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第一章 旧街道

 八王子郊外の丘陵地帯はこの十数年間、大規模な宅地造成がなされてきたが、市街地から遠く離れたこの辺りはさすがに人家が少なく、行き交う車も滅多にない。諒輔は先程から、アルバイト先の運送店の名前が入った軽自動車を慎重に運転し続けている。

 旧街道であるこの山間の道路は、狭いうえに曲がりくねっているので、今日のようによく晴れた昼間でも気が抜けないのだ。ところで、二十八歳にもなって何故昼日中からアルバイトをしているかというと、大学を卒業して入社した会社を数か月前に辞表を叩きつけ退職してしまったからである。不況の最中に失業したわけだが、目下のところはサラリーマンのしがらみから離れて清々した気分であった。   

 折しも新緑の季節であり、山も谷も鮮やかな緑に染まっている。全開にした窓から吹き込む爽やかな風が何とも心地よい。今日は順調に配達が進み、この先の峠にあるドライブインに荷物を届ければ仕事は終りである。最近は指定時間に宅配物を届けに行っても不在の場合があったりして、こんなに順調に仕事が運ぶのは滅多にないことであった。

 

 ドライブインは、峠の茶屋といった方がぴったりくる風情の古ぼけた小さな建物で、その前にわずか数台が駐車できるスペースがある。今日は珍しく車が一台止まっている。いかにも高級そうな車だったので、諒輔は万一ぶつけて傷つけたら大変と少し離れて駐車し、降り立つとその車に近づいた。

 車にあまり興味のない諒輔でも、目の前にある車がマニア間で高額で売買されるクラシックカーの類であることは容易に理解できた。しかし、それ以上のことは分からないまま、繁々と車を眺め回した。型式こそ古めかしいが、流線型をしたその外形の機能美とマホガニーの木目が美しい内装に眼を奪われていたのだ。

 ちょうどその時、一人の男性が両手に紙袋を下げて、店から出てきて諒輔の方に近付いてきた。頭髪が真っ白で顔には深い皺が刻まれていることから、かなりの年配の人と察しがついたが、ピンと伸びた姿勢には老人じみた感じがない。一八五センチの身長がある諒輔ほどではないが上背があり、トラッドな衣服を身に着けたその様子は、白髪の紳士といった形容が如何にも相応しい。

「クラシックカーに興味がお有りかな」

いきなり問いかけられて諒輔は少し慌てた。

「いえ、興味は特にないのですが……」

そう答えたものの、興味津々に車を見ていた自分のことを思うと、何か照れくさい。

「そうか、それじゃな」

 男は下げてきた紙袋を後部座席に投げ込み、革張りのシートに身体を沈めると、サングラスをかけ、車をスタートさせた。小気味良いエンジン音を立てて八王子方面に走り去って行く。

 諒輔は呆けたように、その車が坂道を下って姿が見えなくなるまで見続けていたが、呪縛を解き放つように身震いをすると荷物を肩に担いでドライブインの入口に向かった。

 

 この店は、気の良い話好きの老夫婦が、細々と営業を続けている。諒輔が荷物を渡すと、いつものように茶を勧め、いろいろと話しかけてきた。普段客がいないので、偶に訪れる馴染みの者は夫婦の格好の話し相手にされてしまうのだ。

「諒さん、新しい恋人は出来たかい」「運送店の出戻り娘とはどうなってんの」「こうやって良くみると、韓国の男前スターに良く似ているよね」「いやそれよりも、お笑い芸人のあのイケメンに似てないかい」「昔の恋人とはよりを戻したりしないよね」等々、いつもの通り際限がないので、適当にやり過ごして諒輔は話題をあの白髪の紳士に振り向けた。すると、待っていましたとばかりに、老夫婦はその紳士のことについて話しだした。

 数カ月に一回程度この店に寄って休んで行くこと、その度に違う種類のクラシックカーに乗って来ること、見かけによらずとても気さくな人であること、いつも沢山土産を買ってくれることなど、話が盛り上がっていたその時、入口から客が入ってきてお喋りは中断された。

 入って来たのは二人連れの男で、共に黒の丈の長い上着を着ており、何やら不気味な雰囲気を漂わせていた。話好きの老夫婦もそんな二人連れに威圧されたのだろう「いらっしゃいませ……」と言った切り後の言葉が続かない。

「前に止めてある車はあんたのものか」

  背は低いが肩幅の広いがっしりした体格の男が、諒輔に声をかけてきた。

「えぇ、そうですけど何か」

 警戒感から思わず相手の意図を探る調子になる。

「八王子の方からやってきたのか、それとも反対側から来たのか」

居丈高な物言いに少しむっとして押し黙っていた。

「いやあ、済みません。不躾な質問をしてしまって」

 もう一方の背の高い男が、気味の悪い笑顔を浮かべて割って入ってきた。

「実は、一緒にドライブしていた者とはぐれてしまいまして……その人は古い年代物の車を運転していてとても目立つ筈なのですが、見かけなかったでしょうか」

 男の笑顔が如何にも胡散臭いので、諒輔がなおも黙っていると、男は老夫婦の方に向き直り二人の顔を交互に覗き込んだ。

「あーそれなら……」

「えー、それなら……」

男の眼力と沈黙に耐えられずに老夫婦が話し始めた。

「ここに立ち寄られて、少し休んでおいででしたが」

「つい今しがた、ここを出て行かれました」

「今日はもう東京に帰るって」

「お土産も沢山買ってくれて」

「えぇもうそれはいいお方で……」

 交互にしゃべる続ける老夫婦の話を途中で制し、二人連れの男は、互いに顔を見合せ頷くと礼も言わずに外に飛び出した。車のドアの開閉音に続いて、吠えるようなエンジン音が轟く。諒輔が後を追って外に出ると、タイヤの軋む音を残して黒い大型のワゴン車が八王子方面に走り去って行くところであった。

 諒輔に続いて店から出てきた老夫婦が口々に叫ぶ。

「諒さん、どうしよう。あの二人組は、何か悪いことを企んでいるに違いないぜ」

「そうよ、いかにも悪人て顔してたわ。あの人に何かひどい事しようとしているのよ」

 確たる根拠はないものの諒輔にしてみても思いは同じだった。後先考えずに自分の車に飛び乗ると、軽自動車特有のエンジン音を唸らせて二人組の後を追いかけ始めた。

 

 八王子方面に向かう街道は急な下り勾配である。峠の付近は日光のイロハ坂ほどではないがカーブが連続しており、山肌を開削して作られた道の片側は山側の壁に、もう片方は谷側の崖になっている。しかもカーブなどの要所にしかガードレールが設けられていないので、運転を誤れば崖からたちまち転落である。諒輔は逸る気持ちを抑えて、汗ばむ手でハンドルを握り続けた。

 そうして十分も走っただろうか、突然大きな衝撃音が聞こえた。何か嫌な胸騒ぎがして、思わずアクセルを強く踏み込んでしまい、危うく山際の壁にぶつかりそうになった。これに懲りて速度を落としてヘアピンカーブを慎重に回り込む。すると前方にあの二人組の黒いワゴンが停車しているのが見えた。更に速度を落として近づいて行くと、車の音に気付いたのであろう、どこからかあの二人組が現れて、ワゴンに乗り込むと走り去って行った。

 諒輔はワゴンが停車していた辺りに車を止め降り立つと周囲を見回した。崖側の樹木が薙ぎ倒されたようになっているので、崖下を覗き込むとあのクラシックカーが落下しており、ボンネットから白い煙を上げている。

 諒輔が立つ位置から十メートル程の崖下であったが、運転席にはあの白髪の紳士らしき人物の姿が見える。なおも目を凝らして良く見たが、運転席の人はピクリとも動かない。救急車を呼ばなければと気付き、慌てて携帯電話を取り出して一一九番通報したが繋がらない。画面には圏外の表示。この辺りは電波が届かない地域なのだ。となれば、自分がこの崖を降りて、あの紳士を助けるしか手立てはない。足場の良い道筋が無いか崖に目を凝らすと樹木の隙間の下方に道路のようなものが見える。その時、閃くものがあり、自分の車に駈け戻った。

 車に乗りカーブ状の坂を下り、車1台がやっと通れる狭い脇道に車を乗り入れた。あの車が落ちた真下と見当をつけたところで車を降り、灌木と熊笹を掻き分けて進むと、果たしてそこに、あのクラシックカーがあった。何度か回転して落下したのであろうが、車輪を下にしてうまい具合に着地している。運転席の周囲もあまり損傷が認められない。ボンネットの白煙はどうやら、ラジエーター系統から漏れる水蒸気のようで、火の手が上がっている風ではない。そこまで素早く確認すると、諒輔は運転席に駈けより紳士に声をかけた。

 頭部や顔面を改めたが傷は無いようだ。しかし依然として目を閉じ、動かないままである。口元に耳を近づけて呼吸しているか確認し、更に手首の脈を探った。息をしているし、脈もある。死んではいない。安堵して、一層声を張り上げ、肩を揺すると紳士はうめき声をあげて目を見開いた。

「大丈夫ですか?」

 呼びかける諒輔の顔を紳士は不思議そうに眺めていたが「うむ、死んではおらんようだな」と言って顔を顰めた。どこか怪我をしているようだ。

「今、助け出しますからしばらく我慢して下さい」

 そうは言ったものの、シートベルトや膨らんだエアバックに固定された身体を引き出すのは容易ではなかった。クラシックカーではあるが、最新の安全装備が施されていたようで、それらを取り外すのに悪戦苦闘しなければならなかった。それでも何とか紳士の体を運転席から引き出すのに成功した。

 左の足に大きな怪我を負ったようでかなり出血している。先ずは応急手当として止血しなければと思うものの、どうしたらいいか分からない。もたつく諒輔の様子を見た紳士が止血方法を教える。紳士のネクタイを使って左腿の付け根を縛り、付近に落ちていた木の枝を使ってネクタイを絞りあげた。

「この辺りは携帯電話の電波が届かないので、救急車を呼べません。これから私の車で八王子の病院まで連れて行きます。いいですね」

 諒輔は紳士を助け起こすと軽自動車の助手席に運び入れた。

 

 聞きたいことは山ほどあったが、一刻も早く病院に運び込むのが目下の重大事と思い定め、車を運転することに専念した。

 しばらく走行するうちに、後ろから車が近付いてくるのに気が付いた。バックミラーに映る黒い車体はどうやらあの二人組のワゴンのようである。二人組みは諒輔が紳士を助ける様子を隠れて見ていたのだろう。

「あの二人組が追いかけてきました!」

 諒輔は思わず叫んだ。黒いワゴンは今にも追突するというところまで、車を寄せてきている。追突されたら崖から突き落とされてしまうだろう。恐怖に駆られて、スピードを上げた。

「落ち着け、慌てると崖から落ちるぞ」

 その時衝撃が走り、ハンドルをとられて山側の壁に車体を擦りつけた。ワゴンが追突してきたのだ。車体の右前部が大きく傷ついたものの幸いにしてまだ走行を続けている。しかしまた追突されたら今度は助からないかも知れない。

「いいか案じることはない、慌てずに運転を続けなさい」

『これが慌てずにいられるか』と諒輔は心の中で叫んでハンドルに齧りついた。

「先程は不意打ちを喰ったので、不覚をとったが今度はそうはさせない」

 紳士は白髪を風に靡かせながら、目を閉じ、聞きなれない言葉を唱えると、軽自動車は青白い燐光のようなもので包まれた。そのとき、またもや後ろからワゴンが追突しようとして迫ってきた。しかしあわや追突というところで、青白い光に触れるとワゴンは弾かれたように後方に吹き飛ばされてしまった。ワゴンは崖から転落しそうになったが、踏み止まると体制を立て直すとまた執拗に追跡してきた。何やら後方で大きな音がするので、バックミラーを見ると、ワゴンの助手席の男が窓から手を出して拳銃をこちらに向けているではないか。

「今度は、拳銃を撃ってきました!」

 諒輔は大声で叫んだ。

「心配するな、大丈夫だ。この車に結界を張ったから銃弾も届きはしない」

 後ろから盛んに撃ちかけてくる。しかし銃弾は不思議とどれも当たらない。

「何んですかそのケッカイというのは?」

少し安心して余裕を取り戻した諒輔が訊ねる。紳士は少し考える風であったが「ふむ、まあバリアのようなものかな」と薄く笑った。なるほど、そう言われて良く見れば、車は青白い燐光のようなものを放ちながら走り続けている。

 そのうち後続のワゴンは弾が尽きたのか撃つのを止め、一定の距離を置いて追走してきた。二人組は紳士が大怪我を負ったのを知っていて、その衰弱を待って襲撃しようと機会を窺っているようだ。その後もワゴンに気を取られ、対向車のトラックとあわや衝突という場面などがあり、緊張の連続であったが諒輔は紳士の事が心配で、時折助手席の方を窺い見た。紳士の顔色は蒼白で、一時的に意識が遠のくのか、首ががくんと項垂れてしまうことがあった。しばらくするとまた顔を上げるのだが如何にも苦しそうである。

「大丈夫ですか、気を失ってしまっては困りますよ」

紳士が項垂れると、車の周囲の青白い燐光が萎み、顔を上げるとまた元に復する。紳士が意識を失うとバリアの効果が失われるに違いなかった。

「思ったよりも大量に血が流れたようだな。このままではいずれ意識を失ってしまうことだろう」

「えぇーそんな! 気を確り持って下さい」

 諒輔は悲鳴に近い声をあげた。

「そうだな、ここらでケリをつけるとするか」

 紳士は呟くと、諒輔に命じて車を路肩に停めさせた。後続のワゴンも一定の距離を置いたまま、後方に停車する。

「車の向きを変えて、あ奴らの方が良く見えるようにしてくれんか」

 言われるままに、諒輔は車を少し横向きにして、助手席の紳士が後方のワゴンを良く見えるようにした。

 そのワゴンから、二人組が降り立つ。背の低い方は拳銃を、背の高い方は日本刀の抜き身を手にしている。最悪の状況は、超最悪の状況になりつつある。車から降りて逃げようとしたが、怪我をした紳士を置いては行けないと思い直した。どうしたものかとやきもきしたが、何も良い考えが浮かばない。諒輔が焦りまくっているその最中、紳士は手を奇妙な形に組み、口で呪文のようなものを唱え始めていた。

 ワゴンの山側は切り立った岩盤になっている。その上部からバラバラと小さな岩石が落下してきて、そのいくつかがワゴンに当たり大きな音を立てた。二人組は振り返って岩盤を見上げていたが、驚愕の表情に変わった。その上部が崩れ、もうもうとした土煙があがったかと思うと土石流となって押し寄せてきたからだ。そして土煙の中には、巨大な蠢くものがあったのである。

 土石流はあっという間にワゴンと二人組を飲み込むと谷側の崖になだれ落ちて行った。巨大な蠢くものは、雷のような咆哮を一声発すると崩れた岩盤の裂け目に入り込み姿を消した。

 

 


第二章 救急病院

第二章 救急病院

 諒輔は八王子市内の病院のロビーにいる。先程、看護師から怪我人の緊急手術と輸血が無事終わったと聞き安堵して休息しているところであった。

 疲れが一挙に出てこのままベンチで寝てしまいたいほどであったが、紳士が麻酔から覚めるのを待って、警察の対応など色々相談しなければならないので、こうして座り続けているのである。今頃、落下事故の現場検証に向かった警察が、崖から墜落したワゴン車を発見して大騒ぎになっていることだろう。いずれ諒輔も警察から救出の経緯など聞かれるに違いない。しかしあの一連の出来事をありのまま話しても、誰もまともに受け止めてはくれないであろう。

『それにしても……』諒輔は心の中で呟いた。

『あの土煙の中で蠢いていたものは何だったのだろう』

影のようにぼやけており、はっきりした形は見えなかったが、巨大な亀のようでもあり、首の長い恐竜のようでもあった。

『いずれにしても、あの白髪の紳士がただ者じゃないことだけは確かだ』

 そう結論付けると、それ以上深く考えるのを止めにして飲み物を買う為に立ち上がった。その時、看護師が近寄ってきて、患者が目を覚ましたと諒輔に伝えた。

 

 病室は狭いながらも個室で、左足をギブスで固定されたあの紳士が窓際のベッドに寝ていた。諒輔が近づくと、その気配を感じて目を開けた。

「あー、君か……」

「怪我は痛みませんか」

「いや、大丈夫だ。それより、先ずは君に礼を言わねばならん」

 紳士は礼を述べると、安倍忠彬(あべただあきら)と名乗った上で「それからこう見えても、私は八十過ぎの爺いじゃ。大きな口をきくが年の功に免じて勘弁してくれ」と言って破顔した。あのドライブインの老夫婦が言うように、見かけによらず気さくな人であるようだ。

 諒輔も自分の氏名が三輪諒輔であること、周囲の皆は諒輔とか諒さんと名前で呼ぶこと、会社を退社して今は運送店でアルバイトをしていることなど、簡単な自己紹介をした。

 そんなやりとりが一通り終わると、諒輔は最も気になっていることを口にした。

「ところであなたは、不思議な力を色々と持っているようですが、一体何者なのですか」

「うーむ、そうだな」

 眼を閉じ考え込む様子であったが、目を開け諒輔の顔まじまじと見つめた。

「私がただ者ではないと気付いておるようだし、君は命の恩人だ。それに君は我々と同じ匂いがすると言うか、何故か他人には思えんのだ。君が私の……」

 忠彬はそこで一旦黙し寂しげな表情を浮かべた。

「君が私の?」

「いや何でもない、それより君の質問に答えよう、私は一言で言えば継承者だ」

気を取り直したように元の表情になって諒輔の問いに答える。

「継承者……ですか?」

 怪訝そうな顔をしている諒輔を見て、忠彬は説明を始めた。その概要は以下のようなものであった。

 

 土御門安倍家は天文、暦、占術などを司ってきた陰陽道の家柄であり、公家として代々天皇に仕えてきたが、忠彬の家系は裏土御門と一族内で呼ばれる特殊な存在であった。この家系の者は、世に出ることなく、密やかに陰陽道の陰の部分を千年以上の長きにわたり継承してきた。その一族の長である継承者は代々摩訶不思議な力を駆使する能力を有しており、天皇家や安倍家が危機存亡の折に、その特異な力を発揮して危機を救ってきた――――

 

 諒輔は忠彬の不思議な能力を目の当たりにしていたこともあって、この突拍子もない話を疑うこと無くすんなりと受け入れた。そして忠彬の話が終わるのを待ち構えていたように訊ねた。

「するとあなたは、陰陽師として有名なあの安倍晴明の子孫なのですか」

 安倍晴明のことなら諒輔も知っていた。諒輔がまだ幼い頃、母が晴明に纏わる不思議な伝説を色々話してくれたのだ。

「うむ、安倍晴明公こそが裏土御門の始祖にあたられる方だ」

「それはすごい! 僕にとって安倍の晴明はあこがれのヒーローでした」

 子供の頃、母から聞かされた話を思い出して諒輔は興奮を覚えずにはいられなかった。

「もうひとつ聞いてもいいですか」

忠彬が頷くのをみて諒輔は質問を続けた。

「岩盤が崩れて、あの二人組が土石流に押し流された時のことですが、土煙の中に何か巨大な蠢くものを見たのです」

「ふむ、それはどんな形をしていたかな」

 あの時に見た印象、巨大な亀あるいは恐竜のような生き物と伝えると「不思議だな、常の者には彼の者の姿は見えぬはずだが……」と首を捻り「あれは玄武じゃ」と告げた。

「玄武というと……あぁ、覚えがあります。確かキトラ古墳に描かれていた」

「そう、その玄武だ。裏土御門家の守護神獣として我々が危機に瀕した時に現れて救ってくれる」

 なるほどあの蠢く影は、歴史の教科書に載っていた亀と蛇が合体したような姿の玄武であったかと納得した。

「あ、それから最後にもうひとつ、あの二人組は何故あなたを襲撃したのですか」

「ふむ、その理由を理解して貰うには、先ず安倍一族の歴史的な背景などから説明しなければならぬ」

 忠彬はそう前置きして話し始めた。

       

「安部一族に恨みを抱いたり、敵対したりする者が過去の長い歴史において少なからずおった。特に仏教は陰陽道と平安の昔から、朝廷の政への影響力を競い合い、何かと抗争を繰り返してきた間柄であった。しかし時代と共に、仏教が次第に勢力を伸ばし、陰陽道は天文・暦の分野でようやく命脈を保つような有様になってしまったのだ。そのような訳で、それ以降、陰陽道は仏教勢力とは、持ちつ持たれつということで一種の共存を図って来たのだよ……」

 忠彬は疲れたのかそこで一息入れ話を繋ぐ。

「ただあの二人組が所属する組織だけは頑強に和解を拒み、我々に敵対を続けてきたのだ。君は織田信長が比叡山を焼き討ちしたのを知っておるかな」

「えぇ、知っています。全山の僧侶、学僧などを皆殺しにしたのでしょう」

「そうだ、この時実は生き延びた者が少なからずいて、それ等が密かに徒党を組み、信長への復讐を誓ったのだ。当時は阿修羅党と名乗っていたそうだが、明智光秀が信長を討った本能寺の変は、あ奴等が背後で糸を引いたと裏土御門家では伝えられておる」

 明智光秀が謀反を決意した理由は、色々の説があるが未だに歴史の謎である。もし本能寺の変が阿修羅党の陰謀であったら、歴史の謎が一つ解けたことになる。

「本能寺の変が阿修羅党の陰謀だとしたら、それは歴史の大きな謎を解き明かすことになるのではないですか」

「うむ、だがな、すべては秘密裏、闇の中で仕組まれた事だ。それを立証するものは何一つ残されていないのだ」

 そう言われてみればその通り、陰謀とはそういうものであろう。

「そうですか、何か残念ですね……ところで阿修羅党とあの二人組にはどのような関係があるのですか」

「阿修羅党は、後の時代になっても、国家権力に弾圧されたキリシタンや新興宗教の信者などを仲間に引き入れて勢力を維持してきたのだ。我々裏土御門家は、時々の権力者からの要請を受けて、彼等と抗争を続けてきた歴史があり、彼等にとって我々は不倶戴天の敵と言う訳だ。現在は阿修羅教団と名乗っておるようだが」

「つまりあの二人組は、その教団に属する者なのですね」

「うむ、それ以外、考えようがない」

 これからも襲撃は続けられるのだろうか、それとも今回に懲りて襲うことは無くなるだろうかなどあれこれ諒輔は思いを巡らした。

「この程度で懲りる相手ではない。油断は禁物だ」

 諒輔は、自分の心が忠彬に読まれているのではないかとふと思った。忠彬ならその位のことは造作も無いことだろう。

 

 そのとき、病室のドアが勢いよく開き一人の男が慌ただしく入って来た。

「会長、ご無事でしたか」

 歳の頃は六十前後、小柄で貧相な感じの男であるが、声は大きい。表情はくしゃくしゃですでに半泣き状態である。

「心配かけたようだな、もう大丈夫だ」

 忠彬がそう言っても、まだ心配が解けないのか男は興奮してしゃべり続ける。

「崖から落ちて大けがをしたと連絡がありまして、びっくりして駈けつけてまいりました。大量出血して意識がないとか、緊急手術するとか聞かされたものですからもう……」

いつまでもしゃべり続けそうな勢いに「まあ待て、それよりもこちらは私を助けてくれた命の恩人だ」と諒輔のことを紹介した。

「いやあ、これは挨拶もせず大変ご無礼いたしました」

涙をぬぐうと男は上着のポケットや、ズボンのポケット、更には鞄の中身などひっくり返している。どうやら名刺入れを探していたようだが、ようやく見つかったようで、その中から名刺を抜き出すと、恭しく差し出した。名刺には、《財団法人日本伝統行事研究保存協会 事務局長葛城保興》と印刷されている。

「わたしは、三輪諒輔と申します。あのう、失業中なので、名刺は持ち合わせていないので……」

 諒輔が言い終わらないうちに、葛城が口を挟む。

「いやいやいや、名刺などそんなものはどうでもいいことでして。それよりなにより、この度は会長を助けていただいて心から御礼申し上げます。本当にありがとうございました」

 どうやら忠彬は、その財団の会長であるらしい。忠彬は葛城に、一部始終を手短に話し、警察・病院・マスコミなどへの対応を指示した。

 

 病室に医師と看護師が入ってきたので、諒輔と葛城はロビーに移り、話し合いを続けていた。何でも困ったことがあれば相談して下さいと言う葛城の申出に甘んじて、諒輔は軽自動車を損傷してしまって困っていると申し出たのであった。

「分かりました。アルバイト先の運送会社にも何かと迷惑をおかけしたようですね。その運送会社には近日中に私が伺いましてお詫びを申し上げ、車の弁償についてもきちんと致します」

 諒輔はその言葉を聞き、肩の荷が下りたような気分になり、運送会社の名前と所在地を教えると、葛城と別れて病院を後にした。

 


第三章 八王子運送店

 有限会社栗原運輸は八王子郊外にある小さな運送会社で、諒輔が大学時代にアルバイトをし、失業した今もまた世話になっている先である。

 従業員は社長と娘の八百子の他に数人がいるだけの零細企業で、アルバイト料も決して高くはない。しかし社長が無類のお人好しで、アルバイトの諒輔にも何かと気配りしてくれるので居心地が良い働き場所であった。

 そんな社長の性格は、取引先や従業員から信頼されるなど良い面がある反面、経営者としての厳しさに欠けるところがあった。その欠点をカバーして苦しい台所事情を遣り繰りしているのが、娘の八百子である。

 八百子の母は、八百子が中学生のころ男を作って家を出てしまい、その後は八百子が家事を引き受け、父親と二人で支えあって暮らしてきた。高校卒業後は父親の運送業の仕事を手伝う傍ら、定時制の大学で勉学を続け見事卒業したという頑張屋であった。

 八百子はモデルも務まるようなすらりとしたスタイルで、個性的な顔立ちの美人であった。諒輔より五歳ほど年上であったが、諒輔が大学時代にアルバイトを始めた頃、密かに想いを寄せた女性でもある。そんな八百子に言い寄る男は少なからずいたのだが、父親を一人残して嫁に行けないと結婚を拒み続けていた。しかし、どういう風の吹き廻しか、友人から紹介された公務員と数年前にあっさり結婚して八王子を離れていたのである。

 ところがその相手とはどうにも相性が悪かったようで、昨年離婚して現在は以前と同じように栗原運輸で仕事をしている。

 

「諒さん、お客さんだよ。なんかすげぇ車に乗って来たぜ」

 作業用の雨合羽を着た哲さんが、外からドアを開けて事務所にいる諒輔に呼びかけた。ドアの外はかなり激しい雨である。あの事件からすでに1カ月以上が経過しており、季節はもう梅雨になっていた。

 葛城からは時折、挨拶に行けないことを詫びる電話が入っていたが、やっと昨日になって今日、栗原運輸に行くという連絡があったのだ。

 そういうことだったので葛城が来たに違いないと察した諒輔は「社長、例の人がみえたようです」と告げ、表に出た。すぐその後に社長と八百子が続く。

 そこに駐車していたのは、大きなリムジンでクラッシックカーの一種であるようだった。車の傍らにはフロックコートを着た葛城と詰襟服に制帽姿の運転手がこうもり傘を差して立っていた。

 葛城は諒輔の姿を認めると近寄り恭しく礼をした。社長と八百子は、びっくりしてその場に立ち竦んでいたが、諒輔に声を掛けられて我に返ったように言葉を発した。

「ど、どうも……よくいらっしゃいました。えー、兎に角、先ずは事務所に入られて……」

「これはどうも、ご挨拶に伺うのが遅れまして大変申し訳ありません。それでは雨も降っていることですし、詳しい話は事務所の中でということにさせていただきます」

 事務所に入ると葛城は、忠彬の転院手続きや警察、消防などの対応などのため栗原運輸に来ることが遅れた理由を述べ、諒輔に助けられた経緯を説明し、栗原運輸の車両に損害を与え迷惑をかけたことを詫びた。そして損傷した軽自動車の弁償とお詫びの気持ちですと言って、袱紗から紙に包まれた分厚いものを取り出して差し出した。

「あ、いや、軽自動車は保険で修理すればまだ使えますから、このようなものは……」

 社長と葛城は押し問答をしていたが、傍らの八百子が社長の耳元で囁く。

「有り難く頂戴したら、保険は効かないかもしれないし、あんなポンコツ修理してもしょうがないわよ」

 八百子の声が聞こえたかのように、葛城は八百子を見て頷き言葉を続けた。

「事故にあった車は、修理してもすぐ故障すると申します。命の恩人が乗る車に万一のことがあっては、当方としても面目が立ちませんので、新車に買い替えていただければ幸いです」

 社長がなおも躊躇していると「それでは、遠慮なく頂戴いたします」と八百子は紙包みを受け取ってしまった。

「あの、お茶入れ替えてきます」

 八百子は紙包みを手にして、衝立の後ろにある給湯所に入った。

「ちょっと、諒さん。諒さんたら」

 少しの間の後、衝立の端から顔を出した八百子が諒輔を手招きする。諒輔が立ちあがって衝立の裏に回ると八百子は包みの中身を見せた。

「全部で五百万円も入っているわ。いくらなんでも多過ぎない?」

 八百子は困惑の表情で眉を顰める。

「うーん、軽自動車は百万位だから、四百万がお詫び料ということになるのかな」

「諒さんが貰うのなら命を助けたことだしこれ位当然かもしれないけど、うちは諒さんの雇い主というだけですもの」

「でもいいんじゃない。くれるというものは有り難く受け取っておけば」

 諒輔は気軽に言う。

「諒さんたら、いつも能天気なんだから」

 八百子は腕組みをし、思案する風であったが「諒さん、八百子、お客さんがお帰りだよ」という社長の言葉に衝立の蔭から諒輔と共に飛び出した。衝立裏でこそこそ話していることが、どんなことか察しをつけた葛城がここは早々に帰った方が良いと判断したに違いない。八百子に話す隙を与えずに葛城はそそくさと立ちあがり「それでは皆様これで失礼いたします」と挨拶し入口に向かい、後に付いてきた諒輔に振り返り話しかけた。

「諒輔さんには会長が直接お目にかかって、改めてお礼を申し述べたいと言っております。ご都合の付く日にお迎えに上がりますが如何でしょう」

諒輔は忠彬が都内の病院に転院したり、忙しかったりで、まだ見舞いに行っていなかった。一度は見舞いに行かねばと思っていたところだったので「分かりました。でも自分で病院まで訪ねて行きますから、お迎えは無用ということでお願いします」と答えた。あんな大層な車で迎えに来られてはたまらない。

 

 葛城が去った後、三人で受け取った金の扱いについて話し合いが続けられたが、諒輔の主張に従い、相手の気持ちを素直に受け入れることで話しがまとまった。

「正直言うとね、このところ資金繰りが苦しくて……ほんと助かるわ」

ほっとした表情の八百子に対し「いやぁ、いつも苦労かけてすまない」と社長が頭を下げた。

「何よ、水くさい。それより、予期しないお金が入ったことだし、偶には皆でパーッと飲みに行かない」

「そうだね、賛成。仕事、チャチャッと片付けて哲さんたちにも声掛けて皆で行こう」と諒輔はすぐに賛意を示したが、社長は「うーん、そうだな……」と煮え切らない。

「実は俺、今日ちょっと都合が悪いんだ。そうだお前たち二人で行ってきなよ。うん、そうしな。昔よく二人で飲みに行ってたじゃないか」と熱心に二人で行くことを勧めた。

 

 数時間後、諒輔と八百子は、行きつけの酒場でビールのジョッキを傾けていた。すでに数杯のジョッキを空けた八百子の顔はほんのり上気している。日頃、化粧も碌にせずジーンズにTシャツ姿で忙しく立ち振る舞っている八百子が、今夜はワンピースに着替えし、うっすらと化粧までしている。

「なんか、強引だったね、お父さん」

「うん、何が?」

 諒輔はそんないつもと違う八百子に気圧され気味である。

「ほら、二人で飲みに行けってことよ」

「哲さん達も都合悪いって言ったそうだから仕方ないよ」

「それはお父さんが哲さんに……いやもういいわ、そんなこと」

やれやれという表情をして、八百子は話題を変え「それより、諒輔。彼女と別れたってほんと」と探るような目で諒輔を見た。

 諒輔と呼び捨てにするということは、大分酔いが回った証拠であり、要警戒である。八百子は酒にめっぽう強いが、からみ酒の傾向があるのだ。こんな時に隠し立てをすると碌なことが無いことを良く承知しているので、元彼女に愛想を尽かされて振られたことを正直に話した。滅多に悩んだり、後悔したりしない性格の諒輔もさすがに別れた直後は失恋の痛手に苦悶したのだが、引きずることなく今はもう立ち直っている。

「彼女の気持ち良くわかるわ。諒輔は恋人としては申し分ないかもしれないけど、結婚相手としてはねぇ」と八百子は諒輔の話に納得して一人で頷いている。

「恋人として申し分ないなんて言われると照れるな」

「何言ってんの。ほんとに能天気ね、まるで分かっていなぃんだから」 

あきれ顔をして八百子はジョッキの代わりを注文した。

「ところでさぁ、知ってる。私の名前のこと」

「いや……」

「八百子って、八百屋の子みたいで格好悪いでしょ」

「いや、そんなことは……」

「お父さんたらね、最初は八王子って書いて、やおこ、と読ませようとしたらしいの」

「へぇー、そうなんだ。社長、郷土愛が強い人だからなぁ」

「それを聞いた周囲の人がね、そんな名前にしたらいじめに遭うから止めるべきだって言ってくれたの、当然よね。それでお父さんも折れて一字だけ変えて八百子にしたの。可笑しいでしょ」

 そんな他愛もないことを互いに面白おかしく話しながら飲み続けていたのだが突然、八百子は黙りこんだ。急変した八百子の様子に「気分悪いの、大丈夫?」と気遣ったが、「諒輔はいいよね、いつも能天気で」と八百子は呟き、小さな溜息をした。意味を解しかねて諒輔がぽかんとしていると「諒輔、帰るよ」と八百子は大声で言い、伝票を掴むとふらふらと立ち上がった。


第四章 病院特別室

 中元の季節は、栗原運輸にとって歳暮の季節と並んで最も忙しい時期である。仕事に追われて中々見舞いに行けなかったが、七月に入り学生アルバイトを雇った為ようやく諒輔の手が空いた。大分時期がずれ込んだが、気象庁が梅雨明けの発表をした今日、忠彬が転院した都内の病院を訪ねたのであった。

 

 病院の最上階にある特別室病棟ロビーは厚い絨毯が敷き詰められており、静かにBGMが流れていた。ロビーの壁面の一方は全面ガラス張りになっており眺望が素晴らしい。ホテルのフロントのような受付で用向きを伝えると、受付嬢は「お待ちしておりました。ご案内いたします」と言って先に立って歩き出した。

 特別室に通ずる入口でセキュリティ用のカードをスロットに差し入れ、更に奥まった一画にある部屋の前に至ると受付嬢はドアを軽くノックした。するとドアが中から開かれ、豪華な施設には場違いな貧相な男が現れて諒輔を中に招じ入れた。現れたのは、あの葛城事務局長である。

 案内された部屋にはベッドや医療機器は見当たらず、欧風の家具調度品が配されており、まるで高級ホテルのスイートのリビングルームのようであつた。その広い部屋の中央に忠彬が車椅子に座って待っていた。

 忠彬は大分痩せたようで一回り小さくなったように感じられ、諒輔は内心驚いたが表情には出さず見舞いの言葉を述べた。忠彬は重ねて礼を述べ、挨拶が一段落したところで改まった表情で切りだした。

「今日こうしてわざわざ来て貰ったのは、実は折り入って頼みたいことがあるからでの。勝手な申し出であることは充分承知しておるが、是非君に頼みたい」

「はぁ、なんでしょう」

 諒輔は怪訝な表情になる。

「急がねばならんのだ。時間が限られておる」

 いつになく切羽詰まった忠彬の様子に諒輔も真剣な表情で答えた。

「分かりました。私に出来ることでしたら……先ずはその頼み事の内容を説明していただけますか」

 諒輔の返事を聞いた忠彬は安堵した表情になると説明を始めた。その内容は以下のようなものであった。

 

 転院したこの病院で、葛城の勧めもあり怪我の治療の傍ら人間ドック検診を受けた。その結果、膵臓がんが発見され、更に悪いことにはすでに他の臓器に転移しており、手術は不可能であることが判明した。

 当初、忠彬に病名などは伏せられていたが、本人のたっての願いにより、膵臓がんであることが告知された。そして忠彬は、余命が数ヶ月であることを知ったのであった。

 忠彬は裏土御門の長として、受け継いできた記憶を何としても直系家族に引継がねばならないと思い焦燥した。しかし、一人息子は十数年前に交通事故で既に亡くなっており、引継ぐとすれば孫娘しかいない。

 その孫娘は東京にいるはずだが、住所などはわからず、ずっと音信不通である。しかし孫娘の母親が住む京都の住所は分かっているので、京都の母親を訪ねて、孫娘の連絡先を聞き出して欲しい――――

 

 忠彬は説明中も時折苦しそうな様子をしていたが、何とか一通り説明をし終えた。

「君にこんなことを頼むのは筋違いと充分承知しているが、これも何かの縁と思ってどうか頼まれてはくれないか」

 諒輔は突然の申出に戸惑って返事をせずにいた。

「京都の母親の連絡先などについては葛城が説明する。申し訳ないが、私は少し休ませて貰う、でどうだ、引き受けてくれるか」

 頼まれたら断れないと言う諒輔の性格を知っての申出だとすれば、これを引き受けるのは相手の思う壺とは思うものの、余命幾ばくもないもない老人の頼みとあれば引き受けざるを得まい。諒輔は承知した。

「会長、大丈夫ですか。すぐ看護師を呼びますから」

 葛城は諒輔に頭を下げると車椅子を押し別室に向かった。別室がベッドや医療機器を備え付けた病室になっているのだろう。

 ほどなく医師と看護師がやってきて、別室に消えた。入れ替わりに葛城が戻ってきて「抗がん剤の副作用で体調が優れないのです。お許し下さい」と涙ぐみハンカチで目頭を押さえた。

 葛城は母親の京都の住所と、電話番号と名前を教えてくれたのだが、その母親の名前は《安倍クリスチーナ》というものであった。不思議そうな顔をしている諒輔に「えーそうです、母親のクリスチーナはアメリカ人です」と説明した。

「京都大学に留学中に息子さんの忠成様と知り合い二人は恋に落ちました。でも安倍家の一人息子で、将来陰の長者になる者が、外国人と結婚することは許されないことでした。二人は会長の説得に耳を傾けるどころか、強く反発して同棲生活を始めたのです。そして子供を授かったのを機に二人は正式に結婚しました…… 」

 父子の間をとりもち和解するよう奔走したのは葛城であった。当時の事が思い出されたのか葛城は苦渋の表情で言葉を詰まらせた。

「クリスチーナさんは、忠成さんが亡くなられた後もアメリカに帰らなかったのですね」

 諒輔は説明の続きを促した。

「えぇ、その後もずっと京都に住んで、平安時代の歴史と文学を研究しておられます。現在は私立大学の講師などをされています」

「事情は大体分かりました。でもクリスチーナさんと安倍家とはずっと絶交状態だったわけですよね。私のようなものが出向いてお願いしても、簡単に娘さんの連絡先を教えてくれないのではないでしょうか」

 幾ら能天気の諒輔でも、これ位の事は察しがつく。

「はい、それは会長も案じておられまして、クリスチーナさん宛ての書状を書かれました。これがその書状です。結婚を認めなかった事など過去の様々な仕打ちについて率直に詫びると共に、伝統を継承する事の大切さを縷々したためたものと伺っております」

和紙に書かれた書状を受け取った諒輔は、今さらながらに重い責任を荷なわされたことに気づかされた。


第五章 京都

  諒輔にとり京都は無縁の地ではない。母親の実家が京都であり、母が亡くなる前は年に数度、母に連れられて京都に来ていたのである。

 母は諒輔が小学校六年生の時に、病気のため亡くなったが、医師である父は母を助けられなかったことを大変悔やんだ。当時父は大学病院勤務で将来を嘱望された外科医であった。その為仕事は多忙を極めており、家族のことはその一切を母に任せ切りであった。母が病に冒された時も、仕事に追われてその身体の異変に気付くのが遅れてしまったのだ。

 母が亡くなった後、父は大学病院を辞めて開業医となり生計を立てていたが、諒輔が大学に進学するのを待って、沖縄の離島の診療所に赴任したのであった。

 そのような経緯もあって母の思い出が詰まった京都に行くことがなんとなく躊躇われていたのであった。諒輔にとり今回の京都行きは久々のことである。

 

 諒輔が京都を訪れた日は七月の上旬で、梅雨明けの時節の暑さは耐えがたいほどだった。堀川通りには陽炎がゆらゆらと立ち昇り、道路に描かれた白い歩道標識が眩しく光っていた。諒輔がタクシーを降りたこの辺りは京都市街の北西部にあたるところで、西陣と称される地域である。古い町屋作りの建物が点在する京都らしい一画で、訪れた先も小振りながら町屋作りであった。

 玄関の表札には“安倍”と言う小さな表札が掲げられており、脇には”西陣倶楽部 源氏物語教室”という看板が掛けられていた。吹き出る汗を拭うと格子状の引き戸を開け、薄暗い奥に向かって声をかけた。

 ややあって近寄ってくる足音が聞こえ、現れたのは作務衣を着た女性であった。髪はブルネットで瞳は青みがかった灰色をしている。

「昨日電話をした三輪諒輔です」と名前を名乗り、更に用件を話そうとすると「そこは陽が当って暑いでしょう。どうぞ中に入ってください」と外国人と京都人の両方が入り混じったような微妙な抑揚で言い、諒輔を土間に招じ入れた。建物の内部は薄暗いが、風が吹き抜けひんやりとしている。

「ようお越しになりました。安倍クリスチーナです」と自己紹介し、下駄を脱いで式台に上がり諒輔を居間に案内した。居間は民芸風の箪笥や座卓が置かれ、開け放たれた障子の向こうは坪庭となっていて、濃い緑が逆光に浮かんでいる。

 

 諒輔は勧められるまま、座卓の前に座ると、挨拶もそこそこに用件を切り出した。忠彬が末期がんに罹患し余命幾ばくもないこと、孫娘に会いたがっていることなどを話した。

「これがお義父様からお預かりしてきた書状です」

 クリスチーナは受け取った書状の封を切り、水茎の跡も鮮やかな文字をみると顔を輝かせた。

「あぁ、なんて麗しい筆跡でしょう」

 クリスチーナが平安文学を研究していることを知っている忠彬は、平安風の書状としたのであろう。反対側に座る諒輔からも開かれた書状の一部を見ることが出来たのだが、情けない事にその文字は一切判読不能であった。

 熱心に読んでいたクリスチーナだったが、途中からは時々読むのを止めて溢れる涙を手の甲で拭った。書状を読み終えたクリスチーナは赤く充血した目で諒輔を見据えると「承知しました。娘の連絡先をお教えします」と言って立ち上がると部屋の隅に行き、文机の前に正座し何やら書き物をしていたが、戻ると諒輔に和紙に書かれたメモを手渡した。

「これが娘、安倍理紗の連絡先です」

「ありがとうございます。お義父様はさぞお喜びになることでしょう」

 責任が果たせた安堵感から諒輔は満面の笑顔であったが、クリスチーナは厳しい表情で続けた。

「ただ、理紗がお義父様に会うかどうかは本人が決めることです。忠成さんは生前、娘にお義父様は恐ろしい人なので、決して近づいてはならないと、常々言い聞かせていました。ですから、お義父様が望んでも理紗は会いたがらないかもしれません」

「恐ろしい人と言い聞かせていた……」

 諒輔は、忠彬、忠成父子の相克の深さを垣間見た思いで表情を引き締めた。

「それからお義父様の命を救っていただいたそうですね。手紙にあなたのことも書かれていました。私からもお礼申し上げます」

「あ、いや、お礼を言うのはこちらの方です」

 諒輔は居住まいを正すと、改めて礼を述べ辞去するため立ち上がった。

 

 玄関を出ると、ギラギラと西日が照りつけており、薄暗い室内から出てきた諒輔はそのまぶしさに目を顰めた。そして日差しを避けて軒下に入ると、携帯を取り出し葛城に電話をかけた。

「あー諒輔さん、京都は暑いでしょう。ほんとお疲れ様です。で、どうでした?」

 葛城は性急にまくし立てる。

「娘さんの連絡先を教えていていただきました」

「そうですか、そうですか。それは良かった。早速会長にお伝えします」

「えぇ、でも……」

 娘の理紗は会ってくれないかもしれないと言うべきか躊躇する諒輔に葛城が畳みかける。

「諒輔さん、お疲れでしょう。今日は京都に泊まってゆっくりなさって下さい。詳しいことは明日でいいですから」

 腕時計を見た。今から直ぐ帰っても東京に着くのは午後十時を過ぎてしまうだろう。

「はぁ、そうですね。それではそうさせて下さい」

 京都の暑さにぐったりしていた諒輔は素直に葛城の勧めに従うことにした。携帯を切るとタクシーに乗るため表通りに向け歩き出した。祇園祭りが始まり、西陣の各町内は宵山や山鉾巡行の準備をしているのであろう、遠く近く祇園囃子が聞こえる。ふと幼い頃の思い出がよみがえり、胸が切なくなった。

 表通りに出てタクシーを拾うと、諒輔は行き先を下鴨神社と告げた。ホテルに行くのは後回しにして、糺の森を訪ねようと思い立ったのであった。糺の森は母への想い出が最も詰まった場所であり、長い間行くことを封印してきた場所でもあった。

 タクシーを降りた時はようやく陽が傾き、鴨川から吹いてくる風の効果もあって、さすがの熱気も大分和らいでいた。原始の森の様相を今に伝えるという糺の森を歩きながら、諒輔は母の思い出に浸っていた。

 

「ちょうど今頃の夕暮れ時の事をね、逢魔が時って言うのよ」

母親は浴衣姿で、片手に団扇を持ち、もう片方の手で幼い諒輔の手を握っている。街は暮れなずみ家々の軒先に吊り下げられた提灯に次々に明かりが灯され、幻想的な街並みに変貌して行く。祇園囃子の音、さんざめき行き交う多くの人々の影、どうやら祇園宵山の光景のようだと記憶の底で諒輔は気付く。

「オーマって、お馬さんのこと」

 諒輔が、母を仰いで問いかける。母はしゃがみ込み諒輔の頭を撫でながら「違うわ、逢魔って言うのはね、魔物に出逢うと言う意味なのよ」と優しく教える。

「ふーん、それじゃ、僕たちも魔物に出逢えるの」

テレビや絵本、ゲームなどに出てくる魔物しか知らない諒輔にとり、魔物は怖いと言うより、むしろ出逢ってみたい興味ある存在であった。

「そうね、逢えるかもしれないわ。あなたには、ご先祖さまの血が流れているからきっと魔物を見ることが出来るはずよ」

 母がどうして、そのようなことを話して聞かせたのか記憶にないが、魔物に逢えるということを聞いて無邪気に喜んだことを今も憶えている。そして母はこう言ったのだ。

「お母さんが生まれた京都のお家はね、下鴨神社というそれはそれは古い神社と深い繋がりのある家柄だったのよ。明日はその神社に行ってみましょうね」

 

 今、その下鴨神社の森にいるのだと、諒輔は感慨深げに周囲を見渡した。いつの間にか辺りは深い闇に包まれ、鬱蒼とした木々の向こうに参道の白色灯が狐火のように浮かんでいる。行く手から小川のせせらぎの音が聞こえ、まるで深山幽谷の地にいるかのようだ。何時になく感傷的な気分になった諒輔はまた遠い昔の記憶を呼び起こした。

 

 母はその後も京都に行く度に、諒輔を連れて下鴨神社に行った。そして糺の森を二人で歩きながら神社の由来や先祖に纏わる話を色々してくれた。

 中でも母が楽しそうに話してくれたのは葵祭りに関するものであった。中学・高校時代は毎年欠かさず葵祭に参加していたようで、母にとってそれは青春時代のかけ替えのない想い出だったのだろう。

「とても美しい行列でね、皆が古い時代の衣装を着ているの。私は綺麗な着物を着て腰輿(およよ)の脇を歩くのよ」

「えー、オヨヨって変なの」

「ふふ、可笑しいわよね。腰輿というのは女人行列の中で一番偉い人が乗るものなのよ」

 オヨヨ、オヨヨと叫びながら跳ねまわる諒輔を見る母は実に幸せそうであった。

 

 それからというもの諒輔は糺の森に来るといつも葵祭の話をして貰うようになった。母はせがまれると「諒輔は葵祭が好きなのね」と笑い、楽しげに葵祭に纏わる話を聞かせてくれるのだった。



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