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七割未満

   七割未満
清水らくは

 ラムレーズン支部の指導を終え外に出ると、雨が降り始めていた。
 この不思議な名前の支部は、その名の通りラムレーズンを愛する人たちが集まって作った支部である。俺の師匠が師範となっているものの、実際には弟子たちが交代で指導に行っている。今日は、ラムレーズンのクッキーを大量に食べた。
「はあ」
 思わずため息が漏れた。ここ数日ずっとこうだ。情けない。
 バトル・サンクチュアリ二回戦。俺たちはベテランチームとの対戦だった。川崎さんは赤松九段に惜敗。そして俺は古溝八段に、皆川さんは峰塚さんに惨敗した。
 準備はしていたのだ。ゲストを一人呼んで、三回研究会を行った。それぞれ対戦相手の棋譜を何度も並べた。
 しかし、付け焼刃というのは、あれは本当である。ベテラン先生たちの本気は、こちらの準備など一蹴してしまった。特に峰塚さんの将棋は圧巻だった。皆川さんに何もさせなかった。
 ちなみに、関西若手チームは奨励会チームに二勝一敗。上園さんがつっこちゃんに負け、残り二つは順当勝ちした。
 優勝はベテランチームでほぼ決まりだろう。こうなれば、関西に負けないことが目標だ。
 とはいえ、勝算があるわけではない。俺の相手、若竹四段は好調だし、皆川さんの相手、上園女流初段も公式戦では連勝中である。
 普段でも、三割は負ける。けれども、負けてはいけないときというのもある。
 いつもの駅に着いた。いつものように電車を下りて、いつものように改札を抜けると、いつもとは違う光景が待っていた。大きなかごを抱え、赤いキャリーバッグによりかかっている、赤い服の女性。コーラの宣伝をする人、ではない。
「辻村」
「皆川さん、どうしたんですか」
 そこにいたのは姉弟子であった。目が腫れぼったくて、いつもよりかなり化粧が薄い。
「あのね……家出した」
「え」
 いい大人がですか、という言葉は飲みこんだ。皆川さんはずっと実家で暮らしてきて、両親との仲はあまりよくない、と聞いていた気がする。
「勢いで出てきたんだけどね……そんなに行く当てがないというか、そのさ……」
「原因は、将棋のことなんですか」
「まあ、雑誌に負けた記事が載ったことが、最初かな。でもずっと火種はあったの」
「そうですか……今、なんか鳴きました?」
 かごの中から、キャン、という声が聞こえてきた。
「あ、ルル」
 見た目からしてそうだろうとは思っていたけれど、かごから抱き上げられたのは犬だった。しかもまだ小さい、真っ白な子犬だ。
「最近飼いはじめたんだよね。まあ、これも両親に反対されたんだけど」
 雪のようにふわふわとしたルルを持って、皆川さんはますますサンタのようである。
「とりあえずここで立ち話も何ですし、うちに行きましょうか」
「いいの?」
「研究会で何回も来てるじゃないですか」
「いや、そういうことじゃなくてさ……あの子がいたりしないの?」
「あの子?」
「この前会ったじゃない、派手なロックの子」
「ああ、沖原さん。いないですよ。なんでいると思ったんですか」
「……そっか」
 皆川さんが、少しだけ微笑んだ気がした。ルルも尻尾を振っている。
「あ、ラムレーズンのケーキを貰ったんですよ。食べましょう」
「タイミングいいのね。珍しい」
「調子出て来たじゃないですか」
 全然元気になっていないことぐらい、見ていてわかる。それでも、いつものように話してもらえる方が、安心する。俺には、女性を元気づける最善手などわからないのだ。


 以前先輩に連れて行ってもらったカフェで、ジンジャーティーを頼んだ。特にそれが好きとか気になったとかではなく、本当にたまたま頼んだのだ。そしたらすごくおいしくて、マスターの女性にどこで手に入れられるのかを聞いた。すると、彼女の方がすごく喜んでいた。
 と、なぜか、そんなことを思い出しながら目が覚めた。
「あ、ごめん。勝手にいろいろ使った」
 そう、それはジンジャーティーの香りだった。皆川さんがキッチンに立っている。
 俺は、毛布をどかして、ソファーから立ち上がった。
「ベッドも……ありがとう……つ、辻村にしてはきれいにしてるじゃない」
「いやまあ、はい」
 この家には物が少ないので、汚くならないだけじゃないか、と思う。 服と音楽だけが、増えていく。
「まあ、どうせ女の子に朝食作ってもらうなんてことないんでしょ、一生の思い出に私が作ってあげる」
「ええと……はあ」
 ないと言えばないけれど、そういう欲求を持ち合わせたことはない。皆川さんはきっと、何かをすることによって悲しみを忘れたいんだろう。
「お米ないのに卵はいっぱいあるんだ」
「ご飯は食べないから……」
「それっぽーい」
 食卓にはホットケーキが乗っていた。自分では買ったもののほとんど使わないメープルシロップがかけられている。なんだかんだで皆川さんのすることは女の子っぽい、と実感する。
「意外。料理できるんですね」
「意外と思われたことが意外よ」
 初めて、朝食のテーブルに誰かがいた。考えてみたら、実家でもほとんど一人だった。
「あのさ、今日暇?」
「はい」
「家探しに行くから、一緒に来て」
「いいですけど、本当にいいんですか」
「何が」
「決心できてるんですか」
 皆川さんは、うつむいていた。まあ、これまでの自分のことを棚上げして聴いているのでちょっと心苦しいのだけれど。でも、後戻りできるときは、後戻りする選択肢も考慮に入れるべきだ。
「悪手だとしても……好手かもしれないって時、指してみるべきだと思うの」
「……わかりました」
 指さなかったことが、一番の後悔になる時もある。やらぬ凡手よりやる悪手、といったところか。
「ところで、家賃ってどれぐらい予定してるんですか」
「え、どれぐらいなんだろ。四万とか?」
「それ、都外か駐車場の値段ですよ」
「えっ」
 このお姉さまは、世間知らずなのかもしれない。


「私もそうだったから」
 電車に揺られてやって来たのは、都外とは言わないまでも都心からは結構離れた場所だった。駅で出向かうてくれたのは、木田女流初段である。
「ありがとう。本当に何も知らなくて」
 皆川さんと木田さんは年齢もプロになった時期も近いのだが、普段はそんなに仲良くしている感じではない。ただ、二人とも「誰ともすごくは仲良くしていない」という点で共通しており、何となくウマが合っているようである。
「東京って本当にいろいろ高いよね。将棋連盟も群馬とかに本部作って、みんなで将棋団地に住めばいいのに」
 木田さんは淡々とした口調で変なことを言う。まあ、わからないでもない話だけど。
「で、条件はどういう感じなの? やっぱり部屋は別々にしたいんでしょ」
「別々? 何と?」
「あれ、二人で住むんじゃないの?」
「な、なんで私が辻村と!」
「あれ?」
 木田さんの勘違いを訂正して、俺たちは女性の一人暮らしに適した部屋を探すことになった。ちなみに目安は家賃月5万5千円。
「高いんだね……」
「本当、五百年前はただの田舎だったって聞くんだけどね」
 女子二人の会話を、少し離れて聞く。今まで、こういう光景を近くで見たことがなかった。学校でも女友達はいなかったし、将棋界でも積極的に交流を持とうとしたことがなかった。一緒に遊びに行くとか、そんなことは有り得なかった。
 この二人は何というか、女子の本流から外れている気がする。それでも二人ともこうして話している姿を見るとかわいらしい女の子だ。
 そして、俺は何なのだろう。一番年下だけど、職場の上司のような気がしている。皆川さんは、そんなに安定した立場にはいない。今でもそれほど収入はないだろうし、来年も今年と同じだけ勝てる保証はない。対局以外の仕事も、確実に回してもらえるということはない。だからいざとなったら、俺が保証しなければ、と思う。客観的に考えて、俺が来年突然勝てなくなるということはないはずだ。そして、親にも師匠にも頼れない皆川さんにとって、何の見返りも必要なく頼れるのは俺ぐらいしかいないのだ。
 そういえばつっこちゃんも、親から完全に離れて暮らしている。借金に困った両親は、夜逃げしてどこかに行ってしまったらしい。つっこちゃんには三東先生しか頼れる人はいないのだ。
 みんな、孤独ギリギリのラインで生きているのかもしれない。
「ちょっと、辻村何ぼーっとしてんの」
「え、ただ単にぼーっとしてるんですよ」
「確かにぼーっとしてるときはそういうものよね」
 なんだかんだと言いつつ、三人は不動産屋へ。説明を受けている間、皆川さんの目は泳いでいた。駅から徒歩何分、風呂がどう、トイレがどう、敷金礼金、ペットが飼えるか、防犯はどうか。ずっと実家で暮らしていると、そんなにも条件がいっぱいあるなんて思いもよらないものだ。俺の場合も結局、「壁が厚ければどこでもいいです」と言ってしまった。
「ペットは飼えないと困るな」
 皆川さんの場合最も重要なのはそこらしい。愛犬ルルは愛されているのである。
 いくつかピックアップして、実際に見て回ることに。現地に着くと、確認や質問はほぼ木田さんが行っていた。皆川さんは終始おろおろしている。
「あのさ、辻村」
「なんですか」
「あいえいち、って何?」
「え」
 最初相掛りか何か将棋の戦法に聞こえたのだが、よく考えると「IH」である。
「電気コンロのことだと思いますよ」
「コンロなのに電気なの?」
「まあ、電気使うとあったかくなりますしね」
 結局のところほとんど木田さんが話をまとめてくれて、なんとか借りる部屋が決まった。彼女がいなかったらどうなっていたことやら、である。
「ありがとう。助かった」
「本当に二人で住まなくてよかったの?」
「な、何言ってんの、あんたこそ川崎君とはどうなってるのよ」
「なんでぼ……私が川崎とどうにかなるのよ」
 外に出ると、すでに夕日が落ちかけていた。姉弟子の家を探すだけで、終わっていく一日なのである。


「あの……辻村先生……」
 研究会が終わり、魚田君と関川君はすでに帰宅した。何でもテストが近いらしい。残ったのは俺とつっこちゃんで、何とつっこちゃんの方から声をかけてきた。
「なんだい」
「あの……これ、どうですか?」
 そう言って、つっこちゃんは左手を突きだした。そこにはかわいい腕時計が巻かれていた。そういえば今までは、三東先生のものと思われる男物をしていた気がする。
「いいね、似合ってる」
「良かった……なんか、その……誰かにそう言ってほしかったんです」
「そうなんだ。どうしたの、それ」
「先生に……あの、借りてます」
 どう見てもつっこちゃんのために買ったものだろうに、二人の間には奇妙な約束が存在するようだ。
 それは、他の誰にも割り込めない絆のようだと思った。
「つっこちゃんはいずれ、先生に貸しを作れるようになるよ」
「そんな……でも、借りたものは全部返さないといけないって思います」
「そうだね」
 つっこちゃんは俺よりずっと遠くで、ずっと深いところで戦っている気がする。つっこちゃんはかわいくて強くて、見ているだけでほんわかするのだけれど、それとは別に畏敬の念を抱いてしまうような点がある。今はただ俺が先を走っているだけで、乗り越えて来たものの大きさはとっくに越えられてしまっているのではないか。俺の方が見習うべきではないか、そんなことを考えてしまう。
 この人は、将棋界の女神になるのかもしれない。
 俺は多分、将棋界を代表するような何かになることはない。ただひたすら勝って、強い棋士として認められたい。
 だからつっこちゃんも、ライバルの一人だ。ライバルには強くなってほしい、というのも正直な気持ちである。
「あの……変なこと言ってごめんなさい」
「いや、何も問題ないよ。早く返せるといいね。でも、その腕時計は返さなくてもいいんじゃないかなあ」
「はい、買い取ることになってます」
 想像以上に、子弟は幸福な関係を築いているのかもしれない。俺は、疎外感を感じてしまった。


 アドレナリンが出ているのがわかるとか言うが、あれは本当だ。今俺は、とっても楽しくて苦しくて、苦しいのが楽しい。
 詰みがあるに、違いない。手順はまだ読めていないけど、躊躇したら負ける。
 そして、心が通じる、ということがある。相手もまた、詰みを確信するのだ。若竹さんの目も、自陣を離れなかった。
 詰み手順は、導き出された。そして、若竹さんが頭を下げた。
 一勝。この一勝は大きい。
 しかし、隣を見ると川崎さんは必敗になっていた。攻め駒が全くない。どうも最近不調のようである。
 そして、皆川さんは大変なことになっていた。皆川さん、上園さん共に成り駒を多く作っていて、玉が捕まりそうにない。これは相入玉コースだ。
 まず、川崎さんが投了した。魂が眠っているような表情だった。
 そして皆川さんは、入玉している。ただ、点数が微妙に足りない気がする。数えたら、あと2点ないと引き分けにできない。
 取れる駒は少ない。ただ、相手の大駒が盤上にあることが救いだ。まだ、引き分けの余地はある。
 編集部の人たちが部屋に入ってきて、そわそわしながら対局を眺め始めた。相入玉は想定外のことだったのだろうか。持将棋は指し直しという規定だったけれど、場合によってはその場で対応、ということになるのかもしれない。
 皆川さんの視線は、盤の上をめまぐるしく動いている。ここ何日か一緒にいてわかったのだが、彼女は常にいろいろなところを見ている。ちょっと集中力がないんじゃないかと思うほどだ。それは、繊細さのせいなのかもしれない。
 そう、今現在、相手の馬が詰んでいるのだ。香車を二本捨てる筋なので、とても見つけにくい。三枚取られて馬一枚、それで2点得する。チャンスは、今しかないだろう。
 皆川さんが打ったのは、歩だった。一見意味が分からなかったけれど、だんだんとそれが素晴らしい手であることがわかってきた。これで、馬の逃げ道がないのだ。つまり、馬詰めろ。これならば、取られる駒は一枚で済む。詰めろをほどく手はあるのかもしれないが、一分将棋の中で見つけられるだろうか。
 見つけられなかった。上園さんは、自玉の安全を優先した。持将棋が確定した。
「本当に申し訳ないんですけど、時間がないので五分休憩の後一分将棋で指し直しでいいですか」
「はい」
「……わかりました」
 しっかりと返事した皆川さんに対して、上園さんは少し放心状態にも見えた。他の対局は全て終わっており、優勝チームも決まっている。ただ、皆がこの対局の結末を見守っていた。
 先後を換えて、再び対局開始。相振り飛車になった。皆川さんが積極的に駒交換を迫っていく。そう、勢いが大事だ。指し直し局には名局が少ないと言われる。それは多分、指し始める時点で気持ちの持ちようが異なるからだ。引き分けに持ち込んだ皆川さんの方が、断然有利だろう。
 とはいえ、プロ同士の勝負は、そんなに簡単には決着がつかない。ギリギリの局面が続いていく。この二人は、同じぐらいの棋力なのだろう。同じぐらいの疑問手を重ね、勝負の行方は混とんとしてきた。
 それでも、皆川さんは笑顔を見せた。勝負のさなか彼女がそんな表情をするのは見たことがなかった。
 川崎さんがこちらを見る。俺は、小さく頷いた。
 数手後、上園さんの玉に必至がかかった。上園さんは、うなだれるように頭を下げた。
 外はすでに夕暮れになっていた。
「……疲れたね」
「うん。勝ちたかったな」
 こうして、バトル・サンクチュアリは終わった。


「よっ」
「え」
 連盟の初心者将棋教室、初回。一か月ごとに講師が変わるので、申込者の数は棋士個人の人気を反映すると言われている。俺には特にファンがいるとも思えず、ちょっと心配だったのだがそこそこ人は集まった。
 ただ。
「みっちゃんの仕事ぶり見てみようと思ってさ」
「沖原さん……」
 受講者の中でもひときわ目立つロックな格好。元同級生、沖原さんがいたのである。
「それに将棋にも興味持ったし。いいでしょ」
「まあ、いいけど」
 いまだかつて、こういう格好の人が将棋をしているのは見たことがない。まあ、見た目など自由だし、沖原さんには似合っていると思うけど。
 沖原さんは最後まで真面目に受講してくれた。そして、他の受講者とも気さくに話していた。それを見るのが、少し苦しかった。なぜなら、そういうことをするには努力が必要だと知っていたからだ。彼女は努力ができるからこそ、疲れてしまうのだろう。
「じゃあ、皆さん来週もよろしくお願いします」
「おお、みっちゃん本当に先生だったね!」
 言われてみれば、高校も中退した俺がここでは先生である。不思議と言えば不思議だ。
「沖原さんだって、得意なことなら先生だよ」
「じゃあ、音楽リスナーの先生にでもなるかなっと」
「そんなのあるの?」
「無いなら作ればいーの」
 沖原さんは、ときおり眩しい。俺はたまたま将棋という道を見つけたけれど、彼女は道が見つかっていなくても前を向くことができる。ただ、その涙も忘れることはできない。彼女の優しさは、多くのダメ男を引き寄せてしまうんじゃないか、などと思っている。
「また来るね」
「よろしくお願いします」
「ふふ」
 皆が帰っていく。俺も、今日は早く帰りたい気分だった。
 そういえば、あと数日で皆川さんはいなくなる。最初は突然転がり込んできてびっくりしたけれど、彼女のいいところもいくつか見つけられる日々だった。いつかは誰かと付き合って、結婚して、何年も同居することになるのだろう。そういう未来についても、考えてみようと思うのだった。


作者紹介

 ついに『紙の駒.zone』まで出来て、落丁版もあるため我が家は本で溢れかえっております。
 押し入れに布団を入れるためにもぜひ買ってください!
 最近将棋大会から半ば引退してます。「書く将」として頑張っていきたいと思います。

フォーチュン・テラー奈々

~チェックメイト・ミステリー(?)~

     フォーチュン・テラー奈々

 「避暑地でシャワータイム」の巻

 

                                                                                            皐倫藍那(Sawatomo Aina

 

1.月子さん登場(?)

 

  ここは国内有数の避暑地として知られるNK町の別荘地である。夏休みを利用して持病の療養に訪れている13歳の少女1名の他は、執事とメイド3名が住み込みで働いているだけの建物にしては、冗談のような巨大さと戯言のような絢爛さを見せつけている。見せつけていると言っても相当離れた場所から見ないことにはその全貌が掴めない、オーナーがふざけて建立したとしか思えないほどにその辺り一帯の土地のスペースを占有している、高級マンションとも宮殿ともつかない建物の中の一室での、今は朝食タイムであった。

「オンラインチェスの調子は如何ですか?」

 この別荘のオーナーである黒麹町財閥総帥の一人娘、奈々のティーカップに紅茶を注ぎながら執事の逢坂航がそう切り出した。三十代半ばほどだが実年齢よりもかなり若く見える。銀縁片眼鏡の奥の瞳は十分すぎるほどに理知的な光を放っていたが、ただし、その視線はノースリーブのサマードレスの肩から覗く、黒髪ロング美少女の鎖骨に釘付けになっていたりする。

「まあまあと言ったところかな。最初はなかなか実戦の感覚がつかめなかったが、随分慣れてきた」

 こちとら毎日忙しいのにお嬢様はヒマで何よりだなちくしょーめ、と執事の眼が語っているように見えなくもなかったが、奈々は使用人のストレスなど全く意に介さず紅茶の香りを楽しんでいた。溺愛する娘のために彼女の父親が八方手を尽くして入手した茶葉だけあって大変に美味である。ただしメイドたちの間では、お嬢様が飲まれる紅茶には執事が自分の唾を投入して100回ほど撹拌しているのではないかともっぱらの噂であった。勿論、奈々はそんなことなど知る由もない。知っていたら逢坂は今この世に存命していない。

「始めたばかりだが、レイティングもどんどん上がってる」

 やはり自分は父の言うとおり天才なのかもしれないと、お嬢様は勘違いも甚だしいことを思いながら言う。

「ほぅ、それは素晴らしい。で、お嬢様。現在の3サイズはいかほどでございましょうか?」

「いやそこはレイティングの数字を聞けよ!」

 中一女子の3サイズを聞いてどうするというのか。ちなみに奈々の現在のレイティングは1300点台後半で、3サイズは上から●●●●●●だ。チェスの実力も3サイズもまだまだ子どもと言うほかない。

 紅茶を嗜むお嬢様をやたらとねっとりした視線で眺めつつ、時折、先が二股に分かれた舌をチロチロと覗かせているこの執事。彼は夜な夜な「これはお嬢様の身辺警護……これはあくまで身辺警護」と呟きながら奈々の寝室に忍びこんでは寝顔を盗み見る行為を趣味にしているという執事としてはちょっと(?)風変わりな男で、別荘でヒマを持て余している令嬢にチェスを薦めたのも、何をかくそうこの男である。あるのだが、ぶっちゃけ、奈々のチェスの成長よりも胸の成長の方が気になって仕方がない毎日だった。簡単に言えば変態である。複雑に言っても変態なのだが。

「ところでお嬢様。実はそのオンラインチェスサイトで、こっそりお嬢様のチェスの棋譜を拝見したのですが……

「なぜ君がボクのアカウントを知っている……

 内緒だったのに。まさかひとのPCを勝手に覗き見したのでは?ともっともな疑念を抱く奈々に向かって執事が言うには、

「お言葉ですが、アカウントが『Fortune teller Nana』ではバレバレです。ものは試しに検索してみたらあっさりヒットしたので、さすがに私も腰を抜かしました」

……はッ!」

 確かにこれではバレバレである。一目瞭然という四字熟語の参考例として教科書に掲載されてしまいそうだ。このお嬢様はネットリテラシーが足りないというか、少々おつむが足りないところがあるのだった。

「この際ですから、いっそのこと作者がchess.cmあたりで実際にこのアカウントを作ってみるのも一興かもしれませんね」

 めったなことを言うんじゃない。作者は既にchess.cmに限らずtwittrやらfaceb●●kやらにそれはもういろんなアカウントを持っていて、これ以上管理しきれなくなっているだから。

「お嬢様程度のレベルの方々のゲームを見ていると、終盤、チェックメイトの狙いが生じている局面で明後日の方向にピースを動かすことが多くて笑え……

「何だと?」

「失礼……途中までいい流れだったのにと、残念に思うことが多々あります」

 逢坂はレイティング2000を軽く超えるほどの腕前なのだという。私生活においては単なる使用人であるが、チェスにおいては師匠なのである。……頼んだ覚えはこれっぽっちもないのだが。

「まぁヘボはヘボなりに、それなりに見込みがあると言えば言えなくもないかもしれませんが、お嬢様の今の実力ではレイティング14●●の金本月子(goldbook)さんの足元にも及びませんね」

「わ、悪かったなヘボで…… ていうか、ここで月子を出すのか!?」

こっちもリンクするのか。しかもtwittrではなくchess.cmアカウントで登場するのか月子さん。もしかすると駒zoneの投稿規程に「投稿される作品は必ず月子さんの出てくる作品とリンクしなければならない」とでも書いてあるのかもしれない。

「駒.zoneの『七割未満』もそろそろ佳境ですし、月子さん(の中の人)も次の展開を模索していることでしょうから、こちらからボールを投げてみるのもいいかなって……

「だが月子は『七割未満』とか関係なく既にチェスの連載を持ってるじゃないか」

「それはそうですが、ぶっちゃけあの連載では月子さんのキャラがあまり活かされてませんからね」

「君は編集長に喧嘩を売っているのか?」

「とんでもない。いやだって、月子さんのチェス記事の中ではツインテールとホットパンツの描写が一切出て来ないじゃないですか!」

「握りこぶしで血の涙を流しながら力説することかっ!? それにツインテールとホットパンツの描写が出てくるのは『七割未満』じゃなくて『ツクモさん』じゃないのか?」

 という感じでさりげなく『ツクモさん』ともリンク(?)を張る、そつのないお嬢様だった。

「ところで『Life is Lovely』とはリンクしなくても宜しいので?」

「ジェームズ千駄ヶ谷先生がボクの鎖骨を狙っているという噂を聞いたことがあるので、正直あまり絡みたくないのだが……」

「それは執事としては聞き捨てなりませんね。何者なんでしょうか、その変態は」

「中の人のツイ垢は、しむしむ(@shimshim87)というらしいのだが、念のためボクはすでにブロックしている」

「しむしむさんですか……ではさっそく……『@shimshim87 お嬢様の鎖骨について語り合いたいのでフォロバ宜しく!』」

「意気投合したっ!?」

ジェームズ先生の性癖はともかく、月子さんが自分で自分のファッションについて語る場面というのは、ちょっとだけ読んでみたいような気がする。もしかすると月子さんのホットパンツは佐●急便で送られてきた誕生日プレゼントで、その差出人は実は懸君だった……なんていう裏設定があるのかもしれないし、ないかもしれない。どうでもいいけど。

……つまり、こちらサイドから先にスピンオフしておいて、月子さんにいよいよ本格的なチェス小説に登場してもらおうという作戦か。らくは(@rakuha)さん、ついにチェス小説書くのか。書かざるを得なくなるまでプレッシャーをかけ続けるというのか」

「ご明察です、お嬢様。ちなみにタイトルは『一割未満』で如何でしょう?」

「勝率が?」

「ドロー率ですね」

 微妙なドロー率の月子さんだった。片や奈々のドロー率は『一割二分三厘ぐらい』なのでこちらも微妙と言えば微妙である。ちなみに彼女のドロー率の低さは、どちらかというと「基礎的な知識があれば負けなくてもすんだはずのゲームをドローに出来ずにしっかり負けている」ことに原因がある。一方、勝てるはずのゲームでも簡単なチェックメイトを逃したために戦いがもつれて逆転されるというケースも多い。要は基本がなっていない。基本の反復練習が大切なのはどの分野でも同じことだ。

「いつか来る月子さんとの運命の対戦に向けて、しっかりトレーニングをしておかなければなりませんね。ということでお嬢様、ここで一つ恒例のエンドゲーム問題は如何でしょう?」

「恒例って……まだ連載2回目じゃないか」

 連載というか、そもそも続編が書かれる予定は全くなかったのだ。月子さん(@tsukiko_sann)がツイッターで「vol.7の原稿も募集しております。特にチェス小説を……」なんて呟いていたものだから、作者につい仏心がわいてしまったのだった。仏というより魔が差しただけのことかもしれない。

「前回『読み物風の初心者にやさしいエンドゲーム問題の解説』を書いたつもりが、少なくとも書き始める前はそのつもりだったのに駒.zoneでチェス小説と紹介されたために、出版された電子書籍を見た皐倫藍那さんが、かなり焦ったらしいです」

 とは言え、確かにあれは「読み物風のチェス解説」の域を逸脱しすぎていた。作者も床に両手を付いて反省している。

「……だったらもう少しチェス解説成分を増やせば良かったのに」

「そのつもりだったようですが、図面作るのが面倒くさくなったらしいです」

「ものぐさだなぁ」

「ものぐさとか言うと、作者の正体が疑われるからやめておかれた方が……

 怪しいセリフを撒き散らしながらいつの間にかチェスセットを用意していた逢坂が、ピースを並べ始めていた。奈々は彼の無駄に優雅なその手つきが気に障って仕方がないのだが、いちいちケチをつけたりしないのが淑女の嗜みというものである。


【図1(問題図)】

 図1:1912年に行われた

Stefan Levitsky v.s.Frank James Marshall

のゲームから

 白が 23.Rc5とクイーンに当てた局面。



  

 この局面の少し前あたりから始まる絶妙手の連続は、世界中の熱心なチェスファンの間であまりにも有名。

 

 

「ということで、この局面の黒の次の一手を考えてください」

「うーん……これは……

 ひと目見て自己解決をあっさり諦めた奈々は、自室に帰ってからタロットに尋ねてみよう、とインチキなことを考えていた。お嬢様は頭を使うことが大嫌いなのだ。バレなければいいんだし。

「たまにはタロットに頼らず、自分の頭で考えてみては如何ですか?」

バレていた。

「……そもそもですね、チェスとは論理的なものです。体力や精神力、手の全く見えない局面での決断力、そしてある程度の運も必要なのは確かですが、局面を分析するには、それはすべからく論理に依っていなくてはなりません。タロットは……人生の道に迷われた時にどうぞお使いください。チェスをする時に使うものではありませんよ。そもそも、こういうタクティカルな局面で次の一手のヒントを得るには、占いは不向きなのではありませんか?」

珍しく至極もっともらしいことを言う逢坂だったが、何しろセリフが長すぎたためにお嬢様は途中から話を聞いていなかった。使用人たるもの、意見の具申は簡潔に。エレベータートークという言葉もある。

ところで。

逢坂の言う向き不向きの問題は別にして、タロットは……それを「使える」人間にとっては「当たる」のである。「なぜ当たるのかは判らないが当たる」ともよく言われる。

当たる仕組みが判らない。あるいは。

仕組みやカラクリ自体が、存在しない。

「たまたまそこに出たカード」から何かを読み取る。ただそれだけだ。そして読み取り方は術者のスキルに委ねられている。当てるための理論が全く構築されていない。構築しようとすらされていない。タロットとカバラ(ユダヤ人発祥の哲学的神秘思想)の教義を対応させようとする考え方もあるにはあるが、それ自体は「当たる」こととは何の関係もないのだ。一応何かしらの情報や統計に基づこうとする占星術や数秘術、姓名判断、あるいは人相、手相占いのように観察力により吉凶を占うものとは違う。インスピレーション、もしくは霊感を重視しているわけであり、性質が相当に異なると言えよう。

カール・グスタフ・ユングの生み出した「共時性」という考え方を借りて言うなら、タロットは「意味のある偶然の一致」を視覚化している、と言えるかもしれない。宇宙の真理とシンクロした潜在意識を引き出すためのツールであるのかもしれない。だから――。

 ある種の人間が用いるなら、それは怖いほどによく当たる。いや、当たるという表現は正確ではないかもしれない。タロットは「方程式の解」を出すような類のものではないのだから。これはむしろ「人生を解釈するための手段」であり、そのための学問でもある。人が生きていく中で遭遇する様々なシーンにおいて、その意味を解読し、解釈して、先の見えない状況に人の言葉で意味を与えて。そうやって、困難な道のりを、壁を、陥穽を、乗り越えていくための指針を得る。そのための羅針盤だ。見通しをたてることらおぼつかない迷えるばかりの人生において、占術とは戦略であり戦術でもあるのだ。

従って、そもそも「チェスの手自体」が見えない、というかベースとなる棋力があまりない奈々がタロットに頼ったところで、ほとんどの局面で効果はないだろう。カードがどんな「指針」を指し示したとしても、照応する手段が見えなければ、結局は何も出来ないのだから。

「この局面ではAという戦略とBという戦略、それぞれどういった流れになるのか?そしてそれぞれを選択した先に何が待っているのか?」ということについてヒントを示してくれるのがタロットの本質であって、決して「この局面の最善手」を求めるものではない。その意味では逢坂の指摘は的を射ていると言える。

換言すると「どんなに勘の良い子でも、ちゃんと勉強しておかないと、大人になってから社会で通用しませんよ」というのと同義である。残念ながら、現実はとても厳しいのだった。

まぁそれはそれとして。

「これは世界中のチェスファンが一度は並べる有名な棋譜です。こういうゲームを知れば、ますますチェスにのめり込みますよ」

と、この時ばかりは本当にチェスが好きでたまらないという口調で、そう言いながらも奈々の鎖骨にのめり込むような視線を飛ばしまくる黒麹町家の令嬢専属執事なのだった。

 

 

2.奈々、踵落としをお見舞いする

 

 次の日の朝。

 いつものように気だるそうに食堂に入ってきた奈々に向かって、待ち構えていた執事の逢坂航が、満面の笑みを浮かべて話しかけてきた。

「如何でしたか?」

 執事の口の端が微笑みというには凄惨すぎるほど歪んでいる。……前言撤回。満面の笑みではなく、冷笑だった。憫笑というのがより正確かもしれない。まるで、どうせお嬢様ごときに解けるわけがない、と言わんばかりであった。

「まぁ、どうせお嬢様ごときに解けるわけがないのですが」

「ホントに言った!? ……ボ、ボクを侮辱したなっ!」

「解けたんですか?」執事は動じない。お嬢様はと言えば、昨夜は問題が解けたというより、脳みそが溶けそうな気分だったのだ。これはいかんと前回同様、タロットカードに手を伸ばしたところで寝落ちしてしまった。机で寝落ちしたはずなのに、目が覚めた時にはしっかりと水色のネグリジェを着て天蓋付きのプリンセスベッドの上にいたわけだが、これはきっとメイドの誰かが仕事をしたからに違いない。確証はないが、そこはあえて深入りしないことにしておく。

……。えーと……。黒がクイーンを動かす一手であることは確信しているだが……

「お見事です。クイーンを動かさなければ、c3にいる黒のクイーンが白のルークに取られてしまいますからね。さすがはお嬢様、旦那様が『私の娘はチェスの天才かもしれない』とお戯れをおっしゃるのも頷けます」

「いやいやいや、それほどでも~~……ってバカにしてんのかっ!」

 と、ここでついに(?)黒麹町家一子相伝の必殺技・「焔斬り脳天踵落とし[ドラゴン・ギャラクティカ](命名・月萌さん」」が炸裂してしまった。そんな技を隠し持っていたとは。淑女の品格はどこに行った。

「ぐわっ!♡♡

 悶絶する執事の台詞に「」が2つ付いているのは、奈々が右足を振り上げた一瞬、何かラッキースケベ的なことがあったものと推測される。

「さ、さておき……今回はお嬢様から解答手順は出そうもありませんね。まぁ、前回と比較して急にレベルが上がりすぎたきらいは確かにあります。では、正解……といいますかこのゲームの解説を致しましょう」

 

 激しいダメージを負った逢坂が、どす黒い血反吐と鼻血を吹き出しながらチェスボードに手を伸ばした。鼻血を拭け、鼻血を。床に血痕が付いているじゃないか。

「そもそもこのゲーム、これより前の展開からして素晴らしいのです。せっかくですから、少し前の局面からご紹介いたしましょう」

 

 

 

 

 

【図2

 

問題図(図1)から少し遡る。

今、黒が21..Rh6とクイーンに当てた手に対して白が

22.Qg5 とクイーンを逃げた局面。

 

 ここで黒が放った一手が強烈だった。



 

 

 【図3】 

 2 から

   22...xRh3 !

 

 なんと黒はルークでビショップを取ってしまう。 

 

 白から 23.xh3 とポーンでルークを取り返す手があるが……。


 

 

 

 「これ、ポーンでルークが取れるんじゃ……?」

「おっしゃるとおりです。チェスにおける駒の価値は一般に、クイーン=9点、ルーク=5点、ビショップ=3点~3.5点、ナイト=3点、ポーン=1点とされていますから、この交換の結果は白が駒得となりますね。ところが白は取れるルークを取らなかった。取らずに 23.Rc5 としたのが、昨日お出しした問題図だったわけです」

「白番の人、黒ルークが飛んで来たのを無視して取らなかったのか。どおりで変なところにルークがいると思った。……まさか、ポーンで取り返せるのをうっかりしたとか?」

「何でやねん」

「…………………………。」

 キャラと違うボケに対応しきれず固まってしまう奈々。ブリッツ(持ち時間5分~10分の早指し戦。3分以下だと「ブレット(bullet)=弾丸」等と呼ばれる)だと序盤に無駄な時間を使ってすぐ持ち時間が切れてしまうタイプの人間だ。

「……お嬢様が固まっているスキに蝋人形にしてお持ち帰り……」

「聴こえているぞ、変態」

「失礼、チェスの話の途中でした……そうそう、ここでそんな見落としはありえません。白がルークを取らなかったのにはちゃんとした理由があります。つまりここで白が23.xh3 と取ると……」

逢坂は伸ばした右手で黒のナイトを掴むと、スッとボード上を滑らせた。

 

【図4

 

23.gxh3とポーンでルークを取った場合の変化図

 

黒から23...Nf3+ という返し技が決まる。

 

このナイトで白キングへのチェックが掛かっている他、ルーク、クイーンへの当たりにもなっている。


 


 

「これはキツい……まさにトリプルアタックだな」

「三所責めともいいますね」

 言わねーよ。

「三所攻めじゃないのか?」

「……何の話をされているので?」

「相撲の話だろう?」

「お嬢様、それは三所締めではありませんか?」

「それはプロレスだ。ちなみにトライアングル・サブミッションともいう」

「『@tsukiko_sannつっこちゃん、俺のお嬢様が関節技に詳しいんだが何か質問ある?』」

「唐突にスマホで呟くな。しかもなぜ月子にリプライを飛ばす?」

 いつの間にかツインテ・ホットパンツ美少女と相互フォロー関係になっているあたり、さすがは黒麹町家の令嬢専属執事である。全くもってどこにも抜け目がない。

「それはそうと私、相撲やプロレスには全く興味がございませんので、話をチェスに戻させていただきますね」

 お嬢様とのミトコロゼメ論議の継続を断腸の思いで自粛しつつ、執事は局面を最初――問題図の局面に戻した。

「……という変化を踏まえて、図2の局面で白は黒のルークを取らずに 23.Rc5とルークで相手のクイーンに狙いを付けたわけです。ここで黒番のF. J. マーシャルの放った一手が――

 ここで執事が示した次の一手に奈々は息をのんだ。それは、チェスを本格的に学び始めて間もない初心者でも、意味は解らなくともその凄さだけは感じられる、そんな驚嘆の一手だった。

 

【図5

  問題図(図1)から 23...Qg3 !

 

 c3にいた黒のルークが、白の駒が3つも効いている(g5のクイーン、h2f2のポーン)、マスへ飛んできた。


 

 

 

 

 

 「……クイーンのただ捨てじゃないか……?」

「白の駒が3つも効いているところですからね。しかもこの手は次に ...Qxh2# のチェックメイト狙い(図6)ですから、白はこの手を放置できません」

 

 



【図6

 図5から白がクイーンを放置すると、

 24...Qxh2#  でチェックメイト





 

 「まぁこの状況で放置はありえないな……

「お嬢様、放置プレイがどうかなさいましたか?」

「ボクには君が何を言っているのか皆目わからないのだが、一応返事をしておくと【図5】の局面で白はポーンかクイーンで黒のクイーンを取るのだろうな、と言っているのだ」

「あぁ、何だチェスの話でしたか。ウチのメイドがあの事をチクったのかと思いましたよ。……ご推察のとおり、白は指すならクイーンを取るしかありません……ところがこれが『どれで取っても黒の負け』なんですね」

 執事は左目に掛かった銀縁片眼鏡にそっと手を添えつつ、チェスボードに向かって右手を伸ばした。おい、「あの事」ってなんだっ!?と訝しむ奈々のツッコミに対しては「聞こえないフリ」というスルースキルを発揮して――。 それから彼は、名棋士・マーシャルが創りあげた、チェス史上に燦然と輝く華麗な作品を、お嬢様の眼前に恭しく再現していったのだった。

 


【変化図1

  図5から白が

     24.hxg3 と右のポーンでクイーンを取ると

 

    ...Ne2#  でチェックメイト

 

 

  H2にいた白のポーンが動いたためにhファイル(縦筋)には黒ルークの効きが通り、白キングの逃げ場がなくなっている。


 

 

【変化図2

  5から白が24.fxg3 と左側のポーンでクイーンを取った場合

同じく ...Ne2+ の後、やはりチェックメイトとなる。

 

  24.fxg3  Ne2+(ナイトによるチェック)

  25.Kh1  Rxf1#

 

  今度はf8にいた黒ルークの効きが通ってしまい、そのルークで白ルークを取ってチェックメイト


 

 

 「ということで白は 24.Qxg3 とクイーンで取り返してこの局面(変化図3)になるわけですが……ここからの変化がお判りになりますか?」

 

 

 

【変化図3

   図5から白が

   24.Qxg3   とクイーンでと黒のクイーンを取っ

た局面。

 

 

   これが最強の応手だが……


 

 

 

これが最後の問題だ、とばかりに逢坂が変化局面を盤上に示した。勿論、今の奈々には判りっこない。奈々は「月子だったら解けただろうか?」と、まだ見ぬライバルの実力が少し気になったりもしたが、それについては、いずれ月子さん主演による本格チェス小説の方で明らかにされることだろう。……多分。

 

 

【変化図3-2

  変化図3 から

 

  24...Ne2+ (チェック)

   25. Kh1

 

黒はナイトによるチェックで白のキングを端に追いやった。

 


 

 

 


【変化図3-3

 変化図3-2 から

 

  25...Nxg3+

 

  黒がNe2のナイトでg3にいた白のクイーンを取ってチェック

 

  h3の黒ルークの効きがあるため白はこのナイトをh2のポーンで取ることは出来ない。
 

 

 【変化図 3-4

  変化図3-3 から 26. fxg3 と左のポーンでナイトを取ると……

 

    26. fxg3  Rxf1#    

 

 f8にいる黒のルークの効きが通ってしまい、

 ...Rxf1 で f1の白のルークを取ってチェックメイトとなる。

 

 


 

 

【変化図3-5

 チェックメイトを逃れるためには変化図3-3の局面でナイトを取らずに 26.Kg1 とするしかないが、この場合は以下

 

26...Ne2+  (右図の局面)

   チェック。これで白はもうナイトを取れなくなる。

27.Kh1 

   白はキングを再度端へ逃がすしかない


 

26..Ne2+ のところは26..Nf1 と白ルークを取る手もあるが、27.xh3とルークを取られる。これでも黒

が良いが、ルークを2つ残す方が戦いやすいと思う。

 

【最終図】

 変化図3-5 から27.kh1 とした局面

 

 黒は次にh3のルークをa3へ移動する等してピースアップ(駒得)確定。

 

黒はここからさらなる駒得が望める。

白のキングとf1のルークはe2のナイトやf8の黒ルークに縛られて(f1の白ルークが動くとf8のルークにf2のポーンを取られる)身動きが取れず、また白のa2c2のポーンが消えると、黒のa7,b7のパスポーンが強力(将来、これらのポーンがクイーンになる手を白は阻止できない)で、もはや白はなすすべがない。

 


 

 

……凄い……

 次から次へと繰り広げられる芸術的な手順に感動した奈々の顔は上気して、普段はやや青白いはずの肌にほんのりと赤みが差している。その様子を恍惚の表情を浮かべながら見る逢坂の瞳孔は、まるで蛇のように縦に細長く収縮し虹彩は赤く染まっていた――。

「チェスには本当に色んな可能性があるのだな」

 素直な感想を述べる少女の言葉に、執事は我に返ったように再び視線をチェス盤の上に戻す。

23...Qg3(【図5】で白番のLevitskyはリザイン(投了)しました。その瞬間、観戦していた客の一人からボード上に金貨が投げ入れられ、次に他の誰かが金貨を投げ、そしてまた別の一人が金貨を投げ入れて……それはやがて金貨のシャワーとなっていった……という逸話が伝えられています」

 何とも豪勢な話である。いくら何でも「シャワー」は大袈裟であろう。元となった実話に尾ひれが付いてしまったのかもしれないが、この一戦にそれだけの価値があることは間違いない。

「伝説の一戦か……。金貨のシャワーを浴びるようなゲームが出来たら気持ちいいだろうな」

「お嬢様、シャワーを浴びた後気持ちいいことしたい、とは女子中学生が言うセリフとしては如何なものかと」

 児ポ法に引っ掛かりかねない。

「ボクはそんなことは一言も言ってないし、そもそも君のそのセリフの一部は『駒.zone』掲載時にはで塗りつぶされるから覚悟しておくのだな」

一部というか五割一分くらい塗りつぶされるかもしれない。いやむしろ原稿ファイルごとツクモさんの「紅の斧(アックス・トルネード)」で叩き割られてしまうかもしれない……。

 と、駒.zoneらしいオチがついた(?)ところで。

「お嬢様、今回のエンドゲーム講座はこれにて終了でございます。朝食をお持ちしますので、しばらくお待ちください」

 変態執事と病弱なお嬢様によるエンドゲーム講座の内容はともかくとして、このゲームは棋譜並べにおススメの一戦だ。ぜひ鑑賞して、楽しんで頂ければ幸いである。

 

 

3.奈々、占いを頼まれる

 

 別荘で働く3人のメイドの衣装は、言うまでもなくエプロンドレス、いわゆるメイド服なのだが、だからといって単純に秋葉原のメイド喫茶で見かけるミニスカ&ニーハイの萌え萌えメイドを連想してもらっては困る。黒麹町家のメイドのドレスの丈は「膝小僧がちょっとだけ見えるくらいの長さ」と厳密(?)に決められているのだ。ただし、ここの別荘ではもう1つ追記事項があって、それは「ソックス着用禁止」というものだった。

「誰が決めたルールか知らないが、ソックス禁止とはまた妙な話だな。素足に靴を履いていたら足が臭くならないか?」

自室で、これまた不必要に豪奢な椅子に鎮座している奈々の後ろに立って、彼女の黒髪にブラシを当てているのは、ここで働くメイドの一人、五番町蓮華(ごばんまち・れんげ)である。ふんわりとしたショートボブの髪の上にはお約束のホワイトブリム、いわゆるメイドカチューシャが乗っていた。薄紫色の髪と瞳はヘアカラーとカラコンによるものではなく、生まれつきなのだという。

「逢坂さんが『お嬢様が生足をご所望だ』と」

「言ってない、言ってない」

 何をほざいているのだ、あの執事は。●ねばいいのに。

「足の方はご心配なく。臭い対策はエイトフォーで何とか……。それよりお嬢様、『パンツは白地に黄色の縞々模様の入った三角紐ビキニとする』という規定は何とかなりませんか?」

「……何だそれは?」

 誰得なんだ?

「逢坂さんによると『お嬢様が……』」

「だからボクは何も言ってないっつーの!」

流言飛語にもほどがある。

「しかも『形状は直角三角形が望ましい』という附則事項がありまして、これがまた履き心地が最悪なのです。メイドの中には『こんなもん履くくらいならノーパンの方がマシじゃぁ!』と言ってノーパンで通している強者がいるくらいでして」

「だから普通のパンツ履いていいってば」

 どうせ見えないんだし。わざわざ覗いてチェックする奴もいないだろう……ってあの執事ならやりかねないな、と嘆息する奈々だった。

「それにしてもうちのメイドがそんな辱めを受けていたとは……

「いや、まぁ嘘ですけど」

「なんで嘘ついたのっ!?」

 驚いた。意表を突かれてびっくりした。びっくりして、もう胸のドキドキが止まらない。

「みなさん普通に真っ赤なレース付きランジェリーを着けておられますよ」

 毎日が勝負下着のメイドたちなのだった。

「普通にって……メイドの下着は真っ赤なレース付きがデフォなのか……?」

 メイドのアダルトなセリフに赤面する奈々を見ながら、五番町蓮華は「ほんとにこの子は可愛いなぁ」……と思うのだった。

「まぁ、わたしは褌(ふんどし)なんですけどね。しかも赤い褌なんですけどね」

「すっごい気合が入ってる!」

 気合を入れて仕事をしてくれるのは嬉しいが、彼女が褌を締めている姿はあまり見たくないな、とメイドの冗談を真に受けて変な想像をする世間知らずなお嬢様であった。

「それはそうとお嬢様……少々ご相談したいことがあるのですが……

「ん?何だ?申してみよ」

 急に相談などと言われたものだから、慌てた奈々のセリフが時代劇口調になってしまった。キャラが固まっていないのかもしれない。

「出来れば内密にお願いしたいのです」

「別に構わないが、それはチェスの話なのだろうな?」

 このコーナーはチェスのエンド・ゲーム入門講座だったはず。

「タロットの話です」

 そっちか。今回は図面編集を物凄く頑張ったのに、結局その話になるのか。そのうち「チェス小説」ではなくて「何故か唐突にストーリーとは何の関係もないチェスの問題がちょっとだけ出てくる小説」とか紹介されてしまうぞ。ぶっちゃけチェスよりタロットにまつわるオカルト話の方が好きだし。

「旦那様の影響で始められたわりには大した腕もないチェスはともかく、占いの才能はかなりのものとお見受けします」

「……えーと、ボクは今、物凄く馬鹿にされたのかな?」

 青筋がぴくぴくしている。青筋を立てても可愛いなぁ……逢坂がいたら青筋萌えに目覚めたかもなぁ、等と蓮華は考えていたが、とりあえずお嬢様の機嫌を取る必要がある。

「馬鹿にしただなんて滅相もない。『フォーチュン・テラー奈々はダテじゃない!』と申し上げているのです!」

 とりあえずガンダムネタでごまかしてみた。

「ん?そうか?やはり蓮華もそう思うか?」

 あっさりごまかせた。うわ、バカだコイツ。

「えぇ、勿論ですとも。……奥様譲りなのでございましょう」

「……うん……」

母の話は……正直、あまりしたくない。

「お願いと申しますのは、この別荘自体のことです。お嬢様も含めて、今この場所で暮らしている、私たちを取り巻く状況について真剣に観ていただきたいのです」

「ボクたちの……?」

「はい。今、この別荘は……何かが、おかしい……」

「生足強制とか直角三角形紐ビキニ強制とかボクの衣装がノースリーブしか置いてないこととか、ボクの入浴中に『ジーーーーー』という変な機械音がしていることとか」

「そういうことではなくて。勿論それも確かにおかしいのですが、大いにおかしいのですが、超絶おかしいのですが、決してそういうことだけではなくて」

 奈々を見つめる五番町蓮華は、もう先ほどまでの冗談を言っている眼をしていなかった。深刻な、そしてどこか只ならぬ空気をまとうメイドの様子に気圧され、言葉を失って硬直する奈々に向かって、紫色の瞳のメイドは、こう囁いたのだった。

「今、この別荘に住んでいる執事……彼は……本当に私たちの知る逢坂航その人なのでしょうか?」

 

fin..

 

 

 

[参考棋譜]

1912720

[白:Stefan Levitsky]

[黒:Frank James Marshall]

1.d4 e6 2.e4 d5 3.Nc3 c5 4.Nf3 Nc6 5.exd5 exd5 6.Be2 Nf6 7.O-O Be7

8.Bg5 O-O 9.dxc5 Be6 10.Nd4 Bxc5 11.Nxe6 fxe6 12.Bg4 Qd6

13.Bh3 Rae8 14.Qd2 Bb4 15.Bxf6 Rxf6 16.Rad1 Qc5 17.Qe2 Bxc3

18.bxc3 Qxc3 19.Rxd5 Nd4 20.Qh5 Ref8

21.Re5 Rh6 22.Qg5 Rxh3 23.Rc5 Qg3 0-1

 


ブルペンエースから(上)

   ブルペンエースから(上)

野川なこ


 人影も疎らな日曜日の早朝。プラットホームに彼は佇んでいた。十数分に一本しか停車のない、言ってみれば片田舎の駅だ。乗車予定の電車が到着するまでまだ五分以上あったが、落ち着いていられない彼にはベンチに掛けるという選択肢ははなからなかった。

 季節は六月の初旬。日中には二十度半ばになる日が増えてきてはいるものの、今朝方は半袖だと肌寒く感じるくらいにひんやりとしている。また梅雨入りこそしていないが、夜半まで降った雨のせいでホームを抜ける風は余計に冷たさを帯びていた。

 しかしそんな事を考えられないくらいに冷静さを欠いている。この駅に停車しない急行列車が目前を通り過ぎても、思い詰めた表情は崩れない。石化したかのように静止した彼が動き出すのは、乗車予定の電車がやってきてからだった。

「おはよー、畔上君!」

 扉が開く。中で彼を待ちかまえていた明るい少女の笑顔に、僅かだが畔上和也の表情が柔和になったような気がした。

「おはよう。張り切ってるね」

「そりゃもう最後の大会だからね」

 彼女、春高美弥は体の前でぐっと拳を握りしめる。

 研修会に所属している彼女は先日の例会で女流棋士への転向規定を満たしていた。まだ正式に発表した訳ではないが、女流棋士転向は彼女の心の内ではすでに決定しているらしく、今回の大会を待って公に発表することになっている。一応は肩書きは女流三級という暫定措置であるが、誰もが彼女の実力ならアマチュアに逆戻りということはないと考えていた。おそらくはアマチュアとして最後の大会になるだろう。

 それゆえに彼女のモチベーションは最高潮に達しており、今のところ、その高ぶりが普段以上にアクティブな春高美弥を形成していた。

「それは僕も同じだよ」

 少し自嘲気味に彼は言う。感傷的な雰囲気が微かに漂うと、それまで高揚していた美弥の顔色が微かに陰った。

「……別に畔上君は最後じゃなくてもいいんだよ? 来年もあるんだし」

「いいんだよ、もう。たぶん僕一人で大会に出ようなんて思えないし」

 美弥も和也もまだ高校二年生である。オープンの学生大会であるキリン杯の開催が三月末であることから、学生将棋には引退という概念は希薄だ。しかし彼には今回の大会で自主的に引退しようという決意があった。

 彼らの通う、海鳴高校は県内でも屈指の進学校に数えられる。そのため、部活動はそれほど盛んではなく、将棋部は廃部の危機に瀕していた。書面の上での部員は六人だが、実態は和也、美弥の二人に三年生の部長を足した三人で構成されているのみ。残りの三人は部長が無理やり集めた、名ばかりの幽霊部員であり、全員が三年生であるために部員数は来年度には二人だけになってしまう。五人未満の部活動は即刻廃部という進学校ゆえの厳しい校則により、将棋部は活動を維持できなくなり、消滅してしまう。無論、和也と美弥がどんな形であれ新しく部員を集めれば、一応は存続させることは出来るが、和也にその気はない。それに女流棋士への転向を控え、部活に参加する時間が一気に減ることが確定的な美弥は、自分の口出しできる領分を超えていると判断している。

 結果として将棋部の存続は実質的に断ち切られていた。個人戦への出場など考えてもいない和也は、美弥の女流棋士転向を境に、自らの高校将棋に幕を下ろす心積もりだった。

 自身の故郷を無くすような寂しさから幾度となく美弥は彼を説得しようとしてきたが、和也の意志は固く、深く踏み込むことができなかった。当然のように説得の全ては不発に終わった。

「最初で最後になるけど、このチームで団体戦に出れて嬉しいよ。転校してきてよかった。春高にも東先輩にも感謝してる」

「……それじゃあ今日は頑張らなきゃね!」

 しんみりしそうな雰囲気を感じ取り、美弥は努めて明るく言った。それに和也は曖昧な笑顔を返すだけで、自然と会話は途切れてしまった。

 一年生の終わりに、和也は海鳴高校へと編入してきた。その頃の彼はトラウマから将棋へ嫌悪感を抱いていた。ようやく以前のように楽しんで将棋が出来ると思った矢先に、美弥の女流棋士転向が決まったのだった。

 当然彼は落胆したが、どうにもならないことだと割り切り、現在に至る。だから外面には見せないが、内心にたぎる想いは美弥に負けず劣らずであった。そんなことを美弥が知る由もないのだが。

 詰め将棋を解いたり、昨日のプロ棋戦の携帯中継を観たり。思い思いの時間を過ごしていると、電車は目的の駅へと到着した。改札を抜けると、見慣れた眼鏡の青年が駅の高架にもたれ掛かっていた。気付いた青年が軽く右手を挙げると、二人は早足で彼の傍を目指した。

「おはようございます、東先輩」

「隆之さん、おはよー!」

 眼鏡の青年、東隆之は親指で軽く眼鏡を掛け直すと、低い声で無愛想に「おはよう」と返した。

 内向的なきらいのある隆之であるが、このくらいはいつものこととばかりに軽く流した。

「それじゃ行きましょー!」

 高らかな美弥の宣言を合図に、彼らは大会会場へと歩を進める。

 隆之は過去に一度、高校を辞めた経験があり、今の同級生よりも年齢が一つ上である。八月になれば十九歳となる彼であるが、性格的にリーダーシップを発揮するのが苦手であり、普段から率先して部を引っ張るのは美弥の役割であった。

 彼らの目的地は、駅から歩いて五分ほどの大学の敷地だ。その施設の一つを使って、高校将棋の大会は行われる。この大学の総長が無類の愛棋家であることから、このような会場設定がなされることになった。今では県内の高校将棋の大会はほとんどがこの敷地内で行われるといっても過言ではない。

 途中、コンビニで飲み物を購入した一行が、会場となる施設に足を踏み入れた時には、他校の部員がひしめくように居並んでいた。

 各々リラックスし、談笑している者も多いが、中にはチェスクロックを使って、練習将棋をしている学校もある。バシバシとプラスチックの駒を叩きつける、激しい音がするのはそのためだ。

「これから受け付けに行ってくるから、この辺で待っててくれ」

 ぶっきらぼうに隆之は言うと、入って右手に設置された受付へと向かっていった。

 普段は無口だが、顧問不在のこの場において、改めて部長の仕事を果たす隆之へと尊敬の念を送る和也と美弥である。そしてそんな部長の指示を受け、入り口付近の適当な席へと腰を落ち着かせた。

 会場中から発せられる声に、駒音に気圧されながら、和也は周囲を見渡す。およそ一年ぶりの将棋の大会会場に高鳴る鼓動が抑えられない。ふと冷静になって自分自身を客観視してみると、子どものように純粋にわくわくしていることに気付いた。拒絶してきたはずなのに、やっぱり居場所はここだったと感じている自分を見つけ、誰に言うわけもないが気恥ずかしさがこみ上げてくる。

「今年の優勝候補ってどこよ? やっぱ慧明?」

 不意に和也の耳にそんな話し声が聞こえてきた。隣のテーブルからだ。刹那的に背筋を冷たいものが這いつくばる。

 旧帝大など、国内有数の難関大学へ多くの生徒を毎年輩出する名門私立高校であり、県内の高校将棋においては常に優勝候補に名を連ねてきた強豪校である。それと同時に、和也が海鳴高校へ転入してくる前に通っていた学校でもあった。

『お前なんか信じなきゃよかった!』

 学校名を聞いた途端にフラッシュバックした声が和也に異常をもたらした。その声を皮切りに、全身が悲鳴を上げる。机の上にある和也の手は小刻みに震えた。対局中であれば、駒も握れないだろう。そのくらいにヒドい震えだった。

「ねえ、大丈夫なの?」

 その異常さは美弥にも一目だった。

 今までの彼女は和也のそのような“発作”を何度か目にしたことがあったが、この日のそれは今まで見たどれよりもヒドかった。“発作”は決まって慧明高校についての話をしていると起こった。原因の目星こそ容易についたが、言及すれば余計に和也が苦しむのが目に見えてわかった。結局彼女たちは詳しい話を聞けず仕舞いである。今や海鳴高校将棋部において、和也がいる時、慧明高校についての話がタブーとなったのは言うまでもない。

 心配そうな彼女に「平気」と微笑みかけるが、それがやせ我慢なのは火を見るよりも明らかで、依然として美弥の顔色は陰ったままだった。苦労してペットボトルの封を開け、お茶を口に含むと幾分か震えがましになった。

「ありがとう。もう大丈夫だから」

 半信半疑といった眼差しを向ける美弥だったが、震えの止まった手を見て、ようやく強ばった顔を解した。

 とりあえず落ち着いた和也は、再び隣のテーブルの話し声に耳を傾ける。

「そりゃ慧明も強いけど、今年は海鳴も強いらしいぜ」

「海鳴が?」

「うん。なんか研修会のC1と元奨がいるらしい」

 元奨とは元奨励会員の略称である。前者は美弥、後者の元奨は隆之を差していた。

 隆之は奨励会に集中するために、一度高校を辞めた。しかし四級に昇級後、結果が奮わず。そして五級への降級が決まったことを機に退会を決めた。

「なんかヤバいな。その三人目でポイント取れないと、俺ら相当ツラいじゃん」

「いや、三人目も強いみたい。去年まで慧明にいたらしいんだけど、辻尾とレギュラー争いして勝ったっぽいんだ」

「うへー、辻尾からか」

 辻尾と聞いてから、再度震えそうになる手を必死で抑える。ここまでの固有名詞だけでも、彼のトラウマを呼び起こすには十分だった。

 ペットボトルのお茶で再度軽く口を潤すと、彼は黙って立ち上がった。

「どこ行くの?」

「ちょっとトイレ」

 美弥の問い掛けに軽く答えると逃げるようにその場を脱した。和也は気付かなかったが、彼女が心配そうな視線を送っていたのは言うまでもない。

「ふう……」

 外はあれほど人がいるのに、トイレは無人だった。扉一つ隔てただけの空間であるはずなのに、換気するファンのモーター音が充満する。そんな静寂は、和也が息を吐き出すと瞬く間にその場の支配権を許した。

 誰にも咎められない安心感に身を委ねながら、手洗い場に立つ。鏡に移る自分の顔はいくらか落ち着きを取り戻しつつあるようで、再度安堵に息をつく。

 そのまま蛇口をひねり、冷水で手を濯ぐ。緊張で火照った身体には心地良い。ともすれば世界から蒸発して、消えてなくなってしまいそうだった彼は、冷たい水の感触に自らを確かめた。次第に冷静さを取り戻していく思考回路からは、完全に熱が取り除かれた。

「ふう……行こう」

 ひんやりした両手を頬に当てながら、決意を口にした。

 しかし新たな登場人物に、明瞭になった和也の思考は再び熱を帯びることとなった。

「おい」

 突如として掛けられたら声の主を、鏡越しに確認する。

「久しぶり、ブルペンエース」

 明らかな敵意は嘲りという形で和也に向けられた。

 ブルペンエース――実際のマウンドで力を発揮できない投手に向けられる侮辱表現だ。そして和也は幾度となくその言葉を向けられた。慧明高校にいた時に、だ。

 振り返った先にいた少年の姿に落ち着き始めていた心音が再度乱れた。胸をチクリと刺す痛み。

「……辻尾君」

 辻尾拓海。慧明高校の二年生エースであり、昨年度の全国新人戦でベスト八の強豪。県内のみならず、全国の同年代をけん引する立場であった彼に、初めて将棋で苦汁を味わわせたのは他の誰でもなく、和也だった。

 去年の慧明は別格だったと言われるほどの選手を有していた。個人戦と団体戦を合わせて、全国大会で何冠頂戴することになるのか。間違いなく去年の慧明は全国で最も注目されたチームだった。

 個人戦では高校選手権と高校竜王で二冠に輝いた。慧明高校のエースだった当時の三年生は、今は大学で一年生ながら全国レベルの大学の主力として活躍している。

 しかし団体戦では優勝候補の筆頭に挙げられながらも、日本一の栄冠を手にすることができなかった。辛うじて、県大会を勝ち上がることはできたが、慧明高校の選手層からすれば、実にもどかしい話だった。

 辻尾ももどかしさを感じた一人だ。もしかすると最も悔しい思いをしたのは彼だったのかもしれない。

 高校将棋では団体戦に出場できるのは三人のみであり、部内でのリーグ戦の結果、四番手となり、代表メンバーに名を連ねることができなかったのは辻尾だった。

『あの辻尾でもレギュラーを奪えない』

 本来ならば慧明高校のレギュラーを賞賛するはずの言葉は、いつしか辻尾に負い目を感じさせるものへと変わっていってしまった。

 勝てないチームに入ることすら適わない。周囲はこれまでの辻尾への評価を改め、下方へと定めていく。エリートであり続けた彼が屈辱にまみれたのは言うまでもない。

「二月以来だから、四か月ぶりか」

 和也が慧明高校にいた当時を思い出すように辻尾は語る。

 破裂しそうなくらい脈打つ心臓。和也は額に汗を浮かべていた。

「先輩らも卒業して、こうやって団体戦に出れるようになったわけだけど、それでも勝ち逃げはずるいんじゃないの?」

 射抜くような真っ直ぐとした視線はなにかを和也に訴えかけた。

 辻尾に勝利し、慧明の三番手としてメンバー入りしたのは他の誰でもなく和也だった。部内リーグでは悉く辻尾を返り討ちにしたものの、大会では疑いたくなるような敗戦を重ねた。慧明が全国制覇を為し得られなかった要因が和也だと多くのものが考えたが、辻尾もその一人である。

 もし自分が出ていれば。

 そう思えば思うほど、悔しさが増していく。いつしかその悔しさは、和也への嫉妬と軽蔑へと変わっていった。

 実力が序列を決める勝負の世界であるはずなのに、敗者が勝者を貶める。そんな歪んだシステムに疑念を持つ者もいたが、幾度となく負けを重ねる和也へのフォローは次第に減っていく。増していく孤独感が重圧となり、和也を苦しめたのは言うまでもない。そしてついに彼は慧明高校を辞めた。これが事の顛末である。

「おい、聞いてんの? ……まあ、いいさ。今日は俺が勝つ。それまで負けないようにな」

 それだけいうと辻尾はトイレから出ていった。

 かつて仲間だった辻尾が未だに自分を恨んでいると思うだけで、胸の奥が痛んだ。

 暴れ狂う心臓。微かに汗ばむ背中。首筋や額はぼんやりと熱っぽく、思考は白濁して思うように考えがまとまらない。それでも本能のままに言葉は紡がれた。

「ごめんよ……」

 ぎゅっと拳を握りしめる。

 逃げたくない。負けたくない。将棋指しの本能として、辻尾から一度逃げ出した自分が情けなく、許し難かった。

 まるで長い悪夢のようだった。魔法が解けたように動かなかった身体が自由を取り戻し、和也の時間は流れ始める。

 再び蛇口を捻り、冷水を手に浴びせる。勢い任せに捻った蛇口からとめどなく流れる強い水圧は暗い何かをさらっていった。

 鏡に映った自身の顔がいつも以上に強い意志を持っていた。客観的な思考を持てるほど落ち着きを取り戻していた彼は、ぶわっと大きく息を吐き出す。

 最後の大会に相応しい、最高の結末を。そして辻尾から逃げることになった自分と決別するために。

 五分前とは随分と違う凛々しい顔つきで、彼は仲間の元へと踵を返した。

つづく



作者紹介


 紙の駒.zoneを二冊も買った太っ腹こと、野川なこです(笑)
 愛称は、なこちゃん。浮島さんやらくは編集長に褒め殺され、上機嫌で書いてしまったのが拙作『ブルペンエースから』です。
 特に浮島さんは褒め上手なので、気が付いたら短歌も詠んでいるかもしれませんね。



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