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居酒屋「路地」

 山手線の目黒駅からほど近いところで私は生まれ育った。今住んでいるのは江東区である。こんなに近くに暮らしていながらずっと長い間、目黒を訪れたことが無い。何故ならそこには辛い思い出しかなかったからである。 それなのに今日、会社の用事で外出した帰りに、目黒に立ち寄ってみようと思ったのはどうしてだろう。そこに行ってみたところで、昔の住人は誰一人住んでいないであろう。高度経済成長の過程で都心の町は大きく変身し昔の面影などどこにも止めていないはずである。それでもそこに行ってみようという気になったのは、定年を間近に控えた年齢のせいかもしれないし、あるいは妻に先立たれて気弱になっていることが影響したのかもしれない。 私は会社に電話を入れ、廻り退社することを告げた。定年前の閑職にいる私は、比較的自由に出勤・退社が出来る。江東区の自宅のマンションに帰っても誰が待っていると言うわけではない。いたって自由な身なのだ。

 

 目黒駅を降りて辺りを見回す。四十数年振りに見る駅前は案の上大きなビルが林立し、昔の面影は全くない。それにしても風が強くて寒い。会社を出てくるとき、コートを着てくればよかったと悔やみながら昔の記憶に頼って歩き出した。道筋の建物はすべてビルに建て替えられて景色は一変している。しかし道路はどうやら当時のままのところを通っているらしい。夕暮れ時の薄明かりの中を十五分ほど歩いただろうか、見覚えのある坂道に出た。そこは商店街が終わるところで、それから先は住宅街になる境目であった。その坂はかなり急な上りになっていて、両側には大きな邸宅が建ち並んでいる。ここまでくると人通りはめっきり少なくなる。その坂道を登る途中、街燈の明かりがともった。

 足を止めて息を整える。遠い昔に母と二人息を切らせてこの坂道を登ったことが鮮明に、そしてやるせなく思い出された。そんな思いを振り切るようにして再び私は歩き始めた。この坂道からもう少し先を横に入った辺りが、私の生まれ育った所であった。

 

 狭い路地に足を踏み入れた私は不思議な感覚に囚われていた。夕闇の中にしもた屋風の低い建物が黒いシルエットとなって路地の両側に建ち並んでいる。暗くて細部が見えないが、昔のままの家並みがそこにあるように思えた。マンションあるいは建売住宅の街並みに変わっていることを予想していた私は、信じられない情景に接し、しばらくそこに立ち竦んでいた。夕暮れ時は逢魔が時だという。私は何者かに誑かされているのだろうか。それとも何かの拍子でタイムスリップしてしまったのだろうか。私は自分に落ち着くように言い聞かせ、路地の奥に向けて歩き出した。路地の入り口辺りは表通りの灯かりが差し込んで明るいが、奥の方は古ぼけた街燈が一本あるのみで薄暗い。しかもその街燈の蛍光燈が消耗しているのだろう、ついたり消えたりしている。両側の家々は黒々としていて人の住んでいる気配は無い。五十メートルほど歩いて路地の突き当たりまでやってきた。はたしてそこには長屋らしき建物があった。点滅する灯かりの下でよく見ると、荒れ放題の破れ寺といった様相で、いまにも崩れそうである。そう、この棟割長屋の一画で私は生まれ育ったのだ。過ぎし日のことが次々と脳裏を横切った。

 

 父は金銭的にも、女にもだらしの無い人で、母は苦労のし続けであった。母は私の養育を考え我慢していたが、父が私に対しても暴力を振るうようになり、ついに堪り兼ねて離婚する。私は母に付いてここから離れたが、母の苦労はそれで終わることなく死ぬまで続いた。母は私が社会人になった翌年に亡くなったが、親孝行らしいことをしてあげられなかったのが今も悔やまれてならない。 父は母と別れた後もこの路地奥の長屋に住み続けた。その父が二十年ほど前に死んだ時、私は地方に転勤していた。父の死が私に伝えられたのは死後一週間も過ぎた頃であった。葬儀一切は附近の人達が面倒をみてくれたそうである――――。

 

 どの位そうして佇んでいたことであろう。急に寒気がして我に返った。戻ろうと思い振り返り路地の入り口の方を見た。人の気配はまったく無かったはずだが、路地の途中に何やら灯かりが見える。訝しみながら近づいて行くと、その光は小さな電飾看板で“居酒屋 路地”とある。私が路地に入った時、気が付かなかったのは、その時にはまだ点灯していなかったからなのであろう。看板の灯かりがその店の入り口部分をぼうっと浮かび上がらせている。バーかスナックといった洋風の店構えで居酒屋とはとても思えない。風が相変わらず強く吹いていた。コートを着ていない身体は冷え切っており温かいものを口にしたかった。私は思い切ってドアを開けた。

 

 幅広のカウンターがある。その背後の棚には洋酒の瓶が並んでいる。照明は間接照明でかなり光量を落としこんでいる。店の内部はバーそのものの造りである。店の中を見渡すが誰もいないので、どうしたものかと思案していると音楽が流れ出し、奥の柱の陰から和服姿の女性が表れた。多分有線の音源を入れていたのであろう。

「あら気が付かないでごめんなさい」

 鄙には希な美人というフレーズが咄嗟に閃いた。三十台の後半といった年頃か。切れ長の目をしていて和服が良く似合う顔立ちだが、予期せぬ者が入ってきたというような警戒の眼差しである。

「今おしぼり出すわ。どうぞお好きなところにお掛けになって」

 どうやら私を客と認めたらしい。

「いや驚いたな」

 私はカウンターの椅子に腰掛けて熱いおしぼりを受け取った。その温かさが気分をなごませる。顔にも押し当てて温かさを堪能する。

「始めての方は皆さん驚くのよ、こんなところでよく商売になるなって」

 得体の知れない客に気持ちを許していないのであろう、表情を変えずにもの憂げに話す。

「うん、今夜は何もかも驚きだよ、まるで夢を見ているようだ」

 私もこの店の得体が知れないので落ち着かず、夢の中にいるような感覚が続いている。

「何を召し上がります」

「日本酒はあるの?」

「もちろんあるわ、居酒屋ですもの、熱燗でいい?」

「ああ……だけど居酒屋って風じゃないね。店の造りはまるっきりバーの雰囲気だ」

  私は今夜の驚きの一つを口にした。

「えー、二年前まではバーだったの。だけどバーテンがいなくなっちゃって、私カクテルなんて作れないし、それで居酒屋にしちゃったの」

  私の話し相手をしながら酒の燗をしたり、つまみを皿に盛ったりしているが、話し方同様ゆっくりとした動作である。

「だけど酒の肴はバーのときのままなのよ。煮たり焼いたりするものはないの。匂ったり煙が出たりするのはご免だわ」

「随分勝手だね」

「そうよ、店も私の気が向いたときだけ開けているの。今日は予約のお客様があるから開けたのよ」

「それじゃこの店は予約が必要な会員制の居酒屋って訳か?」

「まあそんなところね。固定客がいるからなんとかやっていけるの」

 これだけの美人だから贔屓にする客がいるに違いないが客あしらいが良いとは思えない。誰に対してもこのような不愛想な態度をとるのだろうか。先程から私と、目を合わせようとせず、俯き加減で話す。

「それにしても、あなたのような人がこんなところでねぇ……いや失礼、こんなところなんて」

「誰だって驚くわ、東京にこんなところがまだ残っているなんて」

 投げやりというか自嘲気味というか、とにかく素っ気無い口調である。しかし客に媚びないそんなところが存外魅力となっているのかもしれない。

「本当にびっくりしたよ。まだこの路地が残っていたとはねぇ」

 何故この一画だけが時代から取り残されたように、昔のままの姿で現存するのか。それが私の最大の驚きであった。

「お客さん、もしかして昔ここに住んでいらしたんじゃないですか」

 意外と鋭い直感力の持ち主のようである。

「ああ子供の頃にね、奥の棟割長屋に住んでいた」

 私は先程見たばかりの荒れ放題の建物を思い浮かべた。

「そうだったの、あの長屋に……」

 私の素性が少しは知れたからか私と初めて目をまともに合わせた。

「今日四十数年振りにここに来てみたんだ。まさかこの路地が残っていたなんて,何て言うか……」

「亡霊に出会ったような気がしたんでしょう。ここのこと、ゴーストタウンって呼ぶ人もいるんですもの」

「うん、悪夢を見ているような気分だ。でも何故ここは取り残されてしまったのだろう」

「袋小路で小さな家が多かったでしょ。地上げ屋があまり魅力を感じなかったらしいわ。でもバブル絶頂期に地上げ屋がついにここまでやって来て買収を始めたの。大部分の人が家を売ったわ」

 声も幾分大きくなり、以前よりは早口になっている。思ったよりも無愛想ではないらしい。

「そしてバブルの崩壊か」

「全部買収出来ずに虫食い状態だったからその後誰も買い手がつかなくて……それでこのあたり一帯はゴーストタウンと化したわけ」

「うーん、するとこの店は女将の……いや何と呼んだらいいのかな。ママって呼んだ方が似合いそうだけど」

「女将でもママでもどちらでもお好きなほうでどうぞ」

 「それじゃママって呼ばせてもらうよ。ところでこの店はママのもの?」

「いーえ、ここは地上げ屋直営の居酒屋よ、私は雇われママってわけ」

 至って真面目な口調で言う。その言葉に、(もしかしたらここは暴力バーではないか)などとあれこれ考えを巡らし戸惑っていると

「なぁーんてね、冗談よ。私の店だから安心して飲んでいって」と言って初めて笑顔を見せた。

 それまでなんとなく落ち着かなかった私だがその笑顔を見て腰を落ち着かせて飲む気になった。 ママに好きなものを飲むように勧め、私はバーボンのソーダ割を飲むことにする。やはりこの店は洋酒の方が良く似合う。

 

 かれこれ一時間近く経っただろうか、そろそろ帰ろうかと思った時に客がやって来た。六十歳台と思しき男性が一人。かなり酔っている様子である。どうやら予約していたという客らしい。

「よっ!これは珍しい。先客がおみえですな。おやそれもいい男だ」

 こちらに近づいてくる足取りはふらついている。私は黙ってその男の顔を眺める。ツィードの上着にアスコットタイ、手首には金のブレスレットと品が良いとは言えないが歳のわりには中々おしゃれである。

「いやどうも、今日は遅れをとっちゃったようだね。いつもは俺が一番乗りなんだ。今日はあんたに負けました」

 私に向けて話し掛けてくる。私は答えようがなく黙ったままである。そんな私の困惑ぶりをみてママが口を挿んだ。

「ほんと今日は遅かったわね、早くから店開けて待っていたのに」

 その客はママに向けて手を振るような仕種をして

「私はね、こちらのお客さんと話してるの。随分お早いお越しですね」

「久しぶりにここを訪ねてみたら、この店があったと言うわけで……偶然の飛び込み客です」

  私は不本意ながら言い分けめいたことを言う。馴染みの客でしかも予約しているというその男を立てなければという意識がどこかで働いている。男は私の隣に座り話し掛けてくる。

「久しぶりに訪ねたとおっしゃいましたね」

  呂律の廻らぬしゃべりである。

「すると何かい、昔ここに住んでいたと……そういうことかい?」

 からまれそうな感じがする。煩わしいので帰ってしまおうかとも思うのだが、その一方で美人のママを相手にもう少し飲んでいたいという思いもある。結局後の方の思いが勝ってもう少し様子をみてみようと腹を括った。

「ええ、ずっと昔のことですがね」

「そりゃ奇遇だ。おーいミサちゃん、こちらの方もね、昔ここに住んでいたんだってよ。ええ俺もね、実言うとここに住んでたんだ」

 ママの名前はミサというらしい。そのミサが男の前にやってきてカウンターに銚子やら小皿などを置く。

「それなら互いにご存知じゃないの?」

 そう言われてみればその可能性はある。男は自分を森田と名乗り、いつ頃までここに住んでいたか私に尋ねた。私は中学生になるまで、路地の奥の長屋に住んでいたことを告げた。確かに同時期に二人はこの路地で暮らしていたことがあるようだ。しかし互いに相手を思い出せない。そこで手がかりになるようなことを更に話し合ったのだが、その結果森田の家業は和菓子屋であること、家は路地の入り口にあったことなどが分かった。森田は私より7歳ほど年上であった為に、一緒に遊ぶということもなく知り合う機会がなかったのだ。 しかし森田は私の父のことを良く知っていた。父が靴の修理業をしていて大酒飲みだったこと。そして酒癖が悪く、よく母に暴力を振るっていたことなど、私が思い出したくないことを森田はいろいろと話した。 森田は家業を継いでここにずっと暮らしていたが、バブル時代に高値で土地と家を売り払った。今は松戸に住んでいて悠々自適の生活をしているのだと言う。

「それでここが懐かしくてね。毎週こうしてやってくると言う訳なんだよ。いつもはね一番乗りなの、それが今日はいい男の先客がいてね……」

 金に不自由なくのんびり暮らしているという森田はさしずめ楽隠居と言った身分なのであろう。

「それからね、俺酔っ払っているだろ。ここに来る時はいつも酔っ払ってくるんだよ。なぜだか分かるかい?」

 この時間に、この酔い方である。相当早い時刻から飲んでいるに違いない。ということはアルコール依存症か……そんな思いがしたが私は分からないというように首をひねってみせた。

「俺はね、このミサちゃんに惚れてるの。毎週口説きにやってくるんだよ。なぁそんなこと恥ずかしくて、素面じゃ出来ないだろ。だから酒飲んでくるんだよ」

 ミサはあまり構わないようにというように私に目で合図をする。

「ミサちゃんはね、おととし旦那を亡くしちゃってね。それ以来一人でこの店やっているんだよ。偉いやね、女の細腕で、それもたった一人でだよ。だけどほんとはね、この店売ってここから出て行きたいんだよ。だけどこんな虫食いじゃなぁ、誰も買う人はいないよ。亡くなった亭主が頑固者でねぇ、皆が地上げ屋に家を売った時に一緒に売っとけば良かったんだよ」

 森田はなおも何かモゴモゴ言っていたが私には聞き取れなかった。そのうちカウンターに突っ伏していびきをたてて寝てしまった。 私はミサに頼まれて、酔いつぶれた森田をソファーに運ぶ。

「すいません、とんだお騒がせで。普段は酔い潰れることなんてないんだけど。森田さんしばらくしたらタクシーで帰っていただくから、良かったらもう少しいらしていただけないかしら」

 腕時計をみる。まだ8時前である。ミサと二人で飲めるなら否応はない。

「ほんとうにごめんなさいね。森田さんもいろいろあるらしくて、飲まずにはいられないのよ」

 視線を森田の方に向けて呟くように言う。表情は暗く何事か考え込む面持ちである。

「そりゃ誰にも悩みはあるさ、僕にも貴方にも……」

 ミサは上目遣いに私を見つめ、また視線を森田の方に向けた。森田の悩みを知って同情しているのかもしれない。

「そうね、私にも森田さんにも、そしてあなたにも……」

 私は改めてソファーで眠る森田を見た。人生に疲れた初老の男の姿であり、その顔色はどす黒く、身体のどこかに疾患を抱えているのではないかと私に思わせた。

 

 しばらくして森田は眼を覚ましソファーに腰掛け、頭を振ったり首を回したりしていた。そしてズボンのポケットを探りマッチを取り出した。震える手でマッチを擦る。一本目は着火せず、二本目でようやく火がついた。私がいることなど忘れているのか、放心したような表情で燃える炎をじっと見つめている。

「あらお目覚めですか、お水差し上げましょうか」

 ミサはそう言いながら森田に近づいた。そして燃え続けるマッチを持つ森田の手をとり、息を吹きかけ火を消した。意外に素早い動作であった。森田は我に返ったように視線の焦点をミサの顔に合わす。そして両手でミサの手を握りしめ、真剣な様子で何か話し掛けている。ミサはその手を振りほどこうとするのだが、森田が放さないので仕方なく森田の隣に腰を下ろす。私のことを気にしているのか、二人の声は小さい。しかし離婚とか結婚という言葉が切れ切れに聞こえてくる。どうやら森田はミサに結婚を迫っているらしい。ミサは真面目な態度で受け答えをしている。そんなミサの様子が意外でありジェラシーに似た思いが私の胸をかすめた。 しばらくしてミサは森田を表通りまで送ると言って二人で店を出ていった。タクシーを呼んだのだが、路地の中まで入ってこれないのだ。

 

 私は店番を頼まれた形になり、一人でバーボンを飲んでいた。ミサが森田と店を出てからかなり時間が経ったようである。客は依然として来ない。BGMはナットキング・コールのモナリザが流れている。することもなく、カウンターの上を何気なく見渡す。そこにあったマッチを手にとってみる。「Bar路地」という文字が小さく印刷されている。この店がバーだった頃作られたものだろう。先程、森田がマッチに火をつけていたが、そのマッチかもしれない。それにしてもマッチの炎を見る森田の様子は異様であった。私もマッチの軸を一本とり、火をつけた。 動物は火を怖がるが、人はむしろ安らぎを憶えるという。成る程こうして燃える炎を見ていると心がなごむ気がする。マッチは最後まで燃えないで途中で消えてしまった。私はもう一本マッチを擦る。アンデルセンの童話に登場するマッチ売りの少女がするようなことを、中年男がしていることに気付き苦笑いする。 マッチの燃え殻を灰皿に落とした。それにしても森田は何を思ってマッチの火を見ていたのだろう。ひょっとすると森田は放火の誘惑にかられていたのではないだろうか。この店が燃えてしまえば、ミサは商売を続けられないだろう。そうすれば結婚に踏み切ってくれるかもしれないと森田は思わなかったろうか。あるいはミサのことを想って放火することもありうる。このあたり一帯が焼失し更地になれば買い手が現れるかもしれない。そうなればミサはここを売却することが出来る。 この路地が燃え上がる情景が眼に浮かんだ。あの辛い思い出の詰まった棟割長屋が真っ赤な炎をあげて燃え落ちてゆく。私はグラスにバーボンを注ぐと、あおるように一口で飲み干した。そしてマッチをポケットに入れて外に出た。相変わらず強く寒い風の中を路地の奥に向かって歩き出した。

 

 私は、闇の向こうに何か白い影のようなものが浮かんでいるのに気が付いた。私はぎょっとして立ち止まった。白い影が近づいてくる。

「あー寒かった、ほらこんなに手が凍えちゃって」

  白い影はミサになって両手で私の手をとると胸の高さに持ち上げた。

「あ、あんまり遅いので様子を見にきたんだ」

 思いがけないミサの動作にどぎまぎして、言い訳じみた口調になる。

「ごめんなさいね、長くお待たせしちゃって、タクシーが間違えたらしくて、中々来なかったものだから」

 ミサの口調には言い分けじみたところが感じられない。

「初めていらしたお客様だというのにいろいろとご迷惑をおかけしちゃって。お詫びにうんとサービスしちゃうからまだ帰らないで、いいでしょ?」

 ミサはそう言って、私の手をとって店内に入った。

 

 その音が消防車のサイレンの音と悟ったのは数分前である。今は益々音が大きくなり、こちらに近づきつつある。店の前を駈けて行く人がいるような気配がする。この路地をこんな時間に人が走ることはただ事ではない。ミサと顔を見合わせ外の様子を伺う。

「外に出てみよう、火事かもしれない」

 私は入り口の扉まで行ってノブに手をかけミサを見る。ミサは強ばった表情で動こうとしない。ドァを開けた。何人かの人が私の目の前を駆け抜けて行く。その行き先を見る。路地の奥が真っ赤に染まっている。

「火事だ!路地の奥が火事だ」

 ミサは腰が抜けたのか数歩よろめくように歩いて立ち止まった。私は扉から半身を外に出し、路地の上空を眺める。火の粉が舞い上がりこちらの方に降りかかってくる。この分ではこの店の類焼は免れないだろう。

「こりゃ駄目だ、逃げた方がいい。大事なものだけ取りまとめて、すぐここを出よう」

 やっと扉までやってきたミサに大声で叫ぶ。路地の奥の方へ駆け込んで行った野次馬達が、火の粉の勢いに追われて戻ってきている。表通りから次々にやってくる新手の野次馬と合流して、狭い路地が人で溢れている。警官や消防士も駆けつけてきたようで制止する声や警笛の鋭い響きが渦まいていた。ミサは先ほどから一切しゃべっておらず、放心したような様子である。私はミサを抱えるようにして店内に引き入れ扉を閉めた。店の中はカラオケ用の防音工事が施されているのか、外の喧燥が嘘のように静かである。

「大丈夫? 確りして」

 私はミサの肩を両手で揺する。

「えぇ、すいません」

「貴重品や大切なものはどこにあるんだい、早く取り出した方がいい」

「二階に……」

  ミサを急き立てるようにして2階に上がる。照明のスイッチがどこにあるのか分からないので暗いままの部屋に入る。和室らしいその部屋の窓がぼんやりと薄赤い。私は窓のカーテンを開きながら、ミサに大事なものを取り出すように声を掛ける。遮光性のカーテンだったのだろう、カーテンを開くと部屋が赤く染まった。窓を開け、身を乗り出して路地の奥の方を見る。すでに炎が斜め向かい側の家から上がっている。顔に熱気が伝わり、ごうごうという燃える音や何かが弾ける音が聞こえる。火の粉が降り注ぎ異臭が鼻を突く。私は路地の奥の方が盛んに燃える様を凝視していた。四十年ぶりの訪れを待っていたかのように、私が生まれ育った 建物が今まさに燃え尽きようとしている。ミサはいつのまにか私の隣にきて、そんな情景を見入っている。 階下に誰か入ってきた気配がした。何か大声で怒鳴っている。多分早く待避しろとでも言っているのだろう。私はふと気が付いて「今夜どこか行くあてはあるのかい?」とミサの耳元で言った。 騒音で私の声が聞こえなかったのかミサは無言である。

「よかったら私の家にこないか」

  こんどは大声で叫んだ。ミサが何か呟いたがよく聞こえない。

「何だって?」

 私は耳をミサの口元に近づけた。

「怖いわ……」

 燃え盛る炎を見たままの、小さな呟きであつたが聞き取ることが出来た。そう言えばミサの身体が小刻みに震えている。

「とにかくここは危険だ、早く逃げよう」

 

 私はミサとタクシーの中にいた。これから江東区の私のマンションに行くのである。ミサは疲れたのか先程から眠っている。穢れのないマドンナのような寝顔である。私も疲れているが神経が高ぶって眠れない。 あの火事は、火の気のないところから燃え出しており放火の可能性が高い。放火したのはミサか森田か、それとも二人で……  しかし実を言えば、マッチをポケットに入れて、店を出てからしばらくの間のことを私はよく覚えていない。もしかしたら、私が火をつけたのか? まさか…… 様々な想念が次々に湧いて出て、集中した思考が出来ない。ただはっきりと自覚しているのは、ミサの為に出来るだけのことをしてあげたいという私の気持ちである。つまり私はミサに惚れたということである。しかしその一方でこの成り行きに危険な匂いを嗅ぎ取ってもいた。 その時タクシーが左折し車体が揺れた。ミサは一瞬眼を開け、不安そうな表情を見せたが、私の視線に気付き、かすかに微笑んだ。私が肯くと安心したのか、また眼を閉じ身体を私の方に預けた。私はミサの肩を抱くと眼を閉じた。痺れるような酔いが急に廻ってきた。頭の中でモナリザのメロディが鳴り響いた。                                                                       -完-


この本の内容は以上です。


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