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戦国草津温泉記 湯本三郎右衛門

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戦国草津温泉記 湯本三郎右衛門

 

戦国草津温泉記

湯本三郎右衛門

 

井野酔雲

 


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戦国草津温泉記 湯本三郎右衛門

小野屋

 

 

 

 

 雪の積もった山の中を錫杖しゃくじょうを鳴らしながら、二人の山伏が歩いていた。

 獣の足跡が所々にあるだけで、人の足跡など、どこにもない。そんな道なき道を二人は歩いている。先を行くのは貫録のある山伏で、その後を追っている山伏の顔には、まだ子供らしさが残っている。白い息を切らせて、ハアハア言いながら必死に歩いていた。

「師匠、ちょっと待って下さい」と若い山伏は雪の中に倒れ込んだ。

「もうすぐじゃ」と言ったきり、師匠と呼ばれた山伏はさっさと行ってしまった。

「くそっ」若い山伏は雪をつかんで口の中に放り込むと歯を食いしばって後を追った。

 しばらく行くと視界が開け、眩しい青空が見えた。師匠が岩に腰掛け、早く来いと手招きした。若い山伏は白い息を吐きながら、這うようにして、やっとの思いで、師匠のもとにたどり着いた。

 そこからの眺めは最高だった。広々とした関東平野が視界いっぱいに広がっていた。

「すごい!」と若い山伏は思わず叫んだ。疲れがいっぺんに吹き飛ぶくらい、いい眺めだった。こんなに広々とした土地を今まで見た事がなかった。

「よく見ておけ」と師匠は言った。「この広い土地を手に入れるために、越後えちご(新潟県)の上杉、相模さがみ(神奈川県)の北条ほうじょう甲斐かい(山梨県)の武田が戦を繰り返しているんじゃ」

「へえ」と言いながら、若い山伏は好奇心のあふれる目をして遠くの方を眺めていた。平野の向こうに大きな川が流れ、その向こうには山々が連なっていた。

「今、武田と北条は同盟を結んでいる。利根川を境に西が武田、東が北条というふうに上野こうづけの国(群馬県)を二つに分けている。武田と北条に勝手に分けられてたまるかと、そこに越後の上杉が北から攻めて来る。上杉は沼田を拠点として毎年、冬になるとやって来て、武田と北条の城を攻めるんじゃ」

「あの川が利根川なんですね」と若い山伏は川の方を指さした。

 師匠はうなづき、「利根川の向こうに見えるのは赤城山あかぎやまじゃ」と言った。

 赤城山は裾野の長い山だった。若い山伏は赤城山の裾野に沿って視線を南の方へと動かした。利根川の流れが輝きながら、広い平野を横切って、ずっと向こうまで続いていた。

「今もどこかで戦をしてるのですか」と若い山伏は師匠の顔を見た。

「いや」と師匠は首を振った。「いつもなら上杉勢は雪解けまで上野にいて、戦をしてるんじゃが、どうしたわけか去年のうちに帰ってしまった。どうやら、越中の方に行ってるらしい」

「越中ですか‥‥‥」

 越中(富山県)と言われても若い山伏には、どこだかわからないようだった。

「武田と北条が同盟を結んでいる限り、上杉の進出は難しいな。一昨年、上杉方の箕輪城みのわじょう(箕郷町)が武田に落とされてから、上杉方だった廐橋城うまやばしじょう(前橋市)は北条に寝返ってしまった。上杉は上野を諦めて越中方面を攻め取るつもりなのかもしれん。三郎、あそこに見えるのが箕輪城じゃ」

 三郎と呼ばれた若い山伏は師匠の指さす方を見た。山の裾野に城らしい建物が小さく見えた。

「あれが箕輪城‥‥‥」三郎は顔を曇らせて城を見つめた。

「あそこで父上は戦死したのですか」

「いや、お前の父上が戦死したのは、この上じゃ」と師匠は山頂の方を示した。

 三郎は見上げてみたが、どこも雪でおおわれ、どこなのかわからなかった。

「この山は榛名山といってな、山の上に綺麗な沼がある。その沼の近くにある砦で、お前の父親は殿軍しんがりとして上杉の兵と戦い、全滅したんじゃ。立派な武将じゃった」

 三郎は山の上をしばらく見つめていたが、箕輪城へと視線を移すと、「今、あの城は武田の武将が守っているのですか」と聞いた。

「そうじゃ。内藤修理亮しゅりのすけ(昌豊)殿が守っておられる。さあ、行くぞ」

 師匠は山を下り始めた。

「どこに行くのです」

「あそこじゃ」と師匠は箕輪城を顎で示した。

 三郎は錫杖を突きながら師匠の後を追った。

 永禄十一年(一五六八年)正月の半ば、箕輪の城下は、久し振りに戦のない正月を迎えて賑やかだった。一昨年の戦で城下はすっかり焼かれてしまったのに、すでに新しい城下が完成し、市場には様々な物が売っていた。

 三郎は目を輝かせながら市場を見て回った。

「すごいですね、色んな物がある」

「こんな事で驚いていたんじゃしょうがないぞ」と師匠は笑った。

「だって、草津で見た事もないような珍しい物がいっぱいありますよ」

「草津も賑やかだが、あそこは湯治場じゃ。ここは今、上野の国一番の都と呼べるじゃろうな」

 市場には甲冑や武器も売っていた。三郎が興味深そうに眺めていると、

「戦場から盗んで来た物じゃ。ろくな物はない」と師匠が小声で言った。

「えっ」三郎は驚き、見世みせから離れると、「盗んだ物を売ってるのですか」と聞いた。

 師匠はうなづいた。「戦を経験すれば、お前にもわかる。負け戦になれば味方の死体を引き取る事はできん。戦場に放りっぱなしじゃ。そういう死体は百姓たちによって武器や鎧、着物まで剥がされ、そういう物を扱ってる商人に売られるんじゃ。商人たちはそれを適当に直して市場で売るというわけじゃ。時には値打ち物もあるが、そういう物は然るべき武将に高く売る。あんな所では売らんのじゃ」

「そんなひどい事をしてるのですか」

 三郎は振り返って、改めて、並べてある武器を見た。決して新しい物ではないが、まさか、戦場から盗んで来た物とは思えなかった。

「今の世は、武器はいくらあっても足らんのじゃよ」

 二人は市場から離れ、今晩、世話になる宿坊しゅくぼうへと向かった。

 丘の上に立つ箕輪城は広くて深い空堀に囲まれ、あちこちに物見櫓が立っていた。本丸には大きな屋敷の屋根が見えた。三郎が唯一知っている長野原城とは比べられない程、大きかった。三郎は城を見上げ、すごい、すごいと感心しながら歩いていた。

 途中、大通りに面して立派な店構えの『小野屋』という商人の屋敷があった。三郎はふと足を止めて屋敷を眺めた。

「師匠、草津にも『小野屋』ってありますよね」

「同じ小野屋じゃ。焼けた城下を復興するのにかなりの手助けをしたらしいな」

 店の中を覗くと水瓶や陶器などが並んでいた。店の大きさは全然違うが、扱っている物は草津と同じようだった。

「小野屋の女将さんは去年、草津が焼けた時も相当な銭を持って来てくれました」

「うむ。わしも詳しくは知らんが、各地に出店を持つ大きな商人らしい。噂では北条氏の御用商人だとも聞く」

「へえ、そうなんですか。うちのお屋形様とかなり親しいようでした」

「らしいな」と言うと師匠は歩き始めた。

 三郎も小野屋から離れて、師匠を追った。

「どんな関係なんでしょう」

「そんな事は知らんよ。わしの親父に聞けばわかるかもしれんな」

「円覚坊殿は真田のお屋形様と一緒に甲斐の府中にいるのですか」

「多分な。甲府にも行く予定じゃから、会ったら聞いてみろ」

「はい」と、うなづいた後、三郎は振り返って小野屋を見つめ、「綺麗な人でした」と呟いた。

 箕輪を後にした二人は冷たいからっ風に押されるように南へと向かい、武田方の和田城下(高崎市)、倉賀野城下(高崎市)を通って、武蔵の国(埼玉県と東京都)に入り、北条方の鉢形城下(寄居町)、松山城下(吉見町)、河越城下(川越市)、江戸城下、小机城下(横浜市)と見て回り、相模の国(神奈川県)に入って、玉縄城下(鎌倉市)、大庭城下(藤沢市)を見て、石尊大権現を祀る修験しゅげんの山である大山に登り、北条氏の本拠地、小田原城下へとやって来た。

 小田原は素晴らしい都だった。水を湛えた広い堀に囲まれた大きな城を中心に、広々とした城下町が広がっている。その規模は今まで見て来た、どの城下よりも大きくて立派だった。大通りに面して大きな屋敷が建ち並び、道行く侍たちは凛々しく、着飾った女たちは美しかった。賑わう市場には見た事もないような新鮮な海産物が並び、異国の品々までもが当然のように売られていた。

「すごいですね。これが本当の都っていうんですね。さすが、北条氏だ」

 三郎は感激して、一人ではしゃいでいた。ふと、故郷の事を思い出し、「母上や弟や妹にも見せてやりたい」と呟いた。

 草津しか知らなかった、ついこの間までの事を思うと自分が一回りも二回りも大きくなったように思えた。

「草津のお屋形様はここに来た事あるのですか」と三郎は師匠に聞いた。

「ある。二度来ているはずじゃ。一度めはわしの親父に連れられて来た」

「そうだったのですか。お屋形様は俺にもここを見せたくて旅に出したんですね」

「そういう事じゃ。上野の山の中にいたんじゃ世の中の流れはわからない。湯本家を継ぐには世間の事を知らなけりゃならんからな」

「俺にできるでしょうか」と三郎は不安そうな顔をして師匠を見た。

「できるさ」と師匠はうなづいた。「お前がやらなければならんのじゃ。そのために、こうして旅をしている。世の中の事をその目でよく見ておく事じゃ、表も裏もな」

「表も裏も?」

「そうじゃ。表面ばかりを見て感激していたんじゃ駄目じゃ。裏側もしっかり見なくてはいかん」

「裏側って何です」

「例えばじゃな」と言って、師匠は丘の上に建つ小田原城を指さした。

 当時はまだ、天守閣と呼ばれる華麗な白壁の建物はない。最も高い位置にある本丸には、お屋形様が暮らしている木造の大きな屋敷が並んでいた。

「あの城を見て、ただ、すごいと思うだけじゃなく、どうやってあの城を作ったのかまで考えてみるんじゃ。あの城の中にいるのは北条のお屋形様じゃ。しかし、城を作ったのはお屋形様じゃない。領内の者たちが普請ふしん役として集められ、汗水流して働いたからできたんじゃ。それに、草津のお屋形様が二度目にここに来たのは、越後の上杉が関東の大軍を引き連れて、ここを攻めた時じゃった。城下はすべて焼き払われたらしい。城というのは戦をするためにあるんじゃ。いつまた、ここに大軍が攻めて来るともわからんのじゃ。城下は焼かれ、人々は逃げ惑う事じゃろう。ただ、ぼうっと城を眺めているだけじゃなく、そういう事まで色々と考えなけりゃいかんぞ」

 三郎は小田原城を眺め回した。これだけ大きな城を築くのは大変な事だった。どれだけの人々が働いたのか、想像すらできなかった。

「上杉はいつ、ここに攻めて来たのですか」と三郎は聞いた。

「七年程前じゃ。戦が起こる度に被害をこうむるのは民衆たちじゃという事をまず覚えておけ」

 師匠はそう言うと歩き出した。城を見つめていた三郎は慌てて師匠の後を追って行った。

 三日間、小田原に滞在して城下を見て回った二人は四日目の朝、旅立とうと宿坊を出ようとした。その時、三郎を訪ねて一人の男がやって来た。見るからに商人という格好の男は何人もいる山伏の中から、三郎を見つけて側にやって来た。

 三郎は驚き、師匠を見た。師匠も首を傾げていた。小田原に知人などいるはずはなかった。

「草津から来られた湯本三郎右衛門様ですね」と男は三郎の本名を知っていた。

 三郎は不思議に思いながらもうなづいた。

「手前は小野屋の番頭、半兵衛と申す者でございます。うちの女将より申しつかりまして、お迎えに参りました」

「小野屋の女将さんが‥‥‥」と三郎は師匠を見た。

 師匠は黙って、半兵衛と名乗った男を見つめていた。

「はい。是非ともお連れするようにと頼まれました」

「しかし、どうして、三郎の事がわかったのじゃ」師匠が半兵衛を睨みながら聞いた。

「東光坊様でございますね」と半兵衛は愛想笑いを浮かべながら頭を下げた。

「お二人の事は前からわかっておりました。北条家のお城下を回っておりましたので、敵の間者かんじゃかと目をつけておりました。お名前を調べると信濃の国(長野県)、飯縄山いいづなさん行者ぎょうじゃで東光坊と瑞光坊。女将にその事を話すとすぐにわかりました。瑞光坊というのは草津のお屋形様が若い頃、名乗っていたお名前だそうですね」

「成程、そうじゃったのか‥‥‥しかし、小野屋は敵の間者の事まで調べているのか」

「いえ、たまたま、お二人が目に付いただけでございます」

 三郎と師匠の東光坊は半兵衛に連れられて小野屋に向かった。大通りに面した一等地と呼べる場所に小野屋はあった。小田原に来た翌日、三郎たちは小野屋を見つけていた。その時、店内を覗いたが、女将の姿も番頭の半兵衛の姿も見当たらなかった。奉公人の娘に声を掛けられても、別に用があるわけではないので、そのまま店を出てしまった。

 高価な陶器や様々なお茶道具が並べられた広い店を抜けると風流な庭園があった。今の時期、雪に埋もれている草津では考えられない事だが、見事な枝振りの梅の木には早くも花が咲いていた。

 三郎が梅の花に見とれていると半兵衛が、「どうぞ、こちらへ」と立派な屋敷に案内した。その屋敷の奥に大きな蔵がいくつも並んでいるのが見えた。

 二人は庭園に面した部屋に案内された。床の間には水墨画が掛けられ、綺麗な花が飾られてあった。

「いらっしゃいませ」と着飾った美しい娘が現れ、見事な手捌きでお茶を点ててくれ、二人に渡すと静かに部屋から出て行った。

「すごいですね」と三郎は娘の後ろ姿に見とれながら小声で言った。

「確かにすごい」と東光坊もうなづいた。「しかし、今度から気をつけなければいかんな。もし、ここが敵国じゃったら、今頃、殺されていたかもしれん」

「そうか‥‥‥そうですね」捕まった時の事を思うと恐ろしくなり、三郎は身震いをした。

「この立派な屋敷といい、小野屋が北条家の御用商人だという噂はどうやら本当らしいな」

「はい。でも、女将さんは俺に何の用があるんでしょう」

「さあな」と東光坊は庭に咲き誇る梅の花を眺めながら、お茶を飲んだ。

 女将が静かに現れた。決して派手ではないが、高級そうな着物をさりげなく着ていて優雅だった。

「小田原へようこそ」と女将は美しい顔で、ニコニコしながら言った。

「お久し振りです」と三郎は頭を下げた。

「善太夫様も三郎様が小田原にいらっしゃるなら、ひとこと言ってくれればいいのに、ほんと、水臭いのね」

「お屋形様、いえ、父上は小田原に行く事は知らないのです。ただ、旅に出ると言っただけで」

「あら、そうだったの。でも、会えてよかったわ。あなたに会わせたい人がいるのよ」

「えっ」と言いながら、三郎は東光坊を見た。

 東光坊は柄にもなく、緊張した面持ちで女将を見ていた。

「あなたは愛洲あいす移香斎いこうさい様を御存じかしら」と女将は聞いた。

「はい。陰流かげりゅうの流祖様で草津でお亡くなりになったとか」

「そう」と女将は満足そうに笑った。「移香斎様はね、あなたのお爺様、いえ、ひいお爺様かな。その人に随分とお世話になったらしいの。あなたに会わせたい人っていうのはね、移香斎様のお弟子さんなのよ。湯本家の跡継ぎのあなたが小田原に来たといえば、会いたがるに違いないわ」

「あの、そのお人は偉い武将なのですか」と三郎は女将に聞いた。北条家の偉い武将に会うなんて、何だか恐ろしかった。

 女将は三郎の気持ちを察したのか、優しく笑いながら首を振った。

「今はもう隠居してるのよ。七十を過ぎたお爺さんだもの」

「そうですか」三郎は少し安心した。

「ちょっと離れてるの。今から案内するわ。広いお屋敷だから、しばらくのんびりするといいわ。別に急ぐ旅じゃないんでしょ」

「はい、そうですけど」と三郎は東光坊を見た。

 東光坊はうなづいた。

「あなたは円覚坊えんがくぼう様の息子さんですよね」と女将は東光坊に聞いた。

「はい、そうです」と東光坊は答えた。いつもの師匠と違って、何だか様子が変だった。

「円覚坊様はわたしが善太夫ぜんだゆう様と出会った時からずっと、わたしの事を知ってるんですよ」

 女将は少し恥ずかしそうに笑った。

「そうなのですか」と東光坊は首を傾げた。

「あのう、父上とはどういう関係なのですか」と三郎は女将を見つめながら聞いた。

「そうね、話した方がいいかも知れないわね。これからも湯本家とはお付き合いして行かなくちゃならないし‥‥‥わたしが初めて善太夫様に会ったのは十三歳の時だったのよ。善太夫様は十五歳で、宿屋の御主人になるはずだったわ。その後、十六歳の時、もう一度、草津に行って再会したの。その時は半年近くも草津にいて、三郎様のお母様、おしづさんとも仲良しになったのよ。その時、わたし、善太夫様のお嫁さんになって草津に住みたいと思ったわ。でも、わたしは小野屋の女将を継がなければならなくなって、草津には行けなくなったの。善太夫様も父上様や兄上様が戦死なさって湯本家を継がなくてはならなくなって、お嫁さんを貰ったわ。わたしは善太夫様の事をきっぱりと諦めて、商売一筋に生きて来たのよ」

「母上の事も御存じだったのですか‥‥‥驚きました」

「四年位前かな、草津に行った時、お母様にもお会いしたんですよ。久し振りに昔話なんかしてね、楽しかったわ。でも、あの後、お父様が戦死なさって大変だったわね。立派な最期だったって聞いたわ。あなたもお父様に負けない武将になるのよ。善太夫様の養子になって湯本家の跡継ぎになったんだから、しっかりとやらなきゃ駄目よ」

「はい」と、うなづきながら、三郎は目の前にいる女将を眩しそうに眺めていた。母親と同じ位の年齢なのに、ずっと若く見えるのが不思議だった。

 

 

 

 小野屋の女将が三郎に会わせたいと言った、その人は北条家の長老と呼ばれている幻庵げんあんだった。

 幻庵は小田原から少し離れた久野くのという地に立派な屋敷を持っていた。小野屋の女将に連れられて、三郎と東光坊は幻庵の屋敷の門の前に立った。立派な門には鬼のような顔をした門番が太い棒を構えて立っていた。その門番が女将の顔を見ると急に顔を崩して、「いらっしゃいませ」と頭を下げた。

「いらっしゃる?」と女将が聞くと、

「はい、いつもの所に」と門番は答えて、意味もなくヘラヘラと笑った。

 女将はうなづくと、門には入らずに来た道をまた戻って行った。

「どこに行くのです」と三郎は不思議そうに女将の後を追った。

「幻庵様はあそこにはいないの。裏にもお屋敷があって、そっちにいるらしいわ」

「それじゃあ、あそこには息子さんが住んでいるのですね」

 女将は首を振った。

「幻庵様の息子さんは小机城(横浜市)の方にいるのよ。その息子さんは次男で新三郎様っていうんだけど、本当はその新三郎様のために、あのお屋敷を建てたの。でも、長男の三郎様が戦死してしまって、新三郎様が小机城を継がなくてはならなくなっちゃったの。去年までは幻庵様もあそこに住んでいたんだけど、奥方様がお亡くなりになってから、裏のお屋敷の方にいる事が多いみたい。裏のお屋敷には上野こうづけから連れて来たお妾さんと娘さんが住んでいるのよ」

「上野から?」

「そうよ。幻庵様は越後の長尾ながお弾正だんじょう(後の上杉謙信)様が攻めて来るまで、八年間も上野の国にいたの。その時、知り合って連れて来たんですって」

 裏の屋敷は広い敷地内にあったが、表に建つ武家屋敷とはまったく違う、大きな農家のような建物だった。しかも、主の幻庵は職人のような格好をして土間に座り込み、尺八を作っていた。髷を結った髪も長い髭も真っ白だった。

 女将が声をかけると顔を上げ、

「おお、ナツメか、珍しいのう。どうした」と機嫌のいい声で言った。

 しわに刻まれたその顔は、人のよさそうな職人の親方のようだった。

「伯父様、お客様を連れて参りました」

「なに、客じゃと?」

 幻庵は三郎と東光坊を見た。ほんの一瞬だったが、幻庵は鋭い目付きになった。

「草津から来られた湯本三郎右衛門様です」

「なに、草津の湯本‥‥‥あの湯本殿か」

「そうです。移香斎様がお世話になった湯本梅雲ばいうん様のひ孫さんです」

「そうか、よく来なすった」と幻庵は目を細めて、嬉しそうに三郎を見上げた。

「湯本です」と言って、三郎は頭を下げた。

「わしも草津には行きたいと思っておったんじゃ。廐橋(前橋)にいた頃、何度も行こうと思ったんじゃが忙しくて行けなかった。そうか、梅雲殿のひ孫さんか‥‥‥梅雲殿の事は移香斎殿より、よく話を聞いたもんじゃ。そうか、草津から来なすったか」

 幻庵は三郎を歓迎してくれた。幻庵はしきりに移香斎と曾祖父、梅雲の話をしてくれた。移香斎も梅雲も三郎が生まれる前に亡くなってしまったので、よく知らなかった。それでも、適当に相槌を打ちながら三郎は話を聞いていた。

 裏庭の方から女と若い娘がやって来た。

「あら、ナツメさん、いらっしゃい。そんな所で話し込んでいないで、どうぞ、お上がり下さい」

 三郎は若い娘をポカンとした顔で見つめていた。その娘はまるで、天女のように綺麗な娘だった。

「わしの娘の琴音ことねじゃ」と幻庵が言った。

「えっ」と思わず、三郎は言ってしまった。どう見ても、孫にしか見えなかった。

「いい娘じゃろう」と幻庵は陽気に笑った。

 琴音は恥ずかしそうに母親の後ろに隠れながら三郎を見ていた。

 囲炉裏の間に女将が小田原から運ばせた豪勢な料理が並び、江川酒という銘酒も出された。三郎はまだ、酒に慣れていなかったが、何事も修行だと言われ、付き合う事にした。

 幻庵は酒が好きと見えて、始終、笑みをたたえながら、うまそうに飲んでいた。

「そなたを見ていると久し振りに、わしも若い頃を思い出したわい」と幻庵は楽しそうに言った。

「伯父様が移香斎様と旅をしたって事は聞いてるけど、どんな旅だったの」女将が幻庵にお酌をしながら、興味深そうに聞いた。

「うむ、あれは確か、わしが十五の時じゃった。そなたはいくつじゃ」

「十五です」と三郎は答えた。

「そうか。そなたと同じ頃だったんじゃな。その頃、わしは箱根権現におってのう。親父(早雲)に箱根権現の別当職べっとうしきに就けって言われてたんじゃ。わしもそのつもりで修行してたんじゃが、十五になった春、親父と移香斎殿がやって来て、しばらく旅に出て来いと言ったんじゃ。わしは移香斎殿に連れられて旅に出た。途中、命を狙われたり、色々な事があったが楽しい旅じゃったわ。そうじゃ、そなたは美濃(岐阜県)の斎藤道三を知っておるかな」

「いいえ、知りません」

「そうか。そうじゃろうの。そなたが生まれた頃、戦死してしまったわ。美濃のマムシと恐れられた大した武将だったんじゃが、自分の伜に殺されてしまった。惜しい事じゃ」

「えっ、自分の伜に殺されたのですか」琴音に見とれていた三郎は驚いて幻庵を見た。

 幻庵は目を細めて、遠い昔の事を思い出していた。

「そうじゃ。しかし、娘婿がかたきを討ってくれた。娘婿というのは尾張(愛知県)の織田弾正(信長)じゃ。奴は七年前に駿河(静岡県)の今川治部大輔じぶだゆう(義元)を倒しおった。なかなか、やるかもしれんぞ。その道三じゃが、一緒に旅した仲なんじゃよ。奴の親父が移香斎殿の弟子じゃったんでな、美濃に行った時、わしの連れに丁度いいと道連れになったんじゃ」

「斎藤道三様のお父上様って油売りだったんでしょ」と女将が言った。「父子二代で美濃の国を乗っ取ったって評判になったわ。その道三様と一緒に旅したなんて初耳だわ」

「そんな昔の事なんか思い出してる暇なんかなかったからのう」

「それからどうしたんです。美濃からどこ行ったの」

「美濃から近江おうみ(滋賀県)の飯道山はんどうさんじゃ」

「飯道山て、忍びの発祥の地なんでしょ」

「そうじゃ。飯道山では移香斎殿は神様扱いじゃった。何しろ、忍びの術を考えて教えたのが移香斎殿じゃからな。わしらは移香斎殿しか知らない山の中の岩屋で一冬、修行に励んだんじゃ」

 幻庵の若い妻も娘の琴音も御馳走をつまみながら、幻庵の話を興味深そうに聞いていた。東光坊は酒をグイグイ飲みながら黙って聞いている。三郎は琴音をチラチラ見ながら慣れない酒を飲んでいた。

「その後、大峯山に登ったり、石山本願寺に行ったり、堺港にも行った。勿論、京の都にも行った。それから、播磨(兵庫県)、安芸(広島県)、周防(山口県)、出雲(島根県)へと旅をしたんじゃ。移香斎殿のお弟子さんがあちこちにいて活躍しておったのう。おう、そういえば、信濃の飯縄山にも行った。そこにも八郎坊殿というお弟子さんがおったわ」

「八郎坊殿はまるで天狗のようなお人だったと聞いております」と東光坊が初めて口を挟んだ。

「おっ、そなた、知っておるかね」幻庵は嬉しそうな顔をして東光坊を見た。

「いえ。わたしは知りませんが、お山の語り草になっております」

「うむ、そうじゃろうの。あの辺りに陰流が広まったのは八郎坊殿のお陰じゃ。そして、上野の上泉にも行った。移香斎殿の最後のお弟子である上泉かみいずみ伊勢守いせのかみ殿の屋敷に行ったんじゃ。その時、伊勢守殿は生まれたばかりの赤ん坊じゃった。あれから五十年後、わしらが上野に攻めて行く事になるとは、あの時、夢にも思っていなかった」

 幻庵の話は夜が更けるまで続いた。琴音と母親は途中から席を外した。三郎は幻庵の話を聞きながらも、琴音の事ばかり考えていた。その後、どうなったのか覚えていない。気がつくと朝になっていて、知らない所に寝かされていた。

「おい、いつまで寝てるんだ」

 師匠の声で目が覚めた。声のした方を見ようとすると、頭がズキーンと痛くなった。

「飲み過ぎじゃ」と東光坊は縁側に座って笑っていた。

「ここはどこです」三郎はやっとの思いで上体を起こした。

「離れじゃ。上泉伊勢守殿が上野を去って、ここに来た時、家族で暮らしていたそうじゃ」

「上泉伊勢守‥‥‥」と言って三郎は頭を抱えた。「昨夜、幻庵殿も言っていたけど、その伊勢守って誰なんです」

「何じゃ、お前、知らんのか。廐橋城の東にある上泉城の城主だった武将じゃ。愛洲移香斎殿の最後のお弟子で、陰流をさらに工夫して新陰流を編み出したお方なんじゃ。草津のお屋形様も伊勢守殿のお弟子なんじゃよ」

「父上が‥‥‥」

「そうじゃ。わしは直接会った事はないがの、親父から話はよく聞いている。偉いお人だそうじゃ」

「今はもう、ここには住んでいないんですか」

「何じゃ、お前、幻庵殿の話を聞いていなかったのか」

「いえ‥‥‥」

「琴音殿の事ばかり考えておったな」と東光坊は笑った。

「いえ、そんな‥‥‥」図星を言われて、慌てて否定しようと思ったが、頭がズキーンと痛くなり、言葉が出て来なかった。

「伊勢守殿は今、京都におられるそうじゃ。向こうで道場を開いて、新陰流を広めていなさる。将軍様も伊勢守殿のお弟子になられたというからな、道場も賑わってるらしい」

「へえ、将軍様も‥‥‥」

「その将軍様も殺されてしまって、新しい将軍様は四国にいるらしいが、京都には入れんそうじゃ。上方でも戦が絶えんようじゃのう」

 三郎は驚いた。将軍様というのは武士の中で一番偉いお人だと聞いている。そんなお人が殺されてしまうなんて信じられなかった。

「将軍様が殺されたのですか」と三郎は聞き返した。

「ああ、そうじゃ」と東光坊は何でもない事のように答えた。今の世の中、何が起こっても不思議はないという顔をしていた。

「関東におられる公方くぼう様のように、将軍様も実力のある武将に担がれるだけの存在になってしまったらしいな。わしも京都の事は詳しくは知らんが、権力争いが続いているんじゃろう」

「京の都もいくさなんですか‥‥‥」

「今はどこも戦じゃ。そのうちに強い武将が出て来て、天下をまとめる事になるとは思うが、まだまだ、先の事じゃろうな」

「そうなんですか‥‥‥」

「冷たい水で面を洗って来い」

 その日一日、三郎は調子が悪かった。東光坊も旅に出るとは言わず、のんびりと過ごした。小野屋の女将は朝早く小田原に帰り、幻庵も用があると言って小田原に行ったという。 囲炉裏の側で横になっていると琴音がやって来た。

「具合が悪いと聞きましたけど大丈夫ですか」

 琴音は心配そうに三郎の顔を覗いた。

 三郎は慌てて起きるとかしこまって座った。

「大丈夫です。飲み過ぎただけです」

 琴音は三郎を見て笑った。その笑顔は何とも言えずに可愛かった。ずっと、琴音を見ていたいと思うのに、胸がドキドキして、三郎はうつむいた。

「あたしも上野の国で生まれたんですよ」と琴音は言った。

「えっ」と三郎は顔を上げた。

「平井(藤岡市)のお城で生まれたんですって、その後、廐橋のお城に移って、六歳の時、ここに来たの。でも、あまり覚えてないわ」

「そうなんですか‥‥‥」

「三郎様、草津ってどんな所なんです。父上様からお湯が湧き出ている所だって聞きましたけど、本当なんですか」

 琴音は興味深そうな顔をして三郎を見つめた。吸い込まれてしまいそうな大きな目がキラキラと輝いていた。

「ええ、本当です」と三郎は琴音を見つめながら答えた。でも、それ以上は無理だった。視線をそらして囲炉裏の火を眺めた。

「村の真ん中に湯池(湯畑)っていうのがあって、お湯がブクブクと湧き出して、滝になって流れているんです」

「えっ、お湯の滝があるんですか」

 チラッと琴音を見ると、目を丸くして驚いていた。

「お湯の滝があって、みんな、その滝に打たれるんです。そうすれば、どんな病でも治ってしまうんです」

「すごい‥‥‥あたしも行ってみたいわ」

 三郎は顔を上げて琴音を見ると、「ぜひ、来て下さい。琴音殿が来てくれたら、もう大歓迎です」と言って、知らずに笑っていた。

 琴音は沈んだ顔をして、「行きたいけど、草津は遠すぎます」と言った。

「ええ、遠いですね‥‥‥でも、小野屋の女将さんに頼めば大丈夫ですよ」

「そうですね。母上様と一緒に行きたい」

 琴音に笑顔が戻った。三郎は嬉しくなって、思わず琴音の手を取った。

「ぜひ、来て下さい」

 頭が痛いのも忘れて、三郎は琴音と一緒に楽しい時を過ごした。

 琴音に連れられて広い屋敷内も見て回った。表に建つ立派な武家屋敷も見た。裏の屋敷には侍などいなかったのに、当然の事だが、表の屋敷には幻庵の家来たちが大勢いた。着飾った侍女たちもいる。表の屋敷では琴音はお姫様と呼ばれて大切に扱われた。改めて、琴音が北条家のお姫様だという事を思い知らされ、三郎の心は沈んだ。

 裏の屋敷の西側は森になっていて、その中にくら作りの職人たちが働いている小屋があった。幻庵は鞍作りの名人で、幻庵の指揮のもとに職人たちは働いているという。森の中には大きな池もあり、その側には茶室の付いた豪華な屋敷が建っていた。北条家のお屋形様が時々、遊びに来るという。

 琴音がお屋形様の事を話すのを、三郎はただ呆然と聞いていた。お互いの身分の違いをまざまざと感じていた。

 その日、東光坊はどこに行っていたのか、日が暮れてから戻って来た。

「体調は戻ったか」と東光坊はニヤニヤしながら聞いた。

「駄目です。余計に頭が痛くなりました」と三郎はうなだれた。

「そいつはな、恋のやまいというものじゃ」

 三郎を馬鹿にしたような東光坊のニヤニヤ笑いは止まらなかった。それを怒る気力も三郎にはなかった。

「恋の病‥‥‥そうかもしれません」

「琴音殿はいい娘じゃ。お前とはお似合いだが、ちと無理じゃな。幻庵殿のお考えによって、こんな所で暮らしているが、本当ならお城の奥で、大勢の侍女に囲まれて暮らしておられるお姫様じゃ。幻庵殿は北条家のお屋形様の叔父上に当たるお人じゃ。その娘の琴音殿はお屋形様とは従兄妹同士という間柄になる。湯本家とは釣り合いが取れん」

「わかっています」

「辛いかもしれんが忘れる事じゃ。明日、旅に出るぞ」

「えっ、明日ですか‥‥‥」

「そうじゃ。ここにいたら、いつまで経っても恋の病は治らん」

 次の日の朝、三郎は琴音と別れて旅に出た。

 別れる時、琴音は寂しそうな顔をして、「きっと、草津に行きます」と小声で言った。

 三郎はうなづき、「待っています」と答えた。

 琴音を見つめながら、もう二度と会えないだろうと覚悟していた。

 

 

 

 三郎の足取りは重かった。東光坊が時々、話しかけて来ても、ほとんど聞いてはいなかった。頭の中は琴音の事でいっぱいだった。

 相手は北条家のお姫様、どうする事もできないとわかりながらも諦める事はできなかった。まだ旅に出たばかりだというのに、もう旅なんかしたくない。早く、故郷の草津に帰りたかった。

 ふと気がつくと賑やかな町中にいた。小田原の城下に戻って来たようだった。

 東光坊はどこに行くのか、さっさと歩いて行く。三郎は東光坊の足元を眺めながら、黙って後を追っていた。

 東光坊の足が急に止まった。三郎は顔を上げた。

「ちょっと、ここに寄って行く」と言って東光坊は目の前にある屋敷を見上げた。

 大きな旅籠屋のような建物で『孔雀亭くじゃくてい』という看板が掲げてあった。

 三郎はただ、うなづいただけで、東光坊の後を追った。何か用があって寄るのだろうと思っていたのに、家の中の雰囲気は予想を裏切っていた。華やかな琴の調べが流れていて、着飾った若い娘が何人も出て来て、二人を迎えた。

「ここは‥‥‥」と三郎は東光坊の顔を見た。

 東光坊はうなづき、「二、三日、ここで遊んで行くぞ」と笑った。「酒の修行を積まなければならん。それと、女子おなごもな」

 三郎と東光坊は豪華な部屋に通された。畳が敷き詰められ、襖には華麗な絵が描かれてある。床の間には梅の花が咲き、香炉からは甘い香りが漂っていた。

 三郎は去年、元服げんぶくした時、遊女屋に行った事があった。草津では元服すると白根山に登り、硫黄が吹き出している岩の中を歩き回る地獄巡りを経験して、遊女屋で精進しょうじん落としをする習わしがある。その時、行った遊女屋は草津一の遊女屋だったが、とても比べられない程、ここは最高級な遊女屋に違いなかった。

「世の中を知るにはな、こういう所も経験しなけりゃならん。ただし、こんな豪華な所は今回が最初で最後じゃ。遊女屋にもピンからキリまである。そのうち、キリも経験させてやる」

「どうして突然、こんな所に来たのです」と三郎は豪華な部屋の中を見回しながら聞いた。

「旅に女子は付き物じゃ。他所よその土地に来て、その土地の女子を抱くのは旅の醍醐味だいごみというものじゃ」

 東光坊は楽しそうにニヤニヤしていた。

「遊ぶために旅に出たんじゃありません」と三郎は東光坊を睨んだ。琴音と別れたばかりだというのに、こんな所に連れて来るなんて、たとえ師匠でも許せないと思った。

「そう堅い事を言うな。人の上に立つ者は酸いも甘いも知らなくてはならん。今のうちに遊んでおく事じゃ。お屋形様になったら遊びたくてもそんな暇などないぞ」

 三郎は膨れっ面で、東光坊を睨んでいた。

「実を言うとな、小野屋の女将に頼まれたんじゃ。二、三日後に駿河に向かう船が出るそうじゃ。その船にお前を乗せたいらしい。それまで、幻庵殿の屋敷にいてもらうつもりだったが、お前と琴音殿の様子が変になっちまったんでな、ここで遊んでいてくれという事になったんじゃ。女将としては、お前と琴音殿が仲良くなってもいいと思っているんじゃが、幻庵殿が琴音殿を離さんじゃろうとの事じゃ。お前が養子となって北条家に仕えるなら何とかしようもあるが、お前は湯本家を継がなくてはならん。幻庵殿が琴音殿を草津に嫁がせる事は絶対に考えられんそうじゃ。そこで早いうちに二人を引き離した方がいいと小田原一の遊女屋を紹介してくれたんじゃ。わしもこんな豪勢な所に来たのは初めてじゃ。たっぷりと楽しもうではないか」

 三郎は仕方なく、うなづいたけれど、琴音以外の女の事なんて考えられなかった。

 豪華な料理が並び、また、酒が並んだ。二日酔いの辛さを思い知った三郎だったが、琴音を忘れるために飲まずにはいられなかった。

「おいおい、いくら修行だからって飲むのが早すぎるぞ。まだ、真っ昼間じゃ。酔い潰れるには早すぎる。ゆっくりと飲め」

「修行です」と言いながら、三郎はガブガブと酒を飲んだ。

 しばらくして、遊女が二人入って来た。着飾った遊女はこの世の物とは思えない程に美しかった。三郎はもう酔っ払ってしまったのかと目をこすってから、改めて見た。紛れもない現実だった。

 一昨日、琴音に会って、こんな綺麗な娘がこの世にいるのかと呆然となった。そして、今、また、綺麗な娘と会った。草津にいた頃、こんな美人なんて見た事もなかったのに、小田原に来た途端に三人もの美人に会った。小田原にはこんなにも美人が多いのかと三郎は夢の中にいるような気分だった。

 浅香あさかと名乗った遊女が三郎の隣に来て、酌をしてくれた。何とも言えないいい匂いに包まれた。千歳ちとせと名乗った遊女は東光坊の隣に行った。

「さすがじゃのう。二人とも目の覚めるような別嬪べっぴんじゃ。小田原は本当にいい所じゃのう」 東光坊はでれっとして、ニヤニヤしながら酒を飲んでいた。

「お客様はどちらからおいでですか」と千歳が笑顔を浮かべながら聞いた。

「上野の国じゃ」と東光坊が答えた。

「まあ」と言って驚いたのは三郎の隣にいる浅香だった。「あたし、上野の国で生まれたんですよ」

 あれ、と三郎は思った。琴音もそう言っていたのを思い出した。すると、小田原に美人が多いのではなくて、上野に多いのだろうかと不思議に思った。

「上野のどちらからいらしたのですか」と浅香は聞いた。

「草津じゃ」と東光坊が言った。「そなたはどちらじゃ」

「倉賀野(高崎市)のお城下です」

「なに、倉賀野? 倉賀野からどうして小田原に来たんじゃ」

 三郎もその事が知りたかった。倉賀野の城下は小田原に来る途中に通ったので知っていた。箕輪城の近くで、あんな遠い所から小田原まで来たなんて信じられなかった。三郎は浅香の横顔を見つめながら答えを待った。

 浅香は三郎の視線に気づいて、三郎の方を見ると意味もなく笑った。

「戦で両親を亡くして、家も焼けてしまって、焼け跡を泣きながらウロウロしていたら助けられたのです」

「助けられた?」

「はい。小野屋さんに助けられたのです」

「なに、小野屋の女将に助けられたのか」

「はい」

「あたしもよ」と千歳が言った。「あたしは武蔵の松山で助けられたのです」

 松山の城下も見て来た。あそこも遠かった。

「ほう、小野屋の女将は戦場で娘を拾って遊女屋に売っているのか」

 貧しい家の娘たちが遊女屋に売られるという事は三郎も知っていた。娘たちが人相の悪い男たちに連れられて草津にやって来て、遊女屋に売られるのを見た事があった。人を売り買いするなんて信じられなかったが、当然の事のように行なわれていた。しかし、小野屋の女将がそんな事をしているなんて考えたくはなかった。

「いいえ、違います。そうじゃありません」と千歳は言った。

 三郎はホッとした。

「助けられた子供たちはみんな、女将さんがやっている孤児院に入れられるのです」

「何じゃと、あの女将は孤児院もやっておるのか」

「はい。戦で身寄りを失った子供たちを助けて育てているのです」

「ほう。育てて、そなたたちのようないい女子は遊女にするわけか」

「そうなんですけど、色々とお世話になっているからしょうがないんです。あんな酷い目に会って、おなかをすかしてウロウロしてたのを助けてもらったんだもの。あの時、助けてもらわなかったら、きっと、死んでいたに違いないわ」

「いくつだったんじゃ、助けられた時」

「あたしは十一、浅香ちゃんは八つの時よ」

「そうか、辛い目に会ったんじゃな」

「あたしたちなんかよりもっとひどい目に会った子供たちもいっぱいいます」

 三郎はぼうっとして東光坊と千歳のやり取りを聞いていた。あの女将が戦場で孤児を助けていたなんて思いもしない事だった。そして、目の前にいる二人の女が孤児で、辛い思いをして来たなんて信じられなかった。三郎が酒を飲み干すと、すかさず、浅香が酌をしてくれた。

「ありがとう」と言って、三郎は浅香を見た。

 浅香は微笑を浮かべ、キラキラした目で三郎を見ていた。

「両親は殺されたのですか」と三郎は浅香に聞いた。言ってから、そんな事を聞かなければよかったと後悔した。

「はい、殺されました」と浅香は少し悲しそうな顔をした。「突然、軍勢が攻めて来て、家を焼かれて逃げたんですけど、みんな殺されて‥‥‥あたしだけ助かりました。でも、どうしたらいいのかわからなくて、焼け跡を逃げ回っていたんです。そしたら捕まって、殺されると思ったんですけど小田原に連れて来られて、孤児院に入れられたのです‥‥‥もうやめましょ、こんなお話」

「そうよ。ねえ、草津の事を話して」

 東光坊が面白おかしく草津の事を話すのを二人は喜んで聞いていた。

 三郎は隣の浅香をチラチラ見ながら酒を飲んでいた。浅香と話がしたいと思っても何を話していいのかわからず、ただ、ひたすら酒を飲んでいて、また、酔い潰れてしまった。途中から記憶がなくなり、気がつくと、すでに夜になっていて、別の部屋で豪華な布団の中で寝ていた。また、頭がズキンズキンした。

 喉が渇いて起き上がろうとした時、隣に寝ている浅香に気づいた。三郎は目をこすって浅香の顔を見つめた。可愛い顔をして眠っている。昼間、酒を飲んでいた時は自分よりもかなり年上に見えたのに、寝顔はあどけなく、まだ子供のように見えた。

 浅香が目を開いた。

「大丈夫ですか」と笑った。

「はい。でも、喉が渇いて‥‥‥」

 浅香は起き上がり、枕元においてあった水入れから水を注いでくれた。

 水を飲みながら、行燈の薄明かりの中、三郎は浅香を見ていた。浅香はさっきとは違って寝巻姿だった。自分もいつの間にか着替えさせられていた。

「今、何時なんどきです」と三郎は聞いた。

「もう、夜中ですよ」

「俺はいつから寝てるんです」

「夕方からずっと」と言いながら、浅香はクスクスと笑った。

 三郎は部屋の中を見回した。薄暗くてよく見えないが、綺麗な着物が衣桁いこうに掛けてあり、部屋の隅に琴が立て掛けてあった。小さな火鉢が一つ置いてあり、部屋の中は暖かかった。正月の末だというのに、こんなにも暖かいなんて、草津では考えられない事だった。

 浅香は布団の上に座って、三郎を見つめていた。寝巻姿の浅香は眩し過ぎた。三郎は照れ隠しに師匠の事を聞いた。

「東光坊様は別のお部屋で千歳さんと一緒です」

「そうですか」

 千歳の隣でニヤニヤしながら酒を飲んでいた師匠を思い出した。いつも厳しい顔をしている師匠のあんな姿を見るのは初めてだった。鼻の下を伸ばして千歳を抱いている師匠の姿を想像して、三郎は知らずに笑っていた。

「どうしたんですか」と浅香が不思議そうな顔をして聞いた。

「いえ、何でもありません。何だか、夢の中にいるようで」

「夢かもしれませんよ」と浅香は笑った。「でも、飲み過ぎですよ。もっと、お酒を楽しまなくっちゃ」

「お酒を楽しむ?」

「そう。お話をしながら、ゆっくりと飲むの。唄を歌ったりしてね」

「唄なんて知りません」

「あたしが教えてあげます」

「はい‥‥‥あのう、浅香さんはいくつなんですか」

「あなたよりも一つ年上ですよ」

「すると、十六?」

 浅香はうなづいた。

「もっと年上かと思いました」

「あたしもあなたが十五だと聞いて驚きました。体も大きいし十八くらいだと思っていました。行者ぎょうじゃさんの格好をしてるけど本当はお侍さんなんですってね」

「師匠から聞いたんですか」

「いいえ、小野屋の女将さんから聞きました。大切なお客様だから粗相のないようにって言われて‥‥‥あたし、まだ、ここに来たばかりで、どうしたらいいか自信なかったんですけど、あなたでよかったわ」

「そうだったのですか‥‥‥それじゃあ、俺の相手に浅香さんを選んだのも女将さんなんですか」

「そうです」

「まいったなあ。女将さんには何から何までお世話になっちゃって‥‥‥あのう、お湯に浸かりたいんですけど、どこです」

 浅香はおかしそうに笑った。

「ここは草津じゃありません。いつでもお湯は沸いてないんですよ」

「あっ、そうか‥‥‥すみません。頭が痛くてお湯に入れば治ると思ったんですけど」

「いいわ。特別に頼んであげる」

「そんな、こんな夜中に、いいですよ」

「大丈夫、待っていて」

 風呂の湯が沸く半時はんとき(一時間)程の間、三郎は浅香を抱いた。そして、二人で風呂に入った。

 女の裸を見るのは初めてではなかった。草津の湯小屋は混浴で、しかも、外からも丸見えだった。女の裸なんか子供の頃から見慣れているのに、浅香の裸は思わず、見とれてしまう程に美しかった。

「いやだ。そんなに見ないで」浅香は恥ずかしがって三郎を軽くたたいた。

 三郎は思わず浅香を抱き締めた。幸せだった。このまま、ずっと浅香と一緒にいたいと思った。

 頭痛もいつしか治っていた。風呂から上がった三郎は夜が明けるまで浅香を抱き続けた。

 浅香に夢中になった三郎は、朝から晩まで飽きもせずに浅香を抱いていた。

 浅香から酒を楽しく飲む事を教わった。流行り唄も教わった。浅香の弾く琴を聞いたり、華麗な舞を見たり、囲碁や将棋も教わった。

 浅香は色々な事を知っていた。最高級の遊女屋には身分の高いお客が多く、どんなに偉いお客が来ても楽しませなければならず、様々な知識は勿論、身につけている芸も一流だった。わずか十六歳の娘がそれだけの事を身につけるのは並大抵な努力ではなかった。三郎は浅香を尊敬すると共に、益々、惹かれて行った。

 『孔雀亭』には四泊した。まさしく、夢の中にいるようだった。

 浅香との別れは辛かった。別れたくなかったけれど、立派な武将になって下さいと言われ、いやだ、ここにいたいとは言えなかった。

 小野屋の船の乗って海の上に出た時、その大きさに圧倒され、すごいと感激した。

 青く広々とした海、それは草津にいた頃、話に聞いて想像していた海よりもずっと大きく、ずっと綺麗だった。しかし、その感動よりも浅香との別れの辛さの方が大きかった。

 浅香の笑顔がいつまでも、ちらついていて離れなかった。

 


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戦国草津温泉記 湯本三郎右衛門

上泉伊勢守

 

 

 

 

 船が伊豆半島を越えると、目の前に富士の山が見えて来た。

 雪をかぶった富士山は神々しい程に眩しかった。三郎はしばし、その美しさに見とれた。

「三郎、あそこに登ってみるか」と東光坊が横に来て聞いた。

「えっ、登れるんですか」

「登れん山はない。だが、今の時期は難しい。頂上は大雪じゃからな、夏まで待つしかない」

「登ってみたいです」

「うむ。だがな、富士山は登るよりも遠くから眺めていた方がいいかもしれん。山の中に入ってしまうとあの美しさはわからなくなる」

 三郎は富士山の華麗な姿を見つめながらも、浅香の事を思っていた。浅香にも富士山を見せてやりたいと思っていた。

 予定では江尻津(清水港)まで船で行くつもりだったが、沼津で降りる事にした。一気に船で行くよりも、富士山を眺めながら歩きたかった。

 駿河の国(静岡県中東部)は今川家の領国で、今、今川と北条と甲斐(山梨県)の武田は同盟を結んでいた。草津の湯本家は武田に属しているので、ここも味方の国だった。

 右手に富士山、左手に海を眺めながら、二人は駿河の都、駿府(静岡市)へと向かった。

 今川家のお屋形様(氏真)がいる駿府も小田原に負けない程、賑やかな都だった。小田原の城下ではあまり見られないお公家さんたちも多く住み、何となく雅な雰囲気があった。

「どうじゃ、琴音殿の事は忘れられたか」

 浅間せんげん様の門前にある宿坊に着いた時、東光坊はそう聞いた。

「琴音?」

 浅香に会ってから、琴音の事はすっかり忘れていた。

「忘れたらしいな、よかった、よかった」

「でも、浅香の事は忘れられません」

「ほう、今度は浅香か。お前も結構、浮気者じゃな」

「そんな、違いますよ」三郎はむきになって否定した。

 東光坊は笑いながら、「どうじゃ、浅香を忘れるために、今度は駿河の女子でも抱いてみるか」とからかった。

「浅香のような女は滅多にいません」

「まあ、そうじゃろうの。あれだけ高級な遊女は滅多におらん。お前、揚げ代がいくらだったか知ってるか」

「そんなの知りません」

「わしらにはとても払えん程、高価じゃ。わしがお屋形様から預かって来た一年分の銭でも足らんのじゃ。小野屋の女将さんに感謝して、浅香の事は夢だったと諦める事じゃ」

「いやだ、俺は諦めない。琴音を諦めて、浅香まで諦めろと言うのか」

「しょうがないんじゃ。どうしても諦めきれなかったら、お前がお屋形様になった時、迎えに行ってやる事じゃな。身請けするにも莫大な銭が掛かるが、お屋形様になればできない事もあるまい」

「俺は諦めない。浅香を絶対に草津に呼んでやる」

「呼んでどうする?」

「妻にする」

「ほう、それもいいじゃろう。まあ、頑張れ」東光坊は三郎を見ながら鼻で笑った。

 三郎はブスッとした顔をして、東光坊を睨んでいた。

 駿府では遊女屋にもよらず、大井川を渡って遠江とおとうみの国(静岡県西部)に入った。ここも今川の領国だった。

 遠江の国を抜けると三河の国(愛知県中東部)だった。三河は徳川家の領国で、徳川家は美濃(岐阜県中南部)と尾張(愛知県西部)を領する織田家と同盟を結んでいた。そして、武田家と織田家も同盟を結んでいるので、ここも味方の国と言えた。三河、尾張と抜け、二人は伊勢の国(三重県北部)に入った。

 伊勢には北畠氏がいた。北畠氏は武田家にとって利害関係はなかった。敵でも味方でもなく、二人は飯縄山の行者として、伊勢神宮を参拝した後、大和の国(奈良県)へと向かった。

 のんびりと歩いて来たので、吉野に着いたのは桜が咲き誇る三月の初めになっていた。

「いいか、覚悟しておけよ」と蔵王堂に参詣した後、東光坊はいつになく厳しい顔をして三郎に言った。「大峯の奥駈けは非常につらい修行じゃ。いつまでも、女の事をくよくよ考えている奴には勤まらんぞ。ついて来られないようなら山の中に置いて行くからな」

 大峯山を登るのが今回の旅の目的だった。山伏なら誰でも一度は大峯山を登らなくては一人前とは認めてもらえなかった。三郎は山伏ではないが、草津の白根明神の山伏たちから大峯山の話を聞き、ぜひ、一度、登ってみたいと思っていた。

 さすが、大峯山は山伏の聖地だった。各地から山伏たちが大勢、吉野に集まって来ている。また、山伏でなくても、先達せんだつと呼ばれる山伏に連れられてやって来た信者も多かった。

 飯縄山の宿坊しゅくぼうに入った東光坊と三郎は身を清め、真言しんごんを唱えると、夜明けと共に山の中へと入って行った。

 あちこちにある行場ぎょうばを巡りながら、山の奥へと入って行く。細い山道を錫杖を突きながら、ただひたすら歩く。時には険しい岩をよじ登り、落ちたら谷底に真っ逆さまという狭い尾根道を行く。

 東光坊の足は速かった。追いかけて行くのがやっとで、浅香の事ばかり考えていた三郎もそれどころではなくなって来た。汗びっしょりになり、必死で山道を歩いていた。

 日暮れ時より大分早く、山頂に着いた。山の頂上にも大きな蔵王堂が建ち、宿坊がいくつも並んでいた。

 どうして、こんな山の上に、こんな大きな建物があるのか不思議だった。山頂にある行場を巡るとその日の行は終わった。

 夕日を眺めながら汗を拭いていると、どこかに行っていた東光坊が戻って来た。

「どうじゃ、いい気分じゃろう」

「はい。何かこう、気分がすっきりしました」

「うむ。わしがここに来たのは三度目じゃ。来る度に、益々、この山に惹かれる。あちこちで戦をやっているというのに、この賑わいはどうじゃ。大したもんじゃな」

「すごい山です。さすが、本場ですね」

 三郎は感激していた。来てよかったと心の底から思っていた。

「うむ。だが、まだ序の口じゃ。これからまだ幾つもの難所がある」

「えっ、ここが大峯山じゃないんですか」

「大峯山というのはな、幾つもの山が集まって大峯山ていうんじゃよ。ここは山上さんじょうケ岳じゃ。この先に大普賢岳だいふげんだけ行者還岳ぎょうじゃかえりだけ、明星ケ岳、釈迦ケ岳、大日岳、行仙岳、仙ケ岳、玉置山と続く。玉置山を下りるとようやく熊野じゃ。まだまだ先は長いぞ」

「大峯山てそんなにも大きかったのですか」

「そうじゃ。これから奥駈けの行が始まるんじゃよ」

 それから、およそ三ケ月余りもの間、二人は大峯山中にいた。熊野本宮までの奥駈け行は七日で終わったが、その後、再び、山の中に入り、岩屋で暮らしながら武術の修行に励んだ。

 三郎は十一歳になった四月、草津にある白根明神に入り、武術の修行を始めた。当時はまだ、武術を教える道場は少なく、山伏から教わる事が多かった。草津では白根明神の山伏が侍の子弟を集めて教えていた。

 三郎は草津のお屋形様である湯本善太夫の甥だった。父親は善太夫の義弟で、善太夫を助けて戦で活躍していた。三郎も父親の跡を継いで立派な武将になるため、白根明神に入って武術の修行に励んだ。ところが、三郎が十三歳の九月、父親が戦死してしまった。本来なら三郎が父親の跡を継ぐべきだったが、十三歳の三郎では、この戦乱の時期、心もとないと父親の弟、助右衛門が跡を継ぐ事になってしまった。三郎は悔しかった。しかし、翌年の春、思いもかけない幸運が訪れた。

 お屋形様の善太夫が三郎を養子にして、お屋形様を継いでほしいと言って来たのだった。善太夫には跡を継ぐべき男子がいなかった。その時、善太夫は三十六歳、正妻の他に側室そくしつを二人持ち、娘は二人いた。この先、跡継ぎが生まれる可能性もあったが、三郎の父親のように、いつ戦死するともわからないので、三郎を跡継ぎに決めたのだった。

 跡継ぎになった三郎は元服して、父親と同じ三郎右衛門を名乗った。そして、善太夫のために働いていた飯縄山の山伏、東光坊から改めて武術を習った。一年間、東光坊の厳しい修行に耐え、世の中を見るために旅に出たのだった。

 三郎が修行している武術を陰流という。北条幻庵の師匠だった愛洲移香斎が編み出した武術だった。移香斎はすでに亡くなっていたが、陰流は各地に広まっていた。移香斎の弟子、八郎坊が飯縄山に来て、山伏たちに教えたため、信濃から上野にかけても広まり、父親も義父の善太夫も陰流を身に付けていた。また、移香斎は北条氏の初代、早雲ともつながりがあり、幻庵を初めとして北条家中にも弟子は多かった。

 梅雨の上がった六月の半ば、三郎と東光坊は大峯山を下り、京都へと向かった。

「よく耐えたな。弱音を吐いたら、山の中に置いて行くつもりじゃった」

「まさか‥‥‥」

「いや、本当の事じゃ。お屋形様より言われていたんじゃ。お前がお屋形様になれる器かどうか見極めてくれとな」

「父上がそんな事を言ったのですか」

「そうじゃ。お前は跡を継げば、お屋形様になれると簡単に考えているかもしれんが、そんな簡単な気持ちではお屋形様にはなれん。いいか、今は戦乱の世じゃ。お屋形様がしっかりしていなくては生き残る事はできんのじゃ。世の中の動きをよく見て、その動きに乗り遅れんようにしなければならん。乗り遅れれば、湯本家は全滅するんじゃ。草津の地は奪われ、女子供まで殺されてしまうんじゃよ」

「そんな‥‥‥」

「大袈裟じゃと思うかもしれんが、現に岩櫃城の斎藤家も箕輪城の長野家も武田に滅ぼされた。お屋形様が武田に属したため、湯本家は生き残る事ができたんじゃ。お屋形様はあらゆる情報を集め、武田が上杉より有利と見て、武田に属す決心を固めた。もし、お屋形様が上杉に属してたら、今頃、湯本家は滅びているんじゃぞ。わかったか。お屋形様になるって事は湯本家の将来を背負うという事なんじゃ。その覚悟ができないようなら、今のうちに降りる事じゃな」

 三郎は足を止めた。東光坊が言った事を噛み締めながら考えていた。

「覚悟ができるか」と東光坊が振り返って聞いた。

 三郎は力強くうなづいた。

「よし、お前にやる気があれば、わしも本気でお前を鍛えてやる。立派なお屋形様にしてやるよ」

 熊野本宮から中辺路なかへじと呼ばれる街道を通り、田辺に出た二人は海岸沿いに北上した。賑やかに栄えている堺港、一向一揆の本拠地である石山本願寺を見て、淀川に沿って京都へと入った。

 たとえ、将軍様がいなくても京都はやはり、花の都だった。所狭しと家々が建ち並び、様々な人が大勢暮らしていた。人々はどことなく、あか抜けていて、話す言葉さえ何となく上品に聞こえる。

 京都は上京と下京の二つに分かれ、共に町は堀と土塁で囲まれていた。政権が代わる度に戦が起こり、何度も酷い目に会わされた町民たちが自衛するために構えたのだった。上京には武家や公家たちが多く住み、下京は商人が中心となった町だった。

 下京の四条通りに面して『小野屋』はあった。小野屋で上泉伊勢守の道場の事を聞くとすぐにわかった。上京の相国寺の近くにあるという。下京を抜け、室町通りを北上して上京へと向かった。上京と下京との間には荒れ果てた土地が広がっていた。百年前の応仁の乱以前は、ここにも家々が建ち並んでいたらしいが、焼け落ちた後、再興される事なく荒れ地のままになっていた。

 上京に入り、通りがかった侍に道場の事を聞くと心安く教えてくれた。豪華な武家屋敷の間を通り抜けた町の外れに道場はあった。

 塀で囲まれた広い道場の中は活気に溢れ、大勢の若者たちが稽古に励んでいた。三郎は目を見張って稽古振りを眺めた。大峯山中で厳しい修行を積み、多少、自分の腕に自惚れていた三郎だったが、この道場の稽古を見て、自分の腕の未熟さを知らされたような気がした。

「どうじゃ。ここで、しばらく修行してみるか」と東光坊が三郎の肩をたたいた。

「えっ、でも、できるんですか」

「小野屋の女将が書状を書いてくれたからな、伊勢守殿も会ってくれるはずじゃ」

「女将さんが‥‥‥それじゃあ、最初から俺をここで修行させるつもりだったのですか」

「そういう事じゃ。武芸も一流の所で修行を積めば一流の腕になるからのう」

 道場の片隅に屋敷があり、そこで三郎は上泉伊勢守と会った。背丈が六尺近くもあり、鍛え抜かれた体は、とても六十歳とは思えない程、がっしりとしていた。質素な稽古着姿だったが、百戦錬磨の偉い武将と会っているような気がした。

「ほう、上州の草津から来られたのか」と伊勢守は感心しながら三郎を見た。「善太夫殿は達者でおられるかな」

「はい。毎日、戦に明け暮れております」

「そうじゃろうの、上野の地は大変じゃ‥‥‥善太夫殿も伜を旅に出すとはなかなかやるのう。今の世は目まぐるしく変わって行く。その目で世の中の動きをよく見ておく事じゃ。草津を守るためにもな」

「はい」

 伊勢守は小野屋の女将の手紙を読みながら、「ほう、小田原に寄って来られたのか」と聞いた。

「はい。幻庵殿にお世話になりました」

「そうじゃったか。わしも幻庵殿には随分と世話になった。わしの伜や孫たちは今、北条家に仕えておるんじゃよ」

「そうなのですか」

「うむ。孫の奴もここで修行していたんじゃがな、去年、小田原に帰って行った。そなたもここで修行に励むがいい」

「はい、よろしくお願いいたします」

 三郎は道場に住み込み、新陰流しんかげりゅうの修行を始めた。東光坊は十二月になったら迎えに来ると言って、どこかに行ってしまった。

 道場に鈴木移柏いはくと名乗る師範がいて、三郎の義父、善太夫の事をよく知っていた。移柏は善太夫が上野の上泉で修行していた頃、神後藤三郎と称し、上泉道場の四天王の一人として戦でも活躍していた。

 九州の肥後の国(熊本県)から来たという丸目まるめ蔵人佐くらんどのすけという師範は面白い男で、何かと三郎の面倒を見てくれた。

 九月になり、京の都が騒がしくなった。噂では尾張から美濃に進出した織田弾正(信長)が新しい将軍様を奉じ、大軍を率いて京都に攻めて来るという。上京の武家屋敷では戦支度に慌ただしく、公家屋敷では戸締まりをして回りの状況を見守っている。下京では荷物をまとめて逃げ出す者も多かった。

 道場に通っていた若者たちも戦の準備をしているのか、日を追って少なくなって行った。

「戦になるのですか」と稽古が終わった後、三郎は伊勢守に聞いた。

「わからんのう。松永弾正(久秀)次第じゃな」

「松永弾正?」

「うむ。今、京都を治めている武将じゃ。風流のわかる男なんじゃが、思い詰めると何をしでかすかわからん。将軍様を殺したり、東大寺の大仏殿を焼いてしまったり、まったく途方もない事を平気でする男じゃ」

「将軍様を殺した男が、この京都を治めていたのですか」

「そうじゃ。何をしようとも力のある者が勝つ。それが今の世じゃ。情けない事じゃがな。織田弾正という男が強いだけの男でなければいいがのう」

 伊勢守は厳しい顔付きで遠くの山々を見つめていた。

「あのう、よくわからないんですけど、新しい将軍様になるお人がどうして、美濃の国におられるのですか」

「将軍様になるには強い後ろ盾がなくてはならんのじゃよ。前の将軍様が松永弾正らに殺されたのは三年前じゃ。その時、将軍様の弟が奈良の興福寺におられた。松永弾正は弟も殺すつもりじゃったが、密かに興福寺を抜け出し、還俗げんぞくして越前(福井県)に向かったらしい。越前の朝倉氏を後ろ盾に上洛しようとしたが、思うように行かなかった。越後の上杉氏や甲斐の武田氏にも助けを求めたがうまく行かず、斎藤氏を倒して美濃に進出して来た織田弾正を頼ったようじゃ」

「そのお人が新しい将軍様になれば、京都は平和になるのですか」

「いや、そう簡単には行くまい。織田弾正にそれ程の力があるとは思えん。また、松永弾正としても黙ってはいまいからのう」

 九月二十六日、足利左馬頭さまのかみ義昭を奉じた織田弾正は六万余りもの大軍を率いて入京した。京の人々は大軍に攻められ、放火や略奪を恐れていたが、織田の軍勢は規律正しく、決して町人たちには手を出さなかった。人々は安心して家から出ると新将軍と織田弾正の入京を喜びあった。

 織田弾正は東寺を本陣として、義昭を清水寺に入れた。本陣には祝いを述べるため、公家衆や僧侶が群れをなしたという。

 下京の小野屋の警固に当たっていた伊勢守もホッと一安心して武装を解いた。三郎も勿論、警固に当たっていた。

 織田弾正は休む間もなく出陣し、敵対する三好勢を畿内から追い出し、松永弾正を降伏させて、京都に戻って来た。

 十月十八日、義昭は室町幕府十五代将軍に就任した。義昭は織田弾正に管領職かんれいしきに就くように頼んだが、織田弾正は辞退し、二十六日には岐阜に帰ってしまった。

 大軍が引き上げて行くのを眺めながら、京の人々は皆、不思議に思っていた。

「織田弾正殿はどうして、管領職に就かなかったんじゃろうのう」と移柏が呟いた。

「今までの武将とは少し違うようじゃの」と伊勢守は言った。

「あのう、管領職って何ですか」と三郎は小声で移柏に聞いた。

「将軍様を補佐する幕府の重職じゃ。今まで、新しい将軍様を奉じて来た者は必ず、管領職に就いて将軍様を補佐して来たんじゃ。補佐するというよりは将軍様を飾り物にして、権力を欲しいままにして来たと言った方が正しいがな。織田弾正殿はその管領職を蹴って、さっさと帰ってしまった。誰もが不思議がるのも無理はない」

「管領職は蹴ったが、代わりに堺、大津、草津(滋賀県)に代官を置く事を許してもらい、さらに関所を撤廃した。織田弾正は古臭い管領職などどうでもいいらしいのう。将軍様を連れては来たが、将軍様に仕えようという気はまったくないようじゃ。鉄砲の出現で戦の仕方が変わったように、新しい考えを持つ武将が現れたようじゃな」

「新しい考えですか‥‥‥」

「面白い男のようじゃ。何をしでかすか、しばらく様子を見よう」

 伊勢守は微かに笑うと一人うなづいた。

 十二月の初め、東光坊が迎えに来た。どこに行っていたのか聞くと、あちこちの山を歩き回って薬草を採っていたという。

「愛洲移香斎殿が考え出した愛洲薬という傷薬があるんじゃ。その作り方を伊勢守殿に教わったんでな、山に籠もって作っておったんじゃよ」

「移香斎殿は傷薬も作っていたんですか」

「傷薬だけじゃない。医者でもあったんじゃ。伊勢守殿から聞いたんじゃが、一緒に旅をした時、移香斎殿は兵法者として旅をしたのではなく、医者となって各地で人助けをしながら旅を続けたそうじゃ。草津でお亡くなりになる前もかったい(癩病らいびょう患者)たちの面倒を見ておられた。その頃、移香斎殿は飄雲庵ひょううんあんと名乗っていて、武器など一切、持たなかったそうじゃ。わしの親父が正体を見破るまで、誰もが医者だと思っていたんじゃ」

「一流の武芸者でありながら、一流の医者でもあったのですか。すごい人だったんですね」

「それだけじゃない。一流の仏師ぶっしでもあったらしい」

「仏師?」

「ああ、仏様を彫る職人じゃ。移香斎殿は旅をする時、医者になったり、仏師になったり、山伏になったりして各地を回ったんじゃ。それを聞いてな、わしも山伏姿で旅をするのは芸がないと思ってのう。今から仏師になるのは無理じゃから、医者にでもなろうと思ったんじゃよ」

「東光坊殿が医者ですか」

 三郎は山伏姿の東光坊を眺め、首を傾げた。

「おいおい、これでも飯縄山にいた頃、一応、本草学ほんぞうがくは学んだんじゃぞ」

「そうだったのですか、知りませんでした」

「来年は医者として旅をするぞ、いいな」

「えっ、さっそく、来年からですか」

「そうじゃ。わしとしてもただ、お前に付き合うだけじゃなく、医者の修行をする事に決めた。お前の旅が終わったら、わしも旅などできなくなるからな」

 三郎は世話になった伊勢守や師範たちに別れを告げ、京都を後にした。

 

 

 

 故郷に帰った三郎は家族と共に年末年始を過ごした。

 上野の国(群馬県)の北西、信濃の国(長野県)との国境近くにある白根山の中腹に草津温泉はあった。冬の間は雪が深くて住む事ができず、山を下りて暮らしていた。それを冬住みと呼んだ。毎年、四月八日の薬師の縁日に山開きをし、十月八日の薬師の縁日に山を閉ざした。

 草津のお屋形様、善太夫の冬住みの屋敷は小雨村(六合くに村)にあった。三郎が生まれた屋敷は生須なます村にあり、善太夫の跡継ぎになってから小雨村に移った。小雨村と生須村は須川(白砂川)を挟んで向かい合っていて、共に山奥の小さな村だった。

 三郎は生須村で育ち、十一歳の時、草津にある白根明神に入って武術を習った。十三歳の時、父親が戦死し、翌年の春、善太夫の養子となった。三郎の母親は善太夫の妹だった。

 小雨村の善太夫の屋敷には祖母と善太夫の側室、小茶様と義妹のおアキが住んでいた。以前は善太夫たちも冬の間はここで暮らしていたが、五年前に長野原城を武田のお屋形様(信玄)より与えられてから、そちらに移った。長野原城には善太夫と正妻のお鈴様、側室のお初様、義妹のおハルが住んでいる。長野原城下には三郎の師匠、東光坊も家族と共に住んでいた。

 生須村には実母と実弟の小五郎、実妹のおしのとおしほとおみつが住み、すぐ下の弟、小四郎は白根明神で修行中だった。

 三郎は小雨村と生須村を行ったり来たりして、祝い酒を飲みながら、家族や友達に旅の話を自慢気に話していた。しかし、正月も半ばになると、また旅に出たくなって来た。三郎は雪の舞う中、長野原へと向かった。

 東光坊は三郎の顔を見ると、「よう、来たな」とニヤニヤした。「そろそろ、来るじゃろうと思っていた」

 東光坊は正月早々から薬作りに励んでいた。どうやら、本気で医者になるつもりらしい。「しかし、大変な事になったもんじゃのう」

「はい、父上は箕輪に出掛けて行きました」

「武田と北条の同盟が壊れたとなると、上野は益々、戦が激しくなる。今までは上杉を相手に戦っていればよかったが、今度は北条も相手に戦わなければならん」

 去年の十二月半ば、三郎が故郷に帰って来た頃、武田信玄は同盟を結んでいた今川家の領国、駿河に進攻して駿府すんぷ(静岡市)を占領した。駿府のお屋形は焼け落ち、今川刑部大輔ぎょうぶだゆう(氏真)は遠江とおとうみの掛川城へ逃げ込んだ。その時、刑部大輔の奥方様は乗物にも乗らず、素足で逃げ惑っていたという。刑部大輔の奥方様は北条万松軒ばんしょうけん(氏康)の娘だった。万松軒はその事を聞くと青筋を立てて怒り、今川氏を助けるため大軍を駿河へ向けた。今、武田軍と北条軍は駿河の興津で対陣しているという。

「もう小田原には行けないんですね」と三郎は情けない声で言った。

「浅香の事がまだ忘れられんのか」

「浅香じゃありません。琴音殿です」

「ほう。また、琴音殿に戻ったのか」東光坊は呆れた顔をして三郎を見ていた。

「帰って来てから色々と考えたんです。父上は三人の妻を持っています。そして、娘は三人います。これから先、男の子が生まれるかもしれません。そうなったら、俺はどうなるんでしょう」

「お前はどうする気じゃ」

「男の子が生まれたら、俺は身を引きます」

「そして、琴音殿の婿になるのか」

 東光坊に心の中を見透かされたようで恥ずかしくなり、三郎は俯いた。

「それもいいじゃろう。だがな、お屋形様はお前を実の息子以上に大切にしている。この戦乱の世に湯本家を背負って立つのは容易な事ではない。お屋形様はお前に懸けているんじゃ。だからこそ、世間を見せるために旅に出している。お前がそんな中途半端な考えでいるのを知ったら、お屋形様は悲しむぞ。どうして、戦う前に諦めてしまうんじゃ。琴音殿が好きなら幻庵殿と戦ってみろ。北条家を敵に回してでも、琴音殿をさらって来い。その位の度胸がなければ、この乱世を生き抜く事などできはせん」

 三郎はしょんぼりとうなだれていた。確かに師匠の言う通りだった。やる前から諦めていたのでは何もできない。三郎は幻庵と戦う決心を固めた。

「わかりました。琴音殿を幻庵殿から奪い取ります」

「よし、それじゃあ、さっそく小田原に行くか」

 三郎は嬉しそうな顔をしてうなづいた。「でも、小田原は敵になったんでしょ。行けるんですか」

「山伏はどこでも行ける。ただし、気をつけんと捕まる可能性はある」

「捕まったら殺されるんですか」

間者かんじゃと間違えられれば、拷問にあって殺されるじゃろう。お前の新陰流が役に立つかどうか、見せ所じゃな」

「はい」と言ったが、三郎には自信はなかった。まだ、実戦の経験はない。人を殺す事が恐ろしかった。

 次の日、三郎と東光坊は山伏姿になり、小田原へと向かった。

 上野の国は利根川を境に、東側は北条領なので敵になってしまった。利根川の渡し場は警戒が厳重になり、利根川を挟んで敵と味方が睨み合っているという。

 二人は利根川の方へは行かず、箕輪城下から南下して秩父の山々を抜け、敵国の武蔵に入った。敵が現れはしないか、と三郎は回りを気にしながら歩いていた。

「キョロキョロするな。余計に怪しまれる」

「でも、大丈夫なんですか」

「山伏が旅をするのは当然の事じゃ。そんなの一々、気にしてたら敵だって仕事にならん」

「そうですよね。怪しい素振りを見せなければいいんですね」

「そうじゃ。北条には風摩党ふうまとうという忍び集団がいるのを知っているか」

 東光坊はそう言って立ち止まると、注意深く辺りを窺った。

 三郎も師匠を見習って、回りを見た。どこにも人影は見えなかった。

 東光坊は大丈夫だと言うようにうなづくと、木陰に腰を下ろした。秩父の山中には雪が残っていたが、この辺りには雪はなかった。三郎も師匠の隣に腰を下ろした。

「奴らに睨まれたら命はないと思え」と東光坊は小声で言った。

「そんな恐ろしい集団なのですか」

「わしも詳しい事は知らんが、親父の話だと陰流を身につけた忍び集団だそうじゃ。幻庵殿が愛洲移香斎殿の弟子だった事からして、移香斎殿の弟子たちによってできた集団じゃろう。もしかしたら、『小野屋』も風摩と関係あるのかもしれん」

「小野屋が‥‥‥すると、あの女将さんも?」

「あの女将は幻庵殿の事をおじさんと呼んでいた。あの女将も北条一族に違いない。女だてらにあれだけの小野屋を仕切っている。風摩なのかもしれんな」

「それじゃあ、小田原に行っても、小野屋や幻庵殿の屋敷には近づけないじゃないですか」

「うむ、難しいかもしれん。ただ、小野屋の女将はうちのお屋形様とは古い付き合いらしいからのう、一応、当たってみた方がいいじゃろう。女将と一緒にいれば、風摩を敵にしなくてもすむかもしれん」

「でも、捕まる可能性もありますよ」

「運を天に任すより他はあるまい。女将を通さずに幻庵殿の屋敷に近づけば間違いなく捕まる。今、思えば、幻庵殿の屋敷はどうも変じゃ。裏の森の中に鞍作りの職人がいたが、奴らも風摩党なのかもしれんぞ」

「まさか‥‥‥」

 三郎は鞍作りの職人たちの顔を思い出していた。琴音と一緒だったせいか、皆、愛想のいい人たちだった。あの職人たちが東光坊のいう恐ろしい忍びだとは思えなかった。

「あそこで鞍作りを習い、一人前になったら敵の城下に送り込む。敵の城下に住み込んで、情報を探るのかもしれん。それに、あの森の中で、幻庵殿が風摩党に指令を出すのかもしれんぞ」

「そんな‥‥‥それじゃあ、幻庵殿が風摩党を仕切ってるんですか」

「その可能性は充分にある。幻庵殿は移香斎殿の弟子じゃからな。今、北条家で移香斎殿の直接の弟子というのは幻庵殿だけじゃろう。そうなれば、風摩党を仕切れるのは幻庵殿だけじゃ。長老である幻庵殿の屋敷が小田原城下ではなく、あんな所にあるというのもおかしいしな」

「幻庵殿が風摩党を仕切ってるとすれば、琴音殿をさらってもすぐに捕まってしまいます」

「そういう事になるな。お前も恐ろしい人の娘に惚れたもんじゃ。やはり、こいつは諦めた方がいい。まず、第一に、もっと強くならなくてはならん。武芸の腕が一流じゃないと相手にもされんぞ」

「小田原に寄ったら、京都に連れて行って下さい」

「伊勢守殿の道場か」

「はい。死に物狂いで修行を積みます。そして、幻庵殿に認めてもらいます」

「うむ、それしかないな」

 無事に小田原に着き、小野屋に顔を出した。うまい具合に女将はいた。二人を見ると驚きはしたが、歓迎してくれた。

 庭園内に建つ茶室に案内すると、「よくいらっしゃいました」と女将は笑った。

「殺される覚悟で参りました」と三郎は言って女将の素振りを見守った。怪しい素振りは微塵もなく、庭の方を眺めても怪しい人影は見えなかった。去年来た時より何日か早かったのか、梅の花はまだ蕾だった。

「敵同士になってしまったものね。でも、ここにいれば大丈夫よ。わたしもね、湯本家が上杉家に属していた頃、草津に行ったわ。善太夫様はわたしが敵だとわかっていても歓迎してくれた。お互いに敵同士になっちゃったけど、湯本家は特別よ。北条家の者たちは敵とは見ていないわ。でも、気を付けた方がいいわね。間者と間違えられたら殺されるかもしれないわよ」

「はい。でも、どうして、湯本家は敵じゃないのですか」

「移香斎様がお世話になったからよ。移香斎様は北条家にとって、とても大切なお人だったの。それに、あの辺りには陰流を身に付けてる人が多いでしょ。同門の者たちが争ったら移香斎様は悲しむわ」

「そうですか‥‥‥」

 女将は三郎の顔を見ながらニヤニヤした。

「命を懸けてまで、ここにやって来るなんて、目的はあれしかないわね。諦めてくれると思ったんだけど、そう簡単には行かないか」

「お願いします。会わせて下さい」と三郎は女将に頭を下げて頼んだ。

「しょうがないわね。でも、断るわけには行かないわね。わたしにも身に覚えがあるから」

「えっ、女将さんも命懸けで人を好きになった事があるのですか」

「わたしだって女よ。そりゃあ、ありますよ」

 女将は微笑を浮かべると、火箸を手に取って、囲炉裏の中に炭を足した。

「それにね、困った事に向こうもあなたの事を好きみたい」

「えっ、本当ですか」

 三郎は夢を見ているような気分になった。早く、琴音の所に飛んで行きたかった。

「本当よ。あの後、草津に連れてってって言ったのよ。三郎様は京都にいるから草津にはいないって言ったら、今度は京都に行きたいですって。今は修行中だから駄目だって諦めさせたけどね。あの調子じゃ、あと二、三年もしたら家を飛び出して草津に行っちゃうかもね」

「そうだったのですか」

 三郎は嬉しそうな顔をしながら横にいる東光坊を見た。東光坊は知らん顔して、じっと女将の手元を見つめていた。

「あの、幻庵殿は何とおっしゃってるんですか」

「伯父様は今の所は笑っているだけ。本気じゃないと思ってるのよ。娘心ってものがわかってないのね。でも、お互いの気持ちが本気だって知ったら、絶対に許さないと思うわ」

「でしょうね」と三郎は俯いた。

「あなた次第だわね。あなたが立派な武将になれると伯父様が考えれば、お嫁に出すかもしれない」

「立派な武将になります。修行を積んで、もっともっと強くなります」

「でもね、今の状況では難しいわ。あなたが北条家の娘をお嫁に貰えば、当然、北条方となる。湯本家の回りは皆、武田方よ。滅ぼされるのは目に見えてるわ」

「そうか‥‥‥そこまで考えなかった」

「方法がない事もないけどね。琴音ちゃんを京都の然るべき人の養女にして、京都から輿入れするのよ。そうすれば北条家は関係なくなる。でも、伯父様がそこまでするとは思えないし、後は二人の気持ち次第ね。伯父様だって父親だから、娘の幸せを一番に考えるわ。琴音ちゃんがどうしても三郎様じゃなきゃいやだってなれば、そうするより他ないわね」

 三郎は女将に連れられて幻庵屋敷に向かった。幻庵は留守だった。駿河で戦が始まったので、小田原城に詰めているらしい。三郎は琴音と再会した。

 琴音は目を丸くして驚き、嬉しそうに三郎を迎えた。十五歳になった琴音は、去年、会った時よりずっと大人になっていた。そして、眩しい程に美しくなっていた。三郎は琴音に京都で買ったくしを贈った。秋の草花の中を赤とんぼが飛んでいる図柄の櫛だった。

「まあ、すてき」と琴音は飛び上がって喜んだ。

 旅の話を聞かせると、琴音は目を輝かせて聞いていた。

 幻庵の屋敷に二日間、滞在した。三郎はいつも琴音と一緒だった。琴音を抱きたいといつも思っていたのに、なぜか、手を触れる事もできなかった。時が経つのは早かった。あまりにも早すぎた。

 別れの時、「もっと強くなって、来年、また来る」と三郎は言った。本当は、来年、迎えに来ると言いたかった。でも、口には出せなかった。

「楽しみに待っております」と琴音は三郎をじっと見つめて、うなづいた。

 三郎と東光坊は小野屋の船に乗って、真っすぐ、伊勢の国へと向かい、どこにも寄らずに京都へと直行した。

 京都では将軍義昭のために新しい御所の普請が始まっていた。数千人にも及ぶ人足たちが上京と下京の中程で威勢よく働いていた。その規模の大きさに京の人々は驚き、今まで、あまり聞いた事もなかった織田弾正(信長)という男の実力を改めて肝に銘じていた。

 伊勢守の道場には新しい顔が何人もいた。政権が代わり、織田家の家臣たちの子弟が門下に加わったらしい。

 東光坊は十二月に迎えに来ると言って草津に帰った。医者になると言っていたが、武田と北条の同盟が壊れた今、そんな暢気な事をしていられない。東光坊には善太夫のために敵の情報を集めるという重要な仕事があった。去年は配下の者たちに任せていたが、今年はそうもいかないと帰って行った。

 回りで何が起ころうと三郎は武術の修行に専念していた。琴音の父、幻庵に認めて貰える腕にならなくてはと眠る間も惜しんで修行に励んだ。三郎と同じように、夜遅くまで稽古に励んでいる男がいた。

 織田家の家臣で堀久太郎という男だった。三郎より一つ年上で、腕は互角だった。何となく気が合い、共に修行を積んだ。久太郎は美濃の国で生まれ、十三歳の頃より弾正に仕え、小姓として常に弾正の近くにいたという。弾正の許しを得て、一年間、伊勢守のもとで武術修行に励んでいる。久太郎は心から弾正を尊敬していた。久太郎から弾正の事を色々と聞き、三郎も織田弾正という男を身近に感じ、少しづつ惹かれて行った。

 弾正のために強くならなければならないと言っていた久太郎も、三郎と親しくなるにつれて、本当の事を話してくれた。恋敵がいて、どうしても奴を倒さなければならないという。三郎には恋敵はいないが、女のために強くなろうという思いは同じだった。お互いにその事を知って大笑いをした。その後、さらに意気投合して、時には内緒で道場を抜け出し、盛り場に行って遊んだりもした。

 若い二人は好奇心に溢れていた。多少、腕にも自信があり、怖い物知らずで、どこにでも出掛けて行った。人相の悪い男どもが集まっている怪しげな店に入って、びくびくしながら酒を飲んだり、真っ白な顔をしたお化けのような女がいる遊女屋に入って、慌てて逃げ出したりと無茶な事をしては楽しんでいた。久太郎は大して飲めないのに酒が好きだった。飲み過ぎて何度も吐いているくせに飲み屋通いをやめなかった。下京まで出掛けて行って酔い潰れ、朝帰りをして怒られた事もあった。それでも二人は夜遊びを続け、二日酔いでフラフラしながらも武術の修行は決して怠らなかった。

 久太郎は恋敵を倒す事を夢見、三郎は琴音を嫁に迎える事を夢見ながら、二人の厳しい修行の日々は続いて行った。

 



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