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      《鰯の独白》

 

 

 

 大海を泳ぎながら、燃え盛る心臓の鼓動に疲れ、ふと想う。

 

 何を求めていたのか、時々自分でもよく分からなくなる。

 

 ただ最近、春を目前に控え、ひどく愛されたいと思ったり、誰かを愛したいと思ったりしてしまうことは、こうして言葉でつぶやく以前にはどういうふうに表していいのかさえ分からなかった。

 分かっていたのかも知れないけれど、それを言葉にしてしまうと壊れてしまうような気がして、ただ素直に胸の内側に閉まっておいた。

 それで寂しさや自分の愛情と隣り合った欲望を封じて淡々と生きているつもりだった。

 僕はひどく暗い海の中を泳いでいる。

 

 望むものがそのままの形で手に入ることなど、ほとんどなかった。

 とりわけそこに誰かが介在するとき僕の希望はほとんど絶望に似ていて、僕の心はその希望や欲望をどう打ち消すかばかりを考えていた。何かを望んでいると悟られるのが嫌だったし、それが手にはいらないものだと知られてしまうのも怖かった。

 群れないでいる瞬間、隣り合った誰かを排した瞬間など僕の人生には一秒たりともなかった。海を泳ぎながら最も非情な隣人と一緒に僕はお互いを守りあって生きていくしかなかった。

 

 だから今は、誰かを愛したいとか、誰かを好きだとか、そういうことを言葉にしたくなくなってしまった。自分は独りだと。自分は誰かに愛される資格などない、と言い張って、自分の周囲から目を背けて生きることが僕自身を平生に保っておく唯一の手段であるように思われた。

 少年時代に感じていた欲望。青年時代の前半に抱いていた夢。青年時代の後半に持っていた希望。そのどれも僕は通り過ぎ、叶えられることはなかった。

 恋愛において、愛において、破綻して、ひどく疲れきってほとんどの希望をなくしてしまったことを心の静けさと一緒にいつも感じていた。

 孤独であればあるほど、世界は澄んでいって、生きやすくなった。

 海はただ寂しいほどに静かになる。

 海は孤独の本質なのだ。また孤独は海の本質でもあるのだ。

 

 誰かに関わることの怖さ、煩わしさ、疲れ、そのすべてを忌避した。

 大らかな哀しい夢のなかに生きていた過去の自分をいまはもう見たくない。

 過去を語りたくはないし、語るほどの過去も持ち合わせていない。

 愛する人など現れず、孤独に浸りきって、自分だけの時間を過ごす。それだけが、僕の運命だったのだと今ならよく分かる。

 非情な隣人の群れとただ泳ぎ続けるだけの人生。

 隣り合った仲間も同じように考え、同じ非情と退屈をきっと僕にも感じているのだ。

 

 もし神様というのがいるとするなら、そういう運命を神様は僕に与えたようだ。

 独りぼっちでいなさい。

 愛を知ることやめなさい。

 それから望むこともやめなさい。

 喜びは捨てなさい。

 希望を持つこともやめなさい。

 愛を信じることも、恋を夢見ることも、温もりの中に自分の存在を探すこともやめなさい。

 少なくとも、そういうものを貴方の運命で与える気はありません。

 独りぼっちでいることが貴方の役目です。

 

 何のためにどういう意図で僕に泳ぎ続ける運命を与えたのかは僕にはまるで分からない。僕には誰かを割り当てる余裕はなく、そうした種類の幸福を割り振る気はなかったということだ。ただそれだけのことだ。

 青春時代を振り返って、どの瞬間も大きな胸の痛みを抱えて過ごしていたことが思い出される。苦しみと疲労を通してしかいろんな物事に触れられなかった自分をひどく惜しいと思ってしまう。

 本当に誰とも愛しあう事ができないことをもし知っていたら、僕はもっと違う生き方が出来たのではないか、と思ってしまう。

 もっと多くの仲間に優しくなれたし、もっとより良く自分のことを認められた気がする。

 心の傷をほんのわずかで食い止めることが出来たのではないかと思ってしまう。

 あるがままの世界についてもうちょっとだけ素直に語ることが出来たのでは、と思ってしまう。

 僕は、恵まれて生きてきた仲間の気持ちは分からない。美しい尾びれや力強い背骨を持つ誰かの気持ちなど分かりようがない。

 いろいろなものを与えられて、いろいろなものを手に入れてきた魚の気持ちなど僕には知りようがないのだ。

 僕の人生はまるでその反対で、いまある状態からどれだけ自分を損なわないでいられるのか、ただそれだけだったような気さえする。

 剥がれ落ちていく鱗をどれだけ食い止められるか、それだけが僕の成すべきことだったのだ。

 身を守るものを失ってはならない。失ったものを追いかけてはならない。剥がれ落ちていく光る鱗がどれほどかけがえの無いものであったとしても、僕らはじっと堪えて進んでいくしかなかった。

 

 もっと別の見方をすれば、こうした回想や内省すら僕の人生にはまるで必要がない。

 問題は常に次から次へと押し寄せ、連鎖する波のように僕を飲み込んできた。僕はそうした大海を泳ぐ小魚に過ぎず、その波の行方に自分自身を従わせていくしかない。僕は鮫でもなく、鯨でもない。僕はただの鰯なのだ。

ただ群れる、弱り果てた一匹の小魚に過ぎない。鰯の人生に望むべくものなど何もない。愚痴を言うことも、何かを想うことも許されない。ただ淡々と生き、泳ぐだけ。死に向かって、ただこの苦痛な海流を蹴り続けるだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この本の内容は以上です。


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