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異形 漣

異形 漣 一話

「しょうがないな、出るか」
深夜、幸は呟くと椅子から立ち上がった。
夕食の後、鬼紙家から遣わされた車に鬼紙老と津崎かなめを載せ、あかねはどうしようかと少し迷ったようだが、万が一のため、一緒に乗り込み送っていくこと にした。
三人が帰った後、片づけを手伝い、幸は男の部屋で時間を過ごす。

襖を開ける、廊下を渡り、幸が寝間を覗き込む。啓子が大いびきをかいて眠っていた。
「あやつは蓄膿症の気味があるようじゃのう。小夜野も早めに寝てよかった、奴よりも後に寝ようとすれば、到底、眠れそうにないわ」
背後から、なよが気楽に笑った。
「なよ姉さんは寝そびれたわけだ」
振り返ると幸は少し幸せそうに笑った。
「あさぎ姉さんも遅くまで起きていたようだけど」
「あさぎは帳面に中華の分析を書いておったからの。しかし、驚いた、味と見た目から、材料に調味料、料理の仕方、加熱時間まで推理しおった」
「凄い特技だ。あさぎ姉さん、頑張ったんだろうな」
「出来た妹のおかげで、美味いのが食える、ありがたいのぉ」
なよが笑うのを、幸は嬉しそうに笑みを浮かべ、よしっと気合を入れた。
「行くのか」
「このままだとゆっくり眠れないから、仕事、済ませてくる」
「わしも行こうか」
「本家絡みの気がするから、幸だけで良いよ。そうだ、凍えているだろうから、お風呂、沸かしなおしてください」
「わかった」
なよは頷くと風呂場に向かった。

家の扉を開け、後ろ手に閉める。
闇の中、玲瓏、突き刺す白月がアスファルトを穿つ。道路を挟んで見えるは漆黒の闇。光すら飲み込み、その正体が知れない。
「用件を聞こう」
幸が闇に向かって呟く。
重低音の振動が微かにずれる、そんな唸りのような音が響いた。音、いや、意味のある音、声だ。
娘に術を授けてもらいたい
闇が少し薄れる。巨大な足、足首から膝までの高さで幸のゆうに二倍はある。その足にしがみつき、身をひそめる少女。
微かに顔をしかめ、幸が呟いた。
「何者だ」
人は我らを鍾馗と呼ぶ
幸は頷くと、しっかりと声を掛けた。
「わかった、教えてやる。一ヵ月後の今夜、この時間に来い。だが、身につけることができるかどうかはその娘次第だ。いいな」
ありがたい、感謝する
幸はその言葉に返事はせず、ぎゅっと少女を睨んだ。
「来い」
少女は意を決したように、一歩前に出ると、空を、自分の父親のだろう、顔を見つめ、しかし、すぐに向き直ると幸の元へとやってきた。幸の持つ気配にだろ う、震えている。
幸は氷のように冷え切った少女の手をぎゅっと握ると空に向かって言った。
「鍾馗の長よ。必ず、生きてお前の娘を迎えに来い。これは餞別だ」
幸の握った手が月と同じ白に輝く。それは光の球になり、少女の体を抜け、闇へと駆ける。そして、その闇の中に吸い込まれた。
「仙術系なら、月の光も役に立つさ。去ね」
やがて闇が薄まり、道路、向かいの家が浮かび上がる。
「行ったか」

幸が少女の手を握り、家に戻ると、白が嬉しそうに待ち構えていた。
「幸母さん、これは白のお役目ですよ」
新しい下着と、白の服だろう、そうだ、少女の背は白と同じだ。
「お風呂はなよ姉さんが沸かしなおしてくださいました」
幸は白に幾つかの指示を伝えようとしたが考え直した。
「白、この子は1ヶ月の間、うちで修行をする。これから風呂に入れるつもりだけれど、たださ、随分やつれている、栄養状態が悪い。どうすれば良いかな」
白は頷くとしばらく考えていたが、目を輝かして答えた。
「肌の状態や唇の乾き具合から判断して、水分補給。ジュースを作ります」
「そうだな。なら、白。彼女を台所へ連れて行ってくれ。椅子に座らせて栄養のあるジュースを作ってくれるかな」
「はい」
白は頷くと少女の手を握り、台所へと連れて行った。
幸が廊下を一歩歩いたとき、ふっと、なよが幸の隣りに現れた。
「なよ姉さんの天敵だ」
幸がくすぐったそうに笑った。なよが少し困り顔に笑う。
「刺激があるのも面白い。練習相手になってやるとしよう」
ふぃっとなよの姿が消えた。啓子のいびきが収まる周期になったようだ。なよが小夜野の隣りに寝るのを感じた。
幸が台所に入ると、少女はテーブルに着き、白が山羊の牛乳に火をかけていた。
「人肌まで暖めて、バナナジュースを作ります」
「美味しそうだな」
幸は答えると、少女の隣りに座った。
「私は幸。この娘の母親だ。みんな寝ているからさ、紹介は明日の朝にするよ。で、お前の名前は」
少女は幸の問いかけに困ったように俯いた。
幸はたいして気にするふうもなく、軽く吐息をもらすと、白に声をかけた。
「白。この娘に呼び名をつけてくれ」
「名前ですか」
「いいや、呼び名だ。呼ぶのに不便だからさ」
白は少し考えていたが、ふっと笑みを浮かべた。
「漣(れん)、さんずい偏のさざなみという漢字です」
「いいな、それ」
幸は頷くと、俯いたままの少女に言った。
「お前のことを漣と呼ぶ。漣という声が聞こえたら、自分のことだと認識してくれ、いいな」
少女は驚いたように幸を見つめていたが、やがて、そっと頷いた。
「できましたよ」
白はマグカップ三個に温かなミルクを注ぎ、テーブルに置いた。
「一緒に飲みましょう」
白は漣の真向かいに座り、ジュースを少し飲む、そして、漣に笑みを浮かべた。ほっとしたように微かな、ほんの小さな笑みを漣は浮かべると、一口、ジュース を飲む。
三日間、一切の食事も水分も摂っていなかった、だからだろう、人肌に温められたジュースが喉を通っていくのがわかる。なんだか、緊張が解けて寝てしまいそ うだ。
「寝るのは風呂に入って体を洗ってからにしてくれ」
幸が穏やかに言うと、くすぐったそうに笑った。
「白、漣と一緒に風呂に入ってくれるかな。汗や土埃に、涙、流してやらないとな」
「わかりました」
「漣の服は洗っておく。ん、こういう服もいいな、一つ、作るかな」
闇にまぎれる濃い茶色の服、緩めのチャイナドレス、下は幸のカンフーズボンに似ている。改めて、漣を見る、肩より二センチ上で切りそろえた後ろ髪、澄んだ 瞳に鼻筋が通っている。
「元々が中国だからかな」
白はふと幸に尋ねた。
「漣さんは中国の人」
「ん、微妙だな。広い意味では人だ。ただ、話が長くなる、それを話し出すと。とにかく、風呂に入って、一晩、ぐっすり寝て、それからの話だよ」
幸は微かに哀しげな笑みを浮かべると、残りのジュースを飲み干した。

白が漣を風呂に入れている間、幸が風呂の洗い場で漣の服を手洗いする。洗濯機もあるのだが、長く使っていない。たらいに洗濯板を斜めに入れ、それで洗う。 たらいの下にかさ上げのための台があるので、腰に負担がかかりにくくなっている。
白は右肩で漣を支えるようにして、風呂につかっていた。
「幸母さん、手伝いましょうか」
「いいよ、もうすぐ終わる」

「おおい、幸ちゃん」
脱衣場の向こうで啓子の声がした。
「お風呂場だよ、啓子さん」
幸の返事に啓子が服を着たまま、風呂場の扉を少し開け、中を覗き込む。
「どうしたの」
「なよちゃんにたたき起こされたよぉ。幸ちゃんになんとかして貰ってこいって」
幸が愉快に笑った。
「啓子さん、いいから、こっちにおいで」
少し涙目になった啓子はそのまま、幸の元にやってくると、しゃがむ、幸は左手をタオルで拭うと、啓子の鼻から額に向かって手を動かす、すっと、指先が啓子 の鼻と額の間に溶け込んだ。
「これだな」
ふっと幸は指先を動かし、手を啓子の額から抜いた。
「以前に顔面に強打を受けた後遺症だ、膿が溜まりやすくなっているんだよ」
「なんだか、息がしやすい。すっきりした」
幸は笑うと、ふと思いつき言った。
「啓子さん。悪いけど、寝る前に、お父さんの部屋に布団を三組敷いてくれないかな」
「いいよ。幸ちゃんの頼みは断れないからさ」
啓子も新しい住人に気づいたが、それには触れず、風呂場を出て、男の部屋に向かった。
「面白い人だ、啓子さんは」

「あの、幸母さん」
白が思いつめたように言った。
「どうした、漣は、うん、大丈夫みたいだな。そろそろあがるかな」
「あのね」
「ん」
「白も幸母さんみたいに出来るようになるのかな、練習すれば」
「あぁ、啓子さんの顔に手を入れたりってこと」
「う、うん」
「モノの虚実が理解できればそれほど難しくはない。ただ、絶対的な自信がないと大変なことになるから、誰にも教えていない。白、身につけたいのか」
「はい」
「それなら、漣の修行が終わったら特訓してあげるよ」
「がんばります」
「あぁ、かなりがんばってくれ」
幸が楽しそうに笑った。

漣は夢を見ていた。目の前の見慣れたはずの屋敷が紅蓮に燃えている、自分の体まで燃えてしまいそうだ。沢山の黒い消し炭が横たわっている、あの一つに母さんがいるのだ、私を逃がしてくれた母さんなのだ。
うわぁぁ・・・、どうしてこんなことに。
やだ、嫌だ、どうして。

「よう、目を覚ましたか」
なよが、目を覚ました漣を見て、にたぁっと凄みのある笑みを浮かべた。
「う、うわっ」
漣が唇を震わせ、後ろ手に布団を握り締めた。
「かぐやのなよたけの姫」
食いしばる歯の隙間から漣が呻き声を出した。
「ほぉ、わしを知っておるか。ほれほれ、固まっておっては逃げられんぞ」
嬉しくてたまらないとなよが笑った。
漣がよろよろと後ずさりをする、息が荒い。ぼろぼろと涙がこぼれる。
「なんじゃ。そんなことでは戻っても鬼の餌になるだけじゃのう」
じわりと、なよが漣に向かって手を伸ばす。

「なにやっているんですか、なよ母様」
二人の間に割って入った小夜乃がぎゅっとなよを睨んだ。
白い割烹着を身に纏い、仁王立ちする小夜乃には威厳すらあった。
「いや。まぁな、怯えるのが面白ろうてな」
「なよ母様は遊びでも、漣さんにとっては心の傷になるんです」
「すまんすまん、怒るな。謝る」
小夜野の怒る姿すら楽しいと、なよが素直に頭を下げた。
「本当にもう、なよ母様は子供なのですから」
小夜野は大袈裟に溜息をつくと、漣に向き直り、腰をおろして正座した。
「幸姉さまから修行に来られたと伺っております。母 かぐやのなよたけの姫が失礼致しました。私は娘の小夜野と申します」
「なよたけ姫の娘・・・」
漣が腰を抜かしたまま、呟いた。

「種族はそれぞれ違うけれど、それでも家族なんだ」
幸が連の着替えを抱え、ふわりと小夜野の横に座ると、気楽に笑った。
「おはよう、漣。顔を洗って着替えてこい。朝ご飯を食ったら、修行だ」

あたふたと漣が着替えを済まし、広間に戻ると、幸たちが組み立て式の食卓を整え、料理を運んでいた。
「漣。向こうの扉を開けたら、椅子がある、運んでくれ。啓子さん、お願いします」
「ほーい」
啓子は抱えていたおひつを食卓の上に置くと、漣に笑いかけた。
「漣ちゃん、おいで」
啓子の声にあたふた頷き、漣が啓子に走り寄った。啓子の後ろを歩く、背の高い綺麗な人だ。
扉を開け、啓子が折りたたみ椅子を出す、漣がそれを浮けとる。
ふっと漣が啓子を見つめた。
「どうしたの。なんか顔に付いているのかな」
「あ、あの。いいえ・・・」

にかっと啓子が笑った。
「ここの連中は個性が強すぎて当てられるかもしれないけど、すぐに慣れるよ。いい人ばかりだからさ」
「あ、ありがとうございます」
背伸びをするように漣が答えた。

漣は昨日までの逃避行が本当にあったことなのか、頭の中で混乱していた。鍾馗の一軍が鬼との戦いに破れ、散り散りに逃れた。異様なほどの鬼の強さに男達は怯えていた。
本来、鍾馗は鬼を制する立場にあるはずなのに、一族一の偉丈夫な父でさえ苦戦し、私をここに預けたのだ、私は役立たずで邪魔になるだけだ。
「漣。しっかりしろよ」
幸が声を掛けた。テーブルにつき、朝ご飯の前で連は惚けたように俯いていた。
「はいっ」
漣が顔を上げると、幸が正面でにっと笑っていた。
「しっかり食っておけよ。藤四郎が一ヶ月で名人になるって言うんだ、修行は厳しいぞ」
「はいっ、頑張ります」
漣が思いっきりご飯を書き込んだ。咽ていないはずなのにぼろぼろと涙が流れる。
幸は呆れたように笑うと、連に話し掛けた。
「親父や一族の心配はするな。幸が漣を預かったのを本家が確認した、本家は勝つ側につくからな、いま、本家当主が鍾馗に接触している。幸の娘達も情報収集 に走っている、勢力図が変わって、鬼との戦いは膠着するだろうし、一ヶ月くらいは時間稼ぎできるさ。漣はその間に強くなればいいし、強くしてやるよ」
「幸さん、話がよく見えないんだけど」
ふっと、啓子が口をはさむ。ドンブリ鉢に山盛りのご飯、片手に。
「太るよ、啓子さん。啓子さんも漣ちゃんの練習に付き合ってみる、しっかり痩せるよ」
幸は少し笑うと、微かに俯いた。
「まっ、漣のことは、本人から聞いてくれ。ただ、幸がすることは、連を一ヶ月であかねちゃんや黒並みの強さに育てる」
おおっと啓子が唸った。
「つまりは、鬼の大群を一人で粉砕できるようにするってことか・・・」
「黒はどうかな。技術はあるけど優しいからな」
ふと、幸は呟いたが、顔を上げると、皿にある卵焼きを食べる。
「あさぎ姉さん、卵焼き美味しいよ。ちょっと中華風かな」
あさぎは照れたように笑うと頷いた。
「お父さんが帰ってくるまでに中華をしっかり覚えようと思ってね」
うふふっ、と幸がくすぐったそうに笑った。
「お父さん、喜ぶよ、きっと」
「そうじゃな。あさぎの料理はうまいからのう。あぁ、今度はラーメンが食いたいのぉ、あの時のラーメンは絶品じゃった」
啓子が食べるのをやめ、なよを見た。
「なよちゃん、それって、商店街の中華屋さんのこと」
「あぁ、あの時は世話になったな。しかし、こんな生意気な口をきくのなら、啓子の耳たぶの一つも食っておけばよかったな。まさか、ちゃんづけで呼ばれるとは思わなんだわ」
「なよちゃんてさ。知らずに見れば可愛い女の子だよ」
「まじめな顔をして、そのようなことを申すではないわ」
なよが少し顔を赤らめる。
幸が笑った。
「そういうとこが可愛いんだよ、なよ姉さん」
「お前達とおると調子が狂うてかなわん。さて、佳奈ところへアルバイトへ行ってくる、昨日の今日で客が来るかどうかわからんがな」
「それなら」
あさぎが声を掛けた。
「なよ姉さん、買い物いいかな」
「いいぞ、何を買ってくる」
「蛸とたこ焼き器なんだけど、幸もいいかな」
あさぎが幸を見る。料理に関しては、全てあさぎに任せてある。
「いいと思うよ、幸もたこ焼き好きだし」
にっと幸が笑った。
「ひょっとして、あさぎ姉さん,黒に頼まれたの」
「買い物に付き合ってくれて、帰り道、屋台のタコ焼き屋さん、なんだか幸せそうに眺めているから、買ってかえろうかって言ったら、いらない、いらないって慌てたようにね、言うから」
ふと啓子が思いついたように答えた。
「黒は気を使っているんじゃないかな。学校に通っていると、細々と必要なものもあるし、負担かけているってさ」
「お父さんも仕事辞めたものね」
幸は呟くと天井をぼぉっと眺める。
「テレビもエアコンもない家だけど、それは必要がないからで、それなりに、お金の面でも裕福なつもりなんだけどなぁ」
「ねぇ、幸」
あさぎが何か思いついたように顔を上げた。
「幸と二人で、毎晩の家計簿。黒にも手伝ってもらおうか」
なよが面白そうに笑った。
「なるほど。知らないことが不安なら知れば良いだけのこと、幸、そうしたらどうじゃ」
幸も頷くとほっとした顔をした。
「黒には今晩、話をするよ」
幸はれんが食べ終えたのを見届け、立ち上がった。
「思い出したけど、お父さんと屋台でたこ焼きを焼きながら旅をしていたんだ、その時の道具が車屋さんの倉庫にまだ残っているかもしれない」


最終更新日 : 2013-05-11 17:50:33

異形 漣 竹林にて

両腕を組み、鼻歌など口ずさみながら竹林の小径を歩く。
黒と三毛を従え、なよはにかっと嬉しそうに笑みを浮かべた。
「あさぎが作ってくれた弁当に日本酒、言うことないのう」
三毛が辺りをうかがいながら、なよに言った。
「なよ姉さんはお気楽すぎます」
「三毛の生真面目にも困ったもんじゃ。青い空、小春日和の風、沢山の敵、言うことないではないか」
「でも、なよ姉さん」
黒が気配を探ろうと半眼のまま、囁いた。
「かなり強いよ。数え切れないくらいだ」
「惑わされるな、黒」
なよは一升瓶を掲げ、空の青を映す。
「久しぶりの大吟醸じゃ。かぁぁっ、腹の中が熱くなるのぉ」
なよは笑うと、黒に言った。
「人鬼が十一人、それに、この竹林には陰(おん)が漂うておる。陰は人鬼を活性化させるが、それ自体に力はない」
「何千もの鬼がいるように思えるよ」
「この国の呪師のほとんどが理解しておらん。鬼と陰は全くの別物、それが解っておらんから無用に鬼を恐れおる」
「なよ姉さん。でも、この辺りは鬼の気配で充満している」
「陰は人の恨みや悲しみ、怒りなどの負の念が堆積して、つくも神のように、かりそめの実態を持ちはじめたモノ。その気配は鬼と良く似ておるが、鬼の存在に 引き寄せられ集まってきただけのものじゃ。ま、問題があるとすれば、陰の中では、鬼は実力以上の能力を発揮するということくらいじゃな。なんというたか のぉう、そうじゃ、ドーピングという奴じゃな」
黒の問いになよは答えると、ふいと前方を望んだ。車の少し古びた整備工場と隣りに二階建の安普請のアパート。
「あれか。幸の親友がいるのは。ユッキーとか言うたかな」
思い出したのか、三毛が少し笑みを浮かべる。
「ちょっと怒りっぽいけど良い人だよ」
いたずらげになよが笑みを浮かべた。
「それはカルシウムが足らないせいじゃな。三毛、黒。呼ぶまでここで待っておれ。油断はするな。奴らはわしらの一挙手一とうそくを注視しておるぞ」
黒が慌てて言った。
「ユッキーをいじめたらだめだよ」
「わかっておるわ。わし流の挨拶をするだけよ」
なよは声を出して笑うと一人歩きだした。


「よう、童(わっぱ)。そんな俯いておったら、鬼に食われるぞ」
事務所入り口にある硝子戸の手前で、なよが声をかける、そして、にたりと凄みのある笑みを浮かべた。
「く、来るな」
事務所の壁に背を預け、くたびれ果てたように座り込んでいたユッキーが顔を上げる。赤く目を腫らした顔のまま、大声で叫んだ。
「来るなぁ」
重い拳銃を両手で掴み、なよに銃口を向けた。
「困ったのう、わしは少々天邪鬼でな、来るなといわれると行きとうなる。ちと、お邪魔するかな」
「来るな。来ないでくれよぉ」
どれほど、涙を流したのだろう、それでも、涸れることなくユッキーの両の眼から涙が流れ、唇が震える。
「仕方ないのう、なら、来いと叫べ。ならば、退散も考えよう」
唖然とした顔でユッキーがなよを見つめる。
そして、小さく呟いた。
「来い・・・」
「ん、何か言うたかな」
ユッキーが叫んだ。
「来い」
なよはにっと笑うと、硝子戸に手をかけた。
「では、お言葉に甘えてお邪魔するかな」
あっさりとなよが事務所に入った。
「な、なんだよ。帰るって言ったろう」
「ふむ。帰っても良かったんじゃが、ま、折角、来てくれというのを断るのも悪いかと思うての」
がくがくと銃口が上下に震える。
「ば、馬鹿にしやがって」
ユッキーが震える口元をそのままに、なよを睨みつけた。
なよが嬉しくてたまらないと声を上げて笑った。
「さあ、どうする。ひょっとしたら、わしはお前を助けに来たかもしれんし、もしかしたら、うまそうじゃ、食ってやろうと来たかもしれんぞ。さあ、どうする」
「撃ってやる、穴だらけにしてやる」
ユッキーが叫んだ。
その声に、なよは得意満辺に笑みを浮かべた。
「感情を制し、撃つか、撃たぬか、理性で判断せい」
一歩、なよが足を進めた。ユッキーはなよを睨んだが、ふっと力を抜くと拳銃を落とし、俯いてしまった。
「まだ、空き缶しか撃ったことがないんだ」
すっと、なよは近づくと、力強くユッキーを抱き締め、囁いた。
「心配するな。わしは敵ではないぞ。ただ、意地悪なだけじゃ」
なよは笑うと、同じように壁を背に、ユッキーの隣りに座った。
「他には誰もおらんのか」
「アパートに住んでいた奴らはみんな鬼に食われてしまったし、マス爺さんは故郷に帰っているし、とっつあんは香港で足止め食らっているし」
「とっつあんというのは、お前の父親か」
「あぁ」
「裏の世界の住人じゃな。この事務所にだけ結界が張ってある」
ふと、なよは天井、いぬとらの角を眺めた。
「なるほど、暗殺寺の作った結界じゃな。印がしてある」
なよは片手を伸ばすと、ユッキーの肩をしっかりと抱いた。
「鬼が押し寄せて来たろう、中から撃っていたら結界も割れてしまう。びびって小便ちびるくらいがちょうど良いわ」
「ちびってなんかいねぇ」
「あぁ。なら、そういうことにしておこう」
なよはいたずらげに笑みを浮かべた。
はっと気づいたようにユッキーがなよの顔を見つめた。
「あんた、誰なんだ」
「わしか。わしは・・・、おぉ、そうじゃ。奴らを忘れておった」
なよは正面を向き声をかけた。
「黒、三毛、来い」
言葉が終わらないうちに、二人があたふたと駆けて来た、事務所に入り、ユッキーに笑みを浮かべる。
「ユッキー、久しぶり」
黒が挨拶をすると、隣りで三毛も笑みを浮かべた。
「お久しぶりです、ユッキーさん。昨晩は大変だったようですね」
「ってことは」
驚いて、ユッキーがなよを見つめた。
「わしは奴らの母親の姉、なよと云う。よろしくな。本来なら妹が来るのじゃが、ちと、患っておっての、わしが代わりにやって来たということじゃ」
「あいつ、病気なのか」
心配げになよに尋ねた。なよは重い吐息を一つ漏らすと呟いた。
「峠はとうに越して、元気じゃが、姿形が随分変わってしもうての。めったに外には出おらん」
なよが沈痛な面持ちでユッキーを見つめる。。
黒が慌てて言った。
「どんな姿になっても、母さんは母さんだよ」
「黒姉ちゃん、その言い方は誤解を招きます、なよ姉さんも面白い方へと話を持って行こうとしているでしょう」
いひひとなよが笑った。
「これも、幸が元気であればこそじゃ」
なよは愉快にユッキーを見つめた。
「よう、親友が病気で心配したか」
「心配なんかしていねえ」
ユッキーがそっぽを向くのを、面白そうに眺める。
「そうじゃ、ユッキー。父さんが預けた荷物があるじゃろう。いくらか、持ち帰りたいのじゃがな」
ユッキーはふいっと立ち上がると、引き出しから鍵を取り出した。
「工場の裏手に倉庫がある」
「そうか。三毛、鍵を受け取れ」
慌てて、三毛が鍵を両手で受け取った。
「黒、聞いたぞ。お前、あさぎと買い物に出た時、タコ焼きをいらぬと言ったらしいな」
「え。あれは、だって・・・」
黒が俯き、言いよどんだ。
「いらぬことを言いおって。わしがうまいタコ焼きを食いそこねたではないか」
「でも」
珍しく黒が不安げに言葉を返す。
「学校、通わせてもらって、いっぱい、お金を使ってくれているし。だから」
なよは立ち上がると、黒をぎゅっと抱き締めた。
「わしも幸もあさぎも働いておる、心配するでないわ」
なよは笑うと事務椅子に座った。
「幸が父さんと旅をしておったのは聞いておろう。その時のタコ焼きの屋台がここにあるらしい。持って帰ってタコ焼き食い放題じゃ」
「いやっほぉ」
黒が歓声を上げて飛び上がった。
「行くぞ、三毛」
「はいっ」
黒と三毛が飛び出して行くのを、なよが楽しそうに眺める。
「面白い奴らじゃのう。初めて会うたとき、意地悪し過ぎたかのう」
なよは立ち上がると、ユッキーに声をかけた。
「さてと、ユッキー。わしが鬼と戦うのを見ておけ」
「何言ってんだ。殺されてしまうぞ」
目を見開いてユッキーが叫んだ。
「奴らも戻ってこさせないと大変だ」
目の前になよがいない。ユッキーが入り口を見ると、既になよが硝子戸の向こうに立っていた。
慌てて、ユッキーも飛び出す。
「なんて、無茶なんだ」
なよは平然とした顔で竹林の一角を眺めていた。
ユッキーがなよの横に立った時、ふっとなよの表情が視野に入った、なんて・・・
先程までの一升瓶を片手に好き勝手言っていた人間と同一人物なのか。
なんて、哀しげな眼をしているのだろう。
真っすぐに立ち、正面を見つめる、その横顔。
近所のスーパーに買い物に来た程度の質素な服装に、足元は素足につっかけ。それなのに、高貴な気高さを感じる。
「ユッキーはわしを撃たなかったな。それは、裏の人間としては失格じゃが、わしは妹の友人にそんな人間がいることをな、羨ましく思っている。そしてな、わしはそういう奴をちっとは守ってやろうと思う」
前方の風景が不自然に歪んだ。歪みの中から抜け出すように、鬼が一人、二人と現れだし、十一人の鬼が目の前に現れた。武装し迷彩の戦闘服を身に纏った鬼の一群。
「人を辞めて悔いはないか」
静かになよが問うた。
「悔いはない、それどころか歓喜に満ちているさ。鬼の姫よ」
「なるほど、わしのことは承知ででてきたわけか」
なよはつまらなそうに呟くと、その前で、平気でしゃがみ、小さな親指ほどの小石を拾い立ち上がった。
「わしを前にした時は無条件に逃亡せよとは教わらなかったか、ひよっこども」
「そんなことを言う鬼もいたな。俺達、戦闘のプロが鬼になったということを理解できなかったのだろう」
「これからどうするつもりじゃ」
「しばらくはここに身を潜める。機を見てこの国を転覆させてみせるさ」
なよは溜息を漏らすと、初めて、にたぁっと笑った。
「がきじゃのう。身のほど知らずのがきにはお仕置きじゃな」
なよは眼の高さに小石を摘まんだまま手を上げると、その手を開いた。小石がふわっと浮かぶ。
「始める。おのれの生命を賭けて戦ってみるがいいぞ」
一瞬で十一人の鬼が扇型に陣を展開した。
中央の鬼の喉が微かに緊張する、号令を掛けようとする、その瞬間、鬼の額に小石が張付いた、その小石が鬼の額を窪ませ、入り込んで行く。
「うわぁぁっ」
鬼が悲鳴を上げた、他の鬼達の意識がその悲鳴に引き寄せられた。
「素人以下じゃな」
なよが舞うように、鬼達の首を刎ねて行く。
ユッキーは、ぼぉっと口を開けたまま、目の前の現実を受け入れ切れずにいた。なよが緩やかに舞うように腕を上げ、そして降ろす。そして、鬼達の頭が首の上 から落ちて行く、肩の付け根から、脇へと赤い筋が吹き出し、その首が眼を見開き落ちて行く、あっけないほど簡単に落ちて行く。
真ん中の一人を除いて、屍と果ててしまった。
「わしはのう、お前らが憎くて憎くてしょうがないのじゃ」
なよが静かに呟くのと同時に、小石が鬼の額を貫き飛んで行った。どさっと音を立て、最後の鬼が倒れる。
「うわわぁぁっ」
ユッキーが叫んだ。
「お前、なに殺してんだよ、お仕置きじゃなかったのかよ」
なよがにかっと笑った。
「ちと、力みすぎたかのう。ま、こういうこともあるわい」
「あいつら、元は人間だったんじゃないのか」
「そうじゃな、自衛隊の隊員じゃ。鬼神化特殊部隊とかいうらしい。この国のお偉方は人を鬼に変えて、他国に攻め込むための準備をしていたらしいな。計算は狂ったようじゃがの」
「なんてことだよ」
ユッキーが地面に座り込んでしまった。
なよも隣りに座ると、ほっと吐息を漏らした。
「ユッキーは面白い奴じゃな。人として、真っ当な見識の持ち主なのかもしれぬ」
「政見放送からこっち、なにがなんだかわからねぇんだ」
ユッキーが呟く。
「じっくり考えろ」
面白そうになよが答えた。そして、ふと思いついたように声を掛ける。
「ユッキー。電話を貸せ、携帯電話じゃ」
仕方なさそうに、ユッキーが携帯電話を差し出す。
「ん、一回百円」
「ほい」
素直になよが百円玉をユッキーの手のひらに載せた。
思わず、えっ・・・と、ユッキーがなよの横顔を見つめた。
「あんた。不思議な奴だな」
「可愛い妹の親友じゃ。ユッキーもわしのことをなよと呼べ」
なよは気にするふうもなく、番号を押す。電話が繋がった。
「ホンケか。わしじゃ、白澤猫に代われ。なんじゃ、お前は頭が悪いのか、この国であやつを猫と呼べるものがどれほどおる、ましてや可愛い女の子の声とあれ ば決まっておろう。ならば伝えろ、鬼の回収に来いとな、あん、場所は電波の発信地を読み取れ、所番地までは知らん。十分で、いや、五分で来い、よいな」
なよは電話を終えると、ユッキーに携帯電話を返した。
「あんた。いや、なよさんは何処に電話を掛けたんだ」
「鬼の死体を回収させようと思うてな、国から依頼受けてをいる組織に電話したのじゃ。電話一本で便利じゃのう」
ユッキーはしばらくの間、うーんと俯いて考えていたが、おそるおそるとなよに尋ねた。
「大丈夫なのか、それって」
なよが嬉しそうににんまりと笑った。
「大丈夫なわけなかろう」
「だよな・・・」
がくっとユッキーがうなだれる。
「国はのう、出来ればあの放送をなかったことにしたいと願っておる。他の国との通商に障害があるからのう。特にキリスト教圏の国に対して、人間の姿に角が 生えているとあらば、それはもう絶対的な拒絶となるであろうな。じゃから、鬼の痕跡は跡形もなく消したい、昔話の中だけに留め置きたいと方針転換をしたと いうわけじゃ」
「俺達もその痕跡というやつなんだろう」
「もちろんじゃ。ユッキー、どうじゃ、わくわくせんか」
「あんたの頭の中がわからねぇ」
「人生とは壁を乗り越え、成長して行くものよ。お、来たぞ」
なよが正面を向いた。
一陣の風が駆け抜けた。一瞬、眼をつぶり、ユッキーがおそるおそる目を開けた時、大きなパネルトラックが一台、火炎放射器、いや、逆だ、液体窒素で鬼の死体を冷却し凍らせている一群、そして、なよの前には三十路近くに見える女、白澤がしかめ面でなよを睨んでいた。
「あの生意気な口の利き様、やはりお前か。かぐやのなよ竹の姫」
「今更、姫は照れるのう。しかし、なんじゃ、その口の利き方は。わしは国賓、つまりは他国の女王や大統領と同じ扱いぞ。謹め」
「その国は鬼に滅ぼされたと聞く、ならば、今はただの不法入国者だろう。何処に消えたかと思っていたがこんなところにいたとはな」
「猫はきついのう。もう少し言葉の選びようがあろうに」
なよが重く溜息をつく。ユッキーが肘でなよをつつく。顔を寄せ、囁いた。
「おい、これって大丈夫なんだろうな。雲行きがあやしいじゃねえか」
「わしは抹殺。ユッキーは脳に細工をされてここしばらくの記憶を削除といったとこかのう。いやはや、まいった」
気楽に笑うなよにユッキーが呻いた。
「まいったじゃねぇ、この野郎」
噛みつかんばかりになよを睨みつけたが、仕方ないと気持ちを入れ替えると、ユッキーは白澤を見つめた。
「お願いです、お姉さん。なよさまを助けてあげてください」
一転、清らかな風が囁くような声がユッキーの唇からこぼれた。
「お前は・・・」
思ってもいなかった言葉に、白澤は少し身を引き、驚いたようにユッキーを見つめた。
ユッキーが膝を揃え、両手のひらをそっと合わせる。
「私が鬼に襲われるのをなよさまが助けてくださったのです。もしも、なよさまがおられなければ私は鬼に食い尽くされていたことでしょう。お願いです、おねえさま、なよさまをどうぞお助けくださいませ」
瞳を潤ませ、白澤を見つめる。
「いや、お嬢さん。こいつは根っからの悪人なのだ。君を助けたのもただの気まぐれに違いない。奴のことなど、気にしなくていいのだよ」
微かに焦る。同性でも、この儚き清らかさに、思わず頬が火照ってしまう。ユッキーは、その焦る言葉にここぞと、白澤の手を両手で包み、力強く握った。
「私を救い出してくださったなよさまは決して悪いお方ではありません。どうぞ、どうぞ、おねえさま、私の言葉を受け入れてくださいませ」
ユッキーの両の目から、はらはらと涙がこぼれる、その瞳に見つめられ、白澤は動けなくなってしまった。
なよが重々しく、まるで自分自身に語りかけるよう呟いた。
「わかるであろう。わしらは裏の政治の世界で騙し騙され力を得て来たが、その間に、大事なものを随分と失って来てしもうた。その失ったものをこうも見せつけられてしまってはのう、辛くてしょうがないわ。せめてな、善い人の振りでもせねば仕方あるまい」
白澤はぎゅっとユッキーの手を握り締めるとゆっくりと手を離し、背を向けた。
そして、大声で叫ぶ。
「回収はすんだか」
「すべて完了致しました」
「よし、撤収するぞ」

白澤は冷凍車の助手席に座ると、なよに言った。
「かぐやのなよ竹の姫。次はないと思えよ」
「あぁ、承知した」
ユッキーはなよの隣りで、正座すると、目をつぶり、両の手のひらを重ね、合掌する。そして、そっと頭を垂れた。
白澤は微かに笑みを浮かべると、虚空に印を描く。かき消すように車諸共消えてしまった。

「行ったか」
ユッキーが合掌したまま、囁いた。
「行ったぞ。完全に気配が消えた」
うわぁぁっ、ユッキーは大声を上げると、仰向けに寝転がった。
「疲れた、やってらんねぇ」
なよは面白そうにユッキーを眺めた。
「恵まれた才能じゃな。ユッキーに助けてもろうた、ありがとうな」
「自分が助かりたいからしただけだ」
ユッキーの言葉に、なよがくすぐったそうに笑った。
「なよさん。あんた、切れるカード、何枚も持っているだろう」
つまらなそうにユッキーが言った。
「妹の親友を危機にさらすわけにも行くまい」
あっさりとなよは認めると立ち上がった。
「奴らのせいで、ちと冷えるのう」
なよは、仰向けに寝転ぶユッキーの横に足を崩して座ると、少し抱き上げ、自分の膝を枕代りに寝かせた。そして、両腕で優しく抱き締める。
「なんだよ」
「寒さしのぎの湯たんぽがわりじゃ、静かにしとれ」
「ガキ扱いしやがって」
正面を向いたまま、ユッキーが呟く。
「子供は体温が高いからのう、ちょうど、いいわい」
なよがそっとユッキーの耳元に顔を寄せ囁いた。
「たまにはゆっくりせい。そんなに角張っておると、体も心もへとへとになってしまうぞ」
「余計なお世話だ」
「お前はとっあんが好きなのか」
「嫌いじゃねぇけどな」
「お前が角張っていると相手も角張ってしまう。お前が丸ければ、相手も丸くいられるというものだ」
「だって・・・」
心なしか、ユッキーが言葉弱く反論する。
「ここに住んでいた何人かの男共も鬼に食われてしもうた、角張って、ハリネズミのように他を近づけまいと威嚇する必要は随分と減ったじゃろう。いずれはお主のとっつあんも戻って来る、それなりの日常が戻るであろう。良い機会ではないかな」
なよの膝にユッキーが頭を押し付ける。
「どんなに頑張っても男の腕力にかなわねえよ。あんたみたいに強かないんだ」
なよは腕に力を込め、頬をそっと寄せた。
「いくら強くなっても上には上がおるものよ。ここに鬼が現れ始めたのは放送の前後であったろう。早々に街にでも逃げ出せば、誰も殺されずに済んだであろう し、ユッキーも恐怖に震えずに済んだ。つまりは、鬼に腕力では勝てなくとも、危険を早期に感じ、適切な判断ができれば、生き残れるということじゃ。わかる か」
そっとユッキーが頷いた。
「角張った体と心では逃げることもできんぞ」
囁くように言うと、ユッキーの左手をなよは両手で包み込むように重ねた。
そして手を離すと、ユッキーの左手首に白い絹の帯が巻かれていた。
「それが必要が無くなるまで、ユッキーに付けておいてやろう」
「これは」
「気休めの呪いじゃ」
楽しそうになよは笑うと、軽くユッキーの頭を二度軽く叩く。
「幸い、幸い」
ユッキーは安心したかのように、委ねるように力を抜き、少し笑みを浮かべたが、はっと目を覚まし、飛び上がった。
「黒と三毛。大丈夫か見て来る」
「そういえば、全く顔をださんかったのう」
なよも立ち上がり、二人で工場の裏手に回ると、タコ焼きの屋台に夢中になっている二人がいた。

「黒姉ちゃん、コンロは大丈夫だよ」
屋台の下に潜り込んでいた三毛がはいだす。黒はタコ焼きを焼く鉄板を熱心に磨いていた。
「今晩、使えそうだな」
黒が一心に磨きながら、答えた。
なよは楽しそうに笑うと二人に声をかけた。
「よぉ。うまいタコ焼きは焼けそうか」
黒がなよの声に気が付いた。
「大丈夫。美味しいのできるよ」
黒が幸せそうに笑みを浮かべた。
「台車つきですから、押して帰りましょう」
三毛も声を弾ませて言った。
「なよ姉さん。黒はね、タコ焼き屋さんをするよ、家の前でね」
「そうか。商売繁盛じゃな」
ユッキーがなよの後ろで驚いて言った。
「お前ら、ずっと屋台の掃除をしていたのかよ」
黒がにっと笑った。
「楽しいよ。こういう掃除ならいくらでもできるよ」
黒の言葉に呆れたようにユッキーが笑った。

「そうじゃ、黒。白を呼べ。わしはとっつあんとやらが帰って来るまで、ここにおろう。白と一緒ならすぐに家に帰れるじゃろう」
黒は頷くと大声で叫んだ。
「おおい。白、おいで」
黒の視線の先、微かに霞が生じ、その中から白が飛び出してきた。
「黒姉ちゃん、来たよ」
あっと白がユッキーに気づいた。
「ユッキー、久しぶり」
白がユッキーに抱き着く。
「元気にしてましたか」
「ああ、元気だ」
いたずらげになよが何か言おうとするのを、慌ててユッキーが制する。
なよは笑うと、白に言った。
「先に三人で屋台を引っ張って帰れ」
「はい」
白は頷くと、屋台の前に立った。その後ろに三毛。黒は後ろから屋台を押す。
なよが厳かな口調で言った。
「ユッキー、油性のマジックを持って来い」
「は・・・、はい」
ユッキーは自分でも不思議なほど、素直に返事をして、作業場の片隅から油性のマジックペンを持ってくる。なよは、緩やかにそれを受け取ると、屋台に記号のような絵を描いた。
丸の下に上下に長い楕円形、髪を伸ばすことで、なにやら女の子に見える。
「難しいのぉ、絵を描くというのは。まっ、気分じゃな」
なよは、マジックペンをユッキーに返すと、白に言った。
「本物はこの絵の百倍は可愛いのじゃがのう、まっ、それでも、わしの依り代じゃ。白、花魁道中の儀を使うことを認める」

「花魁道中の儀 発」
白が緊張気味に叫ぶと、それを合図に三毛と黒が、しゃんしゃんと口々に言う。ゆっくりと進み出し、三人がとけるように消えた。
「なんでもありだな、あいつら」
ユッキーが呟いた。
「奴らは一人ではさほどではないが、三人よれば、わしでもかなわんかもしれんな」
なよは笑うと、ユッキーに言った。
「事務所に弁当がある、腹が減ったじゃろう」



「美味いなぁ、これ」
溜息まじりにユッキーが呟く。
「なよさん。これ、本当に美味しいよ」
ユッキーは事務机に置いたお弁当から、卵焼きを食べ、しみじみと言った。
なよは大吟醸片手にコップ酒、はぁっと気持ち良さそうに息を吐いた。
「そうじゃろう、三女のあさぎは真剣に料理を作るからのう」
「本当に全部食べていいのか」
「わしはこの大吟醸を全身全霊で味わっておるからな。ん・・・、なんじゃ、とっつあんにも食わしてやりたいと思っておるのか。良い子じゃな」
ユッキーは顔を赤くすると、慌ててかぶりを振った。
「別にそんなんじゃねえよ」
なよはくすぐったそうに笑うと、事務椅子に座り、窓から外を眺めた。
「良い天気、行楽日和じゃなぁ。あれは・・・」
なよが少し目を見開き、遠くを見つめる。
「とっつあんというのは、四角張った顔にがたいが良く、これまた、真っ黒の大きな四角張った車に乗っているのかのう」
「あぁ、そうだけど」
「恐ろしい形相で車をとばしておる。十五分程度で車の音が聞こえだすぞ」
「ほ、本当か」
「なんじゃ。急に嬉しそうにしおって」
なよは笑うと、酒瓶を置き、ゆらりと立ち上がった。
「ちと、出迎えてやるかな」
なよは事務所の外の出ると、壁にもたれ掛かって両腕を組む。慌てて、ユッキーも隣に立った。
「どうじゃ、ユッキー。お父様、お帰りなさいませとか言うてみんか」
「そ、そんな、恥ずかしいこと言えねぇ」
なよは静かに笑みを浮かべる、そして、ユッキーの顔をじっと見つめた。
「わしはユッキーの生い立ちを知らんし、どういう生活をしてきたかも知らん。ただ、わしはユッキーを気に入ったし、そのユッキーが、これ以上、性格が曲がらぬよう生きて行けば良いなぁと思う。ま、考えておけ」
微かな地鳴りとエンジン音が響きだした。
漆黒の巨体が唸りを上げる。一気に加速し、距離を狭める。
急ブレーキと共に四角い男が飛び出し、銃口をなよに突き付けた。
凄まじい気迫と速さだ。
「とっつあん、待ってくれ。この人が鬼から助けてくれたんだ」
ユッキーが叫んだ。
「女が鬼をだと。何者だ」
なよは凄みのある笑みを浮かべると、低く呟いた。
「十一人の鬼をわしが殺した。その方が分け前が増えるからな。こんな美味そうな子を分けてはもったいないではないか」
瞬間、銃声が二つ、なよの胸から血が吹き出し、崩れるように倒れる。
「うわあぁぁ」
ユッキーが悲鳴を上げ、なよにしがみついた。
「どいていろ。止めを刺す」
必死になってユッキーがなよにしがみつく。
「なよさん、どうして。どうしてなんだよ」
苦しい息の下、なよが微かに笑みを浮かべた。
「この世界では迷わずに撃つ。それでなければ生き残れんぞ」
「そんな、そんな。やだよ、なよさん。うわぁぁ」
ユッキーが大声で叫んだ。
「さてと」
なよは呟くと、体を起こした。
「え、えっ。なよさん」
「ユッキー。工場でなにか細長い棒を探して来い。わしがこの程度で死ぬか」
「え、あ。う、うん」
ユッキーが工場へ駆け出した。
呆れたように男がなよを見つめる。なよは顔を上げると、人差し指を男の顔に向け、くっと下を指す。まるで重いものに押し潰されたように男がうずくまった。
「わしを見下ろして良いのは父さんだけじゃ」
なよは座り直すとなにごともなかったように笑った。
「よう、童(わっぱ)。余程、娘が心配だったようじゃのう」
危険がないことを察知したのか、男も体を起こすと胡座をかく。
「もう一度聞く、何者だ」
「お前、賞金稼ぎもやっておろう。ならば、わしの顔、見覚えあろう、この国はわしに十億の賞金を掛けたと聞くぞ」
男はあっと声を漏らした。
「かぐやのなよ竹の姫」
「こんななりをしておるが、一国の女王としての気品に満ちあふれておろう」
なよが笑った時、ユッキーが細長いマイナスドライバーを持って戻って来た。
「こ、これでいいかな」
「上等じゃ」
なよは受け取ると、指先でくっとマイナスドライバーの先を曲げる。そして、胸の銃孔にドライバーを差し込んだ。
「痛っ、たたっ。この程度では死にはせんが人並みに痛くはあるのじゃ。ユッキー、酒を持って来てくれ」
「はっ、消毒だな」
ユッキーは事務所に飛び込むと、酒瓶を持って来た。
なよは受け取ると、がぶ飲みをする。
「酒で洗って消毒するんじゃないのかよ」
「そんなもったいないことができるか、ユッキーは恐ろしいことを言うのう。酒は麻酔の代わりに飲むだけじゃ」
やっとのことで銃弾を取り出すと、なよは酒瓶を置き、改めて男を睨んだ。
「ほんにユッキーのとっつあんは朴念仁じゃのう、可愛い女の子の機知にとんだ冗談を真に受けおって」
「最悪の冗談をじゃねえか」
ユッキーの抗議になよは嬉しそうに笑った。
「さて、とっつあん。わしは魚屋 魚弦で金土とアルバイトをしておる。じゃから、月火とユッキーの家庭教師をしてやろう。勉学はもちろん、立ち居振舞い教養も身につけさせ、そのうち、とっつあんもお父様と呼んでもらえるようになるぞ」
「勝手なこと言うんじゃねえ」
ユッキーが叫ぶのを、なよは左腕をその首に絡ませ、顔を寄せた。
「未来への選択肢を増やしてやろうというのじゃ。学校にも行っておらんじゃろう」
「人の多いところは好かねぇんだ」
ユッキーが顔を背けるのを見て、男が口を開いた。
「よろしく頼む」
「なんでだよ、とっつあん」
男はユッキーをぎろっと睨み言った。
「俺には責任がある、それだけだ」
「よし、決まった」
なよは声を上げると、ゆっくりと立ち上がった。
「さて、帰って、幸に傷を治してもらわねばならん」
なよは一歩踏み出したが、微かにふらついた。
「血が流れすぎたか、それとも、久振りの天水、ちと、酔ったかのう」
右手の酒瓶を眺める。なよは、酒が残っていないのを見ると、ぐっと酒瓶を持ち上げ、滴も残すまいとラッパのみをした。そして、酒瓶を降ろす。
「ではな」
ゆっくりと歩き出す、数歩してなよの姿が消えた。
呆然とユッキーはなよを見送ったが、慌てて、なよの消えた辺りに走る。
「これって、なんだよ。帰ったってことかよ」
「そういうことだ、俺は車をガレージに入れてくる」
立ち上がると、車の元へ戻っていった。
「うわぁぁっ、勝手な奴らばっかりじゃねぇかよ」
ユッキー叫び声がこだました。


最終更新日 : 2013-05-11 17:52:17

異形 漣 二話

梅林の中央、幸は漣を見上げると、にっと笑った。
「本当に漣の親父が望んでいるのかどうかは知らない。しかし、約定の言葉は交わした。これは、絶対だ。漣、修行を途中で挫折することは許さない、いいな」
緊張した面持ちで連が頷いた。
「漣、横に立て」
幸は漣を見上げた。
梅林の緑が日差しを青に染める。
心地よい風が流れていた。
「舞を教える。動きの要、全てを内包した舞だ」
ゆっくりと漣の体が動きだした。
「か、勝手に体が動きます」
「漣の神経に干渉している。時間があればじっくりと見取り稽古をしたいところだけれど、時間がないからな。体の動くままに動いてみろ」
「はい」
しっかりと漣が返事をする。幸は少し嬉しげに笑みを浮かべた。
美しく滑らかな動き、しかし、見るものが見れば、内に含まれた凄まじい攻撃と防御の動きを見いだすことができるだろう。
緩やかに差し出される掌、儚げで頼りなく、今にも押し返されてしまいそうなその掌打も、様々の防御を擦り抜け、相手に達した瞬間、鋼となる。見上げるような鬼をも藻屑と潰してしまう。
「漣、覚えておけ。この舞は波結いという。常に様々に変化し続ける波、その波を結ぶことで、巨大な力を産みだす」
幸は笑みを浮かべると、必死になっている漣の横顔を見た。
良い調子だ。

「花魁道中の儀 着」
家の方角から、白の声が響いた。
「帰ってきたな」
幸が呟くと同時に、三毛が駆けて来た。
「幸母さん、タコ焼きの屋台、引っ張って来たよ」
「そうか。それじゃ、今晩はタコ焼き三昧だな。ユッキーも元気にしてたかな」
「十一人の鬼がいたけど、事務所に結界が施されていて大丈夫だったよ。あ・・・」
「ん、どうした」
「ごめんなさい、鬼のこと忘れてました」
「三毛もタコ焼きの屋台が余程嬉しかったんだな」
幸が柔らかく笑みを浮かべた。そして、遠くを見る。
「鬼の気配はすっかり無くなって、二人であさぎ姉さんの作ったお弁当を食べているよ」
幸は笑うと、同じ背の三毛の頭を撫でた。
「お疲れさま」

三毛がほっとしたように笑みを浮かべた。

「あさぎ姉さぁん」
黒が台所へ飛び込んで来た。あさぎは洗い物の手を止めると振り向いた。
「あさぎ姉さん、タコ焼きの元を作ってください」
「いいよ。美味しいの用意してあげる」
黒は幸せそうに笑みを浮かべると、あさぎの横に駆け寄り、洗った皿を布巾で拭いていく。
「タコ焼きの機械があったんだね」
「うん。今晩は美味しいのを焼くよ」
「それは楽しみだ」
あさぎは笑うと、いずらげに言った。
「黒はおすまししているより、笑った方が可愛いよ。椿ちゃんの前でもそうすればいいのに」
「うーん」
黒が困ったように笑みを浮かべた。
「期待を裏切るのって、とっても恐いんだ、鬼よりも恐いよ」
「なら、期待を裏切るのじゃなくて、期待を越えれば。そうだね・・・。料理と人とは違うよね」
あさぎが微かに溜息をつく。
「あさぎ姉さんの料理はとっても美味しいよ」
「ありがとう」
あさぎがそっと笑みを浮かべた。
「ね、黒。私ね、必死だったんだ」
「あさぎ姉さん、それは最初の時」
あさぎが少し顔を横に振る。
「ここで生活を始めてからだよ」
「どうして」
「私は造りモノで、たまたま、お父さんに拾ってもらって、黒達のついでに家族にしてもらっただけの生きた人形」
黒はそっと両手であさぎの手を握ると、顔を横に振る。
「だって思っていた。だから、自分がここに居ても良い理由が欲しくて、料理を頑張ったんだ、必要とされたい。ここにいなきゃならない人になりたいって」
「あさぎ姉さん、哀しいこと言わないで」
黒が寂しげにあさぎを見つめた。
「でも、今はね」
あさぎが笑みを浮かべた。
「楽しいから料理を作るし、居ても良いとか悪いとかじゃなくて、家族だから一緒にいるんだって、素直にそう思えるんだ。ね、黒、椿ちゃんも、学校もね、きっと、楽しくなるよ。きっとね」
「うん」
黒は幸せそうに頷いた。
「学校もあまり休まないようにするよ」
あさぎもそっと笑った。
箒を片手にとたとたと小夜乃がやってきた。
「黒さん。あの、なよ母様は」
「小夜乃。なよ姉さん、しばらく帰れないと思う」
黒は洗い物を流しにおくと、小夜乃をそっと抱き締めた。
「幸母さんの友達が一人になっちゃって、その子のお父さんが戻ってくるまで一緒にいてやるって」
少し小夜乃は俯いたが、笑みを浮かべ顔を上げた。
「優しすぎる人ですから、なよ母様は」
黒が手を離すと、小夜乃はテーブルの椅子に座った。
言葉とは裏腹に、小夜乃の瞳に涙が滲んでいた。
「黒さん」
「ん」
黒が小夜乃の隣りに座った。
「小夜乃は外に出ると男の鬼に襲われてしまいます。もし、小夜乃がいま、なよ母さんの所へ行けば、きっと、鬼が集まってきます、だから、なよ母さんやお友達の迷惑になってしまいます」
黒は多分そうなるだろうと思ったが、どう、それに対して答えれば良いかわからず小夜乃をなぐさめることすらできなかった。
「黒さん。黒さんみたいに小夜乃も強くなれ、ばなよ母さんと一緒に外へ行くことができるのでしょうか」
「それは」
黒が口ごもった。今のままでは、小夜乃は外に出ることができない。自由に買い物に行くことすらできないのだ。強くなることで、鬼を退けることができるだろうか。鬼に恐れられるくらい強くなれば、きっと。でも、それをなよ姉さんは願うだろうか。
「ごめん、小夜乃。黒にはどう答えたらいいかわからないよ」
「八十点。適当なことをほざくより、わからない時はわからないというほうが良い」
幸の声だ、黒が振り向く。幸が流しの前で水筒にお茶を入れていた。
「漣がそろそろ倒れるかも知れない。あさぎ姉さん、バナナあるかな」
「あるよ」
「それじゃ、あさぎ姉さん、バナナジュースを作ってください。小夜乃」
幸が小夜乃に向き直った。
「悩んだ時は、兎に角、前へ進め。間違えたなと気づけば、正直にごめんと叫んで、あたふた逃げ出せば良い」
驚いて、小夜乃は幸を見つめた。
「武術というのはいろんな種類があるんだ、どの武術を身につけているかで、自分が一体何者かを示すことができる、名刺みたいなもんだ。だから、小夜乃、なよ姉さんが帰ってきたら、なよ姉さんに武術も呪術も教えてくれるように頼め。小夜乃はなよ姉さんの娘なんだからな」
小夜乃は立ち上がると、幸に頭を下げた。
「ありがとうございます、幸姉さん」
幸は頷くと、水筒を持って漣の元へと消える。黒は安心してほっと溜息をついた。
「黒さん、心配かけてごめんなさい」
「どう致しまして」
黒がほっとしたように笑った。

「ひゃぁぁつ」
危うく、三毛は漣の蹴りから逃れ、距離を置いた。
確実に避けたと思った蹴りがそのまま向きを変え、三毛を襲ったのだ。最速の蹴りの方向がその速度のままで自由に変化する。
「休憩するかな」
幸が現れるのと同時に漣の動きがゆっくりと止まり、そのまま崩れる。幸は素早く後ろに回ると、背中から抱えるように支え、ゆっくりと漣を座らせた。そして、お茶を少し飲ませる。
そのまま、幸は漣の後ろに座ると、左手を漣の心臓の上、右手をお腹の下へ置く。その手が漣の体に溶け込んだ。
「三毛は漣の両足、白は左手」
幸の言葉に二人はすぐさま反応し、漣の体に触れ、柔らかく摩る。
「黒はタコ焼きの仕込み中か。白、左手が終わったら右手に移りなさい」
「わかりました」
素早く、白が答えた。
「神経は八割、母さんが制していたけど、動いている筋肉も関節も漣のものだからな、随分、過負荷になっている。筋繊維をしっかり読んで解しなさい」
二人がわき目も振らず集中する。
「漣、意識はあるな」
「はい」
朦朧となりながらも漣が答えた。
「一度は体に通した動きだ。いずれ一人でも動けるようになるし、そうさせるさ」
小夜乃がコップに入ったバナナジュースを手にやってきた。
「幸姉さん」
「ん、ありがとう」
幸は両手を漣の体から出すと、ジュースを受け取り、少しずつ、漣にバナナジュースを飲ませる。白が漣の右腕に移った。
「幸母さん」
「あぁ、漣の心臓の動きを整えていたんだ。微細振動を起こすと血液を流せなくなるからな」
「幸母さんは凄いです」
幸は白に笑いかけ言った。
「ありがとう、娘に褒めてもらえるのは単純に嬉しい」
幸は素直に笑うと、そうだと三毛を見た。
「面白い蹴りだっただろう」
三毛が目を見開いた。
「漣ちゃんの蹴りが避ける方向についてきた」
「仕組みはわかるか」
三毛が仕方なさそうに首を横に振った。
「漣ちゃんの足が関節に関係なく曲がったように見えたけど、なんともないし」
三毛が漣の脚を摩りながら言う。
「ベクトルの合成だ。あとは自分で考えなさい、その方が身になるからな」
三毛はしっかり幸を見つめると頷いた。
不意に幸は振り向き、家を見つめた。
「白、あとは任せた」
「はい」
幸は素早く立ち上がると、小夜乃の手を握った。
「行くぞ、小夜乃」
二人の姿が消えた。
「どうしたんだろう、あんな慌てた幸母さん、初めて見た」
白が呟いた。

男の部屋の柱に背を預けたまま、うずくまるなよがいた。
「なよ母様」
小夜乃が叫んだ。
「小夜乃、布団を敷きなさい」
幸の声に弾けるように小夜乃が押し入れから布団を取り出した。
幸は静かになよを布団の上に仰向けに寝かせつけ、枕元に正座すると、右手をなよの胸に溶け込ませた。
指先を探るように蠢かせる。小夜乃が反対側に正座し、唇を震わせ、瞬きもせずになよの胸元を見つめていた。
「硝子球」
幸が呟くと、その左手に透明な球が現れる。人の顔の大きさほどのそれに、右手が何かをつまみ上げるように、黒い不定形の布のようでもあり、黒い油のようにも見えるそれを硝子球に吸い込ませる、見るうちに、硝子球は漆黒の球となり、なよがほっと吐息を漏らした。
「なよ姉さん、大陸系の呪文だ。銃弾に込められていたんだと思う」
「なよ母様、お加減はどうですか」
心配げに小夜乃が囁いた。
「いやはや、面目ない」
照れ隠しになよが微笑んだ。
幸は溜息を漏らすと、小夜乃に言った。
「あさぎ姉さんに氷嚢と氷を頼んでくれ。まだ、熱がある」
「はいっ」
小夜乃は立ち上がると台所へと駆け出した。
「ユッキーのとっつあんには何もするなよ。ま、呪文は予想外じゃったが」
なよが笑った。
「ユッキー、良い娘だったでしょ」
幸が少し足を崩して笑った。
「今回はなよ姉さんが悪い」
「それは認める」
「お酒も飲み過ぎです」
「あぁ、美味かったのう」
「反省してないね」
「酒を飲まぬ奴にはわかるまいて」
「なよ姉さん」
「ん」
「辛いのは少しだけど分かる、鎮魂の儀に付き合ったんだからさ。でも、辛くても自分を傷つけちゃだめだよ」
幸は呟くと、なよの頬を伝う涙を人差し指で拭った。
小夜乃が氷を入れた氷嚢を、黒が洗面器に水を張って届けにきた。あさぎも心配をして、なよの顔を覗きにきる。
「あさぎも黒もすまんな、心配かけた」
なよは横になったまま、声をかけた。
あさぎがほっとしたように、笑みを浮かべる。
「タコ焼きは明日にした方がいいかなぁ」
黒の言葉になよが笑った。
「わしは晩御飯まで寝る、黒、起こしに来い。お前の焼くタコ焼きを食わねばな」
黒がほっとしたように笑った。
「わかりやすいやつじゃのう」
なよは少し笑うと体を起こし幸の硝子球に手を伸ばした。小夜野がなよの背中を支える。なよは幸から漆黒の硝子球を受け取ると、両手で掴み、親指に力を込める。
「極性を換えてやろう」
硝子球がゴムのように大きく凹み、捲れ上がるように弾けて、白い硝子球に変わった。
「陸にては鵺と化し、空にては龍と変ぜよ。水にては、そうじゃな、鯱へと変化し、小夜乃を守れ」
なよが息を吹きかける、硝子球が、小鳥、眼も嘴もすべてが真っ白な小鳥に変化した。石英にて作り上げられた小鳥の彫刻のようだ。
「幸、頼む」
なよが幸に小鳥を手渡した。幸は頷くと柔らかく両手で小鳥を持つ。
「黒、母さんが浮かばないように、肩を上から押さえ付けてくれ」
慌てて、黒は幸の後ろに立つと両手で幸の肩を押さえた。
幸が一つの呪文を唱えるわけでもなく、じっと小鳥を見つめる。次第に、小鳥が色付き、薄山吹色の文鳥に変化した。文鳥は頭を傾げ、小夜乃を見つけると、ぱたぱたと飛び立ち、小夜乃の頭に停まった。
「小夜乃。こやつに名前を付けてやれ」
なよはそう言うと、悪戯げに笑みを浮かべた。

白は手を止めると、漣に声をかけた。
「漣ちゃん、何処か痛くありませんか」
「ありがとうございます。却って体が軽くなったみたいです」
白は頷くと、三毛に声をかけた。
「三毛、もういいよ」
「うん」
三毛も手を離すと、やわらかく笑みを浮かべた。
「そうだ、漣さんに」
三毛が白に言った。白は頷くと、漣に言った。
「漣ちゃんのお父さんや一族の人達はホンケに全員匿われています。えっと、ホンケというのは、この国の呪術の組織の一つで、たくさんの呪術者達から畏敬の念を込めて、ホンケと呼ばれています」
「母さんは別だけどね」
三毛が白の言葉に付け加えた。
漣は安心したように小さく笑みを浮かべた。
「ホンケで体制を整えた後、鬼と一戦する予定のようです。ホンケはその後方支援に回るだけでなく、かなり積極的に協力をするようです」
「ありがとうございます」
安心したように漣が笑みを浮かべる。白もつられて笑う。
「あの、白さん、教えていただいていいでしょうか」
「えっと、どんなこと」
「幸さんは小さいのに白さん達のお母さんなんですか」
「それは」
白が口を開きかけた瞬間、あかねが白の目の前に現れた。
「白さん、そこまでです」
あかねはそう言うと、漣に向き直った。
「漣さん、問うてはなりません」
あかねが静かに言った。
「もしも、漣さんが一カ月後もここに暮らし、家族となるのならば、全てを知ることに問題はありません。でも、戦列に戻るならば、必要以上のことは知ってはなりません」
「あかねちゃん」
白が咎めた。あかねがかまわずに言葉を続けた。
「幸姉さんの動きを体に通したなら、どんな強い鬼でも赤子の手をひねる気分で打ち倒すことができることがわかるでしょう。この国の支配者達も、鬼も、そん な術を持つここのことを知りたいと考えています。つまりはここのことを知ることは、漣さん自身を危険にさらす可能性を増やすということです」
漣がそっと頷いた。
「白さん。黒さんが呼んでいましたよ、漣さんも一緒にどうぞ」
白はあかねにどう対応すれば良いか考えあぐねていたが、あかねの言葉に漣と家へと向かった。
「三毛さんもどうぞ。タコ焼き、チーズを入れたり、明太子を入れたり、黒さん、楽しんでいますよ」
ふいと三毛は興味深そうにあかねを見つめた。
「どうして、あかねちゃんは自分を嫌われるように仕向けようとするの」
「そういうの好きだから。でも、幸姉さんだけには柔順でありたいと思っているのですけどね」
あかねが嬉しそうに笑う。
「白さんは学校生活に一番馴染んでいるから、自我がまっとうに固まりだして、ちょっといじめたりするのが楽しいんです」
「あかねちゃんはとっても良い人だよ、意地悪じゃないよ。鬼からも助けてくれたよ」
三毛の言葉に、あかねは答えず、仰向けに寝転がった。
「晩ごはんまで、あかねはここで寝転がっています。三毛さんは戻ってタコ焼きを試食してきなさいな、美味しそうでしたよ」
三毛はあかねの横に座ると、あかねの右手を両手で包み込むように握った。
「あかねは一人が好きなんです」
「三毛も一人が好き。でも、二人はもっと好きだよ」
いたずらげに三毛が笑った。
「あかねちゃんに三毛の優しさを分けてあげる」
あかねがふっと笑った。
「そういうところ、幸姉さんにそっくりです」
あかねは緊張を解くと、ゆっくりと息を整える。
「まっ、手を握られているのはそれほど不快ではありません。それに、ちょっと気持ちが柔らかくなります」
あかねが目をつぶったまま、かすかに吐息を漏らした。
「黒さんは白さんと三毛さんを護りたいから強くなろうとしています。白さんは強くなるよりも活法を重視しています。三毛さんは、どうして強くなろうとしているのですか」
「急にそんなのわからないよ。ただ、とっても練習が楽しいし、出来なかったことが出来るようになるととても嬉しいんだ」
あかねはゆっくりと目を開け、三毛に視線を向けた。
「三毛さんはいつか狂います。その時は、あかねが命を懸けてでも、三毛さんを正気に戻してあげましょう」
「三毛は大丈夫だよ、狂ったりしないよ」
「三毛さんは幸姉さんに似過ぎているのですよ。多分、あかねがここ存在する理由は三毛さんを制するためでしょう。でも、願わくば、狂わないでほしくはあります。あかねもここで暮らすのが楽しいから」
あかねがそっと笑みを浮かべた。
「あかねのこと、嫌いになりましたか」
「ううん、好きだよ」
「良かった」
聞こえない声であかねが呟いた。

台所で蛸を切っているあさぎの横に、幸はやって来ると、あさぎににっと笑いかけた。
「あさぎ姉さん、御煎餅、食べても良い」
「黒ちゃん、もうすぐタコ焼きを焼いてくれるよ」
「大丈夫、両方食べるよ」
幸は戸棚から、洗濯ばさみで綴じた御煎餅の袋を、背伸びして引っ張り出すと、テーブルにつく、足を揺らしながら、煎餅をかじった。
「はい、お茶」
あさぎが湯飲みにお茶を入れた。
「ありがと。あさぎ姉さん」
にひひと幸がくすぐったそうに笑った。
幸は見事に漣の指導者としての立場と、幼い子供の、二つを使い分け、楽しんでいた。

「こんにちわ」
玄関口で声がした。
「あの声は恵さんだ。久しぶりだなぁ」
恵は台所へ来ると、あさぎに声をかけた。
「あさぎさん。幸さんが大変なことになったって、恵子から聞いたんだけど」
あさぎは困ったように笑みを浮かべると、目の端で幸を見る。
「うわっ、凄い綺麗な女の子」
「こんにちわ。お姉さん」
幸が笑顔を浮かべ恵に挨拶をした。
「こんにちわ」
恵も笑顔で挨拶を返すと、あさぎに言った。
「まるで幸さんを幼くしたような女の子だけど、まさか、お父さんと幸さんの子供じゃないですよね。さすがに計算が合わない」
「当たらずとも遠からずというか・・・」
あさぎが口を濁す。
「まさか、幸さん」
「恵さん、お久しぶり」
幸が所在無げに笑みを浮かべた。
「幸さん見たら、びっくりするぞって、啓子が言ってたけど、ほんとにびっくりですよ」
恵は幸の横に立つと、まじまじと幸の顔を見つめた。
「それで、いつ戻れるんですか」
「十年も経てば自然に成長するかなって思っている」

恵が興味深そうに幸の眼をじっと見つめた。
「な、なんだよ」
恵は得心したとでも言うようににやりと笑みを浮かべると、幸の隣の椅子に座った。
「幸さんはお父さんに正直であれとたたき込まれています。ですから、嘘を言うと、ほんの少しだけ、眼が泳ぐのですよ」
幸は溜息をつくと、少し笑った。
「術の失敗でこうなったんだ。途中で暴走してね。だから、暴走中の変化を分析出来れば元に戻ることができる、ただ、解析にまだしばらくはかかるし、万が一、戻れなかった時のことを考えて黙っている。あさぎ姉さんも内緒にしてね」
ああぎが嬉しそうに頷いた。
「さて、恵。次は幸の番。何を思い詰めている」
恵は大袈裟に溜息をつくと、少し俯く。
「十代前半の肌の張りと艶、もったいないけど、大人に戻してくださいってお願いしようと思って来たのですけど、幸さんの姿を見て、決意がぐらついています」
「それはごめんなさい」
幸が笑った。
あさぎが二人に気分の安らぐカモミールのハーブティを差し出した。
恵はぺこりとあさぎに頭を下げると、両手でカップを包み込む。
「幸さん」
「ん」
「私には兄がいるのですが、既に結婚をして、家を出ています。実家からは随分遠いのですよ。昨日、母さんが入院しまして、そんなにひどくはないのですが、 一カ月は病院を出られない。父さんは料理も掃除も家事全般、母さんに任していた人ですから、何もで来ません。それで、私が実家に戻ることになりまして」
「その姿では、お前、誰だになるよね」
「姿は変わったけど、貴方の娘、恵ですよぉ。ほら、子供の頃のアルバム見ればわかるでしょう」
恵は俯くと、小さく息を吐く。
「わかるわけないか」
恵の言葉に、少し寂しそうに笑みを浮かべると、幸は両手にティーカップ抱くように添え、一口飲む。柔らかい味がする。
「恵さん」
幸が声をかけた。
「まっとうなこれからを考えるなら、幸は恵さんを大人にして送りだす、それは簡単だし、これこそ本来だろうね。でもさ」
幸は恵を見つめると、にっと笑った。
「幸は大人に戻りたいけれど、鍵がかかってしまったようなもので、そうは簡単には戻れない。でも、恵さんを大人にするのはいつでも引き受けるよ。お母さんの入院は大人に戻る良い機会かもしれないけれど、もう少し、ぐずってみるのもありかもしれないな」
「えっ」
ふっと幸は振り返ると襖の向こうに声をかけた。
「あかねちゃん、三毛、おいで」
その声にあかねと三毛がやって来た、ばつが悪そうに。
「盗み聞きしてごめんなさい」
三毛が素直に謝った。
「いいよ。聞かれない方が良い話の後だ」
少し意地悪く幸は笑みを浮かべると、あかねを見つめた。
「あかねちゃん、おいで」
少し脅えながらも、あかねが幸の前に立つ。
幸はあかねを抱き締めると囁いた。
「あかねちゃんは幸の妹だ。今までも、今も、これからも」
ほっとしたようにあかねの表情から緊張が消えた。
幸は笑うと、恵に言った。
「実家にはいつ帰る」
「明日です」
「なら、今晩はここで寝て、明日、あかねちゃんと三毛も一緒に実家へ行ってくれ。あかねちゃん、三毛、良いかな」
「はい、大丈夫です」
あかねが元気に答えた。三毛も頷くとにっこりと笑みを浮かべた。
「術とのりと勢いで、恵さんの居場所を作ってこい」
幸が楽しそうに笑った。

「こんにちは。津崎です」
玄関口からおとないの声。
「あ、椿ちゃんだ」
三毛が玄関口へ振り向いた。
たたっと三毛が玄関口へ走っていく。
「黒ちゃん、大丈夫かなぁ」
あさぎが笑みを浮かべた。
「津崎さんって」
恵が尋ねた。
「黒ちゃんのファンの子だよ、ね、幸」
「なんでも、津崎ちゃん曰く、黒のファンクラブまで出来ているらしいよ」
「黒ちゃん、そういうの苦手で、津崎さんが来ると緊張してしまうんだけどね」
あさぎが笑みを浮かべた。
「その緊張した姿が大人びて理知的で格好いいらしい」
幸も笑うと、御煎餅を一口かじる。
「どんなだろう、見て来ます」
「あまりからかわないでやってね」
あさぎが念押しをする。
「大丈夫ですよ」
恵が笑った。そして、幸を後ろから抱き締めた。
「幸さん、ありがとう」
「どういたしまして」

恵が裏に回ると、津崎がうっとりとした表情で黒の前に立っていた。黒はというと笑みを顔に張り付けたまま硬直している。
「うわぁ、ゆりゆりだ」
恵は呟くと黒に近づき、背中をぱんと叩いた。
「黒さん、焦げますよ」
「あ、恵さん」
慌てて、黒がタコ焼きをくるっと回転させる。恵は笑みを浮かべると、津崎に視線を寄せた。
「初めまして、恵です」
「こ、こんにちは。津崎椿です」
津崎は年下にも見える恵の外見とは裏腹に、落ち着いた様子に緊張し、少し吃ってしまった。
「津崎、どこかで・・・」
恵が呟いた。
「ひょっとして、津崎要のお孫さんかしら」
「はい、お祖母さんです」
少し落ち着いたのか、黒が恵に話しかけた。
「恵さん、知っているの」
「昔、やっていた仕事の関係でね。顔の雰囲気も似ていたし」
「あ、あの。おばあちゃんとお知り合いなんですか」
「まさか。こっちはただの下っ端。津崎要は津崎流薙刀術総帥。雲の上の人、身分が違い過ぎるわ」
恵が気楽そうに笑う。
黒は焼けたタコ焼きのお皿を津崎に手渡し、言った。
「向こうに白もいるから、一緒に食べなさいな」
「はい。黒様」
津崎は三人分のタコ焼きを受け取ると白のところへ走っていく。
黒が大きく溜息をついた。
「ありがとう、恵さん」
「どう致しまして。それより、恵にもタコ焼きを作ってくださいな」
「美味しいの、作るよ」
安心したように黒が笑った。

辺りが薄暗くなる頃、黒はそっとなよの寝る部屋の襖を開けた。
小夜乃が枕元に正座していた。
「小夜乃ちゃん、なよ姉さん、どうかなぁ」
小夜乃は振り返ると笑みを浮かべた。
「よく眠っておいでです」
黒は小夜乃の隣に来ると、なよを覗き込んだ。
「小夜乃ちゃん」
「え」
「ゆっくりお休みのようでしたから起こしませんでしたって、明日の朝に言ったら、なよ姉さん、怒るだろうね。小夜乃ちゃん、なよ姉さんを起こそうか」
そっと、小夜乃はなよの頬に触れると、耳元で囁きかけた。
「なよ母様、タコ焼きですよ。食べましょう。それとも、明日になさいますか」
なよは目を覚ますと、ゆっくりと体を起こす、慌てて小夜乃が背中に手を添えた。
「食うに決まっておる。黒、巧くなったか、タコ焼きは丸くなっておろうな」
「うん、うまくひっくり返せるようになったよ」
「よし、それは楽しみじゃ」
思いの外、なよは元気に起き上がると、着崩れた寝間を直し、にっと笑った。
「わしは食通じゃからな厳しいぞ。おや、小夜乃、小鳥はどうした」
小夜乃がそっと笑みを浮かべた。
「実朝は何もかもが珍しいらしく、あちらこちらと飛び回っております」
「ん、実朝。実朝と名付けたのか」
小夜乃は頷くと小さく呟いた。
「おいで。実朝」
小鳥が襖の隙間から飛び込んで来た。そして、当たり前のように小夜乃の肩に停まる。
「実朝。こちらは小夜乃のお母様です。ちょっと恐いけれど、とてもお優しい方ですよ」
「恐いは余計じゃ」
なよは笑うと、呆れたように実朝を見る。
「歴史を繙くならば、頼光辺りでも名付けておけばよいものを。ま、小夜乃は争いを好まぬからな、実朝辺りが気も合うて良いかもしれんな」
「なよ姉さん」
黒が声をかけた。
「それはなよ姉さんの知っている人」
「あぁ、知っておる、随分、泣かしてやったものじゃ。若くして殺されてしもうたが、生まれて来る時代を間違えたような奴じゃったのう」
ふと、その頃を思い出したのか、なよは静かに目を閉じたが、一呼吸の間もなく、目を開けた。
「感傷より、食い気じゃ。黒、用意をせい」
「はいっ」
黒は飛び上がると、駆けて行く。
「小夜乃」
「はい」
「実朝を大事にせいよ」
小夜乃は幸せそうな笑みを浮かべると、しっかりと頷いた。


最終更新日 : 2013-05-11 17:53:39

異形 漣 三話

漣は驚いて、その光景に見入っていた。
幸が蹲って泣いていた。
「お父さんのお茶碗、割れちゃったよ」
黒さん達から母さんと呼ばれる美少女、こんな綺麗な女の子、見たことがない、それでいて、男っぽい言葉に自信に満ちた眼差し。
父さんよりも遥かに強い、いや、桁が違い過ぎる。

「うるさいわ、静かにせい」
なよは幸の頭をはたくと、呆れ顔で言った。
「わしの気に入りの湯飲み。黒の丼茶碗、店の客用の珈琲カップセット。次々と割ってしまいおって。これだけ割れば、不吉もなんもあるか」
なよは怒鳴ったが、深く溜息をつくと、おろおろと見つめていた黒を手招きした。
「黒。幸を父さんの部屋に連れて行け。これでは手伝いにならん。幸をゆっくり落ち着かせて来い」
「はいっ」
あたふたと黒が幸を抱き上げた。
「ねぇ、黒。父さん、帰って来なかったらどうしよう」
「大丈夫だよ、父さんは約束を守ってくれるよ」
黒はにっと笑うと、自身の不安を打ち消そうかとするように足早に男の部屋へと向かった。
ふと、幸乃は現れると、なよに言った。
「幸乃もお父様の部屋へ参りますわ、幸と黒、二人で泣き出すでしょうから」
「そうじゃな、そうしてくれ」
幸乃は頷くと、なよに笑いかけた。
「なよ姉様も肩の力、ほどほどに」
「あぁ。幸乃、お前が居てくれて助かる」
「どういたしまして」
幸乃の姿が消える。
「あとは」
なよが漣を見つける。
「漣、わしがじきじきに教えてやってもよいがの、ちと、用事がある。そうじゃ、白。お前が活法を教えよ。それもまた、漣を助けてくれるじゃろう」
白が目を丸くして言った。
「なよ姉様、いいの」
「わしは良いと言った。わしは同じことを二度も言うのは嫌いじゃ」
なよの言葉に白は飛び上がって喜ぶと、本当に嬉しそうに漣に笑いかけた。
「そうじゃ、小夜乃。小夜乃も白に活法を教えてもらえ」
小夜乃は頷くと、そっと白を見つめた。
「小夜乃ちゃん、おいで」
白は笑みを浮かべると、三人で部屋を出て行った。
ほぉっと息を漏らすと、なよは部屋の真ん中に胡座をかいて座る。
「朝から大変じゃの。幸は昨晩、日付が変わると同時にそわそわとしだしよる、仕舞いにはまだ帰ってこんと泣きだす。父さんには早く帰って来てもらわんと身がも たんわ」
あさぎは笑うとなよの隣りに座った。
「大丈夫ですよ、もうしばらくの辛抱です」
なよは笑うとあさぎに言った。
「父さんがどんな状態になって帰ってくるかはわからんが、うまいものを用意しておいてくれ」
あさぎの頷きに笑みを返すと、残ったあかねと三毛を見る。
「さて、あかねと三毛は椅子を三脚、表に運べ、玄関と門扉の間じゃ。わしは折り畳みの卓を運ぶ。あさぎ、紅茶の用意じゃ」
玄関と門扉に間、畳二畳ほどの空間にテーブルと椅子を設えると、三人向かい合って座る、テーブルには紅茶のセット。
「あの、お茶をしようということですか」
あかねが不思議そうになよに尋ねた。
「茶はついでじゃ。お前達二人には結界の補強と修復を教えてやる。父さんはおらん、幸はあの始末。ここの結界が弱くなりつつある」

三人はそれぞれテーブルにつき、向かい合った。見上げれば青い空、心地よい風が流れてくる、絶好のお茶日和だ。
「道向こうの電信柱を覗いてみい」
二人は目を凝らすようにじっと見つめたが、やがて気づいた。電信柱の中程が微かに膨らんで見える。
「わかるか、そこだけ、結界が薄くなっておる。じゃから、レンズを通して見るように歪んで見えるわけじゃ」
「結界って目に見えるんですね」
「見える奴にはな。三毛にしてもそうじゃ」
「え」
三毛がなよを見上げた。
「わしがここの娘になった頃は、三毛の眼が猫の眼に見えた。人によって見え方が違うておったわけじゃ。じゃが、今は、わしにも三毛の眼がすっかり人の目に見え る」
「それは」
「三毛、お前が曖昧な存在ではなく、すっかり人になったということよ。しかし、三毛という名はなんとも、猫っぽいな、名前を変えてみるか」
三毛が慌てて言った。
「三毛は三毛だよ。幸お母さんが付けてくれた名前だもの」
「なるほど。その名は宝物じゃな」
なよは笑うと柔らかく三毛の頭を撫でる、三毛が気持ち良さそうに笑みを浮かべた。
「あ、電信柱が」
あかねが声を上げた。歪んでいた電信柱が真っすぐに立っていた。
「結界を張るのも、修復するのも生半可な術者ではかなわん。しかし、この結界は巧く作ってある、ここに居る者の気分に呼応する。楽しい、嬉しいと思えば結界が 強くなる。あかね、お前も楽しい気分になってみい」
「急にそんな、無理ですよ」
あかねが戸惑いながら答えた。
「生真面目じゃのう」
なよは笑うと紅茶を一口すする。
「以前、幸と白が二人で旅行をしたらしいのう」
「ええ、白さんの教育方法に悩んで」
なよが引き込むように笑みを浮かべた。
「あかね。幸と二人で旅行すれば楽しいであろうな」
「幸姉さんと二人で」
あかねが呟く。
「そうじゃ、なんとか言ったのう。ネズミの着ぐるみを生きているなどとほざく遊園地。二人して遊べば楽しかろう。ソフトクリームなんぞ食いながら、楽しいぞ」
あかねがぼぉっと宙を眺める。
「でも、幸姉さんは人の多いところは苦手ですから」
あかねが呟く。
「北の方に、電気を延いていない宿があるらしいのう。奥座敷、ランプのあかりに差し向かい。二人っきりで美味しいものなどいいぞ。その宿には温泉もあるらし い、二人で湯につかり。どうするぞ、あかね」
いつの間にか、夢心地の表情であかねが眼をつぶっていた。
「幸お姉ちゃん」
あかねが小さく呟いた。
瞬間、三毛が驚いたように外を見つめた。圧迫感、結界がその厚みを増したのだった。
「凄い」
三毛が呟いた。あかねは意識を取り戻すとなよを睨む。
「酷いですよ、なよ姉さん」
「何が酷いのかわからんのう」
いたずらげになよが笑った。
「あかねちゃん、三毛も幸お母さんが好きだよ、一緒だね」
「そ、そうですね」
あかねの慌てた返答に、意地悪くなよが笑った。
「好きと一言で言っても、色々あるがの」
「子供相手に変なこと言わないでください」
慌ててあかねはなよの言葉を遮ると大きく溜息をつく。
「あかねは幸お姉さんのお手伝いが、ちょっとでもできれば、それで幸せなんです」
なよは紅茶を一口啜り、呟いた。
「鬼紙家の孫娘、鬼紙老には溺愛され、うまく立ち回れば、権力も財貨も手中にできるというのにのう」
「起きて半畳、寝て一畳。衣食住も足る、衣は黒さんと白さんのお下がりをいただいて、食はあさぎ姉さんが作ってくださる、充分です。意地悪なお姉様もお一 人い らっしゃいますが、まっ、すべてが幸せでは心が腐りますから、少しぐらい、頭を悩ます相手がいるくらいの方が緊張感もあってちょうど良いかも知れません ね」
「言いおるわい」
にかっと嬉しそうになよが笑った。
「はっきりと言い返す奴がおるのは楽しいのう、わくわくするわい」
三毛が慌てて言った。
「なよ姉さんも喧嘩はだめだよ」
「三毛。喧嘩はせんよ、する理由がない。なんというかな、あかねの減らず口は楽しい。特にわしはな、ここの娘になるまで、わしに逆ろう者など一人もなかっ た。 わしの言うことは、すべて仰せのままに、というやつじゃ。対等に喋ってくれる者がおらんというのは存外寂しいものよ」
なよは満足げに笑みを浮かべた。
「しかし、あかね。たまには実家の母親にも顔を見せてやれよ。随分、実家には戻ってもらんじゃろう」
「弟が生まれたので、あかねはお役御免です。自由の身ですから」
「なんとまぁ、頑なじゃのう。幸が元気になれば、あかねにたまには実家に顔を見せるよう進言せよと言っておこう。幸もえらくお節介なところがあるからな、楽し みじゃ」
「それは」
あかねが抗議を仕掛けた瞬間、なよは視線を鋭く道向こうへと向けた。
「三毛。お前のおばあ様がなにやらいらっしゃるぞ」
三毛は驚いて眼を見開くと腰を浮かした。
「何処へ行く」
「幸母さんのとこへ」
息ができないかのように、小さく呟く。
「まぁ、急くな。ここに居れ。大事なお前のおばあ様ではないか」
なよが笑う、三毛は覚悟を決めたようにじっと俯いた。

「知尋ちゃん、開けてちょうだい。あの娘、どうかしらね」
白澤の声が門扉の向こうから響いた。
なよは立ち上がると、門扉のこちら側に立った。
驚いて、白澤が声を失った。真ん丸に眼を見開いて、茫然となよを見ていたが、引き絞るように声を上げた。
「かぐやのなよ竹の姫。何故、お前がここに居る」
なよは柔らかに笑みを浮かべると、かぶりを振った。
「長女のなよ子と申します。良く、その方とは間違えられるので困っています」
淑やかに小首を傾げた。
「愚弄する気か。なよ竹の姫」
白澤が間合いを開け、叫んだ。
なよはその表情のまま、両腕を組んだ。
「先日は見逃してくれて助かったぞ、白澤猫。さすがのわしもお前にはかなわんからな」
「何故、お前がいるんだ」
「言うたであろう。長女、つまりは幸の姉になった。わしも良い妹が出来て嬉しいわい」
可々大笑となよが笑った。
「三毛。何故、報告せん」
白澤が俯いたままの三毛に怒鳴った。縮こまるように三毛が小さくなる。
「おいおい。わしの妹の娘、可愛いわしの姪を怒鳴らないでくれ」
嬉しくて仕方がないとなよが笑った。
白澤が両腕を振り上げる。
「おや、白澤猫。いいのかえ、この結界を破っても」
「何が言いたい」
「簡単なこと。お主ならこの結界を破ることも出来るであろう。しかし、いいかのな。それは、この結界を作り出した者を敵に回すということじゃぞ。つまり、わし の父さんをじゃ」
にたっと笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「わしの父さんは、子供の頃、お主に育ててもろうた。じゃから、敵とまではならんじゃろうが。幸がのう」
「何が言いたいのだ、はっきり言え」
「幸はこれを機会に本家とは絶縁してくれと言うじゃろうな、わしらのお父さんにな。となると、活躍している本家の精鋭は困るじゃろうな。間違いなく奴らは本家 についてくれるかのう、はてさて、難しいことじゃ」
「減らず口め」
なよは白澤をなだめるように言った。
「お主が私淑する本家初代の顔を見、言葉を交わした者も、今はわしとお前の二人だけじゃ。いつか、月でも愛でながら、昔話に酒を交わそうではないか。な、白 澤」
なよが寂しげに笑みを浮かべた。
「知りたいのは鍾馗の長の娘のことじゃろう。見事に育っておるよ」
白澤は手を降ろすと、言葉を探すように俯いたが、顔を上げると、大きく息を吸い、そして吐いた。
「出直す」
すっと溶けるように白澤の姿が消えた。
「行ったな」
なよは呟くと、大きく息を吐いた。
「白澤は結界越しでも迫力があるのう。びびった、びびった」
なよは笑うと、椅子に戻った。
そして、俯いたままの三毛を拳でぐいっと押す。にぃいと笑った。
「わしが白澤の立場なら、こう言っておるじゃろうな。逐一報告せよ、逆らえば、猫に戻してしまうぞ、とな」
ぴくんと三毛の肩が震えた。
「黒はそんなことを言われれば、白澤が言い終わるまでに、走りだして幸に泣きつくじゃろう。白は真面目に頷きはするが、それだけじゃな、次の日には忘れてお る。三毛、お前は真面目すぎるからな。多分、逆らえば、黒や白も猫に戻してしまうぞと脅されたな」
三毛が小さく頷いた。
「そんな酷いこと」
あかねが呟いた。
「白澤は別に悪人ではない。本家の隆盛しか考えておらんというだけのことじゃ」
なよは右腕で三毛の肩をしっかり抱くと囁くように言った。
「言うたであろう。三毛、お前は既に人じゃ、いかな白澤でもお前達三人を猫に戻すなどできんよ」
三毛はなよにしがみつくと、そのまま、なよの胸に顔をうずめた。漏れ聞こえる泣き声。
自然とあかねが三毛の頭を撫でていた。
「怖かったでしょう、大変だったね」
あかねが呟く。
ほっと息を漏らすと、あかねは椅子に座り直し、門扉を通して外を眺める。
ここは本当にシェルターだと改めて思う。
「結局、白澤さんは何をしに来たのやら」
なよが三毛を両腕で抱き締めたまま、顔を上げる。
「わしは鍾馗の親、つまり、漣の父親を古くから知って居る。娘思いの男じゃ。おおかた、漣をこのまま、ここに住まわせたいと言いだし、話が違うと白澤は慌てた のじゃろう」
「漣さんは女の子ですし、戦線に戻したくないのは、父親として不思議はないでしょうに」
「白澤は幸の術を取り込みたい。そのために漣に術を習わせ、それをまた、本家の精鋭に覚えさせようと思っておるのじゃろう。幸の術は、独自に発展させ、随分と 特殊なものになっておるからな」
「それはだめです」
あかねが慌てて言った。
「幸姉さんのような術師が他にも現れたら、世界そのものが滅してしまいます」
なよは三毛の背中をやわらかく叩きながら、思案気に俯いた」
「幸は世界を制することもできるじゃろう、それをあやつがせぬのは父さんがおり、皆がおるこの生活がもっとも大切じゃからじゃ。そういうしばりのない、幸と同 等の力を持つ者が現れれば大変じゃのう。口喧嘩で世界が滅びるぞ」
「幸母さんは大丈夫だよ」
三毛が泣き濡れた瞳のまま、顔を上げた。
「だって三毛の母さんだもの」
なよは満足そうに笑みを浮かべた。
「そうじゃな。そして賢明なるわしの妹でもある」
「あかねのお姉さんでもあります」
あかねも言葉を重ねた。
「まっ・・・」
なよは三毛から両手を離すと、少し冷めた紅茶を一口、含んだ。
「幸の術は、幸以外に教えることは出来ん。その術をいくらかでも使えるようになったとしてもな。仮に、まったく、他のところから幸と同等の力を持つ者が現れた としても、それはわしらが心配してもせんないことじゃ」
なよは三毛を目の前に立たせると、いたずらげに笑った。
「三毛。お前の肩には世界の命運がかかっておるぞ。何しろ、幸の娘じゃからなぁ」
「は、はいっ」
なよは笑うと、三毛の頭を軽くはたく。
「三毛は真面目すぎじゃ。素直に、はいなど言うでないわ」
「三毛さんがなよ姉さんのようになってしまっては可愛そうです」
あかねが三毛に言った。
「三毛さん。なよ姉さんは反面教師です。なよ姉さんの言うことは、拗ねない程度に七割、聞き流すのがいいですよ」
あかねは立ち上がると、紅茶のポットに触れる。
「冷めてしまったようです、三毛さん、いいですか」
三毛はあたふた頷くと、ポットを抱えた。
「ありがと。あかねちゃん」
「戻ってこなくて大丈夫ですよ、あさぎ姉さんのお手伝いをしてください」
あかねが笑みを浮かべるのを、こくこく頷き、三毛があさぎの元へと走って行った。
ほっと吐息を漏らすと、あかねはなよを睨んだ。
「なよ姉さんは困った方です」
「仕方あるまい。真面目な奴は面白いからのう」
「度が過ぎると小夜乃さんに言いつけますよ」
「それは勘弁してくれ、あやつは真面目は真面目でも、どの付く真面目じゃ。命を懸けて真面目を通されれば、太刀打ちできんわ」
なよは不思議と嬉しそうに笑みを浮かべると、少し冷めた紅茶を飲み干した。

「あ、あのね。あさぎ姉さん」
「どうしたの」
三毛はそっとあさぎに紅茶のポットを差しだした。三毛はあさぎにポットを持って行ってほしいと言いかけたが、戸惑い、口を閉ざしてしまった。
代わりに行ってほしいけれど、それはだめ。三毛は笑みを浮かべると、あさぎに言った。
「あたっかい紅茶をお願いします。持って行きたいから」
三毛の言葉が終わった瞬間、なよが飛ぶように速く駆け抜けた。あかねがその後ろで叫ぶ。
「梅林練習場、お父さんが落ちて来ます」
あかねも返事を待つことなく駆け抜ける。追うように三毛とあさぎが走った。
まさしく一陣の風、なよは梅林にたどり着くと空を見上げた。青く澄み渡る空の高み、一点をなよが睨みつけた。
「空を飛べるのは幸のみ、ならば仕方ない。刃帯儀」
唸るようになよが呟く。なよが右手から一本の帯を地面に向かって放った。鋭く先端は地面に突き刺さると、長く伸び、なよを空へと押し上げる。速度を上げ、風を 切る。
一歩、遅れてあかねは梅林にたどり着くと空を見上げた。
点でしか見えないが、背中でなよ姉さんが、落ちて来た父さんを支えているのだろう
刃帯儀が鋼のように地面から伸びている。
「あかねちゃん」
黒が慌ててやって来た。
「幸母さんが消えちゃった」
「上です」
あかねが空を見上げたまま、鋭く答える。
「上って」
「そうだ。花魁道中の儀は何処へでも行けたはず。黒さん、三毛さんに毛布を持って来させなさい」
「は、はい」
黒があかねの鋭さに気圧されて頷いた。
あかねが大声で怒鳴る。
「白さん、来い」
うわ、わわっとたたらを踏んで、白が掛けて来た。三毛も毛布を両手に持ってくる。
「白さん、花魁道中の儀。発動しなさい」
一瞬で状況を把握した白が叫んだ。
「花魁道中の儀 発」
黒と三毛が毛布の前後をしっかりと掴む。
「白さん、黒さん、三毛さん。毛布を御輿と見立て奉れ。かぐやのなよ竹の姫をお迎えに参りなさい」
「しゃん」
黒が叫んだ。
そして、黒と三毛がしゃんしゃんと鈴の音を模し大声で叫ぶ、そして、白の後をついて消えて行く。
「あかねちゃん」
あさぎが転ぶように走って来た。
「どうなっているの」
息も絶え絶えに言う。あかねが空を指さした。
「あの黒い点です。あ、黒さんと三毛さんが掴んだ毛布にお父さん、幸姉さんなよ姉さんが載っています」
「どうして、そんな」
「とにかく落下加速度を減衰させながら降りてこなければなりません」
黒い点が大きく螺旋に巡り出した。
「あさぎ姉さん、みんながここにうまく着地しなければなりません。ここからみんなを呼んでください」
「う、うん。わかった」
あさぎが頷いた時、小夜乃と漣もやって来た。
「小夜乃ちゃん、ああぎ姉さんと、ここからみんなを呼びなさい。漣はあたしと一緒に来い。ありったけの布団をここに運ぶんだ」
あかねが自分をあたしと呼んだ瞬間、鬼気迫る迫力で漣の手を掴むとあかねは家に向かった飛ぶように駆け出した。

あかねと漣、山のように布団を積み上げ、上空を見上げる。あさぎと小夜乃がおおい、おおいと叫ぶ。
白さんがうまく先導している、あかねが布団の山の上に立ち上がった。
完全に速度を押さえ切れてはいない、でも、充分だ。あかねが思いっきり両腕を広げる。
白が完全に速度を落とせずにあかねに飛び込んだ、あかねは白を含み込むように体全体で受け止め、二人、地面に転がる、慌てて、布団を見ると、うまく三人を乗せ た毛布が布団の上に載っていた。
もぞもぞと毛布がうごめき、一番下になっていたなよが飛び出した、布団から転げ落ちたが、うまく着地すると同時に、布団を駆け登り毛布の中を見る。
毛布には首から下が血だらけになった男とそれを庇うようにしがみつく幸の姿があった。
微かな歌声、幸だ、これは言祝ぎの歌、呪(まじな)いの歌。
「黒、三毛。このまま、父さんを家に連れて行け」
なよが叫ぶと、慌てて二人は布団の山から毛布を支えたまま降りた。
「小夜乃、漣も毛布を支えろ」
返事をする間もなく、二人が毛布を支えた。
「つまずくなよ。倒れれば、父さんの首から下が・・・」
なよが言いかけてやめた。
「早く行け」
なよの言葉に四人が急いだ。
あかねは白に肩を貸し、立ち上がった。
「白さん、お疲れさま」
「お父さん、大変だよ、血だらけになっていたよ」
「幸姉さんがいるのだから大丈夫です」
あかねは言い切ると、ぎゅっと白を抱き締めた。あかね自身も不安にさいなまされていたが、大丈夫だと言葉を発することで、自分自身を支えていたのだった。
「あかね、白。お前達も行って来い」
なよが二人に声を掛けた。
「父さんの術は無の術。無術と呼ばれておる。呪文を唱えずとも、思念だけで実現させる強い術じゃ。お前達二人も幸を通していくらかは無術を身につけておる。父 さんの近くで元気になりますようにと強く念じてやれ」
二人がうなずき駆け出したのを見ると、なよはほっと吐息を漏らして、胡座をかいた。
あさぎがその横にしゃがむ。
「なよ姉さん、大丈夫ですか、随分、疲れているようです」
「ん。あぁ、わしも一メートルくらいは浮遊することができるが、あんな高くまで駆け上がったのは初めてじゃ。思い返すと、足がすくむわい」
なよが振り返り布団を見る。
「指図したのはあかねか」
「はい。てきぱきとしてかっこ良かったですよ」
あさぎもほっとしたのか、表情がほころんだ。
「であろうな。本来、あやつは人の上に立って、統治する側の人間じゃ。鬼紙家も、息子ではなく、あかねが継げば、今以上に巨大な勢力になるじゃろう。もっと も、本人は幸の妹としてここに暮らすのが嬉しくて仕方のないようじゃがな」
「あかねちゃんが」
「才能の無駄遣いじゃが、本人が幸せならばそれで良いわ」
なよがゆっくりと立ち上がる、慌てて、あさぎが支えた。
「まだ、一仕事が残っておるが、腹が減った。あさぎ、ちょっと贅沢で旨いもの、用意しておろうな」
「はい。でも、お父さんが」
「わしが食う。父さんは当分、食えんじゃろう。食えるようになったら、また、改めて作れ」
なよが気分を変えるように笑った。
最終更新日 : 2013-05-11 17:55:45

異形 漣 四話

血だらけになった男を仰向けに寝かせ、幸は豊饒の歌を囁きながら、その体に両手を入れる、男の体は液体になったかのようにその両手を受け入れていく。
一心不乱になった幸の表情は深く沈み、窓からの月明かりだけが幸の横顔を照らす。
大丈夫だよ、お父さん。
「入っていいか」
襖の向こうからなよが声をかけた。
「どうぞ」
幸が呟くように答える。なよは静かに入ると、後ろ手に襖を閉める。
そのまま、男の椅子に腰掛けると男を見つめた。
「深く眠っているようじゃな」
「うん。今のうちに切れた体をすべて繋ぐよ」
「幸。お前のその手はいったいどうなっておるのか、わしにすらわからんわい」
幸は少し大人びた笑みを目許に浮かべ、しかし、すぐに表情を消すと、その動きに専念した。なよはふと暗がりの中、幸が成長しているのに気が付いた。黒、か、黒よりも少し年上の女の子に幸が成長していた。
「なんともはや、面白い妹じゃ」
なよは呟くと、窓から空を見上げた。少しふっくらした上弦の月。
「姉として、ちぃとは手伝うてやろう」
なよが両手を月に向け、搦め捕るように指を動かす。白く輝く糸、月の光は紡ぎ上げられ、一本の糸となって足元を巡っていく。
糸が伸び、幸と男を白く淡く光で包み込んで行く。
「父さん、少し楽そうだ。ありがとう、なよ姉さん」
「わしとて、元は月人。この程度の芸当はできるわい。そう言えば、父さんも月の光を治癒に使うておったな。いくらか月人の血が父さんにも流れているのかもしれんな」
「かもしれないね」
幸が手を休めないまま、答えた。
「本家の先々代につれ去られて来た赤ん坊が父さんだ。出生の秘密を知っている先々代は出生のこと、一つもあかさず亡くなってしまった」
「少しくらい話せば良いのにのう」
「何か理由があったんだろうな。でも、幸にはどうでもいいこと、父さんは父さんだもの」
なよは穏やかに笑みを浮かべ、立ち上がった。
「皆が心配して、父さんに元気になってくれと祈っておる。代表して、わしが覗きにきたわけじゃ」
「大丈夫と伝えてください」
「承知した」
なよは答えると、襖を開け、入って来た時のように静かに襖を閉めた。

「なよ姉さん、どうだった・・・」
黒が心配げに顔を上げた。黒は沈んで、今にも泣き出しそうになっている。他の者も俯き肩を落としていた。
なよは、黒を心配がらせて楽しもうと思っていたが、その黒の様子に軽口を噤んだ。
「大丈夫。幸がそう言っておった」
黒は笑みを浮かべると、腰が抜けたように仰向けに倒れてしまった。
「なんじゃ、どうした、黒」
「なんだか、力が抜けて」
仰向けになったまま、涙を流す。笑顔を浮かべたまま、黒が涙を流した。
「良かった」
なよは足先で黒の脇腹を小突くと、呆れたように笑った。
「黒。今晩はゆっくり眠れ、その間の抜けた顔のままな」
なよはあさぎに向き直ると声を掛けた。
「あさぎ。ご飯が残っておったろう、夜食じゃ、おむすびを作ってくれ。腹が減ったわい」
「はい。すぐに作って来ます」
あさぎも安心したのか元気に答えた。白と三毛も元気に立ち上がると、あさぎについて台所へ向かった。黒もばたばたと立ち上がる。
「食べる、黒も夜食食べるよ」
「黒。お前も手伝って来い」
「う、うん」
黒の走って行くのを小夜乃はほっとした笑顔で眺めた。
「なよ母様」
「どうした、小夜乃」
「今の母様は百点満点です」
「生意気言うでないわい」
なよがくすぐったそうに笑った。
「さて。あかね、漣」
「はい」
「徹夜になるぞ。交替で祈れば、幸の助けになるからな」
なよは漣を見て言った。
「漣は知らんじゃろうが、ま、師匠の親じゃ、一緒に祈ってくれ」


「みんな、寝ちゃったよ。なよ姉さんまでぐっすり」
幸は寝ている男の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「疲れたんだろうね」
男はまったく反応せず、目を閉ざしたままだった。口元に指先を近づけると、微かに呼吸をしているのがわかる。
「お父さんがいない間、鍾馗の一族のね、女の子を預かったよ」
反応のない男に幸はひたすら言葉を掛け続けていた。
「真っすぐな子だった。術を授けてやって欲しいってねことだった。だからね、教えているよ、もうすぐ黒に近づくと思う」
そっと幸は男の頬に手を添えた。
「お父さん、幸は元の姿までは戻れなかったけど、多分、お父さんと初めて会った時くらいまでには成長したよ。いままで、せっかく、育ててくれたのにまた小 さくなってごめんね。もう一度、幸を育ててね、でも、二回目だもの、幸は前よりしっかりしたよ。自分を見失って泣いたりしないよ」
幸は月明かりの中、男をじっと見つめた。
「お願いです、お父さん。目を覚ましてください」
幸の瞳から大粒の涙がこぼれた。
「もう一度、お父さんの声が聴きたいよ、一緒の笑いたいんだよ、お父さん」
幸が瞬きもせず、男の顔を見つめる。
微かに男の口元が動く。男が小さく幸と呟いた。
「お父さん」
男はゆっくりと目を開くと、幸を見つめて微かに笑みを浮かべた。
「幸、ありがとう」
男は一言発するだけでも体力を大きく消耗してしまうのだろう、目をつぶる、でも、微かに笑みを浮かべた。
幸は男の手を両手でしっかり握った。
「幸の手は小さくて華奢なのに、あったかくて、力強くて、なんだか安心してしまうよ」
男が目を瞑ったまま笑う。
「お父さん。お帰りなさい」
幸は涙で声にならない声をしゃくり上げる。
「ただいま」
男は小さな声でゆっくりと答えた。
白に車椅子を押され、男は漣に稽古をつける幸の姿を眺めていた。
この車椅子は元々佳奈のお祖母さんが使っていたらしい、黒が思い出して借りて来たのだった。
白はうっとりとこの現状を受け入れていた、父を看護するために医師となった私、父をひたすら支えながら、生きて行くことを選んだのだ。あぁ、なんて、健気なのであろう。
「なぁ、白。父さんね、車椅子は無しでいいよ」
「だめです」
「困ったねぇ」
男は少し笑うと、車椅子に背を預けた。
まだ、歩くには充分でないが、どうも、人が背中に居るのは落ち着かない。松葉杖なら歩けるだろう。
「幸母さんからも二日間は歩かせてはだめって言われています」
男の考えを察したように白が言う、仕方なさそうに男は笑みを浮かべた。
「厳しい主治医だなぁ」
男が帰って来た次の朝のことだった。

漣は無の話を子供の頃から聞かされていた、小さな子供の頃は、いたずらをすると無に連れ去られてしまうぞとか、頭からむしゃむしゃ食べられてしまう ぞと脅されたものだった。だから、いま、こうして車椅子に背を預け、笑みを浮かべている男がその無であるとが信じ切れずにいた。
でも、幸師匠の父なら凄い能力者なのかもしれない。
ふと男は漣の視線に気づくと、声を掛けた。
「君が漣だね。昔、鍾馗の国に行ったことがあるよ。ちょうど、君が生まれて、国はお祭り騒ぎだった」
「それじゃ、お父さん。漣ちゃんの本当の名前を知っているんですか」
驚いて、白が男に訊ねた。
「漣じゃないのかい。さんずい偏のさざなみという漢字だ」
驚いて、白が漣を見つめた。
「なよも知っているだろう。当時、なよたけの姫の特使もお祝いに駆けつけていたからね」
漣は戸惑いながら白に打ち明けた。
「始め、術師の方に名前を知られるのが怖くて名乗らなかったのですが」
「術師に本当の名前を知られるのは危険だし。でも、そういうことは」
白が男に振り返った。
「うひゃぁ。凄いですよ、お父さん」
「ん、どういうことだ」
「白は初めて漣ちゃんに会った時に、漣という呼び名を思いついたんです。あ、幸母さんも知っていたんですね」
幸は振り返るとにかっと笑った。
「知ってたよ」
「もう、幸母さんってば。早く教えてください」
白が興奮して、漣の手を握り締めた。
「漣ちゃんと白は縁があります。これからも友達です、いいえ、姉妹ですよ」
漣が照れたように笑みを浮かべた。
「これからもよろしく。白さん」
白はとびきり上等の笑顔を浮かべた。
「さて。そろそろ、漣を返してくれ。まだ、修行の途中だ」
「わかりました。お父さん、家に戻りますよ」
白が男の車椅子を押す。
「あ、あのね。お父さん」
幸が男に声をかけた。男が振り返ると、幸がそっと笑みを浮かべた。
「お父さん。二日間は無理しないで幸の言うこと、聴いてね。無理しちゃやだよ、ね」
男は頷くと、少しいたずらげに笑った。
「心配してくれてありがとう」
幸は思わず駆け出すと、男を抱き締めた。
「お父さん。帰ってきてくれてありがとう」
幸の声が震えていた。
「幸は柔らかくて、暖かいな」
男がそっと呟いた。

男が家に戻った後も、幸は男を見送っていたが、漣を思い出し、振り返った。
「悪いな、漣。漣が自分の父さんを思い出して悲しくならないようにと、お父さんに甘えるの我慢していたんだけどな。なんだかさ、お父さんでもう頭の中がいっぱいになってしまってさ」
「あ、あの。いいえ。私はまだいっぱい覚えなきゃならないことがありますし。それに、父さんのこと、好きですけど、それほどには」

漣が素直に困惑して答えた。

「どうじゃ。具合は」
なよはかじっていた煎餅を飲み込むと、男に訊ねた。台所、黒があさぎにタコ焼きのタネの作り方を教わっていた。
「随分、いいよ。優秀な先生が居てくれるからね」
男の言葉に白が満足げに笑顔を浮かべた。
なよも笑うと、テーブルの煎餅に手を伸ばす。
「ほんに女は大変じゃ。男の我儘に振り回されてあたふたせねばならん」
「みんなに迷惑かけたね」
「あかねの機転がなければ、父さんと幸とわしは地面に激突じゃ。いま、思うても足がすくむわい」
「幸に聴いたよ。ありがとうとしか言いようがないよ。あさぎ」
「はい」
あさぎが手を止め、振り向く。
「大声で呼んでくれたんだね。ありがとう」
あさぎが照れたようにくすぐったそうに笑った。
「黒と白と三毛は受け止めてくれて、小夜乃も大声で呼んでくれた。これは当分、頭が上がらないな」
「漣もあかねと一緒に布団を積み上げて大声を上げておったぞ」
なよが付け加えると、男は微かに視線を落とし、テーブルを見つめた。
「父さんも煎餅を食うか」
男はふっと笑みを浮かべると、顔を上げた。
「白先生が許してくれそうにないよ。それに、一人で手洗いに行けるようになるまではあまり食べたくないなぁ」
「なるほど、困った患者じゃ」
なよが笑った。
「白、お前も父さんの後ろに立たず、テーブルに座れ。後ろに立たれては、父さんも落ちつかんわい」
慌てて白も車椅子の横の椅子に座った。
「幸から、この一カ月のこと、聞いたか」
なよが男に訊ねた。
「テレビに出たことも聞いたよ」
「そうですよ、黒姉ちゃんだけ。白も出たかったのに御留守番だったんですよ」
男は笑うと白の頭をなでた。

「留守番は大事だよ。白まで出掛けたら結界が弱まってしまうからね。白は幸の娘なんだから」
白が満足そうに頷いた。
「あの一件で、この国が鬼の支配下に陥るのは、なしくずしにだが防げた、当分はな」
「あぁ、当分はね」
男は頷くと、思案げになよを見つめた。
「鬼の世界は、鬼と角の無い鬼と鍾馗の三者が互いに制することで安定していた。その安定が崩れたのは人が鬼と結託したからだろう」
「日本の支配者層の一部は古より鬼と深い交流があった。いや、鬼に隷従しておった。それを考えれば、いずれはこのような状況になったであろうな」
なよが煎餅の粉を払うように両手を振った。
「父さん、どうするな。このままじゃと、いずれはこの国、鬼の支配下になるぞ」
男は目を瞑ると微かに息を吐く。
「なんていうかな。父さん、若い頃、随分とね、鍾馗に悪さをしたんだ、なよも噂くらいは聞いただろう。だから、鍾馗には負い目がある。それにね、佳奈さんや皆が、普通にね、暮らせる社会の方がいいな」
男は目を開けると、柔らかに笑みを浮かべた。
「ま、そいうことだ」
男の言葉になよは満足げに頷いた。
「それでこそ、わしの父さんじゃ」
「認めてくれてありがとう」
男がいたずらげに笑った。

漣と三毛が闘っていた。お互いの攻防を紙一重で躱して行く。
三毛の蹴りが漣の顔面を薙ぎ払う。漣が蹴りに吸い込まれるように顔面で受ける、その寸前、漣が沈み、三毛の軸足を崩す。
三毛の軸足がふわりと浮かんだ、瞬間の体軸の変化だ。幸が漣の背後に回り、背中を軽く押す。弾かれたように漣が前進し、その左手が浮かぶ三毛の顎に触れた。
瞬間、あかねが三毛の足元に潜り込むと、三毛の膝の裏を軽く肩で押す。三毛の膝が緩み、上体が反ることで漣の左手から逃れた。

四人の攻防と補佐に、目を見張るように、小夜乃がその様子を見ていた。
「凄いね、実朝。小夜乃もあんなふうに動けたら外の世界で夕飯のお買い物も御手伝いできるのかなぁ」
小夜乃が肩に乗る実朝に話しかける。実朝が少し困ったかのように小首を傾げた。
小夜乃の隣、まるで始めからいたかのように幸乃が現れた。
幸乃が柔らかに笑みを浮かべる。
「幸乃様」

「小夜乃は強くなりたいの。実朝が助けてくれるから、強くなくても大丈夫でしょう」
「いいえ。助けてもらえることを当たり前に思うのは嫌いです」
幸乃は嬉しそうに微笑むと、四人の動きを眺めた。
「小夜乃はあの子達の動きが見えるのですね」
「はい」
幸乃が小夜乃に振り返り言った。
「小夜乃には眼の良さと勘の良さがあります。もう少し待ちなさいな」

あたふたと台所にあかねと三毛、小夜乃も戻ってきた。
「おう、どうした」
「なよ姉さん、幸母さんが家に戻ってなさいって」
三毛が答えた。
「幸姉さんは特別な稽古を漣につけるつもりなのでしょう」
あかねは空いた椅子に座ると、御煎餅を一枚取る。
「どんな稽古なんだろう」
三毛が好奇心旺盛に言う。
「お父さんは知っているの」
「知っているというか、わかってるよ」
「見たらだめかなぁ」
「だめだよ。本当は幸もその稽古はつけたくないんじゃないかな。でも、これからの漣には必要な稽古なんだ。とっても、辛い稽古なんだよ」
男は哀しげに笑みを浮かべると、白に言った。
「白、珈琲、だめかな。ちょっとだけ」
「はい、だめです」
にこやかに答える。
「白は厳しいなぁ」
「お父さん、あーんして」
あさぎの隣にいた黒が振り返り、男に声をかけた。瞬間、黒が投げた、男の口の中、
「お、珈琲飴か」
「お父さん、それで我慢してください」
黒が楽しそうに笑った。
「もう。黒姉ちゃんは甘いんだから」
「お父さんと姉ちゃんはインスタントラーメン仲間だからね、助け合うのさ」

梅林の中央、幸は漣の前に座ると、少し見上げた。
「随分強くなったのが自分でもわかるだろう」
連は慌てて、正座をすると額を地面にこすりつけた。
「ありがとうございます」
「顔を上げてくれ。幸は人に頭を下げるのは嫌いだけど、下げられるのはもっと嫌いなんだ」
連は跳ね上がるように頭を上げた。
幸はくすぐったそうに笑みを浮かべると、小さく吐息を漏らした。
「今の漣なら、大勢の鬼が向かってきても制することが出来るだろう、娘達に教えたのもここまでだ。ただ、漣にはもう一段階、教えておくべきかと思う」
「もう一段階」
「あぁ、ごく単純なことだ、向かってくる奴を殺すってことさ」
幸は立ち上がり、両手でお尻の砂を払う。
「立て。漣」
「はいっ」
幸の前に漣が直立不動になる。
「自在を出して、構えろ」
ふわっと、漣の右手に自在が現れ、幸に向かって、中段に構えた。隙を誘うのではなく、絶対的な防御の姿勢だ。
幸が右手を横に伸ばした、指の先にはもう一人、幸が立っていた。次々と幸が現れ、漣を大きく囲みだす。
唖然と漣は大きく眼を見開いてその様子を見つめていた。
「ちょうど、千人の幸が、漣、お前を囲んでいる。大サービス、一人ずつの攻撃だ、手加減もしてやるし、わかりやすい隙も作ってやろう。どういうことかわかるな」
「は、はい」
怯えたように漣が呟いた。
「二度は言わない、幸を殺せ」
一人の幸が漣に向かって駆け出す、悲鳴とともに、漣が自在の先を幸に向けた。
「漣、走れ。間合いを崩して、首を切れ」
漣が中段から、自在の下に潜りこむように姿勢を落とした。
「幸師匠、無理です」
もう一人の幸が漣の手の上から自在を握り、救い上げるように飛び込んできた幸の首を切り落とした。
「うわぁぁっ」
漣が悲鳴を上げた。首の落ちた体が二、三歩走り、地面に崩れた、首から血が噴出す。
「休んでいる暇はないぞ。次は心臓を打ちぬけ」
「はいっ」
悲鳴とも返事ともつかない声を漣が張り上げた。


「始まってしまったか」
男が小さく呟いた。
「きついことをするのう」
なよが俯く。
男が深く溜息をついた。

「命を奪っているんだ。そいつのこれからの未来というのを奪っている、それがどんなものであってもな」
「はいっ」
漣が返事をすると同時に、幸の眉間を割る。
骨の感触が腕から背中に伝わる、命を奪うというのは、これほど、おぞましいものなのか。
「恐怖や違和感を快感とするな、そのまま受け止めろ。傷を苦痛のまま受け入れろ」
「は、はいっ」
喘ぐ粋の中、漣が思いっきり返事をする、そうしなければ、気を失ってしまいそうになるのだ。
すいっと、最後の幸が漣の前に現れた。ぐっと、連は息を呑み、弾けるように幸の喉に自在を突き立てた、ふわっと幸はそれを流すと漣の後に回り込み、そのまま、連に尻餅をつかせた。
「本体は勘弁してくれ。まだまだ、お父さんに甘えたりないんだ」
にいぃっと幸が口元を歪ませ、笑みを浮かべた。
「どうだ、漣、楽しかったか」
漣が首を横に振った。
「辛いです、とても辛いです」
「それでいい。命を奪うってのは大罪だ」
幸は後ろから漣をしっかり抱きしめた、そして、頬を漣の頬に寄せる。
「漣、お前は鍾馗の救世主となり、その国と地位を取り戻すだろう。だか、平穏な時代になれば、漣、お前の居場所はそこにはない。強くなりすぎた」
微かに漣の体が震える。
「泣くな。ことが済むまで泣くな。泣けば決意が緩んでしまうぞ」
漣が歯を食いしばる。
「いつか、漣、ここに帰ってこい。幸の妹としてここで暮らせ。畑仕事をし、ヤギや鶏の世話をしよう。あさぎ姉さんの店でアルバイトをしよう。物産展で声張り上げて売り子をしよう」
漣がしっかりと幸の腕を握った。
「ありがとう、幸お姉ちゃん」
漣が眼を瞑ったまま、囁いた。

男が戻ってから三日が経ち、男はふらつくこともあるが、ゆっくりと今までの日常生活を取り戻しつつあった。
自分の部屋、事務椅子に座る、ふっと息が漏れた。一カ月のこと、男は一切語らず、記憶も沈め炊いた。
窓から外を眺める、放し飼いにした鶏が草を啄んでいた。
男はゆっくりと娘たちの顔を思い浮かべる。単純率直に面白いなと思う、まさか、こんなふうに賑やかになるなど、思いもしなかった。自分の半生を思い起こして、幸せすぎると思う。
「お父さん、いいですか」
襖の向こうから白の声が聞こえた。
「どうぞ」
白が襖を開け入る。
「お加減いかが」
「白のお陰だ、とってもいいよ」
白が嬉しそうに笑みを浮かべた。
男が椅子を指さす。
「ごめんね。まだ、ものを掴むのが難しいんだ」
白は承知したと男の前に椅子を置くと、足を揃えて座った。
「白はまじめに学校に行っているのかい」
「通ってます」
「楽しいかな」
白が笑みを浮かべ頷いた。
「でも、いま、ちょっと浮いてしまってますけど」
「どうしたんだい」
「学級崩壊ですよ。騒ぐから、先生の声が聞こえないんです」
「話には聞いたことがあるよ」
「だから、白は、先生の声が聞こえねえだろう、静かにしろって怒鳴ったんです」
「なんだか、幸みたいだなぁ」
男が笑った。
「それで向かって来た男の子たちを軽くピンタしたら吹っ飛んでしまって」
「白は確かに幸の娘だね」
「そして、お父さんの娘でもあります」
白が言葉を返した。
「なるほど。これは父さん、責任重大だ」
楽しそうに男が答えた。
白が幸せそうに柔らかな笑みを浮かべる。
「さて。お昼は畑に机を出しての、お外ご飯です。あさぎ姉さん渾身のお昼ごはんですよ」
「それは楽しみだ」
男の笑顔につられるように、白が声を出して笑った。
「お父さん」
「ん」
「帰って来てくれて、ありがとう」
「どう致しまして」
男も楽しそうに笑った。


最終更新日 : 2013-05-11 17:57:04

異形漣 五話

各駅停車の電車、七人がけの椅子の中程に、漣、その両脇を幸とあかねが座った。
約束の日の一日前の朝、三人は本家へと向かっていた。
「幸姉さん。漣さんを返すのは明日なのに、どうして」
「明日じゃ、間に合わないからね」
幸は本家の方角を眺めると、にぃぃっと笑った。
「相変わらずの当主だなぁ」
恐縮したように漣が言った。
「幸師匠。こんなにしてまでいただき、申し訳ありません」
幸は気楽に笑うと背もたれに背を預けた。
「本家の不手際だ。幸はこれでも当主の姪だからな」
あかねが不思議そうな顔をした。
「あのおっさん。なにかしでかしたのですか」
「した」
幸は一言言うと、目を瞑った。
「奴に本家の当主は荷が重すぎる。庇って来た白澤も今度ばかりは決心しただろう」
「本家はどうなるのでしょう」
「大奥には当主の血を継いだ子供が何人かいる。どれかが新しい当主になるだろうな」
駅に着く、三人は降りると、ホームに立ち止まった。
「次を見送って、その次の列車に乗って、二つ先の駅、それを降りて歩けば、本家への道に繋がる」
あかねが列車の時刻表を見る。
「三十分ぐらいです」
幸は頷くと、漣を見つめた。
「漣。たくさんの術師が鬼からこの国を護っていた。大小合わせれば千の組織があるだろう。中でも本家は群を抜いた術師集団だった。そして、もう一つ。数年 前に結成された組織がある。政府主導で自衛官と警察官から選ばれ、結成した組織だ。奴らは最新のITと忍術、呪術を使う。こういった組織がこの国を鬼から 護ることになっているんだ。でも、この国の政治家や官僚が鬼に籠絡されたこともあり、うまく機能していない」
漣が目を見開いて頷いた。
「どうしますか、幸姉さん」
あかねが囁いた。
三人の前には十人の黒服が囲むように並んでいた。
幸は男達に柔らかな笑みを浮かべると、目の前の男に話しかけた。
「おじさま。何か御用事ですか」
「お嬢さん。鍾馗のお姫様に用事があるのです。少し、よろしいかな」
幸は淑やかに首を横に振った。
「私には無事、姫様をお連れする役目がございます。ですから、お連れする以外のこと、一切、受け入れることは出来ません。ごめんなさい、おじさま」
男がにこやかに笑った。
「それは困りましたな。私共も上から、鍾馗のお姫様を保護せよと命を受けておるのですよ」
幸が意を得たと、笑みを浮かべた。
「大丈夫です。私と妹がしっかり姫様を保護しております。鬼にだって、指一本、触れさせはしませんわ」
「はは、しっかりしたお嬢さんだ」
漣が気づいた。幸は術を使っているわけではない、笑顔と言葉だけで、目の前の男を籠絡している。
「おじさま、お名前、なんておっしゃるの」
「おじさんかい。田中、田中啓一郎っていうんだよ」
「た、隊長」
本当に本名を名乗ってしまった男に回りの男達がどよめいた。
「他の方たちは啓一郎様の部下なのですか」
「そうだよ。五木、長尾、斎藤。それから、大西、木村、清水、坂上、村田に、岡田」
なんの抵抗もなく、男が答えた。
「どうしたんですか。隊長、しっかりしてください」
幸はにぃぃと目を細めると、微かに漣に向かって頷いた。
「隊長、その女は危険です」
すっと、幸は言葉を荒げた男の目許を見つめ囁いた。
「五木さま、そんな怖い顔、なさらないでくださいな。もしも、失礼があったのなら、謝ります」
「いや、あ、あの、いいえ」
五木が幸の眼差しに、狼狽し口ごもった。
「あ、あの、僕は」
「五木さまは隊長の右腕として、この隊を支えていらっしゃる方、その御苦労、わかりますわ」
幸の言葉が触手のように、五木の心の中の、弱い部分に纏い付く。
五分も経たないうちに、十人共、まるで催眠術にでも掛ってしまったように、木偶の坊の如く突っ立っていた。
「皆様。これからもこの国を鬼から護ってくださいませね。皆様だけが頼りなのです。たとえ、回りの人達が鬼に与しても、皆様なら、きっと、この国を鬼から護ることができます」
幸が囁きかけると、男達が我勝ちに頷く。
一本目の電車が来る、ドアが開いた。
「おじさま、早くお乗りください。終点までゆっくりしてくださいませね」
十人の男達が何のためらいもなく、電車に乗り込んだ。ドアが閉まり、列車が動き出す。
淑やかに幸は腕を振り、列車を見送った。

「て、ことで。反乱の種を蒔いてみた。なんか、男は単純だな」
幸は気楽に笑うと、漣に言った。
「奴らは自衛隊の特殊部隊だ。ただ、自衛隊の一部は鬼の側に付いている。奴ら自身は知らないようだけれど、付いて行ったら鬼の巣窟直行だ。ま、その方が楽しいけれどな」
「凄いです、幸師匠」
憧れの眼差しで漣が幸を見つめた。
「考えてみたら、笑顔ほど凄い武器はないかもしれないな」
幸は笑うと漣にそう言った。
「さて、漣、あかねちゃん。次の電車を待とうかと思ったけど、方違えすっ飛ばして、本家へ直行だ」
幸は二人の手をしっかり握ると笑った。
「飛ばすぜ。手を離すなよ」

あかねが屈んで大きく息をついた。隣りで、漣も地面に尻餅をついて足を投げ出していた。
結界もなにもあったものじゃない。空間を強引に繋ぎ、本家まで突入したのだ。
本家の領域は入り口と白鷺城を模した城の間を湖が寝そべり、その城を越えた向こうが町となっていた。着ている服装は洋装だが、町並みは映画に出て来る時代劇の宿場町のようなものだ。これは先々代の考えにより、建物の建築に強い制限を施していたからだ。
三人は堀端の少し陰になって目立たないところに到着した。
「さてと。少し、時間に余裕ができたし、かのかに先に会うかな」
幸が二人を見下ろす。二人は座り込んで肩を揺らし、大きく息をしていた。
「鼻から吸って、口から息を出す。そうすれば、体に酸素が行き渡る」
「ゆ、幸姉さんはどうして平気なんですか」
少し、体が楽になったのか、あかねが尋ねた。
「うーん、お父さんへの愛かな」
「いえ。もう、そう云うの、いいですから」
あかねがぱたぱたと手を振り答えた。
「幸姉さんのお父さん話を聞いていたら、日が暮れます」
「日暮れどころか、徹夜で喋りつづけるよ」
幸は笑うと、辺りを見渡した。
「知り合いのうどん屋さんがあるんだ。そこで休もう」

暖簾をくぐる、テーブル四つに、カウンター席の小さな店だ。幸いにも先客はなく、三人はテーブルについた。
「なんにする」
幸が尋ねた。
「ハイカラ定食。でも、ご飯はきついでしょうか」
あかねが言った。
「鬼とこれから戦うことになるからね。お腹減って動けないのは哀しすぎるな」
幸が笑った。
「あ、あの。ここ、本家の城下町ですよね。鬼って」
漣が驚いて幸に言った。幸はにっと笑うと、漣に言った。
「本家の現当主はスカだ。今度は白澤も決心を固めただろう。漣は天ぷら定食、しっかり食え。幸はおぼろにするかな」
幸は調理場に向き直ると声をかけた。
「お願いします」
「ごめんなさい、いま、伺います」
奥からの店員の声が響いた。
「ごめんなさい。大将が出前に出ているものですから。うわっ、幸じゃねぇか」
その瞬間、店員の右手に自在が現れた。
「くらえ」
店員が両手で自在を構え、幸の喉元に突き立てた。幸は軽々と自在の先を掴むと、にぃぃっと笑みを浮かべた。
「かぬか。線がずれているぜ。精鋭の一人として父さんから、自在を学んだんだろう。父さんに恥をかかさないでくれよ」
「やっぱり、幸姉さんは恨まれていましたか」
あかねが溜息をついた。
「ちょっとした、親友同士の挨拶だよ」
幸は手を離すと、かぬかの後ろに回り、抱き締めた。
「かぬか。体調はどうかな。しっぽとか生えてないだろうね」
「さ、触るな」
幸の指先が、かぬかの首筋から背骨を通り、お尻に触れた途端、幸があっと呟いた。
幸はふっと何事もなかったようにテーブルに戻った。
「かぬか。ハイカラ定食に天ぷら定食、おぼろうどんをお願いね」
幸は真顔になって言葉を続けた。
「白澤の血は凄いな」
「白澤様を呼び捨てにするな」
「どうしたのですか」
怪訝そうな顔をして、あかねが尋ねた。
「前に白澤と戦った時、白澤の攻撃を避けたら、それがかぬかに当たって、お腹の辺りで真二つに切れた、白澤は守り神みたいなものだからな、慌てて、治療したんだけど、その時、自分の血を使ったんだ」
「死んだ猫でも生き返らせて、猫又に生まれ変わらせるという」
あかねが言葉を続けた。
「尾てい骨には尻尾の名残がある。一番、変化し易かったのかなぁ」
深刻な顔をして、幸が吐息を漏らした。
「な、なんだよ、幸」
「来い、かぬか」
幸の言葉に、恐る恐るかぬかが幸の隣りに立った。幸は無造作に立ち上がると、右手をかぬかの頭の中に入れた。

「脳下垂体が指令を出している。うーん、構成しなおしておくかな」
幸がかぬかの頭の中から手を抜き出した、全く血は付いていないし、傷口もなかった。
「かぬか、視界が変になってふらつくことがあっただろう」
「あぁ、あった」
「もう、大丈夫だ。普通に生活ができるよ」
「あ、あの・・・」
「ん」
「ありがとう」
「どう致しまして」
幸がにっと笑う。
「うどん、つくってくるよ」
かぬかが調理場へと戻った。
「白澤は悪い奴じゃないけど、優先順位がはっきりしているからなぁ」
「どういうことです」
あかねが尋ねた。
「かぬかは、ほっとけば、大きな猫になってしまうところだった。白澤はお家が大事で、かぬかのことはたいして気に留めてないってことだ。本当のところ、かぬかもそれを察していたんだろうけどな」
「やるせない話ですね」
幸は頷くと、視線を落とし俯いた。

「おや、お客さんかい。いらっしゃい」
外から、威勢の良い声が聞こえた。
「お母さん、お久しぶり」
ついと幸は顔を上げると、声の主に笑みを浮かべた。
「あれ、幸様。ひゃあ、ようこそお越しくださいました」
「様は勘弁してくださいよぉ」
「いやいや。御当主の姪御様に失礼があってはならないよ」
幸は女将に近寄ると、嬉しげに笑みを浮かべた。
「お母さんもお元気そうでなによりです」

小声で漣があかねに尋ねた。
「あの、お母さんって」
「幸姉さんはあの年頃の女性をお母さんと呼んで、甘え込む特技の持ち主です」
「うわぁ、なるほど。お母さん、めろめろですね」
漣が納得したと相槌を打つ。

「お母さん、皆さんはお元気」
「亭主はお城に上がって、週に一度しか帰ってこないけれど、息子も娘も面倒臭いくらい元気で生意気だよ」
「もうだめですよ。大事なお子さんをそんなに言っては」
幸は笑うと、ぎゅっと女の手を両手で握った。
「でも、ご亭主様があまりお帰りにならないのはお可哀想。通いになりますよう、叔父に進言致しましょうか」
「とんでもない」
女がぱたぱたと手を振った。
「亭主なんざ鬱陶しいよ、月に一日でいいくらいさ」
「ま、母さんたら」
幸はいたずらげに笑みを浮かべ、女に抱き着いた。
「母さんは言葉が悪いですよ。でも、幸は母さんの言葉にとっても優しさがあること、わかってます」
自然に女は幸の頭を優しく撫でると、吐息を漏らす。
「なんて良い娘なんだろうね」
「母さんの娘さんほどではありませんけど」
幸はにっと笑う。
「おまたせ」
かぬかが料理を運んで来た。
「ありがとう、かぬか」
幸は存分に笑顔を女に見せると、テーブルに戻った。
そして、女に聞こえよがしに、かぬかに言う。
「それで、かぬか。体の調子が悪いなら」
「え。あ、いや」
いきなりの幸の言葉に、かぬかが戸惑って答えた。
幸は女に振り返ると、哀しそうに言った。
「お母さん。かぬか、最近ね。疲れた様子や苦しそうな顔をしてなかったかなぁ」
「そういえば」
女はかぬかが調理場の腰掛けにぽつんと座って、泣いているのを思い出した。声をかけるのが躊躇われるような絶望感が漂っていた。
「そうだ、幸様は腕っ節はからっきしだけど、治療は得意だったね」
幸は力強く頷くと、女をじっと見つめた
「母さん、一カ月くらい、かぬかを幸に預けてください。きっと、元気に治すから」
「わかった。かぬかは白澤様からの預かり人だけど。白澤様には」
「大丈夫」
元気に幸が言った。
「白澤さんと幸はとっても仲良しだもの。幸から言っておきます」
あかねがうどんを啜りながら、思わず吹きかけた。
「うわぁー」
あかねが小さく呟く。
「凄いですね、幸師匠。自由自在です」
小声で漣もあかねに囁く。
「勉強になるなぁ」
あかねが呟いた。

城門の手前まで来た。
「幸、どうする気だ。おばさん達一般市民は単純にお前のことを当主の姪で人畜無害の美人と捉えているけど、警護の一部やあたしら精鋭はお前のことを最凶戦士だって知っている、白澤様と犬猿の仲だってこともな」
「なんだよ。面と向かって悪態を突き合う。お互い、信頼があればこそだよ」
幸は笑い飛ばすと、出入り門に立つ二人の兵に笑みを浮かべた。
「それじゃ、通りますね」
「待て」
慌てて二人の兵が四人を止めた。
「一切の例外なしに城には誰も入れぬようにとの厳命です。たとえ、姪御様でもお入りなることはできません」
幸はその言葉に驚いたようにうずくまってしまった。
「これは、驚かせて申し訳ありません、しかし、御当主様からの厳命により、何人たりと」
「いいえ。私こそ」
消え入るような声で、幸が囁いた。
「ごめんなさい。少し驚いてしまって」
あかねに助けられるように、幸は立ち上がると、申し訳無さそうに二人の兵を見つめた。
横から驚いてかぬかも声を上げた。
「それは白澤様の精鋭も入れないということか」
「はっ。今宵夕刻までは通すことならんと直々のお言葉であります」
「いったい、どうなっているんだ」
かぬかは何か嫌な予感を感じ、辺りを見渡す。
そっと、幸は両手を重ね、兵に向かって合掌すると、泣き濡れた瞳で兵を見つめた。
「どうか、お願いでございます。どうしても、叔父に会わねばならないのです」
「し、しかし」
兵が幸の瞳に動揺し、言葉を詰まらせた。
「う、上の者に問い合わせますゆえ、し、しばしお待ちくだ」
幸がすぃっと目を細め呟いた。
「あかねちゃん、三十分だ」
あかねの姿が消えた、その瞬間、二人の兵が白目を向き、膝が崩れ、まさしく落ちた。
「美人のお願いは即決だ。逡巡しないでくれよな」
幸は倒れた兵の後ろに立つあかねに笑いかけた。
「な、あかねちゃんもそう思うだろう」
「幸姉さん、まんま、たちの悪い悪役ですよ」

「お前、最悪だな」
かぬかも倒れた二人を引きずって端に寄せる。
「わくわくするなぁ」
幸が呟いた。
「それで幸姉さん、これからどうします」
「六階建の城。五階の本丸に十体の鬼が控えている、天守閣に鬼が一体。こいつの号令で動くのだろうな。四階には、津崎と弟子が二人、鬼と戦っている。城の者はほとんどが地下に押し込められている。かぬか、精鋭はどうした」
「私以外は出払っている」
「姑息だなぁ、当主は。かぬか、地下にほとんどの奴らは閉じ込められている。鬼は二体だけだ。かぬかとあかねちゃんは地下の鬼を倒して上へ来てくれ。幸と漣は四階の津崎を助ける」
「わかった」
かぬかが頷いた。
「それでは幸姉さん、後程」
あかねも頷くと、二人、城内へと駆け出した。
幸は二人を見送ると、漣に言った。
「漣の初めての戦いだ。気合入れて行け」
「はいっ」
「でも、鬼の血をかぶるなよ」
「え」
「ようやく会えた娘が血だらけとは、漣の親父、泡吹いて気絶するからな」
機嫌良さそうに幸は笑うと城内へと歩き出した。

「お手伝い致します」
瞬間、漣は鬼の両肩に後ろから飛び乗ると、両手で鬼の首をぐいっと天地百八十度回転させた。そして、倒れた鬼の左胸を足裏でぐっと押し込む、くぐもった風船の割れた音がする。心臓を押し潰したのだ。
間合いを読み、対峙していたはずの鬼の惨状を呆気に見る。津崎流薙刀術総帥津崎の目の前に小さな女の子がいた。はて、何処かで見たことがある。
「とりあえず、鬼を潰していきますね」
向かって来た鬼の両足を右の蹴りで払う。鬼の足が膝からあらぬ方向へ曲がり、ずとんと鬼が落ちた。
「津崎の叔母様、お久しぶりです」
幸がいつの間にか津崎の隣りで笑みを浮かべていた。
「お、お前は」
「娘たちがお孫さんにお世話になっています」
鬼が一体、幸に切りかかって来た、巨大な青竜刀を上段に構える。
「動くな」
振り返り、幸が低く呻いた途端、振り下ろそうとする鬼の動きが硬直した。術で止めたのではない、鬼が幸の言葉に恐怖を覚えたのだ。
「そのまま動くな。息もするな」
幸はそう言うと、津崎に笑いかけた。
「ひょっとして叔父からの伝書か何かでいらっしゃったのですか」
津崎は叔父という言葉に、当主の兄が無であり、幸がその娘であることを思い出した。
「至急の用事、子細は直接とあった」
「なるほど。術師の中でもあなた様は一番の頑固者。叔父はあなた様を最初に亡き者にしようとしたのでしょう」
津崎の弟子だろう、女が薙刀で下段からすくい上げるように鬼の正面を切り裂いた。その隣りで、漣が飛び上がり、鬼の顎に手を添え、頭から鬼を落とす。鬼の頭が粉砕した。


「わしを亡き者にとな」
「城の者が地下に押しやられ、鬼が跋扈しております。叔父には本家の当主を引退していただかねばなりませんね。私的には引退などと悠長なことは言わず、裏切り者を切り刻みたいところではありますけれど」
幸がにっといたずらげに笑う。後ろで鬼が一体、倒れた、窒息死だ。念のため、漣が頭を踏み潰す。
「師匠。もうこの階には生きた鬼は居りません」
漣が幸に報告をする。
「うん。良い出来だ」
「ありがとうございます」
漣が戸惑う事なく笑みを浮かべた。微かに幸が眉をひそめる。
「あっ。もしや、鍾馗の姫様ではありませんか」
津崎が驚いて言った。
漣が柔らかな笑みを浮かべた。
「お久しぶりでございます。私の方から御挨拶申し上げねばならなかったのですが、鬼をほふるのに忙しくしておりました」
「虫を殺すのすら躊躇いになる、あのお優しい姫様が」
津崎が声を震わせた。
「鬼の軍団に母は殺され、多くの民も殺されました、残った者たちも国を追いやられ、今は本家に身を寄せる有り様。姫と親しんでくれた者達に対して私は国を再興する役目がございます」
凜とした眼差しで津崎を見つめた。
津崎はあまりにものどうしようもなさに目を臥せる。
「責任は取るさ」
幸が小さく呟いた。
階下から、歓声が響いた。
すぐにあかねとかぬかがやって来た。
「地下は解放しました」
あかねが幸に報告する。
「ありがと。それじゃ上に行くかな」
「私はここで解放された皆と城の浄化を進めます」
あかねの言葉に幸が頷いた。
「なんと、鬼紙のお嬢様までこのような危険な場所に」
「お久しぶりです。でも、大丈夫ですよ。だって、精鋭のかぬかさんもいらっしゃいますもの。守ってくださいますから」
「なるほど、そなたが白澤の精鋭か」
津崎がかぬかに言った。
「はいっ」
「このお方は鬼紙老のお孫様じゃ、お優しく、間違っても荒事とは無縁のお方じゃ。どんなことがあっても怪我などさせてはならんぞ」
「は、はぁ」
かぬかは戸惑ったが、素直に頷いた。
自分の隣りでもう一体の鬼を片手で投げ飛ばし、天井に激突させた女だ、鬼がまるで自分から飛んで行き、天井にぶつかったようにも見える不思議な技だった。
「かぬかさんがいらっしゃれば、あかねは安全です」
あかねが津崎に向かって微笑んだ。

かぬかとあかね、津崎の弟子二人も浄化のためとどまった。
「お前、凄いな」
かぬかがあかねに言った。
「私がですか」
「ああ」
「かぬかさんの方が凄いですよ」
にっとあかねが笑みを浮かべた。
「え、あ。そ、そうかなぁ」
素直に照れるかぬかに、あかねは微笑んだ。

階下から、急な階段を上り、幸が本丸に頭を出した瞬間、大振りの刀が幸の首を薙ぐ。まさに首を払う寸前、一本の細い線が刃を階下から貫き、その動きを止めていた。
幸が放ったなよの術、刃帯儀だ。
幸が飛び上がり、本丸に着地すると、十体の鬼が幸に向かって睨みつけた。
「睨む前に攻撃する、そうすれば、勝てないまでも、ちっとはましな死に方ができたのになぁ」
幸は笑うと、呟いた。
「水の結界 五式全」
壁と天井に薄い水の幕が生じた、天井から水が流れ出し、壁を伝う、その水は壁と床の間で消えて行く。微かな瀬音。
「これで騒いでも上には聞こえない」
漣、津崎も登ってきた。
「さてと、この中で一番偉い奴はどれだ」
幸が鬼に向かって声をかけた。無言で睨みつける鬼達。鬼の囲みから、一歩、後ろに一体の鬼がいた。随分と、角が長い。
「ああ、後ろに、脅えて隠れているお前だな。少しばかり、話を聞きたい」
「なんだと。俺は隠れているわけではない」
鬼がむきになって、幸の前にやってきた。
「なに、簡単なことだ。何故、お前達は領土を広げようとする。鍾馗の国を滅ぼし、かぐやのなよ竹の姫の国も滅ぼし、また、この国も侵略しようとしている。 どうしてそんなことをしようとするんだ。お前達が侵略行動を起こすようになって、ほぼ五年。酒呑童子の一件より、お互い関わらずの取り決めを何故、反故に した」
考えたこともなかったのだろう、鬼は絶句した。他の鬼達も、その目に微かな戸惑いを見せた。
幸はついっと漣に目をやった。
「この子は鍾馗の娘だ、母親を鬼に殺された。私はこの子に、お前達程度なら瞬時に殺すだけの術と覚悟を与えた。どうする、お前達の返答次第では次の瞬間、血まみれになって横たわることになるぞ」
「わからない。上官の指令に従うのみだ」
「馬鹿野郎。その首から上についているのは頭だろう。ガキじゃあるめえし、その足りねえ頭で考えろ」
幸の一喝に、鬼達が腰を抜かし床にへたり込んでしまった。
「手前の命も、赤の他人の命も、同じ大切なものだ。鬼の国に返してやるから、よく考えろ」
瀬音が濁流の音に変わり、その音に飲み込まれるように鬼が消えた。水音が消えた時、鬼の姿も気配もなかった。
漣が小さく舌打ちをする。
「漣」
幸が低く呟いた。
「は、はい」
「お前はまだまだ未熟だ。命を奪うことを目的とするな。命を奪うことを喜びとするな。それをしっかり頭の中に刻み付けておけ」
漣は幸の言葉に気が付いた。もし、あの鬼達を殺していれば、きっと自分は殺人鬼になっていただろう、命を奪うということ自体が喜びとなっていただろう。
「師匠。申し訳ありません」


鍾馗の長と白澤が共に後ろ手に縛られていた。二人は木組みの牢に入れられ、天守閣、一段高みに当主と鬼が笑みを浮かべ座っていた。
「当主。情けない、鬼と手を握るなど、初代に申し訳ないと思いませぬか」
「怒るな、白澤」
当主が機嫌よく言った。
「流れは鬼の側へと向いておる。この国も、そう遠くない未来、鬼と友好条約を結ぶであろう、いや、あの女が邪魔をせずにおれば、とうに結んでおったのじゃ」
当主は幸の顔を思い出したのか、にくしげな表情を浮かべた。
「あの、わけのわからぬ強さ。一体何者だ、本当にわしの姪なのか。まぁ、よいわ。今日中にことを済ませば、すべては後の祭りじゃ」
そして、白澤の隣りに後ろ手に縛られている鍾馗を見て笑った。
「まぁ、長よ。そういうことじゃ。明日、娘が帰ってくれば会わせてやろう。一月振り、涙の再会じゃ」
「当主殿」
鬼が愉快に声をかける。
「どうも、当主殿は件の女と相性が悪いようですな。下の階には屈強の兵共がおりますぞ。そのような女子供など気にするにありませぬわ」
鬼が自信満々に笑った。

これ程嬉しいことはないと笑みを浮かべた幸が当主の背後にゆらりと現れた。白澤が息を飲んだ。その瞬間、当主の体が浮き、畳三畳は充分、飛ばされ転がる。幸が右の蹴り足をじわりと戻した。津崎が階下から飛び出し、素早く鬼に駆け寄ると、その首に刃を当てた。
「動かば斬る」
津崎が鬼を睨み言い放った。
「父上」
漣が転がるように長へ駆け寄り、座敷牢の閂を引き抜き、扉を開けた。
「漣。中には入るな、お前程度なら金縛りにあって動けなくなるぞ。長よ、それに白澤。自力で出てくれ」
幸が満足そうに両腕を組み、笑った。
出て来た白澤に幸は近寄ると言った。
「もういいだろう。血統を残したいのなら、あいつの子供が大奥に何人かいたはずだ、まともなのを一人選んで教育しなおせや」
ついと転がったままの当主を見る、気絶したままだ。
「腐っても当主だ。引退させて、蟄居させればいい」
白澤が絞り出すように言った。
「助かった。ありがとう、幸」
白澤の言葉に幸が驚いた。
「なんと返せばいいのかな。ま・・・、どういたしまして」
そして、幸は長に笑いかけた。
「あんたの希望は娘の安全なんだろう。ただ、娘はお前を支えたいと考えている。私は娘の思いを優先させた。それなりに術も心構えも教えたつもりだ」
幸が振り返ると津崎が鬼に猿轡を噛まし、繋がった紐を鬼の足指に結び付け、海老反りの姿に仕上げていた。
幸は鬼に近寄ると、その額に触れる、根元から、すっと角が落ちた。そして、その角を踏み潰す。
「こいつは白澤に任せよう。津崎さん、構わないかい」
「ここは本家だ。本家内のことは白澤さんに任せればいい。わしは何も見なかったし、わしの弟子も何も見なかった」
幸は頷くと、白澤に声をかけた。
「ま、そういうことだ。そうだ、白澤、かぬかを、当分、預かる、いいだろう、な」
「ああ、よろしく頼む」
幸がにっと笑った。
「漣。私を姉と思え。そして困った時は呼べ、助けてやる」
そのまま、何事もなかったように幸と津崎は天守閣を後にした。

四階に戻ると、たくさんの城人が雑巾や箒を手に掃除をしていた。あかねも柱を雑巾でしっかりと拭きあげていた。
「お帰りなさい、幸姉さん。いかがでしたか」
「無事済んだよ」
「なんと。あかねお嬢様、そんな、雑巾がけなど」
驚いて津崎が言った。
「私はなんのお役にも立てません。せめて、お掃除くらいはさせてくださいな」
あかねが柔らかに笑みを浮かべる。
「できたお嬢様です、感服致しましたぞ」
かぬかが幸に駆け寄って来た。
「精鋭を呼び戻した。すぐにここにもやってくる」
九人の精鋭、頭ひとつ分は確実に背の高い男女が幸を無視して駆け抜けた。
「あいつら・・・」
かぬかが呟いた。
「愛想された方が気色悪いや。漣と長には護髪を結んである、妙なことはさせないさ。そうだ、かぬか」
「ん」
「白澤とは話をつけた。よろしく頼むということだ。ということで、かぬかは今から幸の弟子。師匠を敬えよ」
「お前が師匠ってか」
かぬかが溜息をついた。
「師匠に似て、性格が悪くなってしまわないか、それが不安だ」
かぬかの言葉に嬉しそうに幸が笑った。
「幸とあかねちゃんは二人でしばらく旅に出るから、かぬか、これから荷物を纏めて、うちに向かってくれ。父さんもいるし、黒たちもいる」
「黒に白に三毛。懐かしいな。それは楽しみだ」
幸とあかねは城を出ると、湖の畔までやって来た。
「幸姉さん、旅って」
不思議そうに幸を見上げた。
「ん」
幸がふふと笑みを浮かべた。
「いまはとっても賑やかで楽しい。でも、なんて云うのかな、父さんが仕事に出掛けて、あかねちゃんと二人で留守番していた頃が、なんだか懐かしい。そう 思ったらね、あかねちゃんと二人で旅をするのっていいなぁってさ。一週間くらい、うろうろしよう。あかねちゃん、いいかな」
あかねが思い切って幸の手を握った、自然と幸がその手を握り返す。
「幸姉さん、楽しみです」
あかねが満辺の笑みを浮かべた。



最終更新日 : 2013-06-16 12:22:26

異形 漣 かぬか びびる

本来、術者は行くことができない、正確には術者がなんとなく避けてしまうよう、難しい術が一帯に施されている。避けられるかもしれない面倒ごとは、あらかじめ避けるのが賢明だ。
かぬかは駅の改札を降りて、ほっと吐息を漏らした。幸い、かぬかは無の術を少し教わっているため、結界が見逃してくれたのだろう。幸の手書きの地図を見な がら、ここまでやってきたのだ。しかし、駅からの地図はない。つまりは書いても無駄なのだ、駅前商店街魚弦の佳奈さんに案内してもらうようにとある。
かぬかはほっと息を漏らすと、少しずり落ちかけた大きなリュックを担ぎ直す。今から登山でもしようかといういで立ちだ、かぬかの財産一式だった。

「らっしゃい、らっしゃい」
威勢のいい声、前掛けに魚弦と書いた佳奈が元気に客を呼び込んでいた。かぬかは少し離れたところで、どう声をかけたものかと考える、魚を覗き込んでいる主 婦三人、この人たちが買い物を終えたら、思い切って声をかけてみようか。なんだか、裸電球の灯りのせいだろうか、まるで観客席でお芝居を見ているような気 分だ。
しばらく前まで、そう本家を出るまで、殺し殺される世界にいたことが嘘のようだ。
なんだか、肩の力が抜けて楽しい。
ふと、佳奈がかぬかを手まねいた、ちょっと見渡して見る、自分だ。
「かぬかちゃんだろう。おいで」
「は、はい」
かぬかが佳奈の前に立つと、にっと佳奈が笑みを浮かべた。
「幸ちゃんから電話があったよ。奥に座敷があるからさ、荷物降ろしてやすんでりゃいいよ。一時間もしたら、お客さん減るからさ、そしたら。先生んち、一緒に行こう」
「ありがとうございます、えっと」
「あたしは佳奈。幸ちゃんの友達で、姉みたいなもんだ」
「私は白澤かぬかです」
佳奈が満辺に笑みを浮かべた。
「しっかりした子だ。幸ちゃんが大事な友達って言うのわかるよ」
奥の座敷に背中の荷物を降ろした、ほっと一息漏らす。
かぬかは幸が自分を大事な友達と言ったことに驚いていた。幸は変わった奴だと思う。白澤様の敵でこの野郎と思うこともある。独善的で我こそ正義と思っているような奴だ、でも。
多分、本当は白澤かぬかである私は幸が真っ当で良い奴と思いたくないのだ、だから、これは私自身の問題である。案外、幸って良い奴だなぁなんて思いたくない、それだけのつまらない意地だ。ただ、どうしてだろう、ちょっと、幸といると楽しくはあるんだ。
いつの間にか俯いていた、見上げれば佳奈さんが声を上げてお客さんを呼び込んでいる。なんだか、手伝いたい。そうだ、手伝おう。
「佳奈さん。お手伝いします」

霧の中を歩く、佳奈の手をしっかり握る。この手だけが頼りだ。
結界が施されており、術師には辺り一面が深い霧の世界だ。佳奈が澱みなく歩く、佳奈には霧が見えておらず、普通の住宅街でしかないのだろう。かぬかは緊張した面持ちで佳奈の後ろを歩く。
余程の術師でなければ単独では歩けないだろう。
「かぬかちゃん、大丈夫かい。ふらついているけど、ちょっと休むかい」
「いいえ、大丈夫ですよ」
かぬかが霧の向こうに笑みを浮かべる、真っ白な世界だ。
次第に霧がはれてきた、青い空、日盛りも過ぎた三時頃のやわらかな空だ。
「ほら、あそこだよ」
佳奈が指さす先に、瀟洒な小さな喫茶店があった。
喫茶店の窓に珈琲を飲む男性が見える。名無し先生だとかぬかが心の中で叫んだ。
佳奈とかぬかが喫茶店に入ると、男が笑みを浮かべた。
「かぬかさん、お久しぶり。佳奈さん、ありがとうね」
男が右手で二人に座るよう促す。
「えっと」
男がカウンターに視線を向けた。
あさぎが笑みを浮かべるとすっと水を二人の前に置いた。
「佳奈さん、何にしますか」
「それじゃ、私は珈琲で」
あさぎはそっとかぬかを見つめると微笑んだ。
「初めまして。幸の姉、あさぎです、よろしく。かぬかさんは何にしますか」
すっとあさぎがメニューを差し出した。
「お勧めはハーブティーのケーキセットですよ」
「え、じゃ。あの、それで」
戸惑うようにかぬかが答えた。
「あさぎちゃん、無理やりだねぇ」
「だって、お父さんも佳奈さんも珈琲ばかりでつまんないです。せっかく、ハーブティーのブレンドを作ったのに」
「うーん。喫茶店でお茶飲んでもねぇ」
あさぎがくすぐったそうに笑った。
「困った佳奈さんです」

「おおい、珈琲を作ってくれ。台所ではインスタントじゃが、こっちならうまい珈琲が飲める」
カウンターの奥から、なよがやってきた。
「あぁ、なよ姉さん。こちらが幸から電話のあったかぬかさんです」
ふっとかぬかがなよの顔を見た、
「ひやぁ。か、かぐやのなよ竹の姫」
驚いて、かぬかが腰を浮かす、瞬間、視界が巨大化したなよの瞳で充満した。
「うまそうじゃのう」
瞳の奥から、なよの言葉が響き出す。
「ご、ごめんなさい」
「なにも謝る必要はない。その右腕、所望じゃ。うまそうじゃなぁ」
震えて、動けない。威圧されて、体が押し潰されてしまう。
「なにやってんですか、なよ母様」
すぱーんと良い音がして、小夜乃がなよの頭をスリッパで思いっきりはたいた。
「え・・・」
かぬかは目の前で起こったことが理解できなかった。

頭を抱えて、うずくまっているかぐやのなよ竹の姫、その隣りにスリッパを持った少女。
「母がいたずらをしてしまい申し訳ありません」
「母・・・」
かぬかがおうむ返しに答えた。男が少しいたずらげに笑みを浮かべた。
「なよの娘、小夜乃だよ」
「先生、それって」
「うちの次女のなよ、それと娘の小夜乃だ」
なよが頭をさすりながら立ち上がった。
「そういうことじゃ。長ったらしい名前は忘れろ、なよでよい」
ふと、なよが佳奈の持っている袋に目をやった。
「さばとイカのいいのが入って来たからね、持って来たよ」
嬉しそうに佳奈が袋を持ち上げる。
「気が利くのう、佳奈は。よし、炭火でイカを焼いて、焦がし醤油できゅっと。な、いいじゃろ、あさぎ」
あさぎが呆れたように笑った。
「ほどほどですよ、なよ姉さん」
嬉しそうにうなずき、なよは小夜乃に言った。
「小夜乃。七輪の用意じゃ」
三人が庭へと行き、落ち着いたのか、緊張が抜けて、肩を落としたかぬかの前にあさぎがケーキセットを置く。
「お疲れさま」
あさぎが楽しそうに笑った。そして、そのまま、男の隣り、かぬかの前に座った。
男が紹介する。
「この娘があさぎ、三女だよ」
「よろしくね、かぬかさん」
「白澤かぬかです。よろしくお願いします」
「白澤さん・・・」
すっとあさぎが男の顔を見た。
「白澤さん直属の弟子は白澤姓を名乗ることになっているんだよ」
男の言葉にあさぎがそっとうなずく。
綺麗な人だとかぬかは思った。
「かぬかさん、どうぞ、食べて」
「ありがとうございます」
かぬかが笑みを浮かべて頷いた。一口、ケーキを食べてみる、とっても美味しい。
かぬかが幸せそうな笑顔をふわっと浮かべた。
「とっても美味しいです、あさぎさん」

部屋に荷物を置き、広間に立った。
「お父さんは自室で寝るけど、みんなはここで寝ているんですよ」
あさぎがかぬかに説明をした。
「あの、あさぎさん。なよさんも一緒に」
あさぎが戸惑う素振りすら見せず、素直に頷くのを見て、心しか、かぬかは驚いた。元は一国の女王、それが、皆と雑魚寝なんて。
「あ、あのね。なよ姉さんは怖い時もあるんだけど、本当はね。でも、心はとっても思いやりがあって、大人としての分別もちゃんとあるし、えっとね、時々、可愛いなって思える時もあってね」
慌ててかばうあさぎを見て、かぬかは年上であろうあさぎをなんだか可愛く思った。
「あさぎさんがそうおっしゃるなら、そうなんだと思います」
照れながらもはっきりとかぬかがあさぎに言う、嬉しげにあさぎも頷いた。
かぬかが思い出す。
初めてこの家の主 無に出会ったのは、白澤様に精鋭の一人として無の術を教わりたいと申し出て、認めていただいた次の日だった。

「私は晩の九時には自宅に戻り晩御飯を食べるつもりです。ですから、教えたことは一度で理解してください。二度も三度も説明しなければならないようでは、時間もかかりますし、なんだか面倒臭くて教えるのが嫌になってしまいます」
男は十人の精鋭を前に言い放った。
「では、皆さん。まずは自然体で立ってください」
かぬかが慌てて、足を肩幅に広げ、姿勢を崩さない、ギリギリのところで、肩や上半身の力を抜く。
え・・・、思わずかぬかは声を上げそうになった。精鋭九人、驚くようなだらけた姿で立っている、いや、一人はしゃがんですらいる。男性六人、女性四人、女性が互いにお喋りを始めた。
「なるほど。見事な自然体ですね」
男が嬉しそうに笑った。
「あんた。本当に無なのか」
中央の二メートル近くはあるだろうか、がたいの大きい男が言った。
「さあね」
「ああ、なんだと」
「私は自分で無だなんて名乗ったことはないんですよ。他人は私のことをそう呼んでいるみたいだけどね。だってさ、無 とかさ、気取っているようで気恥ずかしいじゃないか」
男は平気な顔をして笑うと、見上げた。こめかみにひきったような血管を浮かび上がらせた顔が男を見下ろす。
「あれ。ひょっとして、私がお気に召さないとか」
「もっと、凄い奴がやって来ると思っていたのに、そこらに転がっているおっさんがやって来たとはな」
吐き捨てるように言う。他の八人もシラケた目で男を見る。
「それは白澤さんの説明不足だ。後で言っておくよ。中肉中背、最近、ダイエットした方がいいかなと悩んでいるおっさんだってね」
「あ。あの、皆さん。早く練習を始めましょう」
かぬかが思い切って声を上げた。
ふいと男はかぬかの後ろに立つと、自然体に立つかぬかの背中少し下辺りを軽く叩く。瞬間、かぬかの頭の中にきらめきのような衝撃が走った。
「体が真上に浮かぶようだろう、これが本来の立つということだよ。忘れないように十分間、この感覚を味わいなさい」

男は九人に振り返るとにぃぃと笑った。
「そこの大将を潰して、他の八人を恐怖で稽古をさせるという手もあるんだけどね、でもさ、弱い者いじめをするのもなぁ、なんだか、格好悪いからねぇ、どうしたものかなぁ」
「悩むことはないさ。俺がどれほどあんたが強いのかを判断してやるよ」
巨体がじわりと、男に向かって構えた。
「それは無理だよ。だってね、歩き方を覚えたばかりの小さな子供が武術のね、口はばったいけどさ、達人の動きを読めるかい。残念ながら、君に私の動きを判断するような実力は無いよ」
「つまりは俺がガキだと言いたいわけだ」
怒気を含んだ巨体の言葉が終わりきる前に彼の右回し蹴りが男の喉元を貫くように疾走する。
すいと男は上半身を微かに引き、大したことでもないようにその爪先に右手を添えると、ふわりと押し出した。
「うぉおおっ」
巨体が軽々と宙に飛び、背中から思いっきり落下した。
「申し訳ないね。受け身くらいしてくれると思ったんだけどね」
巨体は口を開けたまま、白目をむいていた。
男は八人の顔をゆっくり見渡すと、笑みを浮かべて言った。
「次は誰が遊んでくれるのかい。まだ、私は遊びありないんだけどね」

 

「みんな。頑張って練習してる」
白澤が気のよい老婦人姿でやって来た。
九人が見事に並んで、真面目に自在を振っていた。
「あら、びっくり。本当に練習しているわ」
男は白澤に気づくと、軽く会釈をした。
「皆さん。真面目な子達で楽をさせてもらっています」
ふっと白澤は歯を食いしばって真面目に自在を振る巨体を眺めた。
「刃向かうと思ったんだけどねぇ」
白澤がふと辺りを見渡した。離れたところで、かぬかが一人、自然体から幾分、腰を落とした姿勢で立ち続けていた。
白澤はかぬかに近づくと、かぬかの肩に手を乗せ、ぐっと下向きに力を込める。崩れないかぬかの姿勢に小さく頷いた。
「どうして、かぬかを一緒に練習させてくれないの」
「九人の中に入れば大怪我しますよ。大サービスでこの子には、この基本の後、一時間、補習してあげます」
男はあっさりと答えると、先程とは打って変わって熱心に練習をする精鋭達に近づいた。
一人が自在をすりあげ、相手の上段に構えた自在を打つ。それだけの単純な動きだ。九人が組になり、一人の構えた自在を、次々と八人が打ち下ろして行く。
小柄な女が、自在をすりあげた。男はすっと近づくと、打ち下ろすのに合わせて、女の肩を軽く押す。女の自在が目にもとまらない速さで走り、受け手が自在を 持ったまま押し潰され、ひっくり返ってしまった。ひっくりかえったまま、受け手をしていた二メートルはあろうか云う男は今の動きが信じられないかのように 呆然としていた。
「術というほどでもない。ちょっとしたこつでね、うまく体が連動すればこれくらいの芸当はできるのさ」
男が女に言う。
「今の感触をどうすれば再現できるか考えなさい。自分で、考えて見つければ、それは自分の動きになる。いいね」
「は、はいっ」
興奮覚めやらぬ思いで、女が叫ぶように返事をした。男は倒れた男を片手で引き上げてやると愉快に笑った。
「しっかり受け身の練習をしてくれ。でないと体がもたないよ」
「いまのは」
「私は彼女の肩を少し押して、力や方向のずれを直しただけだよ。それだけでも、随分変わるだろう。私は手取り足取りは教えない。ただ、手順と見本は見せてあげるよ。あとは自分の頭で考えなさい。自分で考えたことしか、身にはつかないんだからね」
巨漢はいきなり男に向かって土下座した。
「失礼の数々、申し訳ありません」
「顔をあげなさい」
恐る恐る上げた顔は涙に泣き濡れていた。
「どんなときでも、どんな相手にも自分の首の後ろを見せるな。これはこの世界の基本だ」
男はふっと笑うと、言葉を継いだ。
「面白い奴だなぁ、君は」
男はひとつ息を漏らすと、ぱんと手を叩いた。
「さて、九時だ。帰って飯食って風呂入って、しっかり寝なさい。寝ることで、今日練習したことが脳に刻み込まれる、徹夜で一人練習なんかするなよ。さぁ、解散、帰れ、帰れ」
男は九人を追い出すと、かぬかと白澤の前に立った。
「君。名前は」
「か・・・、かぬかです」
「かぬか。そうか、白澤さんの血で蘇ったというのは君か。道理で動きは素人なのに、才能が桁違いにあるというのは白澤さんの血の影響か」
白澤がにんまりと笑った。
「お前の娘がこの子を体二つに斬ったのよ。責任は取ってもらわなくちゃね」
「何、言ってんですか。白澤さんが幸の攻撃を素直に受けてその体、上下の二つになっていれば、この子は何事もなく助かっていたのですよ」
「まっ、なんてこというのでしょうね」

かぬかは冷や汗をかいていた。本家の実力者で当主に次ぐ立場にあり、様々な呪術を繰り出す白澤は畏敬の念と同時に恐怖の対象でもあったのだ。そんな白澤に悪態をつき、それを白澤が嬉しそうに受け止めている。

男はふぃっと少し短めの木の杖をかぬかに手渡した。
「君には丁寧に教えよう。それは枇杷の木で作った杖だ。元々は軽くて柔らかい木だけれど、術をかけて折れなくしてある。これが自由に扱えるようになれば、自在を教えよう」

「おおい、かぬかさん」
気づくと、あさぎが心配げにかぬかの顔をのぞき込んでいた。いつの間にか、かぬかは座り込み、ぼぉっと庭を眺めたまま、まろどんでいたのだ。
「え、どうして。私」
「敵意がないんですよ、この風景は。だから、厳しい修行をしてきた人は反動で最初はぼぉっとしてしまう、幸の受け売りですけど」
いきなり、ドタバタと足音が響いた、息せききって、三毛が学校から、全速力で走って帰ってきたのだ。
「お、お久しぶりです、かぬかさん」
息もたえだえに、しかし、顔を上げて嬉しそうに笑った。
「あ、白澤様の孫だった」
驚いて、かぬかが声を上げた。
「今はここの娘、三毛です」
三毛はかぬかに走り寄ると、ぎゅっとかぬかを抱き締めた。
「かぬかさん。毎晩、御飯を分けてくれたこと覚えています。なのに、急に姿を消してしまってごめんなさい」
「ううん、残り物をなんでも入れてさ、四人で鍋囲むの楽しかったよ」
小さな子供のように、声を上げて三毛が泣き出した。
「これからは一緒です、一緒ですよ」
三毛が嗚咽しながら、言うのを、あさぎは驚いて、見ていたが、やがて、笑みを浮かべた。
そして、ちょっと思う。鯖を焼くのは明日にして、今日はお鍋にしようと。

 


最終更新日 : 2014-04-30 23:04:30