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Prologue Reminiscence

 孤独な少年と、純真無垢で苦というものを知らない少女がいたらしい。
 少年と少女は家族や友情、愛という言葉の意を知った。
 それは今から五年以上も前の話。
 私が少年と出会ったのは、高校三年の夏。
 そして今、私は大学一年生。
 十二月下旬の、世間ではジングルベルの鐘が鳴り始める頃。
 クリスマスから初春に掛けた、彼の物語。

Episode1 Reita Sayahara

 冬の夕暮れというのは早いもので、学校の授業を終えた頃には、既に西日が強くなっている。
 ビルとビルの間に挟まれて見える夕陽は、いつもと同じ様に都心を照らし、いつもと同じ風景を、ここから見える景色として、映写機の様に空に映している。
 学校の屋上。
 フェンス越しのここからなら、夕陽に照らされた都心を一望できる。
 いつもと同じ夕暮れ、オレンジ色の空の下の街。
 全てがいつもと同じで変わろうとしない。
 怠惰な俺と同じ。
 惰性だ。
 もし、神様っつーのがいたとしたら、そいつは休む事もなく毎日決まった時間に陽を落としては翌日に朝陽を登らせているという事になる。
 きっと本人も飽き飽きしている筈さ。
 そんな神様って奴がいるとするのなら、俺は言ってやりたいね。
 おお、神よ、たまには別の風景を映してみては如何?
 切り取られた四角い空に、毎日の様に同じ景色を映すだけなら、たまにはもっと違うものを俺に見せてくれって。
 そういえば四角い空って、よく歌の歌詞に使われてるなぁ。
 特に中二病臭いバンドとか。
 まあ、そんな事はどうでもいいや。
 とにかく俺が言いたいのは、もうちょっと日常に刺激的な何かが欲しいって事だ。
 空からペンダント付けた女の子が降って来るとか、祖父ちゃんの家の碁盤に宿ってた平安時代の霊に取り憑かれるとか、実は自分は千年以上も前からある暗殺教団の末裔でとか、そんな漫画やゲームみたいなのじゃなくて……ただ、俺が不満に思ってるのは……。
 一度、舌打ちを鳴らし俯く。
「一回くらい……いいじゃん」
 俺には、二年付き合っている二つ年上の彼女がいる。
昨日の夜、彼女の家での事だ。
 キスとかして、ちょっとエロい話とかして……その場のノリで、いざセックスしようと服を脱がせたところ、頭を引っ叩かれた。
『麗太は、まだ高校生でしょうが! 早すぎるわ、このマセガキが!』
 いきなり怒鳴られた上に何を言っていいのか分からず、俺は唖然とした。
 そんで出てきた言葉が『はあ、すんません』。
 何だよ、それ。
 格好悪過ぎんだろ。
「おう、麗太。まだ、しょぼくれてんの?」
 後ろに誰かが来たようだ。
 そいつはガサガサと音を立てて何かを取り出し、パチンと高い音を鳴らした。
 白い煙が背後から俺に掛かる。
 手で煙を仰ぎ、振り返る。
「何度も言うけど、俺がいる所で煙草吸うなって。ピアスごと耳、引き千切るぞ」
「おお、怖い怖い」
 そうは言っているものの、おちゃらけた顔して煙草を吸い続けている。
 久仁江涼。
 中学からの友人で……とまあ、見ての通りのチャラ男。
 茶色のメッシュの入った髪に耳のピアス。
 よくぞこんな輩が、割と難度の高いこの進学校に入学できたものだと、つくづく思う。
 人は見掛けに寄らないとは、正にこの事。
 おまけに成績も良くて人当たりも良いときた。
 まったく、人間のパラメーター制限ってのは、本当に狂っている。
「教室、誰か残ってた?」
「いや、俺が荷物取りに戻った時には、もう誰もいなかったなぁ」
 ヒロかカズとかいれば、帰りにゲーセンっていう手もあったけど……一人で夜まで時間を潰すってのはなぁ……涼はこれからバイトだし。
「俺、これからバイトだけど。お前どうすんの?」
「仕方ない。今日は、もう帰るよ」
「その方が良いだろ。親父と、あんまり顔会わしてないんだろ?」
「まあ……ね」
 親父は、週に二、三度程、しかも夕方に帰って来たと思うと、夜には仕事に出ている。
 どこぞの女の家にでもいるのか、それとも会社に泊まり込みで熱心に働いているのか。
 今朝、家を出る前に見た書き置きには『今日は夕方には帰る。明日から有休』と書いてあったが、どうだろう。
 仕事が忙しいというのは分かっている。
 昔から、ずっとそうだったから。
 普段は会う事のない親父と、会った時に何を話すべきか分からなくて、ずっと避けてきた。
 だから親父の帰って来る頻度の多い日には、家に帰らず友達の家に泊まる事もあった。
 あの日、親父は俺と一緒に住む事を望んでくれた。
 それなのに肝心の俺ときたら……。
親父は、もしかしたら後悔しているのかもしれない。

涼のバイト先であるコンビニは駅前。
 そんで俺は電車で帰宅。
 駅までは涼と一緒だ。
「じゃあな、麗太」
「また明日」
 涼と別れた後、適当に駅周辺をぶらつこうかと思ってはいたが結局、一人では特に面白くもないので、数分後には駅のホームに降りていた。
 こんな時、梓がいればなぁ。
 今は大学生一年生で二つ年上の彼女。
 俺が高校一年の時にバイト先で知り合って、そんでお互いに同じ学校って事に気付いて、なんやかんやで仲良くなって、付き合う事になって……。
 一年の頃は毎日、帰宅は梓と一緒だった。
 バイトの日は一緒に学校から行って、都合の合う日は彼女の家に行って。
 それが今となっては……。
 色気ねぇ。
「あ、麗太!」
 エスカレーターから降りて来た誰かが、俺の名前を呼び近寄ってくる。
 うちの学校の女子。
 微かな風に吹かれた、肩に掛かる程のセミロングからシャンプーの匂いが香る。
 やっぱ女子高生ときたらこれだよなぁ。
 程良く折ったスカートと、ブレザーから微かに浮かぶ胸の曲線美。
 微かにってのが、また心を擽る。
 ああ、梓も去年までは制服を着ていたんだよなぁ。
 女子制服を見る度に思い出されるぜ。
 制服から浮かぶ胸の……胸の……。
 俺は一度、溜息を吐いて言った。
「色気ねぇ」
 目の前にいるのは、俺を呼び止めた色気のねぇ中学時代からの友人。
 笹滝佐々美。
 ちくしょう、なんて発音しにくい名前なんだ。
 どうして“ささ”って発音が名前に二つもあるんだよ。
「誰が色気ないって?」
「あれ? 本音が勝手に」
 佐々美は小さな足で、俺の脛に蹴りを入れる。
「痛って!」
 そしてニッコリと笑って
「もう一発いく?」
 と、またニッコリ。
「え、遠慮しときます」
 まったく、こんなのを俺のクラスの男子の誰かが見てたら羨ましがる事間違いなしだ。
 こんなチンチクリンのどこが良いのやら。
「珍しいじゃん。麗太が、こんな時間にここにいるなんて」
 ようやく笑顔な裏に怒りが静まった様で、普通に話を切り出してきた。
「たまには、いいじゃん。俺が早く帰ったら何か不都合でも?」
「そんな事、言ってないでしょ。ただ、ほら麗太ってさ……」
 言い掛けて、佐々美は言葉を詰まらせる。
「何だよ?」
「今更なんだけどサッカー、また本格的に始めない?」
 サッカー……か。
 佐々美は中学時代、陸上部に所属していたのだが、なぜか高校に進学するなり俺のいるサッカー部にマネージャーとして入部した。
サッカー熱心だった俺に、中学からの友人という事もあり、かなり共感してくれていた。
 でも佐々美だって、俺が辞めた一カ月後にはマネージャーを辞めていた筈だが。
「だってほら、中学から続けてて高校一年であんな辞め方しちゃったらさ……」
 あの時、俺は周りからどう見られていたのか。
 きっと偽善者とか、考えを勝手に押し付けてトンズラしたとか思われていたのかもしれない。
「それにさ、たまに休み時間に皆とサッカーしてる麗太、なんか凄く楽しそうだったから」
 楽しそうに見えていたのか。
 内心、確かに俺は楽しんではいたが、まだ不完全燃焼だ。
 休み時間に一緒にサッカーをしていたのは、サッカー経験の浅いクラスメイト数人。
 そいつらとサッカーする度に、俺は内心でもっと上を求めてしまう。
「じゃあ、今日はそれだけだから。考えといてね」
 それだけ言うと、佐々美は駅のホームの先頭車両の方へ足早に歩いて行った。
 思えば、佐々美が俺に対して少しばかりの距離を置く様になったのは、俺が部活を辞めてからだっただろうか。
 佐々美だって、俺が辞めてすぐ辞めた身だ。
 部活にコネがある訳でもあるまい。
 俺に、どうしろってんだよ。

 電車で三駅過ぎた所、駅を出て徒歩で五分程の距離にあるマンションの三階、エレベーターを出てすぐ右側の部屋が俺の家だ。
 玄関の鍵は掛かっていて、やはり家の中には誰もいない。
 なんだよ、結局いないんじゃん。
 キッチンの冷蔵庫から缶のコーラを一本だけ持って、自室へ向かった。
 部屋のドアを開け、落胆する。
 散らばった服や漫画に雑誌、ゲーム機等々。
 年明け前だしなぁ、そろそろ片付けねぇと。
 冬休み前の定期テストが明けた後のここ数日、四日連続の一夜漬けの反動もあり、その後の怠けっぷりは半端のないものだった。
おかげで、俺の生活リズムは狂いっぱなしだ。
まあ、その甲斐あってか、テストの結果は思いの外、満足のいく出来だったが。
 今日、起きた時間は午前十時。
 昨日、梓の家での事もあって、目覚めはあまり良くなかった。
 おまけに、そんな時間に起きたものだから、学校には完全に遅刻。
 昼休みに、昨日の梓との事を涼に話したら『ドンマイ(笑)』と爆笑される始末。
慰みとして、以前から涼に貸して欲しいと頼んでいたるろ剣の漫画を一巻から五巻まで貸してくれたが、まだ読んでいない。
 そんで帰宅。
 で、今。
 これが今日の俺の、無機質な一日。
 振り返ってみると、自分の自堕落さには、ほとほと嫌になる。
 せめて今日は掃除だけでもして『まあ、意味はあったかも』とだけ思える様な一日として締めよう。
「よし!」
 とりま制服からラフな部屋着に着替え、涼から借りた漫画の入っているスクバを部屋の隅に、先程持ってきた缶のコーラは冷蔵庫に戻した。
 漫画とコーラは自分へのご褒美だ。
 掃除が終わってから、ゆっくり楽しむとしよう。


 床には塵一つ落ちていない。
 服も箪笥にしまったし、雑誌だって本棚に納めた。
 フローリングには掃除機を掛けて、その上に雑巾掛けもした。
 机の上だって、それなりに必要な物だけを残して、他は引き出しや本棚にしまった。
 完璧だ。
 これなら……梓も呼べそうだ。
 ていうか今まで、俺が梓の家に行くばっかりで、来てもらった事はなかった。
 今度、呼んでみようかな。
 どうせ親父は、たまにしか帰って来ないんだし気を使う必要もない。
 そうだ。
 家に呼んだら飯でも振る舞ってやるかな。
 飯は、いつも自分で作っている。
 親父は飯を作る事が出来ないし、家にいる事も少ない。
 この街に引っ越してきた最初の年は、殆どを市販の物で済ませていた。
 家事全般も、家にいる僅かな時間帯で親父がやってくれていた。
 もしかしたら自分が重荷になっているのではないか。
 なら、重荷である俺が、僅かな面倒を軽減する事はできないものか。
そう思い始めた俺は親父に頼んで、家事全般を引き受ける事にした。
 掃除や洗濯なら、教われば簡単に出来る。
 しかし炊事は、そうもいかない。
 教えてもらう以前に、親父は料理が出来なかったのだ。
 だから俺は、中学一年時に仲の良かった佐々美に料理を教わった。
 休日に部活が終わった後、よく佐々美の家に行ったものだ。
 少しずつ料理も上達して、今では大抵の物ならレシピを見れば作れる様になった。
 洗濯や掃除をして、自分の分だけの飯を作って……。
何かが出来るようになる度に、自分が成長する度に段々、親父に対して顔を合わせて話す事もなくなった。

「さて、と」
 部屋の隅に置いてあるバックから漫画を取り出し、いざ読もうかと思ったのだが、時計の針は既に七時を示している。
 掃除に時間を掛け過ぎたか。
 一先ず夕飯にしよう。
 昨日の夜、多めに作ったチャーハンが冷蔵庫に残っていた。
 今日は、これを温めて夕飯として済ませる事にした。

 残り物のチャーハンとコーラをテーブルに置く。
「栄養のバランスもクソもねぇな」
 まあ、何も食わないよりはマシか。
 以前、作るのが面倒で何も食わなかった日があった。
 あの時は、翌日に全く力が出ずに学校を休んだんだっけ。
 テレビを点け、適当にチャンネルを回す。
 あ、ポケモンとかめちゃくちゃ懐かしい。
 もう何年、見てないんだろう。
 内容は全く分からない展開になっていたが、とりあえずはポケモンを映したまま放置して、チャーハンを完食した。
 両手の平を合わせる。
「ごちそうさま……おそまつさま……」
 ……何してるんだろう、俺。
 リビングにポツンと一人だけで、他には誰もいない。
 部屋に響くのはテレビの音だけ。
 まるで独身の中年男性だ。
 やべぇ、冗談抜きで本当に寂しい。
 ていうか泣けてくる。
 誰かいればなぁ。
「あ、そういえば」
 ……今日は木曜日で、明日は学校が終わった後にバイト。
 しかも梓と同じ時間……か。
 携帯を開き電話を掛けた。
 数度のコールの後、聞き覚えのある声を聞いて、まずホッとする。
『麗太、どうしたの?』
「いや、なんつーか暇だったから」
 俺の下手な口実を聞いてか、携帯電話の向こうからクスクスと小さな笑い声が聞こえてきた。
『嘘』
「え?」
『寂しかったんでしょ?』
 見透かされていた。
 梓には、前にも同じ様な状況で電話を掛けた事があったからだろうか。
『麗太が自分から電話してくる時って大抵、今みたいな感じだよ?』
「そうかな?」
 少しの含み笑いで、照れを誤魔化した。
『そうだよ。麗太は甘えん坊で寂しがり屋なんだから』
 いつもの様にからかわれて、少しだけ赤面する。
 頬が熱くなって、声が震える。
「あのさ……」
『何?』
「明日、金曜日じゃん。休みの前の日だしさ……俺の家、泊まんない?」
 梓の家には、何度も行っているんだ。
 俺の家に呼ぶくらいなら、断られる事はないと思うが。
 電話越しから、紙をペラペラと捲る音が聞こえる。
 手帳でも見ているのだろうか。
『明日かぁ、授業は午前中だけで……。バイトが終わってからだね。いいよ』
「本当?! じゃあ、明日。とりあえずバイトで」
『うん。また明日ね』
 電話を切って、携帯をテーブルの上に置く。
 拳を握り、盛大にガッツポーズを取った。
 どうやら昨日の事に触れなかった辺り、あまり気にしてはいないのだろうか。
 とりあえず今は、そうであると願おう。

 夕食を片付け、上機嫌に部屋に戻った。
 さて、楽しみにしていた漫画でも読むか。
 置いておいた漫画を手に取り、ベットに寝転がる。
 るろ剣か。
 前に実写の映画を見た事があったが、漫画の方はどうだろう。
 映画のクオリティを見ただけに、かなり期待出来そうだ。
 ページを開いたところで、俺は目を丸くする。
 最初のページに写るのは、刀を腰に付け着物を着た優男の絵ではなく、妙に目をキラキラさせたパンツ一丁の女の子。
「これ……ふたりエッチじゃん」
 どうやら、外側のハードカバーを付け替えてあるようだ。
 ご丁寧に五巻まで全て。
 どうしたものかと悩んで数秒。
「仕方ない……か」
 その日の夜は、ふたりエッチの一巻から五巻を熟読した。


 目が覚めると、俺はふたりエッチを手にうつ伏せで寝付いていた。
 そういえば昨日、風呂に入った後も続けて繰り返し読んだんだっけ。
 ふざけた風に見えて、意外と為になる事ばかりが書かれていたのを覚えている。
 でも、こういうのって、絶対に内容がマンネリ化するんだよなぁ。
 5巻までだけで、もう五回以上はエッチしてるって、どういう事だよ。
 手に持っていた漫画を枕元に置き、溜息を吐く。
 なんか……シコッた後みたいで格好悪い。
実際、してないんだけど。
 とりあえず学校へ行く支度しないと。
 ダルイ体を無理やり起こして制服に着替え、リビングへ向かった。
 椅子にネクタイが掛かっている。
 洗面所の方へ行くと、シャワーの水が流れる音が、浴室から聞こえてくる。
 どうやら親父が帰って来ているようだ。
 まあ、俺にとってはどうでもいいけど。
 顔を合わせても、話す事なんてないし。
 洗面所で身支度をし、部屋に戻って漫画をバッグに詰め込んだ。
 俺は廊下で親父に鉢合わせないよう、足早に家を出た。

  =^_^=

 道路の真ん中に倒れている、一人の女の人へ向かって、ただ叫んでいた。
 駆け寄り彼女の体を揺らすも、既に遅かった様で息はない。
 何度も、何度も、発せられている筈もない声を叫び続けていた。

「ほら。沙耶原君、起きて」
 頭をポンッと何かで叩かれた。
 瞑っていた目を開け半身を起こすと、教科書を片手に古典担当の教師がすぐ側に立っている。
 授業中に眠ってしまっていたようだ。
 おまけに変な夢まで見てしまった。
「テスト終わってから、怠け過ぎなんじゃないの?」
 先生の言葉に、周囲から笑いが漏れる。
「はあ、すんません」
 へこへこと謝って、渋々と教科書を開いた。
 先生が俺から離れて、ふと、すぐ側の席の佐々美と目が遭った。
 佐々美はノートに何かを書いて、俺に示す。 
『バーカ』
 は?
 負けじと俺も自分のノートに大きく文字を書いて示す。
『この低能。てめぇよか頭良いわ』
『頭脳の事じゃねーし。このバーカ』
『バーカ』
「沙耶原君に笹滝さん? 痴話喧嘩は余所でやってくんないかな?」
 くだらない筆談を繰り返すうち、結局は先生に注意されて終わった。

 昼休みに皆で飯を食った後、俺と涼は屋上に来ていた。
 たまに授業をサボる場所。
 まあ、頻度は一カ月に一度くらいなんだけど。
 サボる場所として以外にも、放課後の溜まり場とか、涼の喫煙スポットとか。
 ここからの街の眺めも良いし。
 冬だからかな。
 雲一つない空は、めちゃくちゃ高く感じる。
 その直下に広がるのは、いつもと変わらないビル群の風景。
 変わらないからこそ、つまらない。
「あーあ、ダルい」
「いつもの事だろ?」
 俺が切り出した話を隣で聞きつつ、涼は銜えた煙草にライターで火を点けた。
「調子良くなりたいんだったら、どう? 吸う?」
 一箱差しだされた。
「吸わね」
 いつものように素っ気なく受け流した。
「そーかよ。ふたりエッチでも読んどけ」
「やっぱり昨日の!」
 咄嗟に涼の方を振り向いて、彼がニカニカと笑っている事に気付く。
「やっぱワザとか」
「どうだった? 勉強になったっしょ?」
「まあ……」
 段々、内容がワンパターン化してきて、これからの行く末が正直心配な漫画だった。
「なあ、涼」
「?」
「俺、もしかしたら今日……。貸してくれたふたりエッチが役に立つかも。そんで、イケるかもしんない」
「は?」
「いや、だからさ。今日、梓が俺の家に泊まりに来んの」
「でも一昨日の夜、拒否られて結局ヤれなかったんだろ?」
 確かに。
手に汗握って、ガチガチに緊張しまくって頑張ったってのに、あの梓の反応はさすがの俺も傷付いた。
 でも、もしかしたら……。
「もしかしたら、の話な。さすがに、また拒否られたら二度と自分からは攻めねぇよ」
 内心では、もしかしたら、よりはヤれる事を望んでいた。
 部屋に呼ぶとなれば、そこは俺のテリトリーだ。
 空気の流れで、もしかしたらってのがあるかもしれない。
 でも梓の事だ。
 なるべく下手にいこう。
 そうすれば、もしかすると……。
 ああ、駄目だ。
 もしかしたらって、俺はどんだけ期待してんだ。
 駄目だったら、その時はスッパリ諦めよう。
「そういえば、佐々美とはどうなん?」
 今の話題とは一切関係のない人物を上げられ、少しばかりの間を置いて、俺は「は?」とだけ返事を返した。
「だってめちゃくちゃ仲良いじゃん?」
「佐々美とは、ただの友達だよ」
 中学の頃からの友人。
 ただ、それだけ。
 涼と同じだ。
「佐々美の奴、俺と話す時も、お前の話ばっかりなんだよなぁ……」
「そりゃあ、中学の頃はよく三人で遊んでたしな」
「ああ……まあ、そうなんだけどな。……友達かぁ……」
 不服そうな顔をして、涼は短くなった煙草を銜えた。


 バイトの日は、必ず誰よりも早く一番に学校を出ている。
 三時半に学校を出て、四時までにバイトに間に合わなければならない。
 学校前のバス停から、六つ目のバス停の側に、俺のバイト先がある。
 店の名前は『AMANO』
 小さな喫茶店で、名前は元店長の名字から取ったものらしい。
 今の店長は女の人で、名前は天野。
 ……たかだかバイト一年目の俺が踏み込んではいけない、複雑な大人の事情が入り組んでいるようだ。
 時計を見ると、まだ四時ちょっと前。
 少しばかり早かったかな。
 入口付近には、名前は分からないが、幾つかの植木鉢が並べられている。
 花を咲かせているものもあれば、よく分からない細かい葉だけのもある。
 中でも、それが店長のお気に入りらしい。
 名前は……たしか、ベビーティアーズだっけ。
 どうして花も咲きそうにない、こんな殺風景なのがお気に入りなんだろう。
 ドアには『open』と表記された看板。
 ドアを開け、店の中に入った。
 チリンと呼び鈴が高く鳴る。
 店の中にはカウンター席に客が数人。
 殆どが中年の婦人だ
 この時間帯は、ご近所のおばさん同士のガールズトークが盛んのようだ。
「麗太、今日は早いね」
 カウンター越しに梓が呼び掛けた。
「うん。バスの時間が早かったから」
「じゃあ、余分に働いてもらっちゃおうかな」
「はいはい、喜んで」
 カウンターからキッチンを通りロッカールームへ行く。
荷物を置いて、制服の上にエプロンを羽織りキッチンへ出た。
 この時間の分担は、梓が接客、俺と店長がキッチン……なんだけど、店長はどこへ行ったのやら。
「店長は?」
「なんか町内会の役員になっちゃったから、顔を出してくるとか」
 またか。
 あの店長は、いつもバイトに任せて一人で出掛ける癖があるからなぁ。
 まあ、この時間なら注文も少ないから心配なさそうだけど。
 先程まで、おばさん達とカウンター越しで話していた梓が、俺のいるキッチンの方へ来た。
「麗太。今日の夕飯、楽しみにしてるからね」
 泊まりの話か。
 朝から、その事で頭がいっぱいだった。
 バイトが終わったら、とりあえず夕飯の買い物を一緒にして、そんで俺の家で……。
 やる事は一つ。
 今日こそは……。
 それにしても、狭いキッチンの中でこうも接近されるとなぁ。
 エプロンの下のセーターの胸元に、どうしても目がいく。
 堪えろ!
 家までの辛抱だ。
「麗太?」
「は、はい!」
 焦って声が裏返る。
 そんな俺を見て、梓はクスッと笑て「ホットケーキ」と一言。
「え?」
「ホットケーキ三人前、注文入ったよ」
 なんだ、注文か。

 まったく、俺は何を期待しているのか。
 バイト先のキッチンでの、いけないシチュを期待した自分が腹立たしい。
 六時以降になると、閉店一時間前という事もあり、客はサッパリ来なくなる。
 ていうか、店長がまだ帰って来ない。
 いくらバイトだからって、俺達を信用し過ぎなんじゃないのか。
 閉店後の後片付けを二人で済ませていると、ようやく店長が戻って来た。
「店長、今まで何やってたんですか?」
「いやぁ、ごめんね。町内会の集まりが長引いちゃって」
 この人が喫茶店の店長、天野美夏だ
 ギリギリ三十路前なのだが、梓がバイトを始めた少し前に旦那がいたと聞いている。
 そのすぐ後に、ロングだった髪をバッサリ切ってベリショにしたとか。
 あまり本人の前では、髪型や旦那の話題には触れない方がいいらしい。
 しかしベリショでも、整った顔立ちと合間ってかなり似合っている。
 ロングの頃の写真等があれば見てみたいものだ。

「じゃあ店長。お疲れ様でした」
「はーい。もう暗いから、二人とも気を付けてね。あと麗太君、梓ちゃんに変な事しないように!」
 ビシッと指を差される。
「それは……まあ、気分次第って事で」
 目を反らして澄まし気味に言うと、梓は細身な腕を強引に俺の肩に回し、ウリウリと頭を撫でる。
「ちょっ、いきなり何?!」
「このマセガキめぇ!」
 やべぇ、悔しいけど……ずっとこうされてたい!
 内心で、そう思っている事は絶対に内緒だ。

 店を出るまでは、いつもと同じ金曜日。
 普段、梓はオフロードバイクに乗って店まで飛ばして来ているのだが、今日は俺の家に泊まるとの事で、ここまでバスで来たそうだ。
 いつもなら彼女の後ろに乗ってバイクで家に遊びに行くか、一人で真っ直ぐ帰るかのどちらか。
 でも今日は、真っ直ぐ帰る俺の隣に梓がいる。
 やべぇ、めっちゃテンション上がってきた。
 店の前の停留所でバスに乗り、駅前のスーパーで夕飯の買い物をして、電車に乗る。
 やっぱり人が多い。
 いつもの事だ。
 電車を降りたら、後は俺の家まで歩くだけ。
 駅前に位置する居酒屋やコンビニ、それと……ラブホテル。
 ラブホに行くノリなら、俺がどうにか頑張る必要もない。
 そんなノリは到底ありえないだろうけど。
「麗太、寒くない?」
「いや、別に」
 梓は溜息を吐く。
「こういう事って本当なら、彼氏の方が訊くべきなんだけど?」
「え? あぁ……そうだね。梓、寒くない?」
「遅いわ!」と、斜め四十五度からの軽いチョップが俺の頭をヒットする。
「しょうがないなぁ」
 左手に急激な冷たい感触を感じた後、やがてそれに少しずつ温度が込もる。
 柔らかくて、細くて、俺よりも小さな梓の手。
「私は寒いの。だから手、家まで繋ごうよ」
「うん」
 多少、照れ臭いと思いながらも、家までの道は片手に買い物袋、もう片方に梓の手を繋いで歩いた。

「あれ? 開いてる」
 玄関の鍵は開いていた。
 もしかして……。
なんか嫌な予感がする。
「梓、ちょっとここで待ってて」
「え? うん」
 靴を脱ぎ、玄関へ上がった。
 リビングからはテレビの音が漏れている。
 湧きあがる歓声と、饒舌な実況者の声。
 テレビの野球中継だろうか。
 そして追い討ちを掛けるように……。
「よっし! いいよ! そこそこ! ……ああ、もう何でそこでエラー?!」
 明らかに親父の声だった。
 部屋に入ろうとリビングのドアに手を掛けた時、突然ドアが向こう側から開き、親父と鉢合わせになった。
 掛けられたハンガーには親父が仕事に着て行ったであろうスーツが掛けられている。
 親父はというと……どうしてパンツ一丁?!
「おう、麗太!」
「……もう帰ってたんだ。今日は、どうしたの?」
「いやぁ、仕事が早く終わってさ! 明後日からは年末の仕事納めで、もっと忙しくなる。たまには、こうやって家にいるのも良いと思ってな!」
 顔が赤いところを見ると、俺が帰って来る前に飲んでいた様だ。
「あの……寒くないの?」
「なぁに、気にすんな!」
 こいつ、もう駄目だ。
「麗太、大丈夫? 何かあった?」
 玄関から梓の声。
 ヤバい!
「何だ麗太? 彼女でも連れて来たのか?」
 玄関越しに彼女の梓、リビングドア前の廊下にパンツ一丁の親父。
 もう、どうにでもなれってんだ!

 どうして、こうなったのか。
 誰か教えて下さい。
 俺、何か悪い事しましたっけ?
 キッチンで晩飯を作っている俺を差し置いて、梓と親父はリビングのテーブルで酒を飲んでいる。
 しかも何が面白いのか、お互いに大爆笑。
「いやぁ、まさか麗太が彼女を連れて来るとはなぁ。もう本当にビックリだよ」
「麗太の事だから、お父さんがいない事を見計らってたんじゃないんですかね?」
「そうなんだよ。麗太の奴、あんまり俺と顔合わせようとしないんだよ。いつの間にか料理まで出来るようになっちまってなぁ」
 夕飯として作ったパエリア二人分を、梓と親父の座るテーブルに置いた。
「おお! 凄いな、麗太。あれだろ、パエリアだろ?」
「へぇ、麗太って、こういうのも作れるんだね。私も見習わないと」
「梓だって喫茶店で、料理くらいしてるだろ」
「しょっぱい料理って苦手でさ」
 二人で感心しながら、テーブルに置かれたパエリアを見つめている。
 自分の分も持って来て、俺もテーブルの椅子に座った。
「パエリア美味しいね」
「ねー」
 既に二人で意気投合して、パエリアにガっ付いている。
 梓も完全に酔ったテンションだ。
 俺、梓、親父の三人の食卓。
 こんな感じで、夕飯を食べたのはいつ以来だろう。
 昔……本当の家族ではなかったけど、俺に対して家族同然に接してくれていた母娘がいた。
 綺麗で面白い母さんと、可愛くて無邪気な同級生の女の子。
 その人達と一緒に日々を過ごしていくうち、俺はいつしか、その女の子を好きになっていた。
 たまに夢を見る。
 あの日の昼下がり。
 ここにはいない、本当の母さんの事も。

 俺も少しばかり酒を入れた。
 ビールじゃなくてジュースみたいな酎ハイだけど。
 パエリアを食べ終えた頃には、既に親父と梓は意気投合していた。
「アズちゃん、柿ピーとチータラあるけど?」
「あ! おじさんナイス!」
 こいつら、まだ食って飲む気か……。
「ほら、麗太も飲もうよ!」
「ああ、はいはい」
 今夜は悪い意味で長くなりそうだ。

 結局、訳の分からないノリで俺も含め三人で馬鹿騒ぎした挙句、親父が真っ先に酔い潰れてしまった。
 その後に梓も、食器を片付けて目を離した隙に床でダウンしていた。
 親父は椅子の上で、梓は床。
 冬だし、このままだと確実に風邪を引くな。
 家には、俺と親父の布団が二つしかない。
 問題は梓をどこに寝かすか……客人をソファーにってのも悪いし……親父の布団にだけは絶対に寝かせたくないし。
 仕方がない。
 梓を背中に背負って、俺の部屋の布団まで運んだ。
 布団に寝かせてやり、その上に掛け布団を敷いてやった。
 酒臭いし……明日の朝一番でシャワーを使わせてやろう。
「おやすみぃ」
 思わず梓の口から出た可愛らしい寝言に吹き出しつつ、俺も小さく挨拶を返した。
「おやすみ」

 リビングの椅子で寝ている親父も同様に、布団に寝かせた後、俺は毛布を抱きソファーの上で寝た。
 おかげで翌日、体の節々が痛んだのは言うまでもない。


 目が覚めると、窓から差し込む朝陽が直に俺を照らしていた。
 暖かくて心地が良い。
 今日は休みだし、ずっとこのままでいても、誰も文句は言わないだろう。
 リビング外で足音がする。
 梓が起きて来たようだ。
 ドアが開き、彼女が入ってくる。
 かなり気だるそうで、足取りも不安定だ。
「うぅ、頭が痛い……」
「そりゃ、あんだけ飲んで騒げばな」
「そうだね……」
 梓はソファーのすぐ側に座り、俺の頭を軽く撫で始めた。
 この時、どうしてか照れ臭いという感情は湧かなかった。
 ただ、ダルかっただけかもしれないけど。
「何? どうしたの?」
「私を布団まで運んだの、麗太でしょ? しかもあれ、麗太の布団なのに……」
「気にしないで。ここで寝過ごす事なんて、よくある事だから」
「そうなんだ……」
 梓の手が離れる。
 その瞬間に、俺は彼女の手を掴んでいた。
 一瞬、驚いた表情を見せ、すぐに微笑んだ。
「麗太は寂しがり屋なんだから。こんなとこ、お父さんに見られたら恥ずかしいよ?」
「今は親父なんて、どうでもいいよ」
 ただ梓に……側にいて欲しい。
「ここに……いてよ」
「うん」
 お互いに、酔った翌日だからまともな考えが出来なかったのか……それとも本心?
 まあ、いいや。
 なんだか今、こうしているのが凄く心地良い。
「麗太って……弟みたい」
「なんだよ、それ」
「違うな。なんていうか……守ってあげたい……みたいな」
 それは俺の台詞なんだけど。
 結局、俺は……いつも女の子に支えられてばっかりだ。
 今も……昔も……。
「麗太にとって、私は何?」
「梓……さっきから言ってる事が恥ずかしい」
「たまには、いいじゃん。ほら、答えてよ」
「梓は……」
 梓は……俺にとって彼女であり、大事な人であり……俺を守ってくれる人……。
「ほら、あと五秒。五、四、三――――」
「母さん……」
 急かされ、咄嗟に出た答えがそれだった。
 少しだけ恥ずかしい。
 梓はどう思ったんだろう。
 少しだけ構えていると、彼女は小さく呟く。
「そっか。母さん……か」
 昔、母さんがまだいた頃。
 風邪を引いた時は、いつもこうやって側にいてくれた。
 だから……こんな事を言っちゃったのかな。
「聞いても……良いのかな?」
 梓は遠慮がちに俺を見て、一瞬だけ間を置いて聞いた。
「麗太って……お母さんはいないの?」
「俺の……母さんは……」
「あぁ、ごめんね。別に、どうしても気になったとかじゃなくて」
 申し訳なさそうに、梓は謝っている。
 どうしてだろう。
 俺に対して、こんなに弱気な梓は初めてだ。
「謝らないで。別に……もう、昔の事だから。ただ……」
「ただ?」
 母さんを失い、大事な人を失い……俺の周りにいた人は、どんどんいなくなる。
 不安だった。
 だから誰に対しても、まず自分は害のない人間であると認識させるように努めてきた。
 楽しいと皆が感じれば、皆に合わせて笑い、その逆であれば皆と悲しむ。
 そんな風に誰かに合わせていれば、他人に不愉快な想いをさせる事もないし、きっと何かを失ってしまう事なんてないと思うから。
「梓……」
「ん?」
「ずっと側にいてよ」
 泣きそうな位に掠れた声だった。
「うん。ずっと、麗太の側にいてあげる。だから、もう寂しくないよ」
 俺の体を優しく抱き込み、互いにキスをした。
 いつもと違う。
 もっと深くて、温かい。
 舌同士が絡まり合い、互いに合わさる唇がそれを受け入れ合う。
 唇を離した瞬間、交わった唾液が糸を引いて切れた。
 頭にボヤが架かったような感覚に堕ち、セックスとか梓との永遠とか、もうどうでもよくなってくる。
「ねえ、麗太」
「何?」
「いつかは……お互いの事、何でも話せるようになりたいね」
 俺は……いつか梓に、幼い日の事を話さなければならないのだろうか。
 ふいに浮かんだ問いもそっちのけで、俺は梓に聞いた。
「梓は、俺に何か隠している事があるの?」
 近付けていた体を離し、ソファーにぶら下がっている俺の左手を取る。
 そして、自分の胸に押し付けた。
「おい、え?」
「私、今まで麗太とキスとかしてきたけど、ずっとそれ以上の事は拒否ってばっかりだったよね」
 きっと梓は、俺が望んでいる事すらも知っている。
 だからこそ、こんな事を言われると余計に辛い。
「何か理由があるの?」
 一度頷き、深く息を吸う。
「私……怖いんだ」
「何が?」
「私が、まだ高一の最初の頃の話なんだけど……。電車に乗ってたら痴漢に遭ったの。スカートの中に手入れられて……それよりも奥に手が入って来て。私、何も言い出せなくて」
 痴漢か。
 この近辺の路線ではよくある事だ。
 それに高一ともなれば、未だ慣れない学校への緊張にも折り重なって……きっとどうしようもなかった筈だ。
「やっと降りれる駅に着いて、そこから全力疾走で駅から出たよ。その日から……なんだか男の人に……体を預ける事に抵抗を感じるっていうか……」
 伏し目がちに俺を見て、少しだけ笑う。
「あ、でも麗太とはキスとかもしちゃってるか。じゃあ、麗太は特別だね」
「どうして?」
「高校に上がって……麗太に出会ってからの今まで、何人かに告られた事はあったけど、全部断ってきた」
 息が詰まったのか、その場で苦い顔をして下を向く。
 呼吸の調子を整え、まっすぐに俺を見る。
「だって……麗太の事が好きだったから。出会って付き合って、その後もずっと。でも麗太と、痴漢が求めていた事をするのは、正直言うと怖い……かな」
 今まで、梓が俺にこんな発言をした事があっただろうか。
 いつもなら率直に意見を言う筈の梓が、これ程までに困惑している。
 今日、始めて彼女の弱々しい一面を見た気がする。
 梓が、俺に対してこんな一面を見せてくれた。
 だからこそ俺も、改めて梓に告白しよう。
「俺も、ずっと梓が好きだった。今まで、付き合ってるって実感がなかったけど……。ありがとう、話してくれて。大丈夫だよ。まだ俺は高校生なんだから。それに――――」
 ソファから起きあがる。
「それに、梓に手を出すような奴は、まず俺がとっちめてやるから」
 彼女の頭に手を置いて軽く撫でた。
「たまには、麗太にこういう事されるのも、悪くないかも」
「なら、ずっとこのままでも」
「それはない!」
 立ち上がった梓に、腕を引っ張られ、強引にソファに倒された。
 倒れた俺の腹に、梓は股を挟んで乗る。
 女性的な小柄な体型の割に、俺よりも思い切りは良いし、性格もハッキリしている。
 梓は得意満面に笑う。
 ああ、いつも通りだ。
 こんな風に、ずっと梓といるのも悪くない。


Episode2 Ayase Mitsuhara

 土手の上から見えるのは、川。
 そして、そのずっと向こう側に見えるのは、折り重なったビル群から溢れる光。
 それらは夜になっても休む事なく、街を照らし続けている。
 頭上には幾つかの星々。
 透き通った雲のない夜空に、星が一つ、二つ。
「綺麗だね。綾瀬」
 後ろで誰かが俺の名前を呼ぶ。
「明日から冬休みだけど、何しようか?」
「俺はいつも通りだけどな。用があるなら、バイト先に来てくれ」
「ガソリンスタンドなんて、何も用ないよ」
 後ろの彼女は、俺の背中に抱き付く。
「温かい……」
「ああ」
 いつも、ここへ来る時は夜遅く、暗くなってからだ。
 昼間は仕事が忙しくて、こんな所へ来れる余裕なんてない。
 どうしてだろう。
 来る必要なんてないのに……。
 今日みたいな寒い日は、どうしても来てしまう。

 家に戻り、マミの作ってくれた夕飯を食べた。
 今日のおかずはハンバーグ。
 彼女の作ってくれた夕飯を食べる度に、つい数年前の事を思い出す。
 食べなくて良いから、と泣きながら喚くマミを宥めながら、彼女の作ってくれた黒焦げの苦いハンバーグを食べた事。
 彼女の料理の腕の成長っぷりは、今にしてみれば大したものだ。
 彼女ことマミは俺の幼馴染で、小学生よりも前からの付き合いだ。
 中学を卒業した後、家を飛び出してアパートを借り、学校へ行かず働く俺の為に、学生にとっては大切な放課後の時間を殆ど割いてくれている。
 仕事から家に帰れば、必ずマミがいてくれた。
 こんな生活がいつまで続くのか。
 きっと、そう長くは続かない。
 少なくとも、マミが高校を卒業するまでは……。

「綾瀬……また?」
「いいじゃん。明日から休みだろ?」
 布団の中に感じる、もう一つの温もり。
 隣で横になっている、制服のスカートやブラウスを着崩した半裸のマミは、俺に寄り添う。
 互いの肌が触れ合い、体温が伝わり合う。
「マミ。前に比べて胸、でかくなったな」
 掴んだ感触でいうと……Cくらいだろうか。
 いや、女子高生ともなれば、これが平均だろうか。
 ウエストもよく絞まっていて、良い具合に胸が強調されている。
「前って、いつの話?」
「小五くらいかな。あの頃は、かなり小さかった」
「ああ、普通に揉んでたもんね。小六くらいの頃になると」
 俺は密着するマミの、太股から腹部、胸部までを五本の指でゆっくりとなぞる。
 そして到達した乳首を、指で軽く摘まむ。
「ヤらなかっただけ、まだ良かった方だ」
 多少は感じたのか、少しだけ表情を歪めつつも言葉を返す。
「んっ……マジ有り得ないから」
 触れていた五本の指は、彼女の手に握られ、先程までの動作を止めた。
 マミとの初体験は中三の終わり。
 でも、マミの処女喪失は小学五年生。
 あの日、俺は何があってもマミを守ると決めた。
 それなのに今の俺は、こんなにもマミの体を求め、何度もセックスをしている。
 以前、マミがこんな臭い事を言っていた。
『綾瀬とのセックスには、愛を感じる』
マミの初体験は、連中にアイスをアソコに突っ込まれて腹を蹴られた時。
人間とだったら、経験は俺としかないくせに、何を威張っているんだか。
 そういえば、あの日マミを虐めていた数人の女子グループは今、どうしているのだろう。
 連中のマミに対しての仕打ち以来、俺は毎日のように彼女等への嫌がらせを続けてきた。
 机の中に爆竹を仕込んだのは、特に印象深い。
 授業中に教科書を取ろうと、連中がそれぞれ机の中に手を入れた瞬間、教室中にポップコーンの弾ける様な音が響いた後、連中の手は起爆時の火花による火傷で爛れていた。
 その他には典型的に、連中の上履きの中に細かく刻んだカッターの刃を、底の方へ幾枚も敷き詰めたりもした。
 まだまだ語り切れない程の、仕打ちの数々を覚えている。
 手を焼かれ、足を切り刻まれでもすれば、どんな馬鹿でも自分達は狙われていると気付く筈だ。
 やがて連中は、マミを虐めるという娯楽を忘れ、自分達の身を守る事を最優先とする生活を、当時の俺によって強制されるようになった。
 連中への仕打ちが教師間でも問題に上がったが結局、誰も犯人である俺に辿り着く事は出来なかったようだ。
小五の頃の一件もあってか、マミは自分から、目指していた私立中学への入学を拒否し、そのまま俺と地元の中学に上がった。
その後、気が付けば連中はいつの間にか、この街から引っ越していた。
 マミにあれだけの事をしておいて、今は別の街でノウノウと暮らしているのかと思うと、どうしようもない程の怒りが込み上げてくる。
「ねえ、綾瀬。今、何を考えてた?」
「え?」
「顔、凄く怖いよ」
 言われてようやく気付いた。
 考え事をしている時、必ず不機嫌そうな顔をしてしまう。
 昔からの癖だ。
 マミは俺の露わになった体、右手で胸部から腹部へ、左手で脇下へ、両脚で股の間へ、濃厚に体を絡めて来る。
 細い指先でなぞる胸部には、幾つも傷痕がある。
 昔、親父につけられた傷。
 煙草の火を押し付けられ、数度も繰り返し蹴りや拳で殴打された。
「この傷跡も、この痣の痕も……私が綺麗にしてあげるから」
 舌を使い、体を舐める。
 いつも俺とマミがしているセックス。
 このボロボロになった体を見る度、マミは悲しそうな顔をする。
 こんな彼女の顔は、もう見たくないのだが。

 疲れてしまったのか、マミは舌を出し舐める動作を止め、俺の胸部に頬を寝かせる。
「そういえば、お正月前に小学校の同窓会やるって話。聞いてる?」
「ああ、知ってる。博美先生から聞いたよ」
「へぇ、会ったんだ」
「ああ。同窓会もあるし、暫くはこっちにいるらしい」
 博美先生。
 俺の小学五、六年の頃の担任で、今は都内の私立小学校で教師をしている。
 どんな生徒に対しても平等で、生徒を順位ごとに並べろと言われれば、クラスメイト全員を一位にしてしまう先生。
 当時の俺からしたら、只の偽善者にしか見えなかった。
「同窓会って言っても、どうせ小学校に集まるだけだろ?」
「それだけじゃないよ。ほら、覚えてないの? タイムカプセル」
 ああ、そういえば卒業前……クラス合同で校庭の隅に埋めたんだっけ。
 クラス合同と言っても、たったの二クラスしかなかったけど。
 おまけにタイムカプセルなんて幼稚な提案をしたのが、二クラスの担任だったから、全く気乗りなんてしなかった。
 未来へ宛てた自分へのメッセージ……そんなテーマで書かされた手紙を、タイムカプセルの中身としたんだっけ。
 くだらない。
 この一言に尽きる。
 実際、誰もが気乗りなんてしていなかった。
 クラス全体が暗くなっていたというか、五年生の頃の一件もあったし……。
 それに……俺の手紙は白紙だった。
 白紙の手紙を、タイムカプセルの中に入れた。
 あの時の俺は、どうかしていたのかもしれない。
 マミを守る為に、どんな事も厭わなかった、あの時の俺は、親友の最も大切な人を……。
 もう終わった事。
 これ以上、考えるのは止めよう。
 彼女の首の付け根に手を添え、互いに顔を寄せてキスをした。
 互いの舌が絡み合い、離した瞬間に糸を引く。
「昔の事を思い出して、不安になった?」
「は?」
「私、知ってるから。綾瀬は不安になると、キスをして落ち着こうとする」
 キスをすれば、確かに落ち着く。
 マミを直に感じる事が出来るセックスよりも、表情を認識できるキスの方が、俺にとっては互いが繋がり合っているような気分さえした。
 マミは言葉を続ける。
「綾瀬のせいじゃないよ。あの子の事も……全部。私は、綾瀬を選んだんだから」
「そうだよ。殺す気なんてなかった。それなのに……あいつは……」
 真冬の冷たい川に落ちた少女は、必死にもがいて、岸に上がろうとしていた。
 その時、俺は何もせずに、その光景をただ見ていた。
 やがて寒さに体力を奪われ、力尽きていく少女の姿を……。
「もういいよ。綾瀬は何も考えなくていい」
「でも、あいつは言っていた。また、この街に戻って来るって。俺がここ数年間、一番会いたくなかったアイツが……俺に会いに戻って来るんだ。きっと今度の同窓会で……」
 今はどこで何をして、どう過ごしているかも分からないアイツに、未だ恐怖している。
 本来なら今更、こんな所へ来る可能性の方が低いんだ。
 でも、もしアイツが当時の事を知ってしまったら……きっと俺は、アイツに殺される。
「アイツは……俺の事を」
 言葉を紡ぎ掛けた時、彼女は俺の唇を再びキスで塞いでいた。
 二人で体温を感じ合い、ゆっくりと目を瞑った。

 握り合った手に汗が滲む。
 俺が動けば、マミは喘ぐ。
 彼女の喘ぎとシーツや肌の擦れる音が、暗い部屋の中に響いていた。
「なあ、ゴムなしでヤりたいんだけど」
 マミが一度イってから、雰囲気に任せて聞いてみた。
「ダメ。子供できたら、綾瀬は責任取れるの?」
「べつに、構わねえよ。俺、働いてるし金はあるんだ。ガキが一人増えるくらい、どうって事ねぇ」
「さっきまで、あんなに弱気だったのに」
 マミと触れ合って安堵した。
 ただ、それだけの事だ。
 所詮、昔の話。
 もう、誰にも分かりやしない。
 だから少しだけ強気になってみる。
「男ってのは女を圧倒出来れば、いつでも強気になれんだよ。それに……気持ち良過ぎて、どうでもよくなった」
「テキトウだなぁ。ていうか私、綾瀬に圧倒されてるんだ」
「そう、お前は俺にヤられてる。だから、良いじゃん」
 至近距離で合っていた視線を反らし、マミは布団から出て立ち上がった。
 窓辺から畳みへ差す暗く青い月光が、下着も一切着けていない彼女の裸体を照らす。
 色白で細い脚から上半身へ、俺を見下ろす彼女の顔へ視線を上げる。
「おい」
「私、高校生だから。ちゃんと将来の事も考えてるし、夢もある。だから子供は無理」
 そう言うと、マミは風呂場の方へペタペタと裸足の足音を立てて歩いて行ってしまった。
「夢のないフリーターの子供なんて、孕めないって事かよ……」
 深く溜息を吐いて、再び横になった。
 風呂場の方から聞こえてくるシャワーの音が、余計に眠気を誘い、やがて俺は目を瞑った。

 翌日、目が覚めるとマミはいなかった。
 テーブルの上には、マミからの書き置きが一枚。
『高校の友達と約束があるので帰ります』
 どうやら昨日の夜、シャワーを浴びてすぐ帰った様だ。
 時計は午前六時丁度。
 今日は七時からガソリンスタンドでバイトが入っている。
「やべぇ、急がないと」
 シャワーを浴び、身支度を整える。
 ハイブリーチやらブラウン染めを繰り返した後、放置していたら、いつの間にか赤茶色に変色していた髪。
「また、染めないとダメだあなぁ」
 溜息を吐き、ドライヤーだけで軽く髪を整え、耳朶に空いた一つの穴にピアスを通して家を出た。
 下の駐車場に停めてある250ccのネイキッド。
 中学卒業後、フリーター一年目の夏、実家からパクった金で免許を取得し、バイトで溜めた金で買ったものだ。
 スズキBandam250。
 中古車という事もあり、所々に赤い錆びが目立つものの、走る分には何の気にもならない。
 一年以上も乗り続けた、愛着のある人生一台目だ。
エンジンを掛け、フルフェイスのメットを被り、バイザーを降ろす。
 サイドスタンドを跳ね上げ、ウインカーを出した後、アイドリングが安定した事を確認すると、アパート駐輪場から道路側へ向かうと、俺はアクセルを捻った。

  =^_^=

 ガソリンスタンドには、一日だけでかなりの客が来る。
 家族連れ、リーマン、トラックの運ちゃん、バイクに乗ったオッサンや郵便配達、原チャリに乗った学生等々。
 今日ここに来た全員の顔を覚えているかと聞かれれば、素直に「はい」と答えるには難しい。
 つまり、こんな地方の街のガソリンスタンドでも、客は何人も来るって事だ。

 休憩時間にスタッフルームで昼食を取った。
 ついでに携帯を見ると、メールが一件。
 マミからだ。
『さっき大地に会ったんだけど。夕方くらいに駄菓子屋に来てだって』
 ああ、大地か。
 もう小学校も冬休みだしな。
 こっちに来てるのか。
 今、駄菓子屋を経営していた婆さんは、もういない。
 元々、一人暮らしで店を切り盛りしていた婆さんは、俺が中学に上がった頃、ついにダウンした。
 その後、残った駄菓子屋は婆さんの孫である霧原苗に委ねられた。
 大地は、婆さんの孫である苗の弟だ。
 たしか……小四くらいだったか。
 そんな反抗的になりそうな年にも関わらず、もう姉貴にベタベタで、前の夏休みにも苗に会いにこっちへ来ていた。
 それにしても苗は、駄菓子屋なんて不定な職業じゃなく、いつ定職に就くのやら……。
 聞いた話では大学卒業後、この就職難で就ける職もなかったので、暫く駄菓子屋に入り浸る事にしたとか。
 十七歳でフリーターの俺が言うのもおかしな話だが、さすがに彼女もこのままでは拙いだろうに。
 何よりも死んだ婆さんが報われない。

 バイトが終わった後、車の通りの多い大きな道を外れ、住宅街に入った。
 住宅街を少し進んで抜けた細い路に駄菓子屋がある。
 停めたバイクを隅に寄せ、店の戸を開けた。
「ちわ」
 何気なく入ると、小さな店の中には大地が一人だけ。
「綾瀬!」
 そう言って駆け寄って来た大地は、少しだけ大きな箱を抱えている。
「おう、大地。俺に用があるって聞いたんだけど?」
「うん。マミ姉ちゃんに言ってたから」
 持っていた箱を俺に差し出す。
 箱にはガンダムの絵。
 見た所、プラモデルの様だ。
「それで……」
 控えめな表情で俺を見上げる。
「ああ、作るの手伝って欲しいのな」
「うん!」
 元気良く答えたかと思うと、プラモデルの箱を持って奥の炬燵がある部屋に入って行った。
「そういえば苗は?」
 奥の部屋から大地が答える。
「コンビニ行ってくるって。綾瀬も上がってよ」
「そんじゃ、お構いなく」
 靴を脱いで部屋に上がる。
 奥の部屋で、大地は早速プラモデルの箱を炬燵の上に広げていた。
「手伝うよ」
 骨組やパーツは鋏で切り取る為、一つにまとまっている。
 それが四つずつ袋に入っている。
 二人で数枚の袋を開け、説明書を広げる。
 完成像を説明書で見る限り、かなり大きい。
 これを大地だけで作るってのは、さすがにキツイな。
 ていうか、こん大きいプラモ、どうしたのだろう。
「なあ、このプラモ。苗が買ってくれたのか?」
「うん。ここに来た日に貰った」
「ふぅん」
 フリーターですらない、あのケチな苗が……。
 まあ、弟は特別ってわけか。
「よし。サッサと作っちゃおうぜ」
「うん!」

プラモ作りに取りかかって数分、大地は黙々と作業を続けている。
「大地。結構、慣れてるんだな」
「まあね。よく友達とプラモ作ったりしてるんだ」
「ああ、それで」
 プラモなんて作るのは、何年振りだろうか。
 以前、俺自身も友達と二人で、大きな戦艦のプラモを作ったのを覚えている。
 あのプラモは……まだ俺の実家に飾ってあるだろうか。
「プラモ作ったらさ、次は一緒にサッカーしようよ」
 サッカーか。
 小学生なら誰しもが一度は熱中するスポーツだと、俺は思っている。
 現に、俺が小中学生でやっていたスポーツといえば、サッカーしかない。
 中学時代はサッカー部に入っていたけど、結局は途中で断念して退部した。
 たかだが小学生時代に遊び程度でサッカーをやっていた俺は結局、クラブチームで本気になっている奴らには敵わなかったんだ。
 それに小学生当時は気付いていた筈だ。
 いくら俺が、他の奴らより上手くても、自分と同じ境遇で、クラブチームにも属さずにサッカーをしていた、あいつにだけは劣っていると思えてしまっていた。
 だからこそ強敵として、親友でいられたんだ。
「サッカーねぇ。大地は、クラブチームとかには入ってるのか?」
「うん。ギリギリでレギュラー守ってる感じだけど……」
 レギュラーと補欠。
 チームメイトが試合に出ている間に、補欠はひたすらベンチを温め続ける。
 自分がそうならない為に、必死でレギュラー位置を守る。
 小学生の子供には多少、この現実はキツイのかもしれない。
「辛くないか?」
「近所にいるお姉ちゃんや、お母さんとお父さんは、必ず試合を見に来てくれるんだ。だから頑張れる!」
 小学生ながら、色々なモノを背負っているな。
 大地は「それに……」と言葉を続ける。
「楽しいから!」
 そう言った大地の顔は、笑っていた。
「綾瀬、この後、一緒にサッカーしてくれる?」
 今日はバイトで疲れてるし……。
「寒いし、もう夜だから。また今度な」

「ただいま」
 店の戸が開く音と共に、苗の声が聞こえた。
「あ、帰って来た!」
 作業途中のプラモを放置して、大地は部屋を出て苗を出迎えた。
「今ね、綾瀬が来てるんだよ!」
「ああ、やっぱり。表のバイクで分かったよ」
 大地が苗を連れて部屋に入って来た。
 彼女の右手には、数本のビール缶とツマミ、弁当やおにぎりの入った袋。
 こんなんでも数年前までは大学生。
 なかなか可愛い方なんだけど……なんだか残念だ。
「綾瀬がね、プラモ作るの手伝ってくれてるんだよ」
「ああ、それで」
 着ていたコートを脱いでハンガーに掛けると、速やかに炬燵へ腰を落とした。
「ふぅ、暖かい」
 幸せそうに笑って、炬燵の上のプラモに目を向ける。
「へぇ、けっこうできてきたじゃん」
「まあ一応、俺が手伝ってたんだけど。大地が思ったよりも手慣れててな。殆ど、こいつが作ったようなもんだよ」
 炬燵へ戻った大地は照れ臭そうに、先程の作業を再開する。
「私も何か手伝おうか?」
 大地はページの右端を示し、苗に差し出す。
「ここからここまで、お願い」
「よし! 姉ちゃんに任せて!」
 そんな大口を叩いて良いものか。
「苗って、プラモとか作った事あるの?」
「食玩ならよく作ってたよ。セーラームーンとかプリキュアとか」
「ああ、そんなの流行ってたなぁ」
 俺達の世代はプリキュアだっただろうか。
 マミがよく見ていたのを覚えている。

 炬燵の上に―――ガンダム、大地に立つ―――なんてサブタイトルがあったようななかったような。
 三人でパーツを分担して、ようやく完成した。
 途中で苗はダウンして、今は炬燵で寝ているが。
 割と格好良い……というかすげぇ重装備だ。
 最近のガンダムだろうか。
 俺は宇宙世紀しか見た事がなかったからなぁ。
 そんで主人公機体よりも、なぜか敵機が大好きだった。
 そう、ガンダムよりはザクの方が好きだったのだ。
「綾瀬はガンダムの中で何が好きだった?」
「俺は……やっぱあれだな。サザビーとか」
「サザビー?」
 今の世代の子供に言っても、やっぱり分からないか。
 何しろ初代ガンダムの後日談、劇場で公開されたシャアの逆襲だ。
 主人公の宿敵、シャアが搭乗していた機体。
「ガンダムの敵だよ。すげー強くて格好良いんだぜ」
「家一個、吹っ飛ぶ?」
 なかなか物騒な発想だな……。
 まあ、小学生だし。
「おう! もう街一個は吹っ飛んじまうぜ!」
「すっげー!」
 俺も、こんな感じだっただろうか。
 良いなぁ、小学生はどんな事にも楽しそうで。

 苗が起きないので、大地の夕飯は俺が作った。
 と言っても、苗が買ってきた弁当をチンしただけなんだけど。
 その後、帰ろうかとも思ったが、苗を寝かせて大地をこのままってのも心配なので、ここに残る事にした。
 マミには、今日は帰れないと連絡もした。
 同じ様な事は前にも何度かあったし、彼女からどう思われる事もないだろう。
 何よりも、苗の家だし。

 大地が炬燵のある部屋の別室で寝た事を確認した後、寝そべっている苗に毛布を掛けてやった。
 世話が焼ける。
 どっちが年上なんだか。
 そう思い俺が立ち上がったと同時に、苗が目を覚ました。
「ぅん? 綾瀬?」
 ゴシゴシと目蓋を擦り、掠れた声を出す。
「ああ、悪い。起こしちゃったか」
「いや、別に大丈夫。勝手に寝ちゃった私の方が悪いんだし。てか今、何時?」
 壁に掛けられた古びた時計は、夜中の十一時を示している。
「かなり寝てたみたい……。ヤバい! 大地に夕飯!」
 焦って立ち上がろうとしたところで、足のバランスを崩し、再び床に崩れる。
 更に、長い髪は炬燵の脚に挟まっていて、なかなか抜けない。
 もう、見てられねぇ。
 炬燵の脚を少しだけ持ち上げ、挟まっていた髪を払ってやった。
「大丈夫。大地にはお前が買ってきた弁当、食べさせたから」
「そう……なら良かった。でもさぁ――――」
「え?」
 あまりにも最後の方の声が小さくて聞きとれなかった。
 もう一度、彼女は言う。
「でも、私の夕飯はまだなんだけど?」
「えっと、それはつまり俺に何を要求しているわけで?」
 苗は、よっこいしょ、とでも言わんばかりに立ち上がり、俺の手を取る。
「え?」
「ちょっと付き合ってもらうよ」
 やばい。
 この二ヤケ顔は……。

 苗は頬を赤くして、俺に愚痴を垂らし続ける。
「やっぱりさぁ、こういう事してないとやってられないわけ! 分かるでしょ?」
「ああ、はい」
 その愚痴に俺は、ただ頷く。
「あ、オジサン! 瓶ビール一つ!」
「はいよ!」
 カウンター越しのオジサンに、苗は空のビール瓶を振る。
 ああ、どうしてこうなったのか。
 速攻で帰れば良かったものを……。
 あの後、俺が苗に連れて来られたのは、駅前の居酒屋だった。
 以前、初めて入った居酒屋もここ。
 その時は、バイト先の年上の仕事仲間で来ていた。
「本当にバイトとか疲れるよね! 私も綾瀬の気持ち分かるわぁ!」
「え? バイト始めたのか?」
「うん。夜のコンビニ。昼は駄菓子屋の店番……と言っても、殆どダラダラしてるだけなんだけどねぇ」
 定職ではないが、駄菓子屋よりは安定する職業を見つけられた様で、少しだけ安心した。
「ついに苗もフリーターか。まあ、俺もだけど」
 一緒にされたのが嫌だったのか、少しだけむくれる。
「ちょっと、私だって来年には就活するからね!」
「え? 冗談じゃ……」
 ジッと俺を睨む。
 どうやら冗談じゃないらしい。
 しかし、大学卒業後の空白の数年間は、就活での書類上、大きな弱点になってしまう筈だ。
 例えば面接官に「卒業後は何をされていたんですか?」と聞かれた際、病の類ならまだしも、彼女の場合は「駄菓子屋で働いていました」なんて言って良い筈もない。
「せめて、大地にプラモを買ってやれる位の収入は安定させとけよ」
「分かってるよ。あのプラモだって、大地が来るのを見越して九月頃に買ったんだから」
 九月?
 夏休みの終わり、大地が帰ってすぐ。
「あれって夏休み明けからあったのか?!」
「うん。ずっと大地が来るのを楽しみにしててさ!」
 せめて、大地が帰る前に買ってやれば良かったものを。
 まあ、お互いに満足してたみたいだから良いんだけど。
「大地はシスコンだし、苗もブラコンだな」
 先程までケラケラと笑っていた苗が突然、俯き鼻を啜り出す。
 それに応じて、俺は身構える。
「だって、来年は来てくれるか分かんないじゃん」
 鼻を啜り、ビールを飲み、焼き鳥にかじり付く。
「大地にプレゼントを用意しておけば、絶対に来てくれるって思えるんだもん。だから大地が帰った後、私、凄く寂しくて……」
 どうしてか言っている事が現実的過ぎて、俺にも彼女の言葉が突き刺さってくる。
 しかし大地が中学生とか、もっと大人になれば話は別だが、あいつはまだ小学生だ。
 しかも姉貴にベッタリの。
 とりあえず、来年からパッタリ来なくなる様な事はないと思うが。
 俺にとっての問題はマミだ。
 あいつは、いつまで俺と一緒にいてくれるのか。
 いや、俺みたいな男といつまでも一緒にる程、あいつは馬鹿じゃない。
 現に、言っていたじゃないか。
「ちゃんと将来の事も考えてるし、夢もある」
 だから……俺の子供は孕めないか……。
 バイトへ行って、家に帰ればマミがいてくれる。
 こんな生活がいつまでも続く筈がないんだ。
 無駄に夢を見て……結局、痛い目を見るのは俺だ。


 互いに千鳥足で、苗を家まで送った後、酒が入っている為、バイクは引いて帰った。
 家に着いたのは深夜の二時頃。
 さすがに飲み過ぎた。
 めちゃくちゃ気持ち悪い。
 明日のバイトは夕方からだし、水飲んでゆっくり寝よう。
 アパートの階段を登り、部屋に入る。
 敷いたままの布団に身を倒し、目を瞑った。

  =^_^=

 川岸の深い泥にはまった少女は、激しく体をバタつかせていた。
 まるでクモの巣に引っ掛かった蝶の様だ。
 やがて彼女の意識はなくなり、川の底へ沈んだ。

 ずっと目を反らしていた。
 見たくなかった。
 思い出したくもなかった。
 それなのに……。

  =^_^=

 布団から体を起こし、先程まで見ていた光景が現実でなかったと判断した。
 夢だったんだ。
 安堵の脱力と、びっしょりと汗で濡れた体に鳥肌が走る。
 小五の頃の担任に会って、同窓会の話を聞いてから、不定期にこんな夢を見る。
 気にする必要もない不安だけが、俺を悩ます。
 体を丸め、再び布団に転がる。
「うぅ」
 二日酔いだ。
 頭が痛い。
「アイツが悪いんだ……全部、アイツが……」
 唸っていたその時、インターホンの高い音が部屋に響いた。
 くたびれた体を起こし、ドアを開ける。
 マミだった。
「綾瀬、大丈夫? 汗びっしょりだよ」
 心配そうに俺を見ている。
 怖い夢を見た……なんて言えない。
 でも、もう……。
 立っている事さえも間々ならなくなり、俺は前に倒れた。
 マミは驚いた表情を浮かべつつ、俺を両腕で抱き支える。
「嘘っ、ちょっと! しっかりしてよ!」
「もう……嫌だ……」
「え?」
「マミ……ずっと側にいてよ……」
 もう、どうなってもいい。
 マミさえ側にいてくれれば、それでいい。

 マミがコップに汲んでくれた水を飲み、一先ず布団の上に座った。
 マミも俺の向かいに座る。
「お酒臭いけど、飲んでたの?」
「うん……飲んでた。昨日、苗と……」
「ああ、苗さん。そっか、駄菓子屋に行ったんだっけ」
「うん……それで……」 
 頭が回らず、上手く言葉が出ない。
 ただ、ここにいてくれるマミが恋しい。
 
 いつか、マミは俺から離れていく。
 
 重なった不安は俺を追い詰め、アイツへの恐怖心を抱き、夢まで見させた。
 小学生の頃の出来事……ただの夢。
 もう終わった事。
 それなのに只事の様に思えなくて、どうしようもない程の不安に駆られる。
「何があったの? それともただ、酔ってるだけ?」
 マミが苛立たしげに俺を睨んでいる。
 話さないと……。
「俺、怖い夢を……見た」
「夢?」
「女の子が川に落ちて……俺は、ただそれをジッと見ていて……」
 俺の怯えた声に、彼女の溜息が重なる。
「綾瀬。もう昔の事なんだから。それに私は、あの子よりも綾瀬を選んだ」
「だけど」
 言い返そうとした俺の言葉を遮り、マミは俺の首に腕を回して身を寄せる。
「それにさぁ、私はどこへも行かないよ」
「だって……俺の子は産めないって……夢があるからって」
 マミは戸惑いつつも、少しだけ声を張り上げる。
「バカ! 私、まだ高校生だよ? こんな時期に産めるわけないじゃん。それに、私はどこへも行かない」
 マミはジッと俺の目を見る。
 その表情には、先程の苛立ちは見られなかった。
 そして言葉を続ける。
「正直な話。夢なんて、まだないよ。だから私の夢は、これから綾瀬と見つける」
「マミ……」
 彼女の小さくて細い指が、俺の頬を伝う涙を拭う。
「ほら、らしくないよ。いつものクールな綾瀬はどうしたの?」
「俺、クールだったのかな?」
「うん。皆の人気者で、イケメンでクールな優等生」
 そんな風に印象付けられていた小中学生時代もあった。
 でもマミが、このままずっと俺に付いて来てくれるのなら、俺はあの日の俺であり続けよう。
 そんな風に思う。


Episode3 Boys will be boys

 夏の日。
 家の庭に置かれたプランターの前に、俺達はしゃがみ込んでいた。
 すぐ隣にいる少女は、俺に語り掛ける。
「これはママが大事にしてるお花。葉は摘んで紅茶に出来るんだって」
 少女は自分の母親が育てている紅茶の葉について、自慢げに俺に説明している。
「二人とも、仲が良いのは感心だけど、もうすぐ夕立が降ってくるわよ。早いとこ家に入っちゃいなさい」
 家の中から彼女の母親が、俺達を呼んでいる。
「オヤツある?」
「勿論。美味しいハチミツのマフィンがあるから、いらっしゃい」
 少女は大喜びで母親に抱き付く。
 そして
「ほら、麗太君も!」
 俺の名を呼ぶ。
 少しだけ、照れ臭いと思いながらも、充分に幸せだった事を覚えている。

  =^_^=

 目が覚めると天井。
 自宅の、マンションの一室。
 先程まで見ていた光景が夢であったと、布団から起き上がってようやく気付いた。
 少しだけでいいから、戻ってみたい。
 そう思う日が幾度かあった。
 今もたまに……思う事がある。

 冬休みに突入して、三日が経っていた。
 先日のクリスマスは、梓の家で過ごした。
 一緒にケーキを食べて、酒を飲んで、適当に騒いで、結局はいつもの泊まりと、そう変わらなかった。
 先日までの詰め過ぎだった予定とは逆に、今日からは少しだけ増やしたAMANOでのバイトの予定しかない。
 ここ最近、予定が詰まり過ぎて疲れちゃってたのかな。
 連日連夜、似たような夢を見るのは、そのせいでもあるのかも。
 まったく、どうかしている。
 体を起こし、ヒーターの電源を点けて部屋を暖めた。
 その間、俺は室内をグルグルと迂回する。
 体の疲労以外に原因があるとするなら、高校二年生の特殊な能力に目覚めつつある俺への警告か、それとも宇宙からのメッセージ?
 いやいや、そんな事ある筈ない。
 イタイ中二病の考えだ。 
 じゃあ、あまりにも性欲が抑え切れなくなって、こんな夢を見るにまで至った?
 結局、梓とヤれなかった事が原因か。
 なんだか言い出しにくいんだよなぁ。
 それ以前に先日の彼女の発言は、和姦オッケーという事だったのだろうか。

ふざけている場合じゃない……。

 事の深刻さに俺は、薄々ではあるが気付きつつあった。
 こんな夢を見る事自体おかしいんだ。
 それでも、きっと俺は目を反らし続ける。
 もう終わった事として、出来る限り些細な現実逃避をしながら。


 今日も親父は仕事で家にはいない。
 年末だし、更に忙しいのだろう。
 時間は午前十一時。
 今日は十二時頃から、涼と佐々美に会う約束がある。
 なんかダルイなぁ。
 佐々美だっているし……。
以前、彼女が話していたサッカーの件。
まだ明確な返事は返していなかった。
本人が言うには、その話は年明けから、との事だ。
でもサッカーとか、もう今更って感じだし。
 温まった部屋の床に座り呆けていると、置いてあった携帯のバイブが鳴りだす。
 涼からだ。
『駅前のマック集合な』
 メールは佐々美にも一斉送信されている。
 仕方ない、行くか。

 駅前は、いつも通り人でごったがえしていた。
 実際、家にいる方が楽だったかも。
 でも結局、ずっと家にいたところで一日の大半をゴロゴロしているだけで潰してしまうんだけど。
 まあ、いいや。
 とりあえず昼飯を済ませられるし。
 店内に入ると、奥の四人席に座っている涼と佐々美が見えた。
 どうやら既に注文を済ませて、食べていた様だ。
「おう、麗太!」
 手を振り、こちらに合図する。
 それに軽く手を振り、レジで注文をしてから席に座った。
 今日の昼飯はビッグマックのセットMサイズ。
 昼飯には丁度良い分量だ。
「これ食ったらどうする?」
 俺が聞くと、佐々美は財布を確認し出す。
「お金ならあるから、カラオケとかゲーセンとかならオッケーだよ?」
「俺、ボーリング行きてぇ」
「え? じゃあ私はバッティングセンター」
 なぜか疲れる提案ばかりが上がる。
「お前等、元気だな」
「そりゃあ、麗太は梓さんと毎晩お楽しみで疲れてるだろうからなぁ」
「え?! そうなの?」
 からかい気味に言う涼の隣で、佐々美だけが真剣に俺を見る。
 いったい、どんな返答を期待されているのか。
「いや、別に……特に何かしてるってわけじゃねぇし」
「へぇ、まあ麗太と梓さんの事なんて……私には関係ないけどさぁ」
 そう言って、そっぽを向く。
 まったくコイツは、考えが行動に出過ぎていて分かりやすい。

 昼飯を済ませた後、俺達はゲーセンやらカラオケで時間を潰した。
 いつもの休日と同じ。
 何事もなく、一日が終わった。

  =^_^=

「あなたさえいなければ、――――は死ななかったぁ!」
 叫んだ女は俺を床に押し倒し、首に手を掛けた。
 首が圧迫され、掠れた声だけが出る。
 喋る事は出来ない。
 いや、元々できなかった。
 喋れなかったんだ。
「あなたのママが死んだのだって、あなたのせいよ! ――――だって……」
 母さんを失って――――までも失った。その翌日、俺は……。

  =^_^=

 目が覚め、起き上がった時、ここが現実であるかを疑った。
 あまりにもリアルな……夢。
 俺の首を絞めた女。
 どうして、あんなに怒っていた?
 俺が……。
 ――――を殺したのは……俺?
 違う!
 誰のせいでもない。
 彼女が勝手に死んだんだ。
 俺のせいじゃない。
 母さんだって……。
 小学五年生の春で終わってしまった、俺の中にある母さんの記憶。
 それはほんの僅かな、極断片的なものでしかなかった。

 こんなに寒い冬の日なのに、体は汗で濡れていた。
 暫く経って、部屋から出てリビングへ行くと、スーツを着た親父が椅子に座って新聞を眺めている。
 テーブルの上にはコーヒーとトースト。
「麗太、どうした?」
 茫然とドアの前に立つ俺に、親父が話し掛けた。
 上の空になっていた俺は、咄嗟に応える。
「いや……なんでもない」
「珍しいな。麗太が、こんなに早く起きるなんて」
 時計を見ると、まだ朝の五時半。
 見たところ、親父はこれから出勤のようだ。
「ちょっと早く起きただけ。特に意味はないよ」
 声が震えている。
 俺は何に怯えているんだ?
 さっきの夢?
 いや、ただの夢じゃないか。
 何も怖がる事なんてないんだ。
「麗太、大丈夫か?」
 俺の異変に気付いた親父は、読んでいた新聞を置き、心配そうに俺を見る。
「いや……えっと、親父……」
 今まで、もう終わってしまった事として、ずっと目を反らしてきた。
 忘れようとしてきた。
 だから、あんな夢を見たんだ。
 だから本当の母さんの事すら思い出せなかったんだ。
 あの母娘や実母の事を、ただ知りたい。
 そうすれば何かが変わるかもしれないから。
 もう終わってしまった事であっても、知らないといけないと思った。
 
「親父、話があるんだけど」
「それは、今からじゃないと駄目か?」
「うん。今、知りたい」
 知る事で、あの日、生み出されたトラウマや夢から逃れる事が出来ると期待していた。
 母さんの事も……。
 それもまた、一つの逃避であると知らずに。

親父の向かいの椅子に座った。
 出してくれたコーヒーを一口だけ飲み、俺は話を切り出す。
「俺が小五の時ってさぁ……どんな事があったんだっけ……」
 やや控え気味に話す俺に、親父はどこか物悲しげに語りだした。
 俺の知っている事も知らない事も……あの日の事の全てを。

 始まりは、俺が小学五年生だった頃の春休み。
 母さんが交通事故で亡くなった。
 そのショックからか、俺は声を出す事が出来なくなった。
 医者の話では、精神的なショック。
 仕事で単身赴任中だった親父は、俺を隣家に住むクラスメイトの家に預けた。
 それから始まる、隣家に住む母娘との楽しい日々。
 しかし、それも長くは続かず、娘の失踪の後の死亡という形で終わった。
 娘の母親は、彼女の死の原因は俺だと思いこんでいた様だが……今はどうしているのか。

「まあ、お前が日々、ここの生活に違和感を感じている事は、なんとなく気付いていたよ」
 違和感?
 そうだ。
 俺は確かに、ここの生活には違和感を感じている。
 しかし、それも一時の事。
 ここに引っ越して来て、もう五年以上は経つ。
 ようやく、この生活にも慣れてきたところだ。
「お前にも、隠していた事はあったしな」
「隠していた事?」
「ああ、そうだ。あの日、母さんを車で撥ねた男は、保険や慰謝料の請求の話が終わった今でも、俺に送金を続けている」
「送金?!」
 保険や慰謝料。
 そういったゴタゴタした話を、当時の俺は理解していなかった。
 今になって初めて知る、新しい事実だった。
「彼は、お前の母さんを殺してしまった事を、あの日からずっと悔い続けている。必死になって働いて、ようやく貰った給料を、俺に送金している」
 最初の方は、親父も送金を断っていたようだ。
 しかし男は、俺の大学進学までの間、送金を続けさせて欲しいと、親父を説得したらしい。
 幸せな家庭の未来を奪ってしまった。
 自分は、憎まれて当然の存在。
 だから、せめて事故現場にいた俺の為に、送金を続けたいとの事だった。
 大学への進学。
 男のからの送金は、その為の費用として蓄えているらしい。
 母さんの事故の原因は俺だった。
 その筈なのに……。
 男の話を聞いてから、自身のしでかした事の愚かさを、改めて実感した。
 母さんも、車を運転していた男の人生も……俺は壊してしまった。
「このままじゃ、ダメだ。知りたいんだ、あの日の事。母さんの事も、俺が、あの街にいた事も」
 知って、俺はどうするんだろう。
 もう母さんはいないし、あの母娘だって……。
「お前は、これからどうしたい?」
「俺は……」
 俺は、どうしたい?
 今更、親父の話を聞いたところで、もう取り返しの付かない事だって分かっている。
 全部、終わった事。
 それでも……。
「昔、俺が住んでいた街に行く。そこで……」
 言葉が出ない。
 ただ、明確な目的というものがないのだ。
 しかし、あの街に行く事によって、何かが変わるかもしれない。
 なんの目的もなしに、そんな淡い期待すら抱いていた。
「分かったよ」
 親父は立ち上がり、メモ用紙を持ってきたかと思うと、そこに何かを書いて俺に渡した。
「うちの墓がある霊園の住所。そこに、お前の母さんがいる」
 そういえば毎年、親父は盆になると、あの街へ日帰りで行っていた。
 俺はあの街を離れて以来、一度も訪れてはいない。
「お前の金の心配はいらないな」
「バイトで貯めた金がある」
「冬休みだし、時間は好きに使え」
 俺に話をしてからの親父は、どこか寂しそうで、いつもより冷たかった。
 仕事ばかりで家にいる事のすくなかった親父でも、母さんが死んだ時は悲しかったんだ。
 人生で一番、幸せだった時期に、一番大切な人を失って……俺みたいな奴を、ここまで育ててくれた。
「なあ、親父」
「なんだ?」
「ありがとうな」
 柄にもなく親父に言った言葉は、そんなにもチンケな一言だった。
 でも少しだけ、親父は歯を出して笑い掛けてくれた。

 バイトの店長には「急用の為、今日は休みます」と電話を入れた。
 梓には、どうせ日帰りだし、連絡する必要もないだろう。
 身支度を整え、財布や携帯をジーンズのポッケに仕舞う。
 ショルダーリュックと、ポケットには財布と携帯。
 外へ出て、玄関のドアに鍵を掛けた。
 もう親父は家の中にはおらず、俺が支度をしている間に出勤してしまったようだ。
 現在の時刻は、朝の八時半。
 電車の発着時刻と向こうの街までの路線を調べたところ、八時半発の電車で、一時間半程で着くらしい。
 マンションの階上から見える雲一つない空は、冬である為か真っ青に透き通っていて、より高く見えた。
 遠出には絶好の日和だ。


 路線を一度乗り替え、ラストに下り電車に揺られる事、約四十分。
 聞いていたウォークマンのイヤホンを耳から外し、電車を降りた。
 見上げた空は、出発時に見たものと同じ。
 しかし眺める街の景色は全く違う。
 然程、大きな建物はなく、駅周辺にはコンビニが一つと居酒屋が数件、進学塾が二つ。
 見渡した向こう側には、集合住宅が立ち並んでいる。
 やはり都心と比べると、あまり人も歩いていない。
 こんな感じだったか。
 俺がいた頃に比べると、多少は工事等で発展した様だ。
 それにしても……。
 線路の下り行きの、向こう側を見上げる。
 そこには線路を跨いで、一本の誇線橋が架かっていた。
 昔は、あんなものはなかった。
 たしか、その真下に踏み切りがあった筈だが……あれを作った際に取り壊したのだろうか。
 懐かしい……という率直な感想が浮かぶと予感していたのだが、まさかこうも裏切られるとは思わなかった。
 浮かんだ感想は予想していたものとは違い、ここが本当に、かつて自分の住んでいた街なのか疑わしい、という疑問だった。

 三台しかない改札を通り抜け、まず俺は親父から受け取った住所を確認した。
 携帯で住所を検索し、霊園を探す。
 この駅の東口からバスが出てるな。
 東口は……探すまでもないか。
この駅は何とも単純な構造をしていた。
 中は吹き抜けになっていて、改札口を向かいに、右側へ真っ直ぐ行けば北口、左側へ真っ直ぐ行けば南口。
 駅構内には券売機と売店が一つしかなく、壁に掛けられた妙なオブジェとベンチしかない。
 こんな所だったんだ。
 あの頃の俺からしたら、きっとこんな殺風景が当たり前だったんだ。

 東口には駐輪場と隣接して、バス停があった。
 停まっているバスの電光掲示板には、霊園付近の団地の名前もある。
 これだな。
 バスに乗り、座席に腰掛ける。
 乗客は老人や青年が数人。
 なんだかノンビリした街だ、と改めて実感させられた。


 バスから降り、霊園に入る。
 そういえば、こんな感じだったか。
 この霊園に来たのは、母さんの葬式の後。親代わりとして育ててくれた母親と来た
のが最後だった。
 僅かな記憶を頼りに幾つかの角を曲がり、ようやくそこに辿り着いた。
 沙耶原家之墓。
 墓標には、そう刻まれている。
 沙耶原なんて名字、そうはない。
 きっと、これで合ってる。
 墓石は綺麗に手入れをされていて、敷地の土からは雑草も生えていない。
 親父が最後に行ったのは今年の盆の筈だ。
 他の誰かが手入れをしてくれているのだろうか。
 ふと気付いたが、線香を買っていなかった。
 とりあえず拝む事くらいは、しておこう。
 両手を合わせて目を瞑る。
 拝んでる間って、何を考えれば良いんだろう。
 墓参りなんて、保護者代わりだった母さんと、本当の母さんの墓参りに来て以来だったから、よく分からない。
 結局、何かを考える事もなく、ただ手を合わせて目を瞑っていた。
「あれ? どなた?」
 後ろから女の人に呼び掛けられた。
「え?」
 沙耶原家之墓の敷地より外に、一人の女性が立っている。
 整った顔立ちや身なり、まだ充分に残る頬の張り、歳は三十程だろうか。
「あの……俺は、沙耶原の息子の……」
 一歩踏み出し、敷地に入ってくる。
「もしかして……麗太君?」
「え、どうして俺の名前を?」
 彼女は眼を見開き、俺を凝視する。
「へぇ、変わったねぇ」
「いや、誰ですか?」
「覚えてないの? ほら、麗太君が小五の頃の担任」
 お調子者、若い、綺麗、ノリの良い先生。
 そんな評判が当時、保護者や生徒の間で出回っていた。
 あとは……生徒に順位を点けるとしたら、皆を一番にしてしまう事。
 なぜなら人それぞれに、個性があるから。
 それぞれに違う個性は、他の誰かに負ける事はない。
 道徳の授業での、そんな言葉が印象的だった。
「博美先生」
 自然と彼女の名前を呼んでいた。
「そうそう、覚えててくれたんだ!」
 嬉しそうに笑っている。
「どうしてここに?」
「私、この街に来るのは半年振りなのよ。麗太君が引っ越した次の年、他の学校への転任が決まってね。なかなか来れる機会も見つけられなかったし、こっちへ来たんだから、お墓参りくらいはしようかなって」
 俺が引っ越した年、――――が死んだ日の翌年。
 色々と大変だったんだろうな。
 まさか、自分のクラスの生徒の一人が死ぬなんて。
 その上、その母親は彼女にとっての友人だった。
 転任の理由は――――に関した事だろうか。
 いや、あまり聞かない方が良さそうだ。
「麗太君に会えて嬉しいわ。まさか同窓会に来てくれるなんて」
「同窓会?」
「そう、午後から小学校の校庭で。こっちの友達から聞いて来たんじゃないの?」
「いえ、何も……」
 変に偶然が重なってしまったようだ。
 どうせ行ったところで、誰も俺を分かりはしないが。
 この街に住み続けて互いに顔を見知っている奴等からしたら、俺なんて記憶の隅っこにしか位置していないんだ。
 記憶の殆どは、昔から付き合いのある限られた友人と、新しい友人で上書きされる。
 現に、俺自身がそうだから。
 ここに来たのは昔の友人に会う為ではない。
 ただ、母さんの事が気掛かりだっただけ。
「そっか……でも、聞いたからには行くしかないよね?」
「いや、俺は……」
「それに綾瀬君も来るって」
「綾瀬」
 なぜか、その名前だけは鮮明に覚えていた。どこか安心する懐かしい名前。
 放課後は綾瀬を交えて皆と外で遊び、二人
で駄菓子屋へ行ったり……たまに衝突して嘩
したりする事はあったけれど、俺にとっては最
も頼れる親友だった。
「綾瀬か……」
「そういえば、綾瀬君と仲良かったよね」
「ええ、まあ」
 よく一緒にいたし、やはり誰から見ても仲の良い友人だったのだろう。
「綾瀬君に会ってみたくない? それに他にも友達は来るよ」
「どうせ皆、俺の事なんて覚えてませんよ」
 博美先生から目を反らし、そっぽを向いて苦笑する。
 そんな俺に、然も真面目な返答が返ってくる。
「大丈夫。皆、麗太君の事を忘れたりなんてしてないから」
 少しだけ間を開けて、言葉を紡ぐ。
「それに私は、麗太君を信じてるから」
 博美先生の放った最後の一言が、どうしてか気掛かりだった。

 その後、午後の同窓会へ行く事を半ば強制的に約束され、駅前のバス停で彼女と別れた。
 同窓会の開始時刻は午後二時、小学校の校庭に集合。
 まだ昼前だし、暫く街を歩く事にした。
 駅周辺から少し離れた住宅街へ歩いていくと、おぼろげに記憶している風景が少しずつ見えてくる。
 住宅と住宅の間に伸びる大きな車道には、数台の車が行きかっている。
 あの日は……もっと暖かくて気持ちの良い陽気だった。
 そんな白昼の中で、母さんは俺を庇って……。
 気が付くと、俺はかつて住んでいた家の前に来ていた。
 見た事のない車や自転車が置いてあるところを見るに、今は別の誰かが住んでいるのだろう。
 その家の隣……母さんを亡くした後、俺を本当の家族も同然に住まわせてくれた母娘の家。
 あの日と何も変わっていない。
 ――――がいなくなっても、ただそれだけで街は何も変わらず、今まで通りにその場所に位置し続ける。
 この家には今、あの亡くなった娘の父母が住んでいるのだろうか。

 住宅街を抜けると、昔からある建物が隣接して並ぶ区に出る。
 細い道を幾度か抜け、妙に曲がりくねった路地を抜けた場所に、それはあった。
 昔、よく綾瀬と二人で来ていた場所。
 入口の戸の前には変わらずに、三人が座れる分の大きさのベンチが設置してある。
 やっぱり、ここは何も変わらないな。
 正直、何も変わらずにここにあり続けていた事に、俺は驚いていた。
 駄菓子屋の戸を開けて、中に入る。
 やはり店内には誰もいない。
 あの婆ちゃんの事だ。
 どうせ奥の部屋で昼寝でもしているんだろうな。
 幾つか駄菓子を買って、それを昼飯に食べる事にした。
 駄菓子なら安く済むし、ここで食べて小学校まで歩いて行けば丁度の時間だ。
 店内を物色し、幾つか駄菓子を取る。
 ブタメンとビッグカツに、それから……いか串も捨てがたいなぁ。
 ブタメンとビッグカツとイカ串を、それぞれ二つ。
 それほど腹も減っていないし、これだけあれば充分だろう。
 駄菓子なんて久しぶりだ。
 俺の住んでいるマンションの近くには、こんな店はないから、やっぱり珍しい。
「婆ちゃん!」
 奥の部屋に大声で呼び掛けてみた。
 反応がないので、もう一度。
「おい、婆ちゃん!」
 おかしい。
 以前なら、すぐに出て来てくれたんだけど。
「あの……」
 小さな声が聞こえた。
 声の聞こえた方、奥の部屋から誰かが、こちらを覗いている。
 僅かに壁から見え隠れしている誰かは、およそ小学生くらいの少年だ。
 婆ちゃんの孫か何かだろうか。
「お会計したいんだけど、婆ちゃんいるかな?」
 少年は頷き、奥の部屋へ消える。
 僅かな間の後、奥の部屋から床の軋む音が聞こえてくる。
 それは徐々にこちらへ近付き、廊下から少年ではない誰かが出て来た。
「婆ちゃ――――」
 そこで言葉が出なくなる。
 奥から出て来たのは婆ちゃんではなく……若い年上の女の人だった。
 年齢は梓よりも、やや上くらいか。
 起きたのが今だったようで、ボーダー柄のパジャマを着ている。
 彼女はダルそうに、長く胸元まで伸ばされた髪を背中へ流し、置いてあるサンダルに素足を通して店内に入る。
 ダルそうに、ゆっくりとレジの方まで向かい、俺から受け取った駄菓子の会計をし、手を差し出す。
「三二〇円」
 酷く寝起きで掠れた声だった。
「ああ、はい」
 財布から小銭を取り出し、彼女に渡すと共に、袋にまとめられた駄菓子を受け取る。
 なんというか……愛想の良かった婆ちゃんに比べて、無愛想という言葉が彼女には合いそうだ。
 それでも俺は無愛想な彼女に、爆弾を投下してみる。
「婆ちゃん、若返ったね」
 次の瞬間、大きな衝撃が頭に直撃し、視界が暗転する。
 何かで叩かれた。
 目を開けると、彼女は大きなハリセンを持っていた。
 ハリセンにはウルトラマンやら戦隊ヒーローのイラストがプリントされている。
 レジの隣に、束になって置かれているやつか。
 小学生の頃から、こんなのがあったのを覚えている。
 たしか、お菓子の詰め合わせが当たるクジのハズレ商品だ。
「前にも、私に同じ事を言った奴がいたよ」
 彼女は、レジ横に置いてある椅子に座る。
「私が、まだここに来たばかりの頃。二、三年くらい前かな。中学生のくせに一丁前に彼女なんて連れてさ。こう言うわけ。婆ちゃん、若返ったね」
「そいつにもハリセンを?」
「まあね。そいつら小学生の頃から、よくここには来てたらしいし。今でも、その二人はここの常連さんだよ」
 ここに来る小学生といえば、やはり近隣の、もしくは俺と同じ小学校だったのかもしれない。
 この人は、ここに来てまだ日が浅いのか。
 見たところ、彼女が店を経営しているようにも見える。
 勿論、先程の俺の言葉は冗談のつもりだ。
「あの……昔、もう五年くらい前……ここに婆ちゃんが一人で住んでた筈なんですけど……」
 彼女はクスッと笑う。
「あの婆ちゃん……やっぱり良い人だったんだなぁ」
 昔を懐かしんでいるようにも見える。
 俺自身、この駄菓子屋自体が懐かしく思えるのだが。
「こうして会いに来てくれる人がいるなんて。あの婆ちゃん、猫ですら自由に出入りさせてたでしょ?」
「そういえば、いましたね。たしか……マルって名前の猫が」
 ――――に懐いていて、よく一人と一匹でジャレ合っていたのを覚えている。
「で、婆ちゃんに会いに来たんでしょ?」
「ただ……こっちに用があって、立ち寄っただけです。小学生の頃、世話になってたんで、会っておこうと思って」
「えっと……君、名前は?」
「麗太です。沙耶原麗太」
 彼女はピクッと目元を振るわせ、俺の顔をジックリと見る。
「ふぅん、綾瀬とは違って……けっこう可愛い系なんだね」
 綾瀬。
 この街に戻って来て、綾瀬という名前を他人の口から聞いたのは、これで二度目だ。
「光原綾瀬。知ってるでしょ? 君の事は、綾瀬とマミちゃんの話題にも、よく出てくるから」
「じゃあ、もしかして、その中学生って……」
「綾瀬とマミちゃんだよ。今日は小学校の同窓会があるから、その後にマミちゃんと来ると思うけど」
 あいつがここに来る。
 もう何年も会っていない親友。
 しかし、会う場所はここじゃない。
 俺は博美先生の約束通り、小学校の同窓会へ行く。
 ただ興味があっただけ。
 その興味の大半は、綾瀬だけど。
 彼女は近場にあった冷蔵庫から、缶のコーヒーを取り出し、俺に差し出す。
「ほら、コーヒー飲みな」
「え?」
『ほら、サイダー飲みな』
 来る度にサイダーをおまけしてくれた婆ちゃんの言葉が蘇る。
 デジャブとは違うが、場面が重なる。
 この人はコーヒーだけど。
「駄菓子。ここで食べて行きなよ。話したい事もあるし。主に、婆ちゃんについてね」
 彼女は俺に、ここ数年間のこの街での出来事を話した。
 三年前、ここに住んでいた婆ちゃんが亡くなった事。
 目の前にいる彼女、霧原苗。
 先程の少年、彼女の弟の霧原大地。
 綾瀬や天美が、よくここへ来る事も。

「ちょっと、ショックだったかな?」
 俺が、まだこの街にいた頃、あんなに元気だったのに。
「やっぱり、もう歳だったんですよね。本当に良い人だったのに」
 あの日、俺がまだこの街にいた頃、――――が亡くなったのと同じで、たとえ婆ちゃんがいなくなっても、街は今まで通りにその場所にあり続ける。
 いなくなってしまった人に構わず、ただ横たわっている。
 やっぱり最後に会ったのが何年も前だったからか、近しい人が死んだという悲観的な感情は生まれなかった。
 奥の部屋から足音が聞こえて来る。
 先程の少年、霧原大地は、また壁に隠れてこちらを覗っている。
「ほら大地、こっちおいで」
 軽い足音を立て店内に降り、彼女の横に立つ。
「大地、東京の方でサッカークラブに入ってんの。綾瀬から聞いたけど沙耶原君、サッカー経験者なんでしょ?」
「ええ、まあ」
「食後の運動って事でさ、大地の練習に付き合ってやってよ」
 彼女の隣に立つ霧原大地は、俺と彼女の両方に目線を配っている。
 戸惑っているのだろうか。
 当然か。
 俺みたいな知りもしない奴と、いきなり練習しろ、なんて言われたら。
「ねぇ、いいでしょ? まだ同窓会まで時間はあるし」
「別に俺とやらなくても、綾瀬だってサッカーは出来ますよ?」
「そうなんだけど、綾瀬君も忙しくて、最近は相手してあげられないし」
 彼女は少年の頭をワシャワシャと撫でる。
「なんか大地ったら、私にも一緒に練習に付き合って欲しいとか言い出してさ。私の高校の頃の体育の成績、二だよ? どう考えても無理じゃん」
 だからお願い、と両手を合わせて上目使いで懇願される。
 年上にしては、どこか抜けているというか、なんというか……愉快な人だ。
 綾瀬も、こんな人と毎日のように会っていたら大変だろうな。
 勿論、良い意味で。

 駄菓子屋近くの空き地で、大地とリフティングパスの練習をした。
 霧原苗は、寒いし着替えるのが面倒との事で、駄菓子屋に残った。
 何度か、大地とパス回しを続けているが、思っていた以上に上手い。
 大地くらいの歳の頃の俺って、こんなに上手かったっけ。
 やっぱりクラブチームに入っていると違うなぁ。
 聞いた話によると、ポジションはフォワードらしい。
 これは将来に期待出来そうだ。
 少し体が慣れてきたところで、徐々に距離を開けた。
「ちょっと回転掛けてみるよ」
 大地は頷く。
 大地からのボールに回転を掛け、少々、強めに蹴る。
 試合では、回転したボールが基本だ。
 試合に関して効率的な練習方法といったら、たぶんこれが一番だろう。
 たかだか高校一年の最初で挫折した、元サッカー部員の持論だけど。

 練習が終わった後、大地と店に戻った。
 彼女はこれからバイトがあるとの事で、着替えて準備をしていた。
「じゃあ大地、店番よろしく!」
 そう言うと、店脇に駐輪してある自転車に跨って、サッサとペダルを漕いで行ってしまった。
「よく、店番とか任されるの?」
「うん。姉ちゃん、来年からちゃんとした仕事、始めるんだって。だから、姉ちゃんに不自由のないように協力してあげたくて」
 この年にして、なんて出来た子だろう。
 俺が小さかった頃は、こんなに健気にはなれなかったと思う。
「お前、偉いな」
 小さな大地の頭をワシャワシャと撫でてやる。
 兄弟なんていないから、よく分からないけど、弟がいるって、こんな感じなんだろうな。
 家族か。
 俺には、もう親父しかいない。
 でも、家族がたった二人きりになった孤独の最中、あの母娘は、俺を家族も同然の様に親ってくれていた。
 そして、この街にいた最後の日、俺を親友として、家族として認めてくれたやつもいた。

 光原綾瀬。

 外から聞こえてくるバイクのエンジン音が、鼓膜を揺らす。
 それが止まり、開けられた戸口から若い男の声が聞こえた。
「珍しいな、大地。いつもは小坊ばっかりなのに」
 大地の頭から手を離し、声の方へ振り返る。
 目の前に立っているのは、一人の青年。
 細身の体の割には、しっかりとした肩の形や堂々とした出で立ち。
 赤茶に染められた、肩まで伸ばされた長く鮮やかな髪。
 一見するとヤンチャしてそうな風貌ではあるが、どことなくそれとは違う雰囲気もある。
 身に着けているのは黒いコートや革のレザーグローブ、先程のバイクの音はたぶん彼だ。
「綾瀬!」
 大地は彼を、そう呼んだ。
 綾瀬と呼ばれた彼は、俺の方を向く。
「あ、どうも。なんか大地が世話になってたみたいで」
「あ……いや、別に……」
 光原綾瀬。
 家族も同然の様に思っていた親友が今、自身と同様に青年へと成長した姿でここにいる。
 小五以来の再会を果たしたというのに、俺は自分の名前さえも彼に名乗る事が出来なかった。
「じゃあ、俺はこれで」
 じゃあね、と大地の声が後ろから聞こえたが、俺は振り返る事もなく店から出て行った。


 小学校の校庭の隅には、既に十数人の高校生が集まっていた。
 その中に博美先生もいる。
 制服を着ている奴もいれば、私服の奴もいる。
 皆が楽しそうに笑い合っている。
 どうせ誰も俺の事なんて覚えていない。
 先の綾瀬だって、そうだった。
 俺自身、名前を聞いて綾瀬だと確信したんだから。
 見たところ校舎に変わりはない。
 強いて変わったところを挙げるとすれば、遊具の数が減っている事くらいだ。
 今は鉄棒や登り棒しかないが、昔はジャングルジムや土管があったのを覚えている。
「こっちだよ!」
 集まっていた十数人の中から声が聞こえた。
 博美先生だ。
 彼女はこちらへ駆け寄ってくる。
 誰にも話し掛けられないし、話し掛ける事も出来ない俺からしたら、ある意味で博美先生は救いだ。
「これからタイムカプセル掘るの」
「え?」
 タイムカプセルなんて埋めた覚えはない。
 博美先生は俺が、それを知らない事に気付いたのか、少しだけ表情を変える。
「言ってなかったっけ?」
「いえ、全然」
 聞いたところによると、卒業前に二クラス合同でタイムカプセルを埋めたらしい。
 中身は未来の自分へ宛てた手紙。
 今日の同窓会は、それを掘り起こす為の催しだったそうだ。
 博美先生が考えそうな事だ。
 それにしても、二クラスなら五十人はいた筈だが、たったの十数人しか集まらなかったのか。
 おまけに片方のクラスの元担任は来ていない。
 もう、いつまでもガキじゃないんだから。
 ただ、そう言ってやりたい。
 そんな事を思っている俺こそ、ここにいる奴等の中で一番ここにいる資格なんてないな。

 結局、俺は博美先生以外の誰と話す事もなく、集まる十数人の元クラスメイト達の外側にいた。
「ほら、こっちに来なよ」
 と、博美先生には言われたが、どうしてかあの輪に入るのが嫌だった。
 皆が求めるタイムカプセルの中には、ここにいる全員の手紙が入っている。
 ただ、俺だけにはそれがない。
 かつてのクラスメイト全員が、この街で経験した事を、俺は何も経験していない。
 ここにいる皆とは違う。
 そう考えただけで、あの輪の中へ入る事を自然と躊躇してしまう。
 やっぱり帰ろう。
 もう、ここにいてもしょうがない。
 校庭の隅から歩き出そうとした時、目の前から歩いて来る青年と目が合った。
 その隣には女の子が一人、彼の腕に自身の腕を絡めていたが、そんな事は気にも止めなかった。
 目の前には、先程の駄菓子屋にいた青年。
 光原綾瀬がいた。
 彼は擦れ違う寸前、俺に声を掛ける。
「あれ? さっき駄菓子屋にいた……」
 俺の歩は、そこで止まる。
 しかし上手く言葉が出ない。
 綾瀬と会ったところで、何を話せば良い?
「もしかして、ここの生徒……だった?」
「ああ、うん」
 頷き、綾瀬の顔を見る。
 彼も俺の顔を見る。
 綾瀬の隣にいた彼女は、自分が場に相応しくないと感じたのか、彼の隣を離れ、皆が集まる所へ行った。
 お互いに、妙な観察のし合いが始まったが結局、彼は今の容姿から、昔の俺を連想する事は出来なかったようだ。
「えっと、名前。いいかな?」
 申し訳なさそうに自己紹介を要求された。
五年以上も間が空いていたんだ。
 しょうがない。
「麗太だよ。沙耶原……麗太」

 俺の名前を明かしてから、綾瀬の俺への対応は、赤の他人へ対するものではなくなった。
 五年以上も間を開け再会した俺達が意気投合するのには、そう時間も掛からなかったのだ。
 よく見れば小学生の頃、綾瀬以外にもつるんでいた奴は、この場に何人かいるように思える。
 綾瀬と意気投合していた俺は、その場にいた数人とも話をした。
 更に、綾瀬の隣にいた先程の彼女は、元クラスメイトの天美だった。
 元々、綾瀬とは仲が良かった様で、今は付き合っているという。
「まったく、何年振りだよ。すげぇ、久し振り!」
 綾瀬に軽く背中を叩かれる。
「ああ、マジで懐かしいな!」
 俺も彼の背中を軽く叩く。
 こんな風にじゃれるのは、涼や佐々美、今の学校では毎度の事だが、やっぱり綾瀬はどこか特別に思える。
「てか、お前。ここまで、よく来たよな」
「まあね。母さんの墓参りに来てたから。それで偶然、博美先生に会って」
「そっか。あれから、もう五年以上は経ったよな」
 綾瀬は気を使ってくれたのか、あの年に起こった出来事を深く言及する事はなかった。
 彼の口から――――の名前が出る事もなかった。
「おい、出て来たぜ!」
 掘り出した穴を囲む数人の後ろで談笑していた俺達は、タイムカプセルを掘り起こしていた元クラスメイトに呼ばれ、穴の周りに集まる数人の中へ入る。
 俺が書いた物は入っていないけど、どうせ来たなら皆がどんな事を書いていたのか、見てみたいと思った。
 掘り出したタイムカプセルはチープなもので、煎餅の詰め合わせに使われている様な、アルミの四角い箱を何重かの袋に包んだ物だった。
 穴を掘っていた元クラスメイトの彼は、箱を包んでいた袋を剥ぎ取り、蓋を開けた。
 中には二クラス全員分の手紙が、ぎっしりと詰まっている。
 一枚ずつ全ての手紙が、個人の名前の書かれた封筒の中に入っている。
 たしか一クラス二十五人前後程だったから、二クラスでこれが五十枚はあるのか。
「じゃあ皆、手紙配るから」
 博美先生は開けられた箱から一枚ずつ、手紙を取り出しては、封筒に書かれた名前を読み上げる。
 名前を読み上げたは良いが、この場にいない奴も何人かいた。
 ここで持ち主の手に渡らなかった手紙は、後から郵便で本人に送る手筈になっているそうだ。
 この場にいる俺以外の十数人に手紙が渡り、どことなく自分が一人だけ取り残された様な疎外感を感じた。
「うわ! マジで俺、こんな事書いてたんだ!」
「ちょっと、これは恥ずかしいかも」
 各々が手紙を読み合い、笑ったり恥ずかしがったりしている。
 俺がいない数年間、ここに住み続けたクラスメイト達は、この街でどんな経験をしてきたのだろう。
 中学、高校……いろんな事があった筈だ。
「何が書いてあった?」
 綾瀬は手紙を二つに折って、ズボンの後ろポケットに仕舞う。
「くだらない、ガキっぽい事だよ」
 そう言いつつも、無邪気に笑っていた。

 数人で話をして、俺や綾瀬、その他の男女も交えて、計五人で飯を食いに行こうという事になった。
「マミ、お前も来るだろ?」
 学校から出る時、綾瀬は天美も誘ったようだが、彼女の返答は「私はいい。先に戻ってる」との事だった。
 学校近くには、隣町までを繋ぐ大きな道路が通っていて、飲食店やカラオケボックス、ボーリング場等が軒を連ねている。
 小学校から歩いて五分程の距離だったろうか。
 綾瀬はバイクを引き、俺達は、まるで昔を懐かしむ様に笑い合いながら歩いた。

  =^_^=

 ボーリング場やカラオケボックス、皆とファーストフード店で夕食も取った。
 冬という事もあって、陽は予想以上に早く沈んだ。
 八時頃に皆と別れた後、俺と綾瀬はまだ一緒にいた。
 皆、家には親がいるし、遅くなるとうるさく言われるから、との事だった。
 俺と綾瀬には、門限のようなものはなかった為、この場に二人で残る事にした。
 綾瀬はバイクに跨り、後部のバイクボックスからヘルメットを取り出して、俺に差し出す。
「ちょっと時間を潰そう。ほら、後ろ乗れよ」
「あ、うん」
 ヘルメットをかぶりバイザーを降ろすと、綾瀬の後ろに跨る。
 バイクにニケツで乗るのは、梓のバイクの後ろに乗って以来だ。
 本当なら、俺が彼女を後ろに乗せてやりたかったのだが……。
「どこに行きたい?」
 取り立てて行きたい場所などなかった。
 それ以前に、俺の覚えている限りで、この街の地理など充てにはならない。
「お前に任せるよ」
「よし! じゃあ、掴まってろよ」
 綾瀬の腰に腕を回す。
 それを確認すると綾瀬は、サイドスタンドを跳ね上げ、アクセルを手前に捻ってバイクを前進させた。
 徐々にスピードが付き、俺達が乗るバイクは道路へ出た。
 心臓を揺らす様な、かっこいいエンジンの轟音。
 広い道路の向こう側の景色、側面に広がる幾つかの建物、前方から向かう風。
 それら全てが一気に視界を、体を擦り抜けていく。
 先程、皆で食事した時に聞いた話によると、綾瀬は高校へは行っていないらしい。
 親とは別居していて、今はアパートに一人で住み、幾つかのバイトで生計を立てていると言う。
 フリーターになって、一人でアパートに住んで。
綾瀬は今、俺とは全く違う境遇に立っている。
 それでもこの瞬間、俺は彼の後ろで同じ景色を、同じ風を感じている。
 これが、いつも綾瀬が見ている景色なんだ。

 バイクで走る事、数分。
 そこは街から正反対の位置にある、河川沿いの土手だった。
 土手の上へは、隣町へ渡る為の川を股に掛けた、大きな橋の手前から舗装された道へバイクで入る事が出来た。
 川沿いの向こう側に見えるのは、隣町の夜景。
 そして、そのずっと向こうには大きなビル群が照らす街の光。
 凄い。
 人気のない河川沿いの土手から、こんな景色が見えたんだ。
 この街に住んでいた頃の俺は、ここに来る事は一切なかった。
 学校や回覧板からの連絡で、この場所へ子供だけで入る事は禁止されていたからだ。
 皆が馬鹿正直に言い付けを守っていたから、結局は俺もここへ入る事はなかった。
 何よりも俺が転校する寸前、一人の女の子の死体が河川で見つかった事で、皆のこの場所に対する恐怖心には拍車が掛かっていたのだろう。

 土手の舗装された道を少し進んだ所で、綾瀬はバイクを止めた。
 俺と綾瀬はヘルメットを脱ぎ、バイクから降りる。
「ここ、俺のお気に入りの場所」
 そう言うと、彼は止まっているバイクの上に腰掛け、俺達の頭上真っ直ぐ上を指差した。
「真上、見てみろよ」
「真上?」
「いいから」
 これでもか、と言う位に顔を上げ、真っ直ぐ頭上を見上げた。
 視界に広がったのは、まず夜空の闇。
段々と暗闇に眼が慣れ、真っ暗な冬の夜空には幾数の小さな星達が浮かぶ。
 冬の澄んだ夜空の中で、それぞれが小さく光を放ち続けていた。
 昔、母さんから聞いた事がある。
『冬の空は澄んでいるから、見上げるだけで幾つも星が見えるの。
勿論、夏にだって星は見えるわ。来年の夏と冬、父さんも連れて一緒に見に行きたいね』
 一緒に星を見に行く前に、母さんは交通事故で死んでしまった。けれど今は、ここで綾瀬と一緒に星を見上げている。
 視線を綾瀬の方へ戻す。
「ありがとう、綾瀬。……粋な事してくれるじゃん」
 綾瀬は照れ臭そうに笑い、俺から目線を反らす。
「この場所……よくマミと来るんだよ。お前が転校した日からは頻繁に……。引っ越しの日、駄菓子屋の前で……覚えてるか?」
「うん、覚えてる」
 あの日、綾瀬はいなくなってしまう俺の為に泣いてくれた。
 もしかしたら、綾瀬の涙を見たのは、あの時が初めてだったかもしれない。
 最後の時まで一緒にいてくれた……だからこそ、俺は綾瀬の事を親友として、記憶の内に留めておく事が出来たんだ。
 母さんが亡くなった後も……学校では必ず側にいてくれた。
「麗太。お前、泣いてる?」
 一筋の涙が、頬を濡らしていた。
 慌てて、コートの袖で目蓋を隠す。
 恥ずかしいところを見られてしまった。
 まさか、高二にもなって泣いてしまうなんて。
「泣いて、良いと思う」
「え?」
「麗太。俺と別れた日、泣いてなかっただろ?」
 あの日、俺は泣く事もなく、この街を後にした。
 後悔する事を諦め始めた、今日の俺へと繋がる日。
「綾瀬は、諦めたくないから泣いてくれたの?」
「ああ、お前が転校するって知った日は落ち込んだ。そうだな、諦めたくはなかった。俺は今でも、諦める事のないように頑張ってるつもりだよ」
 親友であり、家族も同然であり、そして憧れでもあった。
 どんな漫画の主人公やスポーツ選手なんかと比べても、綾瀬こそが俺自身のヒーローだと思っていた。
 絶対に諦めない。
 そんな綾瀬のような人間になりたくて、どんな時でも最後まで諦める事はしなかった。
 それが、あの日までの俺。
「成長していく度に、諦める事を覚えたから。だから優子の事も、この街の事も全部、忘れようとしてた」
「平井優子か……」
 その名を呟いて、少しだけ表情を歪める。
 綾瀬は俺の方を見る事もなく、完全に黙っていた。
 数秒の沈黙が続き、綾瀬はようやく言葉を発する。
「来いよ」
 バイクを置いたまま、綾瀬は土手の下の暗闇へ降りて行く。
 俺も彼の後に続いた。
 河川の水面に僅かに映る月光と、そこに浮かぶ波紋や水の音だけが唯一、川辺と陸との境界線を示していた。
 境界線ギリギリの所で、綾瀬は歩を止める。
「綾瀬、どうした?」
「もう――――終わったと思ってた……」
「え?」
 あまりにも小さな声で、聞き取る事が出来なかった。
「何だよ? どうしたんだよ?」
 綾瀬は俺の方を向く。
 今までに見た事のない程の、虚ろな表情。
「平井優子の事。まだ覚えてたんだな」
「当然だろ。転校する日まで、ずっと一緒に過ごしてきたやつなんだから」
「そうだ……。そうだよな」
 今、綾瀬は何を考えているのだろう。
 彼女の話題を持ち掛けてみてからというもの、綾瀬の考えている事がまるで見当も付かない。
「なあ、どうして死んだんだろうな」
 この街を離れた日から、彼女の話題を口に出した事はなかった。
 どうして?
 怖かったからだ。
 殺したのは俺じゃないのに……彼女の母さんは俺の首に手を掛けて……。
 転校して暫く、彼女の死の原因は自分であると思い込んでいた時期があった。
 誰かに相談する事も出来ず、一人で泣く日々が続いていた。
 彼女の事も、この街で過ごした事さえも、ただの思い出に成り果てたのは、いつからだっただろうか。
 どうして今更、あの日の事を詮索しようなんて考えたのか、自分でも分からない。
 でも、もし未だに俺の知らない事があるのなら……。
 それこそが、俺が再びこの街へ戻った目的でもあったから。
 綾瀬はゆっくりと言葉を発する。
「そういえば平井は……お前の知らないところで虐められてたんだったな」
「ああ、知ってる」
 俺と優子が二人で学校に遅刻した日、クラスメイト全員の彼女へ対する態度が変わっていた事を覚えている。
 なぜなら彼女の机から、クラスメイト数人の、キーホルダー等の紛失物が見つかったからだ。
 本人のしでかした事だったのか……いや、あの穏和だった彼女に限って、そんな事をするとは思えない。
 彼女が亡くなってしまった今となっては、もう探りようもないが。
「なあ、麗太。マルって名前の猫。覚えてるか?」
 駄菓子屋にいた猫か。
 優子が可愛がっていた事を覚えている。
「あの猫……もうずっと見てないんだよ。どこに行ったんだろうな」
「そういえば、転校する少し前から見なくなったな」
 どうして優子の話から、こんなにも進展性のないマルの話になったのか。
 昔の話を始めてからの綾瀬は、どこか不自然だ。
 土手の下の、こんな暗闇にまで降りて来て、どんな話をするのかと思えば、駄菓子屋にいた猫の話だ。
「綾瀬……さっきから俺に何を言いたいわけ? なんか変だぞ」
「俺さぁ……」
 綾瀬の声は震えている。
「博美先生から同窓会の話を聞いて、ずっとお前の事を考えてた。もしかしたら、お前が同窓会に来るんじゃないかって。少しだけ、不安だった」
 不安。
 俺に対して、そんな感情を抱く必要があったのか。
 不安である理由に心当たりはない。
 だから余計に、彼の言葉は俺の不安を煽る。
「不安だった?」
 綾瀬は頷き、言葉を続ける。
「もう黙って、ビクビクしているのは嫌なんだ。いつ会えるかも分からないような奴に、一生の間ずっと怯えているなんて」
 さっきから綾瀬が何を言いたいのか、まるっきり分からない。
 ただ綾瀬の口から出る不気味な言葉を前に、俺は何も言い返す事が出来なかった。
 そして、綾瀬は最後の言葉を発する。
「平井を殺したのは、俺なんだよ」

  =^_^=

 幸せな奴が許せなかった。
 だから彼女を殺した。
 河に落として殺した。
 彼女をクラス内で虐めのターゲットに仕立てて、学校に来られないようにもした。
 クラスの奴等は皆、俺の言いなりだった。
 やっぱり皆、強い奴にばかり引っ付きたがる金魚の糞だった。
 マルも殺した。
 俺の手を引っ掻いたから、俺に懐かなかったから。
 マミを虐めていた奴も八つ裂きにした。
 虐めて虐めて虐め抜いた。
 もう、俺に怖いものなんてない。
 麗太、ただ一人、お前を除けば――――。

 =^_^=

 綾瀬は俺から目を反らし俯く。
「今日の事は全部、誰にも話さず、一切を忘れてこの街から出て行って欲しい」
 言葉が出て来なかった。
 知らなかった事の全てが一気に流れ込んでくる。
「皆、俺が平井を殺しただなんて思っちゃいない。むしろ、疑われているのは平井と親しかった、お前だった。同窓会に来ていた皆が、お前の事を妙な目で見ていた」
 あの時、母さんの墓石の前に一緒に立った、博美先生の言葉が蘇る。
『私は、麗太君を信じてるから』
 博美先生は、こんな俺を未だに信じてくれていたんだ。
「あの博美先生は最後まで、お前を疑う事はなかったけどな」
 俺が引っ越しをした事も、ここ最近、俺が見る夢も……全ては綾瀬が遠因だった。
 きっと、あの日……幼い日の俺だったら、この事実を知った時点で、彼の首に手を掛けていたのかもしれない。
 それなのに今は……。
 この街を離れてから経過した五年以上の歳月は、俺自身をここまで歪ませるには、充分な歳月だったようだ。
 ただ俺は……こんなにも信頼していた友人が自分を裏切った事だけが、悔しくて堪らなかった。
 ただ、それだけ。
「お前にも、俺にも、自分の生活がある。お互いが平穏でいる為には、もうこれ以上、会わない方が良いだろ」
 綾瀬は俺に背を向ける。
「駅への道は分かるよな。ここから十分もあれば着くから。じゃあな」
 それだけ言うと、綾瀬は土手の上へ登って行った。
 バイクのエンジン音が、広い土手に響き渡る。
 どうやら、この場から去って行ったようだ。


 駅構内にアナウンスが掛かる。
『一番線上り列車――――行きは、十九時――――』
 優子を殺したのは、綾瀬。
 その事実が、頭の中でグルグルと駆け巡る。
 今まで、親友のように思っていた。
 憧れでもあった。
 そんなあいつは、俺自身をずっと拒んでいたんだ。
 向こう側のホームの後ろに通っている、下りエスカレーター。
 そこに見知った奴がいる。
 こちらを見て、目が合った瞬間、僅かに表情を歪めて視線を反らした。
 綾瀬。
 もしかして俺が、この街から出て行く事を確認する為だけに、ここに来ていたのだろうか。
 そんなに、俺は邪魔な奴だったのか?
 そんなに、俺や優子が憎かったのか?
 目蓋から頬を、熱いものが伝う。
 クソッ、クソッ、クソッ……。
 堪らず涙が出て来る。
 止まれっ、止まれっ、止まれっ。
 内心で自身に言い聞かせ続けても、涙は止まらない。
 このまま俺は、また諦めるのか?
 サッカーを辞めて、佐々美の事も突き放すような真似をして、いろんな事から目を反らし続けて……。
 あの時の俺と、何も変わっていない。



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