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季節の詩     rita
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世界中の人に自慢したいよ~忌野清志郎のうた
《無我的観照》第2回 『白痴』(ドストエフスキー著)から読み解く現代のキリスト像
アラスカ便り―北の果てに暮らす日々―
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『例外者たちの詩』  那智タケシ
『季節の詩』  rita
歌うも舞うも法の声~「AKB48」に寄せて
《無我的観照第3回》 霊的女優・イレーヌ・ジャコブ論
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『例外者たちの詩』  那智タケシ
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《無我的観照》第2回 『白痴』(ドストエフスキー著)から読み解く現代のキリスト像

 「恋愛VS憐憫」 

 

『白痴』(ドストエフスキー著)から読み解く現代のキリスト像

 

       那智タケシ

 

ドストエフスキーの四大長編のひとつ、『白痴』のことを思うとき、どこか微笑ましい、それでいて悲しい気持ちになるのは自分だけではないだろう。この複雑なエモーションの正体はなんといっても、主人公の「白痴」こと、ムイシュキン公爵の存在それ自体によるものである。彼は作者が「無条件に美しい人間」を描かんとして主人公に据えられた人物だが、その美しさと破滅ぶりのコントラストが何とも言えず、物悲しい。

 

掛け値なしに素晴らしい小説なので未読な方にはお勧めするが、この稿では、「無我的」な観点から、このムイシュキン公爵なる人物を読み解いてみたい。お題は「恋愛VS憐憫」。運命のいたずらで二人の女性の二股をかけることになった公爵が、どちらの感情で女性を選択するかという側面から、「無我的観照」を試みてみよう。

 

簡単なあらすじはと言うと、スイスから「白痴」の治療を終えた?ムイシュキン公爵がロシアに帰国する。彼は実は白痴というよりもきわめて純真で、我意のない人物であり、こじき同然の状態でありながら、とある遠縁の将軍家に出入りして、そのお嬢様の一人、すばらしく愛らしくかわいらしい女性であるアグラーヤ・イワーノブナに恋をしてしまう。白痴とみなされて、ばかにされながらも不思議な魅力で周囲の人々に愛されていく公爵は、遺産が転がり込んだこともあって、いつしかアグラーヤの結婚相手として現実味を持って受け入れられていく。

 

ところが、そこに非常に奇妙な女が現れる。ナスターシャ・フィリポブナという大商人の妾で、恐ろしいほどの美貌の持ち主でありながら、心に大きな傷を持ち、自分の運命に反逆して発作的に狂乱を起こす不幸な女である。ちなみに両親を亡くし、若くして商人に囲われたものの、今は自由な身になっている。

 

ムイシュキン公爵は熱烈にアグラーヤに恋をしながらも、このナスターシャという不幸な女に惹かれていく。とは言っても、恋をしているというよりも、ただただ「かわいそう」だからである。彼は、不幸な人間をほうってはおけないのだ。この女を本当に救えるのは自分だけだと彼は感じている。もちろん、アグラーヤのことは大好きで、本人のみならず友人の前でもそれを公言しており、そちらはそちらでまっすぐに縁談まで話が進んでゆく

 

一方、ナスターシャは、公爵が「白痴」ではなく、誰よりもすばらしい人間であると真っ先に見抜き、自分を救ってくれる存在としてキリストのように崇めている。しかし、公爵の愛に自分は値しないと感じており、エゴイズムと執着心の極地の男、商人のロゴージンとあえて結婚することで、公爵にアグラーヤを選ぶように仕向ける。

 

ここで注目すべきことは、公爵が最後の最後まで、「どちらも好き」な状態のまま、迷うことなく二人の女と同時進行で付き合ってしまうことである。アグラーヤとはデートを繰り返し、実家に出入りして楽しそうに家族とトークを交わし、まんざらでもない様子。ナスターシャのことは「ロゴージンといては殺されてしまう」と言って、救い出そうと追い掛け回す。

 

彼にとっては、どちらも異なる愛の形であり、どちらも等しく彼の人生にとって重要なものであるに違いないのだが、世間知からすると「隠す」か、「選ぶ」かしなくてはならないだろう。しかし、彼にとっては、二人の女性は「どちらも重要」なのであり、二人同時に愛することに迷いはない。だからこそ彼は美しくもあり、白痴でもあるのだ。

 

さて、結局のところ、彼は二人の女から「どちらを選ぶか」究極の選択を迫られる。若くて美しく、熱例に恋をしているアグラーヤ(彼にとっては人生で初の恋愛である)と、かわいそうな破滅しかけている狂気の女、ナスターシャ。

 

もちろん、前者を選ぶのが世間的には正しいだろう。しかも、彼は打算など何一つなく、ただただアグラーヤのことが大好きなのである。天使とあがめており、手を触れただけで顔を真っ赤にするほど純情な初恋の相手なのである。顔を見るだけで心が躍り、この世の春がやってくるのである。山の中で隠遁していた彼は、こんなにすばらしい感情を知らなかったのだ。

 

疑うべくもなく、公爵はアグラーヤと結婚したいと思っていた。ところが、二人に面と向かって「どちらを選ぶか」と聞かれると、彼には決められないのだ。なぜなら、彼は白痴だからである。美しくも悲しいほど、愛に誠実な人だからである。

 

さて、単純に「無我的」観点からすると、ナスターシャを選ぶのが正しいのかもしれない。しかし、それではアグラーヤを傷つけてしまうし、自分の感情も裏切ることになる。かといって、アグラーヤを選べば、ナスターシャは徹底的に救われない。

 

二人の女に鬼気迫る状態で迫られる修羅場の中、混乱した公爵は、ナスターシャを指差しながら、ついこんなことをアグラーヤに向かって口走ってしまう。

 

「ああ、こんなことがありうるでしょうか! だって、この女(ひと)は……実に不幸な女(ひと)じゃありませんか!」

 

憐憫が勝ったのである。

 

僅かな差だが、この口走った一言で、アグラーヤは「ああ、どうしよう」と叫んで部屋を飛び出して行ってしまう。公爵は追いかけようとするが、ナターシャに両手で抱きすくめられ、あの娘をとるの?と詰問される。

 

結局、公爵は半ば失神したナスターシャを介抱してその場に残る。彼の決断は、無我的な観念ではなく、瞬間の発作的行為によって選ばれたものであり、だからこそ生身の人間の運命そのものになりえたのであった。その究極の瞬間、彼の本質があらわになったのである。

 

彼は、恋愛の人ではなく、憐憫の人、すなわち慈悲の人であった。地上的感情に憧れを抱き、その素晴らしさに恍惚としながらも、その本質は宗教的人間であった。

 

すなわち個人的な恋愛感情よりも、キリスト的な人類愛、仏陀的な慈悲に満ちた愛の人であった。「地上の愛」と「神の愛」その二つを同時に生きつつも、結局、「神の愛」を選ばざるを得なかったのだ。もちろん、こうした選択は大抵の場合、俗世間では「失敗」とみなされる。

 

この小説は、悲劇的な結末を迎える。愛を得られないと悟ったロゴージンが、ナスターシャを殺してしまうのである。ムイシュキン公爵とロゴージンが、愛する女の死体の傍らで膝寄せ合って一晩を過ごすフィナーレの何と美しく、何と偉大なことだろう。

 

愛する女を殺した男と救おうとした男が、お互いに繊細な気を使いながら、いたわりあいながら、異常なレベルの精神的交感(これはドストエフスキー後期の小説、特有のものである)によって、二人はほとんど言葉を交わすことなく通じ合っている。この場面は、無名の慈悲がどこからか流れ込み、彼らを悲劇から救おうとしているかのようにさえ見える。

 

結局、異様なショックを受けた公爵は心身を喪失して本当の「白痴」に戻り、スイスに逆戻りしてしまう。真に美しい存在は、現代社会では存在できないという落ちらしいが、この小説が世界から評価され、受けいれられたという時点で、人はムイシュキン公爵の美的価値を認め、その愛の形も評価したのではないだろうか。

 

我々は、現代のキリストを文学的結晶という形で先取りさせてもらったのである。仏陀やキリストのエピゴーネンではなく、俗世間の荒波の中で、無我的なる愛が具体的にどのように現れ出るかというひとつの例を天才芸術家が提示してくれたのだ。

 

ここで重要なのは、今、こうした「無我的」な愛の形が、あまりにもこの世界から失われているのではないか、ということだ。

 

日本だけを見てみても、バブル期の80年台から「恋愛至上主義」とも言うべき、ドラマ、小説、音楽、映画が巷に氾濫し、今でもその流れは続いている。恋愛は恋愛であっていい。ムイシュキン公爵が恋をしたように、恋愛の感情は素晴らしいものだ。しかし、人間はそれだけでは真に美しい人間足りえない。「白痴」もナスターシャへの憐れみの愛なくしては、偉大な小説にはなり得なかっただろう。

 

人は、パンのみにいて生きるにあらず。人は、恋愛のみにて生きるにあらず。さらに言えば、親子愛、家族愛だけでも足りないのではないのだとぼくは考える(今の日本ではここまでが限界かもしれない)。

 

今、我々に真に必要とされているものは、慈悲なのだ。個人から個人に向けての感情ではなく、全体のバランス、調和のために、暗闇や壊れかけたもの、傷ついたものに手を差し伸べ、全人類のために回復させようとする行為。自己を滅ぼしてでも、世界を救おうとする激情。

 

別段、本当に自己を滅ぼせというわけではない。ただ、「無我的なる愛」が最も尊いものだという価値観がこの社会に定着しない限り、すべての問題はなくならないということが理解されなくてはならない。そのためには、美しく、格好良い、積極的価値観を持った新たな「無我的モデル」が必要とされる。人は、観念ではなく、具体的モデルに――すなわち現代のキリストに――新たな時代の指針を見出すのである。

 

もしもキリストが現代に現れたら、既成の宗教的イメージとはまったく異なる、恐ろしく意外な形で自身を表現していることだろう。

 

最近では、『家政婦のミタ』が当たったりと、人は薄っぺらい恋愛ドラマに飽き飽きしているきらいもある。東日本大震災と福島原発の影響から、人間にとって最も重要なものは何か、ということが改めて問われている。今こそ、我々は新たな愛の形を模索し、形にしてゆくチャンスの時でもあるのだ。

 

ドストエフスキーとは言わなくとも、現代の「無我的な愛の形」がこの地上にいくつも現れ出て、人々の意識を変革することが急務だと感じられる。現代のキリスト、仏陀はあなたの隣にひっそりとたたずんでいるのかもしれない。

 

参考文献

『白痴』ドストエフスキー著 木村 浩訳(新潮文庫)


アラスカ便り―北の果てに暮らす日々―

「光のコラージュ」

 

 長岡マチカ(文化人類学を学び、現在、アラスカ在住)

 

 西の空の太陽が辺りを紫色に染める頃、両手いっぱいにケーブルを抱え外に出る。等間隔に小さな電球の並ぶその白いケーブルを、軒下にいくつか突き出す釘にひっかけていく。右の端から左の端まで白い管が家屋の輪郭をなぞる。子ども達は電球のついた杭を雪の中に突き刺す。杭を繋ぐ黒いケーブルが紫がかった雪の上をまっすぐ這っていく。白と黒の管の先端を玄関脇のコンセントに差し込むと、闇に覆われつつある視界がパッと照らされる。眠りかけていた空気が一気に踊り始めたようにも見える。冬至近くのアンカレッジは一日のほとんどを暗闇の中で過ごす。家々を飾る色とりどりの小さな光がそんな闇の中の街をほのかに照らしてくれる。

 

 11月の感謝祭が終わると、窓際にクリスマスツリーの電飾が輝く家も多く見られ始める。メディアからはクリスマスキャロルが流れ、店先にはサンタやトナカイのモチーフが赤と緑のオーナメントに彩られている。クリスマスには毎年ネイティブ・アメリカンの友人から電話をもらう。「メリークリスマス!キリストの光が世界を照らしますように!」明るい真摯な友人の声を聞きながらクリスマスという行事の由来を思う。近所には馬屋でのキリスト生誕の情景を描いた蝋人形を並べライトアップする家々もいくつか見られる。今はほとんどがクリスチャンのネイティブ・アメリカンの友人にクリスマス・イブのミサへ連れて行ってもらったこともある。祭司の立つ教会の祭壇にはたくさんのろうそくが揺れ、透き通った賛美歌が響き渡っていた。

 クリスマス一色の店先。それでもよく目を凝らすとここ何年かは青色を基調としたユダヤの祭ハヌカの飾りが並べられた小さなコーナーがちらほらと設けられようになった。よく知らない相手に対しては「メリークリスマス!」でなく「ハッピーホリデイ!」という言葉をかける人々も増えてきている。子ども達も公立の小学校でクリスマスキャロルの他にハヌカの歌や、アフリカン・アメリカンの祭クワンザについて習ってきたりする。

 ユダヤ暦にのっとったハヌカ、毎年ちょうど街がクリスマスムードで盛り上がる時期に8日間続けて行われる。日の入りと共に8日間毎晩ろうそくに日を灯すことから「光の祭」とも呼ばれている。ユダヤ人の友人宅でハヌカの祝いに参加させてもらったことがある。ろうそくの炎がゆれる中、2000年以上前の出来事、エルサレムの寺院に残されたほんの少しの油で8日間ろうそくの炎が燃え続けたという奇跡のストーリーが語られる。玉ねぎとポテトを揚げたものやドーナッツなどの油を用いた料理に舌鼓をうちながら、ヘブライ語の文字の書かれた独楽を回しチョコレートのコインをやりとりするゲームを楽しむ。隣で友人が言う。「周りには奇跡の光が溢れているのよ。私達が今こうしてここにいるのも奇跡」

 12月の街の賑わいを離れ、山の中に自身で家を建てランプやろうそくの炎で生活する友人宅でホリデイを祝ったこともある。暖炉の薪がパチパチと音を立て、手の中のグラスには手作りのベリー酒が揺れていた。祭の名前には触れずとも、ゆったりと静かに年の終わりの空気に身を浸す。ランプに油を差しながら友人が言った。「私はこの冬至の時期が好き。溢れる光と闇のコントラスト。闇に覆われているからこそ光の源が分かるのよ」

 

 ささやかなライトアップを終え、すっかり暗くなった屋内へ戻る。ダイニングテーブルの真っ白なろうそくに火を灯す。闇の中に子ども達の顔がオレンジ色に照らされている。「部屋を一瞬の内に隅々まで満たすものって何か分かる?光なんだよ」長男がどこかで聞いたのだろうなぞなぞを口にする。様々な場を様々な形で満たす光を想う。窓へ目をやると、半月が雪の表面を青白く照らし出していた。


★編集後記

 あけましておめでとうございます。今月号は、新春対談と称して、ウルトラリンパ開発者の菊地久幸氏にインタビューを試みました。最近はスピリチュアルな業界に苦手意識が生まれていましたが、「本物」のスピリチュアルは別です。それは人類の叡智として人類の意識を底上げする力を持つように感じます。苦難に満ちた時代ですが、「無我的」観点から新たな表現を模索、提出し続ける場として「MUGA」を続けていきたいと思っています。本年もよろしくお願いいたします。(那智)

 


目次

MUGA 第7号

 

◆目次

 

◇アート

 

・詩

『例外者たちの詩』  那智タケシ

 

『季節の詩』     rita

 

◇評論

 

・評論

 

歌うも舞うも法の声 ~「AKB48」に寄せて(たかみな編)

 

高橋ヒロヤス

 

・《無我的観照第3回》

 

 霊的女優・イレーヌ・ジャコブ論

『トリコロール/赤の愛』クシシュトフ・キェシロフスキ監督

                        

那智タケシ

 

◇エッセイ

 

アラスカ便り―北の果てに暮らす日々― 

『オーロラ』   長岡マチカ

 


『例外者たちの詩』  那智タケシ

★詩

 

例外者たちの詩     那智タケシ

 

 

★時が終わる時

 

蒼白い雪が凍っていた

 

真夜中の大気も

 

花も

 

車も

 

思考も、夢も

 

誰かの微笑みさえ

 

時間を置き忘れたように氷結していた

 

しかし、空を見上げると

 

僅かに星だけが瞬いていて

 

我々が

 

永遠の生命の中に生かされていることを

 

こっそりと教示していた

 

一切の生の営みが止まり、

 

時間が止まり、

 

騒々しい思考や、乱痴気騒ぎが止まってもなお

 

動いているものがあった

 

それはあの星と大地の間に

 

街並みを多い尽くすように

 

透徹し、充満していた

 

それは今

 

彼の手に届かないものではなく

 

手を伸ばせば触れることもできたし

 

目を閉じると、体の中に入り込んできて

 

自由に浸透し、

 

呼吸のように行き来した

 

すべてが可視化し

 

目に見えるものが目に見えないものを隠してしまっても

 

人は、この目に見えないものを感じることができる

 

内部にある固形物を

 

そっくり放り出してしまったら



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