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藤吉郎伝 若き日の豊臣秀吉

赤とんぼ

 

 夕日が真っ赤に燃えていた。

 河原の土手の草むらから、突然、小坊主が顔を出した。辺りをキョロキョロ見回し、ニコッと笑うと、「ヨッホッホー」と叫んで、勢いよく飛び上がった。

 嬉しそうに鼻歌を歌いながら踊るような足取りで、小坊主は夕日を背にして歩き始めた。あちこち破れたボロ同然の着物をまとい、顔も手足も泥だらけ、そんな事はお構いなしとニコニコしている。その顔は何とも言えない愛嬌にあふれ、どことなく猿のようだった。

 小坊主は急に立ち止まると振り返り、夕日に向かって、あかんべえをすると両手を振り回しながら勢いよく走り出した。

 回りの景色を眺めながら、「ひでえなあ」と小坊主は叫んだ。

 田畑は荒れ果て、朽ち果てた空き家がやけに目に付いた。戦続きで田畑が荒らされるにもかかわらず、年貢は跳ね上がる一方だった。厳しい取り立てに耐えられず、新しい天地を求めて逃げ出す百姓が多かった。

 小坊主が生まれた頃、故郷は大きな村だった。辺り一面、田畑が広がり、作物が豊富に稔っていたのに、今は田畑よりも荒れ地の方が多く、人の住む家よりも空き家の方が多いという有り様だった。

 荒れた田畑に赤とんぼが気持ちよさそうに飛び回っていた。小坊主はニヤッと笑って、赤とんぼを捕まえようとしたが、急に手を止めると、「おっ母たちは無事だろうか」とつぶやいた。

 小坊主は急に心配になり、急いで我が家へと向かった。

 それからしばらくして、木陰に隠れ、うずくまっている小坊主の姿があった。さっきの陽気な顔とは打って変わって、泣きべそをかいている。涙に潤んだ目は畑で働く女の姿をじっと見つめていた。

 色あせた野良着を着た女は額の汗を拭きながら腰を曲げて草むしりをしている。年の頃はまだ三十前後なのに、苦労が耐えないのか、栄養が足らないのか顔色はさえなかった。

「おっ母‥‥‥」と小坊主はつぶやいた。木陰から身を乗り出し、今にも飛び出しそうだったが、じっと耐えていた。

 母親と少し離れて、鍬を持った父親が働いている。小坊主は父親の方をチラッと見ただけで母親の姿に見入っていた。

「おっかさーん」と誰かが呼んだ。

 小坊主は声のした方を見た。

 竹槍をかついだ若者が母親のもとに駈け寄って来た。長い髪を無造作に束ね、継ぎだらけの着物に太めの縄を帯代わりに締め、腰に脇差を差している。格好は男でも顔付きは若い娘だった。

「姉ちゃん、相変わらずだなあ‥‥‥」

 姉を見つめる小坊主の目から涙があふれ出した。

 母と姉は笑いながら話をしていた。そこに汗を拭きながら父親が加わった。母が急にこちらの方に振り向いた。

 小坊主は慌てて身を伏せた。

「藤吉はどうしてるかねえ。いじめられとりゃせんかの」と母の声が聞こえた。

「大丈夫だ。喧嘩の仕方は俺がちゃんと教えたから、いじめられやせん」と姉がこぶしを振り上げた。

「馬鹿言うな」と父親が姉を睨んだ。「喧嘩させるために、お寺に入れたんじゃねえわ。学問をしっかりと身に付けてもらわなけりゃ困る」

「でも、あの子はじっとしてるのが苦手だからね、お寺さんに迷惑をかけなければいいんだけど‥‥‥」

「おっかさん、心配のし過ぎだ。あいつは結構、ずる賢いから、うまくやってるよ」

 三人はしばらく夕焼けを眺めていた。

「藤吉、負けんじゃねえぞ」と姉が急に大声で叫んだ。

 思わず返事をしそうになって、藤吉は慌てて口を押さえた。

 母と姉は並んで家の方に帰って行った。父親は夕焼けに向かって両手を合わせ、頭を下げると二人の後を追った。三人の後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、藤吉は頬を流れる涙を拭いた。

「トーキチ」と後ろで誰かが呼んだ。

 ビクッとして振り返ると若い女が立っていた。笹の葉を振り回しながら大口を開けてケラケラ笑っている。

「馬鹿、脅かすな」と藤吉は鼻水をすすった。

「トーキチ、トーキチ」と歌うように言いながら、女は夢見るように舞っていた。

 おきた観音と呼ばれている女だった。観音と呼ばれるにふさわしい美しい顔をしているのに、頭はちょっといかれていた。どうして狂ってしまったのか知らないが、藤吉が物心ついた頃には、すでに狂っていた。

 寺に入れられる前は、近所の子供たちと一緒に、おきた観音をからかって遊んでいたが、村に帰って来た途端に、こんな所で会うとは驚きだった。

 おきた観音は相変わらず綺麗な着物を着ていても、相変わらずだらしがなかった。襟が開いて乳房がのぞき、裾は割れて足が丸見えだった。

「おめえなあ、そんな格好してると、あにさんたちにまた悪さされるぞ」

 藤吉はおきた観音を捕まえると着物を直してやった。おきた観音は笑うのをやめて、おとなしく言いなりになっている。

「おめえは観音様なんだからな、ちゃんとしてなきゃ駄目だ」

 着物が直るとおきた観音は、「トーキチ、トーキチ」と言いながら藤吉に抱き着いて来た。

「今日はおめえと遊んでる暇はねえんだ。もうすぐ日が暮れるからな、ちゃんと、うちに帰るんだぞ」

「トーキチ、トーキチ」と歌いながら、おきた観音は後をついて来た。何度も何度も追い払って、やっと諦め、ケラケラ笑いながら帰って行った。赤とんぼが一緒になって、おきた観音の回りを楽しそうに舞っていた。

 おきた観音を見送ると藤吉は南へと向かった。荒れ果てた田畑の中を黙々と歩き、半里(約二キロ)ばかり行くと、こんもりとした土塁が見えて来た。辺りはもう、すっかり暗くなっている。

 ゴミ溜めになっている堀と草におおわれている土塁に囲まれた武家屋敷の門の前に立ち、藤吉は大声で叫んだ。

「おじさーん。烏森かすもりのおじさん、ねえ、開けてよ」

「誰じゃ。外で騒いでるのは」と門の中から声が聞こえた。

「中村の藤吉です。おじさん、開けて」

 しばらくして門が開き、顔馴染みの門番の顔が槍の穂先と一緒に顔を出した。

「何だ、藤吉じゃねえか、今頃、どうしたんじゃ」

「ねえ、おじさん、いる?」

「おう、殿はおられるぞ」

 藤吉は門の中に入った。土塁に囲まれた中はおよそ二十五間(約五十メートル)四方で、母屋おもや、蔵、うまや、そして、さむらい長屋があった。

 屋敷の主人、杉原彦七郎は父方の伯父で、親戚として幼い頃より親しんでいた。革の袖無しを着た彦七郎は母屋の縁側に立ち、怪訝けげんな顔をして藤吉を迎えた。

「お寺を抜け出して来ました。うちに帰れないので、しばらく、ここに置いて下さい」

「おい、何度目じゃ」

 藤吉は指を一本、二本、三本と立てて見せた。

「まったく、しょうもねえ奴じゃの、おめえは。井戸でその汚え面を洗って来い」

 藤吉が井戸で手足を洗っていると、二人の娘が台所から出て来てクスクスと笑った。

「何がおかしい」と藤吉は睨んだが、娘たちは余計に笑い出した。

「また、お寺を追い出されたのね」と年上のおすみが藤吉を指さしながら言った。

 おすみは藤吉の姉と同い年で、何となく苦手だった。性格は姉と全然違って女らしく、女らしい女に慣れていない藤吉には近寄りがたい存在だった。

「今度は何したの」と年下のおふくが興味深そうに聞いた。

 おふくは藤吉より一つ年下で、素直で可愛い娘だった。

「何もせんよ。ただ、坊主になるのはやめたんだ」

「嘘ばっかし」とおすみは怖い顔をした。「この間は、仏様をひっくり返したんでしょ。高価な大皿も割ったって聞いたわ」

「仏様をひっくり返すとバチが当たるのよ」とおふくが心配そうな顔をした。

「大丈夫だい。ちゃんと拝んだもん」

「ねえ、今度は何を壊したの」

「お寺じゃ。お寺をメチャメチャに壊してくれたわ」と藤吉は言うと、唖然とした二人の横を擦り抜け、「俺は偉いお侍になるんだい」と母屋の中に入って行った。

 藤吉はおすみの真っ赤な着物を着せられて、彦七郎の前にかしこまっていた。

「まあ、やっちまった事は仕方ねえのう。所詮、おめえには向いてなかったんじゃろう」

 彦七郎はうまそうに酒をすすった。

「おめえの親父は、おめえに学問させて、そのうち茶の湯でも教えようと考えたんじゃろうが、おめえのその面を見てると、どう考えても、お茶坊主っちゅう柄じゃねえのう。まあ、遠慮せずに食え」

「はい、いただきます」

 藤吉は目の前のお椀に飛びついた。

「お茶坊主って、何なんです」と湯漬けをかっ込みながら聞いた。

「お殿様にお茶を差し上げるお役目じゃ」

「どうして坊主なんだろ」藤吉は首を傾げた。

「坊主っちゅうのはの、俗世間の身分の外におるんじゃよ」

「俗世間の身分? 何、それ」

「世の中にはの、身分ちゅうもんが色々とあってな。例えば、わしらが古渡ふるわたりのお殿様と同じ席に座る事はできんのじゃよ。古渡のお殿様だって、清須におられる大和守やまとのかみ殿と同席はできんのじゃ」

「ふーん。古渡のお殿様より清須のお殿様の方が偉いんか‥‥‥」

「まあ、そうじゃのう。その清須のお殿様よりも偉いお方が、清須におられる武衛ぶえい様じゃ」

「武衛様?」

「武衛様は京都におられる将軍様の一族なんじゃ」

「へえ、そんな偉い人が清須におったんか。その武衛様というのが尾張おわりの国(愛知県西部)で一番偉いんか」

「そういう事になるのう。その武偉様とも同席する事ができるんがお茶坊主なんじゃ。ただし、一流の茶の湯の腕を持ってなくちゃならんがの」

「ふーん。お父は一流じゃなかったんだな」

「一流とは言えんかもしれんが、なかなかの腕だったそうじゃ。おめえのお父はおめえのように寺に入れられたんじゃが、寺を飛び出して京都まで行き、茶の湯を覚えて帰って来たんじゃ。当時、都では茶の湯が流行ってたらしいが、尾張ではまだ新しかったんじゃ。故郷に帰って来るとすぐ、当時、勝幡しょばたにおられた備後守びんごのかみ殿に腕を見込まれてのう、お茶坊主となったんじゃ。備後守殿に仕えて、一時は羽振りもよかったが、そのうち津島の商人たちも茶の湯をやるようになってのう、尾張の武士たちの間にも流行って行ったんじゃ。わしは茶の湯の事はあまり詳しくねえが、茶の湯にも流行りすたりっちゅうもんがあるらしくての、おめえのお父の茶の湯は古臭えと言われて、おめえが生まれて、一、二年後、おはらい箱になっちまったんじゃよ。若えうちに持てはやされたんが悪かったんじゃろうの。今はすっかり世を拗ねちまった。あんな奴じゃなかったんにのう」

「あのお父が京都まで行ったの」と藤吉は目を丸くした。

「うむ。丁度、今のおめえぐれえの頃じゃったかのう。何を思ったんか、急に寺を飛び出して、どこかに行っちまったんじゃ。しばらくして旅のひじりがあいつの消息を知らせてくれたそうじゃ」

「あのお父が京都に‥‥‥信じられない」

「今のあいつからは想像もできんが、若い頃は人並みに夢に燃えていたんじゃよ」

「お父の夢って何だったの」

「さあな。お父に聞けよ」

 藤吉は何となく、父親が好きではなかった。いつも、偉そうな事ばかり言って、藤吉の顔を見ると文句ばかり言う。朝から晩まで働き詰めで、遊び心などまったくない、くそ真面目な男だった。藤吉が冗談を言っても、笑いもせずにブスッとしている。そんな父親に文句も言わず、ただ黙って従っている母親が可哀想だった。あんな父親なんかいない方がいいと藤吉は思っていた。でも、父親が自分と同じように寺に入れられ、寺を飛び出して京都まで行ったと聞いて、父親を見直すと共に、自分も絶対に京都まで行ってやると思った。

 藤吉は杉原家に居候いそうろうしながら、ひそかに旅に出る準備を始めた。旅立つといっても、今の藤吉には西も東もわからない。京都がどこにあるのかも知らなかった。杉原家に出入りする者たちから、それとなく情報を集めていた。

 そんな時、彦七郎が立派なよろいを身に着け、自慢の駿馬しゅんめにまたがり戦に出掛けて行った。古渡城の織田備後守(信秀)が尾張の兵を率いて、美濃みの(岐阜県)の斎藤道三を攻めるという。彦七郎と一緒に従兄いとこの五郎も新しい鎧に身を固めて出陣して行った。藤吉はカッコいいなあと羨ましそうに見送った。

 早く、京都に行きたかったが、彦七郎より留守を頼むぞと言われたため、彦七郎が帰って来るまで我慢しなければならなかった。藤吉はおすみとおふくの姉妹と一緒に畑仕事を手伝いながら、夜になると門番小屋に行って屋敷の警固を手伝っていた。

 備後守の留守を狙って、清須の侍たちが古渡城を攻めるという騒ぎが起こった。留守を守っている者たちが必死に守ったため、城が落ちる事はなかったが、古渡の城下は火の海となった。焼け出された者たちが次々に助けを求めて杉原屋敷に押しかけて来た。彦七郎のおかみさんは村中の女衆を集め、飯を炊いたり、怪我人の手当をしたりと大忙しだった。

 藤吉は六尺棒をつかんで男衆と共に敵の襲撃に備えたが、幸い、敵は攻めては来なかった。土塁の上から古渡の城下の火を眺めながら、同じ尾張の侍がどうして古渡を攻めるのか、藤吉にはよくわからなかった。

 やがて、備後守が兵を引き連れて戻って来ると、清須の兵は逃げ帰り、藤吉も男衆と一緒に城下の火消しに出掛けた。

 町は全滅に等しく、逃げ遅れて焼かれた人たちの姿は直視できない程、無残だった。親とはぐれて泣き叫んでいる子供がいた。顔を火傷やけどした若い娘は死なせてくれとわめいていた。死んでしまった子供を抱きながら悲鳴を上げている母親もいた。かと思えば、人の不幸をよそに火事場泥棒を働いている不届き者も大勢いた。人の悲鳴があちこちから聞こえる焼け跡を赤とんぼの群れが不気味に飛び回っていた。

 藤吉はこの世の地獄を見た衝撃から立ち直れずに屋敷に帰ると、さらに不幸が待っていた。主人の彦七郎と従兄の五郎が戦死したという。負け戦となり、尾張の武士たちが大勢、他国にて戦死してしまったとの事だった。

 藤吉には彦七郎が戦死した事が信じられなかった。つい、この間、父の話をしてくれた伯父が今はもうこの世にいない。侍というものは何と恐ろしいんだと実感していた。

 


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藤吉郎伝 若き日の豊臣秀吉

清須城下

 

 杉原彦七郎と従兄の五郎の葬儀も無事に終わった。

 彦七郎の娘、おすみとおふくの二人は、ずっと泣き通しだった。おかみさんが忙しそうに働いているので、藤吉は二人を慰めるのに一生懸命だった。今まで、怖いと思っていたおすみも本当はか弱い女の子なんだと女を見る目がほんのちょっと変わっていた。

 二人も何とか立ち直り、藤吉自身の心の傷も癒えると、また、京都への旅が胸の中に膨らんで来た。

 京都は遠い‥‥‥京都へ旅立つ前に、まず、尾張の都である清須(清洲町)を見ておくべきだと思った。

 藤吉は世話になった皆に別れを告げると、清須に向かって旅立った。

 清須の城には武衛ぶえい様と呼ばれる尾張の守護、斯波しば左兵衛佐さひょうえのすけ義統よしむねがいて、その守護代として織田大和守やまとのかみ広信がいた。武衛様は尾張の国の守護だったが、尾張の国をまとめる力はなく、大和守に保護されているといった状況だった。かといって大和守が尾張の国を支配しているのかというとそうでもない。大和守の奉行である織田備後守びんごのかみ信秀が尾張国内では最も勢力を持っていた。

 当時の尾張の国の状況は複雑だった。応仁の乱の時、尾張の守護職しゅごしきだった斯波氏が家督争いを始めて、東軍と西軍に分かれて戦ったため尾張の国も二つに分けられ、上四郡は岩倉を本拠地とする斯波氏の管轄となり、下四郡は清須を本拠地とする斯波氏の管轄となった。上四郡を支配する岩倉には、すでに守護である斯波氏はいないが、守護代として織田伊勢守信安がいて、清須の織田大和守広信に対抗している。織田備後守は清須の大和守の奉行の一人にすぎなかったのに、勝幡しょばた城(中島郡平和町)を本拠地として、津島の商人たちと結び、経済的に優位の立場に立ち、さらに、那古野なごや(名古屋市中区)に進出して熱田の商人とも結び勢力を拡大した。また、隣国の三河(愛知県東部)や美濃(岐阜県南部)にも積極的に進出して、守護代の両織田氏をしのぐ活躍をしている。そんな事は、まだ十一歳の藤吉は知らない。ただ、清須と聞けば、都という印象が強く、京都に行く前に見ておかなければならないと思っていた。

 清須には祖父がいた。母の父親である祖父は刀鍛冶かたなかじだった。もう六十歳を過ぎ、伜の孫太郎に仕事を継がせて、のんびりと隠居しているが、その腕は清須一との評判だった。

 白髪頭の祖父は、たった一人でやって来た藤吉を見て驚き、目を細くして歓迎してくれた。しかし、藤吉の格好は祖父の気に障ったようだった。いが栗のような頭に従姉いとこの真っ赤な着物を着て、白い組紐を腰に巻き付け、黒光りした木剣を差して得意になっていた。藤吉はその姿が気に入っていたが、祖父には理解できなかった。すぐに木剣を取り上げられ、地味な職人の格好に着替えさせられた。

 清須はさすがに都だった。大通りには大きな屋敷が建ち並び、様々な人たちが大勢行き交っていた。娘たちは着飾って、しゃなりしゃなりと気取って歩き、若い男たちは今、流行りのかぶき姿で闊歩している。大人たちはその異様な風体に目をそむけるが、藤吉ら子供たちから見れば、それは憧れの姿だった。

 かぶき姿に決まった規則はない。人と変わった目立つ格好をして、奇抜な行動をとる事をかぶくと言い、かぶいている者をかぶき者と呼んでいた。若い者たちはかぶき者と呼ばれる事を誇り、競って、人と違う格好をした。まげをやたらと高くしたり、革でできた衣や袴を身につけたり、派手な模様の着物を着たり、三尺余りもある大太刀を腰に差したり、刀のつかを長くして、白や朱の組紐を巻き付けたり、それぞれが工夫を凝らして自己主張をしている。戦国乱世が生んだ一つの風潮だった。明日の事はわからない。今がよければそれでいい。今を精一杯生きている証しとして、目立つ格好をし、人並み外れた行動をとっていた。

 祖父はかぶき者から目をそらし、藤吉を睨むと、「あんな真似は絶対にするんじゃないぞ」ときつく言った。

 藤吉はしぶしぶとうなづいたが、カッコいいなあと見とれていた。

 清須の城下は五条川に沿って南北に長く、中央に堀と土塁に囲まれた清須城があり、北と南に町人の住む町が形成されていた。祖父の家は南側のはずれにあり、界隈には様々な職人たちが住んでいた。

 藤吉は川向こうに見える城のやぐらを眺めながら、これが武衛様のお城かと感心していた。

 こんなお城に住めたら凄いな。やっぱり、お侍はいいなあ。でも、古渡のお城下を焼いたのは、ここのお侍だ。あんな事をするお侍には絶対になりたくない。

「藤吉、お前、まさか、お侍になりたいと思ってるんじゃないじゃろうな」と祖父は城を見つめている藤吉に聞いた。

 藤吉は祖父の方を見ると強く首を振った。

「お侍はいやだ。この間、烏森のおじさんと従兄の五郎さんが戦死したばかりだもん。おばさんが泣いてた。俺はおっ母や姉ちゃんを悲しませたくない」

「そうか。烏森のおじさんも美濃で戦死したのか‥‥‥大勢の者が亡くなったらしいの」

「ねえ、おじいさん、俺、刀鍛冶になれんか」

「ほう、藤吉は刀鍛冶になりたいんか」

「これからは手に職を持つんが一番だと思ったんだ」

「そうか、そうか、新太の奴と一緒に修行せい。立派な鍛冶師になれば、今の世の中、どこに行っても食って行けるわ」

「どこに行っても」

「ああ。今の世の中はどこに行っても戦じゃ。槍や刀はいくつあっても足りんのじゃ。腕がよければ、どこに行っても引っ張り凧じゃ」

 藤吉は京都に旅立つ前に清須を見ておこうと気楽な気持ちで出て来た。杉原のおばさんには中村の家に帰ると言ったので、握り飯を貰うわけにもいかず、清須に着いた時には、もう腹ぺこだった。京都に行くには何日も掛かる。このままでは駄目だと藤吉は思った。そこで、腕に職を持てばいいんだという結論に達した。当然、一人前の刀鍛冶になるのに、どれ位の修行が必要なのかまでは考えていない。たまたま、祖父が刀鍛冶だったから、刀鍛冶になろうと思っただけだった。

 次の日から、藤吉は従兄の新太郎と一緒に刀鍛冶の作業場に入って仕事を始めた。火が赤々と燃えている暑い作業場で朝から晩まで雑用をやらされ、こんなはずじゃなかったと悔やんだ。一つ年上の新太郎は文句も言わずに雑用をやっている。新太郎に聞くと、一人前になるには十年の修行が必要だという。

 冗談ではなかった。十年もこんな所にいられない。自分から刀鍛冶になると言った手前、あまり早くを上げると根性なしと思われるので、三ケ月間、じっと我慢して、祖父に自分は鍛冶師には向いていないから他の仕事を世話してくれと頼んだ。

 祖父は残念そうな顔をして、「そうか。お前には向いてないか‥‥‥」とつぶやいた。「わしはお前に立派な鍛冶師になって、鉄砲を作ってもらいたいと思ってたんじゃ」

「鉄砲?」藤吉には何の事かわからなかった。

 祖父はうなづいた。

「四年前に薩摩の種子島という所に南蛮人がやって来てのう。鉄砲という新しい武器を伝えたんじゃ。まだ、戦で使われる事はないがの。そのうち鉄砲が弓矢に変わる事となろう」

「鉄砲って何です」

「鉄でできた筒から鉛の玉が飛び出す新しい武器じゃ。飛び出す時に物凄い音がしてのう。弓矢よりもずっと威力があって、その玉に当たると絶対に死んでしまうんじゃよ。しかし、作るのは難しいらしくての。伜の孫次郎が鉄砲を作るために今、小折こおり村に行ってるんじゃ」

「孫次郎おじさんが鉄砲を作ってるの」

「うむ。小折村の生駒いこま殿に頼まれてのう」

「生駒殿って?」

太夫たゆう様と呼ばれるお大尽だいじんじゃ。鉄砲を作るには銭が掛かるからのう。伜の奴は腕を見込まれて生駒殿のもとに行ったんじゃ。これからの世は鉄砲じゃ。鉄砲を作る腕があれば、蔵の二つや三つ、すぐに建つわ。お前なら鉄砲が作れると思ったんじゃがのう。向いてないか、残念じゃ‥‥‥」

 祖父は鍛冶師が駄目なら刀の研師とぎしはどうじゃと与次郎という研師を紹介してくれた。

 与次郎は祖父の娘婿で、藤吉から見れば叔父だったが会うのは初めてだった。山羊やぎのような髭を伸ばし、いつも、ブスッとしていて、滅多に口もきかない男だった。与次郎は無愛想だったが、おかみさんは、姉さんとこの伜かいと、藤吉の面倒をよく見てくれた。

 与次郎の所には様々な刀や槍があった。刀鍛冶の孫太郎の所にも刀はいっぱいあったが、刀身だけなので、どれも皆、同じに見えた。与次郎の所の刀は色々なつかさやの刀があって、見ているだけでも楽しかった。中には流行りの白柄や朱鞘もある。藤吉はひそかにそんな刀を腰に差して喜んでいたが、そんなのは初めのうちだけだった。朝から晩まで、あれを持って来い、それを持って来いとこき使われ、四ケ月目にはいやになり、ついに飛び出してしまった。

 次に行った所は祖父の知り合い、大工の善八の所だった。善八は一見しただけだと怖そうだが、面倒見のいい男で、若い者たちに慕われていた。おかみさんは善八より二十以上も若く、娘といってもいい年頃で、綺麗な人なのにツンとしていて近寄りがたかった。いつも身綺麗にしていて、毎日、湯浴みをして、長い髪を洗うのを日課としていた。湯浴みのための湯を沸かし、おかみさんの背中を流すのも藤吉の仕事で、おかみさんは文句ばかり言っていたが、おかみさんの裸を見るのは楽しみだった。

 鍛冶師や研師と違って、大工の仕事場は野外だった。狭い小屋の中で仕事をするより、お日様の下の方が何となく嬉しく、家を建てるのも面白そうだった。早く技術を身につけて、おっ母のために大きな屋敷を建ててやりたいと藤吉は張り切っていた。しかし、ここでも雑用ばかりやらされて、一本の釘さえ打たせて貰えなかった。教えてくれないなら、技術を盗んでやれと藤吉は雑用をしながらも、必死になって家の建て方を学んで行った。ところが、後もう少しで家が完成するという時、善八がおかみさんを殺してしまい奉行所に捕まってしまった。

 おかみさんが若い男と浮気をしているのを藤吉は知っていた。善八に命じられて忘れ物を取りに家に戻った時、おかみさんが知らない男と一緒にいるのを見てしまった。部屋の中に着物を脱ぎ散らかして、おかみさんも男も裸になって抱き合っていた。藤吉にも二人が何をしているのか、おぼろげながらもわかったが、見て見ない振りをしていた。おかみさんの浮気を知っていたのは藤吉だけではなく、皆、知らんぷりをして、親方に知らせなかった。それでも、とうとう、ばれてしまい、親方はノミで滅多突きにして、おかみさんと男を殺してしまったのだった。

 綺麗好きで、いつも磨きをかけていたおかみさんの自慢の肌は傷だらけで血にまみれていた。一緒に死んでいたのは近所の蒔絵師まきえしの所にいる若い者だという。返り血を浴びて血だらけの善八は呆然として、ノミを持ったまま部屋の片隅に座り込んでいた。藤吉は地獄絵さながらの情景に声も出ず、驚きで金縛かなしばりにあったかのように体が動かなかった。

「子供が見るもんじゃねえ」と誰かがその場から出してくれた後、急に気持ちが悪くなって、反吐へどを吐いてしまった。

 善八が捕まると善八のもとにいた若い大工たちは皆、どこかに行ってしまった。残った藤吉だけではどうする事もできず、未完成の家は他の大工の仕事となり、藤吉は祖父の所に帰った。

 祖父に訳を話すと、「とうとうやっちまったか、馬鹿な野郎じゃ」と顔をしかめて言った。「あの女は二度目のかみさんでな、亡くなったかみさんにそっくりなんじゃよ。そっくりなのは外見だけなのに、奴は心までそっくりだと思い込んじまったんじゃ。いつか、こうなる事はわかっていた。わしは何度も忠告したんじゃが、奴は言う事をきかん。あの女は男狂いで、近所の若い者をみんな、くわえ込んでいたんじゃ。知らなかったのは善八だけじゃ」

 藤吉はこの時、綺麗好きのツンとした女は気をつけなければならないという事を肝に銘じた。

 その後、鎧師よろいしの勘助、紺屋こうやの庄助、桶屋おけやの久兵衛と次々に渡り歩いたが、どれも皆、長くは続かなかった。

 鎧師の勘助はいつもニコニコしていて色々な話をしてくれたが、客の侍に仕事振りが気に入らないと腕を斬られて仕事ができなくなってしまった。

 紺屋の庄助は真面目で評判のいい男だったが、跡を継ぐべき一人息子をいくさで失ってから酒浸りとなり、仕事どころではなかった。藤吉は毎晩のように庄助に連れられて飲み屋をハシゴし、夜中に帰って来ては、庄助の代わりにおかみさんに謝っていた。酒なんか飲んだ事のなかった藤吉は無理やり飲ませられ、何度も何度も吐いていた。初めの頃は飲み屋という場所が珍しくて、浮き浮きしながら付いて行ったが、そのうちに、酔っ払った庄助に訳もなく殴られる毎日が続き、おかみさんが可哀想だと思ったが飛び出してしまった。

 桶屋の久兵衛は桶作りの腕は一流なのに女癖が悪く、清須城下で一、二を争う紫陽花あじさいという遊女に入れ揚げ、代々続いた店を潰してしまった。藤吉も一度、その遊女屋に連れて行ってもらったが、物凄く豪華で華麗な御殿だった。綺麗な女の人がいっぱいいて、特に、紫陽花という女の人はこの世の人とは思えないほど美しく、しかも、優しい人だった。それに、見た事もない御馳走が山のようにあり、世の中に、こんな不思議な場所があったのかと、藤吉は極楽に来たような気分だった。店を失い、家族にも逃げられ、住む場所もなくなった久兵衛はもう一度、修行をやり直すと陽気に笑って旅に出てしまった。

 鎧師の勘助の所では、お客を怒らせてはならないという事を学び、紺屋の庄助の所では、酒は飲み過ぎてはならないという事を学び、桶屋の久兵衛の所では、全財産を投げ売っても後悔しないほど価値のある女もいるという事を学んだ。

 早く、腕に職を持って旅に出たいと思うが、どこに行っても、つまらない雑用ばかりやらされて、結局、何も身に付かなかった。辛抱強く、色々と世話をしてくれた祖父もとうとう呆れ果て、怒ってしまった。

「おめえは職人に向いておらん。そんな飽きっぽいようじゃ、何やっても駄目じゃ。わしゃもう知らんわ。さっさと中村に帰っちまえ」

 藤吉はしょんぼりとうなだれた。中村には帰りたくなかった。あそこに帰ったら、父に小言を言われながら百姓をするしかない。朝から晩まで働いて、高い年貢を取られても文句も言わず、じっと耐えるだけの生活はしたくはなかった。母や姉には会いたかったが、寺を追い出され、職人にもなれない惨めな自分を見られたくはなかった。

「可哀想でしょうに」と祖母が助け舟を出してくれた。「この子は人付き合いがいいから、あたしゃ、商人になったらいいと思いますよ」

「うん。商人の方が向いてるかもしれない」と藤吉もうなづいた。

「わしゃ、商人は好かん。あいつらは銭勘定の事ばかり考えてやがる」

「いいじゃありませんか。一度、試しにやらせてみたらどうです」

「おてるの所か」と祖父は言った。

 祖母はニコニコしてうなづいた。

「久し振りに天王様にお参りしたいわね」

「そうじゃのう。おてるんとこの孫の顔も何年も見てないしのう。久々に行ってみるか」

 次の日、藤吉は祖父と祖母に連れられて津島へと向かった。

 


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藤吉郎伝 若き日の豊臣秀吉

 

 津島は大勢の人で賑わっていた。

 牛頭ごず天王社の門前町として栄え、さらに、木曽川の支流、および川と墨俣すのまた川が落ち合う川港として、大小様々な船が行き交っていた。熱田に向かう船や伊勢の桑名へ向かう船、川を上って美濃方面に向かう船も出るため、旅人も多く、大通りに面して立つ旅籠屋はたごや木賃宿きちんやどから客引きが大声で客を呼んでいた。

 牛頭天王社の門前の市には新鮮な海産物が並び、藤吉は目を丸くして、見た事もない魚や貝を眺めて回った。門前町から少し離れると大きな蔵が建ち並ぶ商人たちの町になる。商人たちの屋敷は皆、大きくて立派で、威勢のいい人足たちが荷車に山のような荷物を積んで大通りを行き交っていた。

 母の妹、おてるが嫁いだ加藤喜左衛門の屋敷は大河へとつながる川に面して建っていた。船が直接、屋敷に横付けになって荷物の積み降ろしをしている。

 藤吉は津島の町を見て、初めて、川というものが道のように自由に行き来できるという事を知った。津島の町では船がなければ生活できないと思われる程、牛や馬に代わって活躍している。船で暮らしている者までいるのには驚いた。そして、京都に行くには桑名まで船に乗らなければならない事を知り、喜左衛門の所に奉公して、銭を溜めて、そのまま京都に行こうと決心した。

 喜左衛門は伊勢の塩を商っている商人だった。伊勢から来た塩は荷揚げされ、尾張国内の各地へと運ばれて行った。

 祖父と祖母は三日間、のんびりと孫たちと遊んで帰って行った。藤吉も従弟いとこたちと一緒に遊び、二人が帰ってから叔父のもとで働き始めた。

 商人というから塩を売り歩くのかと思っていたら、叔父の所では行商はしていなかった。各地にある店に塩を運ぶだけで小売りはやっていない。藤吉は毎日、重い塩を船から降ろしては荷車に積むという肉体労働ばかりやらされた。お陰で、足腰は強くなり、腕も太くなったが、背丈はちっとも伸びなかった。人足たちから名前を呼ばれる事もなく、『猿、猿』と呼ばれ、自分の姿がそんなにも猿に似ているのかとがっかりした。さらに、年下の従弟たちまで『猿』と呼び、馬鹿にしたように見るのは辛かった。主人の子供なんだからと自分に言い聞かせて、じっと我慢していたが、とうとう堪忍かんにん袋の緒が切れて、従弟を殴って屋敷を飛び出してしまった。

 藤吉は一人、港にしゃがんで桑名に向かう船を眺めていた。これからどうしたらいいのかわからなかった。桑名に行く船に乗る銭はなかった。それ以前に、今夜の宿もない。野宿をするには寒すぎた。

 叔父に謝って帰ろうか。叔父に謝るのはいいけど、従弟たちには謝りたくなかった。

 どうしよう。このまま、中村に帰ろうか。いや、駄目だ。帰れない。

 川向こうの空が夕日に染まっていた。カモメが鳴きながら飛び回っている。

 納屋なや(倉庫)の側で七、八人の人足たちが喧嘩をしていた。一人が怒鳴りながら丸太を振り回している。刀を抜いている者もいたが丸太の方が強かった。丸太の男は相手を倒すと丸太を投げ捨て、仲間と共に引き上げて行った。倒れている人足を眺めながら、しょんぼりと丸くなっていると、「おっ、猿じゃねえか」と声を掛けた者があった。

 叔父の所の手代の新助だった。

「おめえ、こんなとこで何してんだ」

 藤吉は新助に訳を話した。新助は親身になって聞いてくれた。

「そうか、猿と言われて腹を立てたんか。まあ、そうだろうの。だがな、猿というのも愛嬌があっていいもんだぞ。みんながおめえの事を猿と呼ぶんは、憎くて呼んでるわけじゃねえ。親しみを込めて呼んでるんだ」

「みんなが呼ぶのはいいけど、従弟たちは俺を馬鹿にしてるんだもん」

「うむ。御主人様の子供だからな、仕方ねえんだ。所詮、わしらは使用人だからの」

 目の前の桟橋に小船が着き、人相の悪い男たちに囲まれて、藤吉と同じ位の年頃の娘たちが大勢、船から降りて来た。娘たちは皆、継ぎだらけの着物を着て俯き、中には泣いている娘もいる。武装した男たちに囲まれて、娘たちは藤吉の横を通って行った。

「あれは何ですか」と藤吉は新助に聞いた。

「人買いだ。遊女屋に行くんだろう」

 藤吉は清須にいた遊女、紫陽花の事を思い出し、あの娘たちも、御殿の中で綺麗な着物を着て暮らすのかと羨ましそうに見送った。

「まあ、いい。今夜はわしのうちに泊まれ」と新助は言った。

「えっ、いいの」藤吉は跳びはねて喜んだ。

 新助の家は門前町のはずれにあった。気さくなおかみさんがいて藤吉の面倒をよく見てくれた。新助は叔父に藤吉を預かっている事を告げたらしいが、叔父に謝って戻れとは言わなかった。藤吉は新助の家に厄介やっかいになりながら、おかみさんのはまぐり売りを手伝っていた。

 蛤売りは面白かった。

「蛤はいらんかね。取り立ての蛤はいらんかね」と大声で叫びながら町中を売り歩くのは塩の荷揚げをするより、ずっと楽しかった。

 町中を売り歩きながら、裏通りに住んでいる様々な人たちと会うのが楽しく、直接、銭を貰えるのが嬉しかった。特に花街と呼ばれている一画は、いつも、琴や笛の調べが流れていて、綺麗な姉さんが大勢いた。姉さんたちは優しく、珍しい話や面白い話を色々としてくれた。

 藤吉も十四歳になり、多少、色気づいて、人並みに女に興味を持ち始めていた。

 藤吉が今まで見て来た女というのは、中村にいた頃、一緒に遊んだ近所の幼なじみか、頭のおかしいおきた観音、それに、男まさりの姉くらいのものだった。清須では一流の遊女、紫陽花と会ったが、あれは例外で、藤吉の手の届く女ではなかった。ここの遊女たちはもっと身近に感じられ、初めて、女というものに胸をときめかせていた。

 自分ではもう一人前の男だと思っていても、はた目から見れば、身なりの小さい藤吉は十歳位の子供にしか見えなかった。花街の女たちも、藤吉を子供だと思って気を許して、からかって遊んでいるだけなのだが、藤吉は毎日、花街に行くのを楽しみにしていた。

「あら、また、お猿さんが蛤を売りに来たわ」と、ここでも猿呼ばわりだった。でも、藤吉は怒らなかった。猿と呼ばれると、わざと猿の真似をしてお道化どけて見せ、女たちを喜ばせていた。

「今日は大きな蛤が入りました。うまいですよ。みんなで召し上がって下さい」

「お猿さん、あたしの蛤もおいしいのよ。召し上がる?」とツバメ姉さんが笑いながら言った。

「お姉さんも蛤を売ってるんですか」と藤吉は不思議そうに聞いた。

「そうよ」とツバメ姉さんは身をくねらせた。

「まあ、大きな蛤だこと」とヒバリ姉さんが顔を出した。「でも、スズメちゃんには負けるわね」

「お姉さん、ひどいわ。あたしのそんなにも大きくないわよ」とスズメ姉さんは口をとがらせた。

「いいえ。あたし、知ってるのよ。スズメちゃんのは大きいって評判よ」

 女たちはキャーキャー騒ぎながら蛤を手に取って、あたしの蛤より大きいだの小さいだの言っていた。藤吉には何の事かわからず、きょとんとして話を聞いていた。

「そうだわ。お猿さんに比べてもらいましょうよ」とヒバリ姉さんが言った。

「そうよ。それがいいわ」とツバメ姉さんが賛成した。

「やだわ、お姉さん、そんなの見せられないわ」スズメ姉さんは反対したが、

「相手はまだ子供よ。ほら、この子ったら、何もわからないのよ」とツバメ姉さんが言うと、スズメ姉さんは藤吉の顔を見つめ、「そうね、いいわ」とうなづいた。「絶対に、あたしの方が小さいんだから」

 スズメ姉さんは大きな蛤を手に取ると藤吉に手渡し、着物の裾をまくり上げると、藤吉の目の前で股座またぐらを広げて見せた。

「さあ、あたしのとその蛤どっちが大きい」

 藤吉はスズメ姉さんの行動に驚いたが、初めて見る女の股座にじっと見入った。姉さんたちが言うように、それは確かに少し口を開いた蛤に似ていた。こんな物が女の股座に隠れていたのかと藤吉は不思議に思った。姉や母の裸は見た事あっても、蛤までは見た事はない。それに、大工の善八のおかみさんの裸も毎日、見ていたが蛤には気がつかなかった。

「さあ、どっちなのよ。あたしの方が小さいでしょ」

 藤吉は手に持った蛤とスズメ姉さんの蛤を比べて見た。スズメ姉さんの方が大きいと思ったが、スズメ姉さんが睨んでいるので、「小さいです」と答えた。

「ほらね」とスズメ姉さんは満足そうに笑って、着物を降ろした。

 目の前にあった蛤は白昼夢だったかのように消えてしまった。もう少し見たかったと思っていると、今度は、ツバメ姉さんが着物をまくって、藤吉に蛤を見せた。

「ほら、あたしの蛤、おいしそうでしょ」とツバメ姉さんは指で自分の蛤を摘まんで見せた。ツバメ姉さんの蛤は生きがいいのか、濡れて光っていた。

「なに言ってんのよ。あたしの方が新鮮なのよ」と次々に女たちは着物をまくって見せた。

 藤吉は目が眩むかと思うほど、頭に血が上って呆然となった。目を丸くして、ぼうっとしている藤吉を眺め、女たちはキャーキャー笑いながら、家の中に引っ込んで行った。

 姉さんたちの蛤を頭にちらつかせながら、藤吉は蛤を売るのも忘れて、新助の家に帰った。

「売れ残ったのかい。しょうがないねえ」とおかみさんは残った蛤を焼いてくれたが、どうしても食べる事ができなかった。

 次の日も、藤吉は白昼夢を期待して花街に行った。何となく、いつもと雰囲気が違っていた。琴や笛の音が聞こえないし、女たちの顔色も暗く、コソコソ内緒話をしている。

 藤吉がうろうろしているとヒバリ姉さんが現れた。ヒバリ姉さんもいつもと違って青白い顔をしていた。

「何かあったんですか」と聞くと、ヒバリ姉さんはうなづき、「ツバメちゃんが殺されちゃったのよ」とささやいた。

「えっ、ツバメ姉さんが‥‥‥」

 昼近くになっても起きて来ないので、おかしいと思って、女将さんが部屋を覗いてみたら、客はいなくて、ツバメが一人で寝ていた。声を掛けても起きないし、揺すっても起きないので、夜着よぎ(掛け布団)をまくってみると、自慢の蛤に短刀を突き刺されたまま、血だらけになって死んでいたという。下手人げしゅにんはツバメに嫌われても付きまとっていた荷揚げ人足らしいが、まだ、捕まっていないとの事だった。

 藤吉には信じられなかった。いつも陽気に面白い話をしてくれ、ちょっと悲しい唄を聞かせてくれたツバメ姉さんが殺されたなんて‥‥‥あの生きのいい蛤に短刀を突き刺すなんて、どうかしていると思った。今の世の中、どこか狂っていると藤吉は怒りを感じていた。

 新助の家に居候いそうろうして一月程経った頃だった。明日、清須を通って岩倉まで行くけど、祖父のもとに帰るかと新助が言って来た。もう少し、ここにいて蛤売りをしていたかったが、いつまでも、ここにいられない事はわかっていた。清須の祖父の所に帰れば、また怒られるので帰りたくはない。でも、岩倉の城下は見てみたいと思った。

 岩倉には杉原家の従姉いとこが嫁に行った侍がいた。会った事はないが、十歳も年上の従姉はかすかに覚えている。蛤売りのお陰で商売のこつは大体覚えた。行けば何とかなるだろうと岩倉に連れて行ってくれと頼んだ。

 藤吉は新助と共に塩を積んだ荷車を押して、岩倉の城下へと向かった。

 


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藤吉郎伝 若き日の豊臣秀吉

針売り

 

 岩倉の城下は清須とよく似ていた。

 五条川に面して堀と土塁に囲まれた城が建ち、北と南に町人の住む町がある。新助が塩を運んだ店は城下の北側の町中にあった。津島の喜左衛門の店ほど大きくはないが、威勢のいい人足が大勢、働いていた。

「どうだ、ここで働いてみるか」と新助は言った。

 藤吉は首を振った。

「ここなら、おめえを馬鹿にする従弟はおらんぞ」

「でも、力仕事はどうも苦手です。津島ではまぐり売りをしてみて、俺にはああいうのが合ってるような気がしました」

「行商か‥‥‥うむ、そうかもしれんのう。おめえの蛤売りは評判よかったからな、おめえにゃ向いてるかもしれん。知人がいると言ってたが、そいつが行商やってんのか」

 藤吉はうなづいた。

「頑張れよ」と新助は餞別せんべつをくれた。

 藤吉は丁寧にお礼を言って新助と別れた。新助には行商人の知人がいると言ったが、本当は行商人ではなく、侍だった。

 烏森かすもりの杉原家の従姉が二人、この城下の侍のもとに嫁いでいた。その従姉の名はナナとイトといい、ナナの相手の名前はわからなかったが、イトの相手の名前は覚えていた。会った事はないけど、確か、林助左衛門という名だった。その助左衛門を捜し出して、しばらく、お世話になりながら、自分に適した仕事を捜そうと考えていた。

 藤吉は城の側まで行き、武家長屋を見て回った。助左衛門を捜すのは思ったよりも難しかった。長屋が幾つもあり、どこの部署に属しているかがわからないと見つける事は困難だった。結局、その日のうちに捜し出す事はできず、城下の外れにある安い木賃宿に泊まった。

 ゴミ溜めのような場末の木賃宿には色々な人がいた。かわらけ売り、薬売り、針売り、おうぎ売りなどの行商人、鋳物師いもじに矢細工師、旅芸人に遊女、痩せ浪人と様々な人がいて、その共通点はほとんど文無しという所だった。美濃(岐阜県)から来たという針売りの与三郎という男が、藤吉の面倒をよく見てくれ、藤吉も針売りを手伝いながら助左衛門を捜し回った。

 次の日、助左衛門の消息はわかったが、生憎と、烏森に帰ったとの事だった。当主の彦七郎が戦死したので、杉原家を継ぐために、夫婦して帰って行ったという。

 藤吉はがっかりして、もう一人の従姉、ナナを捜す事にした。ナナはなかなか見つからなかった。それでも、針売りは結構、面白かった。まず、荷物にならないのがいい。それに、蛤のように腐ってしまう事もなく、無駄が出ないのがよかった。商売相手は中年のおかみさんがほとんどだったが、時には若い娘もいて、娘たちと話をするのも楽しかった。

「針はいらんかね。丈夫で使いやすい美濃の針はいらんかね」

 津島の時のように花街の遊女屋に顔を出す事も忘れなかった。花街で針が売れる事は滅多になかったが、派手な事の好きな藤吉は花街の雰囲気と遊女たちが好きだった。

 針売りの与三郎は三日後、清須の城下に行くと言って、木賃宿を出て行った。

「早く、従姉が見つかるといいな。頑張れよ」と藤吉のために針を分けてくれた。

 藤吉は針を売りながら、その日その日を何とか生きていた。

 一月経っても、ナナに会う事はできなかった。ナナと別れてから七年も経ち、お互いに、会ったからといって、すぐにわかるものではなかった。烏森から嫁に来た女を知らないかと武家長屋を聞いて回ったが、見つける事はできなかった。

 さては、ここにいないのか。それとも、城内の屋敷に住んでいるのか。城内に住んでいるとすれば、かなり身分の高い侍と言える。烏森の娘がそんな所に嫁ぐとは思えないが、残るは城内の屋敷しかなかった。

 岩倉城は堀が二重になっていて、中堀の中に守護所と城主、織田伊勢守の屋敷があり、中堀と外堀の間に重臣たちの屋敷が並んでいた。そこに入るには大手門を通らなければならない。用もないのに、大手門を抜ける事はできなかった。

 どうしたら、あの中に入れるのか。藤吉は色々と考えたが、いい考えは浮かばず、花街に行って、遊女たちと馬鹿話をして気を紛らせていた。遊女たちも親身になって、藤吉の事を心配してくれたが、名前もわからず、顔もわからずではどうしようもなかった。

 最低の木賃宿に一月もいると、今まで知らなかった世の中の事を色々と知る事ができた。行商人や流れの職人たちは用が済めばさっさと出て行ったが、行く所もない連中も何人かいて、いつまでも木賃宿で暮らしていた。

 文無しと言いながら、いつも酒ばかり飲んでいる佐々木源三郎と名乗る浪人は、酔っ払っては毎晩のように喧嘩騒ぎを起こしていた。刀を酒に替えてしまったため、持っていないので人を斬るという事はなかったが、暴れると手が付けられなかった。この宿に、初めて来た旅人は皆、犠牲者になっている。その源三郎もおせきという女には頭が上がらず、おせきに文句を言われるとおとなしくなるのが不思議だった。

 おせきは遊女だった。遊女といっても花街にいる遊女とは違って、むしろを持って道端に立って客を取る立ち君と呼ばれる遊女だった。おせきは藤吉の母親と言ってもいい程の年頃で、こんな所にいつまでもいたら駄目だよ、と藤吉の相談にも乗ってくれた。

 今夜も新しく来た筆売りを相手に源三郎が息巻いていた。いつものように相手の素性を聞くと、大袈裟に名乗りを上げ、昔の自慢話を始めた。相手がおとなしく聞いていれば、気分よく話して聞かせるが、そんな話は嘘だと言って相手にならないと暴れだす。こんな宿に来る連中は一癖も二癖もある奴ばかりで、おとなしく聞いている者などいない。決まって喧嘩が始まった。

 藤吉は部屋の片隅で丸くなりながら、ぼんやりと筆売りを見ていた。珍しくおとなしそうな男で、今夜は静かに眠れそうだと思った。

「わしの弓矢の腕は家中一でのう、百発百中じゃ。狙った獲物は必ず倒す。敵はバッタバッタたと面白えように倒れて行ったわ」と源三郎は言っていた。

 その話はもう聞き飽きていたが、ふと、烏森に行った林助左衛門に兄がいた事を思い出した。名前までは思い出せなかったが、岩倉城下で一、二を争う弓矢の名人だと聞いている。その人に聞けば、ナナの嫁ぎ先がわかるかもしれないと藤吉は手を打って喜んだ。

 いい考えが浮かび、一安心して気持ちよく眠っていると、また、喧嘩騒ぎに起こされた。あの筆売りもやはり辛抱できなかったか、と目を開けると喧嘩しているのは源三郎ではなかった。二、三日前からいる職人二人が殴り合いを始めている。源三郎の方は得意になって合戦の話を続け、筆売りは喧嘩騒ぎを気にしながらも、おとなしく話を聞いていた。

 ようやく、喧嘩も終わり静かになったかと思うと、今度は女が殺されたと言って誰かが駈け込んで来た。この辺りで人が殺されるのは珍しくはなかったが、殺されたのが若い娘だと聞くと皆、やじ馬根性を出して見物に出掛けた。源三郎までが真っ先に飛び出して行き、筆売りはやっと解放されたとほっとしていた。藤吉も目が覚めたついでに、見物に出掛けた。

 やじ馬たちに囲まれた死体は草むらの中に転がっていた。当然のごとく着物を剥がされて何も着ていない。可哀想に長い髪までも切られていた。猿轡さるぐつわを噛まされ、白目をむき、顔は苦しそうに歪んでいる。体は変な風にねじれ、細い首が黒ずんでいるが、他には傷一つなく、若々しい白い肌はまぶしく感じる程だった。手籠めにされたあげくに、首を絞められて殺され、身ぐるみを剥がされたに違いなかった。

「もったいねえな。いい女じゃねえか」と源三郎が言った。

 藤吉も確かにもったいないと思った。

「こいつは加賀屋の娘だぜ」と誰かが言った。

「そういや、そうだな」と同意する者がいた。

「なに、加賀屋じゃと」

「やべえぜ、こいつは。かかわりになんねえ方がいいぜ」

「えれえ事になっちまった」

 やじ馬たちはこそこそと話ながら散って行った。

 藤吉も加賀屋は知っていた。城下の大通りに大きな店構えを持つ呉服屋だった。何度か、針を売りに行き、殺された娘も見た事があった。綺麗な着物を着て、女中たちに囲まれ幸せそうだった。近いうちに侍のもとへ嫁に行くと聞いていた。どうして、そんな娘がこんな所で殺されたのかわからないが、大騒ぎになる事は間違いなかった。かかわりにならないように藤吉もその場を離れた。

 木賃宿は加賀屋の娘の話で持ちきりとなった。源三郎を中心に輪になって、娘の事を話している。筆売りは殺された娘のお陰で解放され、片隅に隠れて眠っていた。藤吉は皆の噂話を聞きながら、誰があんなひどい事をしたんだろうと考えながら眠りに落ちて行った。

 翌朝、奉行所の役人が大勢やって来て騒いでいた。木賃宿にも来たが、皆、知らんぷりを決め込み、初めて知ったかのように驚いていた。藤吉も問い詰められたが、ぐっすりと眠っていたので知らないと答えると役人は信じてくれた。

 花街に行くと、ここでも加賀屋の娘の事が話題になっていた。藤吉が娘の死体を見たと言うと、皆、目を輝かせて聞いて来た。藤吉は一部始終を面白おかしく聞かせた後、林助左衛門の兄で弓矢の名人を知らないかと聞いた。答えはすぐにわかった。

 名を林弥七郎といい、ここでは有名な男だった。遊女たちの話だと、時々、遊びに来るが、それよりも弓の稽古をする的場に行けば必ず会えるだろうと言う。的場は城外にあり、大手門をくぐらなくても行く事ができた。

 藤吉はさっそく的場に向かった。烏森の助左衛門からの使いだと嘘をつくと、すぐに林弥七郎に会う事ができた。

「なに、烏森のナナ殿の御亭主の名じゃと」

「はい。頼ってまいりましたが、名前がわからないので、一月以上も捜し回っておりました」

「一月以上もか。根気のいい奴じゃ。一月経って、ようやく、わしの名を思い出したのか」

「はい。昨夜、突然、弥七郎様のお名前が夢の中に出てまいりました」

「面白い奴じゃの。ナナ殿の御亭主の名は浅野又右衛門殿じゃ。この城下で一番の弓取りじゃよ」

「一番? 一番は弥七郎様では」

「いやいや。又右衛門殿がいる限り、わしは二番という所じゃのう。ほれ、あそこで弓を構えているのが又右衛門殿じゃ」

 藤吉は弥七郎の示す方を見た。背の高い侍が今、矢を射る所だった。

 あれがナナさんの御亭主様か‥‥‥見るからに、たくましい武士だった。

 藤吉は又右衛門を眺めながら、ようやく、会う事ができたとほっとしていた。しかし、又右衛門は藤吉の事を知らなかった。今まで会った事もないので当然とも言えるが、中村の筑阿弥ちくあみの伜だと言ってもわからない。それでも、ナナに会えばわかるだろうと、家まで連れて行ってくれた。

 又右衛門と弥七郎の屋敷はやはり城内にあった。藤吉は浮き浮きしながら大手門をくぐり、堀にかかる橋を渡って城内に入った。そこは昨日までいた所とは、まるで別世界だった。通りにはゴミ一つなく、鼻をつく悪臭もない清潔で静かな所だった。

 又右衛門の屋敷は思っていた以上に立派だった。広い庭があり、藤吉はわけもなく走り回った。界隈には同じような屋敷がいくつも建ち並び、隣が林弥七郎の屋敷で、二人は仲のいい友だという。

 久し振りに見る従姉のナナは、もう立派な奥さんになっていて、道端で会ってもわからない程、変わっていた。それはお互い様で、ナナは藤吉の姿を見ても、しばらくは思い出せないようだった。

「ああ、おなかさんとこの息子さんですね」

「はい。筑阿弥の伜です」

「筑阿弥? ああ、そうだったわね。随分と大きくなって」

 又右衛門とナナとの間には子供がいなかった。ゆっくりしていけと藤吉は二人に歓迎された。

「どうじゃ、わしらの養子になって侍奉公せんか」と又右衛門は夕飯を食べながら言った。

「いえ、それは‥‥‥」と藤吉は口ごもった。

「侍奉公はいやか」

「はい」

「なぜじゃ」

「お侍は戦死しますから」

「まあ、そうじゃが、何かやりたい事があるのか」

「京都に行きたいんです」

「なに、京都? 京都に行って何をするんじゃ」

「何って‥‥‥」藤吉は返事に戸惑った。京都に行って何をするのかまで決めてはいなかった。

「筑阿弥殿のように茶の湯でも習うのか」

「いえ。茶の湯は習いません」

「それじゃあ、何をするんじゃ。当てもないのに都に行っても、野垂れ死にするだけじゃ。世の中、そんなに甘くはないぞ」

「はい、わかってます。だから、行商人になって商いをしながら京都に行くつもりです」

「行商人じゃと? まあ、商人も悪くはないがの。どうせ、商人になるなら、小折こおり村の生駒殿のような商人にならなくてはのう」

「小折村の生駒殿? あれ、聞いた事あるな。確か、清須の伯父さんがそこで鉄砲を作っているはずだ」

「ほう、お前の伯父さんは鉄砲鍛冶なのか」

「お爺さんは刀鍛冶だけど、伯父さんは鉄砲鍛冶になったらしい」

「そうか。まあ、伯父さんの事はいいとして、お前は本気で商人になるつもりなのか」

「商人と言っても、大きなお店は駄目です。小さなお店で、お客さんに直接、物を売るのが楽しいんです」

「お前、行商をやった事があるのか」

「あるよ。おじさんを見つけるまで、お城下で針を売ってたんだ」

「針売りか‥‥‥お前がどうしても行商をやりたいというのなら仕方がないが、お前はまだ、世の中の事をよく知らん。自分の将来の事はよく考える事じゃな。好きなだけ、ここにいていいからの」

 次の日、藤吉は又右衛門に連れられて城内を見て歩いた。又右衛門はやたらに、侍はいいぞ、働き次第では城のあるじになるのも夢ではないぞと言って、藤吉の興味をそそった。

 藤吉も又右衛門の話を聞いて、侍も悪くはないなと思った。戦死するのはいやだが、古渡ふるわたりの城下のように、侍でなくても戦に巻き込まれて死ぬ事はある。加賀屋の娘のように、突然、殺される事もある。今の世の中、死を恐れていたら何もできないと思った。

 又右衛門に勧められるまま、藤吉は弓矢の稽古を始めた。思っていたより弓矢の稽古は面白かった。

 隣の家の林弥七郎には二人の子供がいて、垣根をくぐって、毎日のように遊びに来た。八歳の孫七と三歳の於祢おねという娘だった。二人は藤吉になつき、朝から晩まで、藤吉の後をくっついて歩いた。藤吉が弓矢の稽古をやる時は孫七も一緒になって稽古をした。そんな時、於祢は大きな目をして、じっと二人を見つめていた。この娘こそ、将来、藤吉の妻となり、北政所きたのまんどころと呼ばれる女性である。当時、藤吉は於祢を可愛がったが、まさか、自分の妻になるとは夢にも思っていなかった。

 一ケ月が過ぎた。

 まるで、浅野家の息子のように藤吉は大切に扱われた。今まで着た事もない立派な着物を着せられ、腰には又右衛門から貰った脇差まで差して、侍の子供になったようだった。

 又右衛門は来年の春になったら、藤吉を元服げんぶくさせて、岩倉の若様(信賢)のもとに奉公させようと言っていた。藤吉はそれでもいいと思っていた。このまま、侍になって戦で活躍する事を夢見るようになっていた。

 ある日、藤吉がいつものように孫七と一緒に弓矢の稽古をしていると、弥七郎がやって来て、「さすが、親父譲りのいい素質を持ってるな」とボソッと言った。

「親父譲り?」と藤吉は弥七郎の言った事が気になって聞き返した。

「お前の親父は弓矢の名手じゃろう。なに、知らなかったのか」

 弓矢の名手? 弥七郎は何を言ってるんだろう。あのお父が弓矢の名手だったなんて聞いた事もなかった。

「お父は弓矢の名手だったんですか」

「いや、なに、ちょっと間違えたんじゃ。お前のお父はお茶坊主だったな」

 又右衛門が縁側に顔を出して、「弥七、何が間違いじゃと」と聞いて来た。

「何でもないんじゃ」と弥七郎は手を振った。

「おじさん、弥七おじさんが俺のお父が弓矢の名人だって言ったけど、ほんとかい」

 又右衛門は弥七郎を見た。弥七郎はすまんというような顔をしていた。

「そうか‥‥‥藤吉、お前はもう子供じゃないな」と又右衛門は言って、縁側に腰を下ろした。

 藤吉は又右衛門の顔を見上げて、うなづいた。

 又右衛門は縁側の方に藤吉を手招きした。

 藤吉は又右衛門の隣に座った。

「いいか。お前はもう大人じゃ。大人として話す事がある」

 いつもの又右衛門とは違って、真剣な顔付きだった。

「お前の今のお父はな、本当のお父じゃないんじゃよ」と又右衛門は藤吉を見つめながら言った。

「おじさん、急に何を言ってるんです」

「信じられんだろうが、本当の事なんじゃ。お前の本当のお父は木下弥右衛門殿と言って、立派な侍じゃった」

「木下弥右衛門?」

 又右衛門は静かにうなづいた。

「弓矢の名人じゃった」と弥七郎が言った。

 藤吉は又右衛門と弥七郎の顔を見比べた。二人とも嘘を言っている顔ではなかった。

 筑阿弥が本当の父親じゃないなんて信じられなかった。確かに、お父とはうまく行ってなかったが、本当のお父じゃないなんて一度も思った事はなかった。

「本当のお父が弓矢の名人?」

「いいか、よく聞くんじゃぞ」と又右衛門は強い口調で言った。

 藤吉は又右衛門の気迫に押されて、思わず、姿勢を正した。

「いいか、今の父親はお前の本当の父親じゃない。お前が生まれて間もない頃、お前の母親と一緒になったんじゃ。お前の本当の父親は侍じゃった。木下弥右衛門殿という立派な侍じゃった」

 木下弥右衛門‥‥‥初めて聞く名前だった。名字を持っているからには、確かに立派な侍に違いなかった。今の藤吉には名字などない。ただの中村の藤吉だった。

「弥右衛門殿はお前が生まれてまもなく、那古野なごや城で戦死したんじゃ。当時、那古野城には今川殿というお方がおられた。今川殿は古くから那古野一帯の御領主様じゃった。そして、木下家は今川殿に仕えていた侍だったんじゃ。勿論、中村郷は木下家の領地で、立派な御屋敷に住んでおられた。お前の父親は木下家の三男じゃった。あれは確か、天文七年(一五三八年)の春じゃった。古渡城にいた備後守びんごのかみが反乱を起こし、今川殿の那古野城を乗っ取ってしまったんじゃよ。備後守は勝幡しょばたの城におったが、清須の大和守に対抗するために今川殿に近づいて行ったんじゃ。今川殿としても武衛ぶえい様と対抗するために、備後守と組むのはいいと思ったんじゃろ。備後守は古渡に城を築いて、せっせと今川殿の御機嫌伺いに行き、隙を見て城を乗っ取ってしまったんじゃよ。その時、那古野城を守っていたお前の父親は戦死し、今川殿の家臣だった木下一族は滅ぼされたんじゃ。ナナの実家の杉原家も今川殿に仕えていたんじゃが、備後守が古渡に移って来てから、備後守に仕える事になったため無事だったんじゃよ。お前の母親はお前と姉を連れて杉原家に逃げ、しばらく隠れていたんじゃ。そして、今の父親、筑阿弥殿と一緒になって、木下の一族という事を隠し、細々と暮らして来たという訳なんじゃ」

 藤吉の頭は混乱していた。又右衛門の話は信じられない事ばかりだった。那古野城に今川殿がいたなんて聞いた事もない。今、那古野城には備後守の伜の上総介かずさのすけ(信長)がいるというのは聞いているが、その那古野城に今川殿がいて、木下弥右衛門という父親が、その城を守っていたなんて、まったくの驚きだった。

「木下一族は皆、備後守に殺されてしまった。今の那古野には今川殿の影さえもない。備後守は徹底して、今川殿の残党を退治してしまった。今から十年程前の話じゃ。木下一族で、残ったのはお前だけとなった訳じゃな。木下弥右衛門殿は若くして戦死してしまったが、その名は弓の名人として、ここ岩倉までも聞こえておった。お前には、その弥右衛門殿の血が流れているはずじゃ。自分の人生を無駄にするんじゃないぞ」

「お前には弓矢の素質があるんじゃよ」と弥七郎も言って、うなづいた。

 弥七郎は又右衛門の肩を叩くと、「例の事じゃが」と言った。

「おう、そうか」と言うと又右衛門は、「お前の父親は立派な武士じゃった。その事は決して忘れるでないぞ」と弥七郎を連れて部屋の中に入って行った。

 いつの間にか、孫七と於祢はいなかった。一人になった藤吉は又右衛門の言った事をじっと考えていた。

 筑阿弥は本当の父親じゃない‥‥‥本当の父親は記憶にもないが、立派な武士で木下弥右衛門といって、那古野城で戦死した‥‥‥古渡城の織田備後守は木下一族を滅ぼしてしまい、一族で生きているのは、この俺だけだ‥‥‥藤吉は侍になって、木下家を立て直さなければならないと思った。本当のお父のために、俺がしなければならないと強く心に感じていた。

 次の日、藤吉は又右衛門にお礼を言うと、真相を確かめるため、故郷の中村に戻った。

 


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藤吉郎伝 若き日の豊臣秀吉

父親

 

 故郷に帰って来たのは六年振りだった。寺を追い出され、陰ながら母と姉を見てからも三年余りが経っていた。

 やはり、故郷は懐かしかった。藤吉は流行り唄を歌いながら、大手を振って我が家へと帰って行った。

 寒いとはいえ、天気がいいから、みんな、畑の方にいるのだろうと思ったが、うちの中から誰かの咳き込む声が聞こえて来た。

 うまい具合に筑阿弥が一人でうちにいた。日当たりのいい縁側で、綿入れを着て、のんきそうに茶碗を眺めている。

 筑阿弥にしては珍しい事だった。仕事の事しか頭にない、くそ真面目な筑阿弥がぼうっとしている。今まで、あんな姿を見た事がなかった。おかしいなと思いながらも、「ただいま」と声を掛けると、筑阿弥は顔を上げた。

 一瞬、驚いたようだったが、すぐにまた、茶碗に目を落とした。何となく顔色が悪く、やつれたように感じられた。

「お父、病気なのか」と藤吉は思わず聞いた。

 筑阿弥は首を振り、「何でもないわ」と言ったが、急に苦しそうに咳き込んだ。

「大丈夫かい」と藤吉は側に駈け寄った。

 筑阿弥は大丈夫じゃと言うように手を上げたが、いつまでも咳き込んでいた。ようやく、発作が治まると、「大丈夫じゃ。ちょっと疲れが出ただけじゃ。横になってりゃ治るんじゃがの、昼間っから寝るのはどうも性に合わん」といつもの口調で言った。

「寝てなきゃ駄目だよ」

「さっきまで寝てたんじゃ」と言うと眺めていた茶碗を大事そうにボロ布で包んだ。

「こいつはの、わしの宝物じゃ。わしの唯一の財産じゃ」

 筑阿弥は寂しそうな目をして、丁寧に何枚もの布で茶碗を包んでいた。

 いつもの筑阿弥と違うようだった。顔を見せた途端に怒鳴られると思っていたのに、以外にも筑阿弥は静かだった。静か過ぎるような気がした。

「どうしたんじゃ。津島の喜左衛門殿から、岩倉に行ったと知らせてくれたが、もう、帰って来たのか」

 筑阿弥は茶碗を木箱にしまうと改めて、藤吉の姿を眺め、「お前、侍になるつもりか」と聞いた。

 藤吉の姿は又右衛門の所にいた時のままだった。ナナが縫ってくれたあわせはかまを着け、腰には脇差まで差していた。

 藤吉は強くうなづいた。

烏森かすもりのナナさんの所にお世話になってました」

「又右衛門殿の所にいたのか」

「はい‥‥‥その又右衛門さんから信じられない事を聞いたので帰って来ました」

「信じられない事?」筑阿弥はまゆを寄せて、藤吉の顔を見つめた。その顔は父親以外の何者でもなかった。

「お父は、本当のお父じゃないと聞きました」と藤吉は小声で言った。

 筑阿弥は藤吉を見つめたまま固まってしまった。しばらくして、「そうか‥‥‥聞いたのか‥‥‥」と小声でつぶやいた。「いつかはわかる事じゃ」

「それじゃあ、本当なんですか」

 筑阿弥はうなづいた。「お前の本当の父親は、お前が二歳の時に戦死したんじゃ」

「お侍だったんですね」

「そうじゃ」

「本当の事を話して下さい」

「うむ」と言って、筑阿弥は茶碗の入った木箱を片付けると囲炉裏端に藤吉を誘った。

「お前が十五になったら話すつもりじゃった‥‥‥そうか、もうすぐ十五じゃな」

 筑阿弥はかすかに笑った。「早いもんじゃ。もう十五になるのか‥‥‥いいじゃろう、本当の事を話してやろう。だがな、おっ母には内緒にしておけ。昔の不幸を思い出させたくはねえからの」

「いいな」と言うように、筑阿弥はうなづいてみせた。

 藤吉もうなづいた。

「お前の父親はな、木下弥右衛門という侍じゃった。当時、この辺り一帯は木下家の領地だったんじゃよ。烏森の杉原家に負けねえぐれえの立派なお屋敷に住んでいたんじゃ。木下家は那古野なごや城におられた今川殿の古くからの家臣でな、お前が生まれた頃、小田井川(庄内川)以東は那古野を中心に今川殿の領地じゃった。当時、津島の近くの勝幡しょばたにいた備後守びんごのかみは、清須の大和守、岩倉の伊勢守に対抗するためには今川殿を利用するしかねえと考えたんじゃ。あれは忘れもしねえ。わしが備後守に仕えて間もねえ時じゃった‥‥‥」

 筑阿弥はまた咳き込んだ。藤吉は筑阿弥の背中をさすった。

「すまん、大丈夫じゃ‥‥‥備後守はの、京都のお公家さんたちを勝幡城に招待して豪勢に持て成したんじゃ。その時、わしはお公家さんたちを那古野へ御案内しろと命じられた。わしはお公家さんたちを連れて、今川殿のおられる那古野城に行った。城内の広間で初めて今川殿と会ったが、まだ、十二、三の子供じゃった。しかし、将軍家の一族だけあって、どことなく気品のあるお顔立ちじゃった‥‥‥それからのわしは備後守の使いとして何度も今川殿のもとへ通った。備後守は今川殿の機嫌を取るために様々な贈り物をしたが、皆、わしが取り次いでやったんじゃ。今川家の重臣の一人に木下彦右衛門という侍がいた。お前の爺様じゃ。わしは同じ一族として備後守に利用されたんじゃよ」

「えっ、お父も木下一族なんですか」

「お前の父親とは従兄弟いとこだったんじゃよ。あの頃のわしは備後守の代理じゃと得意になっていた。馬鹿じゃった。迂闊じゃった‥‥‥まあ、最後まで聞いてくれ。備後守はお前の爺様に今川殿を尾張の守護職しゅごしきに就けようと持ちかけたんじゃ。清須の武衛ぶえい様を倒して、実力を以て尾張の国を平定しようと持ちかけたんじゃ。爺様は備後守と組めば、それも夢じゃねえと考え、備後守と手を結んだ。話が決まると備後守は今川殿の守護代と称して、熱田の近くの古渡に城を築き、さっそく移って来た。勿論、わしも古渡に移り、備後守の使いとして何度も那古野城に行った。備後守は今川殿の機嫌を取る一方では熱田の商人を味方に引き入れたり、今川家の家臣たちを引き抜いたりしていたんじゃ。

 古渡に移って翌年の末、三河の松平次郎三郎(徳川家康の祖父)が守山まで攻めて来た。ところが、次郎三郎は守山で家臣に殺されてしまったんじゃ。備後守はすぐに、大将を失った三河勢を追いかけた。勿論、今川家の家臣たちも備後守に従い、松平氏の本拠地、岡崎まで攻めたが、三河勢はしぶとく、岡崎城を落とす事はできなかった。その戦で、木下家の当主だったお前の爺様は戦死してしまった。跡継ぎの太郎右衛門も戦死してしまったんじゃ。太郎右衛門はお前の親父の兄上じゃ。備後守の策略に乗せられて、今川家の家臣の多くが、その合戦で戦死してしまったんじゃよ。それから二年間、備後守はじわじわと今川殿の首を絞めるように、徐々に勢力を広げて行った。わしは相変わらず、今川殿の機嫌を取るため那古野と古渡を行ったり来たりしていた。備後守のたくらみに全然、気づかなかったんじゃ。備後守が兵力を蓄えている事は知っていたが、それは清須を攻めるものだと信じていた。

 天文七年の春、桜が満開に咲き誇る頃、那古野城内で連歌会が盛大に催された。勿論、わしも客たちに茶の湯の接待をするために、その場にいたんじゃ‥‥‥あの時の恐ろしさは今でも忘れられん。突然、連歌会の行なわれている広間が騒がしくなり、何事かと思ってると、よろい武者が武器を振り回して城内の者たちを片っ端から斬っていた。何が起こったのか、わしにはまったくわからなかった。ただ、逃げなけりゃ殺されると思い、城から逃げ出したんじゃ。目の前で何人もの者が殺された。逃げ惑う女や子供たちまでも殺された。清須の大和守が急襲したに違いないとわしは思っていたが、古渡に帰ると城は厳重に警固され、城内には戦支度の武者があふれていた。わしは初めて、備後守が那古野を攻めた事を知った。お前の親父は今川殿を守るため那古野城で戦死した。備後守は那古野城を攻めると共に、木下家の本拠地、中村の屋敷も攻撃して皆殺しにした。木下家は今川殿と共に全滅してしまったんじゃ‥‥‥わしは備後守に利用されて、一族を皆殺しにする手助けをしてしまったんじゃよ。

 備後守は那古野城を手に入れると、もう、わしの事など見向きもしなかった。わしは木下家の領地だった中村のほんの一部の土地を与えられて、おはらいい箱となったんじゃ‥‥‥わしは京都まで行き、厳しい修行に耐えて茶の湯を身に付け、意気揚々と故郷に帰って来た。その腕を見込まれて備後守に仕えた。しかし、結果は備後守に利用されて、一族を滅亡させる事となってしまった。わしはここに来て、備後守から貰ったお茶道具をすべて叩き壊した。その後、茶の湯は一切やらなかった。さっき見ていた茶碗は今川殿からいただいた物じゃ。あれだけはどうしても壊す事ができなかった。物置の奥にずっとしまって置いて、すっかり忘れてたんじゃが、なぜか急に思い出して、取り出して眺めてたら、お前が帰って来たという訳じゃ」

「今川殿の遺品ですか‥‥‥」

 筑阿弥はうなづいた。

「今川殿は無事に逃げられたという噂も耳にしたが、どうなったのかはわからん‥‥‥わしはここで死ぬつもりじゃった。死んでも、わしのやった事は許されるべき事じゃねえが、そのまま、生きて行く事はできなかった。そんな時、烏森の彦七郎殿がわしの様子を見にやって来て、お前たちをかくまってる事を告げたんじゃ。杉原家も今川家の家臣だったが、備後守が古渡に城を築いてから備後守の家臣になっていた。勿論、彦七郎殿も備後守が今川殿を倒すために古渡に来たとは知らなかった。備後守が今川家の味方だと思ったから従ったんじゃ。ところが、備後守は今川殿を攻めた。その時、古渡城に詰めていた彦七郎殿は備後守に従うより他なかったんじゃ。彦七郎殿としても木下家が滅亡し、気がとがめたんじゃろう。逃げて来たお前たちを匿った。わしはさっそく烏森まで行って、お前たちを引き取った。お前のお袋と一緒になって、お前を育てる決心をしたんじゃ。木下家をお前が再興してくれる事を夢見てのう」

「俺が木下家の再興‥‥‥」

「そうじゃ。お前しかおらんのじゃ。お前には弥右衛門の血が流れている。今川家でも有名な弓取りの血がな。立派な武将になってもらおうと寺に入れたんじゃが、お前は騒ぎばかり起こして追い出された。その後、帰って来るかと思えば、烏森に行き、清須に行き、津島に行き、岩倉に行った。お前なりに世間というものを見て来たじゃろう。さて、これからどうするつもりじゃ」

 筑阿弥は藤吉の顔を見つめた。

かたきを討つ。お父の仇を討つ」と藤吉はすぐに答えた。

「備後守を討つというのか」

「はい」

「どうやって」

 そう聞かれて、藤吉は答えに詰まった。

「仇を討つなら正々堂々と一騎打ちをせい」

「一騎打ち‥‥‥」

 藤吉には自信がなかった。岩倉で弓矢を習ったが、あんなのは子供の遊びのようなものだった。とても、実戦では使えない。

「まずは武芸を身に付ける事が先決じゃな。武芸なら」と言いかけた時、母が子供たちと一緒に畑から帰って来た。

「今の話、おっ母には内緒じゃ」と筑阿弥は小声で言うと、母に向かって、「おい、藤吉が帰って来たぞ」と声を掛けた。

 母も姉もポカンとした顔で藤吉を見つめた。

 母は相変わらずだったが、姉は益々、男だか女だかわからなくなっていた。顔だけを見れば女らしくなったと言えるが、その格好は貧しいながらも、少々かぶいていた。そろそろ嫁に行く年頃なのに、あんな姉を嫁に貰ってくれる男はまず、いないだろう。

 姉の後ろに弟の小一郎と妹のあさがいた。二人とも驚くほど成長していた。寺に預けられる前、一緒に遊んでいた頃、小一郎は五歳であさはまだ二歳だった。それが二人共、見違える程、大きくなっている。小一郎は信じられないほど背が伸び、すぐに藤吉を追い越してしまいそうだった。あさは恥ずかしそうに母の後ろに隠れて、藤吉を見ていた。目がくりっとしていて可愛い娘になっていた。

「兄上、お帰りなさい」と小一郎が言うと、「お帰り、大きくなって‥‥‥」と母が笑顔で言い、姉は威勢よく、「おめえ、相変わらず、猿面だな」と大笑いした。

 久し振りに家族と共に、粗末ながらも楽しい夕食を共にした。

 筑阿弥から話を聞いたその夜のうちに、武芸を習うなら岩倉に行くしかないと藤吉は結論を出していた。岩倉には弓の名人、浅野又右衛門がいるし、林弥七郎もいる。二人のもとで修行を積めば、仇討ちは絶対にできると自信を持っていた。

 次の日、藤吉は家族の見守る中、元服げんぶくしてまげを結い、木下藤吉郎秀吉を名乗った。

「秀吉というのはお前の爺様の名じゃ。爺様はこの中村の領主であり、今川家の重臣でもあった偉いお人じゃった。お前も爺様のように偉くなるんじゃ、名前に負けんようにな」

 藤吉郎は力強くうなづき、家族に別れを告げ、岩倉に向かった。

「頑張れよ」と筑阿弥は藤吉郎をじっと見つめながら言った。

「体に気を付けるんだよ。無理するんじゃないよ」と母は目に涙を溜めていた。

 姉は錆びた槍を振り回しながら、「偉くなって来う」と言い、弟と妹は、「また来てね」と笑顔で手を振った。

「今度、帰って来る時は、ちゃんと土産を持って来るからね」と藤吉郎はうちを出た。

 今にも雪が降りそうな空模様だった。天気は悪いが、ただの藤吉から木下藤吉郎秀吉という偉そうな名前になった今、藤吉郎の心の中は希望で燃えていた。

 岩倉に行く前に、どうしても見ておきたいものが二つあった。一つは仇である織田備後守、もう一つは父親が戦死した那古野城だった。仇の顔を知らなければ仇討ちなんてできないし、記憶にもない父親の面影を捜すためにも、那古野城は見ておかなければならなかった。

 藤吉郎はまず、備後守がいる古渡城に向かった。途中、村の入り口にあるほこらの前でうずくまっている乞食と出会った。見慣れない乞食だった。また、新しい乞食が住み着いたなと思っていると、乞食はモゾモゾと動きだし、「トーキチ、トーキチ」と藤吉郎の名を呼んだ。かすれているが聞いた事のある声だった。

 藤吉郎は乞食の側まで行ってみた。ボロをまとい、蜘蛛くもの巣のような頭をして、顔は真っ黒だったが、それはおきた観音に違いなかった。

 おきた観音は藤吉郎を見ながら嬉しそうに笑っていた。

「一体、どうしたんだ」と聞いても、ブルブル震えながら笑っているばかりだった。

 おきた観音にはちゃんと家があるはずだった。狂っていても、いつも身綺麗にしていて綺麗な着物を身に付けていた。それが、こんな惨めな格好でいるなんて信じられなかった。

「ごめんよ。俺はおめえに何もしてやれねえ」

 そう言って藤吉郎はその場を離れた。後を追って来るかと思ったが、おきた観音は藤吉郎を見つめているだけで追っては来なかった。この寒い中、そのままにはして置けず、藤吉郎は戻った。放って置いたら死んでしまうかもしれない。いつもだったら、冬でも一枚しか着ていなかったが、幸い、又右衛門の所にいたので重ね着していた。藤吉郎は上着を脱ぐとおきた観音に着せてやった。

「トーキチ、トーキチ」と言いながら、おきた観音は丸くなって笑っていた。腹も減っているようだったが、どうしようもなかった。

「俺はな、藤吉じゃなくて、木下藤吉郎になったんだ。今に偉くなったら、おめえにもいい思いさせてやるからな。寒いけど頑張るんだぞ、死んじゃ駄目だぞ」

 藤吉郎はボサボサになったおきた観音の髪を撫でながら言った。おきた観音は震えながら藤吉郎を見つめていた。その目がかすかに潤んでいるような気がした。何となく、切ない気持ちになって、それを振り払うように藤吉郎は駈け出した。

 

 古渡に着いて驚いた。信じられない事に、城下は三年前の火災から立ち直っていなかった。かつて、賑わっていた城下町はどこにもなく、処々に侍長屋があるだけだった。城は以前のように堀と土塁に囲まれてあったが、何となく、ひっそりとしている。

 一体、どうしたんだろう。備後守はすでに、ここにはいないのだろうか。

 藤吉郎は途方に暮れた。堀にかかる橋の上から城の土塁を眺めていると、「おい、小僧、そんな所で何をしておる」と門番が怒鳴った。

 藤吉郎は顔をクシャクシャにして笑うと、「へい。古渡のお城下が賑わっていると聞いてやって参りましたが、この有り様を見て呆然としております」と答えた。

「何者じゃ」と聞かれて、藤吉郎は一瞬、まごついた。元服したばかりの名前を名乗りたいが、敵地で木下を名乗るわけにはいかない。幸い、袴は付けていなかった。姉が欲しがったので、姉にやってしまったのだった。脇差は差しているが、行商人に見えなくもない。

「へい。針売りでございます」と藤吉郎は答えた。

「針売りの小僧か。どこから来た」

 門番は疑っているようではなく、藤吉郎はほっとした。

「へい。岩倉のお城下からでございます」

「岩倉にいて、ここの事を知らんのか」

「へい。古渡のお城下に行けば針が売れると聞きましたので」

「とぼけた奴じゃ。お前は騙されたんじゃよ。ここのお殿様はの、三年前に末森の方に移られたんじゃ」

「末森?」

「おう。そっちは賑やかに栄えておるわ」

「末森ってどこなんですか」

「そこの道を真っすぐ行けば行けるわ。一里半位かのう」

 藤吉郎は門番に頭を下げると末森に向かった。

 末森の城下は活気に満ちていた。どの建物も皆、新しく、市場では各地から集まって来た商人が道行く者たちに声を掛けていた。

 藤吉郎は又右衛門に貰った脇差を針に換え、市場の外れにある木賃宿に泊まり、針売りをしながら、備後守の顔を一目見ようと頑張った。しかし、その願いはかなえられなかった。噂によれば備後守は病に臥せっているという。当分、城から出て来そうもないと諦め、父親が戦死したという那古野城に向かった。

 末森から那古野へも一里半程の道程だった。

 那古野の城下は思っていた程、栄えてはいなかった。城下町もさほど広くない。市日ではないのか、市場も閑散としていた。

 城は水をたたえた堀と土塁に囲まれていて、中はよく見えなかったが、かつて、この城を父親が守っていたのかと思うと感慨深かった。槍を持った門番の姿に記憶にない父親の姿が重なった。勇敢に戦っている父親の姿を思い描いていると、突然、城の裏の方から雷のような大きな音が響いた。ビクッとして我に返ると、たまたま側を通りかかった町人に、「あの音は何ですか」と聞いた。

「若殿が馬場で鉄砲のお稽古をなさってるんじゃ」と町人は言うと忙しそうに町中に消えて行った。

 『鉄砲』と聞いただけで藤吉郎の好奇心は騒いだ。若殿というのは備後守の伜、上総介かずさのすけ(信長)に違いない。藤吉郎はまっしぐらに城の裏へと走り出した。

 さくに囲まれた広い馬場の片隅に何人かの侍が固まっていた。柵の外にも何人かいて、その声からして若い娘たちのようだった。

 近くまで行ってみると、派手な格好をした娘たちが十人近くもキャーキャー騒ぎながら侍たちを見物していた。馬場の中には年配の侍が一人と若い侍が五人いる。その若い侍たちの格好ときたら、かぶき者の最先端を行っていた。娘たちが騒ぐのも無理なかった。特に上総介と思われる男の姿は思わず見とれてしまう程、決まっていた。

 茶筅髷ちゃせんまげを高く結い、浅葱あさぎ色の着物の上に真っ白な革の陣羽織じんばおりを着て、同じく真っ白な革袴をはいている。陣羽織の背中には鋭い顔をした鷹の絵が大きく描かれてあった。腰に差した刀はつかさやも真っ赤で、草履ぞうりの鼻緒も真っ赤だった。その手に持っているのは藤吉郎が初めて見る鉄砲だった。黒光りした奇妙なつえのような鉄砲は派手なかぶき姿とよく似合い、見ているだけで体がゾクゾクして来るのを感じていた。

 上総介が鉄砲を顔の前に水平に構えた。騒いでいた娘たちも声を殺して、じっと上総介を見つめている。やがて、物凄い音が響き渡って藤吉郎は思わず耳をふさいだ。上総介の顔が白い煙に包まれ、異様な臭いが漂って来た。

 凄い‥‥‥と藤吉郎は感激した。

 祖父は鉄砲の玉に当たると必ず死ぬと言っていた。鉄砲の玉がどんな物だかわからないが、弓矢よりはずっと凄い武器に違いない。

「よお」と突然、後ろから声を掛けられ、驚いて振り返ると針売りの与三郎が立っていた。

「あのうつけ殿は、ただのうつけじゃないのう」と与三郎は上総介を見ながら言った。

「うつけ殿?」

「ああ。那古野の若殿は大うつけじゃと評判じゃ。しかし、あの目付きはただ者じゃねえ」

 藤吉郎は上総介を眺めながら、「うん」とうなづいた。

「ところで、お前はこんな所で何してるんじゃ。岩倉の知り合いは見つかったのか」

「はい、見つかりました」

「そうか。知り合いが見つかったのに、どうして、こんな所にいるんじゃ」

「ええと、色々とわけがありまして‥‥‥」

「お前、一人前に髷を結っておるが元服したのか」

「はい。今朝、元服しました」

「ほう。もう一人前じゃな」と与三郎は笑った。

「あの、おじさんは那古野のお城に今川殿がいた事を知ってますか」と藤吉郎は聞いてみた。

「今川殿? 聞いた事はあるな。しかし、もう十年以上も前の事じゃろう」

「今川殿の家来に木下弥右衛門という弓矢の名人がいたんだけど知ってる?」

「さあな。わしは知らん。その頃、わしは美濃におったからのう」

「なんだ、知らないのか」

「すまんのう。今度は、その木下弥右衛門とやらを捜してるのか」

「違う。弥右衛門はもう死んだんだ。俺の本当のお父だったんだ」

「ほう。お前の本当のお父か‥‥‥」

 娘たちから「隼人はやと様」と呼ばれている侍が鉄砲を構えていた。上総介も真剣な顔をして、隼人様の撃ち方を見守っている。轟音が響き渡ると、二人の侍が的に向かって走り出した。

 藤吉郎は与三郎に身の上話を聞かせた。

「なに、お父の仇を討つじゃと。馬鹿な事を考えるんじゃねえ」

「これから小折こおり村の生駒様の所に行って、鉄砲を習うんだ」と藤吉郎は鉄砲を見て、ひらめいた事を口に出した。

「なに、お前、生駒様を知ってるのか」

「知らない。でも、そこに伯父さんがいるんだ。伯父さんはそこで鉄砲を作ってるんだ」

「ほう。すると、お前の伯父さんとやらは鉄砲鍛冶なのか」

「うん」

「そうか。わしも明日、生駒殿の屋敷に行くつもりじゃった。一緒に行くか」

「えっ、おじさん、生駒様を知ってるの」

「ああ、知ってる。あそこには各地から浪人者が集まって来るから、お前のお父の事を知ってる奴がおるかもしれんぞ」

「えっ、ほんと?」

「うむ」とうなづくと、与三郎はキャーキャー騒いでいる娘たちを眺めた。「うつけ殿は女子おなごにも、もてるようじゃのう。ところで、お前、女子は知っておるのか」

「えっ」と鉄砲に見入っていた藤吉郎は、突然、そんな事を聞かれてまごつき、娘たちを眺めながら首を振った。

「女子を知らなけりゃ、一人前とは言えんぞ」と与三郎は笑って、「よし、今晩、筆おろしをするか」と言った。

 与三郎はその晩、馴染みの店があると言って、城下の遊女屋に連れて行ってくれた。

「最初が肝心だからな」と与三郎は何度も言っていたが、連れて行ってくれた遊女屋はあまり高級とは言えなかった。与三郎があまり銭を持っていない事を知っているので文句も言えず、藤吉郎は与三郎に従った。

 藤吉郎の相手は予想に反して綺麗な姉さんだった。さすが、与三郎だと感激したのに、姉さんは無愛想ぶあいそうだった。どうしたらいいのかわからず、まごまごしているうちに、姉さんはさっさと着物を脱いで横になった。ふて腐れたような顔で藤吉郎を見上げながら、早く済ませてよ、といった態度だった。それでも、藤吉郎は夢中になった。着物を脱ぎ捨てると姉さんの体にしゃぶりつき、あっという間に事は終わった。

 姉さんは着物を身に付けながら藤吉郎を見下ろし、「以外に大きいじゃない」と笑うと部屋から出て行った。

 藤吉郎は何となく情けなくなって、呆然と自分の一物いちもつを眺めていた。

 しばらくして、与三郎が、「どうじゃった」と入って来た。

 藤吉郎はうなだれたまま、慌てて、ふんどしを絞めた。

「これで、お前も一人前の男じゃ」と与三郎は笑っていたが、藤吉郎はこんな所に来るんじゃなかったと後悔していた。こんな所で筆おろしをするんだったら、津島のヒバリ姉さんやスズメ姉さんの方がずっとよかったと思っていた。

 次の朝、藤吉郎と与三郎は丹羽にわ郡小折村の生駒屋敷へと向かった。

 



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