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その1

 また熱を出した。

 会社で気分が悪くなりすぐに早退。アパートに辿り着いた時には四十度近くまで上がっていた。これを数カ月おきに繰り返すものだから、今までに何度も検査を受けた。でも原因がさっぱり分からない。いつも仕事に一区切りついて、ほっとしたタイミングで高熱に襲われる。おかげで同僚に迷惑をかけたことはないのだけど、やっぱり私がストレスに弱いってことなんだろう。

 熱を出すだけならまだいいのだけど、それ以外にもひどく気になることがある。これだけは誰にも話せないし話したこともない。

 熱で寝込むたびにちょんまげを結ったお侍が見えるのだ。それだけじゃない。その度にそのお侍が私の看病をしてくれるのだから尋常ではない。

 ほら、今は台所に立って土鍋を火にかけている。

 背筋を伸ばし、真剣な表情で鍋と向かい合っている横顔はまだ若い。二十代半ばというところ。色の褪せた褐色の着物にはところどころつぎが当たっており、袴にいたっては恐ろしく年期が入って見える。

 土鍋に蓋をするとお侍がこっちを向いた。

「美緒殿、喉は渇いてはござらぬかな?」

 その上、こいつはしゃべるときてる。熱で幻覚が見えるという話は聞くけれど、こんな症例はどこを調べても見つからなかった。私の妄想も入っているのか、彼はなかなかのイケメンだ。そうは言っても、こんな幻を見てしまうほど時代劇に夢中になった覚えはないんだけど。

「どうなされた?」

 私の返事を待たず、お侍は湯冷ましの入った湯飲みを持ってきた。

「ささ、お体を起こしてくだされ。すぐにおかゆが参りますゆえ」

 彼は私を抱き起こし、湯飲みを手に握らせるとにこりと笑った。 


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 最初に彼が現れたのは今からちょうど一年前、一人暮らしを始めてすぐのことだった。前触れもなしに高熱に襲われて私は途方にくれた。引っ越したばかりで近所には頼れる人もいないし、田舎の親に電話をして心配させるのも憚られた。

 とりあえず寝巻きに着替え布団に入ったものの気持ちが悪くて起き上がることもできない。朦朧とした頭でそろそろ救急車を呼ばないとやばいかも、なんて考え出した時、誰かが私の額に冷たいタオルを置いてくれたのだ。

 目を開いてみればそれは若い男の人だった。普通なら大声で叫ぶべきところなのだけど、その人の頭にちょんまげが乗っかっていたものだから、藁にもすがりたい気分だった私はそれが熱による幻覚だと決め付けた。

「美緒殿、拙者がついております。安心してゆっくりお休みなされ」

 男の穏やかな笑顔に母の胎内に戻ったかのような安心感を覚え、私はそのまま眠りについたのだった。


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 翌日までに何度か目覚めたが、そのたびに水を飲まされたのを覚えている。朝が来てもまだお侍はいた。薄いおかゆを出されたけど気分が悪くて食べることはできなかった。

「失礼つかまつる」

 私を抱き起こして背中側に回ると彼は遠慮がちにパジャマを着替えさせた。汗で濡れたままでいるのは気持ちが悪いし自分では身動きするのも億劫だったので私はなすがままになっていた。着替え終わるとまた夕方まで眠った。

 その日いっぱい私は彼に面倒を見てもらい、三日目の朝、さわやかな気分で目を覚ましてみれば、綺麗に片付けられた部屋に彼の姿はなかった。

 それからも彼は二、三ヶ月ごとに現れ続けた。発熱の件では何度も医者にかかったが、「お侍が見えるんです」なんて打ち明ける度胸はなかったので、この奇妙な『現象』には説明がつかないまま一年が過ぎようとしている。今回で彼の出現は五回目だ。

 二日目の晩になると熱もほとんど下がり、体はかなり楽だ。初日は食べ物などまったく受け付けないのだが、丸一日絶食すると少しおなかも空く。お侍の作るお粥はおいしい。とろりと濃すぎず薄すぎず、梅干と食べると絶品だ。食べ終わったら眩暈を感じた。

「もうお休みになったほうがよろしいですな」

「ううん、その前にちょっと聞きたいことがあるの」

「なんでございましょうか?」

 熱が下がりまともに頭が働くようになれば今度こそ聞こうと決めていた。今までは幻と会話なんて始めてしまえば、それこそ自分が狂っているのを認めるような気がして、必要最小限のことしか伝えなかったのだが、これ以上この疑問を抱えたままでいるのは精神衛生上よくない気がしたのだ。

「あなたは誰なの?」

 お侍はひどく嬉しそうな顔をした。

「初めて聞いてくださりましたな。某は園崎誠二郎と申す者。名乗るタイミングを逃したままになっておりました。ご無礼をお許しくだされ」

 タイミングという言葉が彼の口から出てくるのは間違っている気がしたけれど私は質問を続けた。

「どうしてここにいるの?」

「拙者、美緒殿の八代前のご先祖、側用人田中助左衛門に謀られ、無念にも打ち首になりましてな、その折に子々孫々祟リ申すと公言してしまったのでございます。今まではご長男を祟っておりましたが、お父上の義彦殿には美緒殿しかお子がありませんでしたので……」

「つまり、あなたは私を祟ってるのね?」

「左様、この発熱は某の怨念の仕業にございます」

「じゃ、あなたは幽霊?」

「幽霊なるものは見たことはございませんが、そういうことでございましょうな」

 そういえばお父さん、以前はよく熱を出していたのに、私が家を離れてからはすっかり健康になった。お前がいなくなって気苦労が減ったからだなんて冗談を言ってたぐらいだ。

「どうして祟った相手の看病をしてるの?」

「美緒殿は一人暮らしの身、何かあっては一大事でございますからな」

 それでは祟る意味などないのではないだろうか。

「打ち首になったのはどうして?」

「公金横領の濡れ衣を着せられたのでございます」

「横領ぐらいで首を切られちゃうの?」

「死人に口無しといいますからな。身に覚えのない罪状をいくつも並べ立てられたのですが、拙者は生来不器用な性質でうまく申し開きもできませぬ。せめて腹を切らせて欲しいとの願いも虚しく斬首となったのでございます」

 いかにも正直そうな彼の顔を見れば世渡りも下手だったのだろうと想像がつく。 同情すべきところなのだろうけど、そのために私が苦しまなくてはならないのも納得がいかない。

「さあ、そろそろお休みくだされ。眠らないとお体に障りますぞ」

「だってあなたが一番体に障ることをしてるんでしょ?」

 布団をかけようとしていた彼の手が止まった。

「左様でございますな。まことに申し訳ござらん」

 私に向かって頭を下げると彼の姿はそのまま宙に掻き消えた。

 翌朝は熱も下がり彼の姿はなかった。最後に彼が見せた寂しそうな顔が気になって、あんなきつい言い方しなきゃよかったと少し後悔した。


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 二ヵ月後に再び熱を出し、ベッドに倒れこんだとたんに彼が現れた。

「もう出てこないかと思った」

 洗面器でタオルを絞りながら、朦朧としている私に向かって彼は寂しそうに言った。

「申し訳ございませぬ」

「ううん、この間はごめん」

 それだけ言うのが精一杯だった。彼の驚いた顔を横目に私は眠りに落ちた。


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「私を祟っても意味ないんじゃないの?」

 翌日の晩になって容態も落ち着いたので私はまた彼に尋ねてみた。

「ご先祖の助左衛門って人はとっくの昔に死んでるわけでしょ? それにそんな極悪人が私が熱を出したからって反省するとは思えないんだけど」

「美緒殿のおっしゃる通りでございますな」

 リンゴを剥きながら彼は微笑んだ。

「じゃあ、もう私を祟るのはやめて、別の方法で恨んでもらえないかな?」

「例えばどのような方法が?」

「すぐには思いつかないけど、恨みは本人に返すのが筋ってもんでしょ?」

「そうは思うのですが、なにしろあの時は首を切られようとしておりましたので冷静に考える余裕がございませんでした。つい子々孫々を祟ってやると口走ってしまったのです」

「だから真面目に祟ってたの?」

「打ち首になったとはいえ、これでも武士のはしくれでありますからな。一度口にしたことは守らねばならぬのです」

「それじゃ私の子供も孫も祟る気なのね」

「そういうことになりますな」

 ご先祖様はなんて困ったことをしてくれたんだろう。お祓いしてもらったほうがいいのかも。

「私が元気な時は何しているの?」

 彼の端正な顔に動揺が走った。 リンゴが手からぽろりと落ちる。

「な、何もしておりませぬが……」

 怪しい。 怪しすぎる。

「あなた、普段はどこにいるの? 自分のお墓に戻るの?」

「いえ、違います」

 答えたくないのは彼の顔を見ればはっきりしているが、正直者過ぎて嘘でごまかすこともできないらしい。私は容赦なく聞き出すことにした。

「じゃあ、どこにいるの? 答えなさいよ」

 観念したように下を向き、彼は蚊の鳴くような声で答えた。

「姿を消してこの部屋にいるのでございます」

 なんだって? この小さな1LDKのアパートに始終いたって言うの?

「じゃあ私の暮らしを覗いてたのね?」

「ち、誓って風呂場や着替えを覗いたりしておりませぬぞ。下着をかぶったりもしておりませぬ」

 そこまでは聞いていないけどさ。どこでそんな知識を仕入れたのやら。

「私が元気なときは隠れてなきゃいけない決まりなの?」

「いえ、そういうわけではございませんが」

「じゃあ、消えなくてもいいじゃない」

「つまり、ここにいてもよろしいのですか?」

 彼の手からまたリンゴが転がり落ちた。

「見えない男にうろうろされるよりはよっぽどましでしょう?」

「左様でございますな」

 幽霊だとは思えない明るい表情で何度も頷くものだから、もしかしてとんでもないことを許可してしまったのではないかと私は不安になった。


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 翌朝、すっかり熱は下がっていた。

 外は快晴で僅かに開いた窓の隙間から秋の風が流れ込んでくる。卵焼きのいい匂いに台所を見ると、私の気配に気づいたのかお侍が振り返った。

「美緒殿、おはようございます。見事な秋晴れでございますぞ。朝食の用意をいたしますのでまずは身支度をしてくだされ」

 言われるままにシャワーを浴びて着替えてくると、テーブルにはふわふわの卵焼きと味噌汁が並んでいた。キュウリの浅漬けらしきものまである。

「美緒殿は熱を出しても三日目には必ず会社に戻られますな。会議は明日の午後なのですから今日はゆっくりなさればよろしいのに」

  土鍋から炊き立てのご飯をよそいながら彼が言う。どうしてこの人が私のスケジュールを把握しているの?

「そうそう、課長殿からメールが入っておりましたぞ。美緒殿の体調を気遣っておられました。よい上司に恵まれましたな」

 彼はテーブルの上からiPhoneを取ると私に手渡した。なるほど、そういうことか。

「ええと、あなたの名前……」

「誠二郎でございます」

「誠二郎さん、これ、使えるの?」

「美緒殿がよく置き忘れて出勤されますので、その隙に基本的な操作はマスターいたしました。洗練されたインターフェイスで初心者にも分かり易くデザインされておりますな。義彦殿の電子手帳を見たときには驚いたものですが、僅かな間にずいぶんと進歩したものでございます」

 さてはこっそりお父さんの電子手帳をいじってたのはこいつか。

「会議に必要な書類はほれ、ここにプリントアウトしておきましたので本日中に目を通されたほうがよろしいな」

 PCの設定が勝手に変わる原因も分かった気がした。

「それと佐久間殿からもメールが入っておりましたぞ」

「ええ、また?」

「美緒殿に御執心のようでございますな」

 佐久間って人とは友達に連れて行かれた合コンで出会った。若手弁護士が揃ってるとか言って同僚の加奈子に無理やり引っ張っていかれたのだ。

 加奈子が紹介してくれた男性と会話を始めた時、佐久間さんが割り込んできた。それもかなり強引に。長身で知的な顔立ちの佐久間さんは参加者の中でもダントツに格好よかった。でもなぜか顔を合わせたとたん、私はおかしな胸騒ぎに襲われたのだ。それでなくても黒縁眼鏡の下の表情が芝居臭く感じられて、正直彼にいい印象はない。会場にいる間ずっと私から離れようとしないものだからその日は理由をつけて早々に退散した。 それなのに、加奈子が連絡先を渡してしまったらしく、それ以来しきりに連絡してくるようになったのだ。

「拙者にはそれほど悪い御仁には思われませんが。それに佐久間殿の勤めておられる法律事務所はなかなか評判がよいようでございますぞ」

「どうやって調べたのよ?」

「昨今はインターネットという便利なツールがございますからな」

「あの人、どうして弁護士になったのか聞いたら、困ってる人の役に立ちたいからだって表情も変えずに言うのよ」

「それのどこがいけないのですかな? 立派な理由ではございませんか」

「どこか胡散臭いのよ。信用できないの。第一、あんなスペックの高い人に彼女がいないわけないでしょ?」

 電車の時間が迫っていたので私は会話を切り上げて立ち上がった。

「今日はキャラ弁でございますぞ。お仕事、頑張ってくだされ」

 どこか浮世絵風のディズニーキャラの描かれた弁当をカバンに入れ、買い物リストを手渡すと彼は笑顔で私を送り出した。


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 夕方、アパートに戻ると夕食ができていた。

「ささ、食されよ。美緒殿はイタリア料理がお好きですからな。拙者、実物を食べたことがござらんのでレシピ本を参考にいたしました。うまくアルデンテになっておりますかな?」

 シンプルなトマトソースのパスタはとてもおいしかった。

「リコピンには驚くべき抗酸化作用があるのでございますよ」

 私の食べっぷりに彼は満足げだ。その後の会話で彼は朝の奥様向け情報番組の熱心な視聴者だと判明した。

 就寝時間になると彼は礼儀正しく挨拶をしてどこかに消えてしまった。このアパート内にいるのは分かっているのだけど、やはり気を使っているのだろう。そういえば夜中に目を覚ましたらTVがつけっぱなしになっていたことがあった。もしかして幽霊は眠らないのかもしれないと思い「TVを見てもいいよ」と声をかけると、どこからともなく「かたじけのうございます」と返事が返ってきた。


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 誠二郎さんとの同居は驚くほど順調だった。けれども私が働いている間、彼がすべての家事を済ませてしまうので、甘えっぱなしの私は申し訳なく思った。

「お手伝いさんみたいに使っちゃってごめんね。そんなつもりじゃなかったんだけど」

「いえ、拙者は毎日が楽しくて仕方がないのです。生前は楽しい思いなどしたことがございませんでした。武士の家に生まれたものの暮らしていくのがやっとの生活。父が死んだ後は拙者が家督を継ぎましたが、多額の借金の返済に追われる毎日でございます。そんな折、助左衛門殿に目をかけていただき、昇進も間近かと喜んでおりましたところ、それは拙者を罠にはめるための策略だったのでございます」

 辛い過去を思い出したのか、彼の表情が翳った。心なしか部屋の中もどんよりと暗くなったような気がする。

「いいんだ。誠二郎さんさえ構わなければ好きにしてよ」

 私が慌ててそう言うと、彼の表情がぱっと明るくなった。彼の過去に触れるのは避けたほうがいいようだ。


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 誠二郎さんはTVが好きだった。姿を消さなくてよくなってからはゴールデンタイムの時代劇が見られるのがとても嬉しいようだった。

「昼間の再放送ばかり見ておりましたからな」

「時代劇なんて本物のお侍から見たらおかしなところだらけじゃないの?」

「いえ、実を申せば昔がどんなだったかはっきり覚えてはおらんのです。拙者が死んだ後、世の中はめまぐるしく変わりましたからな」

 子供のころ、曾ばあちゃんの言ってることすら分かりにくかったのに、どうして二世紀前の人間である誠二郎さんと問題なく会話ができるのが不思議だったが、彼の聞き取りやすいサムライ言葉はどうやらTV番組からの逆輸入であったらしい。

 彼が特に好きなのはパターンの決まった勧善懲悪物だった。正義のヒーロー達の活躍に彼はいつも真剣な面持ちで見入るのだった。

「このキメのセリフになんともシビレますな。拙者にもあのような度胸があればむざむざ打ち首になることもなかったでしょうに」

「あれは作り話だもん。そううまくはいかないよ」

「そうでございますな」

 そう言った彼の顔は寂しそうだ。正直者の彼が身に覚えのない罪で首を打たれてしまったとは、さぞかし無念だっただろう。

「誠二郎さんって真面目そうなのに、誰も無実の罪だとは疑わなかったの?」

「拙者の無罪を信じて疑わぬ者もおりましたが、なにせ助左衛門殿は殿の覚えもめでたく飛ぶ鳥を落とす勢いでございましたからな。異を唱える者などおらぬのは当たり前。彼らを責めるつもりはありませぬ」

 また部屋がどんよりと暗くなってきたので私はそこで話を切り上げた。今も昔も正直者が馬鹿を見るのが世の常だということか。自分の先祖ながら助左衛門が憎たらしい。誠二郎さんが満足しているのなら、このままここにいてもらおう。彼と同居を始めてから、私も日々の生活に張り合いが出てきた。幽霊に祟られるというのもそう悪い事ではないらしい。



その2

 彼と暮らし始めてから一ヶ月ほどたったある晩、突然に目が覚めた。意識はあるのに目を開くことができない。まぶただけではない。全く身体を動かすことが出来ないのだ。

 これって……金縛り? 今まで金縛りなど経験したことのなかった私はパニックに襲われた。

――誠二郎さん、誠二郎さん、助けて!

 心の中で何度も彼の名を呼ぶ。幽霊なんだから聞こえるでしょ? 勝手な理屈だけど来てもらわないと困る。誠二郎さん、来てよ。助けに来て!

 ひたすらまぶたに意識を集中してなんとか薄目を開けてみればすぐそばに彼が立っていた。ああ、よかった。気づいてくれたんだ。だが、誠二郎さんは何も言わずに私の上にかがみこんだ。彼の唇がそっと私の唇に押し付けられる。

――誠二郎さん、なにしてるのさ!

 唇が触れていたのはほんの数秒だったと思う。彼が身を起こそうとした時、私の目と彼の目が合った。彼は電気ショックでも受けたかのように飛び上がり、そのとたん金縛りが解けた。

「み、美緒殿、目覚めておったのですか? いつから?」

「最初から。……いつもこんなことしてたの?」

「とんでもありません。誓って今回が初めてでござる。いつもはただ眺めているだけでございますからな」

「……眺めてたの?」

「し、失礼仕った」

 彼は私を布団にくるみこむとそそくさとどこかに消えてしまった。残された私は心臓がバクバクしてさっぱり寝付けなかった。


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 翌朝、身体がだるくて起き上がれなかった。

「美緒殿、どうされました?」

 朝食の用意をしていた誠二郎さんが私の異常に気づき心配そうに声をかける。

「そろそろ熱を出すのかな?」

「いえ、まだ先のつもりにしておりますが」

 誠二郎さんがカレンダーを見た。

「三週間後の金曜日の予定になっております。今朝は冷えましたので風邪でも召されたかもしれませんな」

「あの、昨夜のことだけど……」

 誠二郎さんが赤くなった。

「覚えておられましたか」

「まあね」

――あんなの、忘れられっこないでしょ?

「面目ございません。美緒殿のあどけない寝顔に魔が差したのでございます。本来ならば腹を切ってお詫びすべきところですが、拙者はすでに死んだ身……」

「そこまでしなくてもいいけどさ、だからって金縛りにすることないじゃない」

「はて、覚えがございませんが」

「でも体が動かなくなったよ」

「さては拙者の緊張が美緒殿に伝わってしまったのかもしれませんな」

 そういう仕組みなんだ。

「幽霊も女の人に興味があるんだね」

「誤解されては困りますぞ。決して戯れであのような真似をしたのではありませぬ」

「つまり、本気ってこと?」

「左様。ですが美緒殿は気になさらないでくだされ」

 それは無理な話というものだ。その後、誠二郎さんとは目を合わせられなくなってしまったので、私は気力を振り絞って出勤した。


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 戻ってきてからも誠二郎さんとの間の気まずい空気は変わらなかった。重苦しい雰囲気の夕食が終わると彼はさっさと後片付けを始めた。

「あの、誠二郎さん」

「はい」

「もっとちゃんとキスしようよ」

 誠二郎さんの手から泡だらけのスポンジが滑り落ちた。

「なな、なんと申されましたかな。拙者、耳がおかしくなったようでございます」

「このままじゃ落ち着かないし、私も誠二郎さん、好きだから」

 丸一日考えてよく分かったのだ。それが私の正直な気持ち。一緒にいればいるほど、私は彼に惹かれていく。

 私は椅子から立ち上がり、真っ赤な顔の誠二郎さんに向かって一歩踏み出した。とたんに身体が硬直する。前のめりに倒れた私を誠二郎さんはしっかりと抱きとめた。

「美緒殿、危のうございますぞ」

「誠二郎さんが緊張するから悪いんでしょ?」

「そんな無体を言われては困ります」

 私は彼の腕の中にいた。着古され薄くなった着物を通して彼の体温を感じる。幽霊ってこんなに温かいんだ。今までに何度も抱き起こしてもらったけれど、体と体を触れ合わせたのは初めてだった。誘っておきながら私のほうがドキドキしている。

「美緒殿は重いですな」

「誠二郎さんのご飯がおいしいから太っちゃったんでしょ?」

 照れ隠しについ怒ったような口調になる。

「そ、そういう意味ではござらん。ずっしりと美緒殿の命の重みを感じるのでござるよ」

 そう言って誠二郎さんが私を抱きしめたものだから、私はまた金縛りにあった。


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 結局キスはできなかった。でも私は誠二郎さんと向かい合ってお茶を飲み、彼と並んでテレビを見た。今までと同じことをしているだけなのに相手が自分を想ってくれているというだけでこんなにも幸せな気持ちになれるものなの?

「誠二郎さん、奥さんはいなかったの?」

 あまりに女性に免疫がないので答えは想像できたけど、好奇心から尋ねてみた。

「貧しさゆえに嫁を取る事も叶わなかったのでございます。何年も寝たきりの母もおりましたからな。拙者に嫁ぎたがるおなごなどどこにもおりませんでした」

 彼の表情が翳る。しまった。また辛い過去を思い出させてしまった。聞かなきゃよかったと思ったけど後の祭りだ。

 そのとき玄関のチャイムが鳴った。救われた気分で立ち上がり、ドアの覗き穴から外を見て驚いた。佐久間さんが立っていたのだ。

 加奈子の奴、住所まで教えたのか。佐久間さんが私に興味があると知り、彼女は彼を応援し始めた。彼女によれば彼はコンパに来ていた中でも一番の有望株らしい。今までは女性に興味を示さなかったのでターゲットから外されていただけなんだと。

「もう、これじゃストーカーじゃないのさ」

 いつの間にか隣に立っていた誠二郎さんが目を丸くした。

「なんと、ストーカーでございますか。早速警察に連絡いたしましょう」

「ごめん。ちょっと大げさに言っちゃった。そこまで嫌がらせされてるわけじゃないから」

「被害が出ぬうちに弁護士に相談という手もありますぞ」

「でも、佐久間さんは弁護士だし」

「お客は佐久間殿ですか? あの方が美緒殿に狼藉を働くとは思えませぬが」

「そうは思うけどさ。あの人、しつこいし、一人暮らしの女のところに連絡もなしに押しかけてくるのもおかしいでしょ?」

「ご安心くだされ。美緒殿は拙者がお守り申す」

「どうやって? 侍なのに刀だって持ってないじゃない」

「持っておっても使うわけにはいきませぬからな。一刀両断された男性の亡骸が転がっていては美緒殿がお困りでしょう」

 誠二郎さんはにやりと笑うと重さを確かめるように靴箱の上の花瓶を持ち上げた。

「拙者の編み出した秘伝ポルターガイストの術を使いまする」

「もしかして、実家に泥棒が入った時にペンキの缶、投げつけたりした?」

「よく覚えておられますな」

「誠二郎さんって守護霊みたいだね」

「祟るばかりでは気がひけますからな」

 私がドアを開けると、スーツ姿の佐久間さんがにっこり笑った。

「突然にすみません。また体調が悪いと聞いたので気になって来てしまいました」

「それはわざわざすみません」

 どう応対していいのか分からず、私はそう答えた。黒縁眼鏡の下の表情はやっぱり芝居臭く思える。何が目的なんだろう。

「これ、お見舞いです」

 彼は大きな紙袋を差し出した。

「あの、気を使ってもらわなくても」

「大丈夫そうでよかった。俺、帰ります」

 私に紙袋を押し付けると、彼はすたすたと歩き去った。あまりにあっけないので拍子抜け。ポルターガイストの出番はなかったなと誠二郎さんを振り返ると、彼は蒼白な顔をして床に座り込んでいた。

 私は息を呑んだ。彼の体がうっすらと透けて、床に敷かれた玄関マットの模様が見えていたのだ。

「あの方は……なんなのでございましょう」

 彼の声は弱々しく今にも消えてしまいそうだ。

「どういうこと?」

「佐久間殿は拙者の存在を打ち消す力を持っておられるようです。あれ以上近づいていたら、どうなっていたかわかりません」

「じゃあ、あの人には霊を祓う力があるの?」

 誠二郎さんが弱々しく笑った。

「佐久間殿に頼めば拙者を祓うことができますぞ」

「冗談でもそんなこと言わないでよ」

 急に怖くなった私は床に膝をついて誠二郎さんに抱きついた。

「美緒殿、なにも泣かずとも」

「だって誠二郎さんがいなくなったら嫌だよ」

「それほどまでに想っていただけるとは拙者は幸せ者にございますな」

 誠二郎さんは優しく笑って、今度は私を金縛りにすることなくキスしてくれた。



その3

 こうして私は誠二郎さんと恋仲になった。恋仲と言ってもキス以外には恋人らしいことはしなかった。ただ傍にいるだけで満ち足りた気持ちでいられたのだ。

 私はこの先もずっと彼と一緒にいるつもりだった。私が子孫を残さなければ彼の因縁もそこで消える。そうすれば私が死ぬと同時に彼も成仏できるだろう。正気の沙汰ではないのは分かっていたけれど、誠二郎さんと別れるなんて考えたくもなかった。霊に取り憑かれるというのはこういうことを言うのかもしれない。

 彼が生まれたのは二百年近くも前の事だったから実に色々なことを知っていた。 死んでからは私の先祖の家に住み込みで祟っていたので、私の家の歴史にも詳しい。私が生まれてからのことも彼はよく覚えていた。

「美緒殿には昔から欲というものがございませんでしたな。義彦殿に物をねだって困らせるいうこともありませんでしたから拙者は心配しておりました。欲や競争心がなくては人間は伸びませんからな」

「別にいいじゃない。それで困ったことはないんだから」

「確かに将来有望な弁護士に言い寄られながら、幽霊で満足できるのは美緒殿ぐらいでございましょうな」

「やめてよ。あの人は不気味なの。幽霊の方がずっとましだってば」

 それに私に欲がないわけじゃない。手に入らないと分かれば、すぐに別の選択肢を探せばいいと思っているだけだ。志望校も然り、就職先も然り。一つの物に固執する必要なんてないんだから。

「あの小さな美緒殿がよう立派になられましたな」

「誠二郎さんは歳をとらないの?」

「死んだ当時から変わらぬようでございます」

「それじゃ私だけ歳を取っちゃうよ。誠二郎さんは構わないの?」

 彼は答えなかった。その時の彼の目が妙に悲しそうに見えたのだけど、私はすぐに忘れてしまった。


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 その夜、私はまた突然に目を覚ました。金縛りにはなっていなかったが、それよりも遥かに不快な得体の知れぬ不安が私の胸を締め付けていた。佐久間さんと初めて出会った時の胸騒ぎに似ていた。

 何かが起きようとしている。

 上体を起こせば、目の前に誠二郎さんが立っていた。

「美緒殿、お別れの時が参りました」

「誠二郎さん?」

「ようやく冥土へと渡る決心がついたのでございます」

 唐突に言われて私はうろたえた。

「幽霊が居ついておりましたら美緒殿はボーイフレンドを連れてくるわけにいきませぬからな」

「何を言ってるの? 私はあなたが好きなんだよ」

 誠二郎さんはゆっくりと首を横に振った。

「もう美緒殿もお気づきでございましょう。拙者との暮らしは美緒殿のお体に障るのです」

「今までは大丈夫だったでしょう? 急にどうして?」

「美緒殿との距離が近くなり過ぎたのでございましょうな。本来ならば拙者はこの世にいてはならなぬ存在……亡者なのです。これ以上美緒殿に負担をかけるわけには参りませぬ」

「……じゃあ、誠二郎さんは……成仏……できるのね?」

「いえ、地獄へ真っ逆さまでございましょう。他人を恨み、ましてや祟るなど人として最低の所業でございますから」

「そんなことないよ。悪いのは私のご先祖だもん。私の看病をしてくれたから帳消し。ね、そうでしょ?」

 彼が笑った。

「それでは参ります」

「え、もう?」

「祟らぬと決めたからには、留まるわけにはいきませぬからな」

「嫌だよ。もう一度……もう一度だけ祟ってよ。まだ恨みは晴れてないんでしょう?」

「実を申せば恨みなどとうの昔に消えておりました。この世におりもせぬ者を恨む虚しさは拙者とてよく分かっております」

「じゃ、なんで私を祟ってたのよ?」

「祟らねば拙者がここに存在する理由がなくなってしまうからです。大義名分という奴ですな」

 彼は笑顔を浮かべた。

「拙者、生前は地獄を見せられ、死んでからは人様に苦しみを与えてまいりました。なんと悲しく虚しい人生でございましょうか。一度はこの世に生を受けながら、何も成し遂げぬまま消えてしまうのはあまりに悔しい、さりとてどうすればよいのかも分からぬまま現世に留まり続けておりました。美緒殿と出会い、拙者は初めて喜びというものを知りました。美緒殿、あなたが拙者をこの苦しみより解き放ってくれたのです」

「わけが分からないよ。幸せなんだったらこのままでもいいじゃない」

「美緒殿と出会い、現世への未練が強くなったのは紛れもない事実。しかしながらあなたを想う強い気持ちは拙者にその未練さえ断ち切る力を与えてくれたのでございます。拙者が留まれば美緒殿を不幸にするだけ。それは拙者が一番望まぬことでございます。どうかご自分の幸せを見つけていただきたい」

 彼は何を言ってるんだろう? 私の幸せは今ここにあるのに。

「そんなの嫌だって言ってるでしょ?」

「美緒殿?」

「私、初めて本当に欲しいものを見つけたの。誠二郎さんさえいてくれればそれでいい。だから……」

「お気持ちは嬉しゅうございます。ですが拙者は亡者の身。自然の理に反した行いがこれ以上許されるはずもございません。最後に美緒殿と心を通わせることができ、拙者は幸せでございました。これで心置きなくあの世に参れます」

 何を言っても無駄なんだ。彼が決心を変えることはないだろう。死んでいたって彼はサムライなんだから。

「じゃあ、約束して。次に生まれ変わったら一緒になろうよ。それならいいでしょ?」

 私は右手の小指を彼に向かって差し出した。誠二郎さんの小指が私の小指にそっと絡まる。

「針千本だからね」

「ああ、美緒殿。かたじけのうございます」

 彼の小指が私の指を強く締め付けたかと思うと、彼の姿はもうどこにもなかった。


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 朝起きたら、お茶碗と湯飲みがテーブルの布巾の上にきちんと伏せてあった。炊飯器ではちょうどご飯が炊き上がり、鍋には味噌汁、小鉢に分けられたおかずは冷蔵庫の棚に並べられている。

 『栄養のバランスにご注意ですぞ!』

 達筆のメモをみて私は泣いた。誠二郎さん、やっぱりあなたは怨霊だ。私に恐ろしい呪いを残していった。あなたよりいい男なんて見つかりっこないんだから。代わりなんてどこにもいないんだから。

 

 それからは熱を出さなくなった。


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 一年後、私は佐久間さんと付き合っていた。付き合っていたと言うと語弊がある。彼と頻繁に外出する関係になっていたという意味だ。

 誠二郎さんがいなくなってからは何もかもがどうでもよくなっていた。化粧もいいかげん、服装にも無頓着になって、傍目にも疲れて見えたと思う。佐久間さんからは相変わらずメールが送られて来たけれど開きもしなかった。

 ある晩、アパートに佐久間さんが訪ねてきた。夕食に行こうという。支度に時間がかかるからと断ったのに、そのままでいいとジャージ姿の私を屋台のラーメン屋に引っ張っていった。私が断り切れなかったのはたぶん部屋に一人でいるのが辛くなってきていたからだと思う。

 仕事帰りの佐久間さんとみすぼらしい格好をした私とではどう見ても釣り合わなかったけれど、私は気にもしなかった。これで諦めてくれれば好都合だ。だけど、翌週になって彼は再び誘いに来た。今度はジャージを着てきた佐久間さんを見て、私は思わず笑ってしまった。その日もまたラーメンを食べに行った。

 それからは私はもっと身なりに気をつけるようになった。会話を交わすようになってみれば彼は普通にいい人だった。時折、傲慢とも思える発言をすることもあったが、それは内に秘めた自信から来るもので不快に思うこともなかった。加奈子が熱心に薦めてくれたのも今では理解できる。彼といてもあの時の胸騒ぎを感じることは一度もなかったし、それどころか最近は一緒にいると不思議に落ち着いた気持ちになれた。

 いつの間にか二週間に一度の食事が毎週になり、週に二度になった。 彼が私と会うときに眼鏡をはずすようになったので、私は不思議に思った。

「コンタクトに変えたの?」

「あれは伊達だよ。俺、初対面の人と話すのが苦手でさ、眼鏡が手放せないんだ」

「弁護士のくせに?」

「自信がないと思われたら仕事も来ないからね。眼鏡をかけないと法廷で足が震えるんだぜ。死活問題だよ」

「眼鏡ぐらいでそんなに変わるもの?」

「俺さ、小さい頃から人見知りが激しかったんだ。気も弱くてよくいじめられた。そんな自分が嫌で仕方なかったんだ。だから正義の味方になったつもりで母親の眼鏡で変身してみた。そしたら怖くなくなったんだ。なんだって言いたいことが言えるようになった」

「魔法の眼鏡みたいだね」

「自己暗示の一種だろうな。こう見えても結構単純なんだよ」

 彼が私に好意を持っているのは明らかだったけど、友達を超えた関係を迫ることはなかった。彼となら付き合ってもいいと思える。誠二郎さんだって私が普通の幸せを手に入れることを望んでいた。でも私にはどうしてもその一歩を踏み出すことができなかった。



その4

「紅葉を見に行こうよ」

  食事の後、佐久間さんは私に分厚いガイドブックを手渡した。 家に持ち帰りぺらぺらとページをめくっているうちに、私はとある小さな田舎の集落が紹介されているのに気づいた。誠二郎さんが生前住んでいたのはこの辺りだ。ネットで地図を見せてくれたので覚えている。彼が埋葬されたお寺もその辺りにあるらしい。本来罪人である彼には埋葬は許されないのだが、助左衛門の側近の者が無実の罪で死んだ彼を哀れんだのか、それとも祟りを恐れたのか、古寺の片隅にこっそりと埋めてくれたのだという。

 いつか墓参りをしたいと思いながらも、私にはそこまで遠出する気力がなかった。けれども、ガイドブックの小さな写真を眺めているうちにどうしても行ってみたくなった。

 次に会った時、佐久間さんは付箋が貼られたページを開いて眉をひそめた。

「こりゃあ、ずいぶん遠いな。一泊する?」

「え?」
「ごめん。今の冗談」

「ううん、一泊でよければ行こうよ」

 佐久間さんは露骨に驚いた顔をした。私の真意を測りかねたようにこちらを見ている。

「しばらく旅行なんてしてないから。佐久間さんさえ良ければ連れて行ってほしいな」

 彼と一泊旅行をする意味は自分でも分かっている。誠二郎さんはもう帰っては来ない。私たちの間に残されたのは叶うかも分からない来世の約束だけだ。彼は私の幸せのためにあの世へと旅立って行ったのだから彼の墓に参って気持ちを切り替えよう。私がくよくよしていては誠二郎さんは浮かばれないのだから。


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 およそ弁護士の愛車とは思えぬ小さなハッチバックの国産車に揺られて秋の風景を走るうちに、私はこの旅行を楽しみ始めていた。どうして紅葉のほかには見所もないような辺鄙な村を選んだのか佐久間さんが一度も尋ねなかったので私は胸をなでおろした。聞かれても納得のいく答えを返せたとは思えない。途中、特にトラブルもなく昼過ぎには目的地の村についた。

 そこには美しい山並みを背景に絵に描いたような山里が広がっていた。彼岸花に縁取られた畑や枯れ田がどこまでも続き、所々に大きな藁葺きの民家が残っている。通りがかった小さな駅の前に周辺の絵地図が描かれた看板を見かけたので車を止めてもらった。けれど彼が埋葬されている小さな寺は見当たらなかった。

「何か探してるの?」

 運転でこわばった体を伸ばしながら佐久間さんが尋ねる。ちょっと寄りたいところがあるのだと答え、私は一人で駅前の駐在所に立ち寄った。駐在さんによるとその寺は確かにあったのだが、数年前、バイパス道路を造る時に用地として買収されたのだという。寺の移転先を教えようかと言ってくれたが私は断った。

 礼を言って立ち去ろうとすると駐在さんが聞いた。

「あんたは歴女って奴かい? あんな小さな寺にも武将の墓があったのかな? 」

 違うというと彼は笑った。

「先月も聞きに来た人がいたんで気になってね」


 **************************************************


 駐在所を出ると車の中に佐久間さんの姿はなかった。トイレにでも行ったのかな? 私は冷たい飲み物を買おうと駅の向かい側の小さな商店に入った。見たことのない銘柄のジュースを選び、店番のおばさんにレジで代金を払う。その時、おばさんが私の肩越しに誰かに向かって話しかけた。

「あれ、あんた、この間の人だね。見つかったのかい?」

 振り返ればそれは佐久間さんだった。

「ええ、おかげ様ですぐに見つかりました。ありがとうございました」

 彼は明るい笑顔で礼を言うと、陳列棚からスナック菓子の袋を取り、レジに置いた。

 ――どういうこと? 見つかったってなにが?

 私は店から出るとすぐに彼に尋ねた。

「佐久間さん? さっきのはどういうこと? 」

 彼は困ったように頭をかいた。

「バレちゃ仕方がないな。俺さ、一ヶ月前にもここに来たんだ」

「もしかして……旅行の下見?」

「そうだよ。職業柄、何もかも先に準備しておかないと気がすまなくてさ。それよりも早く紅葉を見に行こうよ」

 こんな遠いところまでわざわざ下見に来たっていうの? 何か釈然としなかったが、それ以外にこんなところに来る目的もないだろうから、きっと本当の事だろう。車の中で彼は無言だった。五分ほど走って真っ赤なモミジに彩られた小さな山の麓に着いたとき、私はなぜかほっとしていた。


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 駐車場に車を止め、私たちは山の登り口に向かった。ガイドブックで紹介されたせいか観光客の姿も多い。登り口の脇の案内板によれば、二百メートルほどのお椀形の山の上には小さいながらも立派なお城が建っていたらしい。 誠二郎さんはここのお殿様に仕えていたんだろうか? 残念ながら現在は石垣の一部が残っているだけのようだ。頂上までは広い石の階段が続いており、ゆっくり歩いても三十分あれば登れるとのことだった。

 佐久間さんの後について石段を登るにつれ、またあの胸騒ぎが蘇ってきた。胸がどきどきする。運動不足のせいなんかじゃない。足元が突然に崩れてしまいそうな恐怖に襲われて立ち止まるたびに彼が振り返って疲れたのかと聞くものだから、私は歩き続けるしかなかった。

「こっちだよ」

 もう少しで頂上かという辺りで、彼は舗装もされていない脇道へと入って行った。

「そんなところ、勝手に入ってもいいの?」

「こっちのほうが景色がいいんだ」

 自信たっぷりに彼が答える。最初のうちは広かった小道も歩くにつれて岩だらけの山道に変わった。聞こえるのは鳥の鳴き声とバイパス道路を高速で走る車の音だけだ。五分ほど歩くと突然に視界が開けた。私たちは大きな石垣の上に立っており、眼下には美しい山里の風景が広がっていた。

 私と佐久間さんは石垣の上に腰をおろし、持ってきた水筒から水を飲んだ。

「きれいだろ? 頂上からじゃ木が邪魔をしてこっち側は見えないんだぜ」

 佐久間さんは得意そうに言う。さすが下見に来ただけあってくわしいんだね、と言いかけた時、私はあることに気づいてしまった。

 彼は一ヶ月前にここに来たと言った。でも、私が彼からガイドブックを受け取ったのは二週間前だ。私がこの村に来たがると彼が知っていたはずがない。

 私の表情の変化に気づいたのか、彼が尋ねた。

「どうかした?」

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「俺も美緒さんに話がある。ここなら邪魔がはいらないからちょうどいいだろう?」

 佐久間さんは胸のポケットから取り出した眼鏡をかけるとおもむろにこちらを向いた。


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 雲ひとつない秋晴れなのに、辺りの温度が下がった気がした。胸騒ぎはますます大きくなり、私は吐き気に襲われた。何かが起きようとしてる。誠二郎さんが消えてしまった時のように、私の人生をひっくり返すような大きな出来事が。

  ――佐久間さん? あなたの仕業なの? 

 彼の表情からは何も読み取れない。仮面をかぶってしまったのだ。

「まずは美緒さんの質問を聞こう。何を知りたいの?」

 佐久間さんの声は心なしかこの状況を楽しんでいるように聞こえる。

「どうして先月ここに来たの? 下見じゃないよね?」

「ああ、下見なんかじゃない。どうしても調べたいことがあったからだよ。美緒さんこそ、どうしてこの場所を選んだの? あのガイドブックには三百箇所以上の紅葉の名所が掲載されていた。こんな辺鄙な山里が載ってる本なんてあんまりないからさ、探すのに苦労したんだよ。で、君に渡したら思った通りこの村を指名してきた」

「私、はめられたの?」

「うん、ごめんね」

「でもどうして?」

「俺が狂ってないって証明するためだよ。それと、君に仕返しをするため……かな?」

 佐久間さんの眼鏡が光る。秋の空を映しているはずなのにその青の色は冬の冷気を帯びていた。仕返しって何? 私があなたに何をしたって言うの? 

――誠二郎さん! 誠二郎さん、助けてよ!


 **************************************************


「まずは俺の話を聞いてよ」

 佐久間さんは石垣の上で長い足を組んだ。

「誠二郎という人の話だよ。君も興味があるんじゃないかな?」

 私は驚いて彼の顔を見つめた。どうして彼が誠二郎さんの名前を知ってるの?  佐久間さんは私の反応を確かめるように黙って私を見つめ返した。誰にも誠二郎さんの話をしたことはない。アパートの外で彼の名を出したとすれば、出先から誠二郎さん本人と電話で話した時ぐらいだ。もしかして……盗聴されてたの?  本当に彼はストーカーだったってこと?

「彼は美緒さんの大事な人なんだろ?」

「で、でももう別れたから」

「それは知ってる。でも、まだ君の心の中は彼でいっぱいだ。そうだね?」

「ご、ごめんなさい」

 白く光る眼鏡の奥からも、彼の声からも一切感情が読み取れない。相手がプロの弁護士だということを初めて実感した。

「謝ることはないんだよ」

 身の危険を感じ、誰にもこの旅行のことを知らせていなかったのを思いだした。行方不明になってもすぐには気づいてはもらえない。弁護士なら証拠の隠蔽だってお手の物だろう。

「俺もね、彼の埋葬された寺を探したんだよ。そのお寺はね、ここから山を二つ越えたところにある同じ宗派のお寺と合併したんだ。お墓も全てそこに移転された。その寺じゃ誰も誠二郎のことは知らなかったが、俺は先代の住職を紹介してもらい、彼の話を聞いた」

  急に話が変わって私は戸惑った。それじゃ、彼は誠二郎さんがこの世にいない人間だということは知っているのだ。遠い昔に死んだ人間だということも。

「詳細は伝わっていないが、確かに寺には非業の死を遂げた侍のものだと言われる墓があったそうだ。墓石には何も刻まれていなかったが、移転の時、石を持ち上げてみれば底面に名前が刻まれていたらしい」

「……彼の名前が?」

 思わず聞き返した私に佐久間さんは頷いた。

「打ち首になれば家も取り潰され、武士の資格も剥奪される。せめて密かに名前だけでも残してやろうと考えた人がいたのだろうね」

 誠二郎さんの話を疑っていたわけではなかった。けれども改めて彼が実在した証があると聞いて胸が熱くなる。だけど、どうして佐久間さんがそんなことを調べに来たんだろう。話がどこに向かっているのか分からない。

「美緒さんのおじい様の生家も戦前まではこの辺りにあったそうだね。代々長男は病気続きだったけど、家自体は座敷童子でもついてるんじゃないかってぐらい繁盛したんだそうだよ。自分を殺した相手にそこまでつくすなんて誠二郎はずいぶんなお人よしだったんだな」

「お人よしの何が悪いの?」

 誠二郎さんをけなされて思わず大きな声が出た。佐久間さんは怯む様子もなく口元に挑戦的な笑みを浮かべている。

「どうして……どうしてあなたが誠二郎さんのことを知ってるのよ?」

「彼が俺に会いに来たからだよ」

「いつ?」

「もう一年ほど前になるかな。夜中に目が覚めたら枕元に武士が立っていた。俺に向かって、自分を消してくれって頼むんだ」

 じゃ、私に別れを告げたあと? そうか。あの世に行くと言ったものの、彼は自分じゃ消えられなかったんだ。だから佐久間さんに頼みに行ったんだ。

「彼はどうしたの?」

「消えたよ」

 何の感慨もこもらない声で彼が答える。

「何か……言ってた?」

「美緒殿を頼みますと言われた。それだけだ」

「……あなたはなんて、答えたの?」

「もちろん引き受けておいたよ。俺が一生面倒を見ると誓った。だから美緒さんもそのつもりでね」

 誠二郎さん、酷いよ。弁護士なら私の将来は安泰だと考えてのことだろうけど、よりによってこんな人に私を押し付けるなんて。

「そんなこと言われても困るよ」

「あれれ、俺と一泊するんじゃなかったの? 困ったな。部屋を一つしか取らなかった」

 なんなの、この人? やっぱり彼は変だ。私の勘は間違っていなかった。

 佐久間さんは芝居がかった仕草で肩をすくめてみせた。

「まあ、そう言うだろうと予想はしてた。話にはまだ続きがあるんだ。もう少しだけ我慢して聞いてくれるかな。これを聞けば美緒さん、俺に抱いてくれって泣きついてくるかもよ」

 今度は脅すつもりなの? 私は彼を睨みつけた。この情けの欠片もない男が誠二郎さんを消したのだと思うと怒りが込み上げる。けれども彼に抵抗しても勝ち目はない。今は黙って話を聞くしかなかった。

「俺はね、子供の頃から繰り返し同じ夢を見るんだ。女の人が出てくる夢だなんてませたガキだと思うだろ? 俺には彼女が運命の人だって分かってた。そしてね、去年、行きたくもなかったコンパの席でその人にばったり出会ったんだ。だから俺は喜び勇んで話しかけたのに、彼女は俺に見向きもしない。どんな女も先を争って俺に媚を売るのに、彼女ったらさっさと逃げ帰っちまったんだぜ。運命の人のくせに酷いと思わない? ねえ、美緒さんはどう思う?」

 それはあなたの頭がおかしいからでしょ? とは言えず、私は唇を噛み締めた。階段まで戻れば人がいる。細い山道を彼に捕まらずに走って戻れるだろうか? 

 私が黙っているのを見て彼はため息をついた。

「俺の秘密を打ち明けてあげたっていうのに、ちっとも反応がないんだな。じゃあ、もう少しだけ教えてあげる。こんなこと話せば美緒さんに笑われちゃうかもしれないけどね。だって夢の中じゃ、俺、ちょんまげを結ってたんだぜ」

――え? 

「俺は狂おしいほど彼女に恋してた。でも夢の最後はいつも悲しい別れで終わるんだ。その人は泣き顔で俺にこう言う。針千本だよ、ってね」

 彼はゆっくりと眼鏡をはずした。私をまっすぐに見つめる目には狂気の色はない。心なしか目頭が少し濡れていた。

「自分の頭がおかしいんじゃないかって疑いながらも、俺は彼女との約束を果たそうとしたんだよ。針千本飲まされちゃかなわないからね」

「あなたは……誠二郎さんなの?」

「俺にもよく分からない。でも、もしそうなら俺は君にこう言うべきなんだろうな」

 彼は小さく咳払いすると私の耳元でささやいた。

「美緒殿、約束を果たしに参りましたぞ」


 **************************************************


 私は泣き出した。ほっとしたのと嬉しいのとで声を上げて泣いた。佐久間さんは黙って私を引き寄せると、泣き止むまでずっと抱いていてくれた。

 胸騒ぎも吐き気もいつの間にか嘘のように収まっていた。しばらく経って彼が聞いた。

「落ち着いた?」

「佐久間さんの馬鹿!」 

「え、俺、馬鹿なの?」

「あなたが誠二郎さんなんだったらさっさと教えてくれればいいじゃない」

「俺だって自分が正気なのか自信がなかったんだよ。あの晩、誠二郎に会った時、自分が未来の彼だってことが俺にははっきりと分かった。誠二郎が俺に近寄ることが出来なかったのは、本来彼と俺とは同時にいてはならない存在だったからだ。時間まで遡っちゃうなんてよっぽど今世の美緒さんに会いたかったんだろうな」

 佐久間さんが微笑んだ。

「美緒さんにもそろそろ打ち明けるべきだと思ったんだけど、その前に彼が存在したという裏づけを取ることにした。だから一人でここに来たんだ。墓石のおかげで彼が実在した人物だと分かった。でもやっぱり、食事の席で『俺、誠二郎の生まれ変わりなんだけど、どうする?』なんて尋ねる度胸はない。全てが俺の妄想だって可能性も否定しきれなかったからね。美緒さんが本当に誠二郎を知っていたという確かな証拠が欲しかったんだ」
「だからガイドブックを渡して私の反応を見たのね。でもあんなに脅かすことはないでしょう? 意地が悪すぎるよ」

 佐久間さんが口を尖らせた。

「いいか、俺は子供の時から勉強ばかりの毎日だった。美緒さんに会った時に自分を誇れる男になってなくっちゃならないと思ったからだ。ラブレターは山のように貰うのに女とは付き合ったこともない。おかげで学生時代には佐久間君はホモだと女子の間で噂される羽目になった。それなのに美緒さん、最初から人を変質者みたいな目で見て、やっと付き合ってくれたると思ったら散々じらしやがってさ。あんまり腹が立ったからちょっと脅かしてやろうと思ったの。かわいい冗談だろ?」

「冗談にしては度が過ぎてるでしょ? 殺されるのかと思ったんだからね」

「どうして俺が美緒さんを殺さなきゃならないんだよ? それに、誠二郎もそれほど出来た人物でもなかったんだぜ。美緒さんの着替えを隠して困った顔で風呂場から出てくるのを見て面白がってたぐらいだから」

「酷いじゃない。そんなことまで夢で見たの?」

「印象の強い出来事は結構覚えてるんだ。まさか美緒さんが素っ裸で飛び出してくるとは思ってなかったからね」

「嘘つき。覗いてないって言ったじゃないの」

「俺じゃないよ。俺は佐久間亮太。前世は誠二郎だったのかもしれないけど今は違う。それでもいいなら付き合ってやってもいいぜ」

「じゃ、付き合わない。性格が違いすぎるもん」

「何言ってるんだよ? 約束させたのは美緒さんのほうだろう?」

 誠二郎さん、今じゃあなたは弱きを助ける正義のヒーローだよ。今度こそ思い通りの人生を歩めたはずなのに、約束を守って私を探し出してくれたなんて、やっぱりあなたは変わっていない。

「悪くないバージョンアップだよ。ちょっとSの気が強いけどね」

「え? それ、俺のことを言ってる?」

「うん、見つけてくれてありがとう」

 彼はにっこり笑うと身を乗り出して私にキスした。遠慮がちな優しいキス。このキスをまだはっきりと覚えている。

「これ、俺のファーストキス」

 柄にもなく顔を赤くして佐久間さんが打ち明けた。

「え、佐久間さん、もてそうなのに?」

「だって、美緒さん以外は女に見えなかったんだぜ。責任取ってくれよな。……あれ、美緒さん、熱がある?」

 今のキスのせいだと思うけど。

「風邪ひくと大変だ。もう降りよう。美緒さん抱けなくなったら困るし」

「そこは口に出さなくてもいいところでしょ?」

「何でだよ? 楽しみで昨夜はほとんど眠れなかったんだぜ」

 ああ、誠二郎さんの奥ゆかしさはどこに行ってしまったんだろう。

「でも、万が一、熱が出ちゃったら……」

 佐久間さんがにやりと笑う。

「看病は拙者にお任せでござるよ」

 

 彼の頭の上にちょんまげが見えた気がした。
 

 -おわり-

奥付



サムライ熱


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著者 : モギイ
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