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「ハーッ!」
 肩で息を始めると、顔から血の気が引いて、しだいに勢いも弱まって行く。
 そのうち目玉をひっくり返して、ベタンと尻(しり)もちをつく意地(いじ)の張りよう。ぶつけたところをさすりながら、それでやっと諦(あきら)めた。

 ナミは、立ち上がらずに四つんばいをして、ふらふら母親のもとへ近づいて行く。
 後ろから、痩(や)せた腰(こし)につかまると、遠慮(えんりょ)がちにゆさぶって、始めは甘えるしぐさに見えた。
 ところが、ナミは急に興奮(こうふん)し始めて、場面は一転(いってん)ケンカをしかけているようだ。
「うん! うん! う~ん!」

 床(ゆか)にねじれた体を、ナミが乱暴(らんぼう)にゆらし、さらにどこでも掴(つか)んで力いっぱい返(かえ)そうとする。
 そばにころがる掌(てのひら)へは、リモコンを何度も強く押し当て、預けるつもりでいるらしい。母親が、丸太(まるた)のように心が無いことを、分かっているはずなのに。

 ナミのスキンシップはどれも一方的で、それに、なかなか収(おさ)まる気配がなかった。
「う~ん! う~ん!」
 相変わらずのうなり声。どうにも満足いかない様子。
 遂にリモコンを放り投げ、母親が着るコートの袖(そで)に縫(ぬ)い付けられた、透(す)き通るオレンジ色のボタン目がけて噛(か)みついた。


「ピンポ~ン、ピンポ~ン、ゴメンクササ~イ!」

 カーテンの無い窓は、黄昏(たそがれ)が暗幕(あんまく)を引いて宵の口(よいのくち)。部屋の全てが影と成り、沈(しず)み始めた氷の床(ゆか)に、母親のあわれな姿が滲(にじ)む。
 思いもよらず命が果(は)て、うつぶせに崩(くず)れた体は今も硬直(こうちょく)をしたまま。
 だから、昼間したナミの力まかせは、どれも思い通りに行かなかった。そのせいでパニックを起こしたナミが、自分で自分の手の甲(こう)を血がにじむまでかみしめたけれど、今では意に介(かい)するそぶりも無い。



「ピンポ~ン、ピンポ~ン、ゴメンクササ~イ!」


 真夜中にひびいたのは、お決まりのセリフ。影絵のナミが雪明りに浮(う)かぶ。
 母親につまずかないよう目をこらし、両手でタオルケットの裾(すそ)を持ち上げ、今夜も凍(こご)える部屋を駆(か)けめぐる。

 三日三晩ねむらずに明かした、気の遠くなるほど長い時間。朝まで続く奇想天外(きそうてんがい)は、移(うつ)ろう心模様(こころもよう)に身悶(みもだ)えているようで切ない。

 こみ上げては静まり、竦(すく)んでは立ち向かう。逆境にへこたれぬ健気(けなげ)さは胸を打つけれど、ここからぬけ出す手立てを思いつけないのだから情けない。
 空(から)のバケツへ迷いこみ、グルグルとはい出せずにいた夏の虫のように、底を逆(さか)さに返してくれる、慈悲深(じひぶか)い通りすがりを待つより他は無い。




 やっと長い夜が明けて、今朝は何もきこえない。ナミは走り回っていないし、部屋のすみにもうずくまっていなかった。
 ミカンの皮や空になったマヨネーズの容器。氷の床(ゆか)の母親は、散らかる物の中でうつぶせのまま。しかし、いつもと様子が違っていた。
 頭の上には、ナミのタオルケットがかけられて、顔のそばでたたんでいたはずの右腕(うで)も、下からはい出たみたいにテレビに向かってのびている。青白い指が、リモコンを掴(つか)んで凍っていた。

 滞(とどこお)る零下(れいか)の世界。雪と氷にとざされた物憂(ものう)げな街の片すみ。窓に迫(せま)る無情の景色は、忘れ去られた吹(ふ)きだまりの下に、あとどれだけ二人を閉じこめるだろう。



 裸(はだか)のナミを、奥の4畳半(よじょうはん)で見つけた。寝床(ねどこ)の上にあお向けでいて、布団をけとばし、枕(まくら)を畳(たたみ)に転がせている。とりあえず今日まで、危(あや)ういが手ごわくて何よりだ。
 例えばナミは、未来を想像することが無いという。頭の中で引き起こす、生まれながらの障害のせい。数ある個性のこれもひとつだとか。
 「明日を臆(おく)せず、今を限(かぎ)りに生きぬいて行く」そんな潔(いさぎよ)さをも兼(か)ね備(そな)えるのか。

 ――玄関(げんかん)でドアを叩(たた)く音がする――

 とうとうやっと来てくれた! さあ、早くここへ。
 薄目(うすめ)がわずかに輝(かがや)いた。「ホン」と、ひとつむせたけれど、どこに残していただろう。ドロップが、口から糸を引いて飛び出した。



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