暮らしたいんだよ。わかるかい、つまんないさ、退屈な平和ってのを続けていきたいのさ、そういうの、わからな いかなぁ。ね、そこのおじさんはどう思う」
「こういう、斬ったはったは好きかい。こんな寒い夜中に突っ立っているよりさ、夜はさ、暖かい布団の中、寝てはいたくないかい」
じろっと睨む幸の眼差しに、引きつった笑いを浮かべながらこくこくと肯いた。
「よくわかってるじゃないか。ね、おじさん、あんたの上司は、そこんとこさ、ちゃんとわかっていると思うかい」
「わ、わかっている、わかっている」
「本当かなぁ、わかってんのかなぁ。あたしはか弱い女の子だから人を斬ったりなんて出来ないけどさ、それを承知でいい加減なこと言っているだけじゃないか なぁ」
「ね、お姉さん、ちょっと俯いてさ、あたしの顔を見てみなよ、な、そんな乱暴するような女の子じゃないだろう」
おそるおそる俯き、女と幸と目が合う、鋭い目付きで、口元だけが笑う幸がいた。
「うわぁぁっ」
女が悲鳴を上げる、逃げだそうとするが、体が固まってしまったように動けずにいる。
「なんだよ、人の顔見て悲鳴上げるなよ。自分で言うのもなんだけどさ、あたし、かなり美人のはずだぜ」
「ねぇ、お姉さん、あたし、美人だろう、可愛いだろう、な、そう言ってくれよ」
「助けてくれ、もう、あんた達には一切関わらない」
「なんだよ、可愛いって言ってくれないのかい、ショックだなぁ」
幸はにいぃっと嗤う、そして、すうっと長刀が消えた。
刀が消えた瞬間、男達が幸を襲おうとした。
「動くなよ、な」
呟く幸の声に、男達は凍り付いたようにその場に固まってしまった。
幸は、動けずにいる女の目をじっと見つめた。
「瞳って名前か。綺麗な名前だね、夫がいて、幼稚園の男の子がいる、おい、あんた、小さな子供がいるくせに、こんなやくざな仕事してるのかよ」
「どうして、それを」
「あんたの目から記憶を読んだ、それだけ」
慌てて、女が目を瞑る。
「夫の名前は直行さん、息子は、隆君か、良い名前じゃないか。こういうのを二重生活っていうんだっけ。そうだ、思いついた、あたし、今度、瞳さんのお宅に お邪魔するよ、ご主人と隆君のいるときにさ、次の日曜日なんかどうだい、ホームパーティしよう、楽しいぜ」
「お願い、許して」
「どういう意味だよ。あたし、素敵なお姉さんやってやるよ。隆君の好きなさ、プリンをお土産に持っていってあげるよ。そして、可愛いって隆君の頭なでてや るよ。でもさ、私、子供の頭ってなでたことがないから大丈夫かなぁ、緊張してさ、ちょっと力入れすぎて、ぽきって折れたらどうしよう。子供って、ぼきって 首が折れたら死ぬのかい」
「勘弁してください、お願いです」
「ふうん、良い提案だと思ったんだけどなぁ、お互い、守りたい家庭があるってことだ。しょうがない、それじゃあ、帰るよ。あんた、約束忘れるなよ」
ついっと幸の姿が消えた。

「一切触れるべからず」
女が喘ぎながら呟いた。
「なんて奴だ」
女が呟いた瞬間、怒号が轟いた。
女の目の前、幸の持っていた長刀が投げつけたように地面に突き刺さっていた。
突き立った刀の上に幸がふわりと舞い降りる。
「夜中だぜ、早く帰りなよ。徹夜は、お肌の大敵だ」
声を上げて幸は嗤うと、刀と共にその姿を消した。
「帰る、今すぐ帰ります」
女は怯えてそう呟いた。

「お父さん」
「幸、何処に行っていたの」
座椅子に座ったまま、男は振り向いて幸に声を掛けた。幸は後から男に抱きつくと、くすぐったそうに笑った。
「秘密。乙女にはさ、殿方には秘密にしなきゃならないこと、百はあるのさ」
「ああ、トイレか」
「違うよ、もぉ」
男は微かに笑うと、少し掠れた声で話しかけた。
「幸、隣に座ってくれないか」
「え、うん」
幸は男の左隣りに座ると、男の顔を覗き込んだ。
男は目を瞑っていた。
「父さんの手、握ってくれないか」
幸は心配そうに男の手を両手で包み込む。
「お父さん、疲れたの。ゆっくりするといいよ」
「ちょとね、ばてたかな。でも、幸に手を握ってもらっていると、不思議だ。こんな小さくてきゃしゃな手なのに、柔らかくて暖かくて安心する」
「幸は可愛いなぁ。父さん、一人で生きて来たけど、今はもう、幸がいてくれないと、だめだな」
「お父さん、どうしたの、そんな急に」
ふと、幸は男の手が少しづつ冷えて来ていることに気づいた。
「そんな・・・。そんなのってないよ。お父さん」
「お父さん、嫌だよ、そんなの、嫌だ」
幸が叫んだ。
「暴走娘がいるのに、まだ、死ねないよ」
男は少し目を開け笑った。
「消耗が激しいからさ、呼吸法で仮死状態に入る。幸が手を握っていてくれるなら、安心だ。朝には起きるさ」
幸が震える声で答える、
「絶対の、絶対だよ」
「あぁ、絶対だ」
男の体温が少しずつ下がり、心臓の鼓動が鈍くなる。

お父さん、明日は、ツアーやめてさ、二人っきりで歩こう。あちこち、食べ歩きしよう。腕組んでさ、歩きながら食べよう。きっと、楽しいぜ、ねぇ、お父さ ん、お父さんったら・・・
幸はぎゅっと男の手を握り締めた。
愛しているよ、お父さん・・・。

3
最終更新日 : 2013-05-11 17:06:35

異形四話

闇の中、男は頭を抱え悩んでいた。
一体なんてことを、俺はしたのか。
それは旅行の夜だった、自分の前に幸を座らせ、その幸の浴衣を脱がしてしまった、滑らかな肌、その時の甘い感触が指に残る、もちろん、父親としてそれは許 される行為ではない、ましてや、幸がいてくれないと生きていけないなどと、幸の心を縛ってしまうようなことを言ってしまった。そうだ、もしも、幸に異変が 起こらなければ、間違いなく、幸を最後まで・・・。
心が不安定だった、それは確かだ、しかし、それは醜い言い訳だ。
幸はどれほど傷ついただろう、幻滅したろう。

「おーい、お父さん、一緒に晩御飯作ろぉ」
襖が開き、幸が男の部屋を覗き込んだ。
「お父さん、部屋が暗いよ、どうしたの」
男は慌てて表情を隠し、普段通りに返事をする。
「ん、いや、そうだね、少し考えごと。晩御飯、作ろうか」
「うん」
幸はにっと笑うと、男の手を両手で引っ張った。

二人して流しの前に立つ。
「お父さんは白色のエプロンです、真ん中にキリンさんがいます。幸のは赤と白のストライプ。赤一色は随分と色が濃かったので、ストライプ、真ん中にはウサ ギさんです」
「買ってきたの」
「えへへ、晩御飯の用意と一緒に買ってきた」
幸はにっと笑い、ジャガイモやタマネギを取り出した。
「今晩は美味しい美味しいミネストローネです。お父さんはジャガイモの皮剥きをしてください。」
「美味しいを強調しましたね、それは先日のトマト風味ジャガイモの煮っころがしからの反省でしょうか」
「その通りです」
幸は笑うと袋から人参やベーコンも取り出した。
「幸はひとつ賢くなったよ」
「と、いうと」
「ひたすらレシピに忠実であること。素人が工夫をしてはいけない。これとっても大事」
男は器用にジャガイモを包丁で剥きながら笑った。
「工夫はもっとうまくなってからか・・・。でも、ジャガイモの煮っ転がし、幸が作ってくれたから美味しかったな」
「そう言ってくれるお父さん、大好き。なんかね、そう言われるとさ、今度はもっと頑張らなきゃ、って思うんだ。そう思えることって嬉しいよ、とっても」
幸がタマネギを切りながら答える、タマネギを八等分したものをボールに入れ、あぁそうだと、トマトとハーブも取り出した。
「お父さん」
「ん」
「ハーブって不思議だね、こんなのただの葉っぱだよ、ローリエとか特にそうだよ。でも、入れるとお肉の臭みがなくなったり、これって凄いよ」
「そうだね。ん・・・、暖かくなったら、庭にハーブを植えてみるのもいいかな」
「それいいなぁ、藤のバスケット片手にね、ハーブを摘んでお茶にしたり。そうだ、緩やかな白のワンピースに幅広の白い帽子もいるな」
「なんか、映画で見たような情景だけど、着替えるほどご大層な庭ではございません」
「楽しむための雰囲気作りさ、二昔前の御令嬢。お父さんが執事でね、お嬢様、お茶のご用意ができましたって言う。そうすると、幸はふっと指先を止めて振り 返る、ありがとう、セバスチャン」
「セバスチャンですか」
「そうだよ、そして、お嬢様、お手をと言ってお父さんが手を差し出して、幸は言うの、今日は素敵なティーパーティなりそうだわって」
「お嬢様、お手を」
男の言葉に一瞬、幸は戸惑ったが、
「えっ、あ・・・人参かぁ」
幸に人参を男から受け取り、四つ切りにしたジャガイモをボールに入れた。
「お父さん」
「ん」
「畑も作ろう、野菜、高くなってた」
「色々と野菜を植えてみるかな」
「種を買ってきてさ、植えよう。そういえば、大根の種って袋に入っているやつ、いっぱい入っているよ、全部、植えたら、そこいらじゅう大根だらけだ」
「全部は育たないよ」
「そっか・・・。大根も生存競争、大変だ」
「まぁね。さてと、焼いて煮込むのは幸がやりますか」
「うん、幸がやるよ」
幸が空の鍋を火にかけ、油を敷く。
「火の通りにくいジャガイモから炒めていきます。ね、お父さん、やっぱり晩ご飯は二人で作るのが良いね」
「そっか、最初は交代で作っていたもんな」
「そうだよ、あれはだめだ。一人で作るのは寂しいし、一人でご飯が出来るのを待っているのはもっと寂しい。お父さんとお喋りしながら作るのが一番だよ」
「二人で作っている割には時間かかるけどね」
「それは仕方ない、父娘の大切なコミュニケーションの時間が入っているからさ」
不意に幸は男の背中に頭をごしごし擦りつけた。
「どうしたの」
「コミュニケーション。お父さんに幸の匂いを付けてる、お父さんは幸のなわばりだから、誰も手を出すなってこと」
「ちょっと。お父さん、包丁持っているんだから危ない」
幸は笑うと、後ろから男を抱き締めた。
「いっぱい付いたよ」
男は包丁を離し、鍋のジャガイモを菜箸でひっくり返す。幸い、焦げずにすんだ。
「誰も寄って来ないよ、お父さんを好きだって言ってくれる女性は幸だけだから」
男は、切ったタマネギ、人参、ベーコンを入れ軽く炒める。
「それが不思議だ、こんなに素敵なのに」
「お父さんは自分の何処が素敵なのか全然分からないな」
「なら、幸が一日たっぷりかけて教えてあげるよ」
「幸が素敵だと言ってくれるなら、それで充分、それ以上は必要ないよ。さてと、この辺で水を入れれば良いのかな」
「はい、水とハーブを入れてください。後はじっくり煮込んでいくのですよ。よろしいですね」
「わかりました」
男が少し笑って答えた。


堀炬燵の横に鍋と炊いたばかりの御飯が入ったおひつを置く。幸は、炬燵の上にお皿やお箸を並べた、ふと、幸は大きな窓から外を眺めた。すっかり闇に閉ざさ れており、虚空に細い月が浮かんでいた。
「どうしました」
男が後ろから声をかけた。
「夜の空を見上げても、泣かなくてすむようになったなぁって」
硝子窓に写る幸の表情はとても穏やかに虚空を眺めている、男は少し笑みを浮かべると、寒そうに炬燵にもぐりこんだ。
「お父さんも夜の空を睨みつけなくてすむようになったよ」
幸は、男の横に座ると足を延ばす。
「堀炬燵は足が延ばせていいね」
「だけど、隣に座らなくていいよ、三方、残ってるんだから」
「微妙にお父さんの顔が見えにくいのが難題だ」
幸は一度立ち上がると、左に男が見えるよう炬燵に入り直した。
「これならお父さんの顔も見れるし、お父さんと同じ方向を見ることができるよ」
「窓の外、真っ暗な天蓋に細長い月」
男は答えると、おひつから、御飯をお茶碗によそい出した。
「だめだよ。幸がやる、ほとんど、お父さんが料理を作ったんだから、あとは幸がやるよぉ」
男は少し笑うと、幸にしゃもじを渡した。

「美味しいね」
「そうだね、幸の美味しそうに食べる顔を見てるとなんかな、楽しい」
「そう言ってくれると、幸はとても嬉しい」
幸はくすぐったそうに笑う、ふと、思い出したように葉書を取り出した
「そうだ、これ」
「葉書・・・」
幸が取り出した葉書を、男が受け取る。
「あかねちゃんか。そういえば、次の日、住所を訊いていたね、表書きはお父さんかお母さんが書いてくれたんだな」
「ありがとうって」
幸がくすぐったそうに笑った。
「幸には初めての手紙かな」
「うん、でも、お父さん、いいのかな」
「いいのかって」
「あかねちゃんに迷惑かからないかな。私と縁が出来て、なにか危険なことに巻き込まれたりしないかな」
「難しいところだな、ただね、あかねちゃんが外神の依代に選ばれたのは、先天的にああいったのを受け入れる感受性が高かったからだよ。今後、新手に巻き込 まれることもあり得るから、いくらかね、縁は繋いでおく方が良いかもしれない」
「それじゃ、返事を書こう。あ、この住所、電車で一時間くらいかな。会ったりもできるね」
「初めての友達だ」
「なんだか、『初めてのお使い』みたいで緊張するな」
「私さ、また、会おうねって書くよ」
「それがいいだろうね」
男が葉書を返すと、幸は大事そうにポケットの中にし舞い込んだ。

「お父さん、幸は満腹です。お行儀悪いけど少しだけ横になっても良いですか」
「どうぞ」
幸はにっと笑うと駆け出して、掛布をとって返し、男の膝を枕に寝転がってしまった。
「な、なるほど、そういうことか・・・」
「特等席だ」
「幸はいろんなこと、考えるなぁ」
幸はくすぐったそうに笑うと、右手で男の顎に触れた。
「お髭、きちんと剃っているね、お父さんに髭は似合わない。だって、キスする時、幸の唇が痛くなってしまうもの」
「前後二つの文が繋がらない」
「いいのさ、だってキスするの邪魔だからお髭はやめてって言いにくいもの。お父さん、あのね」
幸はにっと笑うと、ふっと右手、人差し指で男の唇に触れた。
「ん」
「幸はお父さんのこと、ずっと考えている、思っている、幸はお父さんの専門家だからね。お父さんのことなんでもわかるよ。お父さん、幸のことで悩んでいる でしょう」
「幸」
男はかすれた声で呟いた。
「あれは幸がお願いしたことだし、幸は百年以上、汚く生きてきたんだ、心も体も、すっかり汚れてしまっているよ、どんなに洗ったって落ちやしない。だか ら、今更いいんだ」
「それは絶対に良くない、お父さんは幸がどんなふうに生きてきたか、全てを知る由はないけれど、幸はね、お父さんが幸のこと、とっても大切に思っているこ とわかるだろう」
「うん・・・」
「それは、幸がお父さんにとって、とっても綺麗な女の子で、とっても綺麗な体で、とっても綺麗な心を持っていて、そしてなにより、お父さんのこと、大切に 思ってくれているからだよ。幸、もっと自分自身を認めてあげなさいな」
「なんだか、幸は幸せすぎるよ」
幸は目を瞑り、唇をかんだ。

声がした。

・・・我が主より文有りき、御届け候・・・

地響きのような低い声だ。

「ああ、どうしてこういう時に限ってなんだろう。お父さん」
「いつかさ、二人っきりで旅をしよう。そうしたら、嫌なのが寄ってきても逃げだせる」
「愛の逃避行だね」
「安っぽいドラマの見過ぎだよ、それは」

・・・我が主より文有りき、御届け候・・・

先程よりも低く声が響く、炬燵の上で食器がかたかたと揺れた。
「音で結界を破ろうとしている、この重い力は鬼だな。父さん、行ってくるよ」
男は起き上がると、幸を炬燵に座らせた。
「幸はここから離れないこと、いいかな」
「でも」
「大丈夫、お父さん、強いからね。それに、外は寒い、幸が風邪をひいたら大変だ」
男はそっと幸の唇に人差し指で触れると、少し笑った。
「本当に、父さんは幸が大切だよ」
「お父さん」
男は幸を残して玄関口へ向かった。

戸を開け、門の前まで出る。男は門の前で見上げた。まるで怪獣映画だ。日本画から抜け出したような鬼が仁王立ちに立っていた。
男の背丈は鬼の膝ほどにしかないだろう。
「無茶なことを」
男が呟く。どれほどの犠牲を供物に鬼などを呼び出したのか。
「主殿か」
「私がこの家の主です」
「文を言付かって来た」
「それは読みたくありません」
「何ゆえ」
予想をしていなかった男の返答に鬼は目を剥き唸った。
「私はこの地で静かな日常を営む者、日々の暮らしの中で笑ったり泣いたりしながら、今の生活を楽しみ生きています。その文を読み、拘わりを持てば私の大切 とする生活が適わなくなるでしょう。ですから、読みたくありません。そのこと、貴方の使役者にお伝えいただき、このまま、お帰りください」
鬼は男を瞬きせず睨んでいたが、不意にじわりと笑みを浮かべた。
「もう一つ、この旨、受けいられぬ時は、殺してしまえと仰せつかった」
鬼は一気に右手を振り落とし、男をその巨大な爪でまっふたつに切り裂いた。声をあげる暇もなく、男は両断され地面に倒れて行った。
「なんとひ弱な主殿よのう」

「うおぉぉぉっ」
一瞬の雄叫びとともに光が走る、鬼の片腕が地面に落ち、虚空には長刀を手に髪を振り乱した幸が浮かんでいた。
「お前、何をした」
幸が目を真ん丸に見開き、歯を震わせ鬼に声をあげた。
鬼は絶句した。いきなりの状況に判断がつかずにいた。
「お前、あたしのお父さんを殺したな、殺したんだな、あははっ、ようし、お前を一寸刻みに切り刻んでやろう」
幸の眼からは涙が溢れ、狂ったように笑う口元からは涎が垂れ流れていた。
「お父さん、こいつを潰したらあたしも行くよ」

「幸、待ちなさい」
男が叫んだ、男は何事もなかったように門の前に立っていた。
「今のはただの幻術だ」
「あ、あ・・・。見ちゃやだぁっ」
幸は両手で顔を隠すと、地面へと落ちて行く、男は駆け出すと、すんでのところで幸を受け止めた。
既に鬼は逃げだし、その腕だけが丸太のように横たわっていた。
「お願い、幸の汚い顔、見ないで」
男は幸を抱きかかえたまま、家に戻ると、そのまま器用にタンスからやわらかなタオルを取り出し、幸を炬燵に座らせた。
「さぁ、顔から手を離しなさいな」
「やだやだ、お父さんにあんな顔を見られてしまったよ」
「気を静めなさい、肩の力を抜きなさいな。お父さんは幸のこと、とっても大切なんだからさ」
幸が目を瞑ったまま、そっと両手を顔から離した。
「ほら、涙に鼻水、涎。これは大変だ」
男は笑うと、タオルでそっと幸の涙を拭った。
「鼻、ちーんとしな」
んーっと幸がタオルに鼻を付ける、男はタオルを二つに折ると、幸の涎を拭いた。
「ほら、美人に戻ったよ。さっ、お風呂沸かそう、温まってきなさいな」

幸をお風呂に入れた後、男は窓から外をじっと睨んでいた。月は消え、茫漠たる闇が、硝子窓の外に広がっていた。
どんな、闇の中でも、たとえ、自分の身を犠牲にしても、守りたくて仕方のないものがある。
「お、お父さん・・・」
幸の声に、男は笑みを浮かべ振り返った。
「暖まりましたか」
「うん。ね、お父さん、本当にごめんなさい」
「え・・・、あぁ、そうか。お父さんこそ、幸に心配かけてしまったな、ごめんね。そしてさ、助けてくれてありがとう」
男はそっと笑みを浮かべた。
「お父さんね、疲れた。片づけは明日にして、もう寝よう」
「ね、お父さん」
「どうしました」
「幸、お父さんのお部屋で寝たい」
「なんだか、幸、子供に戻ってしまったな。今日はしょうがない、布団、運んであげるよ」
男は笑うと、優しく、幸の頭をなでた。

男は暗がりの中、幸の寝息を確かめると、そっと布団から起きだし、部屋を出た。静かに襖を閉める。
手早く、普段着に着替え、腰の後、小刀を差した。
奴らは俺を敵対するものと見なしただろう、ならば、潰しておかなければ禍となる。
「お父さんってのは大変だな」
男が呟く、
「大丈夫さ、幸がついているよ」
振り返ると、幸も寝間着から普段着に着替え、「必勝」と書いた鉢巻きを締めていた。
「ああぁっと・・・、ええっと、うーん。参ったな」
男はどう言いつくろったものかと考え倦ねたが、ふと、瞬きもせず、自分を見つめる幸の眼を見て何も言えなくなってしまった。
「お父さん、幸はとっても幸せだ。幸せすぎるくらいだよ。幸はさ、自分自身でこの幸せを守ることでさ、この幸せに値するようになるんだ」
男は幸の決意に驚いた。もう、立派な大人だ。
「怪我するなよ、気合い入れていけ」
「大丈夫、幸、かなり気合い入っているからさ、とっても強いよ」
「必勝・・・、なんだか、受験生みたいだ」
男はくすぐったそうに笑うと、幸の頭をなでた。
「行くぜ、幸」
「あぁ、お父さん」
4
最終更新日 : 2013-05-11 17:08:31

異形五話

ふぅっっ、深呼吸をする。
笑顔、笑顔、口元、そう、頬の上辺りを引き上げるようにして、そうすれば極上の笑みになる。
さぁ、行くぞ。
商店街の入り口、幸はぐっと握り拳を作ると商店街の中へと向かった。

「ええっ、スーパーの方が良いよ、買いやすいもの」
「だめ、幸はね、一人ででも色んな人と会ってお喋りしたり、自分の意志を伝えたり、そういう訓練しなきゃね、いつまでも、お父さんの後に隠れて買い物するわけにもいかないでしょう」
「でも、商店街っていちいち声を掛けなきゃならないし、スーパーなら何も喋らずに買い物ができるし」
「つまりはお喋りしなさいってこと、いいね」

男に言い含められ、幸は初めて一人で買い物にでかけたのだった。
幸はポケットからメモを取り出すと、じっと見つめた。
魚屋さん、八百屋さん、服屋さんに寄って、帰りがけに、たこ焼きを買って帰る、以上だ。大丈夫、なんてことない、よし


男は落ち着かず部屋の中をうろうろとしていた。一人で買い物を行かせたのはいいが、時間が経つほどに気掛かりなっていくのだ。うずくまってしまっていないか、いや、逆に何かしでかしていないか。
幸は内弁慶なところがあり、外へ買い物に行くと少し俯いて男の上着の裾を千切れるかと握り締める、よほど緊張しているのだろう。それを思い出すほどに男は不安になるのだ。
男は溜息を大きく一つつくと電話に向かった。


「ひやぁ・・・、お父さん、ごめんなさい、幸にはまだ無理ですよぉ・・・」
幸は魚屋の前でしゃがみこんでしまった。
人通りの中、いらしゃい、いらしゃいという亭主の大声、店の前で品定めをする女達、げらげらと大きな笑い声。
店女の二つなら負けとくよ、というかん高い声が響き渡った。
「ごめんなさい。これは上級者用です、幸は落第でいいです。人が声を張り上げていて恐いです、入っていけません」
狭い通路をたくさんの買い物客たちが通り過ぎる。店の人達もそんな客たちを引き留めようと大声を張り上げる。

「幸ちゃん、幸ちゃんだろう」
幸が自分を呼ぶ声に顔をあげると、先程の店の女がにかっと笑って幸の前に立っていた。
「うひゃあ、美人さんだねぇ。いま、センセイから電話があったよ、娘は買い物に来たでしょうかってね」
「お父さんが」
女は笑顔を浮かべ頷いた。
「さあ、そんなとこでしゃがんでないで立ちな」
幸がよろよろと立ち上がると、女はぱんっと幸のお尻をたたく。
「しっかりしなよ」
「は、はい」
「何年も病院に入院していてさ、やっとこさ、家に帰れたんだ、これからはその分を取りもどさなきゃね」
「そ、そうですよね」
お父さん、そういう設定は始めに幸に言ってくれよと思いながらも、なんだかほっとしたのだろう、幸は安心して笑みを浮かべた。

女は幸を店の前まで連れて来た。
「何がいるんだい」
「あの、えっと・・・」
「おおっ、何処のお嬢さんだい」
店主が気づき、女に声をかけた。
「税理士のセンセイとこのさ、お嬢さんだよ」
「ほぉー、女優さんみたいだ。センセイにこんな別嬪の娘さんがいたとはなぁ。こりゃ、センセイも心配だ。俺だったら、絶対に一人で買い物になんぞやんねぇ、虫がついたら大変だ、一日中見張ってるぞ」
「いらないこと言ってないで、ほら、お客さん、待っているじやないか」
女は店主を向こうに押しやると、幸に笑いかけた。
「だめな亭主でさ」
幸も笑顔を浮かべ、メモを取り出した。
「あの、お姉さん、鮭の切り身を、ください」
「え、お姉さんか、うん、そりゃお姉さんだ」
「なら、俺はお兄さんだな」
「何言ってんだよ、おっさんが。女同士の話に入って来るんじゃないよ」
女は店主を蹴り飛ばすと、幸に言った。
「悪いねぇ、男ってのはどうしようもないよ。そうだ、メモ、貸してごらんな」
「は、はい」
「シメジにタマネギ、モヤシ、これなら、鮭の包み焼きかい」
「はい、そうです。お父さん、好きだから・・・」
女はふっと涙目になり、前掛けで鼻をかんだ。
「かー、うちのガキどもにも聞かせてやりたいね。これからも親孝行してやりなよ」
女は手早く鮭の切り身を包むと幸に手渡した。
「新鮮だ、美味しいよ」
「あの、おいくら」
「いいさ、持って帰りな」
「でも」
「なんかもう、あれなんだよ。これからもさ、女同士じゃないと相談できないことはあたしに言いな、相談に乗るよ、まかしときな」
「お姉さん、ありがとう。でも、私、少しずつでも社会復帰して、お父さんに安心して欲しい、だから、お父さんにも、ちゃんとお金、払って来たよって言いたいから」
女は幸をがしっと抱き締めた。
「良い娘だよ、なんて出来た子だい。それじゃ、五百円だけもらっておくよ」
女は手を放すと、涙交じりに言った。
付いてやってやりたいけど、忙しい時間でね、と断りを言う女に頭を下げ、幸はその先にある八百屋へ向かった。

野菜って結構多いな、二人暮らしには。
幸は五個入りのタマネギの袋を見ながら考えた。
でも、日持ちするなら、次の日の料理に使えばいいし、それなら。
幸は先程のやり取りで少しは買い物に慣れたのか、落ち着いて考えていた。
「あんたがセンセイんとこの娘さんかい」
「は、はい」
店番をしていたおばあさんが幸に話しかけて来た。
「いま、魚弦の佳奈ちゃんから電話があってね。センセイのお嬢さんが来るから声をかけてやってくれってさ」
「あ、ありがとうございます」
「あんたは生まれてからずっと入院していたのかい」
「は、はい」
「大変だったねぇ、ちょいと、手を出してごらん」
「えっ」
「手相見が趣味なのさ、見せてごらんな」
幸がそっと手を伸ばすと、おばあさんが拡大鏡を片手に幸の手相を見た。しかし、首を振り、どうも見当が付かないといったふうに顔をしかめる。
「ん・・・。ごめんよ、どう読んだもんか分からないねぇ、こんなこたぁ初めてだ。過去が見えてこない」
「私の過去、秘密ですから」
幸は笑うと、そっとおばあさんを抱き締め、その耳元で囁いた。
偽者は好きに占えば良い、でも、あんたみたいな本物はだめだ。うっかりすりゃ、相手の魂を傷物にしてしまう、気をつけなよ、な。
幸は姿勢を戻し、タマネギとしめじとモヤシを取ると、硬直したままのおばあさんに声をかけた。
「これ、くださいな」


少し脅し過ぎてしまったろうかと、幸は反省しつつ、洋服店へ向かった。
通路ぎりぎりまで女物のブラウスなどが吊り下げられている。年齢層の高い品揃えだ。
幸はそっと覗き込むと女がいた、電話をしている言葉から店主だろうとわかる。電話が終わったのを見計らい、声をかけた。
「あ、あの・・・」
「いらっしゃい」
「あの、取り寄せてもらっていた・・・」
「電話あったよ、センセイとこのお嬢さんだね。この前、来てくれた時はセンセイの後ろにへばり付いて顔が見えなかったけど、今日は一人だ」
にかっと笑う、店主の口の悪さを思い出した。でも、裏がない快活な話し方で、却って好感を持つことが出来る。
「一人で行ってきなさいって・・・」
「センセイも大変だ、今頃、心配して、いてもたってもいられないだろうさ」
幸がくすぐったそうに笑うのを見て、店主が満足そうに頷いた。
「お入りな、お茶をしよう。この時間、うちは暇でね」
店の奥にある三畳程の小さな部屋、ちょっとした食器棚と小さな丸いテーブルと古びたラジオがあり、衣類など、商品は置いていない。
店主は幸をテーブルに座らせ、インスタントコーヒーの瓶を出す。手慣れた手つきで珈琲を二つ用意すると、一つを幸の前に置いた。
「砂糖とクリームは適当にね」
「はい」
幸は少しクリームを入れ、一口飲む。
「美味くもなんともないだろう」
「あの、いいえ」
「まずいなぁ、って思いながら、癖だね、あたしも飲んでいるのさ」
店主は幸の前に座ると興味深そうに幸を見つめた。
「名前はなんて言うんだい」
「幸、幸です。幸福の、幸という字です」
「親の愛情の詰まった名前だねぇ」
店主は笑うと、一口、珈琲を啜る。
「あのセンセイ、あれでロマンティストだからさぁ。でも、なんていうんだい、センセイも随分変わった、丸くなったよ。幸ちゃんのおかげさ」
「お父さん、以前は」
「あぁ、そうか。何年も入院していたわけだし、そうだねぇ。うちはセンセイに帳簿お願いしているわけだけどね、正確できっちりした仕事をしてくれているん だけど、愛想がなかった、ほんと。えらそうにしているんじゃない。ただ、本当に愛想の「あ」の字もなかったのが、この前の二人で来てくれたときさ、少年み たいな真っ赤な顔して照れ臭そうに、娘の下着や服を一式揃えていただけませんか、ってもう、あたしゃ、吹き出して笑いそうになるの、こらえるの大変だった よ。ほんと、幸ちゃん、大切にされているんだねぇ」
幸は恥ずかしそうに笑みを浮かべると俯いてしまった。
「やっと帰ってこれたんだ、幸ちゃんもこれから親孝行しなよ」
「はい、私もお父さんが好きだから」
幸がそっと珈琲カップを両手で包み込む。
「いいねぇ、うちの娘や息子も幸ちゃんみたいに素直だったらね、いいんだけどさ。うん・・・」
「幸ちゃんは水仕事もしているのかい、洗濯とかさ」
「お父さんと交替でしています。本当は私の仕事だけど」
「うーん、手が少し荒れているじゃないか、寝る前にハンドクリームとか付けないのかい」
「え・・・」
「あぁ、男親一人じゃしょうがないねぇ」
店主は戸棚を開け、ハンドクリームを一つ取り出した。
「まだ、使っていないからさ、あげるよ」
「あ、でも」
「こんな別嬪さんなのに手荒れなんてもったいないよ。寝る前にね、クリーム、ちょっと取って、まんべんなく手に擦り込んで、そしたら手荒れしないですむよ」
「あ、ありがとうございます」
「いいよ、なんでも相談にきな、金のこと以外なら、話聴いてやるよ」
店主は笑うと珈琲を飲み干した。
「なんか、甘い物なかったかねぇ」
「私、そろそろ。お父さん、心配してそうだし」
「あ、そうだね、それじゃ、あの紙袋に下着や靴下、普段着みたいなもの入ってるからね、袋、二重にしておいたから破れないだろう」
「ありがとうございます」
「いいよ、今回はあたしの見繕いだけど、幸ちゃんも、この生活に慣れたら、自分の好きなもの選ぶと良いよ」
幸は笑みを浮かべると、会釈をし、店を出た。

「ちょ、ちょいと」
声を掛けられ、幸が振り返ると、八百屋のおばあさんが幸を手まねいていた。
「さっきはごめんなさい」
にっと幸が笑う。
「あ、あんた・・・」
幸に駆け寄り、おばあさんが言った。
「あんた、神様かい」
「私に手を合わせていただいても、何の御利益もありませんよ」
幸は笑みを浮かべ離れる、後ろでおばあさんがありがたいありがたいと手を合わせていた。

幸は魚屋の佳奈を見つけると、たたっと駆け寄った。佳奈もパイプ椅子に座り、一息ついたところだった。
「やぁ、どうだった」
佳奈は幸を見つけると笑い掛けた。
「ありがとうございます、電話していただいて。皆さんに優しくしていただきました」
「そりゃ良かった」
幸は座る佳奈の前に立つと、そっと佳奈の手を取って笑顔を浮かべた。
そして顔を寄せ、耳元に囁く。
佳奈さん、悩まなくてもいいよ。人の考えてることが、自分のと同じようにわかるんだろう
びくんと加奈が震えた。
父さんは電話で娘がと言った、あたしの名前言ってなかったろう。幸という名前は、あたしが表に置いている記憶が見えてしまったからだろう。ねぇ、あたしの 心、奥底まで見えるかい、見えないだろう、お父さん以外には見せないと決めているからさ、似たもの同士、きっと、あたし達、良い友達になること、できるよ
幸が佳奈から顔を離す、佳奈はぎゅっと幸の手を握った。
「寂しかった」
佳奈が掠れる声で囁いた。
「今はどう」
幸が囁いた。
「心の底から元気が出ている、一人じゃないのは嬉しいもんだね」
「私もずっと一人だった、でも、お父さんと出会えて、今はとっても幸せ、幸せすぎるくらいです。それに、今日は佳奈さんにも出会うことが出来た、とっても嬉しい」
はははっと佳奈は快活に笑うと、いつものように元気を取り戻した。
「いつでも遊びにおいで。わるがき、二人いるけどね」
幸はにっと満遍の笑みを浮かべた。
「それじゃ、お父さん、家で心配しているから帰ります」
「いや、あれ・・・」
佳奈の指さす商店街の入り口辺りを男が行きつ戻りつしていた。
「お父さんだ」
「気づかれていないと思ってるんだろうねぇ」
「お父さん、可愛いなぁ」
「え、あれがかい」
幸はもちろんと頷くと、男へと掛けて行った。


男はここまで来たことを悔いていた。
大丈夫だ、佳奈さんは姐御肌で面白い能力も持っているから幸のこと、気遣ってくれるだろう、こんなところで幸に見つかったら、親としての威厳というか、なんというか。とにかく、家に戻って、平気な顔をしていないと。

幸がいきなり男を後ろから抱き締めた。
「不審者発見、不審者発見、至急、応援請う」
「あ、幸」
「あはは、お父さん、どうしたの、こんなところで、動物園の熊さんみたいに、うろうろしてた」
「いや、ちょっと買い物に」
「本当のこと、言いなさい」
「ん・・・、幸が心配でじっとしていられなかった」
「よく正直に言った、解放してあげよう」
幸は男の前に立つと、にっと笑った、
「メモの通り買ったよ、タコ焼きは買うのやめたけど」
「え、どうして」
「ほら、お父さん、見てごらんよ。たくさんの人が歩いている」
「まだ、そうだな。人どおりが多い」
「こんな中で一時間、生き別れになっていた親子がやっと出会えたんだよ、途中の喫茶店で巡り会えたこと、ケーキで祝福するのもありだよ、そして、心くばりの出来る幸は喫茶店に匂いの強いタコ焼きを持って入るのは悪いかなと思うのですよ、お父様」
「なんだか、しっかりしたなぁ」
「えへへ・・・。照れますぅ」
「もう一人で買い物も大丈夫か」
「それはだめ、幸はお父さんと離れると悪い女の子になってしまう、幸はお父さんと一緒じゃないとね、素敵な女の子でいられないのさ」
「なんかそれ、いろいろ、しでかしたのではと気になるけれど、まぁ、そうだな、立ち話より喫茶店で聞けばいいか」
男は溜息混じりに幸から荷物を受け取る。幸は当たり前のように、男の腕に自分の腕をからめた。
「楽しかったよ、お父さん」
5
最終更新日 : 2013-05-11 17:09:41

異形六話

この温泉街の中でも一番の高級ホテル。廊下には、プレートを掲げた重厚な扉が並ぶ。ふと、幸は、何か用事を済ませた後だろう、少し先を歩く仲居に気づき、音をさせず走り寄ると、後ろから抱き締めた。
「あはは、だーれ、だ」
「お、お客様、困ります」
低い声で幸が囁いた。
「なんだよ、寂しいなぁ。あたしの声、忘れたのかよ」
「うっ、うわぁあ」
仲居は腰を抜かし、尻餅をついてしまった。幸は仲居の前に回り込み、にっと笑った。
「やっぱり、あの時の瞳さんだ。元気にしてた」
「は、はい。おかげさまで・・・」
幸もぺたんと廊下に座ると、目を逸らそうとする瞳をじっと見つめた。
「転職じゃねえな、まだ、穢れた気配がある。ここで、何かあるのか」
「あ、あの、それは・・・」
「あたしさぁ、十日間、父さんと旅をしてきたんだよ、湯治場で、できるだけ安上がりでさ。で、最後の日は思いっきり贅沢をしようてんで、このホテルに泊 まってんだよな。あたしと父さん、いい気分で明日、チェックアウトできるかい。変なことにさ、巻き込まれたりしないかねぇ」
瞳は困ったように俯いてしまった。
「参ったなぁ、そうなのかよ、しょうがねえな。うん、ところで、なんで、あんたなんだ」
「え・・・」
瞳がけげんそうに顔を上げた。
「あんた、実動部隊の指図する役だろう。指図されてんじゃねえのか」
一瞬、唇を噛み、瞳は俯いてしまった。
幸は無造作に瞳の顎を右手でくっと上げると、その目をにらみつけた。
「あんときの失敗で降格、平になって、二番手だったおっさんが今ではあんたの上司か。なんか、あたしのせいみたいじゃねえか、寝覚め悪りいな」
「いいえ、決してそうではなく・・・」
階段を上がってきたのか、足音がした。

「お姉ちゃん、やっと会えたね」
幸は笑みを浮かべ、瞳に抱きついた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、もう何処にも行っちゃ嫌だよ」
ぱたぱたと足音が寄って来る。
「お客様、なにか、従業員が粗相でも」
仲居が一人、あたふたと近寄ってきた。
幸は泣き濡れた眼差しで、近づいてきた仲居を見つめた。
「ごめんなさい、やっとお姉さんに会えたのが嬉しくて・・・」
「え、それは・・・」
仲居はとっさに状況が把握できずにいた、幸は立ち上がると、そっと仲居の手を両手で包み、その目を見つめた。
「名字は違うけど、生き別れていた私のお姉さんなんです。ずっと、探していて、やっとこのホテルに勤めているってわかって・・・」
幸はぼろぼろと涙をこぼすと、その仲居に抱きついた。
「やっと会えたのが嬉しくて。ごめんなさい、お仕事のお邪魔をして」
「そ、そうなの。良かったわねぇ」
仲居は思わず心を揺さぶられ、貰い泣きをしていた。
「お母さん、ありがとう。あ、ごめんなさい、お母さんなんて言ってしまって、私、どうかしている」
幸は仲居の目を見つめ、涙を流したまま、そっと笑みを浮かべた。
「お母さんか・・・、久しぶりだねぇ。くにのこと、思い出してしまうよ」
「お母さんにも娘がいるの」
「もう、長いこと、会ってないけど、どうしているだろうねぇ」
「連絡取ってないの」
「嫌われているから・・・」
「そんなの、そんなの、絶対ないよ」
幸は仲居の目を見つめ、ぎゅっと手を握り締めた。
「色んな事情はあると思う、でも、心の底から嫌ったりなんか出来ないよ、ただ、素直になれないだけだよ」
幸は仲居の胸に頭を押し付け囁いた。
「葉書だけでも出してあげて。意地を張って返事は返ってこないかもしれない、でも、諦めなかったらきっと仲直り出来るよ」
「そうする、そうするよ」
仲居は嗚咽しながら、やっとのことで、そう答えた。
幸は振り返ると、瞳に寄りそい話しかけた。
「ね、お姉ちゃん、一緒に帰ろう、お父さんも悔やんでいるんだ。これからもう一度、三人で暮らそうよ」
「で、でも、仕事が・・・」
「何言っているんだい、妹さんがこんなにも・・・」
最後は言葉にならず、仲居は、泣き出してしまった。
「お姉ちゃん、908号室に泊まっているから、仕事が終わったら、とにかく来て。お願い、お願いだよ」
諦めたように瞳が小さく呟いた。
「戦線離脱か・・・」
「その方がいいんだよ、あんたにはさ」
幸がにぃっと笑った。

冒険に行って来ると言い残し、部屋を出て行った幸が気掛かりで、男は部屋をうろうろと歩き回っていた。海が大きく望める和室の上質な部屋だ。それが却って男を落ち着かせずにいた。
全くの貧乏性である。

「お父さん、ただいま」
ドアを開け、幸が戻って来た。
「ああ、お帰り。充実した冒険ができましたか」
「もう大変、人命救助はもちろんのこと、吟遊詩人になって、愛を詠ってきたよ」
「なるほど、充実した冒険だったわけだ」
男は笑うと、窓辺に設えられたソファに座った。幸は男の横に座ると男の肩にもたれかかる。
「もうちょっとで大航海に出るとこだったけど、お父さんの顔を思い出して帰って来た」
「それは良かった、幸がいなくなったら父さん、泣いてたかも」
「どんなふうに」
「子供みたいに大きな声で泣いていたかもね」
「幸は船の上でも、お父さんの泣いているの、聞こえたら、空飛んで帰って来るよ」
男はくすぐったそうに笑うと、急須からお茶を二つ入れ、一つを飲む。
「十日間、本当に賑やかだった」
「ね、色んな人に会った。また、いつか会いたいな」
幸が男のいれたお茶を飲む。
「お父さん、湯治場での自炊生活は新鮮だった。あ、こういう生活もあるんだなぁって思った」
「共同生活みたいなものだからね。御味噌の貸し借りとか、お醤油分けたり」
「みんなの住所、聞いておいたから、また、葉書を出そう」
「幸は人気あったからね。なんていうのかな、父さんはね、色んな人と会って、幸の世界を広げて欲しいと思っている」
「うーん。幸はお父さんとこうして喋っているのが一番嬉しい。だから、本当はお父さんさえ居てくれれば狭くてもいいんだ。でも、お父さんの望むことしたいし、うまく出来て、お父さんが喜んでくれたら、とっても嬉しい」
「それはなかなか複雑なこと」
「乙女心は複雑怪奇なのです」
幸は眩気に笑うと、両足を男の太ももの上に投げ出した。
「幸はただいま充電中です」
ふと男は真顔になり幸を見つめた。
「ごめんなさい、これはやり過ぎだった」
「幸、父さんの膝の上に座ってくれるか」
「え・・・、あ、うん」
幸は男の膝に横座りになると、そっと男の顔を見上げた。そのまま、男は幸を抱き締めると、幸の耳元で囁く。
「今日で幸に名前をつけて一年が経つ、誕生日おめでとう。この一言をね、旅の間、ずっと言いたかったんだけどね、面と向かっては恥ずかしい、でも、幸の出来るだけ近くでそう言いたかった」
「ありがと・・・、お父さん」
「幸は一年でとっても成長した。とっても聡明で素敵な女性に成長したよ」
言い終えて、男は手を放した。
「もう、降りていいよ、ありがとう」
幸はそのままの姿勢で男を見つめる。
「お父さんもしっかり、幸のお父さんになってくれたよ」
「ありがと、その言葉、とっても、父さん、嬉しいよ」
幸は男の胸に顔を埋め囁いた。
「幸はお父さんを食べてしまいたいくらい好き。ほんとにもう、食べちゃうぞ」
男は幸の頭を優しくなでながら笑いかけた。
「父さん、食べられちゃうと、幸とお喋りできなくなってしまうよ」
「それじゃ、食べないで我慢してあげる」
幸は両手をのばし、男を抱き締めると、静かに静かに泣きだした。

男はホテルのロビーにある喫茶店で珈琲を注文した。たくさんの人達が行き交う。席も七割がた埋まっていた。
人を辞めた奴らが多い、心臓の代わりに仕込んでいるのは、呪宝具。呪いのかかった宝石、神木の破片、古代の指輪、倉庫屋ということか・・・
「お父さん、やっと見つけた」
「ん、幸、おはよう」
幸は男の横に座ると、少し拗ねたように男をにらんだ。
「ソファで一人寝ていた。起こしてくれればいいのに。お父さん、捜し回ったんだよ」
「起こすのは無理、だって、泣きながら眠ってさ、あんな可愛い寝顔、起こすのはもったいない」
「お父さんったら、もう。そういうのは平気で言えるくせに」
幸が照れながら言う、男がそっと笑った、
「何か頼みなさいな」
「お父さんと同じ珈琲にするよ、カウンターで注文してくる」
男を置いて、幸はカウンターへ向かった。男はしばらく幸の後ろ姿を眺めていたが、不意に俯くと、腰の後ろに手をやった。
良い運動になるか・・・
「お父さん、ケーキも二つ頼んで来た、ショコラ、美味しそうだったよ」
「珈琲にはちょうど良いね」
幸は男の横に座り、話しかけた。
「なんか、お父さん、変」
「可愛い娘に変と言われてしまうとはとっても哀しい・・・」
男は少し笑うと幸に囁いた。
「左目、瞑りなさい」
「うん」
男は幸の左目をそっと指先で触れ、そして、離した。
「目を開けて、辺り、見渡してごらん」
幸の左目に男が見ている情景が映る、半数ぐらいになるだろうか、心臓の無い人間たちが、笑顔を浮かべ行き交っていた。
「なんなんだ、これ」
幸は小声で呻いた。
「人には欲望がある、金持ちになりたいとか、有名になりたい、他人から称賛を浴びたい。色んな欲望がね」
「それがどうして」
「魔術師や術師は彼らの願いを叶えてあげようと囁く、ただし、心臓を預からせてほしい、そして、数年の間、その抜け穴に呪宝具を保管させてくれと言う。時間が経てば元どおり心臓を返すからと言ってね。ただ、多くの呪具宝は人の魂を食らう」
「だますってこと」
「確かに金持ちにもなるし彼ら、心臓を渡した奴らは喜ぶよ、でも、数年経てば、彼らの魂は消滅し、ただの人形として魔術師たちの道具になってしまう。つまりは思いっきり騙しているわけだ」
男は俯くと、そっと目を閉じた。
「お父さん、泣いているの」
「人は・・・、弱くて仕方がない。もっと賢明であればいいのにな」
幸はぎゅっと男の手を握った。
男はしばらくして顔をあげると、幸に囁いた。
「今夜は部屋に結界を敷いてしまおう」
「何があるの」
「呪宝具のオークションが開催されるだろうと思う。たくさんの呪宝具が一同に集まる。その影響で頭痛くらいで済むかどうかわからないからね」
ふと、幸はロビーを横切る仲居の姿を見つけた。幸がお母さんと呼んだ仲居だった。しかし、先程とは違い随分苦しそうに歩いている。良く見ると、頭や肩に黒い埃のようなものが被さっていた。
「お父さん」
「いいよ、行ってあげなさい。縁が出来たのだろう」
男は少し笑顔を浮かべると、珈琲を啜った。
「お父さんはどんな奴からも幸を守るから安心しなさい。さ、行きな」
幸は頷くと、その仲居に走り寄った。
「お母さん、大丈夫」
幸は仲居の前に立つと、心配そうに声をかけた。
「さっきの妹さんだね。今夜ね、葉書を書くよ」
苦しそうにしながらも笑顔を浮かべる。
「苦しそうだよ、どうしたの」
「はは、どうしたもんかねぇ、疲れが急に出たみたいでね」
幸は仲居をロビーの陰にやると、そっと後ろに回り、仲居の頭と肩を払う。幸の手を避けるように黒い埃が落ちて消えて行く。そして、最後にそっと背中をさすった。
「どう、少しは楽になった」
「あれ、どうしたんだい。平気になってしまったよ」
「良かった、お母さん、あまり無理しちゃだめだよ」
幸は仲居の前に立ち、そっと笑いかけた。
「誰かに背中をさすってもらうと体も心も楽になる。今ね、私は本当のお母さんだと思って背中をさすったんだ。だからね、お母さんの本当の娘が背中をさすってくれたら、もっと素敵だと思うよ」
幸は髪の毛を一本抜くと、仲居の手首に巻き付けた。
「お守りあげる」
「ありがとうね、本当にありがとう。今日はなんて良い日なんだ」
「それじゃね」
幸は小さく手を振ると、男のところへ戻って行った。
男はそっと幸の頭を撫でた。
「とっても幸は良い子です」
「お父さん、また、泣いている」
「だめだな、一度泣くと癖になってしまう」
「素直に泣けるお父さん、好きだよ」
「それ以上言うな、顔上げられなくなってしまうよ」
「お父さんは感激屋さんだ」
幸は幸せそうに男を見つめると、男の手にそっと手を重ねた。
男はひとつ大きく息をすると顔を上げた。幸がそっと男の目許をハンカチで拭った。
「あぁ、父さん、なんか格好悪いな」
男は一口、コーヒーを飲み、少し笑った。
「もう大丈夫だ」
「お父さん、商店街の人達に言われてるよ」
「なんて」
「明るくなって付き合いやすくなったって」
「そうかもしれないな、以前より、感情が表にでやすい。多分、それは父さんが幸せだからだろうな」
「それは幸がいるからなの」
「そうだよ」
「それはとっても嬉しい。幸がお父さんの隣にいてもいいってことだから」
幸はにっと笑うと男の肩に体を預けた。

「お客様、こちらの方が御同席をご希望されているのですが」
「あ、瞳さんだ」
その声に、幸は顔を上げた、しかし、一瞬、目を見開くと跳ね上がるように立ち上がった。
「あんた、それ、どうしたんだ」
あわてて、幸は自分の口を押さえた。
「幸、言葉遣いは丁寧にね」
「ごめんなさい」
男はくすぐったそうに笑うと、瞳の隣りにいる初老の紳士を見上げた。
「これは懐かしい、私が子供の頃、親父の元で修行していた時以来ですね」
男は笑顔で立ち上がると、紳士に前の座席を勧めた。
二人は席に着くと笑顔で会釈をする。
「幸、その女性の手をしっかり握っておきなさい」
「はい・・・」
「しかし、驚きです。私はこんなおっさんになってしまったのに、神崎さんは私が子供の頃そのままですよ」
「健康には気をつけておりますのでな」
「なるほど」
男は含み笑いを浮かべると、じっと紳士を見つめた。
「それで、御用件は」
男が囁くように言うと、紳士は笑顔のまま答えた。
「今日は一晩、ゆっくりとしていただきたいと思いましてな」
男は辺りを見渡す、いくつかの目が、魔術師達だろう、男の一挙手一投足に意識を集中していた。
「準備万端のようですね」
「私、臆病でしてな、準備は十二分にしておきたいのですよ、特に貴方のような方にお目にかかる時には」
「私は娘に災いがなされない限りは、旅行客としてゆっくりするつもりです」
「娘・・・、こちらの方はお嬢さんでしたか、また、なんとお美しい」
「私には過ぎた娘です」
「して、お名前は」
「娘の名前は秘密です、私、娘を溺愛しておりますので、男性には娘の名すら言いたくないのですよ、愚かな親とお笑いください」
「いやいや、これ程の美しいお嬢さんならそれも致し方ないこと、失礼致しましたな。つい懐かしい顔を見かけたものですから」
紳士はゆっくりと席を立ち上がる、男は紳士が立ち上がり切ったところで話しかけた。
「こちらの仲居さんはどうも神崎さんの部下のようですね」
「そのようなものですな。いや、以前はこれも優れた弟子だったのですが、不意に意気地をなくしてしまいよりまして」
紳士は否定もせず、世間話のように答えた。
「いただけませんか、彼女を。娘が執心しておりますので」
「こんなものでよければどうぞ」
紳士は厄介払ができたとでもいうように笑った。
「もちろんのこと、彼女の心臓も返していただきたい」
「代わりに何をいただけますかな」
「何が欲しいとおっしゃいます」
「ですな、無難なところでお腰の刀などいただけるとありがたい」
「これは私が数年前に買い求めたもので、なんのいわくもない刀ですがそれでよろしいのですか」
「いや、貴方がこの刀を使うのは多くのモノが知っております。面白いではありませんか、ある日、貴方の心臓にその刀が突き刺さっていれば」
男は愉快に笑うと、腰から刀を鞘ぐち抜き、紳士に手渡した。
「それはとても楽しいお話を聴かせていただきました。ありがとうございます」
「それでは」
紳士の体が薄れ消えて行った。
男は女性の胸で心臓が鼓動しているのを確認し、ほっと一息ついた。
「お父さん、今からでもあいつ殺しに行くよ」
幸が紳士の消えた後を睨みながら囁いた。
「奴はとても臆病だから、死ぬとでもなったら、たくさんの人達を平気で道連れにする。今はまだやめておいた方が良い」
「わかった」
「それより、瞳さんだったかな、部屋へ連れて行こう。まだ、しなければならないことがあるでしょう」
幸も立ち上がると瞳に笑いかけた。
「お姉さん、一緒に行こう」
「もう、何がなんだか・・・」
蹲りそうになる瞳を幸は支えると、くすぐったそうに笑った。
「お姉さんの生命は幸が預かった、諦めな」

部屋に戻ると幸は瞳をベッドに寝かせつけた。ベッドルームもあるのだが、幸はベッドに寝ることができずにいたため、部屋をそのままにしていたのだった。
「幸、彼女の家族は」
「夫と子供、男の子が一人」
「どうか、お願いです。家族には危害を加えないでください」
男は柔らかな笑みを浮かべると、瞳に語りかけた。
「もともと、貴方はこちらの世界の住人ではないのでしょう。少し時間はかかりますが、私は貴方を居てしかるべきところに帰そうと思っています」
「幸、まずは彼女の家族を保護しなさい、二人を捕捉できますか」
幸は瞳の額に手を触れ、その目を透かすように見つめた。
「いま夫は会社、子供は保育園にいる」
男は両の手のひらを上に向け、ふっと息を吐く。そうすると、まるで始めからあったように、硝子細工の鈴が二つ現れた。
「この鈴を二人の魂に繋ぎなさい、そうすれば万が一危機に瀕しても音がそれを伝えてくれる」
幸は男から鈴を受け取ると、まるで水に手をいれるように瞳の顔に手を入れて行く。
「あ、ああっ」
「大丈夫だよ、瞳さん、痛くもなんともないでしょう」
「は、はい。変な感じですが、痛くはないです」
「お父さん、繋いだよ」
「それじゃ、次は、彼女を裸にしなさい」
そう言うと男は背を向けた。
「とにかく、瞳さん、自発的に脱いでください。幸、手伝いしなさい」
「お父さん、どうしてあっち向くの」
「父さん、男だからな。女性の裸を見るのはよくない」
「お医者さんは女の人の裸も見るよ」
「お父さんは医者じゃないし、それに幸以外の女性の裸は見ないように・・・、いや、そうじゃなく、なんていうか」
「お父さんのそういう少年みたいなとこ大好き。後で、部屋付の露天風呂、一緒に入ろう」
「父親をからかうな」
幸は嬉しそうに笑うと、瞳を立たせた。帯をほどき、着物を脱がせて行く。瞳は幸がするのを逆らわず裸になっていった。
「裸にしたよ」
「なら、ベッドに寝かせなさい」
幸は頷くと瞳をもう一度、ベッドに仰向けに寝かせつけた。
「これから、私はどうなるのでしょうか」
「教えない」
にっといたずらっぽく幸が笑う。
「幸、こういう状況で不安にさせないように」
男は相変わらず壁を見つめたまま幸を叱る。
「ごめんなさい」
「瞳さん、申し訳ありませんね。この子はまだ子供で。幸」
「はい」
「つま先から、頭、指先ももちろん精査して、埋め込まれた異物をすべて取り出しなさい」
「わかった。さぁ、瞳さん、痛くないからね」
幸はまるで水に手を入れるように、瞳の体に、その両手を入れ、揺らめかせる。
「両足に二つ、お腹にひとつ、心臓の裏には二つも小さな爆薬が埋め込まれている」
幸は、一つ一つつまみ上げるように瞳の体からそれらを取り出して行った。
「首の後ろ、これはホルモンを分泌している、あと、これは脳の最深部に入っている。電気信号を遠隔で操作できるようになっているよ」
「感情を操っているんだろうな」
男が答えた。
「でも回りの細胞が少し破壊されていて、今は機能していないよ」
「実験だったんだろう。うまくすれば忠実なロボットになる」
「お父さん、全部取ったよ」
「後はお風呂で穢れを流し落として来なさいな」
「お父さん、瞳さんの着替え、幸のでもいいかな」
「そうしてくれるかな」
「うん」
幸が素直に瞳を促し、露天風呂へと向かった。

男は先程の紳士が今回の呪宝具オークションの主催者だろうと考えていた。奴は何を企んでいる。何を得ようとしている。

幸は瞳の体をシャワーで流しつつ丹念に洗う。
「ま、前はいいです、自分で」
「あぁ、なんか、幸、えっちな気分になって来た。ああん、お姉様ぁ」
「ごめんなさい、勘弁してください」
幸はくすぐったそうに笑うと、瞳の言葉に関係なく彼女の全身を洗って行く。
「頭痛も肩凝りも消えて行くだろう」
「は、はい。とても体が軽くなって来ます」
「その軽さがあんた本来の体の重さだ。随分と穢れが体の中まで染み付いている。大方は取るけど、後はあんた次第だな」
そして、瞳を湯船につからせると、幸も入った、十人程度は充分に入ることができるこの岩風呂からは、海に沈む夕日が独り占めできた。
「贅沢だねぇ、旅の予算のかなりがこのホテルの宿泊代だ」
「あ、あの」
「ん、どうした」
「どうして、私を助けてくれて・・・」
「あぁ、あんたが真面目すぎるからだ」
「真面目って」
「真面目な奴は、真面目に深みにはまり込んで行く、ちょっとやめておこうかななんて浮気せずにひたすら真面目に落ち込んで行く。そういうのが歯痒くてね。それがきっかけかな」
「私は真面目過ぎますか。そうかもしれない」
「過ぎるのは良くない。それに二度会うのも縁があったってことだろう。あんまり難しく考えるな、あたしもそんな考えて行動しているわけじゃない」
「それからな」
ふっと幸は思い出したように呟いた。夕日は半ば以上、海に沈み込み、天蓋はそれでも紅蓮に燃えていた。
「あんたがさっきの野郎に命令されて、秘密を探りに来たことなんざ百も承知だ、父さんもあたしもな」
瞳は、一瞬、目を見開き、脅えたように俯いた。
「今日最初に会ったのは偶然かもしれない、ただ、それをあんたは野郎に報告をする、そしたらさ、今の状況は必然になる。なぁ、あたしはあんたの家族を守ってやる、あんた自身の体も異物を取り除き、命も安泰だ。他に何が必要だ。あんたがあの野郎と決別するにはさ」
瞳は唇をかみしめ、俯き続ける。
「勇気を持ちな。悔いのないようにさ」

男は困惑していた。瞳が男の前で土下座していたのだ。
「お願いですから、顔を上げてください」
男は瞳の前に正座すると、少し引きつった笑顔を浮かべた。
「まずは顔を上げてください、それからお話を承りましょう」
男は他人に頭を下げるのは嫌いだが、それ以上にこういう状況を苦手としていた。
幸も困ったように見つめていたが、しょうがないと吐息を漏らすと、瞳に話しかけた。
「姉さん、顔を上げてさ、気楽にね、そうじゃないと話が進まない」
瞳はやっと顔上げると、おずおずと話しだした。
「救っていただきありがとうございます。この御恩は」
「あの、そういうのいいですから」
男は困ったように手をぱたぱた振ると、しばらく考え込んだが、
「私は正義の味方でもなければ、善人でもありません。ただのお節介ですから、特に気にしていただく必要はありません。それと、瞳さんでしたね、先程から、以前何処かでお目にかかったような気がするのですけど」
「ごめんなさい、お父さん。まだ、言ってなかったけど」
幸が困ったように男に言った。
「あの時の、ほら、外神の時のおばあさんに変装していた・・・」
「あ・・・、あの時の人か・・・」
「申し訳ありません」
瞳が畳に額を擦り付ける、
「いや、あの、いいですから。貴方の立場もあったことでしょうし。ですから、顔を上げてください」
幸がくすぐったそうに笑った。
「本当に、お父さん、こういうの苦手だね」
「幸、傍観者づらしないように」
幸は笑うと、瞳の横に座った。
「瞳さん、ちょっとお茶飲も」
幸はお茶を入れると瞳に差し出した。
瞳はお茶を飲むと、やっと顔を上げた。
「まっ、瞳さん。十日間ほど、一緒に暮らしていただきます。その間に、体と精神を普通の人程度まで浄化しましょう。それと、今後、ご家族で生活して行かれる中で、呪的干渉を受けないよう工夫します。それで、きっぱり、この世界から縁を切ればいいでしょう」
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
「いいえ、どう致しまして」
男はほっと一息つくと自分でお茶を入れ、一口飲む。
「幸、昼間の奴はさ、父さんの親父のライバルだったんだ。当時、親父は先を越されたと悔しがっていたよ」
「因縁があるの」
「っていうかね、親父は権勢欲が強くてね、一大流派を作ろうとしていたんだ、自衛隊にね。閉鎖的で上意下達がしっかりしている組織だとやりよいからさ」
「そういう意味か・・・。それじゃ、瞳さんも」
「最初は直属の上司に奨められてでした」
瞳が、ぽつりと呟くように言った。
「精神修養によいと聞かされて・・・」
「そんなところだろうな。いずれは斬ることになるかな」
「お父さん、かなり怒っている」
男はふっと笑うと肯定も否定もせず立ち上がった。
「お父さんね、せっかくだし、露天風呂だけ入っておくよ」
「それじゃ、幸はフロントに事情を説明してくる。行こう、姉さん」
「あの、何を・・・」
「今から帰る準備。まだ、この時間なら帰りの列車もあるだろうし」
幸は当たり前のことのようにして答えた。
「瞳さんも荷物があるでしょうし、幸と一緒に行ってください。今夜はオークションがあるのでしょう、呪宝具の。奴がそれを主催する」
「は、はい」
「あれだけの呪宝具が集まる、これは奴にも幾分荷が重すぎるかもしれない。その上、私と幸が泊まっていたら、奴は監視と抑制用に半数は手下をこちらに回し てしまう。呪宝具が暴走すればこの辺りが焦土と化してしまうかも知れません、それを抑える余力を奴に残しておくためにも、私達はここにいない方がいいので すよ」
そう言い残して、男は露天風呂へ向かいかけたが、はっと気づき幸に声をかけた。
「幸、絶対に」
「え、なに」
「泊まらずに帰るんだから宿代負けてとか言わないようにね。そういうの、恥ずかしい」
「はは、言うつもりだった。わかった、お父さんに恥ずかしい思いはさせないよ」
男は溜息を漏らすと部屋付の露天風呂に向かった。

漁船の灯火だろうか、
男は露天風呂に肩まで浸かりながら、夜の海を眺めた。そして、天蓋は満天の星空。
あぁ・・・、思わず溜息が出てしまう。
その空に一瞬、一筋の光がきらめいた。
男が左手をその光に向ける。
男の左手には、刃先を心臓に向けた男の小刀が握られていた。
「本当に突き立てようとしたとはな」
男は呟くと、小刀を横に置き湯船で顔を洗う。
「急かせなくても帰るさ」
男は呟くと、もう一度空を見上げた。
静かだ・・・。なぁ、親父、あんた、先越されて良かったと思うよ。さすがにさ、あんなふうにはなって欲しくないからな。

「ここは部屋風呂、大浴場の方へお願いできませんか」
男が振り返ると、十人はいるだろう、覆面で顔を隠した男たちがナイフ片手にして男に今にもとびかからんと構えていた。
「風呂上がったら帰ります。ですから見逃していただけませんか」
「女の縛りを解かれた以上、今後、貴様は障害になる、早めに潰しておくのが得策と仰せつかって来た」
男の一人が答えた。
「神崎さんも相変わらず腹が小さい」
男は呟くと、声を発した男を見上げた。
「私を殺すつもりのようですが、それは無理ですよ。貴方の足は棒になってしまったから動かない、腕もほら、関節が固まってしまったでしょう。他の皆さんもそうですよ、体が固まって動けなくなってしまった」
男は湯船から上がると、何事もなかったように体を拭き服を着ると部屋へ戻った。
部屋に入ると、瞳が腰が抜けたように座り込んで震えていた。
「どうしました、彼らなら殺してはいません。半時間もすれば暗示が解けますから、それまでに帰りましょう。ん、幸は」
「あ、あの・・・」
ふと、男は入り口のドアが袈裟懸けに両断されているのを見た。
「ええっと、これは困ったな。瞳さん、オークション会場はどちらです」
「さ、最上階のホールです」
「では、行きますか」
男は瞳に肩を貸し立ち上がった。

男は幸の片手を、両腕、体全身の力で受け止めた。
なんて力だ・・・。
幸の剣先は仰向けに倒れた神崎の首、寸前にある、
「お父さん、こいつの首を刎ねる」
鋭い目付き、唇を結んだ幸の顔は神々しく思えるほど美しかった。
たくさんの参加者たちは幸の気配に弾かれ、後ろの壁にへばり付くようにして震えている。
「神崎さん、次はもう俺では抑え切れない、もちろん、この子を制止できる奴なんて何処にもいない、わかるだろう」
「わ、わかる、わかる」
神崎は脅え、後退りしながら喚いた。
「なら、今後、一切、かかわるな。あんたが手出さなければ、こちらからもかかわらない。」
「わかった、もう、一切、手は出さない」
「もしも、約束を破ったら・・・、これは言うまでもないな」
男は一瞬、腕を引くと、力の流れを変え、幸の懐に入り込むと右肩を幸の腹部に合わせ、力の向きをずらしながら立ち上がった。
男は幸を右肩にかつぎ上げる。
「さあ、帰るよ、幸」
「でも、でも」
「父さん、幸が人を殺して、幸の魂に傷が付くのいやだ」
「あたしはもう数え切れないほど人を殺している、今更、一人くらい増えてもかわらないよ」
「だめ、幸は生まれ変わって父さんの娘になった、とっても大切な娘にね」
男はばしっと幸のお尻を叩いた。
「痛いよぉ」
男はくすぐったそうに笑った。
「いい音がした」
「お父さんのえっち」
男は嬉しそうに笑うと歩きだす、そして蹲ったままの瞳の横を一歩行き過ぎ立ち止まった。
「瞳姉さん、手ぇ出せ」
幸は男の担がれたまま、瞳に笑いかけると、思いっきり両手を瞳に差し出した。
瞳はぎゅっと唇を噛むと両手を幸に差し出した。
しっかりと幸が瞳の両手を握り締める。
「一緒に帰ろう」
幸はにっと瞳に笑いかけた。
「お父さん、移動するよ」
「あぁ、頼む」
一瞬で三人の姿が消えた。

夜の列車の中、幸は窓側に座る、その向かいには瞳がいた。男は幸の隣りでお茶を飲んでいる。
「私は変わることができるでしょうか」
男は眠り込んでいる幸の顔を覗き込む。
「瞳さん」
「はい」
「心配しなくても大丈夫、無理やりにでも幸に変えさせられてしまいますよ」
「そうですね」
少し困り顔で瞳が頷いた。
「幸も家族が増えたようで嬉しいのでしょう。縁とは不思議なものですね」
「本当に」
「短い間かも知れませんが、幸の姉になってやってください」
瞳は初めて安心したように笑顔を浮かべた。
「瞳姉さん」
少し寝ぼけ眼で幸は瞳を見つめた。
「瞳姉さん、お父さん、とっちゃやだよ。お父さんは幸のだからさ」
「取らないよ、もっとカッコ良ければわからないけど」
「うーん。ほんと、お父さん、幸以外、誰もお父さんがかっこいいの、わかってくれないよ。困ったな」
「お父さん、もてたらどうする」
「ん・・・、ライバルがいない方がいいのかな。それじゃ、今でいいや」
男はくすぐったそうに笑うと幸の頭を優しくなでる。
「不思議なものだと思いますよ」
男はそう言って列車の窓を見る。窓には三人の顔が映っている。
本当に不思議なものだと男は思った。
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最終更新日 : 2013-05-11 17:11:15


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