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第七章 千年の記憶

 神楽坂を訪れた翌日、諒輔は再び忠彬の入院している病院に行った。特別室のドアを開けて中に招じ入れたのは今回も葛城だったが、通された部屋はリビングではなく別室であった。忠彬は医療機器に囲まれたベッドに、点滴の管、心電図などのモニターを取り付けられた姿で寝ていたが、諒輔が近づくと眼を開いた。

 諒輔は忠彬と葛城に事の次第を報告した。聞き終えた忠彬は「そうか、やはりな」と言うと眼を閉じ、じっと何かに耐えている様子であった。予期していたとはいえ、相当なショックを受けたようである。

「諒輔さん、もう一度理紗様に会って説得する訳には行きませんか」

葛城は縋るように諒輔を見た。

「いや、無理強いは禁物だ。理紗が自ら会うと言うまで、もうしばらく待つことにしよう」

 忠彬は苦しそうな表情を浮かべると、身を捩った。かなり具合が悪そうである。末期がんの痛みを緩和するためモルヒネなどが投与されているが、それでも時々苦痛が襲うようであった。

 突然ベッドの周囲に置かれた医療機器の一つが、赤く点滅しながらピッピッピッという警告音を発し始めた。葛城が慌ててナースコール用のインターフォンのボタンを押す。

「すぐに来て下さい。血圧が低下しています」

 意外な展開に諒輔は成す術も無く茫然としていた。すぐに看護師と医師が相次いで走り込んできて、すばやく状況をチェックすると、注射などの処置を施した。

 処置を終えた医師は、葛城と諒輔を手招きしリビングに行くと「この数日病状が安定していたので、私達も安心していたのですが、容態が急に悪化したようです。今日明日ということはないでしょうが、万一に備えて関係者に連絡するなどなされた方がいいでしょう」と告げ、続けて「一時間位してからまた参ります。その間に何かありましたら呼んで下さい。すぐ駆けつけますから」と一礼すると、看護師と共に特別室を出て行った。

 突然の成り行きにただ驚いていた諒輔だったが、事の重大性に気付き、葛城に申し出た。

「クリスチーナさんと、理紗さんに連絡した方が良いのではないでしょうか。よろしければ私から事情を伝え、なるべく早く病院に来るよう話しますが」

「そうですね、そうして頂けると助かります。私はその他然るべき方たちに連絡いたします」

 諒輔は忠彬の様子に異常が無いことを確かめると、葛城にロビーに行くと声をかけて特別室を出た。気分転換を兼ねてロビーでクリスチーナと理紗に電話をする積りであった。 

 

 特別室専用ロビーには、受け嬢の他誰もいない。諒輔は隅のソファーに腰を落ち着けると、先ずクリスチーナに電話を入れ事情を話した。クリスチーナは忠彬が危篤状態と聞くと驚き、大学での講義が終わり次第、東京に駆けつけると約束してくれた。

 次に理紗に連絡を試みたが、電話は一向に繋がらない。留守番電話に至急連絡するようメッセージを入れたが、その後何分経っても何の音沙汰もない。困惑しつつも諒輔は、神楽坂邦楽稽古処に聞けば何か分かるかも知れないと思いついた。

 メモしておいた番号に電話すると、先日の女性スタッフと思われる者が電話に出て、理紗は現在、銀座のホールで邦楽ライブに出演中であると教えてくれた。あと1時間もすればライブは終了するとのことであった。諒輔は再度理紗の携帯に電話して、留守電に忠彬が危篤であること、クリスチーナが東京に向かっていること、理紗もなるべく早くこの病院に来て欲しいことなどを吹き込んだ。

 

 特別室に戻りると葛城はベッドの傍らの椅子に座っていた。

「ずっと眠られています。病状は安定しているようです」

 諒輔は頷き、葛城の隣に腰かけた。そして互いの報告をし終えると二人は沈黙し、忠彬の寝顔を見守った。

 

 諒輔はふと何かの気配を感じて目を覚ました。この数日来の疲れのため居眠りしてしまったようだ。隣を見ると葛城も居眠りしている。

 先程の気配は何だったろうと、周囲を見回した。するとリビングルームに通じる入口の近くに白い靄のような影が二つ、ぼぅっと浮かび上がっているのが見えた。その二つの影は次第にコントラストを強め、人の形となり、どうやらそれが妙な着物を身につけた少年と識別できるようになった。ただ普通の人間と違うのは、頭髪の生え際から大きな耳が飛び出していることで、もう片方の少年には角まで生えていた。二人が着ている装束はどこかで見たような記憶がある。思いを巡らせて諒輔は気付いた。それは葵祭の牛車の赤い引綱を持つ牛童が着ている水干というものにそっくりであった。

 諒輔は隣で居眠りをしている葛城を肘で突いた。

「何か異様な者がいます」

 諒輔が葛城の耳元で囁くと、目覚めた葛城は「あぁ、居眠りしてしまいましたか」と言って眼を擦った。

「葛城さん、あそこです。牛童のような水干姿の少年が二人立っています」

諒輔の言葉に我に返った葛城は、慌てて椅子を立ち、忠彬に近づいた。

「お目覚めなのですね」

「うむ、先程から目覚めておった」

「私としたことが気付かず失礼しました。ところで今、式神をお遣いになりましたか」

 葛城は何かを探すように周囲を眺め回した。

「たった今、犬麻呂と牛麻呂を呼び出した」

「私には何も見えませんが……でも不思議です。諒輔さんは見えるようです」

「うむ、そのようだな」

 忠彬は、葛城に小声で何か囁き、聞き終えた葛城が諒輔を呼んだ。

「諒輔さん、会長がお話をしたいそうです。こちらに来ていだだけませんか」

 葛城はベッドの操作ボタンを押して、忠彬の上体を起こすと一歩退いた。

 諒輔は忠彬の近くに歩み寄り、話が良く聞こえるように腰を屈めた。

「君は彼の者が見えるのだな?」

 忠彬が諒輔の眼を鋭い眼光で見据えた。

「はい、牛童のような装束をした二人でしたらそこにいますが」

「うむ、そうか。恐ろしいとは思わぬか」

「いえ、少しも、それどころか、何やら懐かしい感じさえします」

諒輔の返事を聞いて忠彬はしばらく考え込むようであった。

「重ね重ねの願いで恐縮の極みだが、是非にも引き受けて欲しい願い事がある」

 そう言うと忠彬は右手を上げ、指先で宙に小さな円を描いた。すると式神と思われる二人の童がするすると諒輔の近くに歩み寄り、揃って深々と辞儀をした。式神に頭を下げられて仕方ない。

「分かりました、ともかく詳しく説明して下さい」

まんまと忠彬の策に嵌められたようにも思われたが、兎も角その願いを聞くことにした。

 忠彬は頷くと、呪文を唱えた。すると二人の式神は輪郭をぼかして行き、白いガス状のものとなり消えてしまった。それを見届け、忠彬は語り始めた。

 

「私の命がもう僅かしか残されていないことは、この私が誰よりも良く知っておる。しかしこのまま死んでしまっては、千年以上連綿として続いた裏土御門が私の代で途絶えてしまう。死ぬ前に理紗に継いで貰おうと思っておったが、今となっては手遅れと断念せざるを得ない」

 そこまで言うと忠彬は疲れたのか話を中断し呼吸を整えた。

「裏土御門家が途絶えることは何が何でも避けねばならぬ。そこで最期の願いとして、君に裏土御門家の長を引き継いで貰いたい」

思っても見ない申出に諒輔は驚いた。裏土御門家の長は摩訶不思議な力を有して天皇家や安倍家の危急を救うという途方もない存在であるはずだ。

「でも、私は安倍の血筋の者ではありません。そんな私が引き継ぐことなどできるのでしょうか」

「君は常人には無い能力を持っておる。先ほどそれが改めて実証された。大丈夫だ」

 気力を振り絞って訴える忠彬の迫力に諒輔は圧倒された。もうすぐ死んで行く者の最期の願いでは断る訳には行かないだろう。

「うーん、自信はありませんがそれ程に仰るなら……」

「そうかありがたい。それでは私の両手をしっかり握って下さらんか」

「こうですか?」

 訝しがりながらも諒輔は、言われるままに差し出された忠彬の両手を双方の手で握り締めた。すると握った双方の手が熱くなり、次に強烈な電流のようなものが忠彬の両手から流れ込み脳にまで及んだ。そして大量のイメージが次から次へと奔流のごとく押し寄せ、諒輔の意識の中で逆巻き、渦巻いた。同時に猛烈な頭痛が襲いかかって来た。諒輔は忠彬の手を振り解こうとしてもがいたが、力が全く入らなかった。ひたすら歯を食いしばって耐えたが、遂に力尽き崩れ落ちた。

 

 葛城は諒輔が忠彬に覆い被さるように崩れ落ちるのを見て、諒輔を抱え起こし、椅子に座らせた。諒輔はぐったりとして、時折身体を痙攣させている。

 振り返って忠彬の様子を窺うと、がっくりと首を項垂れ気を失っているようだ。慌てて葛城がベッドに近寄ると、数種類の医療モニターが点滅をし、警告音を発し始めた。葛城はナースコールのボタンを押して、医師と看護師を呼んだ。

 やってきた医師は応急措置を施すと、ストレッチャーの運び込みを看護師に指示した。

「昏睡状態に陥りました。非常に危険な状態です。この病室では充分な治療と監視が出来ないので、集中治療室に移します。よろしいですね」

 医師が葛城に告げると、看護師たちは手慣れた手付きで忠彬の身体をストレッチヤーに移した。そして一同はストレッチャーを取り囲み、急ぎ足で集中治療室に向け出て行った。

 葛城は、椅子に腰かけ、頭を抱えて身体を小刻みに震わせている諒輔に近づき、「諒輔さん、大丈夫ですか。しばらくベッドで休んでいて下さい。私は集中治療室に行ってきますから」と耳元で叫んだ。そして肩を差し入れ、諒輔を立ち上がらせ、支えながらベッドに運び込んだ。大きな諒輔を抱えて息が切れ、肩で息をしていたが、諒輔の靴を脱がし、シーツを胸元まで掛けると特別室を出て行った。

 

 諒輔は放心状態でベッドに横たわっていた。混濁した意識がどんどん拡散して行く。

 

 どの位の時が経ったのだろうか。諒輔の脳の一部が何かに感応した。どこか遠くで声がする。その声は次第に鮮明になり、どうやら諒輔の名を呼んでいるようだ。眼を開けようとしたが、瞼に力が入らない。手足も同様で全く動かすことが出来ない。そうこうする内にも、呼びかける声は更に大きく鮮明になった。

『私の声が聞こえるか』

 諒輔は答えようとするが、話すことはもちろん、頷くこともできない。

『そうか聞こえておるな。心で思えば私に通じる、言葉は入らぬ』

 聞き覚えのある声である。

『その声は……』

『うむ、忠彬だ』

 諒輔は今起こっている事が何が何だか分からず夢の中の出来事ではと疑った。

『いや、夢ではない。テレパシーで伝えておる』

 忠彬なら他人の心を読む事も、自分の心を他人に伝える事も出来て当然かもしれない。

『今どこにいるのですか』

 諒輔は疑うことを止めて尋ねた。

『私は、今、集中治療室のベッドに寝かされておる。もう間もなく命が尽きるであろうがその前に是非にも伝えておかねばならぬことがある。裏土御門の長となる者にとり、極めて重要なことなので心して聞いて欲しい』

 忠彬がテレパシーで諒輔に伝えたのは次のようなことであった。

 

 安倍晴明公は嫡男に、天文、暦、有職故実などを伝え土御門家の正統としたが、これとは別に、式神遣いなどの呪法に類するものは、非嫡出子の子息のうち霊力が備わった者に伝えることにした。これが裏土御門家の始まりであり、代々その伝承は、直接記憶を脳に転写する方法で行われた。

 この秘伝の法により、自分の記憶を諒輔の脳に送り込んだが、転写された記憶はまだ封印されている。しかし、このまま放置しておくと、やがて記憶が一斉に蘇り、過去の記憶が野放図に発露され、多重人格のような状態になってしまう。

 これらの記憶を諒輔の意のままに制御して、駆使出来るようにするには、記憶の跡を遡り、始祖の晴明公の下に行き、裏土御門の長として認めて貰わねばならない。自分を含め、過去の皆が為してきた極めて重要な通過儀礼である。

 過去の記憶の封印が解かれるのは明日の夜明けである。従って今夜中に晴明公の承認を得なければならない。晴明公の下に行き、承認を得るのに要する時間は、順調に行けば三十分程度である。晴明公の下に行く方法の記憶だけは封印されていないので、強く心に念じさえすれば今すぐにも晴明公の下に行けるであろう――――

 

『さて、伝えるべきは全て伝えた。これで思い残すことは無い。そろそろ、この世とお去らばするとしようかの』

『待って下さい。本当に私のような者でも大丈夫でしょうか』

『私が見込んだ者だ。大丈夫、心配するな。よいか、くれぐれも夜が明けぬ前に……』

 声は次第に小さく不鮮明になっていき、『いざ、さらば…..』という声が微かに聞き取れたのを最後にそれきり声は聞こえなくなった。その後、諒輔が幾ら呼びかけても答えは返ってこなかった。

 

 ちょうどその頃、集中治療室では、医師が葛城に対し、忠彬が息を引き取ったことを告げていた。

 

 諒輔は我に返った。頭がずきずきと痛む。思わず顔をしかめ頭に手をやった。次にそっと眼を開いてみた。今度は瞼を開けることが出来た。しかし視界の全てがぼやけている。それでもしばらくするとようやく眼の焦点が定まり、周囲の状況を視認出来るようになった。

 部屋の様子から忠彬が入院している特別室の病室であると分かり、少し気分が楽になり、先程の出来事を振り返る余裕が出来た。忠彬の手を握った途端、激痛と共に夥しい量のイメージが流入してきて、遂に耐えられず崩れ落ちたことまでは覚えている。そして葛城が抱えてくれてベッドに寝かせてくれたことも微かに記憶がある。しかしベッドに倒れ込んだ後に我が身に起こったことは果たして現実だったのか、それとも夢幻の類であったのか。

 誰かが部屋に入ってくる気配がして諒輔は病室の入り口を見た。入ってきたのは葛城であった。

「諒輔さん、気分はどうですか」

 ベッドの近くにきて諒輔の顔の上で語りかける葛城の目は赤く充血している。

「大分頭痛は治まりました。でも何が何だかよくわからなくて……」

 諒輔は起き上がろうとして、ベッドの手すりを掴み、何とか上体を起こした。

「つい先ほど、忠彬様が亡くなられました」

 また涙が溢れてきたのであろう、葛城は手の甲で目を拭った。

「あぁ、するとあの時が、亡くなられた時だったのですね」

 諒輔は忠彬がテレパシーで語りかけてきた事を葛城に詳しく説明した。葛城は一々頷いて聞いていた。

「忠彬様がテレパシーをお使いになったのは間違いありません。ちょうどその頃、集中治療室の脳波計が激しく動いていましたから」

 傍らにあった椅子を引き寄せ腰掛けると言葉を繋いだ。

「忠彬様が伝えられたことは極めて重要なことです。必ず今夜中に晴明公の下に行かれて下さい」

「はぁでも……」

 晴明に会うこと自体はさほど恐ろしいと思わない。それどころか、会って見たい気さえする。晴明は諒輔にとり、子供のころからの憧れの人だったのである。しかし、晴明が認めてくれなければ、死ぬか、狂人になるか、そのいずれでしかない。

「忠彬様は、最後におっしゃられたのでしょう。自分が見込んだ者だ、大丈夫、心配するなと……躊躇するなんて諒輔さんらしくありません」

 逡巡する諒輔をみて葛城が叱咤激励した。

「分かりました。行きますよ。それ以外の選択肢はないのですから」

 諒輔は不貞腐れた子供のような表情で答えた。

「えぇ、えぇ、それでこそ、諒輔さんです」

 葛城は乗せ上手、煽て上手でもあるようだ。

 

 その時ノックする音がして、ドアから特別病棟の受付嬢が顔を覗かせた。

「葛城様、お客様をご案内して参りました」

 受付嬢が退くと入れ替わりに病室に入ってきたのは理紗であった。

「あぁ、諒輔さん、こちらでしたか。何度か携帯に電話したのですが繋がらなくて」

 今日も理紗は和服姿である。きっと邦楽ライブをしていた銀座のホールから、直接駆け付けてきたのであろう。葛城はその女性の容姿から、安倍理紗と判断したようで、歩み寄り、椅子に座るよう勧めた。理紗はベッド上の諒輔を見て心配そうな表情をした。

「諒輔さん。どうされたのですか?」

「いえ、もう大丈夫です、心配ありません。あ、こちらは葛城さんです」

 葛城はポケットをあちこち探って、名刺を取り出すと差し出した。互いの挨拶が終わると葛城が尋ねた。

「お爺様のことは、まだ何もお聞きになっていませんか」

 頷く理紗を見て葛城は沈痛な面持ちで、忠彬が亡くなったことを告げた。理紗は覚悟していたのであろう、冷静な態度を崩さなかった。

「母から先ほどメールがありました。新幹線に乗ったそうです。こちらに着くのに後二時間ほどかかるとの事でした」

「そうですか、それではお母様が見えたら葬儀の事など相談させていただく事にして、その前にお爺様の所に行かれますか?」

「はい、お爺様のお顔を拝見したいと思います」

「では、霊安室の用意が整った頃と思いますので、ご案内しましょう。諒輔さんはどうしますか?」

 諒輔は同行することにした。葛城が隣室から車椅子を持ってきて、乗ることを勧めたが、申し出を断りベッドを降りて靴を履いた。何とか歩いて行けそうであった。

 

 病院の地下にある霊安室の前に、男が一人見張り番をするように立っていた。その男は葛城の姿を認めると葛城の側に来て小声で何やら話し掛けた。葛城は一々頷き返している。男が着ている詰襟服に見覚えがある。どこで見たのだろうと思案して気付いた。葛城が栗原運輸に来た折のリムジンの運転手であった。

 霊安室に入るとそこにも、男が一人立っていた。黒の上下に黒のネクタイ、手には白い手袋をしている。こちらの人物の面識は無い。財団の職員か、あるいは葬儀社のスタッフと諒輔は見当を付けた。

 霊安室の奥まったところに祭壇が設えてある。その前に神式と思われる枕飾りが施された忠彬の亡骸が安置されていた。忠彬の顔は穏やかで、威厳に満ちていた。忠彬の亡骸を目の当たりにした理紗は、動揺を隠しきれない様子であった。理紗に会うことを切望していた忠彬の想いに応えなかったことが、理紗の心を苛ませているに違いない。

 

 忠彬の亡骸と対面を終えた三人は、また特別室のリビングに戻った。葬儀の打ち合わせなど色々話し合わねばならないことがあったからだが、諒輔としては、それらを協議する前に、理紗に事の次第を報告し、理紗の了解を得ておきたかった。本来であれば裏土御門家は、理紗が継ぐべきであったからである。葛城にその旨を話すと「ご尤もです」と言って賛意を示したので、諒輔は一部始終を理紗に語って聞かせた。

 

 聞き終えた理紗は半信半疑の状態であった。安倍の血筋を引く者として、素直に肯定してしまいたい気持ちがある一方、母方から引き継いだ合理的な DNAが、真っ向から諒輔の話を否定していたからである。

「正直に言いますが、記憶が転写されるとか、遠い昔の先祖の認可が必要とか、そのような話、直ぐに信じるわけには行きません。でもこれだけははっきりとお答え出来ます」

「それは何ですか?」

「私に代わって諒輔さんがお爺様の後を継いで裏土御門家を継ぐことは、まったく異存ありません。それどころか代わってくれた諒輔さんに感謝します。大変な事を押し付けてしまったようで申し訳ありません」

「いえ、理紗さんから感謝されたり、謝られたりするなんてとんでもないです。理紗さんはまだ信じられないでしょうが、僕はあの方が言われたことをすべて信じます。ですから間もなくしたら、記憶の跡を辿って晴明公の下に行こうと思います」

「信じません。信じはしないけど、何かそれはとても危険なことだと心の底で何かが警告を発しています。そういう感覚は昔から私にはあってよく当たるのです。ですから行くのは止めた方がいいのではないでしょうか」

「えぇ、とても危険なことのようです。でも行かなければならないのです。それ以外の選択肢は無いのです……そこでお二人にお願いなのですが」

諒輔はそこで一旦言葉を区切り二人の顔を真剣な眼差しで見つめた。

「何でしょう」

「何ですか、おっしゃって下さい」

 二人は口々に言って、諒輔の言葉を待った。

「僕が記憶の果てから戻って、正気に帰るまで、そう多分三十分位と思うけど、僕の側に付き添っていてくれませんか」

 諒輔は我ながら情けないと思ったが、側に誰か付いていて欲しいと切実に思ったのだ。

「えぇ、そうすることが諒輔さんのお役に立つなら」

「はい、私でよろしければ理紗さんと一緒にお側にいさせていただきます」

 二人の返事を聞くと諒輔は大きく頷き、吹っ切れた表情で告げた。

「ありがとう。それでは千年の時間旅行に旅立つとしましょうか」


第八章 安倍晴明

 諒輔と理紗と葛城は並んで特別室のリビングの大きなソファーに並んで腰かけている。真ん中に諒輔、その左側に和服姿の理紗、そして右側が葛城だった。諒輔が精神を集中出来るようにと部屋の照明のほとんどが消され、部屋は薄暗い。

「それでは、開始します」

 諒輔が告げると、理紗が諒輔の左手をそっと握った。手を握られるのは正直うれしいが、これでは精神集中出来ないと困っていると「では気をつけて」と理沙は握った手を離した。少し気落ちしたが、気を取り直し、精神を集中させて行った。

 

 意識が薄れて行く。巨大な渦に巻き込まれ下へ下へ落ちて行くような感覚。そのスピードがどんどん増して、もうこれが極限と思われた時、周囲のすべてがまばゆく発光し、何もかもが瞬く間に霧散霧消した。気が付くと諒輔は真空の宙に浮かんでいた。

光も色も音も無い無間地獄かと思われたが、宙の彼方に小さな光が一つ浮かんだ。蛍のように淡い光は、次第にその数を増していったが、中にはテニスボール程に大きなものもあった。そんな大きな光は放電と共に映像を一瞬浮かび上がらせる。家族団欒の光景、赤ちゃんを抱いて幸せそうに微笑む婦人の姿、欧州旅行の風景、東京大空襲と思われる悲惨な光景など様々であった。

 どうやらこれらの光は忠彬の記憶であるようだった。光は次々に増殖し隙間無く埋め尽くされたが、突然その全てがまばゆく発光し当たり一面真っ白になった。と、次の瞬間またもや諒輔は、真空の宙にいた。そして暫らくすると小さな光が浮かび、増殖を始めた。放電と共に浮かび上がるイメージには、皇族と思われる人々との談笑、神宮外苑で行われたという学徒出陣式、マッカーサー元帥とその幕僚などの光景があり、仲間とジャズを演奏する楽しげな光景もあった。それらは忠彬の父親の記憶に違いなかなかった。

 

 このような事を何度も、繰り返し昔へ昔へと記憶を遡ったが、 三十数回目は少し様子が違った。辺り一面真っ白になったその後は、真空の何も無い宙があるだけの筈なのに、今回は最初から大きな月のようなものがぼうっと浮かんでいるのだった。暗赤色の血を滲じませたようなそれは、いかにも禍々しく不気味である。

『これこそが、土御門家の創始者、安倍晴明公の記憶』

固唾を呑んで見守る諒輔であった。

     

 稲妻が数本、宙を走り、続いて凄まじい雷鳴がした。月のようなものが振動し、燐光を放ち始めた。しばらくすると卵の殻がひび割れる様に砕け、辺りに濃密な妖気が漂った。

「千年の眠りを破るは、いかなる者か」

 声がする方を見たが、闇よりも更に黒いガス状のものが蠢いているだけである。そんなおどろおどろしい中にあっても、それほど恐怖は感じない。しかし畏れはある。

「三輪諒輔と申します。この度、安倍忠彬様より裏土御門家の長を引き継いだ者です」

自分でも驚くほど、確りとした声が出た。

「忠彬から引き継いだとな」

「はい、忠彬様は私に記憶を転写した後、間もなく亡くなられました」

「死ぬるは必定。じゃがな、我らの記憶は引き継がれることにより、永遠の命を得ることが出来るのじゃ」

黒いガス状のものは徐々に収斂し、今や人の形になりつつある。

「晴明様、私が裏土御門の長となることお許しいただけるでしょうか」

「お前、もう一度名乗ってみよ」

人の形は、更に鮮明になり衣冠束帯の人物と分かるほどになった。

「三輪諒輔と申します」

「安倍一族の者か」

「いえ、そうではありません」

「なんと、安倍の血を引く者ではないというのじゃな」

「はい」

「うーむ、何と言うことじゃ。安倍の血を一滴も引かない者に、裏土御門の長を引き継ぐなど、このわしが許さん」

 放たれた怒気に呼応するかのように稲妻が走り、雷鳴が轟いた。

「そこの者、覚悟はよいな。今、この場にて取り殺してくれるわ」

 諒輔は焦った。何とか凌がなければと必死で訴えた。

「しかし、晴明様。私が死んでしまえばあなた様を始め、全ての裏土御門の長の記憶がこの世から消え去ってしまいます。皆さんの永遠の命が失われるのです」

「そのようなこと言われんでも分かっておる。つべこべ言わず観念しろ」

先程にも増して、大きな稲妻が走り、雷鳴が轟き、諒輔の直ぐ近くにその一つが落ち炸裂した。

 諒輔は黙した。やるだけのことはした。言うべきことは言った。これ以上じたばたしたところで仕方ない。諒輔は思考を遮断し、心を無にしようと務めた。激しかった稲妻と雷鳴がいつの間にか治まり、晴明と思しき人影はじっと動かず声も発しない。奇妙な静寂が広がった。

 

「晴明、これよ晴明」

 いつの間にか宙空に、青く輝くものが浮かんでいる。静寂を破ったその声はそこから漏れ出しているようであった。

「あぁ、その声は……」

 声に気付いた晴明が驚きの声を上げた。

「そうじゃ、賀茂忠行じゃ」

「これはお師匠様、なんとお久しゅう」

 そう言えば、晴明は師の賀茂忠行から、陰陽道の極意を修得したのであった。今昔物語の巻第二十四の第十六話に、晴明公が師の加茂忠行から陰陽道を伝えられた様子が「此道ヲ教フル事瓶ノ水ヲ写スガ如シ」と記されている。あの青い輝きは、その折に取り込んだ賀茂忠行の記憶に違いない。

「晴明、そちは、この者をどうしようというのじゃ」

「はい、安倍の血筋を引かぬ者、この場にて打ち殺さんとしていたところにございます」

「したが晴明、すぐに殺さず逡巡していたであろう。それは何故か」

「この者の言う通り、殺してしまえば千年の記憶が絶えまする。それに……」

「それに、なんじゃ」

「こしゃくな奴ながら、この晴明に怖じることなく物申すとは中々の者。更に申せば、命乞いもせず慫慂として覚悟を決めた物腰、殺すに惜しいと不覚にも逡巡した次第、面目次第もありませぬ」

「晴明よ、わしが何故この場に現れたか分かるか。そちの逡巡を責めに来たのではない。この者に呼ばれたのじゃ。この者の血脈に感応したのじゃ」

「なんと、それは真にございますか」

 晴明が諒輔の方に顔を向け質した。

「これ、そこの者、お前は賀茂の血を引く者か」

 幼い頃、糺の森で母から幾度となく聞かされてきたことを思い出し答えた。

「私の母が嫁ぐ前の旧姓は賀茂でした。母の実家は京都で、下鴨神社に所縁の深い家柄と聞いています」

「晴明よ、聞いたであろう。確かにこの者、安倍の血は引いておらぬが、陰陽道の家柄の血を引く者じゃ。このわしに免じて、この者を裏土御門の長として認めてはくれぬか」

「ははぁー、お師匠様の仰せとあらば、この晴明、お指図に違うことなど微塵も致しませぬ」

 晴明は忠行の声に向かい深々と辞儀をすると、諒輔に向かい直し威儀を正した。

「三輪諒輔と申したな。その方、裏土御門の氏長者としてしかと認め祝福しようぞ。わしに連なる代々の者共も、この新しき陰(おん)の長者を助け祝福せよ」

稲妻が走り、雷鳴が轟いた。それは、諒輔が裏土御門の長になったことを祝す、花火と号砲のように明るく晴れやかなものに感じられた。

 

 拡散し混沌としていた意識の彼方で微かに声が聞こえる。

「諒輔さん、諒輔さん」

「諒輔さん、戻って来て下さい」

 その声は次第に大きく鮮明になる。

「もう一時間近くになるわ。諒輔さん大丈夫かしら」

 その声が理紗のものだと気がついた。

「大丈夫、必ず帰ってきます」

 葛城の声だ。諒輔は二人の声が無性に懐かしかった。

「あっ、今、口が動きませんでしたか。いや、確かに動きました」

「えぇ、私も見ました。諒輔さん、諒輔さん。眼を覚まして下さい」

「お願い、戻って来たのでしょう」

諒輔は眼を開いた。

「あぁ戻って来たのね」

「大丈夫ですか、どこか異常はありませんか?」

 心配そうな葛城と理紗との顔があった。

「えぇ戻りました。どこも異常はないようです。今のところはどうやら……」

理紗と葛城は床に跪き、其々が諒輔の手を握っている。そうした姿勢で二人は懸命に諒輔を励まし、語り掛けていてくれたのだろう。

「あぁ良かった。時間があまりにかかるものだから、心配で、心配で」

理紗は涙声であったが、葛城は感激の為か声も出ない。

「どうもありがとう。二人が付いていて励ましてくれたお陰です。本当にありがとう」

 諒輔は二人の手を交互に握りしめた。

「お疲れでしょう。ベッドで休まれますか?」

 葛城が気を遣う。

「いや大丈夫です。それより飲み物をいただけますか」

 葛城がリビングルーム備付けの冷蔵庫からミネラルウオーターを持ってくると、理紗がグラスに注ぎ諒輔に手渡した。諒輔がミネラルウオーターを飲む間に、理紗と葛城はソファーの前の椅子に座り、諒輔と向き合った。葛城は改まった調子で尋ねた。

「それで、晴明公はお認めになられたのですね?」

「はい、裏土御門の氏長者であることお認めいただき祝福を受けました。でも“オンの長者”って何でしょう?」

「あぁ、晴明公はそう仰られましたか。陰(おん)の長者のオンとは陰陽道の陰のことです。つまり陰の長者とは裏土御門の長を指す言葉です」

 葛城は涙を溢れさせながら嬉しげに説明した。理紗は「おめでとう諒輔さん、私、信じます。お爺様の言われた事、諒輔さんの言われた事、すべて信じます」と喜びの声を上げた。

「ありがとう、理紗さん、信じてくれて僕も嬉しいよ」

 一同が喜びに包まれていた時、ドアをノックする音が聞こえた。葛城が涙を拭いて立ちあがりドアに向かった。ドアを開けるとそこにクリスチーナが立っていた。

「お久しぶりです。良くお越し下さいました。どうぞ中にお入り下さい」

今日のクリスチーナは黒のパンツスーツ姿で、髪をアップに纏めビジネス用の大きなバッグを肩にしている。大学の講師らしい出で立ちである。部屋に入ったクリスチーナの姿を見て、理紗が駆け寄り、二人は抱き合った。

 一通り其々の挨拶が済むと、葛城はクリスチーナに忠彬が数時間前に亡くなったことを伝えた。クリスチーナは天を仰ぎ、隣に座った理紗の肩を抱いて引き寄せた。

「理紗、あなたに知らせて置かなければならないことがあるの。皆さんも聞いて下さい」

 そう前置きしてクリスチーナは、語り出した。

「理紗、あなたはお爺様を恐ろしい人だと思っていることでしょう。お父様から言い聞かされて育ったのだから、そう思うのは無理ないことです。でも本当は違うのです。あなたが東京の大学に進学したいと、私に泣いて訴えたこと憶えてる? 当時私は大学の臨時講師をしていたけど、とてもそんなお金は無かったの。そこで以前から、“何か困ったことがあれば何でも相談しなさい”と言って下さっていたお爺様に事情を話したの……そう、あの時は葛城さんに大変お世話になりましたね」

 葛城に眼を向け一息つくとまた話し始めた。

「勿論お爺様は私の願いを聞いてくれたわ。でも、お爺様が学資を出したと理紗が知れば、大学進学を諦めると言うに違いないから、理紗には内緒にしておこうと言われてね、今まであなたに話す機会がないまま……」

 クリスチーナは声を詰まらせ、涙ぐんだ。

「あぁ、分かったわ、泣かないで。私の為に皆がしてくれたこと、感謝するわ」

今度は理紗が、クリスチーナの肩を抱いて手を握った。

 


第九章 都内高級ホテル

 葬儀の打合せを兼ねた夕食が済むと、諒輔は一人、病院の近くのホテルに向かった。葛城が気を利かして手配してくれたのだ。部屋に入ると、シャワーを浴びる気力もないまま、ジャケットを脱ぎ捨て、ベッドに倒れ込んだ。

 

 酷い頭痛がして諒輔は目覚めた。何やら夢を見ていたようだ。千年の記憶を遡って行く時に垣間見たイメージの数々が猛烈なスピードでフラッシュバックされ、厖大な情報が洪水のように湧き出し、溢れかえる感覚に必死に耐えていた。しかしこうして目覚めて、夜が明けたことを知った今、それは千年の記憶の封印が解かれ、記憶が一斉に蘇った瞬間だったのだと悟った。

 恐る恐る諒輔は記憶を探った。記憶は忠彬が先祖代々引き継いできたものと、忠彬の代に取り込んだものとがあり、先祖からの記憶は、それぞれの代の陰の長者の人生の記憶と陰陽道に関するものがほとんどであった。その中には呪術に関するものがあり、式神遣いの法などもあるようであった。

 一方、忠彬自身が取り込んだ記憶には、「物理学」「化学」「医学」「経済学」「法学」「文学」など近代から現代にかけての学問が網羅されていた。医学においては「脳生理学」など脳に関するものが多く、経済学においては「投資理論」など金融に関するもの多く含まれていた。語学は英語の他、フランス語、ドイツ語、中国語など多数に及び、それらの言語で自由に会話することが出来るようであった。その他に芸術、武術、スポーツなど、実に様々なものが取り込まれており、忠彬の貪欲なまでの知識吸収に改めて驚かされた。

 諒輔は起き上がり、ベッドから降りると、先ずは小手調べに呪術が実際に使えるか試してみることにした。印を結び、呪を唱えた。ぼぉっとした影が二つ浮かび上がる。

「お呼びにございますか」

 声を揃えて低頭するのは、あの犬麻呂と牛麻呂、童形水干姿の式神であった。式神には主人として威厳を持って対応すべしというのが、引継がれた記憶であった。

「忠彬様から陰の長者を引き継いだ三輪諒輔だ。お前達二人は身の回りの世話と警護をして呉れる者共と聞いている。今後は私の式神として尽くせ」

「畏まって候、して今日の御用の趣は」

 少年特有のやや甲高い声である。問い返された諒輔は、はたと困った。何を言い付けるか考えていなかったのだ。

「うむ、そうだな、朝の支度など頼もうか」

 二人は少し思案するようであったが、犬麻呂は浴室に行くと風呂の用意を始めた。牛麻呂は、諒輔のシャツとズボンを脱がしにかかる。戸惑う諒輔の意を介さずにパンツまで脱がそうとするので、慌てて自分で浴室に行き、パンツを脱いで浴槽に飛び込んだ。湯はまだ三分の一ほどしか貯まっていないが、手足を伸ばすと快さが広がった。

 湯が肩を浸す頃、犬麻呂、牛麻呂は諒輔を湯船から出し、座らせると二人掛かりで諒輔の頭、手足、背中などを洗い始めた。こんな調子で傅かれては堪らない。風呂を出ると早々に告げた。

「あぁ、もう良い、後は自分で始末する。下がって良い、ご苦労であった」

 呪を唱えると二人の式神は低頭して退くと、ぼおっと霞んで消え去った。

「ふぅ、やれやれ、やりつけないことは迂闊にやるものじゃないな」

 独り言を呟いて、衣服を身に付けた。

 

 葬儀は忠彬の世田谷の屋敷に於いて神式で行われた。クリスチーナ、理紗、諒輔、葛城の他、参会者は故人にごく近しい人に限られて執り行われたのであったが、忠彬の死を知った人達の中から“忠彬を偲ぶ会”を開催したいとの申出が寄せられた。

 申し出たのは忠彬がこの20年程逗留していたホテル関係者達であった。一人息子が駆け落ち同然に家を出た後、その心痛により間もなくして妻が亡くなり、さすがの忠彬もひどく気落ちした。そんな気持ちを紛らわすために、家族の思い出が詰まった屋敷を出て、ホテル住まいを始めたのであった。

 始めはほんの数週間位の積りが、よほどそのホテルが気に入ったのか、その後二十年近くも逗留することになったのだ。忠彬にとっては、この二十年ほどはそのホテルが自宅のようなものであり、ホテルの従業員達も忠彬を慕い、家族のように接してきたのであった。

 その話を聞いた、クリスチーナと理紗は偲ぶ会の開催に同意し、是非自分達も出席したいと申し出たのであった。偲ぶ会は、クリスチーナが京都に帰る前にという計らいで、急遽クリスチーナが京都に帰る日に開催される運びとなった。

 

 偲ぶ会の当日、諒輔の宿泊するホテルに大型のリムジンが迎えに来た。

「葛城様は打合せの為、会場に先に行かれました」

詰襟制帽姿のあの運転手はそう告げるとドアを開けた。車内にはすでにクリスチーナと理紗がいて、理紗は和服の喪服姿で忠彬の遺影を抱えている。車内に乗り込み、ボックス席の二人に向き合うように座ると、諒輔は英語でクリスチーナに話しかけた。クリスチーナはごく普通に応対したが、理紗は諒輔が話す流暢な英語に驚いていた。

「諒輔さん、何か変わりましたね」

 理紗は諒輔の顔を繁々と見つめた。クリスチーナも同意するように頷く。

「やはりそう思いますか。実は鏡を見て、以前の僕とは大分違うと感じていたのです」

「えぇ、以前はどこかぼうっとしたところがあったけど……あら、御免なさい」

「いえ,皆にそう言われていましたから」

「今日の諒輔さんはとても理知的な顔をしてるわ」

「理知的か……なんせ千年の記憶を取り込んだらなあ」

少し複雑な気持ちであったが、そんな会話を取り交わしている内に目的地に着いた。

 

 会場となるホテルは都内でも有数の高級ホテルで、広い敷地内には回遊式の日本庭園や茶室もある。正面玄関の車寄せにリムジンが停車すると、すかさずホテルの従業員が車のドアを開けた。一行が車を降りると、そこに年老いたドアマンがおり、理紗が掲げる忠彬の遺影に恭しく辞儀をして一行を入口に案内した。

 クリスチーナと理紗の後に諒輔が続く形で入口を入る。ロビーには大勢の人達が待ち構えていて、行く手の両脇に整列していた。それらは、フロントクラーク、コンシェルジュ、ベルマン、ウエイター、ウエイトレス、バーテンダー、室内清掃係、ひと際目立つのが白く高いシェフ帽の一団などホテルの各職制に応じた制服に身を包んだ人々であった。

 お驚きながらも、歩みを進めると、両側の人々は口々に「お帰りなさいませ」「お帰りなさい」「先生お帰りなさいませ」などと言い、忠彬の遺影に向け丁寧に辞儀をするのであった。ハンケチで涙を拭う者、隣の人の肩を抱く者、皆が忠彬の死を悼み悲しんでいた。

 整列の最後に葛城と支配人らしき人がいて、二人が先導して、一行を忠彬の部屋に案内した。その部屋はスイートルーム仕様で、リビング中央のテーブルには白い薔薇が飾られていた。忠彬が好んだ種類の薔薇だと、葛城が説明した。

 二つあるベッドルームの一つは書斎として使っていたようで、ベッドの代わりに紫檀の大きな机と皮張りの椅子が置かれていた。しかし、その机と椅子以外は、ほとんどがホテルの調度品のようで、全体に品よく調和がとれていた。忠彬が私物を極力持ち込まず、また部屋を自分の好みに変えようとしなかったのであろう。そんな配慮もホテルマンには好もしく思えたことであったろう。

 一通り、部屋を見て回った一行は、宴会場フロアにある偲ぶ会の会場に案内された。会場には、先程ロビーで出迎えてくれた人達が待っていて、人垣を作っていたが、入って来た一行のために道を開けた。

 会場内は普通の立食パーティーのように、食べ物、と飲み物が用意されていた。クリスチーナと理紗が正面の一段高い壇に促されて上ると、支配人らしき人がマイクをとり挨拶を始めた。

「私、当ホテルの総支配人をしております工藤と申します。本日は我々従業員の無理なお願いをお聞き届けいただき、安倍忠彬様を偲ぶ会がこうして開催出来ましたこと、従業員一同心から感謝しておる処でございます。またご遺族の皆様はご葬儀でお疲れのところ、ご臨席を賜り厚く御礼申し上げます」

 工藤は壇上の遺族にお辞儀をして、挨拶を続けた。

「ご存じのように安倍先生は二十年来、当ホテルをご自分の住まいのようにご使用していただき、その間我々従業員に対し、父のごとく接していただきました。また博学多才の先生は、我々が困った事態に遭遇した時には、適切なアドバイスをしていただき、何度も助けていただきました。先生が亡くなられたとの悲報に接し、従業員一同、深い悲しみを覚えた次第でございます。本日は、それぞれの立場で先生の想い出を語り、先生のご遺徳を偲びたいと存じます。皆様どうぞよろしくお願い申し上げます」

拍手してよいものやら誰もが、躊躇していたが、諒輔が拍手すると、ほっとしたように拍手が沸き起こった。

 遺族を代表してクリスチーナが挨拶し、引き続いて献杯が行われると飲食しながらのパーティーとなった。しばらくすると、従業員が交互にマイクを取り、自分が体験した忠彬のエピソードを語って行った。どれも心温まる話で、感激屋の葛城は話の一つ一つに涙を流していた。クリスチーナと理紗も感動で顔を紅潮させていた。

 出席者はホテルの制服ではない普通の格好をした男女も混じっていた。総支配人の工藤に聞くと、このホテルの常連客で忠彬と馴染みの深い人にも声をかけたとのことであった。その中に妙に気になる背広姿の二人連れがいた。その内の一人の顔に大きな傷があったので、目立ったのがその理由だが、もう一方の男も眼光が鋭く独特のオーラを放っていた。   その男は長髪、色白で一見すると女と思い違いしそうになる優男であった。諒輔がなお注意して観察して気が付いた。傷のある男は、以前襲ってきたワゴン車の背の高い方の男に違いなかった。傷により引き攣った顔が以前と変わっていたので気付くのが遅れたのだ。その二人は部屋の隅に行くと、辺りを憚るように小声で話し始めた。諒輔は精神を集中して二人の男の心を読んだ。会話の内容が伝わってくる。

 

『安倍忠彬が死んだことは確認された。問題は次の陰の長者が誰かと言うことだ』

優男が傷のある男の耳元で囁いている。

『血縁者はあそこにいる孫娘しかいないのではないですか』

 傷のある男が、壇上の理紗を見やりながら囁き返す。

『しかし、若い女の上に外国人の血が混じっていることを考えるとどうもな』

『そうですね、あの孫娘に陰の長者が勤まるとは到底思えません』

『うむ、陰の長者が引き継がれなかった可能性も否定できぬか』

『それなら、我々にとって、正に好都合』

『いや楽観論は禁物だ。我々の知らぬ血縁者が他にいる可能性もある。情報収集と探索を強化する必要があるな……うん?』

 優男が会話を中断し、怪訝な顔をして周囲を見回した。心を読まれたことを察知したのだろうか。二人連れは、もう一度壇上を睨みつけると、踵を返して会場を出て行った。もし、心を読まれた事を察知する能力をあの男が有しているとすれば、侮るべからざる敵と言わざるを得ない。


第十章 桜坂

 理紗の安全が気になったが、葛城が夜間の外歩きなどの場合は身辺の警護をすると言うのでしばらく様子を見ることにした。理紗にあまり心配掛けない程度に注意すると、「私には、危険察知能力があるから大丈夫」と言って気にかけない。何かあれば直ぐ連絡するように約策させたが、それでもまだ少し心配である。

 諒輔については、阿修羅教団側は何も気付いていないようなので、これまで通りにして置いた方が良かろうという判断から、八王子のアパートに住み続けることにした。

 そんな訳で陰の長者になった後も、諒輔は相変わらず、栗原運輸のアルバイトを頼まれたりしていた。それは諒輔にとって気が紛れることであり、社長や八百子と過ごすのが楽しかったからでもあった。しかし忠彬の葬儀などで忙しくなってきて、そうもしていられなくなり、諒輔は社長と八百子にあの財団に就職する旨を告げて、アルバイトを止める事にした。 

 納骨を済ませ、葬儀に関する当面の行事が終わると、葛城は相続について相談したいと諒輔と理紗に申し出た。財団事務所を二人に見て貰いたいとの葛城の思惑があり、相談は財団事務所で行われることになった。

 

 理紗は教えられた場所をインターネットで調べてみた。そこは地下鉄の溜池山王駅からほど近い桜坂の中程の所であった。桜の咲く頃、何度か訪れたことがある場所である。葛城は迎えの車を出すと言ったが理紗は断り、諒輔と溜池山王で待ち合わせして、一緒に訪れることにした。諒輔と二人で桜坂を歩くのも悪くはないと思ったのだ。

 その日の理紗は白いブラウスにベージュのタイトスカートでセミロングの髪を自然に下ろした姿である。スカートの深いスリットが気になったが、多少の色気も必要だろうなどと思いつつ、理紗は先に待っていた諒輔に歩み寄った。諒輔はちらっと近づく理紗の姿を見やったがどうやら理紗とは気付かない様子である。少し腹を立てて、無言で諒輔の目の前を行き過ぎ、モデルターンをし、ヒールの音を殊更立てて戻ると諒輔の前に立った。

「あぁ理紗さんか、一瞬誰かと思ったよ。何時も和服だったから」

「まぁ、諒輔さんたらいけずやなぁ」

つい京言葉が出てしまった。諒輔は狼狽気味に言い訳するが、服装と髪型が変わった位で見損なうとは諒輔もどんくさい。まぁ、それがどこか憎めない要素にもなっているのだろう。

 二人は連れ立って歩き出した。九月も中旬になり、ようやく残暑が一段落したのと、夕方の五時を過ぎて陽も傾いたので、地上を歩いても苦にならない。目指す建物は桜坂の途中にあるキリスト教会の隣にある三階建の古ぼけた小さなビルであった。古風なデザインのビルの表面に蔦が絡まった様子は瀟洒であり、隣のチャペルと良く調和がとれていた。一階入り口に小さな看板があった。《桜坂画廊 営業時間 10:00~17:00》とある。ここが目的のビルだ。諒輔がドアを開けて、理紗を先に中に入れる。理紗は内心『ヘぇ、中々気が利くじゃない』と感心する。左手に部屋があり画廊になっているようだ。額縁を模したような窓枠のガラス窓があり、そこから中を見ることが出来る。ユトリロ風の風景画が数十点掛けられている。ユトリロが好きな理紗は中に入ろうとして、画廊に通じるドアに手を掛けたが、鍵がかけられているようで中に入れない。あきらめて諒輔に続いて更に奥に進むと狭いエレベーターホールがあり、案内表示の看板が立ててあった。

 〈一階 桜坂画廊〉〈二階 画廊事務所〉〈三階 財団法人 日本伝統行事研究保存協会〉

エレベーターに乗り込むと諒輔が三階のボタンを押した。アールデコ調の装飾が施されたエレベーターはゆっくりと動作して三階に止まりドアが開いた。その部屋はかなり広いが、来客用の応接セット、書棚、事務用のスチール机と椅子が数人分あるなど、ごくありふれた事務所の佇まいである。

「これはこれは、諒輔様、理紗様、良くお越しいただきました。お迎えも致しませず誠に申し訳ございません」

 葛城は恐縮の体である。部屋には葛城の他にもう一人の男性がいて辞儀をした。

「いいえ、桜坂と聞いて歩いてこようと諒輔さんに私が言ったのです」

「そう、桜の季節ですとデート、いえ散歩には打ってつけの場所なんですけど……あっ、こちらは遠山です」

 紹介された二十四,五歳と思えるその男は小柄で、どことなく葛城に似ている。どこかで見たような気がすると理紗は記憶を巡らせ気付いた。

「あぁ、あなたは病院の霊安室にいらした」

 黒の上下のスーツに白い手袋をしていたあの若い男だった。

「遠山と申します。ご挨拶が遅れまして失礼いたしました」

 遠山は、七三に分けた頭を律義に下げた。 

「実は遠山は、姉の息子、つまり私の甥でして、財団の経理全般を見て貰っています」

 理紗にとってその男が葛城の甥というのは意外だが、諒輔は意に介する風も無く、気さくに遠山と握手などしている。

 その時エレベーターの扉が開き、別の男がもう一人入って来た。葛城はその男が近づくのを待って声をかけた。

「異常はありませんでしたか」

「はい、尾行された形跡は認められません」

 そう答える男を葛城は諒輔と理紗に紹介した。

「既にお見知りかと思いますが……」

 いつもは詰襟の制服姿だが今日は普通の背広姿だった。

「神崎です。どうぞよろしくお願いします」

 神埼は慇懃に礼をした。贅肉の無い筋肉の引き締まった体つきをしており、顔の表情も精悍そうである。

「こちらこそよろしくお願いします」

 理紗は挨拶を返した。

「神崎は空手の達人です。元自衛官で銃器などの武器のエキスパートでもあります」

 理紗は葛城の説明を聞いて頼もしく思ったが、先程、神崎が口にした尾行という言葉が気になった。

「あのぅ、神崎さん、先ほど尾行された形跡とかおっしゃいましたよね」

理紗は気になっていたことを口にした。

「はい、阿修羅教団の者どもがお二人を尾行することも考えられますので、失礼ながら監視させていただきました」

 理紗はその返事を聞いて急に怖くなって、隣の諒輔を見やったが、諒輔は平然としている。そう言えば先程から、何もかも承知しているという様子である。

 一通り挨拶が済むと葛城は「それでは早速ですが、財団の本部事務所にご案内しましょう」と歩き出した。理紗はここがその事務所とばかり思っていたので不思議に思った。

「財団の本部事務所って、ここではないのですか?」

「ここも財団の事務所ですが、言わば表の事務所です。五時までは職員が何人かいたのですが、定時に退社するようにしているので今は居りません。二階に会長室もありますがご覧になりますか」

 理紗にはよく理解できない説明であったが、財団本部というものを早く見たかった。

「いえ、結構です。その本部事務所というものを見せていただきます」

 葛城は頷くと二人に付いて来るよう促し、一同全員でエレベーターに乗り込んだ。定員五名とあるからこれが乗り込む限度である。エレベーターの扉が閉まると、遠山が一階のボタン、二階のボタン、三階のボタンを何回か押した。出鱈目に押しているようで不思議に思ったが、ゆっくりとしたスピードでエレベーターは下降して行く。一階に付くのに嫌に時間が掛かると思った時、やっとドアが開いた。降りたところは、一階ではなく地下であるらしい。それもかなり深い地下のようだ。眼の前に連絡通路のようなものがあって、ずっと先に続いている。遠山が通路入口の壁にある操作パネルに暗証番号を入力する。多分赤外線センサーなどのセキュリティを解除したのだろう。

「どうぞ、こちらです」

 葛城が先頭になって案内する。

「この通路は坂下にある神社の地下に通じています。そこに財団の本部事務所があるのです」

 理紗は大掛かりな施設に驚いた。敵対する者達への備えなのだろうか。

「これほど厳重な防備がなされているとは……想像をはるかに超えています。敵対する者達が多かったからなのでしょうね」

「いえ、当時は敵対勢力とは和解が出来ておりまして、攻撃を仕掛けてくる者はいなかったのです。あの阿修羅教団はこの十年程で先鋭化し、当方に攻撃を開始したのはごく最近のことです」

「すると、当時はこんなに厳重な防備が施された施設を造る必要はなかったのじゃありませんか?」

「この施設を造った頃は、忠彬様が金融取引を積極的にやっておられた時でして、国税庁や証券監視委員会などの査察や捜査に備えるという意味合いが強かったのです」

 葛城の説明は理紗にとって腑に落ちないものだったが、理解を超えていたので話題を変えることにした。

「阿修羅教団と言いましたか……その敵にはまだこの事務所の存在を知られていないのですね」

「えぇ、今のところ察知された兆候はありません。しかし、阿修羅教団の者達は、最近しきりに当方へ探りを入れている模様です。決して油断できません」

 それを聞いて理紗は少し不安になったものの、まさか自分に危害が及ぶとは思わなった。

 

 連絡通路の突き当たりに扉があり、遠山がセキュリティを解錠して一行を中に招じ入れた。本部事務所は幾つかの部屋があるようで、先ず案内された部屋の壁面には液晶パネルがいくつも設置されており、机の上には数十台の情報端末とパソコンが置かれている。壁面のパネルには株価、為替相場、金利などが時々刻々と変化する数字を表示していた。

「ディーリングルームです。昔はこの部屋で忠彬様が金融取引の指揮を直接採っておられましたが、この二十年程はディーリングルームとしては使用しておりません。ただ保有資産の管理のために役立つと申しまして、遠山が時折使っておるだけです」

 葛城は説明が終わると、次の部屋に二人を案内した。そこは監視セキュリティルームであった。壁面に沢山のモニター画面がある。それらの画面には画廊の入り口、画廊の一階通路、エレベーター内部、三階事務所など桜坂画廊の至るところが映し出されている。神社の境内や神社の建物はこの施設の地上にある神社であろう。雑木林に囲まれた建物の外部とその内部は世田谷の屋敷だろうと理紗は推察した。

「このセキュリティルームの責任者は神崎です。何かご質問があれば神埼にお尋ね下さい」

 理紗が首を振ると、葛城はまた別の部屋に案内した。

「こちらが本部会長室です。どうぞお入り下さい」

 諒輔と理紗が部屋に入ろうとすると、神崎が「私達はこれで失礼いたします。別室で控えておりますので御用があればお申しつけ下さい」と告げ遠山と共に去って行った。

 部屋の中は、大手企業の役員室とさほど変わらぬ仕様で、床には分厚い絨毯が敷かれ、扉、壁、調度品はマホガニーや紫檀などの木製品で統一されている。皮張りの応接セットは十数名が座れるような大きなもので、諒輔、理紗、葛城は一番奥に向かい合って腰かけた。

「意外と普通の部屋なんですね。クラシックカーが趣味だと聞いていたので、自分の部屋は、重厚な英国貴族風かと思っていました」

 理紗は率直な感想を口にした。

「忠彬様は、『私の趣味はディーリングルームだけで充分だ』と言われて、ご自分の部屋には頓着しなかったのです。それでこのようにありふれた部屋になっているのです」

 葛城は部屋をぐるっと見渡し感慨深げな表情を見せた。それでもすぐにいつもの調子に戻り、二人に好みの飲み物を聞き、それを内線電話で伝えると居住まいを正した。

「早速ですが遺産相続についてご相談させていただきます。先ずはこれをご覧ください」

 葛城は資料を二部取り出し、諒輔と理紗に一部ずつ手渡した。

「それは、忠彬様の遺書のコピーです。本物は顧問弁護士が保管しており、詳細については後日、弁護士から説明があります。本日は私が、この遺書の概要を説明いたします。尤も諒輔様は忠彬様の記憶を引き継がれておられますので、先刻ご承知でしょうが、一緒にお聞き下さい」

『あぁ、そうか、諒輔さんは何もかも知っていたんだ。だから平然としていたんだわ』

理紗は内心呟き納得した。

「忠彬様がこの遺書を書かれたのは、亡くなる一週間ほど前でして、理紗様が陰の長者を引き受けてくれるかどうか分からない時でした。ですから陰の長者が忠彬様の代で絶えることもあり得るという前提に立っての遺書になっています。まぁ、内容は後ほどよく読んでいただきたくとして、遺産相続の要旨ですが、忠彬様個人名義の資産の内、四分の三を理紗様に、四分の一をクリスチーナ様に相続するということです。当財団の会長には陰の長者が就任し、その所有する資産の管理も陰の長者に委ねられます。因みに次代の陰の長者が不在となってしまった場合については、財団は解散し、所有資産は国庫に納める事になっておりました」

 葛城はここで言葉を区切ると、諒輔と理紗の顔を交互にじっと見た。

「色々と質問があると思いますが、もうしばらく私の説明を聞いて下さい。さて問題は世田谷の屋敷の相続です。土地も建物も忠彬様の個人名義ですが、遺書には陰の長者が管理するべきものとされております。なぜならあの屋敷には、代々の陰の長者を祭祀する祭壇があり、これを守るのは当代の陰の長者の務めだからです。忠彬様はこの20年ほどホテル住いでしたが、代々の陰の長者の祥月命日などの式日には必ず、世田谷の屋敷に行かれていました」

 葛城の話に理紗はすぐ反応した。

「あのう、私、そんな広い屋敷に絶対住みたくないです。ましてや先祖の祭祀の間があるような所、とても怖くて近づけません。遺書の通り諒輔さんが住むなり管理してくれたら嬉しいです。それよりも……」

 理紗は言葉を区切りおずおずと訊ねた。

「あのう、こんなこと聞いて、はしたないと思うかもしれませんが……私に相続される資産て、どの位の額なんでしょうか?」

「詳しい額は、顧問会計士が株式などの時価評価をして算出します。私もどの位になるか見当がつきませんが、金融資産だけでも数億円単位にはなることでしょう。でも、高率の相続税が課せられますから、手取り額はその半分以下になります」

 思っても見ない事態に理紗は茫然としている。

「ついでと言ってはなんですが、財団の所有資産についても理紗様に簡単に説明しておきます。財団資産は陰の長者である諒輔様が引継ぎ管理して行くことになります。財団には表と裏があることは、もうご理解いただけたでしょうが、表の資産はわずかなものです。裏の資産、我々は財団本部と言っておるのですが、その資産は中規模の銀行程度だと言っておきましょう」

 巨大な資産ということは理解できだが、具体的にそれがどれ位の額なのかは理紗には分からない。

「このような巨額の資産を保有するに至った経緯や、その方法などは私が説明するより、忠彬様の記憶をそのまま引き継いだ諒輔様の方が、ずっと詳しいので、説明は諒輔様にお願いしたいと思いますがよろしいでしょうか」

 葛城は諒輔の顔を窺った。その時、ノックがあり、遠山が飲み物を持って室内に入って来たので、ひと先ずコーヒーブレイクにすることにした。

 飲み物を飲んで一息つくと、諒輔が「話は長くなるけど」と前置きして話し出した。その概要は次のようなものであった。

 

 忠彬が陰の長者を引き継いだのはちょうど二十歳の時だった。それは太平洋戦争が終結した翌々年の一九四七年(昭和二十二年)のことであった。

 忠彬の父、顕平は戦時下においてその能力を買われ、天皇陛下からの諮問に応えるなどしていたが、終戦間際においては徹底抗戦派の将校等のクーデター鎮圧に尽力するなど活躍した。

 戦後は占領軍司令部と皇室存続について裏面交渉を行ったりもした。しかし、長年奔走した疲れと、安倍家の経済的な逼迫から気力を失い、息子の忠彬が成人するのを待って陰の長者を引き継いだのだった。裏土御門安倍家は多くの農地を所有する大地主でもあったが、占領軍の農地解放政策により、その大半を失った。また東京大空襲で自宅を始め、貸家のほとんどが焼失する被害もあって、家計を逼迫させたのであった。

 陰の長者を引き継いだ忠彬は、まだ大学生であり、家計の苦しい安倍家の当主として四苦八苦した。このような自身の経験もあり、これからの時代は経済力の時代になると予見し、経済、財政、金融などの最新知識の吸収に努めた。数少ない家財や土地を売り払い、海外留学をして欧米流の投資理論も習得した。知識は学ぶのではなく、脳に直接転写する方法で行われたから、短時間の内に、忠彬は世界トップクラスの質と量の投資理論と技法を習得できたのであった。

 忠彬は経済関連だけでなく、あらゆる分野の知識を吸収していったので、望めば総理大臣でも、大学の総長でも、大企業の社長でもなれる能力を持っていた。しかし陰の長者は世の表に出ること、多くの人に知られることは禁忌であったので、何事も人知れず行う必要があった。

 忠彬は若く、自信に満ちており、自分の能力を存分に発揮したいと切望した。それは抑え切れない若い性の衝動のようなものであった。そこで忠彬が情熱を注いだのが、投資と投機であった。自分の能力を存分に発揮することが出来て、念願の経済力が手に入る。正に一石二鳥であった。

 忠彬は投資と投機に没頭した。戦後の高度経済成長期でもあり、運用する資産は膨張した。運用先は株式、債権などの金融取引の他、商品相場、為替相場、不動産など多岐に亘った。

 莫大な投資収益があったが、税務申告をすると、世間やマスコミに忠彬の存在が知られることになるので、税務申告はしないことにした。忠彬の類ない才覚をもってしても、多額の資金の運用は当局が察知することになる。が、そうなった場合も、国税当局や証券監視委員会と渡り合い攻防することが当時の忠彬の生き甲斐になっていたのである。

 そのような時に造られたのがこの財団本部事務所であり、ディーリングルームであった。しかし息子の忠成が家を飛び出し、妻がその心労で亡くなると忠彬は投資と投機への関心を一挙に無くしたのであった――――

 

 理紗は諒輔の説明が一段落したところで、疑問を投げかけた。

「すると、財団本部の巨額な資産は脱税による違法なものなの?」

「それについては私から説明いたしましょう。国税当局と交渉したのは私でしたから」

 葛城は諒輔の方に眼をやり、諒輔が頷くのをみて説明を続けた。

「現在は国税当局にすべて申告して、過去の分も含め税金を支払っているので違法なものは一切ありません。脱税の時効は長くて七年です。金融商品取引法違反なども七年で時効が成立します。その期間を過ぎれば法的には罪に問われることはないのです。しかし忠彬様は時効になった分も含めて納税すると国税当局に持ち掛けたのです。その代わりに世間への公表は一切しないという約束でした。いわば一種の司法取引のようなものでしたが、当時の国庫状況も現在同様に逼迫していましたので、案外と順調に事が運びました」

「それを聞いて安心しました。諒輔さんが違法なことをしなければならないのかと心配しました」

「財団本部の資産については遠山が管理しています。詳しいことをお知りになりたければいつでも遠山にお尋ね下さい。えーそれでは財産相続の件はひとまずこれで終わりにして、次に阿修羅教団への対策について相談させていただきたいのですがよろしいですか」

 二人が頷くのを見て葛城は話し始めた。

「それでは、理紗様の為に、先ず阿修羅教団のことをご説明しましょう。阿修羅教団の原型となるものは戦国時代に形作られました。織田信長が比叡山を焼き討ちしたのはご存じと思いますが、信長はこの時、僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われています。これに恨みを抱いた者や、恐れを抱いた者達が密かに徒党を組み、信長への復讐を誓ったというのがその原点です。その後、時の権力者によって宗教者が弾圧される歴史が続きましたが、それ等の者達に手を差し伸べ救済することで勢力を伸張させ現在に至っているのです。豊臣政権から徳川政権にかけて迫害されたキリシタン、明治維新の廃仏毀釈により排斥された僧侶、明治以降に弾圧された数々の新興宗教の信者などが取り込まれていったのです。そのような種々雑多な者を受入れてきた結果、教団の教義は天台・真言両密教を基盤にしていますが、黒魔術やオカルト的な呪術なども取り入れて今や仏教とは異質のものになっているようです」

葛城は一息つき、飲み残しのコーヒーを飲んだ。

「あのう、阿修羅って言えば、奈良の興福寺の阿修羅像が有名だけど、阿修羅とはどういう意味なのですか?」

 理紗は気にかかっていたことを質問した。

「阿修羅は仏教の守護神とされており、常に闘う心を持ち、その精神的な境涯の者が住む世界を現すとも言われています。つまり阿修羅教団とは迫害や弾圧に対抗し、常に闘争することを厭わない者達の集団という意味合いが込められているのです」

「よく分かりました。でもどうして、彼らは私達に敵対するのでしょう」

「それにも深い理由があるのです」

 葛城は深刻な表情を浮かべ、話を続けた。

「先ほどの説明でお分かりかと思いますが、阿修羅教団は時の権力者にとって極めて危険な存在でした。特殊な能力を駆使して要人の暗殺をしたり、政権転覆の陰謀に加担したりしたからです。そこで時の権力者が頼りにしたのが、阿修羅教団を凌駕する能力を有する裏土御門すなわち陰の長者だったのです。陰陽道は、天文、暦などを司ってきた為に、常に時の権力者に必要とされ、密接な関係を保ってきました。安倍一門としては権力者の要請を無碍にすることは出来なかったのでしょう。そのような次第で、裏土御門が阿修羅教団との戦いの矢面に立ったのです。その後長い抗争の歴史がありましたが、忠彬様のお父様の顕平様の代になってようやく和解が成立して抗争に終止符が打たれました。ところが十年程前に過激急進派が阿修羅教団の実権を握ると、和解を破棄し我々に対して敵対する事を鮮明にしたのです」

 葛城は説明を終えると、『理解していただけましたか』というように理紗を見つめた。

「それで彼らからの攻撃に備えなければならないのですね」

「その通りです。正にそのことをお二人にご相談したいのです」

 理紗は今まで、自分の身に危害が及ぶことはないと漠然と思っていたのだが、葛城の説明を聞いて急に恐怖心が湧き出した。

「あのう、すると、私も攻撃されるかもしれないのですか?」

「彼らは陰の長者への攻撃を最優先する筈です。理紗様が陰の長者を引き継いだと彼らが看做した場合、理紗様を襲う可能性があります。しかし彼等は理紗様が陰の長者になったかどうか判断を決めかねている様子なので、すぐに攻撃されるという状況ではないと思っています」

 葛城はそう言って、諒輔の同意を求めるような目付きをした。諒輔が同意を示すと、葛城は更に説明を続けた。

「理紗様、彼らは当財団の会長に誰が就任するか見届けようとしているのです。財団の会長に理紗様が就任しないと分かれば、理紗様は陰の長者でないと彼らは判断するでしょう。ですからなるべく早く諒輔様に会長を就任していただかねばなりません。」

「でも、会長に諒輔さんが就任したら、今度は諒輔さんが狙われることになるのでしょう?」

 理紗は心配気に諒輔の方を見た。

「僕は陰の長者です。襲われたところでどうにも対処できます。今は理紗さんの安全が大切です」

 葛城は二人のやり取りを見守っていたが、ここで口を挟んだ。

「何はともあれ会長就任の手続きを急ぎましょう。しかし関係者の同意を得るなどそれなりの手続きと時間が必要です。それまで万一に備えて理紗様は安全な場所にお住いになっていただきたいのですが如何でしょう?」

 理紗は今住んでいる下町のアパートを、住めば都とそれなりに気に入っていたが、身の安全が第一である。

「えぇ、引越しするのは構いませんけど、どこか良いところありますか?」

「はい、それはもう私共にお任せ下さい。すでに候補をいくつか手配していますから」

葛城は内線電話で神崎に理紗の住いに関する資料を持ってくるよう指示をした。すぐに 神崎が資料を持って現れ、理紗と相談して青山一丁目のセキュリティが厳重なことで定評のあるマンションに住まう事を決定した。これでその日の主要な打ち合わせは一通り終了した。

 世田谷の屋敷の問題は、取りあえず理紗が相続し、諒輔が住むなり管理するということにした。将来のことはその内、二人で世田谷の屋敷を訪れ、現場を見た上で検討しようということで合意したのであった。

 理紗は諒輔と六本木辺りで夕食を共にする積りであったが、諒輔は葛城と更に詳細な打ち合わせがあるのでここに残ると言う。理紗は仕方なく一人、神埼の車で自分のアパートへ帰る事になった。諒輔は矢張りいけずでどんくさい。

 


第十一章 宮内庁

 数日後、神崎の運転するリムジンで皇居に向かった。同乗しているのは諒輔、理紗、葛城である。今日の理紗は訪問着を着ており、諒輔にとっては見慣れた和服姿であった。諒輔は葛城からモーニングコートを着用するよう言われたが、普通の背広で勘弁して貰った。葛城は勿論モーニングコート姿である。

 坂下門で皇宮警察官のチェックを受け、リムジンは皇居に入り宮内庁前の車寄せで停車した。三人は車から降りると受付で来意を伝えた。今日は宮内庁式部官長に会い、諒輔の財団会長就任の承諾を得るためにやってきたのだ。財団法人日本伝統行事研究保存協会は宮内庁が所管官庁となっており、会長就任にはその承諾が必要だったのだ。

 一行は応接室に案内され、お茶が供されたが、『式部官長は会議が長引いておりしばらく待っていただきたい』とのことであった。

「私、実はね、以前宮内庁に来た事があるの」

 理紗は皇居に入ってから、宮内庁の応接室に来るまで少しも物怖じする様子を見せなかった。諒輔には宮内庁の様子は既視感(デジャブ)が有った。忠彬の記憶を引き継いでいるのだから当然であろう。しかし理紗が、先ほどから平然としているのを、不思議に思っていたところだったのである。

「へえ、それは意外だな。またどうして?」

「芸大時代の友達に雅楽を専攻していた人がいてね。その人、宮内庁式部職の楽部に就職したの。それで宮内庁で開催される雅楽演奏会に招待してくれたと言うわけ」

「ふーん、その人って大学時代のボーイフレンド? それとも恋人?」

 諒輔はつい、口走ってしまった。

「さぁ、どうかしら」

 理紗はわざと悪女めいた笑顔をして諒輔の顔を覗き込んだ。葛城はそしらぬ顔でそっぽを向いている。その時「大変お待たせいたしました」と言いながら顔を紅潮させた肥満体の男が応接室に入って来た。葛城は何度かこの人物に会ったことがあるらしく、双方を紹介した。諒輔に渡された名刺には“宮内庁式部官長 安倍豊淳”とある。この人物は安倍本家筋にあたる者でいわば表土御門の当主とも言うべき存在であった。一通り挨拶が済むと葛城が切り出した。

「この度、忠彬様ご逝去あそばされ、こちらの三輪諒輔様が新しい裏土御門家を継がれました。つきましては財団会長への就任に付き、所管官庁として、また安倍宗家としてご承認賜りたく参上いたしました」

 諒輔も葛城に習い頭を下げる

「本来なら、そちらの安倍理紗さんが引き継ぐべきだったのでしょう。あ、いや事情は聞いております。理紗さんが引き継がなかったことを責めているわけではありません。えぇっと、理紗さんは、三輪諒輔さんが陰の長者を引き継ぎ、財団の会長になることを承知しているのですな」

「はい、勿論承知しています。私は諒輔さんが陰の長者を引き継いでくれた事を、心から感謝しています」

「そうですか、しかしですな……いや、安倍一族の主だった者に内々で相談したのですが、安倍の血を引かぬ者が陰の長者になれる訳が無いと言いまして、あなたが陰の長者になったということを信用しないのです」

 諒輔には豊淳の心を読まずとも、豊淳本人が諒輔を信用していないことが手に取るように分かった。

「それでは、今この場で、私が陰の長者であることを証明して見せましょう」

「ほう、それは」

 豊淳は予想もしない諒輔の言葉に呆気にとられている。諒輔はそんな豊淳に構わずおもむろに印を結び、呪を唱えた。 豊淳はしばし呆然としていたが、応接セットのテーブルに蟻の様に小さなものが湧き出したのに気付いた。それらは次第に大きくなって、大豆ほどの大きさになり、あるものは人となり、あるものは馬となり、やがて行列となって動き出した。それらは更に大きくなって行き、男は狩衣などの束帯姿、女は十二単などの女房姿で、それぞれが葵の葉を飾っていることが分かる程になった。『あぁ、これは葵祭りの行列だ』と豊淳は理解する。葵祭りは宮内庁が深く関わって行われる行事であり、豊淳自身も何回か行列の一員として参加しているのですぐ分かったのだ。

 最初、蟻位だったものが今やゴルフボール大になっていたが、そんな行列の中に、牛車が現れた。赤い引き綱を手にする二人の牛童の姿もはっきりと見て取れた。牛車は勅使が乗る豪華な御所車である。と見る間にその御所車は急拡大し応接室一杯になる程の大きさになった。

 周囲はいつの間にか溶暗に溶け込んでいたが、その暗闇から水干姿の二人の牛童が現れた。その牛童の一人が牛車の後方の御簾を上げ、もう一人が踏み台を据えると、恭しく辞儀をして乗り込むように促した。

「どうぞ、皆さん牛車にお乗り下さい」

 諒輔はそう言うと理紗の手を取って、最初に牛車に乗せた。次に豊淳、葛城、最後に諒輔が乗り込んだ。豊淳は驚きの余り、声を上げるのも忘れて諒輔に言われるままに従っている。皆が乗り込むと、牛童は御簾を下げ、踏み台を取り去った。

「よろしいですか。これから何があっても、何を見ても決して声を上げてはなりません。くれぐれもこれだけは守って下さい」

 諒輔が言い終わると、牛車はゴトリと動き出した。諒輔は理紗の肩を抱いて耳元で囁く。

「理紗さん、何があっても心配しないで下さい。僕が付いていますから」

 牛車はゴトゴトと進んで行く。豊淳は脇の小窓の御簾を上げて外を見たが暗くてよく分からない。しかし目を凝らしてそこがどうやら京都の町並みの風景と見当を付けた。

「ご主人様、奴らがやって参りました。如何いたしましょうか」

牛童の一人が牛車の外から諒輔に向かい言上する。

「うむ、牛車を脇に寄せ停止させよ。お前達は身を隠しておれ」

「畏まりました。仰せの通り致しまする」

牛車はギシギシと音を立てて脇に寄ると停止した。

 やがて前方から、がやがやと人の話す声や下卑た哄笑が聞こえてきた。がちゃがちゃと物が打ち合う音に混じって女のすすり泣くような声も混じる。葛城は恐ろしくなって思わず声を上げそうになった。諒輔は口に手をあて「シィー」と葛城を制止した。

『葛城さん聞こえますか。テレパシーで話しかけています。恐ろしかったら眼を塞ぎ、耳も手で押さえていて下さい』

 葛城は何度も頷いて見せ、眼をつぶり、耳を手で覆った。

 物音は更に大きくなり、近付いてくる者達が話す内容を聞き取れるほどになった。

「なんじゃ、良い匂いがするわい」

「おう、そう言われてみれば、麝香、白檀にも勝る良い匂いじゃな」

 理紗は自分の香水が匂うのだろうと気付き、恐怖で震え、諒輔にしがみ付いた。豊淳は御簾の隙間から近づいてくる者達を凝視していた。恐ろしくて仕方ないが身体が凍り付いてしまい、眼が離せなくなっていたのだ。

 豊淳の目に映った者どもは、正に悪鬼の群れであった。痩せさらばえた身体に襤褸を纏った者は、もぎ取られた人の腕を握っており、それを齧りながら歩いて来る。またある者共は、狩った猪を棒にぶら下げるように、人の手足を棒に縛り付け運んでいた。またある者は、全裸の女を逆さに肩に担いでいる。女の腹や太股は抉り取られており、見るも無残な有様であった。

「おい、この辺りじゃ、この周りをよく探せ」

 ひと際獰猛な形相の者が下知すると、悪鬼どもは鼻をひくつかせて牛車の周りを嗅ぎ回り出した。ここに至り豊淳は「ひぃー!」と喉を震わせた。同時に金縛りにあったような状態が解かれて、その場に崩れ落ち、そして気を失った。

 

「豊淳様、もう大丈夫です。目を覚まして下さい」

 頬をひたひたと葛城に叩かれて、豊淳は目を覚ました。

「あぁ、なんて恐ろしい夢を見てしまったのだろう」

 まだ、意識が朦朧としているようだ。

「確りして下さい。ここはどこか分かりますか」

 豊淳は周囲を見渡した。

「あぁ、ここは……」

「私達の事も、分かりますね」

 豊淳は諒輔、理紗、葛城の顔を順番に見つめ頷いた。

「確かに……確かにあなたは陰の長者です。疑う余地は有りません。先程の失礼深くお詫びいたします」

「いや、良いのです。あの光景は我らが祖、晴明公が師の賀茂忠行様に鬼どもが来るのを告げられた折の光景を、晴明公の記憶に基づき忠実に復元したものです」

 諒輔は今昔物語の一説を語った。

 

「晴明若かりける時、師の忠行が下渡(しもわたり)に夜行(やぎょう)に行ける供に、徒歩にして車の後に行きける、忠行車の内によく寝入にけるに、晴明見けるに、艶(えもいわ)ず怖き鬼共車の前に向(むかえ)に来ける。晴明此れを見て驚きて、車の後に走り寄りて、忠行を起こして告ければ、其時にぞ忠行驚きて覚て、鬼の来たるを見て、術法(ずっほう)を以て忽に我が身をも恐れ無く、供の者共をも隠し、平かに過にける――――」

「今昔物語には鬼と記されていますが、あれ等は鬼でも魑魅魍魎でもなく人間です。当時の京の都は、夜盗、押込み、人さらい、死人喰いなどが溢れていたのです」

「うーむ、人間ほど恐ろしいものは無いということですな……」

豊淳は諒輔の説明を受け絶句した。

 



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