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第九章 都内高級ホテル

 葬儀の打合せを兼ねた夕食が済むと、諒輔は一人、病院の近くのホテルに向かった。葛城が気を利かして手配してくれたのだ。部屋に入ると、シャワーを浴びる気力もないまま、ジャケットを脱ぎ捨て、ベッドに倒れ込んだ。

 

 酷い頭痛がして諒輔は目覚めた。何やら夢を見ていたようだ。千年の記憶を遡って行く時に垣間見たイメージの数々が猛烈なスピードでフラッシュバックされ、厖大な情報が洪水のように湧き出し、溢れかえる感覚に必死に耐えていた。しかしこうして目覚めて、夜が明けたことを知った今、それは千年の記憶の封印が解かれ、記憶が一斉に蘇った瞬間だったのだと悟った。

 恐る恐る諒輔は記憶を探った。記憶は忠彬が先祖代々引き継いできたものと、忠彬の代に取り込んだものとがあり、先祖からの記憶は、それぞれの代の陰の長者の人生の記憶と陰陽道に関するものがほとんどであった。その中には呪術に関するものがあり、式神遣いの法などもあるようであった。

 一方、忠彬自身が取り込んだ記憶には、「物理学」「化学」「医学」「経済学」「法学」「文学」など近代から現代にかけての学問が網羅されていた。医学においては「脳生理学」など脳に関するものが多く、経済学においては「投資理論」など金融に関するもの多く含まれていた。語学は英語の他、フランス語、ドイツ語、中国語など多数に及び、それらの言語で自由に会話することが出来るようであった。その他に芸術、武術、スポーツなど、実に様々なものが取り込まれており、忠彬の貪欲なまでの知識吸収に改めて驚かされた。

 諒輔は起き上がり、ベッドから降りると、先ずは小手調べに呪術が実際に使えるか試してみることにした。印を結び、呪を唱えた。ぼぉっとした影が二つ浮かび上がる。

「お呼びにございますか」

 声を揃えて低頭するのは、あの犬麻呂と牛麻呂、童形水干姿の式神であった。式神には主人として威厳を持って対応すべしというのが、引継がれた記憶であった。

「忠彬様から陰の長者を引き継いだ三輪諒輔だ。お前達二人は身の回りの世話と警護をして呉れる者共と聞いている。今後は私の式神として尽くせ」

「畏まって候、して今日の御用の趣は」

 少年特有のやや甲高い声である。問い返された諒輔は、はたと困った。何を言い付けるか考えていなかったのだ。

「うむ、そうだな、朝の支度など頼もうか」

 二人は少し思案するようであったが、犬麻呂は浴室に行くと風呂の用意を始めた。牛麻呂は、諒輔のシャツとズボンを脱がしにかかる。戸惑う諒輔の意を介さずにパンツまで脱がそうとするので、慌てて自分で浴室に行き、パンツを脱いで浴槽に飛び込んだ。湯はまだ三分の一ほどしか貯まっていないが、手足を伸ばすと快さが広がった。

 湯が肩を浸す頃、犬麻呂、牛麻呂は諒輔を湯船から出し、座らせると二人掛かりで諒輔の頭、手足、背中などを洗い始めた。こんな調子で傅かれては堪らない。風呂を出ると早々に告げた。

「あぁ、もう良い、後は自分で始末する。下がって良い、ご苦労であった」

 呪を唱えると二人の式神は低頭して退くと、ぼおっと霞んで消え去った。

「ふぅ、やれやれ、やりつけないことは迂闊にやるものじゃないな」

 独り言を呟いて、衣服を身に付けた。

 

 葬儀は忠彬の世田谷の屋敷に於いて神式で行われた。クリスチーナ、理紗、諒輔、葛城の他、参会者は故人にごく近しい人に限られて執り行われたのであったが、忠彬の死を知った人達の中から“忠彬を偲ぶ会”を開催したいとの申出が寄せられた。

 申し出たのは忠彬がこの20年程逗留していたホテル関係者達であった。一人息子が駆け落ち同然に家を出た後、その心痛により間もなくして妻が亡くなり、さすがの忠彬もひどく気落ちした。そんな気持ちを紛らわすために、家族の思い出が詰まった屋敷を出て、ホテル住まいを始めたのであった。

 始めはほんの数週間位の積りが、よほどそのホテルが気に入ったのか、その後二十年近くも逗留することになったのだ。忠彬にとっては、この二十年ほどはそのホテルが自宅のようなものであり、ホテルの従業員達も忠彬を慕い、家族のように接してきたのであった。

 その話を聞いた、クリスチーナと理紗は偲ぶ会の開催に同意し、是非自分達も出席したいと申し出たのであった。偲ぶ会は、クリスチーナが京都に帰る前にという計らいで、急遽クリスチーナが京都に帰る日に開催される運びとなった。

 

 偲ぶ会の当日、諒輔の宿泊するホテルに大型のリムジンが迎えに来た。

「葛城様は打合せの為、会場に先に行かれました」

詰襟制帽姿のあの運転手はそう告げるとドアを開けた。車内にはすでにクリスチーナと理紗がいて、理紗は和服の喪服姿で忠彬の遺影を抱えている。車内に乗り込み、ボックス席の二人に向き合うように座ると、諒輔は英語でクリスチーナに話しかけた。クリスチーナはごく普通に応対したが、理紗は諒輔が話す流暢な英語に驚いていた。

「諒輔さん、何か変わりましたね」

 理紗は諒輔の顔を繁々と見つめた。クリスチーナも同意するように頷く。

「やはりそう思いますか。実は鏡を見て、以前の僕とは大分違うと感じていたのです」

「えぇ、以前はどこかぼうっとしたところがあったけど……あら、御免なさい」

「いえ,皆にそう言われていましたから」

「今日の諒輔さんはとても理知的な顔をしてるわ」

「理知的か……なんせ千年の記憶を取り込んだらなあ」

少し複雑な気持ちであったが、そんな会話を取り交わしている内に目的地に着いた。

 

 会場となるホテルは都内でも有数の高級ホテルで、広い敷地内には回遊式の日本庭園や茶室もある。正面玄関の車寄せにリムジンが停車すると、すかさずホテルの従業員が車のドアを開けた。一行が車を降りると、そこに年老いたドアマンがおり、理紗が掲げる忠彬の遺影に恭しく辞儀をして一行を入口に案内した。

 クリスチーナと理紗の後に諒輔が続く形で入口を入る。ロビーには大勢の人達が待ち構えていて、行く手の両脇に整列していた。それらは、フロントクラーク、コンシェルジュ、ベルマン、ウエイター、ウエイトレス、バーテンダー、室内清掃係、ひと際目立つのが白く高いシェフ帽の一団などホテルの各職制に応じた制服に身を包んだ人々であった。

 お驚きながらも、歩みを進めると、両側の人々は口々に「お帰りなさいませ」「お帰りなさい」「先生お帰りなさいませ」などと言い、忠彬の遺影に向け丁寧に辞儀をするのであった。ハンケチで涙を拭う者、隣の人の肩を抱く者、皆が忠彬の死を悼み悲しんでいた。

 整列の最後に葛城と支配人らしき人がいて、二人が先導して、一行を忠彬の部屋に案内した。その部屋はスイートルーム仕様で、リビング中央のテーブルには白い薔薇が飾られていた。忠彬が好んだ種類の薔薇だと、葛城が説明した。

 二つあるベッドルームの一つは書斎として使っていたようで、ベッドの代わりに紫檀の大きな机と皮張りの椅子が置かれていた。しかし、その机と椅子以外は、ほとんどがホテルの調度品のようで、全体に品よく調和がとれていた。忠彬が私物を極力持ち込まず、また部屋を自分の好みに変えようとしなかったのであろう。そんな配慮もホテルマンには好もしく思えたことであったろう。

 一通り、部屋を見て回った一行は、宴会場フロアにある偲ぶ会の会場に案内された。会場には、先程ロビーで出迎えてくれた人達が待っていて、人垣を作っていたが、入って来た一行のために道を開けた。

 会場内は普通の立食パーティーのように、食べ物、と飲み物が用意されていた。クリスチーナと理紗が正面の一段高い壇に促されて上ると、支配人らしき人がマイクをとり挨拶を始めた。

「私、当ホテルの総支配人をしております工藤と申します。本日は我々従業員の無理なお願いをお聞き届けいただき、安倍忠彬様を偲ぶ会がこうして開催出来ましたこと、従業員一同心から感謝しておる処でございます。またご遺族の皆様はご葬儀でお疲れのところ、ご臨席を賜り厚く御礼申し上げます」

 工藤は壇上の遺族にお辞儀をして、挨拶を続けた。

「ご存じのように安倍先生は二十年来、当ホテルをご自分の住まいのようにご使用していただき、その間我々従業員に対し、父のごとく接していただきました。また博学多才の先生は、我々が困った事態に遭遇した時には、適切なアドバイスをしていただき、何度も助けていただきました。先生が亡くなられたとの悲報に接し、従業員一同、深い悲しみを覚えた次第でございます。本日は、それぞれの立場で先生の想い出を語り、先生のご遺徳を偲びたいと存じます。皆様どうぞよろしくお願い申し上げます」

拍手してよいものやら誰もが、躊躇していたが、諒輔が拍手すると、ほっとしたように拍手が沸き起こった。

 遺族を代表してクリスチーナが挨拶し、引き続いて献杯が行われると飲食しながらのパーティーとなった。しばらくすると、従業員が交互にマイクを取り、自分が体験した忠彬のエピソードを語って行った。どれも心温まる話で、感激屋の葛城は話の一つ一つに涙を流していた。クリスチーナと理紗も感動で顔を紅潮させていた。

 出席者はホテルの制服ではない普通の格好をした男女も混じっていた。総支配人の工藤に聞くと、このホテルの常連客で忠彬と馴染みの深い人にも声をかけたとのことであった。その中に妙に気になる背広姿の二人連れがいた。その内の一人の顔に大きな傷があったので、目立ったのがその理由だが、もう一方の男も眼光が鋭く独特のオーラを放っていた。   その男は長髪、色白で一見すると女と思い違いしそうになる優男であった。諒輔がなお注意して観察して気が付いた。傷のある男は、以前襲ってきたワゴン車の背の高い方の男に違いなかった。傷により引き攣った顔が以前と変わっていたので気付くのが遅れたのだ。その二人は部屋の隅に行くと、辺りを憚るように小声で話し始めた。諒輔は精神を集中して二人の男の心を読んだ。会話の内容が伝わってくる。

 

『安倍忠彬が死んだことは確認された。問題は次の陰の長者が誰かと言うことだ』

優男が傷のある男の耳元で囁いている。

『血縁者はあそこにいる孫娘しかいないのではないですか』

 傷のある男が、壇上の理紗を見やりながら囁き返す。

『しかし、若い女の上に外国人の血が混じっていることを考えるとどうもな』

『そうですね、あの孫娘に陰の長者が勤まるとは到底思えません』

『うむ、陰の長者が引き継がれなかった可能性も否定できぬか』

『それなら、我々にとって、正に好都合』

『いや楽観論は禁物だ。我々の知らぬ血縁者が他にいる可能性もある。情報収集と探索を強化する必要があるな……うん?』

 優男が会話を中断し、怪訝な顔をして周囲を見回した。心を読まれたことを察知したのだろうか。二人連れは、もう一度壇上を睨みつけると、踵を返して会場を出て行った。もし、心を読まれた事を察知する能力をあの男が有しているとすれば、侮るべからざる敵と言わざるを得ない。


第十章 桜坂

 理紗の安全が気になったが、葛城が夜間の外歩きなどの場合は身辺の警護をすると言うのでしばらく様子を見ることにした。理紗にあまり心配掛けない程度に注意すると、「私には、危険察知能力があるから大丈夫」と言って気にかけない。何かあれば直ぐ連絡するように約策させたが、それでもまだ少し心配である。

 諒輔については、阿修羅教団側は何も気付いていないようなので、これまで通りにして置いた方が良かろうという判断から、八王子のアパートに住み続けることにした。

 そんな訳で陰の長者になった後も、諒輔は相変わらず、栗原運輸のアルバイトを頼まれたりしていた。それは諒輔にとって気が紛れることであり、社長や八百子と過ごすのが楽しかったからでもあった。しかし忠彬の葬儀などで忙しくなってきて、そうもしていられなくなり、諒輔は社長と八百子にあの財団に就職する旨を告げて、アルバイトを止める事にした。 

 納骨を済ませ、葬儀に関する当面の行事が終わると、葛城は相続について相談したいと諒輔と理紗に申し出た。財団事務所を二人に見て貰いたいとの葛城の思惑があり、相談は財団事務所で行われることになった。

 

 理紗は教えられた場所をインターネットで調べてみた。そこは地下鉄の溜池山王駅からほど近い桜坂の中程の所であった。桜の咲く頃、何度か訪れたことがある場所である。葛城は迎えの車を出すと言ったが理紗は断り、諒輔と溜池山王で待ち合わせして、一緒に訪れることにした。諒輔と二人で桜坂を歩くのも悪くはないと思ったのだ。

 その日の理紗は白いブラウスにベージュのタイトスカートでセミロングの髪を自然に下ろした姿である。スカートの深いスリットが気になったが、多少の色気も必要だろうなどと思いつつ、理紗は先に待っていた諒輔に歩み寄った。諒輔はちらっと近づく理紗の姿を見やったがどうやら理紗とは気付かない様子である。少し腹を立てて、無言で諒輔の目の前を行き過ぎ、モデルターンをし、ヒールの音を殊更立てて戻ると諒輔の前に立った。

「あぁ理紗さんか、一瞬誰かと思ったよ。何時も和服だったから」

「まぁ、諒輔さんたらいけずやなぁ」

つい京言葉が出てしまった。諒輔は狼狽気味に言い訳するが、服装と髪型が変わった位で見損なうとは諒輔もどんくさい。まぁ、それがどこか憎めない要素にもなっているのだろう。

 二人は連れ立って歩き出した。九月も中旬になり、ようやく残暑が一段落したのと、夕方の五時を過ぎて陽も傾いたので、地上を歩いても苦にならない。目指す建物は桜坂の途中にあるキリスト教会の隣にある三階建の古ぼけた小さなビルであった。古風なデザインのビルの表面に蔦が絡まった様子は瀟洒であり、隣のチャペルと良く調和がとれていた。一階入り口に小さな看板があった。《桜坂画廊 営業時間 10:00~17:00》とある。ここが目的のビルだ。諒輔がドアを開けて、理紗を先に中に入れる。理紗は内心『ヘぇ、中々気が利くじゃない』と感心する。左手に部屋があり画廊になっているようだ。額縁を模したような窓枠のガラス窓があり、そこから中を見ることが出来る。ユトリロ風の風景画が数十点掛けられている。ユトリロが好きな理紗は中に入ろうとして、画廊に通じるドアに手を掛けたが、鍵がかけられているようで中に入れない。あきらめて諒輔に続いて更に奥に進むと狭いエレベーターホールがあり、案内表示の看板が立ててあった。

 〈一階 桜坂画廊〉〈二階 画廊事務所〉〈三階 財団法人 日本伝統行事研究保存協会〉

エレベーターに乗り込むと諒輔が三階のボタンを押した。アールデコ調の装飾が施されたエレベーターはゆっくりと動作して三階に止まりドアが開いた。その部屋はかなり広いが、来客用の応接セット、書棚、事務用のスチール机と椅子が数人分あるなど、ごくありふれた事務所の佇まいである。

「これはこれは、諒輔様、理紗様、良くお越しいただきました。お迎えも致しませず誠に申し訳ございません」

 葛城は恐縮の体である。部屋には葛城の他にもう一人の男性がいて辞儀をした。

「いいえ、桜坂と聞いて歩いてこようと諒輔さんに私が言ったのです」

「そう、桜の季節ですとデート、いえ散歩には打ってつけの場所なんですけど……あっ、こちらは遠山です」

 紹介された二十四,五歳と思えるその男は小柄で、どことなく葛城に似ている。どこかで見たような気がすると理紗は記憶を巡らせ気付いた。

「あぁ、あなたは病院の霊安室にいらした」

 黒の上下のスーツに白い手袋をしていたあの若い男だった。

「遠山と申します。ご挨拶が遅れまして失礼いたしました」

 遠山は、七三に分けた頭を律義に下げた。 

「実は遠山は、姉の息子、つまり私の甥でして、財団の経理全般を見て貰っています」

 理紗にとってその男が葛城の甥というのは意外だが、諒輔は意に介する風も無く、気さくに遠山と握手などしている。

 その時エレベーターの扉が開き、別の男がもう一人入って来た。葛城はその男が近づくのを待って声をかけた。

「異常はありませんでしたか」

「はい、尾行された形跡は認められません」

 そう答える男を葛城は諒輔と理紗に紹介した。

「既にお見知りかと思いますが……」

 いつもは詰襟の制服姿だが今日は普通の背広姿だった。

「神崎です。どうぞよろしくお願いします」

 神埼は慇懃に礼をした。贅肉の無い筋肉の引き締まった体つきをしており、顔の表情も精悍そうである。

「こちらこそよろしくお願いします」

 理紗は挨拶を返した。

「神崎は空手の達人です。元自衛官で銃器などの武器のエキスパートでもあります」

 理紗は葛城の説明を聞いて頼もしく思ったが、先程、神崎が口にした尾行という言葉が気になった。

「あのぅ、神崎さん、先ほど尾行された形跡とかおっしゃいましたよね」

理紗は気になっていたことを口にした。

「はい、阿修羅教団の者どもがお二人を尾行することも考えられますので、失礼ながら監視させていただきました」

 理紗はその返事を聞いて急に怖くなって、隣の諒輔を見やったが、諒輔は平然としている。そう言えば先程から、何もかも承知しているという様子である。

 一通り挨拶が済むと葛城は「それでは早速ですが、財団の本部事務所にご案内しましょう」と歩き出した。理紗はここがその事務所とばかり思っていたので不思議に思った。

「財団の本部事務所って、ここではないのですか?」

「ここも財団の事務所ですが、言わば表の事務所です。五時までは職員が何人かいたのですが、定時に退社するようにしているので今は居りません。二階に会長室もありますがご覧になりますか」

 理紗にはよく理解できない説明であったが、財団本部というものを早く見たかった。

「いえ、結構です。その本部事務所というものを見せていただきます」

 葛城は頷くと二人に付いて来るよう促し、一同全員でエレベーターに乗り込んだ。定員五名とあるからこれが乗り込む限度である。エレベーターの扉が閉まると、遠山が一階のボタン、二階のボタン、三階のボタンを何回か押した。出鱈目に押しているようで不思議に思ったが、ゆっくりとしたスピードでエレベーターは下降して行く。一階に付くのに嫌に時間が掛かると思った時、やっとドアが開いた。降りたところは、一階ではなく地下であるらしい。それもかなり深い地下のようだ。眼の前に連絡通路のようなものがあって、ずっと先に続いている。遠山が通路入口の壁にある操作パネルに暗証番号を入力する。多分赤外線センサーなどのセキュリティを解除したのだろう。

「どうぞ、こちらです」

 葛城が先頭になって案内する。

「この通路は坂下にある神社の地下に通じています。そこに財団の本部事務所があるのです」

 理紗は大掛かりな施設に驚いた。敵対する者達への備えなのだろうか。

「これほど厳重な防備がなされているとは……想像をはるかに超えています。敵対する者達が多かったからなのでしょうね」

「いえ、当時は敵対勢力とは和解が出来ておりまして、攻撃を仕掛けてくる者はいなかったのです。あの阿修羅教団はこの十年程で先鋭化し、当方に攻撃を開始したのはごく最近のことです」

「すると、当時はこんなに厳重な防備が施された施設を造る必要はなかったのじゃありませんか?」

「この施設を造った頃は、忠彬様が金融取引を積極的にやっておられた時でして、国税庁や証券監視委員会などの査察や捜査に備えるという意味合いが強かったのです」

 葛城の説明は理紗にとって腑に落ちないものだったが、理解を超えていたので話題を変えることにした。

「阿修羅教団と言いましたか……その敵にはまだこの事務所の存在を知られていないのですね」

「えぇ、今のところ察知された兆候はありません。しかし、阿修羅教団の者達は、最近しきりに当方へ探りを入れている模様です。決して油断できません」

 それを聞いて理紗は少し不安になったものの、まさか自分に危害が及ぶとは思わなった。

 

 連絡通路の突き当たりに扉があり、遠山がセキュリティを解錠して一行を中に招じ入れた。本部事務所は幾つかの部屋があるようで、先ず案内された部屋の壁面には液晶パネルがいくつも設置されており、机の上には数十台の情報端末とパソコンが置かれている。壁面のパネルには株価、為替相場、金利などが時々刻々と変化する数字を表示していた。

「ディーリングルームです。昔はこの部屋で忠彬様が金融取引の指揮を直接採っておられましたが、この二十年程はディーリングルームとしては使用しておりません。ただ保有資産の管理のために役立つと申しまして、遠山が時折使っておるだけです」

 葛城は説明が終わると、次の部屋に二人を案内した。そこは監視セキュリティルームであった。壁面に沢山のモニター画面がある。それらの画面には画廊の入り口、画廊の一階通路、エレベーター内部、三階事務所など桜坂画廊の至るところが映し出されている。神社の境内や神社の建物はこの施設の地上にある神社であろう。雑木林に囲まれた建物の外部とその内部は世田谷の屋敷だろうと理紗は推察した。

「このセキュリティルームの責任者は神崎です。何かご質問があれば神埼にお尋ね下さい」

 理紗が首を振ると、葛城はまた別の部屋に案内した。

「こちらが本部会長室です。どうぞお入り下さい」

 諒輔と理紗が部屋に入ろうとすると、神崎が「私達はこれで失礼いたします。別室で控えておりますので御用があればお申しつけ下さい」と告げ遠山と共に去って行った。

 部屋の中は、大手企業の役員室とさほど変わらぬ仕様で、床には分厚い絨毯が敷かれ、扉、壁、調度品はマホガニーや紫檀などの木製品で統一されている。皮張りの応接セットは十数名が座れるような大きなもので、諒輔、理紗、葛城は一番奥に向かい合って腰かけた。

「意外と普通の部屋なんですね。クラシックカーが趣味だと聞いていたので、自分の部屋は、重厚な英国貴族風かと思っていました」

 理紗は率直な感想を口にした。

「忠彬様は、『私の趣味はディーリングルームだけで充分だ』と言われて、ご自分の部屋には頓着しなかったのです。それでこのようにありふれた部屋になっているのです」

 葛城は部屋をぐるっと見渡し感慨深げな表情を見せた。それでもすぐにいつもの調子に戻り、二人に好みの飲み物を聞き、それを内線電話で伝えると居住まいを正した。

「早速ですが遺産相続についてご相談させていただきます。先ずはこれをご覧ください」

 葛城は資料を二部取り出し、諒輔と理紗に一部ずつ手渡した。

「それは、忠彬様の遺書のコピーです。本物は顧問弁護士が保管しており、詳細については後日、弁護士から説明があります。本日は私が、この遺書の概要を説明いたします。尤も諒輔様は忠彬様の記憶を引き継がれておられますので、先刻ご承知でしょうが、一緒にお聞き下さい」

『あぁ、そうか、諒輔さんは何もかも知っていたんだ。だから平然としていたんだわ』

理紗は内心呟き納得した。

「忠彬様がこの遺書を書かれたのは、亡くなる一週間ほど前でして、理紗様が陰の長者を引き受けてくれるかどうか分からない時でした。ですから陰の長者が忠彬様の代で絶えることもあり得るという前提に立っての遺書になっています。まぁ、内容は後ほどよく読んでいただきたくとして、遺産相続の要旨ですが、忠彬様個人名義の資産の内、四分の三を理紗様に、四分の一をクリスチーナ様に相続するということです。当財団の会長には陰の長者が就任し、その所有する資産の管理も陰の長者に委ねられます。因みに次代の陰の長者が不在となってしまった場合については、財団は解散し、所有資産は国庫に納める事になっておりました」

 葛城はここで言葉を区切ると、諒輔と理紗の顔を交互にじっと見た。

「色々と質問があると思いますが、もうしばらく私の説明を聞いて下さい。さて問題は世田谷の屋敷の相続です。土地も建物も忠彬様の個人名義ですが、遺書には陰の長者が管理するべきものとされております。なぜならあの屋敷には、代々の陰の長者を祭祀する祭壇があり、これを守るのは当代の陰の長者の務めだからです。忠彬様はこの20年ほどホテル住いでしたが、代々の陰の長者の祥月命日などの式日には必ず、世田谷の屋敷に行かれていました」

 葛城の話に理紗はすぐ反応した。

「あのう、私、そんな広い屋敷に絶対住みたくないです。ましてや先祖の祭祀の間があるような所、とても怖くて近づけません。遺書の通り諒輔さんが住むなり管理してくれたら嬉しいです。それよりも……」

 理紗は言葉を区切りおずおずと訊ねた。

「あのう、こんなこと聞いて、はしたないと思うかもしれませんが……私に相続される資産て、どの位の額なんでしょうか?」

「詳しい額は、顧問会計士が株式などの時価評価をして算出します。私もどの位になるか見当がつきませんが、金融資産だけでも数億円単位にはなることでしょう。でも、高率の相続税が課せられますから、手取り額はその半分以下になります」

 思っても見ない事態に理紗は茫然としている。

「ついでと言ってはなんですが、財団の所有資産についても理紗様に簡単に説明しておきます。財団資産は陰の長者である諒輔様が引継ぎ管理して行くことになります。財団には表と裏があることは、もうご理解いただけたでしょうが、表の資産はわずかなものです。裏の資産、我々は財団本部と言っておるのですが、その資産は中規模の銀行程度だと言っておきましょう」

 巨大な資産ということは理解できだが、具体的にそれがどれ位の額なのかは理紗には分からない。

「このような巨額の資産を保有するに至った経緯や、その方法などは私が説明するより、忠彬様の記憶をそのまま引き継いだ諒輔様の方が、ずっと詳しいので、説明は諒輔様にお願いしたいと思いますがよろしいでしょうか」

 葛城は諒輔の顔を窺った。その時、ノックがあり、遠山が飲み物を持って室内に入って来たので、ひと先ずコーヒーブレイクにすることにした。

 飲み物を飲んで一息つくと、諒輔が「話は長くなるけど」と前置きして話し出した。その概要は次のようなものであった。

 

 忠彬が陰の長者を引き継いだのはちょうど二十歳の時だった。それは太平洋戦争が終結した翌々年の一九四七年(昭和二十二年)のことであった。

 忠彬の父、顕平は戦時下においてその能力を買われ、天皇陛下からの諮問に応えるなどしていたが、終戦間際においては徹底抗戦派の将校等のクーデター鎮圧に尽力するなど活躍した。

 戦後は占領軍司令部と皇室存続について裏面交渉を行ったりもした。しかし、長年奔走した疲れと、安倍家の経済的な逼迫から気力を失い、息子の忠彬が成人するのを待って陰の長者を引き継いだのだった。裏土御門安倍家は多くの農地を所有する大地主でもあったが、占領軍の農地解放政策により、その大半を失った。また東京大空襲で自宅を始め、貸家のほとんどが焼失する被害もあって、家計を逼迫させたのであった。

 陰の長者を引き継いだ忠彬は、まだ大学生であり、家計の苦しい安倍家の当主として四苦八苦した。このような自身の経験もあり、これからの時代は経済力の時代になると予見し、経済、財政、金融などの最新知識の吸収に努めた。数少ない家財や土地を売り払い、海外留学をして欧米流の投資理論も習得した。知識は学ぶのではなく、脳に直接転写する方法で行われたから、短時間の内に、忠彬は世界トップクラスの質と量の投資理論と技法を習得できたのであった。

 忠彬は経済関連だけでなく、あらゆる分野の知識を吸収していったので、望めば総理大臣でも、大学の総長でも、大企業の社長でもなれる能力を持っていた。しかし陰の長者は世の表に出ること、多くの人に知られることは禁忌であったので、何事も人知れず行う必要があった。

 忠彬は若く、自信に満ちており、自分の能力を存分に発揮したいと切望した。それは抑え切れない若い性の衝動のようなものであった。そこで忠彬が情熱を注いだのが、投資と投機であった。自分の能力を存分に発揮することが出来て、念願の経済力が手に入る。正に一石二鳥であった。

 忠彬は投資と投機に没頭した。戦後の高度経済成長期でもあり、運用する資産は膨張した。運用先は株式、債権などの金融取引の他、商品相場、為替相場、不動産など多岐に亘った。

 莫大な投資収益があったが、税務申告をすると、世間やマスコミに忠彬の存在が知られることになるので、税務申告はしないことにした。忠彬の類ない才覚をもってしても、多額の資金の運用は当局が察知することになる。が、そうなった場合も、国税当局や証券監視委員会と渡り合い攻防することが当時の忠彬の生き甲斐になっていたのである。

 そのような時に造られたのがこの財団本部事務所であり、ディーリングルームであった。しかし息子の忠成が家を飛び出し、妻がその心労で亡くなると忠彬は投資と投機への関心を一挙に無くしたのであった――――

 

 理紗は諒輔の説明が一段落したところで、疑問を投げかけた。

「すると、財団本部の巨額な資産は脱税による違法なものなの?」

「それについては私から説明いたしましょう。国税当局と交渉したのは私でしたから」

 葛城は諒輔の方に眼をやり、諒輔が頷くのをみて説明を続けた。

「現在は国税当局にすべて申告して、過去の分も含め税金を支払っているので違法なものは一切ありません。脱税の時効は長くて七年です。金融商品取引法違反なども七年で時効が成立します。その期間を過ぎれば法的には罪に問われることはないのです。しかし忠彬様は時効になった分も含めて納税すると国税当局に持ち掛けたのです。その代わりに世間への公表は一切しないという約束でした。いわば一種の司法取引のようなものでしたが、当時の国庫状況も現在同様に逼迫していましたので、案外と順調に事が運びました」

「それを聞いて安心しました。諒輔さんが違法なことをしなければならないのかと心配しました」

「財団本部の資産については遠山が管理しています。詳しいことをお知りになりたければいつでも遠山にお尋ね下さい。えーそれでは財産相続の件はひとまずこれで終わりにして、次に阿修羅教団への対策について相談させていただきたいのですがよろしいですか」

 二人が頷くのを見て葛城は話し始めた。

「それでは、理紗様の為に、先ず阿修羅教団のことをご説明しましょう。阿修羅教団の原型となるものは戦国時代に形作られました。織田信長が比叡山を焼き討ちしたのはご存じと思いますが、信長はこの時、僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われています。これに恨みを抱いた者や、恐れを抱いた者達が密かに徒党を組み、信長への復讐を誓ったというのがその原点です。その後、時の権力者によって宗教者が弾圧される歴史が続きましたが、それ等の者達に手を差し伸べ救済することで勢力を伸張させ現在に至っているのです。豊臣政権から徳川政権にかけて迫害されたキリシタン、明治維新の廃仏毀釈により排斥された僧侶、明治以降に弾圧された数々の新興宗教の信者などが取り込まれていったのです。そのような種々雑多な者を受入れてきた結果、教団の教義は天台・真言両密教を基盤にしていますが、黒魔術やオカルト的な呪術なども取り入れて今や仏教とは異質のものになっているようです」

葛城は一息つき、飲み残しのコーヒーを飲んだ。

「あのう、阿修羅って言えば、奈良の興福寺の阿修羅像が有名だけど、阿修羅とはどういう意味なのですか?」

 理紗は気にかかっていたことを質問した。

「阿修羅は仏教の守護神とされており、常に闘う心を持ち、その精神的な境涯の者が住む世界を現すとも言われています。つまり阿修羅教団とは迫害や弾圧に対抗し、常に闘争することを厭わない者達の集団という意味合いが込められているのです」

「よく分かりました。でもどうして、彼らは私達に敵対するのでしょう」

「それにも深い理由があるのです」

 葛城は深刻な表情を浮かべ、話を続けた。

「先ほどの説明でお分かりかと思いますが、阿修羅教団は時の権力者にとって極めて危険な存在でした。特殊な能力を駆使して要人の暗殺をしたり、政権転覆の陰謀に加担したりしたからです。そこで時の権力者が頼りにしたのが、阿修羅教団を凌駕する能力を有する裏土御門すなわち陰の長者だったのです。陰陽道は、天文、暦などを司ってきた為に、常に時の権力者に必要とされ、密接な関係を保ってきました。安倍一門としては権力者の要請を無碍にすることは出来なかったのでしょう。そのような次第で、裏土御門が阿修羅教団との戦いの矢面に立ったのです。その後長い抗争の歴史がありましたが、忠彬様のお父様の顕平様の代になってようやく和解が成立して抗争に終止符が打たれました。ところが十年程前に過激急進派が阿修羅教団の実権を握ると、和解を破棄し我々に対して敵対する事を鮮明にしたのです」

 葛城は説明を終えると、『理解していただけましたか』というように理紗を見つめた。

「それで彼らからの攻撃に備えなければならないのですね」

「その通りです。正にそのことをお二人にご相談したいのです」

 理紗は今まで、自分の身に危害が及ぶことはないと漠然と思っていたのだが、葛城の説明を聞いて急に恐怖心が湧き出した。

「あのう、すると、私も攻撃されるかもしれないのですか?」

「彼らは陰の長者への攻撃を最優先する筈です。理紗様が陰の長者を引き継いだと彼らが看做した場合、理紗様を襲う可能性があります。しかし彼等は理紗様が陰の長者になったかどうか判断を決めかねている様子なので、すぐに攻撃されるという状況ではないと思っています」

 葛城はそう言って、諒輔の同意を求めるような目付きをした。諒輔が同意を示すと、葛城は更に説明を続けた。

「理紗様、彼らは当財団の会長に誰が就任するか見届けようとしているのです。財団の会長に理紗様が就任しないと分かれば、理紗様は陰の長者でないと彼らは判断するでしょう。ですからなるべく早く諒輔様に会長を就任していただかねばなりません。」

「でも、会長に諒輔さんが就任したら、今度は諒輔さんが狙われることになるのでしょう?」

 理紗は心配気に諒輔の方を見た。

「僕は陰の長者です。襲われたところでどうにも対処できます。今は理紗さんの安全が大切です」

 葛城は二人のやり取りを見守っていたが、ここで口を挟んだ。

「何はともあれ会長就任の手続きを急ぎましょう。しかし関係者の同意を得るなどそれなりの手続きと時間が必要です。それまで万一に備えて理紗様は安全な場所にお住いになっていただきたいのですが如何でしょう?」

 理紗は今住んでいる下町のアパートを、住めば都とそれなりに気に入っていたが、身の安全が第一である。

「えぇ、引越しするのは構いませんけど、どこか良いところありますか?」

「はい、それはもう私共にお任せ下さい。すでに候補をいくつか手配していますから」

葛城は内線電話で神崎に理紗の住いに関する資料を持ってくるよう指示をした。すぐに 神崎が資料を持って現れ、理紗と相談して青山一丁目のセキュリティが厳重なことで定評のあるマンションに住まう事を決定した。これでその日の主要な打ち合わせは一通り終了した。

 世田谷の屋敷の問題は、取りあえず理紗が相続し、諒輔が住むなり管理するということにした。将来のことはその内、二人で世田谷の屋敷を訪れ、現場を見た上で検討しようということで合意したのであった。

 理紗は諒輔と六本木辺りで夕食を共にする積りであったが、諒輔は葛城と更に詳細な打ち合わせがあるのでここに残ると言う。理紗は仕方なく一人、神埼の車で自分のアパートへ帰る事になった。諒輔は矢張りいけずでどんくさい。

 


第十一章 宮内庁

 数日後、神崎の運転するリムジンで皇居に向かった。同乗しているのは諒輔、理紗、葛城である。今日の理紗は訪問着を着ており、諒輔にとっては見慣れた和服姿であった。諒輔は葛城からモーニングコートを着用するよう言われたが、普通の背広で勘弁して貰った。葛城は勿論モーニングコート姿である。

 坂下門で皇宮警察官のチェックを受け、リムジンは皇居に入り宮内庁前の車寄せで停車した。三人は車から降りると受付で来意を伝えた。今日は宮内庁式部官長に会い、諒輔の財団会長就任の承諾を得るためにやってきたのだ。財団法人日本伝統行事研究保存協会は宮内庁が所管官庁となっており、会長就任にはその承諾が必要だったのだ。

 一行は応接室に案内され、お茶が供されたが、『式部官長は会議が長引いておりしばらく待っていただきたい』とのことであった。

「私、実はね、以前宮内庁に来た事があるの」

 理紗は皇居に入ってから、宮内庁の応接室に来るまで少しも物怖じする様子を見せなかった。諒輔には宮内庁の様子は既視感(デジャブ)が有った。忠彬の記憶を引き継いでいるのだから当然であろう。しかし理紗が、先ほどから平然としているのを、不思議に思っていたところだったのである。

「へえ、それは意外だな。またどうして?」

「芸大時代の友達に雅楽を専攻していた人がいてね。その人、宮内庁式部職の楽部に就職したの。それで宮内庁で開催される雅楽演奏会に招待してくれたと言うわけ」

「ふーん、その人って大学時代のボーイフレンド? それとも恋人?」

 諒輔はつい、口走ってしまった。

「さぁ、どうかしら」

 理紗はわざと悪女めいた笑顔をして諒輔の顔を覗き込んだ。葛城はそしらぬ顔でそっぽを向いている。その時「大変お待たせいたしました」と言いながら顔を紅潮させた肥満体の男が応接室に入って来た。葛城は何度かこの人物に会ったことがあるらしく、双方を紹介した。諒輔に渡された名刺には“宮内庁式部官長 安倍豊淳”とある。この人物は安倍本家筋にあたる者でいわば表土御門の当主とも言うべき存在であった。一通り挨拶が済むと葛城が切り出した。

「この度、忠彬様ご逝去あそばされ、こちらの三輪諒輔様が新しい裏土御門家を継がれました。つきましては財団会長への就任に付き、所管官庁として、また安倍宗家としてご承認賜りたく参上いたしました」

 諒輔も葛城に習い頭を下げる

「本来なら、そちらの安倍理紗さんが引き継ぐべきだったのでしょう。あ、いや事情は聞いております。理紗さんが引き継がなかったことを責めているわけではありません。えぇっと、理紗さんは、三輪諒輔さんが陰の長者を引き継ぎ、財団の会長になることを承知しているのですな」

「はい、勿論承知しています。私は諒輔さんが陰の長者を引き継いでくれた事を、心から感謝しています」

「そうですか、しかしですな……いや、安倍一族の主だった者に内々で相談したのですが、安倍の血を引かぬ者が陰の長者になれる訳が無いと言いまして、あなたが陰の長者になったということを信用しないのです」

 諒輔には豊淳の心を読まずとも、豊淳本人が諒輔を信用していないことが手に取るように分かった。

「それでは、今この場で、私が陰の長者であることを証明して見せましょう」

「ほう、それは」

 豊淳は予想もしない諒輔の言葉に呆気にとられている。諒輔はそんな豊淳に構わずおもむろに印を結び、呪を唱えた。 豊淳はしばし呆然としていたが、応接セットのテーブルに蟻の様に小さなものが湧き出したのに気付いた。それらは次第に大きくなって、大豆ほどの大きさになり、あるものは人となり、あるものは馬となり、やがて行列となって動き出した。それらは更に大きくなって行き、男は狩衣などの束帯姿、女は十二単などの女房姿で、それぞれが葵の葉を飾っていることが分かる程になった。『あぁ、これは葵祭りの行列だ』と豊淳は理解する。葵祭りは宮内庁が深く関わって行われる行事であり、豊淳自身も何回か行列の一員として参加しているのですぐ分かったのだ。

 最初、蟻位だったものが今やゴルフボール大になっていたが、そんな行列の中に、牛車が現れた。赤い引き綱を手にする二人の牛童の姿もはっきりと見て取れた。牛車は勅使が乗る豪華な御所車である。と見る間にその御所車は急拡大し応接室一杯になる程の大きさになった。

 周囲はいつの間にか溶暗に溶け込んでいたが、その暗闇から水干姿の二人の牛童が現れた。その牛童の一人が牛車の後方の御簾を上げ、もう一人が踏み台を据えると、恭しく辞儀をして乗り込むように促した。

「どうぞ、皆さん牛車にお乗り下さい」

 諒輔はそう言うと理紗の手を取って、最初に牛車に乗せた。次に豊淳、葛城、最後に諒輔が乗り込んだ。豊淳は驚きの余り、声を上げるのも忘れて諒輔に言われるままに従っている。皆が乗り込むと、牛童は御簾を下げ、踏み台を取り去った。

「よろしいですか。これから何があっても、何を見ても決して声を上げてはなりません。くれぐれもこれだけは守って下さい」

 諒輔が言い終わると、牛車はゴトリと動き出した。諒輔は理紗の肩を抱いて耳元で囁く。

「理紗さん、何があっても心配しないで下さい。僕が付いていますから」

 牛車はゴトゴトと進んで行く。豊淳は脇の小窓の御簾を上げて外を見たが暗くてよく分からない。しかし目を凝らしてそこがどうやら京都の町並みの風景と見当を付けた。

「ご主人様、奴らがやって参りました。如何いたしましょうか」

牛童の一人が牛車の外から諒輔に向かい言上する。

「うむ、牛車を脇に寄せ停止させよ。お前達は身を隠しておれ」

「畏まりました。仰せの通り致しまする」

牛車はギシギシと音を立てて脇に寄ると停止した。

 やがて前方から、がやがやと人の話す声や下卑た哄笑が聞こえてきた。がちゃがちゃと物が打ち合う音に混じって女のすすり泣くような声も混じる。葛城は恐ろしくなって思わず声を上げそうになった。諒輔は口に手をあて「シィー」と葛城を制止した。

『葛城さん聞こえますか。テレパシーで話しかけています。恐ろしかったら眼を塞ぎ、耳も手で押さえていて下さい』

 葛城は何度も頷いて見せ、眼をつぶり、耳を手で覆った。

 物音は更に大きくなり、近付いてくる者達が話す内容を聞き取れるほどになった。

「なんじゃ、良い匂いがするわい」

「おう、そう言われてみれば、麝香、白檀にも勝る良い匂いじゃな」

 理紗は自分の香水が匂うのだろうと気付き、恐怖で震え、諒輔にしがみ付いた。豊淳は御簾の隙間から近づいてくる者達を凝視していた。恐ろしくて仕方ないが身体が凍り付いてしまい、眼が離せなくなっていたのだ。

 豊淳の目に映った者どもは、正に悪鬼の群れであった。痩せさらばえた身体に襤褸を纏った者は、もぎ取られた人の腕を握っており、それを齧りながら歩いて来る。またある者共は、狩った猪を棒にぶら下げるように、人の手足を棒に縛り付け運んでいた。またある者は、全裸の女を逆さに肩に担いでいる。女の腹や太股は抉り取られており、見るも無残な有様であった。

「おい、この辺りじゃ、この周りをよく探せ」

 ひと際獰猛な形相の者が下知すると、悪鬼どもは鼻をひくつかせて牛車の周りを嗅ぎ回り出した。ここに至り豊淳は「ひぃー!」と喉を震わせた。同時に金縛りにあったような状態が解かれて、その場に崩れ落ち、そして気を失った。

 

「豊淳様、もう大丈夫です。目を覚まして下さい」

 頬をひたひたと葛城に叩かれて、豊淳は目を覚ました。

「あぁ、なんて恐ろしい夢を見てしまったのだろう」

 まだ、意識が朦朧としているようだ。

「確りして下さい。ここはどこか分かりますか」

 豊淳は周囲を見渡した。

「あぁ、ここは……」

「私達の事も、分かりますね」

 豊淳は諒輔、理紗、葛城の顔を順番に見つめ頷いた。

「確かに……確かにあなたは陰の長者です。疑う余地は有りません。先程の失礼深くお詫びいたします」

「いや、良いのです。あの光景は我らが祖、晴明公が師の賀茂忠行様に鬼どもが来るのを告げられた折の光景を、晴明公の記憶に基づき忠実に復元したものです」

 諒輔は今昔物語の一説を語った。

 

「晴明若かりける時、師の忠行が下渡(しもわたり)に夜行(やぎょう)に行ける供に、徒歩にして車の後に行きける、忠行車の内によく寝入にけるに、晴明見けるに、艶(えもいわ)ず怖き鬼共車の前に向(むかえ)に来ける。晴明此れを見て驚きて、車の後に走り寄りて、忠行を起こして告ければ、其時にぞ忠行驚きて覚て、鬼の来たるを見て、術法(ずっほう)を以て忽に我が身をも恐れ無く、供の者共をも隠し、平かに過にける――――」

「今昔物語には鬼と記されていますが、あれ等は鬼でも魑魅魍魎でもなく人間です。当時の京の都は、夜盗、押込み、人さらい、死人喰いなどが溢れていたのです」

「うーむ、人間ほど恐ろしいものは無いということですな……」

豊淳は諒輔の説明を受け絶句した。

 


第十二章 世田谷安倍屋敷

 諒輔は財団会長に正式に就任した。所管官庁の宮内庁に就任届けを提出し、財団定款や商業登記簿に会長として諒輔の氏名が掲載されたので、阿修羅教団側も諒輔が陰の長者になったことを知るであろう。理紗はこれで、彼等からの攻撃対象から外されることになりそうだが、これからは諒輔が彼等の攻撃に注意しなければならない。

 諒輔はこれを機に、八王子のアパートを引き払って、世田谷の安倍家屋敷に引っ越そうと思った。しかし、今ひとつ気が進まないのも事実であった。忠彬の記憶を探ってみても、あまり良い印象があの屋敷には無いのである。しかし何事も実際に自分の目で確かめることが大切である。理紗との約束に従い、二人で世田谷の屋敷を訪れることにした。桜坂の財団事務所を訪れた時は、迎えの車を断ったが、今回は駅から離れている上に分かり難いということなので、最寄り駅の小田急線成城学園前駅からの送迎を神崎に依頼した。

 

 国分寺崖線とは多摩川が十万年以上の歳月をかけて武蔵野台地を削り取って出来た段丘である。その崖の連なりは立川市から国分寺市を経由し、世田谷区にも亘っており、その延長は三十キロメートルにも及んでいる。安倍家の屋敷は世田谷の野川を見下ろすこの涯線段丘の斜面に建てられており、周囲は武蔵野の自然のままの雑木林になっている。屋敷以外の敷地の大部分は崖や斜面であったが面積は広大であった。

 リムジンは崖下のゲートを通り抜け、くねくねと曲がる細い坂道をゆっくりと登って行く。秋も半ばを過ぎ、雑木林の木々は落葉を始めていたが、屋敷近くは杉などの常緑樹の林になっていて、昼というのに薄暗い。

 やっと屋敷門に到着し、神埼がリムジンを降りて門を開く。理紗は車の中から、屋敷の中の様子を薄気味悪そうに眺めていた。

 神崎は再びリムジンに乗り込み車を進め、屋敷の洋風の車寄せで停車した。神崎はリムジンのドアを開け、諒輔と理紗が降り立った。今日の理紗はジーンズにスニーカーというカジュアルな姿で、髪はポニーテール風に後ろに纏めている。

「この屋敷には私が屋敷番として住んでおります。昼間は財団の仕事があるので、私はおりませんが、警備保障会社に警備を依頼しています。それから後でご案内しますが、この敷地内にはクラシックカーを収納する車庫がありまして、その管理も私が担当しています。では先ずは屋敷内をご案内しましょう」

 神崎は玄関を開け、二人を中に入るよう勧めた。玄関付近の建物は洋館造りで、一部が二階建てになっている。忠彬が建築してから五十年程経っている筈だが、手入れが行き届いているのだろう、壁や柱にひび割れや剥がれは見当たらない。中に入ると吹き抜けになっており、大きなシャンデリアが吊り下げられていた。洋館一階部分は応接スペース、二階部分は来客用のベッドルームになっていた。

 屋敷の奥の部分は和風木造建築で、庭に面した大広間があり、その他、書斎、寝室、子供部屋、使用人の部屋、食堂、浴室など大小様々な部屋があった。それらの間取り配置は陰陽道の風水によるものであり、合理的な思考をする理紗にとっては、使い勝手の悪い屋敷に感じられた。

「やはり私、この屋敷には住めないわ」

 理紗は感想を述べ、同意を求めるように諒輔の顔をみた。

「そうかな……」

 諒輔は理紗とは違う印象を抱いていた。諒輔は先程から、この屋敷の佇まいや、屋敷の中の様子に懐かしさを感じていたのだ。この屋敷には先入観としての悪い印象しかなかったのだが、こうして実際訪れてみると、諒輔には、相性の良い建物のように思えたのである。陰の長者になったからそう感じるのか、それとも子供の頃、母と歩いた糾の森の雰囲気にどこか似ているからなのか分からないが、諒輔はこの屋敷に住んでも良いと考え始めていた。

 屋敷の最奥の鬼門にあたるところに、代々の陰の長者を祭祀する部屋があった。この部屋には陰の長者以外はたとえ理紗であっても入れないので、諒輔一人が入ることにして、理紗と神埼は洋館の応接室で待って貰う事にした。

 諒輔は祭祀の間の前に立つと、印を結び、呪を唱えて式神を呼び出した。いつもの犬麻呂と牛麻呂である。二人の式神は祭祀の間の観音開きの扉を左右に引いて開いた。この扉は式神でなければ開けることは出来ない仕組みになっていたのだ。諒輔が室内に入ると式神も後に続き、内側から扉を閉めた。

 中は真っ暗になった。式神の動く気配がしたかと思うと、左右に置かれた燭台に明かりが灯った。犬麻呂、牛麻呂が燭台から離れ、諒輔の後ろに畏まる。燭台の灯りで室内の様子が浮かび上がる。白木の祭壇が四段ありその台上には、霊璽がずらっと並んでいる。歴代の陰の長者のものであろう。四段の祭壇より更に上の壇に一際大きい霊璽がある。始祖、晴明公のものであった。

 床には魔方陣のような大きな円があり、その中に晴明紋である五芒星が描かれていた。

部屋の壁の右に青龍、左に白虎、祭壇裏の壁には裏土御門の守護神獣の玄武が描かれている。朱雀はどこかと探し、振り返ったがそこは扉で何も描かれていない。ふと上を向くと、天井一杯を朱に染めて朱雀が羽を広げていた。

 

 諒輔は祭祀の間を出ると、洋館の応接室に行き、理紗と神崎に、この屋敷に住むと伝えた。それを聞いた神崎は大層喜んだが、理紗は『理解できない』という表情をした。

「理紗さん、この屋敷は理紗さんのものなのだから、そんなに嫌わないで下さいよ。月に一度ぐらい是非、家主として、店子の様子など見に来て下さい。歓迎しますよ」

「えぇ、まぁ気が向いたら……」

 理紗は思う。どうせ会うなら麻布とか代官山とか洒落た街中にして貰いたい。

『こんな辛気臭いところ、勘弁して』

 理紗は内心呟いた。

「それでは、クラシックカーのコレクションをご覧に入れたいと思いますので、一旦外に出ていただけますか」

 玄関を出て、車庫の前に来ると神崎が説明を始めた。想像以上に大掛かりな構造物であった。

「ご覧のように非常に大きな車庫です。二十台は楽に入る設計になっていますが、現在全部で十二台のクラシックカーが保管されています。今、シャッターを開けます」

 神崎が電動スイッチを入れ、三つあるシャッターの内、一番左側を開けた。現れたのは五台のクラシックカーであった。

「この五台は、ヴィンテージカー呼ばれるもので、1930年以前に生産された自動車です。これは1920年製のベントレーで、あれは、1926製のオースチンです。えーと、それからこちらは――――」

 神崎は、嬉しそうに色々と説明してくれたが、諒輔はともかく理紗は興味が無いらしく、小さな欠伸などしている。

「神崎さんありがとうございます。ところでこれ等のクラシックカーは、公道を走ることが出来るのですか」

「えぇ勿論です。どの車もちゃんと車検を取っています。ですが安全面という面では大きな問題があります。シートベルトやエァバックが装備されていないなど、事故に遭った場合は大変危険です」

「でも先代が乗っていたクラシックカーにはちゃんと安全装置が装備さえていましたが」

 諒輔は忠彬が崖から落ちたあの事故の事を思い出して尋ねた。

「忠彬様は、遠出なさるときは安全を考えて、セーフティ装置の付いた特別仕様のクラシックカーに乗車されたのです。都内など近場の場合は、何も手を加えないクラシックカーの運転を楽しんでおられました」

 神埼も相当なクラシックカーマニアのようで、なおも説明を続けたそうな表情をしていたが、ここらでひとまず退散することにした。

「さぁ、それではそろそろ帰りましょうか。理紗さん成城にうまい中華レストランがあるんですが寄って行きませんか」

 諒輔は、上機嫌で理紗に話しかけたが、理紗は何か浮かぬ顔である。

「何か先ほどから胸騒ぎがしてならないの。心配だわ、私達に危険が迫っている……」

理紗は以前にも『私には危険を察知する能力が有る』と言っていた。諒輔は大して気に留めなかったが念のために神崎にこの屋敷のセキュリティをチェックするよう指示した。神崎は携帯電話を取り出し何やら操作していたが、「この屋敷の監視装置が作動していません。何者かがシステムを遮断した疑いがあります」と急いで車庫のシャッターを閉めた。

「ここは危険です。屋敷の中に入りましょう」

 神崎の言葉に従い、急ぎ足で玄関に向かった。

 玄関に向け急ぐ諒輔たちの前に物陰から黒服の男が五、六名走り出てきた。身の丈程の棒を脇に抱えている。後ろにも気配を感じて振り向くと、同じ格好をした者がやはり五、六名走り寄ってきて、脇に抱えた棒を両手に持ち身構えた。諒輔達は取り囲まれてしまった。

「三輪諒輔だな」

 待ち伏せていた中の一人、それは偲ぶ会に現れた、長髪、色白の女に見紛うあの優男であった。隣にいるのは顔に大きな傷のある男だった。

「あぁ私が三輪諒輔だ」

 諒輔と神埼は理紗をかばう様にして、油断なく身構える。

「ふん、若造だな。お前本当に陰の長者か?」

「はは、どうかな」

「安倍の血筋を引かぬ者が陰の長者になれる訳がない。お前は偽者であろう。それとも陰の長者である証拠を見せるか、それ!」

 優男の合図に呼応して、前後の敵が一斉に攻撃してきた。諒輔は身体が自然に動いて合気道の技を繰り出していた。大学時代の同好会で合気道をしてきた土台の上に、忠彬の武術の記憶が反応して自分でも驚くほどの技の切れがあった。諒輔はたちまち二人の敵を投げ飛ばした。神崎はさすがプロの腕前で、棒の攻撃をものともせず空手で反撃している。

「敵の棒を奪って私に下さい」

 理紗は高校時代に女子剣道でインターハイに出場したことがあり、武器があれば戦える自信があった。

「私、小さい時から剣道していたんです」

 諒輔は打ち込んできた棒をかわすと、敵の懐に飛び込み、腕の関節を決めて棒を奪い取った。

 その棒を受け取ると理紗は敵と対峙した。棒の先を細かく上げ下げしていたが、打ちかけてきた敵の棒を払い除けると、敵の脛を強かに打った。脛の急所を打たれた敵はその場にへたり込む。理紗まで手強い反撃をするとは思っていなかったのだろう、敵は怯んだ。

「合気道に空手、剣道か、中々手強いな」

優男は手負いの男達を自分の後ろに退けた。

「三輪諒輔、体術比べはこの位にして、今度は呪術比べと行くか」

優男はそう言うと、空に九字を切り、密教の真言を唱えた。風が巻き上がり小さな竜巻が生じた。と見る間にそれは人の倍ほどもある鬼神の姿に変貌した。火炎を全身から放っているからこれは不動明王か。

「どうだ、三輪諒輔、お前も呪術で応戦せんか、そーれ!」

 優男が手を上げると、鬼神は口からゴーッと音を立て、炎を吐き出し威嚇した。理紗は驚いて諒輔の背後に隠れる。

「仕方ないな、それでは相手するか」

 諒輔は印を結び、呪を唱えた。ぼぉーと白い靄のようなものが湧き上がった。それは一旦拡散したが急速に凝縮して、クリスタルのように光り輝く天女の姿が現れた。辺りの空気がいっぺんに冷え込み、見守る者達の肌に鳥肌を立たせた。

「待たせたな、それでは行くぞ」

 諒輔が指先で、空に小さな円を描くと、天女が片手を口元に添えて、鬼神目掛けて、ふぅーと息を吹きかけた。盛んに炎を上げていた鬼神は、天女に息を浴びせられると、たちまちの内に炎はチロチロと燃える炭火程度になり、天女が袖を払うと影が薄れ消滅してしまった。呪術の技量の差は歴然である。とても適わぬと悟ったのか、優男はそれ以上反撃しようとはしなかった。

「確かにお前が裏土御門陰の長者であること見届けた。今日の目的は達したので引き上げるとしよう。今回はほんの小手調べだ。次に合間見える時は、これ位では済まぬこと良く覚えておけ」

優男が手を振ると、比較的元気な者が手負いの者を担いだり、支えたりして屋敷から出て行った。諒輔は敵が逃げ去るのを見届けると、呪を唱え天女を消した。

「諒輔様、あの天女は理紗様にそっくりでしたね」

神崎は諒輔が新しい陰の長者として頼もしい働きをしたので、安心し、感動していたので、つい気軽に思った事を口にした。

「そうかな、偶然だと思うよ」

 諒輔は照れていると理紗は思った。

『私にだって、読心能力が有るのよ』

 理紗そう言いたい衝動をぐっと堪えた。


第十三章 六本木一町目

 諒輔は毎日、神崎の運転する普通の国産車で財団の事務所に通った。神崎はクラシックカーで送迎したいようであったが、それだけは勘弁して貰いたいと頼んだのだ。屋敷は崖の途中にあり、駅まで距離があるので、車での送迎はありがたい。でも、こんな事では運動不足で肥満になりはしないかと少し心配でもある。そこで、暇さえあればスポーツジムに通って筋肉トレーニングに励んでいるのであった。

 午前十時頃、桜坂の財団事務所に着くと、エレベーターで三階に上がり、出されたお茶を飲み、葛城や他の職員と雑談を交わし、その後決裁書類に署名するなどの雑務を処理する。それ等が終わると、二階の会長室に行くと告げて、エレベーターに乗り込み地下の財団本部の会長室に向かう。

 

 その本部会長室では、このところ連日のように阿修羅教団対策の協議がなされていた。

「神崎さん、阿修羅教団の新しい情報は入って来ませんか」

 諒輔も手を尽くして調べているのだが、教団の過去の歴史は分かっても、現在の彼等の所在地は勿論、その組織、リーダーと目される人物など皆目分からない。

「我々の調査だけでは限度があります。ここは国家権力を借りるしかないと思いますが」

 神崎の提案に葛城と遠山が同意した。阿修羅教団は、その発足以来、反国家権力の団体であり、現代においても警察などが監視を続けているのだろう。

「国家権力に頼るのは、気が進まないけど、事は急を要するので、それも仕方ないか」

 諒輔の言葉に応じて葛城が意見を述べる。

「えぇ、我々は既に二回も彼等の襲撃を受けています。最早猶予はなりません、手段を選ばず対処するべきと存じます。つきましては我が裏土御門の一族に連なる者に、警察庁で公安関係を担当している者がおりますので、この者に協力して貰えばどうかと思いますが、如何でしょう」

 諒輔としても異存は無かったので、葛城がその人物と接触し、協力を求めることにした。

 

 その数日後、接触を図っていた人物が、財団の表事務所二階の会長室を訪れた。その人物は歳の頃は四十台後半、職業柄か目付きが鋭い。渡された名刺には《警察庁警備局参事官 日野達明》とある。この日は葛城と神崎が同席している。

「こちらからお伺いするべきなのに、お越しいただき申し訳ありません」

 諒輔は素直に、無礼を謝った。

「いえ、裏土御門陰の長者のご用とあらば、我ら一族の者、馳せ参じない訳には参りません」

 日野はどこまで本気なのか、芝居がかった真面目な態度を崩さない。

「私は陰の長者と申しましても、このような若輩者です。お気遣いなどしないで下さい」

「そうですか、いや実を申しますと、もっと年配の方かと思っていました。それに、安倍の血を引いていないとか」

 日野もどうやら、諒輔が陰の長者になったことに懐疑的なようである。

「えぇ、その通りです。安倍の血は引いていません」

 諒輔はそう言いながら、右手をさり気なく上げた。すると会長室のドアが開き、犬麻呂と牛麻呂が茶碗と菓子を捧げ持って入って来て、それ等を日野の前に置くと、一礼し部屋の隅に下がった。日野はこの様子を驚きつつ眺めていた。日野には式神の姿は見えないので、ドアが自動的に開閉し、茶碗と菓子が空中を浮遊してきたと映ったのだ。

「あぁ、式神を遣ったのですね」

 日野も裏土御門の一族、直ぐそれと察した。

「えぇ、最初は皆さん、中々信じてくれないので、このような手品紛いのことをしてお見せしました」

 諒輔が目配せすると、犬麻呂と牛麻呂は腰に差した扇子を開き、応接のテーブルに置かれている名刺を左右から煽いだ。日野は諒輔、葛城、神崎の名刺をテーブルの上に並べて置いていたのだが、それがふわふわと舞いあがり、三羽の蝶と化すのを見て頭を下げた。

「いやどうも、申し訳ありません。あなたが陰の長者になられたこと、頭では納得していた積りでしたが、こうして実際に会ってみると、つい疑念が生じました」

「早く信じて貰わないと、これからの話が進みませんので、手っ取り早いやり方をしました。子供騙しのようで失礼しました。それでは式神を引き下がらせましょう」

 諒輔は呪を唱えると、蝶はテーブルに降り立ち元の名刺になった。犬麻呂と牛麻呂も霞んで行き消え去った。納得した日野が話した阿修羅教団の情報は、概要以下のようなものであった。

 

 阿修羅教団の本拠はその歴史にあるように今も比叡山の山中にある。しかしそれは名目的なもので実際の本拠は六本木の高層ビルに在る。教団のリーダーは、役行者の生まれ変わりと自称する凌霄院月瞑(りょうしょういんげつめい)という者で、十年程前に教団の長老達を力で排除し、実権を掌握した。

 月瞑は天台・真言の両密教の他に西洋の黒魔術やオカルト教団の呪術などを自在に駆使する異能者で、教団の者全てが彼に絶対忠誠を誓っている。月瞑は教団の弱点が経済力の劣弱さにあるとして、これを克服するために、コンサルタント会社を設立し収益の柱にしようと企てた。

 月瞑はマインドコントロールの法に長けていたので、最初の頃は社員研修を請負う事業を行ってきた。研修を受けた社員の意欲が上がり、その結果、会社の業績が上向いたとの評判が立ち、それからは順調に規模を拡大し、現在では経営コンサルタントと人材ビジネスを事業の2本柱する中堅企業へと変貌を遂げている。その急成長振りは、経済界でも話題になるほどである。その会社の名前はシュラ・コンサルタンツと言い、代表取締役には月瞑が就任し、他の教団首脳も役員に名を連ねている。

 教団の戦闘組織の根拠地は、箱根にあり、表向きはシュラ・コンサルタンツの研修センターと言うことになっている。その中では、少林寺拳法や丈術などの格闘技、銃器、爆弾の取扱いなど、テロリスト養成所と変わらぬ訓練がなされている模様だ。更にはサリン等の毒ガスが製造されている節があり、公安当局の捜査員を過去に何度か潜入させようとしたが悉く失敗している――――

 

「シュラ・コンサルタンツの経営内容は、資料を置いて行きますので、後でゆっくりご覧下さい。それ以外に何か質問はありますか?」

 日野は説明を一先ず終えると、諒輔、葛城、神崎の顔を見回した。

「先日、彼等の襲撃を受けたのですが、その襲撃隊のリーダーは、一見すると、長髪、色白で女のようにも見える男でした。心当たりはありますか」

 諒輔の問いに日野は躊躇なく答える。

「あぁ、それは月瞑の右腕で戦闘部隊を束ねている、横川玲雪(よかわれいせつ)と言う者でしょう。彼も呪術を操ると言われています」

「私からも質問があるのですが良いですか」

 葛城は、日野が頷くのをみて、質問を続ける。

「公安は彼等を、強制捜査する計画はないのですか?」

「我々は注意を持って彼等の監視を続けています。先程もお話したように、最近オカルトの残党が合流し、サリンなどの毒ガスの開発に着手したとの情報を得ています。現在その確認に注力しているのですが、彼等のガードは鉄壁で手を拱いておる処です。その証拠が無い以上、直ぐに強制的な捜査は出来ないのです」

 公安警察と雖も、法治国家の枠組みでは、無茶な事はできないのであろう。しかし、今日の日野の話はとても参考になった。諒輔達は口々に日野に厚く礼を言い、日野が事務所を出るのを葛城と神崎が入口まで見送った。

 日野が帰った後、シュラ・コンサルタンツについてインターネットで検索し調べてみた。

 入居しているビルは、六本木ガーデンヒルズタワーと言う名称で、地上四十五階地下二階建て、屋上には緊急離着陸用のヘリポートが設けられていた。溜池山王の隣駅の六本木一丁目駅に地下で直結しており、メーンのオフィス棟の他に、レストランなどがテナントとして入る商業棟や、高級レジデンス棟が併設されている。それを知った葛城は「灯台下暗しとはこの事ですなぁ」と旧い諺を呟いて驚いている。インターネットの地図を見ると、桜坂を上がりスペイン大使館の前を通れば徒歩で十分もあれば行ける距離である。

 教団の最高指導者でシュラ・コンサルタンツ社長の凌霄院月瞑についても、インターネットで調べてみた。

 十年ほど前の、シュラ・コンサルタンツ創立当事の新聞インタビュー記事と写真があった。修験道を取り入れた研修の厳しさや、研修の成果を絶賛する利用企業の声などが記事として紹介され、研修生の前で講義をする坊主頭、サングラス姿の月瞑の写真を数点見ることが出来た。企業社員研修のカリスマ的な存在になってからは、マスコミの取材を一切拒否することで、月瞑のカリスマ度は更に増幅しているようだった。

 

 日野が財団事務所を訪れた翌日、天気も良かったので諒輔は散歩を兼ねて、六本木ガーデンヒルズタワーまで歩いて行った。このビルは城山と呼ばれる台地の西斜面に建てられており、四階が車寄せ付きの正面玄関になっている。その前に立って総ガラス張り地上四十五階のタワービルをしばらく見上げていると、眼が回るような感覚に囚われた。首筋をほぐすために、首をぐるりと回してからエントランスに向かった。

 警備員が入り口で警備しているが、呼び止められることもなく中に入ることが出来た。エントランスの壁面にテナント企業の名前がずらりと掲示されている。その中にシュラ・コンサルタンツの名前があった。三十五階、三十六階、三十七階の三フロアを使用しているようだ。今日は外見だけ見て帰る積りでやって来たのだが、ついでだから、事務所の様子も見てやろうと思い、シュラ・コンサルタンツの研修用受付がある三十五階に行ってみることにした。

 乗り込んだエレベーターは途中で止まることなく、直ぐに三十五階に到着した。諒輔が受付に近づくと、可愛らしい受付嬢が立ち上がり礼をした。

「シュラ・コンサルタンツにようこそ。研修生の方は受講票をご提示下さい」

「いぇ、研修生ではありません」

 諒輔は何と言えば良いか素早く思案した。妙案は浮かばない。

「それでは、研修の見学でしょうか」

「あ、はい。そうです。見学したいのいですが」

 願ってもない受付嬢の言葉にほっとする。

「それでは、こちらの見学申込書にご記入下さい」

 受付嬢が、にこやかに差し出す申込書を受け取る。会社名、会社所在地、見学する者の氏名と所属部署、役職名、連絡電話番号、見学の目的などを記入しなくてはならない。仕方ないので会社名の欄などは以前勤務していた、日本不動産タイムス社のものを書き込んだ。氏名は、あのろくでもない上司であった島田洋一とし、役職名も彼の肩書である新聞局長としておいた。見学の目的は思いつくまま出鱈目なものを書き入れ、書き終わった申込書を受付嬢に渡す。

「それでは、この入館証を付けて少しお待ち下さい。研修広報担当がご案内いたします」

 自由に研修フロアを見て回れるという思惑は外された。しばらくすると如何にもやり手と言う感じの眼鏡をかけた女性が出て来た。受付嬢から受け取った諒輔が書いた見学申込書に素早く目を通すと、こちらに歩み寄って来る。

「島田様、どうもお待たせしました。私、研修広報担当の鮫島と申します」

 名刺を渡されると、こちらも名刺を渡さなければならないので困る。

「ちょうど名刺を切らしてしまって済みません。日本不動産タイムス社の島田です」

鮫島と名乗った女性は、ちらっと嫌な表情を浮かべたがすぐ打ち消し「ではご案内いたします」と先に立って歩き出した。

「このフロアの研修施設は、過去に弊社の研修を受けたことのある者、つまりリピーター向けのフォローアップ施設です。初めての方は、箱根にある研修センターで合宿形式による研修を受けていただいております」

 通路を進んで行くと、左手に研修生が憩う為のラウンジがあり、良い匂いが漂って来た。

「良い香りでしょう。弊社が独自に開発・製造したアロマです。もしお気に入りましたら、ラウウンジの売店でもお買い求めが出来ます」

諒輔が『いや、結構です』と言うように手を振ると、鮫島はあっさり先に歩き出した。

「ではこちらの部屋にどうぞ……」

 最初に案内された部屋に入ると、大勢の人が喚く声が大音量となって耳を圧した。

「この部屋ではあらん限りの大声を出すことにより、羞恥心などの邪念を払う訓練をしています」

 鮫島もこれ等の人に負けじと大声で説明する。女性を含む研修生と目される五〇人ほどの人達は、作務衣のような研修服を身につけ、ネームプレートを首から下げている。額や首筋の血管を浮き上がらせ、顔を紅潮させて何やら叫び、喚いている。各自がてんでばらばらに喚くものだから、何を言っているのかは分から無い。こんなことをして邪念が払えるか疑問に思ったが、諒輔は感心した風を装い、数度大きく頷いて見せ部屋の外に出た。

「いきなりでびっくりされたでしょう……大声を腹から出す、これが当社研修の基本その一です。この訓練は研修センターの中だけでなく、繁華街や駅前でも行っています」

 繁華街や駅前で訳の分からぬ事を喚かれては、聞かされる方はさぞ迷惑だろう。

「ところで島田様、当社の事はどちらからか紹介などあったのでしょうか」

「えぇ、取材先の企業などからかねがねシュラ・コンサルタンツの評判を聞いていましたので」

「成程、それで、御社の従業員は如何ほどですか?」

 どうやら見学する者をただでは返さない腹積りのようだ。

「うちは零細でして、四十人ほどしかいません」

「いぇいえ、四十人も従業員がいらっしゃれば、ご立派ですわ。弊社の研修の一つの特色ですが、二十人・三十人と言った中小企業が多くご利用しております。尤も弊社の研修を受けて、大きく業績を上げ、現在大手企業に成長したクライアントも数多くございますが」

 さり気なくPRを混ぜるとは、鮫島は思った通りのやり手である。

「どうぞ、こちらの部屋にお入り下さい。今度は静かですから話される時は小声でお願いします」

 案内された部屋は、入った部分が靴脱ぎ場になっており、脱いだ履物を収納する棚が左右に幾段も設けられている。その奥は一段高くなった畳敷きの大広間になっていて、三十人ほどの研修服を着た人達が座禅のような姿勢で静かに座っていた。諒輔と鮫島も靴を脱いで広間に上がると、香の匂いが鼻を打った。鮫島が諒輔の耳元で、ひそひそ声の説明を始める。

「こちらは瞑想の間です。弊社では禅とヨガ、更にはキリスト教の修道士が行う無言の行などを取り入れた独特な方法で瞑想が行われます」

 部屋の奥には、研修講師と思われる丈の長い黒服を着た男が棒を持って立っていて、鮫島を見ると一礼した。

「この研修は私も気に入りました。これなら良いですね」

 諒輔は思ったままを口にしたのだが、鮫島は先ほどの大声を発する訓練が否定されたと感じたのだろう、眉間に皺を寄せた。

「あ、いや、先程の研修はちょっとびっくりしただけで、中々良いんじゃないでしょうか」

 諒輔は卒なくフォローする。

「瞑想、これが当社研修の基本その二です」

 鮫島は諒輔の言葉に機嫌を直したようだ。

「それでは、そろそろ参りましょうか。次にご案内するのが、弊社の研修で最も重要と位置付けられているものです」

 鮫島に催促されて、その部屋を後にすると、廊下の一番奥まった所にある扉の前に着いた。

「少しお待ち下さい」

 鮫島はそう言うと、首から下げていた身分証をセキュリティ端末にかざした。

「本日は社長が講師を務める研修が無かったので、こうして中をお見せすることが出来るのです」

 鮫島は勿体ぶっておもむろに扉を開いた。中は劇場のような造りで、入った右手が舞台になっており、台上には大きな演台が置かれている。左手は劇場の椅子と同様のものが二百席位並んでいた。

「こちらの講堂は、研修の最終日に、社長の凌霄院月瞑が訓話をする場となっています。

この訓話こそが弊社研修システムで最も重要なところでして、訓話を聞いた研修生は誰もが深い感銘を覚えずにはいられないのです」

 諒輔は先程から何やら息苦しさを覚えていた。体調が悪いわけではないのに、この部屋に入った途端、気分が優れなくなったのだ。

「社長の凌霄院月瞑は研修指導のカリスマと世間で言われていますが、それ以上にとても大きなパワーをお持ちの方です。凌霄院月瞑の訓話、これが当社研修の基本その三です。

勿論、欧米流のメソッドやカリキュラムも用意しておりますので、お客様のどのようなご要望にも対応した研修システムのご提案をさせていただきます。ただ、カリキュラムでどうしても外せないのが、凌霄院月瞑の訓話です……」

 鮫島は淀みなく話していたが、そこで一旦言葉を区切り、諒輔の様子を窺うと話を続けた。

「では基本的なことはご理解いただけたと存じますので、別室で詳しく御社のニーズなどお聞きしましょう」

 諒輔は更に息苦しさが増していた。

「折角ですが、何やら先ほどから気分が悪くて仕方ないのです。相談はまた後日と言うことにしていただけませんか」

 鮫島は今度ばかりは露骨に顔を顰めたが、言われてみれば確かに諒輔の顔は青ざめ、気分が悪そうである。

「そうですか、それでは仕方ありませんね。研修のご相談は私が承りますので、いつでも電話して下さい」

 鮫島はなお未練がましい様子であったが、それでも諒輔を研修受付まで送ってきた。

 

 研修受付の前に戻った諒輔はやれやれと言うように、大きく伸びをした。あの部屋を出た途端、気分の悪さは嘘のように何処かへ行ってしまっている。このまま帰ろうと思ってエレベーターホールに来たが、月瞑にどうしても会ってみたいという思いが湧き出した。カリスマにして、偉大なパワーを持つと言う敵の首領に是非にも会って、どのような人物か、この眼で確かめたいという衝動が抑え切れなくなっていた。駄目もとで行ってみよう。諒輔はエレベーターに乗ると三十七階のボタンを押した。

 役員室受付は、三十五階の研修用受付よりずっと重厚な雰囲気で、一段と美しい受付嬢が座っていた。諒輔の姿を認めるとその受付嬢は立ち上がり、キャビンアテンダントのような笑みと姿勢で辞儀をした。

「シュラ・コンサルタンツにようこそ。こちらの受付は役員専用の受付となっております。弊社のどの役員にご用事でございますか?」

「凌霄院社長にお目にかかりたい」

「えーと、失礼ですがどちら様でしょうか」

 受付嬢は手元の来客予定リストを見ながら怪訝な顔をしている。

「私はこう言う者です」

 諒輔は財団会長の名刺を差し出した。

「あのう、すいません。アポイントは取られたのでしょうか?」

「いえ、思い立って突然やって来たのです。アポは取っていません」

 受付嬢は困惑した表情で「お約束のない方とは、どなたであっても社長はお会いになりません。申し訳ありませんが、アポイントをお取りいただいて出直してきていただけないでしょうか」

 至極当然の申出であり、諒輔としてもこれ以上我儘を言って、この美人受付嬢を困らせる積りは無かった。

「それもそうですね。では、こう言う者が挨拶に来たと伝えて置いて下さい」名刺を受付嬢に預けると、踵を返した。

 諒輔がトイレで小用を足し、三十七階のエレベーターホールで下りのエレベーターが来るのを待っていると、ヒールが床を打つ音が近づいてくる。かなりの早足のようだ。

「待って下さい、お客様。社長がお会いになるそうです」

 先ほどの受付嬢が息せき切って走ってきた。

「あぁ、間に会って良かった。下まで行ってしまわれていたらどうしようかと焦りました」

いかにもほっとした表情である。

 

 役員受付の前には社長秘書と名乗る女性が待っていて、役員フロアの最奥の社長室まで案内した。秘書がノックしドアを開けた。

 室内には、二人の男が待っていた。一人はあの玲雪という長髪、色白の男。もう一人は、坊主頭、サングラスの男であった。坊主頭が凌霄院月瞑に違いない。

「驚きましたな。陰の長者自ら、それも一人でお越しになるとは」

 月瞑はサングラスをしたまま、歩み寄って来た。

「ご近所の誼(よしみ)で参上しましたが、ご迷惑でしたか」

「いやいや、大胆なことと感服しておるところです」

「そちらの方は、先日、当方にご挨拶に来ていただいているようですね」

 諒輔は玲雪に目を向けた。玲雪は怒りの眼差しで諒輔を睨みつけている。月瞑の下知一つで、今にも飛びからんばかりである。

「そうでしたな、玲雪とはすでに顔馴染みの間柄とか……申し遅れました。私が凌霄院月瞑です。以後お見知り置きを」

「私は三輪諒輔、忠彬様の後を継いだ者です」

 長い間に亘り抗争を続けてきた組織の首領が、こうして穏やかに相見えるのは過去の歴史にも無いことであろう。

「どうぞお座り下さい。今日の所はコーヒーでも飲みながら世間話でも致しましょう」

月瞑に言われて諒輔は椅子に腰かけた。

「いや、そう長居はする積りはありません。一目、阿修羅教団の頭領の顔を拝見出来ればと参上したまでで……サングラスはいつもされているのですか?」

「このサングラスがお気に障ったようですな。他の者には決して素顔を見せないのですが、他ならぬ陰の長者のご要望のようなので、どれ外しましょう」

 素顔を決して見せない月瞑のその言葉に玲雪は驚いて目を見開いている。

 月瞑がサングラスを外し、その顔の全貌が明らかになった。歳の頃はまだ四十歳前後であろうか、若手歌舞伎役者のホープと世上騒がれている名門御曹司にそっくりな端正な顔立ちである。しかしその御曹司と決定的に違う所があった。その両眼の瞳は血のように真っ赤だったのである。端正な顔立ち故に、瞳の不気味さが何倍にも増幅されている。

「生まれた時はこれ程赤くは無かったそうですが、私の目を見た母は驚き悲しみましてね。長じるに従い、更に私の瞳に赤味が増すと、母は私を気味悪く思うようになったのです。その頃、父の知り合いの修験者が私を見て『この子は、不動明王か、役行者の生まれ変わりに違いない』と言いまして、その修験者が幼い私を引き取ったのです。母にとっては化け物を追い払ったという気持ちでしかなかったのでしょう」

 月瞑は、言葉を区切ると、ゆっくりとした手付きでサングラスを掛け直した。

「それからはその修験者の下で、それは厳しい修業を科せられました……もうご想像が付いたと思いますが、その修験者は阿修羅教団の幹部だったのです」

 玲雪は隣の月瞑の横顔を、潤んだ目でじっと見つめ聞き入っている。諒輔も月瞑が敵だということをしばし忘れ、幼い月瞑の心境を思いやり、つい、しんみりとしてしまった。

「この話は教団の幹部には何度も話しているはず、玲雪までが真剣に聞き入ってどうする」

「いえ、月瞑様。この話、何度聞いても切なくて」

「泣くな、玲雪、陰の長者に笑われるぞ」

月瞑はそう言うと、玲雪の肩に手を回し優しく抱いた。諒輔は見てはならない場面を見てしまったように感じられ、思わず顔を背けた。そんな諒輔の反応を敏感に感じ取ったのであろう、玲雪が突然激高して立ち上がった。

「おのれ、我々を馬鹿にするか。ただではおかんぞ……月瞑様、我ら二人で掛かれば、例え陰の長者であろうと、容易く討ちとることが出来ます」

 玲雪は白皙を紅潮させ、月瞑に攻撃許可を求める。

「まぁ、待て。攻撃する機会は、これから幾らでもある、今日は両首領が相見えた歴史的な日だ。このままお引き取りいただこうではないか」

「私もそろそろ、お暇いただこうかと思っていたところです。これで失礼いたしましょう」

月瞑は、まだ激高が納まらない玲雪を手で制し、インターフォンを押して秘書を呼んだ。



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