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「ピンポ~ン、ピンポ~ン、ゴメンクササ~イ!」

 カーテンの無い窓は、黄昏(たそがれ)が暗幕(あんまく)を引いて宵の口(よいのくち)。部屋の全てが影と成り、沈(しず)み始めた氷の床(ゆか)に、母親のあわれな姿が滲(にじ)む。
 思いもよらず命が果(は)て、うつぶせに崩(くず)れた体は今も硬直(こうちょく)をしたまま。
 だから、昼間したナミの力まかせは、どれも思い通りに行かなかった。そのせいでパニックを起こしたナミが、自分で自分の手の甲(こう)を血がにじむまでかみしめたけれど、今では意に介(かい)するそぶりも無い。



「ピンポ~ン、ピンポ~ン、ゴメンクササ~イ!」


 真夜中にひびいたのは、お決まりのセリフ。影絵のナミが雪明りに浮(う)かぶ。
 母親につまずかないよう目をこらし、両手でタオルケットの裾(すそ)を持ち上げ、今夜も凍(こご)える部屋を駆(か)けめぐる。

 三日三晩ねむらずに明かした、気の遠くなるほど長い時間。朝まで続く奇想天外(きそうてんがい)は、移(うつ)ろう心模様(こころもよう)に身悶(みもだ)えているようで切ない。

 こみ上げては静まり、竦(すく)んでは立ち向かう。逆境にへこたれぬ健気(けなげ)さは胸を打つけれど、ここからぬけ出す手立てを思いつけないのだから情けない。
 空(から)のバケツへ迷いこみ、グルグルとはい出せずにいた夏の虫のように、底を逆(さか)さに返してくれる、慈悲深(じひぶか)い通りすがりを待つより他は無い。




 やっと長い夜が明けて、今朝は何もきこえない。ナミは走り回っていないし、部屋のすみにもうずくまっていなかった。
 ミカンの皮や空になったマヨネーズの容器。氷の床(ゆか)の母親は、散らかる物の中でうつぶせのまま。しかし、いつもと様子が違っていた。
 頭の上には、ナミのタオルケットがかけられて、顔のそばでたたんでいたはずの右腕(うで)も、下からはい出たみたいにテレビに向かってのびている。青白い指が、リモコンを掴(つか)んで凍っていた。

 滞(とどこお)る零下(れいか)の世界。雪と氷にとざされた物憂(ものう)げな街の片すみ。窓に迫(せま)る無情の景色は、忘れ去られた吹(ふ)きだまりの下に、あとどれだけ二人を閉じこめるだろう。



 裸(はだか)のナミを、奥の4畳半(よじょうはん)で見つけた。寝床(ねどこ)の上にあお向けでいて、布団をけとばし、枕(まくら)を畳(たたみ)に転がせている。とりあえず今日まで、危(あや)ういが手ごわくて何よりだ。
 例えばナミは、未来を想像することが無いという。頭の中で引き起こす、生まれながらの障害のせい。数ある個性のこれもひとつだとか。
 「明日を臆(おく)せず、今を限(かぎ)りに生きぬいて行く」そんな潔(いさぎよ)さをも兼(か)ね備(そな)えるのか。

 ――玄関(げんかん)でドアを叩(たた)く音がする――

 とうとうやっと来てくれた! さあ、早くここへ。
 薄目(うすめ)がわずかに輝(かがや)いた。「ホン」と、ひとつむせたけれど、どこに残していただろう。ドロップが、口から糸を引いて飛び出した。


 ほどなく辺りは静まって、しかし、まだ中をうかがう気配がしている。玄関が開くのを、そして呼ぶ声を、今かと待ちわびたのもつかの間。
 「スッ」と、ドアのポスト口からチラシが差し込まれ、雪をふみしめる足音が、せわしく次の戸口へ消えてしまった。

 張りつめた空気は一瞬(いっしゅん)にして解け、その代わり、漲(みなぎ)るものが消えて行く。ナミを見ればそう分る。延々と、救われぬ時だけが刻(きざ)んだ1秒のなんともどかしい。

 大きな喉(のど)の吸いこむ音がした。

 ナミのむらさき色のくちびるが「ふーっ」と、息を吐(は)き出した。

 

 命が旅立つ最期の合図(あいず)。


 ゆるんだ瞳(ひとみ)が彼方(かなた)を見つめて、こめかみを、涙(なみだ)がひとすじ流星(りゅうせい)みたいに流れて落ちた。


 ナミの物語はこれで終わり、救(すく)われぬ時だけが今日を刻み続ける。



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