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第9章

 

 …穏やかな、本当にいい日だった。世界中にこんな別天地がまたとあるだろうか?

 ここにいると時が本当にゆっくりと過ぎて行く。何もしないで、音楽を聞き、花を見、風景を楽しみ、風を感じる喜びよ。この時間の永遠に続いて行くことを…

 ただ願わくは、ここに、ママとリサとパパが戻って来ることを。大人になったぼくは、しかしまだ本当のところは子供のままなのだ。だから、ぼくのママとパパとに導いて欲しい。ぼくの、これから生きて行くべき道を… そしてこの広い館で、思いっきり語り合いたい。人生の幸せと、学問とについて。

 だが悲しいかな、今はこの広い邸内に、セーラとぼくとの二人っきりなのだ。

 ぼくは朝を、この頃の日課のように、庭園の小川に沿って散歩して過ごした。

 澄んだ水面には、数羽のガンが戯れ、川べりには、黄色いスイセンが美事に咲いて、喜びの歌を歌うように風に揺れていた。本来なら喜んでいいはずの日だったのに、ぼくの胸の中は、なぜかうつろだった。

 セーラはテラスに出て、いつものように、ウェルシュを従え、絵を描いている。そのことが、唯一の、自分の慰めであるかのように―― しかし、彼女のいるテラスから見える庭園の風景は、丘にまで延びて、なんと潤いのある、美しい風景であることか。見渡す限りの、緑の芝生と、中央を横切る小川と、広大な敷地の至る所に配置された、様々な樹木が織り成すその美事さと、青い空と、薄く延びた雲とが、その美事な庭園の上を、おおい尽くしている。

 子供の頃に過ごしたオディープも、美しい村ではあったが、こんな人工の風景が地上にあろうとは、その頃、想像したこともなかった。

 ぼくがテラスに来ると、青いドレスを着たセーラは、絵筆を置き、ぼくに橋の所まで行こうと誘った。そこから眺める館の姿が最も好きだとセーラは言うのだ。

 確かにそれは美事と言う他はなかった。石の欄干の下を、ゆるやかなカーブを描いて流れる小川の遥か彼方に、その館は、左右均等な構図を描いて、春の日の中に、まぶしく輝いていた。館の背後には、少しだけ盛り上がった森がおおい、館と小川とを分け隔つものは、ただ広々とした芝生しかなかった。ぼくは、石の欄干に手をついて、そこから見える庭園や、彼方の館の様子を、心行くまで楽しんだ。横に立っているセーラは、うっとりと水面を見つめていた。まるで、そこに映っている自分自身を見つめるかのように…

 “いい空だねえ…”とぼくは言った。“ここにいると、つい、何もかも忘れてしまいそうだ。ここにあるのは、ただ風景だけ。あの館も、いつか見たあの廃きょに劣らず美しいね…”

 “そうでしょう”とセーラは言った。“わたしは、ここから見る風景が一番好き。何度見ても、見飽きないわ。それに、あの息詰まるような館から一歩距離を置くことができて、どこか解放されたような気持ちになるのも、魅力の一つよ。ここにこうしているって、本当にいいわ”


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1588

 そよ風のせいで、髪の毛の一部が頬にかかっているセーラの横顔を見つめると、本当に幸せそうに思われて来るのだった。しかし彼女は、本当には、満たされてはいない…

 “ねえ、ぼくはこれを見ていると”と、ぼくはしばらくしてから言った。“かつて、邸内の小川に身投げしたあのクリスチーヌのことが思い出されて来るよ。本当に、こんな小川でも、人は死ぬことが出来るのだ。しかもここの風景は、あのクリスチーヌのいた館に重なって見えて来るのさ。まるでここが、あの悲劇の舞台であるかのような…”

 “なんでしたらわたしも、ここに身投げして、死んで見せましょうか?”と、セーラは、ぼくに振り向くように言った。“そうしたらわたしも、あのクリスチーヌのように、いつまでも、美しい思い出として、残るかしら?”

 “よせよ、バカな!”とぼくは言った。“そんな悲劇を、二度も味わうのは、ぼくは御免だよ。それはクリスチーヌただ一人だけにしておいて欲しいな。それにお前は、どうして川に身投げする理由があるんだよ?”

 ぼくも振り向いて、橋にたたずむセーラを見た。

 “だって、生きていたって、何もないんですもの”とセーラは言った。“毎日が、ただ何もせずに過ぎて行くだけ。こんな人生って、耐えられないって思うときが、ときどきあるわ”

 “希望を持つことだよ”とぼくは言った。“未来に、何か希望を持つことさ。自分で、何かしようという意志を持つことさ。絵でも学問でも小説でもいい。ともかく、何かをしてみようと思うことなんだ。お前は、ぼくがここへ来たとき、いつか言っていたね。中世の恋愛小説を書いてみたいって。あれはどうなったんだ?”

 “あれ?”とセーラは言った。“いつのまにか立ち消えよ。わたしって、いつもそうなの。意志が弱いの。すぐ心変わりがして、長続きがしないのよ”

 “移り気か…”とぼくは言った。“そう、人生は移ろい易いものさ。何もせずに、ただ無為に過ごす。そういう時期があってもいいじゃないか。それを、次のステップに向けての充電期間とみなせばいいじゃないか。そうだろ?”

 “次のステップ?”とセーラは言った。“何んのステップなのよ”

 “それは分からない”とぼくは言った。“ともかく何かさ。さあ、もうここを引き上げよう。少し寒くなって来たからね”

 そう言ってセーラの肩に手を当てると、ぼくたちは、美しい風景の舞台から立ち去ることにした。

 

 美事な芝生を横切り、館が近付くにつれ、館のテラスの所に人影が見え出して来た。

 例の乞食たちだ。彼らは、薄汚れた衣服を身にまとい、穴のあいた帽子を取って、セーラに軽く挨拶をした。セーラにとって、今のところ唯一、彼らが心の慰めになるような人物たちに違いなかった。


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1589

ぼくが数歩遅れて、彼らの中に溶け込んでいるセーラの姿を見ていると、彼女はまるで、森の小人と戯れるあの白雪姫そっくりに思われて来た。ここでは、あのおとぎ話しが、現実のものとなっているのだった。

 薄汚い彼らではあったが、セーラに対してはいやに丁寧で、危害のひとつさえ加えそうにないのが不思議だった。それにセーラだって、彼らを見ると急に元気づき、まるで母親のように食い物をねだる彼らに、食べ物を分け与えることを喜びとしているようだった。

 “お腹が空いたの? ちょっと待ってね”と言うなり、セーラはホールに姿を消し、やがてどっさり、パンや果物などを籠に抱え込んでやって来た。そしてそれを惜し気もなく、彼らに配って歩くのだった。乞食たちは頭を下げて受け取ると、後ずさりをして、めいめいの場所に坐り、むさぼるように食べ始めた。セーラは、まだ少し残っている籠を持って、幸福そうに、食べている彼らを見渡した。セーラが、生きる接点をそこに見い出しているのを見て、ぼくも大いに満足だった。たとい相手が乞食であろうと、そんなことはかまうまい。彼らが、セーラが生きる為の支えとなっている限りは…

 

 15分後、ぼくたちは静かな室内にいた。大きく、様々な花が活けられた花瓶が中央に置かれたテーブルを囲んで、ぼくたちは疲れたように、ソファーと椅子に坐っていた。

 窓からは、裏庭の小気味よく、小さな池と、円いドーム状のあずま屋とが見渡せ、その向うは一面の森だった。池の上では、数羽のガンが、湖面に糸を引くように、静かに泳いでいる。手前には、小さく作られた、石の眼鏡橋が、古そうで、感じが良かった。

 ぼくはさりげなくそんな光景を目にし、それから室内に目を移した。そこには、紅茶を楽しんでいるセーラの姿があった。セーラは、青いブラウスに、白いスラックスを身につけて足を組んでいる。ぼくの頭の中は、しかし、この館にはなかった。

 “あの当時…”とぼくは語り出した。“人生は全くの灰色だった。野良猫同然で、明日がどうなるかも分からなかった。本当に、あのまま行っていたら、ぼくたち、どうなっていただろう?”

 “それなりに生きていたわ。たとえどんなに貧しくとも”とセーラは答えた。“でも、わたしにとって問題なのは、これからどう生きて行くかってことよ。兄さんみたいに、過去を振り返るのじゃなく…”

 “そう、ぼくだって同じことさ”とぼくは言った。“こんな生活が永久に続くなんて思っちゃいない。お前だってそうだろう。何かもっと、意義のあることをしてみたいって。こんな館で、一人で暮らしているから空しいのさ。さっきみたいに、乞食に恵んだところで、いっときの気晴らしにしかすぎない…”

 “ねえ、わたしがもっと輝いていた時代があったわ”とセーラは言った。“貧しくとも、たとい周りに妨害されようとも、自分たちの意志を貫こうとしていた一時期があった。あのラミーとアマチュア演劇を組織していた頃よ。わたしたちは資金もなく、後ろだてもなく、本当に辛い毎日だったわ。それでも一生懸命働いて資金を稼ぎ、なんとかやりくりをして、場末の小さな舞台で劇を始めることができた。


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やって来たのは、チケットも買えない、町の貧しい子供たちばっかりだったけれど、それでも、舞台を初演することができたときには、大きな感動があった。やっと自分たちの舞台をつくることができたんだって。それはささやか過ぎて、とても本物には及びもつかなかったけれど、それでも、自分たちの舞台には変わりなかったの。わたしたちの、というより、ラミーの強い意志が、それを実現させたの。わたしの人生で、あんなに感動し、興奮したことってなかった。だってやくざのような男が、わたしたちの事務所に来て、妨害しようとさえしたんだもの。でも、わたしたちはめげなかった。劇が終わり、みんなが帰った後に、わたしたちはつくづくと自分たちの舞台や、手作りのポスターを見たわ。そして、心からお互いを祝った。本当に舞台をして、よかったって。あれが、わたしが、素人劇に踏み出した最初の出来事よ。そして同時に、演劇の素晴らしさと、自分の天職を知ったような気がしたの。炎のような忙しさの中で、毎日が矢のように過ぎて行ってしまったけれど、あんなに充実していたときってなかった。今となっては、まるで嘘のようだわ。本当に、あんな日があったって夢のようよ…”

 “つまりお前は、そのときにもう一度戻ってみたいのさ”とぼくは、ポツリと言った。“――でもそれは、今となってはもうかなわぬ夢。だって、ラミーはもうこの世の人ではないんだろう? お前の虚しさの原因は、案外そんなところにあるのさ…”

 “ねえ、わたしの夢はね”と、セーラは言った。“もう一度子供たちを相手に、お話しをしてみたいことよ。――でも、この館が邪魔するの。だって、子供たちのいる村までは随分と遠いんですもの…”

 “お前にまだそんな気が残っているんなら、やってみればどうなんだい?”とぼくは提案した。“子供たちをここへ呼び寄せるのが無理だとしたら、お前の方からおもむいて行けばいいじゃないか。村にはきっと、お前がお話しをするのに適当な場所があるはずだろう…”

 “――でもね”と、セーラは急に悲しそうな顔をして言った。“場所に関してはその通りなんだけど、昔のようにうまく行くかどうか、その不安が踏みとどまらせるの。わたしの中に、それを続けて行くだけの力がまだ残っているのか、その自信がないのよ。それに、悲しい経験がわたしに、ここでじっとしている方がいいってささやいているようにも思えて来るの。何かするより、何もしない方が、今のわたしには合っているような気がするの”

 “でもそれじゃますます気持が暗く、気が滅入るだけじゃないか”とぼくは言った。“お前は、絵ばっかり描いていないで、何かすることが必要なんだ”

 しかしセーラは、もう何も聞きたくないとばかり、両手で自分の顔をおおった。

 “ねえ兄さん、兄さんの話を聞かせて”と、やがてセーラは、手のおおいを取ると言った。“わたしの話なんか、暗い話題ばっかりですもの”

 “ぼくだって似たり寄ったりさ”とぼくは言った。“楽しい話題なんて何ひとつない。――でも、今のぼくがお前と違うのは、そんなに悲観的にはならない、ということさ。考えてもみろよ、外はあんなにも素晴らしい自然に満ちている。


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さっきだってお前が、素晴らしい庭園を見せてくれたばっかりじゃないか。あんなものを目にすると、そうやすやすと、死んだりすることはできないさ。生きていることの素晴らしさ――それを、あの庭園は、見せてくれているんじゃないのかな。ねえセーラ、そんなに悲しそうな顔をしないで、もっと楽しいことを考えようよ。例えばセルッカの時代、お前はマロンと出会ったね。あれはどうだったんだい? 楽しくはなかったのかい?”

 セーラは、チラッと一瞥をぼくに向けただけで、そのことについては話そうとはしなかった。ぼくには、彼女の心の中がよく分かるのだった。今さら、マロンのことを話題にしたところで、それが何んになるだろう? あれから随分と多くの時間が経過したのだ。

 その後セーラが部屋から出て行き、ぼくは、この静かな部屋でひとりぽっちになった。

 すると、ふと寂しさのようなものが込み上げて来、ぼくは、美事な花の塊に向かって、話しかけたくなった。あの無垢な時代はどこ? 何も分からず、その未来がどうなるかも知らなかったあの無垢な時代はどこへ行ってしまったのだろう? あのときのセーラやリサは、今、どこにいるのか?

 

 この日のように、季節はもう春になってはいたが、アパート暮らしのぼくたちには、幸せな暮らしは何も待ってはいなかった。

 ぼくは完全に世の中から浮いた暮らしをしていたし、妹たち二人は、小さな幸せを夢見て、毎日、必死の努力を積み重ねていた。セーラはときたま、店で知り合った男たちと夜更しをして帰ることもあったが、長続きすることはなかった。男に声をかけられて不思議でないはずのリサが、そんな話もなく、仕事が終わればまっすぐに家に帰って来るのが、むしろ不思議に思えるほどだった。

 ぼくたちの生活は、このままどうなって行くのだろう? 破局に向かって行くのか? それとも好転するのだろうか? 何度もぼくは自問してみたが、そんなことは誰にも分からなかった。

 ただ時が流れるままに、ぼくたちは生きて行くしかなかったのだ。しかし、人生を無駄にしてはいないだろうか? 何もせずに、ただブラブラと時を重ねるだけのこの人生を? そのことがぼくの頭を悩ませたが、解答は見つからなかった。悪い星の下に生まれた者は、ただ破滅の道を歩んで行く他はない。そんな、救いのない考えに捕らわれたこともあった。ぼくは毎日、祈るような気持ちで街を歩き、そして街を観察した。そこには庶民の生活というものがあった。そして、彼らの生活は、ぼくの心をなごませることはあっても、ぼくの心の底に潜む根源的な不安に答えるものではなかった。そう、ぼくは絶えず不安に揺れ動き、ひとつとして、心定まることがなかった。人生そのものが罪であると感じたのは、そんなときのことだった。結局、生まれて来たこと自体が、間違いではなかったか? だとするなら、その罪は、誰にあるのだろう?

 ぼくは、春の昼日中、一度だけ自殺を企てたことがあった。



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