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 ほどなく辺りは静まって、しかし、まだ中をうかがう気配がしている。玄関が開くのを、そして呼ぶ声を、今かと待ちわびたのもつかの間。
 「スッ」と、ドアのポスト口からチラシが差し込まれ、雪をふみしめる足音が、せわしく次の戸口へ消えてしまった。

 張りつめた空気は一瞬(いっしゅん)にして解け、その代わり、漲(みなぎ)るものが消えて行く。ナミを見ればそう分る。延々と、救われぬ時だけが刻(きざ)んだ1秒のなんともどかしい。

 大きな喉(のど)の吸いこむ音がした。

 ナミのむらさき色のくちびるが「ふーっ」と、息を吐(は)き出した。

 

 命が旅立つ最期の合図(あいず)。


 ゆるんだ瞳(ひとみ)が彼方(かなた)を見つめて、こめかみを、涙(なみだ)がひとすじ流星(りゅうせい)みたいに流れて落ちた。


 ナミの物語はこれで終わり、救(すく)われぬ時だけが今日を刻み続ける。


 午前のうちに、長く居座(いすわ)った雪雲は消えて、しばらくぶりに太陽を見た。日差しが、畳(たたみ)を黄金(こがね)に浮かばせながら、みるみるナミへ寄せて来る。
 ほどなく窓(まど)の格子(こうし)が影を落とせば、寝床(ねどこ)はどこも明るくなって、頬(ほお)は橙(だいだい)色に染まり、日向(ひなた)ぼっこのうたた寝をながめる気がした。

 不意に、音もなく小さなものが転がって行く。
 コロコロとひとつ。ナミの体をかけ下りて、畳(たたみ)に映る日だまりの上を、オレンジ色の綺麗(きれい)な影と並んで進む。

 さっき、なめていたドロップ。
 
 ――いや違う。ああ、あれは――


 畳縁(たたみべり)をはねたら勢いを無くし、それでもゆらゆらと弧(こ)を描きだす。
 最後は、サンタの姿の赤い折(お)り紙や、銀色の松ぼっくりが散らばる中を進んで、初めから決めていたように、タンポポの絵のかわいい飯茶碗(めしぢゃわん)に、カチンとはねて上を向いた。


 人も車もカラスも――朝から無関心を決めこんで、窓(まど)の外は、物音一つしない。
 その代わり、不思議な気配がナミの寝床(ねどこ)を取り巻いた。
 主(あるじ)を無くした、この部屋のとまどいなのか。まるで潮騒(しおさい)のように、ざわざわと無数の念(ねん)がわき起こり、寄せてはまとわりつくようだ。
 壁(かべ)の中で柱(はしら)たちが、するどい音で身をきしませて、こちらはやり切れぬ思いでいるらしい。

 誰か――
 忘れたふりをやめて、この部屋の様子を確かめに来てもらえないか。
 すでにおそくても、見つかって、このありさまが日の目を見れば、世間はつかの間反省をするし、報(むく)われなかった日々へ同情もしてくれるはず。大家さんには、溜(た)めた家賃(やちん)をふくめて、大迷惑(だいめいわく)な話だけれど。
 それに、仕事とはいえ警察もだ。


 事件を疑いながら部屋の検証(けんしょう)を始め、それならナミが吐(は)き出した、透(す)き通るオレンジ色のボタン。
 母親の、袖(そで)のちぎれたあとを怪(あや)しんで、飯茶碗(めしぢゃわん)などには目もくれず、きっとつまみ上げるのだ。
 窓(まど)にすかせば、ついた歯形を目ざとく見つけて、新聞記者やヤジ馬や、テレビカメラをかき分けながら、事件の場合の手がかりとして、きっと持ち帰るのにちがいない。

 そんなてんやわんやを、どこか高い遠くから、ナミは眺めていてほしい。
 照れるわけでも嘆(なげ)くわけでも無く、許すも許さないも、あんなに短い一生を、他人(ひと)と比べようもないのだから仕方ない。
 魂(たましい)が解き放たれ、寒い思いやひもじさからも開放されて、それならせめて「やっと救(すく)われたんだ」と、凍(こご)えた街を見下ろせばいい。

 けれど――


 変わり果て、荒涼(こうりょう)としたこの部屋の景色にも、二人の面影(おもかげ)は、蘇(よみがえ)る。そして、人知れずささやかであれ、息(いき)づいた日々は、まぎれもなく閃(ひらめ)いていた。

 卑(いや)しい暮らしの中で、すまなそうに呼吸を続ける人たちがいる。命の尊厳(そんげん)を、背負う宿命もいつかどこかへ置き忘れて、なんとかやっと生き伸びている。
 その存在に、世間はいつまで見て見ぬふりをするのか。正義(せいぎ)を暗まし見限(みかぎ)るつもりでいるだろう。

 「死んだ方がまし」だとか。「生まれ変われ」ば楽だとか。その場しのぎの無責任。
 励(はげ)ます声や見送る眼差(まなざ)しも無く、ナミは独(ひと)りぼっちで凍(こご)えていった。

 今日、この凍(こご)えた街中のだれ一人も「救(すく)われたはずが無い」。そう思い直して、ひどく悲しかった。
                        (終わり)



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