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藤吉郎伝 若き日の豊臣秀吉

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藤吉郎伝 若き日の豊臣秀吉

藤吉郎伝

若き日の豊臣秀吉

 

井野酔雲

 


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藤吉郎伝 若き日の豊臣秀吉

赤とんぼ

 

 夕日が真っ赤に燃えていた。

 河原の土手の草むらから、突然、小坊主が顔を出した。辺りをキョロキョロ見回し、ニコッと笑うと、「ヨッホッホー」と叫んで、勢いよく飛び上がった。

 嬉しそうに鼻歌を歌いながら踊るような足取りで、小坊主は夕日を背にして歩き始めた。あちこち破れたボロ同然の着物をまとい、顔も手足も泥だらけ、そんな事はお構いなしとニコニコしている。その顔は何とも言えない愛嬌にあふれ、どことなく猿のようだった。

 小坊主は急に立ち止まると振り返り、夕日に向かって、あかんべえをすると両手を振り回しながら勢いよく走り出した。

 回りの景色を眺めながら、「ひでえなあ」と小坊主は叫んだ。

 田畑は荒れ果て、朽ち果てた空き家がやけに目に付いた。戦続きで田畑が荒らされるにもかかわらず、年貢は跳ね上がる一方だった。厳しい取り立てに耐えられず、新しい天地を求めて逃げ出す百姓が多かった。

 小坊主が生まれた頃、故郷は大きな村だった。辺り一面、田畑が広がり、作物が豊富に稔っていたのに、今は田畑よりも荒れ地の方が多く、人の住む家よりも空き家の方が多いという有り様だった。

 荒れた田畑に赤とんぼが気持ちよさそうに飛び回っていた。小坊主はニヤッと笑って、赤とんぼを捕まえようとしたが、急に手を止めると、「おっ母たちは無事だろうか」とつぶやいた。

 小坊主は急に心配になり、急いで我が家へと向かった。

 それからしばらくして、木陰に隠れ、うずくまっている小坊主の姿があった。さっきの陽気な顔とは打って変わって、泣きべそをかいている。涙に潤んだ目は畑で働く女の姿をじっと見つめていた。

 色あせた野良着を着た女は額の汗を拭きながら腰を曲げて草むしりをしている。年の頃はまだ三十前後なのに、苦労が耐えないのか、栄養が足らないのか顔色はさえなかった。

「おっ母‥‥‥」と小坊主はつぶやいた。木陰から身を乗り出し、今にも飛び出しそうだったが、じっと耐えていた。

 母親と少し離れて、鍬を持った父親が働いている。小坊主は父親の方をチラッと見ただけで母親の姿に見入っていた。

「おっかさーん」と誰かが呼んだ。

 小坊主は声のした方を見た。

 竹槍をかついだ若者が母親のもとに駈け寄って来た。長い髪を無造作に束ね、継ぎだらけの着物に太めの縄を帯代わりに締め、腰に脇差を差している。格好は男でも顔付きは若い娘だった。

「姉ちゃん、相変わらずだなあ‥‥‥」

 姉を見つめる小坊主の目から涙があふれ出した。

 母と姉は笑いながら話をしていた。そこに汗を拭きながら父親が加わった。母が急にこちらの方に振り向いた。

 小坊主は慌てて身を伏せた。

「藤吉はどうしてるかねえ。いじめられとりゃせんかの」と母の声が聞こえた。

「大丈夫だ。喧嘩の仕方は俺がちゃんと教えたから、いじめられやせん」と姉がこぶしを振り上げた。

「馬鹿言うな」と父親が姉を睨んだ。「喧嘩させるために、お寺に入れたんじゃねえわ。学問をしっかりと身に付けてもらわなけりゃ困る」

「でも、あの子はじっとしてるのが苦手だからね、お寺さんに迷惑をかけなければいいんだけど‥‥‥」

「おっかさん、心配のし過ぎだ。あいつは結構、ずる賢いから、うまくやってるよ」

 三人はしばらく夕焼けを眺めていた。

「藤吉、負けんじゃねえぞ」と姉が急に大声で叫んだ。

 思わず返事をしそうになって、藤吉は慌てて口を押さえた。

 母と姉は並んで家の方に帰って行った。父親は夕焼けに向かって両手を合わせ、頭を下げると二人の後を追った。三人の後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、藤吉は頬を流れる涙を拭いた。

「トーキチ」と後ろで誰かが呼んだ。

 ビクッとして振り返ると若い女が立っていた。笹の葉を振り回しながら大口を開けてケラケラ笑っている。

「馬鹿、脅かすな」と藤吉は鼻水をすすった。

「トーキチ、トーキチ」と歌うように言いながら、女は夢見るように舞っていた。

 おきた観音と呼ばれている女だった。観音と呼ばれるにふさわしい美しい顔をしているのに、頭はちょっといかれていた。どうして狂ってしまったのか知らないが、藤吉が物心ついた頃には、すでに狂っていた。

 寺に入れられる前は、近所の子供たちと一緒に、おきた観音をからかって遊んでいたが、村に帰って来た途端に、こんな所で会うとは驚きだった。

 おきた観音は相変わらず綺麗な着物を着ていても、相変わらずだらしがなかった。襟が開いて乳房がのぞき、裾は割れて足が丸見えだった。

「おめえなあ、そんな格好してると、あにさんたちにまた悪さされるぞ」

 藤吉はおきた観音を捕まえると着物を直してやった。おきた観音は笑うのをやめて、おとなしく言いなりになっている。

「おめえは観音様なんだからな、ちゃんとしてなきゃ駄目だ」

 着物が直るとおきた観音は、「トーキチ、トーキチ」と言いながら藤吉に抱き着いて来た。

「今日はおめえと遊んでる暇はねえんだ。もうすぐ日が暮れるからな、ちゃんと、うちに帰るんだぞ」

「トーキチ、トーキチ」と歌いながら、おきた観音は後をついて来た。何度も何度も追い払って、やっと諦め、ケラケラ笑いながら帰って行った。赤とんぼが一緒になって、おきた観音の回りを楽しそうに舞っていた。

 おきた観音を見送ると藤吉は南へと向かった。荒れ果てた田畑の中を黙々と歩き、半里(約二キロ)ばかり行くと、こんもりとした土塁が見えて来た。辺りはもう、すっかり暗くなっている。

 ゴミ溜めになっている堀と草におおわれている土塁に囲まれた武家屋敷の門の前に立ち、藤吉は大声で叫んだ。

「おじさーん。烏森かすもりのおじさん、ねえ、開けてよ」

「誰じゃ。外で騒いでるのは」と門の中から声が聞こえた。

「中村の藤吉です。おじさん、開けて」

 しばらくして門が開き、顔馴染みの門番の顔が槍の穂先と一緒に顔を出した。

「何だ、藤吉じゃねえか、今頃、どうしたんじゃ」

「ねえ、おじさん、いる?」

「おう、殿はおられるぞ」

 藤吉は門の中に入った。土塁に囲まれた中はおよそ二十五間(約五十メートル)四方で、母屋おもや、蔵、うまや、そして、さむらい長屋があった。

 屋敷の主人、杉原彦七郎は父方の伯父で、親戚として幼い頃より親しんでいた。革の袖無しを着た彦七郎は母屋の縁側に立ち、怪訝けげんな顔をして藤吉を迎えた。

「お寺を抜け出して来ました。うちに帰れないので、しばらく、ここに置いて下さい」

「おい、何度目じゃ」

 藤吉は指を一本、二本、三本と立てて見せた。

「まったく、しょうもねえ奴じゃの、おめえは。井戸でその汚え面を洗って来い」

 藤吉が井戸で手足を洗っていると、二人の娘が台所から出て来てクスクスと笑った。

「何がおかしい」と藤吉は睨んだが、娘たちは余計に笑い出した。

「また、お寺を追い出されたのね」と年上のおすみが藤吉を指さしながら言った。

 おすみは藤吉の姉と同い年で、何となく苦手だった。性格は姉と全然違って女らしく、女らしい女に慣れていない藤吉には近寄りがたい存在だった。

「今度は何したの」と年下のおふくが興味深そうに聞いた。

 おふくは藤吉より一つ年下で、素直で可愛い娘だった。

「何もせんよ。ただ、坊主になるのはやめたんだ」

「嘘ばっかし」とおすみは怖い顔をした。「この間は、仏様をひっくり返したんでしょ。高価な大皿も割ったって聞いたわ」

「仏様をひっくり返すとバチが当たるのよ」とおふくが心配そうな顔をした。

「大丈夫だい。ちゃんと拝んだもん」

「ねえ、今度は何を壊したの」

「お寺じゃ。お寺をメチャメチャに壊してくれたわ」と藤吉は言うと、唖然とした二人の横を擦り抜け、「俺は偉いお侍になるんだい」と母屋の中に入って行った。

 藤吉はおすみの真っ赤な着物を着せられて、彦七郎の前にかしこまっていた。

「まあ、やっちまった事は仕方ねえのう。所詮、おめえには向いてなかったんじゃろう」

 彦七郎はうまそうに酒をすすった。

「おめえの親父は、おめえに学問させて、そのうち茶の湯でも教えようと考えたんじゃろうが、おめえのその面を見てると、どう考えても、お茶坊主っちゅう柄じゃねえのう。まあ、遠慮せずに食え」

「はい、いただきます」

 藤吉は目の前のお椀に飛びついた。

「お茶坊主って、何なんです」と湯漬けをかっ込みながら聞いた。

「お殿様にお茶を差し上げるお役目じゃ」

「どうして坊主なんだろ」藤吉は首を傾げた。

「坊主っちゅうのはの、俗世間の身分の外におるんじゃよ」

「俗世間の身分? 何、それ」

「世の中にはの、身分ちゅうもんが色々とあってな。例えば、わしらが古渡ふるわたりのお殿様と同じ席に座る事はできんのじゃよ。古渡のお殿様だって、清須におられる大和守やまとのかみ殿と同席はできんのじゃ」

「ふーん。古渡のお殿様より清須のお殿様の方が偉いんか‥‥‥」

「まあ、そうじゃのう。その清須のお殿様よりも偉いお方が、清須におられる武衛ぶえい様じゃ」

「武衛様?」

「武衛様は京都におられる将軍様の一族なんじゃ」

「へえ、そんな偉い人が清須におったんか。その武衛様というのが尾張おわりの国(愛知県西部)で一番偉いんか」

「そういう事になるのう。その武偉様とも同席する事ができるんがお茶坊主なんじゃ。ただし、一流の茶の湯の腕を持ってなくちゃならんがの」

「ふーん。お父は一流じゃなかったんだな」

「一流とは言えんかもしれんが、なかなかの腕だったそうじゃ。おめえのお父はおめえのように寺に入れられたんじゃが、寺を飛び出して京都まで行き、茶の湯を覚えて帰って来たんじゃ。当時、都では茶の湯が流行ってたらしいが、尾張ではまだ新しかったんじゃ。故郷に帰って来るとすぐ、当時、勝幡しょばたにおられた備後守びんごのかみ殿に腕を見込まれてのう、お茶坊主となったんじゃ。備後守殿に仕えて、一時は羽振りもよかったが、そのうち津島の商人たちも茶の湯をやるようになってのう、尾張の武士たちの間にも流行って行ったんじゃ。わしは茶の湯の事はあまり詳しくねえが、茶の湯にも流行りすたりっちゅうもんがあるらしくての、おめえのお父の茶の湯は古臭えと言われて、おめえが生まれて、一、二年後、おはらい箱になっちまったんじゃよ。若えうちに持てはやされたんが悪かったんじゃろうの。今はすっかり世を拗ねちまった。あんな奴じゃなかったんにのう」

「あのお父が京都まで行ったの」と藤吉は目を丸くした。

「うむ。丁度、今のおめえぐれえの頃じゃったかのう。何を思ったんか、急に寺を飛び出して、どこかに行っちまったんじゃ。しばらくして旅のひじりがあいつの消息を知らせてくれたそうじゃ」

「あのお父が京都に‥‥‥信じられない」

「今のあいつからは想像もできんが、若い頃は人並みに夢に燃えていたんじゃよ」

「お父の夢って何だったの」

「さあな。お父に聞けよ」

 藤吉は何となく、父親が好きではなかった。いつも、偉そうな事ばかり言って、藤吉の顔を見ると文句ばかり言う。朝から晩まで働き詰めで、遊び心などまったくない、くそ真面目な男だった。藤吉が冗談を言っても、笑いもせずにブスッとしている。そんな父親に文句も言わず、ただ黙って従っている母親が可哀想だった。あんな父親なんかいない方がいいと藤吉は思っていた。でも、父親が自分と同じように寺に入れられ、寺を飛び出して京都まで行ったと聞いて、父親を見直すと共に、自分も絶対に京都まで行ってやると思った。

 藤吉は杉原家に居候いそうろうしながら、ひそかに旅に出る準備を始めた。旅立つといっても、今の藤吉には西も東もわからない。京都がどこにあるのかも知らなかった。杉原家に出入りする者たちから、それとなく情報を集めていた。

 そんな時、彦七郎が立派なよろいを身に着け、自慢の駿馬しゅんめにまたがり戦に出掛けて行った。古渡城の織田備後守(信秀)が尾張の兵を率いて、美濃みの(岐阜県)の斎藤道三を攻めるという。彦七郎と一緒に従兄いとこの五郎も新しい鎧に身を固めて出陣して行った。藤吉はカッコいいなあと羨ましそうに見送った。

 早く、京都に行きたかったが、彦七郎より留守を頼むぞと言われたため、彦七郎が帰って来るまで我慢しなければならなかった。藤吉はおすみとおふくの姉妹と一緒に畑仕事を手伝いながら、夜になると門番小屋に行って屋敷の警固を手伝っていた。

 備後守の留守を狙って、清須の侍たちが古渡城を攻めるという騒ぎが起こった。留守を守っている者たちが必死に守ったため、城が落ちる事はなかったが、古渡の城下は火の海となった。焼け出された者たちが次々に助けを求めて杉原屋敷に押しかけて来た。彦七郎のおかみさんは村中の女衆を集め、飯を炊いたり、怪我人の手当をしたりと大忙しだった。

 藤吉は六尺棒をつかんで男衆と共に敵の襲撃に備えたが、幸い、敵は攻めては来なかった。土塁の上から古渡の城下の火を眺めながら、同じ尾張の侍がどうして古渡を攻めるのか、藤吉にはよくわからなかった。

 やがて、備後守が兵を引き連れて戻って来ると、清須の兵は逃げ帰り、藤吉も男衆と一緒に城下の火消しに出掛けた。

 町は全滅に等しく、逃げ遅れて焼かれた人たちの姿は直視できない程、無残だった。親とはぐれて泣き叫んでいる子供がいた。顔を火傷やけどした若い娘は死なせてくれとわめいていた。死んでしまった子供を抱きながら悲鳴を上げている母親もいた。かと思えば、人の不幸をよそに火事場泥棒を働いている不届き者も大勢いた。人の悲鳴があちこちから聞こえる焼け跡を赤とんぼの群れが不気味に飛び回っていた。

 藤吉はこの世の地獄を見た衝撃から立ち直れずに屋敷に帰ると、さらに不幸が待っていた。主人の彦七郎と従兄の五郎が戦死したという。負け戦となり、尾張の武士たちが大勢、他国にて戦死してしまったとの事だった。

 藤吉には彦七郎が戦死した事が信じられなかった。つい、この間、父の話をしてくれた伯父が今はもうこの世にいない。侍というものは何と恐ろしいんだと実感していた。

 


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藤吉郎伝 若き日の豊臣秀吉

清須城下

 

 杉原彦七郎と従兄の五郎の葬儀も無事に終わった。

 彦七郎の娘、おすみとおふくの二人は、ずっと泣き通しだった。おかみさんが忙しそうに働いているので、藤吉は二人を慰めるのに一生懸命だった。今まで、怖いと思っていたおすみも本当はか弱い女の子なんだと女を見る目がほんのちょっと変わっていた。

 二人も何とか立ち直り、藤吉自身の心の傷も癒えると、また、京都への旅が胸の中に膨らんで来た。

 京都は遠い‥‥‥京都へ旅立つ前に、まず、尾張の都である清須(清洲町)を見ておくべきだと思った。

 藤吉は世話になった皆に別れを告げると、清須に向かって旅立った。

 清須の城には武衛ぶえい様と呼ばれる尾張の守護、斯波しば左兵衛佐さひょうえのすけ義統よしむねがいて、その守護代として織田大和守やまとのかみ広信がいた。武衛様は尾張の国の守護だったが、尾張の国をまとめる力はなく、大和守に保護されているといった状況だった。かといって大和守が尾張の国を支配しているのかというとそうでもない。大和守の奉行である織田備後守びんごのかみ信秀が尾張国内では最も勢力を持っていた。

 当時の尾張の国の状況は複雑だった。応仁の乱の時、尾張の守護職しゅごしきだった斯波氏が家督争いを始めて、東軍と西軍に分かれて戦ったため尾張の国も二つに分けられ、上四郡は岩倉を本拠地とする斯波氏の管轄となり、下四郡は清須を本拠地とする斯波氏の管轄となった。上四郡を支配する岩倉には、すでに守護である斯波氏はいないが、守護代として織田伊勢守信安がいて、清須の織田大和守広信に対抗している。織田備後守は清須の大和守の奉行の一人にすぎなかったのに、勝幡しょばた城(中島郡平和町)を本拠地として、津島の商人たちと結び、経済的に優位の立場に立ち、さらに、那古野なごや(名古屋市中区)に進出して熱田の商人とも結び勢力を拡大した。また、隣国の三河(愛知県東部)や美濃(岐阜県南部)にも積極的に進出して、守護代の両織田氏をしのぐ活躍をしている。そんな事は、まだ十一歳の藤吉は知らない。ただ、清須と聞けば、都という印象が強く、京都に行く前に見ておかなければならないと思っていた。

 清須には祖父がいた。母の父親である祖父は刀鍛冶かたなかじだった。もう六十歳を過ぎ、伜の孫太郎に仕事を継がせて、のんびりと隠居しているが、その腕は清須一との評判だった。

 白髪頭の祖父は、たった一人でやって来た藤吉を見て驚き、目を細くして歓迎してくれた。しかし、藤吉の格好は祖父の気に障ったようだった。いが栗のような頭に従姉いとこの真っ赤な着物を着て、白い組紐を腰に巻き付け、黒光りした木剣を差して得意になっていた。藤吉はその姿が気に入っていたが、祖父には理解できなかった。すぐに木剣を取り上げられ、地味な職人の格好に着替えさせられた。

 清須はさすがに都だった。大通りには大きな屋敷が建ち並び、様々な人たちが大勢行き交っていた。娘たちは着飾って、しゃなりしゃなりと気取って歩き、若い男たちは今、流行りのかぶき姿で闊歩している。大人たちはその異様な風体に目をそむけるが、藤吉ら子供たちから見れば、それは憧れの姿だった。

 かぶき姿に決まった規則はない。人と変わった目立つ格好をして、奇抜な行動をとる事をかぶくと言い、かぶいている者をかぶき者と呼んでいた。若い者たちはかぶき者と呼ばれる事を誇り、競って、人と違う格好をした。まげをやたらと高くしたり、革でできた衣や袴を身につけたり、派手な模様の着物を着たり、三尺余りもある大太刀を腰に差したり、刀のつかを長くして、白や朱の組紐を巻き付けたり、それぞれが工夫を凝らして自己主張をしている。戦国乱世が生んだ一つの風潮だった。明日の事はわからない。今がよければそれでいい。今を精一杯生きている証しとして、目立つ格好をし、人並み外れた行動をとっていた。

 祖父はかぶき者から目をそらし、藤吉を睨むと、「あんな真似は絶対にするんじゃないぞ」ときつく言った。

 藤吉はしぶしぶとうなづいたが、カッコいいなあと見とれていた。

 清須の城下は五条川に沿って南北に長く、中央に堀と土塁に囲まれた清須城があり、北と南に町人の住む町が形成されていた。祖父の家は南側のはずれにあり、界隈には様々な職人たちが住んでいた。

 藤吉は川向こうに見える城のやぐらを眺めながら、これが武衛様のお城かと感心していた。

 こんなお城に住めたら凄いな。やっぱり、お侍はいいなあ。でも、古渡のお城下を焼いたのは、ここのお侍だ。あんな事をするお侍には絶対になりたくない。

「藤吉、お前、まさか、お侍になりたいと思ってるんじゃないじゃろうな」と祖父は城を見つめている藤吉に聞いた。

 藤吉は祖父の方を見ると強く首を振った。

「お侍はいやだ。この間、烏森のおじさんと従兄の五郎さんが戦死したばかりだもん。おばさんが泣いてた。俺はおっ母や姉ちゃんを悲しませたくない」

「そうか。烏森のおじさんも美濃で戦死したのか‥‥‥大勢の者が亡くなったらしいの」

「ねえ、おじいさん、俺、刀鍛冶になれんか」

「ほう、藤吉は刀鍛冶になりたいんか」

「これからは手に職を持つんが一番だと思ったんだ」

「そうか、そうか、新太の奴と一緒に修行せい。立派な鍛冶師になれば、今の世の中、どこに行っても食って行けるわ」

「どこに行っても」

「ああ。今の世の中はどこに行っても戦じゃ。槍や刀はいくつあっても足りんのじゃ。腕がよければ、どこに行っても引っ張り凧じゃ」

 藤吉は京都に旅立つ前に清須を見ておこうと気楽な気持ちで出て来た。杉原のおばさんには中村の家に帰ると言ったので、握り飯を貰うわけにもいかず、清須に着いた時には、もう腹ぺこだった。京都に行くには何日も掛かる。このままでは駄目だと藤吉は思った。そこで、腕に職を持てばいいんだという結論に達した。当然、一人前の刀鍛冶になるのに、どれ位の修行が必要なのかまでは考えていない。たまたま、祖父が刀鍛冶だったから、刀鍛冶になろうと思っただけだった。

 次の日から、藤吉は従兄の新太郎と一緒に刀鍛冶の作業場に入って仕事を始めた。火が赤々と燃えている暑い作業場で朝から晩まで雑用をやらされ、こんなはずじゃなかったと悔やんだ。一つ年上の新太郎は文句も言わずに雑用をやっている。新太郎に聞くと、一人前になるには十年の修行が必要だという。

 冗談ではなかった。十年もこんな所にいられない。自分から刀鍛冶になると言った手前、あまり早くを上げると根性なしと思われるので、三ケ月間、じっと我慢して、祖父に自分は鍛冶師には向いていないから他の仕事を世話してくれと頼んだ。

 祖父は残念そうな顔をして、「そうか。お前には向いてないか‥‥‥」とつぶやいた。「わしはお前に立派な鍛冶師になって、鉄砲を作ってもらいたいと思ってたんじゃ」

「鉄砲?」藤吉には何の事かわからなかった。

 祖父はうなづいた。

「四年前に薩摩の種子島という所に南蛮人がやって来てのう。鉄砲という新しい武器を伝えたんじゃ。まだ、戦で使われる事はないがの。そのうち鉄砲が弓矢に変わる事となろう」

「鉄砲って何です」

「鉄でできた筒から鉛の玉が飛び出す新しい武器じゃ。飛び出す時に物凄い音がしてのう。弓矢よりもずっと威力があって、その玉に当たると絶対に死んでしまうんじゃよ。しかし、作るのは難しいらしくての。伜の孫次郎が鉄砲を作るために今、小折こおり村に行ってるんじゃ」

「孫次郎おじさんが鉄砲を作ってるの」

「うむ。小折村の生駒いこま殿に頼まれてのう」

「生駒殿って?」

太夫たゆう様と呼ばれるお大尽だいじんじゃ。鉄砲を作るには銭が掛かるからのう。伜の奴は腕を見込まれて生駒殿のもとに行ったんじゃ。これからの世は鉄砲じゃ。鉄砲を作る腕があれば、蔵の二つや三つ、すぐに建つわ。お前なら鉄砲が作れると思ったんじゃがのう。向いてないか、残念じゃ‥‥‥」

 祖父は鍛冶師が駄目なら刀の研師とぎしはどうじゃと与次郎という研師を紹介してくれた。

 与次郎は祖父の娘婿で、藤吉から見れば叔父だったが会うのは初めてだった。山羊やぎのような髭を伸ばし、いつも、ブスッとしていて、滅多に口もきかない男だった。与次郎は無愛想だったが、おかみさんは、姉さんとこの伜かいと、藤吉の面倒をよく見てくれた。

 与次郎の所には様々な刀や槍があった。刀鍛冶の孫太郎の所にも刀はいっぱいあったが、刀身だけなので、どれも皆、同じに見えた。与次郎の所の刀は色々なつかさやの刀があって、見ているだけでも楽しかった。中には流行りの白柄や朱鞘もある。藤吉はひそかにそんな刀を腰に差して喜んでいたが、そんなのは初めのうちだけだった。朝から晩まで、あれを持って来い、それを持って来いとこき使われ、四ケ月目にはいやになり、ついに飛び出してしまった。

 次に行った所は祖父の知り合い、大工の善八の所だった。善八は一見しただけだと怖そうだが、面倒見のいい男で、若い者たちに慕われていた。おかみさんは善八より二十以上も若く、娘といってもいい年頃で、綺麗な人なのにツンとしていて近寄りがたかった。いつも身綺麗にしていて、毎日、湯浴みをして、長い髪を洗うのを日課としていた。湯浴みのための湯を沸かし、おかみさんの背中を流すのも藤吉の仕事で、おかみさんは文句ばかり言っていたが、おかみさんの裸を見るのは楽しみだった。

 鍛冶師や研師と違って、大工の仕事場は野外だった。狭い小屋の中で仕事をするより、お日様の下の方が何となく嬉しく、家を建てるのも面白そうだった。早く技術を身につけて、おっ母のために大きな屋敷を建ててやりたいと藤吉は張り切っていた。しかし、ここでも雑用ばかりやらされて、一本の釘さえ打たせて貰えなかった。教えてくれないなら、技術を盗んでやれと藤吉は雑用をしながらも、必死になって家の建て方を学んで行った。ところが、後もう少しで家が完成するという時、善八がおかみさんを殺してしまい奉行所に捕まってしまった。

 おかみさんが若い男と浮気をしているのを藤吉は知っていた。善八に命じられて忘れ物を取りに家に戻った時、おかみさんが知らない男と一緒にいるのを見てしまった。部屋の中に着物を脱ぎ散らかして、おかみさんも男も裸になって抱き合っていた。藤吉にも二人が何をしているのか、おぼろげながらもわかったが、見て見ない振りをしていた。おかみさんの浮気を知っていたのは藤吉だけではなく、皆、知らんぷりをして、親方に知らせなかった。それでも、とうとう、ばれてしまい、親方はノミで滅多突きにして、おかみさんと男を殺してしまったのだった。

 綺麗好きで、いつも磨きをかけていたおかみさんの自慢の肌は傷だらけで血にまみれていた。一緒に死んでいたのは近所の蒔絵師まきえしの所にいる若い者だという。返り血を浴びて血だらけの善八は呆然として、ノミを持ったまま部屋の片隅に座り込んでいた。藤吉は地獄絵さながらの情景に声も出ず、驚きで金縛かなしばりにあったかのように体が動かなかった。

「子供が見るもんじゃねえ」と誰かがその場から出してくれた後、急に気持ちが悪くなって、反吐へどを吐いてしまった。

 善八が捕まると善八のもとにいた若い大工たちは皆、どこかに行ってしまった。残った藤吉だけではどうする事もできず、未完成の家は他の大工の仕事となり、藤吉は祖父の所に帰った。

 祖父に訳を話すと、「とうとうやっちまったか、馬鹿な野郎じゃ」と顔をしかめて言った。「あの女は二度目のかみさんでな、亡くなったかみさんにそっくりなんじゃよ。そっくりなのは外見だけなのに、奴は心までそっくりだと思い込んじまったんじゃ。いつか、こうなる事はわかっていた。わしは何度も忠告したんじゃが、奴は言う事をきかん。あの女は男狂いで、近所の若い者をみんな、くわえ込んでいたんじゃ。知らなかったのは善八だけじゃ」

 藤吉はこの時、綺麗好きのツンとした女は気をつけなければならないという事を肝に銘じた。

 その後、鎧師よろいしの勘助、紺屋こうやの庄助、桶屋おけやの久兵衛と次々に渡り歩いたが、どれも皆、長くは続かなかった。

 鎧師の勘助はいつもニコニコしていて色々な話をしてくれたが、客の侍に仕事振りが気に入らないと腕を斬られて仕事ができなくなってしまった。

 紺屋の庄助は真面目で評判のいい男だったが、跡を継ぐべき一人息子をいくさで失ってから酒浸りとなり、仕事どころではなかった。藤吉は毎晩のように庄助に連れられて飲み屋をハシゴし、夜中に帰って来ては、庄助の代わりにおかみさんに謝っていた。酒なんか飲んだ事のなかった藤吉は無理やり飲ませられ、何度も何度も吐いていた。初めの頃は飲み屋という場所が珍しくて、浮き浮きしながら付いて行ったが、そのうちに、酔っ払った庄助に訳もなく殴られる毎日が続き、おかみさんが可哀想だと思ったが飛び出してしまった。

 桶屋の久兵衛は桶作りの腕は一流なのに女癖が悪く、清須城下で一、二を争う紫陽花あじさいという遊女に入れ揚げ、代々続いた店を潰してしまった。藤吉も一度、その遊女屋に連れて行ってもらったが、物凄く豪華で華麗な御殿だった。綺麗な女の人がいっぱいいて、特に、紫陽花という女の人はこの世の人とは思えないほど美しく、しかも、優しい人だった。それに、見た事もない御馳走が山のようにあり、世の中に、こんな不思議な場所があったのかと、藤吉は極楽に来たような気分だった。店を失い、家族にも逃げられ、住む場所もなくなった久兵衛はもう一度、修行をやり直すと陽気に笑って旅に出てしまった。

 鎧師の勘助の所では、お客を怒らせてはならないという事を学び、紺屋の庄助の所では、酒は飲み過ぎてはならないという事を学び、桶屋の久兵衛の所では、全財産を投げ売っても後悔しないほど価値のある女もいるという事を学んだ。

 早く、腕に職を持って旅に出たいと思うが、どこに行っても、つまらない雑用ばかりやらされて、結局、何も身に付かなかった。辛抱強く、色々と世話をしてくれた祖父もとうとう呆れ果て、怒ってしまった。

「おめえは職人に向いておらん。そんな飽きっぽいようじゃ、何やっても駄目じゃ。わしゃもう知らんわ。さっさと中村に帰っちまえ」

 藤吉はしょんぼりとうなだれた。中村には帰りたくなかった。あそこに帰ったら、父に小言を言われながら百姓をするしかない。朝から晩まで働いて、高い年貢を取られても文句も言わず、じっと耐えるだけの生活はしたくはなかった。母や姉には会いたかったが、寺を追い出され、職人にもなれない惨めな自分を見られたくはなかった。

「可哀想でしょうに」と祖母が助け舟を出してくれた。「この子は人付き合いがいいから、あたしゃ、商人になったらいいと思いますよ」

「うん。商人の方が向いてるかもしれない」と藤吉もうなづいた。

「わしゃ、商人は好かん。あいつらは銭勘定の事ばかり考えてやがる」

「いいじゃありませんか。一度、試しにやらせてみたらどうです」

「おてるの所か」と祖父は言った。

 祖母はニコニコしてうなづいた。

「久し振りに天王様にお参りしたいわね」

「そうじゃのう。おてるんとこの孫の顔も何年も見てないしのう。久々に行ってみるか」

 次の日、藤吉は祖父と祖母に連れられて津島へと向かった。

 


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藤吉郎伝 若き日の豊臣秀吉

 

 津島は大勢の人で賑わっていた。

 牛頭ごず天王社の門前町として栄え、さらに、木曽川の支流、および川と墨俣すのまた川が落ち合う川港として、大小様々な船が行き交っていた。熱田に向かう船や伊勢の桑名へ向かう船、川を上って美濃方面に向かう船も出るため、旅人も多く、大通りに面して立つ旅籠屋はたごや木賃宿きちんやどから客引きが大声で客を呼んでいた。

 牛頭天王社の門前の市には新鮮な海産物が並び、藤吉は目を丸くして、見た事もない魚や貝を眺めて回った。門前町から少し離れると大きな蔵が建ち並ぶ商人たちの町になる。商人たちの屋敷は皆、大きくて立派で、威勢のいい人足たちが荷車に山のような荷物を積んで大通りを行き交っていた。

 母の妹、おてるが嫁いだ加藤喜左衛門の屋敷は大河へとつながる川に面して建っていた。船が直接、屋敷に横付けになって荷物の積み降ろしをしている。

 藤吉は津島の町を見て、初めて、川というものが道のように自由に行き来できるという事を知った。津島の町では船がなければ生活できないと思われる程、牛や馬に代わって活躍している。船で暮らしている者までいるのには驚いた。そして、京都に行くには桑名まで船に乗らなければならない事を知り、喜左衛門の所に奉公して、銭を溜めて、そのまま京都に行こうと決心した。

 喜左衛門は伊勢の塩を商っている商人だった。伊勢から来た塩は荷揚げされ、尾張国内の各地へと運ばれて行った。

 祖父と祖母は三日間、のんびりと孫たちと遊んで帰って行った。藤吉も従弟いとこたちと一緒に遊び、二人が帰ってから叔父のもとで働き始めた。

 商人というから塩を売り歩くのかと思っていたら、叔父の所では行商はしていなかった。各地にある店に塩を運ぶだけで小売りはやっていない。藤吉は毎日、重い塩を船から降ろしては荷車に積むという肉体労働ばかりやらされた。お陰で、足腰は強くなり、腕も太くなったが、背丈はちっとも伸びなかった。人足たちから名前を呼ばれる事もなく、『猿、猿』と呼ばれ、自分の姿がそんなにも猿に似ているのかとがっかりした。さらに、年下の従弟たちまで『猿』と呼び、馬鹿にしたように見るのは辛かった。主人の子供なんだからと自分に言い聞かせて、じっと我慢していたが、とうとう堪忍かんにん袋の緒が切れて、従弟を殴って屋敷を飛び出してしまった。

 藤吉は一人、港にしゃがんで桑名に向かう船を眺めていた。これからどうしたらいいのかわからなかった。桑名に行く船に乗る銭はなかった。それ以前に、今夜の宿もない。野宿をするには寒すぎた。

 叔父に謝って帰ろうか。叔父に謝るのはいいけど、従弟たちには謝りたくなかった。

 どうしよう。このまま、中村に帰ろうか。いや、駄目だ。帰れない。

 川向こうの空が夕日に染まっていた。カモメが鳴きながら飛び回っている。

 納屋なや(倉庫)の側で七、八人の人足たちが喧嘩をしていた。一人が怒鳴りながら丸太を振り回している。刀を抜いている者もいたが丸太の方が強かった。丸太の男は相手を倒すと丸太を投げ捨て、仲間と共に引き上げて行った。倒れている人足を眺めながら、しょんぼりと丸くなっていると、「おっ、猿じゃねえか」と声を掛けた者があった。

 叔父の所の手代の新助だった。

「おめえ、こんなとこで何してんだ」

 藤吉は新助に訳を話した。新助は親身になって聞いてくれた。

「そうか、猿と言われて腹を立てたんか。まあ、そうだろうの。だがな、猿というのも愛嬌があっていいもんだぞ。みんながおめえの事を猿と呼ぶんは、憎くて呼んでるわけじゃねえ。親しみを込めて呼んでるんだ」

「みんなが呼ぶのはいいけど、従弟たちは俺を馬鹿にしてるんだもん」

「うむ。御主人様の子供だからな、仕方ねえんだ。所詮、わしらは使用人だからの」

 目の前の桟橋に小船が着き、人相の悪い男たちに囲まれて、藤吉と同じ位の年頃の娘たちが大勢、船から降りて来た。娘たちは皆、継ぎだらけの着物を着て俯き、中には泣いている娘もいる。武装した男たちに囲まれて、娘たちは藤吉の横を通って行った。

「あれは何ですか」と藤吉は新助に聞いた。

「人買いだ。遊女屋に行くんだろう」

 藤吉は清須にいた遊女、紫陽花の事を思い出し、あの娘たちも、御殿の中で綺麗な着物を着て暮らすのかと羨ましそうに見送った。

「まあ、いい。今夜はわしのうちに泊まれ」と新助は言った。

「えっ、いいの」藤吉は跳びはねて喜んだ。

 新助の家は門前町のはずれにあった。気さくなおかみさんがいて藤吉の面倒をよく見てくれた。新助は叔父に藤吉を預かっている事を告げたらしいが、叔父に謝って戻れとは言わなかった。藤吉は新助の家に厄介やっかいになりながら、おかみさんのはまぐり売りを手伝っていた。

 蛤売りは面白かった。

「蛤はいらんかね。取り立ての蛤はいらんかね」と大声で叫びながら町中を売り歩くのは塩の荷揚げをするより、ずっと楽しかった。

 町中を売り歩きながら、裏通りに住んでいる様々な人たちと会うのが楽しく、直接、銭を貰えるのが嬉しかった。特に花街と呼ばれている一画は、いつも、琴や笛の調べが流れていて、綺麗な姉さんが大勢いた。姉さんたちは優しく、珍しい話や面白い話を色々としてくれた。

 藤吉も十四歳になり、多少、色気づいて、人並みに女に興味を持ち始めていた。

 藤吉が今まで見て来た女というのは、中村にいた頃、一緒に遊んだ近所の幼なじみか、頭のおかしいおきた観音、それに、男まさりの姉くらいのものだった。清須では一流の遊女、紫陽花と会ったが、あれは例外で、藤吉の手の届く女ではなかった。ここの遊女たちはもっと身近に感じられ、初めて、女というものに胸をときめかせていた。

 自分ではもう一人前の男だと思っていても、はた目から見れば、身なりの小さい藤吉は十歳位の子供にしか見えなかった。花街の女たちも、藤吉を子供だと思って気を許して、からかって遊んでいるだけなのだが、藤吉は毎日、花街に行くのを楽しみにしていた。

「あら、また、お猿さんが蛤を売りに来たわ」と、ここでも猿呼ばわりだった。でも、藤吉は怒らなかった。猿と呼ばれると、わざと猿の真似をしてお道化どけて見せ、女たちを喜ばせていた。

「今日は大きな蛤が入りました。うまいですよ。みんなで召し上がって下さい」

「お猿さん、あたしの蛤もおいしいのよ。召し上がる?」とツバメ姉さんが笑いながら言った。

「お姉さんも蛤を売ってるんですか」と藤吉は不思議そうに聞いた。

「そうよ」とツバメ姉さんは身をくねらせた。

「まあ、大きな蛤だこと」とヒバリ姉さんが顔を出した。「でも、スズメちゃんには負けるわね」

「お姉さん、ひどいわ。あたしのそんなにも大きくないわよ」とスズメ姉さんは口をとがらせた。

「いいえ。あたし、知ってるのよ。スズメちゃんのは大きいって評判よ」

 女たちはキャーキャー騒ぎながら蛤を手に取って、あたしの蛤より大きいだの小さいだの言っていた。藤吉には何の事かわからず、きょとんとして話を聞いていた。

「そうだわ。お猿さんに比べてもらいましょうよ」とヒバリ姉さんが言った。

「そうよ。それがいいわ」とツバメ姉さんが賛成した。

「やだわ、お姉さん、そんなの見せられないわ」スズメ姉さんは反対したが、

「相手はまだ子供よ。ほら、この子ったら、何もわからないのよ」とツバメ姉さんが言うと、スズメ姉さんは藤吉の顔を見つめ、「そうね、いいわ」とうなづいた。「絶対に、あたしの方が小さいんだから」

 スズメ姉さんは大きな蛤を手に取ると藤吉に手渡し、着物の裾をまくり上げると、藤吉の目の前で股座またぐらを広げて見せた。

「さあ、あたしのとその蛤どっちが大きい」

 藤吉はスズメ姉さんの行動に驚いたが、初めて見る女の股座にじっと見入った。姉さんたちが言うように、それは確かに少し口を開いた蛤に似ていた。こんな物が女の股座に隠れていたのかと藤吉は不思議に思った。姉や母の裸は見た事あっても、蛤までは見た事はない。それに、大工の善八のおかみさんの裸も毎日、見ていたが蛤には気がつかなかった。

「さあ、どっちなのよ。あたしの方が小さいでしょ」

 藤吉は手に持った蛤とスズメ姉さんの蛤を比べて見た。スズメ姉さんの方が大きいと思ったが、スズメ姉さんが睨んでいるので、「小さいです」と答えた。

「ほらね」とスズメ姉さんは満足そうに笑って、着物を降ろした。

 目の前にあった蛤は白昼夢だったかのように消えてしまった。もう少し見たかったと思っていると、今度は、ツバメ姉さんが着物をまくって、藤吉に蛤を見せた。

「ほら、あたしの蛤、おいしそうでしょ」とツバメ姉さんは指で自分の蛤を摘まんで見せた。ツバメ姉さんの蛤は生きがいいのか、濡れて光っていた。

「なに言ってんのよ。あたしの方が新鮮なのよ」と次々に女たちは着物をまくって見せた。

 藤吉は目が眩むかと思うほど、頭に血が上って呆然となった。目を丸くして、ぼうっとしている藤吉を眺め、女たちはキャーキャー笑いながら、家の中に引っ込んで行った。

 姉さんたちの蛤を頭にちらつかせながら、藤吉は蛤を売るのも忘れて、新助の家に帰った。

「売れ残ったのかい。しょうがないねえ」とおかみさんは残った蛤を焼いてくれたが、どうしても食べる事ができなかった。

 次の日も、藤吉は白昼夢を期待して花街に行った。何となく、いつもと雰囲気が違っていた。琴や笛の音が聞こえないし、女たちの顔色も暗く、コソコソ内緒話をしている。

 藤吉がうろうろしているとヒバリ姉さんが現れた。ヒバリ姉さんもいつもと違って青白い顔をしていた。

「何かあったんですか」と聞くと、ヒバリ姉さんはうなづき、「ツバメちゃんが殺されちゃったのよ」とささやいた。

「えっ、ツバメ姉さんが‥‥‥」

 昼近くになっても起きて来ないので、おかしいと思って、女将さんが部屋を覗いてみたら、客はいなくて、ツバメが一人で寝ていた。声を掛けても起きないし、揺すっても起きないので、夜着よぎ(掛け布団)をまくってみると、自慢の蛤に短刀を突き刺されたまま、血だらけになって死んでいたという。下手人げしゅにんはツバメに嫌われても付きまとっていた荷揚げ人足らしいが、まだ、捕まっていないとの事だった。

 藤吉には信じられなかった。いつも陽気に面白い話をしてくれ、ちょっと悲しい唄を聞かせてくれたツバメ姉さんが殺されたなんて‥‥‥あの生きのいい蛤に短刀を突き刺すなんて、どうかしていると思った。今の世の中、どこか狂っていると藤吉は怒りを感じていた。

 新助の家に居候いそうろうして一月程経った頃だった。明日、清須を通って岩倉まで行くけど、祖父のもとに帰るかと新助が言って来た。もう少し、ここにいて蛤売りをしていたかったが、いつまでも、ここにいられない事はわかっていた。清須の祖父の所に帰れば、また怒られるので帰りたくはない。でも、岩倉の城下は見てみたいと思った。

 岩倉には杉原家の従姉いとこが嫁に行った侍がいた。会った事はないが、十歳も年上の従姉はかすかに覚えている。蛤売りのお陰で商売のこつは大体覚えた。行けば何とかなるだろうと岩倉に連れて行ってくれと頼んだ。

 藤吉は新助と共に塩を積んだ荷車を押して、岩倉の城下へと向かった。

 



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