閉じる


バット・フォー・グッド

 午後3時30分、俺はトイザらスにてグリーンのカラーバットを購入。塩ビの野球ボールまで付けてしまったのは、餓鬼共と草野球を興じたい訳ではない。気の弱さの表れだ。気が弱いという言い方が適当だろうか。幼年期から抜けきれない自意識への敗北。いずれにしても俺は必要のない塩ビのボールまで手にしてしまう。こいつは家に帰ったら、千枚通しでパンクさせたほうがいい。その後、果物ナイフでズタズタに刻んでやろう。そう思うと、やはり真っ赤なボールが相応しい。緑のバットに赤のボール。クリスマスかってぇの。メリー。
「袋はいいです」
 だって、カラーバットとボールだよ。どう袋に入れていいか迷うだろう。どうせカラーバットはすぐに入り用なんだ。ボールなんてポケットに突っ込んでおけばいい。
 俺は店を後にして、ショーウィンドウに自身を映す。寒い季節でもヒラヒラのコートはご免なんだ。足下はローカットのキャンバススニーカー、ボトムは501、トップはアランスェーター。20代の頃じゃあり得ない選択だった。でも、今となればこれがいい。フィッシャーマンの文化が編まれた厚手のスェーター。漁師の血なんぞ一滴も流れちゃいない。でも、いいんだ。生まれるべくして生まれた、その背景がきちんとしたものを身につけていると安心するだろう。ジーンズだってそうだ。THE ORIGIN 501®だよ。
 そして、俺は501のバックポケットに真っ赤な塩ビのボールをねじ込む。続いて、カラーバットのグリップを握って軽く地面を突いた。如何にも軽々しいプラスチックな音が鳴り響き、俺は笑いを堪える。
 さて、何処へ行こうか。なるべく浮かれた人が集まるビルヂングがいいだろう。気位の高い輩の集まった百貨店よりは、最近流行りのショッピングモールなんかがいい。小さな頃にはカラーバットを振り回して三角ベースなんかに夢中になっていた、中流の輩でいいんだ。
 電車で2駅ほど行けば、そんなところがあったはずだ。俺はカラーバットを片手に地下鉄へと向かった。ホームに立ち、再び軽く地面を突く。ピカピカにポリッシャーがかけられたホームは、アスファルトとはまた異なる、多少澄んだ音を響かせた。俺は笑みをこぼす。
 金属バットではない、この如何にも頼りない音がとてもいいと思うんだ。やがて、重厚な音を響かせながら地下鉄がホームに入ってきた。安全柵とともに列車の扉が開く。俺はそいつに乗り込むとすぐに反転して、ドアのすぐ横にカラーバットを立て掛けた。そして、スマートフォンを取り出し、その姿をワンショットだけ撮影する。画面に映し出されたそれに俺はいたく満足だ。
「そうだ」
 不意に思いつき、思わず口につく。これから向かうショッピングモールに東急ハンズがあったはずだ。千枚通しを買うことにしよう。それがいい。
 千枚通しを購入したなら、スターバックスコーヒーで抹茶ティーラテを飲みながら、そいつを真っ赤な塩ビのボールに突き立てようか。ゆっくりと差し込んでいってもBang!!と音を立てて破裂することはないだろう。みんなショッピングの小休止を楽しんでいるところだ。何をしたって誰も気には止めないだろう。それがいい。
 俺は駅を降りると、再びバットでホームを突いて、音色を楽しむ。そして、浮かれた人々の流れに身を任せながらショッピングモールへと進んでいった。
 やけに人が多いと思えば、バーゲンの季節なんだね。俺は10歩進む度にカラーバットで1度床を突く。次第にグリップを握る手にも力がこもり、時折、人が振り返る。俺は目を合わせることはせず口元にだけ笑みを浮かべる。
 俺は至って冷静なんだ。
 どれくらい冷静かと言えば、先ほどの千枚通しのことだけれど、スターバックスコーヒーで抹茶ティーラテを飲みながら塩ビのボールを突き刺すなんて、そんなこと実際にはしないんだ。
 ここには俺なりの線引きがあって、片足が入っていれば一歩だけ飛び出してもいいルール。
 だから、いずれエスカレートして金属バットで無作為にヒトを痛めつけるなんてことはない。
 このカラーバットにしたって、人混みで振り回すなんて迷惑なことは絶対にしない。たとえ振り回したとしても、それはミュージカルのワンシーンで気を良くした紳士がスネークウッドの大曲りステッキを振り回すような、あんな感じでありたい。
 結局、真っ赤な塩ビのボールはキッズたちの遊具施設に放り込んでやった。そして、スターバックスコーヒーには寄ってから帰る。俺は甘党なんだ。抹茶ティーラテに加えて、莫迦みたいに甘いピーナッツバタードーナツを注文する。

 そいつを平らげたら、最近弛みがちな腹へのささやかな抵抗。2駅分なら歩いて帰れるだろう。ショッピングモールを後にすればもう日暮れだ。行き交う車の音に紛れて俺はバットを振るう。ここなら多少派手にやっても構わない。俺が知る数少ないミュージカルの中から「いかれ帽子屋」の歌を口ずさむ。そして、大曲りステッキさながら陽気に振り回し、地面を突き、ガードレールを叩き、蹴り上げもする。やがて気が済んだら、そこいらへバットを捨ててしまう。必要になった時、また新たに買えばいい。


二足歩行

 階段を上る目の前の女、ヒョウ柄のパンプスが片方脱げ落ちた。黒のロングコートをなびかせた男、自動改札を抜けようとする俺の前に割り込んだ。列車とホームの間には思いがけないほど広い隙間。
 俺は考える。そして、飛び越える。
 私上最速のブレインと強靱な両足で、俺は歩みは止めない。
 通勤列車を降りれば、俺の前を同僚の彼奴が歩いていた。ブレインは歩みの速度を緩める。彼奴は携帯電話を握ったまま何やら大声で話していた。
「本当にぃ?」
 彼奴は大げさなアクションで立ち止まる。俺はビクリと肩を揺らす。それでも歩みを止めない。一気に追い抜いてしまおうかと思ったところ、彼奴は笑い声をあげながら再び歩きはじめた。
「驚かせないでくださいよぉ」
 ブレインは咄嗟に歩みの抑制シグナルを放出。
 目の前にはコンビニエンスストア。嗚呼、コンビニエンス。俺は大して飲みたくもない缶コーヒーを買い求めるという体で、コンビニに立ち寄ることにした。
「では、よろしくお願いしますぅ」
 彼奴は電話を切ると、揉み手をしながらコンビニへ向かう。俺は直角に方向転換、左足を跨いで右足をあり得ない方向へと伸ばす。
「ふぬグっ」
 捻った腰の鈍痛に耐えかね珍妙な声が漏れた。そして、彼奴が振り返る。
「おはよっ」
 頼んだ覚えのない爽快な笑顔とともに、スるッと右手を挙げた。俺なんか右足と左足が明後日のほうに向いたまま。尻を突き出した体勢で左手を挙げる。
「おっはよ」
 彼奴は模範的な笑顔の上で眉毛を器用に捻る。俺のブレインは凝固点を超えて溶解しはじめた。今度は右足を跨いで左足をあり得ない方向へと伸ばしてみる。続いて尻を突きだして右手を挙げた。
「おっはよ」
 それに続く言葉を俺は知っている。彼奴の言葉を待っている。なのに彼奴は何も言うことなく、コンビニエンスなストアへ消えていった。
 やむを得ず自問。
「何やってんの?」
 そして、自答。
「ウォーキン、ウォーキン」
 俺は考える。そして、飛び越える。
 私上最速のブレインと強靱な両足で、俺は歩みは止めない。


世界はどうしてこんなにも

 苦いのは毒だから、辛いのは痛めるから、酸っぱいなんて腐っているからだろう。
 奥歯がうずき出した。
 世界一甘いのはミルキーだ。甘くって。優しくって。温かくって。誰もが認めるママンの味。そんな、甘い枕に抱きついた奥歯が疼き出すのなら仕方無い。
 でも、違う。
 苦い苦い臓物に漬け込んだ軟体動物門頭足綱十腕形目を食す。
「甘いっすねぇ」
 そいつを冷酒で流し込む。
 本当に甘いのか?
 ゆっくり吸い込んだ冷気を、痛んだ奥歯へ送る。
 すりおろされる過程で細胞中の酵素とシニグリンが反応することにより生成されるアリルイソチオシアネートの辛い辛い殺菌力に涙を流しながら、生魚を食す。
「甘いっすねぇ」
 そいつを焼酎で流し込む。
 本当に甘いのか?
 25度のアルコールを、痛んだ奥歯へ送る。
 唐辛子や魚醤や大蒜に漬け込んで乳酸発酵させた、辛い酸っぱい漬け物を食す。
「甘いっすねぇ」
 そいつを麦酒で流し込む。
 本当に甘いのか?
 炭酸ガスの刺激を、痛んだ奥歯へ送る。
 甘いわけがないだろう。感覚が腐ってんだ。痛い痛い辛い辛いがお好みならば奥歯がお手頃。そいつを蝕む雑菌が歯槽までをも侵蝕し、陥没したクレーターを覗き込めば、いずれ脳味噌だって拝めるよ。
「それまでにお金は貯めておきな」
 自身の骨髄細胞を培養骨に分化させれば、陥没した歯槽だって治るというよ。保険適用外だって言うから、その時のために、お金だけは貯めておきな。

 シャーレの上で培養骨がコロコロと毬藻のように膨らんだ。そいつを陥没した歯槽に埋めていく。
「それ、一口だけ食わせてくれないか?」
 チョロっと醤油を垂らして、口の中に放り込んでくれればいい。
「サクサクミルキーって知ってる?」
 その名の通り、サクサクッと囓るミルキーだよ。
 培養骨の歯応えといったら、丁度そんな具合なんじゃないかな。無菌状態で培養された自家細胞だ。すりおろされる過程で細胞中の酵素とシニグリンが反応することにより生成される アリルイソチオシアネートの辛い辛い殺菌力に涙を流す必要もないだろう。
 ついでに、肝細胞もよろしく。
 厚生労働省からお達しが出たろう。平成24年7月より、食品衛生法に基づいて、牛レバーを生食用として販売、提供することは禁止だ。
 無菌状態で自家肝細胞を培養した肝臓ならば文句は言わせない。腸管出血性大腸菌の疑いなど皆無だろう。あとは甘い塩を溶かした胡麻油を添えてもらえれば結構だ。
 再び奥歯がうずき出した。
 世界一甘いのはミルキーだ。甘くって。優しくって。温かくって。誰もが認めるママンの味。

 でも、違う。
 酒の肴に自家細胞。培養骨に培養肝。苦味、辛味は無かろうと、ママンの味にはほど遠い。


パレードしようよ

 見るからに頑丈な脚付きグラスに甘い安いワインを注いで、女のグラスを脚で蹴り上げる。本来ワイングラスをかち合わせるのはマナー違反と聴くが、『落としても割れません』を売りにしたようなぶ厚いなグラスだ。ビールジョッキのようにかち合わせても問題はないだろう。

「もうすぐ誕生日ね」

 女は切ったばかりの毛先に目を寄せながら呟いた。

「パレードしなくちゃ」

 お互いの誕生日が近づくと、毎度こんな会話を繰り返している。会話というより合図みたいなもんだ。

 

「パレードしなくちゃ」=「俺はそこそこ機嫌がいい」

 

  女が漕ぐ電動アシスト自転車の後にリアカーをくくりつけてさ、アルミホイルの王冠をかぶった俺がさ、リアカーに乗って手を振るのよ。思慮の浅い選挙運動みたいでいいじゃない。

 そんなパレードしようよ。

 日曜の夜となれば、口数も少ない。

 明日は参加することに意義がある全社会議だ。飽きがきた俺は眠気に負けないよう恒例の脳内会議を展開する。明日の議題は『女子社員のビジネスカジュアルの許容範囲について』と決めている。事前に女にも意見も聴いてみることにした。

「ペコちゃんがプリントされてなきゃいいのよ」

 いくら酒に強くはないとはいえ、まだ1杯目だぞ。

「ポコちゃんは?」

 俺は言いかけて飲み込む。発言のセンスには気をつけていたいと思う。女を落胆させないためのマナーとしてね。気障なこと言うようだけれど、相手が女房なんだからいいだろう。

 女房だって。あはは。

 人前で口にしたことも無い。何だか古風じゃない。でも、あえて言いたいね。直属の課長なんかにさ。

「家の女房がねぇ」

 ちょっと部長クラス。

 あと5年で不惑とは信じがたい。

 会話は続かず、俺たちはグラスを傾けながらぼんやりと報道番組を眺めた。あの広報部長は立派だなぁ。ウチの会社で言うと誰だろう。そもそもウチに広報部なんて無いよなぁ。

 深酒はしないように。女の顔が桜色を呈したところで、グラスに残ったワインを飲み干す。

 女は頬杖ついてアンニュイ。俺はそれを見届け、和室に2組の布団を敷いた。

 

 アンニュイ【ennui フランス】心が晴れず、けだるいこと。倦怠けんたい。

 (広辞苑 第六版 DVD-ROM版)

 

 俺のアンニュイには、語感からくる勝手な解釈がプラスされている。

 女は布団を見ると途端に目を輝かせた。アンニュイタイムは早々に終了。そして、鼻息を1つ。

「髪を短くしたら、でんぐり返ししたくなったわ」

 女は布団の上でクルリと回ってボブを揺らす。

「森昌子かよ」

「森光子でしょ」

 女は再びダイニングへ戻り、急須の出し殻に湯を足した。俺は布団の上で、スマートフォンをいじりながら、お気に入りのロックミュージシャン達のどうでもいい呟きを流し読みする。

「お茶飲まないと、明日しんどいわよ」

「京ことばだね」

 俺は要らぬ知識をひけらかしながら、湯飲みを受け取る。

「熱っちい」

 熱くて口に運ぶこともできず、畳に置いて、手先をブルブル振るった。

「熱くないの?手の皮厚いなぁ」

「面の皮は厚いのにね」

「面に皮が集まっちゃったんだよ」

「質量保存の法則?」

 俺は鼻で笑って、湯飲みの縁を指先で摘んだ。

 俺たちはいい具合だ。

 機は熟した。

 今年こそは本気でパレードをしようと、愚考しはじめる。


女のいない夜

「ファンタグレープって、久しく飲んでないよなぁ」 
 ブックオフで105円の文庫本を購入して家に戻ると、すっかり外出仕様に変貌を遂げた女が出迎えた。
「夕飯、本当に任せちゃっていいの?」
 ここ数日、何度も繰り返される質問に嫌気がさす。
「大丈夫だって言ってんだろ。あるモンでなんとでもするから、気にせず呑んでこい」
 できないんじゃない。やらないだけだ。
 学生時分は『とんでん』でバイトしていたんだ。うどんを茹でるだけじゃないぞ。天ぷらだって揚げられる。180℃にキープされた岸辺のあるフライヤーならね。
 女は俺の手をとって、急いだ様子でキッチンに駆ける。おうちで走っちゃダメなんだよ。幼い息子が得意げに声をあげた。
「ゴメンゴメン」
 女は冷蔵庫の前に立ち、あれこれ食材に指を差していく。俺はうどんと玉子の場所を再確認。小鯵のパックなんて見せられたところで扱う術がない。最後に、野菜室からスヌーピーがデザインされたタッパーウェアを取り出した。
「茹でたホウレン草もあるからね」
 そいつは具合がいい。緑のモノを食わせておけば上等だ。
 女は冷蔵庫の中身を一通り案内して、一定の安心感を得ると、玄関でブーツのジッパーをあげた。俺は息子と2人で女を見送り、ドアが閉まればロックをかけた。

 俺は、はじめに慣れた手つきで息子を風呂に入れると、ブロックが散らばるリビングへリリースした。
 そして、男1匹、台所に立つ。
 女のいない夜。俺は昨晩のおでんの残り汁にうどんと玉子を落として、意気揚々。
「今日はパパの手料理だぞ」
 彼奴も随分と話が通じるようになった。
「ランチョンマット敷いて、箸出しといてくんないか?」
 一言伝えれば、彼奴はブロックを組み立てる手を止めて、食器戸棚へ向かう。口を尖らせて感心する反面、何だか気になる。随分と聞き分けがいいじゃないか。
 彼奴は親父の言うことが絶対とでも思っているのではなかろうか。
 鍋の火を止めてテーブルに目をやれば、女の分も含めた3枚のランチョンマットが敷かれていた。俺は口をへの字に結び、そのうち1枚を片づけた。
 女のいない夜。俺は幼い息子を前に必要以上にハイテンション。
「いっただっきまぁす」
 僅かに残る不安と緊張が蜘蛛の糸のように煩く纏わりつく。そいつを拭い去るように声を張り上げる。大きく手を打って頭を垂れる。彼奴は俺の心持ちなんぞ露知らず、面白がって何度も手を打つ。俺は鼻を鳴らして、濃いめに拵えた焼酎の湯割りを一口含む。
 静かな夜にズルズル品のない音を響かせる。ひゅいと一息ついて息子を眺めれば、湯気立つ丼に顰めっ面を見せながら格闘中。小皿に取り分けてやったほうがいいのだろう。しかし、酒に手をつけてしまった俺は重い腰があがらない。
「おいしいか?」
 顰めっ面のオウム返し。その真意は測りかねるが、おでんの汁に玉子と炭水化物だ。不味い要素はないだろう。格闘する我が子を眺めながら、うどんを啜り、汁を吸う。ほらどうだ。不味い要素など一つもない。

 茹でたホウレン草もあるからね。
 不意に女の言葉を思い出した。緑のモノを食わせておけば上等だ。
 女のいない夜。俺は幼い息子の扱い方が少々荒い。
「おい、冷蔵庫のスヌーピー持ってこい」
 すぬうぴい?彼奴は首を傾げて立ち上がる。俺は人差し指を伸ばして冷蔵庫へ導く。彼奴は冷蔵室の扉に手を伸ばす。
「ちゃうちゃう。チルドぉ」
 ちるど?
「あっ、じゃなくって、あれなんだ?野菜室か。引き出す。ちゃうちゃう。引き出し、ちゃうってばよ」
 俺は溜め息とともに立ち上がり、野菜室を引き出した。
「いいから、もう座れ」
 彼奴の後頭部を指先で小突いて、タッパーウェアを取り出す。そして、ホウレン草を一摘み丼に放り込んで、箸でうどんを掻き回した。これで多少は冷めたろう。
 ハイチェアについた彼奴の顔を覗けば、眉を垂らして小さくなっていた。俺は口をロの字に開き、やる気のない烏のように嗚呼と鳴く。テーブルを挟んで腰を下ろす。無理に口角を持ち上げる。
「怒ってないよ」
 ってか、ごめん。
 女のいない夜。俺は酷く自己嫌悪する。
 腕を伸ばして電気ポットから湯飲みに湯を足す。残りわずかの『安心院蔵』を2度に分けるべきか熟考した後、口を尖らせて入れすぎた湯を啜る。
「熱っちぃ」
 本当は大して熱くはないのだ。苦悶の表情を浮かべれば、案の定、彼奴は子猿のようにキャッキャと笑う。その切り替えのはやさは見習うべきものがある。しかし、あれだね。他人の不幸は密の味。ヒトは生まれつき他人の不幸を笑いものにする質があるようだ。俺はタラタラとウドンを啜る彼奴を眺めながらヒトの本質を知った気になる。
 五合瓶を傾けて、最後の一滴を振り落とす。あと一杯を惜しみながらチビチビやっていると、彼奴の様子がどうもおかしい。
「おいしいか?」
 気のない声でオウム返し。その真意は、眠いんだろ。こんな俺と2人きりでも、眠りに襲われるのか。頭をグラグラさせはじめ、まったく健やかな体だね。
 大して美味くもない丼を、よくぞ半分も平らげてくれた。
「最後、一口」
 俺はホウレン草を箸で摘んで、小さなチューリップのような口に押し込む。そして、目を閉じたまま口を動かす彼奴を抱え上げた。
 抱かれた時の安定感。それだけは女より優れているだろう。
「パパがいるから絶対大丈夫」
 女のいない夜。俺は幼い熱の固まりを胸に押しあてて、必要以上にハードボイルド。
 片手にファンタグレープを握って、背中に不満を背負い込んだまま店内を闊歩していた。不意にブックオフで見かけた少年がフラッシュバックした。
 男児たる者、ハードボイルドであれ。そう願う。
 例えば、女とは一切口をきかないという思慮の浅いものであったり。例えば、いつでも笑顔を絶やさないなんて意地っ張りだったり。例えば、電車のシートは端でなければ座らないなんてこだわりだったり。
 「固ゆでの卵」の意から転じて冷徹・非情の意?
 輸入盤のCDしか買わないなんてヤツもいる。味噌汁は食後のデザートだってヤツもいた。ギターのテクニックよりジャンプの飛距離に悩むヤツもいる。
 ハードボイルドとは、ちと違う。
 彼奴と2人きりだからとるべきアティチュード。あと10年もすれば片手にファンタグレープを握って、背中に不満を背負い込む彼奴にとるべきアティチュード。俺は今こそとるべきアティチュードを模索中。
 歯磨きをすること。出なくてもトイレに行くこと。靴下は脱ぐこと。床につく前のルール。
 俺は寝息をたてる息子を抱えて洗面台に立つ。
 さて、どうしたもんか。
 鏡には背後の浴室が映る。
 女のいない夜。俺が出て行ったらどうなるだろう。彼奴を浴槽に放り込んで、出て行ってしまったらどうなるのだろう。
 おい女。早く帰ってこい。
 そして、この阿呆な思考たちを止めてくれ。



読者登録

puzzzleさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について