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「会社」と「家庭」とどっちが大事?

 日本語教師になる前、日本で20年近くビジネスマンをしていた小生にとって日本とカナダのビジネスマンの意識の違いがとても気になる。

一つの例として「会社と家庭とどっちが大事?」という質問がある。日本では昔よく会社で聞かれた質問であるが、こちらの日本語上級者のビジネスマンに聞いてみた。彼らいわく、「それは質問になっていないので、答えられないですね」である。つまり家庭と会社は同じカテゴリーではないので比較など出来ないと言うのである。

この質問は例えば「りんごと牛肉とどっちが好き?」の質問と同じで、りんごと牛肉は違うカテゴリーなので比べられず、すんなり答えられないのは確かである。「りんごとみかんとどっちが好き?」や「牛肉と豚肉とどっちが好き?」なら簡単に答えることが出来るのに・・・。 

バンクーバーで日本語を教え始めて、ここが日本とカナダの会社に対する文化の大きな違いだと強く感じた。日本では「会社と家庭とどっちが大事?」は一応質問形式になっているのである。つまり会社を家庭と同じ「内」に置き、家庭と同等なものとして考えているのである。この概念が日本独特の文化と言っても過言ではないと思う。昼間、家族に「こんにちは」と言わないように、自分の会社に「こんにちは」と言って入って行かないのである。

このように「会社が内」という文化と絡んだことを教えるのは、日本語教師としてはとても難しい。例えば、こんな教え方をしている・・・。

「いってきます ⇔ いってらっしゃい」 「ただいま ⇔ おかえりなさい」の挨拶言葉の力を借りるのである。 「この挨拶は家から出かけるときや帰ってきたときに使いますね。でもこの挨拶は会社でも同じように使うんですよ。だから家庭と会社は同じものと考えてください」である。でも「家庭と会社が同じカテゴリーなど信じられない」そんな驚きの声が聞こえてくる。確かに難しい。

「会社に行く」を英語では、と聞くと迷わず 「go to work」である。 そこに《会社》は出てこないのである。 なぜ 「go to company」 と言わないのかと聞くと、「それはとてもヘンです」である。でも「学校に行く」や「教会に行く」は、「go to school」や「go to church」 とちゃんと「school」 や「church」が出てくるのに・・
ここに日本とカナダの「会社」に対する文化の違いが凝縮されているように思えてならない。 

つまり日本は会社を自分が属している集団としてとらえている。そこには当然帰属意識、仲間意識が芽生えてくる。家族意識と同じような。

しかしカナダでは会社は自分が働く単なる場所としてとらえている。だからそこに属している帰属意識などはほとんど無く、「働きに行く」感覚の 「go to work」であり、「go to company」 はほとんど意味をなさない。教会や学校とは全く違うのであろう

では 「うちの会社」 は英語では何というか。 カナダで「my company」といったら「社長さん」になってしまう。日本では「うちの会社は」と一般社員でもよく使うのだが・・・。こんな簡単な言葉でも文化が絡むとなかなか一筋縄ではいかなくなってしまう。バンクーバーで日本語を教え始めて異文化の相互理解の必要性を強く感じた。


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最終更新日 : 2013-06-01 13:12:14

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からすの赤ちゃん

 日本語教師養成講座の中で必ずこんな質問をしている。「テーブルの上にりんごがあります」を英語で何といいますか? もちろん対象は日本人だが、ほとんどの生徒はそんな英語は簡単ですよと言わんばかりに「There is an apple on the table.」と答える。そこですかさず私は誰が「ひとつ」といいましたか、勝手に「ひとつ」と決めないでよ、と叱るのである。では、次は「公園に子供がいます」は何と言いますか。ここで生徒は何を言おうとしているのか、理解してくれるのである。

英語は単数なのか複数なのかはっきりしなければ基本的に文が作れない。 ここに日本語と英語の大きな違いがある。いわゆる英語は「単数・複数」がとても気になる言語であるが、日本語は「単数・複数」などにはあまりこだわらない言語である。「公園に子供がいます。彼は一人で寂しそうです」も「公園に子供がいます。みんな楽しそうに遊んでいます」もごく自然な文である。でも「公園に子供がいます」を英語で言おうとすると、単数か複数かはっきりしなければ言えない。しかし我々日本人は「古池やかわず飛び込む水の音」の句を聞いて蛙は何匹かなど気にする民族ではないのである。多くの日本人は1匹と答えるが、別に2匹でもいいのでは・・・。

一方 日本語は「いる」と「ある」にやたらうるさい言語である。りんごは「ある」でも 子供は「いる」である。逆に英語はこんなことまるで無頓着である。この「いる・ある」表現は日本語独特の文化と言っても過言ではないので、これを教えるとなるととてもやっかいである。もちろん「子供」と「りんご」の違い、すなわち「生物」と「無生物」の違いを説明すればいいのだが。

でも、我々日本人は「あそこにパトカーがいるから気をつけて」や「よかった、まだバスがいた」などと平気で「いる」を使っている。 こんな擬人化表現をどう説明するか、生徒の反応がとても気になる。

そしてこの「いる・ある」に関して非常に困った質問を受けてしまった。「七つの子」の歌である。歌詞に「カラスは山に、かわいい七つの子があるからよ」とある。 どうして赤ちゃんが「ある」なんですか? 思わず唸ってしまった。間違いなく赤ちゃんは「いる」である。

国文法ではこんな説明をしている。「ある」には「所有」と「存在」の二つの用法があり、「存在」の場合は無生物だけだが、「所有」の場合には人などの生物にも用いられる。この場合の「赤ちゃんがあります」は「赤ちゃんを持っている」ことを示しているので文法的に間違いではないのである。

確かに「お子さん何人おありですか」など「ある」も使われているが、この「いる・ある」文化にまだ慣れていない初級者は混乱してしまう。やはり赤ちゃんには「いる」のほうがぴったりする。この「いる・ある」の違いはとても大事なので、日本語教師としては歌詞を「かわいい七つの子の子がいるからよ」に変えてもらいたいのだが、学習者がなるべくあの「七つの子」の歌を聞かないようにただただ祈るばかりである。


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最終更新日 : 2013-06-01 13:12:14

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「こんにちは」の威力

 昔々こんな映画があった。ある夫婦の話だか、この夫婦には小学生の男の子がいる。しかし夫婦仲があまり良くなく、映画を見ている人はいつか別居するかもしれないぞ、と感じている。しばらく時が過ぎて、突然こんな場面が映し出される。昼間、銀座で偶然その子供が父親を見つけ「あ、お父さん、こんにちは」と言うのである。ここで見ている人は「おや?」と感じ、そうかやっぱり別居したんだ、と推測出来る。さらにこの子供がいま誰と住んでいるのかも我々日本人は感じとってしまうのである。

「こんにちは」はこんなすごい威力を持っている。しかし日本語上級者でもこれを理解出来る人は少ない。「どうしてそんなことが分かるんだろう」という生徒の驚きの声が聞こえてくる。でも確かにどうして我々日本人は分かるのであろうか。

新米教師のころ、こんな質問を受けた。「お父さん こんにちは」はどうしてダメなんですか。 一瞬言葉に詰まった。 こんな質問を受けようとは夢にも思わなかった。 確かに不自然である。家族に「おはよう」は使うが、「こんにちは」は使ったことがない。

でも 「なぜダメなんですか」と改めて聞かれると、答えられない。 これは小さいときから無意識のうちに身についてしまったものだからであろう。小学校の先生から「お父さんやお母さんに 『こんにちは』を使ってはいけませんよ」 と教わった記憶などない。そして「お父さん、こんにちは」を聞くと、日本人は間違いなく他人行儀を感じる。でもなぜなのだろう。確かに不思議である。

「おはよう」 と 「こんにちは」 には大きな違いがある。 「おはよう」は いわゆる《内の人・家族》にも《外の人》にも両方に使える挨拶言葉であるが、「こんにちは」は《外の人》に対してだけ使い、《内の人・家族》には使わないという大きな決まりがある。そして農耕民族である日本人は家族に朝起きて「おはよう」は使うが、ずっと一緒にいる家族に昼や夜の挨拶は必要なく、《内の人・家族》の挨拶は「おはよう」だけなのである。

こんなことをいちいち意識している日本人は少ないと思う。 でもこれが言葉が持つ文化であり、お母さんのお腹にいるときから身に付いたものであろう。「こんにちは」は外の人に使う挨拶なのだから、「お父さん、こんにちは」に他人行儀を感じるのは日本人として当然である。ボーイフレンドと別れたい場合、デイトの時に彼に「こんにちは」と挨拶すれば、男は何となく分かっちゃうのである。

あのシーンで子供に「お父さん、こんにちは」と言わせ、何となく違和感を感じとらせる。日本人としてこの「こんにちは」の威力に改めて感心せざるを得ない。

サラリーマン時代、 自分の会社に昼から出社したとき、確かに挨拶に困ったことを思い出した。 決して「こんにちは」と言わなかったし、また言えなかった。 でもその時 「なぜだろう」 とは思わなかったのである。日本語教師として日本語が持つ「ことばの文化」を改めて見直してみたいと強く感じた。


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最終更新日 : 2013-06-01 13:12:14

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「花子にキスした」はダメ?

 「田中さんと会う」と「田中さんに会う」はどう違いますか?こんな質問をよく受ける。いわゆる「と」と「に」の違いである。でも我々日本人はこんなことを気にしている人は少ないし、意味的にもほとんど違いはないように思える。しかしちゃんと使い分けているのも事実である。偶然などが付くと「偶然田中さんに会った」という人が多いし、まして「友達と話す」と「友達に話す」の違いはすぐ判断できる。

しかし学習者は大変である。「花子と結婚する」は使うが、「花子に結婚する」とは言わないし、「プロポーズする」は「に」しか使えない。さらに「ぶつかる」などの動詞は「車とぶつかる」も「車にぶつかる」もどちらも使える。やはり「と」と「に」にはかなり違いがあり、日本語教師としてはその違いを意識しなければならない。

こんな説明をしている。「と」はこちらと相手と一緒に行う動作に使い、「に」はこちらからの一方的な動作のときに使いますよ、である。「結婚する」は相手と一緒にする動作であり「と」しか使えない。一方「ぶつかる」は「と」も「に」も両方使えるが、「車とぶつかる」はお互いにぶつかった感じで、交差点で出合い頭にぶつかるである。そして「車にぶつかる」は停車中の車にこちらから一方的にぶつかる感じで、「電信柱にぶつかる」である。

大事な例文として前出の「友達と話す」と「友達に話す」がある。「友達と話す」は友達と一緒に話す動作なので「相談する」と同じような意味になり、「友達に話す」は自分から一人で友達に話す動作なので「伝える」と同じような意味になる。こんなこと我々日本人は簡単だが、生徒にしてみればとても厄介である。特にこの「話す」は意味が変わってしまうので要注意である。

そして「と」と「に」にはもう一つ大きな違いがある。丁寧さの問題である。例えば「先生と相談する」よりは「先生に相談する」のほうが先生に対して敬意が感じられる。また相談する内容によっても日本人は変えている。確かにややこしい。

では冒頭の「田中さんと会う」と「田中さんに会う」の違いはどうであろうか。上記のいろいろな決まりをこの文からだけで説明することは不可能であり、初級レベルでは「会う」という動詞などは「どっちでもいいですよ」と教えている。

でもやはり偶然の場合や「入院中の田中さんに会いました」は「に」のほうがぴったりするし、二人で約束したのであれば、「新渡戸ガーデンで田中さんと会います」がふさわしい感じがする。確かに使い分けている。

すると、「花子とキスした」は一緒の行動だから問題ないが、「花子にキスした」は、嫌がる花子に無理やり・・・。

「先生、そんなこと二人の問題だからどうでもいいじゃないですか」、おっしゃる通りである。


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最終更新日 : 2013-06-01 13:12:14

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「店をひらく」と「店をあける」の違いは?

 息子が東京で居酒屋をひらいたのでちょっと宣伝も兼ねて、今も東京でサラリーマンをしている昔の生徒にメールを入れた。すると早速うれしい返信メールが届いた。

「必ず息子さんのお店に行きます」である。でも最後に「先生の昔の授業を思い出しましたよ」と付け加えてあった。「うそー」、それは新米教師時代の思い出したくない授業であった。

中級レベルになると「火が消える」と「火を消す」の違いが分からなければならない。日本語教育では「自動詞」と「他動詞」として教えている。前にも述べたが、マッチを用意し火をつけて灰皿に入れる。自然に消えるのを待って「火が消える」と言わせる。そして次に火のついたマッチを手にずっと持って、「熱い」といって息で火を消し、何か目的がある場合に「火を消す」と教えるのである。

さて、その昔の授業とは・・・。マッチで教えた後、いくつか例文を示そうとして「ドアがあく」と「ドアをあける」を教えようとした。自分では「あく」と「あける」のつもりだったのだが、なぜか間違って似ている「ひらく」という動詞を使ってしまった。

ここで大変なことが・・・、こんな感じである。はい皆さん、「ドアがひらく」、これは自然な感じの自動詞ですよ、そして次は「ドアをひらく」・・・あれ?、「ひらく」の形が変わらない・・・。新米教師としては「ドアがあく」と「ドアをあける」を教えているつもりになっているので、変わるのが当然である。

でも「ドアがひらく」と「ドアをひらく」、これどうして変わらないのか・・・。焦ってしまった。声もだんだん小さくなって・・・。生徒からは「先生どうししたの?」の声も聞こえてきて、しどろもどろになってしまった。

この「ひらく」は特殊な動詞で自動詞と他動詞が同じ形なのである。こんなこと意識している日本人はいないであろうが、しかし日本語教師としては当然知らなければいけないことなのだが、教師として本当に情けない授業であった。「息子が店をひらいた」のメールから、彼はそんな昔の授業を思い出したのである。

そして表題の「店をひらく」と「店をあける」であるが、何となく違いは感じる。「店をひらく」は新しく店を作った感じで、「店をあける」は開店時間に店をあける感じがする。しかし「今朝はいつもより早く店をひらいた」といっても別に問題なさそうである。この違いは個人差や方言などとも関係しており、あまり細かいことにとらわれず、もっとおおらかに「心をあけて」ではなくて「心をひらいて」日本語を教えたいものである。先生の息子さんが「ひらいた」居酒屋に必ず行きますよ。

うれしいそしてちょこっと恥ずかしい彼からの返信メールであった。


居酒屋 型無(かたなし)
現在は、川崎の「型無夢荘」が本店


(2008年スタッフと撮影。中央が息子)


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最終更新日 : 2013-06-25 09:16:17

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