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息長帯比売

 外から聞こえるのは蝉時雨ばかりである。目の前の御簾はだらりと下がったまま動かない。戸や明かり取りの窓から横様に差し込んだ日射しが強く照りつけて、阿古(あこ)の前髪は焼け焦げそうな臭いを放っていた。若い侍女たちは柱の影に日を避けて座っている。

 それでも阿古は板の間の中央で膝を揃えてじっと待っている。汗が首の後ろから背骨を伝って腰のほうまで落ちていったのがわかった。腿は汗で張り付いて動かない。脛も床に張り付いて、無理に動かそうとすると、粘ったいやな音がした。

  阿古は頭を垂れて、床の板目を数えている。膝の上に拳を置いてじっとしていると、視界が油のように揺れて、自分が起きているのか眠っているのかもわからない。そのとき、額から垂れた汗が目にしみた。

 ――嗚呼、せっかくのお化粧が。

  と、阿古は思ったが、そのままじっとしていた。袖口で汗を拭こうかとも思ったが、せっかくの衣裳が汚れるのでやめた。翡翠の耳飾りが日に焼けて熱を持っていた。耳たぶが重たく腫れぼったかった。

  阿古の後ろには年老いた朝臣が二人控えていた。彼らは何度も袖で首の後ろを拭った。彼らは何度か咳払いをして、度々体の位置を変えて、あちらを見、こちらを見しては、眉根を寄せて、阿古には聞こえないように小声で何かを話した。

  耳の後ろのあたりに蚊の鳴く音がして、阿古は咄嗟に袖を振った。すると今度は額のあたりに羽音を感じ、阿古は頭を振った。そのはずみで紅玉のかんざしが床に落ちた。

  そのとき、御簾の向こうに衣擦れの音が聞こえた。

  阿古は慌てた。指先を床に揃えると、額付いた。床は熱を帯びていた。

  また耳元で蚊の羽音がした。しかし、今度ばかりは我慢した。

  御簾の向こうから声がした。

 「――大儀」

  細い、病人がうなるような声だった。

  阿古は息が詰まるような思いになった。床に額を押しつけたまま、じっとこめかみで脈打つ自分の鼓動を感じていた。ただとにかく背中を強ばらせていた。

  衣擦れの音は、気付いたときには遠ざかって、やがて人の気配は消えた。忽ち、外からはまた蝉の声がけたたましく聞こえ始め、阿古の背後に控えていた朝臣たちはおおげさに息をついてみせた。彼らは足を投げ出すと、官服の襟をはだけて、疲れた表情で額の汗を袖口で拭った。

  阿古は顔をあげた。誰もいない御簾の向こうをぼんやりと見た。御簾は相変わらずじっとりと下に垂れ下がったままだ。

  阿古は床に落ちたかんざしを拾いあげた。母が用意してくれたにも関わらず出番がなかったことを思うと、阿古はそれをもう一度髪に挿そうという気分にはなれなかった。袂に押し込んだ。

 「無事に済んでよろしゅうございました」

  控えていた朝臣の一人が、はげた頭をかきながら阿古にそう言った。

 「これであなたも今日から大王(おおきみ)さまの采女(うねめ)です」

  阿古はその言葉をぼんやりとした気分で聞いた。蝉の声がうるさい。

  阿古はこの日を、幼い頃から随分と心待ちにしていたのだが、実際のところはこのようなもので、阿古自身も、がっかりする気持ちより、ああやはりそういうものなのだという、妙にわかったような、そういう乾いた気分になった。

  阿古は朝臣たちに頭を下げて、礼を述べた。すると朝臣たちは照れくさそうに笑うと、腰をのばしながら席を立った。

  その場には阿古だけが残った。蝉の声は先刻よりいくらか少なくなったようだった。

  阿古は、御簾の向こうから聞こえた大王の声を思い返した。想像していたよりずっと力ない声だった。少年の心細そうな声にも思えたし、年寄りの寂しそうな声にも思えた。これから何十年、暇をもらうまで、仕え続けることになるはずの相手なのに、阿古はどうしてもその顔や姿を思い浮かべることができなかった。

  顔を上げると、明かり取りの窓から空が見えた。その濃い青色があまりにも眩しくて鼻がつんとした。

  これから何十年、夏がくるたびにきっと、今日のことを思い出すのだろうと、阿古は思った。


この本の内容は以上です。


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