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第一章 時間の止まった、その場所で。 1

 あるところに、魔法使いの少女がいた。

 その世界には魔法という炎や氷、雷や竜巻を操れたり、人の心を読んだり空を飛んだり出来る超能力が存在していた。その世界において、少女は強い力を持つ魔法使いだった。

 やがて、少女は仲間と共に悪の魔法使いや悪魔の王様や悪い神様を倒していった。

 その少女は、十代の頃に作られたある少年の自我の一つで、ある少年のイメージの中から誕生したものだった。

 少年は超能力者だった。世界の空間と空間を飛び越える超能力を持っていた。

 少年は自分自身の作り出した想像上の世界から、魔法使いの少女を呼び出そうと考えた。

 …………。

 ……。

 

 

 少女は眠る。その場所で。自分自身は永遠なのだと。

 少女は詠う。その場所で、何者も自分自身に辿り着けないのだと。

 少女は笑う。その顔には悪意と一抹の不思議な優しさが交差しながら、浮かび上がっている。

「甘名。貴方、何がしたいの?」

 レイアは酷薄な笑みを浮かべて言った。

 オレは答えない。

 彼女は青い悪魔との戦いを控えた夜だ。

 殺人鬼と永劫の少女。

 あるいは悪意と恐怖。

 相反し、交差する闇と闇。

「お前は何がしたいんだ?」

 オレは逆に聞き返した。

「“最強”を目指すというのは、表層的なモノに見えるな。何故、勝ちたい? 何に勝ちたい? 何が欲しい? 何を満たしたい?」

 レイアは瘴気すら漂う存在感を纏っている。

 凍て付く刃のような視線。

「私は自分自身を永遠の檻の中に閉じ込めたい。誰にも触れられたくない。私は時間の外側に行く。人間の外側へ。だから、私を脅かそうとする存在、概念には全て死んで貰いたいのよ。だから、何よりも強い上位存在になりたいのよ」

 部屋の中に、沢山の荊が現れる。

 エタン・ローズの能力によって実体化した荊の群れだ。

 次々と赤黒く腐った血の色のような薔薇が花開いていく。

 自分自身を絶対視する強烈なエゴイズムが、彼女の自我を形作っている。

 それは彼女の中に在る、強い少女性と何者にも浸食されんとする意志だ。

「私の質問に答えてないわよ?」

「オレは……成長したい……」

 他人の物語。他人の思想。その中から、自分の中の解答を探したい。

 きっと、そうなのだろう。その為に、オレは今、様々な人間と出会っている。

 少女は楽しそうだった。そこには嗜虐性すらあった。

「貴方は何処に行けるというの? 成長したいのならば、人を選んだ方がいい。貴方が闇や空虚を抱える人間ばかりを選ぶ以上、貴方の未来には何も無いわ。まず、殺人を肯定する人間に付くな。人を殺し続ける人間の傍には寄るな。世界を壊したい人間を求めるな。貴方の周りには、もう狂人しかいない。彼らはいずれ破滅する。どのような魅力的な思想、どのような意志を持つ者でも最初から間違っているから、正常に見えても狂っている。最初から間違っている以上、貴方は何処にも辿り着けない。不幸になるだけね」

「それは占いか? 預言か?」

「忠告よ。それとも本当に気付いていないの? まともな人間に最近、会えた?」

 レイアの姿は鏡には映らない。

 オレは唾を飲み込んだ。

「いい? 忠告した」

 オレは彼女を少しだけ、睨み付ける。

「お前はオレにとっての何だ?」

「だから、言っているでしょう? 私は貴方の影だ。私は本来ならばこの世界には存在しない筈なのに、貴方という媒体を通して私は存在し得ている。それは、貴方のあるいは、闇として私は存在し得ているのかもしれない。事実、この世界に来て、私の思考は少しずつ、貴方のモノが入り込んできている」

「知らないな。オレは君のような狂人じゃあない。オレは君ではないし、君はオレではない。オレは君の言葉の何もかもを、そう、認めていない」

 強く断言した。あるいはそれは彼女に対する宣戦布告のような。

「自分自身が狂人ではないと?」

 とレイアは冷たく言った。余りにも底冷えするような声だった。

 彼女は無感情だが、哄笑が聞こえてくるかのような感覚。

 暗い感情が宿っている。

 彼女は一見、口が悪く、性格がキツいだけの少女に見えるが、やはりその精神は闇や彼岸に属するのだろう。

「ねえ、甘名。私は私の狂気を創造した。この世界から剥がれ落ちた正気。それは私には“思想”があるからだ。思想とは多様な世界の現実を自身の狂気で塗り固める知性の産物。肉体と精神、見える世界、聞こえる世界、自身を神として掴み取る意志。自らの意思により神を創造する行為。光も闇も、善も悪も、何もかも自身の意思により決定される。少なくとも、私はそう考えているわ」

 彼女の背中から大量の棘が現れる。

 そして、それが部屋中を浸食していく。

 ぽつりぽつりと、棘の中で薔薇が咲く。

「私は世界を救済したいとも滅ぼしたいとも思わない。他人なんて関係が無い。私は私の意志を貫き通すだけ。私は貴方が気に入っている。貴方は優しいし強い。そして明らかな弱さも抱えている。いや、弱さを抱えているから強いのでしょうね。自身の弱さについていつも自問自答を繰り返している」

 オレは気付いていた。

 彼女が話している相手は、オレなどではなく、自分自身なのだろうと。

 表層的にはオレに投げ掛けているのだが、彼女は本質的には自分の思考を纏めているのだ。

 きっと、彼女は自分自身に語りかけて、自分自身で答えを出そうとしている。

 彼女が肉体を持って存在していた世界。

 彼女は元の世界を拒んで、此処に姿を現した。

 いわば、この世界自体の異端であり例外。

「しかし、私もこんなに遠くまで来たものね」

 その声音には、何処か寂しさすら含まれているようにも思えた。

 彼女は部屋の外にある暗黒の空間をただただ眺めながら、まるで自分の過去、自分のいた世界の事を思い出して、郷愁に耽っているように見えた。

 

 

 外を見ると、樹林が広がり、木の葉が舞い落ちていた。

 もし、旅としてその光景を見ていたのならば、何と幸福だった事だろう。

 彼女は荷車の中に乗せられていた。

 彼女は田舎から、此処に連れてこられた。

 列車の中には、沢山の彼女と同年齢か、少し上くらいの女が乗せられていた。

 皆、暗鬱そうな顔をしている。

 無理も無い。

 これからの未来に何が待っているのかを、彼女達は知っているのだから。

 彼女の住んでいた街の流行り病の為、彼女の両親は倒れて、彼女は一度、孤児院に入れられたのだが、孤児院が満員だった為、親探しに連れて行かれる事になったのだ。

 そして、その孤児院の主は、彼女を所謂、奴隷商人に売ったのだ。

 聞く処によると、これから彼女達に値段が付けられて、競りが行われるらしい。

「憂鬱よね」

 彼女の隣の女性は口を開いた。

 同性の自分でも、胸を打ってしまうくらい、その女性は、豊満な肉体をしていた。

「私の名前はイリウス。よろしくね。以前まで娼館で働いていたのだけれども、ちょっと、やらかしちゃって……まあ、仕方ないわ」

 商店街だった。

 華やかなパレードが開かれている。

 彼女達は、服を着替えさせられて、着古した服から、色取り取りのドレスに変えられる。

 彼女が着せられたのは、深い空の色にも似た青だった。蒼白だ。

 彼女の隣にいる女性は、かなり成熟した肉体をしていた為、肌を露にした桃色のドレスを着せられていた。

 これから、親探しという名の下に、商人や貴族、マフィアなどによって、彼女達は競りに掛けられる。

 売られた先には、どういう人生が待っているのかを考えると、酷く暗澹としたものだった。

 競りは、街の地下の中で行われた。

 暗い部屋の中で、スポットライトを浴びせられて、次々と紹介されていく。

 次は彼女の番だった。

 彼女は、舞台の下の、その男と目があった。

 不気味な男だった。彼女の背中に、幽霊でも張り付いたかのような感覚が芽生える。

 その男は、彼女を舐めるように見ているようだった。

 気付いたのだ。彼女はその男に気に入られたのだと。

 一通り、紹介が終わると、次は競りが始まった。

 それぞれが、手を上げて、マイクを渡されて、如何に紹介された者を養子にしたいかを朗々と語っていた。それが如何に空虚な上っ面かを、彼女達の誰もが知っている。

 口上の内容で、表向きは引き取り手を左右されるが、語り出す話の中に、支払える値段を意味する暗喩の言葉が混ぜられる。たとえば、“一目見て”なら十万。“同じ墓に入りたい”なら五十万。“後を継がせたい”なら二百万。“後々に息子の嫁に”なら五百万といった所だ。

 それぞれ、一人一人、競り落とされる時間が始まる。

 次々に、他の少女や女達が競り落とされて、親が決められていった。

 彼女の番になった。

 まず、小太り気味の男が。一目見て、娘にしたいと思った。私の後を継がせて、仕事も覚えて欲しいと思っている。もし息子がいたならば、後々、花嫁として結婚させたいくらいだ。と述べた。これで彼女に七百十万の値段が付いた。

 先ほどの不気味な男が口を話す。

「そいつの十倍。七千万出すから、その女を俺に寄越せ。異存は無いな?」

 客席がどよめいた。無理も無い。一応、この場では競りが行われている事を口に出してはいけない事が、暗黙の了解として伝わっていたからだ。

 主催者は、少しの間呆けたが、色々、苦情を言いながらも、彼女をその男の元へと渡した。続いて、彼女の隣にいた桃色のドレスを着た女性が競りに掛けられる。

 それも、小太りの男が先に口上を述べた後に、不気味な男が値段を掲げて、見事に買い取ったのだった。

 人身オークションの競り合いが終わる前に、男は主催者に、トランクに詰め込んだ、大金をその場で握らせると、彼女達二人を連れて、外に出た。

「おい、お前ら。今日から、お前らは俺の所有物だ」

 そう言うと、男は彼女達二人を宿泊しているホテルへと連れ込んだ。

 男は、桃色のドレスを纏った女性をバスルームの部屋に入れると、彼女の全身をしげしげと眺めた。

 そして、徐に言った。

「なるほどな……。お前、名前は何て言う?」

「……モニカと申します」

「そうか。お前、あそこが奴隷市場って事は知っていたな」

 モニカと名乗った少女は黙った。

 気付けば、身体が震えている。

 この男が怖いのだ。これから何をされるのか、想像が脳内を駆け巡る。

「そうだな。俺は今からお前の人権もこれまでの人生も全部、踏み躙って、俺の支配下に置こうと思っているんだが。お前、その心の準備は必要か?」

 男は、容赦無く、モニカに冷酷な言葉を投げ付ける。

「覚悟は、この街に来る前から出来ているつもりです……」

 言いながらも、彼女は止め処目もなく、涙を流していた。

 恐怖と不安の余り、頭がおかしくなってしまいそうだった。

「そうか。それはよかった。じゃあ、今から服を脱げ」

 モニカは言われるままに、ドレスを脱いでいく。

 下着姿になった時、下着に手を掛けようとして、男が止めた。

「いや、下着はいい。お前も恥ずかしいだろ。別に俺は今からお前を手篭めにしようと思っているわけじゃない。……そうだな」

 男は舐めるような目で、モニカの全身を見る。

 男は彼女に髪を撫でる。

「肉付き。骨格。髪質。気に入った。只、拙いな。お前、病原菌に感染してやがる。内臓が酷くなっている。最近、下痢とか多くないか? 腹の皮膚の色がおかしい。お前、このままだと死ぬぞ」

 男は左手の手袋を取った。

 彼の左手は包帯が巻かれていた。彼は右の手で、左手の包帯を解いていく。

 人間とは思えない、甲殻類を思わせる皮膚をしていた。

 男はモニカの腹を撫でる。

 全身に電流が駆け巡るような感覚に陥った。

「よし。治った。それから、お前、過度のストレスを抱えているな。最近、辛い事が多かったんだろうな」

 男は、なおも不気味で、その得体の知れなさを隠していなかった。

 男は、いきなりモニカの首を掴んだ。

 強い力だ。

「さて、俺はお前の素質を見込んで引き取った。しかし、それは本当にあるのだろうか?」

 みしり、と。首が軋む音がした。

 モニカは悲鳴を上げる、それは絶叫だった。

「今から、お前をくびり殺そうと思っている。俺は気に入った物を壊すのが好きだ。今、お前は助かった、とちょっとでも思ったのだろうか? いいや違うな。お前は危険から逃れていない。お前は、お前の想像通り、俺のような得体の知れない下衆に蹂躙されて殺される運命だ。それは変わらない。理不尽にお前は魂を引き裂かれて死ぬ」

 その男の眼には、まったく容赦というものが宿っていなかった。

 人間ではない者の持つ雰囲気。

 禍々しさ。

「頭に指を突っ込んで、脳味噌を穿り出して、眼球を見せてやるのも面白いかもしれん。幾らでもアイディアは思い付く。さて、どんな死に方が、恐怖を与えるのだろう? どんな死に方ならば、屈辱や絶望など、もろもろの感情を露呈させるのだろう? お前で試してみようと思う。まあ、奴隷商人によってこれから何十年もの間、生き地獄を味わうよりは幾分かマシな人生だと思ってくれ」

 理不尽過ぎる話だったが、目の前の男はモニカの苦痛など意にも介する事無く実行に移すだろう。

 何の慈悲も持ち合わせていないのだろう。

 殺される、しかも、とっても苦しむ方法で。

 モニカは叫んでいた。

 声帯が千切れるんじゃないかというばかりに。

 ただ、全身全霊を奮わせた絶叫。

 目の前の男から、ただ逃れたいと思う。

 あらん限りの咆哮。

 気付くと、男が冷や汗を流しながら、彼女から離れていた。

 部屋を見渡すと、所々が、冷たく凍っている。

 彼女は呆然としていた。

「やはり。俺が見込んだ通りだ。モニカ、お前は『能力者』なんだよ。その素質があった。俺が危険に追い込んだ事によって、お前の能力が発現した。お前は、どうやら冷気を操るみたいだが。新しい人生が今から始まったんだ。俺の側にいろ。俺の右腕になれ」

 何を言われたのか理解し難かったが、とにかく、先ほどの話とはまるで違ったものらしい。

 ころころと、言っている事が変わる、気分屋のようにも思えた。

 それよりも、自分は今何をしたのだろう?

 モニカは頭の中がぐるぐる回って、何から考えていいか分からない。

 ……何から怖がればいいか、分からない。

「それから服を着ろ。新しい服を用意している。すまなかったな、性的な危険や命の危険に晒さないと、発現しない事が多いからな」

 男は言いながらも、かなり自分勝手そうだった。

「貴方の名前は……」

「俺の名はウォーター・ハウス。ドーンっていう能力者による犯罪者狩りの組織によって、Aランクの賞金首にされている大量殺人犯だ。追っ手から逃走する為の兵隊がいる。お前がそうだ。よろしく」

 モニカが新しく渡された服は、男物の燕尾服だった。

「これ男物……」

「……俺の愛人になりたいのか? 俺と夜の相手を行った女は必ず死ぬ。……お前は今から女を止めろ、男になれ」

と、ウォーター・ハウスと名乗った男は、露骨に意地悪そうな顔をした。

「能力の名は……、奴がフェンリルだから。お前は『ヨルムンガンド』がいいな。人間界の全てを跨ぐ程の巨大な大蛇の名だ。フェンリルもヨルムンガンドも、北欧神話の悪神ロキの息子だ。最初は名前負けするだろうが、俺はお前の成長を期待している」

 モニカには関係無く、ウォーター・ハウスは話を進めていく。

 多分、この男は、他の人間の前でも、身勝手なのだろう。

 彼女はそう確信する。

男はふと、思い出したようにバスルームを開けた。

「あっ、そういえば、お前もいたっけ。モニカの友達っぽかったから、ついでに引き取ったけど。お前、もう好きなとこ行っていいぞ」

 ウォーター・ハウスは面倒臭そうに、桃色のドレスを着た女を部屋から追い払おうとした。

「何、あんた? 私を追い払うっていうの? それこそ、私の方が、そこのみょうちくりんよりも、夜のお供を出来るわよ?」

 女は、露骨にまるで掌を返したように、モニカを険のある目で見た。

 男は、桃色のドレスの女を全身、舐めるように見る。

「成る程な……。いいだろう。お前も連れて行く。お前の特技は何か役に立つかもしれん。後で見せて貰おうか」

 ドレスの女は少し不愉快そうな顔をしたが、すぐに笑顔で取り繕う。

 ウォーター・ハウスという男が、普通の人間の感覚と、何処かズレている事だけは分かった。彼はまるで、実験動物でも見るかのように、人間を見ているようだった。

 そして、どういえばいいのか、かなり致命的にまともな人間が所有する感覚が欠落しているようにも思えた。

「さて、二人共。今日の夕方頃には出発するぞ。適当に着替えておいてくれ。此処に来る前に、ちょっと大きな買い物もしたしな」

 

 

「お前と一緒に、始末しないといけない事になっているランクAの男なんだけど、この写真に写っている男を知っているか?」

 デス・ウィング、水月翔子にアヌビスの写真を見せた。

「知らないな。情報が入ってこない。それに、私は裏・原宿界隈以外の事は余り興味が無いんだよ。ドーンですら、そんなに興味無いからね」

 へらへらとした顔で、水月は商品の整理をしていた。

「そいつは誰なんだい?」

「アヌビスと言うらしい。アサイラム収容経験があり、お前と同じ脱走者だ。生前、ハーデスは何としても彼を再びアサイラムに収容したかった。やはり面子があるんだろうな、アサイラムには」

「そうか。あ、そこの箱の在庫確認してくれないか? ドラゴン・ブラッドが70ケースは入っている筈なんだが」

 オレはついでだし、彼女の仕事を手伝う事にした。

「情報が殆ど無い、ケルベロスもよく知らないらしいし、所長のアンブロシーですらダメだ。何としてでも、捕まえたいらしいな」

「このアヌビスって男、どうやら『影』を操るらしい。ハーデスを負かした者の一人だ。影を実体化させて操る。それくらいしか分からない。何処に行ったのか、今、何をしているのかさえ、情報が無い。……おい、このお香、二ケースほど、袋が破れているぞ、不良品だ」

「ああ、仕方ないなあ。そこにテープがあるから貼っておいて」

「バイトでも雇ったらどうなんだ? 一人でこの量、整理するの大変じゃないのか?」

 とオレは、水月の店の品物を見渡す。

「面倒臭いんだよ、人を入れるのは。別に給料を払いたくないわけじゃないぞ? 他人が遊びにくる分には構わないが、この仕事は私の趣味でやっているし、一人でやりたいんだ。それにほら、危険物が余りにも多過ぎるし。……あ、今度はそこの四大元素のインセンスの数、確認して。それぞれ90ケースある筈だから」

 オレは地水火風のインセンスの数を数えていく。

 しばらく、一時間半ほどして店の整理が終わると、オレと水月は昼食を取る事にした。

 水月はざる蕎麦とほうじ茶を出してくれた。

「ちなみに出来れば、お前もアサイラムに来て欲しいのだが」

 オレは醤油の中に、葱と山葵を掻き混ぜながら言う。

「無理だ。あんな場所に収容されているとおかしくなってしまう。あそこは自由があるようで、自由が無いんだ。人間社会の縮図だな。私はこんな偏狭の地で、暇潰しに骨董屋をやっている事が一番、幸せなんだ」

「ウォーター・ハウスも言っていたな。やはり、そんなものなのか?」

「そんなものだよ、君もいつか入ってみるといい。一ヶ月でおかしくなるから」

 と、水月は気だるそうに商品の確認を続けた。

 

 

 ハーデスが死んで五日。

 ウォーター・ハウスが姿を消して四日もの時間が過ぎた。

 オレはケルベロスと一緒にコーヒーを飲んでいる。ケルベロスはブラックで、オレは砂糖とミルクをふんだんにコーヒーカップの中に注ぎ込む。

 レイアはあれから姿を見せない。ブラッド・フォースに負けたのがよほど悔しかったのかもしれない。

 ケルベロスは思い詰めたような顔をしていた。

 オレは甘ったるいコーヒーを飲み干すと、今度はアールグレイとサンドイッチを頼んだ。

 出てきたアールグレイの中にも、沢山の粉砂糖を注いだ。

 病的なまでに糖分が欲しくなるのは、何か考え事がしたいからだろう。

 しかし、考えてどうにかなるわけでもないのだが。

 あれから。

 ケルベロスはハーデスの遺志を継ぐ事になった。

 この世界の均衡を取り戻す。破壊者達を封じ込め、市民の安息と平穏を取り戻す。

 オレはケルベロスの物語に興味が湧いて、彼にしばらく付き纏おうと考えた。

 結局の処、オレには特にやるべき事など無く、ある意味で言えば、何の信念も無い為、逆に、信念を持っている者達の行動を見たいだけなのかもしれない。

「オレは今、最高に幸せなんだが。レイアやウォーター・ハウスのような、狂っている人間じゃなくて、ケルベロス。君がまともだから、安心してコミュニケーションが取れるって事だな」

「俺もあんまり面白く無いかもしれないぞ?」

 オレの軽口とも悪態とも付かない言葉を、彼は淡々と受け答えする。

「でもまあ。君は別に狂っているわけじゃないだろう? なら、充分、安心出来る」

「そうか……」

「気にするなよ。何でもない」

 ケルベロスはまともな奴だった。

 まとも過ぎて、逆に心配になってくる程だ。

 オレはふと疑問に思った事を口にした。

「なあ、ケルベロス。君がやろうとした事。それからハーデスが考えていた事は、善だと思う? 悪だと思う?」

「俺は自分が正しいと思っているからやろうと考えている。師匠もそうだっただろう。もし、自分が正しいと思えなければ、それは悪だろうな。どのような行動や思想でさえ、そうなのかもしれん」

 なるほどな。

 オレは少しだけ、感嘆した。

 ケルベロスは写真を取り出す。

 そして、その中の一枚をオレに見せた。

 獣の頭をした大男。

「アヌビスだ。こいつを倒しに行く。情報が欲しい。彼の居場所が分からない」

「レイアに探させるか……」

 そういえば、彼女は言っていた。アヌビスと関わるなと。

 しかし。

 この前の話では。

 君のタロット・カードで奴の場所を特定する事は出来ないのか? と訊ねたら。

 ブラッドの時と違って、無理みたい。そんな万能なものじゃなくて、相手が貴方と会いたくない、っていう思念によってガードされている場合、簡単に使えなくなってしまう。そういうものよ。

 と、返された。

 つまり、オレ達の能力は万能ではない。

 レイアは運命の車輪が廻っていないならば、そういう流れにしかならないといった。

 結局はそういうものなのだろう。

 

 

 あれだけ、アサイラムを破壊しておいて、ウォーター・ハウスが為した犯罪者の解放は、微々たるものだった。

 アサイラムにて、四名の脱走者が現れた。

 大抵の犯罪者は、ベスティアリーなども大人しく収容される事を望んだ。他にも、元Aランク賞金首は何名もいたが、アサイラムを出ない事を望んでいた。

 ちなみに、能力者の能力を抑制している装置は一時的に破壊されていたらしい。まだ、チェラブの能力が残っている為、どうにかその装置を復帰させる事は出来たが、それには二日も掛かったという。

 しかし、それはアサイラムとその周辺にまでしか作用しないという。だから、頭蓋の中に装置を埋め込まれた脱走者は、外の世界で自由に何でもする事が出来る。

 オレとケルベロスの二人は、Aランク狩りの他にも、四名の脱走者を拘束及び始末する依頼をアンブロシーから引き受けた。

 ハーデスとチェラブを失ったアンブロシーは、見ていて痛々しいくらい、憔悴しているように見えた。

 脱走した犯罪者、四人の名簿を渡された。

『カコデーモン』、『アイレス』、『ライフ・ライン』、『ディス・モーメント』。

 うち、アイレスが他三名の逃亡を唆したみたいだった。

 実力は大体、アイレスがBランク、他三名がCからDランクといった処らしかった。

 それから、オレ達二人に課せられた三つ目の当面の目的。

 それは、ウォーター・ハウスを探し出す事だった。

 数日後には、ウォーター・ハウスはドーンの賞金首としてランクインする予定らしい。それも、Aランク賞金首として。それを提案したのは、他でもないアサイラム署長のアンブロシーだった。

 リレイズが伝言役として、アンブロシーの決定を、オレ達に伝えたのだった。

 オレはケルベロスと一旦、別れて裏・新宿のバーへと向かった。ケルベロスも、彼の知っている情報交換場の酒場やカジノへと向かうとの事だった。

 裏・新宿のあるビル。地下へと続いているエレベーターを降りた場所。

 此処に来るのは数ヶ月ぶりだった。

 前来たときのように、マスターがグラスを綺麗に拭いていた。

 此処はウォーター・ハウスと始めて出会った場所だった。

 開店直後に来たせいか、客は誰もいない。

 オレはマスターから、一杯のセイロン・レモンティーを注文した。

 それを飲みながら、持参したアイポッドでクラシックを聞いていた。文庫本も持ってきたので、だらだらとページを開く事にする。それから、一時間近くが経過した。

 ふと、生理的現象でもよおして、トイレに行こうと思って、文庫本から目を離した。

 すると。

 いつの間にか、オレの隣の席には、一人の女性が座って酒を飲んでいた。

 文庫本には特に集中していない。いつの間に、此処にいたのか。

「今日、客、少ないわね。来たのは貴方だけか」

「……? 君はいつ、店に?」

「貴方が入ってくる前から。私の方が少し早かったのよ」

 オレはおそらく、彼女はトイレに篭っていたのだろうと思って、そのまま気にせず用足しに行った。戻ると、彼女はオレと同じテーブルの向かいの席にいた。

「……何か、オレに用が?」

「暇なのよ。一緒に飲まない?」

 オレは訝しく思いながらも、気付けばレモンティーを飲み干している事に気付いて、ローストビーフとカンパリ・オレンジを注文した。女も、合わせて、シーフードサラダとカルーア・ミルクを注文する。

 その女の格好は奇妙だった。ローブのようなマントに、頭には大きな羊の角を生やしている。猫類を思わせるような目付きをしていた。

「それにしても、此処のお酒はおいしいわ。私、此処が気に入っているの。バウンティ・ハンター以外にも人気が出ればいいと思っているわ。此処のお酒、料理、おいしいから」

 出されたカルーア・ミルクの中に、彼女は置いてある香辛料を振り掛ける。

 くるくると、スプーンで、彼女はカルーア・ミルクをかき混ぜていた。

 オレはカンパリ・オレンジを少しだけ口に入れた。

 錯覚だろうか。

 彼女がスプーンを混ぜるたびに、透明なグラスと液体が溶け合っているように見えた。

 いや、スプーンの先が、グラスの中からグラスの外へと抜け出ていく。

「乾杯しましょう?」

「ああ、……」

 オレは彼女のグラスに、自分のグラスを当てた。すると、一瞬、グラスとグラスが接着し、融合したように見えた。

「ねえ、暇だから。トランプでもする?」

 彼女はトランプの札を差し出す。

「お金でも賭けて」

「いや……」

 彼女は握っているトランプは、所々、あるべき線が無かった。一個の、四角いタイルでも握っているような。トランプ同士が接着されている。彼女は、タイルに指を突っ込んで、一枚カードを抜き出す。ジョーカーだ。彼女はそれをテーブルに置いた。

「ジョーカー無しで」

「止めておく。どんな仕掛けがあるか分からない」

「そう」

 シーフードサラダが出された。

 彼女はサラダに乗っているエビを、ぼとん、と。酒の中に落とす。

 すると、エビは生きているように酒の中を泳ぎ出した、その後、そのエビはどろりと半分溶解していき、グラスの中を漂っていたかと思うと、グラスの中からグラスを透過して、外へと飛び出した。オレは息を飲んだ。

「私の名前は『キマイラ・ヘッド』。能力の名は『カクテル・パーティー』。ウォーター・ハウスに唆されて、レッドラムに挑んで死んだ、ゴブリン・ヘッドの姉よ。私は、ウォーター・ハウスを探しているんだけど、貴方もそれが目的で此処に来たんでしょう?」

 オレは目を丸くした。

「なるほど。……。ちなみにオレの名前はフェンリル。能力の名前もフェンリル。どんな能力かと言うと」

 オレは文庫本を手に持つ。

 すると、それを彼女の手の中へと瞬間移動させた。

「こんな奴だ。どうかな?」

 彼女は驚いた顔をする。

「手を握ってみな。手の中にコインだって入れられるぜ。トランプ勝負をしたら、イカサマでは勝つ自信がある」

「なるほど。瞬間移動させられるのね?」

「ああ。君の能力は……、具体的にはどういうものなんだ? 今、披露して貰ったが、全体像がよく分からない」

「ああ、私は」

 彼女はローブの中から、幾つかの道具を取り出した。

 保冷剤、スタンガン、ライター、掌サイズの小型扇風機だ。

 彼女はまず、ライターに火を付けた。そして、グラスに近付ける。

 グラスの酒をライターへと注いだ。すると、ライターの火が消えずに、炎と液体が空中でぐるぐると混ざり合わさっている。彼女はスタンガンを近付けると、スイッチを入れた。バチバチと変な音がして、炎と液体はぐるぐる回っている。小型扇風機のスイッチを入れる、炎と液体の回転は速くなる。そして、保冷剤の袋を開く。ドライアイスが炎と液体に混ざる。

「私のカクテル・パーティーは。異なる物質同士を混ぜ合わせる事が出来る。普通は、炎に液体を注ぐと、炎は消える。けれども、私は炎と水を混ぜる事が出来る。水と油のような混ぜられないものを混ぜられる。物質の存在の在り方を変容させる事が出来る」

「なるほど……」

 奇妙な現象であり、物理学を完全に捻じ曲げているが。とにかく、通常は混ぜられないものが不可思議に混ざっている。

 ふと、彼女は険しい目をする。

「私は……、ウォーター・ハウスを殺したいんだ」

 キマイラ・ヘッドは、勢いよく酒の入ったグラスをテーブルの上に叩き付ける。大きな破壊音が響いた。

 グラスは割れずに、テーブルの中にめり込んだ。叩き付けた場所が、彼女の指の形として凹凸に変形している。噴出した酒が、どろどろとテーブルの中に水溜りを作り出す。

 一体、この能力を人間相手に使うと、どういう結果になるのだろうか?

「協力してくれないだろうか?」

「…………協力?」

「弟は愚鈍だった。姉の私とウマが合うわけじゃなかった。けれども、たった一人の肉親でもあった。ウォーター・ハウスの気紛れで、レッドラム相手に殺されてしまった……」

「ゴブリン・ヘッドを殺したのは、レッドラムじゃないのか? 確かに一端はウォーター・ハウスにもあるけども」

「ええ。レッドラムは一昨日、始末した。今もそこの壁の中にいる」

 キマイラは煙草を取り出して、火を付ける。

 オレは壁を見ながら、顔が引き攣ってしまった。

 壁の染みに気付いてしまったからだ。

 壁をよく見ると、三つの孔が開いていた。最初は壁の模様だと思い込んでしまう。

 孔の形は、鼻と口だ。小さいが、確かに鼻と口だった。それは、室内が暗いせいもあり、言われないと気付かないが。確かに小さく鼻と口は呼吸していた。

 どういえばいいのだろう、本能的な嫌悪感が込み上げてくる。単純な人殺し、連続殺人者相手とはまるで違う不快感。

「生きているのか?」

「ええ。彼は壁と混ぜた」

 愕然とした。冷たい汗が背中に流れる。

「人思いに、殺したらどうなんだ? オレならあんな姿になって生き続けるくらいなら、死んだ方がマシだ」

「ええ。でも、もう何も考えられないかも。脳をぐるぐる掻き混ぜちゃったから。案外、植物みたいに幸せなのかも。流石に、私の能力でも、脳味噌をぐちゃぐちゃにしてしまうと、思考回路もぐちゃぐちゃになっちゃうみたい」

 気付くと、オレは自分のグラスを落として破壊していた。

「なあ、ウォーター・ハウスへの情報があれば、お前にすぐに与える。だから、オレとそれ以上は関わらないでくれないか? それ以上は協力出来ない」

 ……駄目だ。……この女もサイコパスだ。オレの直感が言っている、関わるなと。こいつを見ていると、いかに性格が悪いだけの、レイアや水月が付き合いやすいのかを理解してしまう。

 大体、能力者の持つ能力は、本人の性格的気質、人格、実存、意志、願望、欲望に大いに影響される。こんな気味が悪い能力を持っている奴、性格もおかしいに決まっている。

 というか、レッドラムはウォーター・ハウスでさえ一目置いていた能力者だった筈。

 それを平然と始末してしまうこの女は何なんだ?

 まあ、オレもレッドラム相手には圧勝してしまったのだが。

「四日前に、ウォーター・ハウスと一緒に逃亡した四人組の事なら知っているわ」

 キマイラ・ヘッドはぽつりと言った。

「そのうちの一人、ライフ・ラインは以前、私がアサイラムに入れた。もし、彼らが向かう場所があるとするのなら、その場所も大体、予測出来る」

 あまり、気乗りはしなかった。

 結局、オレとキマイラ・ヘッドは、携帯番号とメールアドレスを交換して別れた。もし、何かあれば共に行動しないかとの提案もされたが、オレは適当な理由を付けて断りを入れた。

 

 

 苔生した谷と呼ばれる街だった。

 擂り鉢状に森林に覆われている都市だ。

 大きな山脈に囲まれて、光が余り当たらない。湿気の多い場所だった。

 此処は裏・新宿の海上から、12キロ離れた地点の半島に位置する場所だ。

 スラム街こそ無いものの、街中が陰気に覆われているようだった。広さは大体、京都くらいはある。此処は、様々な流れ者が集まる場所らしい。街行く人々は、国籍、人種、装束がバラバラで、何処か皆、余所余所しかった。

 キマイラから渡された地図を見ながら、その場所へと向かった。

 バーだった。そこは、情報屋も兼ねているとの事だった。此処の街中の情報は、そのバーで取引出来るらしい。

 繁華街が多い場所だった。カジノも多く建てられている。おそらく旅行者が金を使いやすいのだろう。

 バーは、カジノの地下にあった。

 バーの中では、ポーカーに興じる者達の姿があった。ストレート・フラッシュを出す者がいた。思いっきり、イカサマをしているのはバレバレなのだが、他の人間はイカサマを見抜けない事にイラ付いているようだった。

 オレはマスターに情報屋が誰かを訊ねた。

 マスターはポーカーをやっているメンバーの一人を指差す。オレはパインサワーを注文する。しばらくして、ポーカーが終わると、オレは情報屋に話しかけた。

「この写真の人物を探しているんだが、知っているか?」

 オレは逃亡した四名の写真と、アヌビスの顔写真を見せた。

「ん、……お前、男?……今日はぼろ負けした。これだけ払ってくれるんだったらいいぜ?」

「ああ、それくらい出すよ。これでどうだ?」

 オレは言われた金額の倍を叩き付ける。

 情報屋が息を飲んでいるのが分かった。

「使える情報だったら、更に倍出す」

 情報屋はある事無い事、話してくれた。

 大抵の情報は使えないものばかりだったが、オレはその中から、有意味そうなものを取捨選択して、吟味した。

 

 


第一章 時間の止まった、その場所で。 2

 苔生した谷にて、安い宿を借りた。

 なるべく小奇麗で、余り煩くない場所を選んだ。

 何処の民族か分からない装束を付けた者達が、ロビーで談笑している。

 オレは渡された鍵を持って、書かれている番号の部屋へと向かう。

 部屋の中にあった温度計を見ると、やはり湿度が高い。

 気持ち悪いので、服を変えようかと思い、例の『部屋』から服を何着か取り出した。

 オレは瞬間移動して、例の部屋の中に篭れば、別にホテルや民宿を借りる必要なんて無いのだが、旅行に行くと、何となく現地の宿に泊まりたくなる。宿を見ると、その地域の空気を肌で感じる事が出来るからだ。窓から見える景色、テレビ番組、部屋の中に置いてある生活用品、冷蔵庫の中に入っている飲み物、ツマミ。それらを見ると、旅をしているのだという雰囲気を感じ取る事が出来る。

 オレは冷蔵庫の中を開いた。何処の会社の物か分からない得体の知れないコーラ、緑茶、スポーツ・ドリンク、缶ビールが置かれている。何故か、シーチキンの缶詰と乾パンも詰め込まれていた。やはり何処の会社が作った物か分からないインスタント・ラーメンまである。

 ベッドを見ると、シーツは色褪せている。洗剤の匂いが仄かに香る。窓からは、街の景色が眺望出来た。この街も不思議な空間だ。カジノと工場と民家が同じ区域に存在している。お腹が空いている事に気付いて、食糧を買いに行こうかと思ったが、コンビニを見かけない事に気付いた。露店で買うのだろう。オレは得体の知れないラーメンに、置かれていた古びた電気ポットでお湯を注いだ。

 意外と、ラーメンは匂いがよく、味もまあまあだった。

 テレビを付けると、地元の車による事故などが報道されている。

 風呂にでも入ろうと思い、お湯を出すと、最初は水ばかりが出て、お湯が出てくるのに時間が掛かった。水道管の調子が余りよくないのだろう。国や地域によっては、水道から汚水が出てくる場所もあるので、此処は比較的整備が整っているみたいだった。

 だらだらとお湯を溜め、テレビを観ながら、コーラを開ける。

 コーラも別段、味は悪くない。

 普段、テレビなどまるで観ないが、旅先では何故か面白く感じる。

 ふと。

 テレビの隣に、一本のビデオテープが置かれている事に気付いた。

 タイトルは無い。サービスだろうか? それとも、旅行客が置き忘れたものだろうか? そういえば、このテレビはビデオデッキが付いている。普段、DVDしか見ないので、ビデオテープというものは余り使わない。

 何が映っているのか気になって、オレはビデオを入れた。巻き戻しはしっかりとされている。観る前に、一度、風呂場に戻った。水の出が悪いので、一向にお湯が溜まらない。

 リモコンを弄って、ビデオをつける。

 さぁっと、白黒の砂嵐が現れて、その後に映像が映った。

 墓石が大量に置かれていた。下のアングルから映されている。その位置からは、地面に蹲っていないと撮れないだろう。ぼろぼろに腐り掛けた手が映った。それが何かを掻き分けているみたいだ。ゾンビ? ホラー映画だろうか?
 それから、映像は続く。墓石を通り抜けながら、街の中へと出たみたいだった。

 しばらくすると、ホテルの前で止まった。

 オレはすぐに気付いた。このホテルを映した映像だ。

 画面は全体的に薄暗い。カメラはホテルのラウンジに入ると、悲鳴が上がった。移し手の姿を見たからだろうか? エレベーターへと向かう。一階、二階、そして、オレの泊まっている七階で止まる。

 オレは思い出す。この部屋に入るとき、この不自然に置かれたビデオは無かった。

 オレはリモコンで電源を消そうとする。テレビの電源が消えない。

 迷わなかった。テレビの画面を勢いよく蹴り付ける。

 ……、テレビを破壊する事が出来なかった。ぐらりと横にズレるだけで、ヒビ一つ生えていない。

 ぞっと、した。

 がちゃがちゃ、とドアノブが回される。

 ……ドアの向こうには、腐乱死体が立っているのか?

 逃げるべきか、戦うべきか悩んだ。逃げるだけなら、『例の部屋』に向かえばいい。

 逃げる事はいつでも出来る。

 オレは、入ってきた敵を、蹴り付ける事に決めた。

 ドアノブが破壊出来ない事に気付いたのか、何者かは知らないが。

「お前は何者だ? どの件の敵だ? 一体、何が目的だ?」

 正直、無用な戦いは避けたいが、向かってくるならば、容赦するつもりは無かった。

「……カジノで君に興味を持ったのだけど」

 テレビ画面から、何者かが這い出してくる。

「何の奇遇か分からないけれども。数ヶ月前、次元砂漠『アイス・エイジ』が青い悪魔に滅ぼされたのだけれども。アイス・エイジの女王をしていた炎猫の配下で、『アイシクル・ナイツ』という兵隊がいたのを覚えているかなあ? 炎猫様から、君の写真を貰っているのだけれども。不死身の大鎌使いさんは、元気にしている?」

 かなり意外な内容だった。

 言われて、まだあれから数ヶ月しか経っていない事に気付く。

 この妙な訪問客は何なのだろう。

「アイシクル・ナイツは十四名いたのだけれども、私以外にはみんな死んでしまった。君の友人の大鎌使いと青い悪魔に殺された。さて、この二人は、今、何処で何をしているのかな?」

「知らない……。探しているのか? 復讐か?」

「そうだね……、最初はそう考えていた。青い悪魔が無理ならば、せめて大鎌使いの女の子でもって、でも」

 オレはそいつの姿を視認する。

 ぞっとするような寒気がした。

 曲線状の身体の上に、真っ黒なコートを羽織っており、紫紺のガーダー付きのレッグ・ウォーマーをショート・パンツからぶら下げている。風も無いのに靡く髪は腰まで伸び、青にも見える黒色をしていた。

「君の方に興味が湧いた」

「女……? いや、ひょっとして男なのか……?」

 唇が赤黒く、砂糖菓子のような丸みを帯びている。肌は幽霊のように青白かった。眼。眼は鋭利な刃物のような形をしており、見ていると背中を撫でられるような感覚がする。化粧はしていない。

「そうだよ。僕の名前はボニヴァール。これでもれっきとした男だ。君と同じようにね」

 にっこりと、ボニヴァールは笑った。

 服装はユニセックスで、特別、女物を着ているとは思えない。メイクをしているわけでもない。けれども、オレは彼が男にはとても見えなかった。

 ぞっとするような寒気すら覚えるような、色気を放っていた。

 男である筈だが、女の持つ独特の匂いを漂わせているようにも感じた。

「声で男だと思った。でも、女にしか見えない。お前は本当に男なのか……?」

 言って、気付いた。オレに言われる筋合いなんて無いだろう。

「君だって……、可愛い顔に、その上、ゴシック・ロリィタ・ファッションに身を包んでいるじゃないか。お互い様だよ」

「綺麗な顔しているな。オレには及ばないけどな」

 オレやブラッドと同じように、所謂、男の娘って奴か。けれども、彼の場合は服装よりも雰囲気の方が、女性らしさ。それも、女の持つ艶めかしさを身に纏っている。

 その事を伝えた。

「アイス・エイジで男娼をしていたんだ。殿方とお姫様の夜の相手さ。僕よりも美人の男は沢山いた。みんな青い悪魔に殺されたけれどね」

 オレは彼の顔ばかりを凝視していた。

 陶然とした顔で、彼はオレを見つめている。

「取り敢えず、一緒にコーヒーでも飲みに行かないかい?」

「いいけれども、オレは風呂に入ろうとしていたんだけど。待ってくれるかな、それに」

 部屋着と言って、レースのTシャツにドロワーズの姿だ。何でこいつは人が無防備な姿の時に入ってくるのか。

 正直、腹立たしくて仕方が無い。

 大体、他人というものはこちらのプライベートを覗き見るものではない、最悪だ。

 結局、オレは無防備な状態で、ゆっくりと風呂に漬かれない事が嫌で、着替えるだけに留めた。彼と別れた後、またお湯を溜めて、入ろうと思う。

 大体、このいきなり部屋に入ってきた変質者を警戒せずにはいられなかった。

 彼の方も、何処かに隠し持っていたバッグから、着替えるといって、服を取り出した。

 ボニヴァールは、オレの白と黒のゴシック・ロリィタ・ファッションに合わせているかのような、真っ黒なドレスに着替えていた。

 胸元が露出して、足首が露になっている。

 顔にはメイクが施されて、青いアイシャドーが栄えて、妖艶な色気を振り撒いている。

 ますます、彼は女にしか見えない。

「僕が妖艶だとするなら。君は清純なんだろうね」

 違いない。オレは苦笑していた。しかし、清純か、それはむしろ表面的な小奇麗さとも思えてしまう。

「処でボニヴァール。女装者、男の娘とは不思議な人種だよな」

 彼はそうだね。と微笑を浮かべた。

「オレは自分自身の違和感を形にして、こういう格好をしているんだけれども、君は何故、女の格好をするんだい?」

「ふふっ。僕はバイセクシャルだよ。殿方の好意を寄せたい時は、このような格好をする事も多いけどね」

「そうか。男が好きなんだな」

「ああ。アイス・エイジで、男の人に夜の御奉仕をしていたからね。でも、女の子も好きだよ。特に可愛い子は大好きなんだ」

「オレはアセクシャルで恋愛感情がよく分からない上、性的な物に拒絶反応を起こしてしまう性質を持っている。きっと、オレは自分自身が生殖行為を行える男である、という殻を嫌悪しているから、こういう格好をするのかもな。まあ、オレは女の方が恋愛対象だろうとは思っているが。同性愛は無理だから」

「お高いんだね」

 ボニヴァールは笑った。無邪気とも高慢とも言える、笑い方。

「青い悪魔も可愛い格好をしているよね。彼を女の子だって愛でている者も少なからずいるらしいよ」

「本人から聞いたんだが。幼少期の姉の影響が強いらしい。今でも、幼少期に目の前で死んだ姉のよく身に付けていたファッションが忘れられないんだと」

「ふうん、お姉さんを愛しているんだね、彼は」

「いや、誰にでもある事だろう?」

 オレは鼻を鳴らす。

「思うに、性を脱ぎ捨てたいという願望が根底にあるのかもしれない。オレの友人には、レイアっていう女がいるのだけれども。彼女の場合は、少女性というものを持ち出して、自分自身を絶対に他者に触れられない存在なのだと言う。彼女は少女であって、女では無いのだと言う。少女は女という生殖を受け入れる器へと変わる以前の男女どちらでもない性なのかもしれない」

「へえ」

「男の姿。男装をしている時。自分の身体、肉体が本物の身体ではないという感覚がある。女性の肉体が欲しいわけじゃないんだけどね。現実の生活をしていないんじゃないかって思う。違和感。それは離人症すら発症してしまうんじゃないかっていうくらいに、強い違和感、齟齬となって現れる。人間の肉体としての性別は与えられる者だが、自身の精神を作る上で、人間は何処までも自由なんだ。男らしさ、女らしさなんて、オレは嫌だった。神話の神には、両性具有が度々登場する。天使は両性や中性、無性らしい。天使にも性別が無いらしい。むしろ中性とは神の性別なのかもしれない。性別を超越するという事は、人間である事を超越する事なのだろうか」

 と、オレは色々と自分自身の異性装に関して、考えを巡らせていた。

 正直、女装という言葉は嫌いだ。何だか違和感がある。

 オレはオレでしかない。そうとしか思ってはいない。

 そういえば。

 確か、アイス・エイジの男娼はニンフォと言って、女権社会である女達の小姓や夜の相手などもしていたっけ。だとするならば、彼は汚される側、という事になるのだろうか。

 ボニヴァールは、寂れた教会に辿り着いた。

 此処に、アイス・エイジにて生き残った者達の一部が隠れ住んでいるのだと言う。

 この街は、流浪の者を受け入れる。

 だからこそ、この街には安息感があるのだと。

「きっと、君は歓迎される。私達の目的は青い悪魔と大鎌の少女なのだから」

 オレはまだ、この男なのか女なのか分からない奴を警戒している。

 いざとなれば、いつでも逃げられるようにしよう。

 単純に、敵として現れたのかもしれないが、何故か、無意識的に、別の意味でも警戒していた。

 連れてこられた場所、そこは地下室を改造した場所だった。

 毛布と敷布団が大量に置かれている。

 そして、様々に着飾った女達が姿を現した。

 いや、……彼らは男だ。ドレス姿のもの、

 肉体のシルエットが、限りなく女性のフォルムに近いが、性別的には男なのだろう。

 妖精と色情狂を意味するニンフォマニアという単語を足した名称である、『ニンフォ』と呼ばれる男達。

 みな、綺麗だった。オレなんか、及ばない程に。

 ただ、オレは何だか、どういえばいいか分からない距離感があった。

 それは、きっと生き方のせいなのだろう。

「ねえ、甘名。君も一緒に仕事をしないかい?」

 オレは返答に窮する。そして、少し考えてから答えた。

「自分を愛するものは、自分だけだ。誰にも触れられたくない」

 とレイアのように答えた。

 自分を守るとき、彼女の言葉は勇気を与えてくれる。

「そうかい? 愛を与えるのはいいよ。奉仕するのは楽しいよ。私達に必要なのは愛なんだよ」

「分からないな。そして、正直、止めてくれないかな。オレは実は、そういった話、苦手なんだ。いや、明確に嫌いですらある」

 余り人には言わないが、オレは性嫌悪という性的な物が強く苦手な傾向を持っている。

 確か、レイアもそうだ。レイアの場合は処女性、少女性がどうとかっていう話をよく持ち掛けてくる。

 そういう面が彼女にあるからこそ、オレもまた、そういった人間の欲望は嫌いだ。

「そういえば、オレは風呂に入るのを止めて、お前に付いて来た。どうしてくれるんだ?」

 ボニヴァールはクスリと笑った。

「丁度、みんな入浴する時間だよ。君も一緒に入るといい」

 彼はイタズラっぽく言った。

 簡易的な浴場が地下には作られていた。

 炎を作り出せる能力者が混ざっていた為、風呂の温度を調整出来るらしい。

 沢山の男娼達。まるで、彼らは裸婦のように思えた。

 オレは、腰にタオルを厳重に巻いて、隅の方で湯船に漬かっていた。なるべく、下半身の辺りを見ないように、恥じらいながら湯船に沈む。やはり、温泉やら銭湯やらは苦手だ。

 ニンフォの顔立ちを見る。顔も小顔で、表情も女のようだ。彼らの肉体には体毛が薄く、華奢で丸っこい肉体をしている。

「まるで、娼館に処女が迷い込んだようね」

 ニンフォの一人がオレに声を掛けた。

「初々しい表情をしている。貴方は蕾ね。貴方の綺麗な花を、咲かせてみたいわ」

 よく分からない比喩表現だが、意味している事は分かった。

 オレは止めておく、と丁重に断った。

 いつもなら、風呂は一時間以上、入っているのだが、オレは十分ほどで上がった。

 短い時間だが、オレの意識は半ば混濁としていた。

 何人ものニンフォ達がいる。彼らはどう見ても、女にしか見えないが、実際のところは男なのだ。

広間では、ニンフォ同士が抱擁し、お互いの身体に接吻し合っていた。

 そう、きっと彼らはこの世界では女なのだろう。

 そして、オレも女装の男ではなく、女なのだろう。何というか、自分自身の存在が何なのか、此処では希薄になる。

 オレは両性具有者達の庭園の中で、静かに床に付く事に決めた。

 ボニヴァールが気遣って、オレには個室があてられた。

 何だか、そわそわして眠れない。

 オレにとって、性別とは何なのだろうか。そう考えていた。

 そしてもう一つ、鏡の向こう側の世界の少女、レイアの事を考えていた。

 さてと。

 少し長い、酷く退屈させるかもしれない、モノローグに付き合って欲しい。

 泥のような眠りの。夢の中で、オレは誰か隣にいるような事を想像して、そう思った。

 レイアが何故、生誕したのかをオレは知っている。

 

 

『終わりが始まりの断章』 -フェンリルの告白。-

 

-ある意味で言えば、世界は隣り合った死によって構築されている。-

 

 自分が構築した世界観。

 自分が構築したイデオロギー。

 語り出すと、長く、長くなる。

 イメージの本質は『処女』だった。それも永遠の処女。

 ……。

 非処女から処女になる。

 性行為において、処女から非処女へと変わるわけではない。

 存在の意味において、人間は元々、非処女であるのだが、非処女から処女にならなければならない。それは終わりが始まりであり。それは強迫的でパラノイア的なイメージだった。イメージが連続して、いつしか狂気が正気を飲み込む。違うな。普遍的な世界においての現実を飲み込んだだけに過ぎないのだろう。

 ……。

 さてと、自分自身の物語の話をしよう。この独白は確かに強固な意志となって、この世界に実体して欲しいと願っている。

 まず。自分自身の定義だ。

 一人称を考える場合、かなり困惑する。

 僕。私。俺。もしくは自分。

 僕や俺だと何だか男臭いし、私と言うのは少し違うような気がしたし、あたしという一人称はオカマ臭くて在り得ない。自分と言いたかったが、自分という一人称は書き言葉で記す場合、やってみれば分かると思うが、酷く不便だったりする。

 だから、オレという奇妙な言葉を用いた。

 ボク、でもよかったが。ボク、だと女性の性同一性障害者みたいで、何だか違和感を覚えたので「オレ」にした。

 というわけで、非人称であった自分自身の一人称が、オレという事になった。

 最初にそのような意味を付けるという事は、オレはオレという存在をこの世界に降下させて、オレはオレになるのだという強迫神経症的なイメージを克服する手段だった。

 性別に違和感を覚えたのは、物心付いた頃だったと思う。

 オレは大きなズレを抱えて、この世界に生誕したのだと思った。

 十代の頃から、鏡が見れなくなってしまった。

 十代の終わり頃か、二十代の始め頃か。自分が酷く女顔ではないのかと思った。

 自己の像が、虚像となって、あるいは残像となって改変されていく。

 自分自身の元々の性別は男であるのだが、強い女性的な感受性を備えている事が分かった。

 美意識や繊細さ。あるいはそれと相反するかのような女性的な攻撃性、激情。

 たとえばだ。

 オレは自分の肉体がグロテスクだと思う。自分の肉体が気持ち悪い。

 成長と共に、肉は膿み腐れるように変形していく。まるでフリークスを見ているように鏡を眺める。爪先、皮膚、眼球、髪の毛、顔の骨格、筋肉の付き方、体躯、身長、とてつもなく不気味だと感じた。

 生きる事は呪いを与えられる事ではないだろうかとすら感じた。

 ある意味で言えば、ナルシズムの世界に浸れるのならば、それは幸福な事なのだろう。

 人間は現実を生きているようでいて、現実など生きてはいない。

 だからこそ、オレはオレの現実を生きようとした。

 思うに、哲学とはあらゆる意味の無い世界に意味を与えて、現実を構築していく行為なんじゃないのかと考えている。

 あらゆるものが、現実によって蹂躙されている。というのが、オレの十代の頃の妄想だった。

 自分自身の生存を定義出来るのは、自分以外には在り得ない。

 オレが行う行動、オレが話す言葉の内容。

 それらは、もうどうしようもなく、オレという存在の足場が崩れていくような感覚に陥る。自分自身で自分の生の意味を定義付けなければならない。

 そう、叫び声を心の中で上げていた。

 自分自身の言葉がもうどうしようもなく不気味で。ある意味で言えば、無価値だ。

 この世界ではない、もう一つの世界を幻視する。

 それは、網膜から現象される幻影としての幽霊だったり。

 建物の影に移る奇妙な怪物だったり。鏡の向こう側の世界だったり。

 そのように、不気味さだけが迫ってくる。

 それから。

 自分自身の肉体の形をイメージ出来ない。

 自分自身のイメージが、醜悪な怪物となって迫り来る。勿論、それは自身の作り出したイマジネーションによって現れたものだろう。

 女性性と男性性の混合。肉体は白と黒のコントラストを願っている。

 少女性。神聖さ。

 それが、強い質量を伴って、心に芽生え始める。

 多分、それが自分自身の本当の「誕生日」だったのだ。

 これから、オレが始まる。

 そして、これまでのオレは終わりを告げて。死ぬ。

 自分自身の価値が他人に決められたとき、自分自身の価値が死ぬ。

 究極的にいえば、人間は体験を重ねることも成長することさえも無意味だ。というかある種の無価値であり、自身が死ぬ、ということになる。そのような結論に辿り着いた。

 ナルシズム、ナルシストという言葉、概念は否定的なニュアンスで使われることが多いが、他者を介しないナルシズムを認めるべきだと考えた。

 いわく、“私は美しい。私の美しさを誰も汚すな。”と世界に剣を突き立てる。

 自由を感じる瞬間、オレはそれを感じ取りたい。

 今、生きているんだという存在の証明。おそらく、オレはずっとそれを望み続けている。この世界から別の世界へと向かいたいという強い、強い願望。

 自分自身の中に在るものは、女というイメージではなく。少女というイメージなのだと気付いた。それも、幻想によって糊塗された少女だ。

 その少女が、オレの中にあるこの世界で、オレを蝕むあらゆる存在の否定だった。

 そう。

 オレは汚れたくない。自分自身の中に、自己愛の中にこの世界を閉じ込めるのだ。

 自己愛はつねに、内部に結晶に閉ざされた花々の様に渦巻いていた。

 外側に現れている肉体は死んだ肉体だ。だからこそ、オレは内面の奥底に眠る本物の自分なるものを創造しようとした。仮にそんなものが、精神医学などの分野では、脳科学の分野などでは存在しなかったとしても、それが何の意味になるのだろうか。

 とにもかくにも、オレは生きている。オレは生きて、世界を巡らせている。

 自分自身の肉体のイメージ。それと精神のイメージ。それらはもうどうしようもなくズレていく。

 セクシャルティーが何処かズレている、それは、どうやら、この世界において内包される事を赦されない事であるかのようだと思った。男と女。あるいはそれこそが秩序の象徴であるかのように。

 両性具有が神々の性別ならば、中性や無性は天使の性別ではないだろうか。

 けれども。

 おそろしい事に自分自身が誰かを傷付けるかもしれない。

 もう少し言えば、異性を凌辱してしまうかもしれない。

 という恐怖はつねにあった。

 自分自身の肉体的な性別は男で、女性を簡単に蹂躙してしまうのではないかという恐怖。視線ですらもまるで冒涜的ですらある。

 思うに、男性は女性性を知らないゆえに、女性をまるで道具のように、欲望の対象として視認し、時には肉体をも蹂躙する事が出来るのだろうか。それは、その男の中で何処までも欲望の妄想が繰り広げられていく。

 それが、もうどうしようもない程に、気持ちが悪いと感じたのだった。

 そして、そんな男の一人である自分自身もまた気持ち悪いと感じた。

 女性に触れるとき、つねに女性を凌辱し得る可能性を秘めている。

 オレは女を視認するとき、オレは凌辱者となっていないのだろうか。それは不気味な影となってオレの脳裏に爪痕を残す。何度も。何度も。

 この世界のルールを壊してしまいたい。

 それを壊せるのは、この世界の上位概念における何かでしかないのではないかと思った。

 人はそれを神と呼ぶ。

 オレは『神』を夢に見る。神は自分自身の欲情の外側に存在する未知なるものとして、オレの中に現れた。

 その姿は分からないが、オレは鏡の向こう側にその幻影を感じた。

 世界を少女の中へと閉じ込めてしまいたい。

 自分の中にある。暗い闇の中から産声を上げる少女。

 彼女こそ、本来の自分の姿なのかもしれない。

 それはある種、何らかの『神』を構築して創造する行為なのだろうか。

 この世界と戦う為の武器が必要だった。

 この世界のオレを攻撃しようとする何物をも、打ち払う武器がだ。

 自分自身の持つ武器は何にしようか考えて。

「剣」に決めた。

 ある古物商から買った細身だが、確かに重量感のあるソードだ。

 人間の首を切り落とすには充分過ぎるくらいの質量を伴っていた。

 白と黒のゴシック・ロリィタのドレスを纏いながら、冷たい金属の剣を両手に掲げた。それがこの世界と戦う為の武器だ。刃とドレス、その両方は酷薄なまでに鈍く冷たく、冷笑的な感覚を覚える。鏡に映る自分自身は酷く退廃的で純潔だった。

 喫水のナルシズムと、無限に流れてくるような、この世界に対する拒絶の感情。

 悪意と敵意が奔流となって、押し寄せてくる。

 激しい自己愛を肯定する事によって、自分は自分に為るのだと。

 とにかく、そのような世界は確かに存在しているのだろうという祈願があり、そのような世界で生きるべきだし、そのような世界へと到達するべきなのだとオレは思ったのだ。

 隣り合った世界は確かに存在していて、人間はそこへと行き着くべきだ、という妄想に駆り立てられた。自分自身の醜悪さに飲み込まれようとし、自分自身の精神はこれから死んでいくのだと、そのような恐怖に襲われた。

 だから、オレはこの世界に剣を突き立てるしかなかった。

 そして。オレは自らに名前を付けた。

「フェンリル」と自分自身に名付けた。

 それは北欧神話において、主神オーディンを呑み干し、世界に亡びを齎す者。

 神を喰らう獣。終わりを始める者。

 多分、形而上学の始まりは物事を終焉させる事だったのではないのだろうか。

 哲学はきっと、よく分からない言語化出来ないイメージを言語化させる事によって、殺害する行為なのではないのだろうかと。

 此処では無い、本物の世界。それを望んでいる。この世界の価値観をオレは認めない。

 この世界の「神話」を殺してやろうと思った。

 

 

 原宿の路地を抜け、裏通りの通常の裏原も歩き続けて、臨在したもう一つの原宿である、『裏・原宿』へと、キマイラ・ヘッドは辿り着く。

 髑髏の桟橋を抜け、屍峠へと向かう。

 忙しい時期は、人避けの結界が張られていると聞かされたが、どうやら彼女は、客人として歓迎されたみたいだった。

その店へと辿り着く。

 キマイラはゆったりと足元まで伸びたマントに包まれており、手には大きな旅行鞄を持っていた。

「さてと」

 彼女は店内のカウンターで、俯きながら読書に浸り込んでいる、煤けた長い金髪の女性に告げた。

「殺したい人間がいるの。そいつは死ななければならない。復讐がしたい……。此の世界には死ぬべき人間がいるんだ。そいつを殺せる武器を買いたいんだけれども、売ってないかしら?」

 眠たそうな眼を上げて、金髪の女性は顔を上げた。

「貴方のお支払いする金額次第ですね。幾ら、支払えます? 安物だと貴方の命の保証をしかねませんよ。先日も私の店から品物を買っていったお客さん、どうやら家族、親族ともども標的一人を殺した後、呪いの連鎖の『返りの風』で、みんな標的以上の悲惨な死を遂げたらしいですよ」

 店の主は、淡々と詰まらなそうに告げた。

 キマイラは指を二つ立てる。

「二億でどうかしら? 結構な金額でしょう?」

 店の主は苦笑する。

「二億、ですか……。とてもとても、せめて十億は出さないと」

「成る程、想定以上にぼったくりなのね」

「違いますよ。たとえば、この店ではハーブとかアロマ・オイルとか服とか古書とかも取り扱っているんですよ。ホワイト・セージの束は四百円で売っているし。ラベンダーのオイルの大瓶は二百円で売っている。二十年前に出たゴーチェの小説の古書は千円で売っている。その手の品物に限り、それ相応の値段設定にしているだけです。でなければ、災厄が簡単に蔓延ってしまいますから」

 この店にあるものは、人間の悪意の結晶みたいなものだ。従って、人間という存在を冒瀆すらしてそうな雰囲気を持っているが、一応、彼女なりのルールはあるみたいだった。

 あるいは、やっかい事が頻発するのは面倒臭いだけかもしれない。

 言いながらも、店の主はごそごそと近くに置かれていた品物を漁っていた。

「あー……。これなんてどうです? 人間爆弾スーサイド・ボマー用の小型爆弾。何でも、ある小国で地雷と一緒によく使われていたもので。酸素ボンベやガスマスク、ポーチの形をしていて、敵国の兵隊に近付いて爆発させるんだそうです。これなんか、2億あれば、60発は売りますよ。お付けになって、お相手と心中してみてはどうなんでしょう?」

「なるほど。何人か私を慕う同僚がいたから、彼らを騙して付けさせてみるか。悪くないわね」

 店の主は、かちゃかちゃと、酸素ボンベの形をした兵器を弄る。

「でも、これってどうやって使うんでしょうね。……あれ? 音……」

 キマイラ・ヘッドは、瞬時に、数歩、後ろへと飛び退いた。

 爆弾が爆裂して、店の主の肉体をバラバラに吹き飛ばす。

 キマイラは嘲りながら、店のものを物色し始めた。

「道具を体内に隠す事が貴方の能力なんですか?」

 粉微塵になったカウンターの中から、全身が崩れた店の主、デス・ウィングがキマイラを睨んだ。

「それこそ、止めた方がいいですよ。昔、子供が悪戯で、ハロウィン・グッズのキャンディーを勝手に持ち出して以来、数千円以下くらいの品物なら見逃すように設定したんですけれど。……。金銭を支払わずに品物を持ち出した場合、店の外に出ると、使い魔が食い殺しにいくように設定してあるんです。止めた方がいいですよ」

 ぱらぱらと、粉煙が舞う。

「あらそう。……ところで、……さっき売りつけようとした奴、欠陥商品なら百歩、譲って赦すとしよう。今のでお互い様だからね、けれども」

 キマイラは、デス・ウィング、水月の側まで寄った。

 そして、両手を広げて、彼女の首筋に掴み掛かる。

「何で、貴方は死なないのかしら? こんな殺傷能力の低い道具、敵に効くとでも思っているの? 馬鹿にしやがって。これから、貴方がどの程度まで痛めつければ死ぬのか、実験したくなってきたわ」

 キマイラは、ヒステリーでも起こしたかのように、顔のこめかみがひく付いていた。

 掴んでいる首筋を思いっきり、抉り取る。

 そして、ぐるぐる、壁に彼女の肉体を擦り付けていた。

 水月の肉体が、壁と混ざっていく。

 まるで、肉体が泥のようになって、固体である事を止めて、液体のように混ざっていく。

 そして、完全に彼女を壁の中へと埋め込んだ。

「私の『カクテル・パーティー』は、別名、不死身殺しとも言われる。どんな再生能力を持っていようが、動く死体だろうが、壁と混ぜちゃえば、死ななくても生きられなくなるからねえ。たとえ、幽霊だって混ぜられる。デス・ウィング、貴方はこれでも動けるのかしら?」

 キマイラは自信たっぷりに話す。

 しかし。

 煙が少しずつ、壁から這い出てきた。

 そして、それは古びたニットの服を着た、人の形へと変わっていく。

 キマイラは驚いたように、それを眺めていた。

「……やはり、死なないのね」

「……お蔭様で……」

 水月は、近くにあった小さな時計を取ると、それを弄くった。

 すると、壊れた品物も、少しずつ復元されていく。

 キマイラは持っていた旅行鞄を、慎重に、繊細な割れ物でも取り出すかのように開いた。

「あのなあ。お客さん、いい加減にしないと。幾ら温厚な私でも仕舞いには……」

 キマイラは、鞄の中から一本の、まだ生々しい皮膚の色をした『腕』を、水月の腹の方へと突き出していた。

 途端に、水月の腹が一瞬にして腐敗し、破壊され、胸元が徐々に、しかし素早いスピードで消滅していく。

「処で、お前を襲う口実は私には幾らでもあるのよ。賞金総額22兆の青い悪魔を除く、最強の賞金首、ランクAAAのデス・ウィング、水月翔子! お前を倒せば、此処の品物全部と22兆円が私の物になるなあ? というわけで、大人しく私に殺されろ!」

 水月は、咄嗟に、自分の首を自身の能力で切断する。

 油断していた、と水月は心の中で自身に毒づいた。

 胸、肩、腰がもう完全に消滅している。こんな能力者がまだドーンに存在していたのか。

 現象自体は物が腐るように腐り落ちていっているのだが、構成する細胞がまるごと分解されていっている。やはり、腐るというよりも、消えるといった方が正しいか。

 水月は、残っている腕の指を弾く。

 すると、キマイラ・ヘッドの頭の中央に孔が開いた。

 彼女はそのまま、仰け反って、足元を不自然に滑らせながら、そのまま後頭部から地面へと勢いよく、倒れた。

 水月は、しゅうしゅうと音を立てながら、自身の肉体の復元に走った。

 咄嗟に、切り取って消滅の浸食を免れたのは、四肢と頭部だけだ。胴体がそっくりそのまま何処かへと消え失せてしまった。

 久々の刺客だった。この前も、一人の少女と戦って、昔を少し思い出した。

だが、こんな風に不意打ちを打たれると、鈍って麻痺した現在の感覚では、昔のようには戦えそうにもなかった。

 彼女の能力の本質は風ではなく、『大気』だ。空気中に存在している酸素を操って、それをカマイタチとして飛ばしたり、竜巻として操ったりしている。

 床に落ちている腕に目をやる。切断面が加工されて、剣や槍にある柄の部分が取り付けられている。その腕は、少しぴくぴくと動脈と静脈が動いていて、まだ生きているみたいだった。

「すまないな。今は殺されてやる気分じゃないんだ。以前、アサイラムに行ったときと違ってね。エイジスとナーギャの二人の御蔭かな……。実は今、知ったんだが、私はもう少し生きておきたいと思っているみたいなんだ。それに、この前来た、あの二人の行く先にも興味が湧いた……」

 どうやら、腕は旅行鞄の中に慎重に、ガラスケースに入れられて、鞄の内部に触れないように柄の部分を取っ手と、紐によって固定されていたらしい。

「その腕、借りておくよ。もし、私が死にたくなったら、使う事にしよう」

 復元が遅い。話に聞いていたが、触れるだけで敵を殺せる能力者がドーンの上位にいたらしい。水月は、アサイラムに入った経験から、口上だけだと思って黙殺していた。

 今、倒した女の能力なのか。先ほど、壁に埋められたように、彼女の能力で、話に聞いていた、触れるだけで消滅させられる能力者の腕を、此方に持ってきたのだろう。

「復元する為の肉体の酸素が丸ごと、破壊され尽くしている。余りにも細かい素粒子にまで分解されてしまうと、幾ら私の肉体でも復元出来ないらしい。その腕の持ち主、強いな……」

 彼女は今、周囲の酸素を集めて、自身の肉体の喪失した部分を作り上げていた。

「その腕の持ち主、ハーデスよりも強いんじゃないか? 核でも死ななかった私だぞ……」

 腕を眺めると、ぴくりぴくりと痙攣していた。

 生々しい色、死体ではなく、間違いなく生きている。

「いいや、貴方は今、死ぬ」

 ごりっ、と。水月は頭を押さえ付けられる。ぐりぐりっと足の裏で地面に強く擦り付けられていた。かろうじて、左目の端の視覚に、頭に孔を空けられても平然と立っているキマイラ・ヘッドの姿が見えた。

「デス・ウィング、こっちは貴方の情報をある程度、知っているのよ。だから、対策くらい立ててきているに決まっているじゃない。ちなみに、私は別に不死身の肉体って、わけじゃないわよ。念の為」

 腕の指を振ろうとする。しかし、腕はいつの間にか二つとも、地面の中へと混ぜられていた。霧状に取り出すのには、タイムラグがある……。

「ドーンにまさか、これ程まで強い能力者がいたとはな。時代は移り変わるものだな。……」

「そう。この私の強さを理解していなかった奴らが、ドーンでは多過ぎた。私は上位に入るどころか、中位くらいの評価しかされていなくて無名だったのだけれども。まさか、私がこの腕の持ち主である『イエロー・ダーク』のレッドラムを倒せるなんて誰も予想出来なかったみたいね」

 喋りながら、キマイラはレッドラムの腕を拾って、丁寧に水月の両腕を消滅させていた。

「後は、弟の仇であるウォーター・ハウスを殺す。しかし、奴の場合、性格上、今みたいな不意打ちが効かないからなあ。だから、貴方の品物の中で奴に効きそうな物を物色したかったのだけれども。私の『カクテル・パーティー』では奴の殺人ウイルスに勝てそうにないからね」

 更に、喋りながら、彼女は水月の両足も消滅させた。

「まあ、使い魔とやらも私の能力かレッドラムの腕で倒す予定だからいいとして。デス・ウィング、死ぬ前に殺人ウイルスで遠方から攻撃してくる相手を簡単に殺せる道具って此処には無いか教えてくれない?」

「……『アンサラー』という小刀型の視認した相手を必ず切れる武器があったんだが。この前、青い悪魔に破壊された。あの刀は生き物で、気分次第で数年、数十年単位で自動的に復元するが、今は無いな。そうだな、他に使えそうなものは、たとえば……」

 それ以上、喋れなくなった。

頭部全体が消滅していく。

「ごめん。やっぱり、再生の時間稼ぎに喋り続けられても困るから、さっさと殺しておくわ。ウォーター・ハウスを倒せそうな品物は自分で見つける」

 水月の肉体は、全て消滅した。

 キマイラは鼻歌を歌いながら、腕を軽く指揮棒のように振り回す。

 そして、注意深く、周囲を見渡した。

「残っている身体のパーツは特に無しと。この腕、作るのに苦労したのよ。壁に埋め込んだレッドラムの脳に針を沢山、刺し込んで。常時、ストレスを与え続けて、デフォルトで能力を発動させ続けるようにしたの」

 世にも悪意に満ちた内容を、まるで無邪気な口調で話す。

「しかも、たまに、栄養を与えに行かないと植物みたいに死んじゃうから。今、バーの壁を切り取って貰って、私の家に置いているのよね。はあ、私の能力って不便だわ、脳を掻き混ぜちゃうと、もう人間に戻せないし」

 どんっ、と。キマイラの腹に孔が開く。

 そして、全身をマシンガンで撃たれるように蜂の巣にされていく。

 振り向くと、一本の指が空中に浮かんでいた。

 即座に、キマイラはそれをレッドラムの腕で叩き落として消滅させる。

 全身を撃たれたというのに、彼女は平然としていた。

「まだ、何処かに指とか他のパーツが隠れているの? 貴方、やっぱり死なないのね。流石に、……青い悪魔を除いた最強とまで呼ばれるだけあるわ」

 キマイラは受けた攻撃の箇所を、服ごと修復させていく。彼女の頭部に先ほどから開いていた孔も、渦状になりながら小さくなって閉じていく。

「そういうお前は何で死なないんだ? お前も不死身の化物なのか?」

「だから、私に不死身の能力なんて無いって。処で、声帯があるのよね。何処かに喉だけとか隠れているの?」

「いや、空気を振動させて、音を作り出している。私のパーツの修復は指が精一杯だった。先ほど、首や手足を切断するときに、本来は血液のように飛び散った肉体の破片でやっと指が作れただけだ。ここまで追い詰められたのは初めてだ。青い悪魔でさえ、私の肉体を細切れにするだけで、今のような空気中に粒子が少しだけ残っている状態にまで追い詰める事は出来なかった。なあ、もうお前の勝ちでいい。私の負けだ。品物はやるから、このまま行ってくれないか?」

「貴方を完全に殺さないと。此処の品物全ても賞金も手に入らないじゃない。本当に貴方、どうやったら死ぬのよ。この辺りに浮かんでいるの?」

 キマイラは、声のする方にやたらめった腕を振り回す。

「お前もどうやったら死ぬんだい? 何で生きているんだ?」

「当ててみればいいでしょう?」

 キマイラは面倒臭くなったのか、レッドラムの腕を鞄の中へと仕舞い始める。

 そして、置かれているダンボールの上へと座った。

「ああ、賞金22兆貰えると思ったのに。……。ウォーター・ハウスもどうやって倒そうかしら……。あいつ用心深いからなあ」

「ひょっとして、……脳や心臓などの臓器を肉体から分離させているのか?」

「…………今頃、気付いたわけ?」

 キマイラはポケットから煙草を取り出して、火を付ける。

 そして、溜め息を吐き出して、それを揉み消した。

「不味いわ。ニコチンが脳にも肺にも行かない。……デス・ウィング、わざわざ貴方を倒す輩が、正攻法から来るわけないじゃない。貴方こそ、脳味噌、空っぽなんじゃないの?」

「……否定はしないよ。自分が余りにも不死身だと、油断だらけになるし。自分の攻撃が簡単に敵を殺せると、思考も停止する。能力ってのは、頭の使い方だな」

「そう。レッドラム相手も、苦労して倒したわ。強い奴に限って、私の能力って、油断されるのよね。只、混ぜるだけだから」

 キマイラは、頭の角をがりがりっと掻く。

 彼女は突然、顔色を悪くした。

 まるで、水の中に長く潜っていたかのような。

「さて、他人に使う分ならともかく、自分に使う分にはそれなりに制限時間がある。そろそろ、ヤバくなってきたわ。このまま取り外し続けていると精神が砕け散って、死んでしまうか、よくても植物状態になってしまう。この腕の持ち主みたいな状態にはなりたくないからね。デス・ウィング、また今度、殺しに来るわ。またね」

 キマイラ・ヘッドは、地面から何かを取り出した。

 それは、彼女の肉体から離れた臓器達だった。

 彼女は床と自分自身を混ぜる事によって、水月の攻撃から致命傷を免れていたのだった。

「デス・ウィング、能力は知られない方が強いのよ。私は遠くに自分の臓器を置いて来て、戦いに挑むなんて芸当が出来ないから」

 と、キマイラは、消した煙草を捨てると、そのまま水月の店を出て行った。

 沈黙。

 後には、一面に破壊された品物が倒れていた。

 水月は不思議と、微笑ましそうに彼女を見ていた。

「善と悪の差が両極端だね。澄んでいるけれど人の命を何とも思っていない。気に入ったよ。今度は普通に客として来て欲しいものだな。覚悟の差で、力量を埋めようとする意志と、度胸。そして、どんな卑怯な手を使ってでも、相手に勝ってやるという執念が見て取れる。君の道行きも、気になったな。また、遊びにおいで」

 と、水月は一人、肉体が殆ど破壊されながらも、笑い続けた。

 さて、これ程までに肉体を損壊されたのは初めてだ。

 一体、どれくらいの期間で修復するのだろうか。


第二章 地獄の世界 1

 幼い頃。

 神様は存在しているのだと思っていた。

 肉体を焦がすような虚空の炎に焼かれながら、地獄に類する場所にいた。

 神々が死んだ場所だ。天界の扉は決して開かれない。

 天上の祭壇は、決して私には開かれないだろうと……。

「詩でしか現せないような世界、感覚。私は詩で言葉を綴る」

 思い描くものは。

 虚無。

 何処までも続く、砂漠の世界。

 神のいない世界。

 満ち溢れる死。

 満ち溢れる背徳。

 聖書を読んだ、ドストエフスキーを読んだ。

 ……。

『闇の炎』、フレイム・タンは考えていた。

 次元砂漠アイス・エイジから、解放されて、彼女は自由の身になったが、次に行う事に関して考えていた。

 この世界の秩序を破壊する事。それは彼女が生涯を掛けて願っていた事だった。

 では、この世界の秩序の存在。

 それは、能力者の犯罪者を狩る『ドーン』という組織の壊滅と、その統率者の一人とされている『メビウス・リング』を倒す事だった。

 まず。何よりもメビウス・リングとは何なのかを調べ上げる事だ。

 神……?

 神だと言う噂がある。

 何処から出た事なのかは分からない。

 そもそも、彼女は何処から来たのか。

 何者なのかすら分からないまま、只、いる。

 何をしているのかも分からない。

 けれども、皆、メビウス・リングの存在を知っている。

 青い悪魔を知っているように、円環の存在を知っている。

 青い悪魔が何をやったのかは、語り継がれている。

 青い悪魔は沢山の人間を殺した。都市を滅ぼした。国を滅ぼした。世界を滅ぼした。

 円環は何をやったのだろうか? 皆、よく分からない。けれども、円環は只、存在している。

 

 

 私はネオ・アーカム・アサイラムに関しての惨劇を聞いた。

 広げた新聞に大きく載っていた。

 その事件を引き起こしたのは、ドーンのバウンティ・ハンターの一人である、ウォーター・ハウスという男のようだった。彼は副署長のチェラブを殺して逃亡したという。また、アサイラムで看守長をしていたハーデスという男も、その事件の前に青い悪魔に殺されたとの事だった。

 この二つの事件は、今やドーン中で話題になっている。

 皆、ウォーター・ハウスとブラッド・フォースの話題ばかり話していた。

 情報屋からの情報によれば、密かにAランク狩りのチームが組まれていて、その一人がウォーター・ハウスだったとの事だ。情報屋は、チームのメンバーの構成を、調べているという。

 先日、裏・新宿の次元より行ける。荒廃した世界の一つから一人の能力者を仲間にした。

 彼の名はコロンゾン。

『アイス・エイジ』に類似した荒廃した世界で、あの『炎猫』のような独裁者が支配する世界から連れてきた男だ。その世界の独裁者を倒して、彼はその世界を去る事を決めたようだった。私と共に、様々な世界を旅したいのだと。

 私は彼の能力を買って、彼を仲間にした。個人的に性格も嫌いではなかった。

 私には仲間など必要無いと思っていたが、彼は仲間にする事に決めた。

 さて、私の当面の目標は、青い悪魔ブラッド・フォースを倒す事と、円環メビウス・リングが何者なのかを突き止める事。そして、もし敵の可能性になるならば、メビウス・リングを倒す事だった。

 まずは、ブラッド・フォースを倒せる能力者を探していた。

 ブラッド・フォース。

 彼は殺人鬼で、一時期、世界中の人間が、あらゆる次元中の人間が叫喚を上げる程、人間を殺し続けていた。

 情報によれば、今はフェンリルの甘名や『死神の少女』と一緒にいる時が多いという。また、裏・原宿での目撃情報もよく聞く。

 私は考えている。

 まず、ウォーター・ハウスという男と接触したい。彼は何を考えて、あのような行動を起こしたのか。そして、次にどのような行動を起こそうと考えているのか。

 ウォーター・ハウスの情報を調べていると、彼は元大量殺人犯だったようだった。それも、組織を作って大量殺人を行っていた。

 しかし、その組織は彼の捕縛と同時に無くなった。

 そして、彼はドーンの有力なハンターとして働いていた。

 そして、今回の事件。

 その屈折した人生に、私は溜め息が出る。

 しかし、彼がどのような者だろうと。

 たとえ、私の目的を阻む者は誰であろうと生きる事を止めて貰うまでだ。

 命を無に返す。大地へと。

 私が死ぬべきだと考えている人間は、やはり此の世界に生きていてはならない。

 重たく握り締めた拳銃。

 炎猫を思い出す。黒い呪文を思い出す。

 奴らを記憶の中から消してやりたい。

「さあてと。凱旋歌の始まりだ。死の馬が街を通り過ぎる。その蹄の音を聞く者は、明日までに冥界の王に奉げる、祈りの言葉を考えなければならない」

 私は拳銃を発砲する。

 何度も、何度も、意味も無く、拳銃の引き金を引く。

 衝動を吐き出すかのように。

 何もかもが、物足りないといったように。

 暴君ウォーター・ハウス。青い悪魔ブラッド・フォース。

 そして、アヌビスにデス・ウィングか。

 彼らがどれ程、強かろうが。私は彼らに勝つ覚悟がある。

 自信じゃあない、覚悟だ。刺し違えてでも、殺してやる覚悟。

 死ぬべき命は、私が決めてやる。

 たとえば、この部屋に散乱している死体のように。

 少しだけ、大きな屋敷の中に私はいた。

 死体は頭が無い者、胸が右肩ごと吹き飛んでいる者、黒焦げになっている者などがいた。

 此処は、ドーンのバウンティ・ハンターの一グループのアジトだった。

 私に情報を与えた情報屋も、私をドーンに売ろうとしたので射殺した。

 さて、この部屋の主人の名前は何だったか。もう、忘れてしまった。

「コロンゾン、行くぞ」

 無口な男は、無言のまま私に付き従った。

 この世界に暴力を撒き散らしてやる。

 拳銃、炎。そう、私は闇だ。

 私は屋敷に火を放つ。死体達はすぐに、燃え上がっていく。

 さて、そろそろ騒ぎになる頃だ。

 私が今、行っている事は、ドーン側がAランク狩りを決行しているのと同じように、私の方は、ドーンのバウンティ・ハンター狩りを決行しているのだと。

 気付いた頃には、手遅れだろうが。

 私は唇を愉悦に歪ませる。

 突然の事だった。

 衝撃音がした。

 燃え殻の中から、黒焦げの骸骨が姿を現し、此方に向かってきたのだ。

 骸骨は何かを喋っていた。それはもはや存在しない声帯器官を必死で震わせようとしているようだった。

 私は舌打ちをする。

 敵の一人を仕留め損ねた。おそらくは“死後に発動”する何かの能力だったのだろう。

 私は拳銃を取り出して、そいつの頭を吹っ飛ばした。

 しかし、撃ち込んだ銃弾は骸骨の表面で停止する。

 命中した筈の銃弾は、骸骨の頭部で止まり、それが炎や風、そして瘴気によって肥大化していく。おそらく、このまま打ち返してくるつもりなのだろうか。

 私は咄嗟に避けようとした。

 しかし、足元を何かに掴まれている。見ると、地面から黒焦げ死体が二体分、私の両足を掴んでいた。攻撃を避けられない。

 大砲となった銃弾が、私の元へと向かっていく。

 ……しかし、それは私に命中する直前で、何も無かったかのように、泡のように消滅してしまった。続いて、骸骨の頭部も纏っている炎ごと孔が開いて、消滅する。

 コロンゾンだ。

 私は彼に礼を言った。

 頼りになる、……仲間だ。

 今は、一人ではない事が、これ程、嬉しいとは。

「さて、世界を滅ぼしに行くぞ。それに意味は無いんだ」

 徹底的なニヒリズムの剣を振り翳しながら、私は行く。

 私は殺しに、燃やしに、行くのだ。

 

 

 木漏れ日が差し込んでいた。

 時計を見ると、もう十二時を少し過ぎていた。

 いい加減、寝過ぎた。

 幻想の魔術庭園のような、性別を超越したニンフォ達の世界。

 その中に迷い込んで、自分自身の実存の事とも、否応なく対話する羽目にもなった。

 ボニヴァールが気を使ってくれたのか、少し冷めた朝食が置かれている。ひょっとすると、昼食なのかもしれない。

 こんな場所に迷い込んで、オレは一体、何をしているのか。

 自分では、まったく自分が何をしているのか分からない。

 ただ、オレは自分自身を此処にいる者達とは、一定の距離を保ち、所謂、“純潔”を守った。何というか、此処にいると自分までがあちらの世界に入り込みそうになる。そんなのは、オレの理性が絶対に許さない。

 さて。

 同じ異性装でも、その捉え方は様々なのではなかろうか。

 たとえばだ。

 オレはブラッド・フォースに、自分と近しいものを感じている。

 幼い頃、姉を殺された事によって、その幻影を追い続けようと、姉と同化しようと、姉が好んできていた青いロリィタ服を纏うブラッド。

 オレは彼に何処か、共感しているのだろうか。

 共感しているからこそ、大切な者として思っているのかもしれない。

 ボニヴァールが部屋を開けて、入ってきた。

「昨晩は眠れたかい?」

「いや……、何というか、お前らは本当にやかましい」

「儀式だよ、私達にとって大切な事なんだ」

「オレを汚そうとするな」

 きっと、オレはこいつを睨んでいるのだろう。

「もうじき、此処も離れるよ。私達はまた旅に出る」

「そうなのか?」

「うん、また違う人達にご奉仕しようと思ってね。それが僕達に与えられた使命のようなものだから」

 と、艶っぽく、彼は言った。

「いつからだろう。私達は、こうやって生きていく事しか出来なくなったのは」

 身体をくねらせて、ベッドで足を組む彼は、まるで妖艶な美女にしか見えない。

「君は“処女”なんだね」

 と突然、彼が言った。

 オレは、訝しげな眼差しを返す。

「そして、私達は“娼婦”。そういうものなんじゃないなあ」

 と、楽しそうな表情を浮かべる。

「そう、君はその処女性を守っていって欲しいな。それは私からの願い。こんな所に、迷い込んで、純潔を失ってはいけないからねえ」

「……はあ」

 何と返していいか分からない。

 レイアだったら、何て答えるのだろうか。ひょっとして、単に馬鹿にするだけかもしれない。まあいい。

 それにしても、この部屋は木漏れ日が気持ちいい。

 それから、出された料理も悪くない。

 スープの味付け方、サラダの刻み方、揚げたパン。

 外の世界から煙たがられて、嫌われていたアイス・エイジの家庭料理の一つらしい。おいしいと思う。温かいとも思う。……。

 ボニヴァールに、今、探している者達の写真を見せた。

 アヌビスにデス・ウィング、ウォーター・ハウス。

 それから、脱獄中の四名の能力者。

「このアヌビスっていうの……」

「なんだ?」

「多分、私の能力と酷似するものなんじゃないかなあって。規模は桁違いだろうけど」

 オレは思わず、疑問符を頭の中に思い浮かべた。

 しかし、それ以上、彼は答えてくれなかった。

 能力を教えたくないのか、それともオレをからかっているのか。

 どちらにせよ、何だかこれ以上、質問するのが馬鹿らしくなった。

 本当に、こいつは食えない奴だ。

「しかし、此処でゆっくりしていかないかい?」

 彼は訊ねる。

 オレは首を横に振った。冗談じゃない。こんなところ、感覚的にオレには合わない。大体、アイス・エイジにもオレは言って、そこで男娼などの巣を見て、吐き気を覚えたほどだ。

 しかし、今は強烈な嫌悪感も特に無い。

 何か、異邦境とでも呼ぶような場所に迷い込んだようなこの世界。此処は、奇妙だし、ズレてこそいるが、妖精の庭園にも似ている。あの次元砂漠のような感じは、余りしない。

 しかし、彼らはやはり、あの砂漠の住民なのだろう。

「アイス・エイジは滅んでないんだな」

 オレは訊ねた。

「ああ、うん、滅んでないよ。女帝が亡くなった後も、あの世界が無くなった後も、私達はこうやって生き続ける。此処ももうすぐ、いられなくなるかもしれない。でも、私達は両性具有者達の庭園を守って、この世界の何処かに居続けるとするよ」

 次元砂漠アイス・エイジは。

 青い悪魔ブラッド・フォースに滅ぼされた。

 何百万名もいた住民は、完璧なまでに、青い悪魔の『クラシック・ホラー』の手によって。

 その事に関して、彼は青い悪魔を恨んでいるのだろうか。

 故郷ごと、消滅させられたのだ。

 みな、沢山、死んでいった。

 ボニヴァールは、やはり何処か寂しそうだった。

「いつまで生きられるか分からないよ」

 唐突に会話が変わった。会ってからそうだ、彼との会話は何処かズレている。まるでお互い、思い思いに喋って、コミュニケーションを取って、噛み合わないからこそ、成立しているような。

「いつまで生きられる?」

「両性具有は神の性別なんじゃないかって思ってさ。それで、神は不死なんじゃないのかって。でも、私もいつか死ぬんだろうね、あの滅びた世界みたいに。それでも」

「それでも?」

「私達は彷徨いながら、生き続けるんだろうね」

 滅びる種族に似た。

 彼の顔は、何だか切ない。そして、ガラス細工のように脆そうな。

 どちらが、美しいのかオレには分からない。

 ボニヴァールは理解しているかどうか、オレはただのナルシストだという事に。ゆえに、他人の承認なんていらない。オレは自分の容姿に自信がある。それには他人の認可なんていらない。他人に綺麗だとか可愛いとか美しいとか思われたくて、自分の容姿を磨いたり、自信を持っているわけじゃない。

「オレはそろそろ、行くよ。アサイラム関連の情報を集めないと」

「そうかい」

 ボニヴァールは、寂しげだった。けれども笑った。

「もう会えないかもしれない、だから、寂しいかなって。君とはもう少し、何か話したかったけれども。……でも、話さない方がよりよいのかも」

「また、会うかもしれないだろう?」

「いや、明日には不慮の事故で死ぬかもしれないよ? お互いに、出会いと別れはすぐに訪れる。生きている者達は、みんなそうだよ」

 意味深な事を言っているが、きっと意味なんて無いのだろう。

 きっと、オレ達が会った事に意味なんてなくて。

 お互いの生き方が余りにもズレている故に、更に、お互いの運命の導きは、決して交差しないのだろう。

 そうやって、オレとボニヴァールは別れた。

 

 

 携帯電話のコール音を聞いて、画面を見る。

 オレは驚きを隠せなかった。

 それは、ウォーター・ハウスからだった。

 オレはすぐに携帯のボタンを押した。

「……ウォーター・ハウス、なのか……?」

 オレの手は少し震えている。

「ああ、そうだ。元気しているか?」

 オレは息を呑む。

「お陰様でな。お前は何をやっている? 今、何処にいる? そして、何の目的でオレに連絡した?」

「俺がお前に連絡しては行けない理由なんてあるのか? まあ、俺は元気にやっている。お前の方は何をしているんだ?」

「お前がチェラブを殺したせいで、アサイラムから脱走者が出た。お前の目論見どおりな。いや、お前の計算ではアサイラム自体が壊れる予定だったのか? なら、失敗だな。アサイラムの囚人は大体、おとなしくしているよ。映画の『ナチュラル・ボーン・キラーズ』みたいに、囚人皆が暴動を起こしたりはしていない。アンブロシーも気鬱に見えるが、元気にしている。オレはケルベロスと一緒に脱走した囚人を捕まえる予定だ。その中には、勿論、お前の名もある」

「ああ、そうか。それはよかった」

 こいつは……。オレは怒りが込み上げてきて、携帯を投げ付けそうになったが。その衝動を押さえ込む。

「処で、デス・ウィングには会ったそうだな? 彼女ももしかして、まだ捕縛予定なのか?」

「……ああ」

「なら、アヌビスもだな? アヌビスの情報をやろうと思って電話した」

 こいつは何を企んでいる?

「アヌビスは今、カルマ・タワーに住んでいる。カルマ・タワーは裏・新宿界隈の海上にある筈だ。ケルベロスなら知っているだろう。カルマ・タワーの最下層に、おそらく、アヌビスはいる。だが、気をつけろ」

「何故、それを教える……?」

「おいおい、何故って、友人だろう?」

 オレは頭が痛くなった。怒るべきか、笑うべきか。

「お前は……、まだ友人だと言うのか?」

「俺はお前と敵対したつもりはないぞ?」

 ウォーター・ハウスは、本当に不思議そうな声で言った。

「オレはお前と敵対した筈だが?」

「俺は、お前と敵対したつもりは無い。それならば、アサイラムの時点でお前を殺している。俺はお前を殺す理由なんて無いんだぞ? だから、助けようと思って、情報を提供しているんだが」

 話が噛み合わない、此方の頭がおかしくなりそうだ。

「逆に聞くが、お前は何故、アサイラムやドーンに執着する? 俺と敵対する理由なんて、お前にあるのか?」

 それを言われて、言葉に詰まった。

「俺はアサイラムはこの世界の欺瞞の象徴だと思っている。だから、壊した。道を開けた。脱走した者がいるなら、道を開けてやればいい。残る奴は残せばいい。それだけの事じゃないのか?」

 反論したい。けれども、オレは返答の言葉が悔しいが思い浮かばない。

 被害者、被害者の家族。

 人間は他人の痛みを共有していると思い込んで、殺人者に憤る。

 オレは他人の痛みの共有を信じない。

 被害者に共感する事を信じていない。

「お前は、お前はこれから、どうするんだ? また、人殺しを続けるのか? 世界を壊すんだろう? ……」

 そう……。だから、止めるべきなんだ。

「いや、やはり止めにした。俺はこれから静かに生きようと思う。平穏に」

「……何だと……?」

「人を殺さないと言っている。いや、たまには殺すかもしれないが。大量殺戮とかはやらない、興味を無くした。これからは平穏に生きる事にする。なので、俺よりも現在進行形で危ない奴は幾らでもいる。そいつらを止めればいい」

「…………」

「てな、わけで話を戻すが」

「……優柔不断な自分が赦せない、お前は」

「……お前は優柔不断なわけじゃないさ。お前は自分でも気付いていないが、ニヒリストなんだ。けれども、ヒューマニズムに何処かで憧れている。でも、お前は俺や青い悪魔や死の翼と同じように、おそらくは此方側の人間だ。アンブロシーやハーデス、ケルベロスやルサールカの側じゃあない。よく考えろ。敢えて言うならば、普通の人間が狂気と呼ばれる概念の向こうに属しているんだ。あるいは、この世界の前提をまるで信用していないんだ。人を殺してはいけない、などのルールによってストッパーを掛けているだけだ、そんなものにお前は拘束されているからこそ、お前は不自由で……」

「黙れ」

 オレは心底低い声で、冷徹に言った。

「お前の話は聞きたくない」

「……、せっかくカルマ・タワーと、『地獄の世界』に関して、教えてやろうと思っていたのに……」

 オレは焦って、気付く。

 此処で、電話を切るのは愚行ではないかと思った。

 もしかしたら、彼からは何か情報が引き出せるかもしれない。

 それにあわよくば、彼の居場所を知れないかと。

 誘導尋問は得意じゃない、が。

「……分かった。聞く、教えてくれないか?」

 ウォーター・ハウスは露骨に溜め息を吐く。

「……まあいい、自分で考え抜いて結論は出せばいい。この世界は信用に値するかどうかを。話を戻すぞ、アヌビスはカルマ・タワーという場所にいる。かつて、『地獄の世界』と呼ばれた能力者が創り上げた監獄だった場所だ。地獄の世界は、俺がハーデスに敗北する前に殺した。アサイラムが出来る前は、カルマ・タワーという場所が主な、能力者収容所だったんだ。そこを見るべきだ。思うに、最初に俺達が結成した時、ハーデスは進めていたのだろうな。自身の跡継ぎ足るべき人間が現れるかどうかを……」

 ウォーター・ハウスはそうして、地獄の世界に関しての異様な話を、オレに教えてくれたのだった。

 それはとてつもなく、信じられない程に怖ろしい話だった。

 

 

 コロンゾンとは別行動を取っていた。

 やはり、私は一人が落ち着く。

 おそらく、フェンリルの甘名という奴が動き回っている。

 彼には何名か、強力な味方がいるみたいだ。

 アサイラムから逃亡した者のリストを見る。

 カコデーモン。アイレス。ライフライン。ディス・モーメント。

 いずれも、ランクはBやC。アイレスがBで他はC。

 そのうちの、アイレスが他の者達の逃亡を手助けしたらしい。

 私はそのアイレスの居場所を突き止めて、此処にいる。

 彼は高級料亭にいたので、私は彼の目の前に腰掛けた。

「私の名前はフレイム・タンと言うのですが、お前、先日、アサイラムから逃亡した、アイレスでしょう? 他の三名は何処にいる?」

「ライフラインはウォーター・ハウスに付いた。他の二人は知らない」

 神経質そうな男が和風ハンバーグ・ステーキに調味料を垂らしていた。

「そう? 処で、今から私はお前を始末したいのだけど」

 ナイフをハンバーグに切り入れる。

 そして、フォークを切り取った切れ端に刺した。

「このハンバーグ・ステーキ、食べるか? やっぱり、新鮮なものがいい。これ、ちょっと賞味期限が過ぎてやがる。ふざけてるぜ、この店」

「……、貴方は運が悪かっただけなのよ。理由なんて無い、強いて上げるなら、私の気分次第って事ね」

「マグロの活け造り、お願いします」

 ウェイトレスの女に、彼は新たな料理を注文する。

 しばらくして、まだ新鮮なマグロが出される。

 マグロは生きていた。よく見ると、切れ込みが入れられている。

「フレイム・タン。此処の店の活け造りはな。さばいてもなお、まだ少し生きている。料理人の腕がいいんだ」

 彼はマグロに箸を入れて、身を食べていった。

 私は貰ったハンバーグ・ステーキを食べる。美味い。

「賞味期限、切れてないじゃない」

「俺は新鮮じゃないと駄目なんだよ、肉は。女もだな。俺にとっては、もうそのハンバーグは、賞味期限切れなんだよ」

「ああそう。処で、食事が終わったら、貴方の頭をぶち抜いて差し上げますので、脳漿と頭蓋骨と毛髪のミックス・ジュースを作る予定なんで。最後の晩餐は楽しんでくださいね」

「お前は俺のタイプの女じゃないんだよ。お前は年齢一体、幾つなんだよ。俺より年上なんじゃないのか?」

「年齢は言えない」

 マグロはもう、骨ばかり見えたが、生きて動いていた。今にも飛び跳ねそうだ。

「フレイム・タン。お前、活け造りは好きか?」

「好きじゃない。私はナマモノは嫌いだ」

「そうか。残念だ。お前を活け造りにしようと思っているんだが」

「そう? 私は貴方をハンバーグ・ステーキにしてもいいんだが?」

 アイレスは食事が終わっていた。

 まだ、骨だけの魚が蠢いている。

 私は拳銃をアイレスの頭部に突き付けて。

 アイレスの方は、握ったナイフを私の心臓付近へ向けていた。

 一触即発。

「お前もこのマグロのようにしてやろうか? 俺の能力『サイコ・ソーシャル』は、人間をバラバラにしようが、ぐちゃぐちゃにしようが生かし続ける。俺が能力を解除するまでな。死にたくても死ねない苦痛を与え続けてやるよ」

「やればいいじゃない? その前に、お前の頭蓋が吹き飛ぶ、最初の一撃が当たらなきゃ、どんな能力も意味が無いぞ?」

 アイレスは沈黙した。

「……OK。こんなのはどうだ? 取引しよう。俺はお前の仲間になる。何かお前の仕事を手伝ってやる……」

「いいや。お前の死体からお前の血を抜いて、お前の能力を“借りる”とする。だから、まずお前には死んで貰わないと」

 再び、数秒の沈黙。

「……俺は自分自身を活け造りに出来る。だから、少しの間、俺は不死身だ。お前が俺の脳味噌をぶっ飛ばした後も、俺は自身の身体を動かして、お前を殺す事が出来るんだぜ?」

「私も不死身の能力があるから意味が無いぞ?」

「……分かった。おとなしくアサイラムに戻る。お前、ドーンのバウンティ・ハンターなんだろう?」

「私も賞金首だ。今、ハンター狩りも行っている」

「OK、それ手伝う。頼むから銃を降ろしてくれよ」

「その前にナイフを降ろせ」

 彼は、ナイフを降ろした。

「まず、私が銃を降ろした瞬間に、私を攻撃しようと思うなよ? お前の能力は、他に何か出来るかもしれない。約束出来るか?」

「……約束する」

 私は銃を下ろした。

 十数秒、時間が経過する。

 アイレスは、ポケットからハンカチを取り出して汗を拭う。

 私はウェイトレスにお茶を二つ注文した。

「宜しく、アイレス。お前は私を裏切らなかった。お前は信用出来る。気が変わった。仲間になろう」

 アイレスは呆けたような顔をする。

 それから、一分。

「……ああ、俺は小心なんだよ。お前の隙を付いて、殺す事も考えたが、成功しない気がした。なら、命乞いするしかねえじゃねえか……」

 彼は小便がしたいんだが、便所に言っていいかと告げた。私は構わないと答えた。もう、精神的に私の勝ちだったので、彼が逃げたり、何かしようなんて考える事は出来ないだろうと思った。

 アイレス。能力の名はサイコ・ソーシャル。

 若い女を解体した後、生かし続けた猟奇殺人犯だ。

 アサイラムで投薬治療を受けていたが、女を解体したいという欲望をついに消せなかった。出される薬も増え続けて、廃人寸前のまま鬱病を発症して寝込んでいた所を、ウォーター・ハウスの騒動があり、その際、他の能力者を必死で唆して、アサイラムを脱出したらしい。

 私はアイレスのアジトに案内された。

 そして、彼のお気に入りの部屋の中を見せて貰った。

 案の定、細切れにされたり、磨り潰されたり、吊るされたり、何かと一緒に縫い付けられたり、開きにされた女達が生きたまま飾られていた。部屋中は、涙やら涎やら血やら、様々な体液で濡れていた。

 彼女達は私に口々に哀願の悲鳴を上げていたが、私はそれらを無視し続けた。

「ああ、いい趣味しているわね。私も飾ります?」

「お前は絶対に嫌だよ。本当に願い下げだ。この通りだから、止めてくれ」

「ねえ、アイレス。こいつらの口縫ったらどう? 煩くて仕方が無いわ」

「俺にとっては音楽なんだよ」

「ちなみに、彼女達と夜の営みってやりますの?」

「ああ。とても嫌がるけど……」

 泣き声が、ぎゃんぎゃんぎゃんぎゃん喧しい。

「しかし、貴方って分かりやすいサイコパスですよね。もう貴方みたいなのは、私の故郷にもよくいましたよ」

 彼は、飲み物は何がいいかと訊ねた。私は紅茶が欲しいと言ったので、彼は私の好物のアール・グレイを淹れてくれた。

「紅茶が美味しい。淹れるのとても上手なんですね。やはり仲間にしてよかったわ。あっ、さっき、アーモンド・クッキー、買ってきたんですよ。貴方も食べます?」

「俺はお前の神経が理解出来ない。お前、……頭、おかしいよ……、サイコパスはお前だろう……」

 痩せて青白い顔の男は、ずずっと紅茶を口に注いだ。

 アイレスはDVDの電源を入れた。

 入っていたのは、オペラ座の怪人だ。

「この映画、好きなんだ。主人公を自分と重ねてしまう。俺は女に愛されなかった。女を切り刻む時、この映画のサウンド・トラックをよく流す。ああ、煙草吸っていいか?」

「どうぞ」

 それにしても、ふかふかのソファーだ。居心地がいいんで、このまま寝てしまいそうだった。

「……もう、私の故郷は無いのよね」

「故郷?」

「ええ、アイス・エイジって知っています?」

「あ、あのアイス・エイジか」

 次元のゴミ捨て場。フリークスの溜まり場。汚物入れ。

 それが私の故郷だった。

 様々なゴミがそこに捨てられた。

「アサイラムは酷い場所だった。俺は部屋の中でずっと幻覚を見続けた。いっそ、殺してくれって思ったよ。アンブロシーが本当に憎かった。職員もな。張り付けた笑顔、畜生……」

 映画のクライマックスに差し掛かる。

 その時、アイレスは涙を流していた。

「女を殺さずにいられるなら、よかった。俺は惨めだ。俺は俺のサディズムを、歪んだ欲望を無くせない……」

「甘えるな」

 私はテレビのコンセントを引き抜いた。

 数分の沈黙。彼は俯いていた。

「貴方、殺人鬼なんでしょう? 反社会性人格なんでしょう? ならそれに胸を張れ。赦されたいと願わない事ですよ。それが被害者に対する敬意では? 貴方は受け入れるべきなんですよ。被害者に憎悪、嫌悪される事を。この世界、社会から悪意を持たれる事を」

 そう言いながら、私は寝転がって、置いてあった漫画本を読んでいた。

「あんたは、強いんだな……。あんたは、俺を嫌悪しないのか」

「貴方みたいなのは、もう嫌に成る程、見ましたから。まあ、みんな大体、育った環境とかを言い訳にして、最後には神や救済や善とかについて考えていましたよ。笑える事に、聖書や十字架に祈っている者も多かった。子供に薬物売り捌いて、幼児虐殺とか、強姦致死とかした後に、神様に祈ってましたからね」

「……俺でも子供は殺せない。女はどんな酷い目に合わせても楽しいだけだが、子供は無理なんだ。不思議とさ。俺は女の邪悪さ、醜悪さを潰したいのかもな、でも、子供は無邪気なんだ。子供ならではの残酷さってのもあるだろうが、あの視線。あの眼を見れば、殺すのなんて無理だったな」

 アイレスは煙草を吸い続ける。

 先ほどから同じ煙草だ。

 一向に吸い終わらず、もう一時間以上も同じ煙草を吸い続けている。

 煙を噴出し続けて、まるで短くならない煙草。

 私は彼の能力を理解した。

“何かを死ねなくする能力”だ。

 人間のみだけではなく、たとえば彼が吸い続けている煙草もまた、死ねなくなっているらしい。

 そういえば、コンセントを苛立ちで抜いた筈なのに、テレビは映り続けて、今はクライマックス・シーンの後のエンドロールが流れ始めている。

「ドストエフスキーは読みます?」

「……、小説は駄目だな」

「小さな子供ってのは天使みたいなものですよ。『悪霊』のスタヴローギンが罪悪感と鬱に苛まれるきっかけになったのは幼女強姦。『カラマーゾフの兄弟』のイワンが自身の詩である大審問官物語の中で、小さな子供が虐待されるような世界は滅びればいいと言っている。小さな子供ってのは、おそらくは触れられない神と同義だ。問題は、子供自身以上に、子供を見る側の人間が子供に神の影を見る。この世界の何もかもを理解していない無垢さ。何でしょうね? 大人ってそういうのを守りたいっていうのと壊したいっていう感情を相反させながら、触れていると思うんですよ。だからこそ、悲劇はあり続ける。幼い者達を、教育、矯正、管理したがる巨大なシステム。そういうものを閉じ込めたがるシステムってあると思うんですよ」

 私の話に、男は何とも言えないような反応をしていた。

「殺人事件の犯人って、みんなから愛されてなかったと思うんですよ。だから、分かって欲しくて、この世界に分かって欲しくて、殺すんです。それはきっと、子供の頃の傷を塞ぐような行為なのかもしれませんね。きっと、みんなに愛されたくても、愛して貰えないから、みんなを憎んでいるんでしょうね。でも、だからこそ、そういう殺人犯とかって、愛くるしいと思うんですよ」

 男はどうやら、私の話を熱心に聞いているみたいだった。

 私は優しく笑う。

「世界は監獄なんです。人間は人間を檻の中へと閉じ込めている。欲望の形、人格、何もかもが矯正される。私は檻を壊したい。それを、今度の事件、アサイラム襲撃の犯人である男も言っていたんですよね?」

 満面の笑顔で訊ねる。

「ああ……」

「貴方も彼に共感している、違いますか」

「ああ、……その通りだ」

 それを聞いて、彼も何か思う事があったのだろうか。

 何かを、思い出しているかのようだった。

 何を思い出しているのだろう。

 きっと、昔の事なのだろう。

「アサイラムを破壊しようとした、ウォーター・ハウスっていう奴にこれから会ってみたい。もしかしたら、私と近しい考えを持っているのかもしれない」

 しばらく、男は無言のままでいた。

 そして、彼の頬には一筋の涙が流れ落ちる。

 きっと、彼は何かを押し殺していたのだろう。

 何だか分からないが、私の話に、何かの感銘を受けたみたいだった。

「俺も……、幼い頃、色々会ったんだよ。今みたいな話しをしてくれるような、そんな人間に出会っていれば」

 彼は何か、言葉を紡ごうとしていたが、どうしても喉まで出掛かっても、話せないみたいだった。

 そして、そのまま嗚咽を漏らす。

「何で、俺は……子供の頃、妹の大切にしていた、犬を殺したんだろう? ……なあ、何で、父さんや母さんは妹だけを大切にしたのかなあ?」

 その口調は、何だか幼児のそれに戻っていた。

「きっと、貴方の心が綺麗だったからですよ。だから、それを汚したかったんです、妹と違って、貴方は綺麗過ぎたから、親は貴方を壊したかったんじゃないですかね?」

 アイレスは、奥の部屋へと向かって。しばらくすると戻ってきた。

 全ての重荷を捨て去った、晴れやかな笑顔をしていた。

「解体した女を全員、死なせてやった。もう、俺は女を殺さない。俺は、お前に救われたんだ」

 彼の眼からは、憂いや悲しみが掻き消えていた。

 私は拳銃を取り出して、彼の額に突き付ける。

「で、ちゃんと私が殺して欲しい相手は殺しますよね?」

「……、今すぐ俺を殺してくれ。俺は地獄に落ちたいんだ……、もうアサイラムの偽りの天国なんてごめんだよ」

「……、私は、実はずっと罪悪感に苛まれていたという奴が大嫌いなんですよ。そんなに苦しみたいのなら、貴方はずっとこれからも人を殺し続けてやってください」

 私は彼の額に、思いっ切り、拳銃のグリップを叩き付けて、彼を昏倒させた。

 そして、何度も何度も、気絶したこの男の額に蹴りを入れ続ける。

 反吐が出る。

 

 

 動物や昆虫は好きだったので、人間が犬猫や羽虫に思う事は無かった。

 しかし、自分以外の人間は人形や機械のようにも思えた。

 始めて彼を見た時、直感があった。

 自分の言葉を聞いてくれるのではないかと。

「瞬間移動の能力者……か」

 檻のようなものがある。というのはおそらくは幼い頃からの感覚だった。

 何か間違いなく、自身を繋ぎ止めようとする鎖。

 それが世界中に浮いているように見えた。

 酸素、いや、細菌のようなものだろうか。無色透明な鎖だ。

 そんなものに覆われているような観念の元、生きてきた。

 幼少の頃、ふと疑問に襲われた。激しい疑問だ。

 自分は他人と言葉を交わす、ほんの一瞬、一瞬、分かち合えた気持ちになる。しかし、それがすぐに崩壊してしまう場合がある。感覚、考え、生き方。ズレだ。

 何故、他人は遠くなっていくのだろうか、だ。

 他人は掴み取れない。仲良くなった瞬間に、何処かへと消えていってしまいそうだ。

 だからなのか。

 もし、この手で壊したら、それは永遠に自分が壊したという結果の元、そいつは何処にも行けなくなる。

「俺は昔、友人を殺したのは。最初の人殺しをしたのは、そいつが変わる事を怖れたからか……」

自分のイメージでは、人間でない何者かに変質していきたいという考えはあった。

 人間の肉体を変質させるのは、未知の何かだ。

 叶ってしまった。

 彼は自分の手で。自分自身の肉体を強化し、改造を施した。

 生物の生態系を外れて、人で無い、何者かへと変貌するという事。

 この世界は多次元の空間が繋がっている。それを飛び越える事が出来る力を所有している瞬間移動能力者というものは、実は余り、存在しない。

 だからこそ、きっと彼はこの世界の構造そのものを覆す程の可能性を持っている。

 少なくとも、ウォーター・ハウスはそう信じていた。

 ……世界の外側に回り込める能力者か。

 最初、彼と会った時に感じた直感は確かなものだった。

 長年、ウォーター・ハウスが疑問に抱えていた事を、あの能力者は答えてくれるのかもしれない。

 ウォーター・ハウスにとって、“殺人”とは楔を断ち切る事だった。

 世界との関係性、可能性の切断。

 人を殺すという事は、その人間の歴史を終わらせるという事だ。

 そいつが培ってきた人生、そいつが影響されたもの、そいつが影響を与えるもの、勿論、そいつの死によって作られる、影響……歴史が始まってしまうのだが、少なくとも、そいつ自身の持つ人生の中での未来の可能性は閉じてしまう。

 そいつが変化するという事は消滅してしまう。

 ……所詮は只の独占欲に過ぎないのかもしれない。

「確かに俺は幼稚なだけなのかもしれないな」

 否定はしまい。

 いや、むしろ自分は永遠に変われない、成長の出来ない子供なのかもしれない。

 大人になるという事。変わる事を許容するという事。

 自らの意志ではなく、周囲の意志に従うという事。

 それらを拒み、憎み続けたのだろうか。

 それから、逃走し、生きたかったのか。

 あの瞬間移動能力者が彼の事を嫌うのは、縛られているからだろう。

 ウォーター・ハウスは知っている。世界は楔なのだと。

 人間は自らという楔に拘束されている。関係性という楔によって拘束されている。

 人間は他人を嫌いになる。人間は他人を好きになる。

 どちらもどれ程の価値や意味があるというのだろうか?

 自身は何者にもなれない。

 ひょっとすると、この思考すらも、所詮派別の物から与えられた物に過ぎず、他人と関係性、世界との関係性において形作られてしまっただけだという代物。

 そう。

 人間は環境、生い立ちによって、変えられ続ける。

 全てが檻であり、鎖だ。

 どうすれば、それを振り解く事が出来るのか。

 そればかりを、人生において考えていた。

 自由の可能性。

 今回の件は気紛れだ。

“彼女達”を集めなくても、彼は一人でも戦える自信はあった。

 だが、彼女達の可能性を試してみたい。

 たとえば、アサイラムは囚人達に自由を与えて拘束した。

 では、自分もまた、彼女達に不自由な自由を与えて拘束してみてはどうだろうかと。

 ……。

「お前達は好きな時に俺の元から逃げ出せばいい」

 彼が三姉妹と名付けた、三人の女に告げた。

 しかし、ウォーター・ハウスは知っている。彼が決して、何の手出しもしなくとも、彼女達三人は彼の元から逃げ出す事など出来ない事を。

 それは恐怖なのだろうか。

 彼が作ったのは“壁”だ。彼女達に抜け出せない壁を作った。

 それは、意識の壁、というべきか。ある意味で言えば、アサイラムみたいな檻のようなものだ。檻や牢獄に閉じ込めこそしていないが、彼女達は確かにその見えない壁に阻まれており、意識的なレベルで、そこから抜け出す事が出来ないのではないか。

 その中から、彼女達三名はどのような結論を導き出すのだろうか。

 彼には、それが酷く興味があった。

 彼女達三名は能力者の素質があった。彼は、それぞれ彼女達にアプローチを仕掛けて、彼女達の潜在的な才能を引き出して、彼女達の能力を呼び覚ました。

 それぞれ、イリウス、モナルコス、ホーイリスと言うらしい。

 イリス、モニカ、ホーリィと略して呼んでいる。

 イリスとホーリィは屋敷の女中を。モニカには門番をやってもらう事にした。

 門番がどういう仕事なのか、モニカはよく分かっていないようだが。

 とにかく、彼女には門番をして貰う事にした。

 今、アサイラムのチェラブを殺した指名手配犯として、ウォーター・ハウスは追われている。彼を追っている能力者は数多くいるらしい。

 この三名は、いずれ彼の元に辿り着くであろう能力者に対しての保険として連れて行く事にした。

 あるいは、フェンリルが彼の元へと辿り着くのかもしれない。

「もっと弾丸がいるな。まだまだ駄目だ」

 フェンリルの眼を覚えている。

 彼に対する凍えるような、憎悪の眼。

 ひょっとすると、彼の『エリクサー』程度では攻略されてしまいかねない。

 ウォーター・ハウスは、三人の女に言った。

「これから、一週間、俺はお前らに干渉しない。本当だ。だから、お前らはこの場所から逃げてもいいし、そこに地図が置かれているから、安全な道を辿って下山すればいい。それから、奥の倉庫に適当な骨董品や貴金属の類と、多少の金が置かれている。それを奪って逃げればいい。一週間、好きなようにしろ。俺は一週間ほど、この部屋とバストイレを行き来するだけだ。お前らが目の前で屋敷を出ても干渉しない」

 と、暴君は語った。

 三人共、何だかどう返答すればいいか分からないといったような顔をしていた。

 ただ、みな、酷い不安に襲われているのだけは分かる。

 

 


第二章 地獄の世界 2

 甘名から、ウォーター・ハウスの件を聞かされたのは昨日の事だった。

 彼女は鏡の向こう側の世界で思考していた。

 アサイラムが何なのかを。

 甘名は、アサイラムについての見解を深く考えてないようだが、彼女は考えていた。

 甘名の敵は自分の敵、という考えも持ちたくないが、何だか、彼の不快さと憎しみが手に取るように分かった。

 それはきっと。

 彼女自身が嫌いな相手に対する感情そのもの。

「ウォーター・ハウスは何て言っていたの?」

「さあな、オレには分からない。オレに奴の話なんて理解出来るわけがない」

「思い出して。彼は何を言っていた?」

 甘名は十分間くらい、その時の状況を思考して、一つ一つ思い出していく。

 そして、出来る限り、ウォーター・ハウスという男の言っていた事を彼女に伝えた。

「人間は人間らしさの中に拘束されているか。……」

「なるほど、確かに人間はそれ自体が牢獄ね」

 レイアはふんと溜め息を吐く。

 レイアは考えていた。能力者とは何なのかを。

「ウォーター・ハウスとかいう男がアサイラムを壊したいと考えた事には理由がある筈。そして、彼は何故、甘名を気に入るのか……?」

 ひょっとすると、甘名に自分自身を投影しているのか? という発想にはすぐに行き着くのだが、それだけではないのかもしれない。

 彼女は考える。誰も彼女の元へと辿り着く事が出来ないように。

 触れられたくない、というのは強い衝動だ。

 ウォーター・ハウスを知る為には、アサイラムを知るべきかもしれないという結論に達した。

 レイアはアサイラムとは、つまり何なのかを調べる事に決めた。

 レイアは檻と呼んでいる概念を、ウォーター・ハウスも近しい事で言っていた。

 これは、彼女の思索と同じものか、あるいは類似する思考の仕方なのかもしれない。

 アサイラムは監獄だ。

 監獄なのに、最大限の人権が保証されていた。

 レイアは、甘名に黙って、アサイラムに潜入する事を考えた。

 この世界を拘束する象徴。何故、彼がそれを破壊しようとしたのか。

 この世界を縛り付けるルール。

 むしろ。

 能力者とは一体、何なのかを。

 今、『例の部屋』の中にいる。

 何処にでも在り、何処にも無い場所に設置された甘名とレイアだけが行ける2LDK程度の広さの部屋だ。

 ブラッド・フォースとハーデスが戦う前日、レイアは甘名に黙って、ひっそりと、この部屋とアサイラムの和室の次元を固定したのだった。

 先ほど、甘名が鏡に呼び掛けた為、レイアは此方側の世界へと来れる扉は開かれた。

 部屋の中で、一人、レイアは洋服箪笥を開ける。

 中には膨大な量の服が詰め込まれていた。まるで、小宇宙のようだ。

 森のような、服の中を掻き分けていくと、一個の箱が置かれている。

 彼女はその箱を開いた。

 箱の底は、甘名がハーデスと戦った和室へと繋がっていた。

 彼女はその中へと降りる。

 彼女は自身の能力である、エタン・ローズ・リュミエールを発動させた。

 彼女の能力である、リュミエールは、対象の認識の裏側へと回り込む事が出来る。

 レイアは今、この世界の何処にも存在していないし、存在し得ない。

 只、別次元と重なり合うかのように、幽霊のようにレイアは存在している。

 この能力により、水月やブラッド・フォースと対等近くに渡り合えたのだった。

 もし、誰かがレイアを視認したとしても、すぐにレイアが存在していたという事実は消し飛ばす事が出来る。勿論、無敵の能力ではない。無差別に攻撃を受け続ければ、いつかは命中するし、特に、ブラッドや水月のような相手だと、本人の認識の外側にも攻撃を及ぼすだけの力があるので、もう一つの“実力差を埋める能力、エクスターズ・ワールド”で避けるしかなかった。

 何はともあれ、これで、レイアを認識出来る相手は、今、アサイラムにはいない。

 レイアには、甘名のような瞬間移動や空間把握能力が無い為、彼に事前に聞いた情報を辿って、目的の場所へと向かうしかなかった。

 目的の場所。

 彼女は、パソコンのデスクに向かう男の後ろに立っていた。

「貴方が対能力者研究のブエルね」

 レイアは、男に自身を認識させる為、声を掛けた。

 男は振り向かずに呟く。

「ああ、君は何者でも僕にとってはどうでもいい。何にしろ、理由は一つなんだろう? このアサイラムは何なのか?」

「ええ……、私はそれを調べに来た」

「何故、重犯罪者である能力者達を生かして、なおかつ最大限の人権を与えたのか。それは、能力者の持つ潜在的なもの、それが『神』なる何かに繋がっているからと考えたのだろう。少なくとも、僕はそういう結論に達した」

 アサイラムの事前情報は甘名から聞いている。

 何かあるな、とレイア自身も考えていた処だ。

「さて、ウォーター・ハウスのせいで。能力者達の能力を封印していたチェラブが死に、ハーデスは狂乱してブラッド・フォースに殺された。チェラブに次ぐ、能力者の能力封印の実力者としてのミューズも死んだ。これから、アサイラムはどうなるのだろうね。今の処は、何名か脱走者が出ただけで、殆どの囚人達は平穏に暮らしている」

「興味が無いわ」

「さて、この施設。何かもっと秘密があるとは思わないのかい?」

「貴方はそれを探しているの?」

「……、ああ……。見つかった」

 と思い出したように。

 ブエルは振り向いた。

 レイアと眼が合う。

 白いカットソーの上に、黒いカーディガン。

 そして、真っ黒なロングスカート。

 肌は雪のように、あるいはミルクのように白かった。

 眼の色は赤だ。炎のようでもあり血液にも似ている。

 髪の毛は、淡い黄緑。角度次第では、所々が金や銀にも見える。梳いたロングボブの髪。

 ブエルは、不可思議そうに彼女を見つめていた。

「君は、何者だ……? 人間には見えないし、只の能力者にも見えないのだけれども」

 人間には見えないと、彼は口にして、では人間ではないものとは一体、何なのか、という疑問が湧いて、自身の発言に疑問を抱く。

「この世界では、どうやら私は精神エネルギー体と呼ばれるものらしい。詳しくは私自身にも分からない」

 どうやら、彼女は彼のやっている事を大まかには理解しているように思えた。

 だから、彼は回りくどい話はやめて、簡潔に言った。

「そうか。もし、よかったら。このプログラムの中に侵入してくれないか? 人間の意識の奥深くへと接続されている。これは能力者の脳の深海へと潜り込めるプログラムで、僕が開発したものだ」

「誰の脳なの?」

「先日、ウォーター・ハウスに殺されたチェラブの物だ。ウイルスでぐちゃぐちゃだったが、何とか脳の一部を培養液に付けて、生かしている。もっとも、これが生きているという状態とは程遠いけれどもね。実を言うと、チェラブの能力『サイレント・クォーク』を取り出して、アサイラム中に再び封印の結界を張り巡らせる任務を、僕は署長のアンブロシーから承っているのさ。あの署長、二面性があるからね。本音の部分では、犯罪者が改心するなんて信じていないんだろうね」

「貴方はそれに成功したの?」

「まさか。けれども、思わぬものを、チェラブの脳組織の中から見つけ出す事が出来た」

 パソコンの画面の中には妙な物が映し出される。

 最初、バラバラな図形、幾何学模様だったものが、次第に収束していって、それは脳の形を取っていた。その大部分は、薄いグレーに覆われていたが、小さく真っ赤に塗られた部分が存在する。

 右脳と左脳の中間の部分だ。

「この赤い部分。この赤い部分のデータの解析をしている。おそらくは、未知のブラック・ボックスになっている部分だ。これは、別に元副署長のチェラブのみにあった現象ではなくて、おそらくは能力者中の脳内にある」

 かちゃかちゃと、彼はデスクトップに映った脳の一部を拡大化していく。

「そして、僕はハーデスという老人の死について考察している。ハーデスは何故、青い悪魔に挑んだのかを。彼が青い悪魔と戦うにおいて、勝算はあったのだろうか? 僕には彼の長年の経験からして、愚考に及んだとは考えないと思っている。だから、何かあるのだろうと。すると、やはり見つかった。おそらくは、彼は自身の能力を見限っていたのではないかと思う。……そして、なおかつ世界に何かを齎そうと。むしろ、それは一般的に正義と呼ばれるものなのかもしれない。人間に悲しみを作らない。戦争を引き起こさない。平和を望み、創造を望み、負の要素を排除していく。そういった人間になりたく、そういった能力を、本当はハーデスは持ちたかったのかもしれないね」

 レイアは露骨に鼻を鳴らす。

「もしそれが本当なら、とんだ欺瞞ね」

 小馬鹿にしているようだった。

「とにかく、彼は建設的な事をしたかったんだよ」

 脳の映像が映ったファイルを閉じる。

「アサイラムで、囚人が死ぬと。遺体の脳の解析が行われる。そうすると、必ず普通の人間の脳よりも、解析が取れない部分が生じてくるんだ。コンピューターで脳のデータを読みきれない部分」

 ブエルは、デスクトップのアイコンの一つを開く。

 すると、此処、ネオ・アーカム・アサイラムを象ったような小さな建造物のドット絵が現れた。

「この建造物はプログラムなんだけれども。通称『紅いブラック・ボックス』と僕は名付けている。この中にアサイラムで死んだ犯罪者、職員達の脳のブラック・ボックスを詰め込んで凝縮している、そして、僕は君に提案がある」

「何?」

「君は精神エネルギー体なんだろう? もしかしたら、君はこの赤いブラック・ボックス

の中に侵入する事が出来るのかもしれない。君自身が自分をコンピューター・ウイルスの

ように思い浮かべるんだ」

 レイアは鼻で笑った。

「馬鹿じゃないの? そんな事、出来るわけないじゃない?」

「いや、処が。可能かもしれないんだよ」

 ブエルは手元に置かれていた、リモコンのスイッチを押す。

 すると、部屋の一部が開かれて、衣類を試着する為の、フィッティング・ルームのよう

な物が現れた。

「この中に既に二名の被験者が入ったが。数十分後に、二名とも発狂して、数日間、昏睡状態になった後、死亡したよ。実験には優等生的な囚人が進んで協力してくれた。よければ、君がこの中に入ってくれないか? 生身の肉体だったから、耐えられなかったのかもしれない。精神エネルギーの君なら、もしかすると違った結果を生み出すのかもしれない」

 レイアは呆れたような顔をする。

「わざわざ、危険な物を何の得も無いのに、私が行うと思うの?」

「そうだね。確かに、それもそうだ。でも、君は興味があるんだろう? このアサイラムに。なら、協力してみるのも手じゃないのかい? 一体、能力者の意識の底は、どうなっているのか、興味が湧かないかい? あの赤い部分、きっと能力者達の持つ、集合的無意識に繋がっているんじゃないかって、僕は思っているんだ」

 レイアは踵を返した。

「馬鹿馬鹿しいわ。付き合いきれない」

「僕はどっちでもいいよ。このまま、研究を続ける。明日も人体実験の予定なんだけれども」

「そう……」

 レイアはルームの中に入ると、ヘッドセットを頭に装着した。

 肉体が別の物質へと変換されていくイメージ。

 何処か別の場所。異世界へと転送させられる感覚。

 

 

 ウォーター・ハウスが携帯電話にて、一時間以上使って聞かせてくれた話だ。

 地獄の世界という能力者がいた。

 それは、アサイラムが誕生する前に、能力者の収容施設を作り出していた者だ。

 能力者の犯罪を最大限に止めるように、暴力に対して暴力を持って答えるように。

 そして、暴力の行き着く先を体現したような能力なのだと。

 この世界の秩序を作り出しているのは何か。

 それは突き詰めていくと『神』ではないのかと。

 

『神』の裏側の存在として、あるいは保管行為として。

『地獄』という概念が存在しているのではないのかと。

 

 そして。「地獄の世界」という能力者は、アヌビスという怪物に墓守を託して、この世界から消えた。

 地獄の世界を殺したのは、他でもないウォーター・ハウスだった。

 アサイラムを破壊したように、地獄の世界も、欺瞞の象徴だと考えて。

 ウォーター・ハウスは、地獄の世界という能力者を。

“暴君”の時代に殺害したのだった。

 カルマ・タワーは、そうやってこの世界からその機能を停止させた。

 さて。

 今回のAランク狩り。

 カルネイジ、アヌビス、デス・ウィング。

 この三つは、重要な位置にあるとウォーター・ハウスは言う。

 この三つは、重要な流れにあると。

 勿論、他の賞金首狩りも同時に行ったのだが、それはある種のオマケ、実力試しみたいなもので。本当は、この三つこそが流れとしてあるのだと。

 それは何か、と訊ねると。彼は不敵な笑みを浮かべて笑った。

「ハーデスは、アサイラムを託せる人間が欲しかったんだろうな。俺か、ケルベロスか、ルサールカか。それとも、新入りのお前か、奴は寿命のまま死ぬ。だから、それまでに後継者が欲しかったのだろう、まあ、お前は俺が勝手に巻き込んだだけかもしれないが」

 カルマ・タワーに行くしかなかった。

 もしかしたら、何らかの答えを見つけられるかもしれないと、ケルベロスは率先して、同意した。

 オレとケルベロスは、ウォーター・ハウスから教えられた、カルマ・タワーへと向かう事になった。

 

 

 ウォーター・ハウスは光が刺す窓の前で、ソファーに座り寝入っていた。

「俺は今、自由を手にした。束縛なんてされていやしない。これからは、この城で生きようと思う。俺を追って侵入してくる者達を、お前らが撃退してくれないか?」

 ウォーターは三人の少女に言う。

 結局、三名とも十日近くが過ぎても、彼の元から逃げ出さなかった。

 三人の中の一番年上のイリスは言う。

「私達、三名とも話し合ったんだけれども。……他に行く場所が無くて……」

 イリスはウォーターの側によった。そして。

「私を貴方の腕で抱き締めて貰えませんか? ……私は売られる前、そうやって殿方達にお仕えしてきました」

 彼女は自分自身の肉体を、彼の前へと近付けた。

「……考えておく」

 と、彼はそっけなさそうな顔をしていた。

 そうは言ってみたものの、二日後の夜の事だ。

 イリスは積極的に、ウォーター・ハウスの部屋へと訪れた。

 そして、これまで培ってきたスキルを使って、彼を誘惑した。

 彼女は窓を開ける。

 夜の風が心地よい。

 窓を開けると、気持ちのよい風が入り込んでくる。

 この辺りは、雪ばかりが積もっている場所ではあるが、気流の関係からか城の周辺は、寒いというよりも、涼しいといった感じだ。

 そして、その特殊な気流を作り出しているのは、他でもない、彼が連れてきた女のうちの一人だ。彼女には期待している。

「ねえ、夜の方はお得意?」

 イリスはウォーター・ハウスの寝台の上で、彼の身体に触れていた。

 先ほど見せた甲殻類を思わせる皮膚は仕舞われて、今は屈強なよく引き締められた人間の男の体躯をしている。

「俺は淡白だぞ。お前の方が、好きにやるんだ。俺の身体に対してな」

 イリスはウォーターの肌を、胸元から下腹部に掛けてゆっくりとなぞっていく。

 彼女は少しずつ、肌を露出させていく。

 彼の皮膚は、とても瑞々しかった、イリスは息を呑む。

 ウォーターとイリスは激しく唇を合わせる。

 イリスはそのまま、口腔の中へと舌の先を入れていく。

 ごとっ、と。

 部屋の外で、物音がした。

 ウォーターは、何かを察知したようだった。

「ああ、モニカか。脅えているのか? 済まない」

 ウォーター・ハウスは服を着る。

 そして、イリスには眼もくれず、モニカの元へと向かった。

 彼女は半裸のまま、今から愛し合おうとする男の背中を見ていた。

 そして、イリスは、憎しみの眼で、確かにモニカを見ていたのだった。

「ああ、それとイリス。すまん、俺の肉体、やっぱり他人が触れると拙いみたいだ。これでも、最大限にまで毒素を体内に圧縮したんだけどな。お前、牙舐めただろ? あれはよくない」

 イリスはぽかん、としている。

 と、突然、全身から悪寒がして、痙攣が止まらなくなった。

 喉もからからに渇いていく。全身から発汗している。にも拘らず、異様に寒い。

「死ぬなよ。取り敢えず、水飲んでおけば大丈夫だ」

 ウォーターは、戸棚からペット・ボトルを数本取り出すと、イリスの方へと投げた。

 彼女はのた打ち回りながら、自分の首を掻き毟っている

 ウォーターはモニカを連れて、もう彼女に興味を失って、階段を上っていった。

 後に残された、イリスは憎悪するような眼で、彼の去った半開きのドアを眺めていた。

 ……。

 ウォーター・ハウスとモニカの二人は城の屋上にいた。

 夜風が全身に吹き抜けてくる。

 もうじき、此処にも雪が積もる筈だ。

「私、……友達いた事無いんです。……どうしたらいいか」

「そうか。まあ、友達ってのは何だろうな。お前の数倍は生きている俺でもよく分からん」

 確か、台所にブランデーが合った筈だと呟いて。

「ああ、お前、未成年か。こんなとき、酒を勧めるんだがな」

 モニカは少し震えていた。

 ウォーター・ハウスは、彼女の手を握り締める。

「手が冷たい……」

「ああ、余計、凍えさせてしまったな」

 夜空から、流星が落ちた。

 寒風が、二人の間を駆け抜ける。

「なんなの? あの×××野郎!」

 イリスは荒れて、階段の手すりに蹴りを入れる。

 隣には、三人の中の一番年下であるホーイリスことホーリィが、メイド姿で、紅茶とクッキーを運んでいた。

 彼女はどうやら、それなりの良家で働いていたところを、新しいメイドを雇うからといって、売りに出されていたらしい。

「まあ、あの方も結構、優しいところあると思うんですよ。それにあの方がいなければ、私達、一体、どうなっていた事か」

 ホーリィは不安そうな顔をした。

「それに、変態なエロジジイよりはマシじゃありませんか。あの方、結構、美形ですし」

「私にとっては、変態エロジジイの方がマシなのよ!」

 フォローを入れるホーリィに対して、イリスは返って激昂する。

 イリスは、ホーリィを睨み付ける。

「貴方も……、それに、能力者って何の事? 能力なら私だってあるわよ。男達を靡かせる能力」

「あの方が求めているのは、それではないと思うんです」

 ホーリィは小さく言う。

 彼女もモニカ同様、何処かおどおどした雰囲気がある。

 イリスは少し、苛立ちを覚え始めた。

 本当に此処では、巧く会話が通じる相手が存在しない。

「それに、あんまり得体の知れない連中を増やすのも気に入らないわ」

 彼女は更に、不機嫌になるような事を思い出したみたいだった。

 ホーリィが紅茶とクッキーを運んだ部屋。

 その中には、一人の男が負傷して、ベッドに横たわっていた。

 彼の名前はライフラインと言うらしい。

 痩せ気味のぎょろ眼の男だった。


第三章 カルマ・タワー

 カルマ・タワー。

 ケルベロスと合流した後、カルマ・タワーと呼ばれる塔へと向かった。

 此処に、Aランク賞金首のアヌビスと呼ばれる男が居るらしい。

 そして、かつて『地獄の世界』と呼ばれる能力者が、能力者収容の監獄として使っていた場所だ。

 カルマ・タワーとは、カルマ、業。つまり、人間の持つ業を現した建造物らしい。

 そして『地獄の世界』の力によって、能力者に地獄を与え続け、それが刑罰になっていたとの事だった。

地獄の世界の能力は、地獄を作り出す。人間を精神世界に閉じ込める事によって、人間は地獄の責め苦を体験するとの事だった。

 地獄の世界が作り出す能力は、精神の異空間を作り出し、その世界は仏教やキリスト教、イスラム教やヒンドゥー教、エジプト神話やギリシア神話、北欧神話やダンテの神曲などからモチーフを取った、地獄世界を再現して、犯罪者を地獄の責め苦に合わせる事らしい。

 刑罰の種類は、鞭打ち、火炙り、凍結、溺死、解体、などなど、皆が思い浮かべる地獄の世界を、犯罪者の脳の中で実体を伴った幻影として、呼び覚ます。

 痛覚は実体感を伴って現われて、発狂するような苦痛を何度も何度も、与え続ける。

 その拷問は、受ける者の感覚時間においては、一年や二年が、何百年、何千年、何万年単位で続いていくらしい。十年くらい収容すれば、大体、二千万年くらいの拷問が行われた後になっているとの事だった。

 犯罪者の罪の量によって、階層は下がっていき、最下層は無限地獄になっていた。

地獄の世界が生きている限り、永遠に無限地獄に落とされた者は、地獄の責め苦を受け続けるのだ。

 そして、無限地獄に収容された者以外は、ある程度、時間が経過すると、上の階層へと上げていき、一階に辿り着いた者は釈放という形になるのだが。

 釈放される頃には、例外なく発狂を通り越して、植物状態になっていたとの事だった。

 完全に精神が破壊し尽くされたからだろう。

 しかし、それだけの処罰を皆、容認していた。

 当時の風潮としては、犯罪者を厳しく罰するべきだ、という態度を取っていたからだ。

 逆に、今のアサイラムの形態になったのは。犯罪者、殊更、能力者の犯罪者の能力を何かに役立たせるように、という名目で極端な反動だと言える。

 犯罪被害者の一部はかなりの憤りや不満を持っていたが、逆に、地獄の世界において報復の極地とも言える刑罰が実現してしまった為に、強い虚無感と嫌悪感を伴い、加害者の刑罰を軽くするような申し出も、被害者遺族の者達から出ていたという。……人間は分からない。

 海流によって、流れ着けない場所だったので、相変わらずヘリで向かう事になった。

 最上階に下りる。ヘリの乗組員は、用事が済んだら携帯で連絡してくれと言って、去っていった。

 カルマ・タワー、最上階。あるいは、地上一階。

 不気味な霧の中に包まれている場所で、裏・原宿の屍峠や臓物の草原よりも、遥かに濃い瘴気が漂っている。

 取り敢えず、地下一階を目指すべく、階段を探した。

「おい、ケルベロス」

 オレは、筋肉質の男を呼ぶ。

「何だ?」

「あれは、何だ?」

 ヘリに乗っていた時、上空からは見えなかったが。

 カルマ・タワーの地上一階に降りてから姿を現した。

 それは、一階の一部分が大きく尖塔のように突き出していた。

 それは深い霧に覆われて、見えにくくなっているが、確かに上へと伸びている塔だった。

「なあ、ケルベロス。カルマ・タワーってのは、上にも続いているのか?」

「分からない。アサイラムの職員なら知っているかと思ったが、カルマ・タワーに関して、詳しい可能性が高い師匠や副署長は死んでしまった。ウォーター・ハウスは何か言っていたか?」

「聞かなかったぞ。あいつ、肝心な事はもしかして何も教えていないんじゃないのか?」

 オレは上に向かうか、下に向かうか考えた。

 そして、手順通り、下に向かう事にした。

 アヌビスがいるとするのならば、下らしいからだ。

 空間把握を先ほどから使っているが、まるでこの塔の構造が読み取れない。オレの空間把握の能力は、何らかの妨害を発する力があれば、すぐに使えなくなってしまう。

 瞬間移動をしようにも、まず空間把握を行えなければ、移動する事が出来ない。

 オレはケルベロスに、力技で地面を破壊するように頼んだ。

 彼は手の甲から、爪を生やす。

 そして、力任せに、地面を殴り付けた。

 巨大なクレーターが出来ただけで、地下へと通じる道には繋がらなかった。

「纏めて、切り伏せてみるかな」

 オレは考えを巡らせる。

 ひょっとすると、天空へと突き出ている塔から内部へと入るのかもしれない。

「ヘリはもう行ってしまったからなあ」

 オレは、瞬間移動能力を使って、上へと伸びた塔の最上階を目指した。

 塔の頂上は、細長い角になっており、何も無い。

 オレは仕方なく、ケルベロスの元へと戻る。

 彼は、バラバラに床を切り崩す作業を続けており、ついに地下一階へと続く通路にまで、クレーターの孔は到達したみたいだった。

「やっぱり、力技が全てか」

 ケルベロスは、身体から伸ばした刃物を、体内に収束させ、仕舞っていく。

 オレは考えていた。ハーデスが青い悪魔に挑んで死んだ意味を。

 何か理由があったのだろうか。どう考えても自殺行為でしかなかった。

 病気が原因だったとも言っていた。

 もう寿命は残り僅かだとも。

 やるべき事が、あったのではないか。

 カルマ・タワーの内部に入ると、通路はひんやりと湿っており、壁や床は鉄製の煉瓦によって作られているようだった。

 所々、壁の模様が、苦しむ人間の顔のようにも見えてくる。

 全身に悪寒が走っていく。

 人を殺した人間の陥る永劫の地獄。

 まるで、地獄の業火を赤々と塗り固めたかのように、床は赤く錆びた地面が広がっている。威圧感。

 それらの一つ一つが、怖ろしく、そしてある意味で言えば、荘厳でさえあった。

 さて、地下奥底まで進んでいかなければならない。

 一体、何処まで続いているのか分からないが。

 とにかく、奥底にはアヌビスという怪物が居座っているのだろう。

 オレは殺人、犯罪に関して考えていた。

 人を殺してしまった者は、刑罰を受けるという事が歴史の中で行われてきた。それは人間の魂が汚れてしまったから、などとカルマという概念を持ち出して、それを浄化する為に死後、地獄へと落とした。

 罪証。贖罪。刑罰。

 オレは明確に殺したい人間が、今、存在している。

 きっと、オレは絶対的なまでに酷い屈辱を被ったからだろう。

 正義感だとかそんなものじゃなくて、オレ自身のプライドの為だ。

 もしかすると、オレもまた、この地獄の世界に近いのかもしれない。裁かれるべき罪人になる可能性。

 湿った土の臭いがキツイ。草が枯れたような臭いもする。

 何処からか、羽虫が走る音も聞こえる。

 おそらく、これは墓場の臭いだ。

 死者に安息なんて、決して齎さない、墓場の臭いだ。

 そして、オレ達はそこから。

 冥府の入り口を進んでいるのだ。

 果たして、入って戻ってこれるのだろうか。

 肉の腐る臭いがする。

 まだ死体一つ出くわしていないにも関わらず、強烈な腐臭が一面に漂っていた。

 少し吐きそうになって、口元を押さえる。

 ひょっとすると、オレ達の意識へ直接、臭いを押し込んでいるのかもしれない。

 壁中が抉れている場所を見つける。それは爪や肉片が大量にこびり付いていた。おそらく、苦痛からか指で壁を掻き毟り、骨が見えてもなお、壁に指を立てる事を止めなかったのだろう。

 あらゆる怨嗟が一つ一つ、壁に塗り込まれている。

 ケルベロスは平然としている。オレは自身のメンタル面の弱さを少し恥ずかしく思った。

「君は強いな」

 オレはそう呟く。すると。

「いや、顔には出さないだけだ。俺も先ほどから吐き気を堪えている。しかし、仕事柄、慣れるものだ」

「……そうか」

 そういいながらも、彼は暗鬱な顔をしていた。

 地下二階へと下る階段らしき場所が見つかった。

 こつり、と音が響き渡り、オレ達は二人して顔を顰めた。

 今度は血の池地獄か。床一面がドス黒くこびり付いた古い血液に染まっている。

「拷問に使われている器具は一つも見つからない。という事は何らかの精神状態を作り出す事によって、囚人達自ら、現実的にも肉体がそのような結果になるような映像を脳内に見せたのだろうか? ……これが『地獄の世界』……」

 ウォーター・ハウスの話を思い出す。

 地下三階は『神曲』にある“自殺者の森”に似た針の葉の生えた木が並んでいた。地下四階は炭と煙に臭いが漂っていた。地下五階はノコギリのようによく切れそうな糸が張り巡らされていた。地下六階は人一人が丁度、入りそうな壷のようなものが幾つも置かれていた。地下七階は金棒のような物が幾つも置かれていた。

「……死体はまだ一つも見つかってないな……」

 普通に考えて、全部、片付けられたのかもしれないが、大量の白骨が転がっていても、おかしくない惨状だった。

 オレは考える。地上に出ると「現世」という事だ。しかし、ひょっとして、上へと伸びていた塔は「天界」という事になるのだろうか? ならば、囚人達は……」

 オレはある発想に思い至る。

 しかし、それを今は口にしない事にした。

 ふと、思い付いた事を聞く。

「ケルベロス。壊す側と裁く側、どちらが非人間的なのだろうか」

「俺には分からない。アサイラムは俺は正しいと思っている……」

「そうか……」

「被害者や犠牲者にとっては悲痛だろうが。アサイラムをこの世の天国だと思っている囚人が大半さ。中には本当に牢獄だと思っている奴らもいるが。だからこそ、バランスが取れているんじゃないだろうか」

 アサイラムの実状は複雑だと思う。

 犯罪者はこの世界において、どう扱っていいのか。それは、法治国家が出来て以来、いや、共同体というものが出来て以来の難題なのだろう。

 その中の、一つの極地がアサイラムであり、地獄の世界だ。

「処でウォーター・ハウスいわく、カルマ・タワーに収容された者達の中には冤罪も多かったらしい。ヒューマニズムとは結局、何なのだろうか? 奴は楽しげに語っていたが、この塔での囚人の苦しむ映像、囚人の脳内で見せられている映像をビデオテープに保存して、被害者に送られていたらしい。被害者や被害者遺族は何を思って、そのビデオテープを鑑賞していたのだろう?」

 もう、地下十八階だ。

 後、十数回分、下れば、最下層に辿り着く。

 確か、そろそろ海中へと続いている階層だ。

 海の中にある建物といって、こんな場所でなければ、ロマンチックな設定なんだろうが。しかし、とてもそんな気分に浸れやしない。

 急に、通路が広くなった。

 ヘル、タルタロス、コキュートス、インフェルノ、阿鼻地獄、八寒地獄。それらを彷彿とさせるイメージだ。他にも、インド神話やメソポタミア神話、アステカ神話など、書物の中で読んだ地獄の景色が、跡地となって広がっていた。

 様々な文化圏の地獄の最下層を体現したようなものの跡地だ。

「『神曲』にて、ヴィルギリウスに導かれて、地獄と煉獄を案内されるダンテの気分だな」

 恐るべきものとは一体、何なのだろうか。

 壊す方なのか、それとも裁く方なのか。

 オレは地獄に関して調べた時、たとえば仏教において罪を犯した場合、何億年、何兆年もの間、罪人は苦しみ続けるという。思うのだが、何故、死後の世界を統治する仏や閻魔はこのような刑罰を思い付く、サディストなのだろうかと。そもそも、強いエゴイストなんじゃないのかとばかり思っていた。

 たとえば、食べる物が無ければ、人の物を強奪してでも奪い取るものが人間だし、それがある意味で言えば、生物の生存本能だ。

 その生存本能を地獄という概念は否定する。しかし質の悪い事に、天国の世界においては、沢山の快楽が待っているとも聞く。快楽とは生前の世界においては、地獄に落ちる要素の一因ではないのか? 貪欲の罪、食欲の罪、色欲の罪、それは天国の世界でのみ享受しろというのだろうか。

 思うに、地獄とは人間の持つエゴイズムによって誕生したのではなかろうか。

 人間は罪を犯せば地獄に落ちるのではなく、弱者を更に拘束する為に地獄という更なる恐怖を創り上げたのではなかろうか。

 だとするのならば、地獄とは最悪の概念だ。

 弱者の側は、地獄のイメージで強者の側を呪う。

 強者の側は、地獄のイメージで、貧困などから罪を犯さざるを得なくなった弱者を嘲笑う事が出来る。

 そういった、現実に対する皮肉が、地獄を生み出したのではなかろうか。

 そして、ついに最下層へと辿り着いた。

 そこは、一面に白い砂が広がっていた。

 まるで、最下層こそが天界の扉のように、ほっと胸を撫で下ろす。

 一面には刑罰の跡地が無い。あの生々しい、一つの死体も生産されていないにも拘らず、あれだけの不気味で、悪夢と恐怖の中を彷徨っている感覚は久しぶりだ。

 自分達は何の攻撃を受けていないにも関わらずも、この場所そのものが、既に精神を抉り取るかのようなエネルギーに充満されていた。

 ともあれ、此処が最下層。

 此処に、Aランクの『アヌビス』がいる筈だ。

 此処に降りる階段は螺旋状になっており、一面、砂丘ばかりが広がっていた。

 空間把握の能力が、どうやらこの場所では使えるみたいだ。

 此処は、長方形の部屋で、縦に3.2キロ。横に1・8キロという構造になっている。

 そして、階段を降りて、真っ直ぐに進んだ先に何物かが置かれていた。

 オレはケルベロスの手を取ると、すぐに瞬間移動に移った。

 そして、その場所へと辿り着いた。

「ああ……」

 ケルベロスは、妙な顔付きをする。

「おかしいな。……しかし、まさか……」

 巨大な骨だ。

 全長8メートル近くはあるだろうか。

 大男の、しかも、犬の頭部の形をした、骨が散乱していた。

「こいつが、アヌビスなんじゃないのか……? まさか、死んでいるなんて……」

 オレは踵を返す。

「ケルベロス。帰ろう。Aランク賞金首のアヌビスは既に何らかの原因で死んでいた。この塔の中に生命はいない。オレ達の此処での仕事は終わりだ」

 ケルベロスは顎に手をやって、動かない。

「どうしたんだ?」

「『ドーン』には死亡確認を行える能力者が存在する。ある意味で言えば、そいつが存在していなければ、ドーンなどという組合は成立たないからだ。たとえば、死体が摩り替えられたり、死んだという誤情報を与えたり、レッドラムが誰も第三者がいない状況下で、イエロー・ダークで敵を分解して消滅させてしまえばどうなる? レッドラムだけの証言を信じればいいのか? フェンリル、お前は“一人も始末していない”から、忘れているか、実感が無いのかもしれない。ドーンに登録する際に、敵の死亡報告、死亡事実は、“バウンティ・ハンターの口実だけ”で証明された事になるという奇妙な事実を覚えているか?」

 つまり、賞金首の何々を始末した、殺した、と組合に報告するだけで、賞金が専用の口座に振り込まれる。これはどういう事なのだろうか。

「そう、死亡確認を行える能力者が存在する。思うに、ひょっとしたら、そいつの能力はあらゆる次元の運命などを理解するだけの力を秘めているのかもしれない。そいつの名前は、『アリアンロッド』という。俺も直接、会った事は無いが、とにかくそいつが“死んだ”と言えば、死んでいるし。“死んでいない”と言えば、本当に死んでいないんだ」

 ケルベロスは屹然と言った。

「だから、このアヌビスは死んでいない。少なくとも、何らかの形で生存しているか、何らかの媒体を通して生きている。もしかしたら、この白骨は只のフェイクなのかもしれない」

 オレは白骨に近寄る。確かにこの白骨からは、何らかのエネルギーを何も感じない。只の古い骨だ。やはり、ウォーター・ハウスの情報はガセだったという可能性もある。

「とにかく、此処に長いは無用だな。余り居心地の良い場所じゃない」

「ああ……」

 オレはケルベロスを連れて、砂漠の中に、一本の豆の樹のように生えた、螺旋階段へと戻る。螺旋階段は長い、大体、数百メートルくらいはある。降りるときは特に感じなかったが、登るときはまるで垂れ下がる蜘蛛の糸のように感じる。

 登り続ける。

 しかし、何故か一向に辿り着けない。精神的なものからなのか。

 いや、気付けば、数十分、登り続けていた。

「ケルベロス……」

「ああ」

 オレは彼の手を握る。そして、天井へと瞬間移動した。

 上まで、一度に移動出来る距離が足りないので、一度、階段の手すりを掴み取る。

 そして、それを何度も繰り返す。

 ……。

 頂上に、一向に辿り着かない。

「本当に蜘蛛の糸なんじゃないか。上まで、一体、どれほどの距離があるんだ?」

 上までの距離が、後、42メートル程だというのは分かる。けれども、辿り着けない。

 やはり。

「この螺旋階段自体に何かの力が働いているのか。……此処の空間自体が歪んでいるのか」

「分かった。フェンリル、俺がやってみる」

 彼は階段の手すりに、自身の能力を発動させる。

 手すりが変形していき、階段全体が形状を変えていく。

 螺旋階段は蛇のようにうねりながら、出入り口の天井から十数メートル離れた場所へと突き刺さった。

 オレ達二人はそこまで登っていく、今度は順調に天井にまで登る事が出来た。ケルベロスは腕から刃を出して、天井を切り刻んでいく。

 オレ達は、やっと最下層を抜け出す事が出来た。

 地下三十一階は、巨大な針の山が幾つも並び、一面に夥しい血痕が溢れている。

「どうなっているんだ?」

 オレは彼に訊ねる。

「分からないが、とにかく俺達を出したくない事だけは分かった。おそらく、そいつは明確な意思を持っている。アヌビスは生きてこの塔の中にいるのか、それとも別の能力者なのか」

 オレはカルネイジのテュポーン・ジャイアントの事を思い出す。

 そして、想像上だが、思った事を話す。

「ひょっとして、この塔自体がアヌビス……?」

「その可能性は高いな……」

 ケルベロスは苦々しく、辺りを見渡していた。

「地上まで後、三十一階か。また、上の階に登れるのだろうか?」

 周囲に、何かの気配がする。いや、それは気配というよりもざわめく存在の感覚というべきか。少なくとも、生命の気配ではない。

 

 

 精神的な弱さから、蝕まれている。

 本当は、地下へと下っていく事すらもかなりの消耗を強いられた。

 オレは自分自身が弱い人間である事と、相棒のケルベロスの強さに心の中で賞賛を送っていた。

 何よりも苦痛なのは、周りの血溜まりから、「地獄に落ちた者」の悲鳴と苦痛が、まるで自身が体験しているかのようにおぞましく、こちら側に伝わってくるようだった。

「これが、『地獄の世界』……」

「……ふうむ」

 ケルベロスは考えているようだった。

 そして、オレも考えなければならなかった。

 脱出の方法と、アヌビスを倒す方法だ。

 ケルベロスはズボンのポケットに入っているマルボロの煙草を取り出して、それに火を点す。二本目を吸い始めて、口を開いた。

「この塔がもし仮にアヌビスだとするのなら、俺が全部、砕いてみるのもいいかもしれない」

 ケルベロスはそう告げた。

「横に砕けば、海の中だ。いざとなったら、壁を破壊し続けて、海を泳いで海上へと向かおう。上を砕けば、果たして先ほどのように上の階に辿り着けるかどうか……」

 オレは少し考えてから、告げた。

「いや、もし海の中もアヌビスのテリトリーだったら拙い。オレ達の能力が使いづらくなる。なるべく、上を目指して、それが駄目なら、壁を破壊して海を目指そう」

 その提案に、ケルベロスは首を縦に振った。

 オレは気を紛らわせる為に、会話を続ける。

 この塔に入っての感想だ。

「地獄は、一兆、一億といった時間をよく現す。たとえば、仏教においての地獄だけれども、一番、最初の地獄の等活地獄ですら一兆年もの間、落ちた人間を苦しめ続ける。ある意味で言えば、地獄に落ちる事こそが不死になってしまうんだな」

 永遠、無限に近い年数、ひょっとすると宇宙の寿命よりも長い年月、苦痛を味わい続ける不死。

「殺人だけじゃない、盗みとか動物を無闇に殺したとか、嫉妬したとか、その程度で一兆年以上も苦しみ続ける。オレは思ったんだ。神や仏は生粋のサディストなんじゃないかって。苦痛を与えるという存在を作り出す事によって、神や仏はその権力の座についているのかもしれない。そもそも、無神論、神や仏を信仰しないという事は大抵、どの文化圏でも重い罪になるんだ。なあ、刑務所と人間社会の構造と類似していないか?」

「そうかも。……フェンリル。とにかく、今は出る事を考えよう」

「ああ。……」

 既に、オレ達は三十階へと上がる為の階段に辿り着いている。

 問題は、いつまで経っても、その階段へと辿り着けないという事だ。

 ケルベロスは、壁に刃物を突き立てて上っていく。

 そして、天井をバラバラのブロックへと変えていく。

「フェンリル。出入り口だけ、何らかの力が働いているみたいだ。此処も普通に上がれる。上がってくるといい」

「ああ、そうか」

 先ほど通った場所が、再度見ると、より怖ろしく感じた。

 出れないかもしれない、という可能性が出てきて、感じ方、見え方が格段に上がったのだろう。

 まるで蜘蛛の糸を辿っていくような感覚。

 上へ上へ、遥か天空に存在する浄土を目指して。

 幻影のように、此処で行われた映像が頭の中に入り込んでくるようだった。

 恐怖が収束していき、身を喰らうかのような。

 あるいは、心の奥底に眠っている、罪悪感と呼ばれるものなのかもしれない。オレが今まで犯してきたであろう、罪、軽い罪から重い罪、それが暴き立てられるような恐怖。

 自分自身の鏡のような、恐怖と罪証の世界。

 いや、錯覚だ。と、それを振り払おうと勤めた。

 恐怖のイメージは、オレが余計なものを投影させる。

 地獄の本質とは、そういう事ではないのではなかろうか? 自分自身の罪と恐怖を連帯させようとイメージを植え付ける。

 とにもかくにも、この塔は生きている。

それが生々しく伝わってきた。

 地獄に落ちた囚人達の苦悶の嘆き声が刻印されているのか、それとも冥府の番を務める能力者の力なのか、とにかく、真っ黒な一色の情念となって、肌に皮膚に突き刺さっていく。全身を炎で焼かれているかのように、あるいは脳内を掻き回されているかのように、おぞましく禍々しく、恐怖と痛みが胸に迫る。

 既に、この情景自体が、何らかの害意であり、攻撃でしかなかった。

「生きる事は“檻”だな。……」

 オレはぽつりと呟いた。

 ウォーター・ハウスが提唱した概念、レイアが共鳴した言葉。

 檻。檻。檻。檻。壁。壁。壁。壁。鎖。鎖。鎖。鎖。

 今、確かにそれが実感となって、差し迫ってくる。

 レイアを思い出す。

 修羅蓮華、黒い色をした燃え盛る蓮の花。

 石ころの多い荒野ではなく、泥や水の中に咲き誇る、蓮の花。

 白色をした蓮は、仏教において真理に近いと言われている象徴的な花だ。

 真理に近いとされる白い蓮。

 それと対するようにこの世界に現れる、レイアの生み出す黒い蓮。

 この世界の情念そのものを、飲み干したかのような黒い蓮。

 レイアは、真理に辿り着いているのだろうか? しかし、真理とは一体、何なのだろうか? あるいは、レイアの生み出す黒い蓮とは、真理すらも滅ぼさんとする白無垢の蓮を否定する、黒い悪意そのものなのだろうか。

 更に思う。ウォーター・ハウスは、監獄について、アサイラムについて憤っていた。全ての世界は、人間は、檻でしかないのだと。この世界は監獄なのだと。

 監獄が地獄なのか。それとも地獄が監獄の暗喩なのか。

 そいつらは、確かにオレの、オレ達の網膜に映り込んでいた。

「ケルベロス……オレの幻覚じゃないよな?」

「ああ……」

 腕だ。

 沢山の腕達が、地面の中から花のように咲き出ている。

 それらは、生白く、蛇のように此方を伺っていた。

 そして、一斉に腕達はオレの足元を掴み取る。

「ああ、……」

 死のエネルギーを実体化した、ルサールカの能力を思い出す。

 オレ達は、冥府の番人アヌビスの能力を理解した。

 こいつは、死んだ人間の情念を、血痕や骨などから、この世界に引き戻すのだ。

「何しているんだ! フェンリル! お前、死んでしまうぞ!」

 ケルベロスが恫喝する。

 オレは気付くと、腰近くまで地面の中へと埋め込まれていた。

 オレは上方に、瞬間移動して、腕達の呪縛から逃れる。

 まだ、地下三十階。

 精神を強く持たなければ、このまま亡者達に喰われてしまう。

 ケルベロスは、天井を切り伏せる。

「このままの調子で地上まで上がろう。クソ、デス・ウィング同様、アヌビスも駄目か。やっかいな奴らを回されたもんだなっ」

 だからこそ、ランクAとして今まで降臨してきた。

 ハーデスは、アサイラムは何とかして、支配出来ない存在を無くしたかった。

 秩序を取り戻したかった。

 それが、脆くも崩れていく。

 馬鹿馬鹿しい。

 

 

 ようやく、地下十五階まで上り詰めた。

 ケルベロスが天井を切り伏せて、オレが彼を担いで上まで飛ぶだけの作業だったが、その間に、何体かの亡者達に襲われて、そのたびに精神エネルギーを消耗していく。

「本当に、蜘蛛の糸をよじ登る気分だ……」

「でも、本当の地獄よりは、極楽は近い。あと、十五階だ……」

「ああ……」

 十五階まで上がって、しばらく休んでいた。

 また亡者の姿が現れるまで、タイムラグがある、数分くらいだろうか。それまでは、休息の時間に当てた。

 オレ達二人は目を丸くする。

 現れたのだ。

 ああ。

 そいつは金棒を担いでいた。

 よく分かった。

 この塔に住んでいるのか。

 それとも、こいつはオレ達の意識の底からやってきたのか。

 色々な媒体でよく見る、子供の頃に読んだ絵本や昔話、日本美術などに出る。

 鬼だ。

 鬼が金棒を担いで、此方へと歩いてくる。

 身の丈、数メートル。

 剛毛に、虎の褌を穿いている。肉体は赤銅色で錆びた赤に近い。

 顔は人間がどれほど怒り狂えば、それ程に歪むのか分からないほどに、醜悪な顔をしている。

 ケルベロスの顔も恐怖している。

 このままでは、あの金棒に頭を潰される。

 オレは理解した。

 そう、恐怖だ。

 根源的な恐怖、地獄のイメージ。そのイメージがオレ達に襲い掛かってきているのだ。

 何となく、アヌビスの能力の全体を知ったような気がした。

 影、だ。それは光学的な意味での影ではない、精神の中にあまねくある影。

 人間は何に恐怖するのか。

 人間は何から逃れようとしているのか。

 集合的無意識とでもいうのだろうか。

 とにかく、人間が生まれた時に、人間の歴史が誕生した瞬間から、恐怖というものもまた、誕生したのだろう。

 無音だった。何かを振り回した、という音は聞こえなかった。

 ケルベロスの上半身が、金棒によって地面へと沈んでいく。

 彼は悲鳴を上げた。

「フェ、フェンリル……」

 ケルベロスの肉体が再生していく。

 そして、すぐに鬼は金棒を再び、彼に振り翳す。

 地獄の世界だ……。と、オレは思った。

 オレは、鬼の後頭部に蹴りを叩き込む。

鬼は簡単に、平衡感覚を失って、昏倒した。

 ケルベロスは立ち上がった。

「す、すぐに、上の階に行くぞ」

「ああ」

 再び、鬼が立ち上がった。

 鬼は金棒を振り下ろす。

 しかし、金棒はオレ達に命中する事は無かった。

 金棒をそのまま、瞬間移動させて、鬼の頭部へと命中させる。

 鬼は再び、地面に突っ伏して動かなくなった。

 オレは溜め息を吐いた。

 地獄の世界にいた鬼。こいつの攻撃は死ななくなる。

 とにかく、こいつの攻撃は死んだ後も生き返る。

 いや、死ぬという現象をキャンセルさせられるのか。

 階数が上がるごとに、塔が此方を逃さないような意思を強く感じる。

 今度は。

 一面には針の山が生えている。

 大量の翼の在る、悪魔達が集まっていた。

 様々な地獄の世界に存在する亡者達。

 それらは、頭を鳥や蛸や猿や猫、蜘蛛や蝿や魚といった様々な頭部をしている悪魔達だ。中には、ゴキブリや酸で溶解したような顔を持つ者達までいる。

 気味の悪い化物達の群れ。

 それぞれの悪魔達の顔は、生理的に来る気持ち悪さを発していた。というよりも、この空間は、普段、押し殺している恐怖を最大限にまで引き摺りだすのだろう。

 たとえば、蜘蛛やゴキブリに対して、人は不快だと感じる。

 恐怖する者もいる。

 しかし、ある程度、人間は恐怖を封じて生きている。この敵の能力は、そのような恐怖の歯止めが無くなっていくのだろう。

 それでも。

 オレ達は悪魔の群れを切り伏せていく。

 悪魔は切られても、首を落とされても、何度も復活して此方に向ってきた。

 悪魔達の数は増えていく、手に負えなくなっていく。

 オレは舌打ちをする。

 ケルベロスは針の林に手を伸ばす。

 そして、彼の能力を発動させる。

 林に生えた刃が、伸びていく、林は成長し、巨大な樹木へと変わっていく。伸びた樹林は天井を突き破り、壁を食い破っていく。

 そして、樹林から伸びた刃は、悪魔達の肉体を貫いて、壁や床に磔にしていく。

 そのまま、数階分のフロアを跨いで、破壊しながら、樹林は延びていく。

 

 

 やっと地下三階。

「此処まで登ってこれたのは、フェンリル、お前がいたからだ」

「いや、君の能力も大したものだ」

 そう、互いを賞賛しあった。

 しかし。

 三階で止められた。

 真っ黒な塊が、フロア全体に横たわっていたからだ。

 真っ黒な塊が、それぞれ人の顔をしている。

 苦痛に引き攣った様々な顔、様々な苦痛によって形成された顔達。

 それらは、全員が同じ塊となって、生かされ続けているように見えた。

 時折、亡者の一人が他の亡者を食い続ける。そして、他の亡者が他の亡者を食い続ける。彼らの何名かが、嘔吐物を吐いた、それが彼らの肉体に混ざり合っていく。

 内臓や排泄物をも、肉体の所々から吐き出して、亡者の塊はなおも醜悪な姿へと変わっていく。

 塊から、大量の腕が出た。

 それは半分、腐乱して白骨したもの、幾つかの指を失ったもの、そういえば、亡者達の顔も様々な形で崩れていた。焼かれ、砕かれ、溶かされ、ひき潰され、捻られて、様々な苦悶と苦痛を撒き散らしている。

 地獄絵図。

 吐き気を催すような光景。

 神仏の怒りに触れた者達のような光景。

 ああ、駄目だ。

 何となくだが、悟ってしまった。

 きっと、もう抜け出せないのだと。恐怖が充満していく。

 足が竦んで動けない。

 重力が下へと向いていくように、感情も降下して、その重みに耐え切れなくなっていくかのようだ。

 恐怖。

 恐怖が胸を押し潰していく。

 鬼の顔、地獄の亡者の顔。

 それらが網膜にこびり付いている。

 怖さ、鬼の顔。

 鬼の顔、怖い人物。

 怖い人物か……。

 しかし、本当の恐怖って一体、なんなんだろうか?

 オレはふと、思った。

 屈辱、自分自身の弱さ。

 それは、この前、体験した。

 ブラッドの華奢な肉体を纏った痛々しい包帯。

 ウォーター・ハウスに敗北した時の、自分自身のやるせなさ、胸糞悪さ。

 それらは、きっと心の傷となって残っている。

 もし。

 もし、本当に今、此処で怖いものが現れるとするのならば。

 彼ら、だ。

 彼らの幻影がオレの前に現れる筈だ。

 ケルベロスならば、きっと死に行くハーデスの姿なのかもしれない。ハーデスの姿が、あの塊の中で苦悶に晒されているのかもしれない。しかし、それは無い。

 致命的な恐怖を、この敵は引き起こそうとしない。

 それが、本当の恐怖なのに。

 それが、本当の苦痛なのに。

 ……気付いた。

 この敵の弱点はそういう処なのだと。その部分を、突いてこない。

 見ると。

 ケルベロスは壁を削り始めていた。

 幾ら削っても、外界に出る事は無い。

 壁は削っても、削ってもどんどん膨らみ再生していく。

 やはり駄目か、とケルベロスは腰を下ろした。

 オレは、少し目を閉じて、瞑想し、彼に言った。

「ケルベロス、いいか聞け」

 オレは言う。

「敵はオレ達を恐怖させ、この塔に閉じ込めるつもりかもしれないが、この敵は、オレから言わせると。正直、“弱い”。もう、オレ達はこの敵に負ける要素なんて無い」

 ケルベロスは、一瞬、目を丸くしていた。

 オレは敵の能力の全貌を、大体、見抜いてしまったのだった。

「本当に怖いもの、とは。いいか、ケルベロス。“自分自身”だ。拷問や苦痛、怪物じゃない。本当の地獄とは自分自身の深淵から誕生する、自分自身そのものだ。自分自身のトラウマ、苦悩、息苦しさ、世界との齟齬。自身の闇。この敵、アヌビスは、そういったモノに決して干渉しない。あるいは、干渉し切れないんだ。確かに、オレのトラウマや闇を副次的に引き摺り出す可能性はあるかもしれない、けれども、こいつの攻撃はその程度でしかない。個人の恐怖を引き摺り出す事なんて基本的には出来ないんだ。言うならば、オバケ屋敷に入って、こういったオバケは怖いだろう、といったものを目の前に持ってきているようなものだ。オバケを見て、かつて見た遺族の死体や幼年時代のいじめっ子の顔をフラッシュバックして思い出すかもしれない、けれども、それは副次的に引きずり出されるだけで、オバケ自体には個人そのものに干渉出来る力なんて無い。だからこそ、こいつは“弱い”と言い切れる。いいか、幻影の炎なんかに焼かれる苦痛よりも、自分自身の心の闇から生まれ出る炎の方が、どれ程、苦痛か」

「いや、しかし、こいつは人間の根源から恐怖を引っ張り出してくるんじゃないのか?」

「だから、“人間の根源”であって、“オレ達の根源”じゃないんだ。だから、こいつは精神攻撃といっても、オレ達にとって、“本当の恐怖”なんかじゃない、分かるか?」

 空間把握はこの塔の中では通じない。

 しかし。

 オレはもう、この塔の構造をまるで知り尽くしているかのように。

 この塔を抜け出せる、と思った。

 亡者の塊を、オレは剣で一刀両断する。

 またも、呻き声を上げていたが、オレは気にも留めなかった。

 そして、二階、一階も似たような怪物が現れたが、もう気にも留める事は無かった。

 地上へとオレ達は、無事、登り終える事が出来た。

 

 

 相変わらず、夜が広がっている。

 海の風が何故か、酷く心地よい。

 外の空気だ。

「で、アヌビスの能力は何だったんだ?」

 ケルベロスはオレに訊ねた。

「“人類”の心の深淵に眠っている恐怖。恐怖という影の部分を攻撃のエネルギーとして呼び覚ますんだろうな。そして、それを『地獄の世界』の能力の残滓によって、地獄のイメージと融合した。そんな処だろう」

 オレ達は、地上に戻った後、ある場所を目指した。

 それは、塔の。上へと続いている部分だ。

 もう、恐怖は無い。

 アヌビスの齎す影は。

 むしろ、人間の持つ集合的無意識と呼ばれるものに感応するのかもしれない。

 だからこそ、オレ達は打ち勝つ事が出来た。

 もし、仮に。

 アヌビスが個々のトラウマに起因する能力だったのならば。

 きっと、オレ達は抜け出す事は出来なかっただろう。

 青い悪魔、ブラッド・フォースならきっと、無理だ。

 オレ達個人ではなく、人間の意識に存在しているかもしれない、集合的無意識。

 その根源的な恐怖。

 地獄のイメージ。

 それらに働き掛ける能力。

「アヌビスは討伐出来る筈だ。この“カルマ・タワー”ごと爆破してしまえばいい。これで、ハーデスの遺言も少しは守られるだろう」

「ああ……」

「いや、違うか……」

 オレは自分で言った言葉を否定する。

「ひょっとすると、遺しておいた方がいいのかも。此処は、アサイラムの前の世界、だ。刑罰が極端であった頃の世界。それを反転させて、今のアサイラムがある、なあ、ケルベロス。このカルマ・タワーという世界を、きっとハーデスか、もしくはチェラブは見せたかったんじゃないだろうか」

 オレ達は、上へと続く塔へと向かった。

 ケルベロスに壁面を切り裂いて貰う。

 しばらく進んでいく。

 また、何かが襲ってきても、打ち勝つ自信はある。

 主人公が地獄巡りを行った物語を幾つか思い出す。彼らは恐怖に打ち勝って、地獄の世界を眼に焼き付けて帰ったのだ。

 オレは進むうちに気付いた。

 ああ、なるほどな、と。

 この上へと向かう塔は。

 これといって、刑罰の後が見当たらない。

 しかし、しばらく進むと、妙な部屋に辿り着いた。

 ここは。

 罪を終えた罪人達を、天国へと送ったのだ。

 そこには大量の寝台と、大量の死体が並べられていた。

 干乾びた死体の数々。

 彼らの頭には電極が刺されており、手首には点滴のチューブが刺さっている。

 みな、廃人のような顔をして死んでいる。

 そう、刑罰を終えた者達は例外無く。

 精神を破壊し尽くされて、植物人間になったのだろう。

 これが、地獄の世界の処置。

 ウォーター・ハウスが嫌悪して倒した敵。

 アサイラムが作られる前の、犯罪者達の処罰。

 オレは鼻を鳴らした。

「帰るか」

 オレは踵を返す。

 アサイラムに報告すればいい。

 それから、オレはそろそろ、この仕事を止めようかと考えていた。

 どうせ、デス・ウィングは倒せない。

 最後にウォーター・ハウスを倒して、アサイラムから離れようと考えている。

 その後は、只のドーンのハンターとして凄そうと考えている。

 オレの道。オレの未来。これから先。

 それを夢想して考えるのもいいかもしれない。

 ああ、忘れていた。

 あの、アイス・エイジでのフレイム・タンに会おう。

 会って、どうするかは考えてはいない。

 只、会って。

 きっと、決着を付けようと。

 オレ達は塔の外へと出た。

 ケルベロスは携帯を弄りながら、ヘリに連絡している。

 携帯の日付を見ると、何故かもう四日もの時間が経過していた。

 …………。

 罪人達が今もなお眠る塔。

 アサイラムは、きっと試行錯誤の上に作られたのだろう。

 遠くでは、一筋の閃光が生まれた。

 此処は、二ヶ月に一度くらいには、太陽の明かりが見えるらしい。それが、今日なのだろう。日の出だ。



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