閉じる


<<最初から読む

3 / 16ページ

第三章 八王子運送店

 有限会社栗原運輸は八王子郊外にある小さな運送会社で、諒輔が大学時代にアルバイトをし、失業した今もまた世話になっている先である。

 従業員は社長と娘の八百子の他に数人がいるだけの零細企業で、アルバイト料も決して高くはない。しかし社長が無類のお人好しで、アルバイトの諒輔にも何かと気配りしてくれるので居心地が良い働き場所であった。

 そんな社長の性格は、取引先や従業員から信頼されるなど良い面がある反面、経営者としての厳しさに欠けるところがあった。その欠点をカバーして苦しい台所事情を遣り繰りしているのが、娘の八百子である。

 八百子の母は、八百子が中学生のころ男を作って家を出てしまい、その後は八百子が家事を引き受け、父親と二人で支えあって暮らしてきた。高校卒業後は父親の運送業の仕事を手伝う傍ら、定時制の大学で勉学を続け見事卒業したという頑張屋であった。

 八百子はモデルも務まるようなすらりとしたスタイルで、個性的な顔立ちの美人であった。諒輔より五歳ほど年上であったが、諒輔が大学時代にアルバイトを始めた頃、密かに想いを寄せた女性でもある。そんな八百子に言い寄る男は少なからずいたのだが、父親を一人残して嫁に行けないと結婚を拒み続けていた。しかし、どういう風の吹き廻しか、友人から紹介された公務員と数年前にあっさり結婚して八王子を離れていたのである。

 ところがその相手とはどうにも相性が悪かったようで、昨年離婚して現在は以前と同じように栗原運輸で仕事をしている。

 

「諒さん、お客さんだよ。なんかすげぇ車に乗って来たぜ」

 作業用の雨合羽を着た哲さんが、外からドアを開けて事務所にいる諒輔に呼びかけた。ドアの外はかなり激しい雨である。あの事件からすでに1カ月以上が経過しており、季節はもう梅雨になっていた。

 葛城からは時折、挨拶に行けないことを詫びる電話が入っていたが、やっと昨日になって今日、栗原運輸に行くという連絡があったのだ。

 そういうことだったので葛城が来たに違いないと察した諒輔は「社長、例の人がみえたようです」と告げ、表に出た。すぐその後に社長と八百子が続く。

 そこに駐車していたのは、大きなリムジンでクラッシックカーの一種であるようだった。車の傍らにはフロックコートを着た葛城と詰襟服に制帽姿の運転手がこうもり傘を差して立っていた。

 葛城は諒輔の姿を認めると近寄り恭しく礼をした。社長と八百子は、びっくりしてその場に立ち竦んでいたが、諒輔に声を掛けられて我に返ったように言葉を発した。

「ど、どうも……よくいらっしゃいました。えー、兎に角、先ずは事務所に入られて……」

「これはどうも、ご挨拶に伺うのが遅れまして大変申し訳ありません。それでは雨も降っていることですし、詳しい話は事務所の中でということにさせていただきます」

 事務所に入ると葛城は、忠彬の転院手続きや警察、消防などの対応などのため栗原運輸に来ることが遅れた理由を述べ、諒輔に助けられた経緯を説明し、栗原運輸の車両に損害を与え迷惑をかけたことを詫びた。そして損傷した軽自動車の弁償とお詫びの気持ちですと言って、袱紗から紙に包まれた分厚いものを取り出して差し出した。

「あ、いや、軽自動車は保険で修理すればまだ使えますから、このようなものは……」

 社長と葛城は押し問答をしていたが、傍らの八百子が社長の耳元で囁く。

「有り難く頂戴したら、保険は効かないかもしれないし、あんなポンコツ修理してもしょうがないわよ」

 八百子の声が聞こえたかのように、葛城は八百子を見て頷き言葉を続けた。

「事故にあった車は、修理してもすぐ故障すると申します。命の恩人が乗る車に万一のことがあっては、当方としても面目が立ちませんので、新車に買い替えていただければ幸いです」

 社長がなおも躊躇していると「それでは、遠慮なく頂戴いたします」と八百子は紙包みを受け取ってしまった。

「あの、お茶入れ替えてきます」

 八百子は紙包みを手にして、衝立の後ろにある給湯所に入った。

「ちょっと、諒さん。諒さんたら」

 少しの間の後、衝立の端から顔を出した八百子が諒輔を手招きする。諒輔が立ちあがって衝立の裏に回ると八百子は包みの中身を見せた。

「全部で五百万円も入っているわ。いくらなんでも多過ぎない?」

 八百子は困惑の表情で眉を顰める。

「うーん、軽自動車は百万位だから、四百万がお詫び料ということになるのかな」

「諒さんが貰うのなら命を助けたことだしこれ位当然かもしれないけど、うちは諒さんの雇い主というだけですもの」

「でもいいんじゃない。くれるというものは有り難く受け取っておけば」

 諒輔は気軽に言う。

「諒さんたら、いつも能天気なんだから」

 八百子は腕組みをし、思案する風であったが「諒さん、八百子、お客さんがお帰りだよ」という社長の言葉に衝立の蔭から諒輔と共に飛び出した。衝立裏でこそこそ話していることが、どんなことか察しをつけた葛城がここは早々に帰った方が良いと判断したに違いない。八百子に話す隙を与えずに葛城はそそくさと立ちあがり「それでは皆様これで失礼いたします」と挨拶し入口に向かい、後に付いてきた諒輔に振り返り話しかけた。

「諒輔さんには会長が直接お目にかかって、改めてお礼を申し述べたいと言っております。ご都合の付く日にお迎えに上がりますが如何でしょう」

諒輔は忠彬が都内の病院に転院したり、忙しかったりで、まだ見舞いに行っていなかった。一度は見舞いに行かねばと思っていたところだったので「分かりました。でも自分で病院まで訪ねて行きますから、お迎えは無用ということでお願いします」と答えた。あんな大層な車で迎えに来られてはたまらない。

 

 葛城が去った後、三人で受け取った金の扱いについて話し合いが続けられたが、諒輔の主張に従い、相手の気持ちを素直に受け入れることで話しがまとまった。

「正直言うとね、このところ資金繰りが苦しくて……ほんと助かるわ」

ほっとした表情の八百子に対し「いやぁ、いつも苦労かけてすまない」と社長が頭を下げた。

「何よ、水くさい。それより、予期しないお金が入ったことだし、偶には皆でパーッと飲みに行かない」

「そうだね、賛成。仕事、チャチャッと片付けて哲さんたちにも声掛けて皆で行こう」と諒輔はすぐに賛意を示したが、社長は「うーん、そうだな……」と煮え切らない。

「実は俺、今日ちょっと都合が悪いんだ。そうだお前たち二人で行ってきなよ。うん、そうしな。昔よく二人で飲みに行ってたじゃないか」と熱心に二人で行くことを勧めた。

 

 数時間後、諒輔と八百子は、行きつけの酒場でビールのジョッキを傾けていた。すでに数杯のジョッキを空けた八百子の顔はほんのり上気している。日頃、化粧も碌にせずジーンズにTシャツ姿で忙しく立ち振る舞っている八百子が、今夜はワンピースに着替えし、うっすらと化粧までしている。

「なんか、強引だったね、お父さん」

「うん、何が?」

 諒輔はそんないつもと違う八百子に気圧され気味である。

「ほら、二人で飲みに行けってことよ」

「哲さん達も都合悪いって言ったそうだから仕方ないよ」

「それはお父さんが哲さんに……いやもういいわ、そんなこと」

やれやれという表情をして、八百子は話題を変え「それより、諒輔。彼女と別れたってほんと」と探るような目で諒輔を見た。

 諒輔と呼び捨てにするということは、大分酔いが回った証拠であり、要警戒である。八百子は酒にめっぽう強いが、からみ酒の傾向があるのだ。こんな時に隠し立てをすると碌なことが無いことを良く承知しているので、元彼女に愛想を尽かされて振られたことを正直に話した。滅多に悩んだり、後悔したりしない性格の諒輔もさすがに別れた直後は失恋の痛手に苦悶したのだが、引きずることなく今はもう立ち直っている。

「彼女の気持ち良くわかるわ。諒輔は恋人としては申し分ないかもしれないけど、結婚相手としてはねぇ」と八百子は諒輔の話に納得して一人で頷いている。

「恋人として申し分ないなんて言われると照れるな」

「何言ってんの。ほんとに能天気ね、まるで分かっていなぃんだから」 

あきれ顔をして八百子はジョッキの代わりを注文した。

「ところでさぁ、知ってる。私の名前のこと」

「いや……」

「八百子って、八百屋の子みたいで格好悪いでしょ」

「いや、そんなことは……」

「お父さんたらね、最初は八王子って書いて、やおこ、と読ませようとしたらしいの」

「へぇー、そうなんだ。社長、郷土愛が強い人だからなぁ」

「それを聞いた周囲の人がね、そんな名前にしたらいじめに遭うから止めるべきだって言ってくれたの、当然よね。それでお父さんも折れて一字だけ変えて八百子にしたの。可笑しいでしょ」

 そんな他愛もないことを互いに面白おかしく話しながら飲み続けていたのだが突然、八百子は黙りこんだ。急変した八百子の様子に「気分悪いの、大丈夫?」と気遣ったが、「諒輔はいいよね、いつも能天気で」と八百子は呟き、小さな溜息をした。意味を解しかねて諒輔がぽかんとしていると「諒輔、帰るよ」と八百子は大声で言い、伝票を掴むとふらふらと立ち上がった。


第四章 病院特別室

 中元の季節は、栗原運輸にとって歳暮の季節と並んで最も忙しい時期である。仕事に追われて中々見舞いに行けなかったが、七月に入り学生アルバイトを雇った為ようやく諒輔の手が空いた。大分時期がずれ込んだが、気象庁が梅雨明けの発表をした今日、忠彬が転院した都内の病院を訪ねたのであった。

 

 病院の最上階にある特別室病棟ロビーは厚い絨毯が敷き詰められており、静かにBGMが流れていた。ロビーの壁面の一方は全面ガラス張りになっており眺望が素晴らしい。ホテルのフロントのような受付で用向きを伝えると、受付嬢は「お待ちしておりました。ご案内いたします」と言って先に立って歩き出した。

 特別室に通ずる入口でセキュリティ用のカードをスロットに差し入れ、更に奥まった一画にある部屋の前に至ると受付嬢はドアを軽くノックした。するとドアが中から開かれ、豪華な施設には場違いな貧相な男が現れて諒輔を中に招じ入れた。現れたのは、あの葛城事務局長である。

 案内された部屋にはベッドや医療機器は見当たらず、欧風の家具調度品が配されており、まるで高級ホテルのスイートのリビングルームのようであつた。その広い部屋の中央に忠彬が車椅子に座って待っていた。

 忠彬は大分痩せたようで一回り小さくなったように感じられ、諒輔は内心驚いたが表情には出さず見舞いの言葉を述べた。忠彬は重ねて礼を述べ、挨拶が一段落したところで改まった表情で切りだした。

「今日こうしてわざわざ来て貰ったのは、実は折り入って頼みたいことがあるからでの。勝手な申し出であることは充分承知しておるが、是非君に頼みたい」

「はぁ、なんでしょう」

 諒輔は怪訝な表情になる。

「急がねばならんのだ。時間が限られておる」

 いつになく切羽詰まった忠彬の様子に諒輔も真剣な表情で答えた。

「分かりました。私に出来ることでしたら……先ずはその頼み事の内容を説明していただけますか」

 諒輔の返事を聞いた忠彬は安堵した表情になると説明を始めた。その内容は以下のようなものであった。

 

 転院したこの病院で、葛城の勧めもあり怪我の治療の傍ら人間ドック検診を受けた。その結果、膵臓がんが発見され、更に悪いことにはすでに他の臓器に転移しており、手術は不可能であることが判明した。

 当初、忠彬に病名などは伏せられていたが、本人のたっての願いにより、膵臓がんであることが告知された。そして忠彬は、余命が数ヶ月であることを知ったのであった。

 忠彬は裏土御門の長として、受け継いできた記憶を何としても直系家族に引継がねばならないと思い焦燥した。しかし、一人息子は十数年前に交通事故で既に亡くなっており、引継ぐとすれば孫娘しかいない。

 その孫娘は東京にいるはずだが、住所などはわからず、ずっと音信不通である。しかし孫娘の母親が住む京都の住所は分かっているので、京都の母親を訪ねて、孫娘の連絡先を聞き出して欲しい――――

 

 忠彬は説明中も時折苦しそうな様子をしていたが、何とか一通り説明をし終えた。

「君にこんなことを頼むのは筋違いと充分承知しているが、これも何かの縁と思ってどうか頼まれてはくれないか」

 諒輔は突然の申出に戸惑って返事をせずにいた。

「京都の母親の連絡先などについては葛城が説明する。申し訳ないが、私は少し休ませて貰う、でどうだ、引き受けてくれるか」

 頼まれたら断れないと言う諒輔の性格を知っての申出だとすれば、これを引き受けるのは相手の思う壺とは思うものの、余命幾ばくもないもない老人の頼みとあれば引き受けざるを得まい。諒輔は承知した。

「会長、大丈夫ですか。すぐ看護師を呼びますから」

 葛城は諒輔に頭を下げると車椅子を押し別室に向かった。別室がベッドや医療機器を備え付けた病室になっているのだろう。

 ほどなく医師と看護師がやってきて、別室に消えた。入れ替わりに葛城が戻ってきて「抗がん剤の副作用で体調が優れないのです。お許し下さい」と涙ぐみハンカチで目頭を押さえた。

 葛城は母親の京都の住所と、電話番号と名前を教えてくれたのだが、その母親の名前は《安倍クリスチーナ》というものであった。不思議そうな顔をしている諒輔に「えーそうです、母親のクリスチーナはアメリカ人です」と説明した。

「京都大学に留学中に息子さんの忠成様と知り合い二人は恋に落ちました。でも安倍家の一人息子で、将来陰の長者になる者が、外国人と結婚することは許されないことでした。二人は会長の説得に耳を傾けるどころか、強く反発して同棲生活を始めたのです。そして子供を授かったのを機に二人は正式に結婚しました…… 」

 父子の間をとりもち和解するよう奔走したのは葛城であった。当時の事が思い出されたのか葛城は苦渋の表情で言葉を詰まらせた。

「クリスチーナさんは、忠成さんが亡くなられた後もアメリカに帰らなかったのですね」

 諒輔は説明の続きを促した。

「えぇ、その後もずっと京都に住んで、平安時代の歴史と文学を研究しておられます。現在は私立大学の講師などをされています」

「事情は大体分かりました。でもクリスチーナさんと安倍家とはずっと絶交状態だったわけですよね。私のようなものが出向いてお願いしても、簡単に娘さんの連絡先を教えてくれないのではないでしょうか」

 幾ら能天気の諒輔でも、これ位の事は察しがつく。

「はい、それは会長も案じておられまして、クリスチーナさん宛ての書状を書かれました。これがその書状です。結婚を認めなかった事など過去の様々な仕打ちについて率直に詫びると共に、伝統を継承する事の大切さを縷々したためたものと伺っております」

和紙に書かれた書状を受け取った諒輔は、今さらながらに重い責任を荷なわされたことに気づかされた。


第五章 京都

  諒輔にとり京都は無縁の地ではない。母親の実家が京都であり、母が亡くなる前は年に数度、母に連れられて京都に来ていたのである。

 母は諒輔が小学校六年生の時に、病気のため亡くなったが、医師である父は母を助けられなかったことを大変悔やんだ。当時父は大学病院勤務で将来を嘱望された外科医であった。その為仕事は多忙を極めており、家族のことはその一切を母に任せ切りであった。母が病に冒された時も、仕事に追われてその身体の異変に気付くのが遅れてしまったのだ。

 母が亡くなった後、父は大学病院を辞めて開業医となり生計を立てていたが、諒輔が大学に進学するのを待って、沖縄の離島の診療所に赴任したのであった。

 そのような経緯もあって母の思い出が詰まった京都に行くことがなんとなく躊躇われていたのであった。諒輔にとり今回の京都行きは久々のことである。

 

 諒輔が京都を訪れた日は七月の上旬で、梅雨明けの時節の暑さは耐えがたいほどだった。堀川通りには陽炎がゆらゆらと立ち昇り、道路に描かれた白い歩道標識が眩しく光っていた。諒輔がタクシーを降りたこの辺りは京都市街の北西部にあたるところで、西陣と称される地域である。古い町屋作りの建物が点在する京都らしい一画で、訪れた先も小振りながら町屋作りであった。

 玄関の表札には“安倍”と言う小さな表札が掲げられており、脇には”西陣倶楽部 源氏物語教室”という看板が掛けられていた。吹き出る汗を拭うと格子状の引き戸を開け、薄暗い奥に向かって声をかけた。

 ややあって近寄ってくる足音が聞こえ、現れたのは作務衣を着た女性であった。髪はブルネットで瞳は青みがかった灰色をしている。

「昨日電話をした三輪諒輔です」と名前を名乗り、更に用件を話そうとすると「そこは陽が当って暑いでしょう。どうぞ中に入ってください」と外国人と京都人の両方が入り混じったような微妙な抑揚で言い、諒輔を土間に招じ入れた。建物の内部は薄暗いが、風が吹き抜けひんやりとしている。

「ようお越しになりました。安倍クリスチーナです」と自己紹介し、下駄を脱いで式台に上がり諒輔を居間に案内した。居間は民芸風の箪笥や座卓が置かれ、開け放たれた障子の向こうは坪庭となっていて、濃い緑が逆光に浮かんでいる。

 

 諒輔は勧められるまま、座卓の前に座ると、挨拶もそこそこに用件を切り出した。忠彬が末期がんに罹患し余命幾ばくもないこと、孫娘に会いたがっていることなどを話した。

「これがお義父様からお預かりしてきた書状です」

 クリスチーナは受け取った書状の封を切り、水茎の跡も鮮やかな文字をみると顔を輝かせた。

「あぁ、なんて麗しい筆跡でしょう」

 クリスチーナが平安文学を研究していることを知っている忠彬は、平安風の書状としたのであろう。反対側に座る諒輔からも開かれた書状の一部を見ることが出来たのだが、情けない事にその文字は一切判読不能であった。

 熱心に読んでいたクリスチーナだったが、途中からは時々読むのを止めて溢れる涙を手の甲で拭った。書状を読み終えたクリスチーナは赤く充血した目で諒輔を見据えると「承知しました。娘の連絡先をお教えします」と言って立ち上がると部屋の隅に行き、文机の前に正座し何やら書き物をしていたが、戻ると諒輔に和紙に書かれたメモを手渡した。

「これが娘、安倍理紗の連絡先です」

「ありがとうございます。お義父様はさぞお喜びになることでしょう」

 責任が果たせた安堵感から諒輔は満面の笑顔であったが、クリスチーナは厳しい表情で続けた。

「ただ、理紗がお義父様に会うかどうかは本人が決めることです。忠成さんは生前、娘にお義父様は恐ろしい人なので、決して近づいてはならないと、常々言い聞かせていました。ですから、お義父様が望んでも理紗は会いたがらないかもしれません」

「恐ろしい人と言い聞かせていた……」

 諒輔は、忠彬、忠成父子の相克の深さを垣間見た思いで表情を引き締めた。

「それからお義父様の命を救っていただいたそうですね。手紙にあなたのことも書かれていました。私からもお礼申し上げます」

「あ、いや、お礼を言うのはこちらの方です」

 諒輔は居住まいを正すと、改めて礼を述べ辞去するため立ち上がった。

 

 玄関を出ると、ギラギラと西日が照りつけており、薄暗い室内から出てきた諒輔はそのまぶしさに目を顰めた。そして日差しを避けて軒下に入ると、携帯を取り出し葛城に電話をかけた。

「あー諒輔さん、京都は暑いでしょう。ほんとお疲れ様です。で、どうでした?」

 葛城は性急にまくし立てる。

「娘さんの連絡先を教えていていただきました」

「そうですか、そうですか。それは良かった。早速会長にお伝えします」

「えぇ、でも……」

 娘の理紗は会ってくれないかもしれないと言うべきか躊躇する諒輔に葛城が畳みかける。

「諒輔さん、お疲れでしょう。今日は京都に泊まってゆっくりなさって下さい。詳しいことは明日でいいですから」

 腕時計を見た。今から直ぐ帰っても東京に着くのは午後十時を過ぎてしまうだろう。

「はぁ、そうですね。それではそうさせて下さい」

 京都の暑さにぐったりしていた諒輔は素直に葛城の勧めに従うことにした。携帯を切るとタクシーに乗るため表通りに向け歩き出した。祇園祭りが始まり、西陣の各町内は宵山や山鉾巡行の準備をしているのであろう、遠く近く祇園囃子が聞こえる。ふと幼い頃の思い出がよみがえり、胸が切なくなった。

 表通りに出てタクシーを拾うと、諒輔は行き先を下鴨神社と告げた。ホテルに行くのは後回しにして、糺の森を訪ねようと思い立ったのであった。糺の森は母への想い出が最も詰まった場所であり、長い間行くことを封印してきた場所でもあった。

 タクシーを降りた時はようやく陽が傾き、鴨川から吹いてくる風の効果もあって、さすがの熱気も大分和らいでいた。原始の森の様相を今に伝えるという糺の森を歩きながら、諒輔は母の思い出に浸っていた。

 

「ちょうど今頃の夕暮れ時の事をね、逢魔が時って言うのよ」

母親は浴衣姿で、片手に団扇を持ち、もう片方の手で幼い諒輔の手を握っている。街は暮れなずみ家々の軒先に吊り下げられた提灯に次々に明かりが灯され、幻想的な街並みに変貌して行く。祇園囃子の音、さんざめき行き交う多くの人々の影、どうやら祇園宵山の光景のようだと記憶の底で諒輔は気付く。

「オーマって、お馬さんのこと」

 諒輔が、母を仰いで問いかける。母はしゃがみ込み諒輔の頭を撫でながら「違うわ、逢魔って言うのはね、魔物に出逢うと言う意味なのよ」と優しく教える。

「ふーん、それじゃ、僕たちも魔物に出逢えるの」

テレビや絵本、ゲームなどに出てくる魔物しか知らない諒輔にとり、魔物は怖いと言うより、むしろ出逢ってみたい興味ある存在であった。

「そうね、逢えるかもしれないわ。あなたには、ご先祖さまの血が流れているからきっと魔物を見ることが出来るはずよ」

 母がどうして、そのようなことを話して聞かせたのか記憶にないが、魔物に逢えるということを聞いて無邪気に喜んだことを今も憶えている。そして母はこう言ったのだ。

「お母さんが生まれた京都のお家はね、下鴨神社というそれはそれは古い神社と深い繋がりのある家柄だったのよ。明日はその神社に行ってみましょうね」

 

 今、その下鴨神社の森にいるのだと、諒輔は感慨深げに周囲を見渡した。いつの間にか辺りは深い闇に包まれ、鬱蒼とした木々の向こうに参道の白色灯が狐火のように浮かんでいる。行く手から小川のせせらぎの音が聞こえ、まるで深山幽谷の地にいるかのようだ。何時になく感傷的な気分になった諒輔はまた遠い昔の記憶を呼び起こした。

 

 母はその後も京都に行く度に、諒輔を連れて下鴨神社に行った。そして糺の森を二人で歩きながら神社の由来や先祖に纏わる話を色々してくれた。

 中でも母が楽しそうに話してくれたのは葵祭りに関するものであった。中学・高校時代は毎年欠かさず葵祭に参加していたようで、母にとってそれは青春時代のかけ替えのない想い出だったのだろう。

「とても美しい行列でね、皆が古い時代の衣装を着ているの。私は綺麗な着物を着て腰輿(およよ)の脇を歩くのよ」

「えー、オヨヨって変なの」

「ふふ、可笑しいわよね。腰輿というのは女人行列の中で一番偉い人が乗るものなのよ」

 オヨヨ、オヨヨと叫びながら跳ねまわる諒輔を見る母は実に幸せそうであった。

 

 それからというもの諒輔は糺の森に来るといつも葵祭の話をして貰うようになった。母はせがまれると「諒輔は葵祭が好きなのね」と笑い、楽しげに葵祭に纏わる話を聞かせてくれるのだった。


第六章 神楽坂

 翌日、京都から戻り、諒輔は忠彬の元を訪ねた。忠彬は数日前に会った時より更に痩せたようで、病状が悪化していることを窺わせた。そんな忠彬の様子に胸を痛めたが、クリスチーナとのやりとりについて、順を追って正直に話すことにした。他人の心を読む能力のある忠彬に隠し立ては通用しない。

 クリスチーナが町屋作りの建物に住んでいること、作務衣姿で出てきたこと、忠彬の書状を見せると目を輝かせたこと、読み始めると涙を流したこと、それらの話に忠彬は、興味深げに一つ一つ頷き返していた。しかし忠成が理紗に“祖父は恐ろしい人だから決して近寄ってはならない”と言い聞かせていたということに話が及ぶと、忠彬は苦渋の表情を浮かべ目を閉じた。

 しばらくして目を開けると、「私が直接理紗に会いたいと申し入れても、理紗は簡単には承知しないだろう」と、諒輔に理紗の説得を要請したのであった。そのような成り行きになるのではと、ある程度覚悟をしていた諒輔は、今度の頼みも引き受けることにしたのであった。

 

  諒輔は忠彬の元を辞すると、すぐに理紗に電話をして用件を伝えた。電話に出た理紗は「母から昨晩連絡があり、経緯は伺っています」と諒輔と会うことをあっさり承知してくれた。都合のいい場所と時間を指定するよう求めると、神楽坂で夜の九時であれば明日でも構わないと返答したのだ。

 

 神楽坂には昼間訪れたことは何度かあるが、夜間に訪れるのは今回が初めてである。賑やかな表通りから横町に入り、更に奥まった路地に入ると、あたりは急にひっそりとして薄暗くなる。

 神楽坂はかっては都内でも有数の花街であったが、昨今は置屋の数が数軒を数えるのみになっており、現役の芸者も激減している。しかし今、諒輔が足を踏み入れているこの路地は石畳で、昔ながらの黒塀があったりして、花街の風情を色濃く残していた。

 行く手の方から三味線の音色が微かに聞こえてくる。今にも粋な芸者が、路地の向こうから現れそうな雰囲気である。路地の角を曲がると、三味線の音色がはっきりと聞こえるようになった。その音色が聞こえてくる建物は和風の料亭のような造りである。塀に看板が掲げられており、“神楽坂邦楽稽古処”と書かれている。ここが指定の場所に違いない。

 門を開けると足元には飛び石が配されており、斜めに玄関に続いている。狭いながらも茶室の露地のような設えになっており、地面に直接置かれた行燈が辺りを淡く照らしている。

 玄関を入ると、正面の壁に神楽坂邦楽稽古処のポスターが貼られており、下駄箱の上には各種のパンフレットが並べられていた。理紗はここで邦楽の稽古を受けているのだろうか。案内を乞うとスタッフと思われる女性が出てきたので用向きを伝える。

「理紗先生は今お稽古中です。もうすぐ終わりますので、上がってお待ち下さい」

控えの部屋に案内された諒輔は、理紗先生と言ったスタッフの言葉を訝しく思いつつ、座卓の上に置いてあった神楽坂邦楽稽古処のパンフレットを手に取った。手持ち無沙汰もあって何気なく開いて見ていると、講師紹介のページがあり、理紗のプロフィールが掲載されている。

 

 安倍理紗

 一九八七年 京都市に生まれる 

 二〇〇九年 東京芸術大学音楽部邦楽科三味線音楽専攻 卒業

 二〇〇九年 東京芸術大学音楽部音楽研究科入学(在籍中)

 二〇一〇年 神楽坂邦楽稽古処三味線コース講師

 《 演奏活動》

 邦楽ライブ活動を積極的に行う。

 洋楽演奏家とのコラボにも意欲的

 

 理紗がここで三味線講師をしているとは夢にも思わなかったし、理紗の意外な経歴は驚きであった。しかし母親のクリスチーナが平安時代の文学を研究していることを思えば、娘の理紗が邦楽の道を志したとしても不思議ではない。そう思って諒輔は納得した。

 それからしばらくすると、奥の部屋から若い女性が五、六名出てきた。そのうちの数人は三味線を抱えており、諒輔のいる部屋に入ると隅に置いてあった各自のケースに三味線を入れ、手に提げると互いに挨拶を交わして帰って行った。急にしんと静まり返ったその時、着物姿の女性が出てきて諒輔に声をかけた。

「三輪諒輔さんですね、安部理紗です。こんな時間に来ていただいて申し訳ありません」

 西洋人の血が混じっていると分かる顔立ちであるが、和服の着付けが板に着いている。容姿はアメリカ人の母親の血より日本人の父親の血を幾分多く受け継いだのだろう、ハーフにしてはバタ臭くない顔立ちだ。髪は濃いブルネットで、瞳の色は薄い茶色をしていた。

「三輪諒輔です。お忙しいところ無理を言いまして、こちらこそ申し訳ありません」

 諒輔は立ち上がり頭を下げた。

「お話はこの近くのイタリアレストランで伺ってもよろしいでしょうか。ここは閉めてしまうので、直ぐ出なければならないのです」

 諒輔が承知すると、理紗は玄関で待つように言うと、奥の部屋に戻った。玄関で諒輔が待っていると、身支度を終えた理紗が現れた。

「お待たせしました。それでは行きましょうか。レストランはすぐ近くですから」

 下駄箱から草履出して履き、諒輔と共に玄関を出た。

 神楽坂は和服姿が良く似合う街である。先に立って歩く理紗の姿につい見入ってしまう諒輔であった。

 

 そのイタリアレストランは路地から出た直ぐの所にあり、かなり混み合っていたが幸い二人用の窓際の席が取れた。

「食事をしながらお話を聞いてもいいかしら。私お腹ペコペコなんです」

 諒輔のことをほぼ同じ年代と見たのか、理紗は気取る様子を少しも見せない。

「えー、もちろん。僕もビール飲んでいいですか。さっきから喉カラカラなんです」

 諒輔の返事が可笑しかったのか理紗は笑いをこらえる様に口元を手で押さえた。

「えぇ、もちろん。それじゃ私もビール頂こうかしら」

理紗は美人の上に理知的な顔立ちなので、一見近寄り難い女性のように見える。しかしこうして話してみると気さくな一面も持ち合わせているようなので、諒輔はほっとした。

 生ビールが入ったグラスが二つ運ばれてきた。諒輔はグラスを前にして何と切り出したらよいものか一瞬迷ったが、早くビールが飲みたかったので「それではとりあえず、乾杯」とグラスを持ち上げた。

「とりあえずに乾杯」

 理紗は微笑み、左手で袂を押さえると、右手でグラスを掲げた。

 こうして二人の会話は始まったが、導入部こそフレンドリーな雰囲気であったものの、話が本題に及ぶと理紗の表情は険しくなった。そして忠彬と会うことに対し、慎重な姿勢を終始崩すことはなかった。父と母に対して忠彬が行ったことは簡単に許されるものではないと頑なに思い定めているようだった。諒輔は忠彬の病状が進んでいるので、なるべく早い時期に会うよう考え直して欲しいと訴えたが、理紗は「母とも良く相談して決めたいと思います。しばらく考える時間を下さい」と言って諒輔に頭を下げた。


第七章 千年の記憶

 神楽坂を訪れた翌日、諒輔は再び忠彬の入院している病院に行った。特別室のドアを開けて中に招じ入れたのは今回も葛城だったが、通された部屋はリビングではなく別室であった。忠彬は医療機器に囲まれたベッドに、点滴の管、心電図などのモニターを取り付けられた姿で寝ていたが、諒輔が近づくと眼を開いた。

 諒輔は忠彬と葛城に事の次第を報告した。聞き終えた忠彬は「そうか、やはりな」と言うと眼を閉じ、じっと何かに耐えている様子であった。予期していたとはいえ、相当なショックを受けたようである。

「諒輔さん、もう一度理紗様に会って説得する訳には行きませんか」

葛城は縋るように諒輔を見た。

「いや、無理強いは禁物だ。理紗が自ら会うと言うまで、もうしばらく待つことにしよう」

 忠彬は苦しそうな表情を浮かべると、身を捩った。かなり具合が悪そうである。末期がんの痛みを緩和するためモルヒネなどが投与されているが、それでも時々苦痛が襲うようであった。

 突然ベッドの周囲に置かれた医療機器の一つが、赤く点滅しながらピッピッピッという警告音を発し始めた。葛城が慌ててナースコール用のインターフォンのボタンを押す。

「すぐに来て下さい。血圧が低下しています」

 意外な展開に諒輔は成す術も無く茫然としていた。すぐに看護師と医師が相次いで走り込んできて、すばやく状況をチェックすると、注射などの処置を施した。

 処置を終えた医師は、葛城と諒輔を手招きしリビングに行くと「この数日病状が安定していたので、私達も安心していたのですが、容態が急に悪化したようです。今日明日ということはないでしょうが、万一に備えて関係者に連絡するなどなされた方がいいでしょう」と告げ、続けて「一時間位してからまた参ります。その間に何かありましたら呼んで下さい。すぐ駆けつけますから」と一礼すると、看護師と共に特別室を出て行った。

 突然の成り行きにただ驚いていた諒輔だったが、事の重大性に気付き、葛城に申し出た。

「クリスチーナさんと、理紗さんに連絡した方が良いのではないでしょうか。よろしければ私から事情を伝え、なるべく早く病院に来るよう話しますが」

「そうですね、そうして頂けると助かります。私はその他然るべき方たちに連絡いたします」

 諒輔は忠彬の様子に異常が無いことを確かめると、葛城にロビーに行くと声をかけて特別室を出た。気分転換を兼ねてロビーでクリスチーナと理紗に電話をする積りであった。 

 

 特別室専用ロビーには、受け嬢の他誰もいない。諒輔は隅のソファーに腰を落ち着けると、先ずクリスチーナに電話を入れ事情を話した。クリスチーナは忠彬が危篤状態と聞くと驚き、大学での講義が終わり次第、東京に駆けつけると約束してくれた。

 次に理紗に連絡を試みたが、電話は一向に繋がらない。留守番電話に至急連絡するようメッセージを入れたが、その後何分経っても何の音沙汰もない。困惑しつつも諒輔は、神楽坂邦楽稽古処に聞けば何か分かるかも知れないと思いついた。

 メモしておいた番号に電話すると、先日の女性スタッフと思われる者が電話に出て、理紗は現在、銀座のホールで邦楽ライブに出演中であると教えてくれた。あと1時間もすればライブは終了するとのことであった。諒輔は再度理紗の携帯に電話して、留守電に忠彬が危篤であること、クリスチーナが東京に向かっていること、理紗もなるべく早くこの病院に来て欲しいことなどを吹き込んだ。

 

 特別室に戻りると葛城はベッドの傍らの椅子に座っていた。

「ずっと眠られています。病状は安定しているようです」

 諒輔は頷き、葛城の隣に腰かけた。そして互いの報告をし終えると二人は沈黙し、忠彬の寝顔を見守った。

 

 諒輔はふと何かの気配を感じて目を覚ました。この数日来の疲れのため居眠りしてしまったようだ。隣を見ると葛城も居眠りしている。

 先程の気配は何だったろうと、周囲を見回した。するとリビングルームに通じる入口の近くに白い靄のような影が二つ、ぼぅっと浮かび上がっているのが見えた。その二つの影は次第にコントラストを強め、人の形となり、どうやらそれが妙な着物を身につけた少年と識別できるようになった。ただ普通の人間と違うのは、頭髪の生え際から大きな耳が飛び出していることで、もう片方の少年には角まで生えていた。二人が着ている装束はどこかで見たような記憶がある。思いを巡らせて諒輔は気付いた。それは葵祭の牛車の赤い引綱を持つ牛童が着ている水干というものにそっくりであった。

 諒輔は隣で居眠りをしている葛城を肘で突いた。

「何か異様な者がいます」

 諒輔が葛城の耳元で囁くと、目覚めた葛城は「あぁ、居眠りしてしまいましたか」と言って眼を擦った。

「葛城さん、あそこです。牛童のような水干姿の少年が二人立っています」

諒輔の言葉に我に返った葛城は、慌てて椅子を立ち、忠彬に近づいた。

「お目覚めなのですね」

「うむ、先程から目覚めておった」

「私としたことが気付かず失礼しました。ところで今、式神をお遣いになりましたか」

 葛城は何かを探すように周囲を眺め回した。

「たった今、犬麻呂と牛麻呂を呼び出した」

「私には何も見えませんが……でも不思議です。諒輔さんは見えるようです」

「うむ、そのようだな」

 忠彬は、葛城に小声で何か囁き、聞き終えた葛城が諒輔を呼んだ。

「諒輔さん、会長がお話をしたいそうです。こちらに来ていだだけませんか」

 葛城はベッドの操作ボタンを押して、忠彬の上体を起こすと一歩退いた。

 諒輔は忠彬の近くに歩み寄り、話が良く聞こえるように腰を屈めた。

「君は彼の者が見えるのだな?」

 忠彬が諒輔の眼を鋭い眼光で見据えた。

「はい、牛童のような装束をした二人でしたらそこにいますが」

「うむ、そうか。恐ろしいとは思わぬか」

「いえ、少しも、それどころか、何やら懐かしい感じさえします」

諒輔の返事を聞いて忠彬はしばらく考え込むようであった。

「重ね重ねの願いで恐縮の極みだが、是非にも引き受けて欲しい願い事がある」

 そう言うと忠彬は右手を上げ、指先で宙に小さな円を描いた。すると式神と思われる二人の童がするすると諒輔の近くに歩み寄り、揃って深々と辞儀をした。式神に頭を下げられて仕方ない。

「分かりました、ともかく詳しく説明して下さい」

まんまと忠彬の策に嵌められたようにも思われたが、兎も角その願いを聞くことにした。

 忠彬は頷くと、呪文を唱えた。すると二人の式神は輪郭をぼかして行き、白いガス状のものとなり消えてしまった。それを見届け、忠彬は語り始めた。

 

「私の命がもう僅かしか残されていないことは、この私が誰よりも良く知っておる。しかしこのまま死んでしまっては、千年以上連綿として続いた裏土御門が私の代で途絶えてしまう。死ぬ前に理紗に継いで貰おうと思っておったが、今となっては手遅れと断念せざるを得ない」

 そこまで言うと忠彬は疲れたのか話を中断し呼吸を整えた。

「裏土御門家が途絶えることは何が何でも避けねばならぬ。そこで最期の願いとして、君に裏土御門家の長を引き継いで貰いたい」

思っても見ない申出に諒輔は驚いた。裏土御門家の長は摩訶不思議な力を有して天皇家や安倍家の危急を救うという途方もない存在であるはずだ。

「でも、私は安倍の血筋の者ではありません。そんな私が引き継ぐことなどできるのでしょうか」

「君は常人には無い能力を持っておる。先ほどそれが改めて実証された。大丈夫だ」

 気力を振り絞って訴える忠彬の迫力に諒輔は圧倒された。もうすぐ死んで行く者の最期の願いでは断る訳には行かないだろう。

「うーん、自信はありませんがそれ程に仰るなら……」

「そうかありがたい。それでは私の両手をしっかり握って下さらんか」

「こうですか?」

 訝しがりながらも諒輔は、言われるままに差し出された忠彬の両手を双方の手で握り締めた。すると握った双方の手が熱くなり、次に強烈な電流のようなものが忠彬の両手から流れ込み脳にまで及んだ。そして大量のイメージが次から次へと奔流のごとく押し寄せ、諒輔の意識の中で逆巻き、渦巻いた。同時に猛烈な頭痛が襲いかかって来た。諒輔は忠彬の手を振り解こうとしてもがいたが、力が全く入らなかった。ひたすら歯を食いしばって耐えたが、遂に力尽き崩れ落ちた。

 

 葛城は諒輔が忠彬に覆い被さるように崩れ落ちるのを見て、諒輔を抱え起こし、椅子に座らせた。諒輔はぐったりとして、時折身体を痙攣させている。

 振り返って忠彬の様子を窺うと、がっくりと首を項垂れ気を失っているようだ。慌てて葛城がベッドに近寄ると、数種類の医療モニターが点滅をし、警告音を発し始めた。葛城はナースコールのボタンを押して、医師と看護師を呼んだ。

 やってきた医師は応急措置を施すと、ストレッチャーの運び込みを看護師に指示した。

「昏睡状態に陥りました。非常に危険な状態です。この病室では充分な治療と監視が出来ないので、集中治療室に移します。よろしいですね」

 医師が葛城に告げると、看護師たちは手慣れた手付きで忠彬の身体をストレッチヤーに移した。そして一同はストレッチャーを取り囲み、急ぎ足で集中治療室に向け出て行った。

 葛城は、椅子に腰かけ、頭を抱えて身体を小刻みに震わせている諒輔に近づき、「諒輔さん、大丈夫ですか。しばらくベッドで休んでいて下さい。私は集中治療室に行ってきますから」と耳元で叫んだ。そして肩を差し入れ、諒輔を立ち上がらせ、支えながらベッドに運び込んだ。大きな諒輔を抱えて息が切れ、肩で息をしていたが、諒輔の靴を脱がし、シーツを胸元まで掛けると特別室を出て行った。

 

 諒輔は放心状態でベッドに横たわっていた。混濁した意識がどんどん拡散して行く。

 

 どの位の時が経ったのだろうか。諒輔の脳の一部が何かに感応した。どこか遠くで声がする。その声は次第に鮮明になり、どうやら諒輔の名を呼んでいるようだ。眼を開けようとしたが、瞼に力が入らない。手足も同様で全く動かすことが出来ない。そうこうする内にも、呼びかける声は更に大きく鮮明になった。

『私の声が聞こえるか』

 諒輔は答えようとするが、話すことはもちろん、頷くこともできない。

『そうか聞こえておるな。心で思えば私に通じる、言葉は入らぬ』

 聞き覚えのある声である。

『その声は……』

『うむ、忠彬だ』

 諒輔は今起こっている事が何が何だか分からず夢の中の出来事ではと疑った。

『いや、夢ではない。テレパシーで伝えておる』

 忠彬なら他人の心を読む事も、自分の心を他人に伝える事も出来て当然かもしれない。

『今どこにいるのですか』

 諒輔は疑うことを止めて尋ねた。

『私は、今、集中治療室のベッドに寝かされておる。もう間もなく命が尽きるであろうがその前に是非にも伝えておかねばならぬことがある。裏土御門の長となる者にとり、極めて重要なことなので心して聞いて欲しい』

 忠彬がテレパシーで諒輔に伝えたのは次のようなことであった。

 

 安倍晴明公は嫡男に、天文、暦、有職故実などを伝え土御門家の正統としたが、これとは別に、式神遣いなどの呪法に類するものは、非嫡出子の子息のうち霊力が備わった者に伝えることにした。これが裏土御門家の始まりであり、代々その伝承は、直接記憶を脳に転写する方法で行われた。

 この秘伝の法により、自分の記憶を諒輔の脳に送り込んだが、転写された記憶はまだ封印されている。しかし、このまま放置しておくと、やがて記憶が一斉に蘇り、過去の記憶が野放図に発露され、多重人格のような状態になってしまう。

 これらの記憶を諒輔の意のままに制御して、駆使出来るようにするには、記憶の跡を遡り、始祖の晴明公の下に行き、裏土御門の長として認めて貰わねばならない。自分を含め、過去の皆が為してきた極めて重要な通過儀礼である。

 過去の記憶の封印が解かれるのは明日の夜明けである。従って今夜中に晴明公の承認を得なければならない。晴明公の下に行き、承認を得るのに要する時間は、順調に行けば三十分程度である。晴明公の下に行く方法の記憶だけは封印されていないので、強く心に念じさえすれば今すぐにも晴明公の下に行けるであろう――――

 

『さて、伝えるべきは全て伝えた。これで思い残すことは無い。そろそろ、この世とお去らばするとしようかの』

『待って下さい。本当に私のような者でも大丈夫でしょうか』

『私が見込んだ者だ。大丈夫、心配するな。よいか、くれぐれも夜が明けぬ前に……』

 声は次第に小さく不鮮明になっていき、『いざ、さらば…..』という声が微かに聞き取れたのを最後にそれきり声は聞こえなくなった。その後、諒輔が幾ら呼びかけても答えは返ってこなかった。

 

 ちょうどその頃、集中治療室では、医師が葛城に対し、忠彬が息を引き取ったことを告げていた。

 

 諒輔は我に返った。頭がずきずきと痛む。思わず顔をしかめ頭に手をやった。次にそっと眼を開いてみた。今度は瞼を開けることが出来た。しかし視界の全てがぼやけている。それでもしばらくするとようやく眼の焦点が定まり、周囲の状況を視認出来るようになった。

 部屋の様子から忠彬が入院している特別室の病室であると分かり、少し気分が楽になり、先程の出来事を振り返る余裕が出来た。忠彬の手を握った途端、激痛と共に夥しい量のイメージが流入してきて、遂に耐えられず崩れ落ちたことまでは覚えている。そして葛城が抱えてくれてベッドに寝かせてくれたことも微かに記憶がある。しかしベッドに倒れ込んだ後に我が身に起こったことは果たして現実だったのか、それとも夢幻の類であったのか。

 誰かが部屋に入ってくる気配がして諒輔は病室の入り口を見た。入ってきたのは葛城であった。

「諒輔さん、気分はどうですか」

 ベッドの近くにきて諒輔の顔の上で語りかける葛城の目は赤く充血している。

「大分頭痛は治まりました。でも何が何だかよくわからなくて……」

 諒輔は起き上がろうとして、ベッドの手すりを掴み、何とか上体を起こした。

「つい先ほど、忠彬様が亡くなられました」

 また涙が溢れてきたのであろう、葛城は手の甲で目を拭った。

「あぁ、するとあの時が、亡くなられた時だったのですね」

 諒輔は忠彬がテレパシーで語りかけてきた事を葛城に詳しく説明した。葛城は一々頷いて聞いていた。

「忠彬様がテレパシーをお使いになったのは間違いありません。ちょうどその頃、集中治療室の脳波計が激しく動いていましたから」

 傍らにあった椅子を引き寄せ腰掛けると言葉を繋いだ。

「忠彬様が伝えられたことは極めて重要なことです。必ず今夜中に晴明公の下に行かれて下さい」

「はぁでも……」

 晴明に会うこと自体はさほど恐ろしいと思わない。それどころか、会って見たい気さえする。晴明は諒輔にとり、子供のころからの憧れの人だったのである。しかし、晴明が認めてくれなければ、死ぬか、狂人になるか、そのいずれでしかない。

「忠彬様は、最後におっしゃられたのでしょう。自分が見込んだ者だ、大丈夫、心配するなと……躊躇するなんて諒輔さんらしくありません」

 逡巡する諒輔をみて葛城が叱咤激励した。

「分かりました。行きますよ。それ以外の選択肢はないのですから」

 諒輔は不貞腐れた子供のような表情で答えた。

「えぇ、えぇ、それでこそ、諒輔さんです」

 葛城は乗せ上手、煽て上手でもあるようだ。

 

 その時ノックする音がして、ドアから特別病棟の受付嬢が顔を覗かせた。

「葛城様、お客様をご案内して参りました」

 受付嬢が退くと入れ替わりに病室に入ってきたのは理紗であった。

「あぁ、諒輔さん、こちらでしたか。何度か携帯に電話したのですが繋がらなくて」

 今日も理紗は和服姿である。きっと邦楽ライブをしていた銀座のホールから、直接駆け付けてきたのであろう。葛城はその女性の容姿から、安倍理紗と判断したようで、歩み寄り、椅子に座るよう勧めた。理紗はベッド上の諒輔を見て心配そうな表情をした。

「諒輔さん。どうされたのですか?」

「いえ、もう大丈夫です、心配ありません。あ、こちらは葛城さんです」

 葛城はポケットをあちこち探って、名刺を取り出すと差し出した。互いの挨拶が終わると葛城が尋ねた。

「お爺様のことは、まだ何もお聞きになっていませんか」

 頷く理紗を見て葛城は沈痛な面持ちで、忠彬が亡くなったことを告げた。理紗は覚悟していたのであろう、冷静な態度を崩さなかった。

「母から先ほどメールがありました。新幹線に乗ったそうです。こちらに着くのに後二時間ほどかかるとの事でした」

「そうですか、それではお母様が見えたら葬儀の事など相談させていただく事にして、その前にお爺様の所に行かれますか?」

「はい、お爺様のお顔を拝見したいと思います」

「では、霊安室の用意が整った頃と思いますので、ご案内しましょう。諒輔さんはどうしますか?」

 諒輔は同行することにした。葛城が隣室から車椅子を持ってきて、乗ることを勧めたが、申し出を断りベッドを降りて靴を履いた。何とか歩いて行けそうであった。

 

 病院の地下にある霊安室の前に、男が一人見張り番をするように立っていた。その男は葛城の姿を認めると葛城の側に来て小声で何やら話し掛けた。葛城は一々頷き返している。男が着ている詰襟服に見覚えがある。どこで見たのだろうと思案して気付いた。葛城が栗原運輸に来た折のリムジンの運転手であった。

 霊安室に入るとそこにも、男が一人立っていた。黒の上下に黒のネクタイ、手には白い手袋をしている。こちらの人物の面識は無い。財団の職員か、あるいは葬儀社のスタッフと諒輔は見当を付けた。

 霊安室の奥まったところに祭壇が設えてある。その前に神式と思われる枕飾りが施された忠彬の亡骸が安置されていた。忠彬の顔は穏やかで、威厳に満ちていた。忠彬の亡骸を目の当たりにした理紗は、動揺を隠しきれない様子であった。理紗に会うことを切望していた忠彬の想いに応えなかったことが、理紗の心を苛ませているに違いない。

 

 忠彬の亡骸と対面を終えた三人は、また特別室のリビングに戻った。葬儀の打ち合わせなど色々話し合わねばならないことがあったからだが、諒輔としては、それらを協議する前に、理紗に事の次第を報告し、理紗の了解を得ておきたかった。本来であれば裏土御門家は、理紗が継ぐべきであったからである。葛城にその旨を話すと「ご尤もです」と言って賛意を示したので、諒輔は一部始終を理紗に語って聞かせた。

 

 聞き終えた理紗は半信半疑の状態であった。安倍の血筋を引く者として、素直に肯定してしまいたい気持ちがある一方、母方から引き継いだ合理的な DNAが、真っ向から諒輔の話を否定していたからである。

「正直に言いますが、記憶が転写されるとか、遠い昔の先祖の認可が必要とか、そのような話、直ぐに信じるわけには行きません。でもこれだけははっきりとお答え出来ます」

「それは何ですか?」

「私に代わって諒輔さんがお爺様の後を継いで裏土御門家を継ぐことは、まったく異存ありません。それどころか代わってくれた諒輔さんに感謝します。大変な事を押し付けてしまったようで申し訳ありません」

「いえ、理紗さんから感謝されたり、謝られたりするなんてとんでもないです。理紗さんはまだ信じられないでしょうが、僕はあの方が言われたことをすべて信じます。ですから間もなくしたら、記憶の跡を辿って晴明公の下に行こうと思います」

「信じません。信じはしないけど、何かそれはとても危険なことだと心の底で何かが警告を発しています。そういう感覚は昔から私にはあってよく当たるのです。ですから行くのは止めた方がいいのではないでしょうか」

「えぇ、とても危険なことのようです。でも行かなければならないのです。それ以外の選択肢は無いのです……そこでお二人にお願いなのですが」

諒輔はそこで一旦言葉を区切り二人の顔を真剣な眼差しで見つめた。

「何でしょう」

「何ですか、おっしゃって下さい」

 二人は口々に言って、諒輔の言葉を待った。

「僕が記憶の果てから戻って、正気に帰るまで、そう多分三十分位と思うけど、僕の側に付き添っていてくれませんか」

 諒輔は我ながら情けないと思ったが、側に誰か付いていて欲しいと切実に思ったのだ。

「えぇ、そうすることが諒輔さんのお役に立つなら」

「はい、私でよろしければ理紗さんと一緒にお側にいさせていただきます」

 二人の返事を聞くと諒輔は大きく頷き、吹っ切れた表情で告げた。

「ありがとう。それでは千年の時間旅行に旅立つとしましょうか」



読者登録

虹岡 思惟造さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について