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2011年の締めくくりに

「北九州のポテンシャルは高いよ。ただ、もっと中央とパイプを持って、質の高い運営をしていかないと駄目だ」

これは、日本サッカー協会の関係者から聞いた言葉だ。確かに北九州のポテンシャルは高いと思う。100万人切ったとは言え政令指定都市だし、名の通った地元企業もある。それに何と言っても街の真中に球技専用スタジアムを造ろうとしている。これを考えるとポテンシャルは確かに高い。しかし、そのポテンシャルは大きいだけで錆付いている。北九州は鉄の街、重工業地帯として繁栄してきたが、鉄冷えの後、北九州はどっぷりと錆付いた街になってしまった。それは長く時を重ね、人々の心をも錆付かせている。それをもう一度、活気ある街にするには至難な業である。そう、眠れる獅子を起こすのは至難な業ということです。さて、スタジアムという箱物を造って、錆びた鉄に磨きを掛けられるだろうか? スタジアムだけでは珍しさだけで一時的な物になり、メディアドームの二の舞になってしまうであろう。やはりギラヴァンツ北九州というソフトが、人々の関心を持てる魅力を発信つづけないと、錆び付いた街は輝かないと思う。

スタジアムが出来るまで5年の歳月が掛かる予定です。その間に地域に愛される人気チームにしなくてはならない。本城は北九州では西の端にあり、アクセスの悪い場所。施設自体も陸上競技場でサッカーを観戦するにはお粗末な会場だ。しかし、それを理由に観客が集らないことを是としてはならない。たとえ注目を集めにくい場所だとしても、市民の関心を集められるような仕掛けをどんどん打って行くべきで、やはりプロモーションが大事。そしてチーム自体にも魅力を持たせなくてはならない。残念ながら今のギラヴァンツに話題を提供出来だけの魅力がありません。今年、北九州のサッカーを応援されてきたファンの方は昨年の成績から比べ良くやったと拍手を送っておられると思いますが、私には物足りないのです。今年から若い選手を起用して育てようとの考えのようでしたが、その若い選手に元気がない。チャレンジ精神があるのか、まったく怖さも何も感じさせない。どう動けば良いのか、どう頑張れば良いのか、考えて動くことを教えなければ、成長はない。技術が急に伸びるわけではない。個の成長は個の努力、チームの成長は監督力です。クラブの成長はフロント力です。各々は各々に能力のある人材を引き入れてクラブ全体として成長して行かねばなりません。北九州にはサッカーファンが多い方です。とくに少年サッカーのジュニア世代は活気があって多くのチームが存在します。また、多くの有名選手をそのジュニアチームから排出しています。ところが、そのサッカーに関心ある子供たちは非常に目が肥えていて、あこがれの選手はバルセロナのメッシとかレアルマドリードのロナウドという名を上げます。BS・CS放送でヨーロッパのサッカーを目の当たりにしているのでしょう。なかなか、地元のJ2チームに関心を持たないようです。元々サッカー好きのおじさんや地元チームやからと応援してくれていたファンから、Jリーグに昇格して、関心を持ち出してくれた若い層のファンが増え始めました。一挙にではありませんが、ちらほらと増え始めました。特に新スタジアムを建てるという話題があり、市民には知られています。しかし、本来のJリーグの魅力、ギラヴァンツの魅力を伝えきれてないのです。どうすれば伝えられるのか、それがプロモーションであり仕掛けなのです。メディアの協力が得られにくい北九州という地域柄をどう乗り越えていくか、努力しなくてはなりません。フロント力です。

しかし、今年は一ファンである私を楽しませてくれました。16勝もしたのだから。来年は、もっと期待したいので、まだまだ物足りないと言っておきます。


Kyu・リーグ観戦をとおして地域スポーツ文化を考える(その2)

私がこのコラムの最初に引用した業界機関紙(測量と文化)のタイトル。このタイトルのコラムを寄稿させていただいたのは1995年の秋季号でした。その16年前の「測量と文化」を取り出して眺めてみました。すると、その号のトップ稿に小倉駅のモノレール乗り入れ計画とイメージ図が載っており、16年の歳月の流れに懐かしさを感じました。当時、小倉駅ビル建設とモノレール建設は別事業で行われ、それぞれの工事位置に差違がないか、発注機関より検測を頼まれ、2.5cmほど長いという結果が出て、モノレールの長さの調整をして貰ったことがありました。

さて、本題の北九州の地域スポーツですが、こちらも16年で様変わりしました。この不況で企業はスポーツによる福利厚生費を削減し、北九州の企業スポーツは悲惨なことになりました。1998年に小倉の住友金属ギラソールバレーボールはVリーグから退会、休部。都市対抗に37度出場を誇る新日本製鉄八幡野球部は、2003年に長い歴史を閉じ廃部。このように北九州のスポーツ文化は衰退して行きました。

前寄稿で、新日鉄のクラブチームを市のサッカー協会が中心になってJリーグチームに育てようと計画していることを記してましたが、その新日鉄サッカークラブも廃部になりました。サッカー界にはもう一つ悲しいことがありました。宮本輝紀氏が亡くなられたのです。日本リーグでは新日鉄で活躍され、メキシコオリンピック銅メダルの快挙を成し遂げた日本代表の攻撃的中盤、今で言えば遠藤・長谷部的存在の方でした。宮本氏は長く北九州のサッカーを支えて来られていました。私のような素人サッカーマニアにもやさしく真剣に接していただきました。大変残念に思います。

しかし、北九州の有志は「全国の政令指定都市でプロスポーツがないのは北九州だけだ!」 を合言葉に夢を諦めていませんでした。九州リーグに在籍するもう一つの北九州のチーム・三菱化学黒崎。この黒崎のチームも会社が企業チームとして持ちこたえられなくなり、チーム存続の相談が北九州のサッカー協会に持ち込まれた訳です。2002年にこのチームを貰い受け、市民チームとして北九州の誰もが応援できるクラブとして誕生させました。そう東田で北九州博覧祭が開かれていた時分です。それがギヴァンツの前身・ニューウェーブ北九州です。そして当時の末吉市長にもバックアップのお墨付きを頂き、Jリーグを目指すと宣言したのです。企業にたよらず、市民一人一人の支援費だけでクラブを賄い、選手は昼間は仕事、夜は市営桃園競技場か三菱化学黒崎グランドで練習。

そして無償でサポートしていただくスタッフやサポーターにより運営されました。衰退した100万都市に新しい活性化の波を起こそうというネーミングでしょう。この名称はJFLに昇格した時に正式名を付けるまでの仮称の予定でしたが、実際はJリーグ昇格時にギラヴァンツと変更するまで、九州リーグからJFL時代の9年間に渡り使われました。

まず、九州リーグについて説明します。日本のトップリーグがJ1、その下がJ2、その下がアマチュアですがJFL。これらは全て全国を範囲にしてリーグ戦で戦っています。その下に全国を9つの地区に分けて地域リーグがあります。その中の一つが九州リーグです。NW北九州はそこからスタートしました。

初年度は旧新日鉄と旧三菱化学黒崎の選手スタッフを中心に構成して戦われ初代監督は新日鉄チーム出身の折出さんでした。実はこのニューウェーブというチーム名で九州リーグに参入する前、末吉市長のプロスポーツ育成というルネッサンス構想のスローガンのもと、北九州を代表するチームとして、新日鉄と三菱化学の選手、及び大学生から選抜した北九州選抜チームを作っていました。そのチームもニューウェーブ北九州というチーム名を使っていました。市長杯でアビスパ福岡を招いて試合を行っていましたが、その対戦相手が北九州選抜のニューウェーブ北九州でした。その時の北九州の監督が前記しました故宮本輝紀さんがされていました。

九州リーグ初年度、折出監督の一年目は10チーム中7位に終わりました。それも最終戦前4試合まで最下位でした。それを緊急補強して4連勝して県リーグへの降格を免れるという散々の結果でした。形だけ整っても現実は甘くなかったのです。

2年目、新入団選手のセレクションを行ったところ、大学卒の有望選手が応募してきて良い選手が加入することになりました。プロ選手にはなれないがサッカーを続けたいという選手がNW北九州を選んでくれたのです。それはやはりJリーグを目指すとはっきりと宣言しているチームであり、彼らの希望にマッチしたチームだったからでしょう。

2年目はセレクションで選ばれた新加入選手が、6~7人がレギュラーに名を連らねるというメンバーで戦うことになりました。新加入選手は攻撃的選手が多く、多彩な攻撃で得点力をあげました。しかしディフェンスが弱く、失点を防げず勝ち切れない試合が続きました。それでも攻撃力のアップで2年目は12チーム中4位と大躍進しました。

九州リーグは運営費節約のため土日を使って全チームが一箇所に集まって集中開催されます。開催地は持ち回りで、北九州は年に2回の開催地になり計4試合をNW北九州の試合を地元で観戦することが出来ました。地元開催は、サポーターが街頭でチラシを配って宣伝を行った甲斐もあり、たくさんの市民が応援に駆け付けてくれました。と言っても500人程度でしたが、でも当時としては多いと感じていました。しかし、戦績は振るいませんでした。やはりアマチュアの選手・監督では上位に行けませんでした。当時も九州リーグで2位以内になればJFLに昇格できる地域リーグ決勝大会に進めるのですが、当時、プロ化を進めていたロアッソ熊本や大分トリニータの前身チームに上位を占められ、先を越されて行きました。北九州も2代目監督に黒崎化学出身の小野さん、そしてやっぱりプロの監督じゃないダメだと読売ヴェルディで活躍した地元出身の千疋さんを3代目に迎えましたが、最高位3位止まりでした。

小野監督時代だと思います。NPO北九州フットボールクラブというのを設立してボランティアでクラブを支援始めたのは、当初はゼンリンと井筒屋だけが支援企業でしたが、駅前のチラシ配りや、当時、門司競輪場跡地にサッカー場をという署名活動もボランティアでやっていて、それがテレビで報道されだして、それを見た商工会議所が、このような市民運動があるのであれば、商工会議所も協力しよう。地元企業に支援の輪を広げようじゃないかとなったのです。それから段々に支援企業が現れだして、少し資金的に余裕が出始めて、千疋監督の2年目に、Jリーグで活躍していたプロの選手をチームに引き入れたのです。それが6年前、桑原・小野・水越・宮川選手たちです。4万人入るようなスタジアムでやってきたこのプロの選手たちは、観客席のない平場のグランドで、それも芝が剥げ剥げの土のグランドのような会場でプレーをしてくれました。小野信義が何かのインタビューで言っていた言葉が、「思ったよりレベルが高いのでビックリしている」という言葉が印象にあります。彼らは全力で必死で戦っていました。それを見てアマチュア選手たちもプロ意識を会得していったのだと思います。それでもプロ選手加入一年目も九州リーグを抜け出すことは出来ませんでした。そして、実力のあるプロの監督を招聘したのです。与那城ジョージ。その後のことは皆さんもよくご存じだと思いますが、1年で九州リーグを卒業し、2年でJFLを卒業、J2を1シーズンだけジョージさんが指揮を取り、三浦泰年監督で1シーズン。現在に至る訳です。クラブとしてはプロを目指すといって長い年月が経ちました。しかし、Jリーグのプロとなってからはまだまだ船出したばかりなのです。まだまだ足りないものがいっぱいある。逆に言えば伸び白がいっぱいあると言いましょう。

記録を確認して書いたわけではありません。記憶間違いがあるかもしれません。悪しからず。

 

By アタル


この本の内容は以上です。


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