閉じる


第六章 神楽坂

第六章 神楽坂

 翌日、京都から戻り、諒輔は忠彬の元を訪ねた。忠彬は数日前に会った時より更に痩せたようで、病状が悪化していることを窺わせた。そんな忠彬の様子に胸を痛めたが、クリスチーナとのやりとりについて、順を追って正直に話すことにした。他人の心を読む能力のある忠彬に隠し立ては通用しない。

 クリスチーナが町屋作りの建物に住んでいること、作務衣姿で出てきたこと、忠彬の書状を見せると目を輝かせたこと、読み始めると涙を流したこと、それらの話に忠彬は、興味深げに一つ一つ頷き返していた。しかし忠成が理紗に“祖父は恐ろしい人だから決して近寄ってはならない”と言い聞かせていたということに話が及ぶと、忠彬は苦渋の表情を浮かべ目を閉じた。

 しばらくして目を開けると、「私が直接理紗に会いたいと申し入れても、理紗は簡単には承知しないだろう」と、諒輔に理紗の説得を要請したのであった。そのような成り行きになるのではと、ある程度覚悟をしていた諒輔は、今度の頼みも引き受けることにしたのであった。

 

  諒輔は忠彬の元を辞すると、すぐに理紗に電話をして用件を伝えた。電話に出た理紗は「母から昨晩連絡があり、経緯は伺っています」と諒輔と会うことをあっさり承知してくれた。都合のいい場所と時間を指定するよう求めると、神楽坂で夜の九時であれば明日でも構わないと返答したのだ。

 

 神楽坂には昼間訪れたことは何度かあるが、夜間に訪れるのは今回が初めてである。賑やかな表通りから横町に入り、更に奥まった路地に入ると、あたりは急にひっそりとして薄暗くなる。

 神楽坂はかっては都内でも有数の花街であったが、昨今は置屋の数が数軒を数えるのみになっており、現役の芸者も激減している。しかし今、諒輔が足を踏み入れているこの路地は石畳で、昔ながらの黒塀があったりして、花街の風情を色濃く残していた。

 行く手の方から三味線の音色が微かに聞こえてくる。今にも粋な芸者が、路地の向こうから現れそうな雰囲気である。路地の角を曲がると、三味線の音色がはっきりと聞こえるようになった。その音色が聞こえてくる建物は和風の料亭のような造りである。塀に看板が掲げられており、“神楽坂邦楽稽古処”と書かれている。ここが指定の場所に違いない。

 門を開けると足元には飛び石が配されており、斜めに玄関に続いている。狭いながらも茶室の露地のような設えになっており、地面に直接置かれた行燈が辺りを淡く照らしている。

 玄関を入ると、正面の壁に神楽坂邦楽稽古処のポスターが貼られており、下駄箱の上には各種のパンフレットが並べられていた。理紗はここで邦楽の稽古を受けているのだろうか。案内を乞うとスタッフと思われる女性が出てきたので用向きを伝える。

「理紗先生は今お稽古中です。もうすぐ終わりますので、上がってお待ち下さい」

控えの部屋に案内された諒輔は、理紗先生と言ったスタッフの言葉を訝しく思いつつ、座卓の上に置いてあった神楽坂邦楽稽古処のパンフレットを手に取った。手持ち無沙汰もあって何気なく開いて見ていると、講師紹介のページがあり、理紗のプロフィールが掲載されている。

 

 安倍理紗

 一九八七年 京都市に生まれる 

 二〇〇九年 東京芸術大学音楽部邦楽科三味線音楽専攻 卒業

 二〇〇九年 東京芸術大学音楽部音楽研究科入学(在籍中)

 二〇一〇年 神楽坂邦楽稽古処三味線コース講師

 《 演奏活動》

 邦楽ライブ活動を積極的に行う。

 洋楽演奏家とのコラボにも意欲的

 

 理紗がここで三味線講師をしているとは夢にも思わなかったし、理紗の意外な経歴は驚きであった。しかし母親のクリスチーナが平安時代の文学を研究していることを思えば、娘の理紗が邦楽の道を志したとしても不思議ではない。そう思って諒輔は納得した。

 それからしばらくすると、奥の部屋から若い女性が五、六名出てきた。そのうちの数人は三味線を抱えており、諒輔のいる部屋に入ると隅に置いてあった各自のケースに三味線を入れ、手に提げると互いに挨拶を交わして帰って行った。急にしんと静まり返ったその時、着物姿の女性が出てきて諒輔に声をかけた。

「三輪諒輔さんですね、安部理紗です。こんな時間に来ていただいて申し訳ありません」

 西洋人の血が混じっていると分かる顔立ちであるが、和服の着付けが板に着いている。容姿はアメリカ人の母親の血より日本人の父親の血を幾分多く受け継いだのだろう、ハーフにしてはバタ臭くない顔立ちだ。髪は濃いブルネットで、瞳の色は薄い茶色をしていた。

「三輪諒輔です。お忙しいところ無理を言いまして、こちらこそ申し訳ありません」

 諒輔は立ち上がり頭を下げた。

「お話はこの近くのイタリアレストランで伺ってもよろしいでしょうか。ここは閉めてしまうので、直ぐ出なければならないのです」

 諒輔が承知すると、理紗は玄関で待つように言うと、奥の部屋に戻った。玄関で諒輔が待っていると、身支度を終えた理紗が現れた。

「お待たせしました。それでは行きましょうか。レストランはすぐ近くですから」

 下駄箱から草履出して履き、諒輔と共に玄関を出た。

 神楽坂は和服姿が良く似合う街である。先に立って歩く理紗の姿につい見入ってしまう諒輔であった。

 

 そのイタリアレストランは路地から出た直ぐの所にあり、かなり混み合っていたが幸い二人用の窓際の席が取れた。

「食事をしながらお話を聞いてもいいかしら。私お腹ペコペコなんです」

 諒輔のことをほぼ同じ年代と見たのか、理紗は気取る様子を少しも見せない。

「えー、もちろん。僕もビール飲んでいいですか。さっきから喉カラカラなんです」

 諒輔の返事が可笑しかったのか理紗は笑いをこらえる様に口元を手で押さえた。

「えぇ、もちろん。それじゃ私もビール頂こうかしら」

理紗は美人の上に理知的な顔立ちなので、一見近寄り難い女性のように見える。しかしこうして話してみると気さくな一面も持ち合わせているようなので、諒輔はほっとした。

 生ビールが入ったグラスが二つ運ばれてきた。諒輔はグラスを前にして何と切り出したらよいものか一瞬迷ったが、早くビールが飲みたかったので「それではとりあえず、乾杯」とグラスを持ち上げた。

「とりあえずに乾杯」

 理紗は微笑み、左手で袂を押さえると、右手でグラスを掲げた。

 こうして二人の会話は始まったが、導入部こそフレンドリーな雰囲気であったものの、話が本題に及ぶと理紗の表情は険しくなった。そして忠彬と会うことに対し、慎重な姿勢を終始崩すことはなかった。父と母に対して忠彬が行ったことは簡単に許されるものではないと頑なに思い定めているようだった。諒輔は忠彬の病状が進んでいるので、なるべく早い時期に会うよう考え直して欲しいと訴えたが、理紗は「母とも良く相談して決めたいと思います。しばらく考える時間を下さい」と言って諒輔に頭を下げた。