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舞緋蓮  太刀の壱  第弐回

          

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 千夏は、日もとっくに暮れた午後八時。茶屋がその日の営業を終了した後も、

店の 軒先で兄・勇人を待っていた。

 彼が、定めた時刻を違えようとも約束を果たそうと、彼女のもとを訪れるかもし

れない場合を考えたのだ。

 しかし不安に苛まされながらも待っていたその甲斐もなく現れない兄に、彼を

案じる気持ちを千夏は抑えられなくなった。

 そこで彼の安否を確認するべく、この夜分にここ両国からは、それなりの距離

にはなるが、江戸川の本流と支流の間にある市川の実家本邸に向かって、千

夏は走った。

  夏の夜道の中を走ることは体中から汗が流れるし、頭は熱を帯び、喉も咳き

きれ辛かったが、そんなことに気を殺がれる間もなく、千夏は遮二無二駆けた。

 整備はされているとはいっても、灯りのない夜道を行く途中、防災の為に街路

巡回を行う侠客とおぼしき男達と、三度すれ違ったが、男達は一様に、千夏に

対して声をかけよる事はしなかった。

 それ程に、血相を変え、息を切らし、汗だくの顔で走り急ぐ千夏の姿は、気圧さ

れるような凄みがあったのだ。

 それもそうなのだ。

 今の彼女の身の内に渦巻く不安感は、それほどにひっ迫したモノだったのだか

ら。

 ―――少しでも、その足をとめて息を継ごうものならば、その間隙をのがさず、

彼女の身の内に巣くう陰が全身をすくみあがらせ、身動きが取れなくなってしまい

そうな。

 そうしているうちに想像しうる恐怖が現実のモノになってしまいそうな感覚。

 その感覚に呑まれることは、認めたくない可能性をゆるすことに他ならなったし、

だからこそ、それに必死の想いで抗わなければ―――恐れていることが現実にな

ったのならば、千夏はどうしたらいいのか解からない。

 だから千夏は、大切な人である兄の無事を、亡き母に祈る思いで走り続けた。

 そんな彼女の頭上で、月が輝いていた。

 赤く光り、欠けたスガタは、血に染まった刃物のようであった。

 

 市川、本邸。

 

 


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舞緋蓮  太刀の壱  第弐回

 辿りついた実家は、堅固に構える門のかがり火も、その門衛も、彼女の知る普

段通りのおちつきであった。それとは対照的に汗まみれで息をきらせて駆け込

んできた本家の息女を、彼ら門衛は何事かと迎え入れた。

「お兄ちゃんは……、兄、勇人はいますか? ……今日、組の中で、何かあった

んですか?」

  息をつく間もなく、懸命な勢いと面もちで問い掛けてくる令嬢に、門衛の男達

は一人に水を持ってこさせるように指示を出すと、千夏にはまず息をつき、おち

つくことを勧めた。

  しかしそれに対し、千夏は気色ばんで叫んだ。

「私の事はいいんです! それよりも、何事かあったんですか。おかしいんです

。今日は兄と約束があったんですが、来なかったんです。こんな事、今まで一度

だってなかったのに。……お兄ちゃんに……、何かあったんじゃ……」

 令嬢の余りの狼狽ぶりに慌てながらも、息を継ぎながら話すその内容から、彼

女の現状のおおよそを把握した門衛の男達は、彼らに周知の事実を述べた。

 それによれば、兄・勇人は本日、現頭首である父・飛呂刀と、その側近にしてシ

マの四隅の守護役である “四聖” を伴って、神田にある勇人の義兄弟宅 に向

かい、何かの会談を行っているという事だった。

 事情をきいた千夏は、まだ長時間走り続けてハイ気味になっている頭の状態を

、なんとか鎮め下げることが出来たようで、彼女はまず、今きいた情報を整理す

ることに努めた。

 神田にいる兄の義兄弟といえば、千夏も幼い頃からよく遊んでもらい、親しい間

柄である人物。その実力と勇人からの信頼により、次期四聖の一角と目される、

信斗という男の事だ。

 兄が彼と共にいるという事は確かなようで、その所在が確認できたというだけで

も、千夏はとりあえず一息つける心地になった。それに伴い、ならば市川の本邸

にまで来るよりも、両国の近隣であった信斗の下を真っ先に訪れ、情報を求める

という選択をとっていれば、それで事は済んだのだ、という考えに至る余裕が生ま

れた。そして、組の者が持ってきてくれた水筒の水で喉を潤すと、 次の確認に移っ

た。

「では兄達、いえ、頭首達はいつ戻られるのでしょうか。よろしければ皆の帰還を

待たせてもらいたいのですが」


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舞緋蓮  太刀の壱  第弐回

 令嬢の言に対し、頭首達がいつ戻られるかは正確なところは皆も聞かされてい

ないという事、しかし今日はもう夜十時を回る遅い時刻であることから、今夜中

に戻るかも定かではないので、千夏は屋敷に泊まっていってもらうように話は

運んだ。

  夜も更けた時刻に風呂を沸かしてもらった千夏は、汗をながしながら思った。

 今日の兄達の用件は緊急の事だったのだろう。しかし、おかしな点はあった。

 何故この本邸で話をせず、わざわざ離れた配下の拠点に会談の席を設けたの

か。 彼女は今日、自分がその近辺にいながら、いうのも難ではあると思いなが

らも訝しんだ。あそこは今なお偉容を誇る江戸城を挟んだ“西側”との境界線付

近である。刀郷の東西を二分する大勢力、その両陣営を分かつ地帯であり、そ

れ故に彼らの末端的存在が多く暗躍する危険度が高い場所だ。そんな所にわざ

わざ頭首を呼ぶのは、堅気身分の千夏の考えでも危うい事であると知れようも

のなのに。

 それになにより、兄・勇人が自分との約束を二の次にしてまで、父・頭首に話す

ことを選んだそれとは、一体何であったのか……。

 疑問が浮かぶばかりであったが、とりあえずは兄が無事らしいことは判ったの

で、それは明日にでも戻ってきた兄に対し、意地悪っぽくもいたずら心いっぱい

に問い詰めればいいことだ、と思い、湯からあがると客間に用意された布団に横

になった。

 風呂に入る前の状態よりは、心身ともに、おちつきがある平素加減が戻ってい

た。

 そうしておちついてきた頭で、千夏は自分がまともな夕食もとっていないな、 と

思いつつも、精神的な疲労が大きかったのだろう、おそってきた眠気のままにす

ぐさま眠りにおちた。 時刻も日付が変わろうとしていた頃であった。

 

 だが明くる日―――一日中、本来なら学校に行かなければならないところを曲

げて、千夏は本邸で兄達の帰りを待っていたが、兄も父も、父の四聖も、誰一人

として組の本拠地である市川の屋敷に戻ってはこなかった。

 シマの随所や、東西の境界線付近には、互いの陣営の情報屋が多数歩き回って


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舞緋蓮  太刀の壱  第弐回

おり、緊急の事態においては、いち早くその情報を大元の組に知らせる体制が

整っているのだが、その筋からの情報に関しても何もなかった。

 これに対し本邸に残る幹部格の武侠は、自組の頭首が本陣をはなれて時間が

経つというのに、その人物に対しての情報が何も出回っていない、目撃証言さえ

ないという現象を不審にとらえはじめた。

 そこで翌朝、本邸の幹部二名は、強く希望する千夏を伴って神田の信斗宅に向

かうことになった。

 次期四聖候補である信斗は、千夏の実家の組でも立場が上に位置する者だ。

 兄・勇人と同い年の当年二十歳の身で、使用人を抱える一家の主である武侠。

 その彼の屋敷に着いた千夏達は、すぐさま異常に気づくことになった。

 信斗の屋敷は―――もぬけの殻であった。

 出迎える使用人もいなければ、屋敷の中に人影も認められない。

 正しく一人もいない。

 本来ならこの屋敷に居ると考えられる筈の六人の姿さえない。

 しかし彼女達は、屋敷の中を見て回るうちに、ここに確かに人が居たであろう痕

跡を発見した。

 血しぶきの痕と、血のり。

 一番広い奥の座敷。

 そこは死臭ただよう惨状の跡が刻まれていた。

 幹部の男二人は、明らかにここで刀が振るわれ、誰かが―――もっと部屋の実

情を観察して語るならば、複数、それも五人のここに居たであろう組の関係者が

斬られたという事を理解した。

 座敷に点在する大きな血だまりは五つあったからだ。

 しかもこの出血の量からして、五人は確実に絶命している。

 だが、これだけ派手に血の池をつくっておきながら、当の遺体がその場にはなか

った。

 三人はあと、目を通していない離れの道場に向かうことにした。

 この時の千夏の心境はことさら多くを語ることもないだろう。―――彼女は只々、

恐怖を抑え、大切な人の身を案じていた。その目に否定したい現実が映らないこ

とを願いながら。

 渡り廊下を通じ入った稽古場―――道場内。


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舞緋蓮  太刀の壱  第弐回

 そこで千夏達は、この屋敷を訪れて初めて、生きた人間を目にした。

 道場には二人の者が、千夏達を待っていたかのような佇まいで居た。

 一人は若い男。

 短い髪が左右非対称にカットされていることが特徴的だが、それ以上に腕な

どにおびただしい数の刀傷がある。その男は自身の身長よりも遥かに長い大太

刀を肩にもたれさせ立っている。

 もう一人は男とそう歳の変わらない風の若い女性だった。長い黒髪が美しい麗

人。

 道場の上手を背に、正座をして居をかまえたその女性の膝の前には刀袋に納め

られた刀が置かれていた。

 二人の素性の知れない男女を認めた幹部達は、即座に身構え自らの帯びる刀の

鯉口を切る。   

 しかしそれを千夏の言葉が遮った。

「雪絵さん……。どうしてあなたがここにいるんですか……?」

 千夏の言葉は、驚きと疑念とに満ちていた。

 それを隣で耳にした男達は、お嬢さんがこの何者かと既知の間柄であることは理

解できた。それにより警戒を緩めかけた二人だったが、眼前の男が手にする 大太刀

に目をとめた瞬間、戦慄した。

 その大太刀の三分の二を占める、鍔元から斬先にかける蒼から水色のグラデーシ

ョンの鞘。そこに施された “八方睨みの水辰” の紋。

 その印が刻まれた大太刀が、如何なる謂れのあるものかを理解した男は激昂し叫

んだ。

「貴様等ァ! ご頭首達に何をした! そこのお前がもつ大太刀は、我が辰ノ 神一

家の伝家の宝刀! それが何故、この状況でここにあるのだ! 答えろッ ! その内

容によっては貴様等、命はないと思えァ!」

  幹部の男の言が意味する処は、千夏にも理解はできた。しかし困惑しながら彼女は

、今、自分達が直面している事態の全てを、目の前の女性―――坂本雪絵が知り得

ているのだと察し、彼女に対し、自らの疑問を投げかけた。

「雪絵さん。お兄ちゃんがいないの。約束があったのにも関わらず、連絡もなくって、

本邸にも帰らないの。やっぱり何かあったんだわ。あなたがここにい るのは、何か事

情を知っているからなんでしょう?だったら教えてください」



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