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例外者たちの詩     那智タケシ
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「人間には、自分で自分を治す力がある」 菊地久幸×那智タケシ
世界中の人に自慢したいよ~忌野清志郎のうた
《無我的観照》第2回 『白痴』(ドストエフスキー著)から読み解く現代のキリスト像
アラスカ便り―北の果てに暮らす日々―
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『例外者たちの詩』  那智タケシ
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《無我的観照第3回》 霊的女優・イレーヌ・ジャコブ論
アラスカ便り―北の果てに暮らす日々―
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『例外者たちの詩』  那智タケシ
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編集会議 「AKBは無我的か否か」
川の流れのように~秋元康にみる「無我的表現」
アラスカ便り―北の果てに暮らす日々― 
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例外者たちの詩     那智タケシ
『季節の詩』    rita
「何もしない時間の大切さ」 菊地クミユキ
無我表現としてのAKB前田敦子
無我的観照第4回 『マイネームイズハーン』に見る愚直な愛の表現
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「土も人間も健康にする内城菌の力」 瀧 芳人(ヤマイチシステムプロデュース代表)
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「何もしない時間の大切さ」 菊地クミユキ

何もしない時間の大切さ  菊地クミユキ

 

47日 茨城県稲敷市にて

 

                         

菊=菊地クミユキ・・・ウルトラリンパ開発者

那=那智タケシ・・フリーライター・無我表現研究会代表

 

●究極の選択の話

 

 菊 究極の選択の話ね。無人島に20人乗りの舟に乗って行ったとするでしょ? そこに人食い人種がいて、襲ってきた。けれども、そこに捕らえられていた仲間や家族が30人いて、こちらに逃げてきた。でも、舟には20人しか乗れない。全員乗ったら沈没してしまう。自分が船長だとするとどうするか?

 那 判断しなくてはいけないでしょうね。

 菊 1分、30秒を争う事態なわけだよね? 2122人目が乗って来たらどうするか。乗せたら沈没して全員死んでしまう。

 那 非情に思われても出ちゃうしかないですよね。

 菊 出ちゃうか、撃ち殺すしかない。自分の子どもでも、誰でも。

 那 究極言えばそういう話になりますね。

 菊 生きていくっていうのはそういうことだよ。これは究極の中の究極かもしれないけれども、人間って生きていくためには、そういう判断をしなくちゃいけない時があるんだよ。好き、嫌いと人を選んでいたら全員死んじゃう。だからおれはカナダにいて山に入った時に、熊や狼のいる中でいろいろ教えてきたから、究極の何かが起きた時にどうするかって、そういう対応能力をすごい問われてきた。でも、今の日本人にはほとんどそれがないね。そういう局面がないものね。

 那 ないですね。

 菊 だから今の若い日本人が海外に出て行った時に、なかなか対応できない。他の人種と仕事の取り合いだとかになった時に対応できない。

 那 今の日本人というより、昔から村社会的なところがあるから、右見て、左見てと大勢に流されるところもあるかもしれませんね。

 菊 だけど、おれらの年代(昭和10年代生まれ)から上の世代の商社マンは、海外に行って喧嘩ができた。仕事が取れたんだよ。昔の学生は海外にいっぱい留学していた。今の子は海外に行くのが嫌になっている。なぜかと言うと、韓国や中国といったいろんな国から留学生が来るようになっていて、そこで飲みに行ったりするとぶつかる。すると韓国人、中国人の方が強いから、日本人は自由に動けなくなってしまう。行くのが嫌になってしまうわけ。それで留学生が少なくなっている。

 那 なるほどね。彼らは気が強いですから。負けそうですよね(笑)

 菊 それが結局、仕事でもそれに出るわけ。交渉でも負けてしまう。だからさっき言った命を賭けてやる集中力、対応力がその差になって出てくるよ。今の政治もそう。命を賭けてやってないから。

 那 橋本市長とか、違うタイプも出て来ましたよね。

 菊 いいよ。彼はこれから日本を変える人間だと思うし、彼のためなら何か応援してやりたいなと思うものね。やっぱり、言うことを実行するし、やっていくというのが違うものね。ああいう人が必要なんじゃないですか、これからね。

 那 過激なところもありますけどね。君が代を気をつけして歌えとか。

 菊 それ海外に行ったら当たり前だものね。例えばおれの子どもがサッカーや水泳の決勝に出てるのを見に行くと、必ず国家を立って歌う。別に国家=戦争じゃない。そこを勘違いしている人が多い。一つの国土をまとめるというか、そういう発想で捕らえればいいんじゃないかな。

 

●肩書きや地位を取っ払った交流

 

 那 最近、プライドが高くてどうしようもない人と、無我的なタイプの人に人間が分かれている気がするんですよ。前者に対しては正直、どういう距離で付き合えばよいのかわからない。仕事関係なんかだと特にね。関わりたくない気持ちもあるけれど、何かしなくては無責任な気もするし。それでいて無理して付き合っていると、悪いものをもらってしまうことになるのがわかっている。面倒だから今は、そういう人とはほとんど離れているんですが。がちがちの表情をして緊張過多というか、人とあまり触れ合って来なかったタイプに多い。

 菊 遊びがないというか、人を信用していない。

 那 疲れるなと思って。

 菊 おれ、カナダにいた時に、毎年、5、6人の社長が来たわけ。1流とか2流のそこそこの。最初は2、3人で来てたんだけど、カナダに行くと菊地っていうやついるから楽しいよって連れてくるわけ。するとおれは山に連れて行って5人いたら一番最初にこう言うわけ。「山に入ったら平等ですよ。木を集めて来て火をつけるやつもいるし、料理をするやつもいるし、洗うやつもいる。夜中は火の番もある。全部交代で平等ですよ、と。偉そうにしたらおれはその場で帰しますよ」と(笑)。それで山に連れて行くと、やっぱり偉そうにしているやつもいる。そこでおれは言うわけ。「あんた何やってるの?」って平気で。「平等なんだよ、あんた財産とか地位とか関係ないんだよ、やれよ」と。でも、やり出すとけっこう楽しいんだよね。最初は人の目を気にしているけれど。今までそんなことやらされてないわけじゃない? 料理とか、皿洗いだとか。でも、そのうち火の番だから12時までは誰が見る、12時過ぎたら誰が見る、3時から誰が見る、と交代でやるわけ。熊も狼もいる。

 那 熊がいるって怖いですね(笑)カナダの熊なんてでかいでしょ。何百キロもある。

 菊 そうそう、グリズリー。でも、火があると来ないから。それから山荘を借りて、ボートまで競争をやろうと。最初に着いたやつからキングサーモンを釣ることができる。最初に来たらおまえ釣れ、次はおまえ釣れ、と。でも、下手だから外すんだよ(笑)。すると「はい、次」と。すると社長ががっくりきている。でもまた順番が回って来て、釣るとまた外すわけ(笑)

 那 社長だけ集めてやる企画があったんですか?

 菊 いや、友達が連れてきて面白いからって自然とそうなったんだけど、おれは日本にいる時に友達に言うの。連れて来るのはいいけど、おれと会わせてくれない? カナダまで来て嫌な思いしたくないから、と。おれだってカナダでは仕事を一週間も10日も休んで一緒に遊ぶわけでしょ? そんな変なやつのためにやりたくないじゃん。それでこの人だったらいいよ、となる。

 でも、今度は従業員が500人いる社長が5日ならいいけど10日なんて無理、休めない、なんて言う。それで一年目に心配しながら嫌々来る。10日遊んで行く。楽しい思いをして帰るでしょ。でも、帰っても何も起きていない(笑)勘違いしているだけで。いない方がみんながちゃんとやっているわけ。そういうもんなのよ。

 それでね、社長たちは「こんな楽しい思いをしたことない」って言う。「これは社員にも味わわせたい」と。それで今度は社員を連れて来るようになる。

 那 威張ってる社長が今更ながら大事なことがわかった。

菊 そう、こんな楽しいことが世の中にあるんだっていうね。それで対等に扱ってくれることによって、今までは「社長、社長」ってうわべだけの会話でしょ。本当の話なんてしない。でも、そういうところでみんなと対等に話をするから、違う。鎧が取れちゃう。

 那 肩書きとかプライドとか通用しない場って必要ですよね。

 菊 そう思うよ。

 那 ぼくはフリー雀荘でちょっと遊びますけど、年商何億の社長もいれば、フリーターもいるし、サラリーマンも学生も、ちんぴらみたいのもいる。いろんなやつが一緒に打つ。でも結局、人間が悪いやつは「あいつと打ちたくない」と言われてしまう。はぶられてしまったりする。肩書きとか地位は通用しなくて、その場で人とどういう風に対応して、どういう風に打つかだけが大事になってくる。結局、その瞬間、生きた人間関係の中でちゃんと表現できているかどうかなんですよね。いろいろ取っ払って、Nちゃん、競馬場行くなら馬券買って来てよ、とかね。社長がぼくに大金を預けたりする。対等なんです。通用しないじゃないですか、変な人格だと。そういう場って今、日本はすごく減っている。

 菊 逆に言えばそういう場を望んでいるんだよね。でも、そういう場がない。

 那 インターネットとか、交流しているように見えて、本質的な交流はどこにもない。

 菊 そう。だからそういう場が広がっていけば面白いな、と。横浜に行っても、大阪に行っても菊地が来てるよ、と10人、20人、人が集まってくる。まぁ、今は趣味に集中しているからそういう活動はしていないけれどね。でも、そういう風な自然体でね、生きていく。財産なんてどうでもいいんだよね。ついてくる。逆に仕事で成功するためには、そういう生き方をしている方が、上のね、本当に人をわかっている人はそれがわかるから。そういう人間だって。そしたら引っぱり上げてくれるから。こいつ面白いなって。

 那 ぼくなんかはフリーランスでやっているから、今の話は身に染みますよ。自分が人格的にだめなら大手から個人に仕事なんて来ないですよ。能力もあるだろうけれど、人間を見ている人は見ている。

 菊 そうそう。

 那 だから自分がだめになったらだめだなって。守ってくれる看板がないから。

 菊 かえって地を出した方がいいんだよね。地を出した方が、相手も早くわかるし。そういう人間を理解できるし。それで売りになる部分を持っているなら、おれにないものを持っているからこういう部分をフォローして欲しいな、とか、引き出してやろうとか、考えてくれる。

 那 そう言ってもらえると、やる気も出るし、仕事を振っていただいてありがとうございますとか、みなさんのおかげで生きてます、じゃないけど(笑)謙虚さが出る。

 菊 そうそう。

 那 だからおれの方がすごいとか競争じゃなくて、お互いの能力とか、役割を生かして良いものを作っていくとか。最近、そういう関係がようやくできてきたかな、とか。うれしいですよね、信頼されて何かを一緒にやるというのは。責任感も出てくる。

 菊 そうだよ。おれってね、いろーんな職業の人が友達にいるけどね、信頼関係があればビジネスでも何でも上手くいく。

 那 ただね、気持ち良い人とだけ付き合いたいっていつも思うんですけど、さっきも言ったけれど、合わないやつも出てくる。そういうやつにどう対応するかということですよね。どんな距離を持つべきか、いろいろ言うのか、言わないのか。

 菊 おれはね、言った方が良いと思うよ。おれはそう思う。そういう人って言われないから、案外ね、効く時がある。

 那 なるほどね。

 菊 誰も言わないから。おれはね、言うよ。でも、それでもし聞き入れなかったら相手にしない。仕事でも嫌だと。結局、何が一番大事かというとさ、そういう人と我慢して仕事して金になるとしても、周りの人にみんなに迷惑がかかる。みんな嫌な思いをする。

 那 なるほど、その通りですね。

 

●何もしない時間からすべてが始まる

 

 菊 今度時間あったらさ、カナダに遊びに行って、おれの友達の所に行って、一ヶ月でも二ヶ月でもぶらぶら遊んで来たらいいよ。

 那 そういうの今、必要です(笑)

 菊 そういう時間って必要だよ。人間ってね、一番大事なのは時間。何もしなくてもいい時間。そういう時に最初は時間をもてあまして困ってしまう。そこから始まる。一昨年、阿闍梨さんをカナダに連れて行った時に、おれの友達の娘で少林寺拳法で高校時代に日本チャンピオンになった子が「カナダに連れて行って」と言ったのね。精神的に強い子。おれの友達にインディアンがいるからそこに一ヶ月くらいいたら、と。山の中。そこに預けてもらって、前はきれいな湖、氷河が流れるバスクリンみたいな川がある。近くに熊がいるような場所。飽きないと思うじゃん? 一週間いたらお母さんのところに泣いて電話かかって来たって(笑)。時間の使い方がわからないわけ。

 人間ってね、一番最初に困るのはそれ。やることがない。自然がきれいだ。全部食べ物も揃っている。だけどやることがないってね。泣いて「私、帰りたい」と。「帰るんだったら帰っておいで」と母親は言った。でも、そういう子だから「もう一週間いる」と。そして一週間いたらリズムがわかってきた。何をやるか。自分は何をして何を考えればいいか。結局、一ヶ月そこにいた。

 何もない中の自分ひとりの過ごし方ってものすごく大事。でもほとんどの人がそれをわかっていない。湖がきれい、山がきれい、なんてそんなものはすぐに飽きてしまう。だから友達とカナダに行く時は、景色なんかすぐに飽きるよ、と。でも良い友達がいるから、そこを回って歩くよ、と。連れていくでしょ。すると「菊地さん、また誰々に会いに行こう」と言う。「どこどこの山を見に行こう」とか、「湖を見に行こう」、とか誰も言わない。やっぱり人なんだよね。良い人と出会った時に、同調するものがあるんだよ。

 親友のさ、カナダ一の祈祷師でインディアンのサムは、一緒にいても話はしないんだよ。一日中、ほとんど会話はしない。でも、菊地はこういう心境で来ている、とか、どういう状況とかお互いにあるわけだよね。それがわかってしまう。

 那 そういう人って稀ですよね。

 菊 ラッキーなのは、周りにそういう人が多いんだよね。

 

●悪い所は皮と筋肉がくっついている

 

 那 最近は治療の方はやっているんですか?

 菊 今は趣味優先だけどね。昨日、酒を飲んでいたら糖尿病の人がいてさ、治してやるよって言って。お世話になっているし、お金はいらないからって。すごく良い人でさ。

 那 糖尿病って厄介じゃないですか。不治の病って言われるくらいにね。血流的なことで治るんですか? 免疫を高めるとか。

 菊 おれが治すんじゃなくて、この間も言ったけれど、自分で自分を治す力を引き出すというか、手伝ってやるわけ。要するに糖尿病でも痛風でも、老廃物が溜まって出せないわけ。リンパが詰まっている。糖尿病というのは糖が溜まって出せないわけでしょ、肝臓、腎臓の機能がきちんとしていない。それをリンパが働いて体の老廃物が外に出せるようになると、浄化されてきれいになる。痛風も同じ。足より先に痛風が溜まって痛くなる。毛細血管がちゃんと行けば、細胞分裂がちゃんとできる。悪いものはリンパで回収する。そうすると段々健康になる。

 那 普通のリンパだとそれはできない?

 菊 普通のは痛くしない。なでるだけだから。

 那 そこが不思議なんですよね。自分の感覚で編み出してしまったところが。

 菊 リンパの学校に行くとね、振るんだよ、と教えてくれる。触って振る。痛くないようにやらなきゃいけないよ、と言われる。それは多少は軽くなるんだけど、なんで振るんだろう?と。それでおれが触っているうちに、悪い所は皮が筋肉にくっついているんだよ。ベターっと。ということはそういう間に血管とかリンパ管とか通っているわけだから、通りづらくなっているわけでしょ、当然。そういう所って冷たいんだよね。血液が行きづらくなるから。それをゆるめてやる。それから今度、筋肉同士もベターっとくっついている。筋肉って腕でも何本もあるんだけど、一つのように感じちゃう。というとその間にも血液が通りづらくなっている。だからそれをバラしてしまうことによって、血液の流れが良くなる。

 那 他の人がそこまで感じないものを菊地さんは触っているうちにわかってしまったわけですね。

 菊 そうそう。こうやると、と。たまたま運がいいのは、回りにいろんな病気の人がいたのね。それでやらしてくれ、やらしてくれ、とやっているうちに。

 那 自分でつかんでしまった。

 菊 やっていくと改善していった。そういう人たちが。

 那 こうすればいいんじゃないかとやっていたら治った。

 菊 そう。結果が出てきた。

 那 リンパをやっている人はたくさんいるのに、そういうセンスの人は少ない?

 菊 そういう理論を持っていないみたいよ。だからおれはリンパの先生たちも月に一回、治療してあげているよ。でも、教えても「私たちはできない」と言う。

 那 何でできないんですか?

 菊 指先の感覚と、力もある程度いるしね。また、最近編み出したやつがあって、それは本当に指先で感じるわけ。

 那 デリケート。

 菊 そう、デリケート。今までは筋肉をはがしていた。今はその間にあるものを感じて触っている。

 那 前ね、ちょっとやってもらった感覚で自分の体をやっているんですよ。風呂場とかでね。何となくは筋肉と皮をはがすとかわかる感じがある。筋肉が一本ぽかったものをばらす感じとかね。

 菊 だいぶ違うでしょ?

 那 前より流れている感じはありますね。そういうのって、公開してないじゃないですか? 知識とか。

 菊 おれはみんなに教えようとしているよ。一人じゃ限界があるから。施術は一日に二人が精一杯だよ。前は三人やっていたけど、今はできない。全身をやるからね。たいへんな病状の人は一人しかできない。だからおれができるだけじゃなくて、いろんな人ができるようになれば、たくさん人が助かるじゃないですか。

 那 でも、それは簡単にできないし、伝わらない?

 菊 ちゃんと勉強して、何回もやっていくうちに覚えていくんじゃない? ただ、怖いからね。間違ったらたいへん。首のあたりとかね、切っちゃったら死んじゃうから。筋がたくさん通っているわけだから。力任せにやったらだめ。そういう繊細な感覚のある人じゃないとね。リンパは体全体を治さなくちゃいけないから。

 那 センスも必要でしょうね。

 菊 後ね、病気の人はいろんな人がいるよ。心身に澱みを持っている人とかね。リンパとかやっているとね、自分でそれを処理できる人じゃないとそれをもらっちゃう。

 那 ああ、そうかもしれない。

 菊 だからそれができる人じゃないとできない。

 那 すごくわかります。自分で抜く力がないとできない。

 菊 ただ治せばいい、施術すればいいというわけではない。強い心と体がないとね。

 那 自分の分だけは抜けても、人のものまで抜けるかというね。

 菊 前にも言ったけれど、占い師とか治療に来る。あんた人にアドバイスしたりして、なんで自分を治せないの、と。もらっちゃって出せなくなって、体が動けなくなったりしているわけ。

 那 わかります(笑)

 菊 それにね、ウルトラリンパは痛いよ。でも、痛みを3分の1にすれば、3回かかる。料金が3倍になるよ、と。痛いのをちょっと我慢すれば1回で済む(笑)。でも、知人が治療現場を見ていて、2回にしてやって、とか。でも、それじゃ金儲けじゃん、と。

 那 一人あたりの時間と労力がそんなにかかるんですね。

 菊 まずは一番悪い所が痛いの。そこを治すじゃん。すると次に悪い所が痛くなる。面白いもんだよ、人間の体って。とにかく一番痛い所を先にやる。二つ痛いってことはない。だから最近は、お客さんの一番悪い所をやる。前は全部やっていたけど、今日はここっていう風に。

 那 ウルトラリンパに興味がある人もいると思うんですよ。ただ文字情報じゃ限界があるんで、何か講座とかやったら人が集まるかもしれないですね。

 菊 来月まで趣味でちょっと忙しいけどね。それから先は治療とか、やらなきゃいけないことがおれにはあるな、と。少し、そっちの方に戻ろうかな、とは思っている。

 那 今度、臨床の現場を見せてくださいよ。

 菊 いいよ。今はリンパ業界の人を治療したりもしているけれど。覚えたい人はいくらでも入れてやるよ。でも、良い人じゃないとね。

 那 ここではね、こういう技術があることを知らせることが大事かなと。身近な人、縁のある人を治したり、教えたりするのかもしれませんが、このメルマガを読んでいる読者の中にも、ウルトラリンパを身につけたいという真剣な人が出てきたら、何か対応していただければと思うんですが。

 菊 そうだね、何か講座みたいなものをやってもいいよ。ただ一回に何十人も教えられない。こういうことはせいぜい3人か5人だよ。実技をやらなくちゃいけないから。

 那 話を聞いていると癌まで治した実績があって、知り合いしか治していないというのはもったいないなと思ったんですよ。

 菊 しょうがないよ。目標がある趣味にはまっちゃったから(笑)。でも、もっと困っている人を治した方がいいかな、と最近は思うようにはなっているんだよ。

 那 ぜひ、その方向でいきましょう(笑)

 

 

※菊地氏の癌治療の話等は、MUGA第6号のバックナンバーをごらんください。

 また、ウルトラリンパの技術に興味のある方は那智のメールフォームからご連絡ください。↓

 

http://form1.fc2.com/form/?id=686131

 

来月中旬以降、菊地氏の講座等も考えています。場所は菊地氏が施術を行っている築地になると思います。

 

具体的な展開があり次第、ご連絡差し上げます。MUGAの感想等もお待ちしています。

よろしくお願いします。

 


無我表現としてのAKB前田敦子

無我表現としてのAKB前田敦子

 

            高橋ヒロヤス(翻訳家)

 

 

※ 毎回AKBのことばかりで申し訳ありません。ほかに今のこの国で(海外でも構いませんが)無我表現を実践し、かつ大衆に支持されている人(グループ)がいたら教えて下さい。

 

ご存じのとおり、2012年3月25日に前田敦子はAKB48を卒業することを発表した。このことについては後ほど触れるとして、3月25日以前の段階で書いた文章をいったん公表させていただきたい。

 

(以下貼り付け 註:3月25日以前の段階で書いた文章)

 

いまや押しも押されもしないAKBの「顔」であるといってよい前田敦子だが、さて彼女が一体どういう人物なのか、については「よくわからない」という人が多いのではないか。

 

たとえば、とっても男前なリーダーである高橋みなみの魅力は分かりやすい。2トップのもう一人である大島優子は、元気で機転がきいて演技がうまくて万人受けする資質を持っている。他の主要メンバー、篠田麻里子、小嶋陽菜、秋元才加、柏木由紀、渡辺麻友、板野友美、峯岸みなみ、指原莉乃、横山由依といった人たちも、それぞれにアイドル的、モデル的、トークが面白い、ひたむきに真面目等の分かりやすい魅力を持っている。もちろんわかったような気にさせられているというだけかもしれないが。

 

ところが、前田敦子だけは、何が彼女の魅力なのか、はっきりと指摘するのは意外と難しい。「スター性がある」とか「オーラがある」とかいうだけでは何も言っていることにならない。「ミステリアスな部分が魅力」というのは、要するに良く分からないと言っているだけだ。

 

本人曰く、「『何を考えているのかよくわからない』と4年間一緒にいるメンバーからもよく言われる」というくらいだから、前田敦子は確かによく言えば「ミステリアス」、もっと率直に言えば「よくわからない」存在といえるだろう。

 

「そういう時(よくわからないと言われる時)って、何か考えているんですか?」との問いに対して前田は、「何も考えてないのかもしれないです、もしかしたら(笑)。私は何も考えないでいっちゃうタイプなんですよ」と答えている。

 

確かによくわからない。なんで彼女がセンターなのか。何を考えているのか。やる気があるのかないのか。かわいいのかそうでないのか(おいおい)。とはいえ、魅力があるのかないのか、と問われれば、魅力的だろう。彼女を見ていて僕がなぜか連想するのは、若い頃のブリジット・バルドーで、人工的でない一種野性的な魅力がある。14歳で公演デビューして間もないころの彼女にそういう素質を感じ取り、センターに起用したスタッフ(秋元康)にはやはり見る目があると言わざるを得ない。

 

それから個人的に、前田敦子が従来のアイドルとまったく違うな、と感じたのは、彼女の「目」だ。彼女は、これまでのアイドルにはありえないような、醒めた目をしているときがある。それは虚空を見つめているかのような、目を開けたまま瞑想しているかのような目であり、彼女がしばしば「何を考えているのかわからない」と言われる理由になるのがその虚ろなまなざしである。

 

AKBは舞台裏でもしばしばカメラが回っているので、メンバーのオフショットの素顔がよく撮られる。カメラ目線ではない素のアイドルの顔は、もちろん決していつもにっこりしているわけではないし、決して愛想がいいわけではない。しかし、そんな中でも、前田敦子のような表情をしているメンバーはほかにいない。単に無愛想というのではない、何か一人だけ別次元にいるような感じがする。

 

僕はAKB自体が広い意味での無我表現であり「空っぽの器からの表現」だと思っているが、その中心に位置する前田敦子はその「空」の体現者といえるかもしれない。

誰かが彼女を「空っぽの絶対的エース」と評したのを見たときは、なるほどと思った。

 

(以下新聞記事(スポニチ)の引用)

 

AKB48の原点である東京・秋葉原のAKB48劇場が8日(2011年12月8日)にオープン6周年を迎える。劇場支配人・戸賀崎智信氏(38)に、この6年の軌跡をセンター・前田敦子(20)に焦点を絞って尋ねた。

 

 「前田は凄く暗かった」。

 

戸賀崎氏は2005年10月のオーディションを思い返す。

 

 「歌い終わった前田は暗かったが、質問されて最後にニコッと笑った顔が凄く可愛かった。その笑顔はみんなをキュンとさせるものだった。審査員の間で“暗いけれど最後の笑顔が凄かったね”という話になった。前田が通過した理由はそれだけだった」

 

 06年4月の劇場公演で総合プロデューサーの秋元康氏(55)は前田のソロ歌唱がある曲「渚のCHERRY」を作った。劇場オープンから約4カ月たって客足も伸び始めていたが、メンバーが多いため「誰が誰だか分からない」との声が上がっており、観客の目を引く存在が必要だった。

 

 芸能界を志す人なら誰でもスターに憧れるはずだ。AKB48の中にも、できるだけ目立ちたいと思うメンバーは少なくない。だが、前田は当初、自らのスター化計画に拒絶反応を示した。

 

 「もともと前田はソロで歌いたいと思ってなかった。人と違うことをするのを怖がるタイプだった。“渚のCHERRY”は一人だけ黄色い衣装を着て歌うが“なぜ私が一人で歌わなくちゃいけないの!?”とレコーディングスタジオに閉じこもってしまうほどだった」

 

 「秋元さんは前田が最もセンターっぽくないからセンターにしたのだろう。大島優子の魅力は分かりやすいが、前田はみんなが謎だと思う。握手会でも“あっちゃんは省エネ”と言われるが、それでも人気がある。イヌとネコに例えるならばネコのような存在で、だから人の興味を引く」

 

(記事引用おわり)

 

今年公開された映画『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』の中で、この映画を見た誰もの印象に残る、西武ドーム公演の二日目のシーン。過呼吸で立っているのがやっとの状態から、「フライングゲット」での笑顔。あれは「倒れても倒れても立ち上がるホセ・メンドーサ戦での矢吹丈」を地で行く鳥肌もののシーンだった。

 

あそこで立ち上がる前田敦子の姿が「無我表現」だ。

 

ここで大島優子との対比について敢えて言ってしまえば、大島優子は「自我表現」という気がする。これは優劣の問題ではない。大島優子が、ある意味で前田敦子以上に才能豊かで魅力的な表現者であることは明らかだ。彼女にとって「自我表現」が悪いわけでもなんでもない。彼女は常にどんな場面でも自分がどう振る舞うべきか、自分なりに一所懸命考えて一所懸命意識的に演じている。それはそれで素晴らしい。

 

これに対し、前田敦子が意識して無我表現をやっているとは思わない。というか意識した時点で無我表現ではなくなってしまうだろう。結果的にそうなっているということ。それでいい。

 

さらに言えば、前田敦子の無我表現は「AKBイリュージョン」の一つかもしれない。つまり、AKBがあるからできているのかもしれないということだ。その意味で、前田敦子の存在はAKBに依存しているといえなくもない。そしてそれが「センター」の宿命なのだろう。ある意味で、AKB(アイドル)という仕事は、表現者に無我表現を強いる構造になっているのかもしれない。

 

(貼り付け終わり)

 

こう書いた直後に、前田敦子による「卒業発表」があった。今後の興味は、AKBという肩書きを失った前田敦子がどうなるのか、ということと、前田敦子という中心を失ったAKBがどうなるのか、ということだ。

 

後者について言えば、無責任な外野の目からは、ここで一気に世代交代するのがいいんじゃないだろうかと感じる。初期メンバーで、一人でやっていけるくらいの力量のある人は全員卒業させてもいいのではないか(上に名前を挙げたうち1期生、2期生にはみなそれくらいの力はある)。それくらいしないと下の世代が育っていかない。それで勢いを失わないならばAKBというグループはこれから日本の芸能界をほぼ席巻するくらいまで続いていくと思う。

 

前田敦子個人についていえば、卒業直後のブログがとてもふっきれたような爽やかな文章だったので、少なくとも芸能人である前に一人の人間としてはいい選択だったのかなという気がする。だがAKBを卒業しても「元AKB」の肩書きは避けられない。「元AKB」という肩書きなしに、たんに「前田敦子」として認知されるような存在になれるかどうかが彼女の女優としての成功のバロメーターになるだろう。これは前田に限らず卒業メンバーすべてに言えることだが。

 

前田敦子がこれからも「無我表現」を続けていけるのか、それとも「自我表現」になるのか、AKBを卒業した彼女の今後に注目していきたい。


無我的観照第4回 『マイネームイズハーン』に見る愚直な愛の表現

《無我的観照》第4回

 

 映画『マイネームイズハーン』に見る、愚直な愛の表現

 

       那智タケシ

 

 泥沼化する宗教対立、テロリズムの連鎖は、マスメディアの影響が拍車をかけていることは言うまでもない。911の事件によって、キリスト教とイスラム教の対立がアメリカで深刻になったことは記憶に新しい。だからと言って、インターネットという検閲精度のない大量の情報が人を啓蒙し、様々な矛盾、対立を乗り越えて新たな道を歩み出す場になっているかといえば、決してそうはなっていないのは明白な事実だ。

 

 今や、我々現代人にとって、情報はおやつのようなものなのである。人は、自分に都合の良い情報のみを摂取する。情報に絶対的価値の物差しは存在しない。飴とガムを選ぶように、人は好みの情報に飛びついているだけなのである。しかし、これらの人工的なおやつは、決して我々の肉とならないし、心を育てることもない。

 

 だが、情報の中には、我々の内部で肉化するものもたまにある。それが小説であれ、音楽であれ、映画であれ、自我の好みの範疇を超え、万人を感動させるような情報。色とりどりのおやつが並ぶ駄菓子屋の中に、黄金が一粒、混じっていたようなものだ。

 

 映画『マイネームイズハーン』は、911事件後のアメリカを舞台に、イスラム教徒で自閉症気味の主人公が、宗教対立を超えて愛を示す物語だ。ヒンドゥー教徒の女性と結婚した彼は、911のテロによって宗教差別が渦巻く中、血のつながっていない息子をいじめで殺されてしまう。妻に「自分はテロリストではないことを大統領に会って証明して」と無理強いされた主人公のハーンは、「マイネームイズハーン テロリストではない」ということを伝えるために旅に出る・・・

 

 映画の撮り方は特殊なわけではない。カットも、モンタージュも、美術的作りこみもテレビドラマ的だ。逆に言えば、あえて万人向けに作られているように見える。映画の主題から言って、その試みは成功している。これは映画評論家のために作られた映画ではないのである。映画の新たな方法論を探る作品ではない。にもかかわらず、この作品に新しさがあるように感じられるのはなぜだろうか?

 

 つまり、それはこういうことだ。リュミエールからブレッソン、ヌーベルバーグ、ゴダールと言った優れた映像作家たちが生み出してきた華麗で革新的な映像表現――それはそれでいい。それは「いかに」作るかの世界だ。近代絵画が印象派やキュービズムを生み出してきたように。だが、私はあえて凡俗とも言えるような普遍的方法で、「何を」撮るかを重視したのだ。そして、私は誰よりも「何を」撮るべきか知っている。だから恥ずべきことは何もないのだし、人類はそれほどまでにぎりぎりの局面にあるのだ。こんな風に監督のカラン・ジョハールは主張しているように見える。この覚悟こそが「新しさ」なのだ。

 

 詳細は映画を見ていただくとして、主人公のハーンがやったことは、端的に言うと、既成の宗教的枠組みを超えた愛の具体的表現だろう。具体的で、わかりやすく、なおかつ力強い。人間を変えるは宗教ではなく、人間だけだということを指示しているようだ。いや、より端的に言うと、一人の人間のエゴイズムを超えた行為、表現こそが、ありとあらゆる環境、伝統、歴史による条件付けを超えて、人々の心に届くのである。その信念を迷うことなく描き切ったのが、この稀有なる映画だろう。変化球など必要ないのだ、と。

 

 宗教を超える宗教なんて、我々は必要としていない。人類を変えるのは、スピリチュアルなムーブメントでも、信仰でもない。一人の人間が、この現代社会において、勇気をもって何かを表現しているかにかかっているのだ。行為しているかにかかっているのだ。他人と、その肉体で触れ合い、心を分かちあい、何かを表現して、はじめてその愛は本物なのである。なぜなら、我々の肉体は、今、この瞬間における愛を表現するために与えられたからである。しかし、ただそれだけのことができないゆえに、人は惑い、新たな情報に飛びつき、既成の古びた情報の中で自分を正当化する。

 

 個人的幸福は、今や存在しない。主人公ハーンの無我的精神構造は、ただ慈悲と愛によってのみ成立していた。誰かを愛し、救い、そのことによって彼自身も救われる。そして、そんな彼を見た人々の心に、新たな愛の可能性を発見させる。こんな映画をゴールデンタイムで流すべきなのになぁ、などと、安易に考えてしまうのである。

 

 愚直な直球勝負。その何と潔いことか。

 

《参照》

DVD『マイネームイズハーン』(20世紀フォックスホームエンターテイメントジャパン株式会社)・・・・アマゾンで新品を1000円以下で購入できます。興味を感じた方は是非。

 


アラスカ便り―北の果てに暮らす日々― 

アラスカ便り―北の果てに暮らす日々―

「春の空の下」

 長岡マチカ(文化人類学を学び、現在、アラスカ在住)

 

 あと三インチ(約八センチ)で記録史上最大の積雪と言われる今冬。三月も終わりに近づき日中零度を超える日も出てくる。日は一日一日と長くなり、夕飯を食べ終わる頃になってもまだ明るい。もうそこまで来ている春を前に時折ちらつく雪。冬の最中には「また雪か」と溜息をついていた街の人々も、空を仰ぎ「記録達成するかもね」と軽い口調で言い合っている。十三年近くアラスカに暮らし、今まで見たこともないほど高く積まれた道端の雪も少しずつ解け、道路にいくつもの水溜りができている。軒下のつららも透明さを増し日に日に短く、ところどころ顔を出した地肌もその面積を広げていく。雪解け水を照らす日差し、街は春に向け目を覚ましつつある。

 

 冬帽子も手袋も少し薄手のものに変え、眩しい空の下そりに出かけた。ところどころ積まれた雪のジャンプ台、真っ青な空に子供たちの身体が跳ねる。もうすぐ中学生になる男の子を連れたネイティブ・アラスカンの友人が、隣で目を細め見守っている。

「ママもいっしょにいこ」

 四歳の娘に手を引かれてそりに乗り込む。風を切る。解けかけた雪の表面がシャリシャリと音を立てる。白い隆起にぶつかる度浮き上がる身体。はるか遠くには海、浮き氷が輝いている。

 斜面の下で止まり、寝転んでみる。

「チキュウってまるいんだねえええ」

 くっついて空を見上げる娘のはしゃいだ声。

 上半身を起こすと坂の上で友人が手を振っている。大きく手を振り返し、坂を上る。雪に足を取られ汗がにじみ出る。普段慣れない動作に身体の眠っていた部分が動き始める。手の先からつま先まで熱を感じている。

 坂の上から子供たちの笑い声。友人の息子君が空っぽのそりの紐を耳にかけ引っ張っている。他の子たちも真似をする。今度は歯でひっぱり始める。可笑しそうに真似をする周りの子。しばらくすると、耳に紐をかけたまま、歯で紐を銜えたまま、どれだけ速く遠くまで進めるかの競争になる。引っ張られる空っぽのそりが雪の上を勢いよく跳ね宙を舞う。笑いながら歓声を上げる子供たち。

「エスキモー・オリンピック」友人が隣でクスクスと可笑しそうに言う。十年ほど前に一度だけ「ワールド・エスキモー・インディアン・オリンピック」を観たことがある。アラスカとは思えないほど暑い内陸部でのことだった。競技種目には「耳で綱引き」「歯で錘運び」などがあり、アラスカ中から集まったネイティブの「アスリート」達が耳を真っ赤にして綱を引き合い、かなりの重さのある鉄製の錘を銜え歩く。競技の間には各村ごとのダンスの見世物もあり、民芸品やスナックを売る店が並ぶ。春の日差しの中で、あのステディアムの熱気を思い出す。

「一昔前はね、こうやって競いながら身体の様々な部分を鍛えたのよ」

 ネイティブの文化歴史にも詳しい友人が教えてくれる。狩に頼らずともスーパーで購入できる食料、暖房のきいた家屋での生活。かつては厳しい自然環境を生き抜く身体を鍛えるためという目的を持っていた競技の数々も、今はスポーツという娯楽として、そしてネイティブとしての誇り結束を高めるためのものとなっている。ベンチに腰かけ子供たちの笑い声を聞きながら、友人とそんな話になる。

「確かに生活環境も一つ一つの行為の意味だってすっかり変わってしまったけれど」

 友人はそう言うと、「見て見て」と今度は紐を耳にかけそりに乗せた小さな子供を引っ張ろうとする息子君を指し示しながら腹を抱えて笑い始める。友人の突き抜けた明るさが春の陽気に溶け込む。友人はしばらく笑い続けると下を向いて大きく息を吐き、穏やかな表情で顔を上げ私の目を見つめてこう言った。

「でもね、身体に刻まれてるのよ。はるか遠く昔に生きた祖先と同じ身体の動きをしてみるといいわ。私達が誰なのか見えてくるから」

 友人は立ち上がると踊り始める。村に長い間受け継がれているという踊り。もう少しで母親の背丈を追い越すだろう友人の息子君が、そりを放り投げ駆け寄って母の隣でリズムを取り始める。友人の身体が春の空に揺れている。小刻みな動きに一回り大きく見える手が真っ青な空にいくつもの輪郭を描く。春の空の下で、変わり続けるものと変わらずあり続けるものを想った。


★編集後記

 最近、自宅にこもって一人で仕事をしているせいか、逆に人との「縁」を強く感じます。不思議とつながる人とそうでない人がいる。人間関係というのは、つながるかつながらないか、感じるか感じないか。生きていると様々な困難、トラブルもあるとありますが、結局のところ、自我を超えた共感の領域がある相手ならだいたい何とかなるのではないでしょうか。

 MUGAも来月で10号。基盤は作ってきたつもりなので、そろそろ新たな展開を試みたいと思っています。読者の皆様と交流できる場があると面白いかもしれませんね。(那智)



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