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イワンの馬鹿


イワンの馬鹿


1993年10月、エリツィンが来日したので思い出した。

『私は戦争で潤ったことがある!』

非常に不謹慎な言葉だが、事実だ。

脳細胞がぐにゃぐにゃなので、新聞を細かく読み込んでいる人から怒鳴られそうだが、
私の中ではゴルバチョフがクリミヤの別荘に幽閉された旧ソのクーデターと、
湾岸戦争がなんとなくイコールで結ばれていて、エリツィンを見るとゴルバチョフを思い出し、
ゴルバチョフを思い出すと一気に湾岸戦争まで記憶の矢が飛ぶ。

ぐにゃぐにゃ状態をもう少しわかりやすく書いてみると、
エリツィン=ゴルバチョフ=政変(クーデター)=湾岸戦争となる。
(大ウソもいいところだが、とにかくぐにゃぐにゃなので、そのへんはカンベンしてください)。

ともあれ、正確に書くと
『政変と戦争で潤ったことがある!』
それはTV局でテロップやフリップの文字を打つアルバイトをしていたからだ。

その日は、たまたま正業(DTP)のほうが休みだったので、
他のアルバイトと交替で私が入ることになっていた。
これは1週間くらい前から決まっていたのだが、
旧ソのクーデターがどのくらい前から決まっていたのかは全然知らない。

通勤の途中も世間の空気は穏やかで、とても突発的に何事かが起ころうとは思わなかった。
が、そのとき既に海の向こうでは異変が起きており、
局の中では緊急テロップの原稿が起筆されていた。

お昼過ぎに出社すると、
「事件、知ってる?」
「はぁ? 何、言ってんですか。だめですよ。今日も日本は平和です」
「やだ、ほんとに知らないの?」
「やだ、まだ言ってる。やだなー。今日、ヒマなんでしょ。
平日の昼間は仕事、ほとんどないって○○さんが言ってましたよ。
だから猫の手の私でもなんとかなるって。
やだ、ヒマですよね、冗談やめてくださいよー。ちょっとコーヒー買ってきますね」
「ダメッ! コーヒーは後。これ打って、これ。ソ連でクーデターよ。
ゴルビーが監禁されたの。急ぎ! 平和なのは日本だけ」


イワンの馬鹿

これを聞いた瞬間、血の気が引いてボーッとした。
が、そのボーッとした頭の片隅で密かに(ラッキー!)と叫んでいた。
ちょっとタイムラグはあるけれど、大きな事件と同時進行で仕事ができる。
(うわっ、そのへんの本より面白いかもしれない)と思ったのは事実だ。不安だけど、ラッキー。

平日の昼間は実際あまり仕事がないので、最小限の人間しかいない。
だから、猫の手の私を入れて3人で『ソ連政変』という、
おどろおどろしい手書き文字の入った2メートルのパネルを作ることになった。

バサッと渡された封筒には関係者の写真がごちゃごちゃ入っていて、
写真の裏に若干のキャプションがついていた。関係者図解用だ。

それとは別に地図に貼る地名の原稿がワサワサと置いてあり、
指定の書体と級数を見て、悲鳴を上げてしまった。
書体の方はいい。でも級数は……。200Qって……。

そうなのだ。
いつも18Qとか20Q、大きくて40Q程度の文字しか扱っていなかったので、くらくらしてしまった。
枚葉と呼ぶ、葉書を半分にしたくらいの大きさの感材に『△△首相来日』とか、
『きょう、海開き』『札幌で雪まつり』程度のことを打っていたので、
タテヨコ5センチもある文字ということは、いつも傍で見ているだけの、
あの鬱陶しいロールを使わなければならないということだと判ってゾッとしたのだ。

テロメイヤー(写研の機械)を前にして、確かこのへんのキーをこう叩いて、
こっちとあっちを取り替えて、画面を切り換え……る?
いや、切り換える必要はない? いや、ある! えっ? 
あっ、やっぱり切り換える必要なんかないんだ。

で、文字は普通に打てばいいんだよね? 
あっ、それは後で考えるとして、取り敢えずこのロール画面で打っておいて、
えっ? なんで2文字しか入らないの?

違う違う、私が間違ってました。
縦長の画面を選んじゃったんだ。ゴメン、ゴメン。

こっちのほうでも頭と手のクーデターが起こりそうになって、ようやく作業終了。
打つだけ打ったら、出力の間にコーヒーを買ってこよう。
ああ、紙コップのコーヒー。


イワンの馬鹿

るーるーとロールが出るのを横目で見ながらコーヒーを飲んでいると、
「あーっ! 言うの忘れてた。あなたフリップ初めてよね? 違うのよー」
「えっ、違うんですか?」慌てて手が画面取消キーを押しそうになる。
「うわっダメッ消さないッ消さないでッ」
「ひっ?」
「焼かないから、ネガポジ反転しないで。文字は自分が読める状態でいいのよ」

なんだ。現像しなくていいのか。焦るんじゃなかった。
ロールの鬱陶しさは現像のややこしさだものね。早く言って。
遙か以前に一回習っただけだから、
実は今コーヒーを飲みながら必死で思い出そうとしていたところなんだ。

通常のテロップだと印画紙に焼き付けて、白抜きの文字が出れば○。
色付きにしたければ、文字をそのへんにあるサインペンで塗る。
それで結構きれいな色が出る。
某局のものは機械自体の性能が良いので、全て画面上で処理できる由。

ひとしきりパニックの後は、
いかにも悪そうなロシアの面々の写真を持ってカラーコピー屋へおつかい。
これがまた初めてのことで、再びぐわんぐわんと不安が渦巻く。
方向オンチなんだけど、この写真を持ったまま行方不明になったらどうしよう。
これは、ひょっとしたら、200Qのロール画面どころの騒ぎじゃないかもしれない。
この道はいつか来た道……じゃ、ないんだー、全部知らない道なんだー。

焦りと不安で、もらった地図が歪んで見える。
東京タワーが右手に見えるからこの道でいいはず。
はずなんだけど、ちょっと不安だから、誰かつかまえて聞いてみよう。聞くのが早い。
こんなときは自分で考えちゃだめだ。時間のないときは自分で考えちゃだめだ。

と、ここまで書いて思い出した。
湾岸でスカッドミサイルがどうかしたころ、突然タイトル室に見知らぬ人が入って来て、
「今すぐ、何か大きな文字でこれ!」
と言うので、一人で焦ったことがあった。
あの時は文字数が少なかったので枚葉ですんだのだ。

「あー、びっくりした。ロールだったらアウト。こんなこと、そうそうはないよね。
次のこんなことまでにロールを覚えればいいや」と思ったのだが、
そうそうはないはずの次のこんなことが意外に早く来たのだ。


イワンの馬鹿

湾岸戦争では局の非常態勢が長く続いたので、
本来は週に一度、日曜日だけの仕事が、土・日・平日の夜などになだれ込み、
DTP→テロップ→テロップ→DTP、一回休む。というスゴロク状態になった。
だから収入が増えたのだ。今回もそう。

事件の順序がわかったところでクーデターに戻るが、
小雨まで降ってきた空を見て、今度は「カラーコピー、転んで濡らしたらどうしよう。
迫り来るタイム・リミット。とほほ。もーやだ」と脅えつつも、
まだ(ラッキー!)の木精は消えることなく、
(事件の始まり、事件の始まり)というもう一つの木精とユニゾンで頭の中を跳ねまわっていた。

やっとタイトル室に戻ると、先般の巨大文字は、もうパネルに貼り込まれ、
後はカラーコピーを貼るだけになっていた。

デザインの女の子と二人で、
「うわー、悪そー」
「悪人の顔ー」
「こわいー」
などなどと騒ぎながら、ワルい奴らの顔が次々とスプレー糊で貼り付けられるのを見ていた。

パネルがエレベーターに積まれ、扉がゆっくりと閉まって、仕事は完了した。
「終わりましたねー」
「なんとかなったねー」
「冷汗、冷汗」
という開放感の中、ぐっと伸びをしたら、その腕を何者かに掴まれた。
(ルキャノフって、ルキヤノフの間違いだったんじゃない?)←何者かの正体

そう、間違いだったのだ。
写真の裏に付いていた名前は確かに『ルキャノフ』だった。
しかし他局では『ルキヤノフ』となっていた。これだ!

作業中、何かが引っかかったのだ。
ただ、何が引っかかっているのか自分でもわからなかったので、
誰にも聞けなかったのだ。(遅かったなー)
早い時期の放送だったので、問題にはならなかった。

普段、ロシア文学などをちゃんと読んでいれば、少しは違ったかもしれない。
と、思ってみても後の祭。
イワンの馬鹿は、ここにいた。

この本の内容は以上です。


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