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車内化粧

 

 電車の座席に腰掛けて、リズミカルな振動に身を任せていると、どうしてもこっくりこっくりしてくる。

 だが、今日の運転士は未熟なのか、やたらにブレーキの掛け方がきつく、居眠りをさせてくれない。傍らに置いた、ばかでかい旅行バッグも、手で押さえておく必要がある。倒れでもしたらタイヘンだ。

「痛っ!」

 ほうら言わんこっちゃない。

 向かいの席に座っていた、若鮎のようにピチピチッと跳ねそうな、若いねえちゃんの叫び声だった。

 座るやいなや、例によって例のごとく化粧を始めたのだが、この電車じゃ危ないからやめとけ、と言ってやろうかな、でもヘタなこと言うと、天敵を食い殺すような目で睨まれるからよそうか、とずいぶん迷っていたのだが、とうとうやったか。

 さっきからビューラーで睫をしきりにいじくっていたから、今のブレーキで睫の5、6本は抜けたかもしれない。

 おそるおそるねえちゃんのほうに視線を向けた。

 ねえちゃんの顔が視界に入った瞬間に、私は座席から飛び上がりそうになった。

 痛っ、と声を上げたときのまんま半開きの口、形のいい鼻、つぶらな瞳の右目……、だが、その顔には左目がなかった。

 ブレーキでグラッと揺れたとき、左目を引っこ抜いてしまったのか。

 まさか、まさかと唖然として眺めているうちに、ねえちゃん少しも慌てず、化粧ポーチからペンシルを取り出して、手鏡を覗き込み、左目のあったあたりになにやら描きだした。

 なんとも手慣れた手つきで、そこは瞬く間に、元の目よりさらに魅力的な目に仕上がっていった。

 ねえちゃん満足そうに頷くと、今度は右目のほうを、消しゴムのようなものでゴシゴシとこすった。

 なにもなくなったところに、また新しい右目を書いてゆく。くらくらっと、危うく引きずりこまれてしまいそうになりそうな、ほぼ完璧な目だ。

 それなのに、できあがりのどこが気に入らないのか、ねえちゃん不服そうに首をひねり、いきなり鼻をもぎ取った。

 その鼻を両指で粘土細工のように、コネコネこねくりまわしていたかと思うと、また元の場所にペタッと張り付けた。前のものより、いくらか細く高くなっている。その間もう私の口は開いたままだ。

  ねえちゃんさらに、口をーもちろん私のバカになってしまった口ではなくー自分の口を引っぺがし、ルージュで新しいものを描き出した。

 すっかりできあがると、手鏡でじっくり自分の新しい顔を検証する。

 私に言わせれば、ふるいつきたいような頗るつきの美人だ。

 だが、ねえちゃん、いやだわこんなのとばかりに、両頬を膨らませるや、その頬に両手を添え、電球をソケットからはずすときのように、首をくるくるっと回し始めた。

 首から上がはずれると、膝に置かれたブランド物のバッグから、新しい首から上を取り出し、空洞になった首の穴に差し込んで、今度は逆方向にまわした。

 取り付け終わると、再び手鏡を覗き込み、まあこれでしょうがないかという笑みを浮かべて、立ちあがった。ちょうど駅に着いたところだった。

 座席に座ったまま、呆然と見上げている私を、悪戯っぽい目で睨み、小脇に抱えていた、さっき取り外した「前首」を私に差し出し、

「わたし、もうこれいらないから、オジサンにあげる」

 私の膝の上に「前首」を押しこむように載せると、じゃあねえ、と手を振ってねえちゃんは軽やかにホームへと降りていった。

 

 電車が発車するのを待って、私は旅行バッグを開けた。

 バッグの中には、首から上のない肉体が入っている。妻の体だ。

「お待たせ」

 と言いながら、ねえちゃんからもらった首を、妻の胴体にキュキュッと回してはめ込んだ。少しサイズが大きいようだ。

 しばらく手鏡を睨みつけていた妻は、やがて渋面をつくった。予想通りの反応だ。

「美人だけど、ありふれてるわ」

「そうか、やっぱり気に入らないか」

「お下がりだもの……」

 私は首から上をはずし、床にそっとおいた。下手くそ運転士のブレーキがかかり、首から上は前方にコロンと転がり、悔しそうにアカンベーをした。

 私は再び、首のない妻を旅行バッグに押し込み、車内化粧をしている別の若い女を物色しに、次の車両に移動していった。


ソウショク系オヤジ

「ソウショクケイじゃなくて、ソウショクケイだわねえ」

 気持ちよく飯を食っていると、突然カミサンが、感に堪えないように、私の顔をしげしげと見た。

「なにわけのわからないことを言ってるんだ」

 私は居候ではなく、れっきとした亭主だから、三杯目を堂々と出した。

「草食系の若い男の子が増えてるって言うじゃない」

「ああ、肉食草食の、草食ね。頼りないったらないねえ、ああいうの」

 それにしても、この豚肉の生姜焼きは固い。焼き過ぎだ。カミサンは妬きモチ焼きだから、なんでも焼きすぎてしまうのだ。

「でも、やさしいから、女の子にもてるらしいわよ」

「情けないねえ」

 私はフンと鼻で笑って、三杯目を平らげる。食った食った、大満足。

「やっぱりソウショクケイだわ」

 「誰が」

 「あんた」

 「俺が草食系なわけないだろう」

 「その草食じゃなくて。早食。早食いのほうの早食」

 うまいこと言うなあ。たしかにその通りだ。今の食事時間も5分とかかっていない。ご飯茶わん一杯の米の飯が2分弱。立派なもんだ。早飯早糞芸のうち、と言うではないか。

 それがどうした文句があるか、だ。

「おまけに小食じゃなくて大食。これじゃ女の子にはもてないわねえ」

 ん?話が妙な所にいきそうだぞ。

 新手の誘導尋問かもしれない。うっかり、もてないわけないじゃないか、なんて言おうもんなら、追及してくること必至だ。

「もてない、もてない。こういうオッサンは力はあるけど、もてない」

「ムキになって言うところが怪しい」

 ひょっとして、この間入社3年目のY子に手を出したのに気づいたか。まさかまさか。

「こんなソウショク系、草のほうじゃなくて、早いほうのソウショク系オヤジで、加齢臭に脂ギトギト、いちばん若い女の子に嫌われるのだ」

  嫌われたって手は出せる。体力、気力、迫力、金力、どれをとっても若いやつらに負けない。

「若い女の子ねえ~」

 カミサン、ギロッっと睨んだ。  しまった。若いだけよけいだ。

 「オバサンも避けて通るぞ」

 「そうねえ、それだけ早食だと、いかにも飢えてるみたいで、敬遠されるわね」

「そうそう。犬でも猫でも、メスは近寄ってこないぞ」

 再びカミサン、ギロギロッと睨んだ。言いすぎたか。

「まあいいわ。じゃ、片付けて洗いものしますから」

 ホッ。どうやらやり過ごせたらしい。

「それにしても」

 カミサン、立ちあがりかけて言う。

 まだ終わってないのか。

 「あんまり早食すぎて、味のほうもわかんないでしょうねえ」

 なんだ、そっちのほうか。

 「そんなことはないさ」

 「生姜焼き、ちょっと苦くなかった?」

 「いや、いつもと同じだよ。最近歯が弱くなってきているのか、少々固く感じたけどね」

 うーん、なんとも気を使うなあ。

 「そう、それならいいけど」

 「なにかあったのか」

 「ちょっと新しい化学調味料使いすぎちゃったのよ」

 そう言って、カミサン、謎のような微笑を浮かべた。

 

 

 その日以降、私の前にぶらさがるものは、小便をするためだけにしか用を為さなくなった。

 私の大事なものは、草食系でも早食系でもなく、単なる装飾系になってしまったのだ。


ポチに願いを

 部屋の片隅にポチがいる。

 可哀想に、夫に何度も何度も蹴飛ばされたものだから、もうずいぶん前から動けなくなっている。

 夫は、こんなもの早く捨ててしまえと、折に触れ怒鳴り散らすが、私にはそんなこと到底できない。

 仕事中毒だかなんだか、毎日帰りの遅い夫を待って、ポチと一緒に過ごした時間は、私にとって宝石のように大切な時間だったのだ。中身は無機そのものの機械に過ぎないのだが、どんな生き物より、私には愛しい存在だった。

 ねえ、ポチ。

 同意を求めても、ワンとも言わない。以前なら、頭を撫でられに、トコトコすり寄ってきたのに、ピクリともしない。

 「あんな人、消えてしまえばいいのにね」

 思っていることが、つい声に出てしまう。

 神様にお願いしてみようかな。それとも、星のほうがいいか。

 そういえば「星に願いを」なんて歌があったっけ。星に願いをかけたら、なんでも叶うという、オメデタイ歌。

 願うだけでなんでも叶うなら、誰れ~も苦労しないわよね、ねえポチ。

 それともポチにお願いしたら叶うかしらね。星にじゃなくて、ポチに願いを、だわ。しょうもないオヤジギャグそのものね~。

 でも、試しにやってみる。

 「ポチお願い。目障りなあの人、夫を消してしまって!」

 ん、なんかポチの目が光って、頷いたみたい。願いをきいてくれたのかしら。

 でも気のせいだわ。

 玄関のドアがギコギコ開く音がするもの。夫と同じように、この家のドアは老朽化して錆ついている。おまけに夫の頭と同じように、塗装もハゲちょろけだ。

 あのドアの閉め方は夫のもの。ドアに恨みでもあるような、バシンとひっぱたくような閉め方。 「ただいま」とも言わず、脱いだ上着を私に投げつける。機嫌が悪いという空気が、上着のまわりにまとわりついている。いつもいつも不機嫌なのだ。

 私は、夫の顔を見るのもいやだから、というだけじゃなく、そうしなければならないから、下を向いたまま、上着を抱え、夫の後ろをついていく。

 夫が歩きながら脱いでゆくズボン、ネクタイ、ワイシャツ、シャツ、パンツを順々に拾い上げる。

 

 そう夫は、帰宅すると廊下でパンツまで脱いでしまうのだ。夫の”あんなもの”なんて見るのもおぞましいから、着替えが終わるまで、ずっと私は下を向いているというわけ。

 だが、ついふっと夫のいるほうを見てしまった。なにかいつもと違う雰囲気を感じたのだ。

 そこに夫の姿はなかった。

「なに変な顔してるんだ、風呂入るぞ」

 私は口をポカンと開けたまま、声のしたほうを見つめる。

「おかしなやつだな。沸いてるんだろ」

 私は慌てて虚空に向かって何度も頷いた。万が一お風呂ができてなかったら、それこそ大暴れされるに決まっているのだ。なにもないところから、いきなりパンチがとんできたら、避けられっこない。

 風呂場のドアを開く音がし、しまる音がし、浴槽からお湯をかける音がし、浴槽に入る音がし、ザバザバとお湯があふれる音がし、満足そうな意味不明の喜悦の叫び声があがり、調子はずれの鼻唄まできこえてきた。

 その間、夫の姿はチラッとも見えない。私の目がどうかしてしまったのかしら。

 まさかポチが……。

 腰が抜けてしまったみたいになった私は、這いつくばってポチのそばまで戻った。

「ポチ!ポチ!たいへんよ、あの人が消えてしまったわ」

 ポチが笑ったみたい。

「ホントに、ポチ、私のお願いをきいてくれたの?」

 ポチがまた頷いたみたい。

「でもねポチ。あの人を消してしまってというのは、こんなふうに見えなくしてしまってということじゃないの。これじゃ不気味なだけだわ」

 ポチが首を傾げたような気がする。

 「消してしまって、というのはこの世から消してしまって、ってことなの」

 ここまで口に出してしまってから、慌てて口を押さえた。

 私ってなんてことを!

 ポチがなんだそういうことだったのかという顔をして、もう一度私に微笑みかけた。

 夫の鼻唄が、突然途絶えた。 


逆順

 息子が、

 「父の日のプレゼントはなにがいい?」

  ときくから、

 「そりゃ大きくて、丸くて、張りのあるのがいい」

 と答えてやった。

 息子は目を丸くして、マジマジと私を見つめた。

 「ママ、なに言ってんの!父の日だよ」

 「だからチチの日」

 私は自分の薄い胸を指差す。

 しばらく怪訝そうに、目をキョトンとしていた息子は、やがて、

 「ヒョウキンだなあ、ママは」

 と口をイッパイに開けて、無邪気に笑った。そんな笑顔に接すると、ほんとうにこの子の母親で良かったなあと思う。

 「チチはチチでも乳じゃなくて、お父さんの父だよ」

 そんなことわかってるわよ、と私も笑顔を返す。

 「お父さんと言っても、ママはシングルママだから、あなたにお父さんはいないのよ」

 息子は寂しそうに俯く。

 長い睫の影が、私の母性愛をくすぐる。この子のためならなんでもしてあげたい、と鼻の奥がツンとしてくる。

 「そうだ!」

 と両手を打ち鳴らした息子の顔が、パッと明るくなった。

 「父の日にはママに、お父さんをプレゼントしてあげよう~」

 やだこの子はなに言ってるのよう。思わず頬が熱くなる。

 「ママ、どんなお父さんがいい?」

 そりゃ、頭が良くて、ハンサムで、優しくて、背が高くて、お金があって、と言いかけて、慌てて首をふり、

 「あなたがいいと思うお父さんでいいわよ。あなたが大好きになりそうなお父さん」

 「ほんとにそれでいいの?」

 「いいのよ、それで。そしたら3人で仲良く暮らしましょうね」

 「うん、わかった。じゃ、ぼく探してくるね。ママが喜ぶような素敵なお父さんを探してくるね」

 息子は元気よく家を飛び出していった。

 気をつけて行くのよう、とその弾みに弾んでいる後姿を見送りながら、私は思う。

 5月5日の子供の日に、息子はこの家に現れた。

 それから1週間ほどあとの母の日に、息子へのプレゼントとして私は贈られてきた。

 今度は父の日の番だ。

 きっと、親子3人の、つつましいけど暖かい家庭ができるだろう。

 だが、とそこで私の微笑みは凍りつく。

 9月が来るのが怖い。

 9月の敬老の日に、意地の悪い姑が、ポンと贈りつけられてくるかもしれないのだ。

 了


息を止めて

 夫の息が止まった。といって、死んだわけではない。いわゆる睡眠時無呼吸と称するものだ。

 窓のカーテンをビリビリ震わすほどの、喉奥の蓋だか膜だかの激しい振動がピタリとやみ、そら怖ろしいほどの静寂が寝室を支配する。

 私は、1、2、3……と密かに胸の中で数え始める。このまま止まったままだったらどうしようという不安と、ままならままでいいという期待がちょっぴりで、胸がドキドキしてくる。

 でも、40ほど数えると、喉がひっくり返るような、鼻の粘膜が引き剥がされるような、クシャミを巻き戻したらこんな音かというような音があがり、静寂は破られる。

 苦しそうに顔を歪め、首を激しくふる姿に、よく首から上がもげないものだと思う。

 そして再び荒い寝息から、盛大な鼾の洪水。

 私は目を瞑り、ひたすら眠ることに努める。以前だったら眠れなくて苛々していたものだが、この頃はそんなこともなくなった。

 「あなた、寝てるとき時々、息が止まることがあるわよ。一度病院に行ったら」

 と、忠告してやったことがあるが、返ってきたのは、うるさそうなフンという笑い鼻と、ギョロッとした怖い目だけだった。

 それ以来私はもうそのことに触れないことにした。いつも不機嫌なのは熟睡できないせい、とわかっていても、そのとばっちりを受けるのはもうたくさんだった。

 それで夫の寿命が縮まっても、私の知ったことじゃない。

 また夫の息が止まった。

 私はもう一度数を数え始める。1、2、3……。胸を押さえ、息を詰めて念じる。そのまま、そのまま。11、12、13……。夫の息が止まっている間に私は眠ってしまうのだ。

 そのまま、そのまま。静寂のまま。私は更に息を詰めて念じる。そのままずっと静かに大人しくしていてね。21、22、23……。そう、そう、その調子。

 そうすると、甘美な睡魔が私を包み込み、喪服姿の、私ではないような美しい私が目に浮かび、夫の若い部下たちの熱い視線を感じ、やがて私は至福の眠りの底に落ちて行く。

 翌朝、夫は歯ブラシを口に突っ込んだまま、モゴモゴとまだ半分眠っているようなのんびりした声で言った。

 「お前も、寝てるとき、呼吸が止まるなあ」



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