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第二章 救急病院

第二章 救急病院

 諒輔は八王子市内の病院のロビーにいる。先程、看護師から怪我人の緊急手術と輸血が無事終わったと聞き安堵して休息しているところであった。

 疲れが一挙に出てこのままベンチで寝てしまいたいほどであったが、紳士が麻酔から覚めるのを待って、警察の対応など色々相談しなければならないので、こうして座り続けているのである。今頃、落下事故の現場検証に向かった警察が、崖から墜落したワゴン車を発見して大騒ぎになっていることだろう。いずれ諒輔も警察から救出の経緯など聞かれるに違いない。しかしあの一連の出来事をありのまま話しても、誰もまともに受け止めてはくれないであろう。

『それにしても……』諒輔は心の中で呟いた。

『あの土煙の中で蠢いていたものは何だったのだろう』

影のようにぼやけており、はっきりした形は見えなかったが、巨大な亀のようでもあり、首の長い恐竜のようでもあった。

『いずれにしても、あの白髪の紳士がただ者じゃないことだけは確かだ』

 そう結論付けると、それ以上深く考えるのを止めにして飲み物を買う為に立ち上がった。その時、看護師が近寄ってきて、患者が目を覚ましたと諒輔に伝えた。

 

 病室は狭いながらも個室で、左足をギブスで固定されたあの紳士が窓際のベッドに寝ていた。諒輔が近づくと、その気配を感じて目を開けた。

「あー、君か……」

「怪我は痛みませんか」

「いや、大丈夫だ。それより、先ずは君に礼を言わねばならん」

 紳士は礼を述べると、安倍忠彬(あべただあきら)と名乗った上で「それからこう見えても、私は八十過ぎの爺いじゃ。大きな口をきくが年の功に免じて勘弁してくれ」と言って破顔した。あのドライブインの老夫婦が言うように、見かけによらず気さくな人であるようだ。

 諒輔も自分の氏名が三輪諒輔であること、周囲の皆は諒輔とか諒さんと名前で呼ぶこと、会社を退社して今は運送店でアルバイトをしていることなど、簡単な自己紹介をした。

 そんなやりとりが一通り終わると、諒輔は最も気になっていることを口にした。

「ところであなたは、不思議な力を色々と持っているようですが、一体何者なのですか」

「うーむ、そうだな」

 眼を閉じ考え込む様子であったが、目を開け諒輔の顔まじまじと見つめた。

「私がただ者ではないと気付いておるようだし、君は命の恩人だ。それに君は我々と同じ匂いがすると言うか、何故か他人には思えんのだ。君が私の……」

 忠彬はそこで一旦黙し寂しげな表情を浮かべた。

「君が私の?」

「いや何でもない、それより君の質問に答えよう、私は一言で言えば継承者だ」

気を取り直したように元の表情になって諒輔の問いに答える。

「継承者……ですか?」

 怪訝そうな顔をしている諒輔を見て、忠彬は説明を始めた。その概要は以下のようなものであった。

 

 土御門安倍家は天文、暦、占術などを司ってきた陰陽道の家柄であり、公家として代々天皇に仕えてきたが、忠彬の家系は裏土御門と一族内で呼ばれる特殊な存在であった。この家系の者は、世に出ることなく、密やかに陰陽道の陰の部分を千年以上の長きにわたり継承してきた。その一族の長である継承者は代々摩訶不思議な力を駆使する能力を有しており、天皇家や安倍家が危機存亡の折に、その特異な力を発揮して危機を救ってきた――――

 

 諒輔は忠彬の不思議な能力を目の当たりにしていたこともあって、この突拍子もない話を疑うこと無くすんなりと受け入れた。そして忠彬の話が終わるのを待ち構えていたように訊ねた。

「するとあなたは、陰陽師として有名なあの安倍晴明の子孫なのですか」

 安倍晴明のことなら諒輔も知っていた。諒輔がまだ幼い頃、母が晴明に纏わる不思議な伝説を色々話してくれたのだ。

「うむ、安倍晴明公こそが裏土御門の始祖にあたられる方だ」

「それはすごい! 僕にとって安倍の晴明はあこがれのヒーローでした」

 子供の頃、母から聞かされた話を思い出して諒輔は興奮を覚えずにはいられなかった。

「もうひとつ聞いてもいいですか」

忠彬が頷くのをみて諒輔は質問を続けた。

「岩盤が崩れて、あの二人組が土石流に押し流された時のことですが、土煙の中に何か巨大な蠢くものを見たのです」

「ふむ、それはどんな形をしていたかな」

 あの時に見た印象、巨大な亀あるいは恐竜のような生き物と伝えると「不思議だな、常の者には彼の者の姿は見えぬはずだが……」と首を捻り「あれは玄武じゃ」と告げた。

「玄武というと……あぁ、覚えがあります。確かキトラ古墳に描かれていた」

「そう、その玄武だ。裏土御門家の守護神獣として我々が危機に瀕した時に現れて救ってくれる」

 なるほどあの蠢く影は、歴史の教科書に載っていた亀と蛇が合体したような姿の玄武であったかと納得した。

「あ、それから最後にもうひとつ、あの二人組は何故あなたを襲撃したのですか」

「ふむ、その理由を理解して貰うには、先ず安倍一族の歴史的な背景などから説明しなければならぬ」

 忠彬はそう前置きして話し始めた。

       

「安部一族に恨みを抱いたり、敵対したりする者が過去の長い歴史において少なからずおった。特に仏教は陰陽道と平安の昔から、朝廷の政への影響力を競い合い、何かと抗争を繰り返してきた間柄であった。しかし時代と共に、仏教が次第に勢力を伸ばし、陰陽道は天文・暦の分野でようやく命脈を保つような有様になってしまったのだ。そのような訳で、それ以降、陰陽道は仏教勢力とは、持ちつ持たれつということで一種の共存を図って来たのだよ……」

 忠彬は疲れたのかそこで一息入れ話を繋ぐ。

「ただあの二人組が所属する組織だけは頑強に和解を拒み、我々に敵対を続けてきたのだ。君は織田信長が比叡山を焼き討ちしたのを知っておるかな」

「えぇ、知っています。全山の僧侶、学僧などを皆殺しにしたのでしょう」

「そうだ、この時実は生き延びた者が少なからずいて、それ等が密かに徒党を組み、信長への復讐を誓ったのだ。当時は阿修羅党と名乗っていたそうだが、明智光秀が信長を討った本能寺の変は、あ奴等が背後で糸を引いたと裏土御門家では伝えられておる」

 明智光秀が謀反を決意した理由は、色々の説があるが未だに歴史の謎である。もし本能寺の変が阿修羅党の陰謀であったら、歴史の謎が一つ解けたことになる。

「本能寺の変が阿修羅党の陰謀だとしたら、それは歴史の大きな謎を解き明かすことになるのではないですか」

「うむ、だがな、すべては秘密裏、闇の中で仕組まれた事だ。それを立証するものは何一つ残されていないのだ」

 そう言われてみればその通り、陰謀とはそういうものであろう。

「そうですか、何か残念ですね……ところで阿修羅党とあの二人組にはどのような関係があるのですか」

「阿修羅党は、後の時代になっても、国家権力に弾圧されたキリシタンや新興宗教の信者などを仲間に引き入れて勢力を維持してきたのだ。我々裏土御門家は、時々の権力者からの要請を受けて、彼等と抗争を続けてきた歴史があり、彼等にとって我々は不倶戴天の敵と言う訳だ。現在は阿修羅教団と名乗っておるようだが」

「つまりあの二人組は、その教団に属する者なのですね」

「うむ、それ以外、考えようがない」

 これからも襲撃は続けられるのだろうか、それとも今回に懲りて襲うことは無くなるだろうかなどあれこれ諒輔は思いを巡らした。

「この程度で懲りる相手ではない。油断は禁物だ」

 諒輔は、自分の心が忠彬に読まれているのではないかとふと思った。忠彬ならその位のことは造作も無いことだろう。

 

 そのとき、病室のドアが勢いよく開き一人の男が慌ただしく入って来た。

「会長、ご無事でしたか」

 歳の頃は六十前後、小柄で貧相な感じの男であるが、声は大きい。表情はくしゃくしゃですでに半泣き状態である。

「心配かけたようだな、もう大丈夫だ」

 忠彬がそう言っても、まだ心配が解けないのか男は興奮してしゃべり続ける。

「崖から落ちて大けがをしたと連絡がありまして、びっくりして駈けつけてまいりました。大量出血して意識がないとか、緊急手術するとか聞かされたものですからもう……」

いつまでもしゃべり続けそうな勢いに「まあ待て、それよりもこちらは私を助けてくれた命の恩人だ」と諒輔のことを紹介した。

「いやあ、これは挨拶もせず大変ご無礼いたしました」

涙をぬぐうと男は上着のポケットや、ズボンのポケット、更には鞄の中身などひっくり返している。どうやら名刺入れを探していたようだが、ようやく見つかったようで、その中から名刺を抜き出すと、恭しく差し出した。名刺には、《財団法人日本伝統行事研究保存協会 事務局長葛城保興》と印刷されている。

「わたしは、三輪諒輔と申します。あのう、失業中なので、名刺は持ち合わせていないので……」

 諒輔が言い終わらないうちに、葛城が口を挟む。

「いやいやいや、名刺などそんなものはどうでもいいことでして。それよりなにより、この度は会長を助けていただいて心から御礼申し上げます。本当にありがとうございました」

 どうやら忠彬は、その財団の会長であるらしい。忠彬は葛城に、一部始終を手短に話し、警察・病院・マスコミなどへの対応を指示した。

 

 病室に医師と看護師が入ってきたので、諒輔と葛城はロビーに移り、話し合いを続けていた。何でも困ったことがあれば相談して下さいと言う葛城の申出に甘んじて、諒輔は軽自動車を損傷してしまって困っていると申し出たのであった。

「分かりました。アルバイト先の運送会社にも何かと迷惑をおかけしたようですね。その運送会社には近日中に私が伺いましてお詫びを申し上げ、車の弁償についてもきちんと致します」

 諒輔はその言葉を聞き、肩の荷が下りたような気分になり、運送会社の名前と所在地を教えると、葛城と別れて病院を後にした。

 


第三章 八王子運送店

 有限会社栗原運輸は八王子郊外にある小さな運送会社で、諒輔が大学時代にアルバイトをし、失業した今もまた世話になっている先である。

 従業員は社長と娘の八百子の他に数人がいるだけの零細企業で、アルバイト料も決して高くはない。しかし社長が無類のお人好しで、アルバイトの諒輔にも何かと気配りしてくれるので居心地が良い働き場所であった。

 そんな社長の性格は、取引先や従業員から信頼されるなど良い面がある反面、経営者としての厳しさに欠けるところがあった。その欠点をカバーして苦しい台所事情を遣り繰りしているのが、娘の八百子である。

 八百子の母は、八百子が中学生のころ男を作って家を出てしまい、その後は八百子が家事を引き受け、父親と二人で支えあって暮らしてきた。高校卒業後は父親の運送業の仕事を手伝う傍ら、定時制の大学で勉学を続け見事卒業したという頑張屋であった。

 八百子はモデルも務まるようなすらりとしたスタイルで、個性的な顔立ちの美人であった。諒輔より五歳ほど年上であったが、諒輔が大学時代にアルバイトを始めた頃、密かに想いを寄せた女性でもある。そんな八百子に言い寄る男は少なからずいたのだが、父親を一人残して嫁に行けないと結婚を拒み続けていた。しかし、どういう風の吹き廻しか、友人から紹介された公務員と数年前にあっさり結婚して八王子を離れていたのである。

 ところがその相手とはどうにも相性が悪かったようで、昨年離婚して現在は以前と同じように栗原運輸で仕事をしている。

 

「諒さん、お客さんだよ。なんかすげぇ車に乗って来たぜ」

 作業用の雨合羽を着た哲さんが、外からドアを開けて事務所にいる諒輔に呼びかけた。ドアの外はかなり激しい雨である。あの事件からすでに1カ月以上が経過しており、季節はもう梅雨になっていた。

 葛城からは時折、挨拶に行けないことを詫びる電話が入っていたが、やっと昨日になって今日、栗原運輸に行くという連絡があったのだ。

 そういうことだったので葛城が来たに違いないと察した諒輔は「社長、例の人がみえたようです」と告げ、表に出た。すぐその後に社長と八百子が続く。

 そこに駐車していたのは、大きなリムジンでクラッシックカーの一種であるようだった。車の傍らにはフロックコートを着た葛城と詰襟服に制帽姿の運転手がこうもり傘を差して立っていた。

 葛城は諒輔の姿を認めると近寄り恭しく礼をした。社長と八百子は、びっくりしてその場に立ち竦んでいたが、諒輔に声を掛けられて我に返ったように言葉を発した。

「ど、どうも……よくいらっしゃいました。えー、兎に角、先ずは事務所に入られて……」

「これはどうも、ご挨拶に伺うのが遅れまして大変申し訳ありません。それでは雨も降っていることですし、詳しい話は事務所の中でということにさせていただきます」

 事務所に入ると葛城は、忠彬の転院手続きや警察、消防などの対応などのため栗原運輸に来ることが遅れた理由を述べ、諒輔に助けられた経緯を説明し、栗原運輸の車両に損害を与え迷惑をかけたことを詫びた。そして損傷した軽自動車の弁償とお詫びの気持ちですと言って、袱紗から紙に包まれた分厚いものを取り出して差し出した。

「あ、いや、軽自動車は保険で修理すればまだ使えますから、このようなものは……」

 社長と葛城は押し問答をしていたが、傍らの八百子が社長の耳元で囁く。

「有り難く頂戴したら、保険は効かないかもしれないし、あんなポンコツ修理してもしょうがないわよ」

 八百子の声が聞こえたかのように、葛城は八百子を見て頷き言葉を続けた。

「事故にあった車は、修理してもすぐ故障すると申します。命の恩人が乗る車に万一のことがあっては、当方としても面目が立ちませんので、新車に買い替えていただければ幸いです」

 社長がなおも躊躇していると「それでは、遠慮なく頂戴いたします」と八百子は紙包みを受け取ってしまった。

「あの、お茶入れ替えてきます」

 八百子は紙包みを手にして、衝立の後ろにある給湯所に入った。

「ちょっと、諒さん。諒さんたら」

 少しの間の後、衝立の端から顔を出した八百子が諒輔を手招きする。諒輔が立ちあがって衝立の裏に回ると八百子は包みの中身を見せた。

「全部で五百万円も入っているわ。いくらなんでも多過ぎない?」

 八百子は困惑の表情で眉を顰める。

「うーん、軽自動車は百万位だから、四百万がお詫び料ということになるのかな」

「諒さんが貰うのなら命を助けたことだしこれ位当然かもしれないけど、うちは諒さんの雇い主というだけですもの」

「でもいいんじゃない。くれるというものは有り難く受け取っておけば」

 諒輔は気軽に言う。

「諒さんたら、いつも能天気なんだから」

 八百子は腕組みをし、思案する風であったが「諒さん、八百子、お客さんがお帰りだよ」という社長の言葉に衝立の蔭から諒輔と共に飛び出した。衝立裏でこそこそ話していることが、どんなことか察しをつけた葛城がここは早々に帰った方が良いと判断したに違いない。八百子に話す隙を与えずに葛城はそそくさと立ちあがり「それでは皆様これで失礼いたします」と挨拶し入口に向かい、後に付いてきた諒輔に振り返り話しかけた。

「諒輔さんには会長が直接お目にかかって、改めてお礼を申し述べたいと言っております。ご都合の付く日にお迎えに上がりますが如何でしょう」

諒輔は忠彬が都内の病院に転院したり、忙しかったりで、まだ見舞いに行っていなかった。一度は見舞いに行かねばと思っていたところだったので「分かりました。でも自分で病院まで訪ねて行きますから、お迎えは無用ということでお願いします」と答えた。あんな大層な車で迎えに来られてはたまらない。

 

 葛城が去った後、三人で受け取った金の扱いについて話し合いが続けられたが、諒輔の主張に従い、相手の気持ちを素直に受け入れることで話しがまとまった。

「正直言うとね、このところ資金繰りが苦しくて……ほんと助かるわ」

ほっとした表情の八百子に対し「いやぁ、いつも苦労かけてすまない」と社長が頭を下げた。

「何よ、水くさい。それより、予期しないお金が入ったことだし、偶には皆でパーッと飲みに行かない」

「そうだね、賛成。仕事、チャチャッと片付けて哲さんたちにも声掛けて皆で行こう」と諒輔はすぐに賛意を示したが、社長は「うーん、そうだな……」と煮え切らない。

「実は俺、今日ちょっと都合が悪いんだ。そうだお前たち二人で行ってきなよ。うん、そうしな。昔よく二人で飲みに行ってたじゃないか」と熱心に二人で行くことを勧めた。

 

 数時間後、諒輔と八百子は、行きつけの酒場でビールのジョッキを傾けていた。すでに数杯のジョッキを空けた八百子の顔はほんのり上気している。日頃、化粧も碌にせずジーンズにTシャツ姿で忙しく立ち振る舞っている八百子が、今夜はワンピースに着替えし、うっすらと化粧までしている。

「なんか、強引だったね、お父さん」

「うん、何が?」

 諒輔はそんないつもと違う八百子に気圧され気味である。

「ほら、二人で飲みに行けってことよ」

「哲さん達も都合悪いって言ったそうだから仕方ないよ」

「それはお父さんが哲さんに……いやもういいわ、そんなこと」

やれやれという表情をして、八百子は話題を変え「それより、諒輔。彼女と別れたってほんと」と探るような目で諒輔を見た。

 諒輔と呼び捨てにするということは、大分酔いが回った証拠であり、要警戒である。八百子は酒にめっぽう強いが、からみ酒の傾向があるのだ。こんな時に隠し立てをすると碌なことが無いことを良く承知しているので、元彼女に愛想を尽かされて振られたことを正直に話した。滅多に悩んだり、後悔したりしない性格の諒輔もさすがに別れた直後は失恋の痛手に苦悶したのだが、引きずることなく今はもう立ち直っている。

「彼女の気持ち良くわかるわ。諒輔は恋人としては申し分ないかもしれないけど、結婚相手としてはねぇ」と八百子は諒輔の話に納得して一人で頷いている。

「恋人として申し分ないなんて言われると照れるな」

「何言ってんの。ほんとに能天気ね、まるで分かっていなぃんだから」 

あきれ顔をして八百子はジョッキの代わりを注文した。

「ところでさぁ、知ってる。私の名前のこと」

「いや……」

「八百子って、八百屋の子みたいで格好悪いでしょ」

「いや、そんなことは……」

「お父さんたらね、最初は八王子って書いて、やおこ、と読ませようとしたらしいの」

「へぇー、そうなんだ。社長、郷土愛が強い人だからなぁ」

「それを聞いた周囲の人がね、そんな名前にしたらいじめに遭うから止めるべきだって言ってくれたの、当然よね。それでお父さんも折れて一字だけ変えて八百子にしたの。可笑しいでしょ」

 そんな他愛もないことを互いに面白おかしく話しながら飲み続けていたのだが突然、八百子は黙りこんだ。急変した八百子の様子に「気分悪いの、大丈夫?」と気遣ったが、「諒輔はいいよね、いつも能天気で」と八百子は呟き、小さな溜息をした。意味を解しかねて諒輔がぽかんとしていると「諒輔、帰るよ」と八百子は大声で言い、伝票を掴むとふらふらと立ち上がった。


第四章 病院特別室

 中元の季節は、栗原運輸にとって歳暮の季節と並んで最も忙しい時期である。仕事に追われて中々見舞いに行けなかったが、七月に入り学生アルバイトを雇った為ようやく諒輔の手が空いた。大分時期がずれ込んだが、気象庁が梅雨明けの発表をした今日、忠彬が転院した都内の病院を訪ねたのであった。

 

 病院の最上階にある特別室病棟ロビーは厚い絨毯が敷き詰められており、静かにBGMが流れていた。ロビーの壁面の一方は全面ガラス張りになっており眺望が素晴らしい。ホテルのフロントのような受付で用向きを伝えると、受付嬢は「お待ちしておりました。ご案内いたします」と言って先に立って歩き出した。

 特別室に通ずる入口でセキュリティ用のカードをスロットに差し入れ、更に奥まった一画にある部屋の前に至ると受付嬢はドアを軽くノックした。するとドアが中から開かれ、豪華な施設には場違いな貧相な男が現れて諒輔を中に招じ入れた。現れたのは、あの葛城事務局長である。

 案内された部屋にはベッドや医療機器は見当たらず、欧風の家具調度品が配されており、まるで高級ホテルのスイートのリビングルームのようであつた。その広い部屋の中央に忠彬が車椅子に座って待っていた。

 忠彬は大分痩せたようで一回り小さくなったように感じられ、諒輔は内心驚いたが表情には出さず見舞いの言葉を述べた。忠彬は重ねて礼を述べ、挨拶が一段落したところで改まった表情で切りだした。

「今日こうしてわざわざ来て貰ったのは、実は折り入って頼みたいことがあるからでの。勝手な申し出であることは充分承知しておるが、是非君に頼みたい」

「はぁ、なんでしょう」

 諒輔は怪訝な表情になる。

「急がねばならんのだ。時間が限られておる」

 いつになく切羽詰まった忠彬の様子に諒輔も真剣な表情で答えた。

「分かりました。私に出来ることでしたら……先ずはその頼み事の内容を説明していただけますか」

 諒輔の返事を聞いた忠彬は安堵した表情になると説明を始めた。その内容は以下のようなものであった。

 

 転院したこの病院で、葛城の勧めもあり怪我の治療の傍ら人間ドック検診を受けた。その結果、膵臓がんが発見され、更に悪いことにはすでに他の臓器に転移しており、手術は不可能であることが判明した。

 当初、忠彬に病名などは伏せられていたが、本人のたっての願いにより、膵臓がんであることが告知された。そして忠彬は、余命が数ヶ月であることを知ったのであった。

 忠彬は裏土御門の長として、受け継いできた記憶を何としても直系家族に引継がねばならないと思い焦燥した。しかし、一人息子は十数年前に交通事故で既に亡くなっており、引継ぐとすれば孫娘しかいない。

 その孫娘は東京にいるはずだが、住所などはわからず、ずっと音信不通である。しかし孫娘の母親が住む京都の住所は分かっているので、京都の母親を訪ねて、孫娘の連絡先を聞き出して欲しい――――

 

 忠彬は説明中も時折苦しそうな様子をしていたが、何とか一通り説明をし終えた。

「君にこんなことを頼むのは筋違いと充分承知しているが、これも何かの縁と思ってどうか頼まれてはくれないか」

 諒輔は突然の申出に戸惑って返事をせずにいた。

「京都の母親の連絡先などについては葛城が説明する。申し訳ないが、私は少し休ませて貰う、でどうだ、引き受けてくれるか」

 頼まれたら断れないと言う諒輔の性格を知っての申出だとすれば、これを引き受けるのは相手の思う壺とは思うものの、余命幾ばくもないもない老人の頼みとあれば引き受けざるを得まい。諒輔は承知した。

「会長、大丈夫ですか。すぐ看護師を呼びますから」

 葛城は諒輔に頭を下げると車椅子を押し別室に向かった。別室がベッドや医療機器を備え付けた病室になっているのだろう。

 ほどなく医師と看護師がやってきて、別室に消えた。入れ替わりに葛城が戻ってきて「抗がん剤の副作用で体調が優れないのです。お許し下さい」と涙ぐみハンカチで目頭を押さえた。

 葛城は母親の京都の住所と、電話番号と名前を教えてくれたのだが、その母親の名前は《安倍クリスチーナ》というものであった。不思議そうな顔をしている諒輔に「えーそうです、母親のクリスチーナはアメリカ人です」と説明した。

「京都大学に留学中に息子さんの忠成様と知り合い二人は恋に落ちました。でも安倍家の一人息子で、将来陰の長者になる者が、外国人と結婚することは許されないことでした。二人は会長の説得に耳を傾けるどころか、強く反発して同棲生活を始めたのです。そして子供を授かったのを機に二人は正式に結婚しました…… 」

 父子の間をとりもち和解するよう奔走したのは葛城であった。当時の事が思い出されたのか葛城は苦渋の表情で言葉を詰まらせた。

「クリスチーナさんは、忠成さんが亡くなられた後もアメリカに帰らなかったのですね」

 諒輔は説明の続きを促した。

「えぇ、その後もずっと京都に住んで、平安時代の歴史と文学を研究しておられます。現在は私立大学の講師などをされています」

「事情は大体分かりました。でもクリスチーナさんと安倍家とはずっと絶交状態だったわけですよね。私のようなものが出向いてお願いしても、簡単に娘さんの連絡先を教えてくれないのではないでしょうか」

 幾ら能天気の諒輔でも、これ位の事は察しがつく。

「はい、それは会長も案じておられまして、クリスチーナさん宛ての書状を書かれました。これがその書状です。結婚を認めなかった事など過去の様々な仕打ちについて率直に詫びると共に、伝統を継承する事の大切さを縷々したためたものと伺っております」

和紙に書かれた書状を受け取った諒輔は、今さらながらに重い責任を荷なわされたことに気づかされた。


第五章 京都

  諒輔にとり京都は無縁の地ではない。母親の実家が京都であり、母が亡くなる前は年に数度、母に連れられて京都に来ていたのである。

 母は諒輔が小学校六年生の時に、病気のため亡くなったが、医師である父は母を助けられなかったことを大変悔やんだ。当時父は大学病院勤務で将来を嘱望された外科医であった。その為仕事は多忙を極めており、家族のことはその一切を母に任せ切りであった。母が病に冒された時も、仕事に追われてその身体の異変に気付くのが遅れてしまったのだ。

 母が亡くなった後、父は大学病院を辞めて開業医となり生計を立てていたが、諒輔が大学に進学するのを待って、沖縄の離島の診療所に赴任したのであった。

 そのような経緯もあって母の思い出が詰まった京都に行くことがなんとなく躊躇われていたのであった。諒輔にとり今回の京都行きは久々のことである。

 

 諒輔が京都を訪れた日は七月の上旬で、梅雨明けの時節の暑さは耐えがたいほどだった。堀川通りには陽炎がゆらゆらと立ち昇り、道路に描かれた白い歩道標識が眩しく光っていた。諒輔がタクシーを降りたこの辺りは京都市街の北西部にあたるところで、西陣と称される地域である。古い町屋作りの建物が点在する京都らしい一画で、訪れた先も小振りながら町屋作りであった。

 玄関の表札には“安倍”と言う小さな表札が掲げられており、脇には”西陣倶楽部 源氏物語教室”という看板が掛けられていた。吹き出る汗を拭うと格子状の引き戸を開け、薄暗い奥に向かって声をかけた。

 ややあって近寄ってくる足音が聞こえ、現れたのは作務衣を着た女性であった。髪はブルネットで瞳は青みがかった灰色をしている。

「昨日電話をした三輪諒輔です」と名前を名乗り、更に用件を話そうとすると「そこは陽が当って暑いでしょう。どうぞ中に入ってください」と外国人と京都人の両方が入り混じったような微妙な抑揚で言い、諒輔を土間に招じ入れた。建物の内部は薄暗いが、風が吹き抜けひんやりとしている。

「ようお越しになりました。安倍クリスチーナです」と自己紹介し、下駄を脱いで式台に上がり諒輔を居間に案内した。居間は民芸風の箪笥や座卓が置かれ、開け放たれた障子の向こうは坪庭となっていて、濃い緑が逆光に浮かんでいる。

 

 諒輔は勧められるまま、座卓の前に座ると、挨拶もそこそこに用件を切り出した。忠彬が末期がんに罹患し余命幾ばくもないこと、孫娘に会いたがっていることなどを話した。

「これがお義父様からお預かりしてきた書状です」

 クリスチーナは受け取った書状の封を切り、水茎の跡も鮮やかな文字をみると顔を輝かせた。

「あぁ、なんて麗しい筆跡でしょう」

 クリスチーナが平安文学を研究していることを知っている忠彬は、平安風の書状としたのであろう。反対側に座る諒輔からも開かれた書状の一部を見ることが出来たのだが、情けない事にその文字は一切判読不能であった。

 熱心に読んでいたクリスチーナだったが、途中からは時々読むのを止めて溢れる涙を手の甲で拭った。書状を読み終えたクリスチーナは赤く充血した目で諒輔を見据えると「承知しました。娘の連絡先をお教えします」と言って立ち上がると部屋の隅に行き、文机の前に正座し何やら書き物をしていたが、戻ると諒輔に和紙に書かれたメモを手渡した。

「これが娘、安倍理紗の連絡先です」

「ありがとうございます。お義父様はさぞお喜びになることでしょう」

 責任が果たせた安堵感から諒輔は満面の笑顔であったが、クリスチーナは厳しい表情で続けた。

「ただ、理紗がお義父様に会うかどうかは本人が決めることです。忠成さんは生前、娘にお義父様は恐ろしい人なので、決して近づいてはならないと、常々言い聞かせていました。ですから、お義父様が望んでも理紗は会いたがらないかもしれません」

「恐ろしい人と言い聞かせていた……」

 諒輔は、忠彬、忠成父子の相克の深さを垣間見た思いで表情を引き締めた。

「それからお義父様の命を救っていただいたそうですね。手紙にあなたのことも書かれていました。私からもお礼申し上げます」

「あ、いや、お礼を言うのはこちらの方です」

 諒輔は居住まいを正すと、改めて礼を述べ辞去するため立ち上がった。

 

 玄関を出ると、ギラギラと西日が照りつけており、薄暗い室内から出てきた諒輔はそのまぶしさに目を顰めた。そして日差しを避けて軒下に入ると、携帯を取り出し葛城に電話をかけた。

「あー諒輔さん、京都は暑いでしょう。ほんとお疲れ様です。で、どうでした?」

 葛城は性急にまくし立てる。

「娘さんの連絡先を教えていていただきました」

「そうですか、そうですか。それは良かった。早速会長にお伝えします」

「えぇ、でも……」

 娘の理紗は会ってくれないかもしれないと言うべきか躊躇する諒輔に葛城が畳みかける。

「諒輔さん、お疲れでしょう。今日は京都に泊まってゆっくりなさって下さい。詳しいことは明日でいいですから」

 腕時計を見た。今から直ぐ帰っても東京に着くのは午後十時を過ぎてしまうだろう。

「はぁ、そうですね。それではそうさせて下さい」

 京都の暑さにぐったりしていた諒輔は素直に葛城の勧めに従うことにした。携帯を切るとタクシーに乗るため表通りに向け歩き出した。祇園祭りが始まり、西陣の各町内は宵山や山鉾巡行の準備をしているのであろう、遠く近く祇園囃子が聞こえる。ふと幼い頃の思い出がよみがえり、胸が切なくなった。

 表通りに出てタクシーを拾うと、諒輔は行き先を下鴨神社と告げた。ホテルに行くのは後回しにして、糺の森を訪ねようと思い立ったのであった。糺の森は母への想い出が最も詰まった場所であり、長い間行くことを封印してきた場所でもあった。

 タクシーを降りた時はようやく陽が傾き、鴨川から吹いてくる風の効果もあって、さすがの熱気も大分和らいでいた。原始の森の様相を今に伝えるという糺の森を歩きながら、諒輔は母の思い出に浸っていた。

 

「ちょうど今頃の夕暮れ時の事をね、逢魔が時って言うのよ」

母親は浴衣姿で、片手に団扇を持ち、もう片方の手で幼い諒輔の手を握っている。街は暮れなずみ家々の軒先に吊り下げられた提灯に次々に明かりが灯され、幻想的な街並みに変貌して行く。祇園囃子の音、さんざめき行き交う多くの人々の影、どうやら祇園宵山の光景のようだと記憶の底で諒輔は気付く。

「オーマって、お馬さんのこと」

 諒輔が、母を仰いで問いかける。母はしゃがみ込み諒輔の頭を撫でながら「違うわ、逢魔って言うのはね、魔物に出逢うと言う意味なのよ」と優しく教える。

「ふーん、それじゃ、僕たちも魔物に出逢えるの」

テレビや絵本、ゲームなどに出てくる魔物しか知らない諒輔にとり、魔物は怖いと言うより、むしろ出逢ってみたい興味ある存在であった。

「そうね、逢えるかもしれないわ。あなたには、ご先祖さまの血が流れているからきっと魔物を見ることが出来るはずよ」

 母がどうして、そのようなことを話して聞かせたのか記憶にないが、魔物に逢えるということを聞いて無邪気に喜んだことを今も憶えている。そして母はこう言ったのだ。

「お母さんが生まれた京都のお家はね、下鴨神社というそれはそれは古い神社と深い繋がりのある家柄だったのよ。明日はその神社に行ってみましょうね」

 

 今、その下鴨神社の森にいるのだと、諒輔は感慨深げに周囲を見渡した。いつの間にか辺りは深い闇に包まれ、鬱蒼とした木々の向こうに参道の白色灯が狐火のように浮かんでいる。行く手から小川のせせらぎの音が聞こえ、まるで深山幽谷の地にいるかのようだ。何時になく感傷的な気分になった諒輔はまた遠い昔の記憶を呼び起こした。

 

 母はその後も京都に行く度に、諒輔を連れて下鴨神社に行った。そして糺の森を二人で歩きながら神社の由来や先祖に纏わる話を色々してくれた。

 中でも母が楽しそうに話してくれたのは葵祭りに関するものであった。中学・高校時代は毎年欠かさず葵祭に参加していたようで、母にとってそれは青春時代のかけ替えのない想い出だったのだろう。

「とても美しい行列でね、皆が古い時代の衣装を着ているの。私は綺麗な着物を着て腰輿(およよ)の脇を歩くのよ」

「えー、オヨヨって変なの」

「ふふ、可笑しいわよね。腰輿というのは女人行列の中で一番偉い人が乗るものなのよ」

 オヨヨ、オヨヨと叫びながら跳ねまわる諒輔を見る母は実に幸せそうであった。

 

 それからというもの諒輔は糺の森に来るといつも葵祭の話をして貰うようになった。母はせがまれると「諒輔は葵祭が好きなのね」と笑い、楽しげに葵祭に纏わる話を聞かせてくれるのだった。


第六章 神楽坂

 翌日、京都から戻り、諒輔は忠彬の元を訪ねた。忠彬は数日前に会った時より更に痩せたようで、病状が悪化していることを窺わせた。そんな忠彬の様子に胸を痛めたが、クリスチーナとのやりとりについて、順を追って正直に話すことにした。他人の心を読む能力のある忠彬に隠し立ては通用しない。

 クリスチーナが町屋作りの建物に住んでいること、作務衣姿で出てきたこと、忠彬の書状を見せると目を輝かせたこと、読み始めると涙を流したこと、それらの話に忠彬は、興味深げに一つ一つ頷き返していた。しかし忠成が理紗に“祖父は恐ろしい人だから決して近寄ってはならない”と言い聞かせていたということに話が及ぶと、忠彬は苦渋の表情を浮かべ目を閉じた。

 しばらくして目を開けると、「私が直接理紗に会いたいと申し入れても、理紗は簡単には承知しないだろう」と、諒輔に理紗の説得を要請したのであった。そのような成り行きになるのではと、ある程度覚悟をしていた諒輔は、今度の頼みも引き受けることにしたのであった。

 

  諒輔は忠彬の元を辞すると、すぐに理紗に電話をして用件を伝えた。電話に出た理紗は「母から昨晩連絡があり、経緯は伺っています」と諒輔と会うことをあっさり承知してくれた。都合のいい場所と時間を指定するよう求めると、神楽坂で夜の九時であれば明日でも構わないと返答したのだ。

 

 神楽坂には昼間訪れたことは何度かあるが、夜間に訪れるのは今回が初めてである。賑やかな表通りから横町に入り、更に奥まった路地に入ると、あたりは急にひっそりとして薄暗くなる。

 神楽坂はかっては都内でも有数の花街であったが、昨今は置屋の数が数軒を数えるのみになっており、現役の芸者も激減している。しかし今、諒輔が足を踏み入れているこの路地は石畳で、昔ながらの黒塀があったりして、花街の風情を色濃く残していた。

 行く手の方から三味線の音色が微かに聞こえてくる。今にも粋な芸者が、路地の向こうから現れそうな雰囲気である。路地の角を曲がると、三味線の音色がはっきりと聞こえるようになった。その音色が聞こえてくる建物は和風の料亭のような造りである。塀に看板が掲げられており、“神楽坂邦楽稽古処”と書かれている。ここが指定の場所に違いない。

 門を開けると足元には飛び石が配されており、斜めに玄関に続いている。狭いながらも茶室の露地のような設えになっており、地面に直接置かれた行燈が辺りを淡く照らしている。

 玄関を入ると、正面の壁に神楽坂邦楽稽古処のポスターが貼られており、下駄箱の上には各種のパンフレットが並べられていた。理紗はここで邦楽の稽古を受けているのだろうか。案内を乞うとスタッフと思われる女性が出てきたので用向きを伝える。

「理紗先生は今お稽古中です。もうすぐ終わりますので、上がってお待ち下さい」

控えの部屋に案内された諒輔は、理紗先生と言ったスタッフの言葉を訝しく思いつつ、座卓の上に置いてあった神楽坂邦楽稽古処のパンフレットを手に取った。手持ち無沙汰もあって何気なく開いて見ていると、講師紹介のページがあり、理紗のプロフィールが掲載されている。

 

 安倍理紗

 一九八七年 京都市に生まれる 

 二〇〇九年 東京芸術大学音楽部邦楽科三味線音楽専攻 卒業

 二〇〇九年 東京芸術大学音楽部音楽研究科入学(在籍中)

 二〇一〇年 神楽坂邦楽稽古処三味線コース講師

 《 演奏活動》

 邦楽ライブ活動を積極的に行う。

 洋楽演奏家とのコラボにも意欲的

 

 理紗がここで三味線講師をしているとは夢にも思わなかったし、理紗の意外な経歴は驚きであった。しかし母親のクリスチーナが平安時代の文学を研究していることを思えば、娘の理紗が邦楽の道を志したとしても不思議ではない。そう思って諒輔は納得した。

 それからしばらくすると、奥の部屋から若い女性が五、六名出てきた。そのうちの数人は三味線を抱えており、諒輔のいる部屋に入ると隅に置いてあった各自のケースに三味線を入れ、手に提げると互いに挨拶を交わして帰って行った。急にしんと静まり返ったその時、着物姿の女性が出てきて諒輔に声をかけた。

「三輪諒輔さんですね、安部理紗です。こんな時間に来ていただいて申し訳ありません」

 西洋人の血が混じっていると分かる顔立ちであるが、和服の着付けが板に着いている。容姿はアメリカ人の母親の血より日本人の父親の血を幾分多く受け継いだのだろう、ハーフにしてはバタ臭くない顔立ちだ。髪は濃いブルネットで、瞳の色は薄い茶色をしていた。

「三輪諒輔です。お忙しいところ無理を言いまして、こちらこそ申し訳ありません」

 諒輔は立ち上がり頭を下げた。

「お話はこの近くのイタリアレストランで伺ってもよろしいでしょうか。ここは閉めてしまうので、直ぐ出なければならないのです」

 諒輔が承知すると、理紗は玄関で待つように言うと、奥の部屋に戻った。玄関で諒輔が待っていると、身支度を終えた理紗が現れた。

「お待たせしました。それでは行きましょうか。レストランはすぐ近くですから」

 下駄箱から草履出して履き、諒輔と共に玄関を出た。

 神楽坂は和服姿が良く似合う街である。先に立って歩く理紗の姿につい見入ってしまう諒輔であった。

 

 そのイタリアレストランは路地から出た直ぐの所にあり、かなり混み合っていたが幸い二人用の窓際の席が取れた。

「食事をしながらお話を聞いてもいいかしら。私お腹ペコペコなんです」

 諒輔のことをほぼ同じ年代と見たのか、理紗は気取る様子を少しも見せない。

「えー、もちろん。僕もビール飲んでいいですか。さっきから喉カラカラなんです」

 諒輔の返事が可笑しかったのか理紗は笑いをこらえる様に口元を手で押さえた。

「えぇ、もちろん。それじゃ私もビール頂こうかしら」

理紗は美人の上に理知的な顔立ちなので、一見近寄り難い女性のように見える。しかしこうして話してみると気さくな一面も持ち合わせているようなので、諒輔はほっとした。

 生ビールが入ったグラスが二つ運ばれてきた。諒輔はグラスを前にして何と切り出したらよいものか一瞬迷ったが、早くビールが飲みたかったので「それではとりあえず、乾杯」とグラスを持ち上げた。

「とりあえずに乾杯」

 理紗は微笑み、左手で袂を押さえると、右手でグラスを掲げた。

 こうして二人の会話は始まったが、導入部こそフレンドリーな雰囲気であったものの、話が本題に及ぶと理紗の表情は険しくなった。そして忠彬と会うことに対し、慎重な姿勢を終始崩すことはなかった。父と母に対して忠彬が行ったことは簡単に許されるものではないと頑なに思い定めているようだった。諒輔は忠彬の病状が進んでいるので、なるべく早い時期に会うよう考え直して欲しいと訴えたが、理紗は「母とも良く相談して決めたいと思います。しばらく考える時間を下さい」と言って諒輔に頭を下げた。



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