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第一週 オリジナルブレンド

今時珍しい、カウベルの音を鳴らしてドアを開けた客は、疲れた顔をした男だった。


「いらっしゃいませ」

男は、生気のない目で店内をチラリと見回した。

落ち着いた内装。控えめな間接照明。
昔ながらの喫茶店、という感じ



「お好きな席へどうぞ」

カウンターの向こうから現れた女性店員が、グラスに水を注ぎながら微笑む。


男は黙っカウンター席へ進み、一番奥の席に鞄を置隣の席へ座った。


水を置きメニューを差し出そうとする店員を遮り、目も合わさずに「コーヒー」と呟くと、浅い背もたれに背を預け ため息をつく。


「・・・かしこまりました。少々お待ち下さい」

女性店員はメニューを棚に戻し、カウンターの中へ戻った。

慣れた手つきでフラスコの底を拭うと湯を沸かし、漏斗に豆をセットする。




喫茶 リリーベル。

午後4時の店内には他に客の姿は無く、斜めに差し込むはちみつ色の西日で満たされていた。

2人掛けのテーブル席には、窓に嵌め込まれたスズラン模様のステンドグラスが 美しくを落としている。

だが、カウンター席の奥半分は薄暗く陰になっており、間接照明の灯りがぼんやりと届くだけだった。



カウンター席の男はグラスを手に取り、ゆっくりと一口だけ、水を飲んだ。

グラスをテーブルへ戻すと、そのまま両肘をついて目を覆い、再び深いため息をついた。



カウンターの向こうでは、沸騰したフラスコを火から外し、漏斗をセットしている。

フラスコを火に戻すと、程なくして湯が吸い上げられ、漏斗の中で粉と混じり合った。



「ずいぶんお疲れのようですね」

店員は静かに声をかけながら、竹べらでコーヒーをそっとかき混ぜ、漏斗の上に渡すようにそのへらを置いた。

まるで、なにかの儀式の様に。



「よかったら、これ・・・どうぞ」

カウンター越しに、男に熱いおしぼりを差し出した。


男はそこで、初めて店員の顔を見上げた。

色白で清楚な顔立ちの女性が、優しい目でこちらを見下ろしている。
薄暗いカウンターの中、年齢はわからなかったが、おそらく20代後半から30歳ぐらいだろうか。

艶やかな黒髪を斜めに分け 後ろでギュッと1つに結わえたその姿には、凛とした趣があったが、差し出された細い腕は、手首の血管が青く浮き出るほど白く華奢だった。



「ああ・・・・ありがとう」

男はおしぼりを受け取ると、薄いビニールの袋を破いた。


「熱いうちに目元に当てて、ギューッて押し付けるようにすると、疲れが取れますよ」


…無意識のうちにおしぼりを広げて顔を拭こうとしていた。

男は間一髪、丸まったままの熱いおしぼりで、教わったとおりに試すことが出来た。


「ああ・・・・本当だ。これは気持ちいいね」

先ほどと同じ姿勢を取りながら、男はまたため息をついた。
だが今度のため息は、疲れを吐き出したかのような、リラックスしたものだった。


カウンターに両肘をついて、目元の熱いおしぼりに頭の重みを預けるように、ぐっと指を押し込む。

そうすると、目の奥がじんわりしてくる。

数回繰り返すうちに、頭の奥のしびれが消えた。

しびれが消えたと感じた時に、初めて自分の頭の中が痺れていたことに気づいた。



「まぶただけじゃなく、目の下も押してみるといいですよ」

店員は再び竹べらで漏斗の中を混ぜると、漏斗の淵を軽くコンコンと叩き、へらのしずくを切った。
左手でガスを消し、同時に右手に持った竹べらを、脇にある水を張ったグラスに差し入れる。

くるりと後ろを向いてソーサーを取り、湯を張ったバットから温まったコーヒーカップを取り出す。
布巾でカップの外側の水気を軽く拭き取り、ソーサーの上にカップを乗せた瞬間、漏斗の中のコーヒーが、フラスコに落ちてきた。


流れるような無駄の無い動きとコーヒーの落ちる見事なタイミングは、日舞かなにかを見ている様だった。

男は、おしぼりを折り返し中心の温かいところを探して露出させ、目の下を温めながらそれを眺めていた。



カウンターに置かれた空のカップに、静かにコーヒーが満たされる。

スプーンとちいさなミルクピッチャー、そして2粒のクッキーを添えて、差し出された。

「お待たせ致しました。リリーベル、オリジナルブレンドです」



第一週 予言

男はソーサーを引き寄せ、コーヒーの香りを大きく吸い込んだ。

「ああ、良い香りだ」

大きく息をつくと、ネクタイを少し緩めた。


店に入って、ものの数分。
いつの間にか、頭の中のしびれや首から肩にかけてのこわばりが軽くなっていた。

まだ、肝心のコーヒーを飲んでもいないのに。


もう一度香りを楽しんでから、熱いコーヒーを一口啜った。

「…うん。旨い」


「ありがとうございます。マスターのこだわりのブレンドなんですって」

店員は嬉しそうに微笑むと、器具の片付けを始めた。


なるべく音をたてない様に、そっと取り扱っているのがわかる。


神経が疲れている時、瀬戸物やガラスの触れ合う音が耐え難く耳につくことがある。
いかにも疲れきった客の様子、細やかな心遣いをしてくれているのだろう。


(この女性は、きっといい奥さんになるだろうな……)

思わず、男の視線は店員の左手薬指を探った。
そこには案の定、結婚指輪が嵌まっていた。



「マスターは別の人なんだ」

「ええ。私はランチタイムとマスターの休憩の間だけ、お手伝いしてるんです」

会話の間も、片付けの手は止まらない。
とても静かに。そっと器具を洗い、そっと水を流す。



「お客様は、お仕事、どんなことをされてるんですか?」

男は自嘲気味にフッと笑うと、カップをソーサーに戻した。

「くだらない仕事だよ。誰がやっても同じ。何の面白みも無い」


店員は、「あら…」と言って、小さく笑った。

「ふふ。なんだか、やさぐれてるんですね」


そう言われて、男はちょっぴり恥ずかしくなった。

(いい歳したオッサンが、何をガキっぽい愚痴たれてんだよ)


だが、言葉が勝手に口をついて出てしまう。

「そりゃ、やさぐれもするさ。くだらない仕事、単調な毎日、つまらない人生」

ハハ、と嗤って また一口、コーヒーを飲む。


「じゃあ、私がお祈りしておきます。来週までに、何か楽しい出来事が、あなたに起きるように」

店員は得意気な微笑みを浮かべ、片方の眉をヒョイと吊り上げた。

「私のお祈りは、効くんですよ~」


心持ち身を乗り出すように秘密めかして言うのが可笑しくて、男はつい、笑ってしまった。

疲れきったように下がっていた口角がキュッと上がり、白い歯がこぼれる。
笑顔になると、男の印象はそれまでとは全く変わって見えた。


「あ、信じてませんね?ホントに効くのになあ」
店員はそう言って、口を尖らせる。


「ゴメンゴメン、だって・・・あんまりにも”ドヤ顔”だったから」
男は、急いで水を飲んで、口元に残った笑いの痕跡を誤摩化した。


「で、楽しい出来事って、例えばどんな?」

「う~ん……そうですねえ……」

店員は軽く握った右手を口元に持ってゆき、その肘を左手で抱え込んだ。
その姿勢のまま、視線をさまよわせる。
考え事をするときの癖なのだろうか。

やがて、男の目を真っすぐに見据えた。
切れ長の二重。心の裏側まで見通されそうな、理知的な瞳だ。

男は思わずギクリとして、カップに伸ばしかけた手が止まった。


店員は、ひたと男の目を見据えたまま小首を傾げた。

「お客様、普段のお昼ご飯って、どんなところで召し上がります?」


視線の勢いと質問内容のギャップに少したじろぎながらも、男はなんとか有名な牛丼屋チェーン店の名前を挙げた。

「え、お昼?え…っと……***とか。かな?」


「……ふむ。なるほど」

店員はフムフムと頷きながら視線を落とし、数秒後、ニッと笑って口元の人差し指を立てた。

「では。あなたは近いうちに、向上心に満ちた深窓のご令嬢と、運命の出会いを果たします」




このあと彼女の口から紡ぎだされたストーリーは、途方も無く現実離れした展開ながらも、奇妙に生き生きとしたリアリティを持って語られた。


全ての予言を聞き終えた時、男はそれを信じたわけではなかったが、それでも「明日の昼食は、***に行ってみようかな」という気分になっていた。


イヤ、それは予言ですらなかった。
ただの、「何か楽しいこと」の、例え話だった筈だ。

だが男は、久々に心が浮き立つのを感じたのだ。


本当に、何年振りだろうか。
明日が来るのが、楽しみに思えたのは。


第一週 物語

ランチタイムを少し過ぎた、午後2時。

男は***の自動ドアをくぐり、いつも通り店に入った。


「いらっしゃいませー!」


混雑のピークを過ぎ 空いた店内に、店員の威勢の良い声が響く。


内ポケットから財布を取り出しながら、勝手知ったる様子で食券の自販機に向かう。


と。

目線の先に、細いハイヒールが映った。

視線を上げると、女性がひとり、自販機をじっと見つめている。


「あの・・・」
男が声を掛けると、女は驚いて振り向き、2・3歩後ずさりした。

「あ。ご、ごめんなさい。どうぞ、お先に」


「あ、いや・・・すいません。じゃあ」

男は軽く会釈して、目当ての食券を買った。


横目でチラリと女を見やると、唇を噛み締め固唾をのむ勢いで、こちらの行動を凝視している。

(何も、食券ひとつ買うのにそこまで必死にならなくても・・・)

吹き出しそうになるのを堪え、平静を装いながら食券と釣りを取ると、場所を譲った。


「もしかして、買い方わかりませんか?」

そう声を掛けると、女は慌てふためいた

「あ、ええ。いえ、大丈夫です。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」



あたふたとコインを投入する女に構わず、店員に聞こえないぐらいに声を落として話し掛ける。

「この店、メニュー名しか書いてないから、初めてだと分りづらいんですよね」


自販機を指差しながら、メニューの説明やトッピングの追加の仕方などをざっと教え、女が食券を買うのを手伝った。


無事に食券を買い終えた女は、深々と頭を下げて礼を言うと、まるでひと仕事終えたような満足げな表情で男を見上げた。


(まるで、初めてのお遣いみたいだな・・・)

「いえいえ。どういたしまして」などと会釈しながらそこを離れ、苦笑いを隠しながら適当な席に座ると、食券をテーブルに置いた。



「あの・・・すみません。お隣、よろしいでしょうか」

先ほどの女が、おずおずと腰をかがめてこちらを窺っている。


「ああ、どうぞどうぞ」

「すみません。初めてなもので、勝手が分からなくて。・・・本当に、ご迷惑ではありませんか?」

「いえ、とんでもない。構いませんよ」


やって来た店員に食券を渡すと、女が物珍しげにキョロキョロと店内を見回すうちに、あっという間に牛丼を運んできた。

「わぁ、もう出て来た・・・本当に、早いんですねえ」


テーブルに設置してある調味料や紅ショウガの使い方を教えると、いちいち感動している様子だ。

興奮気味に目を輝かせ、男の真似をして色々やってみる。



全てが整うと、手を合わせ「いただきます」と食べ始めた。


「あ、美味しい」

一口食べて飲み下すと、嬉しそうに笑う。



「お。お嬢様のお口にも、合いますか」


冗談で言ったのだが、女は赤くなって否定した。


「別に私、お嬢様なんかじゃありません。ただ・・・長く留学していて、最近帰国したばかりなので・・・・色々わからなくって」


・・・本物の、お嬢様だった。



突然、お嬢様はハッと息をのみ、急いで食べ始めた。

ほとんど噛まずに、丸飲みする勢いだ。


「ど、どうしました、急に?そんなに急いでるんですか?」


お嬢様は、「え?」と言わんばかりに男を見つめると、口の中のものを急いで嚥下した。

「こういうお店って、サッと食べてサッと出て行かないと、怒られて叩き出されるんでしょう?」



男は、今度こそ堪えきれずに吹き出した。

「あっはっはっはっは!!!何ですか、それ」


お嬢様は、しばらくキョトンとしていたが、みるみる赤くなった。

「だ、だって・・・友人がそう言って・・・」

「完全に、騙されてますね。それ」


両手で顔を隠してしまったお嬢様は、消え入りそうな声で呟いた。
「私、他にお店が無かったから、ものすごく勇気を出して入ったのに・・・」


まだクックッと笑っている男を、お嬢様は指の隙間から恨めしそうに見上げた。

「そんなに笑わなくたって、いいじゃないですか・・・・」





「…あははは。随分、浮世離れしたお嬢様ですね」
男は思わず笑って、話を中断してしまった。

「そう。高校から海外留学していたから、日本のことを知らないんです。
えーっと……美術の勉強で、イタリアとスイスにね、7年ぐらい…かな」

「ほう」

「嘘を吹き込まれたのは、中学の時。好奇心で牛丼屋に入ってみたいって言ったら、一緒にいた友人に言われたんです。あ、でも。お嬢様学校だったから、その友人も本当だと思い込んでたのかも」


「…かも?……って、これ、空想の話だよね?」

「そう。お祈りのコツはね、願う事を、出来るだけ具体的に、詳細に思い描くことなんです」


お祈りにコツがあったとは・・・男は、感心したように頷いた。

「なるほど。…それにしても、よく次々と思いつきますね」


店員は、ふふ…と笑った。

「話の大筋が決まると、枝葉もほぼ同時に浮かぶんです。DVDをポンッと渡されたみたいに。あとは、頭の中で映像が勝手に進んでいくんで、それを言葉にしてるだけ」


「…それは凄いな」

「長年の訓練の賜物です」

店員は重々しくそう言ったが、その目には悪戯っぽい光が覗いている。

目の力はとても強いのにキツく見えないのは、その光のせいだろうか。
それとも、くるくる変わる表情のせいか?


「でね、この後、2人は数日後に***で再会して、その後もよく会うようになって、彼女のおばあさんに気に入られたりとか色々あって、彼女が起ち上げようとしてる事業を手伝うことになって、事業は成功して、めでたしめでたし」

店員は指を振って頭の中をなぞるようにしながら、一気に言いきった。


男は、店員がDVDを早送りしている姿を思い浮かべた。

「・・・・ずいぶん端折りましたね?」

「すみません。そろそろ仕事の終わる時間なんです。マスターが戻ったら、あがります」


時計を見ると、もうすぐ5時になろうとしていた。
いつの間にか、1時間近くも寛いでいたのだ。

「じゃあ、コーヒーも飲んだことだし、俺もそろそろ帰ろうかな……」

カウンターの中は、全て片付いていた。
あとは自分のカップを洗ってしまえば、彼女もすぐに帰れるだろう。


「あ、ちょっと待って下さい。彼女…お嬢様は、インテリアとか美術工芸品を扱う仕事を始めようとしてる人。それから…」

店員は、少し不思議そうに付け加えた。

「あなたは…毎晩、腹筋と腕立てを50回ずつやるのが日課になってるみたいです」


男は、立ち上がりかけた姿勢のまま、動きを止めた。


「腹筋、腕立て?50回?」

「はい」

「…毎晩?」

「毎晩です」

店員は、真顔で頷く。


「・・・なんで、また?」


「さあ・・・私にも、わかりません。でも、そうなってました」


第二週 カフェ・オ・レ

ドアに取り付けられた 素朴なカウベルの音を鳴らし、客が入ってきた。


「いらっしゃいませ」

カウンターの向こうから、あの女性店員が現れた。


「あら・・・お待ちしておりました」

ニッコリ微笑むと、グラスに水を注ぐ。



「また来ちゃいました」

男は若干はにかんだような笑顔を見せると、先週と同じ席に座った。

カウンターの奥から2番目。西日の射さない薄陰の中。


「運命の出会いは、ありました?」

テーブルに水とメニューを置きながら、店員はまるで内緒話でもするかのように いたずらっぽく笑いかける。


「いや、残念ながら」

男は苦笑いを浮かべ、答えた。

「あれー?おかしいなぁ。本気でお祈りしたんだけどな。・・・ま、でも。まだまだこれから、ってことで」

店員は肩をすくめ、笑ってみせる。


「ああ、でも・・・なんだか、楽しい1週間だったよ。***にも何度か行ったんだけどね、ちょっと期待しながら」

「あはは。期待したんだ」

「そりゃ、まあ。ちょっとだけね」
男はニヤッと歯を見せ、親指で眉の辺りを掻きながら、メニューに目を落とした。


様々な種類、産地のコーヒーを取り扱っているようだが、数カ所に線が引かれメニューが消してあった。


「この間のブレンドも美味しかったけど、何かオススメとかって、ありますか?」

男がメニューを辿りながらそう訊ねた。

「んー、ありますけど・・・お客様、今日はホットミルクとかカフェ・オ・レなんかの方がいいんじゃありません?」

「え・・・」
男は顔を上げた。


「ここ。荒れてます。ちょっと、胃が弱ってませんか?」

店員が、自分の口の端を人差し指でチョンチョンと突つく。

つられて男は口元に手をやり、親指と人差し指で自分の口の両端を触ってみた。
たしかに、片方の口の端が腫れて炎症を起こしかけている。

「ほんとだ。気づかなかったな」


男はメニューを閉じると、店員に渡した。

「じゃあ、カフェ・オ・レで」

「かしこまりました」
店員はニッコリ微笑むと、カウンターの向こうへ回った。



午後4時過ぎの店内。

今日も他の客の姿は無い。

先週来た時には気づかなかったが、店内には聞こえるか聞こえないかといった低いボリュームで、クラシック音楽が流れていた。


静かな店内で、店員はほとんど物音を立てずに小鍋を取り出し、ミルクを温めはじめた。

そして前回と同様、慣れた手つきでコーヒーを淹れる。


(なんだかここは、やけに落ち着くんだよなぁ・・・)

ぼんやりとそんなことを思っていたら、自然に話し始めていた。


「先週さぁ・・・楽しいことが起きる、って言われたじゃない?」


「え?ああ、ええ」

「でさ、何ていうか・・・ちょっと、ウキウキ?じゃないけど・・・」
男は照れたように、フッと笑った。

「うふふ」

「なんかさ、今まで全く興味無かったのに、インテリアの店とか覗いてみちゃったり」

「あら、ステキ♪」

「たまたま美術館の割引券なんか貰っちゃって、柄にも無く観に行ってみたりさ・・・」

鼻の下を人差し指で擦りながら、男はまた笑った。

「芸術なんて、何にもわかんないくせにさ」


漏斗の中のコーヒーをそっとかき混ぜながら、店員が微笑む。

「でも、わからなくても、綺麗だなとか、すごいな、って思いませんでした?」

「ああ、うん。そうだな。思ったかもしれない」

「じゃあ、それで充分じゃありません?美しいものって、ただ見るだけで心の栄養になりますもの」

「ほう。・・・そういうもんですかねぇ」



温めてあったカフェ・オ・レ用のカップを取り出し、ソーサーに置く。
フラスコの下の火を止めると、温めたミルクをカップに注ぐうちに、濃いめに抽出されたコーヒーが落ちてくる。
そっと漏斗を外すと、フラスコの中のコーヒーを静かにカップへと注ぎ入れる。

カップの中で、ミルクとコーヒーがマーブル模様を描き出す。


(確かに・・・美しいものを見ていると、心が安らぐな・・・)

店員の全く無駄のない優雅な所作に見とれながら,男はそう思った。


スプーンと2粒のクッキーが添えられる。今日のクッキーはココア味のようだ。

普通のコーヒーよりひとまわり大きいカップが、音も無く差し出された。

「お待たせ致しました。カフェ・オ・レです」



第二週 予言

「そういえば、カフェ・オ・レって、初めて飲んだかも」

「あら。そうなんですか?」

「うん。今まではコーヒーばっかり飲んでたから。・・・なかなか、悪くないね」

本当は、『優しい味がする』と言いかけたのだが、男は気恥ずかしくなって咄嗟に言い換えた。


「じゃあ、この1週間は初めてづくしでしたね」

店員は、ふふ…と笑った。


「ああ・・・そうだね。本当に」

男はカップをソーサーに戻し、頬杖をついた。

「この店から始まって、インテリアショップに、美術館。で、カフェ・オ・レかあ。・・・この歳になると、新しいこととか新しい場所に行くとか、無くなってくるからなあ」

「あはは。まだ、『この歳』なんていうお歳じゃないでしょう?」

鈴を転がすような声で、店員が笑う。


「いやいや。もう充分、オッサンですよ」

「ふふ。男の人が本当に魅力を発揮するのは、35歳を過ぎてからですよ」

男は照れ隠しのように、頬杖をついた手でもみあげ辺りの髪をクシャクシャと乱す。
「ハハ。それが本当なら、嬉しいな」


「まあ、胃は荒れてるけど」
店員は、ニッと笑って肩をすくめた。

男もつられて笑った。
「うん。胃は荒れてるけど」

おどけてガックリと項垂れるふりをするのを見て、店員はクスクスと笑う


「うふふ。で、どうでした?初体験は」

「うん・・・」
男はそう唸って、ソーサーの上のスプーンを弄び始めた。

「なんかさ、新鮮だったよ。なんてことない事ばかりなのにね。・・・そう言えばここ何年も、会社と家の往復ばかりだったなぁ、って」

「あら。急に、内省的?」

ミルクを温めた鍋を洗いながら、店員が目を上げる。
それに気づかず、男はなおもスプーンを弄んでいる。

「あの話・・・端折られたとこね。あれが妙に気になっちゃってさあ」


「あら。すみません」

店員が謝ると、男は言い訳するように顔を上げた。

「いや、いいんだけど。その・・・自分で続き考えちゃったりして、さ」

照れたように「へへ」と笑い、カップを口に運んだ。

「あはは!ステキ。どんなお話になりました?めくるめくラブストーリー?」


カップを持っていない方の手を曖昧に上げ、男は笑顔のまま緩く頭を振った。

「いや・・・おねえさんみたいに上手く想像出来なかったけど。・・・それでもなんだか、楽しかったよ。何か起きるかもしれない、とか思って」


「ああ、そっかぁ。そのせいですね」

店員の得心したような声を不思議に思い、男が聞き返す。


「いえ、この辺りがね」
店員は自分の眉間の辺りを人差し指で擦った。

「先週いらした時より、縦ジワが薄くなって、表情も柔らかくなったような気がしてたんです」

「え、そうかな」
男もつられて、自分の額を擦った。


「ええ。心の中を楽しいことでいっぱいにしておくと、表情も明るくなるんです。それに、ほんの小さなことでも、楽しいことに気づきやすくなるでしょう?」


自分の額に手を当てたまま、男は少し黙った。
この1週間を思い返しているのだろう。

「・・・そんなもんかな」

「そんなもんです」
店員はキッパリと言いきると、男の方へ少し身を乗り出した。


「で・・・」

秘密めかした微笑みを浮かべ、自分の顳あたりを人差し指でチョンチョンと突つく。

「次のお祈りネタ、仕込んであるんですけど。お聞きになります?」


(お祈りネタ、って)
男は思わず吹き出したが、すぐにとびきりニヒルな表情を作った。

「それは是非、聞きたいねえ」

店員も吹き出しかけたが、なんとか真顔に戻ると厳かに言った。


「では。近いうちにあなたは、天狗の一味となり世界に救いをもたらす者となります」


「天狗ぅ?!天狗って・・・あの、天狗?」

思いもよらぬ単語が飛び出し、せっかく作ったニヒルな表情は消し飛んだ。
渋く抑えた低い声も、台無しだ。


店員は、男の反応にシメシメとほくそ笑む。
「そう。あの、天狗」


「で、救世主?」

「そう。救世主、救世主」



半ば呆然としながら 予想もつかない展開のストーリーを聞くうちに、男は魅了され始めていた。

彼女の語る、自分の 突拍子も無いもうひとつの人生に。




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