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 やっと長い夜が明けて、今朝は何もきこえない。ナミは走り回っていないし、部屋のすみにもうずくまっていなかった。
 ミカンの皮や空になったマヨネーズの容器。氷の床(ゆか)の母親は、散らかる物の中でうつぶせのまま。しかし、いつもと様子が違っていた。
 頭の上には、ナミのタオルケットがかけられて、顔のそばでたたんでいたはずの右腕(うで)も、下からはい出たみたいにテレビに向かってのびている。青白い指が、リモコンを掴(つか)んで凍っていた。

 滞(とどこお)る零下(れいか)の世界。雪と氷にとざされた物憂(ものう)げな街の片すみ。窓に迫(せま)る無情の景色は、忘れ去られた吹(ふ)きだまりの下に、あとどれだけ二人を閉じこめるだろう。



 裸(はだか)のナミを、奥の4畳半(よじょうはん)で見つけた。寝床(ねどこ)の上にあお向けでいて、布団をけとばし、枕(まくら)を畳(たたみ)に転がせている。とりあえず今日まで、危(あや)ういが手ごわくて何よりだ。
 例えばナミは、未来を想像することが無いという。頭の中で引き起こす、生まれながらの障害のせい。数ある個性のこれもひとつだとか。
 「明日を臆(おく)せず、今を限(かぎ)りに生きぬいて行く」そんな潔(いさぎよ)さをも兼(か)ね備(そな)えるのか。

 ――玄関(げんかん)でドアを叩(たた)く音がする――

 とうとうやっと来てくれた! さあ、早くここへ。
 薄目(うすめ)がわずかに輝(かがや)いた。「ホン」と、ひとつむせたけれど、どこに残していただろう。ドロップが、口から糸を引いて飛び出した。


 ほどなく辺りは静まって、しかし、まだ中をうかがう気配がしている。玄関が開くのを、そして呼ぶ声を、今かと待ちわびたのもつかの間。
 「スッ」と、ドアのポスト口からチラシが差し込まれ、雪をふみしめる足音が、せわしく次の戸口へ消えてしまった。

 張りつめた空気は一瞬(いっしゅん)にして解け、その代わり、漲(みなぎ)るものが消えて行く。ナミを見ればそう分る。延々と、救われぬ時だけが刻(きざ)んだ1秒のなんともどかしい。

 大きな喉(のど)の吸いこむ音がした。

 ナミのむらさき色のくちびるが「ふーっ」と、息を吐(は)き出した。

 

 命が旅立つ最期の合図(あいず)。


 ゆるんだ瞳(ひとみ)が彼方(かなた)を見つめて、こめかみを、涙(なみだ)がひとすじ流星(りゅうせい)みたいに流れて落ちた。


 ナミの物語はこれで終わり、救(すく)われぬ時だけが今日を刻み続ける。


 午前のうちに、長く居座(いすわ)った雪雲は消えて、しばらくぶりに太陽を見た。日差しが、畳(たたみ)を黄金(こがね)に浮かばせながら、みるみるナミへ寄せて来る。
 ほどなく窓(まど)の格子(こうし)が影を落とせば、寝床(ねどこ)はどこも明るくなって、頬(ほお)は橙(だいだい)色に染まり、日向(ひなた)ぼっこのうたた寝をながめる気がした。

 不意に、音もなく小さなものが転がって行く。
 コロコロとひとつ。ナミの体をかけ下りて、畳(たたみ)に映る日だまりの上を、オレンジ色の綺麗(きれい)な影と並んで進む。

 さっき、なめていたドロップ。
 
 ――いや違う。ああ、あれは――


 畳縁(たたみべり)をはねたら勢いを無くし、それでもゆらゆらと弧(こ)を描きだす。
 最後は、サンタの姿の赤い折(お)り紙や、銀色の松ぼっくりが散らばる中を進んで、初めから決めていたように、タンポポの絵のかわいい飯茶碗(めしぢゃわん)に、カチンとはねて上を向いた。


 人も車もカラスも――朝から無関心を決めこんで、窓(まど)の外は、物音一つしない。
 その代わり、不思議な気配がナミの寝床(ねどこ)を取り巻いた。
 主(あるじ)を無くした、この部屋のとまどいなのか。まるで潮騒(しおさい)のように、ざわざわと無数の念(ねん)がわき起こり、寄せてはまとわりつくようだ。
 壁(かべ)の中で柱(はしら)たちが、するどい音で身をきしませて、こちらはやり切れぬ思いでいるらしい。

 誰か――
 忘れたふりをやめて、この部屋の様子を確かめに来てもらえないか。
 すでにおそくても、見つかって、このありさまが日の目を見れば、世間はつかの間反省をするし、報(むく)われなかった日々へ同情もしてくれるはず。大家さんには、溜(た)めた家賃(やちん)をふくめて、大迷惑(だいめいわく)な話だけれど。
 それに、仕事とはいえ警察もだ。



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