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藤吉郎伝 若き日の豊臣秀吉

生駒屋敷

 

「あれが生駒殿のお屋敷じゃ」と与三郎が指を差した。

 枯れ野の中に大きな建物が見えて来た。土塁に囲まれた、その屋敷には物見やぐらまであり、まるで、城のようだった。

「すげえなあ」と藤吉郎は思わず、叫んだ。

「確かに凄い。御主人様は蔵人くろうど殿といってな、灰と油を商う商人じゃ。馬や船を使って荷物の運送もやっている。かと言って、ただの商人でもない。武士として岩倉や犬山にも出入りしている不思議なお人じゃ」

 屋敷へと向かう通りの右側に広い馬場があり、侍とも人足にんそくとも区別のつかない男たちが、大声で叫びながら馬を乗り回していた。

「あれは人足ですか」と藤吉郎は聞いた。

「そうじゃ。いや、浪人者もおるようじゃな。蔵人殿は徳のあるお人で、各地から集まって来る浪人たちの面倒もみておられるんじゃ。ほれ、あそこに見えるうちはな、浪人たちが勝手に寝泊まりしてもいいという長屋じゃ」

 与三郎は左手に見える家を指で示した。草むらの中にポツンと一軒の家が建っている。その家は藤吉郎の家よりも大きく、二人の浪人が縁側で話し込んでいるのが見えた。

「誰が泊まっても構わないんですか」

「ああ、構わん。お前があそこに泊まり込んでも誰も文句は言うまい」

「へえ‥‥‥」

 屋敷は水をたたえた幅広い堀と高い土塁に囲まれ、土塁の上の物見櫓から弓を持った侍が藤吉郎たちを見下ろしている。立派な門の前には太い棒を構えた仁王におうのような大男が二人、怖い顔をして立っていた。

 与三郎は恐れる事なく門番に近づくと何事かを言った。門番は急に笑顔になり、二人を中に入れてくれた。

 土塁の中は広々としていた。侍たちが武芸の稽古に励んでいる。右奥の方で弓矢の稽古、その手前で槍や剣の稽古をしていた。正面に中門らしきものが見え、その向こうに大きな屋敷があるようだった。

 与三郎は真っすぐ進まずに左側にある塀の中に入って行った。塀の中には大きなうまやと侍長屋があった。そして、奥の方に屋敷があった。

「蔵人殿の伜、八右衛門殿のお屋敷じゃ」と与三郎は奥の屋敷を示した。

「ここは二の曲輪くるわでな、奥に本曲輪があって、蔵人殿のお屋敷があるんじゃ。そして、東の方に三の曲輪がある。そこには船着き場があって、人足たちが大勢、働いておる」

 与三郎が屋敷に声を掛けると、八右衛門が縁側に顔を出した。

「おう、与三郎殿か。毎日、寒いのう。何か、収穫はあったか」

 八右衛門は商人には見えなかった。髭面で毛皮を着込み、まるで山賊の親玉のようだ。どう考えても、この屋敷の主とは思えない。

 八右衛門はギョロッとした目で藤吉郎を眺め、「ほう、土産を持って来たようじゃのう」と太い声で言った。

「はい、面白い奴での、織田備後守を討つと言っておる」

「なに、備後守をか」

「親父の仇だそうじゃ」

「ほう‥‥‥確かに、面白え面構えじゃな」

 二人は井戸で手足を洗うと屋敷に上がった。

「小僧、どうやって備後守を討つもりじゃ」と八右衛門は髭を撫でながら聞いた。

「鉄砲で撃ちます」と藤吉郎は鉄砲を構えて撃つ真似をした。

 八右衛門は藤吉郎の仕草に驚き、改めて、藤吉郎を眺めた。

「小僧、鉄砲を撃った事があるのか」

 藤吉郎は両手を広げて、首を振った。

「こいつの伯父さんが、ここで鉄砲鍛冶をしているらしいの」と与三郎が説明した。

「なに、本当か」

 藤吉郎は力強く、うなづいた。「清須にいた孫次郎っていう鍛冶師なんだ」

「おう、孫次なら確かに、ここにおる。お前が孫次の甥御なのか‥‥‥うーむ、面はあまり似てねえのう」

「似てなくても伯父さんだい」

「そうか、そう怒るな」

「伯父さんから鉄砲を習って備後守を撃つんだ」

「成程」

「鉄砲はできたのですか」と与三郎は聞いた。

 八右衛門は首を振った。「孫次は腕のいい職人だが、鉄砲作りはなかなか難しいようじゃ」

「そうじゃろうの」

 藤吉郎は八右衛門の家来けらいに連れられて、伯父の仕事場に行った。

 仕事場は屋敷の西の森の中にあった。

 孫次郎は暑苦しい小屋の中で、若い職人を使って鉄砲作りに励んでいた。藤吉郎が名を名乗ると孫次郎はジロッと睨み、「何の用じゃ」とそっけなく聞いた。

「ええと、鉄砲の撃ち方を習いたくて、やって来ました」と藤吉郎は姿勢を正して答えた。

「わしゃ鉄砲を作ってるがな、撃ち方など知らねえわ。おめえは兄貴の所にいたらしいが、三ケ月で弱音を吐いて、逃げ出したそうじゃの。その後もあっち行ったり、こっち行ったりしたが、どこも長続きしねえ。あげくにゃ、職人は向いてねえから商人になるんだと言ったんじゃねえんか。今度は鉄砲撃ちになるんか。やめた方がええ。どうせ、長続きせん」

「伯父さん、俺、本当のお父の仇を討たなけりゃなんないんだ。それには、どうしても、鉄砲を習わなけりゃなんないんだ」

「お父の仇討ちじゃと? ふざけた事をぬかすんじゃねえ、寝ぼけてんのか」

「寝ぼけてなんかないやい。俺は本気だ」

「ふん。おめえのような半端者はんぱもんに何ができる、馬鹿者が」

 孫次郎は怖い顔して藤吉郎を睨むと、戸をバタンと閉めて小屋の中に入ってしまった。

 藤吉郎は途方に暮れた。大声で泣き出したい心境だった。フラフラとその場を離れようとすると若い職人が声をかけて来た。

「今、親方は機嫌が悪いんだよ。しばらく経ってから、もう一度、話した方がいい」

 若い職人は藤吉郎の肩をポンと叩いて、「大丈夫だ」とうなづいて笑った。

 藤吉郎は若い職人の笑顔を信じて八右衛門の屋敷に戻った。しかし、八右衛門も与三郎も共にどこかに出掛けてしまっていなかった。二人がいないのに屋敷に留まるわけにもいかず、トボトボと門を出た。

 さて、これからどうしよう、と堀に架かる橋の上にたたずんでいると、与三郎が言っていた浪人長屋が目に入った。あの長屋は誰が泊まっても構わないと与三郎は言っていた。藤吉郎は興味を持って、行ってみる事にした。

 ほおに刀傷のある浪人が大きないびきをかいて、縁側で大の字になって昼寝していた。藤吉郎が近づくと刀を手にして急にガバッと跳ね起きた。藤吉郎はビクッとして、後ろに跳びはねた。浪人は藤吉郎をしばらく、じっと睨んでいたが何も言わず、また横になってしまった。ホッと胸を撫で下ろしてから藤吉郎は首を傾げ、長屋の中を覗いた。人相のあまりよくない浪人が五、六人、賭け事に熱中しているようだった。訳のわからない事をわめきながら、真剣な顔をしてサイコロを振っている。その向こうではニヤニヤしながら書物を読んでいる太った浪人が腹をボリボリ掻いている。

 藤吉郎は寝ている浪人の横を通って、長屋の入り口から中を覗いた。薄暗い広い土間にたすき掛けをした浪人がカマドの前で飯を炊いている。藤吉郎は美味そうな匂いに誘われて土間に入ると浪人に声を掛けた。

「おじさん、針はいらないかい」

 立派な口髭の浪人はポカンとした顔をして藤吉郎を見ると、「今、何と申した」と聞いて来た。

「針はいらないかって言ったんだ」

「お前、アホか。わしが針など買うと思うのか」

 藤吉郎は肩をすぼめて首を振った。

「でも、俺、針しか持ってないんだ。おじさん、針とその飯を交換しないかい」

「小僧、腹が減ってるのか」

 藤吉郎はうなづいた。

「どっから来た」

「那古野」

「那古野から何しにここに来た」

「鉄砲を習おうと思ったんだ」

「何じゃ、鉄砲じゃと? 針売りの小僧が鉄砲を習うじゃと」

 浪人は大笑いした。

「お前はやっぱり、アホじゃな」

 鉄砲を習って父親の仇を討つんだと説明しても浪人は信じてくれなかった。信じてくれなかったが飯を食わせてくれた。

 口髭の浪人は加賀の国(石川県南部)から流れて来て、もう十五年余りもここに厄介やっかいになっているという。

「えっ、十五年もここにいるの」と藤吉郎は思わず聞いた。十五年と言えば、藤吉郎が生まれた頃からずっと、ここにいるという事になる。とても信じられなかった。

「まあ、そうじゃ」と浪人は何でもない事のように答えた。

「十五年もここにいたら、ここのぬしだね、でも、ここで何をしてたの」

 藤吉郎の見た所、それ程、強そうには見えないが、兵法ひょうほう指南役として、ここの侍たちに武芸を教えているとの事だった。

「武芸を教えるような人がどうして、飯の支度なんかしてるの」

「ここにいる連中はの、ろくに飯も炊けんのじゃ。半生だったり、黒焦げだったりしてな、まずい飯など食いたくないからの。仕方なく、わしがやってるんじゃよ」

「女の人に頼めばいいのに」

「恐ろしがって、女子おなごは誰もここには近づかんのじゃ」

「成程」と藤吉郎も納得した。

 藤吉郎は腹ごしらえを済ますと富樫惣兵衛と名乗る兵法指南役にお礼を言って、また、伯父のいる鍛冶小屋に戻った。

 恐る恐る小屋を覗くと、ばったり伯父と目が合ってしまった。藤吉郎が慌てて逃げ出すと伯父が声を掛けて来た。

「おい、おめえ、中村の藤吉じゃねえのか。どうして、こんな所にいるんじゃ」

 まるで、初めて会ったような口振りだった。藤吉郎は振り返って伯父の顔を見た。伯父はニコニコしていた。

「よう来たのう。おっ母は元気か」

 さっきから一時いっとき(二時間)と経っていないのに、伯父の機嫌はすっかりよくなっていた。どうなってんだと思いながら藤吉郎は伯父の側まで行った。若い職人は、よかったなと言うように笑っていた。伯父は自慢気に作りかけの鉄砲を見せてくれた。

「あと、もう少しじゃ」と言いながら鉄砲の構え方を教えてくれた。

 未完成の鉄砲だったが、藤吉郎はわくわくしながら鉄砲を構えた。那古野の馬場にいた上総介になったような気分だった。

「バーン、バーン」と何度も大声で叫びながら鉄砲を撃つ真似をした。

 藤吉郎はその晩、伯父の家に行き、家族の者たちに歓迎された。伯父の家は仕事場からちょっと離れた所にあり、建てたばかりの新しい家だった。愛想のいい太ったおかみさんとおかみさんにそっくりな十歳の娘、そして、鼻水を垂らした六歳の男の子がいた。従弟たちに会うのは初めてだったが、すぐに慣れ、一緒に遊ぼうと藤吉郎を誘った。

 次の朝早く、藤吉郎は伯父にたたき起こされ、仕事場に連れて行かれ、有無を言わせずに雑用をやらされた。仕事中の伯父は人が変わったかのように不機嫌だった。藤吉郎が何を言っても上の空で、ただ、鉄砲を作る事のみに集中していた。そして、仕事が終わると人格が変わったかのように優しくなった。

 仕事が終わった後、藤吉郎は、「俺は鍛冶師の修行に来たんじゃなくて、鉄砲の撃ち方を習いに来たんです」と恐る恐る、きっぱりと言った。

 伯父が怒るのを覚悟の上で言ったのだが、「そうか、そうか。これからのいくさは鉄砲じゃ。今のうちに習っておいた方がいい」と理解を示してくれた。ところが、次の日になると、また、朝早くから雑用をやらされ、鉄砲の撃ち方など全然、教えてくれなかった。源助という若い職人が、もう少しで鉄砲が完成する。鉄砲ができれば撃つ事もできる。もう少しの辛抱だと言ったため、藤吉郎は何とか我慢する事にした。

 その年は暮れ、正月になった。十五歳になった藤吉郎は伯父の家族と共に生駒家の正月の行事に加わった。

 生駒家の正月は華やかで賑やかだった。太夫たゆう様と呼ばれているだけあって、何もかもが派手で豪勢だった。広い馬場に豪華な料理をずらりと並べ、来る者は拒まずといった具合に大勢の者たちを呼んで、飲めや歌えと三日間も騒いでいた。馬場には各地から集まって来た商人たちが露店を広げ、舞台の上では旅芸人たちが様々な芸を披露し、生駒家の侍や人足は勿論の事、居候いそうろうの浪人たち、近所の村人たち、どこから来たのか乞食や浮浪児、遊女たちまでが一緒になって騒いでいた。

 藤吉郎は今まで見た事もない料理を目の前にして、毎日、手当たり次第に腹に詰め込んでいた。酒も飲み放題で、伯父の孫次郎は仕事の事も忘れて、始終、機嫌がよかった。毎日、酔っ払っては岩倉から来た遊女のもとに通っていた。かなりの年増で、決して美しいとは言えないけれど、伯父は鼻の下を伸ばして、毎日、嬉しそうだった。伯父の機嫌はよかったが、代わりに、おかみさんの機嫌は悪かった。恐ろしい顔をして、伯父をちゃんと見張っていろと命じた。藤吉郎も男として、この時は伯父の味方をした。

 食っては踊り、食っては踊りの三日間は、夢のような日々で、藤吉郎はここに来て本当によかったと思っていた。

 三箇日が過ぎるとまた、伯父の機嫌は悪くなり、退屈な雑用仕事の毎日が始まった。

「あと、もう少し‥‥あと、もう少し‥‥」と伯父は口癖のように言っているが、鉄砲はいつまで経っても完成しなかった。つまらない毎日にうんざりしている時、伯父を訪ねて来た者があった。

 鉄砲を背負い、毛皮を着込み、革袴をはいた黒づくめのかぶき者だった。こんな所にも、かぶき者がいるのかと藤吉郎は驚き、そのカッコよさに見とれた。

 かぶき者は黒鹿毛くろかげの馬で乗り付けると、「鉄砲はできたか」と小屋の中にズカズカと入って来た。後を追うようにして、派手ななりをしたかぶき者が入って来たが、なんと、そのかぶき者は女だった。刀を背負い、花柄模様の陣羽織に白い革袴を身に付け、むちを手にした女は小屋の中を珍しそうに眺め回した。

 藤吉郎はその女を見て、姉ちゃんそっくりだと思った。着ている物は全然違うが、男まさりなその仕草はそっくりだった。こんな女が姉の他にもいたのかと何だか嬉しくなった。

 伯父は二人のかぶき者をチラッと見たが返事もせず、仕事を続けていた。

「その面じゃ、まだのようだな」と男のかぶき者は言って小屋の中を見回してから、藤吉郎の顔を覗き込んだ。

「ほう。小僧、面白え面をしておるのう」と言って腹を抱えて笑った。

「あら、お猿じゃないの。でも、可愛いじゃない」と女のかぶき者は言って、藤吉郎の頬をそっと撫でて、ニコッと笑った。男の格好をしていても綺麗な姉さんだった。

「鉄砲を作る猿か、こいつは面白え‥‥‥しかし、猿真似では役に立たんわ」

 二人は笑いながら小屋から出て行った。

「何者です」と藤吉郎は源助に聞いた。

「蜂須賀小六殿といって鉄砲の名人じゃよ」

「えっ、鉄砲の名人‥‥‥女の方も?」

「女は小六殿の妹じゃ。鉄砲の名人かどうかは知らんが、武芸の達人には違いない。あれ程の別嬪べっぴん、男どもが黙ってはおらんが、自分よりも弱い男には見向きもせんとの評判じゃ」

 藤吉郎はすぐに小六とその妹の後を追った。二人は馬に乗って駈けて行ったが、必死になって追いかけた。

 二人は馬場に入って行った。馬場に小六の仲間らしいかぶき者が五、六人、何事か、わめきながら馬を乗り回していた。皆、乗馬が達者で、曲芸師のように馬を乗りこなしていた。

 藤吉郎は息を切らせて小六に追いつくと、「お願いします。鉄砲を教えて下さい」と大声で叫んだ。

 小六の仲間の一人が弓を振り回しながら、「なんじゃ、こいつは」と馬上から言った。

「鍛冶小屋にいたお猿さんよ」と小六の妹が言った。

「おう、そういや、猿そのものじゃな。猿が鉄砲を撃つのか。そいつは面白え」と妹の隣にいる男が言った。

 小六たちは藤吉郎を見て、大笑いした。

「俺は木下藤吉郎だい。猿なんかじゃない」

「小僧、おめえ、侍の子か」

「お父は弓矢の名人だったんだ」

「ほう、大したもんじゃ。弓矢で鳥でも落としたのか」と小六は鼻で笑った。

「おい、小僧、親父の名は何と言う」と小六の後ろにいた男が顔を出した。

「木下弥右衛門だ」

「木下弥右衛門‥‥‥」

「小太郎、おめえ、知ってるのか」と小六が聞いた。

「いや、知らん。ただ、どっかで聞いた事あるような気がする」

 小太郎と呼ばれた男は腕を組みながら遠くを見つめていた。その背中には、小六と同じく鉄砲があった。

「お父は有名なんだ」と藤吉郎はみんなに自慢した。

「猿、おめえも有名になる事じゃな」と言うと小六は馬の腹を蹴った。

 黒づくめの小六は黒い馬に乗って稲妻のように走り去った。小六を追うようにして妹が続き、仲間たちも騒ぎながら馬場から出て行った。

 藤吉郎は後を追いながら、「鉄砲を教えて」と叫んだが返事は帰って来なかった。

 藤吉郎はいつまでも馬の後を追いかけた。が、所詮、馬には勝てず、途中で見失ってしまった。気がつくと原野の中にポツンと立っていた。必死になって馬を追いかけて来たので、生駒屋敷へ帰る道もわからない。藤吉郎は大きく溜め息をつくと空を見上げた。

 まだ、日は高かった。

 汗を拭くと、その場に寝転がって考えた。

 生駒屋敷に戻るか。いや、帰ってもしょうがない。伯父の所にいても鉄砲を教えてくれそうもない。それなら、小六を訪ねて行った方がよさそうだ。小六のうちはわからないが、鉄砲の名人というからには人に聞けばわかるだろう。

 藤吉郎はそうと決めると馬の足跡を追って、のんびりと歩き出した。

 


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藤吉郎伝 若き日の豊臣秀吉

侍奉公

 

 蜂須賀小六の屋敷はすぐに見つかった。

 最初に出会った農夫に聞いたらニコニコしながら丁寧に教えてくれた。農夫の指さす方を目指して行くと宮後みやうしろ村という所に着き、小六の屋敷はすぐにわかった。

 宮後村の領主、安井弥兵衛の屋敷と隣り合って並び、共に水を湛えた堀と土塁に囲まれた大きな武家屋敷だった。

 藤吉郎は門番に、生駒家からの使いでやって来たと嘘を言って屋敷内に入れてもらった。しかし、小六はまだ帰っていなかった。

 小六の屋敷は烏森の杉原家の屋敷よりもずっと広く、母屋おもやを中心に侍長屋らしい建物がいくつも並んでいて、藤吉郎はその一部屋で待たされた。小六はなかなか帰って来なかった。

 じっと待つ事に退屈し、屋敷の中をうろうろと見て回ると、女たちは台所で働いているが、男は門番しかいなかった。藤吉郎は女たちの仕事を手伝いながら小六の帰りを待った。

「あんた、どっから来たん」と雑用をやらされている娘が聞いて来た。

「生駒様のお屋敷から来たんだ」と藤吉郎は面倒臭そうに答えた。

「ふーん。何しに来たん」

「小六様に用があったから来たんだよ」

「御主人様に何の用なん」

「おめえには関係ねえ」

 おしまという娘は藤吉郎に付きまとって、何だかんだと聞いてきた。

「どうして、おらの仕事を手伝ってくれるん」

「暇だからだよ」

「おら、嬉しいわ」

 藤吉郎はおしまの顔をマジマジと見た。わりと可愛い顔をしていた。それに、着物がはち切れんばかりに胸が大きかった。幼い顔付きと立派な体付きはまったくの不釣り合いで、それが魅力とも言えた。

「おめえ、いくつなんだ」と藤吉郎は聞いた。

 おしまは藤吉郎と同じ十五歳だった。近所の百姓の娘で、父親が足軽として戦に行って片足を失い、母親は男を作って逃げてしまった。おしまは父親の面倒を見るために、ここで奉公しているとの事だった。

 日暮れ近く、何人かの侍が馬に乗って騒々しく帰って来た。妹の姿はあったが小六の姿はなかった。藤吉郎は屋敷の隅にある蔵の陰で寒さに震えながら、おしまを口説いていた。おしまに惚れたわけではないが、その体には充分に興味があった。

「小六様の妹さんはどうして、男のなりをしてるんだ」と藤吉郎はおしまに聞いた。

「そんな事は知らねえ」とおしまは首を振った。「おらが来た時から、あんな格好してた」

「ふーん。強えのか」

「そりゃ、強えよ。おら、おすわ様が寄って来る男たちを倒すのを何度もこの目で見たわ」

「おすわ様っていうのか」

「そう、おすわ様だ。その下にも、おらと同い年のおゆう様っていうのがおるけど、おゆう様もおすわ様とおんなじに強え」

「へえ、おゆう様っていうのもいるんだ」

「おゆう様も別嬪べっぴんだけど、あんた、好きになっても駄目だ」

「どうして」

「石ツブテでやられる」

「おゆう様は石ツブテが得意なのか」

「うん。百発百中だ」

「へえ、凄えな‥‥‥おめえだって、よく見りゃいい女子おなごだ」

「やだよお、この人は」とおしまは嬉しそうに藤吉郎の肩を押した。

「おめえ、寒くねえか」と藤吉郎が抱き寄せようとすると、おしまは藤吉郎の手を打ち、「寒くねえ」と睨んだ。

 おしまが女中部屋に帰った後、藤吉郎は門番小屋に行って、小六の帰りを待った。火鉢に当たりながら、うとうとしていた時、ようやく小六が帰って来た。

 藤吉郎は跳び起きると小六を迎えた。馬から下りると、小六はいい機嫌になって卑猥ひわいな小唄を歌っていた。藤吉郎の顔を見ても驚くわけでもなく、酒臭い息を吹きかけて、「おっ、どっかで見た面じゃのう」と笑った。

「生駒屋敷にいた木下藤吉郎です」と言うと、藤吉郎の顔をじっと見つめ、「おう、猿じゃ、猿じゃ」と藤吉郎の肩を何度もたたいた。

 鉄砲を教えてくれと頼むと、よし、よし、任しておけと藤吉郎の胸を小突いた。

 藤吉郎は大喜びして、小六と一緒に小唄を歌い、わけのわからない踊りを踊った。小六に誘われるまま、小六の部屋に上がり、酔っ払った小六の面倒を見ながら、その部屋で眠った。

 次の朝、小六より先に起きて台所で働き、小六が起きた頃、挨拶に行くと、小六は昨夜の事など全然、覚えていなかった。藤吉郎の顔を見て、「おっ、どっかで見た面じゃのう」と昨夜と同じ事を言った。

 藤吉郎が名を名乗ると、猿じゃなと思い出したが、「どうして、猿がここにいるんじゃ」と首を傾げた。

 鉄砲を教えてくれと頼むと、駄目じゃと断られた。それでも、出て行けとは言わなかった。何としても、小六から鉄砲を習うまでは、ここからは離れないと覚悟を決め、勝手にうまやや庭の掃除を始めた。清須にいた頃、職人のもとで、怒鳴られながら雑用ばかりしていたので、何をすれば主人が満足するかを身をもって経験していた。

 藤吉郎は空いている長屋に住み込んで、誰に命じられるわけでもないのに、朝から晩まで雑用をやっていた。台所で働く女たちは、藤吉郎が先の事まで見越して、よく働くので重宝がり、すぐに仲良くなった。特におしまは頼りにして、仕事が終わると毎晩、藤吉郎の部屋にやって来て悩み事を相談していた。しかし、藤吉郎がおしまの体にさわろうとすると拒否反応を起こして帰ってしまう。嫌われたかなと思っていると次の日にはまたニコニコして寄って来る。女子というのは、なかなか難しいものだと藤吉郎は思った。

 小六の母親も藤吉郎の事を気に入り、何か用があると必ず、藤吉郎を呼んだ。男まさりな小六の妹、おすわとおゆうの二人も、ちょっとした事でも、「ねえ、猿、あれやって」「ちょっと、猿、これ頼むわ」と気安く用を言い付けた。

 猿と呼ばれるのは好きではないのに、二人に呼ばれるとなぜか、ニコニコして言う事を聞いてしまう。そんな自分が情けなかったが、どうしようもなかった。なぜか、二人に猿と呼ばれても腹が立たないのが不思議だった。

 おすわは姉に似ていて、何かを言われるたびに姉を思い出し、はい、はいと言う事を聞いてしまう。おゆうの場合は同い年なので、男まさりな格好をしていても、姉を思う事はなかったが、何を言われても、なぜか、逆らう事ができなかった。おしまの言った通り、別嬪だったからかもしれなかった。

 鉄砲を教えてもらうまでは何事も辛抱だと、藤吉郎は何を命じられても、いやな顔もせず、喜んで仕事を引き受けた。時には母親から愚痴を聞かされる事もあり、蜂須賀小六が何者なのかを少しづつ知るようになった。

 立派な武家屋敷に住んでいるので、どこかの殿様に仕えているのだろうと思っていたが、そうではなかった。普段は生駒家の荷駄隊の護衛をして旅に出ている事が多く、戦が起こると傭兵ようへいとして、勝てると見極めた方に付き、活躍している野武士だった。小六が一声掛ければ木曽川流域の野武士が一千人余りも集まるという。世の中には不思議な男がいるものだと藤吉郎は小六という男を見直していた。

 蜂須賀家は本来、海東郡の蜂須賀村の領主だった。勝幡城の織田備後守と争って領地を奪われ、父親は戦死した。小六は母親に連れられて、母親の実家である丹羽郡宮後村の安井弥兵衛を頼った。小六は安井家で成長し、備後守を倒すために武芸に打ち込み、川並かわなみ衆と呼ばれる木曽川流域の野武士たちを率いて、美濃の斎藤道三の傭兵となり備後守と戦って来た。ところが一昨年の春、道三は備後守と和睦してしまった。道三の娘が備後守の伜、上総介に嫁いだのだった。小六は備後守を倒すため、配下の者を末森の城下に送って様子を探っているが、なかなか、いい機会は得られなかった。

 藤吉郎がここに住み着いてから一月近く経ったある日、庭を掃いていると旅から帰って来た小六が縁側から声を掛けて来た。

「おい、猿じゃねえか。おめえ、まだ、ここにいたのか」

「はい。鉄砲を教えてくれるまでは、ここにいるつもりです」

「わりとしつこい奴じゃのう」と小六は縁側に腰を下ろした。「鉄砲を習って、どうするつもりじゃ」

 藤吉郎はその場にひざまずくと、「父のかたきを討ちます」と答えた。

「ほう。おめえの親父は木下何とかと言っておったのう」

「木下弥右衛門です」

「そうか。しかし、仇討ちなら鉄砲で撃つ事もあるまい。刀でも槍でも構わんじゃろ」

「いえ。刀や槍では無理です。いつも、大勢の侍に囲まれてますから」

「ほう、余程の大物とみえるの。一体、おめえの仇とは誰なんじゃ」

「織田備後守です」

「何じゃと。織田備後守?」

「はい。備後守が父の仇です」

「おめえ、本気で備後守をやるつもりなのか、たった一人で」

「はい」

「何という奴じゃ‥‥‥」と小六は藤吉郎の顔をじっと見つめた。「不思議な面じゃのう。本物の馬鹿なのか、とてつもねえ大物になるのか、どっちかじゃな」

「鉄砲を教えて下さい」

「うむ、いいじゃろう。しかしな、鉄砲を習う前に、まず、弓矢の稽古じゃ。弓矢もろくにできん者に鉄砲など撃たせるのは玉薬たまぐすり(火薬)の無駄じゃ。玉薬は貴重だからな」

 藤吉郎はその日から屋敷の裏にある的場で弓矢の稽古を始めた。小六の配下の三輪弥助という者が藤吉郎に弓矢を教えてくれた。

「猿、おめえ、お頭と同じように備後守を狙ってるそうだな」と弥助は言った。

「えっ、小六様も備後守を?」

「何だ、知らねえのか。お頭の仇も備後守なんじゃ。備後守を倒すために、美濃の斎藤方として何度も戦に出たが、ついに備後守を倒す事はできなかった。なかなか、しぶてえ奴じゃよ、備後守は。しかしな、どうやら備後守は今、病に臥せってるようじゃのう。もしかしたら、もう死んでるとの噂もある」

「備後守が死んでる?」

「噂じゃ。だがの、その可能性は極めて高え。一昨年おととしの二月、道三殿の娘、胡蝶こちょう殿が那古野の上総介のもとへ輿入れされた時、わしらは護衛として那古野まで行ったんじゃ。その時、備後守の姿を見たが、その後、備後守は末森の城から一歩も外に出てはおらんのじゃ。病に臥せってるというが、どうも怪しい」

「そんな、備後守が死んだなんて信じられません」

「うむ。お頭としても信じたくはねえらしいがの‥‥‥まだ、死んだと決まったわけじゃねえ。今のおめえは弓矢の稽古に励む事じゃ。弓矢の名人だったという親父の名を汚さんためにもな」

 藤吉郎は鉄砲を習うため、必死になって弓矢の稽古に熱中した。弓矢だけでなく、女にも熱中していて、おしまはとうとう藤吉郎のものになっていた。毎晩のように寒さも忘れて、屋敷の隅にある蔵の陰でおしまを抱いていた。最初の頃は恥ずかしがっていたおしまも、慣れるに従って大胆になり、夜中に藤吉郎の部屋に忍んで来ては抱き着く始末だった。

「おい、おめえ、おしまとうまくいってるらしいじゃねえか」と弥助は弓の稽古をしながらニヤニヤした。

「そんなんじゃないですよ」と藤吉郎は照れた。

「おしまのおっぱいはでっけえそうじゃの。毎晩、しゃぶってるのか」

「そんな‥‥‥」

「うらやましいのう。おしまの奴、まだガキだと思ってたら、最近、やけに色っぽくなりやがった」

「そんな事ないでしょ、変わりませんよ」

「いや、変わった。歩き方から目付きまで、すっかり色っぽくなった。なあ、猿、おめえは女子おなごを口説くのがうめえのう」

「そんな事ないですよ」

「いや。おめえは女子の心を捕らえるのがうめえ。おすわ様やおゆう様もおめえには気を許してる所がある」

「そんな事はありません。二人は俺の事を使用人だと思って使ってるだけです」

「いや、そうじゃねえ。使用人なら、おめえの他にもいくらもいる。それなのに、おめえを名指しするのはどういうわけじゃ」

「俺が何でも言う事を聞くからでしょ」

「いや、それだけじゃねえ。わしはこの前、おすわ様がおめえと楽しそうに話をしてる所を見たぞ」

「えっ」

「おすわ様は楽しそうに笑っていた」と弥助は真面目な顔をして言った。

「ただ、世間話をしていただけですよ」そう言いながら、藤吉郎は弥助の顔を覗き込み、「あの、もしかしたら弥助様はおすわ様の事を」と聞いた。

「わしだって男じゃ。おすわ様のような女子を好きになって悪いか」

「いいえ、とんでもございません」

「だがの、わしは駄目なんじゃ。おすわ様の前に出ると何も言えんのじゃ。それに、おすわ様はの、どうやら新七郎が好きらしいんじゃ。奴は背も高えしカッコいいからな」

「新七郎様ですか‥‥‥」

「まったく、おめえが羨ましいわ」

「あの、弥助様は男まさりの女子が好きなんですか」

「はあ? わしはおすわ様が男まさりだから、惚れたんじゃねえわ。馬鹿たれが」と弥助は言ったが、藤吉郎は姉の婿むこに弥助なら丁度いいのではないかと思った。

 その年の三月、備後守の葬儀が那古野城下の万松寺にて行なわれた。葬儀の席で喪主の上総介が例のかぶき姿で現れ、父の棺桶めがけて抹香まっこうを投げ付けた事が話題となった。藤吉郎はその事を弥助から聞かされた。

「やはりな」と弥助はしたり顔で言った。「備後守は一年以上も前に死んでいたんじゃ。上総介は空っぽの棺桶に向かって抹香を投げつけたんじゃよ。あんな茶番に付き合っちゃいられねえとな。とにかく、備後守が死んだ事は公表された。また、戦が始まるぞ」

 藤吉郎は呆然となって右手に持った矢を見つめていた。

「残念だったのう。せっかく、仇を討つと張り切ってたのにのう‥‥‥仕方ねえから伜の上総介でも狙うか」

「上総介‥‥‥小六様は上総介を狙ってるんですか」

 弥助は首を振った。「何もしなくても、上総介は自然に自滅するじゃろうとの事じゃ。お頭はな、備後守に奪われた蜂須賀の地を取り戻そうと考えておいでじゃ」

「上総介は自滅するんですか」

「ああ。あのうつけ殿は家中の評判が悪い。備後守は上総介に家督を譲ったが、重臣たちの中には上総介の弟の勘十郎を押す者も多い。そのうち、家督争いが始まるじゃろう。それだけじゃなく、清須の大和守も岩倉の伊勢守も備後守に押さえられていた。備後守がいなくなれば二人も動き出す。今の上総介の回りは敵だらけなんじゃよ。あのうつけ殿の命もそう長くはあるまい」

 生きがいを失った藤吉郎は小六の屋敷に帰る事なく、当てもなくさまよい歩いた。

 仇の備後守はもういない‥‥‥一度も会う事もなく、仇は勝手に病死してしまった。備後守を討つために鉄砲を習うつもりだったが、もう、どうでもよかった。

 目標を失い、これから、どうしたらいいのか、藤吉郎にはわからなかった。

 


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