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序論

 癒すことは、幸福にすることです。

 私は、あなたに自分自身を喜ばせる機会がいかに多くあったか、その内いかに多くの機会をあなたが拒絶してきたか考えてみるようにと告げたことがあります。

 これは、あなた自身を癒すことを拒んできたのはあなただと言っているのと同じことです。

 あなたに相応しい光は、喜びの光です。

 輝きが悲しみと結び付くことはありません。

 喜びは、それを進んで分かち合いたいという一体化した思いを呼び起こします。そして、喜びは、それに呼応して一つになろうとする心の自然な衝動を促進させます。

 自分自身が完全な喜びに満たされないままで癒そうと試みる者たちは、異なった種類の反応を同時に呼び起こしてしまい、そのために他の者たちから、全身全霊で反応する喜びを奪ってしまうことになります。

 全身全霊を傾けるには、あなたは幸福にならねばなりません。

 もし恐れと愛が共存できないとすれば、そして、もし完全に恐怖に慄きながら生き延びることが不可能だとすれば、唯一あり得る完全な状態とは、愛に満ちた状態だということになります。

 愛と喜びの間には、何の違いもありません。

 それゆえ、その唯一可能な完全な状態とは、完全に喜びに満ち溢れた状態ということになります。

 したがって、癒すことや喜ばせることは、統合して一つになることと同じことです。

 それゆえに、神の子たちの内の、誰に癒しが差し延べられるのか、誰が癒しを差し延べるのかということは何らの違いも生じさせはしません。

 各自がみな恩恵を被り、かつ平等に恩恵を被ることになるのです。

 あらゆるところにいる、あなたのあらゆる兄弟の慈愛に富む思い一つひとつによって、あなたは祝福されているのです。

 兄弟たちの思いに対して、あなたも感謝の念から、お返しに兄弟たちを祝福したいと思うはずです。

 あなたは、兄弟のことを個人的に知る必要はないし、彼らも、あなたのことを個人的に知る必要はありません。

 その光は非常に強いので、神の子全体の隅から隅まで輝きを降り注ぎ、喜びをみんなの上に振り注いでくれていることに対する神の子みんなからの感謝の念を父へと照らし返します。

 神の素晴らしい喜びを表現する使者となるに相応しいのは神の聖なる子供たちだけです。なぜなら、神の喜びを分かち合うことによって保持するに十分な素晴らしさを備えているのは神の子供たちだけだからです。

 神の子供には、隣人をただ自分自身として愛することしかできません。

 ゆえに、癒す者の祈りは次のようになります。

 

私が自分のことを知るように、私にこの兄弟のことも分からせてください。


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一 聖霊への招待

1. 癒しとは、二つの心が、その思いによって、自分たちが一つであると気付き、嬉しくなるような思いのことです。

 二つの心が自分たちは一つだと気付く喜びは、神の子全体を構成する一人ひとりに、自分たちと一緒に喜ぶようにと呼び掛けます。そうすることによって、神は、神の子たちの中へと入り込み、そして通り抜けて行けるようになります。

 ただ癒された心だけが、永続的な効果を伴う啓示を経験できます。なぜなら、啓示は、純粋な喜びを体験することだからです。

 もしあなたが完全な喜びに満たされることを選ばないとしたら、あなたの心は自らそうあることを選んでもいない姿しか持つことができません。

 霊は「何かを持つ」ことと「何かである」ことの間の違いを知らないということを思い出してください。

 高位の心は、霊の従う法則に従って考えます。したがって、霊は神の法則のみを尊びます。

 霊にとっては、何かを手に入れることには意味はなく、与えることこそが全てです。

 霊はあらゆるものを持っているので、霊はあらゆるものを与えることによって保持し、こうして、父が創造したように創造します。

 この種の考え方は、普通に物を持つことについての考え方とは全く異質なものですが、想念の所有と関連付けて考えてみれば、下位の心でも、すんなり理解できることです。

 もしあなたが物質的な所有物を分かち合うとすれば、あなたは確かにその所有権を分割して持ち合うことになります。

 しかしながら、もしあなたが分かち合うのが想念ならば、あなたはその想念を減少させることにはなりません。

 たとえあなたが想念を全部誰かに与えたとしても、その想念は依然として、全てあなたのもののままです。

 さらに、もし、あなたが想念を与えた相手が、その想念を自分のものとして受け入れてくれたなら、彼はあなたの心の中におけるその想念を補強し、増大させてくれることになります。

 もしあなたが、この世界は想念の一つであるという概念を受け入れることができれば、エゴが作り出した与えることと失うことの間の間違った関連付けを全て消し去ることができます。

 

2. いくらかのシンプルな概念を用いて、再び目覚めるためのプロセスを始めましょう。

思考は、それを誰かに与えることによって増大します。

その思考を信じる者が多くなれば多くなるほど、その思考もそれだけ強くなります。

あらゆるものは、ことごとく想念です。

そうだとすれば、どうして与えることを失うことに結び付けて考えることなどできるでしょうか。

 

3. これらのシンプルな概念は聖霊への招待です。

 既に述べたように、私はあなたのために高みに手を伸ばし、聖霊をあなたの許まで連れ降ろして来ることができます。しかし、私が聖霊をあなたの許に連れて来ることができるのは、ただ、あなた自身の招待がある場合だけです。

 聖霊は、私の正しい心の中にいたように、あなたの正しい心の中にいます。

 聖書は「イエス・キリストの心をあなたの心とせよ」と言っており、この言葉を祝福を与える祈りとしても用いています。

 この聖書の言葉は、奇跡を志向する心を祝福する祈りです。

 この聖書の言葉は、あなたも私が考えたように考え、私と一緒にキリストの考え方に加わるようにと頼んでいるのです。

 

4. 聖なる三位一体の中で象徴的な機能を持っているのは聖霊だけです。

 聖霊は、癒し主であり、慰安者であり、案内役であるとして言及されます。

 聖霊はまた、父からも子からも「分離した」何かであるようにも描写されています。

 「私が去っても、私はあなたに別の慰安者を送ろう。そうすれば、彼があなたと留まるだろう」と私自身言いました。

 聖霊の象徴としての機能は、聖霊のことを理解しにくくしています。というのも、象徴的な表現は、種々に解釈をされる余地を残すものだからです。

 一人の人間であり一つの神の創造物のとして、聖霊という普遍的霊感からやって来た私の正しい思考は、まず真っ先に、私に、この霊感が神の子全体のためのものであることを教えてくれました。

 この霊感が神の子みんなのためのものだということを知ることがなければ、私自身、その霊感を持つことなどできなかったでしょう。

 「知る」という言葉は、この文脈にこそ用いるのが相応しいといえます。なぜなら、聖霊は、極めて知識に密接しているので、知識を呼び覚ます、より的確に言えば、知識がやって来ることができるようにしてくれるからです。

 私は以前、高次の知覚つまり「真の」知覚について述べました。この真の知覚は、あまりに真理に近いものです。それゆえに、神自身が、その知覚との僅かな隔たりを越えて流れ渡ることも可能となります。

 知識は常に、どこへでも流れる用意ができています。しかし、知識は何かに抵抗するということができません。

 したがって、あなたには、その知識が流れるのを妨げることができます。とはいえ、あなたは、決して知識を失うことはできないのです。

 

5. 聖霊は、知覚を越えたところにある知識に気付いているキリストの心のことです。

 このキリストの心である聖霊は、分離が起こると同時に、分離に対する防衛手段として、贖罪の原理を発動させるために実在するようになりました。

 分離以前には、癒しの必要などありませんでした。なぜなら、侘しい思いをしている者など誰もいなかったからです。

 聖霊の声は、贖罪、すなわち個別の心に完全なる状態を回復させようとする呼び掛けです。

 贖罪が完了し、神の子全体が癒されたときには、神への帰還を求める呼び掛けは無くなることでしょう。

 しかし、神の創造するものは永遠なるものです。

 聖霊は、神の子たちの創造したものを祝福し、それらを喜びの光の中に保つために、神の子たちと共に留まってくれます。

 

6. 神は、自分の子供たちが間違って創造したものですら、尊重しました。なぜなら、それらは、神の子供たちが作ったものだったからです。

 しかし、神は同時に、自分の子供たちの知覚を、ほとんど神の許に届いて戻れるほどの高みにまで上昇させることのできる考え方をして、子供たちを祝福しました。

 聖霊は、贖罪のための大いなる心です。

 聖霊は、最終的には一なる心に移行することが可能なほど十分に一なる心に近い心の状態を象徴しています。

 知覚は、知識ではありません。それでも、知覚は、知識へと移され、または、知識の中へと渡っていくことができます。

 ここでは、移されるとか「渡る」という言葉の文字通りの意味を使えば、より分かり易いかもしれません。それは、最後の一歩は神が踏み出してくれるからです。

 

7. 神の子全員が分かち合う霊感である聖霊は、天の王国そのものが備えるものと多くの面で似ているある種の知覚を誘発します。

 

第一に、この知覚の普遍性は完全に明白です。だから、この知覚を得た者は誰一人として、この知覚を分かち合うことは自分にとって得にしかならないということを、ただの一瞬も疑うことがありません。

第二に、この知覚は攻撃することができません。だから、この知覚は真に開かれています。

このことは、この知覚が知識を生じさせるわけではありませんが、この知覚は、どのようにも知識の到来を邪魔立てすることがないことを意味します。

最後に、この知覚は、それがもたらす癒しを越える方法を指し示します。だから、この知覚は、心を、それ自体を統合させるだけに留まらず、創造の道へと導きます。

 

 この点において、真の質的なシフトを生み出すために十分な量的な変化が起こるのです。


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二 神に代わって語る声

1. 癒しは、創造することではありません。癒しとは修復することです。

 聖霊は、癒すことを通り越して、癒しが必要になる前の神の子供たちの姿、そして、神の子供たちが癒されたときになるであろう彼らの姿を見通すことによって癒しを捗らせます。

 このような時間の順序の変更には、すっかり馴染みがあるはずです。なぜなら、この時間の順序の変更は、時間を知覚することに関して奇跡が導入する変化と非常によく似ているからです。

 聖霊は、分離の信念を手放すことによって、分離を癒すことを決意して、奇跡を起こそうと心に志向させる動因です。

 あなたの意志は、神がそれをあなたの心の中に置いたのだから、依然としてあなたの心の中にあります。だから、あなたは、自分の意志を眠らせておくことはできても、消し去ることなどできないのです。

 時間が続く限りは、神自らあなたの意志を神の心からあなたの心へと送り伝えることによって生かしておいてくれます。

 奇跡それ自体は、父と子との間のこの意志の結び付きを反映するものなのです。

 

2. 聖霊は喜びの霊です。

 聖霊は、神が自らの分離した子たちの心に戻るようにと呼び掛ける声であり、神は、この呼び掛けによって分離した子供たちを祝福するのです。

 この聖霊という、戻るようにとの呼びかけこそ分離した心への神からの召命です。

 分離が起こるまで、心は召命を受けることなどありませんでした。なぜなら、それ以前は心はただ実在していただけだったので、正しい考え方をするようにと呼び掛けられても理解できなかったはずだからです。

 聖霊は、分離に対する神の答えです。この聖霊を拠りどころとして、贖罪は、心全体が創造することに戻るまで、癒すのです。

 

3. 贖罪の原理と分離は、同時に始まりました。

 エゴが作られたとき、神は、個々の心の中に、喜びへの呼び掛けを置きました。

 この呼び掛けは極めて強いので、エゴはこの呼び掛けの響きによって常に掻き消されます。

 だから、あなたは自分の中にある二つの声の内、どちらを聞くか選ばなければなりません。

 一つはあなたが自分で作ったものです。ゆえに、その声は神からのものではありません。

 しかし、もう一方は神から与えられたもので、神はあなたに、ただこの声にだけ耳を澄ますようにと求めています。

 極めて文字通りの意味で、聖霊はあなたの中にいます。

 聖霊は、あなたに、あなたが以前にいたところであり、再びあなたの居場所になるところへと戻るように呼び掛ける声です。

 たとえこの世界の中にあっても、聖霊の声だけを聴いて、それ以外の声には耳を貸さずにいることは可能です。

 聖霊の声だけを聴くためには、努力と学びたいという強い意欲を要します。

 聖霊の声だけを聴くことこそ、私の最後に学んだレッスンでした。そして、神の子たちは、子として対等であるのと同じように、学ぶ者としても平等なのです。

 

4. あなたは、まさに天の王国そのものです。しかし、あなたは、自分の心に闇への信仰が入り込むことを許してしまったので、あなたは新しい光を必要としています。

 聖霊は輝きです。あなたはこの聖霊の輝きに闇についての想念を追い払ってもらわなければなりません。

 聖霊の輝きは、栄光そのものです。聖霊の輝きを前にしては、意識の解離は崩れ去り、天の王国が、あなたの中へと姿を現します。

 分離が生じる前は、あなたには導きなど必要ありませんでした。

 あなたは、また再び知るようになることではあるものの、あなたが今は知らないことを、ちゃんと知っていたのです。

 

5. 神が導くということはありません。なぜなら、神はただ完全な知識だけを分かち合うことができるからです。

 導くことは、評価することです。なぜなら、導くことは、正しい道と間違った道があり、一方が選ばれるべきで、他方は避けられるべきということを意味するからです。

 一方の道を選ぶことによって、あなたは、もう一方の道を放棄することになります。

 聖霊を選択することは、神を選択することです。

 文字通りの意味では、神はあなたの内にはいません。あなたは神の一部分なのです。

 あなたが神から離れることを選んだとき、神は、神に代わって話す声をあなたに授けてくれました。なぜなら、神はもはや何の妨害もなく、自分の知識をあなたに分け与えることができなくなっていたからです。

 あなたがもう一つ別の声を作ったために、直接的にコミュニケーションを行うことは、断絶してしまったのです。

 

6. 聖霊はあなたに、思い出すようにと呼び掛け、また、忘れるようにとも呼び掛けます。

 あなたは、そこにおいては正反対の物事が存在し得る対立する状態に居ることを選択してきました。

 その結果として、そこでは、あなたは選択をしなければなりません。

 神聖な状態においては、意志は自由です。だから、意志の創造する力には限界がないので、選択には意味はありません。

 選択する自由は、創造する自由と同じ力です。もっとも、それらの使い方には違いがあります。

 選択することは、分裂した心に依拠します。

 聖霊は、選択するための一つの方法です。

 神は、自分の子供たちが神から離れることを選んだにもかかわらず、自らの子供たちを慰みのないままにはしませんでした。

 子供たちが自分の心に置いた声は神の意志を代弁する声ではありませんでしたが、聖霊は神の意志を代弁するものです。

 

7. 聖霊の声は、傲慢になることができないので、命令することはありません。

 聖霊の声は、支配しようとはしないので、要求することもありません。

 聖霊の声は、攻撃などしないので、圧倒して打ち負かすこともありません。

 聖霊の声は、ただ思い出させるだけです。

 聖霊の声に説得力があるのは、ただ、それがあなたに思い起こさせるものゆえのことです。

 聖霊の声は、あなたの心に別の道を思い出させてくれます。聖霊の声は、あなたが自分で起こした混乱のさなかにあっても、平静さを保っています。

 神に代わって話す声は、いつも穏やかです。なぜなら、その声は平安について語るからです。

 平安は、癒すので、戦いよりも強いのです。

 戦いは、分割することであって、増やすことにはなりません。

 争いから何かを得る者など誰一人としていません。

 たとえ全世界を手に入れたとしても、自分自身の魂を失うならば、争うことに何の益があるというのでしょうか。

 もしあなたが間違った声に耳を傾けるなら、あなたは自分の魂を見失っていることになります。

 あなたは自分の魂を失うことはできません。しかし、あなたには、自分の魂を知らないままでいることはできるのです。

 したがって、あなたが正しい選択をするまでは、あなたの魂は、あなたにとっては「失われている」のです。

 

8. 聖霊は、選択する場面における、あなたのガイドです。

 聖霊は、いつも正しい選択をさせようと語るあなたの心の一部分にいます。なぜなら、聖霊は神に代わって語るからです。

 聖霊は、あなたと神とのコミュニケーションの名残りです。あなたはこのコミュニケーションを遮ることはできても、破壊することはできません。

 聖霊は、それによって神の意志が天に行われるがごとく、地にも行われるための手段です。

 天と地とは両方とも、あなたの中にあります。なぜなら、あなたの心の中には、どちらへの呼び掛けもあるからです。

 神に代わって語る声は、あなた自身の神への祭壇から聞こえて来ます。

 これらの祭壇とは、形ある物のことではありません。それは、心を全面的に捧げることをいいます。

 しかし、あなたは今のところ、他のことにも心を捧げています。

 あなたが分割して心を捧げたことで、あなたには二つの声が与えられました。そのために、あなたは、どちらの祭壇に仕えたいのか、それを選ばなければなりません。

 今、あなたがその呼び掛けに答えることは評価することです。なぜなら、あなたが呼び掛けに答えることは決断することだからです。

 その決断は実に簡単です。

 その決断に際しては、聖霊とエゴ、どちらの呼び掛けがあなたにとって、より価値があるのか、との基準によって決めればいいからです。

 

9. 私の心は、いつまでも、あなたの心と同じものであるでしょう。なぜなら、私たちは等しいものとして創造されたからです。

 天と地における全ての力を私に与えたのは、ただ私自身の決心のみでした。

 私からあなたへの唯一の贈り物は、あなたが私と同じ決心ができるように手助けすることです。

 私と同じ決心をするということは、私の決心を分かち合うことを選択するということです。なぜなら、私の決心自体、まさに分かち合おうと決意することだからです。

 この決心は与えることによってなされます。したがって、この決心は真の創造に似た一つの選択であるといえます。

 私はあなたが決心するための、あなたにとっての模範です。

 神に与すると決めたことで、私はあなたに、この決心をすることは可能であり、あなたにもその決心ができるということを示しました。

 

10. 私が支持することに決めた大いなる心は、あなたの中にもあり、大いなる心が私を変えたように、あなたも大いなる心に自分を変えてもらうことができると、私はあなたに保証しました。

 この大いなる心は、誤解の余地のない確固たるものです。なぜなら、それは、ただ一つの声だけを聞き、ただ一つの方法でのみ答えるからです。

 あなたは私と共に、この世の光です。

 安息は、眠りによって得られるのではなくて、目覚めによって得られるのです。

 聖霊こそ、目覚めて喜ぶようにとの呼び掛けです。

 この世界は全く疲弊し切っています。なぜなら、移り行く世界は疲れさせる想念そのものだからです。

 私たちの任務は、神の呼び声に対して、疲れ切った世界を目覚めさせるという喜びに満ちた仕事です。

 誰もがみな、聖霊の呼び掛けに答えるようになります。そうでなければ、神の子全体は一つになることができません。

 王国のいかなる部分である誰にとってであれ、その国を修復して完全に統合し、完璧な姿へと戻す仕事以上に素晴らしい召命など他にあるでしょうか。

 あなたの内にいる聖霊を通して、ただこの召命だけに耳を傾けなさい。そして、私があなたに教えているように、あなたの兄弟たちにも、耳を傾けることを教えてください。

 

11. あなたが間違った声に誘惑されたときには、私の決心を共有し強めることによって、癒す方法を思い出させて欲しいと、私を呼んでください。

 私たちがこの目標を分かち合うとき、私たちは、神の子の全体を惹き付ける私の決心の力を増大していき、神の子が創造された一なる状態に全員を連れ戻すことになります。

 「くびき」は「一緒に結び付けること」を意味し、「荷」は「伝言」を意味することを思い出してください。

 そこで「私のくびきは負い易く、私の荷は軽い」と聖書にあるのを次のように言い換えることにしましょう。「一緒に結び付こう。私の伝言は光なのだから」と。

 

12. 私はあなたに、私が振る舞ったように、あなたも振る舞うようにと命じました。もっとも、あなたが私と同じように振る舞うためには、私たちは同一の大いなる心を反映するようにならなければなりません。

 この大いなる心こそ聖霊であり、聖霊の意志は、常に神を支持します。

 聖霊はあなたに、結果として、私と同じように振る舞うために、あなたの考え方の模範として、私のことをどのように心に銘記するとよいか教えてくれます。

 私たちが心を合わせてやる気になったときの力強さは全く信じ難いものです。しかし、達成し難いものではありません。

 私たちが一緒に達成できることには、何の限界もありません。なぜなら、その神への呼び掛けは、無限なるものへの呼び掛けだからです。

 神の子供よ、私のメッセージは、あなたのためのものです。あなたの内にいる聖霊に答えて、そのメッセージを聞き入れて、他の者にも、それを伝えてください。


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三 救いへのガイド

1. あなたの兄弟を識別する方法は、その兄弟の中にいる聖霊を認識することによってなされます。

 既に私が述べたように、聖霊は知覚から知識へと移行するための橋渡し役です。だから、私たちは、知覚と知識という言葉をまるで関連するものであるかのように用いることができます。なぜなら、聖霊の心の中では、知覚と知識は現に関連しているからです。

 この知覚と知識の繋がりは、聖霊の心の中にあるに違いありません。その理由は、もしこの二つが関連していないなら、二つの心の機能の間の分離は、解消する見込みのないのないものになってしまうからです。

 聖霊は、聖なる三位一体の一部でもあります。というのも、聖霊の心は、部分的にはあなたのものであり、また、部分的には神のものだからです。

 このことは、言葉ではなく、体験の中ではっきりさせる必要があります。

 

2. 聖霊は、癒しの想念です。

 思考であるがゆえに、聖霊は、癒しの想念が分かち合われるにつれて、増していきます。

 神の呼び声なので、癒しの想念たる聖霊は神の想念でもあります。

 あなたは神の一部なのだから、聖霊はまた、神の創造物全ての想念であるのと同様に、あなた自身の想念でもあります。

 聖霊の想念は、宇宙の一部分として、宇宙の法則に従うので、他の想念の特性をも分かち合っています。

 聖霊の想念は、それを他の者に与えることによって、その強さを増します。

 あなたが聖霊の想念を兄弟に与えるに従って、聖霊の想念は、あなたの中で増していきます。

 この奇跡が起きるためには、必ずしも兄弟が、自分自身やあなたの内にいる聖霊に、気付いている必要はありません。

 その兄弟は、ちょうど、あなたがそうしてきたように、神の呼び掛けなど自分と無関係なものとして意識から切り離しているかもしれません。

 この解離は、あなたがその兄弟の中にある神の呼び声に気付くようになり、神の声が実在すると承認するようになるにつれ、あなたたち二人の中で癒されていきます。

 

3. あなたの兄弟を見る方法としては、全く反対の二つの見方があります。

 その二つの見方は両方とも、あなたの心の中にあるに違いありません。なぜなら、あなたは知覚する者だからです。

 また、この二つの正反対の見方は、両方とも、その兄弟の心の中にもあるに違いありません。なぜなら、あなたは彼のことを知覚しているからです。

 兄弟の心の中にいる聖霊を通して、その兄弟を見るようにすれば、あなたは自分の心の中にいる聖霊に気付くようになります。

 あなたは、自分の兄弟の中にあると承認するものを、あなた自身の中にもあると承認することになるし、あなたの分かち合うものを、あなたは強めることになるのです。

 

4. 聖霊の声は、あなたの中では、弱々しく響いています。

 だから、あなたは聖霊の声を分かち合わなければなりません。

 あなたが聖霊の声を聴くことができるようになるには、まず聖霊の声の強さを増さなければなりません。

 あなたの心の中で聖霊の声がそんなにも弱々しく響いている間は、あなたには、聖霊の声を自分で聞き取ることは不可能です。

 声そのものが弱いわけではないのですが、それを聞きたくないという、あなたの思いによって、声が制限されてしまうのです。

 もしあなたが自分の中でだけ聖霊を捜し求める間違いを犯したら、あなたは自分の思考に脅かされることになります。なぜなら、あなたは、エゴの観点を採用し、エゴをガイドとして、エゴの不案内な国での旅を始めようとしているようなものだからです。

 こんなことをすれば恐れを生じざるを得ません。

 

5. 何かを先延ばしにするのは、エゴの仕業です。なぜなら、時間というのはエゴの抱く概念だからです。

 時間と遅れはいずれも、永遠においては無意味です。

 前に私が述べたように、聖霊はエゴに対する神からの答えです。

 聖霊があなたに思い出させてくれることは全て、丸っきりエゴの考えとは正反対です。なぜなら、真の知覚と間違った知覚は、それ自体が相反しているからです。

 聖霊に課せられた仕事は、エゴの作ったものを取り消すことです。

 聖霊は、エゴが働くその同じレベルにおいて、エゴが作ったものを取り消します。そうしなければ、心は変化を理解することができないでしょう。

 

6. 私は、心の中のあるレベルは、心の別のレベルのことを理解することができないことを繰り返して強調してきました。

 このことは、エゴと聖霊について、あてはまるし、時間と永遠についても、同じことがいえます。

 永遠とは神の想念です。したがって、聖霊は永遠性を完全に理解します。

 時間はエゴの信奉する概念です。したがって、エゴの領分である下位の心は、時間のことを全く疑うことなく受け入れてしまいます。

 永遠といえる時間のただ一つの側面は、今です。

 

7. 聖霊は、エゴの解釈と霊の知識の間を取りなす調停役を務めます。

 聖霊の持つ物事の象徴を取り扱う能力によって、聖霊は、エゴ自身の言葉を用いてエゴの信念を処置することができます。

 聖霊が持っている象徴を通り越して永遠を見通す能力によって、聖霊は、聖霊が代弁する神の法則を理解できます。

 それゆえに、聖霊はエゴが作るものを解釈し直す役割を果たすことができるのですが、それはエゴの作ったものを、破壊することによってではなくて、理解することによってなすのです。

 理解は光であり、光が知識へと導びきます。

 聖霊は光の内にあります。なぜなら、聖霊は光であるあなたの中にいるからです。しかし、あなた自身は、自分が光だとは知らずにいます。

 したがって、聖霊に課せられた仕事は、神に代わって、あなたを解釈し直すことなのです。

 

8. あなたは、あなた自身を単独で理解することはできません。

 この理由は、神の子全体の中における自らの正当な場所を離れては、あなたには何の意味もないからです。そして、神の子全体があるべき正当な居場所とは、神のことです。

 このように、神の子の正当な居場所が神であることこそ、あなたの生命であり、永遠なる姿であり、あなたの大いなる自己そのものです。

 神の子の正当な居場所が神であることこそ、聖霊があなたに思い出させようとすることです。

 神の子の正当な居場所が神であることこそ、聖霊が見ているものです。

 この神の子の正当な居場所が神であるとのヴィジョンはあまりにも平静なので、エゴを怯えさせます。

 平安は、エゴにとっては最大の敵なのです。なぜなら、エゴの現実についての解釈によれば、戦いこそがエゴの生き残りを保証するものだからです。

 エゴは闘争の中でこそ強くなりもします。

 もしあなたが、争いがあると信じたら、荒々しい反応をするでしょう。それは、危険に晒されたとの思いが、あなたの心に入り込んでしまったからです。

 危険という観念そのものが、エゴにとっては魅力的に訴えかけるものです。

 エゴが、危険の呼び掛けに油断なく気を配り、それを喜んで迎え入れるのと同様に、聖霊は、そうした呼び掛けに絶えず警戒を怠たらず、それに聖霊の力で強く対抗します。

 聖霊は、平安を喜んで迎えることによって、このエゴによる危険の歓迎を打ち消します。

 ちょうど時間と戦争がそうであるように、永遠と平安には密接な関連があるのです。

 

9. 知覚は色々な関係性から意味を引き出します。

 あなたが受け入れる意味が、あなたの信念の土台となります。

 分離とは、単に分裂した心を指す別の用語にすぎません。

 聖霊が平安の象徴であるように、エゴは分離の象徴です。

 あなたが他の者たちの中に知覚する何かを、あなたは自分自身の中で強めます。

 あなたは自分の心に間違って知覚させるかもしれません。しかし、聖霊があなたの心に、心が間違って知覚したことを解釈し直させてくれます。

 

10. 聖霊こそ完璧な教師です。

 聖霊は、あなたの心が既に理解していると考えていることだけを用いて、そのことをあなたは真に理解してわけではないと教えてくれます。

 聖霊は、学習意欲の乏しい生徒にも、その生徒の心に逆らうことなく対処することができます。なぜなら、そんな生徒にも、なおも神を求める心の部分があるからです。

 この部分を隠そうとするエゴの試みにもかかわらず、神を求める心の一部はなお、エゴよりずっと力強いのです。もっとも、このことにエゴは気付いていません。

 聖霊は、この神を求める心の部分を申し分なく認識しています。なぜなら、この部分こそが聖霊の住み処であり、個別の心の中で聖霊が寛げる所だからです。

 あなたもまた、心のこの部分でなら寛げます。なぜなら、そこは平安の場であり、平安は神に由来するものだからです。

 神にとって不可欠な部分であるあなたは、神の平安の裡でなければ、寛ぐことはできません。

 もし平安が永遠であるならば、あなたは永遠の中においてだけ寛げるということになります。

 

11. エゴは、自らが知覚するがままに、この世界を作り上げました。しかし、エゴの作り出したものを解釈し直す役割を担う聖霊は、この世界のことを、あなたを故郷へと連れ戻すための教えの道具として見ています。

 聖霊は、時間を知覚し、時間を永遠へと解釈し直さなければなりません。

 また、聖霊は相反する物事を通して働きかけなければなりません。なぜなら、聖霊は、対立の中にある心をと共に、また、その心のために、働かなければならないからです。

 誤りを正し、真理を学び、学んだことに対して心を開いてください。

 あなたが真理を作り出したのではありません。それでも、真理はなおも、あなたを自由にしてくれます。

 聖霊が見るように見てください。そして、聖霊が理解するように理解してください。

 聖霊の理解は、私の記憶を介して、神を振り返ります。

 聖霊は、常に神との霊的交わりの内にあり、あなたの不可欠な一部でもあります。

 聖霊は、救いへと導くあなたのガイドです。なぜなら、聖霊は過去や未来のことを記憶に留めており、過去や未来の記憶を現在へともたらしてくれるからです。

 聖霊はこの喜びをあなたの心の中にそっと留めています。そして、聖霊は、あなたの中における自分の喜びを増すために、聖霊の名においてその喜びを分かち合い、増大させることだけをあなたに求めているのです。


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