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第三章 八王子運送店

第三章 八王子運送店

 有限会社栗原運輸は八王子郊外にある小さな運送会社で、諒輔が大学時代にアルバイトをし、失業した今もまた世話になっている先である。

 従業員は社長と娘の八百子の他に数人がいるだけの零細企業で、アルバイト料も決して高くはない。しかし社長が無類のお人好しで、アルバイトの諒輔にも何かと気配りしてくれるので居心地が良い働き場所であった。

 そんな社長の性格は、取引先や従業員から信頼されるなど良い面がある反面、経営者としての厳しさに欠けるところがあった。その欠点をカバーして苦しい台所事情を遣り繰りしているのが、娘の八百子である。

 八百子の母は、八百子が中学生のころ男を作って家を出てしまい、その後は八百子が家事を引き受け、父親と二人で支えあって暮らしてきた。高校卒業後は父親の運送業の仕事を手伝う傍ら、定時制の大学で勉学を続け見事卒業したという頑張屋であった。

 八百子はモデルも務まるようなすらりとしたスタイルで、個性的な顔立ちの美人であった。諒輔より五歳ほど年上であったが、諒輔が大学時代にアルバイトを始めた頃、密かに想いを寄せた女性でもある。そんな八百子に言い寄る男は少なからずいたのだが、父親を一人残して嫁に行けないと結婚を拒み続けていた。しかし、どういう風の吹き廻しか、友人から紹介された公務員と数年前にあっさり結婚して八王子を離れていたのである。

 ところがその相手とはどうにも相性が悪かったようで、昨年離婚して現在は以前と同じように栗原運輸で仕事をしている。

 

「諒さん、お客さんだよ。なんかすげぇ車に乗って来たぜ」

 作業用の雨合羽を着た哲さんが、外からドアを開けて事務所にいる諒輔に呼びかけた。ドアの外はかなり激しい雨である。あの事件からすでに1カ月以上が経過しており、季節はもう梅雨になっていた。

 葛城からは時折、挨拶に行けないことを詫びる電話が入っていたが、やっと昨日になって今日、栗原運輸に行くという連絡があったのだ。

 そういうことだったので葛城が来たに違いないと察した諒輔は「社長、例の人がみえたようです」と告げ、表に出た。すぐその後に社長と八百子が続く。

 そこに駐車していたのは、大きなリムジンでクラッシックカーの一種であるようだった。車の傍らにはフロックコートを着た葛城と詰襟服に制帽姿の運転手がこうもり傘を差して立っていた。

 葛城は諒輔の姿を認めると近寄り恭しく礼をした。社長と八百子は、びっくりしてその場に立ち竦んでいたが、諒輔に声を掛けられて我に返ったように言葉を発した。

「ど、どうも……よくいらっしゃいました。えー、兎に角、先ずは事務所に入られて……」

「これはどうも、ご挨拶に伺うのが遅れまして大変申し訳ありません。それでは雨も降っていることですし、詳しい話は事務所の中でということにさせていただきます」

 事務所に入ると葛城は、忠彬の転院手続きや警察、消防などの対応などのため栗原運輸に来ることが遅れた理由を述べ、諒輔に助けられた経緯を説明し、栗原運輸の車両に損害を与え迷惑をかけたことを詫びた。そして損傷した軽自動車の弁償とお詫びの気持ちですと言って、袱紗から紙に包まれた分厚いものを取り出して差し出した。

「あ、いや、軽自動車は保険で修理すればまだ使えますから、このようなものは……」

 社長と葛城は押し問答をしていたが、傍らの八百子が社長の耳元で囁く。

「有り難く頂戴したら、保険は効かないかもしれないし、あんなポンコツ修理してもしょうがないわよ」

 八百子の声が聞こえたかのように、葛城は八百子を見て頷き言葉を続けた。

「事故にあった車は、修理してもすぐ故障すると申します。命の恩人が乗る車に万一のことがあっては、当方としても面目が立ちませんので、新車に買い替えていただければ幸いです」

 社長がなおも躊躇していると「それでは、遠慮なく頂戴いたします」と八百子は紙包みを受け取ってしまった。

「あの、お茶入れ替えてきます」

 八百子は紙包みを手にして、衝立の後ろにある給湯所に入った。

「ちょっと、諒さん。諒さんたら」

 少しの間の後、衝立の端から顔を出した八百子が諒輔を手招きする。諒輔が立ちあがって衝立の裏に回ると八百子は包みの中身を見せた。

「全部で五百万円も入っているわ。いくらなんでも多過ぎない?」

 八百子は困惑の表情で眉を顰める。

「うーん、軽自動車は百万位だから、四百万がお詫び料ということになるのかな」

「諒さんが貰うのなら命を助けたことだしこれ位当然かもしれないけど、うちは諒さんの雇い主というだけですもの」

「でもいいんじゃない。くれるというものは有り難く受け取っておけば」

 諒輔は気軽に言う。

「諒さんたら、いつも能天気なんだから」

 八百子は腕組みをし、思案する風であったが「諒さん、八百子、お客さんがお帰りだよ」という社長の言葉に衝立の蔭から諒輔と共に飛び出した。衝立裏でこそこそ話していることが、どんなことか察しをつけた葛城がここは早々に帰った方が良いと判断したに違いない。八百子に話す隙を与えずに葛城はそそくさと立ちあがり「それでは皆様これで失礼いたします」と挨拶し入口に向かい、後に付いてきた諒輔に振り返り話しかけた。

「諒輔さんには会長が直接お目にかかって、改めてお礼を申し述べたいと言っております。ご都合の付く日にお迎えに上がりますが如何でしょう」

諒輔は忠彬が都内の病院に転院したり、忙しかったりで、まだ見舞いに行っていなかった。一度は見舞いに行かねばと思っていたところだったので「分かりました。でも自分で病院まで訪ねて行きますから、お迎えは無用ということでお願いします」と答えた。あんな大層な車で迎えに来られてはたまらない。

 

 葛城が去った後、三人で受け取った金の扱いについて話し合いが続けられたが、諒輔の主張に従い、相手の気持ちを素直に受け入れることで話しがまとまった。

「正直言うとね、このところ資金繰りが苦しくて……ほんと助かるわ」

ほっとした表情の八百子に対し「いやぁ、いつも苦労かけてすまない」と社長が頭を下げた。

「何よ、水くさい。それより、予期しないお金が入ったことだし、偶には皆でパーッと飲みに行かない」

「そうだね、賛成。仕事、チャチャッと片付けて哲さんたちにも声掛けて皆で行こう」と諒輔はすぐに賛意を示したが、社長は「うーん、そうだな……」と煮え切らない。

「実は俺、今日ちょっと都合が悪いんだ。そうだお前たち二人で行ってきなよ。うん、そうしな。昔よく二人で飲みに行ってたじゃないか」と熱心に二人で行くことを勧めた。

 

 数時間後、諒輔と八百子は、行きつけの酒場でビールのジョッキを傾けていた。すでに数杯のジョッキを空けた八百子の顔はほんのり上気している。日頃、化粧も碌にせずジーンズにTシャツ姿で忙しく立ち振る舞っている八百子が、今夜はワンピースに着替えし、うっすらと化粧までしている。

「なんか、強引だったね、お父さん」

「うん、何が?」

 諒輔はそんないつもと違う八百子に気圧され気味である。

「ほら、二人で飲みに行けってことよ」

「哲さん達も都合悪いって言ったそうだから仕方ないよ」

「それはお父さんが哲さんに……いやもういいわ、そんなこと」

やれやれという表情をして、八百子は話題を変え「それより、諒輔。彼女と別れたってほんと」と探るような目で諒輔を見た。

 諒輔と呼び捨てにするということは、大分酔いが回った証拠であり、要警戒である。八百子は酒にめっぽう強いが、からみ酒の傾向があるのだ。こんな時に隠し立てをすると碌なことが無いことを良く承知しているので、元彼女に愛想を尽かされて振られたことを正直に話した。滅多に悩んだり、後悔したりしない性格の諒輔もさすがに別れた直後は失恋の痛手に苦悶したのだが、引きずることなく今はもう立ち直っている。

「彼女の気持ち良くわかるわ。諒輔は恋人としては申し分ないかもしれないけど、結婚相手としてはねぇ」と八百子は諒輔の話に納得して一人で頷いている。

「恋人として申し分ないなんて言われると照れるな」

「何言ってんの。ほんとに能天気ね、まるで分かっていなぃんだから」 

あきれ顔をして八百子はジョッキの代わりを注文した。

「ところでさぁ、知ってる。私の名前のこと」

「いや……」

「八百子って、八百屋の子みたいで格好悪いでしょ」

「いや、そんなことは……」

「お父さんたらね、最初は八王子って書いて、やおこ、と読ませようとしたらしいの」

「へぇー、そうなんだ。社長、郷土愛が強い人だからなぁ」

「それを聞いた周囲の人がね、そんな名前にしたらいじめに遭うから止めるべきだって言ってくれたの、当然よね。それでお父さんも折れて一字だけ変えて八百子にしたの。可笑しいでしょ」

 そんな他愛もないことを互いに面白おかしく話しながら飲み続けていたのだが突然、八百子は黙りこんだ。急変した八百子の様子に「気分悪いの、大丈夫?」と気遣ったが、「諒輔はいいよね、いつも能天気で」と八百子は呟き、小さな溜息をした。意味を解しかねて諒輔がぽかんとしていると「諒輔、帰るよ」と八百子は大声で言い、伝票を掴むとふらふらと立ち上がった。