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藤吉郎伝 若き日の豊臣秀吉

父親

 

 故郷に帰って来たのは六年振りだった。寺を追い出され、陰ながら母と姉を見てからも三年余りが経っていた。

 やはり、故郷は懐かしかった。藤吉は流行り唄を歌いながら、大手を振って我が家へと帰って行った。

 寒いとはいえ、天気がいいから、みんな、畑の方にいるのだろうと思ったが、うちの中から誰かの咳き込む声が聞こえて来た。

 うまい具合に筑阿弥が一人でうちにいた。日当たりのいい縁側で、綿入れを着て、のんきそうに茶碗を眺めている。

 筑阿弥にしては珍しい事だった。仕事の事しか頭にない、くそ真面目な筑阿弥がぼうっとしている。今まで、あんな姿を見た事がなかった。おかしいなと思いながらも、「ただいま」と声を掛けると、筑阿弥は顔を上げた。

 一瞬、驚いたようだったが、すぐにまた、茶碗に目を落とした。何となく顔色が悪く、やつれたように感じられた。

「お父、病気なのか」と藤吉は思わず聞いた。

 筑阿弥は首を振り、「何でもないわ」と言ったが、急に苦しそうに咳き込んだ。

「大丈夫かい」と藤吉は側に駈け寄った。

 筑阿弥は大丈夫じゃと言うように手を上げたが、いつまでも咳き込んでいた。ようやく、発作が治まると、「大丈夫じゃ。ちょっと疲れが出ただけじゃ。横になってりゃ治るんじゃがの、昼間っから寝るのはどうも性に合わん」といつもの口調で言った。

「寝てなきゃ駄目だよ」

「さっきまで寝てたんじゃ」と言うと眺めていた茶碗を大事そうにボロ布で包んだ。

「こいつはの、わしの宝物じゃ。わしの唯一の財産じゃ」

 筑阿弥は寂しそうな目をして、丁寧に何枚もの布で茶碗を包んでいた。

 いつもの筑阿弥と違うようだった。顔を見せた途端に怒鳴られると思っていたのに、以外にも筑阿弥は静かだった。静か過ぎるような気がした。

「どうしたんじゃ。津島の喜左衛門殿から、岩倉に行ったと知らせてくれたが、もう、帰って来たのか」

 筑阿弥は茶碗を木箱にしまうと改めて、藤吉の姿を眺め、「お前、侍になるつもりか」と聞いた。

 藤吉の姿は又右衛門の所にいた時のままだった。ナナが縫ってくれたあわせはかまを着け、腰には脇差まで差していた。

 藤吉は強くうなづいた。

烏森かすもりのナナさんの所にお世話になってました」

「又右衛門殿の所にいたのか」

「はい‥‥‥その又右衛門さんから信じられない事を聞いたので帰って来ました」

「信じられない事?」筑阿弥はまゆを寄せて、藤吉の顔を見つめた。その顔は父親以外の何者でもなかった。

「お父は、本当のお父じゃないと聞きました」と藤吉は小声で言った。

 筑阿弥は藤吉を見つめたまま固まってしまった。しばらくして、「そうか‥‥‥聞いたのか‥‥‥」と小声でつぶやいた。「いつかはわかる事じゃ」

「それじゃあ、本当なんですか」

 筑阿弥はうなづいた。「お前の本当の父親は、お前が二歳の時に戦死したんじゃ」

「お侍だったんですね」

「そうじゃ」

「本当の事を話して下さい」

「うむ」と言って、筑阿弥は茶碗の入った木箱を片付けると囲炉裏端に藤吉を誘った。

「お前が十五になったら話すつもりじゃった‥‥‥そうか、もうすぐ十五じゃな」

 筑阿弥はかすかに笑った。「早いもんじゃ。もう十五になるのか‥‥‥いいじゃろう、本当の事を話してやろう。だがな、おっ母には内緒にしておけ。昔の不幸を思い出させたくはねえからの」

「いいな」と言うように、筑阿弥はうなづいてみせた。

 藤吉もうなづいた。

「お前の父親はな、木下弥右衛門という侍じゃった。当時、この辺り一帯は木下家の領地だったんじゃよ。烏森の杉原家に負けねえぐれえの立派なお屋敷に住んでいたんじゃ。木下家は那古野なごや城におられた今川殿の古くからの家臣でな、お前が生まれた頃、小田井川(庄内川)以東は那古野を中心に今川殿の領地じゃった。当時、津島の近くの勝幡しょばたにいた備後守びんごのかみは、清須の大和守、岩倉の伊勢守に対抗するためには今川殿を利用するしかねえと考えたんじゃ。あれは忘れもしねえ。わしが備後守に仕えて間もねえ時じゃった‥‥‥」

 筑阿弥はまた咳き込んだ。藤吉は筑阿弥の背中をさすった。

「すまん、大丈夫じゃ‥‥‥備後守はの、京都のお公家さんたちを勝幡城に招待して豪勢に持て成したんじゃ。その時、わしはお公家さんたちを那古野へ御案内しろと命じられた。わしはお公家さんたちを連れて、今川殿のおられる那古野城に行った。城内の広間で初めて今川殿と会ったが、まだ、十二、三の子供じゃった。しかし、将軍家の一族だけあって、どことなく気品のあるお顔立ちじゃった‥‥‥それからのわしは備後守の使いとして何度も今川殿のもとへ通った。備後守は今川殿の機嫌を取るために様々な贈り物をしたが、皆、わしが取り次いでやったんじゃ。今川家の重臣の一人に木下彦右衛門という侍がいた。お前の爺様じゃ。わしは同じ一族として備後守に利用されたんじゃよ」

「えっ、お父も木下一族なんですか」

「お前の父親とは従兄弟いとこだったんじゃよ。あの頃のわしは備後守の代理じゃと得意になっていた。馬鹿じゃった。迂闊じゃった‥‥‥まあ、最後まで聞いてくれ。備後守はお前の爺様に今川殿を尾張の守護職しゅごしきに就けようと持ちかけたんじゃ。清須の武衛ぶえい様を倒して、実力を以て尾張の国を平定しようと持ちかけたんじゃ。爺様は備後守と組めば、それも夢じゃねえと考え、備後守と手を結んだ。話が決まると備後守は今川殿の守護代と称して、熱田の近くの古渡に城を築き、さっそく移って来た。勿論、わしも古渡に移り、備後守の使いとして何度も那古野城に行った。備後守は今川殿の機嫌を取る一方では熱田の商人を味方に引き入れたり、今川家の家臣たちを引き抜いたりしていたんじゃ。

 古渡に移って翌年の末、三河の松平次郎三郎(徳川家康の祖父)が守山まで攻めて来た。ところが、次郎三郎は守山で家臣に殺されてしまったんじゃ。備後守はすぐに、大将を失った三河勢を追いかけた。勿論、今川家の家臣たちも備後守に従い、松平氏の本拠地、岡崎まで攻めたが、三河勢はしぶとく、岡崎城を落とす事はできなかった。その戦で、木下家の当主だったお前の爺様は戦死してしまった。跡継ぎの太郎右衛門も戦死してしまったんじゃ。太郎右衛門はお前の親父の兄上じゃ。備後守の策略に乗せられて、今川家の家臣の多くが、その合戦で戦死してしまったんじゃよ。それから二年間、備後守はじわじわと今川殿の首を絞めるように、徐々に勢力を広げて行った。わしは相変わらず、今川殿の機嫌を取るため那古野と古渡を行ったり来たりしていた。備後守のたくらみに全然、気づかなかったんじゃ。備後守が兵力を蓄えている事は知っていたが、それは清須を攻めるものだと信じていた。

 天文七年の春、桜が満開に咲き誇る頃、那古野城内で連歌会が盛大に催された。勿論、わしも客たちに茶の湯の接待をするために、その場にいたんじゃ‥‥‥あの時の恐ろしさは今でも忘れられん。突然、連歌会の行なわれている広間が騒がしくなり、何事かと思ってると、よろい武者が武器を振り回して城内の者たちを片っ端から斬っていた。何が起こったのか、わしにはまったくわからなかった。ただ、逃げなけりゃ殺されると思い、城から逃げ出したんじゃ。目の前で何人もの者が殺された。逃げ惑う女や子供たちまでも殺された。清須の大和守が急襲したに違いないとわしは思っていたが、古渡に帰ると城は厳重に警固され、城内には戦支度の武者があふれていた。わしは初めて、備後守が那古野を攻めた事を知った。お前の親父は今川殿を守るため那古野城で戦死した。備後守は那古野城を攻めると共に、木下家の本拠地、中村の屋敷も攻撃して皆殺しにした。木下家は今川殿と共に全滅してしまったんじゃ‥‥‥わしは備後守に利用されて、一族を皆殺しにする手助けをしてしまったんじゃよ。

 備後守は那古野城を手に入れると、もう、わしの事など見向きもしなかった。わしは木下家の領地だった中村のほんの一部の土地を与えられて、おはらいい箱となったんじゃ‥‥‥わしは京都まで行き、厳しい修行に耐えて茶の湯を身に付け、意気揚々と故郷に帰って来た。その腕を見込まれて備後守に仕えた。しかし、結果は備後守に利用されて、一族を滅亡させる事となってしまった。わしはここに来て、備後守から貰ったお茶道具をすべて叩き壊した。その後、茶の湯は一切やらなかった。さっき見ていた茶碗は今川殿からいただいた物じゃ。あれだけはどうしても壊す事ができなかった。物置の奥にずっとしまって置いて、すっかり忘れてたんじゃが、なぜか急に思い出して、取り出して眺めてたら、お前が帰って来たという訳じゃ」

「今川殿の遺品ですか‥‥‥」

 筑阿弥はうなづいた。

「今川殿は無事に逃げられたという噂も耳にしたが、どうなったのかはわからん‥‥‥わしはここで死ぬつもりじゃった。死んでも、わしのやった事は許されるべき事じゃねえが、そのまま、生きて行く事はできなかった。そんな時、烏森の彦七郎殿がわしの様子を見にやって来て、お前たちをかくまってる事を告げたんじゃ。杉原家も今川家の家臣だったが、備後守が古渡に城を築いてから備後守の家臣になっていた。勿論、彦七郎殿も備後守が今川殿を倒すために古渡に来たとは知らなかった。備後守が今川家の味方だと思ったから従ったんじゃ。ところが、備後守は今川殿を攻めた。その時、古渡城に詰めていた彦七郎殿は備後守に従うより他なかったんじゃ。彦七郎殿としても木下家が滅亡し、気がとがめたんじゃろう。逃げて来たお前たちを匿った。わしはさっそく烏森まで行って、お前たちを引き取った。お前のお袋と一緒になって、お前を育てる決心をしたんじゃ。木下家をお前が再興してくれる事を夢見てのう」

「俺が木下家の再興‥‥‥」

「そうじゃ。お前しかおらんのじゃ。お前には弥右衛門の血が流れている。今川家でも有名な弓取りの血がな。立派な武将になってもらおうと寺に入れたんじゃが、お前は騒ぎばかり起こして追い出された。その後、帰って来るかと思えば、烏森に行き、清須に行き、津島に行き、岩倉に行った。お前なりに世間というものを見て来たじゃろう。さて、これからどうするつもりじゃ」

 筑阿弥は藤吉の顔を見つめた。

かたきを討つ。お父の仇を討つ」と藤吉はすぐに答えた。

「備後守を討つというのか」

「はい」

「どうやって」

 そう聞かれて、藤吉は答えに詰まった。

「仇を討つなら正々堂々と一騎打ちをせい」

「一騎打ち‥‥‥」

 藤吉には自信がなかった。岩倉で弓矢を習ったが、あんなのは子供の遊びのようなものだった。とても、実戦では使えない。

「まずは武芸を身に付ける事が先決じゃな。武芸なら」と言いかけた時、母が子供たちと一緒に畑から帰って来た。

「今の話、おっ母には内緒じゃ」と筑阿弥は小声で言うと、母に向かって、「おい、藤吉が帰って来たぞ」と声を掛けた。

 母も姉もポカンとした顔で藤吉を見つめた。

 母は相変わらずだったが、姉は益々、男だか女だかわからなくなっていた。顔だけを見れば女らしくなったと言えるが、その格好は貧しいながらも、少々かぶいていた。そろそろ嫁に行く年頃なのに、あんな姉を嫁に貰ってくれる男はまず、いないだろう。

 姉の後ろに弟の小一郎と妹のあさがいた。二人とも驚くほど成長していた。寺に預けられる前、一緒に遊んでいた頃、小一郎は五歳であさはまだ二歳だった。それが二人共、見違える程、大きくなっている。小一郎は信じられないほど背が伸び、すぐに藤吉を追い越してしまいそうだった。あさは恥ずかしそうに母の後ろに隠れて、藤吉を見ていた。目がくりっとしていて可愛い娘になっていた。

「兄上、お帰りなさい」と小一郎が言うと、「お帰り、大きくなって‥‥‥」と母が笑顔で言い、姉は威勢よく、「おめえ、相変わらず、猿面だな」と大笑いした。

 久し振りに家族と共に、粗末ながらも楽しい夕食を共にした。

 筑阿弥から話を聞いたその夜のうちに、武芸を習うなら岩倉に行くしかないと藤吉は結論を出していた。岩倉には弓の名人、浅野又右衛門がいるし、林弥七郎もいる。二人のもとで修行を積めば、仇討ちは絶対にできると自信を持っていた。

 次の日、藤吉は家族の見守る中、元服げんぶくしてまげを結い、木下藤吉郎秀吉を名乗った。

「秀吉というのはお前の爺様の名じゃ。爺様はこの中村の領主であり、今川家の重臣でもあった偉いお人じゃった。お前も爺様のように偉くなるんじゃ、名前に負けんようにな」

 藤吉郎は力強くうなづき、家族に別れを告げ、岩倉に向かった。

「頑張れよ」と筑阿弥は藤吉郎をじっと見つめながら言った。

「体に気を付けるんだよ。無理するんじゃないよ」と母は目に涙を溜めていた。

 姉は錆びた槍を振り回しながら、「偉くなって来う」と言い、弟と妹は、「また来てね」と笑顔で手を振った。

「今度、帰って来る時は、ちゃんと土産を持って来るからね」と藤吉郎はうちを出た。

 今にも雪が降りそうな空模様だった。天気は悪いが、ただの藤吉から木下藤吉郎秀吉という偉そうな名前になった今、藤吉郎の心の中は希望で燃えていた。

 岩倉に行く前に、どうしても見ておきたいものが二つあった。一つは仇である織田備後守、もう一つは父親が戦死した那古野城だった。仇の顔を知らなければ仇討ちなんてできないし、記憶にもない父親の面影を捜すためにも、那古野城は見ておかなければならなかった。

 藤吉郎はまず、備後守がいる古渡城に向かった。途中、村の入り口にあるほこらの前でうずくまっている乞食と出会った。見慣れない乞食だった。また、新しい乞食が住み着いたなと思っていると、乞食はモゾモゾと動きだし、「トーキチ、トーキチ」と藤吉郎の名を呼んだ。かすれているが聞いた事のある声だった。

 藤吉郎は乞食の側まで行ってみた。ボロをまとい、蜘蛛くもの巣のような頭をして、顔は真っ黒だったが、それはおきた観音に違いなかった。

 おきた観音は藤吉郎を見ながら嬉しそうに笑っていた。

「一体、どうしたんだ」と聞いても、ブルブル震えながら笑っているばかりだった。

 おきた観音にはちゃんと家があるはずだった。狂っていても、いつも身綺麗にしていて綺麗な着物を身に付けていた。それが、こんな惨めな格好でいるなんて信じられなかった。

「ごめんよ。俺はおめえに何もしてやれねえ」

 そう言って藤吉郎はその場を離れた。後を追って来るかと思ったが、おきた観音は藤吉郎を見つめているだけで追っては来なかった。この寒い中、そのままにはして置けず、藤吉郎は戻った。放って置いたら死んでしまうかもしれない。いつもだったら、冬でも一枚しか着ていなかったが、幸い、又右衛門の所にいたので重ね着していた。藤吉郎は上着を脱ぐとおきた観音に着せてやった。

「トーキチ、トーキチ」と言いながら、おきた観音は丸くなって笑っていた。腹も減っているようだったが、どうしようもなかった。

「俺はな、藤吉じゃなくて、木下藤吉郎になったんだ。今に偉くなったら、おめえにもいい思いさせてやるからな。寒いけど頑張るんだぞ、死んじゃ駄目だぞ」

 藤吉郎はボサボサになったおきた観音の髪を撫でながら言った。おきた観音は震えながら藤吉郎を見つめていた。その目がかすかに潤んでいるような気がした。何となく、切ない気持ちになって、それを振り払うように藤吉郎は駈け出した。

 

 古渡に着いて驚いた。信じられない事に、城下は三年前の火災から立ち直っていなかった。かつて、賑わっていた城下町はどこにもなく、処々に侍長屋があるだけだった。城は以前のように堀と土塁に囲まれてあったが、何となく、ひっそりとしている。

 一体、どうしたんだろう。備後守はすでに、ここにはいないのだろうか。

 藤吉郎は途方に暮れた。堀にかかる橋の上から城の土塁を眺めていると、「おい、小僧、そんな所で何をしておる」と門番が怒鳴った。

 藤吉郎は顔をクシャクシャにして笑うと、「へい。古渡のお城下が賑わっていると聞いてやって参りましたが、この有り様を見て呆然としております」と答えた。

「何者じゃ」と聞かれて、藤吉郎は一瞬、まごついた。元服したばかりの名前を名乗りたいが、敵地で木下を名乗るわけにはいかない。幸い、袴は付けていなかった。姉が欲しがったので、姉にやってしまったのだった。脇差は差しているが、行商人に見えなくもない。

「へい。針売りでございます」と藤吉郎は答えた。

「針売りの小僧か。どこから来た」

 門番は疑っているようではなく、藤吉郎はほっとした。

「へい。岩倉のお城下からでございます」

「岩倉にいて、ここの事を知らんのか」

「へい。古渡のお城下に行けば針が売れると聞きましたので」

「とぼけた奴じゃ。お前は騙されたんじゃよ。ここのお殿様はの、三年前に末森の方に移られたんじゃ」

「末森?」

「おう。そっちは賑やかに栄えておるわ」

「末森ってどこなんですか」

「そこの道を真っすぐ行けば行けるわ。一里半位かのう」

 藤吉郎は門番に頭を下げると末森に向かった。

 末森の城下は活気に満ちていた。どの建物も皆、新しく、市場では各地から集まって来た商人が道行く者たちに声を掛けていた。

 藤吉郎は又右衛門に貰った脇差を針に換え、市場の外れにある木賃宿に泊まり、針売りをしながら、備後守の顔を一目見ようと頑張った。しかし、その願いはかなえられなかった。噂によれば備後守は病に臥せっているという。当分、城から出て来そうもないと諦め、父親が戦死したという那古野城に向かった。

 末森から那古野へも一里半程の道程だった。

 那古野の城下は思っていた程、栄えてはいなかった。城下町もさほど広くない。市日ではないのか、市場も閑散としていた。

 城は水をたたえた堀と土塁に囲まれていて、中はよく見えなかったが、かつて、この城を父親が守っていたのかと思うと感慨深かった。槍を持った門番の姿に記憶にない父親の姿が重なった。勇敢に戦っている父親の姿を思い描いていると、突然、城の裏の方から雷のような大きな音が響いた。ビクッとして我に返ると、たまたま側を通りかかった町人に、「あの音は何ですか」と聞いた。

「若殿が馬場で鉄砲のお稽古をなさってるんじゃ」と町人は言うと忙しそうに町中に消えて行った。

 『鉄砲』と聞いただけで藤吉郎の好奇心は騒いだ。若殿というのは備後守の伜、上総介かずさのすけ(信長)に違いない。藤吉郎はまっしぐらに城の裏へと走り出した。

 さくに囲まれた広い馬場の片隅に何人かの侍が固まっていた。柵の外にも何人かいて、その声からして若い娘たちのようだった。

 近くまで行ってみると、派手な格好をした娘たちが十人近くもキャーキャー騒ぎながら侍たちを見物していた。馬場の中には年配の侍が一人と若い侍が五人いる。その若い侍たちの格好ときたら、かぶき者の最先端を行っていた。娘たちが騒ぐのも無理なかった。特に上総介と思われる男の姿は思わず見とれてしまう程、決まっていた。

 茶筅髷ちゃせんまげを高く結い、浅葱あさぎ色の着物の上に真っ白な革の陣羽織じんばおりを着て、同じく真っ白な革袴をはいている。陣羽織の背中には鋭い顔をした鷹の絵が大きく描かれてあった。腰に差した刀はつかさやも真っ赤で、草履ぞうりの鼻緒も真っ赤だった。その手に持っているのは藤吉郎が初めて見る鉄砲だった。黒光りした奇妙なつえのような鉄砲は派手なかぶき姿とよく似合い、見ているだけで体がゾクゾクして来るのを感じていた。

 上総介が鉄砲を顔の前に水平に構えた。騒いでいた娘たちも声を殺して、じっと上総介を見つめている。やがて、物凄い音が響き渡って藤吉郎は思わず耳をふさいだ。上総介の顔が白い煙に包まれ、異様な臭いが漂って来た。

 凄い‥‥‥と藤吉郎は感激した。

 祖父は鉄砲の玉に当たると必ず死ぬと言っていた。鉄砲の玉がどんな物だかわからないが、弓矢よりはずっと凄い武器に違いない。

「よお」と突然、後ろから声を掛けられ、驚いて振り返ると針売りの与三郎が立っていた。

「あのうつけ殿は、ただのうつけじゃないのう」と与三郎は上総介を見ながら言った。

「うつけ殿?」

「ああ。那古野の若殿は大うつけじゃと評判じゃ。しかし、あの目付きはただ者じゃねえ」

 藤吉郎は上総介を眺めながら、「うん」とうなづいた。

「ところで、お前はこんな所で何してるんじゃ。岩倉の知り合いは見つかったのか」

「はい、見つかりました」

「そうか。知り合いが見つかったのに、どうして、こんな所にいるんじゃ」

「ええと、色々とわけがありまして‥‥‥」

「お前、一人前に髷を結っておるが元服したのか」

「はい。今朝、元服しました」

「ほう。もう一人前じゃな」と与三郎は笑った。

「あの、おじさんは那古野のお城に今川殿がいた事を知ってますか」と藤吉郎は聞いてみた。

「今川殿? 聞いた事はあるな。しかし、もう十年以上も前の事じゃろう」

「今川殿の家来に木下弥右衛門という弓矢の名人がいたんだけど知ってる?」

「さあな。わしは知らん。その頃、わしは美濃におったからのう」

「なんだ、知らないのか」

「すまんのう。今度は、その木下弥右衛門とやらを捜してるのか」

「違う。弥右衛門はもう死んだんだ。俺の本当のお父だったんだ」

「ほう。お前の本当のお父か‥‥‥」

 娘たちから「隼人はやと様」と呼ばれている侍が鉄砲を構えていた。上総介も真剣な顔をして、隼人様の撃ち方を見守っている。轟音が響き渡ると、二人の侍が的に向かって走り出した。

 藤吉郎は与三郎に身の上話を聞かせた。

「なに、お父の仇を討つじゃと。馬鹿な事を考えるんじゃねえ」

「これから小折こおり村の生駒様の所に行って、鉄砲を習うんだ」と藤吉郎は鉄砲を見て、ひらめいた事を口に出した。

「なに、お前、生駒様を知ってるのか」

「知らない。でも、そこに伯父さんがいるんだ。伯父さんはそこで鉄砲を作ってるんだ」

「ほう。すると、お前の伯父さんとやらは鉄砲鍛冶なのか」

「うん」

「そうか。わしも明日、生駒殿の屋敷に行くつもりじゃった。一緒に行くか」

「えっ、おじさん、生駒様を知ってるの」

「ああ、知ってる。あそこには各地から浪人者が集まって来るから、お前のお父の事を知ってる奴がおるかもしれんぞ」

「えっ、ほんと?」

「うむ」とうなづくと、与三郎はキャーキャー騒いでいる娘たちを眺めた。「うつけ殿は女子おなごにも、もてるようじゃのう。ところで、お前、女子は知っておるのか」

「えっ」と鉄砲に見入っていた藤吉郎は、突然、そんな事を聞かれてまごつき、娘たちを眺めながら首を振った。

「女子を知らなけりゃ、一人前とは言えんぞ」と与三郎は笑って、「よし、今晩、筆おろしをするか」と言った。

 与三郎はその晩、馴染みの店があると言って、城下の遊女屋に連れて行ってくれた。

「最初が肝心だからな」と与三郎は何度も言っていたが、連れて行ってくれた遊女屋はあまり高級とは言えなかった。与三郎があまり銭を持っていない事を知っているので文句も言えず、藤吉郎は与三郎に従った。

 藤吉郎の相手は予想に反して綺麗な姉さんだった。さすが、与三郎だと感激したのに、姉さんは無愛想ぶあいそうだった。どうしたらいいのかわからず、まごまごしているうちに、姉さんはさっさと着物を脱いで横になった。ふて腐れたような顔で藤吉郎を見上げながら、早く済ませてよ、といった態度だった。それでも、藤吉郎は夢中になった。着物を脱ぎ捨てると姉さんの体にしゃぶりつき、あっという間に事は終わった。

 姉さんは着物を身に付けながら藤吉郎を見下ろし、「以外に大きいじゃない」と笑うと部屋から出て行った。

 藤吉郎は何となく情けなくなって、呆然と自分の一物いちもつを眺めていた。

 しばらくして、与三郎が、「どうじゃった」と入って来た。

 藤吉郎はうなだれたまま、慌てて、ふんどしを絞めた。

「これで、お前も一人前の男じゃ」と与三郎は笑っていたが、藤吉郎はこんな所に来るんじゃなかったと後悔していた。こんな所で筆おろしをするんだったら、津島のヒバリ姉さんやスズメ姉さんの方がずっとよかったと思っていた。

 次の朝、藤吉郎と与三郎は丹羽にわ郡小折村の生駒屋敷へと向かった。

 


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藤吉郎伝 若き日の豊臣秀吉

生駒屋敷

 

「あれが生駒殿のお屋敷じゃ」と与三郎が指を差した。

 枯れ野の中に大きな建物が見えて来た。土塁に囲まれた、その屋敷には物見やぐらまであり、まるで、城のようだった。

「すげえなあ」と藤吉郎は思わず、叫んだ。

「確かに凄い。御主人様は蔵人くろうど殿といってな、灰と油を商う商人じゃ。馬や船を使って荷物の運送もやっている。かと言って、ただの商人でもない。武士として岩倉や犬山にも出入りしている不思議なお人じゃ」

 屋敷へと向かう通りの右側に広い馬場があり、侍とも人足にんそくとも区別のつかない男たちが、大声で叫びながら馬を乗り回していた。

「あれは人足ですか」と藤吉郎は聞いた。

「そうじゃ。いや、浪人者もおるようじゃな。蔵人殿は徳のあるお人で、各地から集まって来る浪人たちの面倒もみておられるんじゃ。ほれ、あそこに見えるうちはな、浪人たちが勝手に寝泊まりしてもいいという長屋じゃ」

 与三郎は左手に見える家を指で示した。草むらの中にポツンと一軒の家が建っている。その家は藤吉郎の家よりも大きく、二人の浪人が縁側で話し込んでいるのが見えた。

「誰が泊まっても構わないんですか」

「ああ、構わん。お前があそこに泊まり込んでも誰も文句は言うまい」

「へえ‥‥‥」

 屋敷は水をたたえた幅広い堀と高い土塁に囲まれ、土塁の上の物見櫓から弓を持った侍が藤吉郎たちを見下ろしている。立派な門の前には太い棒を構えた仁王におうのような大男が二人、怖い顔をして立っていた。

 与三郎は恐れる事なく門番に近づくと何事かを言った。門番は急に笑顔になり、二人を中に入れてくれた。

 土塁の中は広々としていた。侍たちが武芸の稽古に励んでいる。右奥の方で弓矢の稽古、その手前で槍や剣の稽古をしていた。正面に中門らしきものが見え、その向こうに大きな屋敷があるようだった。

 与三郎は真っすぐ進まずに左側にある塀の中に入って行った。塀の中には大きなうまやと侍長屋があった。そして、奥の方に屋敷があった。

「蔵人殿の伜、八右衛門殿のお屋敷じゃ」と与三郎は奥の屋敷を示した。

「ここは二の曲輪くるわでな、奥に本曲輪があって、蔵人殿のお屋敷があるんじゃ。そして、東の方に三の曲輪がある。そこには船着き場があって、人足たちが大勢、働いておる」

 与三郎が屋敷に声を掛けると、八右衛門が縁側に顔を出した。

「おう、与三郎殿か。毎日、寒いのう。何か、収穫はあったか」

 八右衛門は商人には見えなかった。髭面で毛皮を着込み、まるで山賊の親玉のようだ。どう考えても、この屋敷の主とは思えない。

 八右衛門はギョロッとした目で藤吉郎を眺め、「ほう、土産を持って来たようじゃのう」と太い声で言った。

「はい、面白い奴での、織田備後守を討つと言っておる」

「なに、備後守をか」

「親父の仇だそうじゃ」

「ほう‥‥‥確かに、面白え面構えじゃな」

 二人は井戸で手足を洗うと屋敷に上がった。

「小僧、どうやって備後守を討つもりじゃ」と八右衛門は髭を撫でながら聞いた。

「鉄砲で撃ちます」と藤吉郎は鉄砲を構えて撃つ真似をした。

 八右衛門は藤吉郎の仕草に驚き、改めて、藤吉郎を眺めた。

「小僧、鉄砲を撃った事があるのか」

 藤吉郎は両手を広げて、首を振った。

「こいつの伯父さんが、ここで鉄砲鍛冶をしているらしいの」と与三郎が説明した。

「なに、本当か」

 藤吉郎は力強く、うなづいた。「清須にいた孫次郎っていう鍛冶師なんだ」

「おう、孫次なら確かに、ここにおる。お前が孫次の甥御なのか‥‥‥うーむ、面はあまり似てねえのう」

「似てなくても伯父さんだい」

「そうか、そう怒るな」

「伯父さんから鉄砲を習って備後守を撃つんだ」

「成程」

「鉄砲はできたのですか」と与三郎は聞いた。

 八右衛門は首を振った。「孫次は腕のいい職人だが、鉄砲作りはなかなか難しいようじゃ」

「そうじゃろうの」

 藤吉郎は八右衛門の家来けらいに連れられて、伯父の仕事場に行った。

 仕事場は屋敷の西の森の中にあった。

 孫次郎は暑苦しい小屋の中で、若い職人を使って鉄砲作りに励んでいた。藤吉郎が名を名乗ると孫次郎はジロッと睨み、「何の用じゃ」とそっけなく聞いた。

「ええと、鉄砲の撃ち方を習いたくて、やって来ました」と藤吉郎は姿勢を正して答えた。

「わしゃ鉄砲を作ってるがな、撃ち方など知らねえわ。おめえは兄貴の所にいたらしいが、三ケ月で弱音を吐いて、逃げ出したそうじゃの。その後もあっち行ったり、こっち行ったりしたが、どこも長続きしねえ。あげくにゃ、職人は向いてねえから商人になるんだと言ったんじゃねえんか。今度は鉄砲撃ちになるんか。やめた方がええ。どうせ、長続きせん」

「伯父さん、俺、本当のお父の仇を討たなけりゃなんないんだ。それには、どうしても、鉄砲を習わなけりゃなんないんだ」

「お父の仇討ちじゃと? ふざけた事をぬかすんじゃねえ、寝ぼけてんのか」

「寝ぼけてなんかないやい。俺は本気だ」

「ふん。おめえのような半端者はんぱもんに何ができる、馬鹿者が」

 孫次郎は怖い顔して藤吉郎を睨むと、戸をバタンと閉めて小屋の中に入ってしまった。

 藤吉郎は途方に暮れた。大声で泣き出したい心境だった。フラフラとその場を離れようとすると若い職人が声をかけて来た。

「今、親方は機嫌が悪いんだよ。しばらく経ってから、もう一度、話した方がいい」

 若い職人は藤吉郎の肩をポンと叩いて、「大丈夫だ」とうなづいて笑った。

 藤吉郎は若い職人の笑顔を信じて八右衛門の屋敷に戻った。しかし、八右衛門も与三郎も共にどこかに出掛けてしまっていなかった。二人がいないのに屋敷に留まるわけにもいかず、トボトボと門を出た。

 さて、これからどうしよう、と堀に架かる橋の上にたたずんでいると、与三郎が言っていた浪人長屋が目に入った。あの長屋は誰が泊まっても構わないと与三郎は言っていた。藤吉郎は興味を持って、行ってみる事にした。

 ほおに刀傷のある浪人が大きないびきをかいて、縁側で大の字になって昼寝していた。藤吉郎が近づくと刀を手にして急にガバッと跳ね起きた。藤吉郎はビクッとして、後ろに跳びはねた。浪人は藤吉郎をしばらく、じっと睨んでいたが何も言わず、また横になってしまった。ホッと胸を撫で下ろしてから藤吉郎は首を傾げ、長屋の中を覗いた。人相のあまりよくない浪人が五、六人、賭け事に熱中しているようだった。訳のわからない事をわめきながら、真剣な顔をしてサイコロを振っている。その向こうではニヤニヤしながら書物を読んでいる太った浪人が腹をボリボリ掻いている。

 藤吉郎は寝ている浪人の横を通って、長屋の入り口から中を覗いた。薄暗い広い土間にたすき掛けをした浪人がカマドの前で飯を炊いている。藤吉郎は美味そうな匂いに誘われて土間に入ると浪人に声を掛けた。

「おじさん、針はいらないかい」

 立派な口髭の浪人はポカンとした顔をして藤吉郎を見ると、「今、何と申した」と聞いて来た。

「針はいらないかって言ったんだ」

「お前、アホか。わしが針など買うと思うのか」

 藤吉郎は肩をすぼめて首を振った。

「でも、俺、針しか持ってないんだ。おじさん、針とその飯を交換しないかい」

「小僧、腹が減ってるのか」

 藤吉郎はうなづいた。

「どっから来た」

「那古野」

「那古野から何しにここに来た」

「鉄砲を習おうと思ったんだ」

「何じゃ、鉄砲じゃと? 針売りの小僧が鉄砲を習うじゃと」

 浪人は大笑いした。

「お前はやっぱり、アホじゃな」

 鉄砲を習って父親の仇を討つんだと説明しても浪人は信じてくれなかった。信じてくれなかったが飯を食わせてくれた。

 口髭の浪人は加賀の国(石川県南部)から流れて来て、もう十五年余りもここに厄介やっかいになっているという。

「えっ、十五年もここにいるの」と藤吉郎は思わず聞いた。十五年と言えば、藤吉郎が生まれた頃からずっと、ここにいるという事になる。とても信じられなかった。

「まあ、そうじゃ」と浪人は何でもない事のように答えた。

「十五年もここにいたら、ここのぬしだね、でも、ここで何をしてたの」

 藤吉郎の見た所、それ程、強そうには見えないが、兵法ひょうほう指南役として、ここの侍たちに武芸を教えているとの事だった。

「武芸を教えるような人がどうして、飯の支度なんかしてるの」

「ここにいる連中はの、ろくに飯も炊けんのじゃ。半生だったり、黒焦げだったりしてな、まずい飯など食いたくないからの。仕方なく、わしがやってるんじゃよ」

「女の人に頼めばいいのに」

「恐ろしがって、女子おなごは誰もここには近づかんのじゃ」

「成程」と藤吉郎も納得した。

 藤吉郎は腹ごしらえを済ますと富樫惣兵衛と名乗る兵法指南役にお礼を言って、また、伯父のいる鍛冶小屋に戻った。

 恐る恐る小屋を覗くと、ばったり伯父と目が合ってしまった。藤吉郎が慌てて逃げ出すと伯父が声を掛けて来た。

「おい、おめえ、中村の藤吉じゃねえのか。どうして、こんな所にいるんじゃ」

 まるで、初めて会ったような口振りだった。藤吉郎は振り返って伯父の顔を見た。伯父はニコニコしていた。

「よう来たのう。おっ母は元気か」

 さっきから一時いっとき(二時間)と経っていないのに、伯父の機嫌はすっかりよくなっていた。どうなってんだと思いながら藤吉郎は伯父の側まで行った。若い職人は、よかったなと言うように笑っていた。伯父は自慢気に作りかけの鉄砲を見せてくれた。

「あと、もう少しじゃ」と言いながら鉄砲の構え方を教えてくれた。

 未完成の鉄砲だったが、藤吉郎はわくわくしながら鉄砲を構えた。那古野の馬場にいた上総介になったような気分だった。

「バーン、バーン」と何度も大声で叫びながら鉄砲を撃つ真似をした。

 藤吉郎はその晩、伯父の家に行き、家族の者たちに歓迎された。伯父の家は仕事場からちょっと離れた所にあり、建てたばかりの新しい家だった。愛想のいい太ったおかみさんとおかみさんにそっくりな十歳の娘、そして、鼻水を垂らした六歳の男の子がいた。従弟たちに会うのは初めてだったが、すぐに慣れ、一緒に遊ぼうと藤吉郎を誘った。

 次の朝早く、藤吉郎は伯父にたたき起こされ、仕事場に連れて行かれ、有無を言わせずに雑用をやらされた。仕事中の伯父は人が変わったかのように不機嫌だった。藤吉郎が何を言っても上の空で、ただ、鉄砲を作る事のみに集中していた。そして、仕事が終わると人格が変わったかのように優しくなった。

 仕事が終わった後、藤吉郎は、「俺は鍛冶師の修行に来たんじゃなくて、鉄砲の撃ち方を習いに来たんです」と恐る恐る、きっぱりと言った。

 伯父が怒るのを覚悟の上で言ったのだが、「そうか、そうか。これからのいくさは鉄砲じゃ。今のうちに習っておいた方がいい」と理解を示してくれた。ところが、次の日になると、また、朝早くから雑用をやらされ、鉄砲の撃ち方など全然、教えてくれなかった。源助という若い職人が、もう少しで鉄砲が完成する。鉄砲ができれば撃つ事もできる。もう少しの辛抱だと言ったため、藤吉郎は何とか我慢する事にした。

 その年は暮れ、正月になった。十五歳になった藤吉郎は伯父の家族と共に生駒家の正月の行事に加わった。

 生駒家の正月は華やかで賑やかだった。太夫たゆう様と呼ばれているだけあって、何もかもが派手で豪勢だった。広い馬場に豪華な料理をずらりと並べ、来る者は拒まずといった具合に大勢の者たちを呼んで、飲めや歌えと三日間も騒いでいた。馬場には各地から集まって来た商人たちが露店を広げ、舞台の上では旅芸人たちが様々な芸を披露し、生駒家の侍や人足は勿論の事、居候いそうろうの浪人たち、近所の村人たち、どこから来たのか乞食や浮浪児、遊女たちまでが一緒になって騒いでいた。

 藤吉郎は今まで見た事もない料理を目の前にして、毎日、手当たり次第に腹に詰め込んでいた。酒も飲み放題で、伯父の孫次郎は仕事の事も忘れて、始終、機嫌がよかった。毎日、酔っ払っては岩倉から来た遊女のもとに通っていた。かなりの年増で、決して美しいとは言えないけれど、伯父は鼻の下を伸ばして、毎日、嬉しそうだった。伯父の機嫌はよかったが、代わりに、おかみさんの機嫌は悪かった。恐ろしい顔をして、伯父をちゃんと見張っていろと命じた。藤吉郎も男として、この時は伯父の味方をした。

 食っては踊り、食っては踊りの三日間は、夢のような日々で、藤吉郎はここに来て本当によかったと思っていた。

 三箇日が過ぎるとまた、伯父の機嫌は悪くなり、退屈な雑用仕事の毎日が始まった。

「あと、もう少し‥‥あと、もう少し‥‥」と伯父は口癖のように言っているが、鉄砲はいつまで経っても完成しなかった。つまらない毎日にうんざりしている時、伯父を訪ねて来た者があった。

 鉄砲を背負い、毛皮を着込み、革袴をはいた黒づくめのかぶき者だった。こんな所にも、かぶき者がいるのかと藤吉郎は驚き、そのカッコよさに見とれた。

 かぶき者は黒鹿毛くろかげの馬で乗り付けると、「鉄砲はできたか」と小屋の中にズカズカと入って来た。後を追うようにして、派手ななりをしたかぶき者が入って来たが、なんと、そのかぶき者は女だった。刀を背負い、花柄模様の陣羽織に白い革袴を身に付け、むちを手にした女は小屋の中を珍しそうに眺め回した。

 藤吉郎はその女を見て、姉ちゃんそっくりだと思った。着ている物は全然違うが、男まさりなその仕草はそっくりだった。こんな女が姉の他にもいたのかと何だか嬉しくなった。

 伯父は二人のかぶき者をチラッと見たが返事もせず、仕事を続けていた。

「その面じゃ、まだのようだな」と男のかぶき者は言って小屋の中を見回してから、藤吉郎の顔を覗き込んだ。

「ほう。小僧、面白え面をしておるのう」と言って腹を抱えて笑った。

「あら、お猿じゃないの。でも、可愛いじゃない」と女のかぶき者は言って、藤吉郎の頬をそっと撫でて、ニコッと笑った。男の格好をしていても綺麗な姉さんだった。

「鉄砲を作る猿か、こいつは面白え‥‥‥しかし、猿真似では役に立たんわ」

 二人は笑いながら小屋から出て行った。

「何者です」と藤吉郎は源助に聞いた。

「蜂須賀小六殿といって鉄砲の名人じゃよ」

「えっ、鉄砲の名人‥‥‥女の方も?」

「女は小六殿の妹じゃ。鉄砲の名人かどうかは知らんが、武芸の達人には違いない。あれ程の別嬪べっぴん、男どもが黙ってはおらんが、自分よりも弱い男には見向きもせんとの評判じゃ」

 藤吉郎はすぐに小六とその妹の後を追った。二人は馬に乗って駈けて行ったが、必死になって追いかけた。

 二人は馬場に入って行った。馬場に小六の仲間らしいかぶき者が五、六人、何事か、わめきながら馬を乗り回していた。皆、乗馬が達者で、曲芸師のように馬を乗りこなしていた。

 藤吉郎は息を切らせて小六に追いつくと、「お願いします。鉄砲を教えて下さい」と大声で叫んだ。

 小六の仲間の一人が弓を振り回しながら、「なんじゃ、こいつは」と馬上から言った。

「鍛冶小屋にいたお猿さんよ」と小六の妹が言った。

「おう、そういや、猿そのものじゃな。猿が鉄砲を撃つのか。そいつは面白え」と妹の隣にいる男が言った。

 小六たちは藤吉郎を見て、大笑いした。

「俺は木下藤吉郎だい。猿なんかじゃない」

「小僧、おめえ、侍の子か」

「お父は弓矢の名人だったんだ」

「ほう、大したもんじゃ。弓矢で鳥でも落としたのか」と小六は鼻で笑った。

「おい、小僧、親父の名は何と言う」と小六の後ろにいた男が顔を出した。

「木下弥右衛門だ」

「木下弥右衛門‥‥‥」

「小太郎、おめえ、知ってるのか」と小六が聞いた。

「いや、知らん。ただ、どっかで聞いた事あるような気がする」

 小太郎と呼ばれた男は腕を組みながら遠くを見つめていた。その背中には、小六と同じく鉄砲があった。

「お父は有名なんだ」と藤吉郎はみんなに自慢した。

「猿、おめえも有名になる事じゃな」と言うと小六は馬の腹を蹴った。

 黒づくめの小六は黒い馬に乗って稲妻のように走り去った。小六を追うようにして妹が続き、仲間たちも騒ぎながら馬場から出て行った。

 藤吉郎は後を追いながら、「鉄砲を教えて」と叫んだが返事は帰って来なかった。

 藤吉郎はいつまでも馬の後を追いかけた。が、所詮、馬には勝てず、途中で見失ってしまった。気がつくと原野の中にポツンと立っていた。必死になって馬を追いかけて来たので、生駒屋敷へ帰る道もわからない。藤吉郎は大きく溜め息をつくと空を見上げた。

 まだ、日は高かった。

 汗を拭くと、その場に寝転がって考えた。

 生駒屋敷に戻るか。いや、帰ってもしょうがない。伯父の所にいても鉄砲を教えてくれそうもない。それなら、小六を訪ねて行った方がよさそうだ。小六のうちはわからないが、鉄砲の名人というからには人に聞けばわかるだろう。

 藤吉郎はそうと決めると馬の足跡を追って、のんびりと歩き出した。

 


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藤吉郎伝 若き日の豊臣秀吉

侍奉公

 

 蜂須賀小六の屋敷はすぐに見つかった。

 最初に出会った農夫に聞いたらニコニコしながら丁寧に教えてくれた。農夫の指さす方を目指して行くと宮後みやうしろ村という所に着き、小六の屋敷はすぐにわかった。

 宮後村の領主、安井弥兵衛の屋敷と隣り合って並び、共に水を湛えた堀と土塁に囲まれた大きな武家屋敷だった。

 藤吉郎は門番に、生駒家からの使いでやって来たと嘘を言って屋敷内に入れてもらった。しかし、小六はまだ帰っていなかった。

 小六の屋敷は烏森の杉原家の屋敷よりもずっと広く、母屋おもやを中心に侍長屋らしい建物がいくつも並んでいて、藤吉郎はその一部屋で待たされた。小六はなかなか帰って来なかった。

 じっと待つ事に退屈し、屋敷の中をうろうろと見て回ると、女たちは台所で働いているが、男は門番しかいなかった。藤吉郎は女たちの仕事を手伝いながら小六の帰りを待った。

「あんた、どっから来たん」と雑用をやらされている娘が聞いて来た。

「生駒様のお屋敷から来たんだ」と藤吉郎は面倒臭そうに答えた。

「ふーん。何しに来たん」

「小六様に用があったから来たんだよ」

「御主人様に何の用なん」

「おめえには関係ねえ」

 おしまという娘は藤吉郎に付きまとって、何だかんだと聞いてきた。

「どうして、おらの仕事を手伝ってくれるん」

「暇だからだよ」

「おら、嬉しいわ」

 藤吉郎はおしまの顔をマジマジと見た。わりと可愛い顔をしていた。それに、着物がはち切れんばかりに胸が大きかった。幼い顔付きと立派な体付きはまったくの不釣り合いで、それが魅力とも言えた。

「おめえ、いくつなんだ」と藤吉郎は聞いた。

 おしまは藤吉郎と同じ十五歳だった。近所の百姓の娘で、父親が足軽として戦に行って片足を失い、母親は男を作って逃げてしまった。おしまは父親の面倒を見るために、ここで奉公しているとの事だった。

 日暮れ近く、何人かの侍が馬に乗って騒々しく帰って来た。妹の姿はあったが小六の姿はなかった。藤吉郎は屋敷の隅にある蔵の陰で寒さに震えながら、おしまを口説いていた。おしまに惚れたわけではないが、その体には充分に興味があった。

「小六様の妹さんはどうして、男のなりをしてるんだ」と藤吉郎はおしまに聞いた。

「そんな事は知らねえ」とおしまは首を振った。「おらが来た時から、あんな格好してた」

「ふーん。強えのか」

「そりゃ、強えよ。おら、おすわ様が寄って来る男たちを倒すのを何度もこの目で見たわ」

「おすわ様っていうのか」

「そう、おすわ様だ。その下にも、おらと同い年のおゆう様っていうのがおるけど、おゆう様もおすわ様とおんなじに強え」

「へえ、おゆう様っていうのもいるんだ」

「おゆう様も別嬪べっぴんだけど、あんた、好きになっても駄目だ」

「どうして」

「石ツブテでやられる」

「おゆう様は石ツブテが得意なのか」

「うん。百発百中だ」

「へえ、凄えな‥‥‥おめえだって、よく見りゃいい女子おなごだ」

「やだよお、この人は」とおしまは嬉しそうに藤吉郎の肩を押した。

「おめえ、寒くねえか」と藤吉郎が抱き寄せようとすると、おしまは藤吉郎の手を打ち、「寒くねえ」と睨んだ。

 おしまが女中部屋に帰った後、藤吉郎は門番小屋に行って、小六の帰りを待った。火鉢に当たりながら、うとうとしていた時、ようやく小六が帰って来た。

 藤吉郎は跳び起きると小六を迎えた。馬から下りると、小六はいい機嫌になって卑猥ひわいな小唄を歌っていた。藤吉郎の顔を見ても驚くわけでもなく、酒臭い息を吹きかけて、「おっ、どっかで見た面じゃのう」と笑った。

「生駒屋敷にいた木下藤吉郎です」と言うと、藤吉郎の顔をじっと見つめ、「おう、猿じゃ、猿じゃ」と藤吉郎の肩を何度もたたいた。

 鉄砲を教えてくれと頼むと、よし、よし、任しておけと藤吉郎の胸を小突いた。

 藤吉郎は大喜びして、小六と一緒に小唄を歌い、わけのわからない踊りを踊った。小六に誘われるまま、小六の部屋に上がり、酔っ払った小六の面倒を見ながら、その部屋で眠った。

 次の朝、小六より先に起きて台所で働き、小六が起きた頃、挨拶に行くと、小六は昨夜の事など全然、覚えていなかった。藤吉郎の顔を見て、「おっ、どっかで見た面じゃのう」と昨夜と同じ事を言った。

 藤吉郎が名を名乗ると、猿じゃなと思い出したが、「どうして、猿がここにいるんじゃ」と首を傾げた。

 鉄砲を教えてくれと頼むと、駄目じゃと断られた。それでも、出て行けとは言わなかった。何としても、小六から鉄砲を習うまでは、ここからは離れないと覚悟を決め、勝手にうまやや庭の掃除を始めた。清須にいた頃、職人のもとで、怒鳴られながら雑用ばかりしていたので、何をすれば主人が満足するかを身をもって経験していた。

 藤吉郎は空いている長屋に住み込んで、誰に命じられるわけでもないのに、朝から晩まで雑用をやっていた。台所で働く女たちは、藤吉郎が先の事まで見越して、よく働くので重宝がり、すぐに仲良くなった。特におしまは頼りにして、仕事が終わると毎晩、藤吉郎の部屋にやって来て悩み事を相談していた。しかし、藤吉郎がおしまの体にさわろうとすると拒否反応を起こして帰ってしまう。嫌われたかなと思っていると次の日にはまたニコニコして寄って来る。女子というのは、なかなか難しいものだと藤吉郎は思った。

 小六の母親も藤吉郎の事を気に入り、何か用があると必ず、藤吉郎を呼んだ。男まさりな小六の妹、おすわとおゆうの二人も、ちょっとした事でも、「ねえ、猿、あれやって」「ちょっと、猿、これ頼むわ」と気安く用を言い付けた。

 猿と呼ばれるのは好きではないのに、二人に呼ばれるとなぜか、ニコニコして言う事を聞いてしまう。そんな自分が情けなかったが、どうしようもなかった。なぜか、二人に猿と呼ばれても腹が立たないのが不思議だった。

 おすわは姉に似ていて、何かを言われるたびに姉を思い出し、はい、はいと言う事を聞いてしまう。おゆうの場合は同い年なので、男まさりな格好をしていても、姉を思う事はなかったが、何を言われても、なぜか、逆らう事ができなかった。おしまの言った通り、別嬪だったからかもしれなかった。

 鉄砲を教えてもらうまでは何事も辛抱だと、藤吉郎は何を命じられても、いやな顔もせず、喜んで仕事を引き受けた。時には母親から愚痴を聞かされる事もあり、蜂須賀小六が何者なのかを少しづつ知るようになった。

 立派な武家屋敷に住んでいるので、どこかの殿様に仕えているのだろうと思っていたが、そうではなかった。普段は生駒家の荷駄隊の護衛をして旅に出ている事が多く、戦が起こると傭兵ようへいとして、勝てると見極めた方に付き、活躍している野武士だった。小六が一声掛ければ木曽川流域の野武士が一千人余りも集まるという。世の中には不思議な男がいるものだと藤吉郎は小六という男を見直していた。

 蜂須賀家は本来、海東郡の蜂須賀村の領主だった。勝幡城の織田備後守と争って領地を奪われ、父親は戦死した。小六は母親に連れられて、母親の実家である丹羽郡宮後村の安井弥兵衛を頼った。小六は安井家で成長し、備後守を倒すために武芸に打ち込み、川並かわなみ衆と呼ばれる木曽川流域の野武士たちを率いて、美濃の斎藤道三の傭兵となり備後守と戦って来た。ところが一昨年の春、道三は備後守と和睦してしまった。道三の娘が備後守の伜、上総介に嫁いだのだった。小六は備後守を倒すため、配下の者を末森の城下に送って様子を探っているが、なかなか、いい機会は得られなかった。

 藤吉郎がここに住み着いてから一月近く経ったある日、庭を掃いていると旅から帰って来た小六が縁側から声を掛けて来た。

「おい、猿じゃねえか。おめえ、まだ、ここにいたのか」

「はい。鉄砲を教えてくれるまでは、ここにいるつもりです」

「わりとしつこい奴じゃのう」と小六は縁側に腰を下ろした。「鉄砲を習って、どうするつもりじゃ」

 藤吉郎はその場にひざまずくと、「父のかたきを討ちます」と答えた。

「ほう。おめえの親父は木下何とかと言っておったのう」

「木下弥右衛門です」

「そうか。しかし、仇討ちなら鉄砲で撃つ事もあるまい。刀でも槍でも構わんじゃろ」

「いえ。刀や槍では無理です。いつも、大勢の侍に囲まれてますから」

「ほう、余程の大物とみえるの。一体、おめえの仇とは誰なんじゃ」

「織田備後守です」

「何じゃと。織田備後守?」

「はい。備後守が父の仇です」

「おめえ、本気で備後守をやるつもりなのか、たった一人で」

「はい」

「何という奴じゃ‥‥‥」と小六は藤吉郎の顔をじっと見つめた。「不思議な面じゃのう。本物の馬鹿なのか、とてつもねえ大物になるのか、どっちかじゃな」

「鉄砲を教えて下さい」

「うむ、いいじゃろう。しかしな、鉄砲を習う前に、まず、弓矢の稽古じゃ。弓矢もろくにできん者に鉄砲など撃たせるのは玉薬たまぐすり(火薬)の無駄じゃ。玉薬は貴重だからな」

 藤吉郎はその日から屋敷の裏にある的場で弓矢の稽古を始めた。小六の配下の三輪弥助という者が藤吉郎に弓矢を教えてくれた。

「猿、おめえ、お頭と同じように備後守を狙ってるそうだな」と弥助は言った。

「えっ、小六様も備後守を?」

「何だ、知らねえのか。お頭の仇も備後守なんじゃ。備後守を倒すために、美濃の斎藤方として何度も戦に出たが、ついに備後守を倒す事はできなかった。なかなか、しぶてえ奴じゃよ、備後守は。しかしな、どうやら備後守は今、病に臥せってるようじゃのう。もしかしたら、もう死んでるとの噂もある」

「備後守が死んでる?」

「噂じゃ。だがの、その可能性は極めて高え。一昨年おととしの二月、道三殿の娘、胡蝶こちょう殿が那古野の上総介のもとへ輿入れされた時、わしらは護衛として那古野まで行ったんじゃ。その時、備後守の姿を見たが、その後、備後守は末森の城から一歩も外に出てはおらんのじゃ。病に臥せってるというが、どうも怪しい」

「そんな、備後守が死んだなんて信じられません」

「うむ。お頭としても信じたくはねえらしいがの‥‥‥まだ、死んだと決まったわけじゃねえ。今のおめえは弓矢の稽古に励む事じゃ。弓矢の名人だったという親父の名を汚さんためにもな」

 藤吉郎は鉄砲を習うため、必死になって弓矢の稽古に熱中した。弓矢だけでなく、女にも熱中していて、おしまはとうとう藤吉郎のものになっていた。毎晩のように寒さも忘れて、屋敷の隅にある蔵の陰でおしまを抱いていた。最初の頃は恥ずかしがっていたおしまも、慣れるに従って大胆になり、夜中に藤吉郎の部屋に忍んで来ては抱き着く始末だった。

「おい、おめえ、おしまとうまくいってるらしいじゃねえか」と弥助は弓の稽古をしながらニヤニヤした。

「そんなんじゃないですよ」と藤吉郎は照れた。

「おしまのおっぱいはでっけえそうじゃの。毎晩、しゃぶってるのか」

「そんな‥‥‥」

「うらやましいのう。おしまの奴、まだガキだと思ってたら、最近、やけに色っぽくなりやがった」

「そんな事ないでしょ、変わりませんよ」

「いや、変わった。歩き方から目付きまで、すっかり色っぽくなった。なあ、猿、おめえは女子おなごを口説くのがうめえのう」

「そんな事ないですよ」

「いや。おめえは女子の心を捕らえるのがうめえ。おすわ様やおゆう様もおめえには気を許してる所がある」

「そんな事はありません。二人は俺の事を使用人だと思って使ってるだけです」

「いや、そうじゃねえ。使用人なら、おめえの他にもいくらもいる。それなのに、おめえを名指しするのはどういうわけじゃ」

「俺が何でも言う事を聞くからでしょ」

「いや、それだけじゃねえ。わしはこの前、おすわ様がおめえと楽しそうに話をしてる所を見たぞ」

「えっ」

「おすわ様は楽しそうに笑っていた」と弥助は真面目な顔をして言った。

「ただ、世間話をしていただけですよ」そう言いながら、藤吉郎は弥助の顔を覗き込み、「あの、もしかしたら弥助様はおすわ様の事を」と聞いた。

「わしだって男じゃ。おすわ様のような女子を好きになって悪いか」

「いいえ、とんでもございません」

「だがの、わしは駄目なんじゃ。おすわ様の前に出ると何も言えんのじゃ。それに、おすわ様はの、どうやら新七郎が好きらしいんじゃ。奴は背も高えしカッコいいからな」

「新七郎様ですか‥‥‥」

「まったく、おめえが羨ましいわ」

「あの、弥助様は男まさりの女子が好きなんですか」

「はあ? わしはおすわ様が男まさりだから、惚れたんじゃねえわ。馬鹿たれが」と弥助は言ったが、藤吉郎は姉の婿むこに弥助なら丁度いいのではないかと思った。

 その年の三月、備後守の葬儀が那古野城下の万松寺にて行なわれた。葬儀の席で喪主の上総介が例のかぶき姿で現れ、父の棺桶めがけて抹香まっこうを投げ付けた事が話題となった。藤吉郎はその事を弥助から聞かされた。

「やはりな」と弥助はしたり顔で言った。「備後守は一年以上も前に死んでいたんじゃ。上総介は空っぽの棺桶に向かって抹香を投げつけたんじゃよ。あんな茶番に付き合っちゃいられねえとな。とにかく、備後守が死んだ事は公表された。また、戦が始まるぞ」

 藤吉郎は呆然となって右手に持った矢を見つめていた。

「残念だったのう。せっかく、仇を討つと張り切ってたのにのう‥‥‥仕方ねえから伜の上総介でも狙うか」

「上総介‥‥‥小六様は上総介を狙ってるんですか」

 弥助は首を振った。「何もしなくても、上総介は自然に自滅するじゃろうとの事じゃ。お頭はな、備後守に奪われた蜂須賀の地を取り戻そうと考えておいでじゃ」

「上総介は自滅するんですか」

「ああ。あのうつけ殿は家中の評判が悪い。備後守は上総介に家督を譲ったが、重臣たちの中には上総介の弟の勘十郎を押す者も多い。そのうち、家督争いが始まるじゃろう。それだけじゃなく、清須の大和守も岩倉の伊勢守も備後守に押さえられていた。備後守がいなくなれば二人も動き出す。今の上総介の回りは敵だらけなんじゃよ。あのうつけ殿の命もそう長くはあるまい」

 生きがいを失った藤吉郎は小六の屋敷に帰る事なく、当てもなくさまよい歩いた。

 仇の備後守はもういない‥‥‥一度も会う事もなく、仇は勝手に病死してしまった。備後守を討つために鉄砲を習うつもりだったが、もう、どうでもよかった。

 目標を失い、これから、どうしたらいいのか、藤吉郎にはわからなかった。

 


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