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 第27回全国高等学校駅伝競走大会、東京都予選第6区は、近年稀に見ぬデットヒートで、喚声に包まれていた。

これまで1区から6区までの間に何度も順位が入れ替わり、互いに一歩も譲らぬ状態でここまできている。

当然、観戦する側にもつい熱が入ってしまう。
第6区も残り3キロ。

トップと2位の差はわずか10秒といったところだろう。1位の高校だけが京都都大路で開催される全国大会の出場権を獲得できるため、そのわずかな差は両チームにとって天国と地獄ほどの開きがあった。

残す区間はアンカーの7区のみ。距離にしてたった5キロメートルで勝敗を決してしまう。

それでも10秒という差はまだ逆転可能なタイムだった。

ウォーミングアップに集中していた旭日川高校の3年生、アンカーの武藤昇は自分の前を通過していく両チームの選手を見つめていた。

黒生地に金色で「海王高校」とプリントされた背中の文字を昇の高校であるブルーのユニホームが必死に追いかけていく。

体の両脇のラインに沿って、オレンジと白の線が螺旋状に絡み合い、胸には銀字で「旭日川高校」と書かている。

「木下、ファイト!」

昇は思わず、チームメイトを大声で応援してしまう。
彼らが折り返し地点をまわって、昇のところに戻ってくるまであと10分もない。

1位の海王高校と続く2位の旭日川高校は、どちらも毎年優勝候補に挙げられながら未だにその経験はなく、どちらが優勝しても初の全国出場だった。

「先輩、準備はOKですか?」

付き添いの後輩、江藤優はペットボトルを昇に差し出しながら尋ねた。
昇はすぐに返答はせず、ペットボトルを黙って受け取ると、わずかに水を含み、数回にわたってゆっくりと飲み干す。

緊張で乾いたのどを潤してから、笑顔で優の問いに対して応えた。

「ああ、ばっちりだよ。そろそろスタート地点に移動しておかないとな」

試合直前はピリピリする選手も多く、付き添いの者が様子を聞くなんてことはめったにしないのだが、優が気軽に尋ねられるほど、昇は平常心に見えた。

昇は、ベンチコートのボタンをバチバチと音を立てながら勢いよくはずして脱ぎ、優に手渡した。姿を現すのを待っていたかのように、ユニホームが輝いてみえた。

「付き添いありがとね。おかげでレースに集中できたよ。みんなで都路いこうな」
「はい! 先輩なら絶対大丈夫ですよ。この3年間、誰よりも努力したんですから」

こんな大舞台であるにもかかわらず、緊張するどころかむしろ楽しんでいる先輩を優は憧れと尊敬の念を込めて見つめていた。自分だったら、とうにプ レッシャーに押しつぶされていただろう。

7区のスタート付近には、海王高校3年生アンカーの早川大地がすでにスタンバイしていた。
お互いに目を合わせたが、すでに自分の世界に入り込んでいるため、彼らはにらみ合うこともなく、いつ召集がかかってもいいように黙々と身体を動かしている。

「海王高校、旭日川高校の選手はスタート位置についてください」

係員の合図で2人はスタートラインへと進む。
昇は目を閉じ、鼓動に耳を傾け、いつもより速く唸りだした心拍を抑え込んだ。

絶対勝てる、おまえはあんなに努力してきたじゃないか、と自分に言い聞かせ、高鳴る心音をなだめつかせた。
トップの選手が近づいてくると辺りは騒然としてくる。

「木下、ラスト!!!」

昇は、片手をあげて自分のチームメイトに呼び掛ける。
・・・・・・その横で早川大地はたすきを受け取り、猛然と走り去っていった。

「ごめん昇、追いぬけなかった。あとは任せた」

たすきを渡される瞬間に背中をポンっとたたかれる。
受け取ったたすきは6人分の汗をびっしょりと吸い込み、まるで全員の魂がつまっているかのように重かった。昇はその重さをかみしめるように、ぎゅっとにぎりしめてから肩にかける。

1位はほんの数メートル前を走っている。
ほんの目と鼻の先だ。

早川は中学生の頃から注目され、5000メートルの持ちタイムは昇より速く、都内トップクラスの14分47秒。高校1年生の時には、全国大会に出場できるほどのレベルだった。

そんな選手をエース区間の1区や次に距離の長い3・4区で器用しなかったのは、海王高校の監督のカケだったといっても過言ではない。

このまま海王高校が順調に逃げ切れば、監督の采配が功を称したということになる。
一方、昇はまったくの無名であり、今年の秋になってようやく才能が開花してきた選手で未だに15分の壁すら越えていなかった。
経験者からの目からみれば、逆転は最早ほぼ不可能だろう。

昇はたすきを肩にかけ終えるとしっかりと前を見据えた。
ダッシュすればすぐに追いつける距離しかない。

(おちつけ、おちつけ)

昇はそう呪文のように反復した。

1km

駅伝では、1区以外はまわりに競う相手がいないため、1キロの入り方が大事で相手が手の届きそうな位置にいるからといって、ペースを上げてしまえばあとで崩壊してしまう可能性が高い。

逆にトップはここで突き放しにかかってしまえば、相手の心を折ることができるので、オーバーペースぎみで入っているだろう。
それが駅伝のセオリーである。

(始めの1キロまでは、冷静にいけ)

身体はアドレナリンでほてっているのに、昇の頭は波のない海のように静けさを保っていた。

昇は、決してスピードがある選手ではなく、長距離になればなるほど力を発揮するタイプだ。だからこそ後半に失速してしまうと、ラストスパートだけで追い上げられる可能性は皆無である。

ましてや早川はスプリンターだ。
彼は5000メートルでも有名だが、もともとは1500メートル出身の選手であり、都大会の優勝経験はそちらのほうが多く、スピードにも自信があるだろう。

昇は圧倒的不利な状況だった。

だが、昇には一つだけ有利なことがある。
それは地の利だった。

この都駅伝コースの歴史は新しく、去年から使われ始めたもので、旭日川高校からわずか3キロメートル程度しか離れていない。

そのため、彼ら選手は夏が終わると、このコースで練習をすることが多く、どの高校よりも実際に走りこんでいる。
それだけではない。
昇は旭川高校の選手の中で誰よりも熟知している。それもそのはず、このコースを作ったのは、他の誰でもない彼だったからだ。

この駅伝コースが作られるよう指示されたとき、昇はケガのため、まったく走ることができず、練習のできなかった彼とマネージャーとで協力して完成させたコースだった。

自分一人が走れない。その屈辱は、生半可なものではなかったに違いない。

――努力は実らない

―――― 一年生の時、昇は誰よりも遅いタイムで入部した。
当時の5000メートルのタイムは19分12秒と、トップの選手に周回遅れをされてしまうほどの屈辱的な結果だった。

毎年都内優勝候補だけあって練習内容はきびしく、常に一番遅いグループのCチームで練習をし続け、同世代の部員からほとんど相手にされていなかった。

やめていく部員も少なくなく、彼より速かった選手はどんどん去っていき、20人いた同世代の部員は今では、わずか5人しか残っていない。
昇自信、何度も何度もやめようと思っていた。それでも彼は走り続けてきた。

(努力すれば、かならず追いつける!)

それが彼の支えだった。
次第に体力もつき、2年生になる頃にはCチームとはいえ、常に先頭をひっぱり、ペースをつくれるほどの強さを身につけていた。練習中にチームから離れていく後輩をみれば、一緒に隣を走り、背中を押してやる。

当然、自分もチームから離れてしまうのだが、後輩が練習から脱落してからきちんと集団に追い付き、最後まで走り抜いてしまうのである。

一定のペースで走れない分、練習がきつくなるのだが、どれだけ脱落者が出ようとも、昇は後輩を励ますことをやめなかった。

「人に負けてもいいけど、自分にだけは負けるなよ」

そう自分に言い聞かせるように、後輩に激を飛ばした。そんな後輩想いの昇はひそかに彼らから慕われていくのだった。

昇はそんなことは露知らずに、とにかく愚直に努力していく。

練習後は、人よりも長くジョギングを行い、さらには自分のスピードのなさを痛快していた昇は、人に隠れて坂道ダッシュを行い、弱点を補っていた。
秋の大会でみるみるうちに夏の練習の成果は表れ、タイムトライアルの度に自己記録を更新して、昇はやればやった分だけ速くなれる気がしていたのだ。

しかし、それも長くは続かなかった。
残酷なまでに彼は打ちのめされてしまう出来事が待っていた。

もともと筋力があったわけでない彼の身体はオーバーワークに悲鳴を上げ、走れなくなるほどの激痛が膝に走り、ついにドクターストップがかかってしまったのだ。
ようやく日の目を見られる、と勢いづいた矢先だっただけに、昇が失意のどん底へと落されてしまうのは仕方がないことだった――。

2km

1キロメートル通過。
手元の時計で、2分55秒。
タスキをもらう直前から測定しているため、わずかな誤差はあるだろうが、昇が想定していたとおりのまずまずのタイムだ。

幾度となく練習で身体に沁み込ませたペースは、一切時計を見なくても細胞が覚えきっていた。
やはり、調子がいいらしい。
自分のイメージ通りのタイムで1キロメートルを通過した時には、必ずベストタイムを更新する傾向がある。

5キロメートルを1キロメートルごとに逆算して、自分のペースを調整する、という行為はある程度のランナーであれば、誰にでもできることだが、一人で走り切る駅伝はその1キロメートル単位のペース感覚が正確な者ほど強い。

その点、練習でチームをひっぱり続けた昇は、身体の感覚が鋭く磨かれている。
トラックフィールドよりも、駅伝向きなのだ。
昇の右手にゴール地点が見えた。

折り返し地点をターンして、ここまで戻ってくれば、この42,195キロメートルの駅伝は終着を迎えるのである。

(自分の走りをすれば負けない、ぜってぇー抜いて帰ってきてやる)

さすがにゴール付近ともあって一番声援も多く、昇に力を与えてくれる。

「旭日川高校、ファイットーーーーー」
「のぼるーー、そのままそのまま。今12秒差。いけるぞ!」

やはり、早川との差はひらいているらしい。
もう我慢の必要はない。
目はまっすぐ前を見据え、視線が早川だけを捉えると、これまで抑え込んでいた気持ちを起爆剤として、身体にぶつけてやった。

リミッタ―を外し、1段ギアを上げる。
走ることにだけ研ぎ澄まされた集中力は、周りの声援すらもノイズへ変わっていく。

視界も狭まり、次々に景色だけが流れていった。
この世界から隔離され、自分だけが別世界にいるような開放感がたまらない。
苦しいはずの昇の表情から、笑みがもれ出していった。

――決意

――監督とコーチに退部の意思を告げた昇は、二人に説得され続けたが、堅くなに断った。

(才能がないやつがいくら頑張ったって無駄だろ)

チームの士気に影響するため、全部員に伝えるのはコースが完成してからということになった。

部長と昇の代の次期部長の敦志にだけ、その旨が告げられた。部長は立場上、昇を“セットク”してみたが決意の固まった昇には、脈拍のないトーンでは、時間の無駄である。

同世代の中で一番仲の良い敦志は、「そうか」と一言だけつぶやき、一切止めなかった。
それが彼なりの友の印なのだろう。

引き止めるという行為は、彼より速い敦志がしたところで昇のプライドを傷つけることにしかならない、というのを知っているからこその行動だろう。

そして、やめるわけをああだ、こうだ聞かない。
気配りができる男なのだ。
ただいつものように二人だけで話しながら、帰った。

「おまえが下のチームをまとめて、引っ張ってくると思ってたのにあ」

と別れ際に一言だけつぶやいて昇の前から去っていった。

その言葉が昇の心に妙に浸透していく。
チームに必要のない者、そう思っていただけに敦志がつぶやいた言霊によって、昇によりどころができてしまったのだった。

次の日、普段はおしゃべりや寝ていることの多い授業も、ただぼんやりと秋晴れの空を見つめながらその言葉だけがリピートされていた。

その日の練習は、各自ジョック。
60分間、疲労抜きのために好きなペースでジョギングをする内容だった。

昇はいつものように荒川の河川敷に自転車で向かい、ただぼーっとコースづくりをつづけていた。昨日までに5区まで作り終え、6区もおそらく今日中に終わるだろう。
あと数日で自分の選手生命に終止符をうつ。
まるで昇はアンカーのような心持で、コースづくりに打ち込んでいた。――


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