閉じる


グリーンの傘


雨が降ってきた。
私はビルの軒下で雨宿りをした。

渋谷の街中で、
沈んだカラーの傘が行き交う。

そういえば、今朝、
夕方から雨が降るって
天気予報で言ってたっけ。

「あっ…」

見覚えのあるグリーンの傘が目の前を横切ったとき、
私は思わずその後ろ姿を追いかけた。

彼は驚いて振り返り、
私の顔を見て顔をほころばせた。

学生時代に
付き合っていた男の子だった。

当時、彼に貸したグリーンの傘を
最後まで受け取らないままで、
私たちはお別れをした。

正確には、会う口実が
まだ欲しかったのかもしれない。
繋がりがなくなるのが、こわかった。

それから何年も経って、
私は違う人とお付き合いもしたが、
雨の日には、
彼のことを度々思い出した。

「まだ、持ってたんだね」

ああ、と彼は恥ずかしそうに
顔を伏せた。

「だって、これ、
君のお気に入りだったじゃん。
捨てられないよ」

良かったのに、捨てても…
そう呟いて見上げると、
懐かしそうに目を細めて
彼が私を見ていた。

たぶん私も、
同じような顔をしていた。

「何だか、大人になったね。
男前になった」

君も、前より綺麗になったよ。
と、彼は言った。

口角の上がった薄い唇が、
雨粒に濡れて光っていた。

この唇に、何度、
私は求められただろう。

「送ってくよ」

彼は私を傘の中に招き入れた。
昔より遠慮がちに、寄り添う。

「その前に、飯でもどうかな」

私は前を見たまま、うなずいた。
彼の傘を持つ手がすこし、震えている。

「会えるなんて、思わなかった。
もう何年も経っているから」

私はまた、うなずく。

「香水、変えたんだね」

「あなたと別れた後、変えたの」

そっか…
彼は寂しそうに笑った。

「あの匂いを街中で見つけるたび、
君を思い出したよ」

肩がぶつかる。
私は彼の横顔をそっとみる。

もっと、ちゃんと、彼に触れたい…
衝動がこみ上げる。

「今更だけどさ、これ、
オレがまだ持っていて良いかな?」

彼はグリーンの傘を見上げた。

「もう、あなたのじゃない」

「違うよ、まだ君のだよ。
だからオレはいつか返さなきゃ」

彼が私を見た。
私は傘を持つ彼の手に触れた。

「じゃあそれまで、
私はあなたと会う理由があるよね」

路地に差し掛かる。
彼がふいに立ち止まり、
私の顔を覗き込む。

私は、彼に唇を重ねた。

雨音が遠くなる。

彼の小さなか細い声が、
「ただ、会いたかった」
と呟いた。


[グリーンの傘] end.

瞼の恋人


今年は寒さが長引く。
暦上ではもう春になると言うのに、
毛布にくるまっても、足先が冷たい。

『外、霧(きり)が出てるよ』

少年のような彼の声の向こうに、
コツコツという規則的な足音と
通り過ぎる車の音が聞こえる。

私は寝返りを打って、
受話器を右に持ち替えた。

『明日は雨かな。
フットボール、楽しみにしてたけど中止だろうな』

夜空を見上げて、
心細そうに息を吐く彼の姿が目に浮かぶ。

『美波は、明日何か予定があるの?』

「私は、低気圧が苦手だから、
ゆっくりお風呂にでも浸かろうかな」

『一日中?ふやけるぞ』

ひんやりとした外気に、
彼の朗らかな笑い声が響く。

「ねえ、今どんな服着てるの」

『ん。黒いパーカーにカーゴパンツ。
深夜のコンビニだから、部屋着みたいなもんだよ』

「ふうん」

私は目を閉じて、彼の姿を想像した。
少し癖っ毛の黒髪に、
鼻先は赤くなっているに違いない。

かわいい、と私は思った。

「センセイ。私の顔、覚えてる?」

私は自分の唇に触れた。
冷たい指先に温かい息がかかる。

『なに言ってんの。
昨日も学校で会ったじゃない』

「じゃあ、想像して。私のこと」

彼は『うん』と言った後、
少し間を置いた。

『いつも、してる。
美波のこと、考えてるよ』

「どういうこと」

『講義の内容をもうちょっと理解して欲しいな、とか』

「そんなこと」

そんなことって、と彼は苦笑した。

『うそだよ。本当はいつも見てる。
柔らかい、屈託のない笑顔の合間に、
一瞬寂しそうな顔をするとことか』

ちがう。
いつも彼が見ているのを知っていて、
わざとそんな表情を見せているのだ。

「足りないよ、センセイ」
私は小さく囁いた。

「想像して、もっと。
私の髪の毛や、肌に、触れるとき。
瞳や唇を見つめて、
欲しいと感じたときのこと」

『美波…』

電話の向こうから足音が消えた。
静寂のなかで、バイクが1台通り過ぎた。

『美波、泣いている?』

私は送話口を押さえた。
温かい涙が頬をつたい、
小さく声が洩れる。

『美波…会いに行きたい。
君をひとりにしたくない』

来て、と言いかけた口を咄嗟につぐむ。

「…だめ」

『信じられないか?』

「今は私も、触れて欲しくなってしまうから」

彼は『そうか』と呟いたきり、
黙りこくってしまった。

「何か、喋って。
センセイの声を聞いていたいの」

『俺はただ、君が恋しいよ』

私は絡めた両手の指を見つめた。
彼の手を取るのは、私にはまだ許されない。

「月曜日、もしまだ空が灰色だったら、きっと心細いから…
あなたといても、いいですか」

彼は、少し間を置いて、
『待ってるよ』と柔らかな声で囁いた。

彼はまだ、私に触れない。

空気で、声で、目で、
頭の中で何度も私たちは交わっている。


[瞼の恋人] end.

罪と歓喜


彼の骨張った手の平が、私の頭を包んだ。
私は涙に滲んだ目で見上げる。

「キスして」

彼はすこし悲しそうに微笑んで、
私の頬に触れた。

「駄目だよ。できない」

私は上半身を前に乗り出して、
彼の唇に軽くキスをした。
彼はまっすぐ私を見た。

「俺は、君を不幸にするよ」

私はもう一度、彼にキスをした。

「私は、今幸せなの」

彼は口に手を当てて、
車外に目をやり、考えごとをしている。
夜の暗い公道には、誰一人歩いていない。

「どうして、俺なんだ」

「分からない。あなたが、好きなの」

車中の沈黙が怖くて、私は続ける。

「あなたはどうして、私を受け入れたの。
私が会いたいと言えば、あなたは今こうやって、
夜中にだって私を迎えに来てくれる」

彼は困惑したようにハンドルを握った両手に、
顔をうずめた。

「君を傷つけたくない」

「ねえ、あなたは私を抱きに来たんじゃないの」

私は彼の膝の上に潜り込み、
下から彼を見上げた。

あごを上げると、
今度は彼から私にキスをした。

「傷つけて、お願い」

囁くように呟くと、
彼は吹っ切れたように強く私を抱きしめ、
何度も深いキスをした。

「好きよ、どうしてか分からない。
でもあなたが好きなの」

「俺だって…でも口にしちゃいけないって思ってたよ。
俺も、君が好きだ」

「ごめん」と「好きだ」を、
彼は繰り返し繰り返し呟きながら、
夢中で私を抱きしめた。

彼がさっき、
携帯で奥さんに嘘をついてるのを見た。

私は彼の髪の毛を掻き乱しながら
罪悪感より、歓喜がこみ上げてくる自分自身が、
とても軽薄で不気味だと思った。

何度もキスをする。

初めて嗅ぐこの人の発する甘い匂いに、
酔っ払いそうになる。

この人の奥さんも、
この匂いを嗅ぐのだろうか。

知っていて尚、気にも留めないほど
平凡な日常に埋没させているのだろうか。

「好きだ…本当に」

可愛いこの人の情熱と触れ合いたい。

今日終わってもいい。
明日、終わってもいい。

今この瞬間、あなたは私のもの。


[罪と歓喜] end.

この本の内容は以上です。


読者登録

Aya.Tさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について